Musee
私の初期を代表する短編集となります。
それぞれの物語に、素晴らしいイラストを添え続けてくれた影守俊也氏。彼が描いたオリジナルメイドさんに、私が名前と物語を添えたのが、そもそもの始まりでした。そこからすでに20年以上の時間が経っています。
このMusee3部作は非常に気に入っていて、小説同人の20周年が見えてきた2016年。その年の11月に神戸で開催されたそうさく畑FINALに合わせて、今一度推敲し本に纏めたのが、このバージョンとなります。楽しんでいただければ幸いです。
イラストワーク 影守 俊也(FORBIDDN RESORT)
よろしくお願いします。
ランプの灯りが、窓辺の月明かりだけが頼りの部屋を明るく照らし出した。
ミュゼは与えられた小さな机の上にランプを置くと、置かれていたカバンの中から、便箋と筆記道具の一揃えを出した。
インク壷は古く軽くなっていたし、羽ペンの白羽は少しくたびれていたけれど、ペン先だけは傷みのない光を返してきた。
餞別にいただいた宝物。
竜が好んで食べたという、金でできたペン先。
手紙を書く準備ができたところで、ふぅっと息をついた。
身体はくたくたにくたびれていたのに、ぜんぜん眠くはなかった。まだ緊張が解けていないのだ。
初めての都会。初めて会う人々。ゼルプル家で迎える初めての夜。今日だけで、いくつの初めてを経験したことだろう。
ミュゼは視線を便箋に戻すと、金のペン先を青黒いインクに浸した。
「そういえば、あなたも文字を書くのは初めて」
金のペン先に微笑みかけると、便箋に文字を綴り始めた。
……今、私は、ゼルプル家のお屋敷から、このお手紙を書いています。御主人様のアルバート様は、水軍の軍医総監……
ペン先が、はたと止まってしまう。ミュゼの表情も心なしか曇った。
私が、ゼルプル家で働くことも、御主人が軍医総監であることもみんな知っているのに……。
「ふぅ」と、ため息をついて、何気なく月明かりに照らされた窓辺へ視線を向けた。昼間、あの窓の向こうに、わずかに見えた汐の内海が、一瞬だけまた見えたような気がした。
ミュゼの表情に少しだけ明るさが戻った。
昼間、オールドリーフ駅で聞いた。空から降ってくるようなざわめきと喧噪が、確かに聞こえてきた。
◇ ◇ ◇
カバンを抱きかかえるように、ホームへと降り立った。ミュゼは言葉を失ってしまう。
見上げる空に空はない。巨大な天蓋を持つ国際駅は天井に音が反響して、人々の声、蒸気機関車の汽笛や蒸気、重たい金属の軋みなどが空から降ってくるのだ。
でも、そのすさまじいばかりの喧噪に、心奪われている余裕はなかった。
「邪魔よ」
と背中を押された。
「あっ、すいません」
そう答えるのがやっとで、今は相手の顔を見る余裕すらない。自分が人の流れという川の中で、顔を覗かせている石のようになっていたことが、ようやくわかってきたのだ。
気をつけなきゃ。
そう心の内で呟くと、ミュゼはカバンをきつく抱えながら、小さな体をさらに小さくして歩き始めた。
すれ違う多くの人たち。
本当にさまざまな人たちがいた。黒いコート姿の紳士たちや、目に鮮やかな色彩を残す、よそよそしい顔の婦人たち。綺麗な装いに大人びた表情の子どもや、黒衣の軍人、生まれてはじめて見る異国の一団、駅で働く駅員やポーターに、物売り。
ただ一つのプラットホームでさえ、小さな村の祭りと等しい賑わいが広がっている。
「私、この街で、働くんだ」
そう口元でつぶやこうとしたけど、つぶやきにすらならなかった。口の中がカラカラになっていた。
見上げると、大きなアーチが見える。
その大きなアーチは竜のような顎を開き、多くの人々を吐き出し、同じ数だけの人々が吸い込まれていく。ミュゼも人の流れに乗って、そのアーチに吸い込まれて、巨大な待合いホールへ足を踏み入れた。自然に足が止まってしまう。
ドームの天井に、叙事詩が広がっていた。
陽の光を受けて輝くステンドグラスが、この地に棲まったという竜の王「汐の王」の物語を見る者に語りかけてくる。ミュゼは息をするのも忘れて物語を追い続け、追い続けた後。一番大切なことを思い出した。
待ち合わせの、天使の像はすぐにも目に飛び込んできた。
ミュゼは、人の流れを横切るように、時には小走り、時には流れに流されながら、ホール中央の天使の像へと少しずつ近づいていく。
天使の像にたどり着くと、カバンを落とすように置き、ふぅ、と息をついてしまった。
いけない、いけない……でも、これが都会なんだ。
ミュゼは大ホールを見回し、天使の像を見上げた。
大理石で作られた白い天使の像。
どのような小さな街でも、この王国なら必ずある天使の像。
この街の天使は、ミュゼの故郷の天使とは比べものにならないほど大きい。風を真正面から受ける短衣や腰帯、広げられた一対の翼。その、今にも風を蹴って飛び立ちそうな躍動感は、本物の天使の時間を止めて台座につなぎ止めてしまったようにさえ思えた。
すばらしい技と感性の結晶に違いなかった。けれど、ミュゼは少し違和感を覚えた。
街を守るといわれる天使の像。
ミュゼの知っている天使は、街の空気に溶け込んでいるものだった。風景とそのまま混じり合って何も語らないような。でも、この天使は、今にもこのホールから飛び立ち、街の人々を見守っていこうとする。そんな強い感じがした。
「あ」
ミュゼは思い出した。
この街はお医者様と兵隊さんの街だから、こういう天使が一番ふさわしいんだ、と思った。
そう思うと、ミュゼは何か新しいものを見つけたかのように嬉しくなって、
「よろしくお願いします」
と、自然と天使の像に挨拶をしていた。
「失礼。あなたがハイランドのミュゼですか?」
初めての都会で自分の名前が呼ばれて、ミュゼはゆっくり振り向いた。
そこには、高いその背を灰色の軍装で覆った男の人が立っていた。
小さくうなずいて、
「あ、あの」
「アルバート・ゼルプルです」
ゼルプルと名乗った男の人は、軍人とは思えない長い黒髪をしていて、後ろで一本に束ねてあった。持っている雰囲気だろうか? 若い貴族という感じがする。
でも、そのことがミュゼの頬を真っ赤にし、口に手を当てさせ、返事をする言葉を奪ったのではなかった。
ゼルプルは続けた。
「今、君はこの天使の像に話しかけていなかったかな?」
ミュゼは、これ以上無いくらいに顔を真っ赤にしてうなずいた。
「なるほど」ゼルプルは天使の像を見上げ、ミュゼに視線を戻した。「ん? どうしたんだね」
ミュゼは、大きく首を横に振りながら、
「いえ、あの、その。迎えにはバーゼルさんがいらっしゃると思っていて、旦那様がいらっしゃるとは思っていなかったし、それに……」
「それに。何だね」
「えっ、あ」
ミュゼは、喉に何かが詰まったようになって、上手く言葉が出てこなかった。
「気にすることはない。屋敷に戻る途中、寄っただけだ。
もっとも、バーゼルがわざわざハイランドから呼び寄せたメイドを見ておきたいとも思ったがね」
ゼルプルの言葉に、ミュゼは頬がさらに熱くなっていくのを感じた。
「あの、その」
ミュゼは、そんなことないです。と、言いたかったのに、口が言葉を忘れてしまったかのように、言葉が出てこなくって、うつむくことしかできなかった。
そんな様子のミュゼに、ゼルプルは軽く微笑みを向けて、
「では、屋敷へ行こう」
ゼルプルはミュゼのカバンに手を伸ばした。
「あ、カバン、自分で持ちます」
慌ててさえぎる。
ゼルプルはうなずいただけで歩き出したが、思い出したかのように足を止めて、天使の像に視線を向けた。
「そういえば、私もたまに思うのだ」
ゼルプルの言葉にミュゼは顔を上げ、ゼルプルと同じ方を見上げた。
「この天使は実は生きているのではないか、とね。では行こう」
ゼルプルは歩き出した。
ミュゼはまるで何かにあてられたかのように、その場に立ち尽くしてしまった。
けれど、すぐに自分を取り戻すと、ゼルプルの後を追いかけた。
◇ ◇ ◇
なんでだろう? 旦那様のことを考えると、そわそわしてくる。
ミュゼは新しい便箋を前に、気分が落ち着かなくなってゆくのを感じた。
そう言えば、この後のことをよく覚えてない。
◇ ◇ ◇
ミュゼは旦那様と共に、駅からお屋敷まで車に乗ったのに、お屋敷までの道順はおろか、車を運転し、ドアの開け閉めまでしてくれた兵隊さんの顔すら思い出せなかった。
まるで夢の中で歩いていたような気分だった。
「どうしたのあんた? ぼーっとして」
ミュゼはそう言われて、はっ、と我に返った。
目の前にいる二十ぐらいの女性は、この家に仕えるメイドのマルシェだ。旦那様は、ミュゼをマルシェに引き合わせた
後、階段を上がり自室へと戻られていった。
「あんた、都会に食われていると、魔女に苛められるよ」
ミュゼを紹介されたマルシェは、いつまでも、ぼーっとしているミュゼが、都会の気に当てられたと思ったようだ。マルシェ自身、そういう経験があったのかもしれない。
「とにかく、しゃきっとなさい。都会は嫌味を言わないけど、魔女は言いたい放題だからね」
早口で喋る感じといい、腰に手を当ててしゃべる調子といい、前の屋敷の先輩と印象が重なる。きっと、マルシェさんは、てきぱき仕事をする「強い人」と、ミュゼは思った。
「それとも、都会じゃなくて、旦那様にあてられたのかしら?」
マルシェはニヤリといった感じの笑みを浮かべた。
ミュゼは、頬に熱いものを感じながら、思いっきり首を横に振った。
「ま、どっちでもいいけど。魔女にとやかく言わせないようになさい」
そのマルシェの声だけで、ミュゼは背中を叩かれたような気がした。
「……魔女様がいるんですか?」
「様ってなんだい? あんた魔女の紹介できたんだろ?」
「いえ、私は、前に働いていたお屋敷の奥方の紹介で来ました。あ、紹介状……」鞄の中から紹介状を取ろうと手を伸ばす。「奥方の知り合いのバーゼルさんという方が、都会でメイドを探されているというお話で、奥方が行くようにと薦めてくれたのです」
鞄を床に置き差し出した紹介状に、マルシェは一瞥を向けると、
「いらないよ。大事にとっておきな」
目が皿のようになったと、ミュゼは思った。
「あんた、旦那様と一緒にこの屋敷に来たんだし。第一、そのバーゼルさんていうのが魔女なのよ。バーゼルさん、なんて。名前で呼ぶのは旦那様ぐらいなものよ。じゃ、あんた。この屋敷は、旦那様とリアお嬢様の二人というのも知らないで来たの?」
「いいえ」
「そう。あと旦那様の車を運転してた若造君がたまに泊まり込むのは知ってる?」
「いいえ」
と、ミュゼは首を横に振った。
「運転手兼護衛の兵隊さんってわけ。本当は使用人めいたおっさんが相場なんだけど、なぜかうちの旦那様のは、腹ぺこの若造君だから、ご飯はいつも三人前よ。兵舎でもしっかり食べてる癖にね。専用の部屋もあるわ。あとで案内するから。とにかく荷物を持って、上に上がりましょ。歩きながらだって話しはできるんだから」
マルシェの言葉にミュゼはうなずいた。
「で、話しの続きだけど、仕事の分掌をおおまかに言っておくと。修繕と渉外、朝食を仕切っているのが、この私。魔女の方は、お嬢様の身の回りのお世話と、夕飯、夜食といったところ。あ、あと、お嬢様のおやつは交代制かな。ここまでで質問ある?」
マルシェは一気にまくし立てた。
「あの、旦那様の身の回りのお世話はどなたが」
「旦那様は、身の回りのことは大抵御自分でなさるわ。それに、お嬢様へのお世話も最低限に、と言われているの。だから、私と魔女だけで、この屋敷を切る盛りできるわけ。田舎の御屋敷はどうだか知らないけど、軍人の家って、来客にさえ気をつければ手がかからないものよ」
マルシェは軽く言い切った。でも、ミュゼにはこのお屋敷が二人のメイドでどうにかなるとは思えなかった。
屋敷そのものは、華美でもなく、特別広いというわけでもなかったけど。例えば、階段の踊り場に花が生けてある花瓶一つにしても、本物だけが持っている気品や、落ちつきを持っていて、お屋敷全体がそのような雰囲気で満たされていた。そういうものを保つには、普段からの手入れが物を言う。
「マルシェさんとバーゼルさんだけで……」
すごく大変かもしれない。ミュゼは小さく握りこぶしを作った。
「マルシェさん、なんてやめてよ。柄じゃないわ。マルシェでいいよ。あと魔女も魔女と呼んだほうがいいかも」
小さく「はい」とミュゼはうなずいた。
「あと、魔女はこのお屋敷に住み込んでいるけど、私は見た目の通り通ってるわ。とにかくがんばってよ。あと一週間しか私はいないんだから」
マルシェは立ち止まると腰に手を当て、ミュゼの目を見ながら言った。
ミュゼは、マルシェにその理由を尋ねなかった。その代わりに、
「いつなのですか?」
ミュゼは、マルシェの白いエプロンのおなかに、優しい笑みを向けた。
「予定ではあと四週間といったとこよ。本当はギリギリまで仕事したいけど、そうもいかないってさ。初めての子どもだし、魔女も次の満月が過ぎたら、邪魔だからとっとと子どもに備えろ、て言うしね」
マルシェは、ミュゼの笑みにつられるように笑った。
でも、
「とにかく時間ないんだから、ビシバシ厳しく行くわよ」
と言った途端、マルシェの笑いはまるでオオカミが笑うかのようになり、ミュゼの笑みは少し引きつった。
「もっとも、魔女がわざわざハイランドから呼び寄せるぐらいだから、鍛えられるのはこっちだったりして」
「そ、そんなことないです。(前のお屋敷の)奥方とバーゼルさんが親しい知り合いだったというだけです」
「ふぅん。あの魔女がね。ま、若い頃、王室のメイド長をやってたくらいだから、お偉いさんにも親しい人が多いのかな」
ミュゼとマルシェは階段を三回ほど上った。階段はさらに上へと続いている。
「やれやれ、やっとついた。四階と屋根裏はね、使わない家財の倉庫と旦那様の資料倉庫になってるわ。普段、誰も行かないけどね。本当は下の階にも余っている部屋あるんだけど。日当たりがいまいちだから」
「平気です」
「そぉ。私には堪えるわ、何せ二人分だからね」
少し廊下を進んで、
「ここがあんたの部屋よ。掃除はしたからすぐにでも使えるけど、ちょっと殺風景だし。電気屋が明日にならないと来ないって言うものだから、今日だけランプ使わないとだけど」
ミュゼは、ベッドと机、タンスといった最低限の調度しかない部屋に入った。マルシェの言うとおり掃除された部屋は少し殺風景に思えた。
ミュゼはまるで誘われるかのように窓へと歩いていく。
カーテンを払いのけ、窓を開けると、頬に少し冷たい風を感じた。家々と屋根が続いてくその隙間と隙間の間に、ほんの少しだけ空の青さとは違う青が見えた。
「……汐の内海」
「へー、古い名前知っているのね。昔話だっけ?」
ミュゼはうなずいた。
「あっ、あんた。そのうなずくだけって癖、直しなさい。少なくとも魔女には「はい」って、答えないと、嫌味を言われる口実をわざわざ作ってあげるようなものよ」
「は、はい」
「よろしい。で、どう? この部屋気に入った」
ミュゼは自然にうなずこうとして、
「はい」と不自然な感じに言った。
「ふふ、その調子。じゃ、そこのタンス開けてみて」
マルシェは、またニヤリと笑った。
ミュゼは、そんなマルシェの笑みに気づかずに、言われた通りタンスを開けてみた。
中には、二着の紺色のワンピース、白いフリルのついたエプロンが四枚、綿の質素なエプロンが六枚下がっていた。
ミュゼの顔がほころんでゆく。
「もともと、私のサイズの奴だから、肩が少し余るかもしれないけど。詰められるでしょ?」
ミュゼはうなずいたあとに、「はい」と答えた。
「さぁ着てみて、私は姿見とって来るわ」
そう言って、姿見を取りに行くマルシェに、ミュゼはお礼を言うと、ハンガー掛けからパフスリーブのワンピースを手に取った。
きめ細やかなつややかな肌触り。ミュゼは、まるで小さな縫い目の一つ一つまで確かめるかのようにワンピースを見た。
この礼服を着て仕事をするんだ。
ミュゼはこの服を着て仕事を次々にこなしてゆく自分を思い描いた。
軽く自分にうなずきかけると、着てきたワンピースから紺色のワンピースに袖を通してみる。着てみると少し肩が余ったのと、スカート丈が長くなってしまったけど、少しの手直しで済むことがわかる。
リボンタイしめて、エプロンを後ろで結び、手探りで頭にヘッドドレスを着けた。
急に背筋が伸びたような気がした。
小さくその場で回わってみる。長いスカートの裾が広がった。ミュゼは子どものように目を輝かせると、少し早く回ってみた。スカートが風をはらみ紺色の海のようになった。
「何してるの?」
そのマルシェの声に、ミュゼは水を頭からかけられたような表情になった。だんだん頬が沸騰して行くのを感じた。
◇ ◇ ◇
ミュゼは頬が熱くなって、意識は現実の世界に戻ってきた。
視線の先が、出し損ねてしまった紹介状へと向いた。奥方が自分から筆を執り、蜜蝋で封がされたものだ。
ミュゼは、その封書を手に取ると、大事なものを仕舞うかのように、一冊だけ、どうしても売らずに取っておいた学校の教科書に挟み込んだ。
◇ ◇ ◇
「この大時計、時計職人も匙を投げた難物で、一日きっちり五分だけ遅れるの。毎朝ここを開けて調節して。あと、一週間に一度ここを開けて、ここを引っ張って重しを上にあげてちょうだい」
「はい」
ミュゼは、頭の中の本棚がきゅうきゅうになっていた。魔女と呼ばれているバーゼルさんのいる台所へ向かう途中も、マルシェにとっては、色々なことを教える授業時間だったからだ。
リネンの扱いや、掃除の順番や方法。各階の部屋の間取り……覚えなければいけないことがたくさんあった。マルシェはそんなミュゼを見透かしたのか、
「明日も全部一緒にやるから、今、全部覚えなくっても大丈夫。でも、あさってになっても覚えていなかったら」
ここで、マルシェは言葉を切ったので、ミュゼはつられて、
「……なかったら?」
「どっか~ん」
マルシェの声に、ミュゼはビクッとなった。
「ははは、冗談だけど、半分本気よ。この仕事は家事の延長じゃないんだから、チンタラ覚えればいいって物ではないでしょ? それに、家事だったら許されるミスも、ここじゃ許されない。わかるでしょ?」
ミュゼはうなずいた。
「だから、うなずくだけは、やめなさい」
「は、はい」
「よろしい。じゃ、最後に台所へ行きましょう。魔女を紹介するわ」
マルシェにうなずこうとしたところで、ミュゼは視線を感じた。その方向を見ると、六歳ぐらいの女の子がこちらを見ていた。
フワフワとした繊細な髪の小さな女の子。
ミュゼは反射的にお辞儀をした。それに気がついたマルシェが、
「リアお嬢様お帰りなさいませ。今、新しく入ったメイドに案内をしています」
「ハイランドのミュゼです。よろしくおねがいします」
ミュゼの声に、小さなリアは視線を逸らすと、階段を駆け上がっていってしまった。
ミュゼは何かを言おうとしたけど何も言えなかった。
「気にしなくてもいいよ。リアお嬢様はいつもはああだから。悪い子じゃないけど、すごく人見知りをするの。お母様を早くに亡くされたから。でも、すごくいい子よ。大事にしてあげて」
「はい」と、ミュゼはうなずいた。
かすかにしていた甘い匂いが、台所に近づくたびに強くなってきた。
マルシェに後に付いて、台所へ入ったミュゼはドキリとした。
五十をとうに越えて、白くなった長髪を邪魔にならないように結った女性がミュゼを睨むでもなく見ていた。
「連れてきたわ新人。ほれ」
マルシェに促されて、
「は、はい。ハイランドのミュゼです。フィオナ様の紹介で参りました。よろしくおねがいします」
お辞儀をして顔を上げたミュゼは、魔女の眼鏡越しの目と合った。
魔女は何も言わず、ミュゼを値踏みでもするかのように見ていた。
やがて口を開くと、
「なんてざまだい。またずいぶんとまぁ情けないのをよこしてくれたね」
いかにも魔女らしい、にごった感じの声に、ミュゼはかすかな痛みを感じた。
魔女の言葉はさらに続く、
「ま、フィオナはどこか抜けたところがあるから、大方、こんな娘でも十分使えると思ったのかね」
かすかな痛みは、お裁縫で失敗して自分の指に針を刺したときのように痛んだ。それも、自分のことをけなされることよりも、自分のせいで奥方のフィオナ様をけなされることが、ミュゼを痛くした。
「ま、いい。追い返すにしても、夜行までまだ時間がある。どこまで使いものになるのか、試してみようじゃないか」
「はい」
ミュゼは下唇をかんだ。
「じゃ、お茶を淹れることはできるね? それぐらいはできなきゃ困るが。旦那様とリア様に紅茶を淹れとくれ。マルシェ、お菓子を頼んだよ。アプリコットパイを紅茶と一緒に運んで、落とされでもしたら大変だからね。
私は旦那様方に知らせてくる」
「はい」
と、マルシェが返事を返したときには、マルシェは鍋つかみをはめて、手際よく、薪オーブンからパイを取り出していた。
甘く香ばしい熱気と匂いが台所を包んだ。ミュゼの視線が一瞬止まってしまうような、カラメルの色に光るアプリコットパイ。
マルシェは手際よくそれを皿に盛った。
「魔女は、いつもあーよ。だから気にしない、気にしない。でも、魔女はああ言うだけあって、かなりできるわよ。元王室のメイド長は伊達じゃないんだから。このパイだって、見た目もそうだけど、風味も味も特別よ」
ミュゼは、軽くうなずいただけだった。けれどマルシェは怒らなかった。その代わりにミュゼの眼差しにニヤリと笑った。
ミュゼは茶道具と茶葉を見た。ミルクはもう温められていて、ポットも保温のためのティーコゼがかかっていた。
私を送り出してくださった奥方のためにも、おいしい紅茶を淹れなくては。
「マルシェさん、旦那様とお嬢様の好みは?」
「旦那様は特にないけど、お嬢様はミルクを多く使うわ」
お茶は、シロンのお茶だから、あまり濃く淹れると、渋みに香りが負けてしまう。でもミルクに負けないためには……。
ミュゼは、頭の中で屋敷の様子を思い描いた。
ミュゼが考え込んだのは、本当にわずかな時間でしかなかった。
まず、鶏を模したティーコゼを外して、肌の厚い茶色のポットのほんのりと温かくなった取っ手をつかんだ。
すごく手によくなじむポット。
まるでそのポットから染み出したかのように、ミュゼは緊張がほぐれていくのを感じた。
うん、いつものとおりに。
ミュゼは肩から力を抜いて息を小さくつくと、ポットに入っていたお湯を捨て、シロン茶をポットに入れた。
人数分プラス味と香りを左右する采配。
ミュゼは、この采配を、ハイランドのお屋敷でやってきたとおりにやった。新しいお湯をポットに注ぎ入れて、ティーコゼをかぶせると、残りの湯でカップと茶漉しを温めた。
ミュゼの手際のよさに、マルシェは、口笛を吹くような顔になっていた。
「用意はできた?」
「はい」
ミュゼは茶道具たちに音を立てさせないように、慎重にトレーを持ち上げた。
歓談室の前まで来ると、マルシェは一度、ミュゼに目配せをし、ノックをして中に入った。
小さな円卓にちょうど向かい合わせになるように、旦那様と小さなリアお嬢様が座っている。
「今日は、パイか」
旦那様はマルシェの持つトレーの上のアプリコットパイに視線を向けた。
「はい。お嬢様のリクエストでアプリコットを使ってみました」
と、バーゼルが説明する。
「そうか、では、私も今日はいただくとしよう」
「マルシェ」
短く魔女の声が飛ぶ。
「はい、かしこまりました」
サイドテーブルの上でマルシェはパイに包丁を入れ、香ばしい匂いと音を立てながらパイを八等分にした。その隣で、ミュゼは琥珀にも似た紅茶を温められた白いカップに注ぎいれる。
「失礼します」
ミュゼは、旦那様とリアお嬢様の前に紅茶を出した。
「ほぉ」
と、旦那様は声をあげた。
「いい香りだ。新しいお茶かい?」
ミュゼのかわりにマルシェが、よそ行きの声を挙げる。
「いいえ、旦那様。お茶は変わってませんが、お茶を入れるメイドが新しいんですよ。ミュゼ、旦那様とリアお嬢様に、改めて御挨拶を」
「ハイランドのミュゼです。よろしくおねがいします」
ミュゼはお辞儀をした。
旦那様は軽くうなずいたけど、リアお嬢様は顔をぷいっと横に向けてしまった。
旦那様はそんな娘に苦笑いを浮かべて、
「リア。ご挨拶なさい」
諭すような言葉にも、リアお嬢様は「やだもん」と、口をへの字にしただけだった。
ミュゼの顔が曇った。
「こんな紅茶いらない」
リアお嬢様は椅子を降りると、旦那様の止める声も聞かずに、そのまま歓談室を出て行ってしまった。
「すまないミュゼ。あの娘を悪く思わないでくれ」
「そんな、とんでもない」と、ミュゼは言えなかった。たとえ言えてたとしても、魔女の声にかき消されていたに違いない。
「リアお嬢様は、まったく悪くございません」
魔女は耳の奥までジンジンしそうな大声を張り上げた。
「こうなったのは、このハイランドの片田舎から来た娘のせいです」
ミュゼは、叩かれてもいないのに、頬を張られたような気分になった。魔女が一瞬だけ、金色の瞳をギラつかせた牙が三列もある狼に見えた。
「あなたは下がりなさい」
魔女にそう言われて歓談室から出てきたとき、今すぐ、帰りたい、と思った。
耳は鳴り、鼓動は激しく、目はちかちかした。ミュゼは半ば走るかのように早足で台所に戻った。
「はぁ」と短く息をつくと、だんだん目の前がぼやけてきた。
泣いているときじゃないのに。
そう思えばそう思うほど、ミュゼの目に涙があふれた。
何かに呼ばれたような気がして、ミュゼはうつむいた顔を上げ振り返った。
「はい?」
リアお嬢様が台所の入り口に立っていた。手を後ろに組んでミュゼの視線と合わないようにうつむいていた。
ミュゼはあわてて袖で涙をぬぐった。
「私、悪くないんだから」
リアお嬢様は、口元でそう言った。
「……」
ミュゼはすぐに言葉が出なかった。
「私悪くないもん。ミュゼが怒られたの私のせいじゃないんだから」
リアお嬢様はさっきより大きな声で言った。ミュゼはゆっくりと表情を和らげていった。
「はい。リアお嬢様のせいではありません」
「ただ、あの時、紅茶を飲みたくなかっただけ」
「はい」
ミュゼはうなずいた。
「ミュゼは怒ってないの?」
リアお嬢様は、チラッと、ミュゼの方を見て、また目線をそらした。
「怒ってません。ちっとも」
自然と笑顔になる。
「それだけだから」
リアお嬢様は駆け出した。
廊下の少し先で、
「お嬢様、走っているところを怖い魔女に見つかると、後が大変、厄介ですよ」
と、マルシェの声がして、マルシェが茶道具一式やパイなどを持って台所へ戻ってきた。
「あら、いたの?」
マルシェは意外そうな顔をした。
「はい」とミュゼはうなずいた。
「私はてっきり、自分の部屋に戻って荷物をまとめてるのかと思ったよ」
マルシェはニヤリと笑った。
「そうですね。ハイランドに帰りたいと思いました。でも、今はそう思いません」
「そうかい、そりゃよかった。せっかく旦那様があんたの紅茶をおいしいって褒めていたし」
「え」と、ミュゼは、何かにつままれたような顔になった。
「リアお嬢様ともうまくやれそうだしね」
「はい」
ミュゼは微笑みと共にうなずいた。
「さて、魔女が来る前にさっさと片付けて、いつでも夕食の準備に取りかかれるようにするよ。さもないと、とっとと田舎に帰れ! って、オールドリーフ育ちの私まで言われちまうよ」
マルシェにつられてミュゼは笑った。
◇ ◇ ◇
金のペン先がまた止まった。ミュゼは顔を上げて、
バーゼルさんが怒ったから、リアお嬢様と仲良くなれた……バーゼルさんはそれがわかっていたのかも。
ミュゼは、小さくうなずくと、手紙の最後の部分を書き始めた。
すごく厳しくて、
すごく素敵な先輩たちに囲まれて、
私、がんばってゆきます。
ミュゼ
小さなお客様
数え間違え?
ミュゼは、パチ、パチ、音が出るような、瞬きをした。お客様用のバスタオルが二枚ほど少なくなっていた。もう一度数え直そうとした手が止まる。
「もしかして……」
ひらめきには自信があった。けれども今それを確かめている暇はない。
お客様がお見えになるのだ。それも旦那様の恩師ということを、この屋敷を取り仕切る先輩のメイド、バーゼルさんこと魔女から聞かされていた。
タオルがない理由を確かめることに、とりあえずは三番の札を下げて、タオルと枕カバー、布団カバーにシーツ諸々をワゴンに乗せた。今、一番の札が付いているのは、客室のベッドメイキングなのだから。
ミュゼは、ワゴンを押しながらリネン室を出て、客室へと向かうわずかな時間も無駄にはしない。飾られた美術品とその台は? 廊下の絵画の額縁に汚れは? 飾られた花は? 鈴蘭を模したガラスの電灯の笠はどう? と心の中で呟きながら目を光らせる。その心の声がいつからか、前任者で今は出産休暇をいただいているマルシェの声になっていることに気がつき、思わず表情を崩した。
この時間を無駄にしないやり方は、マルシェに習ったものだ。この屋敷に来てからの一週間は、まるで五年前のメイド見習いに戻ったかのようで、新鮮だった。
「よはね、お客様との勝負なのよ。お客様にくつろいでいただければ私たちの勝ち。そうでなければ負け。だからできる限りのことをやる」
マルシェは腰に手をあてた、いつものポーズと早口で、ミュゼにそう言ったものだ。
がんばらなきゃ。とミュゼは心の中でつぶやいた。
客室に入ると、ベッドの下の隙間を見せなくするベッドスカートをまず確認した。「よし」とうなずくと、マットレスの上にベッドマットを広げる。糊の効いた枕カバーと掛け布団カバーをそれぞれつけたあと、手元でシーツの調子を確かめるかのようにしごくと、一気に白い海を広げた。
ミュゼはいつもの正確さでシーツを敷き終えると、掛け布団をしき、カバーの布をベッドマットレスの下に巻き込んだ。
早さと、正確さ。この二つが決まると、気持ちが良い。
最後に枕を置いて、一息つく。
ベッドの全体を見て軽くうなずくと、最後にベッドスプレッドをかけた。
次に、天井のすみから、床のすみまで。バスルームも天井のすみから、排水口まで、チリの一かけらを探し求めるかのように視線を走らせ、手の届くところは手に持った白い布を走らせた。
仕上げに、バスルームの手すりにバスタオルをかけて、客室の戸口から、もう一度客室全体を見渡しながら、
「うん」と、満足そうにうなずいた。
カートを元あったリネン室に戻すと、ミュゼは、いつもよりもずっと早歩きで、音も立てずに角を曲がり、階段を下りて、台所へと向かった。
今では一番の札がかかっている、タオルがない理由とその予想を確かめるために。
もちろん、その間も、チリ一つ落ちているのを逃さないように、ミュゼは目を光らせていた。
◇ ◇ ◇
ミュゼは台所に入ると、まず食器棚を見上げた。
ガラスの扉を開けるまでもなく、ミュゼの予想通りに、低い棚に仕舞われていた小さなスープ皿の数が合わなくなっていた。
冷蔵庫を開けると、予想に反して牛乳瓶の口が開いていなかった。でも、すぐに、この牛乳瓶は意地が悪く、ゴムの瓶開けがいることを思い出した。
ミュゼは軽くうなずくと、勝手口から外へ出てゴミ置き場を見た。木でできた空の野菜ケースが積んであったのに、今は、その山が崩れていた。
鍵のかからないリネン室のバスタオル。
低い棚のスープ皿。
崩れた木箱の山。
この三つから導かれる答えに、「間違いない」と、独りごちをして自分の予想が当を得ていると思った。にもかかわらずミュゼの顔は曇った。
「ミュゼ」
台所の戸口からの、小さなリアお嬢様の声に、ミュゼは曇らせていた顔を、最初から何もなかったかのように微笑みに変えて、「はい」と返事をした。
「ミルクが欲しいの」
「はい。かしこまりました」と、ミュゼは笑顔で返して、
「二つでよろしいですか?」
と聞いた。
「え?」
小さなリアお嬢様があっけにとられたのを見て、ミュゼは自分の予想が間違いないと思った。
「ひ、一つでいいわよ」
リアお嬢様の動揺が手に取るようにわかる。
「少しだけお待ちいただけますか」
「何で?」
「人肌に温めますから」
「え、どうして?」
そう聞かれて、ミュゼは少しだけ言葉を選んだ。失敗すると小さなリアお嬢様は意固地になってしまう。
「小さなお客様は、冷たい牛乳を飲むと、おなかを壊してしまいますから。本当は山羊のお乳がいいんですよ」
「へぇ。え? あ、え? そ、そんなのいない」
この反論は、もちろんミュゼの予想通り。
「リアお嬢様。おままごとで食器やタオル、箱を持っていく時には、少なくとも私に一声おかけください。バーゼルがあまりよく思いませんから」
リアお嬢様は水をかけられたような顔になった。メイドのバーゼルの名前は、ミュゼと同じようにリアお嬢様にも強烈な効果があった。
「う、うん。そうする」
リアお嬢様は、素直に食器やタオルを持って行ったことを認め、上目遣いでミュゼを見た後、目をそらした。
ミュゼは、ひざを折り、小さなお嬢様と同じ目線の高さになって「お嬢様、何かございますか?」と聞いた。
「……ミュゼ。このこと魔女に言いつけたりしない?」
ミュゼは「はい」とうなずいた。
「本当に絶対?」
「はい」
「じゃ、ミルクが出来たら私に付いて来て」
リアお嬢様の輝くような笑顔を前に、ミュゼはリアに意見する最初で最後のチャンスを完全に逃してしまった。しかも、逃したことに気がついたのはすべての準備が整った後だった。ミュゼはまったく意識していなかったけど、まさに、これこそが、メイドに流行る職業病なのだ。
ミュゼはトレイに二人分の牛乳。一つはミルクパンで少し温めたものと、クッキーの入った皿を持って、気が進まないまま、リアお嬢様の後に続いた。
「ミュゼこっちこっち」
リアお嬢様は、階段の手すりから身を乗り出して言った。
お嬢様は自分だけが知っている秘密を教えることが嬉しくてたまらないのだ。
「危ないです。お待ちください」
「こっちこっち」
ミュゼは微笑みながら、嬉しそうにするリアお嬢様に答えていたけど、実は、階段を上るたびに本来の職務を思い出して、気が重くなっていった。
ミュゼのようにメイドを雇っているお屋敷になると、賢い猟犬であるダルメシアンや、南国の美しい羽根を持つ大きなオウム、宝石のような鱗とフィンを持つ空の魚や、優美な毛並みを誇る猫などが飼われているものだった。でも、このお屋敷にはネズミ捕りの半ノラすら、いない。もっとも、猫がいないのは、各種のまじないと、ミュゼたちがねずみが居つけないように、掃除と食材の管理をしていたからだけど。
一番の理由はやはり、このゼルプル家が代々軍医の家系で、衛生には普段から気を使っていたからだ。だから、動物は絶対に飼えない。
バーゼルさんは、きっと反対する。旦那様もけして良いお返事をくださらない。
そう思うと、リアお嬢様が楽しそうにすれば楽しそうにするほど、気が重くなった。
お嬢様になんて言えばいいのだろう。
「ミュゼ遅いよぉ」
「お待ちくださいお嬢様」
階段の手すりが簡素なものに変わって、絨毯がなくなっても、リアお嬢様は階段を上るのをやめなかった。
小さなお嬢様はとうとう階段の行き止まりの天井まで来て、両手で板戸を押し開けた。
「シロ」
リアお嬢様は天井裏に顔だけを出すと、秘密の名前を呼んで天井裏に駆け上がっていった。
その名前で、ミュゼはお嬢様の秘密のお客様が、拾われてきた白い仔犬だと思った。
お屋敷の天井裏は大きく切られた窓があるおかげで、天井裏という言葉のイメージとは大きく違う。床も、整然と並ぶ本棚とそこに収まる本も、まるでバーゼルさんが時々掃除をしているのかと思えるくらいだ。天井裏は天井が大きな三角形を描く図書館のようだった。
その天井裏図書館の奥に、その真っ白な生き物がいた。
大きさは小さな犬ぐらい。全身を毛先の長い毛で覆われていたけど、尻尾はまるでトカゲのような感じで、尻尾の先には扇の形をした小さなフィンが付いていた。
まるで蒼い鋼玉のようなキラキラ光る瞳と、二本の乳白色の角、小さいながらも口には牙が並んでいた。
「竜」
ミュゼは両手が塞がっていなければ手を口に添えていただろう。
「やっぱり。シロは竜の子どもなんだ」
すごく嬉しそうなリアお嬢様と対照的に、ミュゼは意を決したように。
「お嬢様、いつどこで、その竜、シロを拾われたのですか?」
リアお嬢様はシロの喉元や頭を撫でながら、
「学校の帰り、バスから降りたら勝手について来たの」
リアお嬢様は嘘を言われてはいない。竜はそういう生き物。とミュゼは自分の胸が早く鳴っているのを感じた。落ち着いて、落ち着いて。と自分に言い聞かせる。
「すっごく、かわいいでしょ」
「はい」と、ミュゼはどうにかうなずくと、曾祖母に聞かされた昔の話しを思い出そうとした。
お嬢様くらいの子どもの頃、ミュゼの話し相手になってくれたのは、魔女でもあった曾祖母だった。年老いて枯れ木のようになった魔女は、曾孫の娘に、世界の成り立ちから、魔女の教える約束事まで様々な話しをしてくれた。
その中には、竜にまつわる伝説もあった。竜に挑み、自分の命はもとより、草一本に至るまで自分の国を破滅させてしまった王の物語や、竜と友の契りを交し、悪逆な王と戦う英雄の物語などなど。その中でもミュゼを特に夢中にさせたのは、魔女と竜にまつわるお話しだった。
……乳白色の毛の色は、雲の竜で、翼と鬣がないからまだ子ども。でも、瞳の色が……。
「ん、ミュゼどうしたの? 早くミルクを持ってきてよ」
「は、はい」
ミュゼはお嬢様の傍にトレイを置き、温めたミルクをお嬢様が持ってきてしまったスープの皿にぎこちなく注ぎ入れた。手がかすかに震えてしまう。
ちらりと見た竜のシロは、気持ちよさそうにお嬢様に撫でられている。
「ミュゼ。お菓子あげても平気?」
「はい」
ミュゼのうなずきは少しぎこちなかった。
「あれ? どうしたのミュゼ。もしかしてシロが怖いの?」
リアお嬢様は口を少し尖らせた。
「はい。緊張もしています。生まれてはじめて見ましたから」
ミュゼは素直に言うと、リアお嬢様はミュゼの手を取った。
「え」
「もっと近くで見ようよ。すっごくかわいいから。ぜったい噛み付いたりしないよ? ほら」
お嬢様はミュゼの手をシロの頭にのせて撫でさせた。手のひらに温かくつややかな感触が伝わってきた。
「ね?」
竜の温かな感触がミュゼの胸の中のドキドキをすべて吹き飛ばし、あふれ出すような喜びへと変えるのに時間はいらなかった。緊張気味だった顔は、笑顔へと変わる。
ミュゼはシロを撫でながら二重に嬉しかった。子どもの頃、曾祖母に聞かされ、夢にまで見た竜に触れることができたこと、リアお嬢様と想いを共有できたこと。
「ほら、すっごく、すべすべしているでしょ」
「本当」
ミュゼは竜の背をそっと撫でた。
◇ ◇ ◇
「まったく、この猫の手も借りたいときに、どこで油を売っていたんだろうね? あんたは」
ミュゼが台所に戻ったとき、バーゼルさんの、魔女というあだ名にふさわしい濁った声で出迎えられた。
「申し訳ありません」
ミュゼは深々と頭を下げた。
「頭を下げる暇があるなら、さっさと準備をおし。あと五分でタクシーが来るのだからね」
ミュゼにはバーゼルさんが何を言っているのかさっぱりわからなかった。それが顔に出ると、
「まったく、夢でも見ていたのかね。給与泥棒が。それでブルカニロ博士のお出迎えが務まるものか怪しいものだ。それとも、あんたはブルカニロ博士に出迎えなしで来てもらうつもりだったのかい?」
ミュゼは「いいえ」と首を横に振り、
「あの」
と口ごもった。
ブルカニロ博士を出迎えることをミュゼは知らなかった。それどころか、その外見や待ち合わせ場所も聞いてはいない。
バーゼルさんの眼鏡の奥で、山が動くような感情の波が動くのをミュゼは見たような気がした。
「駅に行って天使の像の下で待っていれば、いやでもわかるさ。さっさと準備をおし」
ミュゼは分かっていたのに、涙が溢れそうになった。
初めてバーゼルさんと話したらきっと誰でも面を食らうだろう。ゼルプル家の人間以外は、例え大将軍閣下でも、バーゼルさんに怒鳴られるに違いなかった。
でも、不思議なことに、バーゼルさんの暴言とも言える言葉は、後々つじつまが合ってしまうのだ。
ミュゼは嗚咽の代わりに「はい」と返事をして、台所入口の壁に据えられた鏡の前でリボンタイや、スカート、エプロンを確認して、ヘッドドレスの位置を直した。
タクシーはバーゼルさんの言うように、正確に五分後到着した。さらに、三十分後には、二ヶ月ぶりだろうか、ミュゼは再び駅の、あの力に満ちた天使の像の前に立っていた。国際駅の巨大な円形ホールは、今日も様々な人々で賑わい。反響した声が、空からも降り注いでいた。
ミュゼはその力強い天使を背にして、ホームの方へと続く階段の方を、さきほどからじっと見ていた。でも、博士らしい人物は一向に現れる様子がなかった。
一度、まったく隙のない老紳士がトランクを片手にミュゼの方へ歩いてくるのを見て、ご挨拶しようとした途端。横から出てきた黒い軍服の人たちと握手を交わして行ってしまったりもした。
ミュゼの中で、行き違いや様々な不安が頭をもたげてきた頃。
「なかなか気がついてはもらえんの」
ミュゼは何かに胸をつかれたような顔で、自分の隣に並んで立つ、子どものように背の低い。鼻眼鏡の老人の方を見た。
「あの、ブルカニロ博士ですか?」
と声をかけた。
「おう、いかにも、ワシがブルカニロ博士じゃ」
老人は鼻眼鏡をずりあげた。
「申し訳ありません」
ミュゼは顔を真っ赤にした。この老博士はもう十分以上ミュゼの隣にいたのだ。
「なーに、慣れっこじゃよ。ワシは年の割に若く見られるらしく、誰もワシがブルカニロ博士だと気づきやしない」モップを逆さに頭からかぶったような白髪の老人は、ウインクをして見せた。「それより、マルシェはどうしたのかな。ワシはてっきりマルシェが迎えに来ると思っておったのじゃが」
「マルシェさんは、今、出産休暇を取られてまして」
「ほほ、あのマルシェが。して、お嬢さんの名前は」
「は、はい。自己紹介が遅れましたハイランドのミュゼです」
「ほほ、ミュゼさんか、なかなか良い名前じゃな。ワシの名は知っての通りブルカニロじゃ、呼び捨てで呼んでくれても一向に差し支えはない」
「ミュゼで結構です。博士、荷物をお持ちします」
ミュゼは博士のトランクを取ろうとして、
「いや、構わん」と、手を伸ばした博士の手と触れた。
「ん? ミュゼは冷え性もちじゃな」
博士はミュゼの顔を見上げた。
「……はい」
ミュゼは不思議そうにうなずいた。
「冬、足が冷えて寝苦しいじゃろ。胃腸が弱いせいもあるが」
ミュゼはゆっくりうなずいた。子どもの頃から手足の冷えが酷く冬場に寝苦しい夜を過ごす日が少なくなかった。胃腸が強くないのも当たっていた。
「なぜわかるのですか?」
「ふむ、良い質問じゃな。ここではなんだから、歩きながら話そう。
ワシはな。手を触れることでその人間の体質や状態をずばり当てることが出来るんじゃ」
ミュゼは「はぁ」としか言えなかった。
「子どもの頃にな、おばけと取引をしたんじゃ。宝物をとっかえこしようとな」
「おばけですか」
「そうじゃ。それでワシはこの力を得たんじゃが、その代わり背が伸びんようになった」
「背、ですか」
ミュゼは背筋が寒くなった。背を奪うおばけは、命をも奪うことがあると曾祖母に聞かされていたからだ。
「しかも、ワシは下手にこんな力を得てしまったがために、実地より教鞭を執ったのじゃ」
「なぜですか」
「助からない人間もわかってしまうんじゃ。それでは医者をやる意味がない」
ミュゼは胸を突かれたような表情になり、
「すみません」
「ほほ。ミュゼが気にすることではない。つまらん話になったな。ところでバーゼルは息災か」
「はい、怒られてばかりいます」
ミュゼはうなずくのと一緒に話題をかえるため、そう一言添えた。
「あの女傑が怒らない日など、など、あるまいて。ワシも怒られっぱなしじゃ」
博士の笑い声にミュゼも微笑んだ。
◇ ◇ ◇
あわただしい一日が終わろうとしていた。
博士は、バーゼルさんが腕によりをかけた夕食に舌鼓を打ち。今頃、旦那様と書斎でブランデーを傾けているはずだった。
こうなるとミュゼがすることは少ない。二十二時にバーゼルさんが就寝すると、あとは二十三時にお屋敷中を点検に回れば一日の仕事はおしまいだった。
明日こそは、バーゼルさんにシロのこと言わないと。
ミュゼは、台所でそんなことを考えながら洗面器にお湯を注いだ。昼間、博士に言われた冷え性を軽くするための療法を試そうと思っていた。
いざ、パンプスを脱ごうとしたその時、背中に声をかけられた。
「ミュゼ、大変なの。早く来て」
リアお嬢様が寝間着姿で台所の戸口に立っていた。
「どうされたのですか?」
「シロが、シロが」
今にも泣き出しそうな声に、ミュゼはお嬢様に駆け寄ってかがみ込み、目の高さを合わせ、
「落ち着いてください。どうかされたのですか?」
小さなお嬢様の背中に優しく手を添えた。
「シロがね。シロが、横になって唸ってるの、毛の色も変だし」
「わかりました。今すぐ、行きましょう」
ミュゼはうなずいてみせた。
「はやく、こっち」
小さなリアお嬢様はミュゼの手を引っ張った。
階段を駆け上りながら、ミュゼは曾祖母の言っていた竜にまつわる言葉を思い出していた。
ミュゼは自分の部屋のある階で、
「お嬢様、先に行っていてください。私もすぐあとから行きますから」
ミュゼはお嬢様の返事を待ってから自分の部屋に駆け込んだ。ペン立てにあった羽ペンを取って、ペン先を見て軽くうなずいた後。屋根裏に向かった。
月明かりの差し込む屋根裏部屋で、ランプの明かりが灯っていた。
ミュゼがかけよると、バスタオルにくるまれたシロが横になり荒い息をついていた。全身の毛は、昼間に見たときのような白さではなく、くすんでいる様に思えた。
「シロ、シロ」
お嬢様が心配そうな声を繰り返していた。
ミュゼは金のペン先をシロの口元に添えた。
「ミュゼそれは?」
「あまり自信がないのですが、私の曾祖母が、竜にとって金ははちみつのようなもの、と言ったのを思い出しまして」
ミュゼがすべてを言い終わらないうちに、お嬢様が「あ」という声を立てた。
シロの舌が金のペン先を舐めた。
金のペン先は舐められると、まるで本当のはちみつのように溶け出した。
「リアお嬢様、毛の色が」
頭の先の方から広がっていくようにして、白く長い毛に鮮やかなつやが戻り、まるでその体自体が白く光っているようにすら思えた。
「よかった」
「これで大丈夫ですね」
とミュゼが言おうとした、その時。シロの全身の毛がものすごい勢いで伸び始めて、シロを厚く覆いだした。
「シロ、シロぉ」
お嬢様の呼びかけもむなしく、シロは繭のように膨れあがった。本当に繭になってしまったと言った方がよかったのかもしれない。
ミュゼは心の中で強くうなずくと。
「お嬢様、今から博士を呼んできます。お嬢様はお部屋にお戻りください」
「いや、シロのとこにいる」
「旦那様に怒られてしまいますよ」
「それでもいい」
ミュゼはうなずくと、階段を駆け下りた。一路、書斎へと向かう。
主人のくつろぎの時間を邪魔することが、どういった意味を持っているか、知事の家で働いていたミュゼが知らないわけではなかった。
でも、シロを助けてあげたいという想いがミュゼを書斎へと向かわせた。
ミュゼの背中が、突如猫のように逆立つ。
バーゼルさんがランプを手に、立っていた。
「おまえさん。どこへ行こうと言うんだい?」
「旦那様の書斎です」
「ほぉ、偉くなったものだね」
「リアお嬢様のためです」
声を出してはじめて、喉がからからだと気がついた。
「お嬢様は内緒で犬だか猫を飼っているね。おまえが責任を持ってリアお嬢様にお話ししなければならないことだろうに。それを旦那様のお手を煩わせる気かい」
ミュゼは驚いた。バーゼルさんはすでにお見通しだったのだ。
「リアお嬢様が拾われたのは竜です」
「竜? バカを言っちゃあいけない」
「本当に竜なのです」
ミュゼは懇願するような気持ちで、バーゼルさんを見た。
ブルカニロ博士でなければ治せない。
バーゼルさんは何も言わずにミュゼの視線を受けていたが、炎のように視線が揺らぐ。
「まさか」
「本当です」
バーゼルさんは何かを言おうとして、何も言えずに言葉を飲み込むと、
「もし、ただの薄汚い子犬だったりしたら、どうなるか、わかってるね?」
「はい」
ミュゼは返事と共に大きくうなずいた。
バーゼルさんはまだ何か言いたそうなそぶりを見せたが、その言葉を飲み込むと。
「まだ、そんなとこにぼさっと立っていたのかい。さっさとお行き」
「あ、はい。失礼します」
ミュゼは書斎へと大急ぎで向かった。
◇ ◇ ◇
ミュゼは麻布のマットを試すかのようにしごくと、草原を覆うシーツのように広げた。
遠くの空に少し雲があるだけで、空の青さを遮るものは何もなかった。ときおり風が草原をなでていくと、草たちは波のような音を立てた。
子どもの陽気な笑い声を聞きながら、たて襟のワイシャツに黒いベストを着た紳士、ゼルプルは、博士が支えている杭を注意深く金槌で叩いた。
「ほいほい、あと一発。これで倒れることもなかろう」
「先生、申し訳ありません」
ゼルプルは大きなパラソルを開くと、打ちつけた杭に縛り付けた。
「なぁに、楽しいことにはどんどん参加しなければ面白くない。のぉ、ミュゼ」
博士の隣で、マットの上にバスケットの中身を広げ始めたミュゼは、少し困ったように、でも「はい」とうなずいて答えた。
「ほら、ミュゼもこう言うておる。アルバート、娘と一緒に駆け回ってこい。ワシは歳を取ったからここでおいしい紅茶でも飲んでまっとるがな」
博士の言葉に苦い笑いを浮かべたゼルプルは、
「では、お言葉に甘えて。ミュゼ、博士に紅茶を」
「はい」
ミュゼの返事を聞くと、ゼルプルはリアお嬢さまとシロが追いかけっこをしている方へ駆け出した。
「あやつは気持ちの良い男なんだが、真面目すぎていかん」
博士はゼルプルの背中にそう声をかけた。
ミュゼはそれとは意識せずに、その背中を視線で追っていたことに気がついて、魔法の瓶のふたを急いで開けた。
「博士、シロが、元気になって本当によかったですね」
ティーカップにお湯を注いだ。
「うむ」
二人の視線の先で、親子と小さな羽を持つ白い竜の子どもがたわむれ遊んでいた。
「……リアお嬢様のあんなにも嬉しそうな姿、初めて見ました」
「それはすべてミュゼの手柄じゃ」
「私は何も」
ミュゼは首を横に振った。
「いいや、ワシこそ何もやっとらせん。ワシ自身、よもや竜の体の調子までわかるとは知らなんだ。これをアカデミーの連中が知ったら何と言うか見ものじゃな。話しがちとそれたが、それもこれも教えてくれたのもミュゼなのだから。しかも、金を嘗めさせたのが良かった。あれが効いておる」
「全部曾祖母から聞いたことなんです。銀は砂糖水、金は蜂蜜のようなものだと。あと、竜はすべての生き物の血と肉と骨を持っている、と聞いていたものですから。シロにも人間と同じ血や肉や骨を持っていると思って、それなら博士に必ず治して頂けると」
ミュゼは、カップのお湯を捨ててティーバックを入れた後、新しくお湯を入れ始めた。
「ふむ」
「……でも、あれからバーゼルさんが口を利いてくれなくなってしまって」
ミュゼはうつむいて、たおした砂時計の砂が落ちるのを見ていた。
「ほほ、バーゼルが」
「……お嬢様が竜を拾ってきたことを報告しなかったことと、夜更けに博士や旦那様のお手を煩わせたことが、いけなかったと思います」
「ほほ、別にワシもアルバートも手を煩わすというほど働いとりゃせん。竜が相手では誰もどうにもならん」
「……どうぞ紅茶です。器が熱くなっています」
ミュゼは、納得できないのを表情に隠すことが出来なかった。
「ありがとう。本当にバーゼルが怒っておるのなら、今頃ほうきで屋敷から掃きだされておるとは思わんか?
ん? 野駆けで、これほど香りの良い紅茶が飲めるものとは思わなんだ」
博士は目を輝かせた。
「ありがとうございます」
「う~ん。本当に良い香りじゃ」
博士は香りを十分に楽しんだあと、ずずずと音を立てて紅茶を飲み始めた。
「うむ!」博士は一口飲むと、声をあげた。「なるほど、なるほど。ミュゼ、わかったぞ」
「はい?」
「バーゼルは国王陛下に怒鳴ることはできても、竜には無理だから、腹の虫の居所が悪い。そうに違いない。そうは思うわんか?」
「はぁ」
「はは、ただの冗談じゃ。バーゼルは何も怒っとらせんよ。ただ振り上げた拳の置き所に困っておるのじゃ。結果はすべてリア嬢のためになったのだ。バーゼルもいわゆるメイド病という奴に罹っておるしの」
「メイド病?」
「そう。メイドはご子息ご息女の笑顔の前では、どんな正論をもってしても、無力になってしまう職業病じゃ」
……お嬢様の笑顔の前では、無力になる病気。
ミュゼは自分の中にも似たようなものがあるのを発見して、微笑んだ。
「どんなに威勢良く竜を飼うな、と言っても、竜の方から棲み付いたら最後、人の手では負えん。どうにかできるのは、伝説の竜の王たちの名を持つ魔女ぐらいのものじゃ。しか
も、ミュゼ。お前さんの働きを間近で見ているバーゼルが、お前さんを怒る気になれるとは到底思えん」
ミュゼは声もなく、博士の顔を見た。
「ワシはな、年中あちらこちらの学会に顔を出しているおかげで、一年うちで自宅に帰るのはごくわずかじゃ。残りの大半は、友人宅やホテルを渡り歩いておる。すると、どういうわけか、きまって肩がこってくる。じゃが、今回に限ってそれがない。それもこれもみな、ミュゼが気を利かしてくれるおかげじゃ」
ミュゼは、今までに褒められたことが、まったくなかったわけではなかったけれど、博士にそう言われて、急に目頭が熱くなってきた。
こぼれそうになる涙をこらえながら、
「ありがとうございます」
と頭を下げた。
博士は少し気まずげに、
「うむ。何にしても。あの親子と一匹は、しばらく帰えってきそうにないのぉ」
と、草原の親子の方を眺めた。
草原では、ゼルプルが飛ばした紙飛行機を目指して、小さなリアお嬢様が思いっきり走っていた。
その後をシロがしなやかに大地を蹴りながら走っている。
ミュゼはまだ瞳を潤ませながら、「はい」とうなずいた。
魔法のお手紙
まどろむような日の光が陰りはじめて、少し肌寒くなってきていた。
ミュゼは湯気を上げるヤカンから、ティーポットにお湯を注ぎいれ、自分のカップにもお湯を注いだ。
少し遅いお茶の時間。もちろん、旦那様とリアお嬢様のためのお茶ではなかった。
旦那様とリアお嬢様のお茶の時間は、もうとっくに後片付けまで終わっていて、旦那様が軍病院へと戻られるお見送りも、今さっき済ませたばかりだった。
ミュゼは短い休憩を使って自分のために紅茶を淹れていた。いつもならもう一つ、この屋敷で古くから働く大先輩で、この館のヌシのようなバーゼルさんにも淹れていたけど、今日は市が立つ日なのでカップは一つだけ。
そう、メイドたちの戦場であり待機場所でもある台所には、ミュゼしかいなかった。
ミュゼは紅茶にちょっとしたこだわりがある。今、淹れようとしている茶葉はけして高いものではなかったけど、試飲させてくれるお店でよく吟味して買ったものだった。
その良く選んだ茶葉に、ミュゼの紅茶をおいしく淹れる方法が加わるから、温められたポットから温められたカップへと注がれる夕焼け空のような紅茶は、その色もさることながら、匂いもまた素敵だった。
ポットを置いてティーカップを手に取ると、香りが心地よく撫でてくる。
でも、その香りに浸っていられなかった。
リアお嬢様?
ミュゼは、誰かが階段を下ってくる音を聞いたような気がした。
階段を下る足音と言っても、敷き詰められた絨毯のおかげで、思いっきり走り回るでもしない限り、ほとんど音はしない。けど、慣れというものは、ほとんど音がしない階段を駆け下りてくる、一人と一匹(?)の気配を感じさせてしまうものみたいだ。
ミュゼはティーカップに口をつけずに置くと席を立った。台所の入り口の右壁にある姿見で、リボンタイやヘッドドレスの位置を正してみて「うん」と、うなずくとまた席に戻った。
なんでもないように休憩しているフリをしながら、もう間もなく台所のドアがノックされて、白い毛の長い犬のような生き物と、そのご主人様である少女が現れることを確信していた。
はたして、ノックの音と共に、
「ミュゼ、教えて」
柔らかな長髪の小さな少女と、お供の白い竜(!)といっても仔犬くらいの大きさの仔竜が台所に入ってきた。
「はい」と、答えたミュゼは、頬がひとりでに持ち上がってしまうのを、もうどうにも我慢することはできなかった。
それもそのはず。小さなリアお嬢様は、ふわふわの髪の瞳の青く澄んだお人形さん、と言ってもいいぐらい。そのお嬢様に「教えて」と聞かれて、こぼれてしまう笑みを我慢できる人は、心が目隠しをしている人か、はたまたリアお嬢様より年下の子どもだけだろう。
リアお嬢様は開いた教科書のある箇所を羽ペンで指しながら。
「ここの問題がわからないの」
ミュゼは、リアお嬢様の指さす場所を見るよりも、
「お嬢様、まずは席にお座りになってください」
と椅子を引いてリアお嬢様に席を勧めた。お供の仔竜シロは慣れたもので、いつものように椅子を踏み台にして机の上に登ると、ノートを覗き込めるように陣取った。
「どこがわからないのですか?」
「ここの問題」
リアお嬢様の指差した問題をミュゼは頭の中で一度解いてみた。けして難しくはないけど、引っ掛けがいくつか問題文の中に潜んでいる。ちょっとしたなぞなぞのような問題だった。
「リアお嬢様。この問題は、なぞなぞのようなものです」
「なぞなぞ?」
「はい」と言う代わりにうなずいて、
「書かれている問題の本文の中で、この数字は無視してもかまいません。例えば……」
ミュゼは模範解答を示しながら、リアお嬢様のけして嘘をつかないお顔が気になった。説明がわからないとか、退屈でうんざりとか、へぇーそうなんだとか。言葉に出していっているのと同じくらいリアお嬢様の表情は心の動きで変化する。
今日は素直に驚きの表情。
「嘘。そんなに簡単に解けちゃうのこの問題」
「はい」と答えるかのようにミュゼはうなずいた。
「よく問題読めばよかった。ありがとうミュゼ」
リアお嬢様の笑顔を見て、ミュゼの心の中にだけは昼間のぽかぽかした日差しが戻ってきたようだった。
「また、わからなくなったら教えて」
「はい」
ミュゼは少しだけ物足りなさを感じながら、そう答えた。
リアお嬢様ぐらいの年の子どもなら、この後、お菓子を無心したり、わからない問題が一つわかっただけで勉強がすべて終わった気分になって、遊びに誘ってきてもよさそうなものだけれど、リアお嬢様に限ってそれはまったくなかった。
けして無理をされているわけではない。しっかりとした躾と代々軍医の家系で貴族でもある家風に、小さな子どもながら一生懸命応えようとしている。しかも、リアお嬢様はそれがごく自然なこととして振舞える。とミュゼは思っていた。
「いこ、シロ」
リアお嬢様はトテトテという感じで駆け出すと、台所の入り口で一度振り返った。
「ね、ミュゼ。聞いてもいい?」
「はい?」
「ミュゼは、どうして学校の先生にならなかったの?」
このあと、リアお嬢様は「こんなに教え方が上手なのに」
と言われたのかもしれなかったけど、もうミュゼには聞こえていなかった。
子どもの言葉は魔法の言葉。
心に大きな波を立て、すべてをかき回してしまうことぐらい朝飯前。
リアお嬢様の何気ない言葉は、まるで、静かな淵に石を投げ込んだかのように、ミュゼの心は大きく揺れて、その言葉は心の奥底まで沈んでいくかのようだった。
◇ ◇ ◇
「なぜ私メイドになったのだろう?」
ミュゼはベッドの上で横になりながら、天井に向かって言葉を投げかけた。けどその言葉に答えが返ってくるとは思ってはいなかった。
あの休憩時間の後のミュゼは、御夕食の準備から就寝に至る今の今まで散々だった。
御夕食の準備と後片付けのときに、一回ずつお皿を割りそうになったし、階段では三度転びそうになった。料理の盛り付けも間違えそうになったし、一番の極め付けが、二週間前から任されるようになった食後のコーヒーのできがあまりよくなかった。
バーゼルさんには気がつかれなかったようだけど、もしそうではなかったら雷の一つや二つではすまされなかったはず。
お仕事がおろそかになってる。
……何をやっているのだろう。最低。
ミュゼは心に思い浮かんだ言葉を次々に自分に投げかけてみただけで、気分は塞ぎこんだような、どこか別のところを見ているような、そんな感じが拭えなかった。
仕方のないことなのかもしれなかった。学校の先生になるのは、ミュゼが子どものころ描いた夢だったのだから。
小学校の頃。勉強は出来た方だった。だから十歳で奨学生の資格を得た。裕福ではない家庭の子どもが上の学校に進むには奨学生になるしかないからだ。
でも、十一歳のとき、あまり丈夫ではなかった父親が病気に倒れた。
周りの大人たちは何も言わなかったけど、ミュゼは叔母に頼み込んで領事様のお屋敷に奉公に出た。今は、領事様のお屋敷での働きが認められて、このゼルプル家にお勤めをしている。
何も不満はないはずなのに。
気がつくと、ミュゼは、なぜか小学校の教室でテストを受けていた。
しかも不思議なことに、小学生の自分ではなくゼルプル家の礼服に身を包んだ今の自分が、あの頃のままの友達と一緒に試験の問題用紙とにらめっこをしていた。
問題が難しくてよくわからなかった。どんな問題が書いてあるのか細かいところはよくわからなかったけど、どうしようもないくらいに難しくって、解けないことだけはわかった。
周りの席の中になぜか、前のお屋敷の先輩たちや、斜め前の席にはバーゼルさんがいて、鉛筆を鳴らしながら答案を埋めている。
ミュゼの胸の奥で何かがこげてチリチリ音を立てた。
やがて、学校のベルのような一定のリズムが遠くに聞こえて、なぜかその音はミュゼを追いかけてくるかのようだった。
ベッドの上で目が覚めた。
周囲が不思議なことに明るかった。
ミュゼはベルが鳴り止まない目覚まし時計を手にとって見て、一瞬で目が覚める。この場合、血が凍るとか、心臓が止まるの方が正しかったのかもしれない。
もうとっくに旦那様の朝食が終っている時間だった。朝食だけじゃない。旦那様が登庁される時間を少し過ぎていた。
ミュゼはベッドから跳ね起き、顔を洗い、正装に着替える。小学校のときでも考えられない早さで身支度を終えて、台所へと向かった。
もう、どのように階段を下りたのか、廊下を走ったのか、歩いたのかさえわからなかった。
台所に入ると、バーゼルさんが食器の拭きあげも終わり、最後の仕上げとばかりに銀食器を布でしごいていた。
「すみません」
ミュゼは思いっきり頭を下げた後、はじめて自分のしでかした失敗の重大さに気がついた。
寝坊は、絶対にしてはならないことの一つだった。
しかも、バーゼルさんは厳しい人だった。「荷物をまとめて、とっとと田舎に帰りな」と言われたこともある。
「何固まってんだい?」
バーゼルさんは魔女と言うあだ名をつけられているけど、まさに魔女のようなにごった声をしていた。今日は格段に恐ろしい声に聞こえる。
「いえ」
ミュゼは顔を上げて小さく首を横に振った。
「着替えておいで」
ミュゼは目を見開いたままで何も言えなかった。
〝首〟を宣告された、と思った。
「何度も同じことを言わすんじゃないよ、この忙しいときに。庭の草をむしるんだよ、礼服を汚してどうするんだい」
「はい」
ミュゼは唾を飲み込もうとして失敗した。
よかった。
その心の呟きをまるでバーゼルさんは聞きつけたように、
「いくらでもメイドのなり手はいるんだ。さっさとおし」
「はい」
ミュゼは背中を反らすかのように背筋を伸ばした。
「は、いいのは返事だけだねぇ。まったく。いいかい、五分で着替えて戻っておいで」
「はい」
ミュゼはバーゼルさんから逃げるように部屋に戻って着替えをした。
田舎から持ってきた着古しのワンピースに、洗いざらしの大きめのエプロン、無地のスカーフを二つに折って頭にする。
部屋を出るときにもう一度、鏡を見た。鏡の中に青ざめた自分がいた。
落ち着いて。
ミュゼは自分に言い聞かすと台所へと戻った。
これは?
台所の作業テーブルの上に、パンケーキと湯気を立てているカフェオレが置いてあった。
ミュゼが言葉にしようと思うよりも早く、
「さっさと朝食を済ませておくれ。食べ終わったら庭の草抜き、トラッシュの掃除。午後からは倉庫整理。やることは山ほどあるんだよ」
バーゼルさんの恐ろしげな声に、「はい」とミュゼは反射的に返事をして席についた。
「あ、バーゼルさん」
朝食のお礼を言おうとしてバーゼルさんを視線で追うと、廊下の扉が閉まるところだった。
追いかけていってお礼を言っても、「そんな暇があったら早く食べるんだよ」と怒られそうで、お礼は後で、と自分に言い聞かせて、「いただきます」と手を合わせた。
フォークで口に運んだパンケーキは、冷めたくなったのを軽くフライパンであぶったようで、ほんのりと温かかった。
小さく切ったはずのパンケーキが胸でつっかえたようになって、思わずカフェオレのマグを手にとった。
でも、入れたての少し甘いカフェオレは、パンケーキと一緒になって、胸でつっかえたようになった。
◇ ◇ ◇
午前中のお仕事は、サジについた蜂蜜をなめてサジの味しかしなかったような、むなしい感じに終わった。
昼の食事のことはあまり良く覚えていない。覚えていることと言えば、バーゼルさんには朝食のお礼を言えたことだけだった。
午後、ミュゼを待っていたのは、倉庫の掃除。
倉庫といっても、使われていない部屋を閉め切って使っている納戸のことだ。
そのように倉庫になっている部屋はお屋敷に五つほどあって、今からミュゼが取りかかろうとしているのは四番目の部屋だった。
エプロンに付けた鍵の束から扉の鍵を差し込んで開ける。
蝶番が陰気な音をたてた。開いた扉からは誰も入らない部屋の湿った空気が流れ出してくるようだった。
息を吸わないようにしながら部屋に入って、暗い部屋の奥にあるカーテンを開けた。
差し込んだ陽の光に、古い家具や美術品にかけられた白い布が、まるで子どものころのお化けのイメージそのままの姿であらわれる。
開閉が少し重い窓を開けると冷えはじめている風が吹き込んできた。ミュゼの頬をなで頭にしたスカーフを揺らす。その風を受けて、今頃、お茶の時間、と思った。
このお屋敷に来たときから、お茶の時間のお茶はミュゼの担当だった。けど、昼食を食べてから台所に戻っていない。
戻ってみたところで、今日はその担当から外されてる、と思った。
今日だけ?
意地悪な呟きがどこからともなく出てしまう。
……一日前までこんな気持ちにならなかったのに。
ミュゼは、リアお嬢様に「ミュゼは、どうして学校の先生にならなかったの?」と聞かれた、あのときまで。メイドであることに何の疑問を持っていなかった。
仕事は辛くても楽しかったし、リアお嬢様をはじめとして、周りの人々に、ここにいられることの幸せを感じることはあっても、何も不満はなかったはず。
これから先もメイドとして働いていくことに何も疑問を持っていなかったはず。
でも、今は、自分の立っている大地が足元から崩れてしまったような気がした。
この五年間は何だったのだろう? と思う。
あの時、さらに試験を受けて、公費学生になっていたら? と思う。
子どものころの夢が、いやらしいツタのように絡みついてきてるのはわかっていた。そのツタの名前を未練というのもわかっていた。
思いっきり頭を横に振る。
今は任されたことをちゃんとやらなきゃ。そう心の中でつぶやいた。
「そう、がんばらなくちゃ」
口にも出して言ってみた。
でも、
まるで深い井戸に向かって言っているようにむなしく響くだけで、いやらしい未練のツタを断ち切ることもできず。今の自分に集中力が欠けているのはわかっていた。
……どうすることもできない。
ミュゼの思いが中断された。
足音がしたような気がした。
ミュゼは、まるでいたずらをした子どものように、急に不安になってきて、壁際のノッポな家具の後ろに隠れた。
「ミュゼいる?」
リアお嬢様の声が部屋の入口でした。
どうしてかは良くわからなかった。ただ、今、リアお嬢様と会いたくはなかった。
リアお嬢様はしばらくの間、倉庫の入り口にいたけど。
「シロいこ」の声と共に歩いていってしまった。ミュゼの心の中に、リアお嬢様に申し訳ないという気持ちはあった。でも、それよりも、ホッとしている気持ちのほうがずっと大きかった。
◇ ◇ ◇
「ぼさっとしてないで、エプロンを替えてジャガイモの皮剥きやるんだよ」
倉庫の掃除が終わって台所に戻ると、バーゼルさんの声が飛んできた。
反射的に「はい」とミュゼは答えた。どこか今まで弛んでいた気持ちが引き締まるかのようだ。
「あ、バーゼルさん、倉庫の掃除がすべて終わりました」
「わかってるよ。次は晩ご飯作りに精出しとくれ」
「はい」
と、うなずきながら答えた。
バーゼルさんとの仕事は、一人で仕事しているときよりも気分が良かった。緊張感がそもそも違うし、一番の理由は、考えこむ余裕が全くと言っていいほどなかったからだ。
晩御飯の料理を作っている間にもメイドたちには仕事がある。
洗物の取り込み、十八時を過ぎれば、旦那様のお迎えとお茶の用意。その他いろいろ。突発事項。
バーゼルさんに言われて、ミュゼはずっと台所で鍋や石焼釜の面倒を見ていた。
「着替えておいで」
後は盛り付けるだけになったとき、バーゼルさんにまたそう言われた。
ミュゼには、バーゼルさんの言っている言葉の意味が、最初わからなかった。
「鈍い子だね。まさかその格好で旦那様たちの給仕をするつもりかい?」
「……はい」
ミュゼは正装でないことと、夕食の給仕をさせてもらえることに、いまさらのように気がついた。
「五分だよ」
「はい」
ミュゼは、自分の部屋に向かった。
一瞬、リアお嬢様のお顔がよぎった。けれど、足取りも気分も、倉庫の片づけをしていたときよりずっと良かったから、きっと大丈夫。そう心に向かって言い聞かせた。
思いっきり仕事をすれば嫌なことは忘れられる。
そうつぶやいて、顔を階段の方へと向けた。
思わず目を見開いてしまう。
リアお嬢様とシロが階段のヘリに立っていた。いつもなら、ミュゼは背筋を伸ばして歩く癖をつけていたので、もっと早く気がついたのに、まだ完全ではない気持ちは目線を足元へと落としていたらしい。
ミュゼはリアお嬢様の顔を見るのに勇気を使った。リアお嬢様の顔は、怒っているんだから、と言っていたし、ミュゼに近寄ってくる歩き方も、肩で風を切るようで怒っていることを体中で表しているようだった。
リアお嬢様は無言のまま、手に持っていたものをミュゼに差し出した。
ピンクの封書。
ミュゼは自分でも不思議なくらい動揺しないで、その手紙を受け取った。
リアお嬢様は、一回も振り返らずにそのままズンズンと談話室の方へと歩いていく。
その小さな背中に、結局は声をかけることが出来なかったけれど、ミュゼは封筒に書かれた「ミュゼへ」を確かめてから、大切なもののようにエプロンのポケットにしまい。自分の部屋へと階段を上った。
階段を急いで上がったのがいけなかったのか、ご立腹のリアお嬢様と会ったためか、ミュゼの気分はまた落ち着かなくなってきていた。
白いエプロンの帯をしめて礼服に着替えても気分は落ち着きそうにはなく、鏡の前でしめるリボンタイは何度も曲がってうまくいかなかったし、いつもなら一度で決まるヘッドドレスの位置もなかなか決まらなかった。
鏡の前で表情をどうにか確認して台所へ戻ろうと思った時。
先ほどまで着ていたエプロン。そのポケットの中身が、まるで自分のことを呼んでいるかのような気がした。
ミュゼは、ハンガーにかけたエプロンのポケットの中から、薄いピンクの封筒を取り出した。
目覚まし時計は、もう時間があまりないことを示していた。けど、目を通すぐらいはと思って、机の上のペーパーナイフを使って封を開けた。
ミュゼへ
きょう、わたしはミュゼとお話しない。
だってわたしがいったとき、
ミュゼいじわるしてかくれていたのだもの。
でも、ミュゼが元気がないかんじだから、
はやく元気ないつものミュゼになってください。
リア・ゼルプル
ミュゼは手紙を最後まで読むことができなかった。
あっという間に文字が霞んで、涙があふれると、心に抱え込んでいた想いがあふれ出してしまった。
何年もの間、ずっと心の中にしまいこんできた想い。そのすべてが解け出しあふれてしまうと、声と涙もあふれた。
◇ ◇ ◇
「バーゼルさん、申し訳ありませんでした」
ミュゼは台所に戻ると、バーゼルさんにそう言って頭を下げた。
すでに夕食は終わっていた。それどころか、もうすでにリアお嬢様の就寝時間を少し過ぎたところだった。
本当なら、雷どころでは済まされないはずだった。
でも、バーゼルさんは、ミュゼが今の今まで台所に戻ってこなかったことについて何も言わなかった。その代わりに、ミュゼの顔を睨みつけるようにして見た。
数時間前だったら、それどころか今までだったら絶対に堪えられなかった、と思うような、竜の睨みのような視線をバーゼルさんはぶつけてきた。けれども、ミュゼはその視線をそらさなかった。
バーゼルさんの根が先に尽きたのか、不機嫌そうに鼻を鳴らすと、
「次はないよ」
と、いかにも不機嫌そうに言った。
「はい」
ミュゼはうなずきながら、力強く答えた。
ミュゼは、朝食だけではなく、今日一日ずっとバーゼルさんに助けてもらったことを、今では気がついていた。
お茶の時間、夕食、そのほかの仕事をすべて、バーゼルさんに任せっぱなしだったことや、庭掃除や倉庫掃除でミュゼをいつもの仕事から外したのは、懲罰などではなく、考える時間を与えるためだった、と思うことができた。
「じゃ、手始めにリアお嬢様の部屋の見回りだ」
と、バーゼルさんは手を腰にやって顎をしゃくる。
「はい」
ミュゼは小さくお辞儀をするとランプを手にとって台所を出た。
足が軽かった。台所に戻る時もそうだったけど、足がものすごく軽い。
階段を上って、一番奥のリアお嬢様の部屋の前で、ミュゼは小さく深呼吸をした。
「うん」と自分を励ますかのように軽くうなずくと。そっと、扉を開けてリアお嬢様の部屋中へと入った。
明かりのしぼられた部屋の中で、シロが顔をミュゼの方に向けた。その瞳が、薄暗闇の中でエメラルドのような輝きを上げる。
ミュゼは指を一本、口の前に立てると、シロはすべてを承知したかのように大きなあくびをして、頭をクッションにつけ、尻尾をパタンと床に下ろした。
リアお嬢様のそばまできて、ミュゼは、いつものように微笑んでしまう。リアお嬢様は、目と目の間にシワを寄せて、口を曲げて寝っていた。まだ起きているのは間違いなかった。
「リアお嬢様。お手紙ありがとうございます。おやすみなさい」
小さくそう言ったのに、リアお嬢様に聞こえたらしく、ぷいっ、とミュゼの視線をそらすかのように寝返りをうった。
その仕草に、ミュゼはこみ上げてきた笑みを口元で押さえて、ポケットの中から白い封書の手紙を出した。静かにサイドテーブルに置く。
最後に、リアお嬢様にお辞儀をすると、扉が完全に閉まるまで、音を立てさせないようにしながら部屋を出た。
まだミュゼは、完全には子どものころの夢と決別できたわけではなかった。
心の中には未練があるのはよくわかっていた。
でも、
自分のことを想ってくれている人たちがいる。
その人たちのために自分のできることをする。
それ以上の喜びがどこにあるというのだろう。
それ以上の幸せがどこにあるというのだろう。
私はとても幸せ。
そう心の中でつぶやくと台所までスキップしたくなるほど気持ちがどんどん軽くなっていった。
ミュゼが静かに扉を閉めたあと、リアお嬢様はベッドから飛び出した。サイドテーブルの手紙を取ると、書卓に駆け寄って、ランプの灯りを大きくした。
手紙の封をお父様からいただいた銀のペーパーナイフで開ける。
なんか、ものすごくもどかしい。
封筒の中には白い便箋が一枚折りたたまれていた。
シロは椅子を使って書卓まで上ると、リアお嬢様が読もうとした手紙を覗き込もうとした。
白い便箋には流麗な文字でこうあった。
魔法のお手紙ありがとう。
元気になりました。
ミュゼ
(おしまい)
Musee
高校でやった初めてのアルバイトや、2 0 代、働くことが楽しかった時代のことを思い浮かべながら書いたことがまず思い出される作品です。
一方で、恋愛物とか少女漫画好きなのに、俺には書けない、と愕然となったシリーズでもあります。
この後、ミュゼと旦那様はめでたくゴールインし、バーゼルさんは隠居した王侯貴族の保養地で生涯現役を貫き、リアお嬢様は医者となっていくのですが、それはまた別のお話。
初出:『よろしくお願いします。』 2002年メイドさんアンソロジー小説集『Pure』
『小さなお客様』 2002年メイドさんアンソロジー小説集『stella』
『魔法のお手紙』 2003年メイドさんアンソロジー小説集『Opera』
イラストワーク 影守 俊也(FORBIDDN RESORT)