花冠の墓標
墓前に花を供える。姉であり、母であった女主人の墓だ。其処はいわゆる崖であるので、墓という言い方は適切ではないかもしれないが、私は毎日その崖に通い、花を供えることを密かな日課としている。
私たちは墓を持たない。そのかわり、というわけではないが、色とりどりの花で編んだ花の冠を手向けとして崖の上から放り投げる。下は奈落で何も見えない。花冠の中に白い花はない。あの人は白い花が好きだった。そういえば彼女が居なくなってから、白い花を見ていない。花たちは咲くのをやめたのだろうか。
私たちは皆、何かが欠落していた。自分に何が欠けているのか、それすらも分からない。自分が何者なのか知らずに生きている。そういう者が大半だった。どういうわけか、この辺境の地にたどり着き、あの女主人に拾われて、どうにか此処で暮らしていた。
しかし、彼女は突然姿を消した。皆愕然とした。私たちは道標を失ったのだ。
——あれから何度、季節が巡ったのだろう。
数えることも諦めたけれど、墓参りだけは続けている。誰もいない葬列に並ぶという、空虚な惰性に取り憑かれたようだった。傍から見れば、さぞかし滑稽なことだろう。
彼女は本当は私のことなんて気にも留めていなかったのかもしれない。とにかく笑わない人で、感情を表に出すこともしなかった。当時のあの人は、子供は嫌いだと常々小言を言っていた。
彼女はなぜ、幼い私に白い服を着せたのだろう。何処の馬の骨だか知れない、身寄りのない子供を甲斐甲斐しく世話したのはなぜだろう。彼女は今、どこにいるのだろう。今となっては、それを聞くすべはどこにもない。
今の私は烏に似ている。黒を着込む姿がまるで、喪服のようだと同胞に言われたことがある。何処までも続く、星空の彼方に溶けていくようで、黒は嫌いではない。夜は何処までも深く、優しい。いつか、この身が砕けて塵になるのだとしたら、私は星屑になりたい。何処までも深く、優しい闇に溶けていきたいと思う。
私は白い色や明るい光が苦手だ。陽の光は、ちりちりとこの身を焦がす程に眩しい。闇の中でしか生きられない私を拒んでいる。私は闇に棲む生き物で、白い服を着ることはもう二度とないのだろう。
いつからこうなったのかはわからない。今の私はあの頃とは何もかもが違っていて、まるで別人のようだと思う。もし、あの女主人が此処に居たら、彼女は私を見て何と言うのだろう。随分小生意気になったな、とか小言を言うだろうか。
私はもう、あの人の顔も思い出せないが、最初から彼女の顔なんて見ていなかったのかもしれない。同胞の誰もがあの女主人の顔を知らなかった。彼女はいつも仮面で顔を隠していたから。なぜかは分からないが、それを疑問にすら思わなかったのだ。
すでに私たちの間には「お姉様はお隠れになった」のだと暗黙の了解があった。彼女の生存を諦めていないのはせいぜい私くらいのものだろう。
墓前に花を供える。色とりどりの花で編んだ花の冠を崖の上から放り投げる。下は奈落で何も見えない。花冠の中に白い花はない。花たちは咲くのをやめたのかもしれない。
花冠の墓標