マンハッタンを沈めて
純真を極めていた私がまんまと恋に落ちたのは、まだ青春の只中、セーラー服をまとって学校に通っていた時分であった。
私の体内を流れる血は、半分だけ海の向こうのものである。生まれて数年はニューヨークに住んでいたが、正直それほど記憶にない。寒々しいビル群と身につけた言語だけが、ただ頭に残っている。
向こうの要素を色濃く取り入れた私は、この島国ではそれなりに目を引く色をしていた。周囲の女の子よりも少し高い目線は意外と悪くない気分で、色の薄い髪や瞳を褒められるのも、嫌いじゃなかった。それなりに綺麗だと称される己の色と容貌を、私は気に入っていたのだ。
隣のクラスには、香坂さくらという少女がいた。私の金の髪と灰色の瞳は学校の中でも目立つ方だったが、彼女はともすれば埋没してしまいそうな凡庸な色彩ながら、私よりもずっと有名人だった。当時から、「可愛い」より「美しい」と形容するのが似合う人だったように思う。凛とした花のような彼女は男女問わず人気があり、しかし同時に近寄りがたくもあった。幸運にも私は彼女と仲が良い方であったが、切っ掛けが何だったかは思い出せない。
ともあれ彼女はそういう人であったから、告白を受けることもなく、見た目の華やかさよりもずっと生真面目な性質だったのだ。
ある夏の日だった。空は青く、雲一つない快晴。開け放たれた窓から野球部の野太い声が飛び込んできて、暑苦しさに辟易したのを覚えている。
私はうなじに貼り付くポニーテールを払い除け、ほとんど教科書の詰まっていない鞄を抱えた。ぬるくなったサイダーのペットボトルをゴミ箱に投げ入れ、白い半袖の裾を折り返す。それでも肌を伝う汗の量は減らない。けたたましく蝉が鳴いている。
夏も盛り、名目上は確かに夏休みであったはずのその日、けれど受験を控えた私は毎日のように学校に通っていた。
教室には既に誰もおらず、私は新鮮な気持ちでぐるりと見回した。いつだって賑やかな教室は、生徒がいないだけでこんなにも表情を変えるものか。ほう、と息を吐く。吹奏楽部の練習の音が、遠くで鳴っている。
その空間を突き破るように、どたどたと派手な足音がした。そしてどうやらそれは、徐々にこの教室へ近付いているようだった。何事だろう、と入り口へ顔を向けると、例の香坂さくらが、おおよそ女子高生とは思えない勢いで飛び込んでくるところだった。彼女の紺色のプリーツスカートが、乱暴に揺れる。
「有紗」
彼女は入り口から一歩入ったところで急停止して、息を整えようと大げさに深呼吸をした後、私の名前を呼んだ。華奢なその肩を、大きく上下させながら。
それから呼吸が落ち着くまで、彼女は私を真っ直ぐ見つめたまま、沈黙を守っていた。数秒とも、数分とも分からない時間が過ぎ、私も彼女から目を逸らすことができなかった。
「アリサ」
彼女の形の良い唇から、再度私の名前が零れ落ちる。走ってきたせいか、はたまた別の理由か、彼女の頬は赤く色付いていた。
そして徐々に落ち着いてきた呼吸の中で、彼女は未だ私を射抜きながら、言った。
「男子に、告白された」
長い睫毛に縁取られた黒色の瞳から、ぼろりと大粒の涙が落ちる。何の前触れもなく、表情でそうと予感させることもなく、彼女は私を見つめたまま、ぼろぼろと泣いた。
ぬるい風が吹き込んで、教室のカーテンが膨らむ。あらゆる音が遠く、彼女の呼吸の音だけが聞こえていた。長く黒い髪が、さらりと肩を流れていく。
神聖な空間だった。私などが口を開くことは、許されないように思えた。
その時からずっと、私は彼女に恋をしている。
◇ ◇ ◇
さくらの中には、どうにも理想のアリサという存在がいるようである。
一度髪を切ったら、さくらが不服そうな顔をした。だから私の金色の髪は、何年経っても長いまま、適当な位置で結んである。
制服に身を包む歳ではなくなって、もう何年か過ぎた。帰りに友人と肉まんやアイスを買って帰るのが精々の贅沢だったあの頃は、なんだかもう遠い幻のようだ。今やアルコールを嗜み、海を越えてあちこち行き来するようになってしまったのだから、時間というのは想像よりあっという間に過ぎるものである。そんなことをふと思う。
元々高めの身長を更に底上げする高いヒールのブーツを履いて、私はオレンジ色の街灯が並ぶレンガ色の歩道を歩いた。吐く息は白く、立てたコートの襟に顔を埋める。約束の時間よりは幾分か早く着きそうだが、それでも彼女はもう来ているだろう。そう考えると、自然と足も早まる。
果たしてさくらは、既に約束した店のカウンター席の端に腰かけていた。ライトグレーのスカートから伸びる黒く細い脚と、その先のファーのついたハイヒールが視界に映る。鮮やかな赤のハンドバッグを膝に置くその姿は、いつかの彼女よりも艶やかであった。大人になってからも頻繁に会っているはずなのに、どうしても慣れない。ふう、と一つ息を吐いて、私はさくらに歩み寄る。
「遅れてごめんね」
彼女は黒色の瞳を楽しげにきらめかせて、うんと可憐に笑った。
「遅い。寂しかった」
「ごめんってば。これで機嫌直して」
彼女のものよりは随分可愛くない黒いバッグから、ラッピングされた箱を取り出す。それをさくらに差し出せば、彼女は少女のように目を輝かせた。
さくらの中の『理想のアリサ』は、ニューヨークの街が似合う、格好いい女であるらしい。彼女は私の金色の髪を、私以上に気に入っているようだった。だから私はその理想の通りに髪を伸ばすし、時々旅行に行っては彼女にお土産を買って帰ることにしている。
「じゃーん、イヤリングです」
「あ、これ、向こうのブランドの?」
「大事にしてよ」
リボンが巻かれたそれを茶化しながら渡すと、さくらは何かとても大切なものを扱うような手つきで、恭しく受け取った。
店内は暖色の照明が灯り、落ち着いたジャズ・ナンバーが流れている。ニューヨークの地名を冠した赤いカクテルを頼みカウンターに座ると、さくらが「いいなあ」と口を開く。
「アリサは、いいなあ」
「なにが?」
「外国が似合っちゃう格好いいところが」
彼女が、コトリと目の前に置かれたグラスを見下ろす。昔はおんなじ服を着てたのにね。さくらの声は寂しそうに響いた。
あの頃、教室で制服を着て、数十人で同じ授業を受けていた頃、私とさくらの差はそう無かったはずだった。けれど今は違う授業を専攻して、違う人間と友達になって。私は休みを捻り出してアメリカに里帰りを兼ねた旅行をし、さくらは教授の手伝いに精を出している。そうしてどんどん変わっていく。私も、そしてさくらも。
「今度は一緒に行こうか」
「そうして。連れてって」
そう言って彼女は俯いた。顔の横に髪が流れて、隣に座る私からはその表情を見ることはできなかった。
「他のどの男の子に好かれるより、アリサと一緒がいいよ、私」
どきりと心臓が跳ねる。
さくらは名前の通り淡く色付く可憐な唇を綺麗につり上げ、挑発するように私を見つめた。濡羽色の髪は以前と変わらず美しくて、吸い込まれそうなほど漆黒の瞳が、どうしたって私を捕まえて離さない。
「……それは、つまり」
「うん?」
未だ大きく鼓動する心臓になど気付いていないような顔で、私はさくらに問い返した。頼んだ赤い酒を、一口だけ含む。さっさと酔ってしまいたい気分だった。
「また誰かに告白されたって話?」
さくらは意味深に笑みを深めた。それは恐らく、イエスという返事に他ならない。
ちくしょう、人の気も知らないで。私はさくらに告白したらしい、名も知らぬ男に悪態をついた。街中全裸で引きずり回して、そのままビルの屋上から突き落としてやりたい気分だった。
「相変わらず人気者だね、さくらは」
誰の告白も蹴飛ばして、ただ私と一緒にいてくれたら良いのに。そんな自己中心的な感情なんて知らないふりをする。綺麗にすました顔で、私はさくらに思ってもいない言葉を吐いた。本当は悔しいくせに。
「……どうして告白なんてするんだろ。同じサークルなんだよ、気まずくなるに決まってるじゃない」
溜め息混じりに、さくらはグラスを傾ける。今まで見たどんなさくらよりも、ずっと女性らしい綺麗な顔だった。ずるくて、羨ましくて、どうにかなってしまいそうだった。
さくらがこんなにも美しくなければ、私もこれほど惑わされずに済んだのかもしれない。グラスを勢い良く傾け、二杯目を頼む。すぐに差し出された新しい酒を、自棄になって数口飲んだ。
次のお土産は、ネックレスか、腕時計か。
それとも、そろそろ潮時だろうか。
いっそこの国を出てしまおうか。幼少の頃住んでいた、あの寒々しく整然とした町並みに、住まいを持つのも良いのかもしれない。そしてさくらが憧れた「ニューヨークの街が似合うアリサ」のまま、彼女の記憶に残るのも悪くないと思えた。
だから最後くらい、ほんの少し、私が抱えているこの恋情の一欠片くらいは、彼女に分けていっても許されると思ったのだ。
既に頭はぼうっとして、理性はあまり機能していなかった。視界がふわふわして、目尻が泣いてしまいそうなほど熱かった。世界一愛してる、だなんて口走ってしまいそうなほどに、熱かった。
きっと、大人になるとはこういうことだった。
感情だけで突き進める時間は、制服を脱ぎ捨てるのと同時に終わってしまったのだ。
私はさくらが大好きだったけど、彼女も私を大好きだったって、本当は知っていた。お互いに何も言わなかったけれど。それに気付いたのは高校を卒業してからだったから、もっと早ければ、何か違ったのかもしれない。
私たちに未来なんてないけれど、私の特別はきっと、ずっと未来までさくらのままだ。これから先、男性と恋をして、キスもセックスもして。けれど一番大切な女の子は間違いなくさくらで、それがこの先の人生でも恐らく揺らがないのだと、私はぼんやりと確信していた。そしてさくらにとっても、きっとそうなのだろうと。
だから、さくらの一番の特別を、彼女の中の理想のアリサをそのままにしておくのも、存外悪くないと思うことにした。ニューヨークが似合う、格好いいアリサのまま、彼女の一番でいる。素晴らしいことだ。
「……でも」
幸せになってほしいから、好きも愛してるも言わない。この先ずっと。腕時計やネックレスや、恋人のような贈り物をお土産と称して渡したりもしない。友達らしくニューヨーク限定のマグカップでも送ることにするから。
「分かるよ」
だから、このくらいのわがままは、許されるはずだ。
「私も男だったら、さくらに告白してたから」
喉を飛び出した声は、みっともないほど掠れていた。酒のせいだと言い訳をして、グラスを握りしめる。
これが口を滑らせた告白の代わりだと、きっと彼女に教える日は来ないだろう。だから彼女の返事がどんなに思わせぶりであっても、その意図を決めつけることなど、私にできるはずもないのだ。
あの神聖な夏の日、告白されたのだと泣いたさくらに恋をした。あのさくらの女性らしさを引き出したのは告白した男子生徒で、私ではない。女としてのさくらに惚れたくせに、その彼女は私では引き出せない。
「……私も、私もアリサが男だったら、その告白受けてたよ」
つまり、この恋の続きなんて、最初からなかったのだ。気付いて、私は笑ってしまった。
浅いグラスに満たされたルビー色の液体の中で、赤い果実が死んでいる。
一度も異性の告白を受けないさくらの言葉は、私には勿体無いほど最高の褒め言葉で、同時に最高の絶望だった。
マンハッタンを沈めて