あめもよい

「それじゃあ」

元気で、という言葉に、君はああ、となおざりに返事をする。早朝のつんとした空気が、目に沁みた。君の目線は少し下、私の右手のあたりに向いていて、最後まで交わらない。がちゃり。玄関の扉が閉まる、重たい音がした。


「好きな人ができた」

何週間か前、君が固い表情で打ち明けたとき、私はこっそり準備したプレゼントをいつ渡すかに気を取られていた。その日は付き合い始めてから何年目かの記念日で、確か去年はカードケースをあげた。私はそんなに値の張らない鞄をもらって、毎日それを使って、その年のプレゼントを忍ばせていた鞄も、去年君にもらったその鞄だった。
だから聞き間違いか、空耳だと思ったのだ。

「……ごめん、もう一回言って」

惰性で付き合っていた。最初の頃に比べれば随分淡白な付き合いで、けれど相性は悪くなかったと思う。だからこのまま惰性で続いて、そのうち結婚もするだろうと考えていた、矢先の出来事だった。

「他に好きな人が、できた」

二度目、さっきの言葉が聞き間違いでもなんでもなかったことを知る。何か返そうと口を開いて、言葉に詰まった。
きっとこれは、君なりの誠意なのだろう。今日のこの、特別な記念の日に打ち明けるのは、本当にどうかと思うけれど。別れるための方便だろうか、と考えてから、この人はそんなに嘘が得意じゃないことを思い出す。

「そっか」

想像していたよりも、冷静で落ち着いた声が出た。うん、と返事をする君の声は、色がなくて機械のようで。けれどふと見た顔がしかめられていたので、涙が出そうになった。

「ごめん」

すぐ謝る、そういう人だ。先に自分が悪かったと言ってしまう。喧嘩をしても、君が先に「ごめんね」というので、私は泣きながら許すだけの役割だった。そういうところが駄目だったのかな。でもそういうところも好きだったのだ。心底困った顔で、私の顔を覗き込む君の、下がった眉が好きだったのだ。
相性がいいと思うとき、それは相手が自分に合わせてくれているだけだと。なにかの本でそう読んだ。つまりはそういうことなのだろう。

「いいよ」

君を許すのは、きっとこれで最後だ。最後くらい泣かずにいようと思ったのに、結局涙が何粒かこぼれ落ちる。けれど君は、困った顔もしなかったし、眉を下げて私を見ることもしなかった。
これで終わるのだと、ようやく理解した。


結局プレゼントは渡せないまま、ぐちゃぐちゃになって鞄の底に押し込められている。少し奮発して買った腕時計。君が欲しいと言っていたのを思い出して、君の腕に巻かれることを想像して選んだ。渡したら喜んでくれるかな、と考えては待ち焦がれていた私があんまり馬鹿で、とうとう声をあげて泣いた。すれ違う人が、まるで何も見ていないですよ、というようにわざとらしく距離を置いて遠ざかっていく。
時間をかけて部屋の荷物を片付けて、鍵を置いて。変な意地で、「さよなら」とは言えなかった。最後に見た君の髪に寝癖がついていて、たまらない気持ちになったけれど、それも言えなかった。
元気でなんかいないで、私がいなくなったこと、どうか一生引きずって。どんより曇った冷たい空気に押し込められた本音が、積み重なって。
しゃくりあげた喉が痛いので、余計に涙があふれた。

あめもよい

あめもよい

刺すように冷たい空気の朝、お別れする二人の話。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-01-15

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