シューティング・ハート ~彼は誰時(カワタレトキ) XIV 文化祭
シューティング・ハート
~彼は誰時(カワタレトキ) 文化祭
文化祭は今週末だ。
学園内は熱気を帯びている。放課後ともなれば、どこもかしこも準備に余念がない。
早々と立て看板や飾りつけを仕上げているクラスもあれば、顔面蒼白で追われている姿もあるようだ。
生徒会役員の介三郎と愛美は、体育館脇で部活の準備に加わっていた。
段ボール迷路に必要な資材は十分かき集めた。
あとは、どう組み、どう演出するか、だ。
男子バスケ部の二年生と女子バレー部の主将を中心に迷路の構造を練っている。
介三郎と愛美、そして梶原は段ボールの仕分けと数の確認をするグループの中にいた。
少し離れて、卓馬は迷路の構造を練っている円陣に加わっている。
首からカメラを提げた藤也は、忙しなく行き交う生徒の邪魔にならないよう遠目に見ているようだ。文字通り野次馬だ。
講堂や体育館の並びと教室棟との間の小道の脇は、クラスや有志が屋台の区画を整えていた。
「藤也さん、見てばかりいないで、手伝って差し上げてはいかがですか」
少しからかうような口調で万里子が藤也に声をかけた。
万里子の後ろには雛鳥が控えていた。
万里子は周囲の活気に満足そうな笑顔を見せる。
「皆、楽しそうですね。明るくて気持ちが良いこと」
「マドンナこそ介三郎の手伝いでもしてはどうですか。あいつは働き過ぎてますよ」
「あら、藤也さんこそ、見ているだけでは介三郎さんの手助けにはならないでしょ。たまには手を出してはどうかしら」
少々意地悪な表情を浮かべている藤也に負けず、万里子は答えた。
二人のやり取りに苦笑している雛鳥が、背後の喧騒の中でひと際大きく聞こえる声に反応して振り返る。
「万里子様、綾様です」
雛鳥に言われてその視線を追うと、小道の両側に屋台を組み立てる生徒の間を確かめるように歩いて来る大きな声の男子生徒がいた。
「おらおら、そこ、あぶねぇぞ。看板はしっかり頑丈に吊るせ。剣道部、チャンバラの練習はもっと広い所でやれ。決まった区画内で動けよ。おい屋台のデコレーションは派手派手で頼むぞ」
良く通る野太い声の男子生徒は、ヨレヨレの白シャツの袖を肩に捲り上げて筋肉質の上腕を見せ、右手に丸めた書類を握りしめてドシドシと近寄って来る。
その数歩後ろを、綾が呆れた表情で続く。
「お前は真っ直ぐ歩けないのか、日向」
さっきから右左と声をかけながら揺れて歩く様子にいささかうんざりしていた。
やる気をそぎかねない一言に、負けじと真っ向から反論が返ってくる。
「俺ははっぱかけてるだけだぞ。鷹沢、だいたいお前の仕事だろうが。俺の仕事でもあるけどよ」
文化祭は、生徒会役員に加えて文化祭実行委員会が動く。
とりわけ二年連続で実行委員長を務める美術部二年生の日向夏は、ガツガツ動く。
去年も実行委員に名乗りを上げた日向夏は、あまりの暑苦しさに一年生ながら実行委員長に抜擢された。
もちろん今年も自ら率先して動く。
「ミカン先輩、見回りですか?」
眺めていた藤也が、形ばかりの挨拶をしながらそう問うと、左腕で首を固定され、右手の書類でポカリと殴られた。
「適当に呼ぶな。ヒュウガナツだよ。ナツなのに冬生まれで悪かったな」
「季節はいじってません」
日向夏は、一月生まれだ。冬でも滅多に降らない雪が薄っすらと積もった日に生まれた男の子に、母親は「ナツ」と名付けた。
日向はこの名前をネタにしている。
万里子が笑う。
「お忙しいでしょ、日向さん。この週末ですものね」
日向はフンと鼻で笑い、少し背中を反らせるようにして踏ん反り返った。
「この忙しい時に生徒会長が岩みてぇに動かねぇからな。だから介三郎をアテにして来たんだ」
「あら、動かないんですか、綾が。それは困りますね」
どこか含みのある口調で万里子が流し目を送ると、綾は意に介さぬ風で視線を逸らした。
「ほぼ事務処理は終わっている。それを細々と修正案を出してくるから、いつまで経っても書類が回ってくる」
「祭りだぞ、鷹沢。もっと楽しい事を見つけたらやってみたくなるのが若者だろうが。それを応援しないでどうする」
「日向、お前の暑苦しさを否定する気はないが、際限なく生徒会の仕事を増やすのはやめてくれ」
「どうせお前は右から来たものを左にいる介三郎に渡すだけだろう。今も介三郎に仕事を押し付ける為にわざわざここまで一緒に来たんだ。文句は受け付けんぞ」
「介三郎に押し付けようと言ったのはお前の方だろう」
「ふん」
日向は鼻を鳴らして一瞥すると、
「介三郎、ちょっと来い」
少し離れた所にいる介三郎を呼ぶ。
気付いた介三郎は破顔していそいそと寄って来ると、有り体の挨拶をし、真顔で日向の顔を見下ろした。
ちなみに日向と介三郎の身長差は二十センチだ。
「日向さん、校門に設置したオブジェ見ましたよ。完成するのはいつですか」
校門を入ってすぐの一角に介三郎の背丈よりも大きな作品が置かれていた。
文化祭に合わせて制作された日向の作品だが、色々な材質の物を無秩序に組み上げ重ねたようなもので、機械にも見え、生物にも見え、そのどちらでもなく単なるガラクタの山とも見える。
答えを期待しているような明るい顔でそう問う介三郎の頭を、手に持っていた書類ではたき、日向は憤慨した。
「あれが完成品だよ。芸術のわからないヤツだな、お前は」
ひと際大きな声が周囲に響く。
少し離れた場所で作業をしていた梶原や、頭を突き合わせて議論中の一群が、何事かと一斉に視線を向ける。
それに気づいて日向が更に大きな声で檄を飛ばした。
「やってるな、バスケ部にバレー部。手の込んだ迷路を頼むぞ。去年は簡単過ぎてひねりがなかったからな。思いっきり面白いものを作ってくれ」
暑苦しい大声に押されて、一同がタイミングの合わない相槌を打つ。
「祭りはチームワークだ」
とよくわからない論法で間延びした顔を見上げた日向に、困った顔で頭をかいた介三郎は、傍にいる綾を見た。
「何か仕事か?」
と問う。
「そうだな。日向のいつもの微調整だそうだ。うるさいから聞いてやってくれ」
そう説明されて、そうですかと即答できる介三郎も介三郎だが、途端に手に持っていた書類を広げて見せてまくし立てる日向も日向だ。
「頼もしいですわね、綾。楽しい文化祭になりそう」
万里子の言葉に綾は無言で笑って見せると、日向と介三郎のやり取りに視線を戻した。
万里子の傍に控えている雛鳥は、遠く見える梶原の視線に気づき、その視線の先を知って微かに疼く胸の痛みに沈んだ。
「とにかく段取りはそう難しいことじゃない。だが、鷹沢に任せるといつになるかわからないからな。お前に投げる」
「はぁ・・・」
「いつも通りこなせよ」
さっさと説明し、書類を押し付けると、近くを横切るチア部の団体に乗じて日向は片手を挙げる。
「介三郎、急げよ」
と言い捨てて立ち去った。
キツネにつままれたような顔で立ち尽くしている介三郎が、綾に視線を向ける。
「悪いな、介三郎。任せるよ」
「いいけど・・・」
無茶ぶりは綾も日向も変わらない介三郎にとっては造作のない話だが、いきなり身体を押しのけられて言葉が切れた。
「おい、お前、怪我してるのか」
いつの間にか傍に来ていた梶原は、険しい表情で綾の肩を鷲掴みにした。
突然のことにその場にいた全員が一瞬息を呑む。
「何を――」
かわし切れず掴まれた肩を引こうとして背部に激痛が走り、綾は微かに表情を歪めてふらついた。
「ちょっと、カジ、乱暴だよ。女の子をそんな風に掴んだら、怪我なんてしてなくても痛いよ、それ」
卓馬が慌てて駆け寄り梶原の肩に手をかけるが、びくともしない。
「カジ、どうしたんだ。やめろ」
介三郎が綾を抱えるようにして梶原との間に割って入り、綾は梶原の指を引き剝がすように掴まれている肩を引いた。
背中全体に激痛が走る。
「――離せ」
梶原から逃れるように身を引いた綾は、介三郎の手を避けるように背をひるがえし、身体を保っていられずよろめいた。
「危ない!!!」
咄嗟に両腕で受け止めるように動いた介三郎の胸に倒れこんだ。
綾の反応に介三郎は表情を強張らせた。
「綾、本当に怪我してるのか」
卓馬が梶原の肩を押さえつけるように力を籠めながらも、確認するように目を見開く。
「綾がふらつくなんて初めて見たよ。本当に怪我してるのか」
梶原の行動に苦々しいものを感じながら、卓馬は確認するように重ねた。
傷む場所が分からず、ただそこに立って支えるように胸の中を見て、介三郎は問うた。
「背中か、綾」
「なんでもない」
梶原は気色ばむ。
「なんでもないじゃないだろ。何、無茶してるんだ」
梶原の口調は、怒号に近い。
それを制止するように卓馬は梶原にかけた手に力を込める。
「カジ、やめろ」
珍しく眉間にしわを寄せて卓馬が唸る。
万里子は無言で静観していた。
何か言いかけようとする雛鳥を鋭く制し、木立の陰に向かって抑えるように手の平をかざしながら、険しい表情で梶原を見つめていた。
介三郎は支えている腕を押しのけるようにして離れ、顔を背ける綾を覗き込むようにして声をかける。
「本当に、大丈夫か、綾」
「心配するな、介三郎。さっきの件、頼んだぞ」
「あぁ、わかった。やっておくよ」
手に持っている書類を掲げ、介三郎は請け負った。
他の言葉は飲み込んだ。
綾はそれに無言でうなずくと、誰とも視線を合わせないようにしながら静かにその場を離れた。
傍観していた藤也が梶原の傍に立つ。
「お前、なんでそんなことわかるの」
驚くというよりは呆れた口調だ。
「わかるだろ!!!」
梶原は怒鳴った。
それにひるむこともなく、藤也はただただ大きくため息をついた。
「わかんねぇよ。ホント普通じゃないな、お前は」
感覚も、女のシュミも。
視線を変えて万里子を振り返ると、こちらも穏やかとは言えない表情で立ち去る綾の背中を見つめていた。
「何があったか知ってるんですか、マドンナ」
そう問われた万里子の表情は美しい彫刻のように冷たく張り詰めたものだった。
「いいえ」
そう言い切った口調はどこか怒気を含んでいたが、すぐに言い直した。
「いいえ、何も――」
万里子は敢えて藤也を見ず、息を潜めるように周囲を確認した。
蛍は同じクラスのよしみを装い、何気なく話しかけるフリで綾に付き従う。
木立の陰で桜は一瞬、梶原の前に出ようとしたが、万里子に手の平で制され、そのまま後方から綾に従った。
「雛鳥、参りましょう」
「ですが、万里子様・・・」
梶原が気に掛かり足を止めた雛鳥に、冷めた万里子の声が急かす。
「いらっしゃい。ここにいてもお邪魔ですわ」
狼狽える雛鳥に構わず、万里子は綾が向かった方向とは真逆に向かい、風を切るようにして離れた。
雛鳥もまた追いかけるように行ってしまう。
「ごめん、タク。俺、今日は生徒会行く」
介三郎も踵を返した。
部活の方を手伝う気でいたが、そうも言ってられない。
梶原がキレた。
「介三郎!!!!!!」
「あぁ、悪い、カジ。おまえも忙しいだろうけど、タクの手伝い頼んだよ」
普段通りの感覚で、「じゃ」と話を切り上げた。
梶原はそんなことで怒ったのではないだろう。
だが、介三郎は敢えて軽々と流したのか、単純に気付かないのか、そのまま片手を上げて背を向けると、中央館の方に向かって歩いて行く。
成り行きを見ていた愛美が言葉少なに他の部員に謝ると、梶原や卓馬をすり抜けて走った。
「介三郎くん、大丈夫なの?」
手渡された書類を見ながら足を進める介三郎を、愛美は早足で追いかけながら背中に問いかけると、速度はそのままに介三郎が顔だけ振り返る。
「何が?」
「綾」
愛美は介三郎の速度に合わせて進みながら、高みにある横顔を見つめた。
どう答えるのだろう。
一瞬間があり、答えが返ってくる。
「いや、どうかな。心配するなって言ってただろ。そう言う時は、結構深刻なんだ」
介三郎は、綾の背に触れた左手に視線をやり、神妙な顔をした。
支えた時の反応からも、背中のどこかに身体に響く傷があることは明らかに分かった。
しかし、『心配するな』と言われれば、介三郎は心配しないのだろうか。
「深刻だって思いながら、心配しないの?」
介三郎の真意がわからない。
それに介三郎は特に気にする風もなく、歩く速度を落とさずに進む。
「心配するなって言うのに心配したら、綾が困るよ。怪我のことだけじゃない、気にかかることが沢山あるだろうに、余計な気を遣わせるのはどうかなって思うんだ」
当たり前な表情で当たり前な口調の介三郎。
「綾って、そんなに深刻なの?」
思わぬ介三郎の言葉と表情に戸惑いながら、そう問うと、不意に立ち止まり正面から見つめられた。
「平気な顔してるからって、平気とは限らない。苦しくても辛くても、顔に出さない人はいるよ。綾のように何か背負っていれば、苦しくないわけはないよ」
愛美は高みを見上げたまま、時間が止まったように瞬きも忘れた。
周囲の喧騒が遠く聞こえる。
いつも悠然と構えて癇にさわる物言いしかしない綾や、間の抜けた顔とオドオドした介三郎とはまったく別人のように思えた。
何か、見落としてはいけないものを突き付けられたような気がした。
一方、見つめられることにたじろいで、おかしな事を言ったのかと思い、介三郎は言い添えた。
「俺がそう思うだけだから、本当はどうかわからないけどね」
軽く言って笑うと、また手元の書類に視線を落として歩を進め始めた。
「それに、仕事任されたから。文化祭も目前だし、やっておかないといけないだろ」
「そんなこと・・・」
「でも、生徒会のヤツでないとできないことだから。俺、副会長だし」
何気に並んで歩きながら、愛美も思い出したように答える。
「あ、そうね。それじゃ、私も手伝うわ。書記だし」
「ありがとう、成瀬。助かるよ」
大袈裟に感動して見せて仕事の説明をする介三郎を、どこかホッとしたような憂いを含んだような複雑な顔で愛美は見つめ、二人は縦横無尽に行き交う生徒の中に紛れていった。
夕日が差し込む大きな窓を背に綾はソファの端に座り、背中を丸めるようにして小さくうずくまっていた。
身体をソファの背に預け、長い栗色の髪は身体を包むように流れ、両腕は力なく抱えた両足を束ねるようにして交差させ、目を閉じている。
帰宅してすぐに痛み止めの薬を飲み、自室でまどろんでいるが、横にはなれなかった。
横になれば、背中の皮膚に負担がかかり痛みが出る。
だが、今、疼くのは背中ではなかった。
綾はゆっくりと右手を上げて、左腕に触れた。
梶原に掴まれた場所だ。
「痛むのですか、お嬢様」
身の回りを整えていた近江が気付いて傍に寄った。
「桜から聞いております。どなたかにひどく腕を掴まれて痛みが出たのではないかと。薬は効きませんか、お医者様をお呼びしましょうか、どうすれば楽になりますか」
結構な勢いでまくし立てる。
桜がどう話したのかは、近江の表情を見れば想像がついた。
この場に梶原がいれば、タダでは済まないだろう。
綾は、顔を少し上げ、口元を緩めて小さく首を振った。
「大丈夫だ、近江。心配するな」
だが、近江は黙っていなかった。
「するなと言われても、心配はいたします。やっと熱が下がって登校されたというのに、蒼白い顔で戻られてからずっとそうしておられます。よほど痛むのでしょう。心配するなと言われても無理でございます。お嬢様」
詰め寄るようにして言い募る近江を間近に見つめ、綾は眩しそうに目を細めると、微かに笑った。
「そうか・・・。ありがとう、近江」
心からそう伝え、また綾は目を閉じた。
「何か飲み物をお持ちします。水分を摂らないと――」
傍にある大判のストールを肩から背中を覆うようにかけてやり、近江は戸口へ向かった。
入れ違いに蛍が大きな花束を抱えて入って来る。
「どうしたのですか、蛍。綺麗な薔薇ですね。淡く優しい色ばかり。お嬢様がお好きな薔薇も幾らか見えますね」
去りかけた近江は一瞬立ち止まり、飾るなら大きめの花瓶が必要だろうと言って部屋を出ると、戻って来た時には大きな白い花瓶を抱えており、それを綾のよく見える邪魔にならない場所に据え、後は任せて出て行った。
「誰からだ」
綾の問いに一瞬答えをためらって、蛍は視線を逸らした。
「旦那様が、こちらに飾るようにとのことでしたので、お持ちしました」
蛍は抱えていた薔薇をそのまま花瓶に挿し、目線を変えながら様子を整えた。
淡い色とりどりの薔薇は目に優しく、匂いは控えめで心地よい。
そのような品種を揃えたのだろう。
中には、近江の言ったように、綾自身が好んで育てている品種もある。
黙って花を整えている蛍は、少し緊張しているようにも見えた。
綾はゆっくりと顔を膝に埋めるようにして俯き、呟いた。
「あいつか」
「・・・お分かりになりますか」
淡く優しい色の薔薇を見つめながら、蛍は主の反応を静かに受け止めた。
花束についていたカードには、四神の一つ、玄武が描かれていた。
偶然居合わせた鷹沢士音はそのカードを抜き取り一瞥すると、無言で傍に控えていた中津にそれを預け、薔薇だけを娘に届けるよう蛍に命じた。
綾はさして興味のない様子で押し黙り、暫く窓から入る夕日が傾くのを、流れる金色の髪で感じていた。
背中の傷は熱を持ち、身体の向きを変える毎にうずく。
この度のことを、父はなかったことにしようとしていた。
葵のことも、粟根のことも火種にさせないために。
だが、父を疎んじる者にとっては恰好のネタだ。放っておく訳がなかった。
どうすれば防げたのだろう。どこが間違っていたのだろう。
そう何度も何度も繰り返す。
蛍は目に鮮やかな淡い色合いをぼんやりと見つめながら、主を見た初めての記憶を辿っていた。
あの時も、窓から西日が入り、光と影のコントラストがはっきりとした大きな部屋だった。
大勢の中、影に紛れるようにして座っている自分がいた。
夕食にはまだ早い秋の黄昏時、騒々しい部屋に入って来た紳士と少女は、園長の説明を受けながら、大勢の子どもの様子を眺めていた。
傍にいた大人が、この施設に多額の寄付をしているどこかの会社の社長と娘だと小さな声で話をしていた。
その娘は小柄でかなり細身だった。
何より目を引いたのは、長く伸ばした栗色の髪が夕日に映えて黄金に光っているように見えたことだ。
気に入られようと取り入る者が何人もいた。
普段はぞんざいな物言いと傲慢な態度で弱い者を見繕っては心無い仕打ちを繰り返す者たちが、張り付いた笑顔と慣れない敬語で挨拶をしているのを、遠目で揶揄する者もいた。
だが、蛍には関係ないことだ。
どうでもよかった。
何も考えられなかった。
夕日は別の記憶を引きずり出す。
蛍の両親は、蛍の三つ上の姉と共に事故で亡くなった。
何の変哲もない側道のガードレールを突き破り、十メートル下の川へ逆さまに落ちた。
ただ一人、蛍を残して――。
周囲は無理心中だろうと噂した。
蛍は両親がそれ程追い詰められているとは知らなかった。
特に不自由なく毎日を過ごしていると思っていたからだ。
しかしその日、学校から帰宅すると家には誰もいなかった。
夕食の支度の途中だったのか、温かい鍋がそのままコンロにあり、窓は開け放たれ、夕日の差し込むリビングのレースのカーテンが風に揺れていた。
母の姿を探したがいない。姉も見当たらない。
父はまだ仕事から帰る時間ではなかったが、ダイニングの父の席に背広がかけられていた。母は日頃父が背広を椅子の背にかけることを諫めてすぐに片づけていた。
いつもと違うその状況が、まるで身体の表面から細胞を食い潰していくように蛍の身体を包んでいく。
広いリビングに座り込み、外から入る冷たい風を身に受けながら、ただ暮れていく夕日を眺め、昏く冷え切った部屋の床に張り付いた身体を起こせずにいた。
すべてを知ったのは、警察が来てからだ。
何もかもが実感の伴わない夢のようだった。
父が、母が、姉が、家族として生きていたということ自体が夢だったのかもしれない。
他に身よりはなく、施設に入ることとなった。
そして今――、『生きている』と思えない自分が常に背中合わせでいた。
物憂げに身体を横たえている綾に、蛍が問う。
「何故、あの時、私を選ばれたのですか」
まるで、うわ言のようだ。
あの時・・・。
光を纏ったような少女は、真っ直ぐ蛍の傍まで来ると無言で手を差し延べてきた。
訳が分からず戸惑っていると、少女の後ろから紳士が近づいて来て優しく微笑んだ。
私の娘の傍にいてやってはくれないか。
柔らかい口調に促されるように、蛍は差し延べられた手を取った。
「美しいと思ったからだ」
綾が答える。
特に感情の伴わないような平たい口調に、蛍はどこか寂しさを感じて目を閉じかけたが、不思議な間につつかれたように顔を上げ、主の方を振り返ると視線があった。
綾が困ったような苦笑を浮かべて、蛍の姿を見つめている。
「お嬢様・・・?」
「顔ではないぞ」
「え?」
「お前は気づいていないようだが、あの時、お前の周りには柔らかな光が取り巻いているように見えた」
意外な言葉が返ってくる。
綾は窓から差し込む光に手の平をかざして、あの時の光景を見ているようだ。
「とても柔らかく包み込むような光。母様の周りにも見えた光だ」
「・・・・・・」
「お前がどう思っているのかは知らないが、お前は確かに愛されて育ったのだと思う。お前を取り巻く光は本当に柔らかくて温かく、綺麗だった」
だから選んだ。
「お前にとっては迷惑な話だったかもしれないな。すまない」
そう小さく呟くと、肩を抱くように回した腕に顔を伏せてしまった。
陽がかげる窓辺の光を集めたように輝く黄金の髪を見つめながら、蛍は心のどこかで何かが解けていくのを感じた。
背中の傷が痛むのだろう。微かに身動きして痛みを軽くしようとしているその背が、水底にいるようにぼやけて揺れる。
「いいえ・・・」
蛍は、擦れてしまう声を覚られぬように小さく小さく呟いた。
綾が謝ったのは、『影』として生きねばならなくなった蛍の身の上のことだろう。
だが蛍にとって、あの時差し延べられた手は、確かに救いであった。
生きている実感が無くなっていた自分にとって、あの小さな手は唯一の『現実』だった。
それがどれほどの力になるのか、蛍には言葉がなかった。
ただ、心から願った。
「どうか早く傷が癒えますように」
祈るようにそう呟き、蛍は静かに首を垂れた。
文化祭当日。
学園内は、生徒は元より外部からの来場者も例年にない数だった。
本部中央には日向夏が陣取り、その指示で動く生徒の中に介三郎と愛美はいた。
藤也はカメラ片手に回る。一応、椎名優紀や桜ら写真部で手分けして、記録の一つとして出店や来場者をできるだけカメラにおさめていく。
卓馬はメガホン片手に段ボール迷路の呼び込みをしている。
天光寺高校からも多くの生徒が私服で訪れていた。
香取省吾は筋肉質の身体に白Tシャツと迷彩柄のズボンとブーツ。屋台の並ぶ一画でアニメのフィギュアを並べている一群につかまり、何故か作り物のバズーカ砲を肩に携えて仁王立ちして写真を撮られていた。
二浦克己はレザージャケットに黒のスキニーパンツ、ボディバッグを斜め掛けにして、総長の様子を苦笑で眺めている。
柱谷龍市は無地Tシャツにデニムパンツとテーラードジャケットで、椎名の後ろをついて歩きながら文字通りナンパに精を出す。
蛍は香取寧々の案内役を任された。
雛鳥は一人講堂の入り口にいた。
軽音部のボーカルで壇上に上がった梶原を見つめていた。
いつものサロンで静かに紅茶を片手に寛ぎながら、万里子は窓辺に声をかけた。
「好い声ですわね、梶原さんは・・・」
まるで感情のすべてをぶつけるように歌うバラードが、離れた専門棟のサロンにまで届く。
遠く聞こえる歌声に耳を傾けて呟いた万里子に、綾は気のない返事を返した。
傷の癒えない背中を気にしているのか、いつものように窓辺に寄り掛かることはせず、物憂げな様子で頭をコツンと窓につけた。
『守弘と同じ眼をしている』と言った幼子の言葉が脳裏をよぎる。
風に乗って梶原の声が聞こえる。
まるで、心臓をえぐられるようだ。
「怖いな・・・」
「え・・・」
聞き間違いかと思い万里子は驚いた表情で顔を上げたが、綾は万里子の反応に気付かないのか、それに答えることはなかった。
万里子はしばらく窓辺を窺ったが、敢えて声をかけることはせず、無言で紅茶を口に含んだ。
玄幽会本部
秋の風が吹き込む窓辺で、善知鳥景甫はゆったりとした椅子に背を預け、足を組み膝の上に地図を一枚広げていた。
時折風に吹かれて地図がひらひらとなびくが、特に気にならないようだ。
視線は地図上にはなく、どこか遠い所を見つめているようでもある。
少し離れた場所で、佐久間涼は台の上に展開する咲久耶市の勢力図を確認しながら、片手に持つ報告書と照らし合わせながら、静かな緊張感を感じていた。
胸元に流れる紫色に映える長い髪を、風が撫でる。
もしかすると、景甫が鷹千穂学園の文化祭に行くと言い出すのではないかと案じながら様子を窺っていたが、それらしい素振りは見られなかった。
学生の喧騒は聞こえず、ただ秋の空に鳥のさえずりが心地よく響くだけだ。
渋谷宜和がパンフレットを数冊手に持って入って来た。
「どこも学園祭シーズンですね。宰相、参考にどうぞ」
そう言いながら佐久間に差し出すパンフレットの中に、鷹千穂学園のものもあった。
「散歩がてらに回って来られても良いのではないですか、宰相。まだ時間は十分にある」
渋谷の口調は明らかに面白がっている。
「これは、軍師としてのご意見ですか。渋谷さん」
半ば呆れて佐久間が諫めるように反応すると、これまた大袈裟に謝るような態度で渋谷は否定した。
「いえ、宰相。ただ、話のタネを持参しただけのこと。お気に触ったのであれば謝りますよ」
そう答えて、渋谷は笑顔のまま景甫の方を向いて頭を下げる。
佐久間は大きくため息をついて困ったような顔をしたが、景甫はまったく無関心だ。
渋谷はその様子を満面の笑みで眺め、
「くつろいでおられるところ、お邪魔でしたかな。では」
と恭しく一礼すると、もう一度佐久間に丁寧な礼をして踵を返した。
佐久間が同じように視線を下げたのを見て、また渋谷が忘れものでも思い出したように立ち止まった。
景甫の視線が現実に戻る。
それを確認するように渋谷がもう一度景甫の方を向き直る。
「そうそう、八須賀へ転校した野村は元気にやっているようですよ。あそこは玄武館に比べれば咲久耶の中心地に近いですからな。ここから出張るのに比べれば断然効率が良いでしょうな。新しい情報提供者も見つけたとか言っておりましたから、相変わらず行動力と人懐っこさは絶品です」
極上の自慢話をするように、渋谷は満面の笑みを湛えて語る。
景甫は特に興味もない様子で無表情のまま渋谷を見た。
佐久間が気まずい様子で眉をひそめながらも止めることもできないジレンマの中、途方に暮れた。
渋谷が二人の反応を気付いた素振りで大袈裟に頭をかいて見せて豪快に笑った。
「あぁ、そうでした、そうでした。あの者は必要ない者でしたね。これは失敬。要らぬことを申しました。では――」
トラのような図体でタヌキのような演技力だ。
いつもよりも丁寧に景甫に首を垂れ、佐久間に一礼すると踵を返し、悪びれた風もなく、渋谷は満足そうに鼻歌を歌いながら部屋を出た。
佐久間は頭痛でも起きたのか、眉間にシワの寄った顔を隠すように指先でこめかみを押さえ、ゆっくりとため息をついた。
十分尊敬できる先輩でもあるが、時にいたずらっ子のような顔をして人を困らせることがある。
颯爽と立ち去った廊下の向こうから気持ちの良い笑い声が響いて来る。
確かに、渋谷のお気に入りである野村岳を八須賀へ飛ばしたのは景甫だ。遺恨がないとは言い切れないが、その感情よりは、単純に景甫をからかっているフシも見える。
景甫に対してそんな態度を飄々としてしまえる人間は、渋谷以外に佐久間は知らなかった。
佐久間が景甫の反応を気遣う。
どう言葉を継ぎ足そうかと思案して景甫を見つめていると、一瞬視線を上げた景甫と目が合ってしまった。
景甫からは何の感情も読み取れない。
ただただ絶句して困っている佐久間をしばらく無言で眺めた景甫は一つ息を吐くと小さく呟いた。
「大丈夫だ、佐久間。僕の邪魔にはなっていない」
その言葉に含まれたものを察して目を凝らして見つめると、景甫は少し明るい微笑を浮かべてまた膝の上に視線を落とし、そして両目を閉じてしまった。
シューティング・ハート ~彼は誰時(カワタレトキ) XIV 文化祭