サエキとウキョウ
一面白銀に染まった世界は、思っていたよりも寒くはなかった。
気まぐれに、サエキは道端の車の下を軽く蹴り飛ばす。固まった泥水が音を立てて、踏み固められた雪の上で砕けて散る。スラックスの裾に泥が飛び散って、初めてサエキは自身の気まぐれを後悔した。
「やめろよ。他所ん家の車だろ、それ」
そう言って彼を窘めたウキョウは、呆れ顔でこちらを振り返った。思わず拗ねたように視線をそらす。小さい頃はこうやって、一緒に車の下を軽く蹴り飛ばして遊んでいた。見つかって母に怒られたのはどっちだったっけ。そう言ってウキョウの白い横顔に目を向けると、お前も怒られてただろとそっぽを向いてしまった。その耳が少しだけ赤くなっていたので、サエキはそれに満足して笑った。
毎日のように歩いている通学路は、今日もいつかの日と変わらない景色を2人に見せていた。
途中の急な坂道に、赤い車が今日も、真ん中に取り残されている。タイヤを軽く蹴ると、垂れ下がった氷柱がパキりと音を立てた。今度はウキョウも何も言わなかった。車の主も、何も言っては来なかった。
校門前は閑散としていた。不用心にも扉は普通に開いて、人一人居ない玄関には、部活の生徒のものであろう外履きが無造作に脱ぎ散らかされている。この真冬に、外で走り込みでもしてきたのだろうか。恐らく野球部だろう。今頃は体育館から溢れて、廊下の隅で腕立て伏せでもしているかもしれない。
サエキが無言で脱ぎ捨てられた汚い運動靴を見つめていると、外履きのまま中に上がったウキョウが、気まずそうな顔で笑いながら戻ってきた。
「やっぱり今日も学校休みだよ」
「だよなー。わざわざ来た意味よ」
ふと緊張の糸が切れたように、ウキョウは大きく伸びをした。サエキも大きな欠伸をして踵を返す。休みの日の学校に用はなかった。
ちょっと寄り道して帰ろうぜ。その言葉にウキョウは少しだけ表情を明るくして、さっさと玄関を出ていったサエキを追いかけた。
コンビニのレジに百円玉2枚をおいて、2人で棒アイスに齧りつく。キンとした冷たさと懐かしい甘ったるさを感じて、買い食いの背徳感と贅沢感に頬を緩める。無駄に愛想のいいバイトの青年は、今日も不気味なくらい快活な笑顔で彼らを迎え、そのままの笑みで彼らを送り出した。きっと今ならその顔にペンで落書きをしても怒られないだろう。思うだけならタダだと、サエキは心の中でクスリと笑った。
「冬のアイスは溶けないからいいよなぁ」
棒アイスは歯に染みるから食べにくいと、かつて文句を垂れていたウキョウは、楽しそうにミルクバーにかじりついていた。冬とか関係ないよと言えば、アイスはやっぱり冬に食べるのが1番美味しいなと、噛み合わない返答が返ってくる。サエキもこれ以上追求する気もなくなって、たしかになと笑った。
2人の家路が別れるその手前に、踏切はあった。ここを渡れば、2人はもうじき別れて家に帰らなければならないだろう。
サエキの足が止まった。遮断機が降りていたからである。耳の奥で警報機の音がする。先程まで、真冬に制服の学ラン1枚で平気な顔をしていたサエキの指先は冷えきっていた。
ウキョウがその横をなんでもないような顔ですり抜けたからだ。そのまま遮断機をくぐって線路内を歩き出す。
「何やってるんだよ、早く来いよ」
そう言って振り返るウキョウの顔は、日焼けのあとも残らず真っ白だった。頭の中にカンカンと不快な音が響いている。電車の光が網膜を突き刺す。あまり変わらない背丈の坊ちゃん頭に車体がぶつかる未来が鮮明に見えて、
「……痛てて、何するんだよ」
ウキョウが痛そうに腰を擦りながらサエキを見上げた。
考えるよりも先に体が動いた。気づいた時には、サエキは踏切に飛び込んでウキョウの肩を突き飛ばしていた。勢いよく突き飛ばされた体は軽くて、少し後ろにしりもちを着いた。
「何するんだよって、そっちこそ何やってんだよ」
肩で息をしながら、サエキはウキョウを睨みつけた。力の籠った目頭に、熱い涙が込み上げているのをじんわり自覚する。
そんなサエキを冷えた瞳で見上げるウキョウは、意図の窺えない表情で少しだけ笑った。
「大丈夫だよ、電車なんて来ないだろ」
その言葉通り、2人のいる線路に電車は待てども来なかった。熱を持った頭が冷えていくのを感じて、サエキはようやく理解して、安堵した。
世界中の時間が止まって、今日で何日目だろうか。世の中の全てが夕方の5時59分で止まってしまった世界で、サエキとウキョウの2人だけは、止まった時間に逆らって動き続けていた。
学校は部活中の生徒が放課後の活動に精を出している最中で止まっているし、あの赤い車は何処へゆくのか、帰るのか。あの急な坂の中腹に貼り付けられたように動くことはなかった。汗水垂らして働いていた社会人たちは、今頃家に帰ることも出来ずに固まっているだろうし、あのコンビニの青年は、今もあの笑顔のままレジに立ちっぱなしなのだろう。機能しないレジ上は、今まで2人が置き去った百円玉が小さな山を作っている。
「そうだった……。そうだったな、忘れてたわ」
「お前いつも踏切渡る時だけ忘れるよな」
そう言ってケラケラと笑うウキョウが両手を差し出した。それを取って引っ張りあげる。軽い体は勢いがついて、前につんのめったウキョウが今度はサエキの体を突き飛ばして倒れ込んだ。可笑しくなって2人で笑う。サエキも、文句を言いながら涙を流して笑った。もう目頭の熱は引いていた。
ようやく立ち上がって2人で踏切を越える。遮断機をくぐれば、いつもと変わらない半端に暗くなった空が彼らを迎えた。
「明日はどうする?」
「うーん、とりあえず起きたらすぐ学校見に行って、それから、俺本屋行きたい。欲しい本があるんだよね」
「最新刊は売ってないぞ?」
「わかんないよ、もしかしたら明日急に世界が動き出すかもしれないだろ。念の為だよ」
やいのやいの言いながら家路に向かって歩き出す。今日はもう用事がないから帰るのだ。時間は分からない。彼らが起きれば明日になる。
最新刊を待つウキョウには悪いけど、俺はもう少しこのままがいいな。
サエキは明日の予定を立てながら歩くウキョウに相槌を打って、少しだけ線路を振り返った。
電車は来なかった。
サエキとウキョウ