手の中の星

 両手から離れた計算用紙が研究室に舞った。カメラをおろした木田が笑う。3人で笑った。

 エンターを押すと、数秒考えたPCは糸が絡まったような図を画面に開いた。朝から数値を変え続けてずっと絡まった糸を見ている。  
 公転する恒星の軌道計算、数式が間違っているのかうまくいかない。きっと簡単なはずなのにじわりとも進まない。
 散らかった内容のノートにバツ印を雑に書いた。そろそろ額が熱くなってきている、たいして考えられてもいないのに。
 6つの机が1つの島で向き合って並ぶ研究室。それぞれの机は物や紙であふれているがまだ私しかいない。多分今日は来てあと1人だろう。私の机は大きな窓の隣、とても気に入っていた。
 この大学はもともと都会とも田舎とも言えない場所にあるが、5階から見ると校内を囲むように茂っている木々のせいで別荘にいるような景色が広がっている。電気をつけなくとも十分で、外からそそぐ青空が目に優しくとけた。
 BH(ブラックホール)の周回恒星が描く軌道を見たいのに、今朝まではずっと星はBHに落ちていた。式を見直したが今も何か違う。上手に回っておくれよと思う。
 BHは割とたくさん存在していて、私達の銀河系の中心もそれであることをどれぐらいの人が知っているんだろうか。
 私がテーマにしているのはその中心のBH。いて座A*と呼ばれていた。
 重い星が寿命を迎え自分を支えきれなくなるとつぶれてBHになる。銀河の中心なんかにはそれがある。
 目をつむって机に伏せた。腕にぴたっとついたおでこが若干ひんやりする。
 BHの密度、重力は無限大で近づくと光も逃げられない。この中は未知、現存の物理法則は適用できなかった。世界には天才は山ほどいる、この大学にもいる、その人たちが考えてもわかっていないのだ。
 それに、重い物の近くでは時間は遅く進む、こことそこでは流れる時間も変わる。訳が分からなくなる。
 ここから見るといて座の方向、天の川の中心にいて座A*はある。ちょうど今の時間だと私の足元だ。
 瞼も机も地面も通り抜けたあそこにあるはずなんだよなと地球の下を見ていた。
 のそっと顔を上げると研究室の壁に焦点が移る。長い間イスの上でした靴下の体操座りで腰が腐りそうだった。壁に掛けられた時計を見ると短針は1100に近づいている。私が作った文字盤だけが2進法の似非2進法時計。10進法の世界に落とし込むと12時。昼ごはんでも買いに行こうか。背もたれに体重を預けて息を吸った。
 机の上何層にも重なる紙をそのままに、財布と鍵だけ掴んで逃げ出すように研究室を出た。
 扉のボードについているワニのマグネットを外出中の場所に移動させて鍵をかける。立て付けが悪く最初は開けることも閉めることもできなかったが今ではそこまで手こずらない。扉を右上に持ち上げるのがこつだ。
 古びた自然科学棟の5階、扉に貼られた長い半紙に達筆で永山研と書かれた部屋、それが我らが研究室。そこに1日中いるのが最近の私の毎日だった。
 宇宙物質科学専攻永山研究室。永山先生は主にBHについて研究しており、それに引きつけられてしまった私達は各々のテーマで理論、シミュレーションなどをしている。そう言うと聞こえはいいが、パラメータを変えてエンターを押しているだけで理論屋を名乗るのはおこがましいにもほどがあった。恥ずかしくてよそには言えない。
 しかし、宇宙?それじゃあ屋上の望遠鏡を使ってるの?と聞かれれば私は間違いなく観測はしていないのでそう言うしかない。うっすらうそをついているような良く言いすぎているような罪悪感がある。
 研究室は成績順で選ぶ権利が与えられ、3年の途中で配属される。例年定員からあふれて希望が通らない学生もいるようだが、とても人気があるとは言えない永山研は特に競争もせずに入れた。
 あの半紙と墨は新4年となって代替わりした折に私が持参して同研究室の土屋に書いてもらった。彼女は字がうまい上ノートもきれいだ。講義を受けた後はまた他のノートにまとめ直しているらしい。尊敬してもしきれない。私もやればいいだけのことだができない。
 土曜日の大学は空気の音がするが、一部の人間は曜日の概念など忘れて来ている。あるいはそもそも大学に住み着いていた。
 自然科学棟、通称自科棟は5階建てで屋上には天文台がある。中央には内側が吹き抜けの螺旋状の階段があり、その前にエレベーターもある。
 ボタンを押して待つ間、隣のごみ箱に目をやると見慣れたカップ麺が昨日替えられたばかりの袋の中に捨ててあった。野菜タンメン、木田が先日、ホクホクした顔で段ボールを抱えていた。バイト先の薬局で安く手に入れたらしい。昨夜か今朝に食べたんだろう。
 彼は1つ下の階、4階の住民で、うちの研究室と合同ゼミをやっているということもありよく顔を出しにくる。屋上の天文台で夜通し観測やら作業やらをして、午前中は研究室で寝ていることが多い。
 階段を上がる音が聞こえて少し顔を横にやると、おはよ、と声がした。
 「おはよ、風呂上り?」
 噂をすれば、まだ髪が少し湿ったままタオルを首にかけた木田がいた。もう起きていた。
 相変わらず長い背筋をぴんと伸ばして、丸めたポスターのような紙を何本か持っていた。
 「そう、明け方寝てさっき入ったから」
 木田は下宿生だが大学に住み着いていた。スポーツ科の体育館横にはシャワールームがありそこにシャンプーやらを持ち込んで使うと水道代も浮くらしい。あの綺麗とは言えないような場所を使っている人間の割にはいつもこぎれいなのは不思議だ。薬局の制服が似合う顔をしている。
 「なにその紙」
 「次の一般公開のポスター。さっき日野先生に頼まれて貼ってる」
 1枚広げると大きく人工衛星のイラストが描いてあった。一般公開とはうちの専攻が毎月やっている一般向けの観望会だ。屋上に何台か望遠鏡を出して学生が星を見せたり、教授が講演会をしたりする。解説などもするが毎回天文に詳しい常連方が来るので下手なことを言えず気を抜けない。
 今回は木田の研究室の日野先生が、関わっている人工衛星のプロジェクトについて話すらしい。
 「ゴミヤにも貼ってくるよ」
 よく働く上優秀かつ人たらしなので教授のつかいっぱしりのようなことを引き受けている。
 ゴミヤ、538号室は合同ゼミで使っている部屋で大きなプロジェクターがある。一般公開の講演会もここでしていた。
 「準備ありがとうね」
 「貼ったらもっかい寝る」
 「そっかおつかれ」
 石鹸の香りを見送る。
 日野研はうちに比べてカーペットやらソファーやらが備わっていた。全員男の研究室に珍しく整理整頓がなされている。うちにある私がよく昼寝をする破れた革のソファーもなかなか捨てたものではないがあそこのハンモックにはあこがれてしまう。
 到着したエレベーターに乗り込むとぴしりと音がした。みしみしと音を立てるこのエレベーターは全く信用ならない。いつか落ちそうないつかが今じゃないことを割と本気で願いながら下がっていく。
 1階は数学の人が住んでいる。2階の生物分野の機械から何かが漏れるらしく天井には大きなシミがある。反感を買っていると聞いた。
 この棟全体が常に薄暗く、ひんやりとしたコンクリートの壁と相まって作り物みたいだと常々思う。これだけ不気味でも、木田の研究室で飲んで夜中にトイレに行くのももはや家の廊下を歩いている感覚だった。
 外に出るとうそみたいに朗らかな空気が体を包んだ。
 たまに平日であることを忘れて下界に降りると大学生が沢山存在していて驚いてしまう、が今日はすいている。中庭の年中青い芝生でごはんを食べている学生もいなかった。
 私はあそこでごはんを食べたことはない、以前土屋を誘ったが恥ずかしいと断られた。めったにしないが今日は外でごはんを食べないと損するような日和だった。
 そうだ、せっかくだから屋上で食べてみよう。とその時決めた。
 同じく空いている生協に入り、トリ五目おにぎり2つとカリカリのたくあんが2、3枚入っているパックと小腹が空いた時用のゆで卵を手にとって会計をする。
 自科棟のお隣は音楽棟だった。小さいが練習棟も併設されていてよくピアノやフルートの音が風に乗ってやってくる。
 音楽棟は改修工事されたばかりで校内で一番モダンな見た目をしている。しゃれた広いウッドデッキではよくアカペラサークルが練習しており、受験生向けの学校紹介パンフレットにはしっかり自科棟が写らないアングルで写真が載っていた。校内を順番に建て替えており自科棟も数年後に新しくなるらしい。  
 そうなるのは卒業後の話だがくすんでごちゃついていろんな人の跡が重なって染みついた自科棟が無くなるのは寂しかった。
 また命を懸けて5階に引き上げられる。じっとしているだけで位置エネルギーが溜まった。乾いた日差しが照らす廊下をこつこつと歩く。
 ボードには6つのマグネットがあるが授業やゼミがない日にもよく動くのはだいたい2つだ。在室の欄にクジラのマグネットが移動していた。私のワニもクジラに寄せる。
 「おはよ」
 「おはよ、あ、戸川今日永山先生に会った?」
 私の声で顔を上げた土屋が切れ長の目に垂れた前髪をはらいながら言った。耳から垂れていたイヤホンをはずす。大ぶりのピアスが揺れた。
 「部屋行ったけど午前はまだ来てなかったよ。私も質問あるのよね」
 永山先生は講義といい出勤といい、来るのも終わるのもルーズだった。大体午後から同じ階の自分の部屋に来て遅い時間までいる。来ていると扉の上の窓からコーヒーの匂いがし、昼食中はピアノの曲が流れていることもある。
 そう聞くと優雅だが中はこの学生部屋と比にならないほどものに溢れ、机のほとんどは本や学生のレポートが積んであった。隅にはくたびれた布のソファーがあり、そこに泊まっていく日も珍しくない。そういう日は少しひげが伸びて髪がぼさぼさのおじさんになっているので見ればわかる。
 「あれ、これ壊れちゃったの?」
 壁際の段ボールの上に土屋のリュックが置いてあった。いつもイスの背にかけてあるが肩の紐のところがちぎれている。
 「そう、元からぼろかったんだけどさっき自転車にひっかけてさ」
 「あぶなっかしいな、」
 冷静に見えてそいうところがある。この前も脛をぶつけてあざを作っていた。
 「先生が見たら直したら?って言うね」
 「貧乏性だから」
 昔はなんでも直して使っていたんだから、とよく言っている。手先の器用さはそこで身につくらしい。一理あると思う。
 「紙はこんなにあるけどね」
 リュックの下の段ボールの中は全部紙だった。先生の部屋があんなだから学生部屋に置いている。セールか何かで注文しすぎたらしい。
 永山先生は世間的に見ればほぼ間違いなく面倒くさいおじさんだ。今どきの若者はとよく言い、飽きもせずねちねちねちねち説教をするのが趣味という。初めて永山先生を見たのはこの大学の入試の時だった。
 第一志望の学科の試験会場、開始前で多分全員が緊張している中、最前列の男子生徒に何やら文句を言っている試験官の先生がいた。
 試験官は2人いたが、ぱたぱたと音がするぼろいサンダルで遅れて入ってきた方の先生だ。遠くてよくは聞こえないが受験票が指定された机の位置に出ていなかったらしい。話を聞いていなかった方も大概だが、この場面でぐちぐち言うのも大概だ。
 私はすぐ怒るような短気で感情的な人間がこの世で一番苦手だった。感情のまま論理的に冷静に考えられない人間は理解しかねるしそれ故怖い。
 試験官はその学科の教授がやるんだろうか、だとしたらあの先生は宇宙の先生なんだろうか。そうだったらとても嫌だ、とても嫌だ、と思いながら私は合格したのだった。
 ゆで卵を冷蔵庫に入れる。中にはカルピスの原液と水と飲み会の余りの缶が何本か入っている。うちには毎月500円集めてそこから水や常備お菓子などを買う税金制度があった。糖分がないと頭は働かない。
 電子レンジでトリ五目を温める間、隣の水道で手を洗う。ここは元々化学分野の部屋だったらしくドラフトの名残や、三又の蛇口がついている水道が4口もあった。
 大掃除の時掘り出した三角フラスコは私が多肉植物を育てる花瓶になっている。もともと土で育っていても根を切り捨てて水につけると水に対応した新しい根が伸びて育つのだ。
 ついでに多肉たちの水を入れ替える。安く買って種類の名前も知らぬまま軽い気持ちで育て始めたが予想を超えて伸びている。たまに落ちてしまった葉からも根が出てぎょっとする。
 「見てこれ、今読んでる参考文献」
 土屋がホッチキスで止められたプリントを差し出した。
 「なに? 卒論用?」
 「うん、著者見てみて」
 英語で書かれた論文だった。
 「Nagayamaって書いてあるじゃん、これ和訳してるの?」
 「そうだよ、訳も分からない上に内容も分からないから聞きたいんだよ」
 「二重苦じゃないの」
 先生がわざわざ英訳したものをわざわざ和訳するなんて。英語で書かれた教科書を和訳して使うことはよくあるが、もしそれの日本語版が出ているすればそんなことはやっていられない。
 「日本語バージョンはないの?」
 「だって参考にってこれ渡されたってことはないのでしょ」
 よくよく見ると土屋の机にある本は先生の著書ばかりだった。
 「かわいそうな土屋」
 レンジのカウントダウンを3秒残したとこで開けた。少し容器が溶けたが熱さで持てないことはない。
 「あともう1こ、この項ってもうここで消した?」
 土屋が他の紙をぺらりと向けた。相対論の課題レポートの問題、分母がc、光速で、分子がv、光速と比べれば小さい値の速度の項、それが2乗になっている。
 「消した」
 「だよね。ありがと」
 そう言うとざっと斜線を引いた。分母が分子に対して非常に大きいと、無限分の1がほぼ0のように、その項は0に近似できて消える。
 「何年か前はさ、消しちゃうの?って思わなかった? 小さいけど存在してる項なのにざくざく消すんだなって」
 土屋がマグカップに入ったカルピスを一口飲んで言った。もたれた拍子に古いイスがききっとなる。10の何10乗もの計算の前では微々たる違いであることは沢山ある。オーダーが合っていれば十分な計算に慣れてしまった。
 「相対論自体もそうだよね」
 空間も時間も重力や速度で変わる。今も影響を受けているはずだが小さ過ぎて0にできるだけ。
 「ほんとは自科棟で私たちが一番時間あるね」
 そう言って項を整理して書き直すと端においてPCを開いた。
 重力源、ここの場合地球に近い方が時間がゆっくり進む。1階の住民と5階の住民では流れる時間の速さが違う。地球に近い方が竜宮城だ。
 「いや、ゼミも卒論発表もゴミヤでやるから一緒」
 「そっか、じゃあなるべく地球から離れて作業しよう、屋上に逃げようか」
 次のゼミ担当までに準備の時間が足りないらしい。そうだ私は屋上に行くんだった。
 「土屋はもう昼食べた? 私屋上で食べてくるけど」
 「家で食べちゃった。いいな、いってらっしゃい」
 ごゆっくり、と言いながらイヤホンをつけた。ゼミの資料を作るんだろう。
 土屋は大学の近くのアパートで下宿しており、実家は九州ではるばるここまで来た。1人で移動することを何とも思っていないらしい。
 普段は忘れているが本当は北陸の大学が第一志望で落ちてここにいると聞いたことがある。実家でぬくぬく暮らす私とは比べ物にならないほど賢く自立した人間だった。
 扉の横にかかっている屋上の鍵をとる。屋上の天文台はうちと木田のとこが管理しているため自由に出入りできるのは特権だ。卒論で観測をしている木田とは違い、私は実際手伝い程度しか操作したことがない。
 屋上には中央階段を使って行く。身を乗り出すと落ちてしまえそうな階段。ずっと何か落としてみたい衝動に駆られていたが先日土屋を誘って試行錯誤したビニール袋のパラシュートを落とし、その欲は満たされた。何回か他の階に不時着したが1階で待っていた土屋の手に到着した時には通りすがりの教授から拍手を貰った。暇なのかと聞かれるととても暇ではないが落とせるときに落とさないともったいない。
 一歩一歩地球から離れて流れる時間が変わる。吹き抜けに顔を出すと眼下ではゆっくりした時間が流れていた。
 屋上の引き戸も立て付けが悪い。持参したご飯とペットボトルの水を、後ろに積んであるパイプ椅子に乗せる。しばらくガチャガチャすると音を立てて動き、物置状態の踊り場を照らした。
 屋上は隅の方は配管などでごちゃごちゃとしているが案外広い。空も広い。特に高い建物もない近辺を一望できた。
 太陽で暖かいがここは常に風が強い。遮るものもなく遠くからくる大きな空気の流れに飲まれる。流体を感じる。
 ここに来ると中学の通学路にあった公園を思い出す。あそこも小高い所にあり空が広く高く見えた。空が高く見えるというのは周りの建物の有無による目の錯覚なのだろうか。
 奥には天文台、半球の銀のドームがあった。中には大きな望遠鏡とそれを補助する設備が入っている。手前の開けたスペースでは手動で使う望遠鏡を出して太陽の黒点観察や月面のスケッチをする授業もあった。あの授業は黒点を何回か連続して観測しないとデータにならないが、最近はでている黒点自体が少ないらしく今年の3年はレポートが難航するだろう。
 屋上は胸ほどの高さの塀に囲まれている。その塀際に一つぼろの木のベンチが置いてあった。ゆっくり腰掛ける。
 そういえばあの公園でも誰もいない中、ベンチに腰を下ろしていた記憶がある。
 中学生にもなって何をしに中に入っていたのだろうか。青いジャングルジムがあって小さい頃はよくのぼって友達と持ち寄ったお菓子をたべた。
 溶けた容器をべこっと開けておこわのように炊いてあるトリ五目を箸でちぎる。二枚のたくあんをちまちまかじるのが良い。外で食べたのなんて久しぶりだ。屋上で昼ご飯を食べるなんてまた一つゆめがかなった。
 高いところで何かを食べるのは気分がいいらしい。
 ベンチの横には永山先生が引き取ってきた素焼きの植木鉢があった。中はまだ空だ。
 自科棟の入り口横にはいらないもの置き場があり、研究室の大掃除などでイスや棚が邪魔になるとそこに運ぶ。が、めぼしいものがあればそこから回収するのも自由だった。
 この植木鉢もベンチもそこから来た。新品を買っている木田の研究室とは対照的にうちにある机やイスはほとんどそこから持ってきたものだし何なら土屋のイスはあそこのお古だ。4年になって最初の週に調達してきた。
 永山研は金がないからというより、昔はなんでも直して使っていたという先生の感覚と、ほり出し物があったよと学生に言いに来る先生の嬉しそうな顔でこうなっていた。
 ペットボトルの水を飲む。日光が躍る水面に反射して光ごと体の中に入っていく。
 空気が動く音とそれが遠くの葉を飲み込む音がする。天日干しの布団みたいな香りもしていた。左手の時計を見る。そろそろ先生は来ているだろうか。シミュレーションがうまくいかないことについて聞きたいことがあった。ゼミの準備もしなければならない。土屋の次は私の担当だ。
 同じ手首につけている深い青と紫のビーズがつながったブレスレットは、太陽の光の下で見ると年季が目立った。
 頭を持たれて大きく空気を吸う。
 ああ、ずっとここにいたい


 「うちゅう? 何するのそれ? 星とか見んの?」
 久しぶりに会った友人の、半分笑った高めの声が耳に残る。日曜の夜の電車。大学に入ってから1年が経った頃の話。今日は試験のために大学の図書館にこもっていた。自分は割と危ないラインにいた。
 帰りの電車の中で偶然会った彼女は少し派手なメイクをしていて、髪は作り物の茶色で、でもやっぱり顔は中学の時に仲の良かったあのこなんだとすぐに分かった。
 良くも悪くもベースは変わらない。言い方は悪いが確かそんなに賢い高校にはいっていなかった気がする。
 耳につけた金色に白のパールが揺れる。私だったらネックレスのシルバーとあわせるなと思った。
 「先輩は天文台で星見て研究してる人もいるよ」
 少したんが絡んで喉を鳴らした。
 「私達はまだそれ用の物理とかの基礎をやってるだけ」
 言葉に枷がついているような感覚がする。
 彼女は珍しい物を見る目で、そういうの好きだったよねと言った。この少し上がった口角を久しぶりに見た。
 「理系だから男子ばっか?」
 「まあ女子は3割くらいかな」
 「そうなんだ、なんかみんなまじめそう」
 無意識のまじめそうはプラスの意味ではないだろう。物理も数学も無関係になって長いらしい。彼女はそういうのには興味はなかった。文系だからという話ではなく全般に興味がないのだろう。リュックに入った熱統計力学の教科書は居心地が悪そうだった。
 「そっちは?」
 彼女は専門学校にいっていて、将来のルートまで大方見通しがついたらしい。バイトもそれ関係だが面倒な客も多いからうざったいと話した。口は悪かった。
 「前からなりたいって言ってたっけ?」
 車内が音を立てて揺れる。つり革につかまった。日曜だが立っている人も多かった。
 「ぜんぜん、でもこれなら最近就職先いっぱいあるしさー早く稼いで家出たいから」
 あの同じジャージを着て家の弁当を食べていた中学生が親元を離れるんだな。
 「自立してるね」
 私は自分が就職しているところなんて想像もできない。それは大人達がするやつで遠くの方にあった。
 私はまだ大学受験の延長線上にいた。
 聞くと同じような理由で同じような進路にいく同級生は予想以上に多くいるらしい。
 そういえば学年で一番早く結婚して子供を産んだあの子は立派に母をしていると聞いた。
 「すごいね、私はまだ当分学生だよ」
 どこから湧いているのか後ろめたい気持ちもあった。
 「そういえばむかし宇宙のこと話してたの覚えてるよ。外側がなんたらってはなし、」
 減速していく音に次の駅のアナウンスが上から塗られる。
 「よく覚えてるね」
 よく覚えていた。
 ホームの景色が窓に流れ込んだ。
 「その宇宙ってとこさ、将来何があるの?」
 口を開こうとした時電車が停まった。ドアが開く。
 「あー私この駅」
 人の流れと一緒に外に出て行った彼女に手を振った。笑いながら言った言葉がべったりと胸についていた。
 少しすいたが座る場所はなかった。会話がなくなった車内が動きだす。
 息を吸って吐く。
 逃げ腰になってしまった、堂々とできるはずだったのに。
 今の私も、天文台に入ったときの感情も、こんなに立体的で鮮明な気持ちがぺらぺらな言葉になりそうでうまく口が開けなかった。
 正直、稼ぐために全然なところに行く人がいることにひるんでさえいた。生きるために働きだす同級生がいたこと自体が衝撃だった。彼女は勉強することが仕事の時期を自ら抜けていったんだ。
 興味があることを勉強するために勉強して、高校に入って、勉強して勉強できるように大学に入った、入れた、やっとここまで来た。苦でないわけではないが楽しかった。最近はそんな連中が当たり前に周りにいた。
 語弊はあるかもしれないが、それができる人が偉い世界にいたのに、遠目で見るとどこからかいつからか逆転する視点に気が付いた。
 自立の点で見ると彼女は私よりずっと偉いのかもしれない。
 興味の先を考えずにのうのうと生きているのは甘いのだろうか。
 次の駅のアナウンスが流れる。頭を垂れて目を閉じていた人がのそっと動いて元に戻る。私の駅もまだ先だ。
 背筋を伸ばす。いや、私だって十分立派なはずだ。十分偉い。去年あれだけ必死で、血反吐吐くぐらい勉強してここまで来たじゃないか。親孝行とも言われた。比較的安上がりな良い娘だ。
 のまれていた気持ちを洗い流すと立っていることはさほど苦ではなかった。
 研究室に配属されて、院に行けば進む道が見えるだろうと思っている。リュックの中の本達がそこまでの足掛かりだ。土屋や、あの賢そうで実際賢い木田くんに差をつけられている場合ではない。
 電車が揺れてつり革を持ち直す。手首のビーズがするすると下がった。

 高校の時もよく外が暗い電車に乗っていた。
 進学校をうたったうちの高校は朝には朝礼前に補修があり、夜は受験生のために教室が解放されていた。高校3年生の頃の話、片手はつり革、もう一方で角が削れた物理の参考書を開いていた。
 電車は毎朝毎晩よく見たような顔触れ。どこで何をしているのか知らない人たち。もし仕方がなくここにいるとしたらみんな何のために生きているんだろうか、よくそんなことを思う。馬鹿にしているわけではなく、疑問だった。
 夢ばっか見ていられない、好きなことを仕事にできるのはほんの一握り、そんな言葉はよく聞いた。私はきっと耐えられない。生きるために働くなんてくそくらえだ。
 並んだ革靴とパンプス。踏み出す足取りは軽いんだろうか。はたから見たら夢ばっかり見ているような小娘の自分には想像もできない。
 うちはありがたいことにお金に困っている家庭ではなかった。決して金持ちというわけではないが大学に行くことは当たり前に選択肢にできた。
 私が女だから特に言うこともないだけかもしれないが、娘に理解があるというのもこの上なく恵まれていると思う。
 父は昔からずっと忙しく仕事をしているような人で、長い間厳しい世界で生きてきたからか現実主義者だった。きっと夢見る小娘の話なんて鼻で笑われるだろう。
 しかしもし、もしというより多分、大切な人のために我慢して生きているとしたら、その金で自分の道に進む私は恩知らずだろうか。感謝していても足りないだろうか。何をすれば足りることになるだろうか。くそくらえと思っていることは許されるだろうか。
 車体がひずむような音をさせる。つり革が、乗客が、みかけの力でひとりでに傾く。車内だけを見ていると気づかないが今電車が曲がっている。ちょうど開いていたページの図と同じだった。私は運動する電車の中の観測者B。小さく笑った。
 昔から思考実験が好きだった。が、それを話す相手はいなかった。
 理屈っぽいねと笑われたことがあった。理屈でできた世界を説明するのに理屈っぽくてはいけないのか。理屈っぽいと言われてしまうことが、みんながこのことに興味を持たないことを表していた。
 窓の向こうの夜が藍色のブレザーを映す。
 私は生きている理由が知りたかった。その疑問に負の要素はなく、純粋になぜなのかが知りたかった。
 中学の頃、家が学区のはずれにあったため行きも帰りも最初から最後まで必然的に1人だった。
 ずっと自分の中でぐるぐるぐるぐる考えを巡らせながら帰るのが好きだった。
 昔見た図鑑に書いてあった。この宇宙は何もないところから生まれたらしい。世界はどういう構造をしているんだろうか。外側にはなにがあるんだろう。きっと宇宙を離れて見ることで何かしらの答えは存在しているはずだ。私が生きている理由は元をたどればそこに行きつく。果てはどこにあるんだろうか。
 通学路の途中にある公園はそんなに人気がなくて大体誰もいなかった。見晴らしはいいが青いジャングルジムとシーソーとベンチしかない。ブランコもない公園なんてそこぐらいしか知らない。いつもベンチにちょっとだけ座ってから家に帰っていた。
 私はあの帰り道から、探すことを理由に生きていた。理由があるだけで私の道は安定で確実的なものになった。理由がない物なんて信じられない。
 いつも考えている時は、鼓動が大きくなるような浮遊感の中にいた。
 この世界で自分だけが、世界の核心に迫っている気持ちになった。それがものの例えだとしても、とりあえずこの学区ではたった1人だけのように感じる。
 似たもの同士は集まるらしい。住むところで集められた今はきっと頑張り時だ。ジャージの私は思っていた。
 自分に合ったところに、あの大学に行きたい。
 高校の帰りに寄った雑貨屋で、目を引いたブレスレットがあった。宇宙を閉じ込めたような色、私だけに意味を持っていた。
 ブレスレットをつけていいような校風ではなかったため、学校にいる間は筆箱の中に入れておいた。窓際の席、机の隅のビーズは綺麗に反射して、その光はちらちらと胸を焦がしていた。
 これが分かったらとりあえず私の人生終わっても悔いはないかもしれないとふと思った。
 そんな風に思えることを手に入れたことが誇りだ。
 夜の電車の窓ははっきりと自分の存在を映していた。


 空はうっすらと眩しさを落としていた。帰宅ラッシュ前の電車で、穏やかに釣り広告が揺れるのを座って見ていた。
 ぱたりと倒れた黒くて四角い鞄を引き寄せる。中の小瓶に入った頭痛薬がからっとなる音がした。よく頭が痛くなるので持ち歩いている。
 私の物語は就活生まで進んでしまっていた。
 鞄の中には企業説明会で渡されたやたらつやつやとしたパンフレットが入っている。
 今日行ったのは大きなホールに何社も来ているような合同説明会で、父の会社の名前もあった。そこを受けるつもりは全くないがなんとなく覗いてみようと近づくと、長い列で視界に入れることもできなかった。家に帰ってから父に言えばきっと自慢げだろう。
 一向に着慣れないシャツの首元のボタンをはずすとだいぶ息がしやすかった。
 社会は甘いもんじゃないぞ、口癖のようなその言葉をからかうように言われるだろう。
 世の中は所詮金。そんなことはとうの昔に知っている。
 しかしお金はどうでもよかった。どうでもいいは言い過ぎだがやりたいことをするのが最優先事項だ。そんなことを言ったらまた無駄に甘いもんじゃないぞと言われてしまうからわざわざ言わない。だいたいやりたくないことが人生の真ん中に来る道の方がよっぽど甘くないと思う。
 ぺたんこのソファーで姿勢を崩す。
 私はまだ完全に子供だった。多分大人はこちら、子供はそちらに分かれてくださいと言われればそちらにのこのこと歩いて行ってしまうだろう。
 説明会では「理系」と書かれたうそみたいな札が配られ、首から下げていた。しかしそれを下げたところで院ぐらい出ていないと理系としては使い物にならない。BHの研究を助けられながらしている似非理系ではどうしようもない。
 世界が分断されていた。私が好きな今までをほぼほぼ全部置いて向こうに行くなんて、なんて心細い世界なんだろう。立っていること自体が苦なんて感覚を遅ればせながら知った。
 今日はこのまま帰っても誰にも責められないが研究室でゼミの準備がしたい。大学の最寄りの駅までは何も考えずに相対的に揺れる隣の車両でも見ていようと決めた。
 きしむエレベーターで鏡に映った自分を見る。我ながら似合わない髪型だ。みんな同じ髪型なことに文句はないが、みんなあらだけ見えている気がした。
 束ねた髪をほどき、せめて筆箱に入れていたブレスレットを付ける。ビーズを繋いだ紐もだいぶ古くなってほつれてきていた。何年か前に一度繋ぎなおしたがまた直さないといけない。
 ドアが開いた時、私が住んでる世界のにおいがした。夕方の一層くすんだ廊下にパンプスのコツコツとした音がなる。
 自科棟は中心に中庭のような空間があり向かいの廊下が見える。この前木田が日野研でない部屋に入っていくのが見えたのを思い出した。最近知らないあたりを行動しているのを見かけるが卒論で何かやっているのだろう。研究室が違うと何をしているかは分からない。みんながみんな忙しくしている。日野研は電気がついていた。
 進んだ先も電気がついている。話し声が聞こえていた。クジラにワニを寄せる。
 「お疲れさまです」
 そう言うと、壁の大きなホワイトボードに何やら書きながら説明していた永山先生とおびただしい計算がしてある裏紙を持った土屋がこちらを向いた。土屋の顔は覇気がないし先生のひげは伸びたままだった。
 「なに戸川さんいつもと雰囲気違うね。似合ってるよ」
 リクルートスーツを着た私に嬉しそうな顔でそう言った。
 「企業説明会に行ってきたんですよ」
 複雑な気持ちもあったがそう言ってもらえるのはやはり誇らしくもあった。ゼミの新歓の時にはまだ君たちのことは何も知らないし今のところ興味もない、そう言っていた。
 私達が娘さんと年が近いのもあるのだろう。先生の部屋には、ピアノの発表会できれいなドレスを着た娘さんの写真があるのを知っている。
 2人をしり目に脱いだスーツを背もたれに掛けて、体温が移ったパンプスを転がした。詰まっていたストッキングの先を引っ張るとつま先がようやく息をした。スリッパに足を入れて、PCのスイッチを押す。立ち上がるまでに多肉たちの水を換えた。先日落ちた葉を先生にあげた。屋上の植木鉢で育ててみるらしい。
 相対論の話が聞こえる。一般の方だ。私も聞く必要がありそうな内容だが今聞いている暇はなかった。
 永山先生の部屋に質問に行くと何時間か出られないことは学科内では有名だった。その上先生の部屋は物が多いせいか冷房も暖房もいまいち利きが悪い。
 それもあってか先生はよく学生部屋にひょっこり来て、ソファーでお菓子を手にとってはかじり、こちらが論文の和訳や計算をするのも気にせず長いこと世田話をすることがあった。「いやいや邪魔をしちゃいけなかったね、僕も現実逃避をしている場合じゃない」と言っていそいそと自分の研究をしに戻っていく頃には日が暮れている。
 この前は7時にひょっこり覗きに来て、「これは遅くまで1人で頑張っているね」とか言いながら3時間も2人で生き物の進化について語り合ってしまった。それはそれで遅くまでいた甲斐があった。
 今日はそういうわけにはいかない、土屋が質問をしている間にゼミの資料作りを進めなければ。ホワイトボードに書いてある計算量からしてかなり長い間話しているのだろう。
 先生が学生部屋に来る時間は質問し放題の時間でもある。先生の部屋に行くと切り上げにくくなるので、うまくいけばよっぽど時間が有効に使える場合もある。フィーバータイムだ。
 永山研だけのゼミも、木田のとこの研究室と一緒にやる合同ゼミも昼から始まる。学生の発表形式で進むが永山先生の指摘は多く細かく長く、悪く言えばねちっこく、夜まで続くのは当たり前だった。その険しさが永山研究室の人気をなくす大きな理由だ。
 しかし、自他ともに説教とくくられるそれは指摘であり議論であり、怒りの感情が乗っているのは一度も見たことがない。怒りっぽい性格を苦手とする私が永山先生を慕う所以の一つでもある。
 資料がやっと1枚出来上がったところでノックの音が3回響いた。いつもの微笑みを浮かべた木田が顔をだす。
 「みなさん今からコーヒー入れるんですけど飲みます?」
 木田の登場で今日の資料作りがこれ以上進まないことは確定してしまった。上書き保存を押す。こいつはほんとに用もないのにここに来る。
 「気が利くねえ、部屋にハワイのチョコレートがあったから持ってくるよ」
 そう言って先生が席を立ち、土屋が息をついた。
 木田は研究室にコーヒーミルを持ち込み豆から挽いては人にふるまっていた。自分の作業はいつしているのかと不思議になるぐらい人にちょっかいをかけに来る。よく言えば人懐っこい世話焼き悪く言えば迷惑なときもあった。
 しかしこなしている作業量も知識量も明らかに学科で1番であり、そんな典型的に真面目な優等生を尊敬している。
 「あのひとらは暇なのかしら」
 閉まった扉を見ながら多分数時間ぶりに腰を下ろした土屋が言った。革のソファーに溶けている。
 「いや木田だって昨日観測結果がどうたらって言ってたし、先生も泊まった感じじゃない?」
 「私はもうちょっと今日は頭働かない」
 土屋がこっそり回していた携帯の録音を止めながら言った。リテラシー的に隠し撮りはどうかとも思うが録音できなくなると困るので先生には言わない。頭のメモリーだけではもたない。
 「何時間?」
 「いやそんな長くないよ、1時間46分」
 「映画じゃん」
 ほくほくとした顔でチョコレートの箱を持ってきた先生と満足げにみんなのカップにコーヒーを注いでくれる木田もいつも各々適当なイスに座っていた。溶けてる土屋の近くに先生も腰掛ける。
 「戸川は就活だったの?」
 マグカップを差し出しながら木田が言う。いつもぴんと背を伸ばした彼は私と話すときは少しだけかがんだ姿勢になる。
 「ありがとう。そう、説明会」
 「どう?」
 「微妙」
 「そっか」
 そう言ってチョコを一つ取ってくれた。ありがとう。
 先日先生がハワイの天文台に観測で出張したときのチョコレートは中にナッツが入っていた。
 「ハワイどうでしたか?」
 木田が私の向かいに座りながら言う。
 「観測もちゃんとできて良かったんだけどね。倒れちゃったよ。あそこ空気薄いでしょ? うろちょろしてたらさ」
 すごくはしゃいでいる先生が想像できる。天文台があるマウナケアの山頂はだいたい標高4200m、富士山より高く空気も薄い。
 「ほらだからこれ見てよ」
 先生が土屋にスマホの写真を見せると土屋が大きく笑った。
 「楽しそうですね」
 鼻にチューブをしながら作業する先生の写真は生き生きとしていた。
 永山先生は普段もハワイでもこんな感じだが研究者だった。
 コーヒーに多めの砂糖を入れて飲む。味の違いは分かりかねるがきっと美味しいものなのだろう。チョコレートは安定の海外の甘さがした。
 「そうだ戸川さん、チキンラーメンまた持ってかれちゃったよ」
 「また持って行ったんですか」
 税関に没収されたらしい。海外に行くときカップ麺をいくつか持っていくが前回もそれだけ没収されて不服だと出張前に話していた。
 「よくチャレンジしますね」
 「昔は持って行けたと思うんだけどねえ、思い違いかな」
 チキンは入っていないと説明したが、これはなんて書いてあるんだとチキンラーメンを指された故に反論むなしく没収されたと言っていた。反論できるぐらいには英語が話せるんだなと思ったがそれは言わなかった。
 以前先生は、僕は英語を話せないと言っていた。そうといっても私達とは天と地の差で、ネイティブではないということだろう。
 話せないでどうやって海外で学会をしているのかと聞けば、研究内容が面白いから向こうも聞いてくれるんだという。
 「そういえば私達インターステラー観ましたよ」
 土屋が言うインターステラーとはBHが出てくるSF映画だ。監修を理論物理学者がしていてその人の本はゼミでも使っている。前回のゼミで、先生が映画の中に登場するBHの画像を例えに出して勧めていた。
 「わあ早いね、相対論分かってるから面白かったでしょ」
 「相対論に殴りころされる感じがしましたよ」
 チョコレートに手を伸ばしながら木田が言う。
 「あれ、木田君も観たの?」
 「観たもなにもこの人がここで観たんですもん」
 先日私と土屋がここで勉強する中、木田がうちのプロジェクターでホワイトボードに投影してわざわざここで見始めた。私達の邪魔にならないようにとか言って字幕で観たせいで結局気になって最後まで目を離せず観ることになってしまった。しかし観てよかった。私の好きな映画ランキング1位に躍り出た。
 「せっかくならあっちの部屋で観ればよかったのに」
 あっちの部屋、ゴミヤを指す。あそこでは大スクリーンでDVDも観られる。たまにゼミの後にだらっとした姿勢で酒片手に映画を観ている男連中がいるがタフだなと思う。この前覗いた時はかわいいディズニー映画を観ていた。
 「月面観測の待合室になってたときだったんですよ」
 木田が言うとおりあの日はわいわいと廊下を通る声が聞こえていた。
 私達も2年の時にやった月面観測。屋上に口径8cmの望遠鏡を何台か並べてクレーターのスケッチをし、望遠鏡自体や月についてまとめたレポートを書く。その日は屋上への階段の近くにあるゴミヤが学生たちの荷物置き場になっていた。今の時期は他学科の学生がやっているはずだ。
 ああ、あの時ね、と先生があきれ顔をする。
 「もう彼らは何のために来てるんだって学生ばっかりで大変だよ」
 苦言をもらしながらチョコをぽいっと食べた。
 話し声を聞いて、先生と一番相性が悪いタイプで大丈夫かなとも思っていた、お互いに。
 「単位を取って卒業することしか考えてないんだよ。つまらない。楽しんでないからね」
 理解しかねるという顔でコーヒーをすする。
 「その点君たちは楽しいでしょ? ゼミでもなんでも何時間も議論してるけど」
 そう言って無邪気な顔でこちらを見た。
 「そうですね、とても余裕こいては言えないですけど」
 きっとゼミのメンバーは同じ気持ちだろう。あんなに何時間も指摘されて堂々と言う余裕はないかもしれないが多かれ少なかれ楽しさは感じている。
 「いや、みんな成長してきてると思うよ。ゼミでも研究でも見当違いな方向に進んでいったら僕も軌道修正するけど、最近は勝手にゴールするでしょ」
 嬉しそうに誇らしげに言ってもらえた。
 「でも毎年面白くなってきたところで卒業なんだよね、これからがいいとこなのに」
 感情の温度が高い言葉だった。
 学士でできることはたかが知れている。どこまでいけるか今の時点では分からなかった。先生はああ言うけれど、私たちは導いてもらわないとなかなか進めない。カモの赤ちゃんぐらいの力しかない。手厚い先生もたまにはいるが永山先生は放任主義のため必死について教えを請わないと簡単に置いて行かれてしまう。
 そんな先生はしばらく話すとテストを作らなければいけないんだったと言って、今回はあっさり去って行った。
 作るのは制限時間内に終わらないような長いテストだろう。きっと大勢の学生が間に合わなかったと嘆く。そしてルーズに遅れて登場し試験時間が短くなるのを恨むだろう。
 「今日観測できるかな」
 外を見ながら木田が言った。だんだん夕焼けに近づいているが雲が多い。
 木田は去年長野の天文台に何日間か1人で研修に行っていた。レベルも含めとても私にはできない。彼も土屋と同じで落ちてここに来ていた。今年の院試でどこを受けるかは聞いていないがここではないことはなんとなく知っていた。
 「夜は晴れるって言ってたよ」
 「寝袋貸そうか?」
 卒業生が残した寝袋がいくつかあった。怪しいので私は使わないがたまに帰宅難民に貸すことがある。
 「自前の買ったからいい」
 「いいな」
 「コーヒーありがとね」
 「まいど」 
 コーヒーセットを両手に持ち、チョコレートをもぐもぐさせた木田を土屋と見送った。
 「さて、やるか」
 「私も」
 窓際向かい合わせの席でお互いカタカタとPCをたたいた。土屋もここの院には進まない。本来行きたかった大学の研究室を受けるらしい。その大学でも永山先生は客員教授をしているため十分関わりはあるだろう。きっと論文では永山先生と名前が並ぶのだろう。将来的には国立天文台で働きたいと耳にしたことがあった。
 土屋は出会った頃からリュックにキーホルダーを付けていた。土星のような環が付いた星のキーホルダー。傷だらけのそれが今の新しいリュックにしっかり付け替えられているのを見て、何か思い出のあるものなのだろうと勝手に思っている。
 ここは彼らにとってはちょっとしたロスタイムなのかもしれない。いやロスタイムをロスにしないためにできることをやっているんだろう。
 土屋のキーホルダーはまだ輝いているのだろうか。私の手首のビーズはくすんでから時間がたっていた。
 どうしてそうなってしまったのかわからなかった。何か劇的なことがあったわけではなかった。焦がれてから10年ぐらいがたった、今更飽きたなんて理由で終わることがあるんだろうか。雲の中でゆっくり鼻先が傾いた飛行機みたいに、緩やかに。
 「モノリス触ったら解けるかなこれ」
 画面から目を離さないままの土屋からぼそっとこぼれた。
 「解けるけど触らない方がいい」
 私は調べていた関連文献が英語しかないことがわかって、背をもたれた。これは明日翻訳しだそう。卒論の方で使っている本を開く。
 計算のメモに使っている裏紙はファイルを厚くし、はみ出たほとんどの端が折れていた。
 「私も卒論できたらさ、ユリイカ!って言ってこの紙投げるわ」
 死ぬまでに一度はユリイカって言ってみたい。
 土屋がイヤホンをはずしながらふふっと笑う。
 「私はエウレーカ派かな」
 「長いじゃないの」
 「拾うのは手伝うよ」
 土屋の淡々とした口調は話していて心地が良かった。
 「そういえばさ、前永山先生が多宇宙の話してたじゃん」
 土屋が計算したまま笑った声で言う。
 「あーマルチバース?」
 多宇宙、マルチバース、私たちの宇宙は無限にある宇宙の中の1つで、宇宙の数は無限にあるという説がある。故に考えうるすべてのことはどこかしらの宇宙で起こっていることになる。
 「バイトでさ、いろいろあったとき、別の宇宙ではこの人に肘食らわせてる自分がいるんだなと思うと、肘食らわせた気になれるんだよね」
 「なにそのライフハック」
 冷静な土屋がそう思うなんてよっぽどだ。バイト先の人と反りが合わないと度々言っていた。
 「でも逆に殴られてる土屋もいる」
 「考えないようにしてるそれは」
 「まあ干渉、観測できないものは無いものと同じってやつだね」
 「そう、都合良く」
 私も都合が悪い方は考えないようにする。
 「あとさこれやりすぎると、自分を遠目で見すぎてわたしってなんだっけってなる副作用がある」
 土屋が伸びをしながら言った。イスからききと音がする。
 「ふふ、わかるよ、宇宙で迷子になるよね」
 宇宙で迷子というと思い出すものがある。
 「私が最初のゼミでやった論文紹介覚えてる?」
 一番最初のゼミのお題は論文紹介だった。興味を持った論文を探してそれを紹介する。研究内容を理解していないとその後の質問攻めでいやな汗をかくことになる。
 「次元関係だったよね、4次元BHの」
 「そう。多次元宇宙のやつ」
 大まかに言うと私達がいる3次元の宇宙は、4次元の宇宙にあるBHを包むように存在しているかもしれないという論文だった。
 「あれもさ、自分がどこにいるかわからなくなったよ、次元の中で迷子」
 思考と理解を超えた事象とその一部は確かに存在しているという事実、それを考えてから自分の手のひらに目をやると存在さえも理解できなくなる。
 「私さ、宇宙の果てについて知りたかったからあれ選んだんだよね、でも4年間勉強して私がほしかったような果てなんてないって理解できるようになった」
 残っていたコーヒーを口に含む。ざらっとした砂糖が甘かった。
 「わかるよ、無限と無が許容範囲に入ったよね」
 机の上の論文を眺めながら土屋が言った。
 「私もさ昔よく、宇宙の果てってどうなってると思う?外はどうなってるの?無って何だと思う?みたいなことお母さんに聞いて、多分鬱陶しいくらい聞いて、暇じゃないからって言われて、泣いてたよ」
 土屋はそう言うと、今思うと申し訳ないけどねと笑った。
 「でもさ、みんな自分が生きてる場所のことなのに、気がくるってるんじゃないかと思ったよ」
 土屋の耳でピアスが揺れた。小さな土屋はいなかった。
 どうして何も考えずに、考えることにすら気が付かずに過ごしているんだろう。私もよくそう思った。
 ここに来ても答えにはたどり着けなかった。でも、無限も無も、未知のものだったがそういうものだと思えるようになってしまった。あの時の私には分からないだろう。
 「私さ、BHも果てかなって永山先生の授業聞いて思ったんだ」
 「どういうこと?」
 土屋も残っていたコーヒーを飲む。私は目の前の紙を1枚とった。
 「この世界を2次元の、1枚の紙に例えたらさ、果てってその端なわけでしょ」
 「うん」
 「BHはその紙に空いた穴みたいなものだとしたらそこも端かなって」
 「一番近い無限だもんね、一番近い果てかもね」
 「私たち、果てに迫ってるかもね」
 それを聞いた土屋がふふっと笑う。
 「世界の核心に近づいてるよ。私たち良いテーマを選んだ」
 触れることはできなかったけどいくらかは近づけた。机の上には高校の時使っていた物理の参考書が置いてある。背表紙は擦り切れて読めなくなっていた。
 「すごい色だね」
 土屋が窓の外を見て言う。
 先に進む木田と土屋に対して、私は実質ここが終着点だった。この卒論はせめて参加賞にはしたい。
 「私、こういう話できて楽しいわ」
 一番内側から出た声だった。
 ピンクと紫が混ざった空を一生忘れないだろう。


 履歴書を書いていた。土屋はバイトでいない。午前中は2人で屋上に行き、明日3年生が太陽の黒点観測の授業で使う望遠鏡を準備していた。
 黒点観測は屋上の8cmの方の望遠鏡を使う。その先を太陽に向けると普段覗いている側のレンズ、接眼レンズから光が出て太陽の姿を映し出す。専用の部品を付ければそれを紙に映し、太陽に黒点があれば鉛筆でなぞることができる。
 太陽も回っているので黒点は動く、それをうまく写し取るのだ。
 しかし雲なく晴れてないとぼやけてしまい小さな黒点は見えないし、地球も回っているのですぐにずれていく。1人が常に望遠鏡の向きを調整しながら、もう1人が黒点を素早くなぞる、しかしあまり力が入ると望遠鏡の向きがずれたりピントがずれたりする。そして何より黒点自体が出ていない時がある。
 黒点が出ていてその上晴れていて、そもそも器用じゃないとレポートは提出できない。
 NASAのサイトでリアルタイムの黒点は見ることができた。今日も出ていない。かわいそうに。この画像を使えばいいじゃないかというところだがそういう授業ではないのだ。
 彼女はそれの部品を取り付ける準備だけして帰っていった。下宿生は身軽だ。電気をつけていないままの研究室には静かに横日がさしていた。
 冷蔵庫からカルピスの原液と冷えた水を出してビーカーに注ぐ。普段ビーカーなんて使わない物理系が理系気取りでこんなことをして、化学系に見つかったら結構恥ずかしいだろう。それでもメモリがついているから希釈しやすく気に入っていた。
 新しく買ったセラミックが付いた金網の上に置く。本来三脚の上にのせて加熱する時に使うものだがここではコースターだ。うん、おいしい。
 面接のときに必要な履歴書は、お目にかかるのは3回目だ。今日中に大学のポストに入れてしまいたい。
 証明写真も持ってきていた。写真館でもらった封筒を開くとばらばらと入っている。同じ顔が20枚弱、絶対こんなにいらない。が、もし足りなくなって取り直しになったら結局高くつくため20で買うしかなかった。でも絶対こんなにいらない。
 まんまと向こうというか市場の戦略にのっている気がするが知り合いに聞いたところこれが当たり前らしい。なんなんだ。
 いきなり清書して間違えないようにシャーペンで下書きをする。こすったら消えてしまいそうな細い文章が連なっていく。
 2進法時計がおだやかな時間を刻んでいる。
 10進法の世界にいる私達に指が10本あるのは偶然だろうか。8本の人類なら8進法だったのだろうか。
 よそ事を考えながらも軌道に乗ってきたところで、ぱたぱたという足音がした。ノックの音とほぼ同時に扉が開く。
 「なんだ、今日はもう誰もいないのかなと思って一応覗いてみたら。電気つけないの?」
 そう言って永山先生が扉の横のスイッチを押した。部屋が明るくなって外が思いのほか暗くなってきていることに気付いた。先生は何やら書類を抱えていた。写真をしまう。
 「そこまで行くのめんどくさくて。先生は授業終わりですか?」
 「そうこの前話してた3年のテストだったんだけどね、みた感じやっぱり全然だめだよ」
 下の学年にまた苦言を漏らしているがそもそも彼らに差ほど興味もないのだろう。きっと今年も沢山落ちる。私たちの代はデリカシーもなく掲示板に評価が張り出されていて笑ってしまった。
 「なにそれ、なかなかいいね」
 興味津々の先生に金網を見せる。
 「やっぱりちょうどいいですよ。ビーカーにはこれですね」
 先生はいつも戸川さんは面白いことをすると楽しそうに言ってくれた。
 「黒点観測の準備ありがとうね。そういえば先週屋上でコイルとか使ったの、もしかして戸川さん?」
 「あっ私です、何かありましたか、」
 確かに物理実験の準備室からコイルやらイヤホンやらを借りた。ちゃんと返したつもりだったが何かやらかしただろうか。私は電磁気が苦手なんだ、タブーをしてしまっただろうかと思った。
 「いやいや、ああいうことするのは戸川さんだと思ったんだよ」
 そういって笑いながら荷物を机に乗せてお菓子の袋を開けた。
 「準備室の机にあったコイルが1つ足りないなと思って、たまたまいた先生に聞いたらね、宇宙の子がいろいろ借りていきましたよって。今年の卒論のテーマで使いそうな学生もいないから戸川さんだなと思ったんだよね」
 そう言ってほくほくとクッキーを口にした。確かにそれは私だ。ほっとした。
 「ラジオやったの? 聞こえた?」
 「聞けましたよ。実験班のメンバーに手伝ってもらって」
 屋上でラジオを作った。電磁気学演習でコイルとコンデンサを使った実験をしている時先生がこれでラジオができると言っていた。
 あほほどデータを取った後で疲れていたがここでやらないと一生機会はないかもしれないと思い何週か続いた実験の最後の日にそれらを借りた。電磁気学が苦手な私は今を逃すとラジオにたどり着く気力はないだろう。
 小さなダイオードと抵抗と、筒に巻いただけのコイルと、金属版2枚に紙をはさんだだけのコンデンサ、これらを長い導線に繋げば電源がなくともイヤホンからラジオが聞こえる。
 この授業は学籍番号で分けられた5人組の実験班で実験、発表、レポートと苦楽を共にする。私が言いだしたことにのってきてくれた。
 屋上の広いスペースにのばした導線がアンテナになって、金属版を重ねたコンデンサを少しずつずらすと選局することができる。かわりばんこに微かなラジオ体操の音を聞いたあの場には大人はいなかった。
 「僕も学生の時やったんだよ同じこと、あれは最初に聞いた時感動するよね」
 「私もです。いい体験ができました」
 若い先生が嬉々としてやっている様子は容易に想像ができる。この前のことはきっと先生の歳になっても覚えていられる。
 「戸川さんのそういうところが僕はすごく好きだよ。経験に貪欲でさ、なんでも楽しもうとするでしょ? そういう人は面白いよ」
 先生は思ったことを何にも包まずに言う。その言葉たちを大切にしまっていた。
 先生がクッキーの袋を小さく畳みながら机の上に目を移した。
 「履歴書? うまくいってる?」
 なんとなく隠していたが見つかってしまった。なんとなく違う道を進んでいくのを見せられなかった。その上特にうまくもいっていない。
 「ぜんぜんですよ。選びすぎてるのはあると思うんですけど」
 周りを見ると手あたり次第気になったところにエントリーして沢山企業に近づいて、最終選考まで進んでいく人もいた。
 「多分普通はいくつも内定を取りに行くものなんですよね。でも気になった程度の道を確保する気力がなくて」
 そこで働く覚悟がないのに受けられなかった。これが甘いというやつなんだろうか。
 かろうじて働いている自分を想像した数社もこちらの気持ちが透けて見えるのか、うまくいかなかった。
 好きなことをしている教授たちは化け物だ。
 「院に進めばいいのに、」
 当たり前のように言った本心であろうその言葉は胸の奥の方に届いていた。
 「私じゃ学力が足りないですよ」
 「いや、戸川さんなら大丈夫だと思うよ僕は」
 そう言うと畳んだ袋をぽいっとごみ箱に投げ入れ時計を見た。
 「もう0110だね。話しすぎた、会議があるんだったよ」
 スリッパの音が聞こえなくなった後も言葉はしばらく身に余っていた。多分また遅刻していくのだろう。
 正直、すごく、がつくほど嬉しかった。
 手首をにぎる。随分前から進む人とは気持ちの大きさが違うことを感じている。ここにいたいが半端な私に留まる方法はなかった。
 小瓶に入った頭痛薬は毎日減っていく。残りをカルピスで流し込んだ。水以外で飲んでいいかは知らないが胃に入ったら同じだろう。大体今更水で飲んだところですでに胃の中のカルピスは影響しないのだろうか。残りの粒が小瓶の中でからりとなった。また買いに行かないといけない。この前はレジがたまたま木田だった。バイトもたくさん入っているようだがどうやって時間を作っているんだろうか。
 そうこう考えているうちに履歴書の下書きが出来て一息ついた。筆箱の中を探る。いつも清書に使っているボールペンがない。
 ああ、屋上かもしれない。望遠鏡を一度外で組み立ててみたときにズボンのポッケに入れた記憶があった。落としそうと思ったからなおさら覚えている。
 窓の外を見ると日が陰り始めていた。仕方がなく重い腰を上げて手を当てる。体を反るとぽきぽきと音がなった。
 中央階段の吹き抜けの天井には大きな、頑丈そうなフックがついていた。昔はここから下まで届く長い振り子を付けてフーコーの振り子の実験をしていたらしい。
 振り子はそのままで地球が自転するため、だんだん振動面がずれだす。私達から見ると振り子の振動面が勝手に動いているように見える。
 私も自転を感じてみたい。土屋に提案すればのり気だろう。きっと永山先生も協力的だろうし木田も呼ばなくてもついてくる。
 屋上のドアを開けると相変わらずの風が吹いていた。
 どこに落としたんだろうか。この風だと転がってしまっているかもしれない。昼に望遠鏡を置いたあたりに行く。
 塀沿いの植木鉢には多肉がしっかり伸びている。外で育っているだけあって研究室で伸びている葉より生きる気力が強そうだ。
 ないな。そう思ってベンチの下を覗くと、奥の方で見慣れたボールペンがじっと待っていた。膝をついて拾って、同じポッケに今度は忘れないように入れる。思い通りに見つかってよかった。横を見るとトーンを落とした町が広がっていた。
 塀に両肘をついて体重を預ける。今はまだ薄く暗い色をかぶっているだけだが、ここからの夜の景色も好きだった。夜景と言えるほどではないが地面と空の境目までに細かい光が散って見える。
 2回目に永山先生に会った時のこともよく覚えている。教授も含めての新歓で同じテーブルになってしまった。やはりあの人は宇宙の人だったのかと少し警戒をした。
 お酒が好きなようで先輩がたくさん用意していた。しかし昔の小うるさいおじさんかと思えば酒を注ぎますと言った学生には遠慮して瓶を離さず、結局先生が全部飲み物を注いでくれたのがその時は意外だった。
 しかししかし、その後は大方小うるさいおじさんだっただろう。
 永山先生は1人ずつ君の目標はなんだと絡んでいた。学生が恥ずかしがると野望の一つも言えなくてどうするんだ、何のためにここに入ってきたんだと問い詰め、回りくどいと、君と初対面なんだ興味を持たせるようにプレゼンしなくてどうするんだと辛辣だった。
 君たちは何のために生きているんだ? 酔っ払いの、今思えば酔っていなくてもしていただろう説教に私は掴まれてしまった。
 「宇宙の果てが知りたくてここに来ました」
 私は、知るために生きていた。
 「おっいいテーマじゃない。それじゃあいろんな分野が必要だね。例えば探査領域の話なら……
 1人でしていた空想が形を持って転がった瞬間だった。あれほど心が躍ったことはなかった。
 太陽はだいぶ遠くにいて、まだ明るい中でも光る星が見えていた。
 最近、自分が自分だったことを忘れる。鏡に映った顔を見て自分に引き戻される。
 今まで目標がなかったことがなかった。自分の位置が、進む方向が分からなくなったことなんてなかった。世界はこんなに不安定なものでできていた。
 学士では理系としては使い物にならないのは知っているくせに、何も持っていないのに何も活かさないで生きていく姿は見えなかった。
 世の中だいたい、あのそれぞれの窓でまっとうに、普通に生きて暮らしているんだろう。
 自分は社会不適合者だったのかもしれない。目に映る世界が変わったようだった。
 履歴書に貼る自分の顔は存在がふわふわとしていて、生きている自分には見えなかった。
 ビーズは光らなくなっている。手首のそれは町と同じ薄く暗い空気の中にいた。
 焦る期間ももがく期間もとうに過ぎていた。
 この毎日が楽しいのには変わりなかったが、摩耗して気が付かないくらいゆっくりと風化して、自分の中心に置いておけるぐらい強くはなくなってしまった。
 指をかける。少し強めに引っ張れば簡単にちぎれてしまえそうだ。
 こんな一時の感情で、後で死ぬほど後悔するだろうか。
 涙も出ないことがむなしかった。
 音もなく紐が途切れる。
 ばらばらになった粒たちは大きな風にのまれていった。


 今日も今日とて研究室にいた。壁際には整った後ろ髪とピンと伸びた背中が見える。今日も今日とて木田が来ていた。研究室のプリンターの調子が悪いそうで使いに来ている。
 合同ゼミで皆に配る結構な量を印刷しているようだが、先生があほほど買った紙が山積みになっているためうちは紙を大量に使われても何の痛手もない。紙を刷る音が続く中、私は履歴書やら計算用紙やらの整理をしていた。ここのところ忙しくてひっちゃかめっちゃかになっている。いいかげんにしようと紙を積み上げたときに木田が入って来た。
 「今日上で火星見るけど来る?」
 木田が重ねたプリントをホッチキスで止めながら振り返って言った。窓の外は少し暗くなってきていた。
 「観る」
 「おっけー」
 今日は火星が地球に最接近する日。今日と言わなくても最近はずっと赤い光が目立っている。火星は地球のひとつ外側を公転していて、だいたい2年ごとに地球に近づく。
 懐かしいな。そう思いながら小腹がすいて冷蔵庫を開けた。ゆで卵を出す。
 「そういえば永山先生が振り子あったけど金具がぼろで使えないって。明日午前に土屋とホームセンター行ってくる」
 広げたティッシュにこんこんバリバリと殻をむく。つるんとした白身、黄身の方が好きだ。後半に黄身が多く残るように半分かじる。
 「起きてたらついていこうかな。塩かけないの?」
 「これしおあじついてるから」
 いい塩梅の硬さと塩気。
 「ゆで卵ってさ食べるとひよこ1匹分のエネルギーで強くなる感じしない?」
 「戸川じゃこ食べる時もそんなようなこと言ってたよね。食べにくいよ」
 ひよこが宿った。たらこの時も言った気がする。
 「これさ、どうやってるんだろね塩味、半透膜あるよね」
 毎回思っていた。剥いた殻の内側には薄い膜がある。これがあれば塩水につけても水しか行き来しないと高校の時習った。卵に塩味もつかないはずだ。
 「確かに、んーなんだろ、」
 調べれば出てきそうなものだが毎回後回しにしている。悪い癖だ。今回もティッシュと一緒に包んでほうってしまった。
 机の上の企業パンフレットをそそくさと2つに分ける。いらないけど比較のために取っておくもの。働きたくはないけど比較的やりがいを見出せそうなとこ。
 人生を左右するような沢山の文字と数字。こめかみの奥の方が嫌な感じだ。頭痛薬は残り1回分しか入っていなかった。いいか悪いか調べていないがカルピスで流し込む。痛くなってからでは効きが悪い。
 空き瓶は帰りに出口のごみ捨て場に捨てよう。どうせ忘れるからポッケに入れた。
 今、選考が進んでいるところがあった。簡単に言えば教材を作っている会社。世界を子供と大人の物に分けたとき、やっぱり私は前者の世界からとても出られなかった。
 「前に最接近観たのさ、覚えてる?」
 背中に話しかけた。
 「覚えてるよ、2年の時でしょ」
 「そうそう木田が見せてくれたやつ」
 2年前、火星が一番近づいた日、私は木田と2人で観ていた。

 2年生というとまだ研究室や屋上に近づく機会は少なく自由に出入りはできなかった。また4年生や教授の住処という感じもして他人の家に近い入りづらさがあった。
 図書館でノートを閉じてから家に帰るときここ最近毎日見えていた赤く輝く星がせっかく接近しているなら、一目その姿を見たいと思った。
 火星自体は一般公開の時に見たことはあったがその時は赤っぽい点が大きくなっているだけだった。今日見ればもしかして模様なんかも見えてしまうんだろうか。しかし特にアポも取っておらず、先生がいれば、頼めばどうにかなるかもしれないという気持ちで見られるかも分からないのに5階に来ていた。
 そして案の定先生の部屋は暗かった。今日見ても明日見ても、まだ来週見ても大きな違いはないだろう。諦めようとした時、あらわれたのが木田だった。
 「戸川さん? 何してるの?」
 まだ木田、この時は木田くんとはそれほど話す間柄ではなく、火星をわざわざ見たがっているさまを見られて熱心なやつだなと思われるのもなんとなく恥ずかしかった。けどそのまま言うしかなかった。
 「今日火星が地球に近くなる日って知ってる? それであわよくば見たいなって先生のところに来たんだけどいないみたいでさ」
 それを聞いた木田くんはちょっと得意げな顔をして扉の前に置いてあるレポート回収用のポストに手を突っ込んだ。
 「今日永山先生出張らしいよ、でもこの前話したらここに入れとくよって」
 手に持っていたのは屋上の鍵だった。
 「奇遇だね」
 嬉しかった。その嬉しいの内訳は同じことを考えていた人がいたことも半分だった。
 その頃はまだ天文台に行っても大きな望遠鏡の操作はできなかったため、倉庫から普通の望遠鏡を2人で出した。普通のと言ってもちゃんとした望遠鏡なので木星の縞ぐらいまで十分見られる。がっしりとしたしっかり重みのある架台に、両手で慎重に持った鏡筒を取り付ける。ここら辺は授業で触ったことがあった。
 「模様まで見られるかな、私、点でしか見たことない」
 背中を丸めてレンズを覗きながら、あの赤い光にピントを合わせてくれている。木田くんがどうぞ、と席を譲ってこっちを見た。
 「ありがと」
 レンズに触れてしまわないように目を近づける。枠の中で泳ぐ像が定まる。
 「模様見えるね!」
 小さかったがいつもの点とは違った、オレンジの中にシミのような茶色が見えた。図鑑や映像以外で私の目に姿が映ったのはこれが初めてだった。予想を超えて高揚していた。
 「すごい、満足だよ」
 もう一度おれいを言うと、暗くてそれほど表情は分からなかったが木田くんも嬉しそうにしていた。
 それから交互に何回か見て、見納めて、レンズをはずした。
 あの惑星の姿は頭の中に残っていた。
 「木田くんはさ、どうして宇宙物質に来たの?」
 屋上の倉庫の中で、鏡筒をゆっくり箱に入れる後ろ姿に聞いた。聞いたことなかった。
 「俺、本当はここ第二希望でさ、」
 「そうなんだ、知らなかった」
 ここに入るのにも必死だった私からすれば、どうりで賢いはずだと思った。
 私も架台を隅に降ろす。倉庫の蛍光灯は目に眩しかった。
 「本当は違う大学の工学系の研究室で量子力学のことやりたくて、受かるつもりでいたんだよね」
 木田くんは実力が足りなかったと言って柔らかく笑った。
 「なんで量子やりたかったの?」
 聞いてみたかった。私も量子力学の授業は何回かとっていたが散々な結果だった。散々だったが面白そうと思ってはいた。
 少しだけ照れた様子で話しだす。
 「えっとね、量子って、世界の仕組みだと思うんだ。世界はそれの集合体。知りたいって思った」
 木田くんが箱を両手で持ち上げる。私は行く先の棚のスペースを開けた。
 「俺さ戸川さんが新歓の時永山先生に話してるの聞いてたよ、果てを知りたいってやつ」
 「え、そうなの?」
 本人以外覚えている人間がいるとは思っていなかった。聞けば偶然隣のテーブルで聞こえていたらしい。
 「俺は内側に、戸川さんは外側に同じようなこと考えてるんだなって勝手に思ったよ」
 「ほんとだね。奇遇だね」
 嬉しかった。経緯は違えどここには似たような人種が集まっている。
 「でもね、今は日野研入りたいと思ってるんだ」
 「日野研? なんで?」
 観測の日野研は宇宙物質の研究室の中では量子から特に遠いように感じる。
 「せっかくここに来たんなら覗いてみようって思ってさ、」
 全て元の場所に戻して、ほこりが付いた手をさっと払った。
 「さっきの火星だって、他のいっぱい見えてる点だってせっかく宇宙にいるのに見ないまま死ぬのもったいないなって。量子は授業で勉強できるしね」
 光を失っていない木田くんを見てうれしかった。よかった。
 「私もそう思うよ」

 コピー機は資料を刷り続けている。あの中に私がもらう分もあるはずだ。
 「今日も晴れててよかったよ」
 「先週曇りだったもんね、観測できた?」
 「微妙、データ足りない」
 「卒業できないじゃん」
 「ほんとにそう」
 実際単位が足りていても卒論で落ちる人はいる。内定があろうと進学が決まってようと関係はない。
 「そっちは? シミュレーションうまくいってる?」
 「んー軌道には乗ってきてるけど終わる気はしないよ。発表で質問されたら撃沈する」
 「だよね」
 その質問が怖いのだ。これに関しては一番恐れられているのは断とつで永山先生だが、その点今回ばかりは味方だ。しかし他の教授も十分怖い。学生生活総決算の舞台で指摘に上手く答えられず全てを否定された先輩も見たことがある。
 「院試はいつなの?」
 院について本人に聞くのはこれが初めてだった。
 「7月だよ、ちょっと危ない」
 院試は卒論発表なんかよりもずっとしんどいだろう。場所にもよるがホワイトボードの前に立って、口頭で問題を出され即興で解いたり解説したりするらしい。視線が集まる中ぐうの音も出ない自分を想像してしまってぞっとする。
 私にはとてもできなかった。それまでの努力もその関門もその先も。
 「かっこいいよ、木田も土屋も、多分私一生尊敬する」
 そんな彼らと肩を並べられる今も期限付きだった。
 机の上の履歴書には新しい自分が貼ってある。
 木田がまた一部作ると、こちらに体を向けてコピー機が乗っている机に体重を預けた。
 「火星見た時さ、元々違う大学に行きたかったって話したの覚えてる?」
 「覚えてるよ、世界の仕組みの話も」
 「俺、そこの院受けるんだ」
 「え? 量子の?」
 変な声が出てしまった。てっきり今の延長で観測の道に進むものと思っていた。木田はまっすぐこっちを見ていた。
 「やっぱりやらないまま死ぬの、もったいないなって思って」
 聞くと教授に相談して院試用のゼミもしているという。どうりで変なところをちょろちょろしていると思った。
 「いいと思う。かっこいいよ」
 難しいが十分圏内には入っているとは言われているらしい。
 「それ決めた時、もちろん最初は日野先生に伝えて、正直まだここに後ろ髪引かれる気持ちがあってさ、それを永山先生に話したんだよ、」
 「うん」
 「ここでやってきた数年の自分が無関係になって、離れていくような気持ちになってるって言ったら、」
 ふふっと笑いながら話す。先生は恥ずかしげもなくいろんなことを話すからその熱量につられてそのまま口にできることがある。ホッチキスがまた紙の束を止める。
 「そしたら?」
 「木田君積分なんだからって、」
 「積分?」
 「今の自分が前と違うとしても、中身が入れ替わってるんじゃないよ。足されていってるんだよ、自分、は時間積分したものなんだからって」
 「ふふ、先生らしいね」
 「そう、でも、宇宙にいる自分のことも一緒に連れていける気になったよ」
 そう言って、もたれていた机から離れると、止めたばかりの一部を差し出した。相変わらず量が多い。去り際に机の上の履歴書をなぞるように指した。
 「ほらこれも積分されてる」
 経歴の欄、宇宙物質科学専攻で指が止まる。
 「あっ、ゆでたからじゃない?」
 「え? 何が?」
 木田が1人で納得したような顔をしている。
 「卵、ゆでたから半透膜が壊れたんじゃない?」
 ああ、それなら生卵は塩味にならずゆで卵なら味が付くのか、なるほど。
 ふっと力が抜けた気がした。
 「ありがと、よりおいしいゆで卵が食べられるよ」
 この人ずっと考えてたのか。おかげですっきりした。
 「ありがとね」
 木田はほくほくした顔で資料を抱えて去って行った。ドアが閉まる。自分の研究室に寄ってから屋上に行くと言っていた。
 仕分けが終わって、行かない企業のファイルは引き出しに片付けた。
 木田がなぞったところを目でなぞる。折れてしまわないようにきれいに入れてしまった。
 空は夜に近づいていた。
 研究室に鍵をして、ワニのマグネットを在室から屋上に移す。永山研究室と書かれた紙がはがれかけていたので手で撫でて押した。薄暗くなった廊下を抜けて、吹き抜けの中央階段を上がる。
 夜中にここを覗くと、下は完全な闇が続いているようで底が見えない。小さい頃は暗闇が怖くて夜は1人でトイレにも行けなかった。
 でもいつかに、暗いとこは、闇があるんじゃなくて光がないだけということに気が付いた。光子が飛んでいないだけ、空間自体は昼間と何も変わらないままそこにある。夜自科棟を歩くたびに思い出していた。私はそんなことをずっと考えている。
 扉を開けると空気が吹き込む。夜の風は前より冷たくなくなっていた。
 ゆっくりと回る銀色のドーム。木田が動かしているんだろう。
 ベンチの横の塀に近づいて大きな空を見る。
 望遠鏡と同じ方を見上げると余白の中にぽつんと赤い光があった。
 ああ、そうだ。空を見ていたんだ。
 大きな余白の中にぽつんと私がいた。
 あの時あの公園のベンチに座って空を見ていた。あそこの開けた空から、その奥の、もっと遠くを見て、胸を焦がしていた。
 宇宙の中心でぽつんと自分が存在していた。
 靴に植木鉢があたって目を落とす。葉の間、土の上に一粒ちらちらと光るものがあった。
 指先で拾って握る。見慣れた深い青色をしていた。鼓動が、速くなっている気がした。
 ポッケじゃ失くしてしまうだろうか。触れた指に硬い物があたった。風に飛ばされないように小瓶に入れる。小さくからからと音がした。
 私もここまでよく来たな。蓋をきつく回す。失うものと思っていたが、手に入れた1つだった。
 立っていると大きな空気の塊にのまれる。
 自分が、ここが、なんで存在しているのか不思議だった。遠くから見たらわかるはずだけど、やっぱりその遠くはずっと続いていた。それが存在していた。
 ふわふわ浮いて迷子になっている。屋上で瓶を握るその手は見慣れた自分の手だった。
 風の中で息を吸う。
 数分後にはくすんでいるだろうそれを、なくさないように握った。

手の中の星

手の中の星

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-01-11

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