嗤う
1946年7月
ーーーーーあの夏、この国はガラッと変ったのだった。それまで、喧しくて堪らなかった日常はある時期を境に静かになった。私は、この片田舎で静かに暮らし続けていたいのだ。ーーーー
西巻は日記帳を静かに閉じ、床に就いた。終戦から1年弱、片田舎で医者をしているこの男にとって日本が勝っただの、負けただのということは心底どうでもいい。しかし、戦時中の息苦しさや騒がしさというものは、この男に得も言われぬ不快感を示したのだった。
ある日のことだった。アブラゼミのけたたましい鳴き声がする昼下がり、西巻の下にある男が訪れる。名前を石原と言った。
「今日はどうされましたか」
何百と吐いたセリフを石原に向かって投げかける。
「私は胃が痛いのです」
「胃が痛い?ここ数日何を食べられましたか」
胃が痛いという石原に、西巻は問診を始める。
「・・・」
しかし、石原は黙りこくってしまう。
「もしかして何も食べてはおられないのですか」
更なる沈黙の後、石原はこう答えた、
「私は胃が痛いのです」
「はあ。ですから何か変わったものは食べられましたか」
「・・・・・・」
またも長い沈黙。
時間にして十分にも満たないだろうが、西巻にとっては数時間に感じられた。
この日石原は結局胃が痛いとしか言わなかったのだった。
ーーーー昼に来た石原という男は何とも気味が悪かった。目に光がなく、まるで埴輪でも見つめているような感じがしたーーーー
西巻は日記帳を書き終えると、昼間の不気味さを反芻しながらも、何とか眠りにつくことができた。
翌日、昨日と同じような時間に石原はまたやってきた。
「またあなたですか。まだ胃は痛みますかな」
西巻は石原にそう問いかける。
「ひとつわかったことがあるのです」
石原は初めて「胃が痛い」以外の言葉を発したのだ。西巻は一瞬驚いた顔をしたが、相槌を打ち、その先を促す。
「この胃の痛みは『わからない』からだということがです」
「どうして我が国は負けなければならなかったのか」
片田舎の診療所にはあまりにも不釣り合いな言葉に、西巻は言葉を詰まらせる。
「どうしてなのですか」
石原は語気を強めて問う。
「・・・私にもわからない」
西巻は絞り出すようにそう言った。
「・・・そうですか」
石原はどこか悲しそうな、それでいて怒ったようなどちらともとれる口調でそう言い残し、診療所を去るのであった。
それからというもの、石原は来る日も来る日も診療所を訪れ、同じ質問を投げかけ、答えに窮する西巻を悲しそうな、怒ったような目を向けて去るということを繰り返した。
ーーーーあの石原という男、何が目的なのかがハッキリしない。質問に対する答えが欲しいのか。しかし私にはそう見えない。ただ一つわかっていることは、彼のせいで私の平穏は乱されているということだけだ。ーーーー
いつもより気持ち乱暴に日記帳を閉じた西巻はいつものように寝ようとしたが、どうもそんな気分にはなれず、ただぼんやりと夜が明けるのを待った。
また明くる日、石原は診療所には来なかった。するとどうだろう、西巻は寝不足だというのにすこぶる気分が良かった。いつもより早く仕事を片付け、小躍りするように家に帰った。そして、薄暗い部屋に笑い声が響く。
「掴んだぞ!ようやくだ!問屋はそう下したのだ!からくり人形は始めから糸が切れていたのだ。そんなことは絵に描いた餅だったのだ!さすれば向かおう。私こそが将軍様なのだから!!だーはっはっは!!!」
ひとしきり言い終えると、西巻はどこともつかぬ方向へ走り出し、それきり誰にも姿を見せなかった。
嗤う