乙彦さんの悔恨とその後
三十余年連れ添った妻が家を出ていったのは、つい先ほどのことだ。で、一人残された乙彦さんはしばらく呆然とした。丸二日呆然とし、三日目の朝に、我に返った。それから姫鏡台や和箪笥の抽斗を開けてみる。と、妻の所持品は一切なくなっていた。乙彦さんはふたたび呆然とした。
翌日から、出ていく前の妻の出で立ちを思い起こしながら、各洋服店をめぐり歩き、妻が身に着けていただろう服を買いあさった。妻の面影がどこにもない今乙彦さんには、代用品をこしらえ、それに慰めてもらうしか手がなかったのである。事実、妻が着ていたのと同じ服は、いくばくかの安らぎを与えた。太いリボンの結ばれた麦わら帽子。細身のウールのワンピース。鮮やかに青いストール。……
しかし、どうしても、妻が履いていたのと同じミュールが、見つからなかった。慎ましい色合いの安価のミュール。妻はそれを「ヘップサンダル」と呼んでいた。いつか乙彦さんがプレゼントしたものだったが、どこで購入したのか、思い出すことができなかった。乙彦さんは何日も何日も必死で探しまわった。が、見つからなかった。乙彦さんは途方に暮れた。途方に暮れつつ、手当たり次第ミュールを買いあさった。なかば癇癪を起していた。それから一年が過ぎた。部屋の中は色とりどりのミュールで埋まっていた。乙彦さんはその部屋で、日がな一日ミュールを抱きしめ、すすり泣いた。
ある日のことだ。玄関のがらり戸が開く音がして出てみると、そこには妻が立っていた。乙彦さんは一目散に抱きついた。足が浮いてしまうくらい喜んだ。妻は、ごめんなさいと謝った。乙彦さんが寛容な面持ちでかぶりを振った――そのときだ。妻の足もとを見て、一気に高揚が消えた。ブランドもののハイヒールを履いていたのだ。あのミュールはどうしたのかと訊ねると、妻は歯牙にもかけない調子で「何? どのミュール?」と言った。
乙彦さんは思いきり妻を突き飛ばし、音を立てて戸を閉めた。外から妻の困惑した声が響く。乙彦さんは廊下中にうずたかく積まれたたくさんのミュールを、眺めた。いくばくかの憎悪と、いくばくかの悔恨を抱いて。妻はまだ何か叫んでいる。乙彦さんの耳には、それはまるで他人のように聞こえた。そのうち、妻自体も他人のように思えはじめた。乙彦さんは台所へ行き、時間をかけて氷水を飲んだ。飲み終わると、これまでまったく息をついていなかった自分に気がついた。乙彦さんはようよう小さなため息を吐き出した。
乙彦さんの悔恨とその後