想い、遊ぶ

mute




 情報を統合し、「世界」を知る観測地点としての私という作業部屋はそれ自体として瞬間、瞬間にあればいい。生きていくために必要な活動(食事から排泄に至るまで)にはそれで十分なのだから、寝ても覚めても、今もこうして「私」が在れば十分である。にもかかわらず、今こうして文字を綴る私は昨日までの私と同じだと確信している(できている)。それは何故か。
 記憶しているから、と直感して答える。けれど、記憶は曖昧な情報である。正しく覚えていたと確信していた仲間との思い出を話しているうちに、思い出話の大きな筋を間違えて記憶していたという事実に気付き、「ああ、そうだった!」と「思い出」し直す(記憶し直す)ことは日常生活で経験する。ひょっとすると訂正の根拠にした仲間の思い出が間違っているかもしれないのに、その内容の検証を行うことなく「そうだった!」と直ちに実感して、その正しさを確信する。または何らかの物的証拠に基づいて思い出の訂正をしたとしても、かかる物的証拠が偽造又は変造されている可能性は否定できず、また真正の物的証拠に対する評価及び事実の推認が間違っている可能性は否定できない。にもかかわらず、訂正した思い出を仲間内で共有し、かかる思い出を今の私を支える足場の一つとする。別の機会があれば、再度記憶を「思い出」し直す(記憶し直す)可能性を残して。
 記憶する思い出に対して私が抱く実感はある。話題に上がったある思い出を「覚えていない」と本当に言い又は嘘として言うにしても、私はこの実感を頼りにしている。かかる実感は「今」と名指しして区分できる「過去」の存在を、今までの私を確かなものとしているように思える。ではこの実感はどうやって得られたのだろうか。粗い思考の勢いそのままに、SF的想像を駆使して遊んでみよう。
 例えば士郎正宗さんの『攻殻機動隊』の電脳技術が現実のものになったとして、私の電脳に他人の記憶をインストールすれば、私はかかる記憶を「私」の記憶と実感して私の足場に組み入れるだろうか。いや、「他人」のと名前を付けてしまっているから、かかる記憶は私の電脳内でも映画のように他人の話として再生されるに過ぎないだろう。
 では、インストール作業をする者にすら誰の記憶か分からない記憶情報があったとして、またかかる記憶情報の内容面が誰にでも経験し得る一般性を有するものであったと仮定して、かかる記憶情報をそのまま私の電脳内にインストールしたとすれば私はそれを私の「過去」として実感し、私の出来事として引き受けるだろうか。
 しかしながら、誰のものかは判然としない記憶情報であったとしてもそれ自体で取り出され、誰かが取り扱える状態にある時点でそれはもう私の記憶じゃないと誰しもが言えるのでないか。なぜなら、私の電脳が一切関与せずに存在する記憶情報が外部からインストールされるという状況はインストールされるそれが私の記憶でないことを如実に物語るからだ。
 では、ある記憶を私の電脳から他のエピソードとの関係を含めて丸ごと取り出し、かかる記憶に関してのみ記憶喪失状態にした上で、再びその記憶をインストールし直した場合ではどうだろう。
 かかる記憶は確かに私の記憶であったものだ。しかしながら「であった」と語れるように、外部に取り出した元私の記憶は記憶障害を起こさずに取り出せた時点で私の記憶らしさを相当程度失っている。そのために、インストールし直してもかかる記憶に対して私が他人性を感じ取ってしまう可能性は決して低くない。
 では、私の電脳に記憶をインストールしているという状況認識をさせなければどうだろう。いつの間にか、知らずうちに私の電脳内に誰かの又は丸ごと取り出した私の元記憶をインストールする。
 ここで想定する状況は、知覚したものを記憶するという通常の場合と変わりないと考える。なぜなら実際に私が記憶する情景について、私はそれを本当に経験したのかどうかを今となっては確かめ切れない(その記憶があるという主張は同語反復にしかならないし、さきの思い出の訂正と同じく、客観的証拠への疑義は完全に払拭できない)。そのために私は記憶に抱く実感を頼りにして、かかる情景を「かつて私は見た」と主張していることを否定できない。
 同じように、インストールされた記憶にあるものをかつて私は見たのかどうかを確かめる方法はない。そのために私は思い出せるインストールされた記憶をかつて、どこかで見たのだろうなと仮定し、私の記憶として引き受けることはあり得る。あとは、思い起こせるその記憶に対して私の記憶だという実感を抱けるかどうかによるだろう。
 ところで今の私が過去の私より積んできた知識、経験を通して過去の記憶をあたかもテキストに対するように新たな解釈を試みれば、かかる過去の記憶の位置付けはガラッと変わる。例えば仲間とワイワイして楽しかったはずの記憶に見つけてしまった周囲の嘲りや蔑みによって、その記憶の色は百八十度変わるだろうし、たくさん叱られた苦い記憶の中に埋め込まれていた先達の愛情に初めて触れ、叱責される私の頭に途切れることなくそれが降り注いでいた事実に気付き、感謝の言葉を失くすこともあるだろう。これらの変化は、しかし意味解釈を施したテキストたる過去を読んだ「今の私」が抱いた感情に過ぎないといえるかもしれない。けれど、かかる指摘に従ったとしてもテキストとして過去を読んだことで新たな感情を抱いた事実を私は記憶する。かかる記憶の中で再生される(新たな気付きと感情が込められた)過去の記憶は再生されるごとにテキストらしさを失っていき、いつしか読み解かれた出来事に満ちたエピソードを内包したまま記憶される。この過程を喩えれば、記憶の中で育まれる記憶は私によって再演され、過去の出来事を私は改めて経験する。
 ここから私という意識の作業部屋の中では知覚を離れた現実を文字通り「生きる」ことができる、または記憶を思い出す私は、思い出した記憶を想像的な知覚を持つ想像的な主体性をもってそれを経験し直すことができる、と考えてみる。かかる考えに従えば、インストールされた記憶であっても私の記憶として何度も何度も思い出されることで、いつしか私はかかる記憶に対して私の過去という実感を持つだろうと推定できる。
 翻って、今度は私の方から電脳に保存されている今までの記憶を丸ごとコピーし、インストールされる状況に一切気付かせることなく、同じく電脳化を済ませた他人に取り出した私の記憶のコピーをインストールした場合、かかる他人はその記憶を再生し、経験することで、かかる他人は私と同じ「私」になるのだろうか。
 いや、それはないと考える。
 なぜなら、他人の電脳内で思い出される私の記憶のコピーはかかる他人が「私」と名乗る意識=作業部屋で再生され、経験される。だから、思い出される記憶の中で「生き」直される「私」は私じゃない。さきの想定の下では、他人の電脳にインストールされた記憶に私の「私」というマークは決して残せない。このことは、知らない内に外部から記憶をインストールされた私に関する想定において既に示されていた。
 なら、かかる作業部屋で再生する記憶の内容が例えば三つ目に四本腕、それに六本足と尻尾を一本を有する宇宙人的な存在として経験する世界の見え方であったとき、私はそれでもかかる記憶を「私」として経験するのだろうか。かかる記憶を思い出す時、私はきっと違う世界の触れ方をする。にもかかわらず、私は再演する記憶の中で私として「生き」直すだろうか。
 可能性はある。なぜなら、かかる記憶を思い出した後、今の私が有する肉体と記憶の中の肉体を比べてから私は「もしかすると、今の私は何らかの原因により従前有していた肉体部分を失ったのかもしれない」と推測し、再生した記憶の中の私と今の私との連絡を合理的に行うかもしれない。同じことは、ヒトという形状を失った記憶についてもいえる。
 だから、私という実感は瞬間、瞬間にある私という作業部屋で記憶を取り扱うことで生まれると考え得る。肉体的事実として記せば、脳内でニューロンを刺激する電気信号が走った一回的な経験事実、私の脳内でパパパッと行われていく情報処理の各事実が「それ」といえる。
 だが、そう言い切ってしまっていいのだろうか。迷いは残る。
 ここまで記してきた想定に用いた「思い出す」や「生き直す」という表現には起きた事実を過去のものとする意味が認められる。何より、「記憶」は起きた事実を過去の情報として取り扱う。このようにさきの想定には過去、現在、未来の時間が入り込んでいる。そのために瞬間、瞬間に在る私という作業部屋が持続して当然といえる場面設定を行なっているという疑念を払拭できない。
 しかしながら、今ここに在る私という現在を置けば振り返られる過去、さきにみえる未来という関係は言葉の上で見事に成り立ってしまう。この関係性は、どこの「私」をピックアップしても起きてしまうだろう。それでもなお、過去を振り解き、したがって現在を捨て、未来を失うことに成功した状態に置かれたとき、私はさきの想定で取り上げてきたような記憶を行えるのだろうか。今こうして文字を綴る私が思い出す数々の出来事は、時間軸を失った私の中でどういうものとして浮かぶのか。ある意味で言葉以前の状態にある私について、やはり私は何一つ想像できない。
 言葉以前と以後にあるこの断絶。私にはその幅も、深さも、何もかも見ることができない。



 私に対する実感を求めて始めたこの想い遊び。
 いつの間にか生まれ、私と名乗る意識=作業部屋で行う記憶の形成、その整理。言語の意味内容を用いて、しかし抱く感情経験も織り込んで各記憶は緩く関係し、思い起こすことで何度でも経験され、「生き」直される。この過程もしっかりと記憶され、同じ情報処理の過程を辿る。こうして集積されていく記憶という情報に触れて、私の続き方が仮定される。
 この「生き方」。
 迷いはまだまだ続く。
 ニューロンを刺激する電気信号が走った一回的な経験事実があり、私の脳内でパパパッと行われていく情報処理の各事実がある。私固有のこれらの事実を引っ掴み、循環し又は重複するかのような情報に基づいて知れる「世界」の知り方、人として生まれた私が行う「世界」への触れ方に対して抱く未知。
 燃やす欲。

想い、遊ぶ

想い、遊ぶ

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-01-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted