ヨコシマヨーコ

1

 彼女は涼しげな木陰のベンチに座っていた。小さなバッグを膝に置いて、オレンジっぽい紅を引いた唇を澄まして、やわらかい木の葉の影に埋もれるように。こういうときだけ、彼女は大人っぽく見える。こういうときだけ、である。学校ではこんな素振りなど一ミリも見せない。いつもはもっと、もっと――もっと、何だ?
 見つからない言葉を探そうとする心を浅い溜息で抑えてから、僕は彼女の座るベンチへ歩み寄る。さっき買ったばかりの、冷えた生茶のペットボトルを二つ持って。
「ヨコシマ」
 木陰の下の少女、というタイトルがつきそうな印象派の絵画のモデルだった彼女は、名を呼ばれてすっと顔を上げる。その顔には普段見慣れた、にやり、というか、からり、というか、そういう笑みが広がっていた。
「ありがと」
 生茶のペットボトルをひとつ彼女は受けとって、開ける。ぱき、とペットボトルキャップがペットボトルと離れる音が、蝉の声にかき消された。僕もベンチに座って、お茶を飲みたい。けど、ナチュラルに彼女の隣に座るような器は持ち合わせてない僕は、木陰に立ったままペットボトルを開ける。
「座んないの?」
 ペットボトルの飲み口に唇をつけつつ、彼女が首を傾げた。後れ毛がはらりと頬横から落ちる。みーんみんみん、蝉が一鳴きする間、僕はちょっと考える。
「じゃあ座る」
「じゃあって」
 けら、と彼女が笑った。じゃあ、はじゃあ、だ。彼女にとっては何かが少しおかしいらしくて、からからと、風鈴が鳴るみたいに笑う。僕はそんな彼女の横を〇・五人分ぐらい開けてベンチに座る。
 ふふ、と息をそっと捨てるみたいに笑って、彼女、くるくる、きゅ、ペットボトルをしめた。それと同じくらいのとき、僕はペットボトルを開ける。ぱき。くるくる。
「あのさあ」
 と、こっちを身ながら彼女が言ったので、うん、と喉の奥だけで返事をする。ペットボトルの飲み口を口に当てた。渋さとまろやかさを兼ねた緑茶の香りが鼻のすぐそこでした。ちょっとペットボトルを傾けただけで、冷たく味わい深いお茶が喉に届く。お茶が喉元を過ぎると、そこから太ももの辺りまで一瞬で冷たさが伝播して、染み渡る。比較的涼しい日陰とは言えむんと暑い外気と触れる肌と、お茶のおかげで少し冷えた体の芯とのギャップをひしと感じる。
「夏なんだなーって思った」
 そう言う彼女の横顔は、口の端がすっとあがっている。オレンジみのかかった唇の端があがっている。このオレンジのせいかもしれない。学校でオレンジっぽい口紅をつけている彼女を見た記憶はない。だから、変にいつもと違う雰囲気がするのだろうか。でも、その口から出る言葉は、いつもと同じく、軽やかでシンプルでどこか拙く、いつもの彼女の言葉である。
「夏だからね」
「こう、冷たいお茶がね、染みる感じ、夏」
 嬉しそうに、彼女はジェスチャーを交えて話す。ポニーテールにしている黒髪がぶんぶん揺れた。そうだね、と軽く返して、僕はペットボトルをしめる。
「やっぱり、タカノもそう思うよね」
 膝に頬杖をついて、僕の方を振り返って、にい、と頬と唇の端をあげる。その透き通るようなオレンジに、僕はつい、邪な考えを。ずる、と、結露でぬれぬれのペットボトルが、手の中ですべる。いや、何も考えてないし。心の中で誰にも伝わらない弁明ばかりする。
「そうマナに言ってもわかってもらえなかったんだよね、マナ、夏嫌いだからかなあ――って、聞いてる?」
「聞いてるよ」
 ちょっとだけすっと目を細めた彼女に、僕は曖昧に笑った。蝉が嘘つけ、と鳴いた。彼女はほんと?とオレンジの唇をとがらせた。僕は俯く。
「――よこしま」
「何?」
「なんでもない」
 ぴたん、ペットボトルからシャツに水滴が落ちて、ヨコシマとの夏の日だった。

2

「そういえばタカノって、あたしのこと名前で呼ばないよね」
 じゃあ、ヨコシマ、おつかれ。そう言って、今日の日直だったヨコシマと僕による軽い掃き掃除を終えて教室を出ようとしたのに、ヨコシマ、急に、どうした。僕は文字通り面食らって、眉を歪める。引き戸の取っ手に伸ばしたはずの手がだらんと行き場を失う。
「急にどうしたの」
 しっかり背負ったはずのリュックが肩からずり落ちるかと思った。窓際の席でなかなか鞄を背負おうとしない彼女には、夕日の後援による窓枠の影がしっかりと落ちている。あまり表情が見えない。
「呼んでみてよ」
 いつもの能天気な感じの、宙にぽんと飛び出すような声音だった。きっと意味はないんだろう。いつものよくある彼女の思いつきなんだろう。でも、呼んでみて、と言われて、呼ぶほど僕に度胸はない。
「どーせヨコシマもヨーコも変わんないでしょ」
 彼女は少し勢いをつけて、やや力まかせに、学生鞄を竦めた肩にかける。僕には変わるんだよ、なんて、言えないし。
「ヨーコって名前嫌いって言ってた、し」
「まあね」
 去年の入学時の春の自己紹介で、彼女が「名前より名字で呼んでくれると嬉しいです」って言っていたことは本当だ。だから彼女の友人も彼女のことをヨコシマ!と呼んでいるし、友人(のはず)の僕も例外ではない。
「でもさあ、呼ばれてもいいなあって思ったんだよね」
「え」
 ちょっとスキップ気味に、彼女は僕が立っている教室前方のドアにやってきた。に、といつもの通り笑っているのがよく見えて、西日に髪がオレンジに光る。僕の喉がややこわばる。
「だって、よく考えたら、ヨーコって名前、古いけど言いやすくてかわいい」
 高らかに彼女は言った。ああ、と上ずったような相槌が漏れる。どうやら僕は何かを期待していたらしい。何を?――何も、してないし。僕はちょっとだけ口の端をあげる。
「そう、だ、ね」
「そうでしょ」
 帰ろ帰ろ、と無邪気に笑う彼女よりよっぽど、僕の方が邪なんだな、と思った。

ヨコシマヨーコ

2020年8月 作成

ヨコシマヨーコ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-01-22

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