暗闇で鈍く光る菫色
万物は流転する。時間は方向を持ち、前にしか進めない。逆転させることはできない。形ある物はいつか壊れる。生きとし生けるものは、その理(ことわり)から逃れることはできない。
しかし、それが生者でないとすればどうなるのだろう。その理は容易く覆るのだろうか。
死者というのは、停滞した存在である。停滞するということは変わらないということ。そこには、成長も、老いも、飢えもない。それは、生者の道理から外れるということに他ならない。
私は、それが恐ろしい、と思った。すでに自分が人で無くなり、人ならざる物になったのだとしても。たとえこのような姿になっても、自分がまだ生者であると思いたかった。だから、自分が自分でなくなるというのが、自分が別の何者かに変貌することが、今は何よりも恐ろしい。
「ねえ、あなたはここに来てから、誰かにパンをもらったことはある?」
ある日、道を歩いていると、ふいに少女が話しかけてきた。長く伸ばした髪を二つのおさげに結った姿は、随分幼く見える。大きなリボンと豊かなフリルで構成されたワンピースに、つやつやとした派手な色合いのストラップシューズという装いがそれに拍車を掛けていた。
そういえば、同胞が、最近やってきた新入りがいる。その子があなたの妹になる。出会ったら色々と世話をしてやってほしい、と言っていた。もしかして、この娘がそうなのだろうか。
「いいえ。此処で誰かに何かを貰ったことはない」
突然、話しかけられたものだから、どう答えればよいのかわからず、間髪入れずにそれだけ答えた。私は人と話すのが得意ではない。後になって思い返せば、右も左も分からない新入りとの初めての会話がこれというのは、無愛想にも程がある。少なくとも私以外の同胞なら、もっと上手くやったはずだ。
「あるとしたらの話。もしもの話ね。誰かにパンをもらったらどうする?」
新入りは気にせずに、会話を続けようとしてくる。存外、押しが強い。妙なことを聞く娘だな、と思ったが、幼な子というのは、脈絡のない会話をしたがるものだ。これもそういう類のものなのだろう。
仮に、誰かから食物を貰ったところで、私たちは人ではないのだから、それを口にすることはない。
「埋めて土に還す」
「味もみずに?どうして?」
如何にも、なぜだかわからないといったふうにきょとんとしている。どうやら、此処に来てまだ日が浅いらしい。
「私には味がわからないから。というか、何が入ってるか分からないものはまず口にしない」
ふうん。あなた、おりこうだね。と、私の妹になるという者らしき、その娘は微笑んだ。如何にも無邪気そうで、年端もいかない少女然としたその雰囲気は、彼女が人ではない、という事実を忘れそうになる。
その娘の笑みは、一見、人懐っこそうで、穏やかなのだが、どこか淋しげなようすだった。それでいて、静かな怒りのようなものも含まれているように感じられる。実際のところ、腹の底は知れなかった。私はそこに少し不安を感じた。彼女のような、何を考えているのか分からない、面妖な者に会ったのは初めてのことだったからだ。
「わたしはね、パン、もらったことあるんだよ。そのパンをね、お腹をすかせてたみたいだったから、いじわるな烏にあげたの。そしたらね、口から泡を吹いて、白目をむいて動かなくなっちゃった」
彼女は、ぽつりと、とてもかわいそうだった、と言った。それはあまりに軽く、他人事のようだったが、幾分か哀れみのようなものも滲み出ていた。
「運がね。悪かったんだと思うの」
急に思い出したかのようにそんなことを言うので、私は思わず彼女をじっと見つめた。顔、こわいよ、と冗談めかして言われたようだが、耳に入らなかった。
この娘は、自分が与えた物で烏が死んだのに、平然と笑っている。それ以前に、パンを貰った“誰か“とは何者なのか…仮に、それが人間であれば、“まともではない“ということになるのだが…そして、彼女は“誰か“から毒物だと知りながら、それを受け取ったことになるが、その後、彼女は、わざわざ自分に毒物を寄越した“誰か“をどうしたのだろう…
——何だろう、この違和感は。
朝が来れば夜が来るように、今日の次が明日であるように、季節が巡りめぐるように——生きとし生けるものがいずれ死を迎えるように——そんなことはなんでもない、といった調子で、運が悪かったのだと、彼女は零した。運が悪ければ死ぬこともあるよね、とでも言いたかったのかもしれない。
しかし、本当にそうだろうか。烏は本当に運が悪く、たまたま毒入りのパンを食べたのだろうか。
——違う。
烏の運が悪かったわけではない。烏の運命はあらかじめ決められていた。この娘によって。
この娘は、見知らぬ“誰か“に渡されたものに触れた時から、分かっていたのではないか。パンに仕込まれていたのは他でもない、毒の木の実だということを。
なにせ、此処は“まとも“な人間なら、まず寄り付かないような、曰く付きの森だ。今時の言葉で言うなら、心霊スポットといったところか。髑髏の一つや二つ、平然と転がっている。所謂、“樹海“と呼ばれるような、鬱蒼とした森の中で、いくつも寂れた墓石があるし、人喰いなどと称されるに相応しい沼もある。
また、唯一の秘境である、最果ての地は、鬱蒼としたこの森に似つかわしくない、まるで桃源郷のような場所で、一面に美しい花畑が広がっている。しかし、人間が足を踏み入れるには、危険な断崖絶壁だ。落ちれば、まず命はないだろう。
そんな森の中では、毒草だとか、毒の木の実なんかの類には事欠かない。
彼女の話によると、意地悪な烏に眼球を突かれそうになったことがあり、それも一度や二度ではなかったらしい。
確かに、彼女の瞳は紫水晶のような、艶やかな菫色で、暗所でも硝子玉のように、きらきらと微細な光を放っていた。遠目から見ると、宝玉のように見えるのかもしれない。光り物を好む烏ならば、尚更だろう。
とはいえ、眼球を突かれたところで、私たちは人間ではないのだから、痛みを感じることはないはずだ。
何やら無邪気そうに微笑んでいるが、この娘は、「自分にとって嫌なやつだから」という、ただそれだけの理由で、淡々と致死量の毒を利用し、罠を仕掛けている。その様は、如何にも冷淡で、恐ろしく強かであった。
「そんなことになるなんて烏は思いもしなかっただろうね」
「そうなの。とってもかわいそうなの」
彼女は悲しそうな笑みを称えて、淋しそうに言った。それは隠しきれない本心のようであり、自嘲を含んだ諦観の境地のようにも見えた。はたして、「かわいそう」なのは毒を盛られた烏なのか。それとも——
私は、昔から他人の笑顔が苦手だった。中でも、張り付いたような笑みは最たるところだ。とはいえ、この娘のように、如何にも天真爛漫で裏表のない笑顔というのも、逆に掴みどころがないような気がして、苦手に感じてしまう。
人の本質を嫌でも見抜くような力を持つ者、所謂、“覚(さとり)“というのだろうか。そういう能力を持つ者の場合、裏に隠したものが、ありありと感じ取れるだけに余計に恐ろしいと感じるのだという。私は、人間だった頃、そういう類の家系だった。
笑顔の起源は、威嚇であると何処かで聞いたことがある。動物というのは、恐怖を感じた時、外敵を威嚇して自己を防衛しようとする。
猿が笑っているかのように歯を見せることがあるが、これは威嚇の表情だ。威嚇された相手は、その恐ろしい表情にたじろぎ、遠ざかっていく。すると威嚇していた側の猿は警戒を解いて、威嚇の表情を和らげる。相手はその表情の変化に安堵する。威嚇された側の猿はこの時の安堵した感覚を記憶し、親近感を持つようになる。猿は、歯を剥き出してから和らげることで、親愛の情を表現する方法を手に入れ、表情が豊かな人間へと進化していったのだという。
一見、無害そうに見える行動に、恐怖が紐付けされるのは、無意識のうちに、動物の性として、それを感じとっているせいなのかもしれない。
もし、彼女が私の妹になるのだとしたら、私が彼女という存在に慣れるまで——どれくらいかは見当もつかないが——彼女について理解するまで、この娘の笑顔が信じられないのだろうなと思った。
ふと、彼女は悪戯っぽく笑うとこう言った。パンを手にしている。
「ねえ、これ一緒に食べる?」
一瞬、どきりとした。この娘の言うことは、冗談なのか、本気で言っているのか。どちらにも取れるので、私のように人に慣れていない者からすれば判断に困る。思わず後ずさり、遠慮すると、そんなに警戒しなくてもいいじゃない。何も入ってないのに。と、千切ったパンを口に放りながら、愉快そうにくすくすと笑った。
今しがた、毒入りのパンの話をしたばかりだが、よく食べる気になるな、とか、偶に人間が墓などに食べ物を置いていくことがあるが、口に入れたパンはまさかそれじゃないだろうな、とか、そういうことばかりが脳裏によぎった。
やはり、と言うべきか、彼女が何を考えているのか分からない。私たちは、元は人間だったかもしれないが、少なくとも、今は人間ではない。そんな些末な事を伝えたところで、のらりくらりと躱されるだけだろう。
私にはもう帰る場所などないのだが、帰るところがあるなら帰りたい、と切実に思った。
仮に、パンを貰ったところで、私にその味はわからない。私たち人ではない者がそれを口にしたところで、味などしないはずだ。しかし、彼女が美味しそうにパンを頬張る姿は、まるで、人間の子供のように見える。味はしなくとも、食感を楽しんでいるのかもしれない。
鬱蒼としたこの暗い森では、朝や昼がないかのように感じられる。夕暮れが近いのか、烏が鳴く声だけが森の中にこだましていた。じきに夜が来る。彼女の艶やかな菫色の瞳が、暗闇の中で一層、鈍く光を放っているように見えた。
暗闇で鈍く光る菫色