明月の足音

コルナゴのレイ

窓の外から、音ともならない音が伝わってくる。

ストーブにかかった薬缶から白い湯気が立ち込め、窓を曇らせている。

手で窓をこすると、すべてが白で覆われている。
あるものすべてを丸く覆いつくし、ふんわりとした温もりをもたらす。

ストーブに手をかざし、冷えた手を温める。

下敷きに半紙を重ね、そっと文鎮を置き、短く息をつく。
その一連の作業で、スイッチが入る。

集中。

墨を筆に含ませ、そして二度三度と硯で穂先を整える。
ここからはもう、躊躇はない。
半紙の上から、筆の囁きが聴こえてくるようだ。
それはまるで雪の降る音のように、確かな音として伝わってくる。
いいリズムだ。
書けている時は、筆を運ぶリズムが軽快に踊りだす。
しかしそのリズムは、どこまでも丁寧で静粛。
冬の足音のようだ。

佐々木勇介は産まれて間もないころから、書道の筆がお気に入りの遊び道具だった。幼少期にはそのまま振り回したりして遊んでいたのが、物心がついたころからは墨を付けて、絵とも字ともどちらともつかないような落書きから始まり。いつしかきちんとした習字を書くようになっていた。
産まれ育った環境がそうさせていたのかもしれない。

佐々木書道教室。
勇介の父親は書道教室を開いていた。幼稚園児コースから始まり、小学生コース、中学生コースから、一般の方向けのコースまで。高齢者向けのコースまでも設けていた。そうして幅広く生徒を募集していたせいもあってか、朝から晩まで、毎日ひっきりなしに賑わいであふれる書道教室になっていた。

それに佐々木書道教室が絶えず賑わいであふれていた要因として、筆と紙を通して自己表現することを目的としていたことがあるのかもしれない。
ただ字を書くのではなく、字に思いや感情を込めて書く。筆順や筆の持ち方といった基本的なことに加えて、自分の個性が出た作品を描くための技術を身に着けることに重きを置いて指導してきた。

そんな父親の指導する書道に、勇介も翻弄されていった。
それと共に、父親にも親として以上の、憧れのようなものを抱くようになっていった。父さんのように自分もなりたい。そしてこの佐々木書道教室を、一緒に盛り立てていきたい。そして、ゆくゆくは自分が跡を継いで、もっとたくさんの人達に書道の尊さ、麗しさを伝えていきたい。そうした決意が、年を追うごとに増すばかりだった。

そんな決意を、勇介は中学2年の時、父親に話してみた。
よほど嬉しがってくれるものだろうと思っていた。
頼むぞ!と、背中を押してくれるものだとばかり考えていた。
勇介も、すっかりその気になっていた。
だが、、そんな思いに反して。。
「ダメだ」
勇介はすっかり意表を突かれてしまった。
「お前がやりたいなら、勝手にやれ」「この教室は父さんのものだ」
勇介には、とても信じがたい父親からの言葉だった。
すべてが一気に崩れ落ちてしまった。
何故だ。不可解さと、不安とで押しつぶされてしまいそうだった。

父親から勇介への思いは、親心からだったのだ。
この佐々木書道教室は、父さんがやりたくて開いた教室だ。
だから父さんの好きなように、やりたいようにやってきた。
もしも勇介が、本気で書道教室を開きたいなら、自分で書道教室を開け。
そして、勇介の考える書道を、勇介の好きなようにやりたいようにやっていけばいい。それでこその、勇介の書道教室になるんだ。
勇介には勇介の道を、自分の頭で考え、自分の足で歩いてほしかった。

だが、思春期真っ只中の多感な年頃でもある勇介には、いくら憧れすら抱く父親からの言葉とはいえ、真逆な相反する意見は受け入れることは出来なかった。理解しようとすら思えなかった。
父さんは解ってくれていない。否定的な意見をただただ遠ざけていった。
勇介は自分の意見に賛同してくれる、解り合ってくれる味方を探し求めるようになった。

そして、必然的に書道からも遠のいてしまった。
あんなに字を書くのが楽しかったのに。
書道教室にも足が向かなくなっていった。

それでも学校の勉強はキチンとやってきたおかげで、地元の友達と一緒の高校に合格することができた。
親子共々一安心。よかった。
そして高校合格祝いにと、ろくに口も利かなくなっていた父親から貰ったのは「硯」だった。
「えぇ~、硯かよぉ~」「もっと、なんかないのかよ」
周りの友達は、ちゃんと自分が希望していたものを貰っていた。
この期に及んで「硯」では。それはないだろう。
ますます勇介の反抗心は増すばかりだった。

高校を卒業したら、一人暮らしを始めよう。
そう勇介は決心した。
その旨を父親にも伝えた。
具体的にどうこうというのは、まだないけれど。
先ずはアルバイトを始めたいと、伝えたのだった。
それには賛成してくれた父親から、アルバイト先を紹介してもらった。
地元の文房具の卸をしている小さな文具会社だった。

吉田文具。
そこで学校帰りに、雑用や配達などの仕事を手伝うようになった。
平日は毎日。その代わり週末は休み。
楽しかった。
もともと決して嫌いではない文房具に囲まれて、それで仕事にできる。
高校を卒業したら、こういう仕事に就きたい。と固く思った。

実はその吉田文具の吉田社長は、佐々木書道教室の生徒でもあった。
かれこれ3年近く通っている。ちなみに、一般向けコースだった。
ちょうど勇介が書道から遠ざかり、書道教室からも足が遠のいていた時期だった。なので、それまでは大体の生徒さんの名前と顔は把握していた勇介にも、吉田社長の面識は薄かった。だけど、それが良かったのかもしれない。
アルバイトに通うたび、正面から自分向き合ってくれる吉田社長への信頼感は、日に日に増すばかりだった。
なぜか、思春期真っ只中の多感な年頃というのは、親にだけは何をどう言われようと猛烈に反発してしまう。
そんな最中の吉田社長の存在は、勇介のなかでちょっとした父親代わりの存在にまでなっていた。

そんな吉田社長の運営する吉田文具は、とても良い雰囲気の会社だった。
社長が父親代わりのような存在なら、社員の方たちは兄貴のような存在な方たちばかりで、そこに勇介は、ちょっとした家族を感じてしまっていた。
とても居心地のいい会社だった。

そんな折に、吉田社長から「勇介君は高校を卒業したらどうするんだ?」
と聞かれ。勇介は「いやぁ、まだ具体的にどうのっていうことははっきりしないのですが」と、にごわすような返答の後に「吉田文具さんで、このまま働けたらいいなって思ってました」と意を決して言ってみた。
すると吉田社長からは、にやけ顔で「じゃぁ、決まりだな」「助かるよ、よろしく頼む」と肩をたたかれた。
勇介はびっくりだった。と共に、嬉しかった。
自分のことを、こんなにも認めてくれることに感激だった。
それに、就職も決まったし。これで安泰だ。
「それならそうと、夏休みにはがっちり働いてもらうぞ」
「はい!がんばります!」
勇介はやる気になった。
気分はすでに、吉田文具の社員のつもりになっていた。

そして冬休みも、必然のように働かせてもらうことになった。
そしてある日、勇介が少し遅くまで残って残業し。それから帰ろうと事務所に顔を出すと、社長が机に向かって姿勢を正し真剣になっている姿が目に飛び込んできた。
習字を書いていたのだった。
その時の社長の姿は、凛々しくもあり、神々しくさえもあった。
勇介は、なにか懐かしさとも、羨ましさとも感じてしまっていた。

「社長、習字ですか」
「そうだ、書初め会の練習にな」「実は私も、佐々木書道教室の生徒なんだよ」
「そ、そうだったんですか」
「かれこれ佐々木さんに指導を受けて、3年になるかな」「そろそろ佳作くらいは取ってみたくてな」
書初め会とは、佐々木書道教室で毎年元日の午後1時に生徒みんなで集まって、一緒に書初めをする会のことだ。そしてその書初め会では、各々の書初めが教室の壁一面に張り出され、生徒一人一人がそれぞれ投票をして、最優秀賞、優秀賞、佳作といった三賞を決めていたのだった。
佐々木書道教室の生徒にとっては、年に一度の恒例行事であり、年に一度の腕試しでもあった。ちなみに書初めの後に振舞われる雑煮も、楽しみの一つでもあった。

勇介も小学6年の時に、最優秀賞に選ばれた実績があった。確かな腕は持っているのだ。
「勇介君も書初め会に参加してみたらどうだ」
勇介は悩んだ。
教室にも暫く顔すら出していない。
ここ何年も、筆を執ることすらなかった。
果たして、自分の字が書けるのだろうか。
だが、書きたかった。
久しぶりに半紙の上で囁く筆の音を聞いたような気がして、胸が高鳴っていた。自分の筆の囁きを、また聞いてみたくて仕方なかった。
卒業祝いにと、父さんから貰った「硯」も、まだ一度も使っていなかった。
久しぶりに書きたくて仕方がなかった。

「なんだったら、仕事終わりにでも一緒に練習しないか」
社長からの誘いに、勇介も一緒に練習させてもらうことにした。
それからは、書道セット一式を持参してのアルバイトの毎日が続いた。
思いのほか、楽しくて仕方がなかった。
仕事も楽しかったが、それ以上に書道の練習が楽しかった。
社長と二人でだから、ということも幸いしたのかもしれない。
「いい硯だな」
「中学の卒業祝いに、父さんから貰ったんです」
「ん…さすがだな、佐々木さんは」「硯を卒業祝いに送るとは」
勇介には不思議でしかなかった。なぜ「硯」なのか。
「勇介君、徒然草は知ってるか」
「徒然なるままに、ですよね」
「その先だ」
「つれづれなるまゝに、日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」
「孤独にあるのにまかせて、一日中、硯と向かい合って、心に浮かんでは消える他愛のない事柄を、とりとめもなく書きつけてみると、妙におかしな気分になってくる。という意味合いの随筆だ」
「硯に向って墨を磨るということは、すなわち己と向かい合うということ」
「それが父さんからの贈り物だったんじゃないのか」
勇介には納得だった。初めて知った「硯」の意味合い。
やっとこの「硯」の想いを知ったような気がした。
そしてやっと「ありがとう」と思えた。

「父さん、俺、また書初め会に参加させてもらっていいかな」
「勿論だ」「楽しみにしてるぞ」
ホッと安堵できた。良かった。と共に、とても嬉しかった。
また書道をやってもいいんだ。
それと、父さんに…。
本当に「ありがとう」心からそう思えた。

書初めの題字を何にしようかと、勇介は自分の部屋の窓から外を眺めていた。
そこには満月に照らし出されるように、真っ白な雪原が広がっていた。
そしてその雪原は、どこまでも透き通った静寂で満ちている。
そっと舞い降りる、綿のような雪の囁きだけが微かに届いてきた。

満月か。綺麗だな。
眼前に広がる雪景色で感じた。
雪原のような真っ白い半紙に、綿雪の降り積もる囁きのような筆の音。
そして、それらを照らし出すかのような満月。
そうだ、「満月」にしよう。
書くべき題字は「満月」しかない。そう心得ることができた。

満月の夜には、積極的な力が漲り、秘めた力を最大限に発揮できると伝えられている。
勇介自身にも、満月の力が宿ることを祈りたかった。
いつの日にか自分の書道教室を開き、書道の楽しさ、麗しさ、尊さを広めていきたかった。
そしてなによりも「硯」の想いに応えたかった。

自分にとっての満月に至るまでの期間は、まだ続くのかもしれない。
それまでは何かを積み上げていく期間だ。
その結果が何らかの形で示されたり、取り組んできたことの結果が導き出される満月の日が来るまで。
麗しい満月を描けるようになるには、まだ先かもしれない。

今は、今の「満月」を精一杯描いてみよう。

ストーブに火を燈し、薬缶をかけた。

逞しい希望を胸に抱き、「硯」で墨を磨る。
想いのすべてを筆に込め、まっさらな半紙に満月を描く。

雪の降り積もる音とも、筆の躍る音ともつかない囁きが耳に届く。

カン…カン…と、ストーブの冷えた空気を温める鐘のような音が木霊する。

冬の足音が聞こえてきた。

満月が光彩を増し、明月へと転じていくのであった。

明月の足音

明月の足音

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-01-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted