泡沫の街
焼けるような夕焼け。それに似合いの港の街。
懐かしさと寂しさを感じさせる色だ。彼女はそう思案する。
日差しはすでに傾いて、街も海も、平等に染めていく。白色の壁は橙色に映り、ここから程近くに広がる海は、太陽の光を反射してきらきらと波打っていた。
異国情緒漂う、素敵な街。憧れの場所。
誰もがそうしてこの場所にやって来る。
けれど同時に、この街は別れの街でもあった。
彼女はスカートを風に遊ばせながら、喫茶店の扉を開く。カラン、と鳴るベルに合わせて、彼女を出迎える声がした。サイダーをひとつ頼み、いつも通りの席に座る。窓際のテーブル、二人用の席に。
ステンドグラスの窓から差し込む光が、赤や緑や、青色になってテーブルの上で揺れている。
ここに一人で来るのは、いつ以来だろう。
ほどなくして運ばれてきたサイダーを眼下に、彼女は昨日のことを思い出していた。
彼女には恋人がいた。穏やかで優しい、けれど夢見がちな青年だった。そんなところも、彼女は愛していたけれど。
昨日のちょうど今ごろ、彼女はこの喫茶店の同じ席に座っていた。向かいには恋人の青年がいて、彼女はハーブティーを飲んでいたところだった。
「……今、なんて?」
信じがたい言葉が聞こえた気がして、彼女は顔をあげた。青年はテーブルを睨み付けたまま、平坦な声で告げる。
「遠い異国に、行くことになった」
表情を変えない彼は、あるいは気持ちを押し殺しているのかもしれない。
「どれくらい遠いの?」
「分からない。ずうっと、遠く」
あまりにも曖昧な表現だったから、彼女はまるで実感が湧かなかった。数度瞬きをして、ゆっくりと口を開く。
「……一人で行くの」
ゆっくり、彼は首肯した。
ずっと言わなければならないと思っていたんだ、と彼は苦しそうに目を伏せた。ステンドグラスの赤や青や緑色が映り込んで、彼の顔やテーブルを鮮やかに彩っていたことだけは覚えている。
「明日には発つんだ。いつ帰ってこられるかも分からない。……だから」
僕のことは待たないで。
意を決したように顔を上げた彼が発した言葉は、彼女には理解しがたかった。彼の前に置かれているグラスが鮮やかな色彩を反射して、彼の目がまるで作り物のように見えた。きらきらと輝く、人形の瞳のようであった。
それに気を取られて、その時彼がどんな表情をしていたのか、よく思い出せない。
「そう、いってらっしゃい」
それが彼の望みならば、止めることなどできなかった。未練など残さないように、綺麗に笑って送り出す。
さようならを言わなかったのは、ほんの少しの意地だった。
港に鎮座していた客船が、汽笛を鳴らしてゆっくりと動き出す。ステンドグラスの隙間から、見送りの人たちが大きく手を振っているのが見えた。
彼はきっと、あの船に乗っていることだろう。そう分かっていたけれど、見送りはしないと決めていた。姿を見れば泣いてしまうと分かっていたし、だからこそ昨日の別れ際に作った綺麗な笑い顔のまま、彼の記憶に残りたかったのだ。我ながら随分女々しい考えだ、と彼女は苦笑する。
目の前に置かれたサイダーを、何とはなしにストローでかき混ぜた。泡が浮かんで、弾けて消える。
「……待たないで、ですって」
昨日彼がいた向かいの席には誰もいない。昨日の彼の言葉も、まだ受け入れられないままなのに。
サイダーを一口飲んだ。炭酸でちくりと舌が痛み、それと共に心も痛んだ。ゆらゆらと波打っていた視界から、とうとう涙が零れ落ちた。赤も青も緑色も、全部混ざり合って曖昧に霞む。
誰に何と言われようとも、彼女は彼を待っていようと思っていた。しかし彼はそれを望んでいない。待たないでと、そう言った。彼はどうなのだろう。
(きっと私のことなんて、すぐに忘れてしまうんだわ)
遠く異国の地で、彼はまた誰かに恋をして、手を繋いでキスをして。そこに自分はいないのだ。なんて耐え難いことだろう。止まらない涙はそのままに鮮やかな窓の向こうを覗けば、船はもう随分沖まで出ていた。きっともう見送りの人なんて船からは見えないだろう。彼女は飲みかけのサイダーを残して店を飛び出し、港まで走った。ヒールを履いた足が痛む。何度も転びそうになりながら、それでも構わず走り続けた。防波堤の縁ぎりぎりまで来たところで、ようやく彼女は止まる。
彼女は涙を拭って船を見たが、甲板に出ている人の顔など既に分からなかった。彼がそこにいるのかいないのかも、まるで見当が付かなかった。また涙か込み上げる。
あの時、あの綺麗な色彩に隠された彼はどんな顔をしていたのだろう。悲しみに暮れていたのだろうか。そうならばいいと、彼女は願った。
「私はいつまでだって待てるわ」
けれど貴方はきっと帰っては来ないのでしょうね。
潮の香りがする風にそっと告げた。ならば彼が誰かに恋をした時、少しでも自分のことを思い返してくれたらいい。夕焼けの空を見上げた時、ほんの僅かでもこの街に焦がれてくれたらいい。ねえ、私、あなたのこと愛してたわ。そう呟いた言葉は、煌めく海に流れてゆく。二人のサイダーのような淡い思い出も、しゅわしゅわと弾けて消えてゆく。
船はもう、はるか遠くにかすかに見えるだけだった。
泡沫の街