途方もない日々

途方もない日々

四月九日

 半年ほど大学を休むことにした。半年といっても、春休みや夏休みを入れると一年の四分の三は休むことになる。そんなに休んで何をするかというと、別に何をする訳でもない。バイトをして、友達と飲みに行って、あとは一人で考え事でもしているだろうか。ただ、大学に入ってからのこの一年、私は頑張り過ぎていた気がするのだ。勉強も、人間関係も。幸い、学年で一番の成績を保った結果、私は奨学金を一年分くらい貰えることになったらしい。そしたら、半年ぐらい何もしなくたっていいじゃないか。
 このことをお母さんに話したら、落第はよしてよ、とだけ言われた。理由も言わずに大学を休む娘に反対もしないらしい。


四月十二日

 未来なんてものを考えてみる。途方もない。
 例えばまじめに学校へ行って勉強して、優秀な成績で卒業して、一流企業に就職でもすれば終点だろうか。結婚したら、子供を産んだら、定年退職したら、終点は来るか。決して来ない。人生に終点なんか無いのだ。もしかしたら私は、そんな途方もなさから抜け出したかったのかもしれない。
 でも、こんなことを考えているというのもきっと、とほうもない。とほうもないって言葉が一番トホウもない。そんな考えで頭をぐるぐる回しながら、私は台所で洗い物をして、洗濯物を干してなんかいる。起きた時の格好のまま。袖なしの服で当たる外の風はまだ寒い。


四月二十一日

 十数分、世田谷線の上で揺られて松蔭神社前に下りた。別に理由は無い。とりあえず外に出ようかと思った。なんとなく、新しく買ったワンピースを着た。ぶらぶらと歩いていたら区役所に着いた。ここの大ホールでは、確かよく地区の劇団とかが来ていた。小学校の頃、ここで『星の王子さま』の人形劇を見た気がする。また見たいなあ、なんて思った。小学生の自分に戻って。
 最近、私は昔のことを思い返してばかりいる。それだけの余裕が出来たからかもしれない。こんな時間が、私は欲しくて仕方なかったのだろうか。
 区役所では成人式もやっていたはずだ。私にもそのうち通知が来るかもしれない。でも、私は成人式には行かないだろうと思う。古い友達に会うのが嫌な訳ではないけれど、きっと行く気にはならない。


四月三十日

 バイト先に新しい後輩が入った。吉原さんという、高校生くらいの女の子だ。私が皿洗いの仕方やなんかを見てやらなくてはいけなくなった。正直、面倒くさい。


五月二日

 久しぶりに佑介と会った。一ヶ月ぶりくらい。下北沢を適当にぶらついて、食事をした。そして、和泉多摩川に移動して川沿いを少し歩いた後、佑介のアパートで映画を見た。だらだらしたカメラワークとだらだらした日常描写で作られた、女の子二人の友情物語だった。あんまりに長くて、途中少し寝てしまった。佑介は好きだったらしく、やたらと誉めていた。
 本当は映画なんてどうでも良かったんでしょ? なんとなく、気にしていたの分かったよ。一ヶ月ぶりなのに、なんか虚しい。珍しく張り切って化粧をしたのに。お気に入りの服を着て行ったのに。佑介君、そんなにセックスは楽しいですか?


五月五日

 美代子と二人で飲みに行った。大学の話を聞いた。向こうの方では、私が居なくてもやはり通常通りの日々が送られているらしい。一年の頃、私の後をくっついてばかりいたアキちゃんがとても寂しがっているという話も聞いた。
 十一時くらいに家に帰ったら、お母さんがいなかった。またか。大方、新しい恋人とホテルにでも行っているんだろう。


五月十三日

 紅茶はマイブームである。無印で買った、自分で茶葉の量を調節できるやつ。砂糖はあまり入れない。そうして一緒にケーキでも食べる。うららかな午後のティータイム。そして私は、もわもわとした行き先の無い思考の中へ連れて行かれる。
 こんなとき私は、夢と現実の中間地点からティーカップの残り湯までを線で引っ張って三分の二くらいの座標で生きているのだと思う。例えばティーカップの中を覗き込めば私の未来が見えるかもしれない。しかし、私はそれを見ずに、甘い香りの紅茶の残りを飲み干すのである。
 すとろべりーしょーとけいくすの午後。お母さんはまだ寝ていて、洗濯物が溜まっている。そして、お皿に取り残された苺は孤独だ。


五月二十日

 バイト先に吉原さんが入ってもう一ヶ月になる。正直いって、この人は好きじゃない。仕事はできるけど、一々どうでもいいことで話しかけてこられるのは鬱陶しい。彼氏の愚痴なんて他の友達に言って欲しい。でも、バイト先の空気が悪くなるのは嫌だから、話だけでも合わせておく。こういうのはとても疲れる。こんな悩みから抜け出したくて学校を休んでまでいるのに、なんでここでまでこんなことを考えなくちゃならないんだろう。


五月二十九日

 下北沢で美代子とお茶をしていたら、思いがけず中学の頃に同じクラスだった松本君の話が出た。家に帰るときに、成城学園前の駅に入っていく彼をよく見るのだという。

「もしかしてアイツ、セイジョー通ってんのかな。げっ、だとしたら頭よくね? そういえば知ってる? 松本と同じ高校通ってた友達に聞いたんだけどさ、アイツ高校入ってから超オタクになったんだって。漫研とか入っちゃってさあ、昼休みなんか友達いないから一人で机に向かってアニメの絵描いてたんだって。あはは、きもいねえ。話によると、どうやらイジメみたいなのもあったらしいよ。やっぱりそういうことがあると、一人の世界に閉じ篭っちゃうもんなのかねえ。ほら、アイツ中学の頃からそんなところあったじゃん。この前、学前で見た時もね、ずうっと下向いて歩いてて、シャツはズボンに入れちゃったりなんかして、いかにもオタクって感じだったんだよね。ああいうタイプの人ってこの先どうすんのかねえ。一生独身だったりするのかなあ。世の中に絶望して引きこもりになって、アニメキャラが恋人です、なんて言ってたりしてね。あはは、超うける」
 
 大体、こんな話をしていたと思う。
 私はこの時、小学校の頃のことを考えていた。小学校五・六年生の時も、松本君とは同じクラスだった。決して目立つタイプではなかったけれど、ある時から少し有名になった時期がある。彼の両親が離婚して、母方に引き取られた為に、急に通学路が変わったのだ。私と途中まで一緒の帰り道だった。この噂は、結構広くまで流れた。帰りの時に、クラスメイトから他のクラスの子までが松本君に「離婚したって本当?」「こっちはお母さんの家なの?」などという質問を浴びせた。松本君は気にする様子もなく、「うん、そうだよ」と答えていた。
 友達と遊んでいる時に一度、駅の向こうにある彼の家を見に行ったことがある。行って何をする訳でもなかったけれど、好奇心で。高級そうな、大きなマンションだった。それを見たとき不意に、松本君は全くの別世界に突然引っ張り込まれてしまったのだという気がして、ぞっとした。彼は今も、同じ所に住んでいるのだろうか。


六月一日

 この三日間、松本君のことがしばしば思い出される。それはきっと、彼と私の境遇が少し似ているからだ。
 私の両親が離婚したのは、私が私立の女子中学校に通っていた頃だった。お父さんが出張したまま帰って来なくなった。お母さんに、お父さんはいつ帰ってくるのと訊いたら、「もう帰ってこないわよ」と言われた。最初は喧嘩でもしたのかぐらいにしか思っていなかったけど、じわじわと解っていった。お父さんのことは好きだった。とても優しかったから。でも、居なくなったことにショックは無かった。離婚というものはもっと深刻な事件で、子供に大きな傷を与えるものだと思っていた。実際に起こってみると、あっけないものだった。
 「発作」は一度だけ起こった。お母さんに向かって、お父さんはどこ、お父さんに会わせてよと泣き叫んで、食器を何枚も割った。お母さんは何も言わずに料理をしていた。私は部屋に戻って泣き寝入りした。一時間後に起きて行ったら、割れた食器はすっかり片付けられていて、テーブルには夕食が乗っていた。その頃には私の気持ちも治まっていた。一度きりのことだった。
 松本君も同じことを経験して、同じことを思ったのだろうか。少なくともあの時、松本君が離婚のことを気軽に友達なんかに話していられたのは、何となく分かる気がするのだ。


六月七日

 体重計に乗ってみたら、前に計った時よりかなり減っていた。大学を休むようになってから、私の体重はどんどん減っていく傾向にある。よく動いていた時よりろくに動かなくなった時の方が痩せているなんて、どういうことだろう。
 でも、考えてみれば、最近お腹が減らないからといってちゃんとご飯を食べていない気がする。きっとろくに動いていないからだ。


六月十日

 だからねえ、若い人には時間が沢山残されているんだからとか言うけどさあ、あたしは逆に若い時間は限られているんだから、今やりたいことは今のうちにやっておくべきだと思う訳よ。勉強なんて結局やる人は年寄りになってもやるんだし、今は縛られずに自由にね。だからあんたは偉いと思うよ。ちゃんと自分で飛び出して行けてる訳だし。ああ、あたしも大学休んじゃおうかなあ――。
 美代子は言った。お前と一緒にするな、と思った。でも、今の私を見て美代子と一緒だと言われても、否定はできない。


六月十二日

 佑介の専門学校はかなり忙しいらしい。その上バイトを二つもやっている。夢を持つというのは、体力もお金も使うことだ。ストレスだって溜まる。頑張って欲しいと思う。でも、だからといって、私がいちいちその鬱憤を晴らさせてやらなきゃいけないなんてことはないはずだ。
 最近、佑介は私といてもあまり笑わない。だから私もあまり笑えない。疲れた顔をしていたりするのを見ると、支えてあげたいとは思うけど、でも、複雑な気持ちになる。好き合うっていうのは、どういうことなんだろう。


六月十七日

 掃除機をかけて、洗濯物を干して、お母さんのために夕飯を作っておく。でも、そんな日に限ってお母さんは帰って来なかった。明日はバイトに行って、気の合わない後輩と沢山話をする。面白くも何ともない毎日。最近、外へ出る時にもおしゃれな服を全然着て行かなくなった。化粧もしないで、適当なシャツとジーンズだけで間に合わせている。
 こんな生活を続けていたって仕方ないのはもう分かっている。でも、気付けば秋期も大学を休んでしまおうかなんて考えていた。自分が何をしたいのか、何を求めているのか、分からなくなってきた。


六月二十一日

「あんたなんかに何が分かるのよ」
 と言われた。吉原さんに。
 どういう話の流れでそんなことを言われたのか、いまいちよく思い出せない。言われる前に「別にいいんじゃない?」とか言った気がする。
 いい加減あの人の話に付き合うのが嫌になってきて、対応が適当になっていたから、そのことで怒ったのかもしれない。でも、だからといって、あんたなんかに何が分かるだなんて。ぶん殴ってやろうかと思った。あの時ぶん殴っていたら、私はクビになっただろうか。


六月二十八日

 電話で佑介と喧嘩した。一方的に切って、着信拒否にした。一時間くらいしてから、私から電話して謝った。佑介はあまり悪くなかったと思う。なんだか、私ばかりが我儘で、駄々をこねてばかりいる気がする。
 最近、何をやっても上手くいかない。洗濯物は雨で濡らしてしまった。もう梅雨になったようだ。じめじめして、余計にいらいらしてしまう。


七月一日

 あれから、吉原さんの私に対する態度が明らかに変わった。話すときはいちいち機嫌が悪そうにする。目も合わせようとしない。言うことが刺々しい。
 むかつく。なんで私がそんな態度を取られなければならないのか。元はといえば、否があるのはそっちじゃないのか。


七月五日

 私の日々がぐるぐるとリピートしている。エンドレスに。えんどれすりぴーとってなんかいい響き。エンドレスリピートする私の毎日。エンドレス。エンドレスって、その言葉自体がどこまでもエンドレスだ。こわい。
 私はどこに行くのだろう。ここにいたまま、どこかに飛んで行ってしまうような気がする。いっそ体ごとどこかへ飛んで行ってしまえればいいのだ。何もかも置き去って。


七月七日

 ぶん殴ってしまった。私も気付かない内に、体が勝手にあの人の頬をグーで殴りつけていた。そして、あんたなんかに何が分かるのよ、と叫んだ。これじゃあ、あの人と何も変わらないじゃないか。いや、あの人よりも子供だ。
 店長は優しく私をなだめて、いろいろ話をした。店長はいい人だ。でも、今回はそれが痛かった。クビにはならなかったけど、その代わりしばらく休みなさいと言われた。
 家に帰ったら、夜なのにお母さんが化粧をしていた。今から出掛けるのと訊いたら、そうだと言われた。なぜだか怒りが込み上げてきて、台所で皿を一枚割った。お母さんは何をしているの、と冷めた声で言った。
 私がこんなに子供だったなんて知らなかった。一番、誰よりも子供だ。


七月十三日

 バイトを辞めた。慣れ親しんだあの場所を離れるのは悲しかった。店長は一言、残念だと言った。
 何がいけなかったのだろう、と考えた。でも、そんなこと分かるはずがなかった。ただ、大事なバイトを辞めてみて、ひとつ分かったことはある。私は何かを変えたいと思いながら、あまりに保守的過ぎたのだ。嫌いなものだけを放り出して、それまでの生活から抜け出すつもりでいた。それでは駄目なんだ。私を縛っていたものは、本当は私の大事なものだったんだ。では、今一番私を縛っているものは何だろう。


七月十九日

 和泉多摩川の駅で佑介と待ち合わせて、川沿いの歩道を延々と歩いた。空は快晴だった。ここのところは雨ばかり降っていたが、もう梅雨が明けるのかもしれない。久しぶりにノースリーブのシャツを着た。日差しがものすごく暑くて、私も佑介も汗で服をぐしょぐしょにした。そして、適当な川岸で座ってコンビニのおにぎりを食べた。
 その後、佑介の家に行った。一ヶ月ぶりだった。そして汗くさい体のまま、一ヶ月ぶりのセックスをした。多分、今までで一番充実したセックスだったと思う。終わった後で、私は佑介に別れようと言った。佑介はひどく驚いた。当たり前だ。
 「なんでだよ」と訊いてくる佑介に、私は素直に「このままこの関係を続けていても駄目になっていくだけだよ」と答えた。そんなことない、別れるなんて言うなと佑介は言った。泣きそうな顔をして、あんなに必死になる佑介を見るのは二年間付き合ってきて初めてだった。でも、もう決心を変えるつもりはなかった。私はひどい女だと思う。その上、自分勝手だ。


七月二十一日

 今日、大学の授業が終わってテスト期間が始まると美代子から聞いた。もう春期の大学が終わってしまうのだ。過ぎてみれば、あっという間だった気がする。ここで、もう決めてしまわなければいけない。やっぱり、大学に復帰しよう。休んだところで、何も自由にはならなかった。
 そして、もう一つ決心した。明日、学年主任の教授に会いに行こう。会って、春期はすっかり休んでしまってすみませんでしたと言い、次からはちゃんと学校に行きますと宣言しよう。そうすることで、もう逃げられなくしてしまった方が良いと思った。


七月二十二日

 今日はなんだか気分が乗らなかった。明日は必ず行こう。


七月二十三日

 やっぱりもう一日延ばそう。


七月二十六日

 大学なんて、何も言わなくても行けばいいんだ。


七月二十九日

 大学の方では、もう夏休みになる。夏休みまでぐうたらしている訳にはいかないから、何か新しくバイトを始めようと思った。そこで新しい出会いなんてものも探してみようか。
 そして、夏休みが終われば大学が始まって、また途方もない日々が始まる。
 それでいいんだと思う。


八月二日

 松本君に会おうと思った。会わなければいけないと思った。彼は今では名字も変わっていて、ミヤシロくんとか名乗っているらしい。ややこしいので松本君で通すことにする。
 例の高級マンションの中を探してみると、彼の名字があった。松本君は私のことを一目見て言い当てた。あまり話したこともなかったのに。逆に、私の方がすっかり男の体格になった彼を見間違えた。美代子の言っていたほどオタクという印象は受けなかった。話をしたいと言ったら、突然訪れた私をすんなりと家の中に入れてくれた。
 家は広くて、松本君のお母さんはかなり美人だった。あまりににこやかに私にショートケーキと紅茶を出してくれるものだから、少し萎縮してしまった。松本君は落ち着いていて、突然話をしたいなどと言ってきた私に疑問を感じてすらいないようだった。
 私達は小学校の頃の話をした。当時からほとんど関わりのなかった松本君と、このように共通の話題で話せるなんて不思議だ。また、今通っている大学や進路の話などもした。彼は今、出版社に勤めることを目標として頑張っているらしい。なんだか希望が湧いた。美代子の言っていたことは随分と偏ったイメージのようだ。そして、少しだけお互いの両親の話をした。松本君は、今は新しいお父さんがいて、弟も生まれて、それなりに幸せに暮らしていると言った。そうやって、自分の境遇を幸せと言えることは羨ましいと思った。
 話している間、松本君は始終淡々とした様子だった。
 私はふと思い立って、
「私、アニメはほとんど見ないんだけど、エヴァだけはすごくハマったんだよね」
 という話をした。すると、彼は急に声を大きくして、
「本当? 俺もエヴァはすごく好きなんだ」
 と食いついてきた。それを見て、私は思わず吹き出して笑ってしまった。
 松本君も笑った。

途方もない日々

途方もない日々

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-01-11

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