変化(henge)
さて人魚の娘は深海の果て、深いクレバスにうがたれた横穴に住まう魔女を訪れた。
光のない暗闇の底、泥と藻を掻き分けて娘は進む。彼女の鱗はかつて陽光を受けて、あざやかな朱金色に輝いた。が、今は深海の魚たちのめだまが放つ、味気なく冷たい燐光をほのかに照り返すだけだ。
仮の藻の宮の最奥で、魔女は白く濁った双眸をめぐらせ娘を向いた。
指の骨をつないだ首飾りが水にたなびく。汚くもつれた長い髪も、はがれかけた鱗も同じ、光の恵みを失った蒼白色。
水掻きの消えかけた骨ばった指を、やわらかな娘の頬に這わせ、魔女は、くちびるを閉じたまま喉をかすかに震わせて語りかけた。
おまえが魚の尾を嫌うなら
良いことを教えてあげよう
満月が海を照らした夜に
その光の輪を涙で満たし
月光が鏡に変わる瞬間を
くぐり抜けててごらん
(できるものならね)
手の中で娘の首がかすかに頷いたのを感じ、ほくそ笑みを隠して魔女は娘の髪をなでる。
ではでは気をつけておゆきなね
お代は見てのお帰りだ
娘は何かを言いかけたが、ためらっただけでくるりと身をひるがえした。
あざやかな朱金の尾が濁った水をたたき、百年も眠っていた海底を騒がせる。その揺れがすっかり収まるのを待って、魔女は首飾りをいじりながら、しばらくは眠ることなく目を覚ましていようと決めた。
やがて時が過ぎ、夜空の月が中天をめぐる季節が訪れた。
刹那、風がやみ、海が凪ぐ。死んだように世界が静まりかえりほんのわずかな波さえ消えた一瞬、海面に映る月影を割って、一羽の小鳥が飛び出した。
割れた真円の月影はまたたく間に閉じて、一瞬の静寂などなかったかのようにまた風が吹き、波が立つ。
小鳥は呆然と羽ばたいた。世界は眠っている。世界は死んでいる。この夜の闇は海底とどこが違うものか。この風は波のうねりとどこが違うものか。
得たものは知れず、失って取り戻せないかもしれないものの大きさにおののきながら、小鳥は泳ぐように翼をはためかせ、朝を待つ仮宿を探して飛び立った。
そのちいさな翼は傷ついているらしい。散ったわずかな雫はかつていた世界の名残、血のこびりついた一枚の長い羽根が海面に落ちてしばらく漂い、やがて深い海の底へと沈んでいった。
おしまい。
変化(henge)