『炎の果てに…』 番外編 砂漠の鷹

誇り高い砂漠の国ドゥメイラ、首長国ドゥーラスの第一王子だったジャマール。
父を殺され、国を追われて…やがて奴隷にまで身を堕としても、大切なものをすべて奪った男への復讐の炎は決して消えることはなかった。
そして…運命の出会い…。ホークと過ごす日々は、頑ななジャマールの心を梳かしていく…。
 13年経っても、ずっと心の奥底にくすぶり続けていた故郷に残してきた想い…ドゥーラスの世継ぎの王子には、神に祝福された運命の相手が、王子の誕生から10年以内に生まれるという…何世紀にもわたって脈々と続いてきた王家の慣習に対して抱いていた反抗的な気持ちは、大人になった今もジャマールの内面に重く影を落としていた。
 辺境の国、アストラットのラナ姫が、ジャマールの運命の伴侶として生まれたが、今はドゥーラスの居城の塔に、母と生まれつき目の不自由な弟とともに囚われていた。13年経って…やっと自分の運命に向かうべく、密かにドゥメイラに部下とともに赴いたジャマールだったが…そこで美しい銀の舞姫”ラウラ”と出会う。彼女の澄んだ青い瞳と銀色の月光のような髪色を目にした瞬間…生まれて初めてその胸に激しい衝撃を受けた…。

プロローグ 1 砂漠の国 ドゥメイラより 王子ジャマール

1871年 中東 ドゥメイラ ・ 首長国ドゥーラス  3月

 延々と続く乾いた砂漠の中、周囲をぐるりと取り囲むように造られた高い白レンガの塀の中にその国はあった。
砂漠の中のオアシスの小国であるドゥーラスは、多くの小国からなるドゥメイラの中で、最も神聖といわれる土地に建っている。
ドゥーラスとは古の神々の言葉で、“約束の地”という意味を表す。それゆえに何十カ国という小国が集まったドゥメイラの中で唯一首長国としてドゥーラスが存在しているのは、ドゥメイラの人々の、信仰の中心だったからだ。
 砂漠のオアシスの中に建つドゥーラスは、円形状の高い塀の中に、放射状にいくつもの町並みや小さな家々が立ち並び、東西南北に伸びている大きな道路の…中心で交わる位置に彼らが信仰する神々の宮殿があり、その隣に王の住む宮殿が建っている。
 その高い塀の東門につながる通りを宮殿に向けて2頭の牡馬が勢いよく駆けて行く。
太陽は中天近くにあって、途中市場の近くを通ると、隣の国から来た商人がたくさんの市を開いていた。道行く人々も慌てる様子もなく、2頭の馬の、蹄の音が近づいてくると、サッと避けて道を開ける。まるで彼らがこの道を通るのを知っているかのようだった。

「まあ、今日もジャマール様は鷹狩りにお出かけだね? 来月はいよいよ誕生日を迎えて、アストラット国の姫君を迎えられる。めでたい事だ。」
 誰ともなく市場を行き交う人々がそう噂する中を、雄々しい2頭の馬が前後して駆けて行く。先頭を行くのが、大きな漆黒の牡馬を片手で操りながら、反対の手には鋭いつめと口バシを持つ大鷹を腕に止まらせ、頭には白いターバンを巻いた凛々しい顔立ちの少年だった。
この国の第一王子、ジャマール・レヴァン・アルファルド。
褐色の肌に彫りの深いアラブ人特有の顔立ちを持ち、長いまつげに縁取られた切れ長の目と漆黒の瞳は理知的な美しい輝きを放っていた。17歳になった彼は背も高く、細く引き締まって鍛えられた身体は、アラブの戦士らしく、活き活きとした生命力にあふれている。
 その身なりは質素だったが、ターバンの端からこぼれ出る一筋の黒髪を編んで、その先端を留めている細やかな金細工がこの国の王子であることを現している。週に数回、鷹狩りのために世話役のヴァンリを連れて、日の出とともに砂漠へと出かけていくのが日課となっていた。

 城門に続く街道の先に、彼らの姿を見つけた見張りからの合図で、素早く城門を閉じていた扉が開けられると、勢いよく2頭は門の中に駆け込んで行った。正面の広場を駆け抜けて、厩につながる通路まで進んだところで馬を下りたジャマールは、そこに待っていた鷹匠に腕の鷹を引き渡すと、愛情を込めて鷹の頭を撫でた。

「ラファール、アリを頼む」
「承知しました。ジャマール様。今日はどちらまで行かれたのですか?」
 年配の鷹匠は慣れた手つきで、自分の腕に大鷹を受け取ってこの年若い王子を見つめた。
代々王家の鷹匠を務めてきた彼は、王子が10歳の頃から彼に鷹狩りを教えてきた。アリという名前の鷹も、王子が初めて自分の手で雛から育てたものだ。鷹にしては珍しい種で、額に三日月型の白い羽が生えている。

「隣国 バラクの境までだ。だがそこで少し見慣れない連中を見た。ヴァンリ、連中はどう見てもあれは異教徒だった。おまえもそう思わないか?」
 2頭の馬を厩まで運んで戻ってきたヴァンリと呼ばれた青年は、ジャマールよりは少し年上の20才。背丈はそれほど変わらないがジャマールよりも少し明るい髪色と瞳をもっていた。王の宰相であるハッサンの息子である。

「ああ、王子。隣国のバラクの東岸は海に面している。最近そこに頻繁に外国籍の船が来ているという報告もあるし…もしかしたら、その関係で外国人が国内に入り込んでいる可能性があるかもしれない…。」
「なるほど…最近ヨーロッパの船が度々この地域に現れるようになっている。連中の目的はこの地域の支配なのか…それとももっと他の目的があるのか、冷静に見極めなければならない…」
「さすが王子、いつも冷静沈着な答えだ…」
 宮殿の階段を上りながら…おどけたようにヴァンリは笑う。
「ばかをいえ、おまえの方がのん気すぎるんだ。あのハッサンの息子だなんて信じられない…」
 ジャマールは笑いながら、ヴァンリの父である、気むずかしく頭の切れる宰相の顔を思い出した。それを思うと目の前にいるどちらかというと優しい面立ちのヴァンリは母親似なのかも知れない。
 さらに何か言おうとしているヴァンリに鷹狩りで使用した道具をひとまとめにして押し付けると、ジャマールはそのまま自室に向かう階段を駆け上る。
 
宮殿は中央を走る階段を起点にして左は男性の住居になっていて、右側が女性や、成人前の子供の住まいになっていた。イスラムの世界は完全な男女別社会で、地位の高い男ほど多くの妻を持つことが出来た。ある意味男性中心の社会といえるが、女性は公の場には限られた場合しか同席することは許されない。
ただこのドゥーラスの王家だけは特別で、妃はひとりだけ…神が決めた運命の相手としか結ばれることは許されていなかった。

 それは神の国である由縁でもあるが、ドゥーラスの王家の、跡継ぎとなる第一王子が誕生すると、その後数年から10年以内に、その近隣の…小国の首長の家に、神に選ばれた運命の王女が誕生する。二人はその身体にある同じ印を持って生まれ、それをもって互いに運命付けられた者同士だと知れるのである。
 ジャマールも例外ではなく、その誕生の10年後にドゥメイラの辺境の小国、アストラットに、運命の相手とされる王女が誕生している。だがその事実は公表されても、実際に二人が会うことが出来るのはジャマールが18歳の成人を迎えたその日になる。それまで互いに会うことは許されていないのだ。
 ジャマールは今17歳で、来月18歳の誕生日を迎えるが、実際には相手はまだ7歳の子供で、花嫁というには幼すぎる。そう聞かされて育ったとはいえ、彼にはまったく現実味のない話だった。

 両方の住居部分を仕切る扉の前のフロアーにジャマールの母、エレーネの姿があった。アバヤといわれるアラブの黒い衣装に身を包んだ二人の女性のうち、ほっそりとした小柄の女性のほうが、ジャマールの姿を見つけて駆け寄ってくる。
「ジャマール…!」
「母上…?」
 ジャマールは12歳で母のもとを離れ、父と同じ男性専用の居住区に移っている。たとえ親子といえども自由に行き来できるわけではなく、用事がある時は、ジャマールが母のもとを訪れるか、両方の共有スペースで話す以外にないのだ。夫婦の場合は、寝室を共にする時のみ、夫のほうが妻の寝室を訪問することが出来る。圧倒的に男性優位の世界だが、その当時の女性達は当然のこととして受け入れていた。

「また鷹狩りに行っていたのですね? お父さまがあなたに話があると朝からお待ちですよ…」
 少し困ったような口調で話す母エレーネも神によって選ばれた隣の首長国、バラクの王女だった。
「わかりました。着替えたらすぐ行くと伝えてくさい。」
 ジャマールがそう答えたとき、母の後ろにいた侍女アステアの大きな身体の陰から、小さな3歳くらいの男の子が飛び出してきた。
「ジャマール…!」
 ふっくらとした丸顔の中でキラキラと輝く黒い瞳は、ジャマールによく似ている。14歳年の離れた弟、ネフェルだった。ネフェルは勢いよくジャマールの足に飛びつくと、ジャマールも愛しげにこの小さな弟を抱き上げた。

「ネフェル! 父上の用事が終わったら、あとで遊んでやるから…」
 ジャマールはそう言って、不満げな小さな弟を母の胸へと戻した。
「約束だよ、ジャマール!」
「ああ…約束だ」
 そう言い残してジャマールは自室へと向かった。小さな弟ネフェルは生まれつき目が弱い。通常の視力の半分もないことが最近わかって、父はあらゆる手法を用いて治療させたが改善せず、最近はヨーロッパのオランダからわざわざ医師を招いて治療に当たらせていた。 この時間にネフェルがここにいるという事は、今日はオランダ人医師のクラフトが来ているということだ。ジャマールは思わずにやりと笑う。

 オランダ人医師のランディ・クラフトは半年前に妻を伴ってこのドゥーラスにやって来た50過ぎの外科医で、もちろんネフィルの治療のためにわざわざヨーロッパから招いたのだが、その間にケガをした何人ものドゥーラスの人々を、外科的な手術で奇跡的に救うのをジャマールは見ていた。
 その確かな技術に驚き、穏やかで献身的なその人柄にも惹かれていた。もし自分が王子でなかったら、クラフトのような外科医になることを目指しただろうが、ジャマールは次代の指導者になることを運命付けられている。
 それでも宮殿にクラフトが来ている時には、彼の下に何度も通っては、外国語をはじめ、医学に通じるあらゆることを学んだ。父も最初はあまりいい顔をしていなかったが、これからの指導者は、外の世界を知ることが必要だというハッサンの助言もあって、今では何も言わなくなった。

 ジャマールは自室に戻って、身軽な軽装から、王子らしい白を基調とした丈の長い上着に着替えて、煌びやかな飾り帯でウエストを留めると、急いで宮殿の東棟にあるクラフトの診療所を目指した。
「ミスター・クラフト…!」
 扉を開いて中に入ると、ちょうど先週骨折をして運び込まれた若い兵士の一人が、松葉杖をついて立ち上がったところだった。

「王子…」
 クラフトもジャマールの姿をみると、笑顔で迎えた。
「お父上のところに行かなくて良いのですか? 来月の式典に向けていろいろ準備がおありなのでは…?」
「正直言って、わたしはそれほど嬉しくもない…。18で成人するのはともかく、会ったこともない王女を花嫁に…と言われても、まったくピンと来ないし…おまけに相手はまだ10歳にも満たない子供なんだ。花嫁といえるかどうか…」
「それに関しては…わたしにはなんとも言えません…。我々ヨーロッパ人にはそのような習慣はないので。ですが王子、あなたはまだ若い。まだまだこれから学ばなければならないことはたくさんあります。古くからの習慣もすべてが悪しきものばかりではありません。王子の父上、母上を御覧なさい。一夫多妻制度のこの地域にあって、唯一ハーレムのないのはこのドゥーラスだけです。御両親も仲睦まじく、国は栄え国民も平和な日々を謳歌している。それもみなこの国が神に護られた国であるが故です。そして王子、あなたが来月迎えられる王女もそうして選ばれた運命の相手なのですよ。きっと御両親のように互いを慈しみながら、次の時代を生み出していかれるに違いない…」
「そういうクラフトの言葉に首を横に振りながら聞いていたジャマールは、小さく肩を竦めながら、傍らで夫の手伝いをしているクラフトの妻、アメニーを振り返った。

「アメニー、あなたはどうしてランディーを選んだのですか?」
「まあ、王子様、わたしなどがお答えしても良いのでしょうか? 私たちは幼馴染みなのですよ。もの心ついた頃からずっと一緒にいるんです。彼が何を考えているか、言葉にしなくても解りますから…」
 クラフト同様に穏やかな笑顔を浮かべる妻のアメニーは、金髪と淡いエメラルドグリーンの瞳を持った優しい雰囲気の女性だった。ジャマールの母エレーネは大人しいタイプの女性だったが、母と年齢の近いアメニーに、エレーネとはまた違う母親のイメージを重ねていたのかもしれない。
 時々アメニーが作ってくれる西洋のお菓子は、ジャマールのお気に入りでもあった。

「さあ、王子様、本当は何か大切な用事があったのではないですか?」
 診療所の裏のオフィイスで、アメニーの入れた紅茶と焼き菓子を愉しんでいたジャマールは、そう声を掛けられて小さくうなずいた。本当はすぐ父のもとに向かわなければならないところを、何となく気が進まなくて、ひとりでにここに来てしまったというのが正しい。運命には逆らえないと解っていても、どことなく素直に従う気持ちにはなれなかったのだ。

「わかった。行ってくる。明日またここに来て、この前のラテン語の続きをやりたいんだが…構わないかな?」
「ええ、その頃には彼の仕事も区切りがつくことでしょう…」
 その言葉を聞いて満足したのか、ジャマールはサッと立ち上がって、クラフトのもとを後にした。少し気分転換をしたことで、幾分気持ちは軽くなったものの…それでもすべての想いが変わったわけではない。義務という重石がどっかりとジャマールの背中に圧し掛かっていることにかわりはないのだ。

 そんな想いを抱えて宮殿の父の執務室までの長い廊下を歩いていると、向こうの回廊から見覚えのある、数人の集団がこちらに向けて歩いてくるのが見えた。
“あれは…アリメド…?”
 回廊の向こうからこちら向きに歩いてくる集団の中心にいるのは、父の腹違いの弟、アリメドだった。ジャマールの祖父である前の王アルファドは妃以外には妻は持たなかったが晩年、奴隷との間に男の子がひとり生まれた。それがアリメドだったが、母親の身分が低かったことから王子の一人とは認められず、臣下のひとりとしての扱いを受けていた。父王とはかなり年も離れていて、どちらかといえば、ジャマールの方がアリメドとは年齢も近い。アリメドの母はスキタイ系の移民だったことと、もともとは砂漠の遊牧民、アスタイ族の長マタドの所有していた奴隷だったこともあって、父親はアルファドではなく、マタドではないかと当時噂されたこともあったが、真実は明らかにはならなかった。
 自身の地位が、第二王子ではなく、ただの臣下としての扱いに、アリメドは不満を持っていて、それがこのドゥーラスに暗い影を落していた。

 アリメドはジャマールよりは7つ年上の24歳。すでに結婚していて、妻が10人いる。
「やあ、ジャマールじゃないか? 今帰りか? 世継ぎの王子は気楽でいいな? 来月は成人していよいよ嫁取りというじゃないか、めでたい事だ…!」
 アリメドは無言で立ちつくすジャマールを前に、皮肉たっぷりにそう言って笑うと、また取り巻きたちを引き連れて回廊の先へと消えていった。彼らの姿が見えなくなると、ジャマールは大きく息を吐いた。
“嫌なやつだ…”
 
アリメドは母親似の浅黒い肌と、縮れた短い特徴のある黒い髪を持っていて、彫が深く高い頬骨の間にある黒い目は時に残忍な光を放つ。少年の頃から、彼が気に入らない奴隷に対して、残忍な行為をするのを何度となく見てきたジャマールは、いつしかこの年の近い“叔父”に対して本能的な嫌悪感を抱くようになった。
 表だってその感情を表すことはなかったが、こんな風に時々不意に出会う場面では、ひたすら黙ることで相手を無視することに徹した。だが内心はふつふつとした怒りが渦巻いている。アリメドが10人の妻達に対しても、かなり威圧的な態度で支配していることも聞こえていたし、最近外国の勢力と極秘に取引をしているのではなかという疑惑まであるのだ。
 
ジャマールは早足で父の執務室に向かうと、彼の姿を見て、見慣れた部屋のドアの前に立つ護衛の男たちが、ゆっくりと大きな重たい両開きの扉を開けた。

「ジャマール様がおいでになりました。」
 誰かがそう告げると、正面の謁見用の分厚い絨毯の上に置かれた長いすに腰掛けながら、隣国バラクの首長、アランドと真剣な顔で話していたドゥーラスの首長であり、すべての首長達を束ねるドゥメイラの王でもある、ジャマールの父レヴァドは、パッと表情を変えてジャマールの方を見る。
「ジャマール、遅かったじゃないか? またクラフトのところに行っていたのだろう?」
 少し苦笑しながら、レファドは自分の隣に場所を空けて、そこにジャマールは腰を下ろした。

「さて、王子も揃ったことだし、これからのドゥメイラの未来について語ろうではないか…? ジャマール、そなたも来月には成人する。いろいろな儀式があり、今までのように自由な時間はなくなる。その覚悟は出来ているかな…?」
隣国バラクの首長であるアランドは、母エレーネの兄であり、ジャマールにとっては叔父になる。母とよく似た面立ちに見事なヒゲをたくわえた、そのアランドの言葉にジャマールは黙ってうなずいた。

「はい、自分の背負うべき責任については理解しています。ですが叔父上、今日私はドゥーラスとバラクとの国境まで行って来ました。そこで海上に浮かぶ多くの外国船を見たのです…」
 そう言った時、急にアランドの表情が厳しくなって、レファドに小さく目配せをした後、人差し指を口に当てて小声でささやく…。
「海上に浮かぶスペイン船のことを言っているのだろう? 我々も前からそれに気付いていて、密かに今調査させているところだ。今までなかったことで、今や英、仏を初めヨーロッパの国々は我々アラブの国々を植民地化しようとその触手を伸ばしてきている。国内にはそれに加担している勢力がいることもわかっている。慎重にことを運ばなければならない。」
「ジャマール…そのことは私たちに任せておきなさい…。それよりもおまえのことだ…」

 父のドゥーラス王であるレファドは、それから切々とドゥメイラの王としての心構えを説いた後、1か月後に迫った式典について語り始めた。幼い頃から、ジャマールにとって父は絶対的であり、父親でありながら…ある意味近寄り難い存在だった。ドゥメイラの王として多くの首長達から尊敬を集める傍ら、自身にも厳しい戒律を強いてきたラファドは当然、次代の後継者でもあるジャマールにも厳しかった。
 2時間あまり…たっぷりと父の講義を受けて戻ってきた時には、すっかり疲れ果てていたジャマールだったが、ネフェルとの約束もあって、母の住居のある宮殿の右翼部分へと向かった。
居室の前の応接スペースで待っていると、母エレーネに抱かれたネフェルが入って来た。

「ジャマール、父上のお話は終わったのですね? よかった…」
 エレーネはホッとしたように微笑むと、さっきからジャマールのところへ行きたくて暴れているネフェルの身体をそっと下に下ろす。
 するとネフェルは真っ直ぐジャマール目指して駆け寄ると、勢いよく座っているジャマールに飛びついてきた。
「ネフェル! 今日は元気がいいな? 目の調子もいいのかな?」
「ええ…先日、クラフト先生に新しい眼鏡を作っていただいたのよ。前よりずっといいみたい…」
「それは良かった。」
 ネフェルは生まれつき視力が弱い。今まで試したあらゆる薬湯も効かず、伝手を頼って呼び寄せたオランダ人の外科医、クラフトの勧めもあって、成人してから外科的な手術を受けるまでの間、視力を補う眼鏡でしのぐことになっていた。ただネフェルはまだ3才で、最初は眼鏡をつけるのをひどく嫌がっていたが、それがあることで自由に動き回ることが出来ると解って、今ではつけることが当たり前になっていた。

 サッと小さなネフェルの身体を頭上高く持ち上げると、ネフェルは嬉しそうにキャッキャと叫び声を上げると、その側でエレーネはそれを見て満足げに微笑んだ。

「ジャマール…あなたにとっては不満かもしれないけれど、あなたの花嫁になるアストラット国のラナ姫はまだ7歳、ネフェルのいい遊び相手になってくれることでしょう」
「ならそのまま…花嫁ではなく、ネフェルの遊び相手として迎えればいいものを…」
「ばかをおっしゃい…。これは神のご意向です。誰も逆らえませんよ…」
 
 それを聞いて表情にこそ出さなかったが、ジャマールはさらに自分の両肩にずっしりと重い何かが圧し掛かってくるのを感じた。

プロローグ 2 ジャマールの苦悩

 辺境の砂漠の国 アストラット   首都テラン…。

 「何…? では来月の、ジャマール王子の成人の式典には、姫の替え玉を送れと言っているのか…!? 」
「はい…。申し上げにくいのですが…」
 アストラット王ダナムを前にして、この国の祭司をつかさどるネプトという老婆が、昨夜、彼女に下された神からの啓示を伝えた。

「神は…これからドゥーラスに大きな災いが起こると伝えられました。それは避けようのないことだとも…。聖地は汚され、一時的に彼の地は光を失う…と。それがどういうことなのか、わたしにもわかりません。ですが併せて神はおおせられました。再びかの地が光を取り戻すまで、もうひとつの光を守れとおっしゃるのです…」
 それを聞いてダナムは深く考え込んだ。1年前からドゥーラスには、黒い噂があって…王の弟(身分的には臣下)アリメドがクーデターを起こすのではないかと…。もしそんなことが起これば、当然第一王子のジャマールも無事でいられるわけがない。神に選ばれたとはいえ、その言い名づけである幼い姫もどうなることか…。

「わかった。ネプト…。それでどうすればいいのだ…?」
「はい、わたしによい考えがあります…」
  ドゥーラスの、世継ぎの王子の妃になることを運命付けられて生まれた王女は、その時期が来るまで極秘に育てられる。実際にその姿を知る者は、王女の両親とごくわずかの者たちだけだ。たとえ入れ替わっていたとしても、誰にもわからないはずだ。
 ダナンはネプトの言葉に小さくうなずいた。







 ドゥーラスの都の北端にアリメドの屋敷はあった。臣下に下ったとはいえ、王族にも匹敵するほど大きな屋敷にアリメドは住んでいる。一応イスラムの教えに従って、男女の住居は区切られていたが、アリメドは自分が行きたいと思えばどこでも行くし、どんな女も自分の思いのままだと思っている。
 王であるレファドは、争いを好まない性格から、少々の面倒をアリメドが起こしても、わざと目を瞑ってきた。
当時15歳だったレファドは、視察に出ていた父親のアルファド王が砂漠の民アスタイ族の長、マタドに招かれた祝宴の席で酔いつぶれた晩、アリメドの母マーラを夜伽に差し出されたのだが、彼女がすでに妊娠していた事実を知らないのだ。
 アリメドの父親はアルファド王ではなく、マタドだ。マタドは前からこのドゥメイラに対して野心を持っていて、もともと砂漠の遊牧の民だったアスタイ族は、恵まれたオアシスに国を構えるドゥーラスが妬ましかったのだ。
 そしてこの機会をずっと狙っていた。アリメドの母マーラは、アリメドを生み落すなりなくなったが、その死についても疑わしいものだ。案外証拠を消すためにマタドが殺させたのではないかと、アリメドは思っている。
一応彼の待遇としては、王の弟として育ったが、養育係として付けられたのは、後でわかったことだが、カマルという名のマタドの家臣だった男だ。
どんなに巧妙に隠しても、必ずどこかに綻びは生まれるものだ。どこからかアリメドはアルファド王の子供ではないという噂が流れたが、それはいつの間にか消えてなくなった。噂を流した人物をひとり残らず突き止めて、この世から消し去ったせいだということも、レファドは知らない。

「アリメドさま。準備はすべて整いました。」
「例のものも届いていると思っていいのだな?」
「はい、スペイン船からすでに荷揚げして、明日には商人の荷物に紛れさせて都に運び入れる予定です」
 側に侍らせていた女達を皆下がらせて、側近のカマルだけを残して人払いすると、カマルはアリメドの耳元でささやいた。
 前から資金を蓄えるために、密輸にも手を染め、去年からスペインと交渉して、火薬と銃を密かに集めていた。すべてはこのドゥーラスを自分のものにするためだ。来月、ジャマールが成人する前に、行動しなければならない。まだ成人前とはいえ、あのジャマールは油断がならない。レファド王以上に何か先を見通す力があって、必ず王と一緒に始末しなければならない…。先日あった時のあの目…敏い王子はきっと何かを感じ取っているに違いない…。

「王妃と第二王子はどうしますか?」
「あの王子はまだ子供で、目が不自由だ。王妃と一緒に幽閉しておけばいい…。」
「解りました。それと来月ドゥーラスに来る予定のアストラットの王女は…?」
「まだ7歳の子供だろう? 相手のジャマールがいなくなれば用無しになる。まあ後10年経って、美人なら引き取ってやるさ…!」
 アリメドはそう言って高らかに笑った。






 ジャマールの18歳の誕生日まであと10日という日…。都中がお祭りのように喜びに浮き立っている中、ジャマールだけは1日1日、その日が近づく度にどんどん心は重くなっていく…。
 そんなある日、オランダ人医師のクラフトが、急に本国へ戻ることになったと連絡してきた。3日後にバラクにある港から出航する船に乗る予定で、ジャマールのもとに連絡が来た時にはすでに妻のアメニとともに、ドゥーラスを出発した後だった。

「クラフトはもう行ってしまったのか…!?」
 いつものようにヴァンリを連れて国境近くの町まで出かけていたジャマールは、その話を途中の町で聞いて驚いた。今のジャマールにとって、心の拠り所だったクラフトがドゥメイラを離れる…。その衝撃は大きかった。

「ヴァンリ、私は今からバラクまで行って来る。クラフトを見送ったら、すぐ帰ると父上に伝えてくれないか?」
「仕方ないな…どうせボクが何を言っても、王子あなたは聞きもしないだろうから…。でも必ず用事が済んだら直ぐに戻ると約束してくださいよ」
「ああ…約束する」
 そう言うが早いか、ジャマールは砂漠の中に生えたブッシュ(低い茂み)の中を勢い良く走り出した。その後ろ姿を見送りながら、ヴァンリは小さく肩を竦めて逆方向へと馬を進めた。



 その頃、ドゥーラスの王宮にある、神殿の庭で…最長老の神官から王であるレファドにある神託が告げられようとしていた。
「この1週間…北の天空から多くの火球が南の砂漠に向かって落ちていきました。ここ十数年なかったことです。ただ…ジャマール王子がお生まれになった夜も、同じように多くの火球が南の空を染めていました。ですがレファド王…北の空の火球は災いの印といわれているのです。何か大きな災いがこのドゥーラスに…ひいてはドゥメイラに起きているのではと感じるのです。王子の成人の式典も間もなくですが、しばらく延期されてはと思うのですが…」
 この高齢の神官は、代々聖地としてのドゥーラスを守り続けてきた神官たちの長とも言える人物だった。このドゥーラスに起こるあらゆる事柄を読み解きながら神の声を聞いて、王に助言をしてきたこの神官の助言を聞き入れるべきなのだろう…。

「わかった。そなたの言うとおり、式典はしばらく見合わせることにしよう。ジャマールはどうした…?」
「はい、今朝方ヴァンリを連れて城の外へ出られた模様です…」
「またか…? 困ったものだ…」
 側にいた侍従から、ジャマールが出かけていることを聞いて、レヴァドは小さく溜息をつく。世継ぎの王子ジャマールが、王子としての風格や武術、才覚について…すべてに勝っていることに満足しながら、彼が心のどこかに抱いている“義務”への戸惑いにつて、
レファドは父親としてひどく苦慮していた。
 どうしたものかと想い淀んでいたその時、レヴァドの宰相、ハッサンの腹心の一人が慌てて飛び込んでくる。

「レファド王、大変です! すぐお逃げください! たった今、アルメド様の率いた軍隊が王宮に押し寄せて来て…!」
 その言葉を言い終わらないうちに、その腹心は床に倒れた。
「……!?」
 ハッとして顔を上げたレファド王の前に、黒ずくめの外国人の一段が現れると、そのうちのひとりが銃口の先を彼に向けて迷うことなく発砲した。

 静かな王宮の中に、断続的に銃の発砲音が響く…。やがて現れた数人の乱入者に交じって現れたのは、アリメド本人だった。
 アリメドは、神官とともに神殿の床に倒れているレファド王を見つけて高らかに笑い声を上げる。
「ついにやった…! この国はオレのものだ。見ているがいい…。オレこそがこの国の神なのだ…!」
 そこに部下の一人がやってきて、アリメドの耳元でささやいた。
「アリメド様、王子がいません…!」
「探せ、探すんだ…! 見つけたら必ず殺せ! 王子の首を持ってきた者には金貨を千枚やるぞ…」
 それを聞いて黒ずくめの男たちは歓声を上げて王宮を飛び出していった。








 
キプロス、ローマを経由して、陸伝いにオランダに行く予定のクラフト夫妻が、キプロス行きの貨物船に乗り込む直前で、ジャマールは二人を捕まえることが出来た。愛馬から飛び降りると、まっすぐ二人のいる桟橋近くまで駆け寄ってくる。
「ミスター・クラフト!」
「王子…!?」
 桟橋を渡り始めていたクラフトは、ジャマールの姿を見つけて、埠頭まで戻って来る。

「あなたが急にオランダに帰ると聞いたので、どうしても最後に会いたかった…」
  ジャマールは正直に自分の思いを告げた。異国人であるクラフトに父には言えないこともたくさん相談してきた。そのクラフトがいなくなることに言葉ではいえない寂しさを感じていたのだ。

「わたしもですよ。もうじきあなたは成人される、一言お祝いが言いたかった…」
 二人は桟橋の上でしっかりと互いの手を握り合う。クラフトの後ろでは、妻のアメニが微笑みながら二人の様子を見守っている。
そして最後の別れを惜しんでいたまさにその場に、数人の男たちが馬に乗って現れた。バラクの兵士達で、その中には王であるアランドの一番信頼している側近マハルの姿もある。
 彼らはそこにジャマールたちの姿を見つけると、急いで馬を下りてそばに駆け寄って来る。彼らの様子がおかしいことにジャマールはすぐに気が付いた。マハルがここに来ているということは、アランドの言葉を伝えに来たということだ。クラフトもそれを感じて表情が急に険しくなる。

「ジャマール王子、ドゥーラスで、父上がクーデターによってお亡くなりになりました! アリメド様が軍を率いて王宮に攻めて来られたのです!」
「アリメドが父上を…!?」
 何かに頭を思いっきり殴られたような衝撃を受けて、ジャマールは言葉を失った。

「アランド王はあなたのことを案じておられます。恐らくアリメド殿はあなたのお命も狙って来るでしょう。このまま、ドゥメイラに留まれば、無事では済まされません。」
 早口で語るマハルの言葉をじっと聞いていたクラフトがそこで口を開いた。

「ジャマール王子、このままわたしと一緒にドゥメイラを離れましょう。あなたさえ無事なら、またドゥーラスをあなたの一族に取り戻すことが出来ます。ここであなたとまた出会えたことに、私は何か神の意思を感じます。」
「ですが、ドゥーラスには母上や弟のネフェルがいる。彼らを置いていくことは出来ない…!」
「残念ですが、王子…。もう戻ることは叶いません。戻れないのです…!」
 強い言葉でさらに言い募るマハルにジャマールは一言も返すことが出来なかった。アリメドに対して感じる強い怒りに全身が震える。だがマハルの言うとおり、今のジャマールには何の力もないのだ…。
 その自分の無力さにさえ、腹がたって…何をどうしていいのか解らずに混乱していると、そこへジャマールの従者で、父の宰相であるハッサンの息子、ヴァンリが馬で駆け込んできた。
「ジャマール…!!」
 かなり混乱している様子がわかる。服装は乱れ、いつもは洗練された優男を気取っているが、今日の彼は危険をかいくぐってきたことが解るほど、あちこち擦り傷だらけだった。
「ヴァンリ! 無事だったか…!? 」
 ジャマールはヴァンリの姿を見てすぐ側に駆け寄った。
「途中まで戻って、都の異常に気が付いたんだ。外れの町まで父の使いが来ていて、ともかく王子、あなたは今すぐこのドゥメイラを離れなければいけない…!」
 ヴァンリの口からもその言葉を聞いて、ますますジャマールは絶望的な気分になった。こうして必死な友の顔を見るまでは、心の何処かでこれは夢なのだと思おうとしていたのかもしれない。

「父からこれを預かってきたのです。レファド王は成人したあなたにこれを渡すつもりりでいらっしゃった。」
 そう言ってヴァンリは大切に持っていた皮袋の中から、布に包まれた三日月型の刀を取り出した。鞘と柄の部分に見事なルビーとエメラルドの宝石が埋め込まれている。それはドゥーラスの王家に伝わる家宝ともいえる宝剣だった。
「これを…父上が…?」
「はい。あなたさえ無事ならドゥーラス…いえドゥメイラは救われると…父、ハッサンは言っていました」」
「ヴァンリ…」
 必死に語るヴァンリの眼をジャマールはじっと見つめた。

「わかった。ヴァンリ…母上とネフェルを頼む…。」
「はい、わたしもしばらくは姿を隠しますが、きっとどこかからお二人を見守っていきます。恐らく各国の反発もあるでしょうから、王妃様とネフェル様の命までは奪われないでしょう…。」」
 
 涙を浮かべながら、ジャマールとヴァンリはしっかりと抱き合った。その様子を見つめながら、マハルはクラフトにジャマールを託すため必要なことを伝えると、クラフトは何度も大きくうなずいていた。
 その側で貨物船の船長らしき、ひげを生やしたヨーロッパ人の大男が出航を促すと、妻のアメリが優しくジャマールの腕を取った。
「さあ、参りましょう。ジャマール様…」
 唇を硬く結んで、涙を堪えながらジャマールは、アメりに促されて桟橋を渡って船に乗り込む。
船が動き出しても、ジャマールはデッキの端に立ちながら、港の岸壁に立って力いっぱい手を振るヴァンリの姿を見つめていた。
“いつかきっと…力を蓄えたら…必ず私は帰ってくる。その日まで…母上、待っていてください…”
 

プロローグ 3 ホークとの出会い

 1874年(3年後…) 地中海キプロス沖…。

クーデターによって、父親を殺され…オランダ人のクラフト夫妻と、逃げるようにドゥメイラを離れたジャマールは、最初の2年間をオランダで過ごし…クラフトから医学に対する知識と技術を学んで、残りの一年間を一緒に旅をしながら医者としての経験を積んだ。
クラフトは遠くインドやアフリカまで足を伸ばして、貧困に喘ぐ辺境の人々を無料で治療して回るなど、献身的に医療活動を行って、それはジャマールの精神に大きな影響を与えた。
故郷を離れた直後は、ひどく精神的に不安定になったジャマールが、それでも立ち直ることが出来たのは、クラフトの勤勉さと妻アメリの優しさがあったからだ。クラフト夫妻には子供がなく、思いがけなく手元に預かることになった不運な王子に、彼らは精一杯の愛情を注いだのである。
二人との穏やかな生活の中で、傷ついたジャマールの心も徐々に癒されていったが、心の中にふつふつと湧き上がる激しい怒りと、復讐に燃えるその決意を忘れることはなかった。クラフトから医療技術を学ぶ傍らで、ジャマールは、毎日身体を鍛えながら…あらゆる体術も身につけて行った。

そしてそんなある日、再びジャマールに試練が訪れる…。エジプトの北岸の港から、イタリアを目指して船旅を続けていた3人は、キプロス沖で当時その近辺を荒らしまわっていたトルコの海賊の一団に襲われた。この地域では度々貨物船が襲われることがあり、ヨーロッパの各国は、自国の船を守るために海軍を派遣することもあったが、当時その地域に海軍を持たないオランダ船は海賊からすれば格好の餌食となる。
それはあっという間の出来事で、乗り込んで来た海賊達は、貨物船の乗組員を全員殺害した後、金になる積荷をすべて奪ってから他の乗客のうちで、奴隷として役に立ちそうな若者を自分達の船に連行して行った。
ジャマールも必死で抵抗したものの、戦いなれた連中には叶わない。最後には押さえつけられて、彼らの船に連行されて行ったその目の前で、クラフトと妻アメリの乗っていたオランダの貨物船が、海賊によって爆破されるのを目撃したのである。


それからの半年間は地獄のようだった。一度トルコの奴隷市に連れて行かれたジャマールは、他の多くの男たちと一緒にトルコのガレー船に売られた。まだ蒸気船の技術を持たないこの頃のトルコ船は、その動力はまだ人力に頼っていて、多くは奴隷たちがその役を担っていた。
 彼らは常に鎖でつながれていて、重労働を課された挙句…その生活環境も極めて悪かった。よほど屈強な意志を持たない限り、半年以上生き延びるのはまれだと言われている。彼らにとって、仮にどこかで行き倒れることは、即死を意味するのだ。
一日中、暗い船倉の底で過ごし、ごく稀に甲板に出ることも許されるが、それも厳しい監視付きに限ってのことだった。
時には他の海賊船に襲われることもある。そんな時には、自分の命は自分で守るしかない。こんなところで命を落すことが出来ないジャマールは、相手が誰であれ生き延びるために必死で闘った。
 そして1年が過ぎる頃、彼の生涯において…もっとも大きな影響を与える相手と出会うことになる。当時世界屈指の海洋国家を誇る大英帝国の若き戦士であり…伝統ある貴族の跡取りでもある、ルシアン・アレクサンダー・クレファードだった。

最新式の蒸気船を操りながら…それは一見優雅な貨物船に見えるが、じつは最新鋭の設備を揃えた軍船であることは、実際に闘ってみるまでは相手にはわからない。まして旧式のガレー船では彼の船から逃げきることはまず出来なかった。

1年前、ジャマールの養父母であるクラフト夫妻の命を奪った同じキプロス沖で、ジャマールのつながれているガレー船に、クレファードは戦いを挑んできた。後でわかったことだが、表向きクレファードは、最近頭角を現してきた英国の海運会社の総裁ということになっているが…ビジネスとは表向きで、実際には英国女王の忠実な番犬なのだという。
 
クレファードの旗船、アレクサンダー・マレー号は、あっという間にトルコのガレー船を追い詰めると、素早い動きで横付けして乗り込んで来た。彼らは、闘いなれたスマートなやり方で、中枢部の連中をあっという間に制圧すると同時に、屈強な男たちが数人、舟底近くに下りて来て、手にした大きな斧を振り下ろす。

斧を手にした大男の姿を目にした瞬間、船倉にいた奴隷たちはパニックに陥っていた。こういう場合、征服者は奴隷の命など気にかけたりはしない。大概の奴隷は船が沈んだ時に一緒に海の底に沈むのだ。
 ジャマールもそれを覚悟して、なんとしても生き延びるために自身を船につないでいる鎖を、どうにかして断ち切ろうともがいていた。
“くそ…! こんなところで死んでたまるか…!”
痩せたせいで、片方の足首をつないでいた足環は緩くなっていたが、それでもさびた鎖から逃れることは出来なかった。
そんな中、ジャマールの前にいた黒人奴隷の前で、大男は斧を振り上げ、殺されるのを覚悟した黒人が哀れな声を上げたその瞬間、振り下ろされた斧は鈍い金属音を響かせて、男をつないでいた鎖を断ち切った。
そして男たちは無言で次々と奴隷たちを解放していくと、全員を自由にしたのを確認してから、また素早い動作で甲板へつながる階段を駆け上っていく。

さっきから何が起こっているのかわからずに混乱していたジャマールは、自分をつないでいた鎖が柱から切り離された瞬間、少なくとも、今この船に戦いを挑んできた相手がただの海賊ではないことはわかった。
普通の海賊は、わざわざ奴隷を助けたりはしないからだ。でも異教徒である白人達は信用できない…。彼の養父母であるクラフト夫妻だけは別として、この4年間見てきた白人達は、ジャマールたち有色人種を同じ人間として認めていないのだ。
 彼らは自分達をカトリックと称して、エホバの神を崇め…それ以外の神を邪神と決め付けて、自分達以外の人間は…支配されるものだと思っている。そうやって自由を与える振りをしながら、きっとまた違う形で自分たちを支配しようとするに違いない…。

そう思うと、ジャマールはまたムラムラと怒りが込み上げてきた。甲板へ上がる階段を駆け上がると、そこに隠れて居たトルコ人を引きずり出して殴り倒した。あとは怒りに任せて、白人、トルコ人誰かれ構わず戦いを挑んでいった。
トルコのガレー船の操舵室で部下の報告を聞きながら、その結果に満足していた白人の若い指揮官は、血相を変えて飛び込んできた一人のマッチョな大男を振り返った。

「どうした? コンウェイ?」
「それが、ボス…奴隷の中のひとりが突然暴れ出して…! なんとも手が付けられないんです。アラブ系の異教徒なんですが…若いのが数人かかっても押さえられなくて…!」
「奴隷なら武器は持っていないはず…。素手で戦って押さえられないなんて…おまえたちがふがいないのか…?それとも奴隷とはいえ、そいつが並外れてすごいのか? 面白い…。何人かかってもいい。コンウェイ、その男をここに連れて来い…」
「わかりました…!」
 
 ボスにふがいないと言われて困惑気味の、コンウェイと呼ばれた大男は、少しムッとした表情でまた階段を駆け下りていった。彼はこの船の船長で、背丈は優に二メートルを越えている。もとは海賊上がりという、変わった経歴の持ち主であり、彼がこの年若いボスの下で働き始めることになったのには、それなりのわけがあるのだが、このマレー号に集まって来ているクレファードの私設海軍とも言うべき軍人達は、みなそれぞれいわく付きの連中が多かった。すべてが異色といえば異色だが、その中でも最も風変わりなのは、彼らのボスである指揮官のクレファードである。
 年はまだ若干20才ながら、英国議会最高位のランスロット卿の下で働く軍人であり、自身も子爵(公爵家の跡取り)の称号を持つ貴族なのだ。風貌も変わっていて、淡い色のブロンドと一度見たら忘れられないような碧い瞳を持っている。彫が深く…顔の造りはまるで芸術品のような美しさだが、感も鋭く、頭も切れる。だがそれでいて情も深い。もちろん彼は裕福な貴族階級であり、部下に支払う報酬も破格だが、彼らがこの若い指揮官のために命がけで働くのにはそれぞれに訳があるのだ。
 コンウェイもカリブの生まれだが、自国に戻れば…一級の犯罪者で絞首刑が待っている。船の舵取りの上手さと、腕っ節の強さを買われてこのマレー号の船長を負かされているのだ。
 さて、そんなことはさておき、今は暴れている奴隷をどうするかだ。コンウェイは騒ぎの源になっている、痩せて背の高いひとりの異教徒をまじまじと見つめた。

 ジャマールは、最初はやけになって暴れていたが、途中からは目の前にいる白人たちが、いつか生まれ故郷のドゥメイラで、父を殺したスペイン人に思えてきて、自分の中の理不尽な想いをすべてぶつけるように、体当たりをしていった。
 だがそこは多勢に無勢で、ジャマールひとりに5人、10人と集まってくると、やがて甲板に突っ伏すように押し付けられて、動けなくなった。

「まったく、何て奴だ。他の連中は大人しく言うことを聞いているというのに…。ボスがそいつに会いたいそうだ。操舵室まで連れて行け…!」
 コンウェイの一言で、数人がかりでジャマールを起き上がらせると、両手を押さえたまま連行していく。 



 ジャマールは屈強な男達4人に両脇を抑えられながら、明るい甲板まで連れて行かれると、眩しさに思わず目を細めた。太陽の光に目が慣れるに連れて、あたりの状況がはっきりしてくると、その変わりように思わず戸惑いを覚える。
“どうしたのだろう…? 侵入者のくせに、今の彼らには、まったく殺気というものが感じられない…”

 それどころか、甲板の一ヶ所に集められている奴隷たちまでも、ホッとした表情で笑顔まで見せているのだ。ジャマールが訝しげな表情であたりを見回していると、やがて甲板の前方の、一段高い位置にある操舵室の一角から、腕組みをしてこちらを眺めている人物と目が合った。
 年はジャマールとそれほど変わらないように見える。淡い月光のような色の髪に、見事な碧眼で…典型的な白人だったが、なぜかジャマールはその風貌に目を奪われた。彼にはひと目見て、この一団の指揮官とわかる威厳を感じさせるオーラがあった。
 彼はジャマールを見ると、何か面白がるような表情をして、自分の側に来るように手招きをしている。ジャマールを囲む男たちは、無言でそれに従って、彼のほぼ数メートル手前まで来て立ち止まって、彼の指示を待った。

「君の…名前は…? と言ってもアラブ人か…? 誰かアラビア語のわかる奴はいないか?」
 彼は後ろを振り返ると、回りに控えている部下達を見回した。
「人に名前を尋ねるときは、自分から名乗ったらどうだ…?」
 ジャマールがきれいな英語の発音で答えると、目の前の若い指揮官は、さらに愉快そうに笑いながら答える。
「なんと見事なキングス・イングリッシュだ。これは失礼した。オレは、ルシアン・アレクサンダー・クレファード。英国軍人とでも言っておこうか…。我々の目的は海賊船の壊滅と奴隷の解放だ。海賊達の命は奪っても奴隷たちを傷つけることはしない…。故郷に帰ることを希望する者たちには、近くの港から帰りの船を手配しよう…で、君の名前は…?」
 クレファードと名乗るその若い指揮官は、輝くような笑顔を見せてジャマールを見つめた。

「ジャマールだ…」
「ジャマール…で、君の出身は…?」
「わたしに故郷はない…」
 そう言って顔を背けたジャマールに、彼は驚くべきことを言い始めた。

「それならば、ジャマール…。この船で働かないか? 自慢じゃないが、オレの部下は経歴こそ様々だが、みな精鋭ぞろいだ。その彼らをひとりで相手した君の働きは素晴らしかった。オレの旗艦、アレクサンダー・マレー号は常に優秀なクルーを求めている。どうだ? コンウェイ? 彼は役に立つと思わないか?」
 そう言って傍らに立つ、頬に傷のある大男を振り返ると、その男は大きくうなずいた。

「確かに…ボスの言うとおり…我々の仲間にはいろんな奴がいる。アラブ人がひとり増えたからって、何の違和感もありませんよ…!」
 コンウェイと呼ばれた大男はそう言って大声でわらい飛ばした。気が付くとさっきまでジャマールの両腕を押さえていた男たちも少しはなれて、小さくうなずきながらじっとこの様子を伺っている。

 思わぬ展開に最初は面食らっていたジャマールだったが、素直にこんな幸運が不意に訪
れたことを神に感謝していた。
“自分は何としても生き延びて…いつか故郷、ドゥメイラに戻らなければならない…。そのためなら、どんな状況でも受け入れるのだ…”

 ジャマールは、目の前にいる若い指揮官が差し出す片手をしっかりと握った。

故郷へ…。

1885年    9月  地中海 …。

 “ホーク”こと、ルシアン・アレクサンダー・クレファードの旗艦、アレクサンダー・マレー号は、地中海を南に向かって航行していた。だが今この船に、主のアレックスは乗船していない。彼は3ヶ月前、婚約者のリンフォード伯爵であるアスカ・フローレンス・メルビル・ウィンスレットと結婚して、今はシェフィールド公爵としての責務に専念していた。
それは事実上の引退に近いが、実際には英国女王、ビクトリアの勢力の及ぶ海域には、彼の部下たちが変わらず配備されており、マレー号も船長であるコンウェイの指揮の下、通常の任務についていた。
ただ唯一違うのは、この10年間片時も離れず、ホークに影のように付き添い、彼を護り従っていた、一番の側近であるジャマールが、この航海を最後にマレー号を下りるということだった。

「ジャマール、あんたは本当にもう英国には戻らないつもりなのか?」
 マレー号の舵を操りながら、船長のコンウェイが傍らにいる背の高い男を振り返った。

「さあ、わたしにもよくわからない…。一応アレックスには、何があっても一度は戻ると約束しているが…」
遠く水平線の向こうに視線を彷徨せながら、ジャマールは応えた。思えばこの10年、なんといろいろなことがあったことか…。最大の出来事は、やはりアレックスと出逢ったことだが、彼を知ることで…ジャマールが今まで知り得なかった事、今まで忌み嫌っていた白人の中にも、高尚な魂の持ち主がいることを知った。
 そして…アスカだ。ジャマールが白人で唯一心を許したアレックスが、彼女に出会った瞬間から、苦悩し…変わっていく姿を最も間近で見ていたのだ。高潔な魂を持ちながらも、どこか退廃的で無軌道だった彼が、見事なまでに軌道修正されていく姿は、今まで頑なだったジャマールの心の…何かを変えた。

「もうボスのことが心配じゃないのか…?」
 マレー号の舵を握りながら、コンウェイが問いかける。
「大丈夫だ…。今のアレックスにはアスカが付いている。もうわたしの守護は必要ないだろう? それに、そのアスカの側にはコンウェイ、あんたの細君が張り付いている。あんたこそ寂しいんじゃないのかな?」
 逆にジャマールは後方に立つコンウェイを振り返って言った。

「なあに…リリアは前にも言ったが、お嬢さん…いや、奥様にゾッコンなんで、オレが海から離れられないように、リリアもお嬢さんの側にいたほうが幸せなんだ。おれはリリアが幸せならそれでいいし、あいつもそう…。だから、まあ…時々会えればそれで満足しているんだ…」
 コンウェイがやせ我慢からではなく、本心からそう言っているのがわかる。まったく変わった夫婦だが、それもまた愛の形というものだ。
 では、ジャマールは…?  彼がまだ10代の頃は、生まれた時から決められた相手がいることに、戸惑いと反発心から、不信感しかなかったが、彼を取り巻く環境が激変したことによって、自分が受け継ぐべきはずだった義務と責任について…冷静に考える時間が出来た。残された母と弟のことは、片時も忘れたことはなかったが、13年の歳月はジャマールの風貌も考え方も変えた。

 “ホーク”の腹心として生きることに、いつしか何の疑いも抱かなくなっていた。隣に立っているマレー号の船長、コンウェイとも、そこにいることが当たり前のような感覚がしていたが…これからは何もかもが違ってくる。寂しくないといえば嘘になるが、それでも前に進まなければならないのだ。アレックスが変わっていったように、ジャマールの中でも何かが変わった。もう一度…自分の運命…王家の後継者であり、定められた運命の相手に向き合うことが、今では自分に対しての最善の道であるような気がしていた。
 


ジャマールがロンドンを離れる最後の夜…アレックスは書斎にジャマールを招き、夜遅くまで二人で語り合った。

「明日からおまえはもう居ないんだな…? こんな日が来るなんて思いもしなかったが…?」
 アレックスは少し寂しげな表情で、ソファーに腰を下ろしながら、側に座っているジャマールを振り返った。
「アスカはどうしている?」
「ああ…落ち着いている。最近はおなかも大きくなって大変そうだが…」
「あと数ヶ月もすれば、君たちは人の親になる…。素晴らしい変化だな? 」
「その頃には、おまえはどうしている…?」
 謎賭けのような眼差しを向けながら、アレックスはジャマールにブランデー入りのグラスを差し出した。
「さあ? まずは故郷のドゥメイラが今どうなっているのか…冷静に見極めなければならない…。まずはエジプトのアレキサンドリアか、シリアあたりに拠点を構えてじっくりと作戦を練るつもりだが…?」
 ジャマールもそれを受け取って、ゆっくりと口をつけた。普段のジャマールはめったなことで、何であれアルコールを口にすることはなかった。だが今夜はアレックスと過ごす最後の夜だ。その意味を彼も十分にわかっていた。
 それを見つめながら、アレックスは立ち上がって近くのデスクの引き出しから、一通の封筒を取り出してジャマールの目の前に置いた。
「これを受け取ってくれ…」
「何だ…?」
 ジャマールが封印のない封筒の中身を確かめると、クレファード家の紋章の入った指輪がひとつと、アレックスのサインの入った書付が入っていた。
「これは…?」
 ジャマールが訝しげに問いかけると、アレックスはさも当たり前というように答えた。

「おまえは以前、オレが用意した慰労金代わりの数万ポンドの小切手を断っただろう…?」
「ああ…君の元で働いていたのは、わたしの意志でそうしていたからで、金で雇われていたわけではない。だから、そんな気遣いは必要ないんだ」
「わかっている。だが、これから闘うのにも資金は必要になる。エジプトのカイロにある、英国銀行におまえ名義の口座を開いている。引き出し金額は無制限だ。金が必要な時は、そこから使え。だが、いいか…勘違いするなよ。これはオレの…おまえに対する投資なんだ。配当は、オレとアスカに対する変わらない友情で結構。アスカも心配している。無事におれ達の子供が生まれるように、時々は彼女宛に状況を知らせる手紙を書いてやって欲しい。」
「アレックス…」
 ジャマールは、アレックスなりの精一杯の心遣いに胸が熱くなった。今はアレックスの妻となったアスカは、ジャマールが唯一心を開いた女性だった。

「わかった、約束しよう…」
 そう言って二人はしっかりと互いの手を握り合った。
 




英国からジャマールに付いて来た、アレックスの精鋭部隊のうちアンドルーを含む数人の部下を連れて、とりあえずは地中海沿いのエジプト第二の都市、アレキサンドリアの市街地にある貿易会社の事務所に落ち着いた。もちろん公表こそしてはいないが、クレファード商会の末端の子会社だ。
別れ際、アレックスは自分の力が及ぶ範囲なら、利用できるものなら何でも使えと言っていた。最初、ジャマールはアレックスからの金銭的な援助を断った。アレックスとのこの十年の結びつきを、金銭的な価値観で考えることが出来なかったからだ。ただ現実的には、これからジャマールが行おうとしていることには、多くの代価が必要となる。
 アレックスはそれを充分に見越して、わざわざ投資だなどとわざとらしい言い回しまでしてジャマールに、ドゥメイラの貨幣価値の、およそ数百倍の小切手を押し付けてきた。それもドゥーラスの王家の金庫でさえ、その半分の金貨も有してはいないというのに…。
おまけにその小切手の額面は、有ってないのに等しい。つまりは書き込める金額は無制限というわけだ。
 今さらながら、アレックスの持つ財力には驚かされるばかりだが、一見派手に見えるアレックスが、本当はとても高潔で素朴な人間であり、その途方もない財力を自分より弱い人々のために使うことに何の躊躇いもなく…嬉々として行っていることにジャマールは深い感銘を覚えていた。


「ジャマールさま、さっき事務所に届いた連絡によると…3週間前にレディシェフィールドは、無事双子を出産されたそうです。」
アレキサンドリアに落ち着いて2ヶ月目…街に出ていたアンドルーが、嬉々とした表情で…その頃拠点としていた元ホテルの建物に飛び込んできた。
「アスカが…!? そうか、いよいよアレックスも人の親になったんだな…? 」
 思わずジャマールに笑みがこぼれる。アレックスとアスカが結婚式を挙げてからちょうど3ヶ月が過ぎたころ、ジャマールは英国を離れた。その頃アスカは妊娠7ヶ月で、通常の妊婦よりかなり大きくなったおなかのためにかなり大変そうで…本当は港までジャマールを見送りたいと言っていたが、最後はロンドンのタウンハウスでの別れとなった。

「ジャマール…! ありがとう…必ず、あなたの願いが叶うことを祈っているわ…! そして…いつかまた会いに来て…!」
 アスカは美しい顔をくしゃくしゃにして泣いていた。彼女は、ジャマールが知っている女性の中でもっとも勇敢な女性だった。彼女の凛とした姿を思うとき、自分の人生においても、もう一度一緒に歩んでいけるパートナーといえる誰かを求めたい…そんな想いが芽生えてきたのだ。
 ただジャマールには、ジャマールの…定められた運命が待っている…今やっとその運命に正面から向き合う勇気が出来たのだ。アスカとアレックスのおかげで…。



 12月の英国は今、冬真っ只中だが…ここエジプトはアフリカ大陸の最南端にある。冬とは無縁の…砂漠を含む、乾いた国土が主になるが、エジプト第二の都市アレキサンドリアは地中海に面した都市で比較的温暖で緑も多く、内陸へはナイル川を中心として水路が発達しており、18世紀の後半から西欧の資本が多く流入したこともあって、貿易も盛んだった。中心部にある市場もそうだが、港のまわりには多くの、西側の貿易会社のオフィイスも立ち並んでいる。その一画にクレファード商会のオフィイスもあった。

 にぎやかな港の通りを見つめながら、しばらくもの思いに浸っていたジャマールの元に朝から情報収集に行っていたアンドルーが戻ってきた。
「ジャマールさま、今朝早くスーク(市場)にやって来た東からのキャラバンからの情報が取れました。現政権のアリメドはこの10年間、かなりの圧制を強いていたようで、この数年でも各首長国の間でかなりの反乱が起きています。前の政権下では安全に整備されていた交易の街道も、いまでは盗賊の出没による略奪が相次いでいて、とても危険だといっていました。
(なるほど…思ったとおりだな。あの貪欲なアリメドがまともな政を行うわけがない。己の私腹を肥やすことにしか興味のないあの男は、自分の足元に虐げられている者のことなど露ほども気にしていない…。母や弟のネフェルは無事だろうか…?)

「ジャマールさま…?」
 アンドルーの報告を聞きながら、しばらく別の物思いに浸っていたジャマールの表情が曇るのを見て、アンドルーは不安になって声をかけた。
「大丈夫だ。一瞬昔のことを思い出しただけだ…」
 自分の副官として連れてきたアンドルーには、これから先の予定も含めてジャマールの出自について報せてある。アレックスの私設海軍の中でもアンドルーを含む数人はジャマール自ら鍛えた精鋭部隊で、特にこのアンドルーは、口数は少ないが物事を的確に判断できる上に、変装も巧くスパイとしては申し分ない。もともとは南米の生まれだが、こうしてジャマールと同じアラブの衣装を着ても何の違和感もない。唯一違うのは、彼の瞳が明るい鳶色ということくらいだろうか…。

「残されているご家族のことを気にされていますか…? 少し深く探りを入れてみましたが、その連中は深くは知らなかったようでした。」
 すまなそうな表情をアンドルーはそう言って目を伏せた。今まであまり自分の感情を表に出さなかったアンドルーが、最近では比較的自分の思いを言葉に表すようになったのは、それもアスカに出会ったせいだとジャマールは思っている。アレックスの部下の中にもアスカの密かな崇拝者は多い。アンドルーも、そのひとりなのだ。彼女はアレックスだけでなく、彼を取り巻くあらゆる世界に良い影響を及ぼしている。
 アレックスの帝国の新たな女王の誕生に、皆喜んでその足元にひれ伏すだろう…。アレックスを筆頭に…。

「いや、気にはなるが…過ぎた過去だ。その想いに振り回されて感傷的になっていれば、肝心な時に決意が鈍りかねない。どんな事実でもありのままに報告してほしい…。わたしへの気配りは不用だ。」
「わかりました…」
 アンドルーはそう言って安心したように、ニヤリと笑った。

  それから3日後、港に入港したクレファード商会の貨物船を通して、ロンドンにいるアレックスからある情報がもたらされた。アレックスが支援している考古学者のファウスト教授が、ドゥメイラの辺境の砂漠地帯にある遺跡の探索に向かうキャラバンのための護衛チームを募集しているというのだ。ファウストはカイロ大学にある研究所にいて、数年前から古代エジプトをはじめ、中東地域に点在する遺跡の発掘調査を行っていた。
 アレックスは彼のパトロンとして、毎年多くの支援を行っていたが、今まではファウストは独自の調査団を持っていて、金銭以外の援助は求めてこなかったのだが、このところのドゥーラスの政情不安を受けて、不安になったファウストは、アレックスの持つ私設部隊に援助を求めてきたらしい。アレックスの手紙にはそう書かれていた。
 そしてアレックスは手紙の中でこうも書いていた。アスカが出産直後でなければ、自分もその冒険に参加したかったのだが…と。
 アレックス特有のユーモアを込めたのだろうが、仮にアレックスがそう言ってきてもジャマールは認めるつもりはなかった。が…しかし、彼のそういうところがジャマールは好きだった。
 アレックスは、白人の中で唯一、ジャマールが親友といえる人物だ。10年間主として仕えたが、実際にはそれ以上の関係でもある。彼がジャマールの身を心配してくれるのはありがたいが、今回だけは自分の力でやり遂げなければならない…。ただアレックスの気持ちを考えると、後方支援だけはありがたく受けるべきだと考えていた。


「それで、ミスター・ファウストはいつアレキサンドリアに到着するんだ…?」
 手紙を読み終えたジャマールは、傍らのドルー(アンドルー)を振り返った。
「はい、来週中には市内の拠点に到着すると連絡が来ました。」
「わかった、では急いでこちら側の人選も進めなければならないな…? それはドルー、おまえに任せよう…」
「ありがとうございます。ではさっそく…」
 そういうなり、ドルーは勢いよく部屋を飛びだして行った。ファウストのキャラバンは多くの機材やそれを操る技師達を含めて、少なく見積もっても数十人は移動することになる。もともと彼が雇っている護衛がいたとしても、これはかなり難しい任務となるだろう。たとえジャマールに別の意図があって、そのキャラバンを巧く隠れみのにして、ドゥーラスに潜入することが目的だったとしても…。

 今回ジャマールに同行している精鋭部隊は、ドルーを含めて20人余り。連絡用の人員を数人残したとしても最低でも15人は連れて行きたいところだ。大体が20代前半から30代と年齢も幅広いが、人種も様々…今回は中東を中心に活動するために、潜入しても違和感のない連中を集めている。おまけにその誰をとっても、その戦闘能力に優劣は付け難い。ただ真の意味で今回のミッションの内容を理解しているのはドルーだけだろうが…。
 そこで、ジャマールは不意に13年前…別れたかつてもっとも身近にいた友…“ヴァンリ”の姿を思い出した。
 別れ際、埠頭を走る馬の背から必死に手を振っていたヴァンリ…。父王が最も信頼していた宰相ハッサンの息子、ヴァンリは物心ついた頃からずっとジャマールと一緒だった。
(ヴァンリはあのまま無事に逃げおおせただろうか…? 母は…? 弟ネフェルは…? いや、今は考えるまい…。いずれその答えは出るだろう…)

 ジャマールは、目の前から見える青い海へと視線を彷徨わせた。

王都 ドゥーラス

 ドゥーラス…砂漠の中心にあるオアシスの王国、城壁に囲まれた都市王国の…中心部にある王宮のさらに奥深くにある後宮の一室。現ドゥーラスの政権を担うアリメドは、周りに多くの妾妃を侍らせながらも、機嫌悪く…今にもイライラを爆発させそうな勢いで、目の前に広がる後宮の中庭の…中央に設えられた美しい花に囲まれた、大理石の噴水の向こう側を睨みつけていた。
 
今朝早くかねてから身籠っていた第七番目の若い妾妃が出産の兆候があると連絡があったのだ。それからじっとこの部屋でその時を待っていたのだが、かれこれもう5時間以上経っても一向に生まれる気配がない。最初は余裕だったアリメドも次第にイライラし始めた。というのも前王だった腹違いの兄、レファドからクーデターによって政権を奪ってからすでに13年の歳月が流れ、その間近隣の王女たちを人質として自らのハーレムに迎え入れ、次々に子供が生まれたが、すべて王女ばかり…。その数20人余りになるが、誰ひとりとして跡継ぎの王子を産むことは出来なかった。

未だクーデターで政権を奪ったことに批判的な首長国も多く、アリメドに目立って反旗を翻すことはしないものの…王子が生まれないことを、神の呪いだと密かに噂する者もいた。そのために、忌々しいことに未だ死んだ王の妃と、第二王子であるネフェルをそのまま塔に幽閉したままになっている。第一王子のジャマールは、10年前に一緒に海外に逃れたオランダ人夫婦とともに海賊に襲われて命を落としたと報告が来た。

ジャマールさえいなければ、生まれつき目の不自由なネフェルは生かしておいても大して脅威はないが、それも自分に跡継ぎの王子が生まれるまでだ。もし今日王子が生まれたならば、すぐにでもレファドやジャマールと同じところに王妃共々送ってやるつもりだ。
アリメドも年齢的にはもうすでに40代に差し掛かろうとしている。仮に今すぐ王子が生まれたとしても、成人するまでにはまだ時間がかかる。今のドゥメイラの政情を考えれば、決して安心できるものではなかった。
毎月どこかで起こる内乱もあとを絶たず、相変わらずスペインの援護を受けていたが、最近連中の要求もだんだんエスカレートしてきて…このままではアリメドの地位そのものを脅かしかねないところまで来ている。
(まったく忌々しい限りだ…。)



「ええい、何をしている…!? 未だ生まれないのか…!?」
 さっきから焦れていたアリメドは手にしていたワインの盃を床に叩きつけて立ち上がった。その剣幕に恐れをなした妾妃たちは叫び声を上げていっせいに柱の影に姿を隠した。すると、申し訳なさそうに側近の一人が進み出てくる。
「申し訳ありません、医者の話だと、どうも逆子のようで…もうしばらく時間がかかると…」
 その言葉を言うか、言い終わらないうちにどこからか赤子の声が響いてきて…出産が終わったことを告げる。それと同時に知らされた結果に、アリメドの怒りはさらに頂点に達した。
 またしても生まれたのは王女だったのだ。
「どいつもこいつも無能な奴ばかりだ! 王子を産める女はいないのか…!?」
 アリメドの怒りは収まるどころかますます激しくなり…ところ構わず当り散らすと、腰に下げた短剣を振り回して部屋の中に幾重にも張り巡らされた薄い絹のカーテンを引き裂いた。その勢いで壁に掲げられている豪華なタペストリーを斜めに切り裂くと…そこで突然何かを思いついたように手を止めてニヤリと笑った。
「そうだ。大事なことを忘れていたぞ…。塔に閉じ込めているアストラットの姫の名前は何と言ったかな…?」




ドゥーラスの王宮で最も高い塔の中に、レファドの妻、エレーネと…今は16歳になった第二王子ネフェルが囚われていた。長い気の遠くなるような螺旋階段を上った先にある半径が数メートル四方あるか、ないかの円い部屋の中に二人は身体を寄せ合うようにして過ごしていた。
 高い塔の最上部にある明り取りの窓と、床からやっと手のとどくところに小さな羽根板の窓があるばかりで、部屋から外を覗くことすら出来なかった。
当時3歳だったネフェルも今は16歳。若干幼さの残る顔立ちに微かに当時の面影を感じることは出来るものの…背丈ははるかに伸びて、その頃の彼を知る人間が今の彼を見ても、おそらくはそれがネフェルだと気付くことは出来ないだろう…。ただ変わらなかったのは相変わらず彼の視力は弱く…今では一緒にいる母の姿でさえ、おぼろげにしか確認できなくなっていた。
そして、当時は美しかった王妃エレーネも突然起こった悲劇がもたらしたときの変化には逆らうことは出来なかった。美しくふくよかだった頬はこけて、もともと細身だった身体はさらにやせ衰えて、その顔から笑顔は失われた。
唯一の救いは長年エレーネに仕えていた侍女アステアがそのまま、側にいることを許されたことで、彼女は日に一度食事と身辺の世話をするためにこの塔に登ってくる。

「お痛わしいことです。王妃さま…。このような場所でこのように過ごされていらっしゃるなんて…」
 そう言ってアステアはさめざめと泣いた。
「今となっては仕方ないことです。これも神が定められたこと…。きっとこの悲しみにも何か意味があるのでしょう…」
「そのようなこと…。せめてジャマールさまが生きていて下されば、きっとこの苦難からも救ってくださるでしょうに…」
「アステア…それを言ってはなりません…。もしアリメドの耳にでも入れば…ただではすみません。わたしは…ネフェルトともにつつがなく生きていられるだけで満足です。ネフェルが無事でいられるのも、アリメドに跡継ぎがいないからです。もし…この先ひとりでも王子が生まれれば…このネフェルの命さえ危ういのです…」
「母上…」
 哀しげにつぶやく母エレーネの手を、ネフェルは優しく取って握り締めた。ネフェルは14歳年の離れた兄の面影は、はっきりとは覚えていないものの…見上げるように背の高いその人の…明るく弾むような笑い声だけは覚えていた。
暗闇の中で恐怖で眠れない夜…母は幼いネフェルを抱きしめながら、優しい父や美しく逞しい兄、ジャマールのことをまるで物語のように語ってくれた。その温かい声の響きを聞きながら…ネフェルは温かいぬくもりに包まれて眠りに落ちたことを今でも覚えている。
視力こそ失っているが、ネフェルの心の中には今でも優しい父と雄々しい兄の面影が消えることはなかった。
「王妃さま…」
 そこに濃い色のマントに身を包んだひとりの女性が二人の前に進み出て、深く頭を下げた。そしてゆっくりと顔を上げて、かぶっていたフードを外した。
「ラナ…。このところ姿が見えなくて心配していたのです。無事だったのですね…?」
「はい…」
 彼女は、小さくうなずいて二人に向けて微笑んだ。マントの下には質素なドレスを身につけているが、艶やかな黒髪を肩下で緩く編んで垂らし…小さな卵形の輪郭に整った顔立ちの中で潤んだような黒い瞳が印象的な美しい女性だった。
 彼女は本来なら、今頃は第一王子ジャマールの花嫁になるはずだった女性で、生まれはドゥーラスの、西の辺境の王国、アストラット国の王女だった。あの政変が起こった時、彼女はまだ7歳だった。実際にはまだ誕生日を迎えていない状態で故郷を出発して、王都ドゥーラスを目指して旅の途中だったのである。
そして一行は隣国バラクの手前で、アリメドの反乱軍に捕えられたのだった。アリメドはこの不用になった王女を国に送り返すことなく、エレーネたちと同じ塔に幽閉することを決めた。王女は国を出た時にはまさかこんな運命が待ち受けていようとは思っていなかっただろう…。王女を返してほしいというアストラット国王の願いも虚しく…ラナはこの13年間、この塔の中で、幽閉されて過ごした。最初は彼女もまだ子供だったという理由で、ネフェルと一緒に過ごすことも許されていたが、ラナが14歳になって初潮を迎えると、同じ塔でも別の部屋に移され、前と同じようには会えなくなってしまった。
 それでも月に数回は見張りつきでこうして会うことも許された。

「王妃さまもネフェルさまもお変わりなく…こうしてお会い出来て嬉しいです。」
「ありがとう…。あなたも本来なら今頃は幸せに暮らしているはずなのにこのような…。こんなことなら、もっと早くに延期の通達を出すべきだったと…何度後悔してもきりがないのですが…」
 ラナの顔を見てまたエレーネは、ハラハラと涙をこぼした。エレーネからしてみれば、自分達一族だけでなく…定められた運命とはいえ何の罪もないひとりの女性の一生を狂わせてしまったことへの贖罪の想いがあるのだろう…。
 その想いがわかるだけにラナも王妃の優しさに涙をこぼした。未だ子供だった彼女もイレーネを母のように慕ってその寂しさを紛らわしてきたのだ。そして3歳違いのネフェルを弟のように可愛がり、寄り添ってきた…。

「王妃さま…じつは今日こちらに伺ったのは…お別れを言うためでした…」
 哀しげに目を伏せたラナは、小さく肩を震わせた。
「まさか…? 」
「ラナ姫、アリメドは…もしやあなたを…」
 エレーネとネフェルの問いかけにラナは小さくうなずいた。いつかこんな日が来るのではとイレーネは密かに恐れていた…。ラナはジャマールの妃として運命付けられた王女だ。ジャマールがいない今、その存在は空に浮いた状態だが、ラナ姫に手を出すことは神への冒涜にあたいする。そこまでアリメドが踏み込むとは思えず、ここまで年月が過ぎた今…今さらと思っていたのだが、この頃聞こえてくるアリメドの狂人ぶりを思えば考えられないことではなかったかもしれない…。

「なんていうことでしょう…。今の私たちにはあなたを守ってあげる何の力もないのです…! 」
 そう言ってエレーネは目を伏せた。傍らにいるネフェルも悔しげに唇を嚙む。
「ボクの目が普通に見えて、ここから出る術があったら…ラナ、あなたをあんな卑劣な男のところへはやらないものを…。でもいつかきっとここから抜け出してあなたを救い出してみせる…!」
「ええ…そう言っていただけるだけでわたしは幸せです。この13年間、王妃さまはわたしを実の娘のように可愛がっていただきました。それだけで幸せです…。この先何があろうと…わたしはこのドゥメイラのために祈り続けます…」
 それだけ言って、ラナは小さな肩を震わせながら…深深と頭を下りると…アステアに付き添われてエレーネたちの前を辞した。無言のまま…暗い螺旋階段を下りていく…。
「大丈夫ですか…? ラナさま…」
 途中心配そうにアステアが振り返る。
「ええ…大丈夫よ。」
小さくそう答えて、ラナは目の前を歩く松明を持った衛兵の後に続いた。いつもなら左手に曲がって自分の部屋に戻るところだが、もうそこに戻ることはない。今朝早く王宮から報せが来て、今日から後宮にはいるようにとアリメド王からの命令が下ったのだ。
 前から覚悟していたとはいえ、自分でも驚くほど冷静でいられたことにラナは驚いていた。これから3ヶ月、ドゥーラスでは忌み月(すべての新しい物事を起こしてはならないとされる時期)に入る。少なくともそれが明けるまではアリメドがラナの元を訪れることはない。その間にゆっくり準備をすればよい。ラナは自分の役割を理解していた。
(わたしは生まれた時から、ある方を守るべきために捧げられた身…何があってもその務めを果たします…)

 アストラットの願い 1

 15年前、アストラット…。

「王子、何をさっきからイライラしているんだ…? アストラットに来ているからって何も運命の王女に会えるわけでもあるまいし…」
 世話係りのヴァンリとともに馬を並べて進んでいたジャマールは、彼の冗談にいつものように笑い飛ばすことが出来なかった。いくら運命によって決められた相手とはいえ、結婚するそのときまで会うことは許されない。当然3年後の…ジャマールの18歳の誕生日まで、その姿を遠目にでも拝むことすら出来ないのだ。
だがそれが何だというのだ…! ジャマールはそんな最初から決められた相手がいることが重荷に感じられて仕方なかった。これは何かの間違いで、気がつけば自然に立ち消えてしまう…。そんな未来を思い描きもしたが、そんなに都合よくいくわけがない。

 ジャマールは数日前、父とともに訪れたアストラットの王都テランの王宮で対面した、アストラット王ダナムの…穏やかだが威厳のある顔立ちを思い出した。
(王女はこの父王に似ているのだろうか…?)
 そんな想いに至った自分が恥ずかしくなって、怒りとも苛立ちともつかない感情に支配されたジャマールは、自然と馬に鞭を入れていた。
「あ…! 待って…! 王子どこへ行くんです…!? ジャマール…!!」
ヴァンリも慌ててあとを追う。そして走り続けた二人は、やがて国境に近い小高い岩山のふもとにやって来る。乾いた大地だけの不毛な場所だと思っていた景色の中に、不意に飛び込んできた鮮やかな緑の色彩に…驚いた二人は恐る恐る馬から下りて辺りを見回した。

「これは驚いた…こんなところに隠れたオアシスがあるなんて…。」
 ヴァンリも信じられないというように目の前の豊かに緑の葉を茂らせるオリーブの気を見上げている。
「洞窟がある。中に入ってみよう…」
 ジャマールは先に立って、目の前にポッカリと口を開けている洞窟に入っていった。

 洞窟は思ったよりも奥が深く…驚いたことに最奥には数メートル四方の池のような泉があった。陽の光の届かない泉の水はひんやりとして冷たく、さっそく泉の水で喉を潤した二人は、どちらからともなく服を脱いで泉の中に飛び込んだ。
「ひえ~! 冷てェ…!」
 最初その冷たさに悲鳴を上げた二人だが、馬を跳ばして来たせいで火照っていた身体を冷やすにはちょうど良かった。どれくらいだろう…ひとしきりはしゃいだあとで、二人が外に出てみると太陽はかなり傾いていて…急いで王都のテランまで戻ったとしても、恐らくは日没には間に合わないかもしれない…。あんがい今ごろジャマールたちがいないことに気がついた連中が大騒ぎをしていることだろう。
 その時には、ここに来るまで感じていたイライラなどすっかり忘れて…再び馬に飛び乗ったジャマールは、勢いよく砂漠へと駆け出して行った。


 洞窟の中で、いつしか夢想に浸っていたジャマールは、ハッとして我に返る。
(やっぱりここはあの時、偶然ヴァンリと見つけたオアシスに違いない…。だが…?)
 そう思って改めて見回してみると、あの時よりも緑の面積は減っていて…荒廃ぶりが感じられる。洞窟の最奥にあった豊かな泉も、半分に減って…辛うじてかたちを保っている。
 ジャマールは膝間づいて片手を伸ばすと、泉の水をすくって飲んだ。喉を駆け下りていく冷たい水の感触が気持ちいい…。あの時と同じように喉の渇きを潤しつつ…やがてジャマールは、はいていたブーツを脱いで冷たい泉に入ってみた。水の水量はあの頃の半分もない。辛うじて膝下に届く程度だが、それでも火照った身体には…うっとりするほど気持ち良かった。
 上半身裸になって、頭に巻いていたターバンを濡らして身体にまとわり着く汗の痕跡を拭き取る。

(アストラットのラナ…ここは彼女が生まれた国だが…今ごろ彼女はどうしているのか…? あの騒乱の中、父親であるダナン王は王位を甥に譲って退位したと聞いたが…彼女が生きていれば20才か…21…。いったいどんな女性になったのだろうか…? 適齢期はすでに過ぎ…本当ならもうとっくに誰かのものになってしかるべきだろう…? フッ…。今さら何を…? )
 13年前に失ったものを思い出して…苦々しい想いが浮かび上がってくる。もうここには幼い婚約者も、親友だったヴァンリもいない…。感傷に浸っている暇などない…。冷徹なホークの副官に戻って、やるべきことをやるのみだ…。
 ジャマールは腰に挿した三日月刀の柄をギュッと握り締めた。



 次の日…ファウストはジャマールをはじめ、数人の供を連れて、王都テランを訪れた。もちろん、王に謁見して、国内を通過する許可とその間の安全に関する庇護を求めるためだ。
 日に焼けた顔に白ヒゲをたくわえたファウストは実際の年齢よりは老けて見える。カーキ色のシャツにズボン、砂漠用のブーツを履いて、研究者というよりは旅行者のいでたちだが、砂漠を移動するにはこの格好が便利だ。普段は薄くなりかけた頭髪を隠すために大きめの麻の帽子をかぶっているが、王宮ではそれを外して胸の前に置いている。少し小太りのせいで、それほど背は高く見えないが、実際には長身のジャマールと10センチも違わないのだ。
 ジャマールも従者としてドルーを連れて来ている。二人とも頭に濃いインディゴブルーのターバンを巻いて、アラブの内陸部に住む遊牧民風に装っていた。いつもの丈の短いカフタン(アラブの衣装)の上に丈の長いマントを羽織っている。腰に下げた三日月刀が目立たないようにしっかりと衣服の下に隠した。

 あらかじめ謁見は申し込んであったため、都の外れに数人の兵士が迎えに来ていた。その兵士たちに続いてテナンの市街地に入ったが、ジャマールは妙な違和感に捉われていた。
 第一に通りを行き交う人々の姿が圧倒的に少ない。いても年寄りばかりで…若者の姿は皆無だった。15年前の記憶では…あっちこっちににぎやかな市が立って、人々は笑い合い活気に満ちていたが…? この15年の間にこの国はどうなってしまったのだろうか…?

「この街はまるで廃墟のようです…」
 傍らのドルーも同じように感じたのだろう。辺りを見回してつぶやいた。
この地域の建物は、粘土質の土を乾かして造った日干し煉瓦が使われている。雨の少ない地域では有効だが、それでも耐久性の少ない煉瓦は定期的に交換しなければならないが、どうみても所々傷んだ煉瓦が交換されたあとは見られなかった。

「15年前はもっと活気にある街だった。いったい何があったのか…?」
「政権が変わったことが大きいのでは…? 時の支配者が変わって苦しむのはいつも末端の人民ですから…」
 表情ひとつ変えずにドルーは言った。そのとおり…どの世界でも同じだ。ドルーの出身は南米の島国のひとつで…内戦が長く続いたあと、スペインの支配を受け、今も続いている。彼もものごころつく頃には貧しい暮らしに堪えかねて、海賊になるしかなかったと言っていた。

「王に会えば何かわかるだろう…」
「そうですね…」
 それでも王宮の周りは幾分にぎやかさをまして、ここに王が君臨していることを表している。
「ファルド殿、君の故郷はドゥメイラだと聞いているが、どの辺りなのかな…? 」
 宮殿の長い廊下を歩きながら、突然思い出したようにファウストが聞いてきた。ジャマールの経歴はアレックスを通じて伝えてあるが、詳しくは当然伝えるはずがない。名前もジャマールではなく、“ファルド”と変えてある。
「東の果ての、辺境の生まれです。それも両親は遊牧民ですので、故郷はドゥメイラというだけで、特定の地域ではないんです。」
「そうか、君の率いるチームは優秀だと閣下の折り紙つきだ。私もクルーも安心して作業に励める…」
 ファウストは陽気に笑っているが、内心ジャマールは笑っていられるのはそう長くはないと思っている。ドゥーラスに近づけば近づくほど、よそ者に対する監視は厳しくなる。昔からアリメドは疑い深く、裏切りには残酷な男だった。

 宮殿の奥の、謁見室の控の間でしばらく待つように言われ…一行が置かれた長いすに腰を下ろして待っていると、やがて…入口とは反対側の扉が開いて…王と思われる人物が側近を二人連れて現れる。ファウストをはじめ、ジャマールたちも弾かれたように立ち上がって、その人物に拝謁するかたちで頭を下げた。
 王が一段高い席の長いすに落ち着くと、ジャマールたちも合わせたようにまたその場に腰を下ろした。
 現在のアストラット王は前王の弟の息子で、ザディハという。13年前にダナムから政権を譲り受けたときは、確かまだ12歳だったはず…。今目の前にいる王は、25歳という年齢のわりに落ち着いた老齢の雰囲気さえ漂わせている。ジャマールの部下達の集めてきた情報によると、アリメドは、王女の身の安全と引き換えに政権をジャディハに譲ることを迫ったのだという…。未だ子供の王を立てることで、アストラットを自分の言いなりになる御しやすい国に作り変えるためだろう…。
 ザディハは若いながら頬と口のまわりに濃いひげを蓄えているが、濃い眉と堀の深い顔からは、何か威厳と同時に深い悲哀のようなものが感じられる。側にいる側近の一人が耳元で何か囁くと、小さくうなずいて…真っすぐファウストの方を見て口を開いた。

「これからあなた方はドゥーラスの、東側の山脈のふもとまで行かれるとか…? 遺跡の調査ということですが…」
「はい、30年前から計画して…やっと資金面で目途がつきまして…。この地域に眠るすばらしい先人の文明を世界に知らしめるのが私の仕事なのです…」
 ファウストは持ち前の明るさと情熱を持って、ザディハに自分の目的を熱く語るが、はたしてその情熱がこの若い指導者にどれだけ伝わるかどうか…。

「あなた方ヨーロッパ側から見た過去の文明の価値観が、我々のそれと同じかどうか…という点はさておいて…恐らく今回の通交証を手に入れるために、あなた方はドゥーラスに驚くほどの対価を支払ったに違いない。違いますか…?」
 皮肉を込めたジャディハの言葉に、ファウストは苦笑しながら肩をすぼめてみせる。それが答えだったが、確かにあの強欲なアリメドが当たり前のものを要求するわけがない。恐らくは今回のキャラバンの、総予算のほとんど…。その金がアレックスの懐から出ていると思うと腹が立つが…。アリメドを倒すことでいくらかでも取り戻せれば良し、そうでなくとも…あの男がいなくなるだけで、この世界は劇的に変わるはずだった。

「ドゥーラスの許可証をあなた方が持っているかぎり、我々小国が言うことは何もない。今のドゥメイラは、交路も荒れて危険が伴う。気をつけて行かれるがよい…」
「ご心配ありがとうございます。だが我々には腕の立つボディーガードがおりますので…不安はありませんよ」
 ファウストが自信たっぷりに笑うと、ザディハはディハは曖昧な笑みを浮かべて…目の前に並ぶ一行を端から順に眺めた。そして…その視線がジャマールに止まった時、何かを感じたのか、彼の目が大きく見開かれた気がしたが、それも一瞬ですぐ元に戻ったので、ジャマール以外には誰も気がつかなかっただろう…。
(何か気づかれたのだろうか…?)
 そう思わせるようなザディハの眼差しだった。それから当たり障りのない会話をして、アストラット王、ザディハとの会見は終わった。

「まだ若い王様でしたね…? 本当ならあなたにはもっと直接聞きたいことがあったのでは…? 」
 再び宮殿内の長い回廊を戻る道すがら、小声でドルーが囁く。結局そこに居るだけで、ジャマールは一言も発することはなかった。確かにドルーの言うとおり、ジャマールには直接ザディハに聞きたいことはたくさんある。
 だが今はまだこちらの手の内を明かすわけにはいかない…。旅は始まったばかりで…この先何が起こるか予想もつかないのだ。

「ああ…だがここはまだ大人しくしていた方がいい…。アリメドは用心深い。どこに監視の目を張り巡らせているかわからない…。我々の目的を決して悟られてはならないからな…」
「そうですね、ファウストにも…?」
「そうだ…」
 ファウストは人間的には信頼に足る人物で、それについてはアレックスも保証していた。彼は学者としては一流の人間だが、それゆえに一般で云うところの社会での駆け引きには疎いところがある。
 相手を疑うことをしないばかりか、自分が利用されていることすらわかっていない…。まさしく今のジャマールがファウストのキャラバンを隠れ蓑として利用しているのだが、それすら彼は疑っていないのだろう…。数メートル前を行く彼らの後ろ姿を見つめながら、ジャマールは小さく笑った。
 
二人がファウストたちから少し離れて歩いていると、来る時には気がつかなかったが、宮殿のあちこちから足を止めてこちらを見ながらひそひそ話している女たちの姿がある。目立たないように変装しているつもりなのだが、背の高いジャマールと独特の雰囲気を持つアンドルーはそれでもかなりひと目を惹く。

「どうやらここでも、我々は人の注目を集めてしまうらしい…。気をつけねば…」
「そうですね…でもあなたとホークほど、目立つ取り合わせをオレは知りません…」
「ハハ…それはまた特別だ…」
 ドルーの言う軽口に、ジャマールも抑えた笑い声を上げた。 


 ザディハとの謁見も終わりすぐ通行許可は下るはずだったが、それから何故か2日を過ぎても何の連絡もなかった。
「なぜだ…? 我々の用意した許可証に不備はなかったはず…。」
 ファウストは、朝からホテルの自室の中をイライラしながら、忙しなく歩き回っている。
「現ドゥメイラ政権のアリメド王は、かなり猜疑心の強い男だと聞く…。いつ自分の寝首を欠く相手が現れるのかと24時間ビクビクしている。おまけに彼の後ろにはスペインが付いていて…我々の資本が、英国の有力な実業家から出ていることに警戒しているのかもしれない…」
 近くのイスに腰掛けながら…ジャマールは冬眠前の熊のように、さっきから目の前をわウロウロ歩き回るファウストに向けて言った。
「まさか…? もうすでに何百ポンドもの大金を受け取っておきながら、今さら取り消されても困る…!」
 ファウストはかなり薄くなりかけた濃い金髪を掻き乱しながら憤慨していた。
「だから、未開の地の異教徒は…」
 そう言いかけてファウストは、ここがもう自分の知る安全な土地でないことと…目の前にいる護衛のために雇った背の高い戦士が、その異教徒のひとりであることを思い出した。
「す…すまない。別に君のことを侮辱するつもりでは…」
 慌てて言い直したファウストは、懐からハンカチを取り出して額の汗を拭き取った。

「安心されるがいい…ミスター・ファウスト。わたしはそんな言葉で人を判断するほど狭量ではない。それに遠く離れているとはいえ、我々はまだホークの配下であることに変わりはない。ボスがあなたを信頼しているうちは、我々の関係は変わらない…」
 そう言って、ジャマールはファウストを安心させた。

アストラットの願い 2

 昨日と同じ門から中に入った二人は、そこで一人の男に手招きされた。見覚えのあるその男は、昨日ザディハの後ろに立っていたうちの一人に違いない。黙ってその男の後ろについていくと…ある地点から目立たない小さな扉を抜けて、まるで迷路のような高い天井の回廊をぐるぐると回って行く…。
 イスラム圏の宮殿は、大概が外敵の侵入を阻むために迷路のような回廊を多用している。ジャマールの育ったドゥーラスの王宮もこれに近い形だが、ここはさらに複雑に入込んでいる気がする。
 かなり狭い通路をいくつか抜けたあとで、先頭を行く男が、行き止まりになっている先にある、目立たない扉を開けると…そこはそれほど広くはないが、落ち着いた雰囲気の応接室が現れた。コの字に置かれた座面の低い背もたれのあるソファーの中央には、鮮やかな色の花が飾られており、昨日の謁見室とは明らかに雰囲気の違う部屋だった。
 そして驚いたことにそのソファーの中央に、白いシャツとゆったりとしたズボンに身を包んだ王ザディハの姿があったのである。

「すまない…こんなかたちで再びあなた方をここに呼んだのにはわけがあります。」
 そう言ってはにかむような表情を見せたザディハは、さっきジャマールたちを案内してきた側近に何か小声で囁くと、彼は小さく頭を下げるとそのまま部屋を出て行った。
 するとザディハは驚いたことに、近くに置いてあったティーポットを手にとって自ら客人にお茶を入れ始めた。驚いている2人の目の前に、慣れた様子でティーカップを並べると、自分のカップを手にとって口元に持っていく…。

「驚きましたか…? ここは私の完全な私室なのですよ。ここなら何を話しても、他の誰かに聞かれることはない…。それに…わたしはヨーロッパに2年間留学していたことがある。そのうち1年間過ごした英国ではすばらしい紅茶の文化に触れてね…。このとおり今では自分でも愉しむようになった…。」
 昨日とは打って変わってすっかりくつろいだ様子のザディハは、穏やかな笑顔を見せながら、2人にも遠慮なく飲むように勧めてくる。断る理由もないので、ジャマールも見事な装飾を施された美しい白磁のティーカップを手に取った。

「あなたは長らく英国の指揮官の下で働いていたと聞きました。こんな習慣も有ったのでは…?」
「確かに…。ですが、私の主はお茶よりもシャンパンやブランデーを好む人間だったので、私自身にその習慣はありませんでした。ですが付き合い程度にはたしなむ心積もりはいつでもあります。」
 ジャマールも表情を和らげて微笑むと、目の前の歳若い指導者をじっと見つめた。改めてわざわざジャマールたちをこの極めてプライベートな私室に招いたのには、きっと他人に聞かせたくない何かを伝えたかったに違いない…。それをどのタイミングで切り出すか…。ならば、こちらから呼び水を仕掛けてやろう…。

「以前この国の知り合いから聞いたことがあるのですが、前の指導者であられたダナム王の王女は次代のドゥメイラの王妃となる運命だったとか…? 彼女のその後はどうなったのです…?」
「それは…」

 一瞬の沈黙のあとで、ザディハはディハは辺りをチラリと見て完全に人払いが出来ているのを確認してから、おもむろに口を開いた。
「その話は…ドゥメイラの前政権がクーデターによって倒れてからは、完全に禁句になってしまった。今は亡きジャマール王子の配偶者として選ばれたラナはわたしの従妹でもある。正直に言えば、今回あなた方をここに招いた理由はそこにあるのです…」
 苦しげな表情を隠しもせず、ザディハは真っすぐジャマールを見つめた。ジャマール自身も軽く探りを入れたつもりが、こんなにもストレートな反応が返ってくるとは思ってもいなかったので、正直慌てたが…それを表に出さないだけの訓練は充分に積んでいる。
 ジャマールとアンドルーの反応を見ながらザディハは話し続ける。

「これから私が話すことは、最も機密性の高いものだと理解していただきたい…」
 そう前置きした上で、彼は驚くべき内容を伝えてきた。
ひとつは…表向きアリメド政権は、ファウスト一行に遺跡の調査許可を出したが、恐らく王都のあるドゥーラスから先へは行けないこと。
表面状は、ヨーロッパ諸国、特に英国には媚び諂うように友好的な態度で接してはいるが、実際にはアリメド政権はスペインの言いなりになる傀儡政権であり、前政権を倒すにあたり、多くの武器をスペインから仕入れ、図らずも兵力まで使ってその実験を手に入れたのだ。
 だがそのツケも大きく、今ではそのスペインに多くの献上品を求められているのだという…。
自業自得なのだが、その代償を払わされるのは国民達だ。
 この10年でドゥメイラの税金は10倍になったとついさっきザディハから聞かされたばかりだった。

「間違いなく近いうちにまたドゥメイラは混乱の渦に巻き込まれることになる。だからそうなったらタイミングをみてあなた方はドゥーラスの隣国、バラクの港から一旦どこか安全なところに非難した方がいい。アリメドに捕まれば必ずあなた方の命は違う交渉に利用される…」
 苦々しさを隠しもせずにザディハは言い放った。
「それを警告するためにあなたはわざわざ我々をここに呼んだのですか…?」
 ジャマールは表情が崩すこともなく淡々と問いかけると、彼はそこで大きく息を吐いた。

「じつはあなた方の力を見込んでお願いがあって、ここまで来ていただいたのです。あなた方は英国のシェフィールド公爵、いえホークの忠実な部下だと聞いています。公爵はミスター・ファウストのパトロンであり、あなた方はその公爵の指示でここにいるのだとわたしは思っているのですが、それに間違いはないでしょうか?」
 少し緊張した面持ちでそう言ったあと、ザディハはこちらの反応をうかがっている。
この国の通行証を申請するにあたり、ファウストの御許をはじめあらかじめこちらの目的や身分は伝えてある。ファウストの支援者リストの筆頭にアレックスの名前があるのは周知の事実だった。

「もちろん、我が主は何年も前からミスター・ファウストのパトロンでした。それだけ研究者としての彼を買っているのですよ。それにこのアラブの地はヨーロッパ人にとっては未開の地であるとともに、新たな投資先として魅力的に映るのでしょう…」
 ジャマールはわざと冷やかな口ぶりで淡々と語ってみせる。主は西洋人だが自らはアラブの魂を失っていない…そう相手に思わせるために…。

「なるほど…。あなたがこの国の生まれであることの幸運に我々は感謝しています。わたしがこれからあなた方に話すことはこの期を以ってでしかなし得ないこと…それだけ重要なことと理解していただきたい…。」
 ザディハは言葉のひとつひとつ慎重に選びながらゆっくりとした口調で話し始める。

「あの政変からすでに13年が過ぎ…この国は大きく形を変えた。穏やかな前政権とは違って現アリメド政権は、国や民の安寧よりも己の私利私欲に走っている。そのために白人の…卑しきスペイン人達の懐を満たすために、我々首長国から多大な税と労働力を搾り取っている。前はにぎやかだったスーク(市場)も今では見る影もない…」
 そう言って苦しそうに目を伏せる彼の横顔を、ジャマールは数日前に見た表通りの寂れた様子を思い出した。
「それだけ圧制を強いられて、反乱は起こらなかったのですか?」
「最初の数年は…。だが周到なアリメドは異国人の力を借りて徹底的に鎮圧すると同時に、各首長の首を次々と自分の組みしやすい者にすげ替えることで、各国の国力を削いでいったのです。その挙句が今のわが国に代表されるとおり、経済文化はもとより…オアシスを中心に営まれていた農業も働き手を失って…国民は日々食べることさえ事欠く状態になってしまった…。そしてさらにあの男は…」
 冷たい怒りを抑えるように、膝の上で組んでいた拳を白くなるまで握り締めたザディハは、悔しげに言い放った。
「わがアストラットの…平和の象徴であったラナ姫を、来月自分の後宮に入れると宣言した…」
「( ……!? )」
 その名を聞けば、心の中をギュッと何かに捕まれるような衝撃を受ける。わずかに眉を寄せてその想いを隠したジャマールは、問いかけるようにザディハの目を見つめた。

「当時ラナ姫は7歳だったはず…。婚約者だった王子が行方不明になったことでその後彼女はどうなったのです…?」
「アリメドがクーデターを起こしたのは、王子の成人式の数週間前で、辺境の地にあったアストラットは、その一週間前に幼い姫をドゥーラスへと送り出したばかりだった。それを知っていたあの男は、途中で姫を拉致すると…王宮の塔の一角に王妃と当時まだ幼かった第二王子とともに幽閉したのです…」
「では…王妃も、第二王子もラナ姫とともに今も生きていると…?」
「はい…生きています。宮殿の中にも我々の配下の者を忍ばせています。その者の報告によると…さすがに他の首長国の反発もあって、王妃や目の不自由な幼い王子の命を奪うことまでは出来なかったと聞いています。しかしそれもアリメドに自分の血を受け継ぐ王子が生まれるまでのこと…」
 ザディハは、アリメドが自身の後宮に集めている多くの寵妃たちの間にこの13年の間、王子は一人も生まれず、これは神を冒涜した罰なのだと…国中で密かにまことしやかに噂されていること…。業を煮やしたアリメドは、それまで幽閉したまま、忘れ去られていた高貴な姫君を自身の側に侍らせる事を思いついたのだという。

「我々は、彼女をあの卑劣な男から取り戻したい…。幼い頃に別れたとはいえ、ラナはわたしの従妹なのです。王子のいない今、彼女が頼れるのは我々のみ…わたしの配下の者をあなたの部下としてキャラバンの中に入れていただけないでしょうか? 恐らく、最初に話したとおりアリメドは、ドゥーラスの手前で何らかの理由をつけてあなた方を足止めするはずです。我々はそこまで同行できればいいのです。あとは都に潜入している仲間と合流して、我々は自分達のなすべきことを遂行します。あなた方に迷惑はかけない…。今回ミスター・ファウストに直接話をしなかったのは、我々は今回のキャラバンで一番の重要な人物はミスター・ファルド、あなただと思っているのです…」
 ザディハは黒い瞳を真っすぐジャマールに向けると、必死の想いを伝えてきた。

 すでに相手方にはジャマール以下、アンドルーを含めて素性は知れ渡っているということだ。当然アリメドもそれを掴んでいるだろう。だが実際にアラブ出身のホークの副官が、13年前に姿を消したドゥメイラの第一王子だと気付く者がどれだけいるだろうか…?
 もし本名のジャマールという名が知れても、その名は別にアラブでは特別珍しい名前でも何でもない。極力目立たないようにすることにこしたことはないが…。
「ファルドさま…?」
 ハッと気が付けば、隣に座っていたアンドルーが心配げにこちらを伺っている。どうやらしばらく物思いにふけっていたらしい…。

「そうですね…。我々には我々の任務と義務がありますが…同郷の生まれとしては、あなた方の気持ちは理解できます。我が主もこの地域の混迷は深く危惧しております。逆に考えれば…じつは我々もこの地域の案内役を探していたところです」
 ジャマールがそう言えば、安堵したようにザディハは大きく息を吐く。よほど緊張していたのだろう…。近くの柱の影に控えていた側近を呼び寄せると耳元で何かを囁きかける。
 すると、側近は急いで部屋の外へと飛び出していくと、すぐさま目立たない一般人の装いをした2人の男たちを連れてきた。

「カイルとサンです。2人は兄弟ですが、どちらも子供の頃からわたしの護衛として厳しい訓練を受けてきたものです。お役に立つと思います」
 ザディハに名前を呼ばれた二人は、ジャマールの前に畏まって腰を下ろすと、深々と頭を下りた。見れば2人とも背格好は同じくらいだが、質素な白いカフタンを身につけて、頭には白いターバンを巻いているごく普通の身なりをしているものの…隠された肉体からは鍛え上げられた筋肉と戦士特有のオーラが感じられる。そして若い2人からは並々ならない気概があふれていた。それだけアストラット王、ザディハは本気だということだ。もし失敗すれば、このアストラット自体消滅することさえあり得るのだ…。

「解りました。ちょうど道案内のガイドを探していたところです。見たところ、彼らなら自身の安全は自分で守れるでしょうから、ある意味打ってつけですね?」
 ジャマールがそう言うとザディハは深く頷いて心からの感謝を述べた。


「思わぬ展開になりましたね…? ジャマールさま 」
 ザディハの元を辞してから、宮殿の出口に向かう回廊を回りながら、傍らを歩くアンドルーが小声でつぶやいた。
「アンドルー、この国に入ってから、その名を口にするなといったはずだが…」
「申し訳ありません、ファリドさま…」
 ジャマールの厳しい表情を見て、ハッとしてアンドルーはすぐ言い直した。
「それでいい…。ここから先は触れるものすべてが敵だと思った方がいい…。今まで我々が相対してきた連中に比べたら、奴らははるかに野蛮で狡猾だ…」
「わかりました。」
 アンドルーの声はいつもより緊張をはらんでいた。それを聞いてジャマールはフッと息を吐く。平静を装いながら誰よりも動揺していたのはジャマール自身だった。そのせいでひどく厳しい言い回しになってしまったが…。
ザディハから母と弟が生きていると聞かされて、安堵したと同時に今すぐドゥーラスに駆けつけて二人を取り戻したいと思った。今でも最後に会った時の父と母…幼い弟の無邪気な笑顔が浮かんでくる。

「すまない…。冷静を欠いていたのはわたしのほうだ。ついキツイ言い方をしてしまったな…」
「いえ、オレには家族はいませんが、いたらきっとあなたと同じ気持ちになったと思います。オレはあなたとともにこの地にやって来ましたが、あなたの側にいていつも思うんです。ここにボスがいたら…どうあなたに言うのかと…。でもオレはボスの代わりにはなれません。代わりにはなれませんが、オレはボスの代わりにあなたの成し遂げようとしていることをしっかりこの目で見届けて、ボスに報告する義務があるんです。そのためにその道がどれだけ過酷でも、オレはしっかり最後まであなたについて行きます…!」
 しっかりとした口調でそう言い切ったアンドルーが、フッと表情を緩めてジャマールに微笑んだ。



 それから旅の準備にもう1日アストロットに留まった一行は、二日目の早朝…砂漠に太陽が昇る前に街をあとにした。アストラット王ザディハから託された二人の兵士、カイルとサンは前日の夜にキャンプに合流して、すでにこのキャンプの主であるファウストの面談も済ませている。
 突然の予定変更にもファウストは快く応じた。最も、もともと能天気で遺跡にしか興味のない彼は、無事に遺跡にたどり着けることと、自分の目的が達成できれば文句はないのだ。ある意味最も御しやすい人間でもある。

 そろそろ白み始めた東側の地平線を眺めながら、ジャマールは傍らを一緒に馬を並べて進んでいるアンドルーをちらりと振り返った。2人とも身軽な袖のない短めのカフタンに細めのスラックス…通気性のいい子羊皮のブーツを身に付けたうえに、鋭い砂漠の太陽を避けるため、灰色の丈の長いフード付きマントを身に付けている。腰には銃身の短い銃といつもの三日月刀を携えていた。

 30人ばかりのキャラバンの最前列に案内役のアストラットの2人、ジャマールが連れてきた部下はアンドルーを含めて8人で、最前列に2人、中央にジャマールとアンドルー、後方に5人が控えている。
 ファウストはジャマールの少し後ろ…多くの荷物を載せたラクダの隣をおとなしいアラブ種の馬に乗って移動している。その姿を確認して、抜かりなくキャラバン全体に注意を払いながら、ジャマールたちも進んでいく…。

「アンドルー、コンウェイと連絡は付いたか…?」
「はい、現在マレー号はクレタ島付近で待機しています。一度アレキサンドリアで補給と連絡を待った後、一ヶ月後にバラクの沖であなたの指示を待つと連絡がありました。」
「わかった…」
 ジャマールははじめからファウスト一行が何事もなく、ドゥーラスにたどり着けるとは思っていなかった。それはアレックスにしても同じことで、ファウストの面目上はっきりとは告げなかったのだが、それをにおわせた上で今回の支援を引き受けたのだ。だから実際にはファウストの身の安全を優先するように、ジャマールにも指示していた。ジャマールにしても、王都ドゥーラスに近づくほど危険は増すことは織り込み済みだった。
 ファウストを護りながら自分の意志を通すのは不可能に近い。それもまたアレックスはよくわかっていて、不足の事態が起こる前でも、必要であればファウストをコンウェイに託すつもりだったのだろう。

(この先何が起こってもおかしくない状況になるだろう…。ラナ…彼女は、母や弟のネフェルと一緒にいる…。それも近いうちにあのアリメドの後宮に入るのだという…。13年の歳月が過ぎたとはいえ、彼女はジャマールの決められた伴侶であり、今の彼女がどんな女性に育ったのか…純粋に興味があった。そのラナ姫があの卑劣なアリメドに汚されていいわけがない…。いやそんなことは絶対に許すことは出来ない…。アストラットのザディハの意向を抜きにしても、長い間心の中に見えない棘のように突き刺さったままの彼女の存在を、ジャマールは忘れることはできなかった。

「アンドルー、今晩皆を集めろ、細かい作戦を立てる…」
「御意…」
 アンドルーは小さく笑って頷くと、後方の仲間の下へと下がって行った。

塔の中の囚われ人

 ドゥーラスの宮殿の奥深くにある後宮の最奥には、中央に美しい花々の咲き乱れる花壇の中央には豊富な水源を伴った噴水があり、その中庭をぐるりと取り囲むように回廊が造られており、その回廊に沿っていくつもの部屋が設けられていた。それはかつてはこの国の王族の、女性達の住まいであったのを、今ではアリメドが自分の多くの妾妃達の住まいとして改造したものだ。
噴水の中央には黄金の女神像が置かれその右手に持つ宝石が埋め込まれた杖の先から勢いよく水が噴出している。前レファド政権にはなかったものだが、アリメドは自分が王位に就くと、それまで質素だった王宮を派手に飾り立て…自分の権威を示そうとした。

その一番奥まった部屋の1室の中でラナは浴室のとなりに設えられた簡素な寝台に横になって、数人の世話役の侍女たちに香油を身体に塗り込められながら、小さくため息をついた。この後宮に連れて来られてからすでに2週間近くになる。あと2ケ月が過ぎれば、忌み月が開ける。そうなれば嫌でもラナはアリメドのもとにいくことになる。
( 嫌…あの男に触れられるのだけは堪えられない…。もしそうなったら…きっと私の心は死んでしまう…。ああ…ネフェルさま…私はどうしたらいいの…?)

何度考えてもどうにもならないことと思いながら…その時を考えただけで、身体の奥深くからこみあげてくる恐ろしさを押さえることが出来なかった。
 
7歳で何も解らず、このドゥーラスに連れて来られたラナは、着いたその日に宮殿の東塔に幽閉された。一緒に拉致されたアストラットから彼女に付き従ってきた侍女のマンナと一緒だったとはいえ、当時まったく知らない場所に閉じ込められた恐怖と心細さの記憶は今でも悪夢となって時々彼女を苦しめていた。
そんな中彼女を救ってくれたのは、前王妃イレーネの優しさであり温かさだった。夫である国王と第一王子を失くし、幼い第二王子とともに幽閉された身でありながら、彼女は気丈にも、幼子達の前では決して涙を見せず、まるでわが子のようにラナをネフェルとともに毎晩抱きしめて眠ってくれたのだ。
そして…当時3歳だったネフェルは、父や兄の死を理解出来るわけがなく、急に変わった環境に対する不安から毎日夜泣きを繰り返すようになって、それでもネフェルより4歳年上のラナが優しく姉のように包み込んだ。ラナが14歳になるまで2人は本当の姉弟のように寄り添って生きてきたのだ。
けれど…6年前のある日を境にラナだけ引き離されて塔の別の階へと移された。彼女が少女から大人へと変わったことがその理由だが、それからも月に数回は二人に面会することは許されていて、その度にラナはまるで身内の温もりを求めるように二人を求めた。

それから6年…幼かったネフェルも今では16歳…来月には17歳になる。相変わらず視力は失われたままだったけれど、背丈はぐんと伸びて…いつしか大きく見上げるほどになって、漆黒の髪と兄によく似た涼しげな目元…くっきりとした目鼻立ちの優しげな青年へと変わっていった。ただその表情には悲しみが深く…実際の年齢よりは少し大人びた印象があった。
そんな彼に寄り添ううちに、ラナの胸のうちには幼馴染みの感情とは違う熱い想いが少しずつ育っていく…。彼女は生まれた時から次代のドゥメイラの王妃になることを運命付けられていたけれど、13年前に政変が起こり…運命の相手だったジャマール王子が居なくなったことで、ラナの運命も大きく変わっていった。



「ラナさま…ラナさま…?」
 微かなまどろみの中、誰かに優しく名前を呼ばれて…ラナは重たい瞼をうっすらと開けた。この部屋に越して来てから、毎晩不安で眠れないせいできっと横になっているうちに眠ってしまったのだろう…。こうして毎日受けている香油による肌のマッサージも、いつかやって来るアリメドを受け入れるための準備のひとつなのだ。それもラナをたまれなく苦しめていた…。
(いっそのこと、このままずっと目覚めなければいいのに…)
 そう思ってもラナひとりではこの状況を変えようもなく…まして頼りのネフィルは塔に幽閉されたままなのだ。

「ラナさま…目を開けてくださいませ…」
「……?」
 ラナが重たい瞼を開けると…目の前に20代前半だろうか…? ひとりの女性が彼女の横たわる寝台の足元に腰を落として、声を潜めながら彼女の耳元で囁いている。黒い髪に褐色の肌、身につけている衣装は侍女のものだが、その表情はキリリと引き締まっていた。
「ナディスと申します。今日からラナさまのお世話をさせていただきます。そろそろ起きてお召し替えをされますでしょうか…?」
「ええ…お願いします…」
 ラナはまだはっきりしない頭でそう答えると、そろそろと起き上がって寝台を下りてとなりの居室に設えられた大きなドレッサーの鏡の前に腰を下ろした。この後宮に入るとき、アストラットから従ってきた侍女のマンナを伴うことは許されなかった。マンナはラナの乳母であり、生まれた時から世話をしてくれた彼女がその後どうなったのか、気になって尋ねても誰も答えてくれなかった。そのことも今のラナを苦しめていることの一つだった。

「これからのこと、何もかもが不安でしょうが、今しばらく御辛抱ください…。」
 そう言ったあと、ナディスはラナの長い黒髪をゆっくりと梳かしながら、鏡に映ったラナの瞳を見つめて微笑む。
「これからわたしが申し上げることをどうかそのままの表情でお聞きください…。誰が聞いているかもしれないので、決して声は上げないようにお願いいたします…」
 その表情があまりにも自然なので、ナディスの言葉にラナは黙ってうなずく。
「あなたをひと月以内にここから救い出します…。それまでは、疑いを持たれないためにあくまでも自然に過ごしてください…」
 ナディスは穏やかな笑みを浮かべながら、何事もなかったようにラナの着替えを手伝うと、脱いだ衣装を手にとってそのまま部屋を出て行ってしまった。彼女と入れ替わるようにして、別の侍女が飲み物の入ったグラスを持って入って来たが、ラナはじっと動けないまま…自分の膝においた拳を固く握り締めた。

(ここからわたしを救い出す…? ナディスという侍女の言うことは本当だろうか…? でも動揺してはダメ…ここはアリメドの後宮なのだから…ここから逃れることができるのなら、今は何でも信じる以外にないのよ。わたしをここから逃すということは、きっとネフェル様たちのことも同じように考えているはず。ああ…神さま…すべてが上手くいきますように…。そして…そして…すべてが終わったら…私の抱えるこの秘密をやっとネフェルさまに話すことが出来る。ああ…お願い…どうかすべてがうまくいきますように…!)






 

銀の舞姫

 東西に長く続く砂漠に点在するドゥメイラの首長国のうち、ほぼ中央に位置するガラナの王都モンディールの白い城壁の最上部…その壁面に隠れるようにたたずみながら、ひとりの乙女がじっとはるか彼方に沈み行く太陽を見つめていた。
 全身をすっぽりと包む濃い色のフード付きのマントに身を包んで、両手で自身の身体を抱きしめるようにして彼女は身じろぎもせずたたずんでいた。
 この地域に住む者にしては珍しいあわい色の肌と不思議な色合いの深いサファイア色の瞳が、差し込んでくる傾いた陽の光を受けてキラキラと輝いていた。そして頭部を覆っているフードの首元からは一筋の銀糸のような髪の束が、吹かれてくる風に静かに揺れている。優しげな美しい顔立ちにには不釣合いなほどの少し濃い色合いの化粧を施した顔にはどこか少し哀しげな…それでいて何か強い意志を感じさせるようなそんな表情が浮かんでいた。

「ラウラ…? こんなところで何をしている? 座長のゾルがさっきから探していたぞ…あと半時もすれば今夜の宴が始まる…」
 階下につながる螺旋階段の陰からそう声をかけてきた男の声に反応すように、ラウラと呼ばれた乙女は振り返った。
「何でもないわ…息が詰まるからすこし新鮮な空気が吸いたくなっただけ…この王城の空気は気に入らない…穢れた欲望の匂いがするわ…」
 彼女は美しい口元を微かに歪めてつぶやいた。

「そうだな…だがひとりでウロウロするのは感心しない…ただでさえゾルの一座の花形舞姫を狙う連中は多い。もう少し自分の立場をわきまえて欲しいね。それに本来の君は…」
「止めて…それ以上は言ってはいけないわ。今の私はただの踊り子…。それ以上でもそれ以下でもない…」
 少し強めの言葉で彼の言葉を遮ると、ラウラは目の前に立つ背の高い青年の顔をじっと見つめた。褐色の肌に少し癖のある黒髪を肩先で束ねて、質素な麻の素材のカフタンを身に着け、腰には小型の三日月型の剣をさしている。彼の名前はサムエル、舞踊一団“ゾル”の用心棒なのだ。
 年の頃はラウラよりは少し年上の25歳。若い頃より傭兵として各国を回り…1年前からラウラとともにこの一団に加わった。それにサムエルはただの用心棒ではなく、ラウラの幼馴染みだ。

 サムエルはラウラのすぐ近くまでやってくると、眩しそうに目を細めて彼女が見つめていた地平線あたりを見つめた。
「アリメドが動き出した。彼女を塔から自分の後宮に移したと連絡が来た…」
「まさか…ではラナは…?」
 サムエルの言葉にラウラは一瞬で表情が凍りつく。
「いつかはそうなるんじゃないかって思っていたけれど…そんなに早く…?」
「国中の美姫を集めただけでは飽き足らず、いよいよ禁忌にまで手を出すか…ただ今は忌み月に当たる。奴がラナに触れられるのは二ヵ月後だ…」
「では急がなければ…この都に来てもう10日になるわ。早く移動しないと間に合わなくなる…」
「モンディール王ダリルは君に執心している。そう簡単に手放すとは思えないし、上手く都を離れる口実を考えなければ…それに今日都に新しいキャラバンが到着した。彼らはダリルの知り合いらしいから、彼らが滞在しているうちは我々も都を離れられない…」
 それを聞いてラウラは思わず舌打ちする。モンディール王ダリルはラウラの父親と言っていいほどの年齢だが、無類の女好きで宴でもいつも多くの美女を侍らせていた。背の低い脂ぎった男で、薄くなった頭をターバンで隠し…権威を現すために白いものの混じったヒゲを顔中に生やしている。低いソファーに座ってラウラの舞いを舐めるように見つめるその目つきが気に入らなかった。まるでヒキガエルを連想させるようなその男の容姿も、これ見よがしに富を見せ付けるように両手に嵌められた大きめの宝石の入った指輪も、彼女にとっては激しい嫌悪を呼び起こす対象でしかない。
 
 ラウラはこのドゥメイラの生まれだが、育ったのは地中海を望む小国セイレンだった。母がその国の生まれだったことと、ラウラの髪の毛がこの地域では珍しい髪色だったことから、その成長を心配した父親によって彼女は隠され…セイレンで密かに育てられた。
 そして…彼女がこの地域で暮らせなかった大きな理由、ラウラには信用できるサムエル以外には言えない大きな秘密があるのだ。

「わかったわ…下に戻りましょう…。ダリルは嫌いだけど、いざとなったらサムエルが護ってくれるんでしょう? わたしはいつだってあなたが側にいてくれることに安心しているのよ」
「それもここまでだ…ここからはさらに危険がつきまとう。君はその魅力でアリメドに近づいてその目的を果たそうと考えているんだろうが、それ自体が無謀と言っていい…。君の身分から言えば、最初からこんな危険を冒す必要はなかったんだ。13年前に起こったあの日からすでに君の運命は変わっている。ラナのことは我々に任せておくべきだったんだ…」
 そう厳しい声で言うサムエルの横をすり抜けて、ラウラは無表情で階段にむかった。
「いいえ、これはもう決めたことなの…。ラナだけに犠牲を強いるのは間違っているわ。わたしこそが…」
 そう言ったところでサムエルに片手をつかまれた。
「それを口にしてはいけない…。その事実が明るみに出れば今までの彼女の苦労が無になってしまう…。」
で決めるの…」
 そう言い放つとラウラは、サムエルの手を振り払って階段を駆け下りて行った。
その後ろ姿をサムエルは呆然と見送る。
「ボクは君に幸せになってほしいだけなんだ…どう逆立ちしても手の届かないことは解っているのに…おれは…」
 小さくため息をついて、サムエルはラウラのあとを追った。





 慌しく入城して2時間、王都の裏側にある城壁に囲まれた場所に、機材や荷物を積んだラクダや多くの人馬を移動させて、それぞれ確保された場所へ収まったのを確認してからジャマールは側近のアンドルーを伴って、自分達の宿舎として用意された一画へと入ってきた。
 案内役の少年の後を付いていくと少し狭い通路を抜けたところにある小さな噴水のある広場に面した回廊のような廊下に面した部屋に案内される。
「申し訳ありません。先週からこのモンディールには国中の商人たちが集まっていて、どこの宿泊用の部屋もいっぱいでして…こんな外れの場所しか用意できなくて…。そのかわりこの一画ならご自由に歩き回られて構いませんので…」
 まだ10代の前半くらいの痩せた少年は申し訳なさそうにそう告げると部屋を出て行く。部屋は続き部屋になっていて、それぞれには薄い布のカーテンで仕切られたベッドが置かれていた。奥側の部屋をジャマールが使うことにして、二人はすぐさま中央のテーブルに地図を広げてこれからの行程の確認作業に入る。

「ここまででちょうどほぼ半分の行程になります。今までは順調ですがこれからはそういうわけにも行かないでしょうね? このモンディールは特にアリメドの支配が強いところですから、油断は禁物ですね?」
 アンドルーは部屋に入るなり、頭を覆っていたターバンを外した。もともと浅黒い肌だが、この砂漠地帯に入ってさらに日焼けして逞しさが増したせいか、アラブ人といわれてもわからないくらいにすっかりこの地域に馴染んでいる。
「すっかり砂漠の暮らしに慣れたようだな、ドルー。それなら変装も必要ないだろう…?」
「どうでしょうか? でもあなたと一緒に行動するうちにこの地域の特性も多く学んだ気はしますが…」
 アンドルーはそう言って白い歯を見せて笑う。ここまで何も問題なく過ぎたこともあって、最近の彼は自分の感情をよく現すようになった。それを好ましく思っているジャマールは、自分が抜けた後のアレックスの世界に、アンドルーがどんな役割を果たすのか…密かに楽しみにしていた。

「で、例の兄弟はどうしている…?」
「他の仲間と遜色なく馴染んでいます。きっとザディハ王から目立たないようにと言われているのでしょう。我々の指示にも素直に従ってくれています。」
「そうか…これから先は余裕のない日が続く。今のうちに息抜きしておくことだな。わたしには必要ないがおまえ達は私に気を遣うことはない…。どうせファウストもそれを期待してこのモンディールを休憩地に選んだのだろう…?」
 ジャマールは、王城に入る際に満面の笑みを浮かべながら、ここでは最高の楽しみを得られるのだと上機嫌だったファウストを思い出した。

「今夜は王の主催で滅多に見られないような余興が催されると聴きました。隣国から来ている舞踊団が、数週間前からこの王都に滞在しているのだとか…? 先に商人として潜入させていた連中が嬉しそうに話していました。その一団は皆美人ぞろいなのだそうですが、とくに“銀の乙女”と呼ばれる踊り子がこの世のものとは思えないほどの美女だと言っていましたが…」
 ドルーが悪戯っぽく笑ってジャマールを振りかえるが、もとよりジャマールは大切な目的がある以上、息抜きとはいえそんな愉しみに興じるつもりはない。今は何よりドゥーラスの…王都に幽閉されている母と弟ネフェルの身が気になる。そしてラナのことも…。

「おまえも愉しみたければ私に気を遣わず行ってってくればいい…。こんな話もここにアレックスが居ればきっと喜ぶだろうな…?」
「そうですね?。でも一度聞いてみたかったのですが、コンウェイ船長の言うとおり本当にあなたは女性に興味はないのですか…?」
「……」
 ドルーの口から出るあまりにも似つかわしくない言葉に、一瞬ジャマールは言葉に詰まる。それを見てあわててドルーは言葉を言い足した。
「いえ、すみません! 何でもないんです。聞かなかったことにしてください…」
 真っ赤になって口籠るドルーを見てジャマールも笑みを浮かべる。

「コンウェイが面白おかしく何を言っていたのかは知らないが…わたしが一時でも女性を側に置かないのは、興味がないからではなく…必要がないからだ。わたしには生まれた時からの許婚がいる。家族を取り戻すこともわたしに課せられた使命だが、同時に彼女も取り戻す…」
「あなたの許婚とは…アスタロットのラナ姫なのですね…?」
「そうだ、わたしには彼女を救い出す理由がある。お互いに運命に翻弄された身だが、これから先の運命は、誰かに決められるのではなく…自分達で決めていく…。」
「彼女を取り戻すことがあなたのこれからの運命を決めるのですか? もうホークの元へは戻らないと…?」
「ああ…。ホークとの出会いはわたしの人生の中で最も大きな出来事だった。たぶん、アレックスと出会っていなかったら今のわたしはない…アレックスとアスカ。彼らとの出会いが今のわたしを支えている。彼らと過ごした経験がきっとこれからのわたしの人生を変えてくれると信じているんだ。13年前に無くしたものを今やっと取り戻しに行く勇気を彼らからもらった気がしている…」
 アレックスたち以外でドルーにだけはジャマールの素性を伝えてある。もともと感情を露わにしない彼は、少し目を見開いて小さくうなずいただけだったが、それだけでも彼の驚きは十分伝わってくる。

「ザディハに言われずとも、ラナの救出は必須だった。だが今それを彼らに知らせるつもりはない…あくまでもぎりぎりまで我々の正体は隠しておくんだ。いいな? ドルー」
鋭い眼差しでドルーを振り向くと、解っているというように大きくうなずいた。

(母上…ネフェル…もう少し待っていて欲しい…。必ず助け出します…)
 大きく息をひとつ吐いて、ギュッと強く右手の拳の中にある三日月刀の柄を握り締めた。



 ラウラが彼らの控え室となっている大部屋に戻ると、座長のゾルがソワソワした様子で待っていた。
「良かった、間に合わないかと思ったよ! 今日はいつもより客人も多くてダリル王の期待も大きいんだ。この国一番の美姫が舞わないとなると、どんなお叱りがあるかわからない…」
「大げさね…。このゾル舞踊団の目玉は私だけじゃないわ、一糸乱れず踊る連舞は素晴らしいでしょ?」
 ラウラは少し丸顔に、人の良さそうな笑みを浮かべた40絡みの男の肩をポンと叩いて、目の前の姿見に自分の全身を映して確認してから、足早に廊下へと飛び出した。

 この舞踊団を仕切るゾルは、かつてはエジプトのカイロにある舞踊団の一員だったが、数年前に独立して自分の舞踊団を作って地中海沿岸あたりを回っていた。その芸術性の高さや踊り子の質の高さで、各国の王族からも高い支持を得ていたが、楽団や荷物運搬に関わる仕事に数人男性がいるだけで、そのほとんどは女ばかりの集団だ。無用な争いを避けるために劇団内には厳しい規則があり、その中に恋愛禁止もあったが、踊り子の中には密かにその場かぎりの情事を愉しむ者もいたけれど、舞台に支障がなければゾルも少々のことなら大目に見ている。
 ちょうど1年前、地中海に面した小国“セイレン”を回っていたときに、ソロを踊っていたこの舞踊団の中心にいた舞姫が突如失踪して、あとで護衛の男と駆け落ちしたのだと判ったのだが、当時解散の危機に瀕したゾルのもとに、自分を舞踊団に加えてほしいと名乗り出たのはラウラだった。
 ラウラは、自分の出自はセイレンの貴族の私生児だとゾルに告げている。その際に幼馴染みのサムエルも護衛として連れて行くことも承知させている。最初前舞姫のこともあったせいで同時に雇うことを渋っていたゾルも、ラウラの珍しい髪色や類稀な美しさ、サムエルの剣の腕を見せられると嫌とは言えなかった。
 
 黒髪と黒い瞳が多い中で、ラウラの髪色と光によっては碧く見える瞳はただでさえよく目立つ…。スラリとした手足と細い身体には不釣合いなほど豊かな胸が、申し訳程度に覆っている煌びやかな衣装の下で、弾み踊る様はとてもエロチックで男達の欲情をそそる。
少し派手めに施された化粧の下の顔立ちは、20才という実際の年齢よりはすこし幼さが残るが…細くくびれたウエストと長い足を強調した扇情的な衣装がより男達の視線を集めるのだ。

ラウラが早足で通路の端まで行くと、踊り子のひとり…リアンがラウラを待っていた。リアンはラウラよりもひとつ年上で、ラウラと一緒に踊る群舞のひとりだ。浅黒い肌と黒い瞳に少し癖のある髪を頭の上で束ねている。
「さっき始まったばかりよ、群舞のリーダーのジャスミンが、ラウラが来ないって焦ってたから、良かったわ」
 見れば、最初に登場する群舞の8人が、長いリボンを手にしてクルクル回りながら音楽に合わせて中央を輪になって舞っていた。
「ごめんなさい。待っている間に少し気分が悪くなって、そとの空気を吸って来たの…」
 ラウラが正直に答えれば、リアンは明るくクスッと笑う。
「わかる~! ここ空気悪いもん、でも今日は特別なんだって! 今日のお客はいつもよりいい男が多いってジャスミンが言ってたから、今夜は愉しめるかも~!」
 その日の客の中から目ざとく自分好みの相手を見つけて愉しむのも、彼女たちの密かな楽しみなのだ。
「それで、リアンは誰か見つけたの…? 」
「ウフフ…。王様の側にいるってことはかなりの上客ってことでしょう…? ラウラは王様のお気に入りだから、他のお客様の相手をすることはないと思うけど、すごい美形を見つけたの! 今夜のターゲットは彼ね、でもみんなも目をつけているだろうから、競争率は高そうだわ…!」
 そう言って頬を赤く染めるリアンをラウラは微笑んで見つめた。リアンは間違っている。モンディール王ダリルがどんなにラウラを求めても、自分は彼に一晩の慰めを与えるつもりはない。もちろん生理的に受け入れられないという理由もあるのだが、ラウラには誰も受け入れられない理由がある。それを今は誰にも言うつもりはないけれど…。
ステージとなっているのは、高い天井を伴った広いホールで、天井からはやわらかな薄絹が幾重にもループ上に壁に向かって垂れ下がっていた。壁には豪華な織物のタペストリーが掛けられ、ホールのあちこちに豪華な東洋の白磁に色とりどりの花々が生けられている。
こちらからは正面に見える側が客席となっていて、ステージを見下ろすように一段高い場所に作られている。真っ赤な絨毯が引かれている上に置かれた低いテーブルには、多くの豪華な料理が並べられていて、たくさんの召使たちが客達の世話に追われて忙しなく動き回っていた。
興味はないけれど、リアンの言うその“特別客”のことが何となく気になってそちらに目をやるが、踊る仲間の輪に遮られてよく見えなかった。諦めて顔をそらそうとしたその瞬間、わずかな隙間から主賓席のダリルの左側に座る背の高いひとりの男の顔が見える…。
笑顔はなく無表情でじっと前方を見つめる眼差しは鋭い。その顔立ちはキリリと引き締まっていて美しく…見る者に近寄り難さを感じさせるが、涼しげな切れ長の眼や高い鼻筋…引き締まった口元がどこか高貴な雰囲気を感じさせる。
「……!?」
ラウラはまるで吸い寄せられるようにその男の顔に視線を止めたまま…しばらく視線を止めた。

「ラウラ、出番よ…!」
 リアンの声で我に返ると…ラウラは弾かれたように慌てて全身を覆っていた黒いローブを傍らに居る仲間に放って、仲間たちが作る色とりどりの、薄絹のアーチの中へと飛び出して行った。

ジャマールの困惑

 ジャマールは苛立ちともつかないひどく困惑した想いを抱きながら、その場に座っていた。ジャマール自身は、モンディール王ダリルの催す祝宴には、最初から参加するつもりもなかった。
 ひっそりと目立たないように過ごしながらこの地の情勢をドルーと探るつもりだったのだが、直前にファウストの方から自分と一緒に参加してほしいという申し出があったのだ。
もともとファウストとダリルは面識があったらしい。その上でファウストは自分のパトロンであるアレックスのことをダリルに自慢したいらしかった。そこでアレックスの副官だったジャマールを自分のとなりにと思ったのだろう…。
アレックスの名前はこの地でも、英国の最も裕福で世界的な実業家として知られている…。知られているからこそ、ファウストはその権威を利用したいのだろうが、目立ちたくないジャマールにとっては大きな迷惑だった。

「どうします? 断れば逆に疑われませんか…?」
「仕方ない…。気は進まないが、出来るだけ目立たないようにしよう。ファウストはこちらの本当の目的を知らないんだ。利用されるのは癪に障るが仕方ない…。」
「でもかえって身近でダリル王に近づいてくる連中を観察できるかもしれません…」
「そうだな…そういう利点もあるか…」
 
 アンドルーと打ち合わせをして納得した上で、ジャマールは身支度をしてファウストに同行することにした。目立たない濃紺の丈の長い上着のウエストに飾り帯びを巻いて小さめの三日月刀を挿す。その上から上質の生地で出来た外衣を身に付け、外衣と同じ生地の布で頭部を覆う。
「やはりそのスタイルが一番あなたに似合いますね? 噂に聞くモンディール王よりも今のあなたの方がよっぽど王族らしい…。」
「滅多なことを言うんじゃないぞ。ドルー、これは一応失礼にならない程度の礼装だ。かえって目立ってしまっては逆効果だ…」
 ジャマールは少し渋めの笑みを浮かべる。
「そうですね…」
 ドルーも小さくうなずいたが、心の中で思っていた。
(あなたはご自分がどれほど魅力的に見えるのか、まったくわかっていらっしゃらないのですね? いつかすべてが上手くいって、王族に戻られた時のあなたの姿をボクはとても愉しみにしていますよ…)




 ファウストとともに案内されたのは、モンディール王ダリルのすぐ近くの席だった。
円形のステージをぐるりと取り囲むように宴席は設けられており、二ヶ所ある通路の正面が主賓席になる。
 さらに数段高く作られた客席の最上段に低い豪奢なソファーがあり、中央にダリルが座っている。
太った身体を派手な衣装で飾り立て、ゆったりとソファーに沈み込むように座る様は王族特有の傲慢さすら感じさせる。

 今日のファウストはいつもの軽装とは違ってきちんとヨーロッパ人らしい正装をしていた。
いつもの着崩した姿しか見ていないジャマールには少し違和感があるが、ここは王族の謁見の場だ。
さすがのファウストもそれくらいの常識は持っているのだろう。

 仰々しいほどの挨拶のあと、ファウストはジャマールのことを、自らのパトロンが最も信頼をおく副官でこの国の生まれだと紹介した。
それ以前に彼がダリルにどんな風にホークのことを話していたのかはわからないが、概ねダリルの反応は丁寧で、ジャマールたちの扱いも上客に対するものだったから、ダリル側にも何か思惑があるということなのだろう…。
 部下たちが集めた情報によると、彼は表向き温和に見える仮面の下に狡猾な獣の顔を隠し持っている。
アリメド政権の陰で奴に諂いながら甘い汁を吸い続けていたのだ。

 おそらく、ここに商談と称して集まっているたくさんの連中から多くの賄賂を受け取っている。ファウストを歓迎しているのも、その後ろにいるアレックスの経済力を何かしら利用してやろうと考えているからだ。

 ダリルの左側…間にファウストを挟んでソファーに座ると、ダリルは上機嫌でこれから始まるショーを愉しんで欲しいと言った。
 ジャマールは、アレックスの側に居た時も、よっぽどのことがないかぎりこんな接待がらみの席は遠慮していた。なぜならそう言う席では必ずといっていいほど、華やかな装いをした女たちがいたからだ。
 彼女たちは違う意味で狡猾だ。その場に居る最も優れていると思った相手をターゲットにすると、迷いもなく貪欲に誘いをかけてくる。
 正直に言えばジャマールだって若く正常な男としての本能を持っている。
 
 10代前半、母と暮らした離宮から、父と同じ宮殿の一室に引っ越してから、王子としての教育に加えて、特別な女官たちによる性教育が施される。
 来るべき日に王妃を迎えた時、つつがなく後継者づくりに励むためだが、当時のジャマールは、その、方面の欲望に目覚めたばかりだったから、自分が迎える花嫁がまだ7歳の少女であることを、感覚的に受け入れられなかった。
 かといって正妻が居る身で他に寵妃を求めることなど考えたこともない。
当時は毎日のように幼馴染みのヴァンリとともに遠駆けに出かけて、鷹狩りに興じることで、若いエネルギーを発散していたのだ。

 だがあれから13年、急変した運命に翻弄されるうちにジャマールの考えも変わった。
 欲望のまま…自分の愉しみを追い求める生き方から生への執着と…自身の背負っているものの意味を知り、己の成すべき事は何かを考えた。

 アレックスとの出会いから、広い世界を知ることで多様性を学んだ。そしてさらにアレックスの伴侶として出会った女性…アスカの真っすぐな想いと強さを知ることで、もう一度自分の人生を取り戻す勇気をもらったのだ。
 13年前に失ったものを今取り戻す…そのためにこの場所にジャマールはいる…。

 しかし…さっきから突き刺さるように会場のあちこちから向けられる熱い視線にジャマールは思わず凍りつく。
10年間アレックスと一緒にいて唯一困ったことは、常に彼の側には多くの女性が群がるようにいたことだ。

 アレックスの女好きもその一因だが、蜜に群がるアリのごとく、彼の気を引こうと躍起になる女達を追い払うこともジャマールの役目のうちだったが、中にはアレックスがなびかないとみるとその矛先をジャマールに向けてくる者も多いのだ。
 もともと女性の扱いはそれほど上手くはない。最初から無視するか、そもそも近寄らないことで対処してきたのだが…。時々はこんなふうにどうしようもない場面に遭遇することもある。
 
 ダリル王の宴席には王族だけでなく、臣下にあたる貴族の娘たちも多く参加していた。彼女たちは普段男性社会の中であまり公の場への同席は許されていないが、月に数回催されるこの場だけは特別に許されているらしい。
 女性達は顔が見えないようにヴェールをかぶっているが、抜け目ない眼差しで“今夜の相手”を物色しているのだという。
 それもさっきドルーから聞いた情報なのだが、実際愉しめと言われても、今目の前で繰り広がれている煌びやかな踊り子たちによる艶めかしい演技にもジャマールはそれほど心惹かれるものはなかった。

 目の前で見事な肢体を晒しながら舞う踊り子たちが、ジャマールの目の前に来るたびに送ってくる秋波にもうんざりしていた。
( 勘弁して欲しい… )

 心の中でうんざりしながら、傍らのファウストを見れば目を輝かせて彼女たちの踊りを食い入るように見つめている。興味があるのは、遺跡だけだと思っていたのだが、そこのところは違うらしい…結局は彼も男だったということだ。

 しばらくしてダリル王がファウストの耳元で何か囁いた後、急に音楽が変わったかと思ったら、さっきまで円を作って踊っていた踊り子達の中央の列がサッと割れて…七色の薄絹の間からひとりの踊り子が現れた。
 他の踊り子たちが褐色の肌に黒髪なのに対して、彼女の肌は抜けるように白く…髪も見たことのないような光る銀色で、それだけでもみなの目を惹くには十分だったが、卵形の小さな顔に澄んだ大きなすみれ色の瞳…すっきりと通った鼻筋に形のいい唇と目を見張るほどの美女だった。濃い化粧をしているものの…顔立ちが上品なせいか、どこか清楚なイメージがある。

 だがその体つきはどこから見ても大人の成熟した女性で、ほっそりと華奢なイメージの体型には不釣合いなほど豊かな胸元を銀色のスパンコールで覆われたブラトップで覆っていたが、それを支えるのは首に回した細いひもと背中のリボンだけ…。大きめの胸飾りがあっても深い谷間を隠すことなく見事に晒していた。  
 そして折れそうに細いウエストから緩やかな曲線を描く腹部の肌はなめらかで、ギリギリのビキニラインから下は煌びやかな水晶の縫いつけられた衣装で隠されていたが、スカート部分には細長い柔らかな透ける生地が幾重にも重なっていて、彼女が動くたびに太ももから爪先まで…すべてを余すところなく晒していた。
 
 一瞬沸き起こったどよめきにも動ぜず、彼女はゆったりとしたリズムにのせて、ながくしなやかな手足を優雅に動かしながら…手にした白い羽根の扇を広げて舞い始める。するとそれに合わせるように群舞も動きを変え、中央の舞姫を中心に一糸乱れぬ陣形を取り始めた。そして徐々にクライマックスに向けて踊りも音楽もテンポを速めていく…。

 観客達は彼女が創り出す妖艶な世界に、まるで魂を吸い取られるように魅入っていた。

 目の前の舞姫の…美しい銀糸が汗で首筋や胸元に張り付くのも気にも留めず…片足を高く上げて妖艶に舞うその姿に、ジャマールはいつしか瞬きも忘れて魅入っている自分に気が付いた。それは驚きとともに衝撃的でもあった。

 あのアスカの…花魁姿を見たときでもここまで驚きはしなかったが…?
 
 確かに目の前の舞姫は美しかった。この地域では珍しいが、西洋では彼女のような淡い髪色をした女性はいくらでもいる。
 だがそれとも何か違う彼女の面立ちや雰囲気…。今までどんなに美しい女性を見てもまったく反応を示さなかったジャマールの男の部分の…何かが彼女に反応している…。

ラウラは踊りながらステージの中央近く…身じろぎもせずこちらを真っすぐに見つめる男の眼差しを強く感じていた。男たちのギラギラした欲望の眼差しなら飽きるほど見慣れていた。けれど…その男の眼差しはただの欲望だけではない何かがある。

 驚きと賞賛と…。それともラウラの思い違いだろうか…? 踊りながら何度かその男と目が合った瞬間、ラウラの胸に小さな慄きが走る…。
今まで何度も男達の視線に晒されながら踊っていても、こんな風に感じたことははじめてだった。

(何…? いったいどうしたというの…? )
ラウラも説明の付かない感情に戸惑う。

 ラウラは純粋に踊ることが好きだった。
彼女が子供の頃に預けられたのは隣国にある神の神殿で、その巫女姫として育ち…踊りもそこで覚えた。
 17歳になったとき、サムエルが迎えに来るまで彼女は、俗世とはまったく隔てられた世界で生きてきたのである。

 その時サムエルは、彼女の生まれたアストロットの現状と今のドゥメイラの悲劇を伝え、自分と一緒にこの世界を変えるために力を貸してほしいと訴えた。
 そしてそれから3年…ドゥメイラの国外に拠点を於いて、今までじっとそのチャンスを狙っていたのである。
それがちょうど1年前、このゾル舞踊団が舞姫を募集していると聞いて、迷うことなくこの世界へと飛び込んだ。
 幸い仲間の踊り子たちは年齢も近く、すぐ仲良くなって溶け込むことが出来た。団長のゾルも本当の意味で彼らの目的を知らないのだ。

 この世界は何世紀も前から男中心の格差社会で成り立っている。生まれた時の親の身分でほぼその一生が決まるといっていい…。
 貴族と平民では天と地ほどの差があるし…まして奴隷の親の間に生まれた子供の一生は惨めだ。
 自分の生死でさえ、己の自由には出来ないのだ。

 そんな中で、ラウラは貴族の子として生まれたが、生まれながらにその身体に刻まれた“ 印 ”とその異形の姿によって祖国で暮らすことは出来なかった。
 1年に一度、国を挙げて行われる建国祭の一週間だけは、祖国に戻って両親に会うことが許されたけれど…それはあくまで自分は“秘密の子”としてであり、表向きは別の少女がラウラの代わりとしてそこに居た。

 幼い頃はその事実が哀しくて…なぜ自分は両親と一緒に暮らせないのかと、泣いて乳母のテナンを困らせたが、いつしかそれも諦めて…仲間の巫女たちと踊る楽しさに没頭していった。
 そして彼女が7歳の時、祖国に政変が起きて、両親に会うことすら叶わなくなった。

 ある日、乳母からその政変に巻き込まれて、両親も兄弟も命を落としたのだと聞かされた時…ラウラは一晩中泣き続けたことを今も覚えている。
 自分が女の身ではなく、男に生まれたのなら…いつか両親や兄弟の命を奪った連中に復讐してやるのに…!そう思い続けていたある日、乳母の息子であるサムエルがラウラのもとにやって来たのだ。

 数年前から体調を崩して、祖国に戻りたいと言っていたテナンのこともあって、ラウラはすぐにサムエルの言葉に同意した。





気が付けば最後の曲が流れていた。もう何度も踊っていて、細かい音のひとつひとつまで身体の隅々に沁みこんでいる。
 意識しないでも勝手に身体は動いてくれた。

 激しいリズムに乗せて仲間たちが激しくジンというタンバリンに似た楽器を鳴らしながら、ラウラの周りを駆け抜けていく…。
 その輪の中心で両手に剣を握ったラウラはそれらを器用に回しながら妖艶に舞い続けた。
 そして彼女たちがジンの先に結びつけたリボンを天高く放り投げたのを合図に、ラウラはカラフルなリボンのドームの中を出口に向かって駆け抜けた…。
( 終わった…!)
 
 通路の端に立っている付き人から預けていた真っ黒いローブを受け取って素早く全身を覆い隠すと、小走りで薄暗い通路を自分専用になっている控え室へと向かった。全身からどっと汗が噴出す。部屋の前にはサムエルが待っていて、彼女の姿を確認すると、扉をさっと開けて彼女が中に入ると素早く閉じてしまう。
 ラウラが控え室に戻るタイミングで押しかけてくる連中を追い払うためだが、こんな時外でサムエルが居てくれるのは助かる。とくに今日のように落ち着かない時には…。

 ラウラは部屋に戻るなり、部屋の隅に置かれた小さなベンチに座り込んだ。ドクドクと鳴り響く激しい鼓動は今も収まらず、みぞおち辺りがギュッと引き締められるようなそんな感覚が続いている。
(どんなに激しい踊りの後でもこんなに呼吸が乱れることなど今まで一度もなかったのに…。)
 目を瞑れば、さっきの男の眼差しがありありと浮かんできて…さらにラウラの呼吸は苦しくなった。
( 何…!? )
自分でも理解しがたい胸の疼きにラウラが戸惑っていると、小さく扉をノックする音が聞こえて、頭を上げるとサムエルが両手いっぱいの真っ赤なバラの花束を抱えて入ってきた。
「ラウラ、またダリル王からの贈り物だ…」
 サムエルは面倒くさそうに言うと部屋の片隅に花束をおく。そのあとで、ちらりとラウラを見ていつもと違う様子に目を細める。
「どうしたラウラ…? まだ着替えてないのか…?」
 いつものラウラなら控え室に戻るなり、すぐ衣装を脱いで着替えるのだが、今日の彼女は汗を洗い流すために部屋に用意されたお湯の入った桶もそのままに、ベンチに深く腰を下ろしたまま…深くうなだれている。どこか具合でも悪いのかとサムエルがラウラの足元にしゃがんでその顔を覗き込むと、ラウラは小さく首を振る。

「大丈夫よ、いつもよりちょっと息が切れちゃって…。すぐ着替えるから外で待ってて…」
「ならいいが…こいつはどうする…? そとで従者が返事を待っている…」
 ラウラが小さく微笑むとサムエルは肩を竦めながら、傍らの花束に目をやる」
「わかったことよ、あんな気持ち悪い男、側に寄られただけで吐き気がするわ…」
「辛辣だな…。まあ、いつもどおり上手く断っておくか。ゾルも、うちの舞姫は娼妃ではないと何度も言っているが、性懲りも泣く金貨をちらつかせて、ダリル王は責めて来る。1ヵ月後にドゥーラスのアリメド王に招かれていると言っても一向に諦めない。アリメドの後宮入りを目論んでいるのなら、ひと晩自分と過ごしても構わないだろうとそう言ってるんだ。あんな下等な男に君を一瞬でも触れさせる気はないよ…。君はこのドゥーラスの…」
 さらに言い募ろうとするサムエルの言葉を遮ってラウラは立ち上がる。
「サムエル、あとでリアンを呼んでもらえる? 髪飾りを外すのを手伝ってもらいたいの…」
 頭のてっぺんに付けられた細やかな水晶の飾りは、無理に外そうとするとラウラの細い銀糸に絡み付いて取れないのだ。いつも出番の終わったリアンに外すのを手伝ってもらっていたのだ。
「わかった、呼んで来るよ…」
 そう言ってサムエルが出て行くと、ラウラは急いで全身を覆っていたローブを脱いで、傍らの少しぬるくなったお湯にリネンを浸して濃い目の化粧を落とす。続いて申し訳程度に身体を隠しているブラトップを外してさっと汗を拭き取った。
( ……!? )
 そのとき、ラウラの豊かな左胸の…まろやかな膨らみのちょうどかくれている部分にチクリとした痛みにも似た痺れが走る。激しく踊ったせいで白い肌はほんのり桜色に染まって…その先端に誇らしげにツンと上を向く小さな蕾は肌よりも少し濃い色をしていた。片手でその豊かな乳房を持ち上げて目の前の姿見に映すと…三日月型の紅色に染まった小さな痣が浮かび上がっていた。それをそっと右手の人差し指で撫でてみる。
「はぁ…」
 思わず小さなため息が漏れる。ラウラが生まれた時からあるその痣は、大人になるに従って少しずつ濃くなっていった。幼い頃から夫になるその人以外には絶対に見せてはいけないと言われてきたその小さな印は…生れ落ちた時から交わされていたある約束の印でもある…。今日のように何かの拍子に気持ちが高揚した時、時にチリチリとした熱い痛みを伴ってラウラにその存在を示してくる…。

 気をとりなおして、さっと全身の汚れをリネンで拭き取ると、腰の横で結ぶ小さな下着とシュミーズを身に付け、目立たない麻色のゆったりとした足首まであるドレスを頭から被って、低めのウエストの位置にサッシュを巻く。こうすればラウラの豊かな胸も細いウエストもそれほど目立たない。舞台衣装は仕方ないが、普段は出来るだけ自分の女の部分は隠すようにしていた。ゾル一座の舞姫はあくまでも夢の姿だ。舞台を下りればラウラはただの何も知らない無垢な女に戻る。

 この世界で20才を過ぎて独身なのは、娼婦かよほど醜く誰にも貰い手のない行き遅れの女だけだ。事実一座の中にはラウラより年上の女も何人かいるが、みんな未亡人か夫から逃げてきた女達で、その歳で男を知らない処女はラウラだけだ。
ラウラは男が苦手だ。神殿の女達だけの世界で育ったことで、ラウラは未だにすぐ側に男が近づくだけで嫌悪感から逃げ出してしまう。
 唯一幼馴染みのサムエルと団長のゾルだけは平気だったが…。だから一座の中では “男嫌いのラウラ”で通っていた。

 ちょうどラウラが身支度を終えた頃に、扉をノックする音が聞こえて、仲間のリアンが入ってきた。
「ラウラったらまたそんな野暮ったい服を着て、せっかくいい身体をしてるんだからもったいないよ!」
 リアンはことあるごとにラウラの何の変哲もないドレスを批判する。もっと女らしく装って、少しでも条件のいい男の気を惹くことが大切だと言うのだが、ラウラはそんなことは必要ないのだといいたいところをグッと抑える。どうせ話してもリアンは理解してくれない…。なぜなら、ラウラの背負うものをリアンは持っていないから…。

「いいの…どう思われようと目立たないのがいちばん…それよりこの髪飾りを外すのを手伝って欲しいの…」
 ラウラがそう言ってベンチに腰を下ろすと、リアンは手馴れた様子でやわらかなラウラの銀色の髪に埋もれているピンを上手に引き抜いていく。

「ほら、全部取れたわ…。本当にあなたの髪はキレイ…まるで銀の糸みたいだわ。」
「ありがとう…リアン。それであなたの今夜のお目当ての彼は手に入ったの…?」
 さらにまたリアンが何か言いたそうなので、ラウラはそこで話題を変える。

「それが全然…誰が“今夜部屋に呼んで欲しいって…”って声を掛けても、“そんな趣味はない…”ってものすごい渋い顔して言うの…。まさか、そんな風に言われたら、女より男の方が好きなのかもって思うじゃない? でももったいないなぁ…すごい美形でいい男なのに…。それにきっとあれはすごい剣の遣い手だわ…。だって手のひらに固いタコがいくつもあったもの…」
 しばらくリアンは興奮した様子で、今夜客席に居た男のことをあれこれまくし立てていたが、ひとしきりしゃべって興奮が一旦収まると、“一足先に行ってるよ!”そう前置きをして、再び勢いよく部屋を飛び出して行った。リアンが先に行っているというのは、彼らが舞台が終ってから使用が許されている女性専用のマーム(浴場)のことだ。
 リアンが居なくなるとまた小さな控え室はラウラひとりになる。しばらくボーっとして…フッと息を吐くと、また頭にはあの男の眼差しが浮かんできた。
(女には興味がないかもってリアンは言っていたけど…あの時見つめていた目には確かに欲望の炎が見えた…。それともわたしの思い過ごし…? ああ…何を私は気にしているのかしら…? そんなことはどうでもいいことでしょう…? )
 ラウラは頭を振って、自分の中の男のイメージを振り払うと、自分もマームに向かうべく部屋を後にした。


 王宮に造られた女性用の浴場は以外に広くて、大理石の床を一段掘り下げた四角いプールに片側の壁から勢いよく適度の温水が小さな滝のように流れ込んでいた。アラブの古い王宮には、昔の王が持っていたハーレムの名残としてこんなマームがいくつか存在する。一時にはひとつのハーレムに寵姫に100人は下らない…と言われていたが、このドゥメイラの前王権までは王はハーレムを持たなかった。だから他の首長国も、側妃は何人かいたものの…大掛かりなハーレムを持つことはなかったのだが、今のアリメド政権は時代を逆行するかのごとく…近隣の国から美姫を集め自分のハーレムを造っているのだという…。
(そのハーレムにラナが囚われようとしている。何としても阻止しなければ…)
 そのためにラウラは踊り子としてここに居る…。

 マームのとなりにある控え室には入浴を終えた仲間が数人、火照った身体を冷ますべく…置かれた籐で編んだベンチにゆったり腰掛けておしゃべりに興じていた。その中にジャスミンというラウラよりは少し若い踊り子の姿を見つけて、ラウラは足を止める。
 いつもラウラは素肌を出来るだけ人に見られないように、マームにはみんなが入浴を終えた頃を見計って行っていた。いつものこの時間ならとっくに居なくなっているはずの彼女たちが居ることにラウラは戸惑いを覚えた。
「悔しいわね…! あんな美形そう居ないわよ、どうする? ジャスミン、部屋を確めてあとで忍び込むって言うのはどう…? 媚薬効果のある香水を付けていけば、どんな男だってイチコロよ…あなたの魅力には叶わないわ…!」
「そうねえ…!」
 ジャスミンはもうひとつの群舞の中心的存在の踊り子だ。直接に関わりはないが、ことあるごとにラウラには厳しいまなざしを向けてくる。ゾル一族の花形であるラウラに対して、明らかなライバル心を燃やしていることはわかっていた。
( 困ったわ…)
 
 ジャスミンの心情をわかっているから、ラウラは出来るだけ彼女とは同じ空間に居ないようにしていたのに…。後でまた出直して来ようかとも考えたのだが、このマームの利用時間はあと半時と迫っている。仕方なしに彼女達に気づかれないようにそっと端の陰になっている場所に移動したのを、目ざとくジャスミンの取り巻きのひとりが気付いて声を掛けて来た。

「あら…? もうとっくに済ませたたかと思っていたのに今頃…? 男嫌いなんて言っているけど、ホントはさっきまで誰かのベッドに転がり込んで居たんじゃないの…?」
 意地の悪い言葉が飛んできたが、ラウラはわざと無視して大きめのリネンを手にすると、服を着たまま…浴槽のある部屋に移動する。そうすれば彼女たちの位置からは見られることがなかったから…。
「何よ、隠さなくたっていいじゃない? それとも身体の見えないところに大きな傷か痣でもあるんじゃないの…? だから、王様の誘いにも応えられないのねぇ…!」
 
 彼女たちはそう言って高らかに笑いながらマームの控え室を出て行った。ラウラはもう一度控え室を覗いて、本当に誰もいないのを確認してから、ドレスを脱いでゆったりとお湯に浸かる。程好い温度のお湯の中に肩まで浸かって、疲れた四肢を伸ばせば、その日の疲れが一気に抜けていく気がした。

 ラウラは、彼女達踊り子仲間とは出来るだけ距離を置くようにしていた。ドゥーラスに着けば、このゾル一座を離れることは最初から決まっている。唯一リアンだけには、心を開いているが、彼女はラウラの世話役として付けられた見習いの踊り子で、明るく人懐こい性格で誰からも好かれている。
 
備え付けてあるバラの香りのする石鹸で、素早く全身を洗ってから身支度していると、そこへひょっこりとリアンが顔をのぞかせた。

「ラウラ、大丈夫だった…? さっきジャスミンたちを見かけたから、またなんか言われたんじゃないかって思ったから…心配で覗きに来たの…」
「ありがとう…大丈夫よ、彼女が嫌味を言うのはいつものことよ。気にしてないわ…」
 ジャスミンたち第一グループのメンバーは気位が高く、何かにつけていつも威張っているため…リアンも彼女達を嫌っていた。
「良かった、ねえ、ラウラ。このあとどうせ予定はないんでしょ? 私に付き合ってよ、今夜はお祭りで一晩中街に市が立つんですって…。おなか空いたし…一緒に行こうよ…!」
 リアンは大きな目をくりくりさせて、愉しげにラウラの腕に自分の手を絡ませてくる。
「あら、今夜は素敵な彼を見つけて愉しむんじゃなかったの?」
 ラウラが悪戯っぽく笑って、すこし小柄なリアンを振り返れば、いつもよりおしゃれしたリアンは愉しそうにラウラの手を取って早足で歩き始める。

「ああ、待ってリアン、ダメよ。髪を隠さないと…この格好でウロウロしちゃいけないって、サムエルに言われてるの。」
「そう言うと思って、いつもラウラが着ているマントを持って来たわ。それに今サムエルはゾルのお供でダリル王に呼ばれているの。1時間くらいなら大丈夫よ」
 そう言ってリアンはラウラの手を取ったまま、グイグイ引っ張っていく。いつもならこのマームの外れまでサムエルは迎えに来てくれるのだが、今日はその姿が見えない。きっとリアンが言うようにゾルのお供をしているのだろう。
 
 サムエルは過保護過ぎるくらい、いつもラウラの側を離れないように気を配っていた。ラウラはそこまでしなくても…と思っているけれど、サムエルからすればそれでも足りないらしい…。
「そうね、たまには息抜きもいいかもしれないわ。近くにサムエルもいないことだし…」
「でしょう…? ラウラ堅すぎるのよ」
 リアンは目を輝かせながら、今日都にやって来た外国の学者のキャラバンの護衛の男たちが皆美形ぞろいなのだと愉しげに語った。どうやらダリル王の側に座っていた目つきの鋭いとびきりの美形が、その一団のリーダーなのだと得意げに語る。前に懇意になった都の兵士に教えてもらったらしい…。
 
ラウラはそれを微笑みながらじっと聞いていた。








 多くの人々がにぎやかに集う宴の席の中…ジャマールはじっと一点を見据えたまま座っていた。宴席の最上段の中央にモンディール王ダリルが座り、その両サイドに重臣たちを中心に、主要な客人たちが並ぶ。その中にファウストもいて、さっきから上機嫌で盃を傾けながら、傍らに美姫を侍らせている。
 ジャマールは側に寄ってくる美姫たちを片手で遮ると、厳しい眼差しで腕組みしながら、じっと宴が終るのを待つ。こんな宴が今夜から三日三晩続くのだ…。
さっきからしきりにチャンスさえあれば色目を使ってくる高貴な貴族の娘から接待役の美姫まで…無視するだけで骨が折れる。こんなことならファウストの頼みとはいえ断ればよかったと、内心後悔していたが、ジャマールは無関心を装いながらモンディール王・ダリルの様子を伺っていた。

 ダリルは代わる代わる挨拶に訪れる他国の商人たちにその度に尊大な態度で接していたが、ドゥーラスから訪れた一団には明らかに違う態度で接していた。そしてその一団の中に、一見アラブ風の衣装を身につけた明らかにスペイン人と思わしき人物がいることにジャマールは気がついていた。
(アリメドの権威を着た連中か…。 我々が英国の息がかかっていると知って探りに来たか…)
 彼らはジャマールの居る位置とは反対側に座っていて、時々鋭い視線を感じたが、わざとそ知らぬふりで通した。ダリルにファウストから紹介されたときも、ジャマールは王に媚びるでもなく…丁寧に接して真っすぐダリルの目を見つめると、逆にダリルの方が動揺を隠すように目を伏せた。
 もしドゥーラスがあのままなら、ダリルとジャマール、立場はまったく逆だったはずなのだ。おかしなものだと心の中で苦笑する。

 それからあとの会話はすべてファウストに任せて自分は、その場に居る連中の観察に始終していた。近くに配置された世話役の侍従から、これからこの国で最も評判の舞踊団が今この都に滞在していて、これから演舞を披露する予定であること。
 その中心的舞姫が夢のごとき美女で、それを見るために毎回遠くから足を運ぶ者が後を絶たないのだと耳元で囁かれたそのすぐあとで、にぎやかな楽器の音とともに、艶やかな衣装を身につけた踊り子達の登場でその場の雰囲気は一変する。


 踊り子達の退場のあと、また宴席はガヤガヤと騒がしくなり…しばらくして一旦退場した彼女たちの一部が再び宴席に遣って来ると、男たちは気に入った踊り子を今夜の自分の閨に誘おうと躍起になって声を掛けている。
 ジャマールの元にも踊り子が次々に遣って来て、ただでさえ彼女たちが放つ香水と雌の濃い匂いが苦手なジャマールは辟易して、終いにはかなりキツイ言葉で拒絶してしまう…。
 近くにいた男たちはもったいないという眼差しで眺めているが、こればかりは仕方がない…。子供の頃から決められた配偶者を生涯守りぬくという教えを刷り込まれているジャマールは、状況が変わったとはいえそう簡単に転換できるものではなかった。

 アレックスのように群がるアリの中から、その時々で自分の好みに合う相手を選ぶことが出来たならどんなに楽だろうと思ったこともある。
しかしそのアレックスが、アスカに出会った途端に他の女性に見向きもしなくなったのだ。
 その事実を目の当たりにすると、今までの放蕩ぶりはアレックス自身本当の相手に出会っていなかっただけなのだと思えるようになった。

 そのときジャマールの目の前で、耳元で自分の側近からの報告を聞いていたダリル王が、急に不機嫌になっていきなり宴席の座を立ってしまう…。それに合わせて周りに居た側近たちもぞろぞろと退席していった。
 どうやらそれで今夜の祝宴は終了ということらしいが、さっきまで機嫌良くしていた王が急に不機嫌になった理由にジャマールが首をかしげていると、隣のファウストが小声でささやいた。

「王はあの舞姫に御執心なのですよ、何度も誘いかけているらしいのですが、一度も応じないので、公演のあとはいつもかなり機嫌が悪いらしいですよ。」
「なるほど…」
 ジャマールが無関心を装ってうなずくと、ファウストは酔って赤く染まった頬を緩ませて、面白げに笑う。
「噂どおりの美姫でしたね…あの髪色はヨーロッパでもめったに見られない色だ…。あんがいかつらかも知れませんが…」
 「以外ですね…? あなたは遺跡以外には興味がないかと思っていましたが…?」
 ジャマールがからかうように言うと、ファウストはいつもの人懐こい笑みを浮かべて笑いる。
「いえ、いえ、遺跡同様美しいものが好きなだけですよ…あくまでも私は目で愛でるだけですがね…?」
 そう言ってファウストはながく伸びた口ひげをゆったりと撫でながら笑っている。
 
 主が退出したことで、長かった宴が終了したことにホッとしながら…他の客たちが会場をあとにするのに従って、ジャマールたちもその場を後にした。
 まだ客席に残っている踊り子の姿を見ると、さっきまでステージの中央で艶やかに舞っていた舞姫の美しい姿が思い出される。
(あの好色なダリルがそう簡単に諦めるとも思えない…。面倒なことにならなければいいが…。)
 さっきから心のどこかで…美しい舞姫の身を心配している自分に気が付いて、ジャマールは戸惑う。
 改めて自分には関係のないことだと言い聞かせるが、ジャマールはどこかざわついている自分の心に妙な苛立ちを覚えた。
 

情熱の予感…。

 ファウストと別れて、自室に戻ると…先に戻っていたらしいドルーが待っていた。
「戻っていたのか? おまえも他の連中と同じようにいきぬきに行ったものだと思っていたが…?」
「オレもあなた同様、それほど慰めは必要ないので…。それより気になることがひとつありまして…」
 そう前置きしてドルーは、アストラットから加わった二人の戦士が、舞踊団の用心棒と見られる男と接触していたこと…。会話の内容は聞き取れなかったが、彼らはひどく神経質になっていたと語った。
「彼らはラナ姫の奪還を目論んでいるのだろう…? それがなぜこんな舞踊団と関連があるのかわからないが、きっと彼らなりの計画があるのだろう。今のところは静観すべきだな…。我々の目的はある意味彼らと重なっている部分はあるが、本当の意味での我々の正体は、最後の段階までは悟られるな…」
「御意…」

 今夜は街中が祭りで賑わっているため、かえってあれこれ探りやすいのだと言って、ドルーはまた部屋を出て行く。その姿を見送ったあと、ジャマールも目立たない普段着に着替えて、人出の多い街中へと出かけて行った。

 



 辺境の都市とは違って、ドゥーラスに近い王都はまだ街のスーク(市場)には賑わいがあった。クーデター以降、アリメドが徹底的に自らに逆らう反体制派を弾圧したこともあって、旧政権に近い王都はかなりの打撃を受け、どの政権もみなかつての力を失った陰で、早くからアリメドに寝返った政権はその甘い汁を存分に味わっていた。
 このモンディールもそのひとつで、多くの賄賂をアリメドに送る傍ら、あらゆる事に対する規制の目をかいくぐってきたのだろう。報告ではダリル王の黙認の下で、かなり非合法な取引も行われているらしい…。
 
 特にこんな騒がしい夜、人ごみを避けた裏通りではとんでもないことが平然と行われているのだ。それをジャマールは今まで嫌と言うほど見てきた。特にこの国では最下層の貧しい者達はひたすら搾取される。
 特に美しく生まれた者の悲劇は筆舌に尽くしがたく、たとえそれが幼い子供でも容赦がない。男でも女でも目を離した隙に捕えられて奴隷として近隣国に売られる。裏の社会で頻繁に開かれる闇のオークションでは、こういった非人道的な取引が当たり前に行われているのだ。
 
 自分がまだこの国で平和に暮らしていた頃には見えなかった闇の世界が、望まない形で外に放り出されたことで嫌でも思い知ることになるなんて…なんという皮肉だろう。そしてまたそんな闇の世界に、たったひとりでも毅然と立ち向かう人間がいることも、ジャマールは始めて知った。
(せめて自分が生まれた国だけは、そんな世界であって欲しくはない…。母と弟を取り戻したら必ずそんな闇は一掃しなければならないと心に誓っていた。
 

 あちこちに明るい松明が灯され、にぎやかに人が行き交うスークの表通りから一歩入った裏通りの暗い路地を歩きながら、ジャマールは暗がりに潜んでいる連中の動きに目を凝らした。
 薄汚れた衣を着て壁にもたれ、物乞いをしている老人たち…表通りを歩く人々の何かを狙って、暗がりからじっと様子を伺うもの…。それらを横目で見てジャマールは目を顰める。
 するとその中で、おかしな動きをする二人の男の姿が目に止まった。背の高い痩せた男と、もうひとりは小太りの男で、二人は黒っぽい布で頭と口元を覆って、ギョロリとした目だけ露わにしてじっと表通りの何かの様子を伺っていた。
 二人は小声でブツブツつぶやきながら、何かに合わせるようにゆっくりと物陰に隠れて移動している。

「……?」
 ジャマールはさらに暗がりに身を潜めて、ふたりと距離をとりながらその会話に耳を傾けた。
「本当にあの女たちで間違いないのか?」
「ああ…同じ踊り子のひとりから聞いたんだ。銀の舞姫が仲間の踊り子と街に出たって…。あの背の高いマントを被っている女がそうだろう…? それにもうひとりの女に見覚えがある。間違いない…。」
「そうか、なら早く引っ捕らえて王様のところへ連れて行こうぜ。何でも王様はあの舞姫にぞっこんだって言うじゃないか…。連れて行けばたんまり褒美がもらえるってもんだ…」
「もうひとりの女はどうする?」
「舞姫を届けたらどっかで朝まで愉しもうぜ…!」
「そりゃあ、いいや…!」
 男たちは下卑た笑いを浮かべながら、表通りを歩く二人の動きを追っていた。

( 銀の舞姫だと…? )
 ジャマールはさっきフロアーで艶やかに舞っていた銀色の髪をした舞姫の姿を思い浮かべた。舞台を下りた彼女はどんな顔をしているのだろう…?
 不意に浮かんできた“ 知りたい ”という押さえがたい欲求に驚きながら、ジャマールは目の前にいる男達の…すぐ近くを愉しげに歩く二人の若い女連れの姿に目を凝らした。



「ねえ、リアン、そろそろ帰らない? ずいぶん遠くまで来てしまった気がするのだけれど…? 」
 愉しげにはしゃぐリアンの隣りでラウラは、予定の1時間をかなり過ぎてしまっていることに焦っていた。きっとサムエルも戻って来ていて、部屋にラウラが居ないことに気が付いていることだろう…。騒ぎになっていなければいいのだけれど…。
「大丈夫よ、今夜はみんな浮かれているから、団長やサムエルだって少しくらい戻るのが遅くなったって大目に見てくれるわ…。わあ、見て! キレイ…! 見たこともないようなドレスが並んでいるわ…!」
 そう言うなり、リアンは通りから少し入ったところに見える色とりどりのドレスが入口から奥にぎっしりと並べられている小さな店の中にフラフラと入っていった。
「待って、リアン…!」
 慌ててラウラはリアンの後を追う。そしてそれを見ていた二人の男は顔を見合わせてニヤリと笑うと、暗がりから表通りへと飛び出して行った。

「 奴ら…は…」
 その近くで一部始終を見ていたジャマールは、すぐさま動く…。


 さっきから有頂天のリアンは、店主に勧められるまま多くのドレスを持って試着室へと入っていく。
「そちらのお嬢さんもいかがですか? お気に入りのものがあればお安くしますよ…」
 頬のこけた顔に作り笑いを浮かべた店主の何かが気になって、ラウラは首を振った。
「いいえ、わたしはいいわ。それよりリアン、早くして…。リアン…?」
 
 少し前に奥のカーテンで仕切られた小部屋に入ったはずのリアンから、何の反応もないことをおかしく思ったラウラがラウラがカーテンを開けると、全身を黒ずくめで覆った二人の男のひとりが気を失ったリアンを肩に担ぎ上げようとしていた。
「あんた達は誰…!?」
「チッ…! もう気が付いたのか…?」
 ひとりが舌打ちするともうひとりの背の高い男が素早く動いて、声を上げようとしているラウラを捉まえて後ろから羽交い絞めにする。
「声を上げてみろ、もうひとりの女の命はないぞ!」
 耳元で聞こえるゾッとするような低い声…恐怖に全身が震える。
 自分ひとりなら、何とか逃れることが出来るが、リアンを置いていくことは出来ない…。ラウラは悔しさに唇を嚙むが、今の彼女にはどうしようもなかった。せめてこのみせの店主がこの男たちに気が付いて誰かを呼んでくれればいいのだが…。
「ハハ…期待しても無駄だ。このあたりの店の連中は我々の言いなりだからな…」
 ラウラを拘束している男がそういった瞬間、鼻と口に布を押し付けられ、何かツンとした匂いを吸い込んだあと…ラウラの意識は途切れた。




 ジャマールは彼女達が入っていった店に踏み込むと、そこにひとりで立っていた店主を捕まえる。
「さっき女が二人店に入って来たはずだ。女はどこへ行った?」
「女…? いや、誰も…」
 そう言い掛けたところで、ジャマールは店主の右手を取って捩じ上げる。
「本当のことを言わないと腕をへし折るぞ…」
 ジャマールの凄みに店主の男はブルブルと震えながら、男たちと一緒に裏口から出て行ったことを告げた。恐らく金を握らされて黙っていろと言われたのだろう。
 ジャマールが手を離すとその場にヘナヘナと崩れ落ちたが、それには構わず、すぐ店の奥の扉から外へと飛び出していく。
 まだそれほど遠くには行っていないはずだが…。店の裏口には細い路地が続いていて、男たちはそのどちらかの方向へ逃げたはず…。ジャマールはじっとその場にたたずんで、どこからか微かに漂ってくる匂いを嗅いだ。
(こっちか…?)
 宮殿からは逆方向になるが、微かにさっき店の中で嗅いだ同じ匂いが漂ってくる。昔からジャマールは人よりも嗅覚が優れていて、わずかな匂いでも追跡することが出来た。しかし、相手は二人、腕はこちらが上でも人質を二人抱えて戦うとなるとどうしても不利になる。
 そう思ったジャマールは、走りながら懐から小さな笛を取り出して天に向けて吹く。笛といってもただの笛ではない。犬笛といって通常の人が感じる音域では聞こえない音を発することが出来た。ジャマールの部下達は訓練でこれに近い聴覚を身につけている。

 しばらく走っていると、路地の建物の裏から一人の男が飛び出してきた。
「ファリドさま…!」
「女をさらって行った男たちを追っている。お前は少し離れて追って来い!」
「わかりました…」
 男は小さくうなずいてまた傍らの暗闇に消えて行った。


男二人はそれぞれの肩に、気を失っているリアンとラウラを担ぎながら宮殿からは離れた小さな木々が生い茂る場所まで遣ってくると、一息吐くように地面に二人の身体を下ろして自分たちがさらってきた女たちを見下ろした。

「スゲェな…これ本物だぜ…」
 男の一人がラウラのフードからこぼれた銀色の髪の一束を手に取って叫ぶ。
「銀の舞姫か…いい女だな…? 未だ生娘っていうのはホントかな? おい、ちょっと味見してもいいんじゃないか…?」
「へへ…めったに拝めないいい女だもんな…」
 二人はラウラの上に屈みこんだまま…下卑た笑いを浮かべながら彼女の身体を覆っているマントへと手を伸ばした。

「そこまでだ、その女たちをこちらに渡してしてもらおう…」
 彼らの後方からジャマールはゆっくりとその姿を現すと、男たちは慌てて立ち上がって身構える。
「誰だ…!?」
「誰でもいい…彼女たちはお前達のような下衆が触れていい女性ではない…。彼女達を置いてさっさと立ち去れ…」
「何を…!?」
 男たちは手にした刀を振りかざして、ジャマールに迫ってくる。最初のひとりを軽くいなしたところで、離れて付いて来ていた部下がさっと現れて、二人目の剣を易々と受け止めた。
 普段から鍛え抜かれている戦士であるジャマールたちにとって、彼らは敵ではない。
剣を振りかざしてくる相手に対して、ジャマールは素手で体をかわすと、鋭い拳をそのみぞおちに叩き込む。そして相手が痛みに身を屈めた隙に首の後ろに手刀の一撃を与えると、男はそのまま地面に崩れ落ちた。見ればもうひとりも地面に大の字になって倒れていた。

「口ほどにもない奴らですね? 単なる夜盗の類でしょうか…?」
「そうだな、最近この国にはこんな奴らが山ほどいる。未開の野蛮な土地だと西洋人に言われても仕方がない…」
 部下の言葉にジャマールは思わず首を振って苦笑する。父の治世の時代には、どの国も豊かで夜盗や人攫いといった犯罪行為はほとんど見られなかったはずだ。すべての元凶はアリメドにある。

「ファリドさま、彼女たちをどうしますか…? 正面切って連れ帰るのもどうかと…」
 部下は困ったように地面に倒れている二人の女たちを見てから、ジャマールの方を振り返る。部下の言うとおりだ。意識を失っているとはいえ相手は評判の美姫だ。誰かに見られれば面倒なことになる。
「とりあえず…宮殿の裏側から中に入る。我々が入場した入口を使えばそれほど怪しまれずに済むだろう」
「わかりました…」
 
ジャマールはそっと倒れている銀の舞姫の身体を抱きあげる。そのとき美しい彼女の顔を間近で見てしまったジャマールは、不意にその胸に激しい衝撃を受ける。ほんの数時間前にステージで妖艶な雰囲気を纏って踊っていた舞姫とは別人に感じるほど、その顔立ちは清楚で美しかった。外れたフードから月光のように光る銀髪が零れ落ちて思わず息をのむ。

「ファリドさま…?」
 部下に声を掛けられて、やっとジャマールは自分がしばらくその舞姫に見とれていたことを知る。
「おまえはもう一人の彼女を頼む。出来るだけ気付かれないように部屋に運ぶ。部屋に帰ったらこのことを一座の誰かに知らせろ…」
「御意…」


 

 ラウラはゆっくりと目を開けて、ぼやけた視界でまわりを見回した。
( ここはどこ…? わたしはリアンと街に出て…。ハッ…! リアン、リアンはどこ…!? )
 ハッとして飛び起きると、自分がどこかの部屋のベッドに寝かされていることに気がついた。そこにいるのは自分だけでリアンの姿はない。
 不安になって回りを見れば…窓際に誰かが立っているのに気がついた。ラウラが身じろぎしたのに気がついたのか、ゆっくりと振り向いたその人物の顔を見て、ラウラは息をのむ。
(あなたは…あの時の…!?)
 その窓際に立っていたのは、宴席でダリル王の近くで厳しい顔でじっと見つめていたあの男だった。切れ長の黒く美しい瞳がラウラを見て、一瞬ゆらめく。

「気がついたのか…?」
「ここはどこでしょう…? あなたは…?」
 ラウラは、慌てて起き上がろうとして…めまいを感じて両手で頭を抱えた。
「君たちはスークの外れで、夜盗の男たちに拉致された。たまたまわたしはその場に行き合わせて、君たちをここに連れ帰った…」
「リアンは、リアンはどこ…!?」
「もうひとりの彼女ならとなりの部屋で眠っている。君が目覚めたのなら、彼女もそろそろ起きてくるはずだが…」
 ジャマールがそう言うのと同時に、となりの部屋の境の扉が勢いよく開いて、ひとりの女が飛び込んでくる。
「ラウラ…! ごめんなさい…!」
「リアン…!」
 女の後ろにはドルーが立っていて、ジャマールを見て小さくうなずく。

 ラウラとリアンはしっかりと抱き合って互いの無事を喜び合った。リアンは子供のように泣きじゃくりながら、ラウラに自分のわがままからラウラを危険に合わせてしまったことを詫びた。
「大丈夫よ…リアン。わたし達はこうして無事なんだから…」
 泣きじゃくるリアンの身体を抱きしめてその背中を撫でながら、ラウラは自分達を見つめる、あの背の高い男を見上げた。

「助けていただいてありがとうございます。あなた方はいったい…?」
「我々は都に滞在しているキャラバンの一員だ。たまたまスークを散策している時に、君たちを尾行している不審な男たちを見つけた。あの店に入った君たちのあとを追う連中を見て追いかけたら、倒れている君たちがいた。わたしの名はファリド。ファウストのキャラバン隊の、護衛の責任者だ。君たちがここにいることはさっき一座に連絡しておいた。そのうちに迎えが来るだろう…。」
 抑揚のない落ち着いた声で男は答えた。

「ありがとうございます。わたしはゾル一座のラウラです。こっちはリアン、助けていただいてありがとうございました」
 そこでラウラは自分が身につけていた黒いマントがベッドの枕元に丁寧にたたまれているのに気がつく。状況を把握するのに夢中で、自分の素の姿が無防備にこの男たちに晒されていることに気がつかなかった。
 そう…自分は彼らに救われたんだわ…。
 小さくため息をついて、さっきからじっと自分達を見つめている男を振り返った。真っすぐに射る様な鋭い眼差しを受けて思わず目を逸らしそうになるが、ラウラは勇気を振り起こしてその目を見つめ返す。
 
あの時にも思ったが、ただ美しいだけでなく…彼には何か不思議なオーラが感じられる。その眼差しは厳しく、見る人によっては冷たい印象を与えるけれど、それだけではない何かがあるような気がしていた。それが何かはわからないけれど…。
 ラウラは初めて、ファルドと名乗るその男をもっと知りたいと思った。

「君たちを襲ったのは下級兵士か傭兵の一部だろう…。話す言葉に少しなまりがあったから純粋なドゥメイラの人間ではないと思う…」
 男が寝台に近づいてきて、彼が見上げるほどに背が高いことに気がつく。近くに控えるもうひとりの男が無言で従っているところを見ると、この男の身分はかなり高いのだろう。
「わたし達も油断したのです。普段は公演中はほとんど宮殿を離れることはありませんから…」
 腕に抱いたリアンをなだめながら、ラウラはゆっくりと寝台から降りる。すこしふらついたけれど、何とか男たちに気付かれずに立ち上がることが出来た。

 すると部屋をノックする音がして、ドアのそばで誰かの話し声がしたと思ったら、勢いよくドアが開いて、ゾルを伴ったサ二ムエルが飛び込んできた。
「ラウラ! リアン! 大丈夫か…!?」
 サムエルは寝台の前で立ち尽くしているラウラたちに駆け寄ると、心配げにその顔を覗き込んだ。
「スークでさらわれたところをこの方々に助けていただいたの…」
「王の元から戻ってきたら、君たちが居ないと大騒ぎになった。そうしたら、ジャスミンたちが、君たちはスークに向けて出かけたと言うから探したんだ…」
「ごめんなさい…わたしがラウラを誘ったの…こんなことになるとは思わなかったから…」
 さっきまで顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくっていたリアンがまた泣き始めた。

「まあ、まあ無事だったんだから良かったじゃないか…。いやあ、本当によく助けていただきました。もし我が一座の看板の舞姫に何かあったら、もう公演が出来ないところでした。」
 一座の長であるゾルは浅黒い顔をゆがめながら泣き笑いのような表情をして、さかんに背の高い男に頭を下げている。
「何と感謝してよいやら…あなたの名前を教えていただけませんか…?」
「わたしはファルド。そこにいるのはドルー…我々はファウストのキャラバンで護衛を仰せつかっている。たまたまスークを散策中に怪しげな男たちを見つけて追跡したところ、そこに彼女達が一緒にいたので保護しただけで、感謝されるほどでもない…」
 ファルドと名乗る男は顔色ひとつ変えることなく、抑揚のない声で答えた。彼にとっては行きずりの娘をついでに助けただけ…。気にも留めないといった風で答える。
 その表情を見て、ラウラは胸の奥にチクリとした痛みを感じた。今までどんな男を見ても一度も心に留めたことはなかったのに…何故かその男の眼差しが気に掛かる。

「さあ、みんなが心配している。早く帰って安心させてやろう」
 サムエルの急かすような言葉で、ラウラたちはもう一度男たちに丁寧に礼を言って、その場をあとにした。後でわかったことだが、彼らが宿泊していたのは宮殿の1階、裏の通用門に近い場所で、ゾル一座の宿泊場所になっている2階の中央にあるエントランスを挟んだちょうど真下になっていた。


「それで、よく無事に戻って来られたわねぇ」
 彼女達が戻ってくると、仲間の踊り子たちがぐるりと周りを取り囲んで口々に二人の無事を喜んだ。ジャスミンとその取り巻きの数人はその外側で無関心を装っている。
 最初は動揺していたリアンも、部屋に戻って仲間たちに囲まれて安心したのか、自分が見てきたにぎやかなスークの様子や、二人を助けてくれた男達の様子を興奮した様子で語る。
「ええっ…! じゃあ、あの王様の近くにいた男の人が助けてくれたの? 顔が良いだけじゃなくて腕も立つのね?」
「そうなの、一緒にいた部下だという男の人もすごい美形なの…!ねえ、ラウラ?」
「え…ええ」
 不意に振られてラウラは口籠る。リアンの剣呑さに呆れるが、彼女はさっきからしきりに彼らがまとっている普通ではないオーラについて、声高に語っていた。
 
 ひととおりの興奮が収まると、みなはそれぞれの部屋へと戻っていく。ラウラだけは個室を与えられていて、そこにサムエルとゾルもついてきた。

「だけど、これからは心配だわ。今までは何とかやって来れたけど、ドゥーラスに近づく度にもっと治安は悪くなるはずだし、本当に王都まで行くつもり、ラウラ…?」
 部屋に入るなり、心配げにゾルが口を開く。
「もちろんよ、そのためにわたしは踊り子になったのよ、でもみんなを危険に晒すことは出来ないから、王都の手前でゾルとみんなは引き返してくれても構わないわ」
 ラウラはそう言って傍らのサムエルを見る。サムエルも黙ってうなずいている。最初からそのつもりでゾルの一座に加わったのだし、危険は承知のうえだった。
 入団した時、あらかじめゾルには、ラウラの目的を告げてある。ゾルの一座には13年前の政変で地位を失ったり、親を亡くして孤児になった娘たちも多い。ゾルももともとは王都の舞踊団の一員だったが、武装勢力が宮殿に押し寄せてきた時、流れ弾に当たって片足の自由を失っている。アリメドを倒してもう一度自由な世界を取り戻したいというラウラたちの想いを汲んでこうして協力してくれているのだ。

「そりゃあ、わたしだってこのドゥメイラがもとの豊かな国に戻ってくれれば良いとは思うけど…サムエルとラウラあんたたち二人で何が出来るって言うの?」
 いつもはあまり意見することのないゾルが今日はやけにはっきりと自分の言葉を述べるのはそれだけラウラのことを心配してくれているからだろう。
 芸事には厳しくて練習中はかなり辛辣な言葉も飛んでくるが、普段のゾルはとても優しい。この1年一緒に過ごしてきてそれはよくわかっている。

「ごめんなさい、ゾル。心配掛けて…」
「わかればいいのよ。それで、ラウラ、サムエルとも相談したんだけれど…」
 そう言ってゾルは機嫌よくある提案をラウラに語った。




 アンドルーは、目の前でひどく難しい顔をして立ち尽くしている上官の、昨夜から今朝までの様子を思い出してひとりほくそ笑んだ。
 彼がカリブ海でホークに拾われて10年、副官であるジャマールの元で厳しく訓練を受けてきたが、こんな表情をしている副官は初めてみる。
 2人の主であるホークから離れているせいもあるのだろうが、アンドルーにしか解らないジャマールの変化だった。

 「何だ? 何か言いたそうな顔だな?」
「さっきから含み笑いを押し殺しているアンドルーの心のうちがわかったのか、さらに苦虫を噛み潰したような顔をしてジャマールが振り返った。
「いえ、こんな風にあなたが女性と関わるところを初めて見たので、少し意外だなあと思って…。ロンドンでレディ(レディ・シェフィールド=アスカ)の相手をしている時でさえ、そんな表情はされていなかった 」
「アスカは特別だ。それにここは英国ではなくわたしの…」
生まれ故郷だと言おうとして口を噤む。正直自分で何を言いたいのか、心の整理が出来ていなかった。アンドルーの言うとおりだ。あの舞姫の…深海を思わせるような深い蒼色の瞳を見た瞬間、自分の中の何かが激しく反応していた。凍てついたジャマールの心の最奥で、雷に打たれたあと小さな火柱が上がるように、それは今でもゆらゆらと燃え続けている。

「彼女を助けたのはほんの出来心からですか? 確かに類稀な美しい舞姫でしたね? あなたでなくても心を奪われるでしょう。前にボスも言っていたように、あなたにも慰めは必要だとおれも思いますが…」
「だとしても、わたしの求めるものはすでに決まっている。慰めだけの相手など混乱を招くだけだ」
「あなたのいう義務というやつですか? いい意味であなたは真面目すぎる。でもそんなあなただから、おれは心から尊敬できるのですが…」
 ドルーはそういい残しつつ、厩舎にいる馬達の様子を見てきますと言って部屋を出て行った。

 アンドルーがいなくなると、ジャマールはひとり大きく息を吐く。部下にこうも簡単に心を読まれるとは…もはや笑うしかない。アンドルーはジャマールがその才能を認め、10代の頃から厳しく育てた戦士だった。
 常に側にいて上官の意向を察することに長けていた。当然といえば当然だが…。
 確かにラウラは美しかった。ステージ上の妖艶な姿よりも、派手な化粧を落とした普段の姿の方が好ましく見えた。
 月光のように波打つ髪も、繊細な顔立ちに漂う清らかで可憐な美しさは男からすれば理想の姿だろう。
 あのスークで彼女を見つけたのは偶然だったが、不穏な男たちが彼女たちを追っていると知ったあとは、もう自然と身体が動いていた。
 そして気を失っている彼女を抱き上げた瞬間、両腕に感じた柔らかさと彼女から立ち上る芳しい花の香りに瞬時にジャマールの眠っていた雄の部分が目を覚ましたのだ。この13年間、あのアレックスの側にいた間でさえ一度も起こらなかったことなのに…。

ジャマールには生まれた時から定められた“運命の相手”ラナ姫がいる。そうとわかっている以上、たとえかりそめでも誰かの温もりを求めることはジャマールの心情からして出来ないことだった。
 大丈夫…これは一時の心の迷いだ。この地を離れればすぐ忘れる…。

 一時の流行病のようなものだと自分に言い聞かせて無理やり押さえ込もうと思っていた。ところが、いよいよ翌日には出発しようと準備を始めた矢先に、ジャマールの元にとんでもない話がファウストからもたらされる。

「どういうことです?」
 ジャマールは目の前に座って悠然と紙タバコを吸いながら、いつもの人懐こい笑みを浮かべている男の顔をじっと見つめた。
「いやぁ、舞踊団の責任者のゾル殿に頼まれたのですよ。王都の近くまでで良いので同行させて欲しいというのです。きっと先日の舞姫の誘拐事件があって不安になったのでしょうな? その件であなたに助けられたこともあって、彼らはあなた方の力を借りたいとそういうことでしょう? それにまだ王都までは数週間はかかる。行く方向は同じなのですから。あなたの部下にも若い者が多い。旅の間に楽しみは必要でしょう…?」
 そう言って愉快そうに笑うファウストの首を、ジャマールは、はじめて絞めてやりたくなった。

「我々は遊びに来ているのではない。それに彼ら一座にも護衛はいるのでは?」
「もちろんいます。でもこの先の行程はかなり治安的にも不安定な場所も多く、踊り子の中にはかなり不安がっているものがいるとゾル殿は言うのです。君たちの主は閣下だが、ここでのすべての権限は君にある」
  この男は遺跡や古いものにしか興味がないある意味偏った人間だが、それ以上に危機感が薄く馬鹿がつくほど人がいい。西洋ではそれは美徳といえるものだが、ここドゥメイラでは危険極まりないのだが…。
 ジャマールはかなり渋い顔をして傍らのアンドルーを振り返る。

「ドルー、おまえはどう思う? 負担が増えるわけだが、護りきれるか?」
「さあ、ゾル一座の護衛を合わせてもう一度警護の計画を練り直さねばなりませんが、彼らの技量次第でしょうね?」
 アンドルーはさらりと答える。その目に何か面白がるような表情を見て、ジャマールの表情はさらに渋くなった。

「わかりました。今日の午後、前の広場に一座の護衛たちを集めてください。彼らのレベルが我々の基準に達していないと判断した場合には、この申し出に添うことは出来ません。良いですね?」
 ジャマールの厳しい言葉にファウストも黙ってうなずいた。ジャマールからすれば精一杯の譲歩だが、図らずも自ら抱えることになった面倒事をアンドルー同様彼も愉しんでいるように見えるのはジャマールの思い過ごしだろうか…?

 

ラウラとジャマール 

 ジャマールの希望通り、午後の早い時間に彼らの宿舎となっているエリアに面した中庭に、数名の男たちが集められた。ゾル一座の護衛たちだが、その数の少なさを見てジャマールは眉をひそめる。
 みな10代後半から20代の若者が中心になっていて、元はみな辺境の都市の民兵だという。ジャマール側もアンドルーと数人の部下を連れてきていたが、明らかに彼らとは雰囲気の違う一団の中でひとりだけ、背の高い目つきの鋭い若者がじっとジャマールを睨みつけるようにこちらを伺っている。昨日ラウラという踊り子をゾルとともに迎えに来た若者だ。
 
 側では何が起こるのかハラハラしながら、団長のゾルが固唾を呑んで見守っていて、その側でファウストもベンチにゆったりと腰を下ろして高みの見物を気取っていた。
 そしてジャマールをさらに苛立たせているのは、その彼らを2階の吹き抜けのテラスから愉しげに歓声を上げて見ている踊り子達だ。
「がんばって~! わたし達応援してるよ~!」
 彼女たちは口々に黄色い声を張り上げて、お気に入りの若者の名前を呼ぶ。ジャマールが厳しい顔をして上を見上げると、悲鳴に近い声が上がって…またジャマールは小さく舌打ちをすると、申し訳なさそうにゾルが口を開く。

「すみません、若い娘たちが多いのでつい騒ぎになってしまうのです」
「まあ、よいではないですか? 応援があったほうがより力が発揮されるというものです…」
 横からファウストまでが口を挟んでくる。側にいるアンドルーまでが愉しげな表情を隠しもせず、こちらを伺っている。最近のドルーはジャマールの前でも自分の想いを表情に表すようになった。指揮官としてはより複雑なところだが…。

 内心のイライラを紛らわすためにあたりを見回して、少し離れた目立たない柱の陰に出会ったときと同じ全身を覆う真っ黒いマントに身を包んだラウラがいるのに気がついた。
 きっと他の踊り子同様、仲間の動向が気になったのだろう。
じっとこちらを見つめる彼女の眼差しとジャマールの視線がぶつかった瞬間、目に見えない碧い火花が散った気がした。時間にしてほんの数秒、さっとラウラは目を逸らしして、ジャマールも現実に返る。

「このチームのリーダーは誰だ?」
 冷静な声で目の前の集団に声を掛ければ、先ほどの眼差しの鋭い若者が進み出てきた。
「オレがリーダーのサムエルだ」
「サムエル、そこにいるのがファウスト、我々のキャラバンのリーダーだが、警備全般の指揮を取っているのはわたし、ファルドだ。副官のドルー、あと数名の部下がいる。」
 厳しい表情を崩さないまま、ファウストとドルーを紹介しながら、目の前の若者を観察する。背丈はジャマールよりは少し低いくらいだろうか、浅黒い肌色と彫りの深い顔立ちは典型的なドゥメイラ人だが、他の若者達とは違って鍛えられた隙のない体つきをしている。
 団長のゾルは40代の小柄な男で、踊り子を含めても全体的に若い連中が多いようだ。
 ファウストのキャラバンは彼の助手数名と雑用などの名目で10名前後の男たちを同行している。女性をキャラバンの入れなかったのは、道中要らぬ揉め事を避けるためだった。慰めだけの女なら途中どこかで調達すれば足りるからだ。

「おれ達をこんなところに呼び出して、いったいどうしようというんだ?」
 サムエルが不機嫌そうにジャマールに食って掛かる。それを見て困り顔のゾルが慌てて間に入った。
「まあ、サムエル、落ち着いてくれ。ファウスト殿は昨夜のこともあって、心配して我々を自分のキャラバンに加えてもいいと言って下さったんだよ。ファルド殿はその警護の責任者だ。うちの護衛役の君たちに会いたいと言うのは至極当たり前のことだろう?」
 なだめるようなゾルの言葉を聞いて、サムエルは不精ながら口をつぐむ。

「我々もドゥーラスの王都近くまで行く予定だが、これから先は盗賊や法の及ばない民兵たちが点在する地域を通っていくことになる。かなり危険な道中になることも考えて、我々は最初から綿密な計画を立てている。
 そこへあなた方を迎え入れるとなると、もう一度計画を練り直さなければならない。そのために君たちの能力を知っておきたいと思ったのだが…。そちらの方で我々が必要ないというのなら、無理強いはしない」
 
 表情を変えずに言い切ったジャマールとサムエルの間に立って、ゾルがハラハラしながら2人を見つめている。サムエルは一瞬考えたあとで、睨みつけるようにまっすぐ見返してきた。
「わかった。どうすればいい?」
「まずは君たちの実力を知りたい。武器を選んで1対1になって戦ってもらう。わたしの部下が相手をする。」
 今日はアンドルー以外に数人の部下を連れて来ていた。ゾル側はサムエルを入れて5人。充分だろう。

「わかった。言うとおりにしよう。そのかわり、オレの相手はあんたがいい…」
 挑むようなサムエルの鋭い眼差しを受けてジャマールもうなずく。
「いいだろう、そのかわり彼らの勝負が終わってからだ。ドルー、合図はおまえに任せる」
「承知しました」
 
 ジャマールは一歩下がってファウストの隣りに立つ。
 ゾル側の若者とジャマールの部下達はそれぞれ一対になって、広場いっぱいに広がって行った。手には短剣を握って合図が来るのを待っている。
 ゾル側の若者は皆20代もしくは案外もっと若いかもしれない。 一様に緊張からか落ち着きなくあたりを見回している。
 これは本気の闘いではない。どちらかが相手の武器を奪うか、それとも地面に押さえつけて相手の自由を奪いさえすれば勝負は決まるのだ。そしてジャマールの部下はみな鍛え上げられた精鋭ぞろいだ。結果は最初からわかっている。


「始め!」
 アンドルーの一言で闘いは始まった。
 最初2階の吹き抜けになっているテラス部分から聞こえていた踊り子達の甲高い黄色い声は、あっという間に悲鳴から重苦しい沈黙に変わっていく。
 今まで彼女達が信頼していた護衛役の若者たちが次々と、いとも簡単に地面に倒されていく様子に誰もが言葉を失くしていった。

「そこまで!」
 再びアンドルーの掛け声で、部下達は押さえつけていた若者達から離れて彼の近くに集まってくる。予想どおりの結果だが、それを見ていたサムエルは悔しそうにひとり唇を嚙んでいる。
どうする…? 止めてもいいぞ…? そういう意味を込めてジャマールが振り返れば、サムエルは無言で短剣を手にして広場の中央へと歩いていく。

それを見てジャマールも着ていた上着を脱いで、傍らのアンドルーに託すと腰に着けている三日月刀も外してその上におく。そして差し出された短剣を受け取ってゆっくりとサムエルの方へと向かって行った。

 1階と2階それぞれの仲間が見守る中、鋭い眼差しでじっと2人は正面から互いの目を見つめあう。もちろん、ジャマールは負ける気はしていないが、面前の男に他の若者達よりは何かしらの手ごたえを感じていた。

「始まりの合図はない、好きに攻めて来て構わない」
 わざと構えの姿勢は取らず、余裕を見せてサムエルが切り込んで来るのを待つ。それを見てばかにされていると思ったのか、サムエルは憤りを隠しもせず、勢いよく飛び込んでくる。それを素早く体を交わしながら、ジャマールは何度か刃を合わせる。
 
(剣に力もあって体の切れもいい。悪くはないが…)
 
相手の力量を測るため、わざと長く剣を合わせていたジャマールは、意を決したように、接近して地面に片手をつき腰を下げると、片足で勢いよく踏み込んできたサムエルの前足を払う。バランスを崩した彼は前につんのめって倒れ、地面に着くその前に彼の利き手を掴んで逆の手で素早くその手の短剣を叩き落した。一瞬の出来事で、倒されたサムエルも何が起こったのかわからなかった。
 気がつけば相手が自分の剣を持って見下ろしていたのである。

その様子をじっと見つめていたラウラは、フゥーッと息を吐いた。思わず呼吸をするのも忘れて見入っていたことに気がついて慌てて肺に空気を吸い込む。
(すごいわ…あのサムエルを一瞬で倒してしまうなんて…)
 サムエルは幼い頃から王都の守備隊になりたくて、地元の有力な戦士に弟子入りしたほどだ。13年前の政変があって、その想いはかなわなかったけれど、それでも内心は決して諦めていない。世の中が平和になったら、きっとその夢は叶うはず…。
 でもそのサムエルをあのファルドという男は難なく退けてしまった。

 皆が見守る中、サムエルはゆっくりと立ち上がった。
負けたことに悔しさはある。悔しさはあるが、何故か不思議と腹立たしさはなかった。あまりにも力の差がありすぎて、逆に彼らに対するリスペクトの方が強かった。他の仲間たちも同じ気持ちらしく、目を輝かせながら…目の前にたたずむ男たちを眺めている。
だがそんな中、サムエルの胸に強烈に残っているのは、さっき地に倒れているサムエルに向けて放たれたファルドの言葉だった。
「いい攻めだったな…。あともう少し鍛錬を積めば立派な戦士になる」
 ファルドはそう言って初めて笑った。その顔を前にどこかで見たような気がして、固まっていると、そこに仲間たちが集まって来て、そんな思いはすぐさま頭の中から消えてしまったが…。



 
ゾル一座との交渉も何とか終えて部屋に戻ると、ジャマールは目眩がしてきた。護衛だといっていた若者達は、リーダーのサムエルを除いておおよそ素人に等しい。その連中を旅の間にどうやって鍛えるかが問題だが、それよりもあの喧しい女たち…。

「何だかんだ言って結局彼らを引き受けることになってしまいましたね? あなたはあんなに嫌がっていたのに…」
「ファウストは最初から断る気などなかった。体よくこちらの言い分を聞くことで、自分の意志を通しただけだ」
 
 ジャマールのことをよく知っているアンドルーは、彼が何を今思っているか的確にわかっている。これからしばらく娘たち、特にラウラと一緒に旅することにジャマールが警戒感を抱いていることを知っているのだ。
「娘たちが側に寄って来ても規律を乱さないように、しっかりと部下達に伝えておいてくれ」
「はい、あなたの部隊はコンウェイ船長の部隊とは違いますから、誘惑には強いとは思いますが、オレが心配しているのはあなたのことです」
「…?」
 今日のアンドルーはいつになくはっきりとしたもの言いをする。

「あなたは女嫌いを通していらっしゃいますが、本当は至極まともな方です。ただ恋愛に疎いだけで…もっと自分の内面を解放されていいのではと思いますが、すみません。
オレ如きが言うことではありませんでした。もしボスがここにいたらそう言うのではと思ったので…」
 アンドルーは深く頭を下げるとそのまま部屋を出て行く。
今ジャマールの最もそばにいるのはアンドルーだ。彼なりに自分の役割を考えてのことだろう…。
 それだけアンドルーが副官として成長したということだ。彼を育てた上官としては喜ぶべきことだろうが、アンドルーが居なくなるとジャマールは頭を抱え込む。

( 恋愛に疎いか…確かに部下に言われる言葉じゃないな…自分でも呆れる )

 アンドルーの言葉があまりに的を得ているので怒る気にもなれない。今の自分は他の女に現を抜かしている余裕などないというのに…。ジャマールの魂はアストラットのラナ姫に縛られている。
 だが理屈ではなく、ラウラの何かが強くジャマールを惹きつけるのだ。
 ラウラに限らず、どんな女にも近づかないことだとわかっていながら…成り行きとはいえ、ゾル一座を受け入れてしまったことをジャマールは密かに後悔していた。

王都奪還 1

暗い地下道ある一角、地上からの光はまず届かない場所で…小さな松明を握り締めた数人の男たちが慎重に、大人が二人ほどやっと通れるほどの細い坑道を進んでいた。
 ここは宮殿の地下深くに掘られた秘密の通路となっていて、この通路の存在は亡くなったレファド王と一部の忠臣しか知らされていない。数百年前この宮殿を建てた歴代の王がいざという時のための脱出用に造ったものだが、今までは一度も使われたことがなかった。
13年前の政変事にはクーデターがあまりにも急激に起こったために、レファド王はこの通路を使う間もなく命を落としたのだ。

先頭を行く背の高い男が行き止まりになっているレンガ造りの壁の一部を押した。するとその壁のレンガの一つが外れてそこに鉄製の取っ手が現れる。彼はそれを掴むと力任せに押した。すると、重く何かを引きずるような音がして、目も前の古びたレンガの壁が少しづつずれて人がやっと通れるほどの隙間が出来た。
その隙間を黒装束に身を固めた男たちは無言で次々と抜けていく。彼らが入った場所は地下にある下水道の排出路になっていて、その片側から地上に向けて狭い階段が地上へと続いている。
先頭の男の合図で男たちは次々と細い階段を上って行った。男たちは目以外全身を黒装束で覆っている。明らかに何か意図を持ってこの王城へ忍び込んでいる彼らは、慎重に足音を忍ばせながら階段を登りきると、片側の壁にぽっかり空いた細い通路へと入っていく。
 どれほど進んだかわからないが、暗いトンネルの先にわずかな光が見えて、それを目印に進んでいくとやがて小さな小部屋のような空間に出た。するとそこには若い一人の娘が待っていた。

「兄さん、予定通りね?」
「ナディス、ラナ姫の様子は…?」
「今のところ落ち着いていらっしゃるわ。でもいつあの男が押しかけてくるかわからないから、毎日怯えていらっしゃるの…」
「そうか、もうしばらくの辛抱だ。今、アスタロットのジャディハ王の配下の者がこの王都に向かっている。それにバラクにも我々の仲間もいる。準備が整ったらイレーネ様やネフェル様とともに必ず助けると伝えてくれ…」
「わかったわ。兄さんも気を付けて…」
 娘は涙を浮かべて、男たちのリーダーらしき男の頬を撫でた。すると厳しい表情をした男の表情がフッと緩む。

「おまえは大丈夫か? 無理をしているのではないな?」
「ええ、この傷があるせいで誰も私に気にも留めないの。比較的自由に動けるのよ…」
 娘は寂しそうに笑って、前髪に隠された額の傷に触れた。
「すまない、ナディス、お前を守ってやれなくて…」
男はそっと娘の指先に自分の手を重ねた。
「いいの…兄さんは十分守ってくれたわ、でなければ私もお父様やお母様にのように命を落としていたはずだもの。兄さんもあの時間のない中で助けてくれた…兄さんも片目を失ってこんな傷まで…」
娘は男の左目の上から頬まで深く刻まれた傷跡を慈しむように撫でる。
「ああ…今となってはアリメドを倒すことだけが俺の生きがいになっている。そのためなら俺の命さえ惜しくはない。でもナディスお前だけは別だ。俺のただ一人の肉親であるお前をこんな危険なところへ行かせたくはなかったのに…」
「私なら大丈夫よ。兄さんも気をつけて、噂ではアリメドはかなり焦っているみたい。世継ぎが生まれないこともそうだけれど、小さな反乱があちこちで起こっていることや後ろ盾のスペインからかなり高い見返りを要求されていることが原因だとおもうわ」
「わかった、ありがとうナディス、あともう少しだ」
「ええ、待っているわ、兄さん」
 さっと妹を自分の胸に抱きしめると、後ろにいる男たちに目配せしてそのまままた引き返していく。その後ろ姿を心配そうにナディスは見つめていた。










 モンディールを離れてから1週間、点在するオアシスの小都市を経由しながら、ゾル一座を加えたキャラバンはドゥメイラの首都ドゥーラスを目指して進んでいた。
 ジャマールが当初心配していた大きな混乱もなく、ゆっくりとしたペースではあるが確実に目的地に向けて歩んでいることに内心ほっとしていた。

「キャラバンに若い女性が増えたことで、ミスターファウストは上機嫌ですね? 心なしかほかのキャラバンの連中も楽しそうです。ほんの少しですが、移動する隊列のペースが上がっている気がするのですが?」
 キャラバンの最後尾でジャマールと馬を並べているアンドルーが、愉快そうに笑っている。
 総勢が40人近くに膨らんだキャラバンの最前列にゾルの護衛隊が舞姫たちを取り囲むように進み、そのすぐ後に部下たちとファウスト一行が続いている。ジャマールとアンドルーは最後尾でその様子を伺いながら、異常事態に備えて待機していた。
 実際には舞姫たちから一番離れた場所に居たかっただけで、その事情をよくわかっているアンドルーが動いて、全体のバランスを見るために仲間との調整役を担っていた。

「今のところ、彼女たちはおとなしく我々の指示に従っているようです。一座の護衛たちを厳しく鍛えていることも一因ですが、ゾルが彼女たちに必要以上に我々に近づかないように新たな規律を設けたようです。これであなたも安心ですね?」
「面倒ごとはできるだけ避けたほうが賢明だ。我々はファウストほど楽天的になれる要素はないからな」
「ええ、ファウストは我々の本当の目的を知らないのですから、無理はありませんが、次のキャンプ地のキメラにマレー号からの連絡が来ているはずです」
 
キメラはドゥーラスの隣国バラクの手前にある都市だ。昔から宿場町として栄えた都市だが、国内の治安が乱れた今では得体のしれない連中も多いと聞いている。
 13年前に父とこの街に視察のついでに立ち寄った記憶のあるジャマールは、ほんの少し懐かしさを感じたがおそらく今のキメラにその頃の面影は全くないだろう。
 
 キメラからバラクまではほんの数マイル。ヴァンリと何度も馬を駆けさせてバラクを訪れては、母の兄であるバラク王アランドを訪ねたものだった。
 アランドは同じ王でもジャマールの父レファドとはまったく違う。レファドが生真面目で身内にも厳しい王だったのに対して、アランドは寛容で穏やかだった。
 西洋文化にも理解があって、自国の港を開いて積極的に交易の道を開いたのも彼の積極的な改革によるものだが、それをアリメドは悪用したのだ。
 スペインの軍艦を呼び寄せ長年にわたって武器を密輸しながら、クーデターを企てていたに違いない。
 クーデター後、アランドは実権を息子に譲ってどこかに幽閉されたと、内情を部下に調査させたときに聞いていた。国内でその行き先を知るものはなく、案外もう処刑されているのではといううわさがあることも…。
 アランドはレファド王の義兄であり、ドゥーラスに最も近い存在だった。アリメドからすればレファド王亡きあと、最も邪魔な存在だったに違いない。

「バラクでしばらくファウストは遺跡調査をする予定だ。その間にマレー号と連絡を取って、何とか理由をつけてしばらく彼を退避させておかなければならないな」
「その間、ファウストの守りをコンウェイ船長に押し付けるんですね?」
「大丈夫、アレックスの命令ならファウストだって従うさ。そのためにわざわざアレックスの直筆の手紙を用意させたんだ。今頃はコンウェイの手元にも届いていることだろう」
「なるほど、それならコンウェイ船長もミスターファウストも文句は言えませんね。どう見てもあの二人が合うとは思えませんので…」
 笑いながらアンドルーは前方へ馬を進めていく。その後ろ姿を追っていると、視界の中にキャラバンの最前列が右側の砂丘の尾根に従って大きくカーブを切って登っていくのが見えた。
 太陽は西に傾いていて、その姿はハッキリと見えないが、先頭を行くのはゾル一座のサムエル、少し重なるように後を行くのはラウラだろう。光の束の中に真っ直ぐ背筋を伸ばした美しいシルエットが見える。
 ほかの舞姫たちがラクダの背に乗っているのに対してラウラだけは馬に乗って移動していた。彼女だけは馬に乗れるのだという。
 座長のゾルも彼女だけには特別の扱いをしているようだ。もちろん一座の花形という面もあるのだろうが、護衛役のサムエルが片時も離れずそばにいるのも、それだけではない何か理由があるのだろう。
 ここ1週間それとなく彼らの様子を観察していてわかったことだった。それに踊り子の中にはそのことを不満に思っている者たちがいることも…。
 そしてラウラ自身、若い踊り子のリアン以外とはすこし距離を置いているらしいこともそれとないアンドルーの報告からジャマールは知っている。
 
 何となく変わった娘だ。ゾルの言葉を信じるなら、今回のドゥーラス行きはラウラの方から言い出したことらしい。若い娘がわざわざ危険なアリメドに近づこうというのだから、何か強い野心を持っているのか? 
 それにしては、暴漢から彼女たちを取り戻した後、初めて目覚めた彼女のまなざしには野心とは無縁の無垢な戸惑いを感じたのだが…。
 ただ美しいだけではないラウラの、奥深くにある素のままの姿を見てみたいと本気で思っている自分にジャマールは思わず苦笑する。
(あれほど側に寄らないと誓ったはずなのに…心はあっけなく裏切ってくれる。あきれるばかりだ…今のわたしにはそんな余裕などないはずなのに。そんなことに気を取られるくらいなら、長い間囚われている母と弟のことを考えるべきだ )


 キメラに到着した次の日、キメラで講演を組んでいるゾル一座と別れてファウストの一団はキメラ近郊にある古代遺跡の調査のために数日の予定で出かけて行った。その間にジャマールは、キメラに潜伏していた部下からアレックスからの手紙を受け取っている。
 すべては予定通りに進んでいた。ただ何も知らないファウストは初めて訪れる砂漠の中の古代遺跡に嬉々として夢中になって発掘作業にいそしんでいた。

「今夜のうちにおそらくバラク沖の…このあたりにマレー号がいかりを下ろしているはずですが…」
 砂漠のくぼみに建てられたテントの中で、中央の小さなテーブルに広げた地図の一点をアンドルーが指さす。
「アリメドの動きは?」
「どうやら小隊を集めてバラクに向けて送る準備をしているようです。おそらくはアストラットのジャディハ王の予測どおり我々を拉致するための部隊だと思われます。何も知らずにバラクに入ったところを捉えるつもりなのでしょう」
「予定通りだな? ファウストは?」
「朝からずっと男たちを使って地面を掘っています。何が楽しいのか、ずっとご機嫌ですよ」
 苦笑しながらアンドルーが答える。
「彼にとっては今最高に楽しいおもちゃを手にしたところだからな。そのおもちゃを取り上げなきゃならないこちらとしては心苦しいところだが…」
「仕方ないです。それがファウスト自身の安全のためですから、無理やりにでも聞き分けてもらわねばなりません」
「そのとおりだ。ほかの連中にすぐ動けるように準備させておけ」
「わかりました」
 
 突然の中止の判断に、きっとファウストは抵抗するだろうがこれは最初から規定路線だった。どんなにファウストが抵抗しようが、パトロンであるアレックスの命令は絶対だ。
 
 そしてその日の午後、突然の作業の中止を宣言したジャマールに珍しく食って掛かっていたファウストも、アレックスの直筆の手紙を見せられると、急にがっくりと肩を落とした。
「それでは、閣下は、安全が確保されるまではしばらく時間を置けとおっしゃるのですね?」
「そういうことです。今のドゥーラスのアリメド政権は非常に危険です。あなたを人質にして我々の主に多大な身代金を請求するつもりなのです。その情報をつかんでいたので、ひそかに探らせていたのですが、昨日こちらに部隊を差し向けてきたという報告があって、申し訳ないのですが、中止をするという決断をしました。」
「そうですか、そういうことなら我々は従うしかないですね? それで持ってきた機材はどうしますか? かなり高価なものもあって…」
「この近くに目立たない洞窟があります。取り合えず日が落ちる前にすべて移動させた後、ホークの旗船であるマレー号があなたを保護するためバラクの岸壁近くまでやってきます。安全だと確信するまで、あなた方の身柄はマレー号で預かります。よろしいですね?」
 有無を言わせない厳しい口調で告げると、諦めたようにファウストはうなずいた。

 それからのジャマールの行動は早かった。日暮れまでにすべての機材を撤収して、部下に命じて、近くの洞窟に隠すと、目立つラクダを捨てて早馬を仕立てて暗闇に紛れてバラクの岸壁に向かった。
 あらかじめ下調べが出来ているおかげで迷うことなくその地点に到達した一団は、狭い岩棚を通された一本のロープを頼りに、部下が付き添いながら次々とファウストの一団を下ろしていく。岸壁の下、わずかに入り組んでいる小さな湾に浮かんでいるマレー号からの迎えの小舟に短時間で全員を乗せると、あっという間に小舟は湾から離れていった。

 その様子を馬の背からアンドルーとともに眺めていたジャマールは、沖へと向かう小舟からチラチラと揺らされるランタンの明かりの合図を見てその場を後にした。


 

王都奪還 2


キメラで最初の公演を終えた次の日の朝、ラウラは仲間の踊り子たちの噂話から、一緒に旅してきたファウストのキャラバンが夜明けとともに近くの遺跡調査に出かけてしまったことを知る。

「えー、彼らはもう行っちゃったの!? すっごい美形ぞろいで腕も立つし、あんな人たち滅多にいないんだから、残念、狙ってたのに…」
「ダメ、ダメ。誰が誘い掛けても目も合わせてくれないんだって…。あのリーダーのファルドさまの命令で恋はご法度らしいから…」
「そうなの? もう戻ってこないのかなぁ?」
 
 踊り子たちが口々にそう噂するのを聞きながら、ラウラは誰も見ていないところで小さなため息をついた。この1週間、同じキャラバン内に居ながらファルドは明らかにラウラを避けていた。
 女嫌いのファルドからすれば、ラウラでなくても側に近づこうとする女はすべて忌むべき存在なのかもしれないけれど…。
 それでも何かの拍子に視線が交わる瞬間があったと感じたのは、ラウラの思い過ごしだったのだろうか…。 
 
 憂鬱な気分で物思いに耽っていたラウラは、すぐ近くにサムエルが来ていたことにも気づかなかった。
「どうした? ラウラ、またジャスミンたちから何か嫌がらせでも受けたのか?」
「いいえ、何でもないわ。だんだんドゥーラスが近くなって、少し緊張しているだけ。」
 いつものようにツンと澄まして答えれば、サムエルは困ったような顔をする。

「おれは今でも君がアリメドに会うことは反対だ。もし奴に君の正体が分かったら…」
「アリメドには絶対にわからないわ。そのために父はわたしを隠したのよ。それにドゥーラスの誰もわたしが誰かなんて知らないもの…。アリメドを油断させるためにわたしはアリメドの前で踊るのよ。そしてあいつの心臓に必ずこの剣を突き刺して見せるわ」
 ラウラは密かに隠し持っている小型の短剣を服の上から握りしめる。

「ラウラ…。今ファルドの率いる部隊にはジャディハ王の配下の者が同行している。それに今も、ラナたちを救出しようと動いている多くの仲間たちがいるんだ。何も君自身がそんな危険なことをしなくても…。それにもし13年前に行方不明になった王子が生きていたら…」
「いいえ、これはわたしが決めたことなの。私の運命はあの方が居なくなったときに変わったのよ。それに今のわたしは…」
 他の人を好きになってしまった…。その言葉を飲み込んでラウラは唇をかむ。そんなラウラの心をサムエルが知るわけがない。

「数日もすれば彼らはまた戻ってくる。ファルドの部隊は無敵だ。おれは彼らに手を貸してくれないか聞いてみるつもりだ」
「やめて、私たちのことに彼らを巻き込んではいけないわ。あの人たちにとって、これから私たちがしようとしていることは何の関係もないことだもの…」
 
 ラウラはそれだけ言ってサムエルのそばを離れた。ファルドを…いくら腕が立つとはいえ、自分たちが抱えている問題に巻き込みたくはなかったのだ。それに、こんな時でなければラウラはもっとファルドのことが知りたかった。
 自分がただの踊り子であったなら、他の仲間たちのようにもっと素直に自分の気持ちを伝えられたかもしれないのに…。
 


 ファウストをマレー号のコンウェイに託した後、ジャマールは部下たちを引き連れてその夜のうちにキメラ近くに戻ってきた。そして部下に命じて、ファウストのキャラバンが遺跡近くで盗賊に襲われて全滅したといううわさをわざと近郊の町に流させた。
 
 ファウストを捉えるためにこちらに向かっているアリメドの部隊を誤魔化すためだが、ジャマールたちが本来の目的を果たすためにはどうしてもそれが必要だったからだ。
 それはある意味ジャマールが本来の姿に戻るということだ。遺跡近くでわざとそれらしく機材の破片を散乱させ、襲撃現場らしく見せかけるために地面を焦がしもした。
 バラクで噂を聞いたアリメドの部隊が確かめに来ることも考えて、バラクの方角とは真逆にある廃墟と化した街の中で一夜を明かす。

「やっと邪魔者もいなくなって、我々本来の活動ができますね?」
「ああ…今頃はマレー号でコンウェイが上手くファウストの機嫌を取ってくれていることだろう…」
 その様子を思い浮かべただけで、思わず笑みが浮かぶ。コンウェイは生粋の海の男だ。真逆のファウストの熱弁にきっと今頃は舌を巻いていることだろう。

「アリメドは我々が流した噂を信じるでしょうか? 」
 ポツリとアンドルーがつぶやく。
「さあな? 疑り深い男だから、完全に信じさせることは難しいが、時間稼ぎくらいにはなるだろう…」
「そうですね、でもあなたはこの国の王子だったのでしょう? きっとあなたの本当の姿を知ったら、助けてくれる人間はいくらでもいるのではないですか?」
「そうかもしれない…。だがわたしは13年前にこの国を離れてからは一度も戻っていない。育ての親が亡くなった時、おそらくはわたしも死んだことになっているのだろう。
 今更生きているといっても誰も信じない。それに…かつての友人たちが今どうしているのか、確かめる術もない。うかつに自分の素性を明かせば、利用されるだけだろう…。ならば今のわたしにはお前たちの方がよっぽど信用できる。」
「わかりました。余計なことを言ってしまいました。お許しください」
 
 アンドルーは副官らしくサッと頭を下げる。昔から彼は人の心を読むのが上手い。だからどんな敵地に潜入しても状況に応じて上手く立ち回ることができるのだ。それは上官であるジャマールに対しても同じだった。

「すまない、アンドルーお前には心配をかけているな」
「いえ、あなたはおれにとってはボス同様、命にかけても守る大切な存在ですから…」
  ジャマールが苦笑すれば、応えるようにアンドルーも笑った。

「あと、直接関係はないのですが、アストラット王から託された二人の兵士ですが、前にゾル一座の護衛のサムエルという男と知り合いだという話はしましたよね? 彼らとはキメラで別れたのですが、その後監視につけていた者から面白い情報が届きました」

 アストラット王ジャディハから託された二人の兵士、カイルとサンの兄弟はバラクまでキャラバンと行動を共にした後、そこに待つ仲間と合流して囚われているラナ姫を救出する計画を立てていた。
 その仲間がサムエルなのだとアンドルーは言う。なんでも彼らは同じ村の出身らしい。そのサムエルはラウラの護衛も兼ねている。ならばラウラもその計画に何らかの役割があるのだろうか…?

「来月にはこの地でいうところの忌月が明けて、ラナ姫はアリメド王の後宮に入ることが決まっているといっていましたから、それを阻止して王の気を逸らせるために、ゾル一座のあの舞姫が自分を囮にして王に近づく計画なのかもしれません。」
「まさか…」
「アリメドは無類の女好きで美姫を集めているという噂です。あれほどの美貌なら間違いなく王も興味をそそられるでしょうね?」
 アンドルーはさらりと言って目の前の上官の様子を伺った。
 ジャマールは表向き上手く隠してはいるが、密かにあの舞姫に惹かれているのでは…とアンドルーは思っている。アストラット王の兵士と彼女が何らかのかかわりがあると言った時、ジャマールは一瞬、今まで見たことがないような戸惑いの表情を見せた。
 
 長年一緒にいるアンドルーは、滅多に感情を表さない冷静な上官がここぞという時に見せるわずかな感情の変化にも気づけるようになっていた。特にラウラと出会ってからはその回数が増しているような気がする。
 あのホークでさえ、レディと出会った時には驚くほどの変化を見せたのだ。きっと目の前の上官も変えあるのではないかと、アンドルーは密かに期待していた。

「明日の夜明け前にキメラに戻るぞ。ただし我々はファウストを襲った盗賊団として…いいな?」
「ええ…科学者の用心棒よりも、その方がよっぽどおれたちにふさわしい。仲間たちも喜びますよ。そしていよいよドゥーラスに乗り込むんですね?」 
「そうだ、この界隈の盗賊団の中にはアリメドに反発している連中もいる。そんな者たちを上手く隠れ蓑にして、王宮の中に入り込む」
「面白そうですね? ではさっそく準備を始めます」
「ああ、頼む」
 楽しそうに笑ってアンドルーはテントを出ていく。これから国を取り戻そうという時に、まだ鬱々としている自分に呆れているが、それでもジャマールに選択肢はない。
 もうドゥーラスは目前に迫っているのだ。優先すべきはドゥーラスの未来で、私情を挟んでいる余裕はない。 



 キメラで座を張っていたゾル一座は、街を訪れた旅の商人から2日前に砂漠の中であるキャラバンの一行が、盗賊団に襲われて全滅したという一報を聞かされて騒然となる。
 女たちはもちろん、彼らに訓練を受けてきた男たちにも衝撃が走った。
「信じられない、うそでしょう!? あんな強い人たちがやられるなんて…」
「何でも外国の勢力がはいってて、傭兵たちが多く混じってたって噂よ」

 そんな仲間たちの言葉を聞いても、ラウラはすぐには信じられなかった。
 きっと何かの間違いだわ。ファルド、あなたが負けるなんて、あり得ない…。

「サムエル、信じられないわ。彼らが盗賊にやられてしまうなんて…」
「おれもそう思う。彼らには別の何か目的がある気がしてならないんだ。それが何かはわからないが…」
 最初からファルドの一団は独特の雰囲気を持っていた。ただの護衛のために雇われた集団でないことはサムエルにもすぐわかった。
 特にリーダーのファルドが持つ見る者を圧倒するような眼差しと雰囲気…。鍛え上げられた戦士でありながら、彼だけが持つ近づきがたいオーラになぜか惹きつけられる…。
 滅多に笑わない彼がふっと瞬間見せた和らいだ表情を、どこかで見たような気がしたのだが、未だにそれがどこだったのか思い出せないでいる。

 そんな雰囲気を引きずって、その夜の公演がどこか虚ろなものとなったのは仕方がないことだった。そしてさらにゾル一座にとんでもない不運が襲い掛かる。
 その晩の賓客はキメラに住む貴族たちで占められていたけれど、その中に明らかに雰囲気の違う一団が混じっていたのだ。
 下卑た雰囲気を持つ明らかに外国の傭兵集団で、恐らくはキメラの貴族層を脅してこの席の権利を手に入れたのは明らかだった。一座の護衛を司るサムエル達にも緊張が走る。

「なんか物騒な奴らが混じっているな? まさか、あの噂の盗賊団じゃ…」
「いや、あれはドゥーラスから来た連中だ。中に見たことがある顔が混じっている。奴らの目的はなんだ? 一座がドゥーラスを訪問することはすでに伝えてある。どう見ても迎えに来たという雰囲気じゃないが…」
 仲間が戦々恐々としている中、すでにステージは始まっているのだ。この群舞のあといよいよラウラの登場になる。
 そこでハッと何かに気が付いたサムエルは、すぐ通路の陰で出番を待っているラウラを探した。

「ラウラ…!?」 
Iいつものように通路の柱の陰で、全身を黒いフード付きのローブですっぽりと全身を覆ったラウラが厳しい表情をしてじっと仲間たちの踊りを見つめていた。
 サムエルはそのラウラの片手を掴んで有無を言わせない勢いで走り出した。
「待って、サムエル! どこへ行くの? もうすぐ出番なのよ!」
 暗い通路の中を訳も分からず強い力で引っ張られながら、ラウラは叫び声をあげる。
「今は説明できない、ラウラ、今すぐ逃げるんだ! 客の中にアリメドの配下の連中が混じっている。外国の傭兵もいる。奴らは危険だ。もしかしたらファウストを襲ったのは奴らかもしれない。だとしたら、ゾルの一座がドゥーラスに何事もなく入れるとは思わない。これはおれの感だ。ラウラ、君だけは先に逃げろ。他の連中のことはおれが何とかする。」
「でも、サムエル…」
「郊外に小さな廃墟があるだろう? そこまでこの闇に紛れて行くんだ。あとでおれもすぐ追いかける。」
 そういってラウラを強引に栗毛の背に乗せると、その尻を思いっきり掌で叩く。驚いた馬は大きく嘶いて、勢いよく駆けだした。
 ラウラはそのたてがみに必死で捕まると、サムエルの名を叫ぶ。その声は深い闇に吸い込まれて行った。



 

 夜明け前…出立の準備をしていたジャマールのもとへ見張り役の部下から一報が届けられる。
「ファルド様、何かが近づいてきます」
「ン…?」
 ジャマールが部下の指し示す方向を見れば暗闇の中、確かに何かの物音がする。耳を澄ませば、微かにこちらに近づいてくる馬のひずめの音がする。
 
 この廃墟は今から数百年前に栄えた都の城壁跡だ。ジャマールの記憶では、以前この地を訪れた時にはまだ辛うじて、四方を囲む城壁の形が残っていたのだが、今では高さは数メートルしかなく、それも数か所は完全に崩れていた。
 しかしこの廃墟のすごいところは、地上ではなく地下にあるのだ。ある場所に隠された地下への扉を開けると、その下には広大な空間があって、地下水を通したオアシスもあるのだ。いまではその事実を知るものは旧王家の人間だけだった。ゆえにジャマールはドゥーラス近くの拠点として真っ先にここを選んだのだが…。

 明るくなり始めた地平線をにらみながら、じっと音のする方角に目を凝らすと…栗毛の馬が一頭、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。
 乗り手といえばぐったりとした様子で、馬の背に上体を預けながら、どうやら意識を失っているらしい。無意識でもその鬣をしっかりと握っていたせいで、何とか落下せずにここまでたどり着いたのだろう。
「 …? 」

 乗り手が身に着けている長い真っ黒いローブの肩先から零れ落ちる一筋の銀糸の束を見た時、ジャマールは無意識で駆け寄っていた。
「ラウラ…?」

 馬が彼の前で立ち止まると、力ない乗り手の体は大きく傾いてそれを見たジャマールが慌てて駆け寄ってその体を抱きとめる。胸に抱きよせてその顔を覗き込むと、意識をなくしたラウラの頬は青白く、黒いローブの下にはステージ衣装を着たままなのに気づく。

「キメラで何かあったのでしょうか? 彼女一人がここにたどり着いたということは、護衛のサムエルは一緒ではなのですか?」
 そばにやってきたアンドルーが馬の世話を部下に命じてから、ジャマールの腕に抱かれているラウラを見つめた。

「どうします…? 3日後に北部に住むアシュタット族を訪ねるためには、今日中に出立しなければなりませんが…?」
 アンドルーのいうとおりだ。予定ではこの夜明けにここを離れて、数10キロ離れた山岳地帯に住む少数部族のアシュタット族を訪ねる予定だった。アンドルーには、彼らはアリメド政権に敵対する盗賊集団だと説明したが、実際には全然違う。
 アシュタット族は少数民族ながら、その起源はこのドゥメイラの建国と大きく関わっているのだ。それゆえ父レファドも、シュタット族のリーダーマリルとは長く親交があり、その独特な文化をとても尊重していた。
 それがあの政変以来両国の関係は大きく変化していた。マリルはレファドを殺して王位を奪ったアリメドを深く嫌い、一族を率いて都から遠く離れた山脈地帯に身を潜めると、近くを通るアリメドの域のかかった商人のキャラバンを襲っていたのだ。

「アンドルー、お前に頼みがある。一足先に仲間を連れてアシュタット族の住む北部に向かってくれないか?」
 ラウラを抱いたまま、ジャマールは立ち上がった。すると部下の一人がラウラの乗ってきた馬の田頭手綱を引いていく。

「あなたはどうされるのです?」
 ラウラを地下にある隠し部屋に運んだところで、一緒に付いてきたアンドルーが口を開いた。
「このままここに彼女だけ残していけない。きっとキメラで何かあったのだろう…」
「それはわかりますが、我々だけで行って、アシュタット族がその話を信じるでしょうか?」
 アンドルーのいうことは最もだった。アンドルーをはじめ部下のほとんどは外国人だ。信じろという方が無理な話だ。相手は間違いなく疑いの目をむけてくるに違いない。ジャマールが居てこそ通じる話なのだが…」

少し考えて、ジャマールは懐から羊皮紙(子羊の皮をなめして作られた紙のようなもの)を取り出して。何やら書き始めた。その文字の内容はアンドルーにもわからなかった。

「見慣れない文字ですね? なんと書かれているのですか?」
「これはドゥメイラに伝わる古代文字だ。今この文字を理解できるのは、ドゥーラスの王家とアシュタット族だけだ」
「それではこの手紙をアシュタット族に渡せば、あなたの存在を証明できるというのですね?」
「そういうことだ。 キメラの状況も気になる。ラウラの意識が戻れば何かわかると思うが、アシュタット族との対面も遅らせたくない。ラウラが回復したらすぐ後を追う。お前は先に行って私を待ってほしい」
「わかりました。ロランをキメラに向かわせます。元々商人として潜伏させていたのですから、疑われずに情報収集できるでしょう」
「ああ、頼む…」

 それから1時間も経たないうちに、アンドルーは他の仲間たちを連れて廃墟を後にした。別れ際にアンドルーはジャマールの耳元で他の部下に聞こえないように小声でささやく。
(どうか自分の心に正直になってください…)
 キメラに向かうロランを見送れば、廃墟にはジャマールとラウラの二人きりになった。アンドルーはジャマールがラウラに惹かれていることを知っているのだ。知っていて自分の心を抑えるなと言っているのだろう。なんともおせっかいな部下だが、正直なところ自分でも驚いていた。
 ぐったりとした彼女を見た時にはひどく慌ててしまっていた。生きているとわかった時にはほっとしたが、何がそんなに自分を動揺させるのか、わかっていなかった。
 だが結局ジャマールがとった行動は、ラウラと一緒にいることだった。

 しばらくジャマールたちの隠れ家としていた地下ホールの、一角にある小さなスペースに作られた簡易ベッドにラウラを寝かせると、彼女の全身を覆っていたロウブを脱がせて、彼女の身体にかけた。その際にジャマールは出来るだけ彼女の身体を見ないようにしていた。意識すればするほど、自分の中にめばえた馴染みのない衝動に飲み込まれそうな気がしたのだ。

( 私はこの娘に惹かれている。)

 美しいだけの女なら今まではいて捨てるほど見てきた。彼女たちは自分の美しさを十分に判っていて、それを武器に少しでも高く自分を売り込むために最大限それを利用する。計り知れない権力と富を持ち、それと同じくらい稀有な美貌を持つ主人に10年以上関わってきたのだ。
 けれど、ラウラはそんな女たちとは全く違う。国中に知れた評判の舞姫でありながら、ステージ以外では逆にそれを隠そうとする。不思議な女だ。



 ラウラはずっと夢を見ていた。自分は幼い子供になっていて、必死に誰かの胸に縋りついたままずっと泣いていた。泣きながら自分の身体が大きく揺れているのは、ラウラが誰かにしっかりと抱かれながら全速力で走る馬の背に居るのだとわかっていた。
「姫、必ずあなたをお守りします。しっかり捕まっていてください!」
 ラウラを抱いている誰かわからない男はそう叫んだ。
(怖い! お父様、お母様…! 助けて…!)

 これは夢だとわかっているのに、全身を襲う恐怖から逃れようと真っ暗闇の中で必死にラウラはあがいていた。
そして不意に別れ際の必死な形相のサムエルの顔が浮かんでくる。
ああ、サムエル…!
 今夜サムエルはラウラを強引に馬の背に乗せると、有無を言わせない勢いで暗闇の中に彼女を送り出した。幼いころ誰かに抱かれながら必死に逃れた記憶は、恐怖とともに何度でもラウラの脳裏によみがえってくる。
そして一晩中走り続けたラウラは疲れ果てて…それでも必死で馬の背にしがみつきながら何とかサムエルと約束した廃墟にたどり着いたと思ったその時…目の前にたたずむ男たちの姿を見つけて、絶望に思わず気が遠くなった。
彼らに捕まれば殺されるか、恐らく死ぬよりもつらい目に遭わされる。

(ごめんなさい、サムエル…。せっかく逃してくれたのに、わたしは… )

ただ…ふらりと体が傾いだ瞬間、誰かの胸に抱き留められて…霞む視界の中で、ファルドの顔を見たような気がした。

(ファルド、さま…? これは夢だわ…)
 心地よいぬくもりに包まれた安堵感で、ライラはついに意識を手放した。

王都奪還 3

王城の北の端…ひっそりと建つ高い塔の一室、亡国の第二王子ネフェルは悔しさに唇をかみしめた。
( もし自分がこんな盲目の姿ではなく、もっと強い男であったなら、ラナをあんな卑劣な男のもとへ行かせたりしないのに…。)

今朝早く側にやってきた世話役のアステアによって、来月にもラナ姫がアリメドの側妃になることが決まったという知らせがもたらされた。

「ネフェル…」
 ネフェルのラナに対する気持ちを知っているイレーネは、辛そうにその背中を見つめて顔を伏せた。
 ラナの許嫁だった第一王子であるネフェルの兄、ジャマールはもういない。その中で今までつらい環境の中、一緒に過ごすうちにお互いかけがえのない存在になり得たのは必然だったのかもしれない…。
それなのに運命は再び二人に非情な試練を与えようとしている。イレーネの実兄であり、隣国バラクの王であったアランドが生きていてくれたら…彼女は何度そう思ったことだろう。だが、実際にはあの政変直後、アランドは突如腹違いの弟に王位を譲ると、そのまま行方不明となってしまった。噂では密かにアランはアリメドに消されたのだとまことしやかにささやかれたが、真実は知れなかった。
この13年の間にも小さな反乱は幾度も起こり、その度に制圧されてきたが、次第に国は荒れて民衆は苦しむばかりだった。実は数日前アステアを通して、ある勢力が反乱を企てていると知らされていたけれど、内心成功するとは思っていない。
 そしてアリメドはこの数年さらに猜疑心を募らせ、自分の腹心でさえ信用していないという。そんな状態でまた失敗すれば、また民衆は苦渋をなめることになるのではないだろうか?

「 ネフェル、もう少し我慢をして…あなたさえ無事ならばいつかきっと…!」
「いいえ、母上、アリメドは狡猾な男です。ラナを手に入れ、そのうえで跡継ぎの男子が生まれれば、もうわたしを生かしておく理由はないのです」
「ネフェル、あなたは…」
「母上、わたしはいつでも覚悟はできています。でも悔しいのです。ラナは今のこのドゥーラスとは何の関係もない。兄上のいない今、彼女には別の幸せがあったはずなのに、あんな男に汚されるなんて…」
ネフェルの瞳は涙で潤んでいた。





「アリメド様、バラク方面に差し向けた軍隊ですが、キメラでゾルという舞踊一座を捉えたと報告がありましたが、どうします?」
宮殿の奥にあるアリメド専用の広いマーム(浴室)の中で、半裸の3人の美女に奉仕させながら、悠然と杯を傾けていた。
「ふん、せっかく西洋の犬を捕らえて、儲けてやろうと思っていたのに、とんだ邪魔が入ったものだ」
「彼らを襲った連中のその後の痕跡はどこにもみられませんでした。上手くどこかに潜り込んでいるものと思われますが…」
「まあ、いい。どうせ物盗りの類だ。放っておけ。それよりゾル一座には銀の舞姫がいただろう? 他の連中は要らない。その女だけを連れてこい」
「御意…」
 側近であるザビクはビクビクしながら目の前の主の顔を伺っていた。このところ主は機嫌が悪い。以前から協力体制にあったスペイン海軍との交渉が上手くいっていないのと、身代金を稼ごうとバラクへ送った部隊が、空振りに終わったことが主な原因だったが、その上に銀の舞姫を逃したと知ったら、怒りのあまりどんな報復を受けるかわからない。
 額から滝のような汗を流しながら、薄絹で仕切られた主の姿に深々と頭を下げると、ザビクはそそくさと王の元を辞した。

「ザビクさま、アリメド王は何と?」
 王の前を辞するとすぐに、側近のマラクが寄ってきた。王の機嫌次第で、自分たちの首が飛ぶことをよくわかっているのだ。
「ゾル一座の銀の舞姫を探すのだ。もし見つからなければ、別の女を上手く仕立てて連れてこい。いいな?」
「わかりました」
 これ以上の失敗は許されない…。脂汗が引っ切り無しに額から伝って落ちる。ザビクはいよいよ自分が逃れようのない袋小路に入り込んだことを感じていた。


アリメド王は無類の女好きで、毛色の変わった女はなおさらだった。今のハーレムの中にも西の国からわざわざ連れてきた女も何人もいる。
 今まで芸術的なことに一切興味を持たなかった王が数か月前、外国から来たゾル一座がドゥーラスで公演を行いたいという申し出があった時、即座に許可を出したことに驚いたが、まさか狙いが銀の舞姫だったとは…。
外国の傭兵を含む今の軍隊を擁している最強の王に唯一弱点があるとしたらそこだろう。しかし、その舞姫が見つからなかった時にはどうしたものか…。
神経質そうな尖った顎のラインをさすりながら、ザビクは小さくうなった。





「サムエル、気が付いたか?」
 誰かの声にゆり起こされるようにして、サムエルは重たい瞼を開けた。昨夜は公演の最中、不穏な連中を客席に見つけてすぐ行動を起こした。
まずは誰よりも先に守るべきラウラを暗闇に紛れて逃した後、仲間たちを集めて控えている女たちを何とか何処かに隠そうとした矢先、客席に紛れ込んでいた連中がサムエル達より先に動き出したのだ。
 踊り子たちが舞っているステージにどっと乗り込んできたと思ったら、あたりは女たちの叫び声で騒然となった。客席にいた貴族階級の連中が異変を感じて、我さきへと出口に殺到すれば、その場は一瞬で修羅場と化す。

連中は逃げ惑う踊り子たちを嬉々として追いかけ、捕まえると怯える彼女たちを一か所に集めて、奴隷のようにその手足を拘束する。
サムエルはその様子を見て、怒りに任せて彼らに切り込んだが、戦いなれた傭兵たちにかなうはずもない。
他の仲間同様すぐに倒されて何度かひどく殴られるうちに気を失ったのだろう。それからの記憶がない…。

”おれは死んだんじゃないのか…?”
重たい瞼をやっとのことで開いて瞬きすれば、おぼろげな視界の中に見知った顔を見た。

「サン…? 」
「ああ、俺だ。それにカイルもいる。危ないところだったな、あのまま抵抗していれば奴らに殺されていた」
「他の仲間はどうした?」
「ゾルを含めて皆捕まった。サムエルお前だけは何とか助けられたが…。それだけで精一杯だった。ラウラは逃したのだろう?」
 サムの問いかけにサムエルは黙ってうなずく。カイルとサンはサムエルがラウラを護る理由を知っている。

「それで彼女はどこへ…? 」
「ここから50キロ離れた廃墟跡に行くように言った。おれもすぐ追いかけなければ…」
ラウラにはすぐ後を追いかけると言ったのだ。きっと今頃は不安な気持ちでサムエルの来るのを待っていることだろう。
横たわっている場所から起き上がろうとして、片手を動かしたところで、サムエルは自分の身体が全く動かないことに気が付く。
「くっ…!」
「サムエル、お前のあばらは折れているんだ。今は動かさない方がいい…。それにあの連中はアリメドの傭兵だろう? おそらく最初の目的はファウストのキャラバンを捕らえることだったはずだ。だがファルドのグループは早くからそれを知っていた。」
「なぜだ、それでは盗賊に襲われて全滅したというのは…?」
 全身を襲う痛みに顔を歪めながら、カイルに手伝ってもらってサムエルはゆっくりと上体を起こす。

「恐らく嘘だ…。彼らがそんなに簡単にやられるわけがない。我々も彼らと同行する前に、一応彼らのことは調べてみたんだ。彼らの主は英国でも1,2を誇る大貴族で世界中に名の知れた富豪らしい。”ホーク”と呼ばれていて、個人で一国の海軍に匹敵するほどの軍船と傭兵を持っているという噂だった。その主がファウストの支援者の一人で、そのために彼らは護衛としてやってきたと言っていたが、おれは彼らは何か別の目的があるんじゃないかって思っている」
「別の目的とはなんだ?」
  サムエルはじっとサンの言葉に聞き入った。

「それはわからないが…おそらく彼らはただの護衛ではない。部下の一人に近づいて何か情報を聞き出そうとしてもみな口が堅い。ただリーダーのファルドがドゥメイラ人ということは間違いなさそうだが、どこの生まれなのかはわからなかったな。」
「わかった。彼らが生きているのなら、どのあたりに潜伏していると思う…?」
「一番近いところで隠れるとしたら、やはりあの廃墟あたりだが…? もしかすると上手くいけば彼らと遭遇するかもしれない…」
「まさか、そんなことが…」

 ラウラは前に一度ファルドに救われている。出会えさえすれば、きっとファルドはラウラを見捨てたりしないだろう…。
 それは分かっているのに…サムエルはどうしようもない胸の痛みに心の中でうめいた。サムエルがどんなにラウラを想っていても、その想いが彼女に届くことはない。サムエルはあくまでもラウラに寄り添う陰でしかないのだ。

「心配するな、サムエル。今、バラクの近郊に潜伏している我々の仲間に連絡を取っている。彼らがきっとラウラを見つけてくれる。お前は早くけがを治せ。あと連中に捕まっているゾルの一座だが、奴らの目的はラウラだ。アリメドは銀の舞姫を連れてこいと連中に命じていたらしい。だから、他の舞姫たちはそのまま奴隷商人たちに引き渡された。座長のゾルだけは不要だとして殺されかけたのを寸でのところで仲間が助けた。ほんの少しけがをしているが、命に別状はない…」
 そう言った仲間の言葉にホッと胸をなでおろしたサムエルだが、仲間として一緒に旅をしてきた仲間が奴隷として扱われることにも怒りが込み上げてきた。

「何で…!」
 大きく叫びかけてまた苦痛にその顔が大きく歪む。
「だから、今はお前は動くなって! 奴らはバラクの港から彼らを自国に運ぶつもりだが、それも任せろ。そんなことはさせやしないから、おれたちの仲間は強いんだ」
 サンはまた得意げに言って笑う。けがを負って動けないサムエルはただただ黙ってうなずくしかなかった。

王都奪還 4


ラウラがジャマールの元へやってきてから丸一日が過ぎようとしていた。彼女はどこもけがはしていないはずで、単なる疲労とショックからなのか時々何かにうなされるように苦し気な表情をみせるものの…決して目を開けることはなかった。

 それをじっと枕もとで見つめながら、ジャマールは複雑な想いを抱いていた。

”わたしは何をしているんだ…? 彼女の面倒は誰かに任せるべきだとわかっているにに、それができないなんて…。この娘の何がこれほど私を引き付けるのか…? ”

 自分でも理解しがたい想いに誘われるように、横たわるラウラの銀色の髪を一束手に取った。
 彼女は煌びやかな舞姫の衣装をまとったままで、着替えさせてやりたいものの…その素肌に直接触れることはひどくためらわれた。こうして髪に触れているだけで、ジャマールの中で眠っていた男の部分が激しく反応しているのだ。直接肌に触れてその匂いを嗅げばどうなるか、自分でも解らない…。
 冷たい泉にでも入ってこの熱を冷まさなければ、とてもまともな状態で彼女に接することはできないだろう…。

 そう思ったジャマールは、すっと立ち上がってラウラの元を離れると振り返りもせずに部屋を後にした。



 ラウラは一つ大きく息をして、目を開けた。何かずっと長い間夢を見ていたような気がする…。幼いころ、国全体がお祭り騒ぎで浮かれる中、年に数回許されていた両親の元に帰った時、サムエルと一緒に街に繰り出したことがあった。
 大きな人垣の向こう側で、人々の熱狂するような声と歓声に惹かれるように、わずか3歳だったラウラは、サムエルの制止も聞かずフラフラと集まっている人々の足元を縫うようにして、気が付けば町の大通りを進む馬の隊列の前に飛び出していた。

「 危ない…! 」
 そう叫ぶ誰かの声にハッとして顔を上げると、見上げるような大きな黒い馬が目前に迫っていた。
 踏まれる…! そう思った瞬間に後ろからサムエルに思いっきり引っ張られるようにしてしりもちをつく。驚いたラウラが大声で泣き出した瞬間、目の前の馬の背から誰かがひらりと飛び降りた。

「危なかったな、何事もなくてよかった。 兄なら妹の手をしっかりつかんで離すなよ!」
 そう言って笑いながら、泣いているラウラの頭を優しくポン!と触れて、その少年はまた大きな黒馬の背にまたがると、何事もなかったように行列へと戻っていく。
 さっきまで激しく泣きじゃくっていたラウラはその少年の笑顔の美しさとその凛々しさに思わず見とれてしまっていた。
 群衆の中の誰かが口々に、”王子だ…王子がいらっしゃった…!” そう叫んでいるのをラウラはどこか遠くで聞いていた。

” あれは誰…? ” 
 幼いながら、その少年の神々しいまでの美しさが、ラウラの心にしっかりと刻み込まれた。大人になるまで、その思い出はすっかり忘れ去られていたけれど…。


 ハッとして目覚めたラウラは、目を開けて今自分がいる場所がどこなのか、キョロキョロと見まわした。
 サムエルによって馬に乗せられて、夜の砂漠へと送り出されたあと、一晩中走り続けた後で、やっと目的地にたどり着いたとき、そこにいた黒ずくめの男たちの姿を目に留めたt瞬間…。
( もう助からない…! )
 そう思ったラウラの意識は遠のいていった。


" わたしはあの男たちに捕らわれたの…? それにしてはこの部屋は…? ”

 比較的広い石造りの壁に囲まれた部屋には、調度品は最低限の質素なものだったが、ラウラの横たわっていたベッドはとても柔らかく寝心地のいいものだったし、ベッドの四方を取り囲むように張られた薄絹は上品で、決して囚人が収容されるような部屋ではなかった。

ゆっくりと起き上がってベッドに腰かける。そして自分の今身に着けている衣装を見下ろして、踊り子の衣装のままであることに思わず苦笑する。
 胸のふくらみを申し訳程度にしか隠していないそれは、ひどく扇情的でステージの上では勇気をもらえたその恰好が、ここではひどく場違いに感じられる。

( なんてこと…! )
あの状況ではしかたなかったとはいえ、この部屋の中では、自分が何か下品な女の一人に思えてため息が漏れた。
 もしここがあの男たちの根城になっていたのだとしたら、この先ラウラの運命は悲惨なものになる。
そう思った瞬間、ブルっと体の奥からの震えが沸き上がってきた。

( とにかくここからでなければ… )
 そう思ったラウラはフラフラと立ち上がって、部屋の入り口になっているドアに手をかける。鍵が掛かっていると思っていたのに、ドアは簡単に開いて思わず拍子抜けする。
部屋の外には広い通路があって、そこも部屋同様石造りの壁になっている。まるで長いトンネルのような回廊になっていて、不思議に高い天井から漏れる光によって、ほのかではあるが足元は明るく照らし出されていた。

しばらく歩いていくと、また小さな扉があり…それを開けると、目の前には大きな泉が目に飛び込んできた。正面の絶壁のような高い壁からは幾筋もの銀色の糸が、滝のように泉の中に降り注いでいた。
ラウラの目の前に広がっていたのは巨大な水の壁で、高い天井の…ぽっかり空いたその中心には大きな満月が輝いていた。そしてさらにラウラを驚かせたのは、その泉の中心に立っていた一人の男の姿だった。

( あなたは…!? )

彼は降り注ぐ銀色の水しぶきを全身に浴びながら、ラウラに背を向けて立っていた。腰から下は泉の中に隠されていたが、上半身はまるでギリシャの彫像のように美しかった。
 鍛え上げられた鋼のような筋肉に覆われていて…褐色の肌は月光に照らされて光り輝いていた。
いつもきっちりと巻かれていたターバンの中に隠されていた黒髪は、濡れて雫を滴らせ背中の中央付近で揺れている。その美しさに思わずラウラは、呼吸をするのも忘れて見入っていた。
そして何よりもラウラの視線を惹きつけたのは、引き締まった彼の褐色の肌に走る無数の白い傷跡だった。無傷な場所を見つけることが難しいほど、それは彼の背中に縦横無尽に走っていた。
それはファルドの…今まで一度も見せたことのない無防備な姿でもある。


ジャマールは、ラウラを自分のそばに留め置くと決めた時から、絶えず身の内に沸き上がる体の熱を冷まそうと、この泉にやってきたのだが…まさかそこにラウラ本人が姿を現すことは想像もしていなかった。
誰もいないと思って無防備な姿で冷たい水に打たれながら…じっと体の熱が去るのを待っていたはずなのに…。

「ラウラ…?」
 
 彼女も驚いたようにじっとこちらを見つめている。ジャマールたちはこの近くで盗賊に襲われて全滅したという噂を流したのだ。彼女もきっとそれを聞いたに違いない。
 まるで亡霊でも見るような眼差しでジャマールを見ている。もっともなことだが…。

「ラウラ…目が覚めたんだな…? 」
 ジャマールはゆっくりとラウラの方へと振り向いた。
「ファルド…? 本当にあなたなの…?」
「そうだ。なぜ生きているとでも言いたげな眼差しだな…? まずは説明が必要だろうが…。君がそこに立っている限り、わたしはここを動けないのだが…それでも良ければそちらに行って、説明しようか?」
 ジャマールはゆっくりとラウラに向かって近づいてくる。彼が裸であることと…彼が泉に入る前に着ていた衣がラウラの足元にあるのを知って、ラウラは真っ赤になって口ごもる。
「きゃっ…! ごめんなさい…!」
 ラウラは小さく叫んで慌てて後ろに下がると、ジャマールに背を向けた。

 それを見て苦笑しながら、ジャマールは手早く服を身に着ける。

「すまなかった。もういいぞ」
 背を向けて恥ずかしそうにうつむいているラウラに声をかけると、彼女はゆっくりとジャマールの方を振り返った。その表情には戸惑いと乙女らしい恥じらいが浮かんでいた。

「ファルド…? なぜここに…? 盗賊に襲われて全滅したというのは嘘なのね?」
「そうだ。あれは我々が自由になるためにわざと嘘の情報を流させた。ファウストは生きているし、最初から盗賊など存在しない」
 ゆったりと構えながら、ジャマールは目の前のラウラの反応を見る。それほど動揺はしていないように見えるものの、彼女からすればジャマールたちの行動は理解しがたいものだろう。

「だがそれを説明する前に、君も着替えてさっぱりしたいのでは…? この泉を利用すればいい。まあ、残念ながらここには女性の衣装はないから、しばらく我慢してもらわなければならないが…?」
「かまわないわ…」
 ラウラは素っ気なくそうつぶやくと、両手で自分の身体を抱きしめた。この衣装を脱げるなら、恰好などどうでもよいのだ。ただ、ここにいる女がラウラだけ…という状況は彼女を何とも心許ない想いにさせる。
 それを察したジャマールは何事もないようにつぶやいた。

「心配しなくてもいい…。ここに居るのはきみと私だけだ」
「あなたの部下たちはどうしたの?」
「ああ…先に移動させた。彼らは優秀だから、直接側で指示を与える必要はないんだ…」
「そ…そう…」
 君のために自分だけ残ったのだ。そう言われた気がしてラウラの心は騒めく。

”まさか…? ファルドもわたしのことを少しは気にかけてくれているのだろうか?”

 無駄な期待は持たないようにしよう。そう心に決めてラウラは真っすぐファルドに向き直った。
「ありがとう。今はあなたの好意に甘えさせていただきます」
「ああ…。すぐに着替えと簡単な食事を用意する。一度部屋に戻って待っていてほしい」
 そういってファルドが姿を消すと、ラウラは一気に緊張が解けて思わずその場に座り込んだ。
 厳しい指揮官としての顔しか知らなかったファルドが、あれほど魅力的な男性だったなんて…。仲間の踊り子たちがどんなに誉めそやそうと、ラウラには何か恐れのようなものがあって、素直に信じることができなかった。
 それが…泉で見た彼はとても無防備で…美しかった。自分でも必要以上に意識しているのが分かって動揺する。
 
しばらく待って気持ちが落ち着けてから、ラウラが部屋に戻ると、ファルドが約束した通り、男物の白い服が一式ベッドの上に置かれていた。ファルドのというよりは、ラウラに合わせて少し小柄の誰かの物なのだろう。
 ラウラはそれを持って、先ほどファルドが居た泉へと向かう。周りに誰もいないのを確かめて、踊り子の衣装を脱いで、冷たい泉に足をつけた。

”あ…冷たい…! ”

 泉の水はびっくりするほど冷たく、一瞬でさっきまで火照っていたラウラの身体から熱を奪っていく…。同時に清らかな水が、ここ数日のラウラのまとっていた穢れや煩わしさをすべて洗い流していくような気がして気持ちよかった。

 頭の先からつま先までしっかり泉の水で流したラウラは、濡れた髪を固く絞って大きく三つ編みにして頭の上にまとめた。
 大きなリネンで体を拭いて用意された服に袖を通す。白い男性用のカフタンは清潔な綿で出来ていて、よく干した干し草の匂いがした。
 ファルドの用意してくれた服はそれでも全体的に大きくて、袖を大きくまくったあと、長めのズボンをラウラは衣装に着けられたリボンを解いてひざ下の位置で上から巻くと、
余った部分を引き上げて垂らせば、女性が着る     っぽく見えなくもない。

 自分なりには上出来だと思う。今の自分に満足して、近くにある小さな姿見をながめてうなずけば、不意にドアがノックされて片手にトレイを持ったファルドが入ってきた。

 「どうやら着替えも終わったようだな? 食事を持ってきた。君は昨日の明け方ここに着いてから、ずっと眠っていたんだ。ここには備蓄用の食糧しかないから、たいしたもてなしは出来ないが、空腹を満たすには十分なものはある」
 
ファルドはそう言って近くのテーブルに持ってきた食糧を並べた。ヨーロッパの焼き菓子に似た乾パン、ドライフルーツと保存用のチーズだった。
 ファルドは自分もテーブルの向かいに腰を下ろすと、乾パンをひとかけら取ってラウラに差し出した。アラブで標準的に食される、平焼きにしたパンを乾燥させた乾パンと違って、それは噛むとサクッとした歯ごたえがあってバターの香ばしさと、さわやかな甘さが広がる、食べたことのない味だった。
「おいしい…」
 一口たべて思わずライラはつぶやく。それを見て思わずジャマールにも笑みがこぼれる。
 
「これはヨーロッパのバターを使った焼き菓子の一部だ。日持ちがするので向こうでは兵隊の保存食として重用されている」
 そう言いながらファルドがカップにボトルのワインを注いでラウラの前に置き、自分のグラスにも注いで口をつける。その一連の動きを無意識で目で追っていたラウラは、ほっとして小さなため息をついた。

「 サムエルはどうした? 君の護衛としてずっとそばにいたはずではなかったのか…?」
「サムエルが私を逃がしてくれたのよ。あの廃墟跡で待ち合わせをしていたの! もしかしたらもうここに来ていて、わたしを探しているかもしれないわ…」
 不意に思い出してラウラが慌てて立ちああ上がる。だがファルドが放った次のひとことで、またその場にすとんと腰を下ろした。

「残念ながら…君がここに着いてからもう2日近く過ぎたが、それらしき者は誰一人来ていない。今我々が居るのはその廃墟の真下にある地下空洞だ。サムエルに関わらず、侵入者があればすぐにわかる」
「あなたはどうしてこんな場所があるのを知っていたの?」
「ずいぶん前に友人と探索中に見つけた。表の建物とは別に昔ここには巨大な地下宮殿があったんだ。今我々が居るのはその一部に過ぎない。他の大部分は長年の砂の堆積物などで埋まってしまったが、あの泉といくつかの空洞だけは今もそのまま残っている。」
「そう…でもあなた方の本当の目的は何? 存在を消してまでもしたかったことって何なの?」
 ラウラはそこで核心ともいうべき質問をジャマールにしてきた。”ファルド”と名乗り、自らの名前を偽ってでも成し遂げたいこと。それのすべてをラウラに語るには、まだ彼女のことをもっと知る必要がある。

「それを語る前に、こちらからも聞きたいことがある。君とサムエルがアリメドに近づく理由は何だ? 」
 出された食事のおいしさについ夢中になっていたラウラは、その言葉に思わず手を止める。目を上げてファルドを見れば、じっとこちらを見つめる黒い瞳と視線がぶつかる。

”今更隠す理由などないでしょう…?”
 そう自分に言い聞かせてラウラは、口を開いた。

「アリメドを油断させるため…そう言えば納得する? わたしは…わたしとサムエルは、あの男に囚われている友達を助けたいの。」
「囚われている…?」
 とっさにジャマールは頭を巡らせる。

”友達とは男だろうか…?”

「彼女とは生まれた時から一緒に育ったの。7歳までは…」
 そう言ってラウラは言葉を詰まらせる。ジャマールはラウラの”彼女”という言葉に安堵している自分に呆れながら、次に出てきたその名前を聞いて愕然とした。もちろん、表情には一切出さないが…。

「アスタロットのラナ姫は幼馴染よ。彼女とは同じ神殿で双子のようにして育ったの。とても仲が良かったわ…。一緒に遊んで、一緒に眠って…。7歳になって彼女はひとり故郷を離れていった…」

 その先は言われなくてもわかっている。アスタロットのラナ姫はジャマールの花嫁になるべく、ドゥーラスに向けて出立したのだ。

”なんていうことだ…。ラウラがラナの幼馴染だったとは…。”
その事実はジャマールの心に重い鉛のようにずっしりとのしかかってくる。

「それで君たちはラナ姫の後宮入りを阻止するために、わざと銀の舞姫の噂を立てて、アリメドの気を引こうとしたのか?」
「ええ…あなたの言うとおりよ。でもアリメドが私だけを捕らえるためにこんなに早くやってくるなんて…」
「あの男は狭量な男だ。大人しくドゥーラスで君たちゾル一座がやって来るのを待つ余裕など持ち合わせていない。他の者を切り捨てても欲しいものだけを手に入れようとするだろう…」
 狡猾な男の顔を思い出して、ジャマールは吐き捨てるように言った。

「そうかもしれない…わたしは自分の目的のために、罪のない人たちの命まで危険にさらしてしまったのね…」
 自分を守るために命をかけてくれているサムエルや何も知らないリアンまで危険に巻き込んでしまったのだ。自分ひとり助かっても仕方がない。後悔しても仕切れない想いに、ラウラはそのまま俯いて涙ぐむ。
実はさっきラウラの部屋に来る前に、急いでキメラに事実を調べに行っていた部下から大方の状況は聞いていたのだ。客に紛れていたアリメド軍に公演を滅茶苦茶にされた上に、踊り子たちのほとんどが捕らえられ、奴隷商人に引き渡されたと部下は淡々と報告した。
 護衛の若者たちやゾル自身もけがを負ったが、密かに助け出されて命に別状はないとも言っていた。水面下ではあるが、アストラットから来た二人を含めて思った以上に味方は居るのではないかとジャマールは思っている。


「ラウラ、君に伝えなければならないことがある。少し前にキメラに調査に送った部下が戻ってきた。彼の報告では、君の仲間たちはケガををしているが無事のようだ。連中はきみだけを連れて来るように命令されていた。どうやら連中は隣国の奴隷商人と結託して他の娘たちは奴隷として拘束して国外に連れて行く計画だったと思われる」
「それじゃあ、リアンたちは…!?」
 ラウラは思わず顔を上げて叫び声をあげる。
「ああ…だが心配しなくていい。部下はアスタロットの二人ともコンタクトが取れたと言っていた。彼らはケガを負ったサムエルを助けて、奴隷として連れ去られた娘たちを港から運ばれる前に取り戻す計画を立てているらしい…」

 ジャマールの言葉を息をつめて聞いていたラウラは、サムエルの無事と仲間たちがいずれ取り戻される予定だと聞いてホッとして息を吐いた。
「サムエル、あなたが生きていてよかった…!」
  そうつぶやくラウラの言葉を聞いて、なぜかジャマールの心はチクリと痛む。
「そういうことだ。とりあえず、彼らの無事はわかった。安心して自分の体力を取り戻すことに専念してほしい」
「わかったわ。でも…あなたは…あなたは何の目的でここに居るの? 」
 
 当然聞かれるとわかっていながら、ジャマールはどうこたえるべきかその言葉に迷った。
「ある意味、目的はきみと同じかもしれない。わたしは13年前、あの政変ですべてを失った。父は殺され家族も散り散りになって、一族は崩壊した。今なお同族は苦しんでいるだろう。あの男を王座から引きずり降ろしてこのドゥメイラに平和を取り戻したいと思っている。」
「ファルド…」
「我々はこれから北の一族を目指す。古から前ドゥーラスの王家に忠実な一族だ。アリメドを嫌って北の山岳地帯に引きこもっているが、彼らは生粋の戦士だ。士気も高く、今我々に必要なのはアリメドを倒す大義名分だろう。彼らはドゥーラスに囚われたままの王妃と第2王子の救出を目論んでいる。我々もそれに加担するために合流する予定でいる。」

 一気にしゃべり終えて、ジャマールはラウラの反応を待った。
ある意味、ジャマールは真実だけを語ったつもりだった。なぜか彼女に嘘をつくことがためらわれて…。
 ”なぜだろう…? ”

 ラウラはしばらく無言でジャマールの顔を見つめる。一瞬の沈黙のあと…。

「ファルド、わたしも一緒に連れて行って…。戦いには役に立たないかもしれないけれど、いざとなったら私を囮にすればいいわ…」
「ラウラ、君は…」
 ラウラにはいつでも驚かされる。シャイな一面を見せるかと思えば、以外にも強気な面があって…。ジャマールは黒髪に銀の瞳を持つ一人の女性を思い浮かべた。

 アスカ…。今は親友の妻となっている彼女は、勇気と激しさを持った稀有な女性だった。ジャマールが唯一と認めた男をきりきり舞いさせるほど、彼女は実に生き生きとして生命力にあふれていたが…。

 今はレディ・シェフィールドとなったアスカの姿を思い出して、ジャマールが笑うと、不思議そうにラウラが見つめているのに気が付いて、ジャマールは慌てて表情をもとに戻す。
「いや…すまない。君を見ていると…知っている女性を思い出す。」
「その人は今どこに…?」
「ああ…彼女は英国に居る。私の親友の妻なんだ…」
「そう…」
 ラウラは少し頬を赤らめてうつむく。おかしなことだ。彼女とこんな風に話をしていることが不思議でならない…。
 確かにラウラとジャマールの間には、アリメド政権を倒して愛しい者たちを取り戻すという共通の目的がある。それが自然と二人を引き寄せているのだろうが、ジャマールにはそれだけではない何かを彼女に感じていた。最初は近づくことさえ避けたくなるほど、恐れにも似た感覚があったのに…今はどうだ。さらにもっと近づきたいと思っている自分がいるのだ。
”彼女はラナ姫のことを知っている。それなのに彼女をもっと知りたいなんて、どうかしている…”

 初めて知る感情に戸惑いながらもジャマールは、努めて冷静を装おうとしていた。

王都奪還 5


 一足先に北の山岳地帯に住むアシュタット族のテリトリーに向かったアンドルーたちは出発してから5日目に、目的地であるラプトル山脈の麓にたどり着いた。今回の計画の主であるジャマールが居ない交渉に一抹の不安を抱えながら、アンドルーは予定通り頂上へと続く道なき道を行く。
 標高2000メートルはあろうかと思われる山脈の山裾から中腹までは不思議と背丈の低い木々が生い茂っているところもあり、麓にたどり着くまで感じていた熱波が嘘のように涼しい風が吹いてくると、仲間たちはみな安堵のため息を漏らした。
 それでもちょうど中腹あたりに着くころ、不意に目の前に現れた数人の男たちに行く手を阻まれる。

「お前たちは誰だ? ここを我々アシュタット族の領地と知って訪れたのか?」
最前列のひと際大柄な男が凄むように立ちはだかる。背丈は2メートル余り、頭を黒い布で覆い、高い頬骨の下は真っ黒なひげで覆われたいかにも屈強そうな男だった。
「そうだ…アシュタット族、族長のバラン殿に謁見の申し込みをお願いしたい。我々の主から親書を預かってきている。」
アンドルーはひるむことなく目の前に聳え立つような厳つい仁王立ちの男を見上げる。

「なるほど。だが異国人のお前たちが何を言おうが信じられないな…」
男はあざ笑うような笑みを浮かべてアンドルーたちを見下ろしている。後ろにいる仲間たちが殺気立って、今にも剣を抜きそうな気配を感じて、内心焦るが…。
毅然として男を見上げてアンドルーは言い放つ。

「我々は異国人だが、主は生粋のドゥメイラ人だ。それもレファド王ゆかりの…主は訳あってこのドゥメイラを離れたが、今このドゥメイラの地にあって、アリメドを倒すためにバラン殿の力を借りたいと言っている」
睨みつけるようにアンドルーが男を注視すると、男の後ろに立つ別の男が何やら耳元でささやいて…それから男の態度が一変する。

あれほど殺気立っていた雰囲気が突然変わって、あっさり彼らのテリトリーである岩棚の奥に作られた居住スペースに案内された時にはアンドルーは拍子抜けしたように全身の力が抜けるのを感じた。
そして半時も待たずに表に厳重な警備を置く部屋の主と面会を果たしたのである。

アシュタット族の長、バランは大男とはいかないまでもかなり体格のいい男だった。権力を持つ男たちが持つ一種の威厳をまとい、40代前半と思えるその風貌は厳しいながらも理知的な雰囲気を漂わせていた。
アンドルーから受け取ったジャマールからの手紙を、バランは一通りサッと目を通して部下に渡すと、正面に控えるアンドルーを厳しい眼差しで見つめた。

「この古の文字を自由に操れる人物は、今は亡きレファド王だけだが、そなたらの主は何者だ。仮にもう一人存在するとしたら、亡き第一王子だけだが…?」
「はい、主は手紙以外にもこれをあなたにお見せするように言っていました」
 アンドルーは懐の奥から皮袋に入れられた短剣を取り出してバランの目の前に差し出す。それはジャマールが肌身離さず持っている三日月刀の対になっている宝剣で、柄には王家の紋章である大鷹の意匠があり、その眼には大ぶりのエメラルドがはめ込まれていた。
「何と…!? ジャマール王子は生きていたのか? 今どこに…!?」
 興奮したバランは突然椅子から立ち上がって、アンドルーの側までやってきた。

「主は訳あって、我々と一緒には来れませんでした。キメラ近郊の廃墟跡をアジトにしていたのですが、恐らく今頃はそこを発ってこちらに向かっているかもしれません」
「そうか、では我々からも出迎えるとしよう…ガント、明日の朝早く出かける。すぐ馬の用意を! アンドルーと言ったな? 着いたばかりで済まぬが、今夜はここで休んで、明日道案内を頼む…」

バランはさっきまでは決して崩さなかった厳しい表情を、一気に綻ばせると楽し気に傍らの男を振り返った。
 あまりの展開の速さに面食らったアンドルーだが、こんな風にジャマールを無条件に受け入れる人物がドゥメイラにいることを知ってとてもうれしかった。
”ジャマール様、あなたにはこんなにも味方がたくさんいるのです…!”
 疲れているはずなのに、妙に体は軽かった。




 ラウラがジャマールの元について三日目、ジャマールは彼女を一緒に連れて行くことを決めて地下宮殿をあとにする。銀髪を隠すためにきっちりと頭に白いターバンを巻き、男の服を着たラウラはどこから見ても少年のように見える。
長身のジャマールと一緒にいるとさらに従者にしか見えないだろう。

「私の乗ってきた馬はどうしたのかしら…?」
そこにいるのが、鞍を背中に乗せたジャマールの漆黒の牡馬だけなのを見て、ラウラはつぶやく。
「ああ…君の馬は夜通し走って君を守ってきたんだろうな。かわいそうだが、ここに辿り着いたときすでに全身を痛めていて、回復する見込みがなかったから、わたしの部下が安楽死させた。」
「まあ…何てこと…!」
 ラウラは小さく息を吸い込んで自分の愛馬の死を悼む。

「彼女は立派に自分の務めを果たしたんだ。褒めてやらねばナ…」
ジャマールはそう言ってひらりと馬の背に飛び乗ると、ラウラに片手を差し出した。一瞬ためらったものの、ラウラがおずおずと手を差し出すと、その手を掴んで一気に馬の背に引き上げた。

「キャっ…!」
 ラウラの乗っていた雌馬より一回り大きいジャマールの馬に乗せられたラウラは、一瞬めまいを感じてしまう。
「気をつけろよ、しっかりつかまっているんだ。」
ジャマールがそういうと勢いよく黒馬は走り出した。慌ててラウラは目の前のたてがみにしがみつく。
 日の出とともに二人は地平線へ向けて走り出したが、ラウラは背後にぴったりと寄り添うように感じているファルドの固い胸に自然と意識が向いてしまう…。

”やだ…わたしは何を考えているのかしら…”
頬を真っ赤に染めたラウラは、わざと身を低くして後ろにいる男の存在を必死に忘れようとした。
そしてジャマールも、ラウラを抱くような格好で馬の背に揺られながら、ときおり腕に触れる彼女の身体の柔らかさに一人戸惑っていた。

”彼女は何でもない…私にとってはたまたま…ある時期一緒に過ごすだけの女性…それだけだろう…? なら、なぜそこまで気にする…?”

ジャマールは頭の中のもやもやを振り払うように、乾いた砂漠へと馬を駆けさせた。

王都奪還 6

 ドゥーラスの西の果て…隣国バラクの国境沿いの古びた街並みの中にある崩れかけたホテル…その一角に隠れるように数人の男たちがたたずんでいる。
やがてどこからか現れた背の高い黒装束の男がある扉の前に立つと、さっと男たちは古い扉を開けて男を通した。するとさっきまでそこにたたずんでいた男たちは何事もなかったようにまたどこかへと散っていく…。

黒装束の男は、案内役の小柄の男のあとを黙ってついていく。男は地下へと続く薄暗い段を小さなたいまつで照らしながら降りていくと、その先も延々と続く通路を通って…目的地へと向かっていく。何度か同じような通路の角をくねくねと曲がりながら、やがて気が付くと、明るい照明に照らされた大きな両開きの扉の前に出る。

「ジャグー殿、これから先はおひとりでお進みください。お帰りの際はまたお迎えに参ります」
「ああ、ありがとうムルト、」
 ムルトと呼ばれた案内役の男は小さく頭を下げて、またどこかへ消えていった。
ひとり残された黒装束の男は、目の前の大きな扉をしばらく見つめていたが、やがて意を決したように数回ノックした後で、ゆっくりと扉に手をかける。



重い扉の向こうには、大きな長椅子が置かれており、その中央に長い白髭を蓄えた一人の老人が座っていた。よく見ると実際にはその人物は老人というには、まだ若く、猛々しく厳しい威厳に満ちたオーラをまとっている。
その姿を目にした瞬間、男は真っすぐその人物に向かって駆け寄っていた。

「まさか…! その姿はアランド様…!」
 男が足元に膝まづいてその手を取ると、その人物は穏やかな笑みをうかべる。
「ヴァンリ…。いや今は、ジャグーと名乗っているのだったな…?」
「はい、アランド様もよくご無事で…。あのあとのアリメドのバラクへの進軍で、てっきり亡くなられたものと思ってあきらめておりました…」
「ああ…あの時発見された遺体は替え玉だ。宰相が私を逃がすために用意した囚人の死体なのだ。すでに炎に焼かれて人としての形を成していなかった。だがそなたも無事で何よりだ。わたしもあの時瀕死の重傷を負っていたのだ。こうして人前に出れるようになるまでに10年の歳月がかかってしまった」
 
アランドはドゥーラスの隣国バラクのかつての王で、王妃イレーネの実兄でもある。アリメドが前レファド王の次に狙うのがこのアランドの命だろう。それを見越したアランドの宰相は、短時間で主を逃がすために最大限の仕事をした。
 もちろんその宰相も命を落とし、まさしく命をかけて主を護ったのだ。


「ジャグー、いやヴァンリ…そなたの父もドゥーラスのレファド王の最も信頼する部下だったはずだ。」
「そのとおりです。だが父は王を護れなかった。」
「いや、そうではない。レファド王は何年も前から、アリメドのクーデターを危惧していたのだ。そのうえで自分の命よりも、王はジャマール王子のことを気にかけていた。だから何かあった時には、真っ先に彼を助けるように、そなたの父に言っていたのだ。だからヴァンリ、そなたを幼い頃より王子の側に置いたのだ」
「ああ…ですがジャマール王子も今は…」
 ヴァンリはそう言って深くうなだれる。

彼が崇拝していた主である第一王子は、10年前、トルコ沖で海賊船に襲われて、一緒にいたオランダ人医師のクラフトとともに海の底に沈んだのだ…。
 信じたくはなかったが、アリメドは当時その船に残されていた搭乗歴を調べて、ジャマール王子は亡くなったのだと大々的に国中に触れ回っていた。確かにその船からの生存者は誰もおらず、旧政権側の…わずかに王子の生存を信じていた者たちでさえ、そのうち諦めてしまったのだ…。

「ジャマールは意志が強く、生命力の強い男だ…。それに生まれた時から深く神に愛されている…。」
アランドはどこか遠くを見つめながら、祈るような口調で語った。
「必ず、どこかで生きている…。わたしも…イレーネもそう願い、だからこそ生きていられるのだ。まもなく…ドゥメイラの忌み月が明ける。そうすれば必ず、アリメドは動き出す…。今こそ我々は一つになって戦わなければならない…。ヴァンリ、アストラットのザディハ王の配下の者が、すぐ近くまで来ている。彼らとともに行動して、ラナ姫を救出するとともにイレーネと、ネフェルを塔から助け出してほしい…」
「はい、王妃様とネフェル様の救出作戦については、我々も極秘に動いておりますが、確かに…同時に動けば、それだけ相手を拡散出来ます…」
「そうであろう…。わたしも年を取って、前のようには動けぬ…。ムルト…」

 アランドが後ろに隠れている男の名前を呼ぶと、さっきここまでヴァンリを案内して来た小柄の男が現れる。
「ムルトの顔は知っておるな…。わたしが倒れている間…わたしの名代としてアストラットをはじめ、反アリメドを掲げる首長国の間を回ってくれていたのだ。アリメドの執拗な討伐戦にも耐えて生き残った者たちが皆、我々が立ち上がるのを待っている。おまえはムルトと一緒に彼らの元に赴き、必ずこの作戦を成功させるのだ」
「わかりました。必ず…。アランド様、ここにイレーネ様とネフェル様をお連れします。そしていつかジャマール様が戻られるまでに、このドゥメイラを昔のような素晴らしい国に戻してみせます…」
 ヴァンリは頬を高揚させ、力強く目の前にいるかつてのバラク王、アランドに誓った。

王都奪還 7

ラウラとともに、目立たないように乾いた砂漠の渓谷伝いに馬を進めたジャマールは、日中の一番陽の高い数時間を岩棚の日陰でやり過ごしながら…比較的涼しい早朝と陽が落ちるまでの数時間を移動に費やした。

 夜間は簡易的な小さなテントを立てて、中でラウラを休ませ…自分は側で見張りを兼ねて野営した。自分だけテントの中で眠ることに気兼ねしたラウラが、一緒に中で過ごすことを提案したが、ジャマールは笑って、この広さでは二人…抱き合う姿勢でなければとて
も眠れない…そういえば、ラウラは真っ赤になってその提案を撤回した。

もちろん、ジャマールはそんな気はさらさらなかったが、一緒に旅をするうちに…一見強気なこの女性が、本当は異性に対してとても臆病なのだと気がついた。周りに聖職者しかいない神殿で育ったのなら、そんな俗世な男女の交わりなど知る術は皆無だったのだろうが…。
ジャマールは岩棚の間に上った満月を見上げながら、すでに今頃はアシュタット族の拠点である北の山脈にたどり着いているだろうアンドルーたちを思った。
彼らを見送ってすでに4日が過ぎている。アンドルーは長であるバランを説得できたのだろうか…? もし彼らを説得できなければ、根本的な作戦を立て直さなければならなくなる…。実際にはそんな時間的余裕はないのだ…。

砂漠の夜の温度は急激に下がる…。ジャマールはテントの側に小さな焚火を焚いて、暖
を取っていたが、眠れなくて…燻っていた火をかき回していると、ひょっこりテントからラウラが顔を覗かせた。

「ごめんなさい、なんだか眠れなくて…。そこに行ってもいいかしら…?」
 ラウラは恥ずかしそうに小声でささやくようにつぶやいたが、その肩が小刻みに震えているのを見て、きっとテントの中も冷えているのだろう。

「もっと近くに来て火にあたるといい…。今夜は特によく冷える…」
ジャマールが自分の向かいに羊の皮を地面に敷いてやると、ラウラは小さくうなずいてそこに腰を下ろした。
 全身をすっぽり覆うようにまとっている黒いマントの前をかき寄せるようにして、背中を丸めて両手をオレンジ色の炎にかざしているラウラは、か細く幼い少女のように見えた。
 舞姫としてステージに立っている妖艶な姿とは全く別人に見えるが、おそらくは今目にしている姿こそが本当の彼女なのだろう…。

「ラウラ…アスタロットのラナ姫と一緒に育ったということは、君もドゥメイラ人なのか…? 君のその姿は他のドゥメイラ人とは大きく違っているが…?」
 ジャマールは前から不思議に思っていたことをラウラにぶつけてみた。
その言葉に一瞬顔を上げて、炎越しにジャマールの目を見たラウラは、すぐ目を伏せて…自分の足先に視線を移した。

「両親は純粋なアストラット人だけれど…わたしの祖母はギリシャのクレタ島の生まれなの…。それでも…わたしのこの肌の色や、髪の色は生まれつき色素の薄い突然変異なのですって…。だからわたしは…物心ついた時から…家族と一緒に暮らすことは出来なかったの…」
そう言って笑うラウラの顔はどこか寂しそうだった。ラナ姫もまた運命の伴侶として極秘に育てられたに違いない…。それゆえに二人は似た環境で一緒に育てられたのか…。
 彼女たちもまた運命に翻弄された被害者なのかもしれなかった。

「それで…君は、自分を犠牲にしても…ラナ姫を助けたいと思ったのか…?」
「ええ…わたしたちは血はつながらないけれど…お互いに姉妹だと思っていたの。彼女の苦しみはわたしの苦しみ…13年前にすべては変わってしまったけれど…それでもラナには幸せになってほしい…。あんなケダモノに汚されていいわけがない…ラナは…ラナは…」
 今想い合っている相手がいて…何としても無事にそこから抜け出して…彼と幸せになってほしい…。
 その先の想いは…言葉にならずに自分の胸にしまい込んだ…。

ラナへの願いは自分への願いでもあり、希望でもある。この数か月…目の前にいる男性を知ることによって、ラウラの中で今まで感じたことのない感情が芽生えようとしていた…。

 ラウラは生まれた時から、ある運命に縛られていた…。それはこの世に生を受けた時からこの国の指導者となるべき人物の伴侶となること…。
 そのためには家族とのつながりも…愛情も…すべて犠牲にしなければならなかった。そして今自分の身代わりになっている“もう一人のラナ”も、そうして一緒に育って来たのだ。
 あの政変ですべては変わってしまったけれど…。ラナを無事に救い出して、彼女の幸せを見届けることが出来たら…自分もあのしがらみから抜け出して、目の前にいるこの男性を…一人の男として愛することが出来るような気がしていた…。

 ファルドは、ラウラがひとりあの砦に辿り着いたときから…最初に見せた冷たい戦士の顔から、思いやり深く優しい男の顔へと別の面を見せている。
 それは…少しづつ互いのことを語るうちに打ち解けて…もしかしたら、ラウラに好意を持っていてくれているのでは…?
 そんな期待を密かに抱いてしまうほど…ラウラの心は急速に彼に傾いていっていた。

 昼間の移動中は緊張からリラックス出来ないまま…疲れがかつてないほど溜まっていた。ゆらゆらと揺れる温かい炎を見つめているうちに、心地よい眠りに誘われて…ラウラの身体が揺らぎ始めたのに、ジャマールは気がついて…彼女が地面に倒れるまえにその体を抱き留めた。

「……!」
 ラウラの身体を抱き留めた瞬間に、彼女の柔らかな身体の感触と…フードからこぼれた銀色の絹のような髪から漂う甘い香りに、ジャマールはくらくらするようなめまいを感じた。
 それに耐えて…腕の中のラウラの小さな顔を見下せば、穏やかな寝息を立てて眠っている。思えば…女の身ではここまではかなりの強行軍だったことにジャマールは思い当たって、内心小さく舌打ちした。
 ラウラは泣き言ひとつ言わず、黙ってジャマールについて来たが、実際にはかなりきつかったに違いない。さすがにラウラを連れて予定の…アンドルーたちが進んだルートを行くのは躊躇われて、少し回り道を選んだのだが、かえってそれが彼女にとっては負担だったのかもしれない…。
 通常のルートには野盗も多く出て危険なのだ。いくらジャマールが優れた戦士でも、多勢相手にラウラを護りながら戦うのには危険が付きまとう…。だがすでに目的のラプトル山脈まではあと少し…。
 危険ではあるが、これ以上時間をかけて彼女の体力を奪うことは避けるべきかもしれない…。
 そう思った時、腕の中のラウラが甘えるようにジャマールの胸に頭をすり寄せて来た。ドクン!とジャマールの鼓動は跳ね上がる…。
 しばらく自分の中で激しく鳴り響く心臓の鼓動を聞きながら…ゆっくりと大きく深呼吸して、カッと熱く一点に集まってくる熱量を上手く散らしたジャマールは、胡坐を組んだ膝の上にラウラの身体を抱き上げた。

 一刻だけ…この温もりを愉しんだとしても…神は許してくださるだろう…。
 自分の身に着けている厚手のマントの中に彼女の身体を包み込んで、護るように自分の胸に引き寄せた…。
 ラウラの小さな唇は微かに開いて…可愛らしい舌先まで覗いている。
「ク…!」
 眠っている彼女の唇に触れるのは卑怯だと思いつつ…ジャマールは自分の衝動を抑えることは出来なかった。生まれて初めて自分から触れたいと思った女の…。

 唇が触れ合った瞬間に、甘くしびれるような感覚が全身を駆け抜ける…。いけないと思いながら、ジャマールは舌先でラウラの唇をこじ開け…その甘い舌先を味わった。

 ラウラはずっと甘い夢を見ていた。
あの逞しいジャマールの腕に抱かれて、甘い口づけを受けていたのだ…。
「ン…あふっ…」
 顔の角度を微妙に変えながら…何度も巧みな舌先で唇の内側を探られて…。
初めて受ける男の欲望をはらんだ貪るような口づけを受けて、ラウラは呼吸もままならないまま…その熱情に翻弄されていた。
 だが同時に…自分の中に沸き起こる不思議な甘い感覚…。今まで意識したこともなかった場所が疼き…キュン…と何かを求めて身体の中心を熱い衝撃が駆け巡る。

「う…ん…」
 自分の口から…およそ自分のものとは思えないほどの…甘い吐息がこぼれるのを感じた時…不意に誰かに揺り起こされて、ラウラは目覚めた。

「起きろ、ラウラ…出発するぞ…!」
 ジャマールだった。
 すでに出発の準備はされていて、のろのろとラウラが立ち上がると、素早く床の毛皮と残り火を片付けたジャマールは、まだボウっとしているラウラを先に馬の背に乗せて、すぐさま自分もその後ろへと飛び乗った。

「しっかりつかまってろよ。一気に砂漠を駆け抜ける…」
 そういうが早いか、ジャマールは勢いよく牡馬を、明るくなり始めた乾いた砂漠へと続く地平線へと走らせた。


 ジャマールはひどく苛立っていた。昨夜自分の欲望に負けて…ラウラに触れてしまったことが、自分で許せなかったのだ。
 かつてアレックスがアスカに対して、自分の心が制御できずに苛立ち…苦しむ様子を見てきたが、あの時は自分だけはそうならないと思っていたのだが…。

 ここにアレックスがいたのなら、きっと大声で笑ったことだろう…。あの頃自分に課していた禁欲の行なるものは、何の意味も持たなかったということだ…。

 そう思うと腹立たしさと同時に戸惑いもあった。早くふたりきりという状況を何とかしなければならない…。そのためにははやくアンドルーたちと合流する必要があって、そのためにはあえて危険なルートを進むことをジャマールは選択した。
 今から急げば、数時間後には中間地点にあるオアシスの小国に着く。そこで小休憩を取った後、アシュタット族の住むテリトリーまではあとわずかだった。

砂漠の中にある宿場町ダーナは、古くからドゥーラスにある寺院への巡礼者たちが立ち寄る場所となっていた。だが今では巡礼者たちの姿はなく…町のあちこちには素性の知れない者たちであふれ、犯罪者たちの巣窟となっている。
 おおよそまともな旅人は、どんなに困ったとしてもこの街に立ち寄ろうとはしないのが今のダーナの姿だった。

 今は誰もいない監視台の脇をジャマールとラウラを載せた馬は用心深く進んで行く…。
通りにはずらりと宿屋が並んでいるが、その周りにたむろしているのはどう見てもまともな雰囲気の男たちではなかった。
 それを見て恐ろしくなったラウラは、身を固くして馬の背にしがみついた。

「そのまま…じっとしているんだ。誰とも目を合わせなければ大丈夫だ。心配しなくてもわたしがついている…」
 後ろにいるファルドの声に励まされてラウラは小さくうなずいた。
「ここではわずかな休憩を取るだけだ。長居するつもりはない…」
「ええ…。わかったわ…」

 ファルドは通りに馬を進めながら…油断のならない目でじっとあたりを伺っている。すると…通りの外れにある宿屋の看板の裏から、黒装束の一人の男が現れた。
 その男の姿を目にした瞬間…ファルドはサッと馬の背から飛び降りて、馬の手綱を引きながらゆっくりと男に近づいていった。

「ファルド様…」
 男は何かを言いかけて…馬の背にいるラウラとファルドを見比べて驚いたように目を見開いている。
 彼は部下のひとりで、前からこの界隈の状況を独自に探らせていたのだ。
もしかしてここに寄れば何か情報を得られると思い、立ち寄ってみたのだがどうやら正解だったらしい。

 だがこの部下は、主がまさかアンドルー以外の別の誰かを伴って現れるとは思っていなかったのだろう…明らかに困惑した様子で、ジャマールの次の言葉を待っている。
 ジャマールもこの部下との会話をラウラに聞かれるのは出来れば避けたかった。

「ラウラすまないが、5分ほどこの場を離れる。絶対にここを離れるなよ…!」
「ええ…わかったわ」
 ラウラが小さくうなずくと、ジャマールは馬を目立たない場所に隠すように止めて、もう一度ラウラに念を押してその場を離れた。
 出来るだけ早く部下から情報を聞き出して戻ってこなければならない。

 ジャマールは部下を伴って離れた場所に移動すると、ラウラの様子が気になるものの…しばらくこの近郊に潜入させていた部下の報告にじっと耳を傾ける。

「スペインのこの地域の統括官であるラディアスという男が、アリメド王の手足となって各国から傭兵を集めているようです。傭兵と言ってもほとんどが統率のとれないごろつきたちですが、そのラディアスが最近兵を集める見返りとしてかなりの金額を要求しているようで、そのこともあってアリメド王との間にかなりの軋轢が生まれているようです。」
「そのラディアスという男、本国にも内緒でかなりの蓄財をしているという噂だが…?」
「そのとおりです。少し前にヨーロッパから届いた知らせによると…スペイン本国でも、ラディアスはかなり不興を買っていて、国に戻れば間違いなく投獄されるものと思われます…」
「それなら、この地で奴を成敗してもそれほどスペインは騒がないと思ってもいいのだな…?」
「はい、おそらく…」
 この部下は隠密活動が得意の男で…浅黒い肌を持ったアラブ特有の風貌を持っていた。もとはシリア辺りの生まれと聞いているが、共通語としてのアラビア語以外に砂漠の小民族の言葉も巧みに扱う…。
 今回のような危険な地帯にも単独で平然と潜入できる高い能力を持っていて、この男もアンドルー同様ホークに崇高な忠誠心を持つ一人だった。

「アレックスの読みが当たったな…。それなら奴の後ろにあるものを恐れる必要はない…」
「はい、もし奴が単独で逃亡を企てた時には、沖にいるマレー号に奴を始末するよう指示を送っておきますか…?」
「ああ…。そうなった時のアレックスの許可も取っているからな…」
「わかりました。わたしはすぐにマレー号に連絡を取ります」
「ああ頼む。では2週間後に例の場所で落ち合おう…」
「承知しました…」
 部下の男はそう言い残してさっと姿を消した。男が去った方を見つめながら、ジャマールはひとりほくそ笑んだ。

 ホークであるアレックスが持つこの情報網は、ジャマールを含めた一連の部下たちがその末端を支えているが、その緻密さと結束の固さでは、すでに一国の域を超えていた。
 そしてそれはジャマールがアレックスの側を離れたあとも変わらないと自負している。

“そうだ…我々の絆は、どんなに互いの住む環境が変わろうと決して色あせることはない…”




 ラウラは狭い四方を壁に囲まれた小屋のような場所で、じっと息を詰めてファルドが戻ってくるのを待っていた。
 ファルドは5分くらいと言っていたのだが、実際には10分近く待っても彼は戻ってこなかった。
 薄暗く狭いところにラウラとともに押し込まれていることに苛立ちを募らせたファルドの黒い牡馬は、徐々に鼻息を荒くして…床にカツカツとひずめを打ち付ける。
 
「いい子ね…お願い、もう少しだけ大人しくしていてね…」
 ラウラはなだめるように馬の鼻筋を撫でてささやきかける。

“困ったわ…。この子に騒がれたら、ここに隠れているのが誰かに知られてしまう…”

そう思ってハラハラしていると…わずかな板塀の隙間からみえる表の通路で、小さな幼い男の子が、ひとりの男に引きずられるようにして何処かに連れていかれようとしていた。

「嫌だ…! 放せ…! 誰か…! たすけて…母さん!?」
「うるさい! 大人しくしろ! 奴隷の子のくせに…!」
確かに薄汚れた身なりをした5歳くらいの男の子の近くには、同じような身なりの母親らしき女がおろおろしながら、その様子を伺っていた。
 自分の子供が今まさにさらわれようとしているのを黙って見ている母親はいない。だがここで逆らったとしても、殺されるだけだと女はわかっているのだ。

 そう思ったら、とっさにラウラは動いていた。扉を開けて表に飛び出すと、男の行き先を遮るように両手を広げて立ちふさがった。

「その男の子を離しなさい…!」
「何だ? お前は…!?」
「幼い子供を母親から引き離して連れて行くのは、違法だと言っているのよ…!」
「うるさい…! 税を払えない代わりに連れて行くんだ。どうせこの街の奴らはみんなドラゴ様の奴隷だからな…!」
 ひげ面の粗野な男はそう言って、ゲラゲラと下品な高笑いをしながら、目の前のラウラを睨みつけてくる。
 だが不意に男は目の前に立つ白いカフタンの上に長いマントを着た、少年姿のラウラの全身を値踏みするように見下ろすと、ニヤリと笑って掴んでいた子供の手を離した。
 男の子は弾かれたように走り出すと、母親の胸に飛び込んでいった。

 それを見てラウラは安堵すると同時に、目の前の男のギラギラした眼差しに危険なものを感じて思わず後ずさる。

「へ、へ…こりゃあ、いい…。こ汚い子供より、おまえの方がよっぽど金になるな…」
 男はジリジリとラウラに詰め寄ってくる。
この男一人なら、懐に隠し持っている短剣でラウラひとりでも何とかなると思っていたのだが、気がつけば男の後ろにはまた別の男がにじり寄ってきているのがわかった。

「寄…寄るな…!」
 そこで初めてラウラは恐怖のために、がくがくと膝が震えるのを感じた。
ファルドがラウラにここを離れるなと言った意味がようやく分かった気がする。ここは他の町とは比べようがないほど治安が悪いのだ。
 すると男の手がラウラの頭のターバンに掛かった次の瞬間、白い麻の布に隠されたラウラの見事な銀髪が現れた。

「……!」
 とっさに両手で頭をおさえたものの…隠しおおせるわけがない。
「お前、男の成りをしているが女だな…!? それも上玉じゃないか…! 100倍、いや1000倍の値がつくぞ…!」
 男は下卑た笑いを浮かべながら近づくと、ラウラの長い銀髪を掴んで引っ張る。

「嫌…放せ…!」
 ラウラがそう叫んで身をよじった次の瞬間…目の前の男が何かに弾かれたように後ろにもんどりうって引っ繰り返る。
 ハッとしてラウラが振り返ると、すぐ後ろにファルドが立っていた。

 ファルドは、ラウラの髪を掴んでいた男の顎に拳を叩き込んで、俯いたところを思いっきり蹴り上げたのだ。

「すまない、ラウラ…遅くなった…!」
 ファルドはそう言いながら、ラウラを自分の後ろへ隠す。
「いいえ…わたしこそ、あそこから離れるなと言われたのに…守らなくてごめんなさい…」
「いいんだ…子供が連れて行かれそうになって、放っておけなかったのだろう…? 遠くから見えてた」
 自分の行動を見られていたと知って、ラウラは思わず赤くなる。

「ちくしょう…! なんだおまえは…!? 邪魔するな!?」
 今度は近くにいた別の男が掴みかかってくる。
「彼女はわたしの妻だ…お前たちが触れていい女ではない!」
 素早くファルドは、突っ込んで来た男の首の後ろに片手で手刀を叩き込むとラウラの手を引いて走り出す…。
 そして、小屋から興奮している牡馬を引き出すと、素早く飛び乗ってラウラをその後ろに引き上げる。
「しっかり掴まっていろ! 駆け抜けるぞ…!」

 ファルドの言葉に顔を上げてみれば、どこから集まって来たのか、さっきの男たちの仲間と思われる連中が前方で大声を上げながらこちらに向かってくる様子が見えた。
 ラウラはとっさにファルドの腰に両手を回してすがり付く…。

 目の前を塞いでいる男たちに向かって、三日月刀を振りかざしながら突進すると、大きな黒馬の勢いに押された男たちは、思わず後ろに後退って行った。
 その中をファルドとラウラを乗せた黒馬は疾走して行く…。

 “クソ…っ! こんなことは予想できたはずだった…”
走りながら内心ジャマールは、ラウラを危険に巻き込んでしまった自分のうかつさに腹を立てていた。正義感の強い彼女があの場面でじっと黙って見ているはずがないとわかっていたのに…。
 部下との対話を終えて急いで戻ってきた時…数十メートル先で、男たちと対峙しているラウラを見つけた時には息が止まるかと思った。

 男が泣き叫ぶ子供を、引きずるようにして連れ去ろうとしているのはすぐわかった。
それを阻止しようとして、ラウラは男の行く手を遮り…激しく何かを叫んでいた。

 そして男の手がラウラの髪に掛かった瞬間、ジャマールは夢中で走り出していたのだ。
どんな言い訳をしようが、ラウラの存在が今のジャマールの心を強く揺さぶる存在であることに変わりがない。

 そしてラウラも…。最大のピンチで、サッと表れて自分を救い出してくれた男の…逞しい背中に頬を寄せながら…大きく安堵のため息をついた。
“ファルド…わたしはあなたが好き…。あなたが誰でも構わない…。もう少しだけ側に居たい…”

 確実に追手が来ないと確認できるところまで、ジャマールは馬を走らせ…ダーナから2、30キロ離れた小さなオアシスまで来た時…やっと休憩のために馬を下りた。
 愛馬を木陰で休ませ…ジャマールがその首筋を軽くポンポンと撫でると、牡馬は嬉しそうに鼻を鳴らす。
 その様子を近くの日陰で涼みながら…見つめていたラウラは、不意に思い出したようにつぶやいた。

「さっき、あなたはあの男たちに、わたしを妻だと言ったわね、なぜ…?」
「ああ…あの地域は狂信的な回教徒が多い。彼らの世界では他人の妻を奪うことは極刑に値する。だが…あの連中にそんな戯言が通用するとは思わないがな…。あの地域は昔…レヴァド王の治世にはとても神聖な土地だった。多くの巡礼者たちがドゥーラスの神殿を目指してやって来て…とても美しく賑やかな町だった…」
 ジャマールは遠くを見つめながら…ポツリとつぶやいた。

「あなたは…その頃のダーナを知っているのね…?」
 ラナはあの恐怖の中にあっても、ファルドが自分のことを“妻”と呼んだことがなぜか嬉しくて…内心ドキドキしていたのが、実はそんな理由だったと聞かされて…ひどくがっかりしていた。でもそれを隠すように何気ないふりをして尋ねる。

「ああ…昔、まだ10代だった頃、父に連れられてきたことがある。その頃はとても平和な町だった」
 ジャマールは15歳の頃、父に連れられて行ったドゥメイラの主要国を回る旅を思い出していた。あの頃は、こんな日が来ることなど想像もしていなかった。
ただドゥーラスの第一王子として、いずれは父のあとを継いで王となり…すべての運命を受け入れて生きる…それを当たり前のように思っていたのだ…。

 もしあの政変がなかったら…自分はアレックスと出会うこともなかったし、こうしてこんな風にラウラと一緒に旅することはなかっただろう…。
 ジャマールは戸惑いとともに、自分の中に沸き上がる新たな感覚に驚いてもいた。
それが欲望からなのか…それとも相手がラウラだからそう感じるのか…?

 たぶん…彼女だから…そうなのだろう…。

「一日も早くアリメドを倒して、昔のドゥメイラを取り戻さなくてはならない…」
 とっさに口をついて出たのはそんな言葉だった。
「ラウラ…君は、アリメドを倒してラナ姫を取り戻したら…その先はどうする…?」
「わからないわ…幼い頃からラナはわたしの半身の一部だったから…。彼女が囚われの身になった時から、彼女を取り戻すことしか考えられなかったもの…」
「あなたはどうなの…? ファルド…」
 ラウラに真っすぐ見つめられて、ジャマールは答えに詰まる。
 
  ジャマールはドゥーラスの王子であり…ドゥメイラの後継者なのだ。生まれた時からその運命は決まっている。
 アリメドを倒した時…そのあとに何が残るのだろう…?

「わからない…。だがこれだけは言える。君が助けたあの子のような不幸な子供たちをこれ以上増やさないために…一日も早くアリメドを倒して、もとの平和な国を取り戻さなければならないということだ…。」
 かつて…父王と一緒に回ったドゥメイラの国々は、みな豊かで活気に満ちていた…。それがあの日…すべてがもろくも崩れ去ったのだ。
 もし…あの時、自分がもう少し大人で、力があったなら…。何かが変わったのだろうか…?

 13年前、ドゥメイラを後にした時から、何度そう思ったことだろう…。だがどんなに想ったところで何も変わらない。自らの力で変えない限りは…。

「ファルド…あなたは…」
 その先をラウラは言葉にすることが出来なかった。彼は…ファルドは、何て強くこの国の未来を憂いているのだろう…。きっと彼はドゥーラスの王族に近い貴族なのかもしれない…。
 そう思った時、なぜか胸の痛みとともに…左胸に刻まれた自分が神に選ばれた“印”がチリチリと疼いてその存在を知らせてくる…。
 彼に近づくな…と言っているの…? 行き場のない想いにラウラは胸が苦しくなってギュッと自分の唇を噛みしめた。

「ラウラ…?」
 そうと知らないジャマールは、急に彼女の表情が曇ったのに気がついてその顔をじっと覗き込んだ。
 君は…。
細い肩を震わせながら、必死に何かをこらえているラウラの姿にジャマールは心を揺さぶられる。その瞬間に彼女の身体を自分の胸に抱きよせていた。

「どうした…? 何がそんなに君を苦しめている…?」
 自分でもおかしいほど、やさしい言葉が自然に出てきたことに驚いた。
もう認めるしかないのだろう…。自分にとって、彼女は特別だということを…。

「あなたは…ドゥーラスの高位の貴族だったのね…?」
 しばらくジャマールの腕の中で、声を震わせて泣いていたラウラが不意に顔を上げて…涙の溜まった瞳で見つめてきた。
「それは…」
 思わず言葉に詰まったが、ジャマールはこのまま自分の気持ちを誤魔化しながら、彼女に向き合いたくはなかった。真実は告げられなくとも…今は自分の気持ちに正直でいたい…。

「ああ…わが一族は、ドゥーラスで永くその市政に携わってきた。前にも言ったが、あの政変で父は殺され、一族はみな散り散りになり、生きているのかさえ分からない。たまたまわたしは難を逃れ、生き延びたが…。アリメドに復讐するまではわたしの未来はない…」
「ええ…ファルド…。そういう意味ではわたしも同じ…。13年前に捕らえられた親友を救い出すことだけがわたしの生きる目標だったの…。でも今のわたしは…」
 そこでラウラは言葉を詰まらせる。

「あなたも…わたしも…きっと重い何かに縛られているのね…? わたしは、その先の自分の未来など考えたこともなかった。でも…あなたと出会って…初めて誰かと一緒に居たいと感じたの…。あなたにはあなたの目的があって…わたしたちの行き先が交わることはないとわかっているけれど…ごめんなさい…。目的地に着けば、もうあなたとこんな風に話す機会はないと思ったから…言わずにはいられなかったの…」
 涙で言葉を詰まらせながら…ラウラは小さな声で言葉を繋いでいった。
それを黙って聞きながら、ジャマールは自分の胸に、突き上げるような熱い想いがあふれてくるのを感じた。

「ラウラ…君のことはわたしが守る。今はすべてを打ち明けることは出来ないが…君はアスタロットのラナ姫を救いたいのだろう…? これから行くアシュタット族は、古くからドゥーラスの王権に近い種族だった。今はアリメドを嫌って辺境の地に籠っているが、きっと力を貸してくれる。それにこの国には同じ思いを持つものも多いはず。その情報も彼らは持っている。ひとりで闘うことはない…。君を…危険な目に遭わせたくはない…」
「あ…」
 自然な流れでジャマールはラウラの華奢な身体を引き寄せ…唇を重ねた。抑えていたものをぶつけるような激しい口づけに、はじめは翻弄されていたラウラも、途中からしっかりとその情熱を受け止め、自分から求めにいく…。

 細い両腕をジャマールの首に回して、ピッタリとその胸を合わせると…ラウラの柔らかな胸の膨らみを感じて、それだけで自分の下半身にカッと熱が集まるのをジャマールは感じた。
 片手を彼女の銀色の髪に差し入れて…さらに奪うような口づけを与えながら、もう一方の手で彼女の優美な曲線を描くウエストから腰へのラインをたどっていく…。

ダメだ…今ここで彼女を奪うべきではない…!

 ジャマールは、必死で…辛うじて残っている理性をかき集めて、唇を離すと…じっとラウラの瞳を見つめる。二人とも激しい鼓動を感じながら…互いの眼の中に映るものを探した。
「ファルド…あなたを信じていいの…?」
「ああ…今は戦いの最中だ。なんの約束も出来ないが…アリメドを倒して、再びこのドゥメイラに平和が戻ったら…どこに居ても必ず君を迎えに行く…!」
「ああ…ファルド…!」
 ラウラは嬉しさに涙がこぼれるのもかまわず、その胸に縋りついた。
 わたしも…今は自分の本当の姿を明かせないのだもの…。彼のその言葉だけで十分だわ…。
 互いに明かせない想いを抱きながら…それでもしばらく二人は、じっと互いの身体を抱きしめていた。

王都奪還 8

 王であるアリメドの前でもラディアスは尊大な態度を崩さない。
13年前、本国に報告することなく、自国の武器をアリメドに横流しした上で、兵を動かして彼の起こしたクーデターに加担したのだ。それ以降何度も起こった反乱軍への鎮圧にも手を貸し、その見返りにアリメドから多くの金銭を受け取っていた。

 13年前アリメドが王位に就いたのは、自分たちの協力があったからだと思っているから、自然とその態度は横柄なものとなる。

「誤解してもらっては困りますね。我々の協力があったからこそ、あのクーデターは成功したのだ。それに…あなたは上手く隠しているが、我々は知っている。あなたが神聖なアルファルド一族の血筋ではないことを…」
 ラディアスは口元に不敵な笑みを浮かべると、薄い唇の端に伸びた口髭の端を指先で掴んで丁寧に撫でつける。
典型的なスペイン人の風貌を持ったこの男は、浅黒い肌と彫りの深い顔立ちの中で…かぎ状になった鼻が特徴的な男だった。抜け目なさそうな眼差しがこの男の狡猾さを表している。

「わたしを脅そうなどとは…随分と思い上がりもいいところだな? 確かな証拠でもがあるのか?」
 苛立ちを隠しもせず、アリメドは鋭い眼差しで目の前の男を睨みつけた。

「もちろん…。あなたの母親があなたを身籠った経緯を調べれば…疑惑はいくらでも出てくるというもの…。それを…知りたがっている連中には面白い情報であることは確かですね…」
 ラディアスがそう言った時、アリメドの後ろにいた配下の連中が血気だって動く。
それをけん制するようにラディアスは言葉を続ける。

「早まった行動はしないでいただきたいですね…。今ドゥメイラのあちこちで反乱軍の蜂起の動きがあることはご存じでしょう? 我々だってここまであなたに協力して来たんです。今更手を引くつもりはないですが…そのためには以前話したとおりこちらの要求を呑んでいただかないと…」
「相変わらず欲張りな奴だな…。わかった…それで手を打つ…」
 アリメドは忌々しそうにラディアスを睨みつける。

「それで、北のアシュタット族が動き出したというのは本当なのか? 今まで何があっても動かなかった連中が急に動き出した理由は…?」
「さあ…奴らはプライドの高い連中だ。よっぽどのことがない限り動かないはずだが…。今までもあらゆる方向から反乱軍に加わるようにとの誘いがあったが、一度も首を縦に動かなかったバランが今回立ち上がったとなると…よほどの何か大義名分を見つけたか…。塔の中の第2王子はどうしている…?」
「どうしているも何もそのままだ。あの目暗の王子に何が出来る? 一人で逃げ出すことも出来ない若造だぞ…」
「ひとりではそうだが…利用しようとする連中には唯一のレヴァド王の血筋だからな…。注意するに越したことはない…。我々も今ヨーロッパから最新鋭のマシンガンを取り寄せている。それを使えば一度に大量の人間を一瞬にして殺せる最強の兵器だ。それさえ手に入れれば、恐れるものは何もない…」
 得意げに言うラディアスを冷ややかに見つめながら、アリメドはニヤリと笑う。

「わかった。おまえの言うとおりの金額を払おう。だがそれは、アシュタットを含めたすべての反乱軍をかたずけた後だ。ドゥーラスの王権は代々伝えられてきたエメラルドやダイヤモンドの採れる鉱山を持っている。レヴァドはその場所をジャマール以外、誰にも告げてはいなかったらしい。だがそれもじきに明らかになる。そうすれば金はいくらでも用意出来るというものだ。」
「ほう…それは楽しみだ。ではわたしはこれから大切な荷物を受け取りに港へ向かわなければならないのでね、これで失礼する…」
 それだけ言って、表向き恭しく挨拶をしてその場を去っていくラディアスの後ろ姿を、苦々しい眼差しで見つめていたアリメドは、傍らにいる側近を呼び寄せる。

「ラディアスの行動を今まで以上にしっかりと見張っておけ。連中が少しでもおかしな動きをしたらすぐに報告するのだ」
「わかりました…。あの男をこのままのさばらせておくのですか?」 
「ふん…! あの男を自由にさせておくのは、反乱分子をすべてかたずけるまでの間だ。レヴァドの血筋を根絶やしにして、わたしの跡継ぎが出来たその時には、あの男に用はない…」
「承知しました…」
 その側近の男は、アリメドが子供のころからずっと彼に寄り添ってきた養育係のカマルの息子だった。
 名前はグル。側近というよりは、アリメドの護衛を兼ねていて、常にアリメドの側に居て、あらゆる雑事に携わっている男でもある。ある意味唯一信頼している人間かもしれない…。
 アリメドの実父であるアスタイ族のマタドは10年前に、流行り病が元で急逝している。そのあとを継いだマリルは、父親同様欲張りで狡猾な男だったが、臆病者で内心アリメドを恐れていた。
 アリメドがドゥメイラの王位に着いた時、マタドにはドゥメイラの北限に小さな小国を与えたのだが、マタドは満足せず、ことあるごとに何かと自分たちに対する優遇を求めてきた。面倒になったアリメドは、流行り病ということにして密かにマタドを毒殺させたのだが、それに直接関わったのもこのグルだった。

「グル、銀の舞姫はまだ見つからないのか?」
「はい、ザビクは必死に探しているようですが、まだ…」
 グルと呼ばれた男は感情をまったく感じない言葉で答える。頭部を目だけ残して濃い色の布で覆い隠しているその姿は、何か異質なものを感じさせるが、アリメドはまったく気にしていなかった。

「ふん、生ぬるいな…。捕えているゾル一座の女たちをドゥーラスに連れて来い。連中の中から毎日一人ずつ、その首をはねると言えば…銀の舞姫は必ず現れる。おまえはその噂をあちこちにばらまいて来い…」
「わかりました。それで…いつまでにその女を連れてくれば…?」
「来月の頭には忌月が明ける…。アストラットの王女を後宮に迎え婚礼の儀式を行うその晩の余興に銀の舞姫を舞わせてやろう。そしてその女も当然おれは手に入れる。他の女たちは欲しいものにくれてやればいい…」
「わかりました。ではそのように…」
グルはそういうが早いか、さっと姿を消した。

 グルがいなくなると、アリメドはすぐさま華やかな女たちを呼び入れて、またいつも通りの不埒な楽しみに耽る。

 すでにこの国のすべては自分のものだ…誰にも渡すものか…!

 アリメドは注がれた酒を一気に飲み干すと、高らかな声を上げて笑った。






      
                  2

アシュタット族の住むラプトル山脈まで、あともう少しというところまで…ジャマールは来ていた。
 前に乗せているラウラも黙ったまま…じっと目の前に広がる緑の多く散らばる平原を見つめている。
 この辺りは山岳地帯に面しているせいか、乾いた砂漠の気候とは違って、降雨も多く植物が育ちやすい。日中の気温もそれほど高くは感じられず…砂漠の多いドゥメイラの中でも穏やかな地域といえる場所だった。

 少し前にお互いの気持ちを確かめ合ったことで、こうして一緒にいることへの緊張感も最初ほどは感じなくなっていたが、ラウラは別の寂しさを感じ始めていた。
 もう少しすれば、ファルドの目指すアシュタット族の住むエリアへと到達する。
そこには彼の部下たちや、ラウラの知らない人たちが多く待っているのだ。
 きっと今までのように彼に気軽に接することは出来なくなるだろう…。ファルドはこれから先もラウラを護っていくと言ってくれているが…。
 きっと二人を取り巻く環境がそれを許さない…。そんな気がするのだ。

「ここは…なんだか風も穏やかな気がするわ…」
「そうだな…。アシュタット族が治めるこの地域は、雨も多く…豊かな大地は多くの恵みをもたらす。もともと彼らは戦いを好まない民族だ。この豊かな土地で、農耕を主な仕事として生きてきた…素朴な人々だ」
「そんなアシュタット族が、一緒に戦ってくれるというの…?」
 ラウラは純粋な疑問をファルドにぶつけてみた。
いくらドゥーラスの王家と深い関わりがあるからといって、穏やかな生活を捨ててまで戦いの場に身を投じてくれるのだろうか…?

「彼らは今でこそ穏やかな農耕民族だが、その昔…ドゥメイラがまだ細やかな首長国だけのまとまりのない国だった頃、彼らは唯一ドゥーラスの…古の神々を崇拝し…多くの神殿を護るために、幾度もドゥーラスの王家とともに戦った歴史がある。ドゥーラスの王家にもだが、彼らにも代々伝えられている古代文字があるんだ。古くからの盟約がある限り、彼らがドゥーラスを裏切ることはない…」
 ジャマールはそう言いながら、その昔…物心つく頃から繰り返し父から聞かされてきたその言葉を思い出していた。

“いいか、ジャマール、決して忘れてはならない…。アシュタットの民は我々ドゥーラスの血の盟友なのだ…”
 
 「ファルド…?」
 ジャマールはラウラに名前を呼ばれて初めて、自分が遠く意識を飛ばしていたことに気がつく…。

「ああ…すまない。考え事をしていた」
「あなたは、ずいぶん長くドゥメイラを離れていたと言っていたけれど…この国の民族に詳しいのね…?」
 ラウラの言葉に思わず詰まる。
ジャマールは、ドゥーラスの第一王子として厳しく育てられた。将来ドゥーラスだけではなく、このドゥメイラの王として相応しい人物になるために…。

 それをラウラに説明するのは難しい。今のジャマールはファルドと名乗り、単なるアリメド打倒を目論む男のひとりに過ぎないからだ…。
 半分苦笑いを浮かべながら、不思議そうに自分を見上げるラウラを抱き寄せようとしたその時…目の前の上空から、真っ黒い影が真っすぐ自分たちめがけて向かってくるのが見えた。

 とっさにラウラを庇って馬の背に伏せると、巧みに馬の手綱を操りながらその“何か”から身をよじって逃れる。
「頭を上げるな…! しっかりたてがみにしがみ付いているんだ…!」
 ファルドの声に驚いたラウラは、言われた通り、伏せの体制で…必死に両手で馬のたてがみを掴んでギュッと目を閉じる。

「…!?」
 天から降ってきたその“何か大きな黒い影”は、巨大な大鷹で…両方の翼を広げた姿はまるで黒い怪鳥のようだ。 
 二人の頭上をかすめるように通り過ぎた大鷹は、一度天に舞い上がると…再び狙いを定めたように二人をめがけて舞い降りてくる。

「ファルド…! 襲ってきたの…!?」
 恐怖に駆られた声で不安げにラウラが叫ぶ。彼女を安心させるためにジャマールは、彼女のウエストに腕を回していた手にグッと力を込めて抱き寄せた。

「大丈夫だ…!普段大鷹は人間を襲ったりはしない…。あの鷹の動きは…」
 何度目かの鷹の急降下を上手くやり過ごしたあとで、ジャマールはあることに気がつく…。
 その大鷹は鋭い爪をわざと隠して近づいて来ている。きっと何かを確かめたいのだ…。

ハッ…!? まさか…!?
 正面から近づいて来た大鷹の額にある印を見つけた時、ジャマールは無意識に動いていた。
 ラウラに馬の手綱を預けて、その場で馬の背から飛び降りると、ラウラから離れて目の前の小高い丘の上に駆け上がっていく…。
「ファルド…!?」
後ろで叫ぶラウラの声も耳に入らなかった。


 ジャマールは丘の頂上に立って、頭を覆っていた布を解いて自分の右腕にぐるぐる巻きつけると、それを鷹に見せつけるようにグッと前方に突き出した。
 そして…左手の人差し指と中指を口に寄せて、甲高い口笛を鳴らした次の瞬間、ラウラの目の前で、大鷹はまるで吸い寄せられるように、ジャマールの右腕めがけて舞い降りると、優雅な仕草でその右腕に止まったのだ。
「ファルド…!」
 ラウラはその様子を息をのんで見守っていた。

「アリ…! お前はアリか…!? 生きていたんだな…!?」
 ジャマールは愛し気に大鷹の頭を撫でてやると、大鷹は少し目を細めて甘えたように小さく喉を鳴らして何度も頭を下げる。

 まさに奇跡的な出会いだった。アリは今では珍しい種の大鷹で、アラブ地方でも標高の高い山にしか生息していない。
 ジャマールがまだ13歳の頃、北の地を散策中に岩場の間に落ちていた鷹のひなを拾って自分の手で育てたのがこのアリとの出会いだった。
 
 見れば大人になったアリの足首には、太い銀の足輪がはめられている。今も誰かに飼われているということだ。
 13年前、ジャマールはこの地を離れたが…アリは新しい主人の元で生き延びてきたのだろう。
 アリメドには鷹狩りの趣味はなかった。この足輪には通信用の手紙を入れるための仕掛けがしてあることを思えば、誰かが連絡を取り合うためにアリを使っているということなのだろう。

「アリ、よく生きていてくれた。それに…よくわたしを見つけたな? ありがとう…。だがお前は、今の主人の元に帰らなければならない…。さあ、行け…!」
 そう言ってジャマールは、右手を大きく前に押し出した。
大鷹は大きく翼をはためかせて…再び空高く舞い上がっていく…。
凛々しい大鷹の後ろ姿を見送りながら…ジャマールは心の中でつぶやいた…。

“ アリ、またどこかで会おう… ”

 見つめるジャマールの頭上高く、何度も旋回を続けた大鷹は、やがてどこかへと飛び去って行った。

 その様子を離れてじっと息を詰めて見守っていたラウラは、大鷹がファルドの側を離れたのを見ると、馬を下りて手綱を引きながら…その側へと歩み寄った。
 普段はきっちりと巻かれたターバンの中に隠された艶やかな黒髪が、風になびいて…その美しい横顔を覆いつくすように揺れている。
 
 空を見上げて、じっと想い深げに大鷹の消えた方角を見つめていたジャマールは、すぐ側にラウラが来ていることにも気がつかなかった。

「ファルド…?」
 ラウラは手をのばしてジャマールの手にそっと触れてくる。
「ああ…すまない。あの鷹は、わたしがひなから育てた鷹なんだ。名前をアリという…。13年前にあの政変で離ればなれになったから、もう生きていないと思っていたんだが…」
 ジャマールはアリと再会したことへの興奮でその胸はまだ高揚感で満たされていたが…心配そうなラウラの顔を見た瞬間に、グッと自分の気持ちを引き締める。
「あなたの鷹だったのね…? でも13年経っても…あなたを忘れていなかったなんて…」
 ジャマールとアリの13年ぶりの奇跡の再会を想ってか、ラウラは思わず涙ぐんでいる。

「ありがとう…君もアリとの再会を喜んでくれているのか…。だがアリがどちら側の人間に飼われているのかはわからない…。当時のアリメドは鷹を側に置く習慣はなかったはずだが、ドゥーラスでは鷹を通信に使うことは当たり前に行われていたからな…」
「そんな、まさか…?」
「まあ、そんなことを気にしても仕方がない。我々には大きな目標がある。それにもうここはアシュタット族のテリトリーだ」
 そう言ってジャマールが指し示す先には、青く見える山脈の山際が見えている。
そして、素早く自分の右腕に巻いていた布を解くと、手慣れた様子でまた頭にきっちりと巻きなおした。

「さあ、行こう…。早く彼らと合流して一日でも早くドゥーラスを目指さなければ…」
「ええ…」
 先に馬の背に飛び乗ったジャマールが差し出すその手を、ラウラはうなずきながら掴むと、一気に彼の腕の中に引き上げられる。
 そして馬の背から見た眼下に広がる景色には、はるか遠くに広がる青々とした平原が広がっていた。





      

王都奪還 9

 バラクから北へ数十キロ離れた砂漠の中にある丘陵地で、ヴァンリは数人の仲間とともに、上空高く…目を凝らしながら何かを探すように双眼鏡をのぞいていた。

「アリを見かけたのはどのあたりだ?」
「あの山脈の手前の尾根のあたりです。数日前、あのあたりを旋回して何かを探しているような動きをしていました」
「おかしいな…? アリはこのあたりへは一度も来たことがないはずだが…? 」
 ヴァンリは仲間が指し示した方向へと双眼鏡を向けながら、小さく唸った。

 アリは今は行方知れずになっているドゥーラスの第一王子、ジャマールが自ら育てた鷹だった。王子がこのドゥメイラを離れた後はあの戦火の中、王宮のお抱えの鷹匠だったラファールによって、天に逃されたアリは、1年後…バラク近くの砂漠で偶然通りかかったヴァンリと再会したのだ。

アリは空からアリを見つけて下りてきた。そしてヴァンリはすぐその鷹がアリだと気がついた。
 1年間野生で生きてきたアリは、すっかり大人の大鷹になっていた。
 それでも王子のいない今、アリが自分をを見つけて下りてきてくれたことが
たまらなくうれしかった。
 アリと自分…互いに大切な主を無くした境遇に共通点を感じたヴァンリは、それからというもの…ジャマールの代わりになってアリに通信用の鷹としての訓練を施して、ドゥメイラ中に散らばっている反乱分子たちと連絡を取り合ってきたのである。
 そのアリが1週間前から行方不明になっている…。

「もしかしたら何かに襲われたとか…?」
「まさか、アリはこの地域では無敵の大鷹だぞ…! 銃で撃たれない限り、命を失うことはない…。しかし…」

 もしかしたら…運悪く異国人にでも狙撃されたとしたら…?

 浮かんで来た嫌な予感を瞬時に否定して、ヴァンリが再び大空に目を凝らすと、反対方向を見ていた仲間の一人が叫び声をあげた。

「いました! 北の方向からこちらに向かって来ます!」
「ああ…よかった! 何かあったら、王子に顔向けできない…」
  そう言った後で、ヴァンリはハッと気がついた。そう自分は王子が死んだとは思っていない。いつか突然帰ってきて、前のように陽気に笑ってヴァンリをからかって…!
                 
そんなことを考えていたヴァンリの頭上をアリはかすめるようにすり抜けると、鋭くピーッ!と鳴き声を上げながら再び上空へと舞い上がり…何度か旋回しながら、まるで付いて来いと言わんばかりに、上がったり下がったりを繰り返す…。

「……!?」
 その意図を強く感じて、ヴァンリは隣の仲間を振り返る。

「どうやらアリは、我々をどこかに連れていきたいらしいな?」
「そのようですが…これから先は山の民、アシュタット族の領域です。彼らは今まで何度誘いをかけても応答のなかった相手ですが…」
仲間は訝し気にアリの向かった先を眺めながらつぶやいた。

「だが先日、今まで一度も動かなかったバラン殿が動き出したと、ある筋から情報が届いている。きっと彼の心を動かす何かがあったのかもしれない…。アシュタットは古くからドゥーラスの王家とつながりが深い。きっと我々にもわからない何かがあるに違いない。それに…アリはきっと北で何かを見つけたんだ。言ってみる価値はあるだろう…」
「ですが…ラナ姫の輿入れまであとひと月もありません。急がないと…!」
「わかっている。少し近づいて確かめるだけだ…」
 そう言うヴァンリの言葉に仲間は肩をすぼめて、また自分の馬を止めている場所へと戻って行ったが、ヴァンリは…空高く舞うアリの姿を目で追いながら、不思議と何か自然と心浮き立つものを感じていた。

ああ…王子、あなたは今どこにいらっしゃるのか…? アリもオレもあなたが死んだなんて信じちゃいないんだ…。
 まずは王子、あなたがいつ戻ってもいいようにオレはこの国をあの男から取り戻す。そのためなら命だって惜しくはない…。
 
 そう心に誓いながら、ヴァンリも仲間のあとを追った。



  ラプトル山脈を目前にしたその時…目の前に広がる平原に多くのテントが立ち並んでいるのを見て、馬上のジャマールは考え込んだ。

 この地域は確かにアシュタット族の支配地域のはずだが…? 

 そこに並ぶテントはざっと見ても20以上は並んでいた。おおよそ少なく見積もっても100人以上はそこにいる計算になる。
 もしこれがアリメド側の人間なら、ジャマールはとんでもない場所に来てしまったことになるのだ。

「ファルド…?」
 ジャマールの緊張を鋭く感じ取ったラウラは、その視線を追って目の前に並ぶテントの
列を見つめた。
「心配するな、大丈夫だ…」
 じっと視線を前に注いだまま…様子を見守っていると、やがてそのテント群の間から数人の騎馬隊が二人に向けて駆けてくる。
 その姿を目に留めて、ジャマールはラウラを庇うように自分の懐に抱き寄せた。

 しかしその一団の中に見知った顔を見つけて、その表情はすぐに緩むことになる。

「アンドルー…!」
「ファルド様…!」
  仲間とともに現れたアンドルーの姿を目に留めると、ジャマールはサッと馬の背から飛び降りて、同じように駆け寄ってきたアンドルーたちとその腕を取り合った。

「もう、なかなか姿が見えないので、本気で心配しました…!」
「ああ…遠回りをして思ったよりも時間がかかってしまった。おまえの方は予定通りバラン殿と会えたのだな?」
「ええ…向こうのテントの中でお待ちです」
「ああ…わかった。その前に…」
 そこでジャマールは後ろにいるラウラに、大丈夫だ…という風に微笑むと、ラウラもそこで初めてフウ…と息を吐いた。

「さあ、行こう…アンドルー、案内を頼む…」
「はい…!」
 アンドルーも嬉しそうにうなずいて再び馬にまたがると、先に立って歩き始める。そのあとを二人の乗った黒馬が続いた。

 ホッとした様子のジャマールとは反対にラウラはどこか緊張した様子を崩さなかった。

 これでもうファルドと一緒に過ごす時間は終わったのだ…。
彼には信頼できる仲間がいる…ファルドにはどうしても成し遂げなければならないことがあり…それはすべてに優先されるもの…。
 たぶん…ここから先、二人の進む道は別々になる…。
 最初からわかっていたことなのに、いざその時になると割り切ることは難しい…。

「ラウラ嬢…?」
 物思いに耽っていたラウラは、アンドルーに何か話しかけられていることに気がつかなかった。
「ヴァラン殿がラウラ嬢のお世話をする女性を用意してくださっています。先にそちらへご案内しますね?」
「え…? あ…ありがとう御座います…」
 ハッと我に返って、後ろにいるファルドを振り返ると…彼はラウラを安心させるように口元に笑みを浮かべて小さくうなづいた。
 それに安心してラウラがホッとした表情を浮かべると、アンドルーはうなづいて中央近くのひと際大きな白いテントにラウラたちを連れて行った。

 彼らが馬を下りると、すぐさまテントの近くに控えていた全身をすっぽりと包む白いアバヤ(女性が着るアラブの衣装)を身に着けた女性が3人現れた。
 その中でもひとり年長と思われる女性がラウラの前に進み出る。

「初めまして…ラウラ様。わたしはアシュタット族のジアと申します。こちらはマナとシリル、あなたのお世話をするために参りました。まずは身を清めてゆっくりなさってくださいませ。」
 ジアと名乗る女性はラウラより少し年上だろうか…? 背の高い女性で顔立ちも美しい。あとの二人はまだ若く、まだあどけない表情の少女だった。

「あの…?」
戸惑ったラウラが再びファルドを見ると、ファルドもうなづいていた。

「長旅で疲れただろう…? ゆっくり休めばいい…。あとでまた会おう…」
 ラウラにそう言って笑うと、彼女がジアたちに連れられてテントの中に入るのを見届けてから、ジャマールはアンドルーを伴って歩き出した。

「ラウラ嬢はすっかりあなたに気を許しているようですね?」
 アンドルーは、からかうようにジャマールを見上げて笑う。
「二週間近く一緒に居たんだ…。それなりに慣れるさ…。それよりもヴァラン殿はどこだ…?」
「こちらです…」
 わざと少しぶっきらぼうに答えるジャマールを横目に見ながら、アンドルーは笑いながら隣の大きなテントを指さした。
 アンドルーのおもしろがっているような表情をわざと無視して、ジャマールは早足でテントの入り口へと向かう。この旅の間で…確かにラウラとは言葉に出来ない感情の交わりがあったことは確かだが…。
 まだ芽生えたばかりのその想いをどう表現して良いのか、ジャマールにもわからなかった。

 入口にはジャマールでも見上げるような大男が二人両側に控えていて、テントの入り口を覆っている重たい何重もの垂れ幕を両側から巻き上げて、ジャマールたちの通り道を作っているのだ。
 そのうちの一人は、ラプトル山脈の山中で、アンドルーたち一行の行く手を阻んだ毛むくじゃらの大男だった。彼はアンドルーたち外国人が、自分たちの主縁の人物の使いだとわかると、すぐさま態度を変えた。

 彼らはわざと頭を低くしてジャマールの顔を見ないようにしていた。この地域では身分の低い者は、高位の身分の人物の顔を許しがない限り覗き見ることは禁じられているのだ。

 ジャマールは彼らの前を通って、広いテントを仕切っている壁に従って歩いていくと、やがて同じような薄い膜で覆われた入り口が現れる。
 その前にジャマールとアンドルーが立つと、幕は内側から捲られ…正面の玉座と思われる一段高くなっている椅子にゆったりと腰掛けている人物の姿が見えた。その両脇には側近とも思われる厳つい表情をした男たちが付き従っていた。

 ジャマールは頭を上げて視線だけは下げながら、目も前の人物の顔を見ないようにして近づくと、数メートル手前で片膝をついて軽く頭を下げる。
 この部屋に入ってきた時から…全身にジリジリとした刺さるような視線を感じていた。アンドルーが受け入れられているということは、目の前にいるのはまさしくアシュタットの王、バランに違いない。
 ジャマールにしても彼と会うのは16年ぶりなのだ。

 バランはジャマールが部屋に入ってきて、自分の側にやって来るまで、身を固くしてじっとその姿を見つめていたが、片膝をついた時点でハッとして立ち上がると、すぐさま玉座を駆け下りて来て、自らも片膝をついてジャマールの片腕を取った。

「ああ…! 王子…! 本当にジャマール王子なのか…!? 夢ではあるまいな…!?」
 ヴァランは真っすぐジャマールに視線を合わせると、その眼にはうっすらと涙がにじんでいた。

「お久しぶりです。ヴァラン殿…。16年ぶりでしょうか? 以前あなたとドゥーラスで会ったのは…?」
 ジャマールも感慨深く、じっと目の前にたたずむヴァランの顔を見つめた。

 まだ父が存命だった頃、ドゥーラスの王宮でまだ14歳になったばかりだったジャマールは、筋骨隆々で逞しい一人の戦士を父から紹介された。
 その時のヴァランは見上げるほどに大きく立派に見えた。年齢も30代目前の男盛りで、いつかはヴァランのように強い戦士になりたいと本気で想っていたことを、ジャマールは懐かしく思い出した。

「あれから…もう16年もたったのですね…? あなたはあの時まだ少年だったが、今では立派な戦士になられた…」
 ヴァランはそう言いながら、ジャマールの手を取って立ち上がると別の部屋に案内して、低めの長椅子に向かい合って座りながら…ジャマールを眩しそうに見つめた。
「まずはこれをお返ししなければ…」
 ヴァランのすぐ後ろにいた側近のひとりが、大きなトレイに乗せた宝剣を恭しく彼に差し出す。ヴァランはそれを手に取って、ジャマールに差し出した。

「これは古くからドゥーラスの王家に伝わる宝剣だ。代々世継ぎの王子だけに伝えられるもので…13年前あなたがこの国を離れ、そのあと行方知れずになったと聞いた時には、我々はもう半分諦めていたのです。王妃様と第二王子のネフェル様が長く幽閉されていることは知っていましたが、無事救い出して再びドゥーラスを…いやドゥメイラを再建するためには、まだ多くの犠牲が伴う…。アリメドの反対派は各国に多く存在しているけれど、結束するには弱く…バラクのアランド殿が亡くなられてからは…さらにそれは弱くなった。我々は…来る時のために力を蓄えるために、あの山脈深くに引きこもることを決めたのです…」
 ヴァランはそう一気に語ると、ジャマールの眼をじっと見つめた。あの頃若かったヴァランももう40歳をはるかに超えている。
 戦士としての盛りは過ぎているのかもしれないが、その確固とした意志は変わりなく…全身から溢れるオーラはまさしく戦士そのものだ。

「あなたにまた会えてうれしい…。13年前、わたしは命を犠牲にしてくれた者たちに護られてこの国を離れた。彼らの分までも生き延びて…いつかこの国を取り戻すために、あらゆることを外の世界で学んで来たのです。それから親代わりになってわたしを導いてくれた、オランダ人医師の養夫妻からは命の大切さを学び、その後彼らを失った後は…白人でありながら…あらゆる人種に寛容で慈悲深く、魂を尊ぶ高潔な人物の元で10年余り過ごしました。今のわたしがあるのは、ひとえに彼の存在が大きい。今もあらゆる面でわたしをサポートしてくれている…」
 そう一気に語ってから…ジャマールは目を閉じて、今は遠く離れている親友を想った。

「あなたがこの国を離れてどんな境遇で過ごされて来たか…あなたの部下が教えてくれた…。こうしてまたあなたと会えたのもまた神の御導きでしょう…諦めなかった我々の想いが報われたのだ…。さあ、とりあえずは長い旅の疲れをいったん解したら、この国を我々の手に取り戻すための作戦会議といきましょう…」
 ヴァランは上機嫌で傍らの部下に目配せすると、さっとどこからか控えていた世話役の女たちが現れて、ジャマールを別のテントに用意されていた湯あみ用の水の張られた大きいプールのある部屋へと案内された。
 手伝いのために寄こされた女たちを丁寧に断って、ジャマールは服を脱ぐと水の中に身体を沈めて息を吐く…。
 汗と埃にまみれた身体をサッパリと洗い流すと…ヴァランと再会した安堵感と相まって何とも言えない心地よさが全身を満たした。

 今頃はラウラも入浴を済ませ、ひと心地就いているいる頃だろうか…?
そう思っていると、アンドルーが入ってきて、近くにジャマールの着替えを置いていく。白い着慣れた質素なカフタンの上に紺色の飾り帯とともにいつも身に着けている三日月刀を置いておく…。

「ラウラはどうした…?」
「湯殿で身を清めて、今頃は女性らしい身なりに戻っている頃だと思いますが…」
「お前は彼女のことをヴァラン殿にどう伝えたんだ…?」
 ヴァランは最初からラウラをまるで貴賓を扱うように出迎えてくれた…。そのことにジャマールは内心ホッとしていた…。もちろんアンドルーが彼女の存在をヴァランに前もって伝えてあったせいもあるのだが…。

「アストラット王ゆかりの舞姫だと伝えました。縁あって彼女だけ預かることになったと、事実だけ伝えてありますが…?」
「そうか…」
 アンドルーの用意した衣装に袖を通しながら、ジャマールは素っ気なくうなづいた。
ジャマールの求めるべき相手はラナ姫だとわかっていても、心はすでにラウラを求めている。ジャマールが王子と知っているヴァランにはそれを悟られたくはなかった。
 もちろん、ラウラにもジャマールの素性は知られたくないジャマールは、すでにアンドルーを通じてヴァランに、ジャマールが王子であることをまだ公表しないように申し入れてある。
 
 細身の筋肉質な身体に纏う上質な衣の着心地に思わずため息が漏れる。
この数週間久しぶりに感じる心地よさだった。
 長めの上着のウエストにキュッと強めに帯を結んで三日月刀を差す。ラウラは今頃どうしているのか…? 
 誰も知り合いのいないここでは、彼女にとって頼れるのはジャマールだけなのだ。

「アンドルー、戻るぞ…」
「はい…」
 未だ湿った黒髪を肩先で揺らしながら、ジャマールが足早にテントを後にすると、そのあとをアンドルーが続いた。
 

長い銀髪に滴る水滴を、柔らかなリネンで丁寧に二人の侍女にふき取ってもらいながら、ラウラは小さくため息を漏らした。
 身体を洗ってもらうのは断ったものの…そのあとのドレスの着付けと濡れた髪の手入れだけはさすがに断れずに、ラウラは二人の年若い侍女のするがままに任せていた。
こんな風に誰かに世話をしてもらうことにラウラは慣れていない…。生まれたままの姿を見られることは絶対に出来ない…。生まれつき身体に刻まれた“印”を誰かに見られることは絶対に避けなければならないと…子どものころから厳しく戒められてきたからだ。

彼女たちの持って来た柔らかな衣装はとても着心地が良くて、おまけにウエストを華やかな帯で絞るタイプのゆったりとした衣装は、彼女の豊かな胸のラインを上手くカバーしてくれるデザインだった。

「何て美しい御髪でしょう…? まるで月の光の糸のようですわ…」
若い侍女のひとり、マナがうっとりとラナの銀髪を丁寧にくしで梳かしながらつぶやく…。
「ありがとう…。あの…ファルド様はどちらに…?」
「ああ…ご一緒にいらした方ですよね? 今はヴァラン様とともにいらっしゃいます。ラウラ様のご用意が出来たら、お連れするように伺っています」
もう一人の少女、シリルが優し気な笑みを浮かべている。

困惑気味のラウラは黙ってうなずくしかない。ファルドと一緒に居られることは嬉しいけれど、彼ら…アシュタット族の長であるバランが、ラウラのことをどう捉えているのかが不安でしょうがなかった…。
身支度を整えて、ラウラはマナとシリルのあとを黙って着いて行った。






 
 地中海、アレキサンドリアを離れたアレクサンダー・マレー号は、スエズ運河を抜けて…アラビア半島をぐるりと回って、再びペルシャ湾へと戻ってきた。
前回のドゥメイラ…バラク近くへの寄港で、アレックスが出資している考古学者、ジョン・ファウストを保護してから2度目になる。

「キャプテン! あの先生を無事アレキサンドリアで降ろしせて良かったですね…?」
いつものようにコンウェイが操舵室の舵を握りながら、前方の景色に意識を集中させていると、傍らにいる航海士の副官がホッとしたようにつぶやいた。

「もちろんだ! おれはあの先生と名の付くやつらが大嫌いだからな…! 訳の分からん理屈を並べ立てて、面倒くさいったらありゃしない…!」
コンウェイは先週、アレキサンドリアに着いた時、下船を散々渋っていたファウストに、相当手を焼かされたのだ。本人は残してきた機材のことが気になるらしく、航海中なんだかんだと小難しい理屈を並べ立てて…文句を言っていた。
結局はこの船はスペインとの海戦もありうるから、命の保証はしかねると…逆に脅して、渋々船を下りてもらったのだが…。

「ふん! あと一日奴がごねたら、埠頭の上から海に叩き込んでやろうと思ってたがな…!」
「ハハ…! そりゃあいい…。ボスが聞いたらどやされそうですが…」
 副官はそう言いながら愉快そうに笑う。今まではコンウェイの隣にはジャマールが居て、こんな風に笑い合ったものだが…そのジャマールはもういないのだ。

「ところで、例のものはどこにある…?」
「船倉で厳重に管理させてます」
 副官はその話になると、急に険しい顔をして声にも厳しさが増す。
アレキサンドリアまで戻ったマレー号を待っていたのは、ロンドンにいる彼らのボスであるホークからの“緊急指令”だったのだ。
近日中にアレキサンドリアにある港の倉庫に、スペインから極秘に“あるもの”が運び込まれるというのだ。マレー号に下された指令は、それを中身ごと別のものにすり替えるというものだった。
 そのためには、船内に出来るだけ余分なものは置いておきたくない…。そこで港に着くなり、ファウストをカイロにある彼らの拠点へ向けて追い返したのだ。

そしてファウストを追い出してちょうど3日後、イタリアからの貨物船が港に到着して、あらかじめ偽装しておいた別の倉庫へとその“あるもの”を運び込ませることに成功した。そして見た目がそっくりな別のダミーを元々の倉庫へと自分たちで運び込んでおいたのだ。
そして自分たちはその荷物を極秘にマレー号に積み込むと、さっさと港を後にしたのだ。

ホークの指示書には、その“あるもの”とはフランスで開発された新型の武器だと書かれていた。問題はその受取先で、スペインの中東の管理官であるラディアスという男だった。
その男はスペイン海軍の将校でありながら、ドゥメイラのアリメド王と組んで多大なわいろを受け取る代わりに、自身で集めた傭兵軍団を使ってその地域を支配していたのだ。
ある意味本国であるスペインもその事実を知りながら、見て見ぬふりをしていた。

その武器をラディアスに売り渡したのは、フランス国内に拠点を置くテロリストたちだと、ホークからの指示書には書かれていた。実は何年も前から、英国政府は彼らの動向を追っていて…しばらくは大人しくしていた彼らが、数か月前から動き出したとフランス国内に潜入させていた仲間から連絡があったばかりだったのだが…。

「今になって動き出すとはな…おまけにこの国にまで影響があるとは思わなかった。だからすぐボスは動いたんだろう…。今頃はフランス政府と、スペイン政府を相手に派手な揺さぶりをかけているはずだ。だから我々がこのペルシャ湾か、アフリカ沖あたりでスペインのハエを1匹退治したところで、大事にはならないっていう筋書きなのさ…」
コンウェイはそう言って口にくわえた葉巻をくよらせながら、愉快そうに笑う。左頬にはしる恐ろし気な傷跡がその時ばかりはユーモラスに見えるから不思議だ。

「さて、そうと分かればさっさと戻るぞ…。荷物の中身が偽物だと知った時のラディアスの顔が見てみたいものだ…。」
「全くです。これで我々もジャマール様のお役に立てるわけですね?」
「ああ…そうだ。ハエが飛び出してくるまで、バラク沖で高みの見物だな…?」
「了解しました。」
 副官は嬉しそうにに笑うと、急いで指揮官の命令を伝えるべく、階下へと駆け下りて行った。

王都奪還 10

 中央に置かれた白い大型のテント…長であるヴァランの居室になっているテントの中で、ジャマールはヴァランと二人きりで中央にテーブルをはさんだ状態で向き合っていた。

「ファルド殿…いや二人きりの時にはジャマール様と呼ばせていただきます…。今は人払いをしているので、ここにはあなたとわたししか居ない…。そこで、王子…わたしはあなたにお詫びをしなければならない…」
アシュタット族の長ヴァランは、そう言って真っすぐジャマールを見据えた。
二人きりになりたいというヴァランの願いを聞いて、ジャマールも側近のアンドルーを下がらせたばかりだった。

「あなたの父上、レヴァド王の治世に我々アシュタット族は、表の部隊ではなく…裏の任務、つまりは闇の部隊としての役割を担っていたのです。父上は早くからアリメドの存在を危惧しておられた。そのうえで我々はアリメドがアルファルド一族の血縁ではない証拠を探っていたのです。アリメドは疑り深い…悟られぬように長い時間をかけてじっくりその証拠を固めつつあったその矢先にあのクーデターは起こったのです…」
ジャマールはいつか…父にバラク近くで見かけた外国人たちのことを報告した時のことを思い出した。
 あの時父は、我々も独自に調べていると言っていたのだ。

「我々は王である父上の護衛も仰せつかっていた。なのに結果的にはお守りすることが出来なかった…。どんな任務よりも我々が優先しなければならなかったのは王の命であったのに…」
そう言ってヴァランは、立ち上がってジャマールの前にひざまずいて深く頭を下げた。
影の存在として、最も大切な王の命を守れなかったことを、ヴァランは深く後悔しているのだろう。

「頭を上げてください。ヴァラン殿。わたしも若かったが…あの時父は、きっともっと先を睨んでいたに違いない…。だからヴァラン殿、あなたを自分の側から放して、アリメドの件を優先させたのだと思います。わたしこそ…あの頃はまだ若くて…心の中にあったのはドゥーラス、いやドゥメイラの未来よりも、自分の…目の前にある煩わしさだけだったのです…」
ジャマールがヴァランに片手を差し出すと、ヴァランはその手を取って立ち上がり、両手でしっかりとジャマールの手を握りしめた。

「急いで王都に戻った時には、すでにドゥーラスの大半はアリメドの手に落ち…宰相だったハッサン殿の屋敷も炎に包まれて…焼け落ちる寸前でした。ハッサン殿は王都一緒に命を落とされたと聞きました」
「ヴァンリは…!? 息子のヴァンリはどうなったか、あなたはご存知でしょうか?」
ヴァンリとはあのバラクの港で別れたばかりだった。今でもあの時、埠頭の端まで必死に手を振りながら追いかけてきたヴァンリの姿が目に焼き付いている。無事でいてほしいと何度願ったことか…。

「あれからわたしも身を隠しながら、主だった皆さまの消息を探しましたが、周到に用意していたのでしょう。アリメドの息のかかった傭兵部隊に一族もろとも滅ぼされてしまったのです。あのアランド様でさえ、宮殿もろとも焼け落ちて…さすがに完全にその血筋を発つことは躊躇われたのでしょう…。バラクの王権には遠縁の血筋の者を立てることをゆるしていますが、ほぼ力のない傀儡政権に等しいと言えます。」
「叔父上…」
瞬時に、優しく威厳のあった母の実兄であるバラク王アランドの面影が浮かんでくる。こうしてドゥメイラの地を踏み、かつての肉親たちを知るアランドの言葉を聞くと…徐々にこの国の王子だった頃の自分が蘇ってくる気がする。

ヴァンリ…。
幼い頃から世話役というよりは、幼馴染であり…誰よりもジャマールを理解してくれる親友だったのだ。

「前から気になっていたのですが、あの政変を受けてドゥーラスの外れから…宰相の息子であるヴァンリが、父の形見でもあるこの宝剣を持って港に現れた時、本来ならとっくにあの港もアリメド軍に包囲されてしかるべきだったのに…港の周辺にも、海上にもそれらしき姿はなかった…」
「ええ…数か月前から我々はもしもの時のためにこの港の周辺に密かに幾重もの防波堤を築いていたのです。ドゥーラスに何かあった時には、あなただけは逃すように…レヴァド王は命じておいででした…」
ヴァランは小さくうなずきながら微笑んだ。

「王はあなたにこの国の未来を託されたのです。我々はいつかあなたが戻られる日まで、一族の力を温存するためにこの山脈に引きこもってこの日を待っていたのです…。本当に良く戻ってこられた…」
 さらに言葉を繋ぐヴァランの眼はうっすらと潤んでいる。ヴァランと会うまではどこかまだ自分が何をすべきか迷うところがあったジャマールだが、13年前に自分を逃すために、父をはじめ多くの人々の犠牲があったと改めて知れば、もう迷うことなど許されない…。

「アストラット王、ザディハ殿もラナ姫奪還のために動いている。彼らとの接点はありますか?」
「以前ムルトと名乗る人物から接触があったことはありますが…その頃のドゥメイラはは最初の反乱軍が討伐されたあとだった。誰もが猜疑心に苛まれており…次の反乱を企てるにはエネルギーが足りなかった…特に我々はあの政変で、部族の若者の多くを無くしたばかりで、とてもその誘いに乗ることは出来なかった…」
苦し気に微笑むヴァランの表情を見れば、13年前にアシュタット族がどれほど多くの痛手を受けたか、推して知るべきだろう…。

「だが今回は違う…。アリメドは来月にもラナ姫を自身の後宮へ入れようと動いている。そしてそのことが囚われている母と弟にも影響を及ぼすのなら、一時の猶予もならないということだ。そのためならわたしは自分の素性を明らかにしてもいい…」
「もちろんです。王子。あなたの存在がどれほど我々に勇気を与えてくれるか…。あなたの存在を公表すれば、集まってくる仲間も多くいることでしょう…。同時に危険も伴うが…。アリメドはすでに我々が動き出したことを知っているにちがいない…。この13年間一度も動かなかった我々が動き出したことに疑念を抱いているに違いない…。我々の情報ではバラクとキメラの間に拠点を持つグループがいます。それがおそらくアストラットの意向を汲む連中ではないかと…。あなたが連れてこられたあの舞姫の仲間もそこに居るのではと思うのですが…」
「ええ…その情報は我々も掴んでいる。彼女のいた一座もキメラでアリメドの傭兵に襲われたらしい。彼女だけはそこから逃れて、たまたま我々が潜伏していたところに来たところを保護したのです。彼女、ラウラもアストラットのラナ姫にゆかりがあって、仲間とともに彼女を助けたいと動いている。何とか彼女の願いも叶えてやりたいと思うのですが…」
ジャマールはそう言いながらヴァランの表情を伺う。ラナ姫とジャマールの関係はヴァランなら当然知っているはずで、そのジャマールが別の女性を伴って現れたことに彼が疑念を抱いているのではと密かに思っていたのだが、ヴァランは一瞬面白がるような意外な表情を見せた後、小さくうなずいた。

「もちろんです。彼らには彼らの目的があるでしょうが、最終的に目指すところは同じなのです。我々に任せてください…悪いようには決してしません。さてそろそろ準備も整う頃でしょうから、場所を変えてさっそく作戦会議といきましょう…」
ヴァランはそう言って立ち上がると、近くに置かれていたベルを鳴らして、外に控えていた側近のひとりを呼ぶ。するとその側近とともにアンドルーも一緒に入ってきた。

「ファルド様、向こうのテントに会食の準備が出来ています。身支度を整えたラウラ嬢もそこで待っていますよ。彼女はここでは誰も知り合いはいないんです。早く側に行ってた方がよいのでは…?」
心配そうにジャマールの耳元でつぶやくアンドルーの言葉を聞いてジャマールは苦笑する。
ヴァランから聞くドゥメイラの情報に注意深くうなずきながら、その反面ラウラの状態が気になってもいた。
アシュタット族に知り合いのないラウラはひどく緊張しているに違いない。

「わかった、案内してくれ…」
立ち上がって、ヴァランに軽く会釈をしてジャマールはテントを出る。
ここを訪れたのは午前まだ陽がそれほど高くない時間帯だったのに、すでに太陽は中天を過ぎようとしている。ヴァランと夢中になって語っているうちに時間の過ぎるのをすっかり忘れていた。
眩しさに顔をしかめながら…いくつか並んでいるテントの前を通り過ぎて…入り口に白っぽいビジャブ(イスラムの女性が顔以外、頭をスッポリと覆い隠す大き目のスカーフ)を身に着けた女性たちが立ち並ぶテントの前に立つ。彼女たちは低く頭を下げたまま…ジャマールたちが通り過ぎるのを待った。
その横を無言で過ぎて、幾重にも張られた薄絹の幕を抜けて中に入ると…低めのソファーを半円状に張り巡らせたその片側の中央付近に、淡い色合いのビジャブを身に着けたラウラが緊張した面持ちで座っている。その後ろには質素なビジャブをまとった年若い侍女が二人控えていた。
 二人はジャマールに深々と頭を垂れたまま…ジャマールが席に着くのを待っている。ジャマールは二人にちらりと目をやってから、少し間を開けて…ラウラの隣に腰を下ろした。

「ラウラ…どうだい…? 少しは落ち着けたかい?」
「え…ええ…」
 ラウラが小さくうなずいて、息を吐くのが解った。さっきまで緊張していたのが解る仕草だった。今のラウラは襟元とスカート部分に美しい刺繍の入った身体の線に沿った女らしい衣装を身に着けていた。思わずその姿にジャマールは見とれてしまう。
 彼女はアストラットのラナ姫に縁のある女性だとわかっている。わかっていても…惹かれる想いを抑えることは出来なかった。 

「どうやらヴァラン殿は君のこともちゃんと受け入れてくれているようで安心したよ」
「ええ…そこにいるマナとシリルがついていてくれるから安心なの…」
「そうか…それにやっぱり君は男の形よりは、その恰好の方が似合うな…。よく似合っている」
ジャマールの言葉にラウラの頬が赤く染まる。それを少し離れた幕の裏でアンドルーが見守っていた。
それを知っているジャマールは、ラウラの頬に指先をのばそうとして留める。二人きりならともかく、人目があるところでは控えるのがベストだろう…。

するとそこへ数人の側近を従えたヴァランが入ってくる。それを見たラウラは、席を立ってソファーの横に片足を付いて頭を下げた。
 ファルドと一緒に訪れたとはいえ、彼はともかく自分はあくまでも一介の踊り子に過ぎない。アシュタット族の長であるヴァランからすれば、ラウラはファルドが連れてきた付属品なのだ。

「ああ…ラウラ嬢、あなたもファルド殿同様に我々の客人なのだ。無用な儀礼は必要ありません…」
ヴァランはそう言って、ラウラに着席を促すと…彼が席を付いたことを合図にどこからか次々と料理が運ばれてくる。半円形になっているソファーの中央にヴァランとジャマールが座り、ジャマール側にラウラが座る。ヴァランの隣には数人の側近たちが並び…ラウラから少し離れてアンドルーが座っている。

「まずは食事をしながら、今後の作戦を話し合いたいのですが…」
ヴァランは言葉に気を付けながら、ラウラにも聞かせる形で今のドゥメイラを取り巻く状況を語っていく…。この場でジャマールの素性を知らないのはラウラだけだ。
それをわかったうえで、ヴァランはあくまでジャマールをドゥーラスの王家に縁の人物として扱ったうえで、話を進めていく。

「ラウラ嬢、それであなたは数人の仲間と一緒に、舞姫の立場を利用してアりメドの王宮に近づこうとしていたわけですね?」
確認するようにヴァランはラウラに問いかける。実際にはすでにジャマールの口から、彼女に関する情報は伝えてあるが、あえて彼はラウラの口からそれを聞きたかったに違いない。

「はい…この数年、ずっとラナ姫を救い出すためだけに準備して来たのです。王都まであともう少しだったのに…」
ラウラはそこで悔しさに唇を噛む。あそこで邪魔が入らなければ…今頃ゾル一座は王都に到着していたかもしれないのだ…。

「ラウラ、残念だが…アリメドは君が思うほど我慢強い男ではない…。欲しいものを手に入れるためなら、自分の部下でさえ邪魔なら平気で排除する男だ」
横からジャマールは努めて冷静を装いながら口を開く。

「ええ…囚われた一座の仲間が酷い扱いを受けていなければいいのですが…」
 ラウラが目を伏せると、ヴァランはそこで、さっき近郊の街に偵察に行かせていた部下から聞いたある情報を伝えてきた。
アリメドはドゥメイラ中の王都に向けてある“告知”を発して来たというのだ。

「アリメドは、銀の舞姫を探している。捕らえた一座の踊り子たちを人質にして、今月中にドゥーラスに現れなければ、仲間を一人ずつ処刑すると言っているらしい…」
それを聞いた瞬間に、ラウラは手にしていた飲み物の器を足元に落としていた。濃いワイン色の飲み物はラウラの薄紫色のドレスを赤く染めて…その手はブルブルと震えていた。
「ラウラ…!?」
 ジャマールが冷たくなって色を失っている彼女の手を握ると、後ろに控えていた二人の侍女も駆け寄ってきて、慌ててドレスの染みを拭きとっている。

「申し訳ない…そんな風にショックを与えるつもりはなかったのだが…」
ヴァランはついつい事実をそのまま伝えてしまったことを詫びながら、近くにいた側近に命じてもう一人の世話役、最初に出会ったジアという女性を連れてきた。
その時のジアは全身を覆うアバヤではなく、上着とスカート部分が解れた衣装を着ていて、スカートには横に大きなスリットが入っており、その下には男性が着るような細めのカフタンのスラックスを身に着けていた。
頭はビジャブで覆っていたが、まとっている雰囲気はとても一介の侍女ではないことがわかる。

ジアはまずヴァランに軽く頭を下げると、次にジャマールとラウラの前にひざまずく。

「ファルド様、ラウラ様、わたしはジアと申します。ヴァラン様の命で、これからはラウラ様の護衛を務めさせていただきます」
 ジアは再び頭を深く下げて、ラウラの反応を伺った。

「ジアはわたしの身内の者…ファルド殿にはわが一族が、古くからドゥーラスの王家の護衛を務めてきたことはお話ししましたが、一族には女の戦士も多くいるのです。か弱く装いながらも、ジアは優れた戦士です。確かにアリメドは狡猾な男だが…銀の舞姫なら、奴を油断させることが出来るかもしれない…。ジアをラウラ嬢の護衛として付けましょう…。」
先にヴァランが口を開く。

「ですが…彼女を行かせるのは危険です…」
ラウラを手放したくないジャマールは、彼女の手を握りしめたまま…ヴァランを見る。

「いいんです。わたしは行きます。ジアンや、他の仲間を犠牲には出来ないから…それに、ラナ姫の後宮入りまでもう一月もないのです…! ファルド、お願い行かせて…」
さっきまで震えていたとは思えないほど、ラウラはしっかりとした声で自分の意思を示した。
それにノーと言えるほど、ジャマールはラウラを知っているわけではない…。

「お任せください。ファルド様…このジアが命をかけてラウラ様をお守りいたします…」
再びジアにそう言われれば、ジャマールはうなずくしかなかった。
ラウラに素性を明かせない以上、ずっと彼女の側にいることが出来ないことも事実だった。

「これからのことはあとで話すとして、今は汚れた衣装のお召し替えをいたしましょう…」
ジアに促されて、ラウラがその場から退場すると、声を落としてヴァランが話しかけてきた。

「ジャマール様…じつは以前アストラットを訪れた際に、ザディハ王は…いつかあなたがこのドゥメイラに戻られたら…ぜひお話ししなければならないことがあると言われていたのです…。もちろんそれはラナ姫についてですが…」
「それはどういう…?」
 そこでヴァランはゆっくりと横に首を振る。
「わたしも知らないのです…もう今から5年以上前のことですから…。ですがあなたはこうしてここに戻って来られた。今こそ各地に散らばっているかつての王家に従う者たちの力を結集するべきです。ラウラ嬢の存在は絶好の好機です。さっきも言いましたが、アリメドは銀の舞姫に固執している。その隙を利用して、囚われている王妃とネフェル様を救い出すのです…!」
 熱っぽく語るヴァランの言葉をじっと聞きながら、ジャマールは複雑な想いに囚われていた。

ラウラは強い意志を持った女性だ。仲間の命が掛かっているのならなおさら、自分を犠牲にしても助けたいと思うのだろう。
今の立場のジャマールに、ラウラに対してしてやれることは限られている。

「わかりました…彼女のことはお任せします。ですが…避けられる危険は出来るだけ避けていきたい…そのために出来ることは何でもします」
「もちろんです…我々も同じ気持ちですから…お任せください、王子…」
 気遣うような笑みを浮かべているヴァランはまるでジャマールの気持ちを見透かしているようだ。

 妙な違和感を感じながらも、それを無視してジャマールはヴァランにラウラを委ねることに決めた。

「アンドルー、マレー号から何か情報は来ていないか…?」
「そうですね…? ミスター・ファウストをマレー号に送ってからすでに3週間近く経っていますから、そろそろ何か動きがあると思いますが…?」
側にやって来たアンドルーが口を開いたその瞬間、にわかに外が賑やかになり…二人は急いで外へと飛び出した。

 アリに導かれて、北の山脈伝いの平原へと足を踏み入れたヴァンリ達一行は、目の前に広がる大きなテントの群れに息をのむ。

「こ…これは…!? 」
 この地域にこれほどのキャンプを張れるのは、おそらくは北の山脈に隠れ住むと言われているアシュタット族に違いない…。
この数年、旧政権の残存勢力からどれだけ誘いをかけられても、決して腰を上げなかった彼らが、密かに動き出したという噂は本当だったのだ。
それにしてもこの数は…。

騎馬隊だけでも数百か…? いや、これは前衛隊かもしれない…。アシュタット族は謎が多い…。
 レヴァド王の時代にも決して表に出てこない影の部隊を率いていると、父が話しているのをこっそり聞いたことがあった。
その彼らがなぜ今頃…? 
そう思うヴァンリの目の前を、アリは横切った後…まるで付いて来いと言うように、高く舞い上がって、まっすぐアシュタット族のテントの並ぶ辺りへと飛んでいく…。

「どうする? ヴァンリ…!?」
 仲間たちは動揺してヴァンリの周りに集まってくる。

「アリはおれたちに何かを伝えたいんだ。だからここに連れてきたんだろう…」
「だが、あれはシュタット族だろう? もし…おれたちを敵だと判断したら…!?」
 仲間の動揺はもっともだろう。

「旧ドゥーラスの王旗を持っているか…?」
「ああ…。あるにはあるが、それをどうするんだ?」
「剣の先に掲げて行く…。彼らがレヴァド王の影の親衛隊なら、必ず効果がある…」
 ヴァンリは振り返って仲間に微笑むと、先頭に立って目の前のテント目指して馬を進めた。

大切な想いと…別離

 女性たちのテントの集まるほぼ真ん中にラウラの寝所となっている天幕があった。
結局あれからラウラはファルドたちの元へ一度も呼ばれることはなく…明日にはラウラとジアは、他のアシュタットの戦士に護られて…王都の近くに潜んでいるサムエルや、アストラットの戦士たちと合流するべく、彼らのテリトリーへ向かうことが決まっている。

 このままファルドとはもう会えないのだろうか…? 

 不安な想いに夕食も喉を通らず…さっと身体を清めた後で、寝支度を手伝ってくれたマナとシリルは、明日の朝早くまた来ます…そう言ってそそくさと出て行ってしまう…。

 ひとりになったラウラは、心細さにベッドに腰掛けたまま…ベッドを覆う薄絹の向こうを照らす小さなランプの明かりをぼんやりと見つめていた。

 ああ…もう一度、あの方に会いたい…。
 一年前、サムエルと隣国“セイレン”を出た時には、自分がこんな風に誰かに心奪われることなど考えてもいなかったのに…。

 そんなことを想っていると…目の前の明かりがゆらゆらと揺らいだと思ったら、部屋の壁に大きな人の影が映し出されて…。
 侵入者の影にビクッとしたラウラは、怯えたようにベッドの上に這い上がって、じりじりと後ろに後退していく…。

「ラウラ…」
 そこで自分の名前を呼ばれて…初めてラウラは侵入者だと思った相手が、今自分が一番会いたかった男だと気がついた。

「ファルド…? あなたなの…?」
「ああ…わたしだ。君に話があって来たんだ。入って構わないかな…?」
「ええ…」

 か細いラウラの声を声を受けて、ジャマールはゆっくりと天幕に覆われた寝台の中へと入っていく…。
 明かりはテントの中の離れた壁側に置かれた小さなランプのみ…。
やっとお互いの顔が確認できる程度の薄暗い照明の中で…二人は寝台を挟んでじっと見つめ合う…。

 ラウラは素肌を覆う薄い夜着がひどく心許なく感じられて、そこにあった薄い上掛けを取って自分の胸へと引き上げた。
 
 今夜のラウラは長い銀髪を緩やかに編んで片側に垂らしたその姿はまるで少女のように見える。
 相対するジャマールも緩やかな白い清潔なカフタンを身に着け、ウエストには飾り帯も…いつもは肌身離さず着けている三日月刀もそこにはなかった。
 髪もターバンで覆うことなく肩先に垂らしたままだ。
黒く真っすぐな前髪が顔の横に垂れて…いつもは厳しく見えるその顔立ちは…きりっと美しくより整って見えた。

「ラウラ、すまなかった…。本来なら君も交えて…きちんと話し合うべきだったと思う…」
「いいえ、いいの…ドゥーラスの…お仲間がいらしたのでしょう…?あなた方の闘いとわたしのそれとでは、向かう方向は同じでも必ずしも同じではないもの…。あなたは今までとてもよくしてくれたわ…わたしは…とても感謝しているの…。これからはジアが守ってくれるから…あなたは、あなたの想う道を行って…」
 口ではそう言いながら、ラウラの心はそれほど簡単ではなかった。

 声は震え…自分でも意識しないまま、頬を一筋の涙が伝っていく…。
頭ではわかっているのに、女としてのラウラは…ファルドを求めていた。

ラウラの頬を伝う一筋の涙を見た瞬間に、ジャマールは彼女の寝所に、ひとりで訪れたことを後悔し始めていた。
 ラウラの孤独や寂しさに…今の自分は何ひとつ応えてやることは出来ないのだ。それでいて、手放すことが出来ない…。

「ラウラ…我々は、わたしとドゥーラスの友人は明日の夜明けにはバラクへ向けて発つ…君はジアたちと一緒に別のルートで、キメラ近郊に潜伏しているサムエルと合流するんだ。そこにはアストラットの戦士たちもいる」
 寝台の端に腰掛けて、そっと片手をのばしてラウラの頬に触れると、ビクッと小さく身を震わせたラウラは、涙で濡れた美しい碧い瞳でジャマールを見上げる。

「ファルド…?」

ああ…手放せないとわかっていて…わたしは何を言いたいのか…?

 冷静にならなければと思えば思うほど、頭が混乱してくる。
ラウラが頬に添えられたその手に自分の手を重ね合わせ…摺り寄せるようにして頬ずりすると…ジャマールはもう一方の手でラウラの細い肩を抱き寄せた。

「ラウラ…わたしはどうしてもバラクへと行かなければならない…。わたしの代わりにアンドルーを君の側に残す…。あれはわたしの副官で…わたしのことをもっともよくわかっている男だ。君を必ず守ってくれるだろう…」
「ええ…わかったわ…。あなたとわたしの行く先は必ず同じところにあるとわたしは信じている。でも一つだけ…あなたにお願いがあるの…」
 ほの暗い明かりの中で、ラウラの瞳がきらりと光る。

「今のわたしに出来ることなら…なんでも叶えよう…」
「ファルド…」
 しばらく言い淀んだラウラの頬と耳が赤く染まって…必死に言葉を探しているのが解る。

「わたしは…わたしのこれから行く先には、たぶん今まで以上に困難なことがたくさんあるのはわかっているの…。ラナを助けるためには、きれいごとばかりでは済まされないことも…」
 時々ため息を交えながら、必死にラウラは何かを伝えようとしていた。

「ファルド…もしわたしがあの卑劣な男の手に堕ちて…汚されることになっても…」
「ラウラ…! そうならないためにジアやアンドルーがついている…!」
「ええ…わかっているの。でも…わたしは怖い…。何も知らないから…。お願いファルド、わたしをあなたのものにしてあなたの手で教えてほしいの…わたしの“はじめて”があなたであってほしい…」
「……!」

 必死に訴えるようなラウラの眼差しに、思わずジャマールは怯みそうになる。

「ラウラ…今のわたしは、君に何の約束もしてやることは出来ない…」
「いいの…これから先わたしの身に何が起きても…あなたとの思い出があれば…わたしは耐えられると思うの…だからお願い…」
 潤んだ瞳で見つめられると…ジャマールはまるで金縛りにあったように動けなくなる。

 心とは裏腹に雄の部分は正直である。ラウラと触れあっている部分から火がついた炎は、カッと熱く燃え上がると…瞬時にある一点へと集まってくる。

「クっ…! ラウラ…」
 気がつけば、しっかりと両手でラウラの華奢な身体を抱きしめていた。
ラウラもこれが最後と思っているのか、ジャマールの胸に頬をすり寄せて…細い両腕をその背中に回してすがり付いてくる。
 冷静な頭で考えれば、今ライラとは距離を取るのは当たり前だとわかるのに…その時のジャマールはおおよそ平常心とはほど遠い状態だった。


 幾重にも重なった薄布で仕切られた寝台の上で、規則的に軋むマットレスの音に交じって…あえやかな女の嬌声が微かに響く…。

 ラウラは羞恥心から頬をバラ色に染めながら…自分から身に着けている衣の結び目を解いた。たおやかな二つの双丘が胸元からまろび出ると…長い睫毛を伏せて、震える指先で恥ずかし気にジャマールの頬を撫でる。 
 ラウラが触れた瞬間に、ジャマールの頭からすべての理性が吹き飛んだ…。
彼女に激しく口づけると、片手でラウラのうなじを支えながら…もう一方の手で豊かな膨らみをしたからすくい上げるように包み込む。
 柔らかな弾力ある肌がジャマールの手の中で吸い付くような感触を伝えてくると、その手のひらの中心にチリリ…とした熱い痛みが走った。
 ジャマールの右手の中央には約束された“印”が刻まれている。その“印”が訴えてくる痛みの意味を今のジャマールは考える余裕などなかった。

 今はひたすら彼女とひとつになることしか考えられない…。はじめてのラウラのためにできるだけ苦しみを与えないように準備したつもりでも、その瞬間に苦しそうに表情をゆがめた彼女を気遣いながら進めるのにはかなり骨がおれる。
 最後の障壁を突き抜け…ジャマール自身がラウラの最奥に収まった瞬間に全身から汗が滴るままに、じっと彼女が自分の大きさに慣れるのを待った。

「ラウラ…苦しければ、爪を立ててくれて構わない…」
「いいえ…大丈夫。わたしは…あなたとひとつになれて嬉しい…」
 そう言ってほほ笑むラウラの頬を伝う涙をジャマールは唇で吸い取ると…愛しむようにその唇を重ねて、ゆっくりと動き始めた。 

「愛している…ラウラ…」
「ファルド…ああ…わたしも…愛しているわ…」
 二人の想いは刹那的に交差して…一気に高みに向けて上り詰めて行った。








 翌朝…日の出とともにジャマールは、ヴァンリとその仲間ともに数人の部下を連れてアシュタット族のキャンプを後にした。

 夜明け前…まだ暗いうちに、ジャマールはラウラの眠るベッドを一人抜け出したのだ。
はじめて愛をかわした後、ふたりは刹那的に何度も愛し合った。
 ラウラは初めての体験だったにも関わらず、積極的にジャマールを求め…最後には疲れ果ててジャマールの腕の中で、半ば気を失うようにして眠ってしまった。
 ジャマールにしても、こんな風に誰かを求めたのははじめてだった。ドゥメイラにいた頃は、好奇心旺盛な若者が知識として異性を求めるために、その筋の女官たちを相手にしたにすぎないのだ。
 こんな風に互いに想う相手と、激しく求め合ったのは初めてだった。
今ならあれほど刹那的にアスカを求めていたアレックスの気持ちも理解できる。

 美しい銀色のおくれ毛をこめかみに張り付かせながら…眠っているラウラの美しい寝顔を見つめて、再び自分の分身がムクムクと欲望に発ち上がってくるのをジャマールは苦笑しながら見下ろした。
 それでも今はラウラと離れなければならない。それがどんなに辛いことでも…。

 ゆっくりとジャマールが起き上がって寝台に腰掛けたままラウラを振り返ると…ちょうど寝返りを打った彼女の豊かな白い乳房がこちら側に零れ落ちてくる。
 形の良い大きなふくらみとは不釣り合いなほど可愛らしい薄桃色の蕾がツンと誇らし気に上を向いていた。
 そしてその横には、昨夜愛し合った時にジャマールがつけた赤いバラのような跡もある。もう一度彼女の声を聞きたいが、そうすればさらに離れがたくなるのはわかっているので、その赤いバラと…唇にキスを落して、ジャマールは後ろ髪を引かれる想いでその場を後にした。

 ジャマールがテントの入り口の幕を開けて外に出ると、そこにはアラブ風のカフタンに身を包んだアンドルーとジアの姿があった。
「ファルド様…」
 二人は足元に控えた状態で深く頭を下げたまま…ジャマールの言葉を待っている。

「アンドルー、そしてジアも…。わたしはこれからここを離れ、叔父上の待つバラクへと旅立つ…。あとのことは頼む。」
「お任せください。ラウラ様のことは命をかけてお守りします…」
 ジアはそう言ってもう一度深く頭を下げてからテントの中へと姿を消した。ジアがいなくなると、アンドルーは立ち上がってジャマールの側までやって来た。

「どうやらうまくお話は出来たようですね?」
 ジャマールの表情を伺うように問いかけるアンドルーに、ジャマールは少し戸惑うような笑みを浮かべた。
「お前の言う上手くとはどういう意味なのかな? 彼女はあらゆる意味で互いの状況を理解している。今は別々に行動しなければならないということも…」
「彼女は賢い女性です。あなたの立場も…彼女なりに理解してのことでしょう。」
「ああ…お前の言うとおりだ。だからこそ…彼女を頼む」
「承知しています。キメラまで行けばサムエル達とも会えるでしょう。必ず次にあなたと会える時まで、おれは彼女を護ります」
 力強い言葉でうなずくアンドルーの手を、ジャマールはしっかりと握りしめた。
「頼む、アンドルー。今のわたしの気持ちを理解できるのはお前だけだろう…」
「任せてください…」
 もう一度、アンドルーの肩を叩いてから、ジャマールはその場を離れた。


 東の空はすでに白み始めている。
その中、慌ただしくアシュタット族の長、ヴァランと別れの挨拶を交わして…ジャマールは仲間の部下が引いて来た愛馬の背中に飛び乗る。
 隣に馬を進めてきたヴァンリと目を合わせると、そのまま勢いよく平原へと飛び出して行った。


どれだけ眠っていたのだろう…? 部屋に入ってきた誰かの気配に目を開けたラウラは自分が何も身に着けていないことに気がついて、慌てて上掛けを自分の首元まで引き上げる。

「まあ、お目覚めになられたのですね…? お疲れだから起こさないようにと聞いていたので…」
小柄なマナが心配そうに枕もとに水差しを置いていく。
「ありがとう…」
 マナはラウラを気遣うように微笑むと、あとで着替えを持ってきます。そう言って部屋を出て行った。

「ッ…!?」
ベットから下りようとしたラウラは、不意に思いもよらない場所にツキンとした痛みを感じて戸惑う。
そこには別の違和感もあって…まだそこに何かが挟まっているかのような感覚さえある。
昨夜…ラウラの元を訪れたファルドを、自分の方から抱いてほしいと誘ったのだ…。そのことを思い出して、ラウラは全身がカッと熱くなった。
 愛し合った痕跡は、足の間の微かな疼痛以外はきれいに清められていた。
フッと目を落した先…自分の右の胸に赤い花びらのようなうっ血痕を見つけて…確かに自分とファルドは愛し合ったのだと思うだけで、心は喜びに震えてくる。

けれど同時に…その喜びと同じくらいの戸惑いと悲しみがあるのも事実だった。
ファルドは、どこに居ても、いつか必ず迎えに来る…そう言ってくれたけれど…それが叶わないことをラウラは知っている…。

 じわじわと込み上げてくる哀しみに…唇をキュッとかみしめていると、不意に天蓋の外から呼びかけてくる声がある。ジアの声だ。
「ラウラ様…?」
 
 寝台の上で膝を抱えたままで…胸元を上掛けで隠しながら小さくなっているラウラの姿を見つけると、ジアはいたわるような眼差しで微笑んだ。
「先ほどからラウラ様に面会の方が来られています。ファルド様の従者の方ではないかと…?」
「ファルドの…?」
「はい、お通ししても…?」
「ええ…」

 ファルドの名前を聞いてとっさに頷いていた。
 急いでマナの持って来た衣装に袖を通すと、しばらくして、今までファルドの傍らで何度も目にしていた一人の個性的な風貌のハッとするような美青年が入ってくる。

 彼はセピア色の瞳をして、ファルドよりは少し細身の体に白いアラブ風の衣装を身に着けていた。
 少し緊張した表情で入ってくると、さっとラウラのいる寝台の足元に膝まづく。

「ラウラ嬢…。わたしのことは覚えていらっしゃると思いますが…ファウストのキャラバンで、上官であるファルドさまの副官をしているアンドルーです。ファルドさまより直々にあなたの護衛を命じられています。これからはドルーとお呼びください…」
「あ…あの…ファルドは…?」

 もう彼がここに居ないことはわかっている。昨夜、明日の朝…夜明けとともに旅立つと言っていたのだ。ならば、一番の副官であるこの彼をファルドはわざわざ置いていったことになる。
 何故…?
 その答えはアンドルーと名乗る青年が答えてくれた。

「上官のファルドさまは、今朝早くかつての仲間とともにバラクへと向けて出発しました。かつてのバラク王であるアランド様がご存命と分って、対面のために出かけたのです。アランド様は、現在幽閉されているイレーネ王妃の実兄でいらっしゃる。アランド様の名前の元にきっと多くの反体制派が集まってくる。そのための準備のための拠点づくりが必要になりますから…。そしてわたしがここに居るのは、アリメド王に真っ向から向かおうとするあなたを守るため…ファルドさまはわたしにとって上官であり、ある意味主のような存在ですから、そのファルドさまからあなたを自分の代わりに護ってほしいと頼まれたのです」
「ファルドが…?」
「今はまだ明かせませんが、彼はある目的があってこのドゥメイラに戻ってきました。我々はその手伝いをするために主人の命を受けてここに居るのです。ただその主人も、彼のことを生涯の友と呼んでいて…我々はみな深い絆で結ばれている…。彼が大切に思い護りたいと想うものに対して、我々も同じ想いで臨みます…」
 
 強い言葉で言い切ったアンドルーの顔をラウラはしばらく見つめていた。
この青年の顔は、一緒に移動している間何度も目にしていたからよく知っている。
 常にファルドの側にいて、彼の言葉や意図に忠実に従い手足として動いている姿には
好感が持てる。
 その最も信頼できる部下を置いて行ってくれたファルドに感謝するべきなのだろう…。
わかっていても、本心では寂しくて仕方なかった。

「ありがとうございます…。わたしは彼のことを何も知らないのです。お願い…あなたの知る彼の姿を教えてもらえますか…?」
「ええ…可能な限りお答えしましょう…」
 アンドルーはラウラを安心させるように穏やかに微笑んで小さくうなずいた。









 

懐かしき再会

 
 その時、シュタット族のテント周辺では、大鷹の襲来と、前触れもなく…突然現れた数人の騎馬隊に、あたりは騒然としていた。

大鷹は最初中央のテントの上を何度も旋回していたが、やがて意を決したように…そこに立つ人物を見定めるように不意に急降下を繰り返しては、人々を驚かせていた。

アンドルーと外に飛び出したジャマールは、その様子を見て瞬時にそれが“アリ”だと気づく。
「やめんだ…!」
 テントの脇で上空に向けて弓矢を構えている若者を片手で遮ると、視線を上に向けたまま…テントを足早に離れ、前にそうしたように頭に巻いていた布を解いて左手にぐるぐると巻きつけながら…その手を天高く差し伸ばす。
すると…それを待っていたかのように大鷹は一直線にジャマールめがけて飛来し、水平に差し出されたその腕に優雅に止まった。

「アリ…!」
 ジャマールが愛し気にその頭を指先で撫でるのに反応して、大鷹はクルクルと小さく鳴き声を上げながら気持ちよさそうに目を細めている。

その様子をアンドルーとともにじっと見つめていたヴァランは、そこで…近づいて来た騎馬隊の一団も自分たちと同じように、じっと凍り付いたようにその様子を見つめていたことに気がついた。
一瞬の間をおいて、その先頭を行く男が素早く馬を下りて…こちらに近づいて来る。

部下のひとりが懐から銃を取り出して、彼に狙いを定めるのを見て、ヴァランはそれを押しとどめた。
彼らが旧ドゥーラスの王家の旗を掲げているのに気がついたのだ。

男は吸い寄せられるように、腕に鷹を止まらせたままのジャマールに近づいていく…。

彼の仲間と、ヴァラン…アンドルー、その場にいる者たちが見守る中…ジャマールとその男は数メートルの距離を置いてしばらくじっと見つめ合った。

ジャマールははじめ、腕の中にいるアリの姿に夢中で、自分の方に近づいて来る男がいることに気づかなかった。
クル…クル…。
アリの鳴き声で顔を上げたジャマールは、自分を真っすぐ見つめている男の眼差しに目を奪われる。

男は戦士らしく、短く刈り込んだ髪に白い麻のターバンを巻き、体には動きやすい短めのカフタンを身に着けていた。腰には中型の三日月刀、恐らく懐には小型のナイフも忍ばせているに違いない。

瞬時に身構えたが、彼が全身から発している何かが…ジャマールを戸惑わせる。
誰だ…?
 

「ああ…アリを…その鷹をそんな風に近づけさせることが出来るのは…まさか、まさか…」
その男はさっきからうわごとのように何かを囁いている。
なぜかジャマールも彼の顔から視線を外すことが出来ない…。日に焼けた男にしては細面の顔立ちだが、左頬から片目を閉じた瞼の上にまで走る傷跡が痛々しさを感じさせる…。
そして右目は大きく開かれて…そのハシバミ色の瞳にはジャマールの姿が映し出されていた。

この瞳をわたしは知っている…。かつて…すぐそばにいて優し気な…悪戯っぽい目をして常にジャマールを見ていた。誰よりも彼を理解してくれていた親友ともいえる相手…。

「まさか…!? ヴァンリ…なのか!?」
 無意識にその名前が口をついて出ていた。

「ああ…やはり、あなたなのですね…!?」
 そう言った途端、目の前の男から大粒の涙がこぼれ落ちてきた。それを見たジャマールは彼の身体をしっかりと片手で抱きしめた。

「ヴァンリ…! 生きていてくれたのだな…!?」
熱くなってくる目頭を、ギュッと瞼を閉じて…ジャマールは、溢れた感情が爆発しそうになるのを抑え込んだ。

「アリは、あなたが戻ってきたとわかっていたのですね? だから、ここに我々を連れてきた…」
「ああ…アリが引き合わせてくれたのだろう。ありがとう、アリ…お前のおかげだ…」
 ジャマールが愛し気に目の前の大鷹の頭を撫でると、再び大鷹は甘えたような鳴き声をあげた。

「ファルド様、テントの中でヴァラン殿がお待ちです。そちらの騎馬隊の方もご一緒にとのことです」
いつそばにやって来たのか、アンドルーがジャマールの耳元でささやいた。
我に返って辺りを見回せば、ジャマールの部下以下多くの人々が二人の動向を見守っている。ここにアリメドの眼があるとは思わないが、あまり目立つ行動はとらない方がいいと、長年の経験でわかっていた。

「わかった、ヴァンリ、仲間を連れてこっちへ…」
 ジャマールの言葉を受けて、後ろにいる仲間へヴァンリが合図をすると、地面に膝をついた形で頭を下げ控えていた男たちは戸惑いながら立ち上がった。
 すると側にいたジャマールの部下がそれぞれ近づいて、彼らの馬の手綱を預かってどこかへと移動していく…。

その様子を確認してから、アンドルーは先立って歩きだし、ジャマールもそれに続いた。そのあとをヴァンリは仲間とともに追って行った。


女性たちが多く集うテントの中で、着替えを済ませたラウラは、外が何やら騒がしい様子に気がついた。
「何かしら…? 外が騒がしいようだけれど、何かあったの…?」
「さあ、この近くに危険な部族はいないはずですので…敵の襲来ではないと思うのですが…?」
着替えを手伝っていた侍女のひとりマナがそう答えれば、もう一人のシリルが、見てきます…そう言ってテントの外へと飛び出していった。
 すると入れ替わりにジアが入ってきて、さっきからの騒ぎはファルドに縁の人物が仲間とともに訪ねて来たのだと教えてくれた。

「13年ぶりの再会だったようです。今ヴァラン様と一緒に会談中ですが、ラウラ様…よろしければここにお食事をお運びいたしますが、いかがいたしましょうか…?」
ジアは気遣うような眼差しでラウラを見つめた。さっき会食の途中で席を立つことになったラウラはまともに食事さえ出来ていなかった。
よく考えてみれば、今朝から緊張の連続で本当は食事処ではなかったのだけれど…。それでも今はファルドの側に行かない方がいいだろうと考えて、ラウラはジアの申し出に小さく頷いた。
次々と明らかになるファルド縁の人物たちに、ラウラは圧倒されていた。彼らは皆一様に彼に深い感銘と尊敬の念を抱いているのが解って、彼の存在がまた自分から離れていく寂しさも感じていた。

ファルドは…きっとかなり高位の貴族だったのね…? あんな風に皆から期待されているんだもの…。
今はサムエル達の動向もわからなくて…。ラウラは自分が何かちっぽけな子供になったような心細さを感じてうつむく。

「ラウラ様…元気を出してください。ここから先はわたしたちが責任をもってラウラ様をお守りします。まずはしっかりと体力をつけないと…」
「そうですよ、ラウラ様。ここにいるジア様は女性ですけどとても強いんです」
「そう、そう、並の男二人くらいなら平気で倒せちゃうくらい強いんですよ!」
「こら、余計なことを…!」
 マナとシリルがそう口々に言い合うのをジアは困ったように苦笑いするが、その様子にラウラの心もフッと緩んだ。
 彼らなりに今のラウラの心情を思ってのことなのだ。
「さあ、さあ、あなたたち、おしゃべりばかりしてないで、動いてちょうだい」
 ジアに促されて、二人の少女たちはサッと立ち上がって動き出した。
二人がいなくなると、ジアはフッと表情を引き締めてラウラに向き合う。

「ラウラ様、あなたが思っているよりもずっと我々には仲間がいます。その証拠にこうして今、ファルド様の周りには多くの戦士たちが集まりつつあるのです…」
「あ…あの、ファルドはいったい…?」
 ラウラはジアにファルドが何者なのか聞いてみたかった。明らかにアシュタット族の長、ヴァルドはファルドの出自を知っている様子で、ヴァルドが知っているなら当然ジアも知っているとラウラは考えたのだ。
「それは…」
ジアが何か言おうとした時、テントに大きなトレイを抱えたマナとシリルが入って来て、二人の会話は中断されてしまった。

 きっと今は何も問わない方がいいのだろう…。
そう判断したラウラは、マナとシリルの他愛ないおしゃべりに耳を傾けるふりをして、黙々と食事を続けた。


 ヴァランが用意した新たな会談の席でジャマールとヴァンリは、離ればなれになっていたこの13年間の隙間を埋めるように、時間も忘れて語り合った。

ジャマールはバラクの港からヴァンリに見送られて、オランダ人の養父母とともにヨーロッパに渡り…そこで医術を学ぶ傍ら…身体を鍛え、いつかドゥメイラに戻るその日のためにひたすら戦士としての自分を意識して鍛え上げてきたことを語る。

そしてドゥメイラを離れて3年経ったある日…養父母と一緒にエジプトのカイロを目指していた船旅の途中、地中海のキプロス沖でトルコの海賊に襲われて、両親はそこで命を落とし、自分は奴隷として囚われ…ガレー船の暗い船底に繋がれながら、一年間必死に生き延びたことを伝えると、ヴァンリは唇を噛みしめながら涙ながらにじっと聞き入っていた。

「何という苦労をされたのですね…? でも本当に生きていて下さって良かった…」
「ああ…。そしてわたしは“ホーク”と出会ったのだ。おまえも知っているとおり、あの頃のわたしは世間知らずの甘っちょろい若造で、自分たちの生きている世界が一番だと思っていた…。気取って金持ち然としていた西洋人が大嫌いだったのだ。だが“ホーク”は、そんなわたしの世界を…文字通り覆してくれた…」
そこでジャマールは、それまで他の部下とともに近くに控えていたアンドルーを近くに呼び寄せる。

「ヴァンリ…紹介しよう。“ホーク”の元で、10年近く私の右腕として働いているアンドルーだ。ドルーと呼んでいる」
「アンドルーです。どうかドルーと呼んでください…」
 アンドルーはジャマールの後ろに片足を付いて控えたまま…小さく頭を下げた。

「驚きました…。王子であるあなたが、奴隷になったこともですが…世界の…名のある人物とともに世界中を回って来られたなんて…。おれには想像も尽きません…」
「いや…今となってはそれもわたしには必要なことだったのかもしれない…。そう思わないか…? アンドルー…」
不意に言葉を振られてアンドルーは困ったような笑みを浮かべた。

「さあ、おれはこの10年の間のあなたしか知らないので、何とも言えませんが…我々の主、“ホーク”にとってもあなたはかけがいのない存在であったはずで…だからこそ、こうして離れていても…“ホーク”はあなたへの支援を惜しまないのです。そしてオレをはじめ、こうしてあなたについて来た部下たちは皆、あなたのことを心から敬愛し…あなたの目的が果たされるまで…命を惜しまず尽くすつもりでいるのです」
そう言うアンドルーの後ろには数人の部下が同じ思いで深く頭を下げ従っている。
その姿に思わずジャマールは目頭が熱くなるのを感じた。

「素晴らしいですな、王子。あなたはこの13年の間に何と大きく成長されたことか…? きっとレヴァド王もお喜びのはず…。こうしてあなた方が出会えたのもきっとお父上のお導きかもしれません…。さあ、我々には時間がない。さっそくこれからの作戦会議といきましょう…!」

それまでじっと黙って二人の再会の喜びを見守っていたヴァランが、そこで二人の会話に入ってきたことで現実に戻ったジャマールとヴァンリは、ぐっと表情を引き締めて…互いの持っている情報を交換し合った。

その中で…ヴァンリの、前バラク王であったアランドが生きているという情報は、何よりもジャマールを驚かせ、勇気づけた。
「生きているのか!? 叔父上は…それで今どこに…!?」
「バラクの外れにある廃墟の地下神殿にいらっしゃいます。瀕死の重傷を負われ…やっとこの頃姿を現すことが出来るようになったと話されていました…」
「バラクか…そんな近くに…。我々もキメラとバラクの間にある廃墟の地下に身を潜めていた…」
 バラク~ドゥーラスに至る地域にはかつて大きな文明が栄え、多くの廃墟の地下に完ぺきに近い神殿がいくつもあったと伝えられている。前に拠点としていた地下空洞もその一つだが、きっとジャマールが知る以外にもいくつも存在するのだろう。

「アランド様はあなたがいつか生きて帰ってくると固く信じていらっしゃいました。きっとその姿を目にされれば、どんなにお喜びになられるか…」
「ああ…わたしも叔父上に会いたい。ヴァンリ、叔父上のところに案内してくれるか?」
「もちろんです…!」

 それからジャマールを囲んで、ヴァンリとその仲間、アシュタット族のヴァラン一族、アンドルーたちで夜遅くまで作戦会議が続く…。

王都を奪還するための計画として、まずはアリメドの眼を誤魔化すため、アシュタット族ヴァランの率いる中央部隊が、真っすぐ砂漠を抜けるルートでドゥーラスを目指す。
次に…ジャマールとヴァンリは、バラクにいるアランドを訪ね、アランドの元に集結しつつある部隊を率いて、極秘にドゥーラスに潜入、母イレーネとネフェルをはじめ、ラナ姫の救出に向かう…。
そして…“銀の舞姫”を擁するアシュタットのジアを先頭とした精鋭グループで別ルートを進んでドゥーラス近くに拠点を構え、アリメドと正面から交渉することとなる。
もちろん、アストラットの戦士であるカイルとサン、そしてサムエルと合流することが必至だ。

そこでジャマールは自分の代わりに、ラウラの護衛としてアンドルーを行かせることを決めた。
本心ではずっとラウラと一緒に居たいと思っているが…そうすれば必ずジャマールの素性がラウラに知れてしまう…。
いつかは知られることになるとわかっていても、出来るだけその時は遅らせたい…。
自分でも卑怯だと思いながら…ジャマールはラウラにその真実を告げることが出来なかった。

「アンドルー…すまないが、わたしの代わりにラウラを護ってほしい。わたしは…彼女についていてやることは出来ない…。こんなことを頼めるのはお前しかいないのだ…」
「わかりました。命をかけてお護りします…」

 いつもは毅然とした態度を崩さない上官が見せる苦し気な表情に、アンドルーはしっかりと決意を込めてうなずいた。
 ジャマールにとってラウラは初めてこころを許した女性で…おそらくラウラもジャマールのことを慕っている…それを知っているアンドルーだからこそ、出来る任務だと彼は心得ていた。

「それならば…今夜は彼女のところへ行って…事情を説明して安心させてあげてはいかがですか…? おそらくジアさんから説明は受けておられると思いますが、きっと彼女はあなたから直接話を聞きたいと思っているはずです」
 そうアンドルーに言われて、ジャマールはハッとして顔を上げた。
 明日の早朝にはすでにそれぞれが動く手はずになっている。
ドゥーラスまでの移動の日数を考えれば、ラナ姫の後宮入りの日までそれほど余裕もないのだ。

「わかった…ラウラには私からも説明しよう…」
「それがよろしいかと…」
 小さく微笑んでアンドルーは軽く頭を下げると、ジャマールの元を離れた。

 明日にはお互い別々の道を行くことになる。たどり着くのは同じドゥーラスのアリメドの下だとわかっているが…。
 あの男の…汚れた視線にラウラが晒されると思っただけで腹立たしく…このまま攫ってどこかに隠してしまいたくなる。
 自分にはその権利はないのだと言い聞かせてみたところで…到底納得できるものではなかった。
 釈然とした想いを抱きながら、ジャマールは自分のテントを後にした。







 

それぞれの戦いへ…。

アシュタット族を離れて3日目、ジャマールはバラクの西方…キメラの郊外まで戻ってきた。
 かつての盟友ヴァンリとの昼夜を問わずの強行軍だったが、疲れはなく…離れていたこの13年の時を埋めるべく、馬を並べながらあらゆることを語り合った。
 当時ジャマールは17歳、ヴァンリは19歳と、ともに十代の多感な時代を一緒に過ごした仲間だ。
 不遇な20代を経てお互い30代を迎えた今、一緒になればまたあの頃の愉しかった思い出がよみがえってくる。
 ただ目の前にある大きな問題に多大な緊張を強いられてはいるが…。


「ヴァンリ…いや今はジャグーだったな…? 王都の近いこれからは互いに呼び名には気を付けなければならないだろう…」
「市中では注意が必要でしょうが、ここに居るのはあなたの側近といえる人間ばかりです。今しばらくは気の置けない時間が過ごせるのではと…」
左眼の上に走る大きな傷跡とはアンバランスな頬に浮かぶえくぼが、13年前の優し気な面影を感じさせる。

「そうやって笑った顔は昔と変わらないな…ヴァンリ、苦労を掛けてすまなかった」
「何をおっしゃいますか…こうしてあなたは戻って下さった。それだけで、わたしは…」
13年経ってヴァンリも今では30を超えたいい大人だ。その大人の彼が誰はばかることなく男泣きする様は、ジン…とジャマールの胸を熱くする…。

「ヴァンリ、これからあるところへ行く。黙って着いて来い…!」
 そう言うなり、ジャマールは陽の傾きかけた砂漠の大地をある方向へと馬を駆けさせる。
「あ…! 王子、お待ちを…!」
 慌ててヴァンリもジャマールのあとを追う。少し離れてついて来ていたヴァンリの仲間たちも、そのあとに従っていった。






それからさらに半日馬を走らせて…ジャマールたちはさらに王都に近い位置…乾いた砂漠の中にひっそりと立つ廃墟に辿り着く。
太陽はすでに地平線へと姿を隠し…あたりは夕やみに包まれている。

「王子ここは…?」
 先に馬を下りて、一部壁のように高くそそり立つ城壁跡の内側に馬を引いて歩いていくジャマールのあとを、ヴァンリは仲間とともについて行く…。

「覚えてないか…? よくバラクまで出かけた帰りにここに立ち寄ったのを…」
「ああ…もしかしてここはあの神殿跡ですか…? 前はもっと建物の形が残っていたような…?」
「ああ…どうやら砂に埋もれたか、崩れ落ちてしまったか…随分様変わりしたが、この下だけは何もかもが昔のままだ…」
ジャマールは手にしていた愛馬の手綱をヴァンリに預けると、地面から斜めに飛び出している大きな石の壁のある一点に手をかけて力いっぱい引く。
すると鈍い音を立てて、ぽっかりと地下に向かう空洞が現れる。ここはアシュタット族の元に向かう前にジャマールたちが拠点としていた場所だった。
 もちろん、最初にラウラと二人だけで過ごした場所でもある。

「懐かしいな…あなたは歴史の講義の時間になるとわたしを呼び出して、遠乗りに誘うものですから、あとでこっ酷く父に叱られるのはいつもわたしの方なのですから…」
「ハハ…あの史学の教師が死ぬほど嫌いだったんだ…おまえだっていつも嬉しそうについて来たじゃないか…」
「ああ…あの偉そうな禿げ頭を好きな人間はいませんから…それにあなたとの遠乗りは何より楽しいものでした…」
 馬を連れてでも悠々通れる通路を経て…一行はここが地下とは思えないほど広い場所へとたどり着く。

ジャマールはもちろん、ヴァンリもこの地下神殿跡の存在は昔から知っている。だが初めて訪れるヴァンリの仲間たちは驚いたように辺りをキョロキョロと見回している。

「王子、彼らはもともとは地方出身の身寄りのない連中です。放っておけばいずれは野党の類に身を落していたでしょう。10年前に拾ってわたしが戦士として育てました。
右端のガタイのいい男が、アルバ、隣の細いのがエリオス、その向こうがシド、皆がさつ者ですが正直な男たちです」
ヴァンリに名前を呼ばれた男たちはサッとジャマールの前に整列すると片膝をついて頭を下げた。みな緊張した様子でじっと自分の足元に視線を置いたまま…ジャマールの言葉を待っている。
永い間国を離れていたせいで、こんな風に誰かに無条件で傅かれることには慣れていなかった。ホークの元で若い部下を従わせるのとはわけが違うのだ。

「頭を上げるといい…。ジャマール・レヴァン・アルファルドだ。ヴァンリ同様今は身分を明かせない身だが、これから先この国をもとの素晴らしい国にするために力を貸してほしい。アリメドを倒すことは容易くない…。それでもやらなければならない、この国のために…」
彼ら一人一人の眼を見つめながらジャマールは言葉を発した。

「ジャマール様、おれたちの命はあなたに捧げます…!」
 口々にそう叫ぶ彼らの顔を見回して、ジャマールは小さくうなずいた。隣では感激したようにヴァンリが泣き笑いのような表情をしている。

「まずはここに拠点を構えて、あらゆる方面とのつながりを作っていく。
バラクにいる叔父上に会って、作戦を練り直さなければならないが…時間がない。同時にわたしの部下たちも動いている。今はバラバラの動きだが、必ず一つの線になる。今は休んで…明日からの作戦に備えることにしよう…」
ジャマールがそういうと、さっきまでどこかで馬たちの世話をしていた数人の部下たちが現れて、ヴァンリの仲間たちを連れて行った。
彼らが扉の向こうへ消えていくと、ジャマールはヴァンリを伴って別の扉の向こう側へと進んで行った。

「ヴァンリ、この場所を覚えているか…?」
長い通路を抜けて開いた扉の向こう側に立ってジャマールは後ろにいるヴァンリを振り返った。
ヴァンリはその場に立ち止まったまま、前方に広がる景色に言葉を失っている。
彼の目の前には、大きな泉があり…片側の聳え立つ壁から清らかな水が、滝のように泉の中に注いでいた。
 そしてその壁の高い位置の隙間から、陽光が穏やかに降り注いでいて…思わずここが地下であることを忘れてしまう…。

「前にあなたとここに来た時…ここで一晩夜を明かしたことがありましたね?」
「ああ…。あの頃は向こう見ずで…何もかもがスリリングで楽しかったな…」
 ジャマールはひとりごとのようにつぶやきながら、身に着けていた上着を脱いで放り投げると、ブーツも脱いで…裸足になって冷たい泉の中へと入っていく…。

 天井から差し込む光の中に浮かび上がる見事なジャマールの細身の筋肉質な背中を見て、思わずヴァンリは息を吞む。
 背中を縦横無尽に走る無数の白い傷跡を見てしまったのだ。中にはまだ薄く赤みを持ったものもあって、それがそう古くない時期に付けられたものと分る。

 その気配を感じて振り返ったジャマールは小さく苦笑する。
「ヴァンリ、今のわたしはお前にはどう映る…?」
 今の自分はおおよそ王子らしくない…それが自分でもよくわかっていて、自然と出た自虐的な言葉だった。

「今のあなたは、まるで無敵の戦士のようだ。その体中の傷跡が表すものがすべてではないでしょうか…? 苦労されたのですね? そう言うわたしもあなたと似たり寄ったりですが…」
 そう苦笑ながら、ヴァンリも自分の来ているものを脱いでジャマールに続く。
左頬を走る大きな傷跡はもちろんのこと、裸の胸や肩に残る無数の傷跡は、この13年ヴァンリが生きてきた過酷な環境を物語っていた。

「お互い青臭い若造から大人になったということだ。この13年、お前はパルチザン(ゲリラ民兵)になって地下戦で闘っていたのだろう? その頬の創はその時に出来たものか?」
「これは…あの時バラクの港であなたと別れてから、わたしは首都の外れにある母の一族の屋敷を目指しました。父は恐らく何かの危険を感じていたのでしょう。1週間前から母と4人の妹をそこに預けていたのです。」
「そうか…お前には年の離れた妹たちがいたのだったな? 皆元気か…?」
 ジャマールがそう言った途端にさっきまで穏やかだったヴァンリの表情が苦し気に歪んだ。
 彼には12歳年の離れた当時7歳の妹を筆頭に5歳と…ジャマールの弟ネフェルと同い年の双子の妹がいたはずだ。

「マリルとノンナは母とともに崩れ落ちた屋敷の下敷きに…5歳だったニナとすぐ下のナディスは叔父の家族とともにその場は逃れたものの…ドゥーラスを離れるその時にアリメドの外人部隊に襲われ…ほとんどのものが命を落としました。ただナディスだけが…瀕死の状態で見つかって…何とか命はとりとめましたが、顔に醜いやけどを負ってしまって…。」
 苦し気にそう語ったヴァンリは、天を仰ぐようにして涙をこらえていた。

「ヴァンリ…」
 ジャマールはいつかヴァンリの屋敷を訪ねた時に会ったヴァンリの母、マナリルと愛らしい双子の妹たち…彼によく似たクルクルと表情の変わる明るい琥珀色の瞳を持つニナとナディスを思い出した。
 ヴァンリは家族のほとんどを失ったのだ。それでもジャマールにはまだ母と弟ネフェルが残されている。そう思うと胸を締め付けられるような痛みがジャマールを貫く…。

「すまない、ヴァンリ。おまえにも多大な苦労を掛けた」
「いいえ…それはあなたのせいではなく、すべてはあの男の招いたことです。恨むべきはあの男のみ…そのために我々はここに居るのです」
「そうだな…」
「ですが、王子…」
 自然と沈みがちな声のトーンを押し上げるように突然ヴァンリが思い出したように話し出す。

「一緒に旅してこられたラウラ嬢は、素晴らしく美しい方でしたね…? あんなに美しい人を初めて見ました
 心なしか興奮して声を上ずらせているヴァンリを横目で見て…ジャマールは小さなため息を漏らす。
 ラウラの美しい姿はすべての男たちのあこがれを具現化した姿だ…。
目にするものすべてを惹きつけて虜にする。ヴァンリですらそうなのだから、アリメドは必ず彼女を欲しがるに違いない…。

 それなのに…彼女は自分の魅力を過小評価している…それがジャマールには無性に腹立たしく、だからといって何も出来ない自分が歯痒く感じられて仕方ない…。

「王子…あなたは彼女を愛していらっしゃるのですか…?」
 唐突にそう問われてジャマールは言葉を失った。

「ヴァンリ…バカなことを…。わたしには定められた相手が居るのだ…たとえそうだとしても…どうすることも出来ない…」
 
 こんな時のジャマールは頑なだ。
 喉から絞りだすようにそれだけ言ってジャマールは不意にヴァンリに背を向けて、上から流れ落ちる水流の中に身を投じた。
 その後ろ姿を見つめながら、そのあとでヴァンリがつぶやいた言葉はジャマールの耳には届かなかった。

 ジャマールさま…あの13年前のあの日から運命は変わってしまったのですよ。あなたもわたしも…。








 ファルドに遅れること二日、ジアとアンドルー、数人のアシュタットの若者に護られてラウラはキメラの方向を目指して出発した。
皆目立たない砂漠と同じ砂色の大きなフード付きのマントを羽織って、その下も出来るだけ質素な衣装を身に着ける。ラウラもジアも女物ではないパンツタイプの動きやすい下衣を履いて、足元もサンダルではなく編み上げタイプのブーツを履いている。
不測の事態が起きてもすぐ動けるように考えてのことだった。


キャンプを離れる直前、対面したアシュタット族のリーダーであるヴァランは穏やかな笑みを浮かべて旅発つラウラの片手を取ると、大きな両手でその手を包み込んで励ますように言葉をかける。
「ラウラ嬢…あなたはとても勇気のある女性だ。我々アシュタットもあなたとともに闘うことを約束しよう…」
「ありがとうございます。ジアがともにいてくれることにとても心強く感じています」
ラウラも深く頭を下げて、ヴァランに心からの謝意を表した。

「あなたはアストラット縁の方だと聞いている。我々はザディハ王とも面識があるのですよ。我々の目指すところはすべて同じ。我々アシュタットはここから王都に向けて中央突破を目指します。もちろん、闘うのは我々アシュタットだけではない。今まで隠れていた旧王権側の兵士たちも集まってきている。今回ばかりはアリメド軍も覚悟しなければならないだろう…」
ヴァランはまるで人りごとのようにそうつぶやくと、また小さく微笑んでラウラから離れていく…。
その表情が何かラウラに言いたげな…そんな風に感じられて、しばらくじっとその後ろ姿を思わず見つめてしまう…。
 まるでヴァラン様はわたしの正体をわかっているかのような話し方だったわ…。



「ラウラ様…?」
 砂漠のある丘陵地点まで来た時、不意に後ろを歩いていたジアに声をかけられて、ラウラはハッとして頭を上げる。
砂漠を馬で移動しながら、いつの間にか深く考え込んでいて…目の前に現れた数人の騎馬隊の姿に気がつかなかった。
彼らは顔の一部を除いて全身を白っぽい布で覆って、まっすぐこちらに近づいて来た。ラウラの前方には彼女を庇うように、アンドルーと数人の男たちが緊張した様子でじっと男たちを見つめている。

彼らはラウラたちの数十メートルの手前でいったん馬を止めると、剣の先に隠し持っていた小さな紋章入りの旗を掲げてきた。
それを見たアンドルーがひとり馬を進めて彼らに近づいて行った。

「安心してください…彼らは味方です。我々を迎えに来たのです…」
 息を詰めてその様子を見つめていたラウラの耳元でジアがそっとささやいた。

王子ジャマール

“幸せになりなさい。ジャマール…おまえの想うとおりに生きればよい…”

 ジャマールは夢を見ていた。
目の前で…穏やかな笑みを浮かべているのは、13年前最後に会った父の姿だった。
「父上…?」
父レヴァドの…どこか遠くから聞こえてきた声に、ハッとして顔を上げたところでジャマールは目覚めた。

 父が殺されたあの日以来…どんなにジャマールが望んでも父は夢の中でさえ現れてはくれなかった。
それがなぜ今なのか…? まるで今のジャマールの心の葛藤を見透かしているような父の言葉に思わず苦笑する…。

父上…あなたは心のままに生きよと言われるが…それでは、神の意志に逆らえと言われるのですか…?
ジャマールの心はひとりの女性としてラウラを求めている。だがその意志を通せば…運命の相手であるラナ姫を拒むことになるのだ…。
きっとこんな夢を見たのは、昨夜母の叔父であるアランドに逢ったせいかもしれない…。ドゥーラスがアリメドの手に堕ちた時、隣国の王であり、王妃イレーネの実兄であるアランドをアリメドが放っておくわけがない。
 
すでに命は奪われたものとジャマールも覚悟していたのだ。それが13年ぶりに目にした叔父の姿の変わりように驚いた。
それはアランドも同様で、凛々しい青年の姿から一人前の逞しい戦士へと変貌したジャマールの姿に、アランドは涙を流して喜んでいた。

「長生きするものだ…こうしてまたお前に会えるとは…。おお…神よ、感謝いたしますぞ。このドゥーラスの再建のためならば、この年よりの命などいくらでも差し出します…」
「叔父上…顔を上げてください。こうして私は帰って来たのです。必ずやアリメドの手からこの国を取り戻します。この国を父のいた頃の豊かな国に戻すためには、まだまだ叔父上の力が必要なのです…」

齢60歳をいくつか超えたばかりなのに、実際のアランドは10歳もよけい老けた感じがしていた。それだけこの13年の月日がアランドにとっては過酷なものだったに違いない。
 ジャマールがこの地を離れてから、叔父をはじめ近隣の父に近かった国々がアリメドにどのような扱いを受けて来たか…おおよそは道すがらヴァンリに聞かされてはいたが、実際にアランドの口から語られた言葉は、想像に絶するものだった。

「ジャマール、今のお前のその姿を見たらイレーネはどれほど喜ぶことか…。 あの幼かったネフェルも当時のお前の年齢に近い。きっと何か感じ合うものがあるに違いない…」
「はい…必ず母とネフェルを取り戻します。そしてラナ姫も…」

「ああ…信じているとも! それにしても、今のそなたは若い頃のレヴァドにそっくりになったな…」
 目を細めて嬉しそうにジャマールを見つめるアランドの痩せた手をしっかりと握りしめて、ジャマールは新たな決意を固めた。
 もうここまで来て、逃げ出すことなど許されない…もちろんジャマールにその気は更々ないが…。

そこでジャマールは、さらに続くアマンドの言葉を思い出していた。

「ジャマール、今こそお前の存在をドゥメイラ中に示す時だ。そうすれば国中からアリメドに反旗を翻す勢力が結集される。今まで幾度となく反乱は繰り返されてきたが、その度に制圧されて…民の暮らしはますます困窮していくばかりだ。わたしとて、もうかつての勢いはない…。次のドゥーラスの…いやドゥメイラの王として…ジャマール、お前がこの国を救ってほしい…」
 そういうアマンドの眼が潤んでいるのをジャマールは熱い想いで見つめていた。

自分は…そのためにアレックスの元を離れてこの地に戻って来たのだ。
あのままホークの側近として一生を尽くすことも可能だっただろう…だが誇り高い砂漠の魂はそれを許さなかった。
 今にして思えば、アレックスとアスカの姿が自分の運命を見つめるきっかけになったというのはある意味言い訳にしか過ぎないことを、本当はずいぶん前から自分でもわかっていたのかもしれない。

「わかりました…もとよりその覚悟で戻って来たのです。こうしてまたヴァンリと再会し、叔父上あなたとまたこうして出会えたからには、今からわたしはドゥーラスの第一王子に戻りましょう…」
ジャマールの言葉にアランドが大きくうなずくのを、周りにいた彼の側近たちも涙を浮かべながら見つめていた。




 それからその場に集まっていたかつての仲間たちとともに、これから王都ドゥーラスを奪還するにあたって細やかな作戦を立てたのち、それぞれの役割を担って散らばって行く…。
ジャマールはしばしの暇乞いをアランドにすると、再びあのキメラ近郊の廃墟跡へと戻ってきた。

「ヴァンリ、アスタロットやその他辺境の国々との連絡はどうなっている?」
「それはアリが一手に担っています。彼は優秀ですから、我々が一週間かかる工程を一晩で行くのです。アリはあなたに似て…本当に優秀ですよ。空の上では誰も叶いませんから…ほら、昨日北のアシュタットに向かったのに、もう戻ってきた」
ヴァンリの指し示す方向を見上げると、遠くに点のように見えていた黒い塊が一直線にこちらを目指して向かってくる。
ヴァンリが差し出した皮性の腕カバーを左腕に巻き付け、大きく振って自分の肩の高さに差し出せば、アリは大きな翼をバタバタとはためかせてジャマールの腕に止まった。

「アリ…」
 指の先で頭を撫でてやると、アリは嬉し気に小さくクルクルと喉を鳴らして甘えてくる。その足に付けられた連絡用の足輪の中の手紙を器用に取り出したヴァンリは、サッと目を通してから、ジャマールの差し出した。

「いよいよ、アシュタット族のヴァラン殿が動き出しました。彼はアリメド軍の注意を引くために中央を真っすぐ一直線に首都ドゥーラスを目指すようです…」
「ああ…その間隙を縫って、小部隊を作って王都に潜入する。今でもあの抜け道は機能しているのだな?」
「はい…先日それも確かめてあります。あの道は、深い坑道となっており、その先はかつての後宮に繋がっているのです。今ではアリメドが各国の姫君たちを人質として閉じ込めている場所ですが…」
「ラナ姫もそこに居るのだな…?」
 無表情を装ってジャマールは目の前に置かれているドゥーラスを取り囲むように記された地図に目を落とす。

「はい、アリメドは6日後の新月の夜に正式にラナ姫を娶るつもりでいます。その祝いのために続々と各国からアリメドに忠誠を誓っている連中が集まっています。モンディールのダリル王もその一人です」
ジャマールは以前ファウストと一緒に訪れたモンディールで会った、ダリルの好色で尊大な顔を思い出した。

ダリルはラウラに異常な執着を見せていた。その男がまたラウラの側に近づいて来ていると知って自然と不機嫌な表情が顔に現れていたのだろう。傍らのヴァンリが訝し気に顔を上げてジャマールを見る。

「モンデールのダリル王をご存じなのですね?」
「ああ…自己中心的な嫌な男だった。まあ、アリメドの臣下としては似合いだが…」
 皮肉めいた言葉にヴァンリもうなずく。
「ええ…色狂いという点でもアリメドと同等ですね。権力に任せてあちこちから未婚、既婚に限らず、目についた美女は根こそぎさらって行くと評判でした。そういう点では気が合うのでしょうね? 」
「ラウラに会ったのはそのモンディールだった。奴はゾル一座の舞姫だったラウラに何かとちょっかいを出していたが…」
「そのダリルがドゥーラスにやって来て、アリメドの隣席に侍ることになる中、そこにラウラ嬢は飛び込んでいくわけですが…2日後ラウラ嬢もドゥーラスに入ると連絡が来ました」
そう聞いた瞬間にジャマールの全身に緊張が走る。

「ラウラ嬢のことが気になりますか…?」
「それは…」
 すぐに反応できずにジャマールは言葉を飲み込んだ。
おそらくラウラはサムエルをはじめアシュタットのジアたちに護られている。余ほどのことがない限り途中何かあるとは思えないが…。
ただドゥーラスに入れば…何が起こっても不思議ではないのだ。それに何よりもラウラ自身が、より自分を危険な立場に置きかねない。ラナを護るために…。

「彼女にはしっかりとした護衛がついている。問題ないだろう」
 わざと素っ気ない態度で答えるが、そこは離れていたとはいえ元はジャマールの従者だったヴァンリだ。微妙なジャマールの感情の変化でさえ気づいているのかもしれない…。

「そうですね…? あなたの優秀な部下も付いているのでしょう? なら心配ない。我々は決められた作戦通りに動くのみです」
「ああ…」
 あえてそれ以上は何も言わず、ジャマールは自分たちの王都への侵入経路の確認に戻った。
 アリメドが計画している婚礼の祝宴に合わせて、ジャマールたちは隠された通路を通って後宮の地下にある入り口から侵入して、油断しているアリメドの裏をかく作戦だったが、それより先にラウラは王都に入って囚われている仲間を救うことと、自身の舞姫としての能力を最大限利用して、アリメドを誘惑し…その間にラナを後宮から救い出すことを目指していた。
ラナ姫と宮殿の北側に立つ塔に幽閉されている母と弟を同時に救い出すことは、恐らく相当な困難が伴う。
当然アシュタットが動き出した時点でアリメドも警戒しているはずだし、向こうにはスペインのあの傭兵軍団がいる。城内はもちろんだが、市内外からバラクの港に至るまでの街道どこをとっても連中は細かい防衛線を張っているとみるのが常識だろう。

“ラウラ…無理はするなよ…”
 心の中でそうつぶやきながら、目を閉じてラウラの美しい顔を思い浮かべた。
もちろん、ジャマールたちも同じ時間に王城内に留まることになる。いざとなれば自身でラウラを助けに行くことも可能なはずだったが…ジャマールにはそれが出来ない理由がある。
ラウラのいる場所でアリメドと対決すれば、おのずと自身の素性が彼女に知られることになるのだ。
今はドゥーラスをアリメドから解放することが一番の最優先事項だが、その中で…いずれはわかるとしても、ジャマールはその時期を出来るだけ遅らせたかった。
せめて自分の中で、ラウラへの想いにきちんとした答えが出せるその時までは…。

「ヴァンリ、母上たちのいる塔の見張りはどうなっている?」
「先月から見張りが強化されています。アシュタットが動き出したことで、こちらの動きを警戒しているのでしょう…」
「ああ…だろうな。まあそれも最初から織り込み済みだ」
「わざと救出に向かうと見せかけて、逆に籠城するのですね?」
「勝算がないわけではないが、この混乱の中、母上と目の見えないネフェルを伴って脱出するのには困難を伴う。まずはアリメドを倒すことを優先したい。母上たちの安全を最優先した結果だ」
「もっともです」
 感心したようにヴァンリはうなずいているが、それもすべてはラウラに繋がっている。ジャマールは自分につながるすべてのことを、今は彼女の眼から遠ざけておきたかったのだ。
 すべてを明かして彼女に許しを請うことが出来ない自分の弱さに、腹立たしい想いを抱きながら心の中で舌打ちする。
そんなジャマールの様子にヴァンリが訝しそうに視線を向けてくる。

「王子…?」
「何でもない…母上たちへの準備はどうなっている?」
「ナディスを通して、世話役のアステアに連絡を取っています。何とか警戒されずに準備が整えられるはずです」
「そうか…お前の妹、ナディスに危険はないのか?」
「ナディスは…額に負った醜い傷跡のせいで、王城内でもそれほど目立つことなく動けているのです」
「そうか…」
 ジャマールはそれ以上言葉を繋ぐことが出来なかった。
ヴァンリの妹、ナディスはジャマールの弟ネフェルと同い年だったはずだ。13年前何度か訪れたヴァンリの実家で、恥ずかしそうにしながらヴァンリに隠れて、人懐こい笑顔を見せていた幼い少女の顔を思い出すと…締め付けられるように胸が痛んだ。

「王子…妹はとても強い。あなたや、この国のために尽くすことに誇りを抱いているのです…」
「ああ…その想いに応えなくてはならないな…」
  傍らに立つヴァンリを振り返ると、その眼を強い眼差しで見つめながらジャマールは自分の拳を強く握りしめた。

決戦前夜 1

 その頃、ペルシャ湾の一辺…ある地域でじっと身を潜めるようにたたずむ中型蒸気艦
アレクサンダー・マレー号は英国船である印、ユニオンジャックのみ高くマストに掲げていた。
その甲板はひっそりとしており、まるで船全体が眠りについたような静けさだった。だがその操舵室では…。

「船長、いつまでここでじっとしているんですか?」
傍らで双眼鏡を手に、水平線を眺めていた副官が少し不満げにつぶやく。
彼らはもうこの1週間近くこの海域にとどまっているのだ。

「まあ、焦るな…。バラク沖に張り付いているスペイン船の動向を見張っているんだ。奴らは先週バラクに入ってきたが、かなりイラついているはずだからな…?」
そう言うのはこの船の変わり種の船長コンウェイである。頬に大きな傷のある恐ろし気な男で、身長も優に2メートルは超える大男だが、以外に笑えば愛嬌のある人間であることは、親しく関わったことのある人間なら誰も知っている。

「それに連中の期待していた武器をまんまとくすねてやったんだ。随分気落ちしていることだろう…」
「奴らはまさかおれたちが持って行ったとは夢にも思わないでしょうね?せいぜいが取引相手にまんまと騙されたくらいにしか思わないでしょうから…」
「そうだろう…あのにやけたスペイン野郎の悔しがる姿が目に浮かぶようだぜ…」
 コンウェイは上機嫌で片手を舵に置いたまま…副官の差し出す小さなウイスキーボトルを手に取って一息に煽る。

「ほぅー! やっぱりウィスキーはスコッチに限るぜ。今のうちにしっかり休養を取っておくようにみんなに伝えとけよ。来週にはスペイン野郎は必ず動き出す。そうしたらおれたちの出番だ」
「逃げ出したガイアスのあとを追いかけて、外洋に出たらドカン! 始末するんですね?」
「ああ…奴はスペイン政府にとっても厄介者でしかない。ちゃんとスペインの許可はボスが取ってくれているって算段だ」
「さすがですね? 普段小うるさいスペインに恩を売ったってことですね?」
「スペインだけじゃないぞ。今回奴らから奪った新型の武器はフランス政府にとっても厄介なものだったんだ。自国にテロリストを抱えていたんだからな。今頃はこちら側の情報をもとに掃蕩作戦の真っ最中だ…」
 コンウェイが言っているのは先月、スペイン海軍のこの地域の司令官であるガイアスがフランス国内に拠点を持つ活動家から手に入れようとしていた可動式の連射式機関砲をマレー号が奪取したことを言っているのだ。
 きっとガイアスは取引相手に騙されたと思っているに違いない。まんまと出し抜いてやったことに、コンウェイは大いに満足してずっと上機嫌が続いている。

「しかし、もったいなかったですね? せっかく苦労して手に入れた最新式の武器なのに、海中に沈めてしまったんですから…」
「バカを言え、あんなもの持ち帰ってみろ。議会から睨まれちまう。ボスからの指令でも、適当に処分しろってことだったからな…」
 副官が言っているのは、アレキサンドリアの港で奪取した木箱をギリシャ界隈の海に捨てて来たことなのだろう。

「厄介者はさっさと処分ってことですね?」
「そういうことだ。今回ガイアスもある意味気の毒な奴だな。自国からは厄介払いされようとしてるんだから。せめてものはなむけに、一発で仕留めてやれるようにせいぜい準備してやることだ」
「ハハ…承知しました!」
 副官は愉快そうに笑うと、おどけたように敬礼して操舵室を飛び出して行った。

 これから先のマレー号の行うべき任務はシンプルで、網から逃れてきたスペインのハエの掃蕩作戦だ。
 それを速やかに完了した後は…ジャマールの闘いの勝利を確認したのち追加で投入されたホークの部隊を回収して帰還することだった。
 ジャマールは知らない。ガイアスが密かに集めていた傭兵部隊の中に、多くのホークの部下たちが紛れ込んでいるのを…。

 ジャマールは故郷のドゥメイラに潜入するために、自分の直属の部下を10数人連れて行ったのだが、実際ホークの副官である彼の下で働く部下はその何倍もいて、同行を許されなかった連中は、自分たちもジャマールのために役に立ちたいと大いに不満に思っていた。
 そこを見抜いたホークは、自分の独断で彼らを中東に送ることを決めたのだ。
あくまでもガイアスに悟られないように、彼らはいったんそれぞれがヨーロッパやアフリカ中東に散らばって潜伏し、個別に徴兵に応じている。
 彼らの能力については、もともとジャマールが自ら鍛え上げた連中であり、疑う余地はない。
 ガイアスは自らが集めた最高の傭兵部隊だと思っているが、それが仕組まれたものだとは夢にも思っていないはずだ。
 つまりは自分の足元から浸食されていることに、奴はまったく気づいていないのだ…。

「愉快だな…。いざ市街戦になった時、一気に形勢は逆転するシナリオだ。それを見た時のジャマールの顔が見てみたいものだ…」
 ひとり悦に入っていたコンウェイは、高らかに笑い声をあげた。
実際この事案の本当の仕掛人は、彼らのボスであるホーク自身だ。
 今のジャマールに関して、自分がまったく手出しが出来ないことに一番不満を感じているのはボスなのだと、コンウェイは密かに理解していた。




 
 この数日、質素な身なりに身をやつして…数人の護衛を付けただけで密かに砂漠を渡って再びキメラ近郊に戻ってきたラウラは、そこで待ち構えていた仲間だという男たちの中に、一座の責任者であるゾルや、サムエルの姿を見つけて思わず嬉しさに涙が込み上げてくるのを感じた。
 
「サムエル…! ああ…ゾル! 無事だったのね…!?」
 急いで馬から飛び降りて、二入の元へ走り寄る。

「ラウラ…! 無事でよかった…!」
 ゾルは涙を浮かべてラウラを強く抱きしめると、あらためて無事を確かめるようにラウラの全身を眺めてから、ため息交じりに後ろにいるサムエルを振り返った。
「連絡をもらった時にはまさかと思ったが、こうして本人に会ったら納得したよ…。本当に我らが舞姫は無事だったんだな?」
「だからそう言ったじゃないか…」
 離れたところからじっと見ていたサムエルがそう言って近づいてくる。

「サムエル…!」
 半分照れたような表情を浮かべているサムエルの顔を見たとたんに、ラウラは別れた時の不安と恐怖が蘇ってくる。とっさにサムエルの胸に飛び込むと、その体をギュッと抱きしめた。
 するとサムエルは不意に顔をしかめて苦し気に身を屈める。サムエルはあの時仲間を護ろうとして酷いけがを負ったとファルドが言っていたのを思い出して、ラウラはハッとしてサムエルの顔を覗き込む。

「ハハ…そいつはアリメドの傭兵にやられてあばらを骨折したんだ。まだ完治してないのに、どうしてもラウラを迎えに行くって聞かなくてさ…」
そう言ってサムエルの後ろからアスタロットの双子の兄弟、カイルとサンがからかう様な笑みを浮かべてラウラに手を差し伸べてきた。
 二人はサムエルとは同郷の幼馴染でもある。まだ二人がゾル一座に入る前には、何回かあったことがある顔なじみなのだ。

「サン、カイル…! あなたがゾルたちを助けてくれたのね?」
「ああ…残念ながら、踊り子のほとんどは彼らに連れていかれてしまったが、我々にはアストラットをはじめ近隣諸国の仲間の後ろ盾もある。今回は今までの闘いとは違うんだ。その証拠に君を助けたのは、ファルドだろう…?」
 そう言うカイルをはじめ、皆の視線が、ラウラから少し離れて控えるように佇むアンドルーとジアに注がれていることにラウラは気がついた。
 ジアはともかくアンドルーは以前、キャラバンの護衛として一緒に旅していた時期もある。当然彼らもその顔を覚えているし、ファウストのキャラバンは一度盗賊に襲われて全滅したと聞かされていた。
 そのうちの一人がこうして現れれば、当然誰もが疑問を抱く…。

「あんたの名前はアンドルーだったかな? やっぱり生きていたんだな? あんたたち…いやファルドは何者だ…?」
真っすぐアンドルーを見据えて、サムエルが鋭い一言を発すると、その場に一瞬、緊張が走る。
 こうしてラウラを伴って現れたからには、敵ではないと思っているものの…彼らからすると完全に信じるには足りない人物ということなのだろう…。

「サムエル…彼らは…」
 そう言いかけたラウラの言葉を笑顔で遮って、アンドルーは一歩前に踏み出した。

「主であるファルドの許可を得ていなので、勝手におれが語るわけにはいかないが…我々はある目的があって、この地にやって来た。ファルドの身分については、ラウラ嬢も知っているとおり、かつてのドゥーラスの…高位の人物の息子とだけ言っておこう。彼も13年前にアリメドのクーデターによって家族をはじめ…すべてを失ったひとりだ。だからある意味、君たちと目的は同じということになる。だから…あの場所でラウラ嬢と出会ったのは偶然だったが、一緒にアシュタット族に赴き、アシュタット族の女戦士ジアとともに、彼女の護衛としてここまでやって来た…。今ファルドはかつてのドゥーラス王権に関わるアル高位の人物に会いに行っている。おれは主の名代としてここに居る」
 アンドルーは冷静な声でそう語ると、傍らにいるジアを彼らに紹介した。
ジアは目深にかぶったフードを外すと、サムエル達に深々と腰を折る。

「アシュタット族が動き出したというのは本当だったんだな…」
 ジアの美しく引き締まった容貌と全身に纏った戦士らしい隙のない雰囲気にサムエルはため息を漏らした。

「はい、我らが長、ヴァラン様はいよいよその時が来たとおっしゃっていました。我々アシュタット族も一族の存続をかけて、ドゥーラスの…このドゥメイラのために戦います…」
 凛とした決意を込めたジアの言葉に、その場にいた男たちもつられたように大きく頷いた。
 その中でラウラは、いよいよすべてが動き出したのだと心の中で決意を新たにする。

 自分の運命は自分で決めると…ここまでやって来たけれど、自分とラナ…二人のためにすでに多くの人々が命を掛けてくれているのだ…。
 そして今、ここに居ないファルドも…。方向は違っても同じ目的のために動いている。

“わたしたちは…必ず勝利しなければならないのよ…。だからわたしに勇気をちょうだい!”
 ラウラは片手を胸に当てて目をつぶると、瞼に浮かぶファルドの姿に想いを馳せた。




 数日前、あちこちに張り巡らせていた間者から相次いで報告を受けた後、ヴァンリをはじめ忠実な部下たち数人を連れたジャマールは、意を決してバラクの地下にある拠点を後にした。
 前政権の後継者であるジャマールの存在は、アランドの名のもとに数日のうちに各地に散らばる反乱軍のリーダーたちの知ることになり、それによって今まで地下に隠れていた多くの仲間たちがアランドの元に集まってくる。
 はるか辺境の地からでも、アランドの元に多くの報せが届くことになった。
そしてそれと同時に、見張りを立てているバラクの港からも不定期に訪れる外国船から、多くの傭兵たちが続々とこのドゥーラス目指して集まって来ていることを知る。

 元々アリを使って国中に散らばっている仲間たちと連絡を取っていたヴァンリは、拠点を発つ直前に届いた知らせをジャマールの元に持って来た。

「王子、アスタロットのジャデハ王が兵を率いて、ドゥーラスを目指して出立されました」
「そうか、いよいよ、ジャディハ王も動き出したか…」
 そう言いながらジャディハ王からアランド宛に送られてきた手紙に目を通す。

 彼の手紙には、ジャマールに会ってこれからのことを話し合いたいと書かれていた。
もちろん、その前にアリメドとの戦いに勝利しなければならないのだが…。
 勝利したあとでも、問題は山のようにある。ラウラとラナ姫…ジャディハ王を前にして、今自分が欲しいのは…ラナ姫ではなくラウラなのだと告げなければならないことを思うと自然と心が重くなる。

 今はそんなことに囚われている場合ではないと思っていても、想いは自然とラウラの元へと向かっていく…。
 そんな自分に嫌気がさして、ジャマールは強引に自分の意識をさっき届けられたマレー号からの手紙へと切り替えた。

「バラク沖に停泊している仲間の船から連絡がきた。傭兵たちを束ねているスペイン海軍のガイアスが海外から新しい武器を輸入しようとしていたのを阻止したらしい。彼らが集めている軍隊は、単なる寄せ集めに過ぎない。流れが変わればあっという間に崩れていく…。そうなった時、ガイアスは真っ先に逃げ出すだろう。外洋に逃げ込んだハエはマレー号が始末してくれる。」
 わざと声に力を込めてヴァンリを振り返る。

「なるほど…今の王子にはアリメドの想像も出来ないような味方がいるということですね?」
「だがそれも我々が奴らを追い込んでからの話だ。まずは中央を行くアシュタットの主軸部隊がどれだけ持ちこたえられるかにかかっている。我々はその間に王城深くに入り込み、アリメドを討つ…」
「ええ…まずはするべきことをやりましょう。先日匂わせた、ジャマール王子が現れたという噂は今頃アリメドの耳にも届いていることでしょう…。臆病なアリメドはきっと今頃疑心暗鬼になってるに違いないんだ…」
 そう言ってニヤリとヴァンリは笑う。
本当ならぎりぎりまでジャマールは自分の素性は隠していたかったのだが、わざとジャマールの名前を出すことで、アリメド陣営の動揺を引き出して彼らの動きをかく乱するというアランドの意見を聞いたかたちだった。

「おそらくこの数日か、一週間以内に結果は明らかになるだろう…。間違いなく我々は勝利しなければならないが…わたしの存在を明らかにしたことで、囚われている母上やネフェルに危険はないのか…?」
「はい、少し前から見張りが強化されたと報告がありました。アリメド側もあなたが現れたことに強い警戒感を抱いているのでしょう。お二人を囮にしてあなたをおびき寄せ、捕えようとするはずです」
 ヴァンリの言うことは正しい。アリメドにとってジャマールの存在は脅威であり、昔からずっと邪魔な存在だった。今すぐにでも消し去りたい一番の存在であることは間違いない…。
「それで…母上たちがどこかに移されたという事実はないのだな…?」
「はい、あの塔は一か所しか出入り口はないのです。ですからアリメド側もあえて移動させず、そのままこちら側が救出に動くことを見越して何か罠を張っている可能性があります」
「わかった。奴がおかしな動きをしたらすぐ知らせてほしい…」
「はい、もちろん」
 ヴァンリはそれだけ言ってまた部屋を出て行く。

すでに数日前にヴァンリの妹のナディスを通じて後宮にいるラナ姫や塔に幽閉中の母や 明日の朝未明の作戦の決行を踏まえて、身辺は慌ただしくなっていた。
弟にも作戦の内容は伝えてあるはずだったが…。
 ジャマールたちが宮殿内を制圧して、塔の最上階にいる二人の元にたどり着くまでに彼らは内側から扉を閉めて籠城する手はずになっている。
 しかし…母は非力なうえに、今は大人になりつつあるとはいえ、ネフェルは視力に問題があるのだ。
 部屋の内側に何かつっかえをして、外から扉を開かないように細工することが可能だろうか…?
 一抹の不安はあるが今は二人を信じる以外になかった。
それに…今のジャマールは、すでに王宮に入っているというラウラのことが気になって仕方がない…。側にアンドルーを置いているとはいえ、あのアリメドの側に行くのだ…。
 無事でいてほしい…。そう心から思っていた。

 目の前のテーブルの上に広げられたかつての住まいだった宮殿の見取り図に目を凝らしながら、ジャマールが小さなため息を漏らした時、音もなく入り口の扉を開けてヴァンリが神妙な顔でジャマールに声をかける。

「王子、出発する時間です…」
「ああ…行こう…」
 パタンと勢いをつけて図面を閉じて、ジャマールは入口へと向かった。

その頃、ラウラは王宮の最奥…後宮と呼ばれる王だけに許されたその愛妃たちが住まう宮殿に居た。
 愛妾にあたえられる豪華な装飾の施された居室の中で、ラウラはひとりぽつんと宮殿に入ってここに連れてこられるまでのことを思い出していた。

2日前…サムエル、ジアとランドルー、どうしてもついていくと言って聞かなかった座長のゾルの5人でドゥーラスの王城へと赴いた。
 あらかじめラウラの意向は伝えてあったが、アリメド側の警戒はかなりのもので、門前でしばらく待たされてから、5人は別室で厳しい身体検査のあといったんどこかの建物の地下と思われる場所へと連れていかれた。
 出来るだけ疑われないために少人数で王城に向かったのは正解だったのだろう。

 いったん5人が連れていかれたのは、王城の北側…普段はあまり人通りのない区域、主に囚人や幽閉を目的とした区域であるのは周りの雰囲気を見てもわかった。
 明らかに重視されていない飾り気のない空間にぽっかり空いた地下に続く階段を下りて行くとそこには…通路側に大きな鉄格子の嵌められた広いいくつもの部屋がある。
 どう見ても集団を閉じ込めておくための牢としか思えないような部屋だが、そのうちのひとつの扉を開けた兵士がラウラたちに中に入るように促すが、ラウラとジアが中に入ったところで扉を閉めると、残ったサムエル達に別の部屋に入るように促した。

 不安げに振り返るラウラにサムエルは小さくうなずく。すぐ後ろにいるアンドルーも小さく笑みを浮かべているのを見て、ラウラもうなずいて小さな息を吐いた。
 今のラウラたちは囚人扱いだ。当然だろう…もともとアリメドは酷く疑い深い人物だという。常に暗殺者に命を狙われている彼は、たとえ自分の側近でさえ信頼していないという…。クーデターで政権を手に入れた経緯を考えれば自業自得なのだが…。

 そんなことを考えていると、部屋の奥から自分の名前を呼ぶ声が聞こえて、ラウラの意識はそちらに向かう。

「ラウラ…? 本当にラウラなの…!?」
 奥の暗がりの中から、誰かがふらふらとこちらに向いて歩いて来る。
入り口のほの暗いランプの側まで来て、やっとその姿が確認できると、それがリアンであることがわかって、ラウラも駆け寄って二人はしっかりと抱き合った。

「ああ、リアン、リアン! 会いたかった! 」
「ラウラ…! 本当に来てくれたのね…?」
 長く囚われていたせいで、身なりは薄汚れていて、頬は少しやつれて見えるものの…泣きじゃくるその顔は、ラウラのよく知るリアンだった。

「一時はもうみんなは外国の奴隷商人に売られたんだって聞かされたのよ。ゾルも、サムエルも死んだんじゃないかって思ったから…」
 いつしかラウラの声も涙でかすれてしまう…。
気付かないうちに周りには、他の仲間の踊り子たちの輪が出来ていた。

「よかった。ラウラ…わたしたち、もうあなたは来ないんだって思っていたの…」
 踊り子のひとりが口を開くと、他の踊り子たちも涙声でラウラの名前を呼んで再会を喜んだ。
「あなたたちだけに辛い想いはさせない。アリメドの狙いはわたしだもの…」
 ラウラは微笑んで見せると、周りに集う仲間たちにゾルやサムエルも生きていて、ここに一緒に来ていること。あの日、ひとり逃れたラウラが、バラクとキメラの間にある古い遺跡あとでファルドに助けられて今ここにあること。そしてその間にアシュタット族のジアと出会い一緒に来たことを語った。
 ジアはラウラと仲間たちとの再会を黙って微笑んで見つめていたが、自分の名前を呼ばれると、軽く腰を折って踊り子たちに頭を下げる。

「アシュタット族のジアと申します。主の命でラウラ様の護衛を務めております。」
「きれいなひとね? あなたならジャスミンの代わりが出来るわ」
 誰かがそう言うと、周りにいた皆がうなずいた。リアンの話ではここに来る前、奴隷商人の元でその場を仕切っていた護衛の責任者に媚を売って、自分だけ難を逃れてその男の愛人になったのだという。

「自分がきれいなことを鼻にかけていたものね。自分だけは特別だと思っていたんだから、ラウラばかりが取り上げられるのが我慢出来なかったのよ」
 ひとりだけ自由になったジャスミンに対して、今まで彼女の取り巻きだった踊り子たちまで不満をぶちまける様子にラウラもため息をつくしかない。
 
 今はこのメンバーで何とかアリメドの前で、上手く演舞しなければならないのだ。
最大限アリメドの注意を引いて、ラナから引き離しておかなければならない…。
 その間にアストラットの仲間がきっとラナを救出してくれる…。それにファルドだって…。もしかしたら…もうこの王城のどこかにいるかもしれない。
“大丈夫…。きっと上手くやれるわ…”
 
 ラウラは、今はすぐそばにファルドがいると思うだけで勇気をもらえる気がしていた。
「さあ、せっかくまたみんなに会えたんだもの。最後のステージをしっかり楽しみましょう…」
 ラウラはしっかりとリアンを抱きしめ、その周りにいた踊り子たちたちも二人を取り囲むようにして抱き合った。

ドゥーラスの王宮奥深く、限られた側近しか足を踏み入れることのないアリメド王の私室の中で、側近のザビクとアリメドに従うモンディール王、ダリルをはじめ、それに追随する者たちが顔を突き合わせていた。

「死んだと思っていたジャマール王子が現れたというのは本当か?」
「いや、まだ噂だけだが、あのアシュタットの奴らが動き出したんだ。真実では…!?」
「まさか…!?」
 あれこれと騒ぐ部下たちをしり目に、それまでじっと不機嫌な様子で片手に持った杯を傾けていたアリメドは、不意にその器を床にたたきつけて立ち上がる。

「バラクにいるラディアスは何をしている? 奴から何か報せはあったか?」
 凍り付くような怒気をはらんだアリメドの声に一瞬、その場にいた連中は凍り付く。

「はっ…はい…! 各国から集めた傭兵数千がすでに港周辺に配備していると連絡を受けております。アシュタットの奴らがドゥーラスに近づいたら、後ろ側から挟み撃ちにする計画だと…」
 恐る恐るそう告げるザビクに向けられたその視線を受けて、小心者の側近は怯えたように黙り込む。
「ふん、どちらにせよ。誰が向かってこようが叩き潰すまでだ。今まで通り前王妃たちの見張りを堅固にしておけ。奴らは絶対にそこに現れる」
「わ…わかりました」
 そう言ってザビクが出て行くと…後ろに控えていた黒装束姿の影の親衛隊たちも一人を残してサッと移動する。

 その様子を目で追っていたアリメドは、フン、小心者め…。そうつぶやいて、傍らにいたダリルを振り返った。
「ダリル、お前はあの銀の舞姫に会っているのだったな…?」
「はい、以前モンディールで一座の講演を許可したことがありまして…確かに妖艶な演舞で、噂では未だ乙女だというものもおりますが、何度か閨に誘いましたがなかなか強情な女でして…」
「要するに相手にされなかったわけだな?」
 アリメドの言葉にダリルは顔を真っ赤にしながら苦笑する。人気の美姫とはいえ、年端もいかない小娘に袖にされたことを未だに根に持っているのだ。

「仲間を人質にされているとはいえ、アリメド王の後宮入りを承諾したのです。あのツンと澄ました女がどのような乱れ方をするのか見てみたいものですな…」
 下卑た笑いを浮かべるダリルをアリメドも目を細めて見つめた。
数時間前にアリメドの前に連れて来られた“銀の舞姫”ラウラの姿を思い出したのだ。

 珍しい銀の髪に澄んだ碧い瞳を持った女神のような女で、瞬時にアリメドは目を奪われた。そのまますぐ寝所に連れ込もうとしたアリメドに、ラウラは真っすぐ顔を上げたまま目をそらさずにこう言い切ったのだ。

“そこにいる配下の方はわたしの踊りを知っているのに、王であるあなたが知らなくてもよいのですか?…と。”
確かに…。ダリルが知っていて、自分が知らないのはアリメドのプライドが許さない。王として臣下に劣ることなどあってはならないからだ。

“いいだろう…。2日後、宮殿内で舞を披露することを許す。その代わりその夜はおれの閨に来い。いいな…?”
“わかりました。あなたのお望みのままに…”
 
 ラウラと名乗る銀の髪の女はそれだけ言って去って行った。
準備に一日。練習も合わせて2日ラウラは要求した。3日後は後宮に閉じ込めているラナ姫との婚儀が控えている。
 その前に欲しいものはすべてこの手の中に入れておくのだ。煩い神官どもが、神への冒涜だと何だと騒ぎ立てるが、そんな奴らは儀式のあとにまとめて始末してしまえばいい。
 
その時のアリメドは、心の中にふつふつと沸き上がる歪んだ欲望の炎を感じて、さっきまで感じていた不機嫌さなどすっかり忘れてニヤリとほくそ笑んだ。

進むべき道へ…。

 その日の後宮は朝からざわざわと落ち着きがなく、早朝から多くの世話役の女奴隷たちが、引っ切り無しに廊下をバタバタと行き交っている足音でラナは目覚めた。

 いつもなら真っ先に起こしに来るナディスの姿が今日はない。
不安に思っていると、数人の奴隷たちが入って来て、有無を言わせない勢いでラナを寝台から起こして、後宮の最も最奥にあるマーム(浴場)に連れていかれる。 

「あ…あの…ナディスは…?」
 無言で動き回る女たちに恐る恐る問いかけると、返って来たのは…。
「今夜王宮で大掛かりな宴が開かれます。外国から来ている舞踊一座の公演が予定されているとか…。その席にラナ姫も同席させよとの王のご命令です…ナディスはあとで今夜着る衣装を持って来ます」
 感情の籠らない声で女のひとりがそう淡々と告げて、あとは黙々と女たちはラナを急き立てるようにして、その肌に香油をすり込んでいく…。

 今夜いよいよアリメドの前に引き出されると聞いて、ラナは自分の胃がギュッと締め付けられるように痛んだ。
“どうしよう…! いよいよその時が来るんだわ…! ああ…ネフェル様…”
 施術用の小さな寝台に横になりながら、ラナはギュッと両手の拳を握りしめる…。
アリメドに触れられるくらいなら死んだほうがまし…そう思うラナは、ナディスに自害用の短剣を用意することを頼んだことがあった。
 そうするとナディスは悲し気に微笑んで、あなたのことはわたしが命をかけて護ります…。だから信じてほしいと…そう言った。
 何があっても決して早まったことはしないでほしいと…。

“ああ…ナディス、わたしはどうしたらいいの…?”
 このアリメドの後宮の中で、ラナが頼れるのはナディスだけだ。自分はある大切な方の身代わりだとわかっていても、イレーネやネフェルと引き離された今は不安しかない。

 それから数時間をかけてじっくり奴隷たちによって肌に磨きをかけられたラナが、やっと一人になった頃に、ナディスがあたりを確かめるようにして入ってくる。

「ナディス…! わたし…」
 ナディスの姿を見ると、抑えていた感情があふれてラナは両手で顔を抑えて泣き出した。
「いけません、ラナ様…!」
 ナディスは少し厳しい顔をしてラナの手を取ると…小声でささやく。
本当なら優しく抱きしめてラナを慰めてあげたい…。だがこれからが正念場なのだ。アリメドを倒すために、すでに兄のヴァンリは動いている。失敗すれば皆の命はない…。
 ラナには落ち着いていてもらわなければならない…。

「ラナ様…これからわたしの言うことをよく聞いてください。今夜王宮である催しが開かれます。ある舞踊団が招かれて王の前で舞を披露する予定ですが、じつはその舞姫に王が執心しているという話です。本来なら今夜がラナ様との婚礼の予定だったのですが…。なので…今夜王はその舞姫を自分の寝所の招くはずです。そこでラナ様…アリメド王の隣に座ったら、頃合いを見てこの薬を飲み物に混ぜてお持ちします。一時的に体調を崩すように細工いたしますので、そのままその場を退出するよう計らいます。あとは忍び込んでいる仲間がラナ様を外に運び出しますので…」
「イレーネ様や、ネフェル様は…」
「大丈夫です。お二人の救出にも動いていますので…」
 声を殺してささやくナディスの言葉にラナは黙ってうなずいた。

「さあ、お着替えを…じきに迎えが参ります。急がなければ…。これから先何が起こっても決して動揺されませんように…。」
「わかったわ…」
 ラナ姫がうなずくと、ナディスは無言でラナを立たせて手際よく衣装を着せていく。
 
 彼女がドゥーラスの第2王子、ネフェルに惹かれていることはナディスも知っていた。二人の側仕えのアステアからそれとなく聞かされていたのだ。
 だから、今回ラナたちの救出のために動いている部隊の中にジャマール王子がいることは伝えることが出来なかった。知ればラナが動揺することがわかっていたから…。

 だからナディスは、どうかこの計画が上手くいって…アリメドを倒した後…ラナ姫が傷つかないでいてほしいと心から願っていた。
 しばらく一緒に居るうちに、この純粋な少女のことをナディスはとても好きになっていたのだった。


 地下の暗い坑道をひたすら進んで行くと、やがて目の前に現れた壁を、先頭を行くヴァンリが手でなぞるように探っていく。
「確かこのあたりに…ああ、ありました」
 わずかな取掛かりに手をかけて力任せに引込むと、石を引きずるような鈍い音とともに少しづつ目の前に聳え立つ壁の隙間からわずかな光が飛び込んでくる。

「前に一度この坑道を確認のために訪れてはいますが、何度来ても難解な迷路のような造りで、ひやひやさせられます…」
「だからこそ…はるか昔から何度敵国から襲撃を受けても、遠い先祖たちはその血統を絶やすことはなかったのだろう…」
 ヴァンリに続いてジャマールもそのやっと一人採れる程度の隙間を通り抜けると、その先わずかに広がりを見せている空間から斜め上に伸びている新たな空洞へと目を向けた。

 今回ジャマールを含めてこの地下の坑道に踏み込んだのは7人ほど。目立たないことを最優先にした人数で、ジャマールの部下3人とヴァンリが連れてきた2人が加わっている。
 バラク近くの拠点を後にしたのが一昨日の夜明け前だった。暗いうちに砂漠を越えて、陽が昇る前に移動したジャマールたちは、王都の城壁からは死角になる北側の丘陵地帯にある入り口から地下坑道の中に入った。
 7人とも軽装の上に黒いフード付きのマントを羽織っている。その中で一番の長身はジャマールだが、他の3人はみな同じくらいの背丈だった。
 幾分低めの坑道を進むには、長身のジャマールはところどころ上体をかがまなければならない。
 時折舌打ちしながら進んでいると、暗がりの中でヴァンリが振り向いてニヤリと笑う。
「この坑道が出来ておよそ数百年近くなると思うんですが、昔の人間は現代人よりは小柄だったんでしょうね…? 覚えていますか? 昔この坑道を探検に入って、二人して迷子になって2日間閉じ込められた挙句…見つけられたときにはそうとうこっ酷く叱られたことを…」
「ああ…あの時には、ここがどんな場所なのかまるで理解していなくて…。死んでいてもおかしくないと、さんざん周りの大人たちになじられたな…。そのあと1か月近く城から出してもらえなかった」
「ええ…大嫌いな史学の講義を朝から晩まで見張り付きで受けていたあなたの我慢がいつまで続くか、ハラハラしながら見ていましたよ…」

 こうして一緒に居れば瞬く間に13年前、何も知らず向こう見ずだった頃の自分に戻れる気がして、思わずジャマールはほくそ笑む。
 これから自分たちが行おうとしていることは失敗が許されない。その緊張感の中でもこうしてまだ余裕を持っていられるのは、そこにヴァンリが居てくれるからだ。

「ヴァンリ、確かにアリメドはこの坑道のことは知らないんだな…?」
「ええ…奴の影の側近といわれる男に、密かに調べさせてはいたらしいのですが、確かなことは何も掴んでいないとのことでした」
 早足で狭い坑道を進みながら、ヴァンリはつぶやく。もしこの場所をアリメドが知っていたなら、ジャマールたちは今身動きが出来ない状態で、前後から挟み撃ちにされて万事休すになる。

「この坑道のありかを知っているのは、我々とアシュタット族だけです。あと数時間後にはアシュタットの精鋭部隊が、我々のあとを追ってくるはずです。それと同時にドゥーラスの正面からアシュタットの正規軍が攻め込むことになっていますから、その混乱に乗じて我々は王宮の中に紛れ込みます…あ、見えてきました。あの突き当りの先が、後宮につながる通路です…」
 ヴァンリの言葉に頭を上げたジャマールの眼に飛び込んで来たのは、薄暗がりの奥にぽっかりと空いた丸い空洞だった。

 この先にいよいよアリメドがいる…。
そう思うだけで全身にグッと力が入る。母と弟を取り戻すためにも、絶対に失敗は許されないのだ。
 そしてラウラのためにも…。 
 華やかな王宮の大広間の中…薄い幾重もの薄絹に隔てられた最奥の一角、一段高くなっている場所の中央に玉座が置かれ、そこにどっかりとアリメドが座っていた。

 年齢はすでに40台の半ばを過ぎているがその眼差しは鋭く、一種慇懃なまでの威圧感を与えている。
 彼を中心としてその周りにはアリメドに従う周辺国の王たちが集い、これから始まる祝宴を今か今かと待っているのだ。
彼らはもともと忌月が明けた後に行われる、アリメドとラナ姫との婚儀を祝おうとドゥーラスを訪れていたのだが、そこに降ってわいたように国内でも噂に上るほどの美姫を擁する舞踊団の公演が決まったのだ。彼らが喜ばないわけがない。
さっきからそわそわとあたりを見回しては自国から連れてきた側近たちと何か語り合っていた。

そして今夜は後宮にいるアリメドの側妃たちも参加を許され、アリメドたちの席の通路を挟んだ反対側に設けられた席に、色とりどりの衣装に着飾った婦人たちが嬉々として座っていた。
その女性たちの集う席の中央寄り…さらに一段高い場所に設らえられた席に心許ない様子で座っている一人の少女の姿があった。

美しい薄絹に細やかな銀の刺繍が施された伝統的なドゥーラスの花嫁衣裳に身を包んだ少女は、流れるような艶やかな黒髪の一部を結い上げ、そこに煌びやかな金のサークルで頭をすっぽりと覆い隠す薄絹のヴェールを身につけていた。
そのヴェールに隠されて彼女の表情は見えなかったが、さっきからその華奢な肩は小さく震えて…膝の上で重ねられた両手は強く握りしめられている。
そのことから、今の彼女がひどく緊張状態にあることがわかる。

そしてその様子をちらりと横目で見たアリメドは、目を細めて小さく舌打ちする。

“あのジャマールの許嫁と聞いて、少しは期待していたが、何のことはないただの小娘ではないか…。それならこれからでてくる銀の舞姫の方がよっぽどおれの好みに合うな…。この娘はあとでどうとでもなる。それよりも今は銀の舞姫だ。今夜はあの女をどう啼かせてやろうか…?”

アリメドは2日前に突然ドゥーラスに現れた”銀の舞姫”を思い出して思わずニヤリとする。
彼女はひとりの女と、数人の護衛たちを引き連れ現れると、アリメドの目の前で真っすぐその顔を上げて恐れることなく言い放った。
「わたしが来れば、囚われている仲間たちを解放してくれるとあなたはおっしゃった…。その言葉に嘘はありませんか…?」
「ほう…? わたしがその約束を守ると…? わたしは王だ。お前だけを捕らえて、あとの人間はすべて殺すことだって出来る。」
 アリメドが玉座から下りて、全身を黒いマントで包む彼女のフードから一房の銀色の髪をその手に取って口づけると、彼女の喉から小さく息をのむ声が聞こえる。

そこで一瞬後ろにいる護衛たちが意気込むのを片手で抑えたラウラは、目の前にいる王であるアリメドを少しも恐れることなく睨みつけるように見上げた。

「バカなことを…ここまで来てわたしは逃げも隠れもしません。わたしは舞姫です。踊ってこそわたしの真価があるというもの…。それにアリメド王。あなたはこのドゥメイラのすべての首長を治める王です。その王が臣下であるモンディール王も見知っているわたしの踊りをご覧にならなくてもよいと…?」
試すような口ぶりにムッと来たものの、アリメドを少しも恐れないその様子にアリメドは、ますますその女が欲しくなった。

「なるほど…そういうことなら、ラウラと言ったな。おまえにそのチャンスを与えよう。おまえのその舞でおれを満足させられたら、お前の仲間たちを助けてやろう。その代わりお前はその夜からおれの閨に侍ることになる…いいな…?」
 「わかりました。仰せのままに…」
 ラウラはそう言ってひざを折って大きく頭を下げる。
表情はあくまでも平静を装いながら、その指先が小さく震えているのを誰も知らない…。



ラウラと一緒に、アリメドの謁見を許された後、護衛として同行していたアンドルーとサムエルだけは別の部屋に閉じ込められることになった。
 座長のゾルだけは他の踊り子たちと同じ場所に閉じ込められている。ゾルはもともと中性的な人間で男性の機能もないことから、踊り子たちからも同性にみられているのだ。

「クソ…! こんなところに閉じ込められるなんて…。これじゃあ、ラウラを守ることが出来ないじゃないか…!?」
 サムエルは窓もない小部屋の中で、さっきからウロウロと部屋の中をあるきまわっている。その様子を黙って見つめながら、アンドルーはじっと頭の中で考えていた。

 一座の公演が終わるまではアンドルーたちを生かしておくつもりなのだろう…。
 ここに入って2日、朝と夕に質素だがきちんと食事が運ばれてくるところを見ると、自分たちにはまだ利用価値があると思われているということだ。

「さっき食事を運んで来た女に聞いたところによると、今夜王宮で宴があり、アリメドの前でゾル一座が公演を行う。その席にはラナ姫も同席するそうだ」
 表情を変えずに床に座ったまま、一点を見据えて…アンドルーがポツリとつぶやく。

「それをわかってて、おれたちはこのまま何もせずにとどまっていなければならないのか…!?」
 怒りに任せて、サムエルが壁の一辺を拳でたたくと、ドンと鈍い音があたりに響いた。

「静かに…! おそらく、今頃は人々の関心はその宴に集まっている。少し待て…」
アンドルーは不意に立ち上がると、壁に耳を当てて物音を確かめてから、さっき食事を運んで来た小男が入ってきた扉に目をやった。
 二人がいる部屋には窓はなかったが、入り口の扉は鉄製の格子状になっており、外側で小さな南京錠が掛かっていた。

 アンドルーはしばらくあたりの様子を見て、近くに誰もいないのを確認してから、自分のブーツの中から小さな針金状の細長い金属を取り出すと、両手を入り口の格子状の柵の外へと差し出して何やらガチャガチャとやりだした。

「サムエル、あんたは誰か足音が近づいてこないかどうか見ててくれないか?」
「ああ…」
 サムエルも言われたとおりアンドルーの後ろに立って、じっとあたりの物音に耳を傾ける。

「アンタといい、ファルドといい、いったい何者だ? 」
 不思議そうに問いかけるサムエルの言葉に、アンドルーはじっと手を動かしながらクスリと笑った。
「おれも彼もヨーロッパのある人物の元で10年近く過ごした。もちろん政治がらみだが、その人物は奴隷や虐げられて帰るところのない者たちに居所を与えてくれた。おれは海賊上がりでファルド様はトルコのガレー船の奴隷だった。おれたちの主は生まれや見かけで人を判断したりしない。だから俺たちはその能力を最大限に生かしてその主のために働いて来た。ちなみにおれの得意分野は潜入だ。だからこんなことは朝飯まえだ。ほら、開いた…」
 その言葉と同時にカチャリ…という金属音とともに南京錠が外れて床に落ちた。
「アンタたちはいったい…?」
アンドルーはその質問には答えず、サッと立ち上がって部屋の外に出る。
「さて行くぞ…! 急がないと手遅れになる…!」
「ああ…」
 慌ててサムエルもそのあとを追う。
あのファルドといい、目の前を行くアンドルーといい、彼らの行動はサムエルの常識をはるかに超えている。戸惑いとともに、何かワクワクするものを感じてサムエルはひとり微笑んだ。

広い王宮の中で主に大人数の宴会をするために用いられる大広間は、賑やかな笑い声と妙なる音楽であふれていた。
 もちろんその場に集まっている人々は、今この同じ時、密かに反乱軍がこのドゥーラスを目指して行軍しており、近隣国バラクの港からも続々と多くの傭兵たちがこの地に降り立ち、反乱軍を制圧するためにこの地に向かっていることを彼らは知らない。

 大広間では、最初にアリメド王とラナ姫の婚姻を告げる催しがあり、そのあとで広間に設えられたステージの上では、華やかな衣装を着けた踊り子たちが妖艶な舞踊で見る者たちの視線を釘付けにしていた。
 
 アリメドはさっきから明らかに退屈していた。
このところ何もかもが上手くいっておらず、ことあるごとに自分を恐れながら媚へつらってくる連中の姿に辟易してくる。
 モンディールもそのうちの一人だが、数多くいる腹心たちもアリメドの顔色をうかがうばかりでまったく面白みがない…。
おまけにまもなく妃に迎えようとしている隣に座っている女は、今にも倒れそうな顔色をしてさっきからじっと下を向いたままだ。

 すると…一瞬ふらりとその体が揺らいだと思ったら、やがてばったりとその場に倒れたのだ。
 側に控えていた数人の侍女が慌てて駆け寄り、真っ青な顔をしてアリメドに退出の許可を求めてくる。
「申しわけありません…! 退出の許可を…!」
「フン…! 不甲斐ないことだ…。役立たずめ…しっかりと部屋に閉じ込めておけ…!」
 アリメドが不機嫌な声で返す言葉を最後まで聞くことなく、慌ただしく現れた侍女たちに抱きかかえられるようにしてラナ姫はその場を後にした。


 そしてまたその場は何もなかったようにまた回り始める。
その様子をステージ側の柱の陰で見ていたラウラは、心配そうに唇を噛んだ。
( ラナ…。)

 13年ぶりではあるが、久しぶりに見る彼女の姿はひどくか細く見えた。もちろん遠目ではあるし、彼女を覆うベールに隠されてその表情までは伺うことは出来ない。
 緊張しているのは誰が見てもわかるくらいに彼女からはピリピリとした空気が感じられる。
 ついにその場に倒れた時には、ラウラからもハッとして小さな悲鳴がこぼれた。

「ラウラ様…」
 周りを気にしながら心配そうに後ろから声をかけてくるジア、大丈夫というようにラウラは小さくうなずいてみせる。
「平気よ…ただ大丈夫かしらと思って…」
「はい…ラナ様についている侍女はみなこちら側の人間です。見知った顔もおりますので大丈夫です…」
 ジアはあたりに目線を泳がせながら、ラウラの耳元でささやいた。
「それに…今頃はファルド様も宮殿内に入られている頃でしょうから…」
「ああ…そうね。わたしもしっかりしなければ…」
 ラウラは小さく息を吸って気持ちを落ち着かせる。
観客席の中にラナの姿を見つけた時から、ラウラの心にさざ波のように不安と戸惑いが押し寄せてきたのだ。
 あれから13年…お互い離ればなれに過ごして、それぞれに時間を重ねて大人になった。
 だが同じ13年でも、ラナの過ごした囚われの日々は、ラウラのそれよりもはるかに険しいものだったに違いないのだ…。

「さあ、行きましょう…」
そう言ってまずはジアがステージへと飛び出した。
 ジアの動きに合わせてそれまで円陣で踊っていた仲間の踊り子たちが、一度中央に集まると今度はジアを中心に七色の帯を放射状に広げながら再び円陣になって、同じ方向へクルクルと踊りながら回っていく。
 その動きは、彼女たちがこの2週間ほど囚われの身だったとは思えないほど軽やかだった。
もちろんその中にはあのリアンの姿もある。
そして…いなくなったジャスミンの代わりに踊っているジアは、初めてとは思えないほど皆の動きに溶け込んでいて、さすがというしかない。

仲間たちの素晴らしい演舞に感動しながら、ラウラはグッと下腹に力を籠める。
今身に着けている全身を覆う黒いローブの下には、豊かな胸を申し訳程度に覆う銀色のスパンコールで出来たブラトップと、ビキニタイプの小さなショーツの上に幾重にも重なるシフォン地の薄絹をまとっている。
 深い胸の谷間を隠すように水晶の細かい首飾りと、おそろいの繊細な細工の施されたウエスト飾りを素肌の上に身に着けている。両手には動かすたびにシャラシャラと鳴る金鎖を何重にも巻いていた。
 スカート部分の薄絹と同じ生地で出来た長いヴェールを、美しい銀色の髪の上に金のサークルで留め置いている。
 何度も身に着けて…身体の一部になるくらいに馴染んでいる衣装だが、今夜のラウラには初めて着るもののように感じるのは、ここがあのアリメドのいる王城だからだ。

 ひとつ大きく深呼吸して、ラウラは目の前で揺れている大きな虹色の帯で出来たドームの中をステージの中央へと走り出た。
 ラウラが中央へと移動するのを待っていたように、サッと光る帯は姿を消して…彼女たちは、代わりに透明に光るジンという円形の楽器を手にしてラウラの周りを踊り始める。

 ジンは丸い筒状の楽器で、中に小さな金属の振り子が入っていて、彼女たちが振り鳴らす度にリンリンと澄んだ音色を奏でる。
 その中をラウラはツンと顎を上げてある一点を見据えながら、長い手足を使って妖艶な舞を刻んでいく。
 
 さっきから全身にギラギラとした欲望を孕んだ視線が突き刺さってくる。もちろん正面に座っているアリメドの視線だ。

( 恐れてはダメよ…。今失敗したらすべてが水の泡になる…。ああ…ファルド、わたしに力をちょうだい…!)
 心の中でそう呟きながらラウラは、眼差しに力を込めてじっとアリメドから視線を外さないようにして踊った。
 
 (さあ、どう…? 捕まえられるものなら捕まえてみて…!)
まるで挑発するように、その唇の端に笑みを浮かべながら…ラウラは夢中になって踊り続けた。そうすることが自分に出来るすべてだと信じて…。





 王宮内の通路を目立たないように移動していたジャマールとヴァンリは、人通りの少ないある渡り廊下の端でその足を止めた。

「確かこのあたりだと思ったんだが…」
周りの様子を気にしながら辺りを伺うヴァンリの影でジャマールは、大きなタペストリーの陰に隠れた壁の一辺を片手で探っている。
 やがてその指先に指一本分の小さな窪みを見つけてそっと押すと、隠し扉が開いてタペストリーの影に幅50センチ、縦1メートルくらいの四角い入り口が現れる。
 物音を立てないようにして二人はその中に身体を滑り込ませた。

「覚えているものだな? この隠し通路は王の居室へと繋がっているはずだ。アリメドが父と同じ場所を使っているならばだが…」
「あの男はレヴァド王のすべてを奪うことに固執していましたから、間違いないでしょう…」
 暗がりの中でニヤリと笑うヴァンリの白い歯が見えた。
確かにアリメドは権力だけではなく、当時父が持つすべてのものを欲しがっていた。
 王の執務室だけでなくその生活スペースすべてをそのまま使っている可能性はある。

「ヴァンリ、今何時だろうか…?」
「さっき通路を行くとき、空の様子を見ましたが、陽はかなり西に傾いていましたから…おそらくはもう日没を迎えている頃でしょう。今頃広間ではゾル一座の公演が行われている頃でしょう…。それに先駆けてラナ姫の披露も行われているはず…」
「そうか…」
 曖昧に返事をしながらジャマールは、独自に動いているラウラのことを想った。
あのアリメドがラウラを見てそのまま放っておくはずがない。いくら明日ラナ姫との婚礼を控えているとはいえ、その前夜に別の女を寝所に引き入れることなど、あの男は何とも思っていないのだろう。
 だがそれよりも今はラウラのことだ。おそらくアリメドは彼女を自分の寝所に誘ってくるはずだ。仲間たちを人質に取られているラウラはそれを拒めない。
 問題は今夜アリメドがどこで過ごすかだ。これから向かおうとしている居室ならジャマールは自らの手で彼女を救うことが出来る。
 だがそれが沢山ある後宮の一室だったら…? まさか、ラナ姫と同じ後宮に入れるとは思ってはいないが、常識はずれなあの男ならそういうこともあると、心のどこかで思っているとその不安を感じたのか、後ろからヴァンリがポツリとつぶやいた。

「後宮にはサンとカイル、あの二人が向かっているはずです。彼らはアストラットのザディハ王の命を受けて動いているのです。そこにアリメドが現れればそれなりの対応をするはずですから…」
「そうだな…」
 そう言って小さく振り向いた後、目に入った暗い通路の端に何かが動いた気がして、ハッとしてジャマールは足を止めた。

2時間ほど前に無事に公演を終えたラウラは、ひとり仲間たちとは別に迎えに来た数人の侍女に連れられて宮殿の何処か奥深くに連れていかれる。
 ラウラを迎えに来ていたのは侍女だけではなく、武器を携えた兵士も遠巻きながらついて来ていた。

アリメドの閨に入るまでは大人しくしようと決めていたラウラだったが、王族専用と思われる豪華な浴室で侍女らによって丁寧に全身を洗われ、腰まである月光のような見事な銀髪に何度も櫛を通されて…素肌にほのかに薔薇の香りのする香油をすり込まれる頃には、再びじわじわと押し寄せる緊張感に全身が震えた。

( 落ち着くのよ…ここまで来て失敗するわけにはいかないのだから…)
自分自身を叱咤激励するように、両手をグッと握りしめる。

 そして、離れる間際にジアがラウラの耳元で放った言葉が蘇ってくる。
「怪しまれないために、わたしもモンディール王、ダリルの元に参ります。ですが心配しないでください。すぐに片づけておそばに参ります」
 そう言ってニッコリ笑うと、ジアも別の侍女たちに連れられて別の場所にあるマーム(浴場)へと消えて行った。

 ジアはああ見えて鍛え上げられた戦士だ。きっとあの自堕落を絵にかいたようなダリルなど、相手にもならないだろう。以前モンディールで執拗に誘い掛けてきたダリルの脂ぎった下品な顔を思い出して、ラウラは思わず身震いする。

 そんなことを考えている間に侍女の手によって薄い夜着に着替えさせられて、頭からすっぽりと目だけ出したブブカといわれるアラブの女性たちが身に着ける衣装を着せられる。
 これからどこへ連れていかれるのか、言われなくてもわかる。
ブブカの息苦しさに文句を言いたくなるが、ここで逆らってみたところで仕方がない。
 ラウラは大人しく彼女たちのあとに従った。


 思ったよりは兵士の数が少なめに感じている王宮の通路を、後宮の宦官(後宮にいる去勢された男性の世話係)とその護衛兵士に扮したアンドルーとサムエルは進んで行く。
 時折侍女らしい若い娘が二人の様子を見て、すれ違いざまにクスクスと含み笑いを浮かべながら思わせぶりな視線を送ってくる。
 それを笑顔で交わすアンドルーを見て、サムエルは呆れたようにつぶやく。

「アンタたちは女には興味がないのかと思っていたのだが違うのか…?」
「これはあくまでも変装用の偽装だ。別に女嫌いではないが特別必要でもない。それよりもあんたにはやはりそちらの恰好が似合うようだな。宦官に変装するにはあんたはガタイが良すぎる」
 そう言ってアンドルーが笑うとサムエルはさっと赤くなった。
さっき衣裳部屋に忍び込んで、使用人たちの衣装を拝借した際に最初アンドルーと同じ宦官の衣装を着たのだが、肩幅があり過ぎて妙に違和感があって…急遽近くを通りかかった兵士を捕まえてその衣装を拝借したのだ。
 もちろん殺したりはせずに、すぐには見つからない場所に押し込んでは来たが…。

「アンタたちはいったい何者なんだ…?」
「そのうちわかるさ…すべてが片付いた頃にはね。ああ…来たな。護衛の数がぐっと増えてきた。たぶんアリメドの居室も近いはずだ。ここで待っていれば必ずラウラはやって来る。その一団に紛れて我々も側に行く…」
「わかった…」
 一緒に行動を共にしているアンドルーの迷いのない身のこなしや、まったく無駄のない動きの正確さに目を見張りながら、サムエルはいつの間にかアンドルーをはじめ、ファルドを中心とした彼らに自然と傾倒している自分に驚いていた。
 自分はずっと今までラウラの側にいて、彼女の身を守ることだけにすべてを捧げてきたのに…彼らと出会ったことで、今までの自分がいかに未熟だったのか思い知らされた気分だった。
 自分だけではラウラを守り切れない…そのことは十分に判っている…。
どんなにラウラを想ってもその想いが報われることがないということも…。もとより生まれからして、ラウラとは大きな身分の差があるのだ。
たまたまサムエルの母がラウラの母親の侍女だった縁で、ラウラの護衛として幼いころから一緒にいただけで…。
 幼いころは純粋に愛らしいラウラを実の妹のように感じていたのだ。それがいつから一人の女性として意識し始めたのか…?
それすら今のサムエルにはわからなかった。

「サムエル、何をしている? これから先はアリメドの巣窟になる。気を緩めるな」
「わかっている」
 すかさずかけられたアンドルーの鋭い言葉にサムエルは小さくうなずいた。

 どれくらい時間が経った頃か…部屋の入り口でラウラを見張るように立っていた数人の侍女たちは、いつの間にかいなくなっていた。
 それと同時に室内の照明も落とされて、気が付けばあたりを照らすのは壁に備え付けられているほのかなろうそくの明かりのみとなっていた。
 おそらくは続きになっている隣の部屋にはベッドらしき寝台が入り口を仕切る薄布の向こうにうっすらと見えている。

 侍女たちが居なくなったということは、アリメドの到着が近いということだ。

『炎の果てに…』 番外編 砂漠の鷹

いよいよこの番外編であるジャマールの物語『砂漠の鷹』もって、炎の果てに…のシリーズは完結になります。
主人公であるジャマールの生まれ故郷、ドゥメイラはもちろんフィクションであって、実際にその名前の国はありません。イメージとしてはイラクの先、アラビア湾に面するあたりでしょうか…? どうか想像力を豊かにして読んでいただけたらと思います。ホークの元で真面目一本で過ごしてきた異国の戦士ジャマールが、故郷に戻り…自分の運命に向き合うことから大きく運命の歯車は回っていきます。ラウラとの恋の行方にご注目くださいませ。
フェイスブックで他の活動等載せております。そちらからでもぜひ感想など寄せていただけたら嬉しいです。
いつかまたアレックス、アスカの子供たち、または現代に戻ってその子孫たちの物語が書けたらいいなと思っています。

『炎の果てに…』 番外編 砂漠の鷹

定められた運命だからこそ、人は抗いたくなるもの…。13年の月日は何を変えたのか…? どんなに遠く離れていても、惹かれ合う魂は…やがて抗いがたい情熱の炎を持ってぶつかり合い燃え上がる…。新たな苦しみを伴って…。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • 冒険
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-12-30

CC BY-NC-ND
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  1. プロローグ 1 砂漠の国 ドゥメイラより 王子ジャマール
  2. プロローグ 2 ジャマールの苦悩
  3. プロローグ 3 ホークとの出会い
  4. 故郷へ…。
  5. 王都 ドゥーラス
  6.  アストラットの願い 1
  7. アストラットの願い 2
  8. 塔の中の囚われ人
  9. 銀の舞姫
  10. ジャマールの困惑
  11. 情熱の予感…。
  12. ラウラとジャマール 
  13. 王都奪還 1
  14. 王都奪還 2
  15. 王都奪還 3
  16. 王都奪還 4
  17. 王都奪還 5
  18. 王都奪還 6
  19. 王都奪還 7
  20. 王都奪還 8
  21. 王都奪還 9
  22. 王都奪還 10
  23. 大切な想いと…別離
  24. 懐かしき再会
  25. それぞれの戦いへ…。
  26. 王子ジャマール
  27. 決戦前夜 1
  28. 進むべき道へ…。