心世界ぷりゅりゅん滞在記? なんだしっ❤
Ⅰ
「ぷりゅにちわー、あかちゃん♪ シロヒメーのえーがーお~♪」
「白姫……」
まただ。
そんなことを思いながら、アリス・クリーヴランドは白馬の白姫(しろひめ)に近づいた。
「最近、その歌ばかりうたってますね」
「うたってるし」
だから何だと言いたげにアリスを見る。
「かわいいんだし」
「え?」
「シロヒメがだし」
まただ。再びそう思う。
「シロヒメはとってもかわいいんだし」
「は、はあ」
「なんだし」
ギロリ。
「なんか文句あんだし?」
「な、ないですけど」
「ぷりゅったく。アリスはすぐ嫉妬するんだし。シロヒメがかわいいから」
「嫉妬してないです」
そこは、はっきり言っておく。
「かわいいんだし」
「それはわかりましたから」
「わかってないんだし」
ぷりゅ。不満そうに鼻を鳴らし、そして再び、
「ぷりゅにちわー、あかちゃん♪ シロヒメーがーマーマーよ♪」
「ママじゃないじゃないですか、白姫は」
思わずツッコんでしまう。
「そーだし」
うなずいて、
「赤ちゃんのほうなんだし」
「は?」
どういうことだ。
「かわいいんだし」
「は、はい、だからそれは」
「赤ちゃんがだし」
「えっ」
赤ちゃんが?
「かわいいんだしー」
ぷりゅ~ん❤ とろけるような笑顔を見せ、
「とってもかわいかったんだし、マリカゼ」
「あ……」
聞いている。
白姫たちが友馬の桐風(きりかぜ)の故郷――風馬(ふうま)の里と呼ばれるところで、新たな命の誕生に立ち会ったことを。
「ぷりゅにちわー、あかちゃん♪」
またも歌い出す。アリスはあわてて、
「だ、だから、なんでいまここで赤ちゃんなんですか」
「シロヒメ、思いついたんだし」
思いついた? いつもの流れに悪い予感しかしない。
「何を」
「かわいいんだし」
またも言う。
「赤ちゃんはかわいいんだし。シロヒメもとーぜんかわいいんだし」
「は、はあ」
「無敵だし」
「は?」
「だーかーらー」
じれったそうに鼻を鳴らし、
「赤ちゃんのかわいさとシロヒメのかわいさが合わさったらもう無敵なんだし!」
「………………」
つまり、何が言いたいのだろう。
「赤ちゃんなんだし」
だから何がどう『赤ちゃん』なのかと。
「シロヒメが赤ちゃんなんだし」
――は?
「赤ちゃんなシロヒメなんだし! かわいい赤ちゃんでしかもそれがかわいいシロヒメだったらもう最強なんだし!」
「えっ、や、あの」
まったく理解できないまま、とにかく声を張る。
「な、何なんですか、それは!」
「まだわかんないんだしー? 本当にアリスはアホだし」
「アホじゃないです」
そこは否定して、
「だって、相変わらず突然すぎるというか唐突すぎるというか、理解不能ですよ、白姫の言うことは」
「だから、それはアリスが」
「アホじゃないです!」
力いっぱい。否定する。
「やめてください、そういうひどいことを言うのは」
「言っていいんだし」
「良くないです!」
「いいんだし。赤ちゃんなんだから」
「えっ」
ど、どういうことだ?
「アリスもマジになってんじゃねーし。赤ちゃん相手に」
「え……えーと」
またも混乱してくる。
「それは、つまり」
おそるおそる、
「白姫が赤ちゃんということですか」
「そーだし」
「いやいやいや」
めまいがしてくる。
「ど、どういうことですか、それは」
「かわいいんだし」
「何度も聞いてますよ、それは」
「何度聞いてもいいんだし。かわいいから」
めまいが激しくなる。
「えーと」
かろうじて。理解力を総動員して、
「白姫は……自分が赤ちゃんだと主張するんですね」
「そーだし」
ぷりゅーん❤ おおげさなくらい目をパチパチとさせ、
「かわいいんだしっ」
「………………」
もはや何を言っていいのかもわからない。
そこに、
「ぷりゅーっ」
パカーーーン!
「きゃあっ」
いきなりの後ろ蹴りにたまらず吹き飛ばされる。
「なっ、何をするんですか!」
「いいんだし」
「良くないです!」
「いいんだし。赤ちゃんなんだから」
「えっ……」
赤ちゃんだから何をしてもいいと?
「ち、違うじゃないですか!」
あわてて言う。
「白姫は! 赤ちゃんじゃないじゃないですか!」
「ぷりゅ……!」
さすがにひるんだような顔を見せる。
「で、でも、シロヒメ、三歳なんだし」
「三歳だったら、もう人間でも赤ちゃんじゃないですよ」
「ぷ、ぷりゅ……」
ますますひるみつつ、
「でも、シロヒメと赤ちゃんが一緒になったら無敵なんだし」
「はあ」
「みんなだってよろこぶんだし。かわいいシロヒメにさらにかわいさが加わるんだから。世界のへーわに貢献するレベルだし」
貢献――するのだろうか。
「白姫」
ここはきちんと、
「白姫は赤ちゃんじゃないです」
「ぷりゅ!」
「もちろん赤ちゃんだったときもありますけど、いまはそうじゃないです。ですよね?」
「ぷりゅー……でも」
「葉太郎様は」
はっと。主人である騎士・花房葉太郎(はなぶさ・ようたろう)の名前を出され、白姫の背筋が伸びる。
「恥ずかしく思いますよ」
「!」
「そうじゃないですか。騎士の馬の白姫が自分を『赤ちゃん』なんて言ってたら」
「ぷ……」
瞳が泳ぐ。明らかに動揺している。
「そ、そんなこと……ないんだし」
「あります」
ここは強気に言い切る。
「白姫は葉太郎様と共に戦う騎士の馬です」
「ぷ、ぷりゅ」
「だったら」
言う。
「自分が赤ちゃんだなんて言うのは恥ずかしいことです」
「………………」
言葉もない。
わかってくれたか。安堵した直後、
「ぷりゅーっ」
パカーーーン!
「きゃあっ」
またも不意を突かれる蹴りで吹き飛ばされる。
「な、なんでですか!」
「恥ずかしくないんだし」
「ええっ!?」
「恥ずかしくないんだし!」
動揺を吹き飛ばそうと鼻息を強め、
「赤ちゃんを見て、それを『恥ずかしい』なんて思ったりしないんだし! 思うほうがおかしいんだし!」
「本当の赤ちゃんはそうですけど」
「あと、ムカつくんだし!」
「ええっ!?」
「何様のつもりだし! アリスのくせに!」
「やめてください、そういう言い方は!」
「アリスの分際で!」
「もっとひどくなってます!」
こちらも大声で叫んでしまう。
「とにかく!」
負けじとさらなる鼻息で、
「アリスにどーこー言われる筋合いないんだし!」
「そんな」
先に赤ちゃんがどうこう言ってきたのは白姫ではないか。
「なんて、わがままなんですか」
「わがままでいいし。かわいいから」
「かわいくても、わがままはやめてください」
「赤ちゃんだから」
「赤ちゃんもやめてください!」
必死に訴えるも、
「ぷりゅーっ」
「あっ、白姫!」
聞く耳持たないというように駆けていく。
「白姫、待ってください! 白姫―――――っ!」
またこのパターンだ。いつもと変わらずどうにもできない情けなさに、アリスは涙したくなる思いだった。
Ⅱ
「ぷりゅーわけで」
ぷりゅ。白姫の頭が深々と下げられ、
「ぷりゅしくお願いします」
「あははー」
ほがらかな笑い声。
「相変わらずおもしろいなー、白姫ちゃんは」
「おもしろいんだし。おもしろかわいいんだし」
誇らしげに鼻を鳴らす。
「あははー」
またも笑って、笑顔のそのまま、
「マジ?」
「マジだし。ぷりゅマジだし」
「『ぷりゅマジ』の意味はわからないけどー」
やはりニコニコとして、
「おもしろいねー」
「おもしろいんだし」
またも自信たっぷりにうなずく。
「とってもおもしろくていいアイデアなんだし」
「おもしろいアイデアなのは認めるよー」
彼女――青鹿毛馬の桐風は言う。
「けど、わからないのはー」
ニコニコ笑顔のまま、
「なんで『お願い』されてるのかなー」
「お願いするんだし」
ぷりゅ。まったくひるまず、
「キリカゼは忍馬(にんば)なんだし」
忍馬――忍者の馬。
桐風は確かにそう呼ばれる一族の馬で、白姫が行った〝里〟もその忍馬たちが隠れ住むところだった。
「だから」
自信たっぷりに、
「シロヒメを赤ちゃんにしてくれるにんぽーとかもきっと知ってるはずなんだし」
「いやいやいやいや」
笑いながらも、さすがに首を横にふる。
「ないって」
「ないの!?」
「ないよー」
苦笑まじりに、
「聞いたことないもん」
「そんなはずないんだし!」
ぷりゅ! 怒りに鼻息荒く、
「隠してんだし」
「隠してる?」
「そーだし。隠したり隠れたりするの得意なんだし。忍馬だから」
「まーねー」
軽く。肯定する。
「キリカゼはシロヒメと同じだし」
「同じ?」
「そーだし。エリートだし」
ぷりゅーん。得意そうに首をそらし、
「シロヒメはママもおばあちゃんもそのまたおばあちゃんも騎士の白馬なんだし。エリート一族だし」
「うんうん」
「キリカゼだって、そーだし。忍馬のとーりょーの一族だし」
「まーねー」
またもうなずく。
「だったら、知らないはずがないんだし」
ぷりゅ! 荒い鼻息で、
「忍馬のとーりょーなら、にんぽーをなんでも知ってるはずなんだし」
「『なんでも』は知らないけどね」
「知ってるんだし! きっと、赤ちゃんになるにんぽーも」
「いやいやいや」
苦笑まじりに首をふる。
「そんな限定的な忍法ないよ」
「限定的じゃなくてもあるはずなんだし。だって忍者って変身とかできるし」
「あー、そういう」
「そういうなんだし」
ぷりゅ。うなずく。
「とゆーわけで、にんぽーでシロヒメを赤ちゃんにするし!」
バッと。両腕を広げる感じで胸を張る。
「んー、でもねー」
またも苦笑まじりに、
「やっぱり、赤ちゃんっていうのは難しいかなー」
「なんでだし!」
「だってねー」
楽しそうなまま。教えさとす調子で、
「忍法ってね、ちゃんと目的があるわけだから」
「もくてき?」
「ほら、何の意味も理由もなく忍法を使ったりしないでしょ?」
「意味はあるし。目立つし。カッコイイんだし」
「いやいや、忍者が目立っちゃだめでしょ」
それでもまだ楽しそうに、
「確かに、赤ちゃんに変身できたら相手は油断してくれそうだけど」
「油断とかじゃないんだし。かわいがってくれるんだし。かわいいから」
「そういうの油断って言うんだけどね」
ニコニコと。しながら、
「難しいんだよ」
「ぷりゅ?」
「だって、そうでしょ」
またも教えさとすように、
「赤ちゃんと大人じゃぜんぜん大きさが違う」
「ぷりゅ!」
「それを変装させるっていうのはね」
「変装じゃないんだし! 変身なんだし!」
すかさず訂正し、
「シロヒメ、知ってるし! なんか、忍者って大きなカエルとか、そういうのに変身できたりするんだし」
「あれは変身したんじゃなくて、呼び出したんじゃなかったかなー」
「とにかく、できるんだし!」
「まー、できたとして」
あくまで冷静に、
「バレちゃうよねー、大人が赤ちゃんのフリしても」
「バレないんだし。そーゆー修行積むし」
「ホントに?」
不意に真剣な目で、
「本当に積む気ある? 修行」
「ぷ……!」
空気の変化に思わず息を飲むも、
「あ、あるしっ」
「大変だよ」
「!」
「厳しいよ、忍馬の修行は」
「だいじょーぶだし!」
強がるように。言う。
「シロヒメ、才能あるんだし。なんでもできるんだし」
「そうだねー。なんでもできるねー」
「そうだし」
ぷりゅふんっ。強く鼻を鳴らし、
「だから、バレないんだし。修行とかしなくても」
「えっ」
目がテンになるも、すぐにそういうことかと、
「修行するのが大丈夫じゃなくて、修行しなくても大丈夫ってことだね」
「そーだしっ」
当然と。胸を張る。
「まー、白姫ちゃん、幼稚なところあるからねー」
「なに悪口言ってんだし!」
ぷりゅぷんっ!
「でも」
かすかにいたずらそうな目で、
「バレたらイタいよー」
「ぷりゅ!」
ドキッ。
「イ、イタいって何がだし」
「えー、普通にイタいでしょー。赤ちゃんのフリしてるなんてことがバレたらー」
「だから、バレないんだし!」
強気に言うもすぐに、
「バレない……はずなんだし」
「へー」
「ぷりゅー……」
うかがうような目で、
「やっぱり……修行しないとダメ?」
「ダメなんじゃない?」
「ぷりゅぅー」
「なーんて」
ふふっ。冗談めかして笑い、
「大丈夫。ちゃーんと修行なしでもいける方法はあるから」
「ぷりゅ!」
ぴんと。喜びを示すように耳が立つ。
「キリカゼー❤ さすがシロヒメの友だちだしー」
「まーねー」
こういう反応にも慣れている。そんな余裕で受け止める。
「で、どーすればいいんだし?」
「なるの」
「ぷりゅ?」
「だからー」
「本物の赤ちゃんになっちゃうの」
「ぷりゅぅ?」
ますます首がひねられる。
「どーゆーことだし?」
「こーゆーこと」
そう言いつつ、何かを差し出す。
「ぷりゅりゅ?」
一枚の紙片。その最初に大きく書かれていたのは、
「けーやくしょ?」
「そっ。契約書」
沈黙。そして、
「なんだし、契約書って?」
「うん、ちょっとここに一筆、じゃなくて一ヒヅメもらおうと思って」
「なんで?」
「だって、いるでしょー」
言う。
「何かあったときのために」
「ぷりゅ!」
馬体にふるえが走る。
「な、なんだし『何かあったとき』って」
「『何かあったとき』は『何かあったとき』だよー」
「って、軽く言ってんじゃねーし!」
いななくも、すぐまたふるえあがり、
「キ、キリカゼ、なんか悪魔みたいなんだし」
「そーおー?」
「ぷりゅりゅりゅりゅ……」
そして、
「わかったし!」
いななく。
「けーやくするし!」
ぷりゅ! 胸を張って、
「シロヒメがもっとかわいくなれば、みんながよろこぶんだし! せかいへーわのためなんだし!」
「はい、まいどありー」
あくまでさらりと、
「じゃあ、さっそく」
「ちょっと待つし!」
ぷ! 止める。
「えー、怖くなっちゃった、白姫ちゃん?」
「なに言ってんだし!」
ぷりゅりゅ! 鼻息荒く、
「ちょっと、つれてくるんだし」
「つれてくる?」
「そーだし!」
言うなり身をひるがえす。
「?」
首をかしげつつ、桐風は去っていく白姫を見送った。
Ⅲ
「?」
同じく首をかしげながら現れたのは、
「何?」
「えーと」
ユイフォン――人間の少女・何玉鳳(ホー・ユイフォン)に問いかけられ、桐風は困ったようにその隣にいる白姫を見た。
「何なの?」
「ユイフォンだし」
「ユイフォンちゃんなのは知ってるけど」
「知ってるなら、さっさと始めるし」
「は?」
「ほら」
前に出されるユイフォン。
「やってもらうんだし」
「う? う?」
「ひょっとして」
察したという顔で、
「ユイフォンちゃんで実験しようって思ってる?」
「そのとーりだし」
まったく悪びれることなく、
「そこらへんでヒマそうにしてたから、ちょうどよかったし。どーせユイフォンだから、問題ないし」
「う……!」
こちらも何かを察したのか身体をふるわせ、
「ユイフォン、帰る」
「待つし」
すかさずその前に立ちはだかる。
「どこ行く気だし」
「か、帰る……」
「なに言ってんだし。まだよーじは終わってねーし」
「ううう……」
にらまれて早くもおびえ始める。
「やだ……」
「何が『やだ』なんだし」
「なんだかわからないけど、やだ」
「わがまま言ってんじゃねーしっ!」
パカーーン!
「あうっ」
蹴り飛ばされた身体が宙に舞う。
「痛い……」
「言うこと聞くんだし。じゃないと、いじめるし」
「い、いじめはやめて」
「相変わらずいじめっ子だねー、白姫ちゃん」
ニコニコしながら桐風が言う。
「なに言ってんだし。シロヒメ、いじめなんてしたことないし」
「し、してる」
「これはいいんだし。どーせ、ユイフォンだから」
「ひどい……」
ううう。涙目で訴える。
「さー、やっちゃうし、キリカゼ」
「オッケー」
こちらもあっさりと、
「じゃあ、ユイフォンちゃん、こっち来てー」
「ほら、さっさと行くし」
「ううう……」
「肩の力ぬいてー。リラックスしてー」
「ううう……」
「『ううう』じゃねーしっ」
パカーーン!
「あうっ」
「あと二、三回蹴るし? 力が抜けるように」
「や、やめて」
「だめだよー。かえって、おびえて硬くなっちゃってるって」
「ぷりゅー。めんどくさいユイフォンだしー」
「ううう……」
不条理な状況に、ただただ涙する。
「あ、そーだ」
思いついたというように、
「ねー、ちょっと、好きな人のこと考えてみて」
「好きな人?」
「そーそー」
迷うことなく、
「ユイフォンの好きな人、媽媽(マーマ)」
媽媽――まだ六歳の少女・鬼堂院真緒(きどういん・まきお)のことを、十三歳のユイフォンはそう呼んで慕っている。
「どういう風に好きなの」
「どういう風?」
「どういうところが」
またもすかさず、
「優しい!」
答える。笑顔で。
「あと凛々しい。カッコいい」
泣いておびえていたのが嘘のように語り出す。
「じゃあ、その大好きな真緒ちゃんと一緒にいるところを想像して」
「一緒に?」
「そう」
「う~❤」
顔がほころぶ。
「媽媽、いつも一緒に寝てくれる」
「へー」
「一人きりじゃない。すごくうれしい」
「甘えんぼうなユイフォンだしー」
「白姫ちゃんは静かに」
それからもユイフォンはうれしそうに真緒とのことを語り続けた。
「はい、ストップ」
「う?」
「リラックスしたいまの気持ちのまま」
言う。
「こっちを見て」
視線が桐風に向けられる。
「目を見て」
見る。
「まっすぐに見て」
見る。
「あなたは」
ささやきかける。
「だんだん眠くなる」
とろんと。
「眠くなる」
瞳がゆれ、まぶたがゆるむ。
「眠くなる」
とろり、とろり。
「眠る」
まぶたが落ち切った。
「ぷりゅー」
場の空気を乱さないように。静かに感嘆の息がこぼれる。
「すごいんだしー。本当に眠っちゃったんだしー」
「ユイフォンちゃん、素直だからね。かけやすかったよ」
「アホってことなんだし」
「容赦ないねー」
起こさないように。抑え目の会話をかわす。
「で、これからどーするし」
「暗示をかける」
「あんじ?」
「そっ」
軽くウィンクし、
「ユイフォンちゃんの無意識にすりこむ。自分が赤ちゃんだって」
「ぷりゅ!」
思わずいななくも、あわてて口を閉じる。
幸い、ユイフォンは寝息をたてたままだった。
あらためて声をひそめ、
「よーやくそこに来たし。で、どーするの?」
「言ったでしょ。すりこむって」
「だから、それをどーやってやるかってハナシだし」
「夢を見てもらう」
「夢?」
首をひねる。
「夢なんか見せてどーすんだし。赤ちゃんにしないと意味ないんだし」
「意味はあるんだよ」
語る。
「夢の中の自分ってさ、本当の自分だよね」
「ぷりゅりゅ?」
「だから」
教えさとすように、
「夢のときの自分って、起きてるときの自分と違うことってあるじゃない」
「あるし」
「けど、その自分を疑ったりしないでしょ」
「しないし。シロヒメはシロヒメだし」
「白姫ちゃんは白姫ちゃんだけど」
ささやく。
「お姫様の白姫ちゃんでもあり、勇敢な戦士の白姫ちゃんでもあり」
言う。
「そして、赤ちゃんの白姫ちゃんでもある」
「ぷりゅ!」
耳がぴんと立つ。
「わかったし。夢の中で赤ちゃんにしちゃうんだし」
「その通り」
「でも、起きちゃったら意味ないんだし」
「起きないよ」
静かな目で、
「そういう術なんだから」
「ぷりゅー。なんだかわかんないけど、すごいんだしー」
「じゃあ、仕事に戻るよ」
眠りの世界に落ちているユイフォンに向き直る。
「聞いて」
こくり。うなずくも目は閉じたままだ。
「ユイフォンちゃんは赤ちゃんになる」
「赤……ちゃん」
「そう、赤ちゃん」
「赤……ちゃん……」
「かわいいかわいい赤ちゃんになるんだよ」
「かわいい……赤ちゃん……」
「『かわいい』は必要ないんだし。かわいいのはシロヒメだし」
「はいはい、白姫ちゃんは黙ってて」
ユイフォンを見続けたまま、
「赤ちゃんだよー」
「赤ちゃん……」
「ほーら、みんな、ユイフォンちゃんをかわいがってるねー」
「うー」
顔がほころぶ。
「うれしい」
「そう、うれしいよー。大好きなママがかわいがってくれて」
「媽媽……大好き」
にっこり。微笑む。
「ママはとってもかわいがってくれるねー」
「う。かわいがってくれる」
「もっと、かわいがられたいねー」
「かわいがられたい」
「なに言ってんだし。かわいがられるのはシロヒメだし」
「だから、黙っててって」
そんな脇のやりとりにまったく気づかず、ユイフォンは幸せそうな笑みを浮かべ続ける。
「うー」
「アホそうな顔で寝てるしー」
「よーし、効いてる、効いてる」
「効いてる?」
「ちゃんとこっちが誘導した夢の中にいるってこと」
「ぷりゅー」
感心したようでやはりよくわからないという息がこぼれる。
暗示は続けられ、
「うれしいねー」
「うー。うれしい」
「うれしかったら何て言うの?」
「うれしい」
「違う、違う」
ささやく。
「赤ちゃんは」
ささやきかける。
「『うれしい』なんて言わないよね」
「……う?」
「言わない」
心持ち。強めに、
「赤ちゃんは」
「………………」
「何て言うの?」
わずかな間。そして、
「……ばぶ」
「そーそー」
よくできました。そうほめるような調子で、
「かわいがってくれてうれしい。そうママに言ってあげて」
「うれしい」
「じゃなくて」
「……ば」
言う。
「ばぶばぶ」
「そーそー」
「ばぶうー」
うれしそうに。言う。
「ママのこと、大好きって言ってあげて」
「ばぶー。ばぶばぶ」
「ママもうれしいって」
「ばぶうー❤」
きゃっきゃっと。本当の赤ん坊のようにはしゃぐ。
それを見て、
「す、すごいんだしー」
「ふふっ」
満更でもない。そんな笑みを見せる。
「こうなれば、どこからどう見ても赤ちゃんでしょ」
「どこからどう見ても赤ちゃんだし」
ぷりゅぷりゅ。うなずく。
「まー、ユイフォン、もともとよーちだったけど。赤ちゃんぽかったけど」
「その赤ちゃんに白姫ちゃんもなりたいんでしょ」
「っ……な、なりたいんだし」
ちょっと不意をつかれたという顔になりながらもうなずく。
「ぷりゅー」
複雑な視線が注がれる。
「ばぶばぶー❤」
夢の中にいるユイフォンはまだ無邪気によろこんでいる。
と、はっとなり、
「ちょっと待つし、キリカゼ」
「なーにー?」
「これって夢なんだし?」
「夢だね」
「って、夢じゃダメなんだし! 起きてるときにも赤ちゃんじゃないと!」
「起きないよ」
ささやく。
「そういう術だから」
「ぷ……ぷりゅ」
静かに気圧される。
「じゃあ、白姫ちゃんにも」
「ぷりゅ!」
あわてて、
「ま、待つし!」
「なんで?」
「何がなんでもだし!」
必死に言い切る。
「まだ終わってないし!」
「終わってない?」
「そーだし!」
言い切る。
「まだ実験ぞっこー中だし!」
「え? でも、ユイフォンちゃんはこうして」
「こうなることが目的じゃないんだし!」
ぷりゅ? 首がかしげられる。
「どういうこと?」
「赤ちゃんになるのは目的じゃないんだし。それによってみんなからかわいがられることが目的なんだし」
「うーん、恥ずかしげもなく言うねー」
「恥ずかしげ?」
「あー、なんでもない、なんでもない」
笑ってごまかす。
「で、具体的にどうするの」
「行くし」
「行く?」
「そーだし。ユイフォンが本当にかわいがってもらえるかどうか確かめに行くんだし」
Ⅳ
そして、
「おお、ユイフォン」
我が〝娘〟の姿を見かけた鬼堂院真緒は、
「白姫と一緒だったのか」
その言葉に、
「………………」
「む?」
じーっと。ただこちらを見つめてくる。
と、ぽつり、
「……媽媽」
「うむ」
「媽媽!」
うれしそうに言って、
「むむ?」
にじにじと。膝をついたまま近づいてくる彼女にさすがに目を見張る。
「どうしたのだ?」
「うー」
「『うー』ではわからないぞ」
「ばぶうー」
「むぅ?」
突然の赤ちゃん言葉にますます困惑する。
「どうしたのだ、ユイフォン」
「媽媽❤」
すりすり。真緒に抱きついたユイフォンは、親愛の気持ちを示すように顔をすり寄せる。
「むぅ」
なでなで。
その頭をなでさすってやりながらも、何か納得いかないという顔の真緒。
「本当にどうしたというのだ」
「うー」
「だから『うー』だけではわからないぞ」
優しく。さとす。
見た目は明らかに真緒のほうが小さく年下だが、お互いの間のやりとりでは完全に逆転してしまっている。
「ユイフォン」
目を見つめ、
「きちんと話すのだ」
「ばぶ」
「どうしたのだ。まるで赤ちゃんのように」
そこへ、
「赤ちゃんなんだし」
白姫が。言う。
「ユイフォン、赤ちゃんになっちゃったんだし」
「むぅ?」
首をひねる。
そして、あらためてユイフォンを見る。
「ユイフォン」
「ばぶ」
「ユイフォン」
「ばぶばぶ」
「むぅ」
再び白姫を見て、
「これでは、本当に赤ちゃんになってしまったようではないか」
「ぷりゅ」
うなずく。
「そうなのか……」
戸惑いは隠せないながら、
「仕方のないユイフォンだな」
苦笑して、
「どんなユイフォンでも、ユイフォンは私の娘だ」
頼もしく。言う。
「どうしてほしい、ユイフォン」
「ばぶ。ばぶばぶ」
「そうか」
伝わったのだろう。
真緒はいっそう愛おしそうにユイフォンの頭をなでる。
「ばぶうー」
この上なくうれしそうな声がこぼれる。
それを見て、
「ぷりゅー」
うらやましそうに。こちらもいななきがこぼれる。
「なに、かわいがられてんだし。ユイフォンのくせに」
と、そこではっとなる。
「やっぱり、赤ちゃんはかわいがられるんだし」
確信を持つ。
そこに、
「どうしたの、みんな」
「ぷりゅ!」
「おお、葉太郎」
白姫が息を飲み、真緒が笑顔を見せる。
「何をしてたの」
こちらも笑顔で。問いかける。
「ユイフォンをかわいがっていたのだ」
「えっ」
二人の関係――〝母〟と〝娘〟ということを葉太郎も承知している。
それにしても、
「あ、甘えてるね、今日は」
「甘えているのだ」
うなずく。そして、
「葉太郎もかわいがるか」
「えっ!」
「遠慮しなくていいぞ」
「いや、その、遠慮とかは」
何かを言う前にユイフォンを前に押しやられる。
「……ばぶ?」
「う……」
こちらを見つめ首をかしげるユイフォンに、葉太郎は口もとを引きつらせることしかできない。
「あ、あの……ユイフォン?」
「ばぶう?」
「ど、どうしちゃったの、本当に」
「赤ちゃんなのだ」
真緒が言う。
「今日のユイフォンは赤ちゃんなのだ」
「えぇぇ~?」
さすがに理解できないという声がこぼれる。
「いや、ユイフォンは赤ちゃんじゃないし」
「赤ちゃんなのだ」
「でも」
「私の娘なのだ」
「う……」
こうなるともう何も言えない。
「あの」
「ばぶう?」
「えーと」
戸惑いながらも、
「い、いい子だね」
その頭をなでる。
「ばぶぅー」
不満そうに顔をしかめる。
「こら。だめではないか」
「だ、だめなの?」
「そうだ。もっと心からかわいがらなくては」
「心から」
ますます困ったような顔になるも、はっとなり、
「ちょっと待ってて」
「待つ?」
真緒が首をかしげる中、さっと姿を消す。
「あ、葉太郎、どこに」
その直後、
「お待たせいたしました」
「おお!」
真緒の目が輝く。ユイフォンの目も輝く。
「爸爸(パーパ)!」
彼女が〝父〟と呼ぶのは、
「ナイトランサー!」
はじける真緒の声。
ナイトランサー。白い仮面の正義の騎士。
「レディ」
ささやく。
「お待たせいました」
「ばぶうー!」
きゃっきゃっきゃっ! 真緒以上にユイフォンもはしゃぐ。
「爸爸! 爸爸!」
「ふふっ」
優しく。微笑みかける。
「レディ」
そっと手を取って。
――キス。
「違うぞ、ナイトランサー」
「えっ」
真緒からの思わぬダメ出しに、素で驚きの声がこぼれる。
「ユイフォンは赤ちゃんなのだ」
「う、うん」
「赤ちゃんとしてかわいがらなくてはだめだ」
「赤ちゃんとして」
やはり戸惑いを隠せない。そんな仮面の騎士に助け舟を出すように、
「抱っこをしたり、おんぶをしたりするのだ」
「抱っこ……」
とっさに、
「ばぶ!?」
抱え上げられる。しかし、それは赤ちゃんへの抱っこというより、
「お姫様抱っこではないか」
「う……」
つい、いつものように動いてしまったナイトランサーは口もとを引きつらせる。
しかし、
「ばぶうー!」
ユイフォンは大喜びで手足をばたつかせる。
「まあ、うれしそうだから良いとするか」
「は、はい」
「次は私だぞ」
「かしこまりました、レディ」
余裕を取り戻し、紳士らしく微笑みかける。
――と、
「………………」
そんな光景をじっと。白姫は見続けていた。
「ぷりゅりゅりゅりゅ……」
かすかな、しかしはっきりと悔しさをにじませたいななきがこぼれ出す。
「……なんでだし」
つぶやく。その目にじわりと涙が光る。
「なんで、そんなにユイフォンのことかわいがるし。シロヒメじゃなくて。いくら赤ちゃんだからって」
口にして、はっとなる。
「赤ちゃん……」
やっぱりそうなのだ。
「……!」
息をのむ。いつの間にかすぐ目の前にあった白い仮面に気づいて。
「レディ」
そうだ。
ナイトランサーは。
それを求めるレディの前に必ず馳せ参じる。
「ち、ちょっと待つし!」
あわてて、
「まだ準備できてないんだし!」
「準備?」
「ぷりゅっ!」
うなずくなり身をひるがえす。
「あっ」
止める間もなく。
白い影はあっという間に遠ざかっていった。
「白姫……」
そのときは。
白い仮面の騎士でなく、主人として案じる声がこぼれる。
「どうしたのだ」
我に返る。
あわててふり返ると、そこには真緒の姿があった。
すぐさまヒーローの顔に戻り、
「どうされたのですか」
「それはこっちが聞いているのだ」
「私は」
とっさに言葉につまる。
「どうしたのだ」
本当に心配そうに。真緒が聞いてくる。
(くっ)
だめだ。
自分はヒーローなのだ。
と、そこに、
「うー!」
「あっ」
ナイトランサーと共に真緒もはっとなる。
「どうした」
むずがるように手足をじたばたさせているユイフォン。
「媽媽! 爸爸!」
「大丈夫だ。私もナイトランサーもここにいるぞ」
「師父(シーフー)」
「えっ」
じわり。
「師父、いない」
「それは」
続く言葉がない。
師父――彼女がそう呼ぶ相手がすでに亡くなっていることを真緒は知っている。
「むぅ」
困ったようにナイトランサーを見る。
「レディ……」
同じく。困った息をもらすも、すぐさま、
「わかりました」
「おお!」
笑顔になる真緒だったが、直後、不安そうに、
「大丈夫なのか」
「レディ」
ささやく。ゆらぐことなく。
「レディの願いに応える。それが騎士の、そしてヒーローの務め」
「ナイトランサー!」
飛びつく
と、ユイフォンもまた
「うー! うー!」
はいはいをして飛びついてくる。
「こら、いまは私の順番だ。私も甘えていいのだぞ、妻なのだから」
「う」
聞きわけ良くうなずく。大好きな〝母〟の言うことに。
「いい子だな」
笑顔で〝娘〟を抱き寄せる。
「みんな一緒で仲良しだ」
「ばぶうー❤」
きゃっきゃっきゃっ。歓声がはじける。
それは確かに、愛し合いつながりあう家族の光景だった。
Ⅴ
「どうすればいいんでしょう」
「ふぅ」
葉太郎の相談の内容を聞いて――金剛寺鎧(こんごうじ・がい)は、
「情けない」
「うう」
さすがに自覚はある。
「でも、ユイフォンを悲しませるようなことは」
「後になってから、いっそう悲しませることになってもか」
かすかに険しい目で。言う。
「……すみません」
「あやまるのは俺にではないだろう」
ため息がまじる。
「あの」
おそるおそる。
というより、体格でも年齢でも上の相手におびえる色も見せつつ、
「金剛寺さんは、その、ユイフォンの師父……さんのことに詳しいと聞いたので」
「詳しいと言えるほどではない。ただ」
かすかに遠い目で、
「強かった」
語る。
「忘れられない相手ではあったな」
「はあ……」
空気を壊さないようにと気を遣いつつ、
「具体的には、その、どういう人だったんでしょう」
「強かった」
くり返す。
「技もそうだが、何より心がな」
「心?」
「そうだ」
うなずく。
「あの男と同じ境遇にあったとして」
自分に言い聞かせるように、
「俺が同じように強くあれたとはとても思えない」
「そんな」
とっさに、
「だって、金剛寺さんは」
その先の言葉が出ない。
(う……)
金剛寺は――〝元〟騎士だ。
現在〝騎士の学園〟サン・ジェラールの教師を務めているが、それはいわば特例とでも言うべきもの。
そして、彼が力を失った原因は、この自分にある。
「俺など」
こちらの気持ちを軽くしようとしてか、かすかに微笑み、
「恵まれている。俺のことを支えてくれる家族が大勢いてくれる」
「それは」
大半が孤児であるその子どもたちを進んで引き取ったのは金剛寺本人だ。子どもたちは、みな彼を〝父〟と慕っている。
「やっぱり、金剛寺さんの強さですよ」
言う。確かな想いをこめて。
「そうか」
金剛寺もそれ以上を口にすることはなかった。
「僕には」
再び声の調子が落ち、
「できるんでしょうか」
それが何かということを金剛寺は聞かない。
「同じように」
「……そうだな」
一つうなずき、そして、
「覚悟はあるか」
「えっ」
思わぬ問いかけに顔をあげる。
「あるならば」
そんな動揺に構わず、
「話を通してもいい」
「え、いや、あの」
なんと言っていいかわからない。と、気づく。
「あ……」
表情がかすかに青くなっている。
「あ、あの」
一体、誰に話を通すというのか。
「同じ技を習得されている」
「えっ!」
同じ技。それはひょっとして、
「ユイフォンの師父さんと」
「ああ」
そんな知り合いがいたのか。しかし『覚悟』とは。
「もう一度聞く」
びくっと。背筋が張る。
「覚悟はあるのか」
「あ……」
ここへ来て引くことはできない。騎士として。
「あります」
「そうか」
うなずく。そして――
「けーやくするし!」
覚悟は決まっていた。
「ふふっ、やっとだね」
微笑む。悪魔のように。
「ユイフォンちゃんはどうだった?」
「かわいがられてたし」
ぷー。頬をふくらませる。
「なんだし、あれ。かわいがられすぎなんだし。いくら赤ちゃんだからって」
「赤ちゃんだからだよねー」
「それはそうだけど」
言葉につまるも、すぐ、
「とにかく、シロヒメも負けてられないんだし!」
「負けず嫌いだねー」
「負けず嫌いだし。かわいいから」
「いやいや、つながってないけど」
「つながってるし! かわいいシロヒメがそこらへんのユイフォンに負けられないんだし!」
「あー、そういう」
納得したような、どうでもいいような。
はっきりしているのは、明らかにこの状況を楽しんでいるということ。
「じゃあ」
すっと。眼差しが真剣なものになる。
「行くよ」
「ぷ、ぷりゅ」
緊張の面持ちでうなずく。と、すぐ、
「待つし!」
「ぷりゅ?」
突然のストップに首をかしげる。
「あれれー。白姫ちゃん、怖気づいちゃったー?」
「おじけづいてなんてないし! ビビってないし!」
鼻息荒く言って、
「ちょっと……問題あんだし」
「問題?」
「質問があるし」
こちらも真剣な顔で、
「シロヒメはどーなるんだし」
「ぷりゅりゅ?」
またも首をひねる。
「えーと……意味がわからない」
「なんでわからないんだし!」
いななき高く、
「だから! シロヒメは赤ちゃんになっちゃうんだし!」
「なっちゃうよ」
「そのとき!」
力をこめ、
「本当のシロヒメはどこに行っちゃうんだし!」
「……ん?」
目が泳ぐ。
「えーと」
どういうことだろう。しばらく思案するそぶりを見せ、
「だから、その本当の白姫ちゃんが赤ちゃんに」
「違うんだし!」
首をふる。
「赤ちゃんになっちゃったシロヒメは、いまのシロヒメじゃないんだし」
「んー?」
「だってそうなるんだし」
じれったそうに、
「心まで赤ちゃんだったら、よろこぶのも赤ちゃんのシロヒメなんだし!」
はっとなる。
「あー」
やっとわかったという顔で、
「つまり、白姫ちゃんはいまの自分のままで赤ちゃんとしてかわいがられるうれしさを味わいたいと」
「そーゆーことだし」
「話が元に戻るけどね」
冷静な口調で、
「見た目だけ変わっても、中身がそのままじゃバレちゃうってことで納得してもらったと思うんだけど」
「ぷ、ぷりゅ」
ひるみつつもうなずく。
「けど、だから、それじゃ本物のシロヒメがどこに行っちゃうかってハナシなんだし」
「哲学だねー」
「哲学なんだし」
ぷりゅ。
「まー、言いたいこともわかるよ。なんとなくだけど」
言い置いて、
「白姫ちゃんのままで」
「ぷりゅ」
「赤ちゃんの白姫ちゃんとしてかわいがられたい」
「ぷりゅっ」
「わがままだねー」
「そーゆーのはどうでもいいんだし!」
ぷりゅ! やはり自覚しているのか、ごまかすように鼻息を荒くする。
「とにかく、シロヒメはそーしてほしいんだし」
「わがままだねー」
あらためて言うも、
「できるよ」
「ぷりゅ!」
しっぽがはねる。
「できるんだし? もー、ならさっさと言うんだしー」
「できるんだけどね」
意味ありげに、
「いいの?」
「ぷ?」
「もう一度聞くよ」
真剣な。これまで以上に遊びのない表情で、
「いいんだね」
「いいに決まってるし!」
そんな態度の変化に気づかず、せかすようにいななく。
「これでなんの問題もないんだし。シロヒメが赤ちゃんになってかわいがられて、そんなかわいがられるシロヒメにシロヒメがよろこべるんだし」
「そう単純に行かないと思うけどね」
「ぷりゅ?」
「あー、気にしないで。こっちも興味あるから」
言うと、
「じゃー、契約も変更ってことになるかなー」
「いいんだし」
ぷりゅ。うなずく。
「あー、あと、ちょっと準備もいるかなー」
「それも別にいいし。あんまりシロヒメを待たせなければ」
「まかせてー」
一転、軽い調子で。桐風は言ってのけた。
Ⅵ
「ひっ……!」
かすかな悲鳴。
思わず見せてしまった情けなさ。気づかれていないだろうか、と気にする時点でさらに情けない。
「………………」
無表情。
その沈黙がまた葉太郎には耐えがたい。
「あ、あの」
意味なく口を開いてしまう。
「………………」
やはり無言。
ごくり。緊張につばを飲みつつ、
「ぼ、僕は、その」
「花房葉太郎」
びくっ。不意に名前を呼ばれて身体がびくつく。
「伊能燐(いのう・りん)について知りたいそうだな」
「っ」
本題に切りこまれ、またふるえる。
「あ、あの、つまりはそう……なんです」
何か『つまり』だ。
それにしても、なんという威圧感だろう。
特に、偉ぶったり、こちらをにらんだりといったことはまったくないのに。
李秀宗(イ・スジョン)。
金剛寺にとって騎士の先輩であり、いまもなお逆らえない相手。
彼も正式には騎士を辞めている。
執事騎士(セネシャル)。
それが、現在の肩書きだ。
「………………」
再びの沈黙。こちらはただ黙って身を固くしているしかない。
「会ったことはない」
「は?」
思わず間の抜けた声がこぼれ、あわてて口をふさぐ。
やはり、そんなこちらには構わず、
「会ったことはないと言っている」
「は……はい」
なんと言っていいかわからない。では、なぜ金剛寺はこの人のところに行けと。
「伊能燐」
再び。その名を口にする。
「天才と呼ばれていた」
「天才……ですか」
自分にはまったく縁のない言葉だ。葉太郎は思う。
「キミと同じだ」
「ええっ!」
さらに思いがけないことを言われ、さすがに驚きの声をあげてしまう。
「て、天才って」
口にするだけで頬が熱くなる。
「ないですよ! 僕なんてぜんぜん!」
「………………」
スジョンは、
「伝説の騎士」
「!」
「その息子という自覚はあるだろう」
「っ……」
葉太郎は、
「ぼ、僕は」
声がふるえる。
「僕は……僕ですから」
「………………」
沈黙。
「そうか」
短く。言って、
「!」
突きつけられた。
「え……え?」
光――
それは鋼の刀身が照り返す閃光。
「な……」
遅ればせながら。気づく。
「か、刀……」
やはり、何も言わない。
何も言われないまま。
白刃を突きつけられている。
「………………」
何も言えない。
こちらも。
「な」
ようやく、
「なんで、こんな」
「知りたいと言われたからだ」
そして、
「!」
振られた。
「っ」
声もない。
紙一枚。
いや、その隙間さえなかったと思える。
鼻先で。
「どうだ」
「………………」
何も言えない。言えるはずがない。
「あ……う」
へたりこんでいた。
「ふむ」
何かを納得したように一つうなずく。
そして、よどみのない動きで腰元の鞘に日本刀を収める。それがいつ手にされたのか、葉太郎にはまったくわからなかった。
「どう思った」
「どう?」
静かに。見つめられる。
あいまいな返事は許さないという圧と共に。
「こ……怖かったです」
口にして、はっとなる。
何を正直に言ってしまっているんだ! これでは自分の情けなさを認めてしまっているも同然だ。
しかし、自分は――騎士。
騎士は虚飾を良しとしない。物事をつくろうことができない。
「!」
突きつけられた。
しかし、それは刃の切先ではなく。
真逆だった。
「え……?」
またも間の抜けた声。だが気にかける余裕もなく、
「な、なんで」
まさに『なんで』だ。これではまるで、
「……う」
手に取れと。そう言われているのか。
「むっ」
無理だ。そう口にするより先に、
「伝説の騎士」
「……!」
「そう呼ばれる男の息子であるなら」
ぐいと。前に出され、
「同じであるなら」
「同じ?」
どういう意味だ。
(僕と……父さんが)
ぜんぜん違う。
父――花房森(はなぶさ・しん)は騎士最高位の〝熾騎士(セラフ)〟。一方、自分は下から二番目の〝大騎士(アークナイト)〟だ。
(同じ……)
やはり、わからない。
「聞いている」
スジョンは。あくまで冷徹な目で、
「父と同じように〝聖槍(ロンゴミアント)〟を用いたと」
「!」
えぐられる。
「そ、それは」
声がふるえる。
だめだ。わかっていても動揺は去らない。
(僕は)
間違いではない。
確かに自分は〝聖槍〟――現代においては父以外あつかうことのできないと言われる騎士槍を手にした。
結果、自分は、
(う……)
金剛寺を――壊した。
彼が騎士を辞めることになる原因を作った。
「どうした」
静かな眼差しのまま。刀の柄がさらに前に出される。
(僕は)
葉太郎は、
「………………」
その柄を手に取った。
「あ、白姫!」
近づいてきた白い影に気づき、アリスは声をあげた。
「大変なんですよ! ほら、ユイフォンが」
「ばぶー」
「だから『ばぶー』じゃなくて、いつもは『うー』って」
「うー」
「そう、それでいい……のかどうかはわかりませんけど」
「ばぶー」
「ああ、また」
軽いパニックに陥ってしまっている。
「というわけで大変なんですよ」
「………………」
「白姫?」
何も言わない彼女に首をかしげる。
と、
「ばぶ?」
「!」
その『赤ちゃん語』はユイフォンから出たものでなく、
「し……白姫?」
「ばぶぅ」
「っっ!」
ま、まさか。
「いやいやいや」
「何が『いや』なのだ?」
「きゃっ」
「かわいいではないか」
そう言って。
「よしよし」
「ばぶぷりゅー」
「ば、ばぶぷりゅ?」
その鳴き声に口もとを引きつらせるアリス。
一方、真緒は、笑顔で白姫の頭をなで続ける。
「かわいい白姫だな」
「ばぶぷりゅー❤」
「いつもの白姫ももちろんかわいいがな」
「ぷりゅー❤ ばぶぷりゅー❤」
嘘のないほめ言葉に大はしゃぎだ。
そこに、
「ばぶうー」
「あっ」
不機嫌そうなうなり声。
「ユ、ユイフォン」
指をくわえて。不満そうにこちらを見ている。
「あの、いまは白姫の番ですから」
そう言ってなだめつつ、
(なんで、真緒ちゃんはこの状況に普通に対応できるんでしょう)
さすがに思ってしまう。
アリスはすこし遅れてこの事情を知り、そして、当然のように驚いた。
ユイフォンが突然赤ちゃんに。
しかも、その原因は不明だという。
芝居などできるタイプではない。つまりそれは、本当に赤ちゃんになってしまったということなのだ。
「どこかで頭を強く打ったとか、そういう」
確かめたが、怪我をしたあとのようなものはなかった。
「だったら一体」
謎なのだ。
「仕方ないではないか」
あっさりと。真緒は言って、
「目の前に現に赤ちゃんがいるのだ。だったら面倒を見なくてはな。母親として」
「は、はあ」
というわけで現在に至っている。
(大物すぎますよ、真緒ちゃん)
あらためてながら思ってしまう。まあ、普段、ユイフォンの『母親』を務めている時点で十二分に大物ではあるのだが。
「あの」
それでも、ずっとこのままというわけにはいかないだろう。
おそるおそる、
「ユイフォンは本当は赤ちゃんじゃないわけですから」
「私の娘だ」
「それは」
その通り、ということになってはいるのだが。
「私は六歳だ」
「で、ですね」
「なら、娘が赤ちゃんというほうが自然ではないか」
「う……」
自然――なのか?
いやいや、そもそも六歳で〝娘〟はいないはずなので。
ただ、その凛々しい言動から、母親としてふるまってもまったく違和感がないのは事実なのだが。
(どうすればいいんでしょう……)
もう自分の判断能力をとっくに超えている。
と、アリスが悩んでいる一方で、
「うー。ばぶうー」
「ぷりゅぅー?」
気づく。
ユイフォンと白姫――『赤ちゃん』たちが何か言い争っている。
「う。う。ばぶ。う」
どうやら抗議しているらしい。真緒を返せとでも言っているのだろう。
「ぷりゅばぶぅー」
不機嫌そうな赤ちゃんいななきがこぼれる。
直後、
「ぷりゅばぶぅーっ」
パカーーーン!
「し、白姫!」
驚きあわてて、
「だめですよ、いじめは!」
しかし、
「ぷりゅっ。ぷりゅっ」
「うー」
文字通り『馬乗り』になって蹴り続ける白姫。ユイフォンは涙目でうめくばかりだ。
「だから、やめてください!」
懸命に声を張る。しかし、真緒は、
「大丈夫だ」
「だ、大丈夫じゃないですよ」
「大丈夫なのだ」
自信たっぷりに。うなずく。
「赤ちゃんだからな」
「はあ」
「じゃれあうこともあるだろう」
じゃれあう――と言うにはやりすぎているように見えるのだが。
中身はともかく身体が赤ちゃんでないだけに。
「ぷりゅっ。ぷりゅっ」
「うー」
「ほ、本当にやめてくださいって」
すると、
「ああ」
真緒がぽんと手を叩く。
「お腹が空いているのかもしれないな」
「えっ」
思わぬ意見にそちらを見る。
「お腹ですか」
「そうだ」
うなずく。
「アリスもそうだろう。食いしん坊だからな」
「食いしん坊じゃないですよっ」
赤面する。
真緒は微笑し、
「お腹が空くと落ち着かない気持ちになるだろう」
「それは……は、はい」
「ごはんを食べれば、きっとおとなしくなるはずだぞ」
本当に六歳なのだろうか、この子は。
「あっ」
と、何か気づいた様子で、
「困ったな」
いや『困った』はもうかなり前の段階からなのだが。
「どうしよう」
「何を」
「ごはんだ」
「……あ」
アリスも気づく。
「赤ちゃんが食べるようなもの……じゃないとだめなんですよね、たぶん」
「きっと、そうだ」
うなずく。
「アリス」
こちらを見て、
「おっぱいは出るか」
「えええーーっ!」
食いしん坊と言われたときよりも頬が熱くなる。
「なんてことを言ってるんですか!」
「出ないのか?」
「出ませんよ!」
「そうか」
難しい顔で腕を組み、
「困ったな。私も出ないぞ」
「そ、それは」
出ない。決まっている。
「アリスはおっぱいが大きいから出ると思ったのだがな」
「真緒ちゃん……」
どう言っていいかわからない。
「そうだ。依子(よりこ)なら」
そこに、
「わたくしが何か」
「!」
ふるえあがるアリス。
「おお、依子」
真緒は笑顔で、
「ちょうどよかった。依子はおっぱいが」
「真緒ちゃん!」
あわててその口をふさぐ。
(ううう……)
怖い。
彼女――朱藤依子(すどう・よりこ)は一言でいえばそういう人物だ。
メイド服姿の美女ではあるが、その眼差しはいつもするどく冷たい。事実、自分や白姫たちはたびたび『お仕置き』をされている。
(……ハッ!)
そうだ、白姫だ。
「あ、あの、これは」
何をどう言いつくろえばいいのだ。
赤ちゃんになってしまった? なんてことを言ったりすれば、ふざけていると思われてこちらが殺(ぷりゅ)されてしまうかもしれない。
「はわわわわ……」
青い顔でふるえることしかできない。
と、そんな空気を察したのか、ユイフォンをいじめていた白姫も動きを止める。
「ぷりゅりゅりゅりゅ……」
恐怖が伝わったのだろう。彼女もまたおびえた目で小刻みにふるえ始める。
「ううううう……」
ユイフォンも同様に。
「白姫さん」
「!」
あわてて馬乗りになっていたユイフォンの上から降りる。
「何をされていたのですか」
「ぷ……」
その目に、
「ぷ……ぅ……」
涙が浮かぶ。そして、
「ぷりゅぅーっ。ぷりゅばぶぅーっ」
あぜんとなる。
泣いていた。『鳴く』のほうではなく。
その無防備な泣き方は、まさに赤ちゃんと言うのにふさわしいものだった。
「うーっ。ばぶうーっ」
それにつられたのか、隣のユイフォンも泣き始める。こちらもまた、赤ちゃんらしいためらいのなさで。
「………………」
無言で。依子はその様子を見つめ続ける。
(はわわわわわわ……)
ど、どうなってしまうのだろう。
「わかりました」
「!」
何がわかったというのか。
「あ……」
背を向ける。
「あ、あのっ」
胸が早鐘を打つのを感じつつ、それでも思わず、
「いいんですか」
わずかにふり向く。
「はい?」
「!」
その一瞥にふるえ上がる。
(はわわわわわわわ……)
恐怖で頭がいっぱいになる。声にならない悲鳴をくり返すばかりだ。
「では、急ぎますので」
急ぐ? 急いで何を。
「あっ」
話は終わり。そんな態度で再び歩いていこうとする依子にまたもアリスは――
「コラ」
止められた。
「真緒ちゃん」
なぜ? そんな目で見ると、
「だめではないか」
「えっ」
「急いでいると言っただろう。邪魔をしてはだめだ」
「は、はあ」
だから、急いで何をしようとしているかが問題なのだが。
「ごはんだ」
「えっ」
「だから」
白姫とユイフォンを見て、
「お腹を空かせているのがわかったのだろう」
「そうなんですか?」
しかし、どちらも『赤ちゃん』だということまではさすがにわからないのでは。
「大丈夫だ」
そう言われてしまうと、それ以上は何も言えない。むしろ、こちらまで『大丈夫』という気にさせられてしまう。
「依子は大人だ。だからちゃんとおっぱいが」
「おっぱいは大丈夫ですから!」
『起きるし』
夜――
『起きるんだし』
「ん……んん」
夢。そう思った。
『起きるし、アリス。アリス。アホのアリス』
「アホじゃないです!」
反射的に言い返し、毛布を跳ね上げる。
「……あ」
すやすやと。薄闇の中、白い馬体が寝息を立てていた。
「はわわっ」
あたふたと口をふさぐ。
そっと。
眠る白姫の様子をうかがう。
「お、起きてませんよね」
小声でつぶやく。
大変だったのだ。
あの後――
真緒が言った通り、一同の暮らす屋敷に戻った依子は離乳食を思わせる食事を作ってくれ、それを口にした白姫とユイフォンはたちまち機嫌を直した。
もっとも、食べさせたのはアリスや真緒たちではあったのだが。
そして、食事も終わり、日もすっかり落ちた時刻。
ユイフォンには真緒が添い寝してあげる(これは『赤ちゃん』であるない以前にいつもそうである)ことになったが、問題は白姫だった。
「ぷりゅーっ。ぷりゅばぶーっ」
とにかく泣いて手がつけられなかった。
彼女が求めていたのは、ユイフォンにとっての真緒――つまり母親。
そして、同じく生まれたときからかわいがってくれた――
「ぷりゅーっ。ばぶーっ」
「葉太郎様はちょっと今日はだめなんですよ。がまんしてくださいね」
「ぷりゅばぶーっ」
するはずもない。そもそも赤ちゃんに理屈は通じない。
結局、泣き疲れて眠るまで、懸命にあやし続けるしかなかった。
(お母さんって大変ですよね……)
ため息まじりに。そんなことを思う。
『アリス』
「っ!」
声――
「え? え?」
思わず目をこする。
横たわる白姫からは、やはり寝息しか聞こえてこない。
寝言?
それにしては、やけにはっきり呼ばれたような気が、
『もー、呼んでんだからさっさと返事するし!』
「!?」
目を見張る。
聞こえた。はっきりと。
白姫の声――
けど、それは目の前で眠っている白姫からでなく、
『アリス!』
じれったそうに。くり返し呼ばれる。
「ち、ちょっ、待ってください!」
思わず大きな声をあげてしまう。
すると、
「……ばぶ?」
「あっ」
うっすらと。閉じていた目が開く。
ふんふん。
何かを確かめるように鼻をひくつかせ、
「ぷりゅ……」
じわり。
「……!」
いけない。思うもすでに遅く、
「ぷりゅーっ。ばぶぷりゅーっ」
「はわわっ」
しまった。周りは暗いものの、においや気配で葉太郎がまだ帰ってきてないことに気づいてしまったのだろう。
「な、泣きやんでください。仕方ないじゃないですか」
「ぷりゅーっ。ぷりゅーっ」
「ううう……」
赤ちゃんになった白姫は、わがままぶりもいつもの数倍増しだった。
『って、なに失礼なこと考えてんだし!』
「!」
『アリスが悪いんだし。赤ちゃんに泣きやんでとか言っても聞くわけねーんだし』
「なっ……」
やっぱりだ。間違いない。
白姫の声。
けど、それがどうして――
どうして頭の中に直接聞こえてくるのだ!?
「ど、どうなってるんですかーーーっ!」
Ⅶ
『アリスはアホなんだし』
「なんでですか、いきなり!」
またも大きな声をあげてしまい、はっとなる。
「ぷりゅっ、ぷりゅっ」
やはり赤ちゃんと言うべきか夜には弱いようで、ぐずついているうちにそのまま眠ってしまった白姫のほうをうかがう。
(……いやいや)
いま問題なのは『頭の中の白姫』のほうだ。
『アリスはアホだし』
「くり返さないでください、そんなひどい言葉を何度も」
『頭の中がスカスカなんだし。だから、こうしてシロヒメが入ることもできたんだし』
「えぇぇ~?」
本当にそんな理由だったら悲しすぎる。
「で、でも、本当なんですか」
問いかける。自分の頭の中の白姫に。
(けど、頭の中って)
『まだ信じられないんだし?』
「はわわっ」
伝わってしまう。やっぱりこれは本当に――
『本当なんだし』
ぷりゅ。うなずくような気配が伝わってくる。
『アリスは疑い深いんだし。きっと心が曲がってるからなんだし』
「曲がってないです」
さすがにひどい言葉には抗議する。
「本当に白姫なんですね」
『ホントだし。何度言わせんだし』
ぷりゅ! 怒る気配が伝わってくる。
「だって、信じられませんよ」
『やっぱりアホだから』
「そういうことではないです!」
またも抗議する。
「だって、その、白姫が」
白姫が――
「ゆ、幽霊に」
『幽霊じゃねーし!』
ぷりゅ! またも怒られる。
「なんてこと言ってんだし。縁起でもねーんだし」
「だ、だって」
それ以外、どう説明すればいいというのだ。
『アホなんだし』
だめを押すように言って、
「よく見るし。シロヒメ、生きてんだし。幽霊になるわけねーし」
「は、はあ」
確かに。というか、
「あのぉ」
また罵倒されるかもと思いつつ、おそるおそる、
「この白姫は」
この――ぐずりつつもまた眠ってくれた『赤ちゃん』は、
「白姫じゃないんですか」
「シロヒメだし」
「う……」
そこでまたわからなくなってしまう。
「じゃあ、いまこちらに話しかけているのは」
「シロヒメだし」
「目の前にいるこの子は」
「シロヒメだし」
「どういうことなんですか!」
たまらず大きな声をあげてしまう。
「あっ」
あわてて口を閉じる。
どうやら今度の眠りは深いらしく『赤ちゃん』な白姫が起きる気配はなかった。
『アホだしー』
「アホじゃないです」
頭の中の白姫に抗議する。
「ちゃんと説明してください。何がどうなってるんですか。白姫が……いまこうして白姫が話しているのはどういうことなんですか」
『話ができるのは賢いからだし』
「いや、普段会話をしていることの説明ではなくてですね」
確かに賢いことは否定しないが。
「白姫は赤ちゃんになっちゃってるんじゃなかったんですか?」
『なってるし』
「じゃあ」
こんな風にしゃべれないはず。そもそもいま白姫は眠っているのだ。
『夢だし』
「へ?」
間の抜けた声が漏れてしまう。
「夢……」
『そーだし』
うなずく気配。
『シロヒメはいまアリスの夢になってんだし』
「わ……」
わからない。
『こーえいに思うんだし。アリスの夢がシロヒメなんだから』
「ちょっ」
それでは自分が白姫を夢――目標としてがんばっているように聞こえてしまう。
「ち、違いますよっ」
『何が違うんだし』
「あっ、だから」
もうどう言えばいいかわからなくなりつつ、
「と、とにかく説明してください」
『説明してるし』
「わかりませんよ」
『アホだから』
「じゃなくて。いきなり夢なんて言われても」
『アホだから』
「やめてください!」
またも声が強くなってしまう。
「夢って……つまり白姫は現実には存在していないということですか」
『なんてこと言うし』
ぷりゅ。またも鼻息の荒くなる気配。
「だ、だって、やっぱりわからないですよ」
『いまは夜だし』
「そうですけど」
『だから夢だし』
「『だから』でつながってませんよ、微妙に」
「つながってんだし」
ぷりゅぷりゅ、やれやれと。馬鹿にするような気配を感じつつ、
『夢は夜に見るんだし』
「そうとは限りませんけど……」
『まー、アリスみたいなアホはいつでも夢の中だけど。はくちゅーむだけど』
「そんなことないです」
『あるんだし。騎士になるなんて夢見てる時点でじゅーぶんに現実見てないんだし』
「なんてことを言うんですか!」
頭の中でくり返される罵倒に泣きたくなってしまう。
『とにかく夢といえば夜なんだし。だから、シロヒメも出てこれたんだし』
「出てこれたって」
じゃあ、何かの『中』にいたということなのか。
『シロヒメの中だし』
「えっ」
とっさに見たのは、目の前で眠っているほうの白姫。
「どういう……ことですか」
もう何度目になるだろう。
『こういうことだし』
そして、頭の中の白姫はようやく事の成りゆきを語り出した。
「な……」
なんていう――
「どうしてそういうことをしようと考えつくんですか」
『賢いからだし』
ぷりゅぷいっ、と。そっぽを向く気配が伝わる。
さすがに恥ずかしいとは感じているのだろう。だからこそ『本当の赤ちゃん』になろうなどと考えたりしたのだ。
「けど、結局バレちゃいましたね」
『アリスが悪いんだしーっ』
「きゃあっ」
蹴られそうな気配に悲鳴を上げる。
『ぷりゅー』
不満そうな息。
『うまくいかねーし。シロヒメのイメージだと、アリスののーみそ蹴っ飛ばしてるのに』
「し、死んじゃいますよ、そんなことされたら」
『だいじょーぶだし。スカスカだから』
「スカスカじゃないです!」
抗議ばかりだ。
『とにかくアリスが悪いんだし』
ぷりゅ。鼻息荒く、
『なんで、ヨウタローがいねーんだし』
「それは」
もう何度も説明したのだが――赤ちゃんの白姫に。
『赤ちゃん相手にせつめーしても意味ねーんだし!』
「それはそうかもしれませんけど」
『まー、シロヒメ、赤ちゃんシロヒメの中で聞いてたから問題ないんだけど』
「ないんじゃないですか、問題」
『問題はあるし!』
ぷりゅ! またも鼻息荒く、
『だから、ヨウタローがいないのが問題なんだし。ヨウタローにかわいがられたいのに』
「そんなこと言われても」
『いーから、とっととヨウタローをつれてくるし!』
「む、無理を言わないでください」
困り果ててしまう。
『なにが無理だし。シロヒメ、アリスにこーぎするためにこうして出てきたんだし。赤ちゃんシロヒメが眠ってる間に』
「そうなんですか」
そこで先ほど聞いた『成りゆき』のことを思い出す。
「本当……なんですか」
『本当だし』
ぷりゅ。うなずく気配。
「でも、そんな」
信じられない。
『アホだから』
「そういうことじゃなくて、普通信じられませんよ!」
白姫を赤ちゃんにしつつ、なおかわいがられる喜びを現在の白姫が味わいたいというわがままな要求。
それに対して桐風が出した案はなんと、
「ぶ、分身の術って」
分身――
つまり、いま白姫は二つに分かれている。
「赤ちゃんの白姫と」
『シロヒメなシロヒメだし』
白姫『な』白姫って。
「本当にそんなことができるんですか」
『できてるんだし』
「で、できてますけど」
しかも、
「心の分身って」
『できてるんだし』
「できてますけど」
あらためて信じがたい状況だ。
『アリスはアホなんだし』
「もうやめてください、何度も何度も」
『夢だって言ってるんだし』
「夢……」
『夢は本当の自分じゃない自分にもなれるんだし』
「はあ」
それはその通りだろう。
『けど、ホントの自分なんていないんだし』
「は?」
な、何を。
『夢のときは夢のシロヒメ。起きているときは起きているシロヒメなんだし』
「それは」
その通りだろう。
『どっちが本物とか偽物とかないんだし。どっちもシロヒメなんだし』
「はあ」
『だから、どっちもいていいんだし』
「いやいやいや!」
そういうことに、な、なるのか?
「理解を超えてます……」
『アホだから』
「もうそういう問題ではないですよ!」
どうしても声が大きくなってしまう。
「つまり、いま、白姫は二つに分かれているということなんですね」
『そーゆーことになるし』
「で、いま話しかけてきている白姫は普段は赤ちゃん白姫の中にいて、そしてこの子が眠ったから夢として自分に話しかけていると」
『そーなんだし』
「な……」
理解をやっぱり超えている。
「……わかりました」
それでもそう口にする。そしてあらためて聞く。
「どうすれば元に戻るんですか」
『ぷりゅ?』
心底。不思議だという空気が伝わり、
『なんで戻るんだし』
「だ、だって」
このままというわけにはいかないだろう。どう考えても。
「もういいじゃないですか。ちゃんとかわいがられたことですし」
『だから、ヨウタローにかわいがられてないんだし!』
「葉太郎様なら、ちゃんとユイフォンのことをかわいがったと」
『ユイフォンなんてかわいがってもますます意味ねーんだしーっ!』
ぷりゅっぷりゅっ! わがままの本領発揮だ。
「や、やめてください」
『やめないし』
「えぇぇ~……」
『だから、ちゃんと面倒見んだし。ヨウタローが帰ってくるまで』
「ええぇぇぇ~?」
横暴すぎる。
『ぷりゅぅー?』
こちらの不満が伝わったのかたちまち、
『ほっとくつもりなんだし? シロヒメを? 赤ちゃんを! それは完全ないくじほーきなんだし!』
「育児放棄って」
もう十分育っているではないか。身体的には。
『でも、赤ちゃんなんだし』
ぷりゅ。問答無用というように、
『面倒見ないつもりだし?』
「そ、そんなことを言っては」
『わかったし』
どきっ。胸が高鳴る中、
『言いつけるし』
「えっ!」
『ヨウタローに。アリスがシロヒメのこと嫌いだって』
「ええっ!」
『赤ちゃんを見捨てるようなひどい子だって』
「えええっ!」
あわてて、
「やめてください!」
『なんでだし』
「なんでって、普通にいやですよ!」
『だったら言うこと聞くし』
「う……」
お、横暴すぎる。
『言いつけるし』
「!」
そうだ。考えたことは伝わってしまうのだ。
頭の中だから。
「言いつけないでください……」
『だったら言うこと聞くし』
「ううう……」
やっぱり横暴すぎる。
『なんだし? 文句あるし?』
あるに決まっている。
『言いつけるし』
「! やめてくださぁーーい!」
結局――
「うううう……」
アリスは白姫の言うことを聞くしかなかった。
何も見えない。
その中で。
「っ」
葉太郎は、
「………………」
刀の柄を――手に取った。
Ⅷ
「ぷりゅーっ。ぷりゅばぶーっ」
「はいはい。ごはんはちゃんとここにありますから」
ぐったりとしながら。
「大変ですね、本当に赤ちゃんの面倒を見るのは」
事実、大変だった。
葉太郎はあれからずっと帰ってこなかった。
その間、
「ぷりゅばぶーーっ!」
「はいはい。いまごはんにしますって」
大変だった。その一言だった。
「元に戻ってください、本当に」
元の白姫は白姫で、そのわがままにふり回されはするのだが。
「はぁ」
ため息しか出てこない。
(葉太郎様……)
早く帰ってきてほしい。心から思っていた。
「アリス」
「っ」
呼びかけてきたのは、
「真緒ちゃん」
葉太郎かと思った。身体から力が抜けてしまう。
「どうしたのだ」
「いえ、その」
言葉につまる。本当のことを言おうか。そんなことを思ってしまうが、
「う?」
「ユ、ユイフォン」
相変わらず。赤ちゃんな彼女が真緒のそばにいる。
「う……」
言えない。
言うと、なぜかユイフォンまで傷つけてしまう気がして。
「ユイフォンは……悪くないんですものね」
「ばぶう?」
「そうだ。ユイフォンはいい子だぞ」
そう言って、彼女を愛おしそうに抱きしめる。
「ばぶうー❤」
きゃっきゃっ。『母』の胸の中で無邪気にはしゃぐ。
(これで……いいのかもしれませんね)
そんなことを思う。一方で、
(本当にこれでいいんでしょうか……)
悩む。
昨夜の白姫の言葉が頭をよぎる。
本当の自分と、赤ちゃんの自分。
つまりいまのユイフォンは――本当の彼女ではない。
(本物も偽物もないとは言っていましたけど)
悩まされる。
(このままでいいんでしょうか)
問いかけがくり返される。
「ふぅ」
「どうした」
「あっ」
「本当にどうしたのだ、アリス」
「あ、いえ」
いけない。年下の真緒に心配をかけては。
「大変だものな」
にっこり。年下とは思えないあたたかな笑みを見せ、
「母親は大変だ」
「ですね」
それは痛感していた。
「けど、真緒ちゃんは」
大変な顔一つ見せていない。普段、ユイフォンから『媽媽』と慕われているときから。
「かわいいものな」
にっこり。心から。
「娘はかわいいぞ」
「ばぶうー❤」
こちらも心から。
まばゆい笑顔で頬をすり寄せる。
「ははっ。くすぐったいぞ、ユイフォン」
「うー❤」
すると、
「ぷりゅーっ!」
「あっ」
じたばたと。
「ぷりゅーっ。ぷりゅーっ」
「落ちついてください、白ひ――」
言い終わる間もなく、
「きゃあっ」
パカーーン!
蹴り飛ばされる。
中身は赤ちゃんでも、身体はそのままの白姫だ。蹴りの威力は普段と、いや赤ちゃんである分、よけいに容赦がなかった。
「ぐ……ぐふっ」
「大丈夫か、アリス」
そばに真緒が膝をつく。
「こらっ」
叱りつける。
「だめではないか」
「ぷ、ぷりゅっ」
瞳がゆれる。
動揺している。
それはそうだろう。これまでずっと優しかった真緒に叱られたのだから。
「アリスは一生懸命に白姫の面倒を見ているのだ」
「ぷりゅ……」
「乱暴なことをしてはだめだぞ」
白姫は、
「ぷ……」
その目に涙が盛り上がり、
「ぷりゅーっ。ぷりゅーっ」
「あ……」
しまったという顔になる真緒。
「すまない。大人げなかったな」
「ぷりゅーっ」
泣き続ける白姫。
「どうしよう」
真緒がこちらを見る。困ったというその顔に、年相応のものがにじむ。
「白姫はさびしかったのだな」
反省するように目を伏せ、
「それを大人げなく叱ってしまった。だめだな、私は」
「そんな」
真緒がだめだったら、どこの誰がだめでないと言うのだ。
「いつもちゃんとしてますよ、真緒ちゃんは」
「ありがとう」
にっこり。笑顔が戻る。
泣いている白姫の頭をなで、
「大好きな葉太郎がいないのだものな。悲しくて当然だ」
「ぷりゅ」
うなずく。
「よしよし。私が葉太郎の分までかわいがってあげるぞ」
すると、
「うー」
不満そうなうなり声。そして、
「う……ばぶうぅ……」
「あっ」
白姫の涙が伝染したのか、今度はユイフォンがぐずり始める。
「おー、よしよし」
あわててそちらに向かう真緒。
「どうしたのだ。私はここにいるぞ」
「う……ばぶぅ……」
「そうか。ユイフォンも」
わかったという顔で、
「大丈夫だ。師父はきっとナイトランサーがつれてきてくれるぞ」
「ばぶう?」
「真緒ちゃん……」
さすがに『ヒーロー』でも無理ではないか。そう思うももちろん口にすることはできない。
「うー」
それでも真摯な気持ちが伝わったのか、笑顔が戻る。
「ぷりゅーっ。ぷりゅーっ」
「おお。白姫も大丈夫だ。きっとすぐ葉太郎が戻るぞ」
本当にすぐ戻ってきてほしい。
心からアリスは思った。
『ぷりゅーっ』
「きゃあっ」
反射的に。蹴られると思って身をすくませるアリスだったが、
『ぷりゅー』
伝わってきたのは悔しそうな息。
『蹴れないんだし』
「そうでした」
ほっと。
『ぷりゅー。このままだとストレスがたまるし。よっきゅー不満だし』
「や、やめてください、人を蹴ってストレス解消するのは」
『人じゃないんだし。アリスを蹴るんだし』
「とにかくやめてください……」
早くも泣きたくなってしまう。
『それより』
ぷりゅっ。あらためて憤る気配が伝わり、
『なんで今日もヨウタローは帰ってこねーんだし。せつめーするし』
「自分も詳しいことは」
『使えねーアリスだしー』
「ご、ごめんなさい」
泣きたくなってしまう。
『とにかく。ヨウタローが帰ってくるまでシロヒメはアリスの夢に出続けるんだし。訴え続けるんだし』
「えぇぇ~……」
と、そこではっとなる。
「夢……?」
『夢だし』
「いえ、あの」
いまは夜だ。しかし自分は、
「起きてますよ?」
思えば昨夜もそうだった。
『はくちゅーむだし』
「夜ですよ!」
わけがわからない。
『アホなんだから、無理に理解しようとすんじゃねーし』
「そんな」
ひどすぎる。
『とにかく、早くヨウタローをつれてこないと、アリスの夢に出続けるし。頭の中で訴え続けるし』
「や、やめてください」
まるで呪いだ。
「真緒ちゃんがかわいがってくれるじゃないですか」
『もちろん、そのことに不満はないし。マキオ、いい子だから。馬のかわいがり方をちゃんとわかってるから』
「だったら」
『けど、ヨウタローは特別なんだし!』
特別――事実そうだろう。
騎士の馬である彼女にとっての主人。そして、生まれたときからずっとかわいがってくれた相手なのだ。
『赤ちゃんシロヒメだってヨウタローに会いたいんだし。だから泣くんだし』
「それは」
そうなのだろう。
「わ、わかりました」
確かに。最低でも、葉太郎が帰ってくるまで、この騒ぎが治まることはないだろう。
「葉太郎様の従騎士として自分が責任を持ちます。ちゃんと責任を持って赤ちゃん白姫の面倒を」
『アリスに何の責任がとれるって言うしーっ!』
「きゃあっ」
直接の打撃――蹴撃がなくても十分にストレスだった。
『起きるし』
「う……」
目を覚ます。
「あっ」
思い出す。昨夜も頭の中の白姫の声と会話したことを。
そして、最初に声が〝聞こえた〟ときも、彼女に起きるよう言われたことを。
(って、おかしくないですか?)
いまさらながら。
と言っても、最初はどういう事態か理解できていなかったのだから気づかなくてもおかしくはなかった。
夢――白姫はそう言った。
それが『起きろ』と言うのは、考えたらおかしくないだろうか。
『起きるしっ』
その〝声〟は続く。
「お、起きてますよ」
あたふたと。
「って」
朝――
「あ、朝じゃないですか!」
『朝だし』
苦々しそうに、
『朝なんだし』
「なんでですか!」
『………………』
ためらうような沈黙。そして、
『戻れないんだし』
「は?」
『戻ってないんだし! シロヒメの身体に!』
やけのように。声を張り上げる。
「えーと」
アリスは戸惑い、
「戻ればいいんじゃないですか?」
『ぷりゅーっ』
「きゃっ」
またも反射的に縮こまる。
「や、やめてください」
『アリスが悪いんだし。むしんけーだから』
「無神経?」
『そーだし』
うなずく気配。
『アリスは生きてるだけで無神経だし』
「なんてことを言うんですか」
朝から早くも涙目にさせられる。
「やめてください、ひどいことを言うのは」
『アリスのことなんてどーでもいいし。どーでもいい問題だし』
「ますますひどいですよ」
どちらかと言うと、無神経なのは白姫ではないか。いや、彼女の場合、意識的な『いじめ』であったりはするのだが。
「とにかく、やめてください……」
訴える。見えない白姫に。
『だから、そんなことどーでもよくて、こっちをなんとかするし』
「『こっちをなんとか』って」
とにかく状況を整理しようとする。
「朝……ですよ?」
『朝だし』
「なのに、なんで白姫は」
『だから、戻れないんだし! それでアリスの中にいっぱなしなんだし!』
「『いっぱなし』って」
ようやく、
「ま、待ってください」
事態が深刻だということに気づき始める。
「いっぱなしなんですか」
『いっぱなしだし』
ぷりゅ。うなずく気配。
「い、いや、昨夜はどうやって戻ったんですか」
『いつの間にかだし』
「は!?」
『いろいろ聞くんじゃねーし! シロヒメにだってよくわかんねーんだし!』
「よくわからないって」
それではどうにもならないではないか。
「な、なんとかしてください」
『うるせーし! シロヒメだってずっとアリスの頭の中にいたくないんだし! アリスが悪いんだし! 頭スカスカだから!』
「スカスカじゃないですーーーーっ!」
Ⅸ
「ふっふっふー」
桐風は、
「言ったよね」
『ぷりゅどきっ』
頭の中の白姫の動揺する気配が伝わる。
「言ったって、何を」
代わってアリスが聞く。
「契約書」
「契約書!?」
とんでもない言葉にこちらもぎょっとなる。
「どういうことですか、白姫!」
『……けーやくしたんだし』
「ええっ!」
事前の説明では抜けていたその話に、またも悲鳴をあげる。
「だめですよ、そんな簡単に契約書だなんて!」
『簡単にじゃねーし。ちゃんとユイフォンで実験してからだし』
「なんてことをしてるんですか!」
あらためて抗議する。
「やめてください、友だちで実験だなんて!」
『別にいーんだし。どーせ、ユイフォンだから』
「よくないです!」
声を張り上げ、直後脱力してしまう。
「なんとかしてください……」
白姫と桐風のどちらに向けてかわからない言葉がこぼれる。
「んー『なんとか』かー」
応えたのは桐風だ。
「でも、もう契約しちゃったからねー」
「そんな」
『けーやくとか知らねーし! いいから元に戻すし!』
ぷりゅ! 鼻息荒く言うが、その訴えが響くのはアリスの頭の中だけだ。
「けど、おもしろいことになったよねー」
ニコニコと。
「白姫ちゃんがアリスちゃんの中にかー」
「笑いごとじゃないですよ」
こちらは泣きそうなのだ。
「えー、白姫ちゃんと一緒にいるのがイヤなのー?」
「一緒にいると言うか、これは」
ある意味『一緒』であるのは間違いないのだが。
「白姫も元に戻りたいと言っていますし」
『そうだし。いつまでもアホなアリスの中にいられねーし。アホがうつってしまうし』
「なんてことを言うんですか」
罵倒は止まらない。
「でも、やっぱりおもしろいよ」
あくまでニコニコと。
「こんなことになるなんて思ってなかったもんねー」
『無責任だし!』
ぷりゅぷんっ!
「じ、自分に怒らないでください」
『キリカゼに怒ってるんだし』
「伝わりませんよ、自分の頭の中だけでは」
『じゃあ、伝えるし。シロヒメのぷりゅぷんを』
「なんですか『ぷりゅぷん』って」
「まーまー。なんとなくは伝わってくるから。白姫ちゃんが怒ってるのが」
そんなことを。やはり余裕の笑みで言う。
「でも、契約だからねー」
『けーやくけーやく、うるせーし!』
「白姫のほうがうるさいですよ」
どなり続ける彼女に、さすがに抗議する。
「もしものときのための契約書にサインしたのなら、それはやっぱり白姫のほうに責任があるんじゃ」
『そんな細かいことはいまどーでもいいんだし! シロヒメは』
そこで。
こちらも胸をつかれるような悲しい感情が伝わる。
『戻りたいん……だし』
「白姫」
『だって』
嗚咽をこらえる。そんな気配と共に、
『かわいがってもらえないんだし。このままだったらヨウタローに』
「葉太郎様には事情をお話しして」
「事情を話してかわいがってもらう? アリスちゃんごと」
「ええっ!」
『そんなの許されねーし! なんでアリスがヨウタローにかわいがられるし! アリスのくせに! アリスの分際で!』
「や、やめてください、だからひどいことを言うのは」
「ひどいこと言われてるんだー」
「は、はあ」
「まー、そんな風なこと言うのはわかってたけどー」
「わかってたなら挑発しないでください」
桐風も白姫とはまた違う意味で〝困った〟子なのだ。
「自分からもお願いします。白姫を元に戻してください。契約のことは、その、自分もできる限りのことはしますから」
『できる限りってゆーか、アリスが全部責任とるし』
「なんでですか! 白姫じゃないですか、簡単に契約とかしちゃったのは」
『簡単にじゃないって言ってるし。ちゃんとユイフォンを実験台にてーきょーしたし』
「そういうことは、ちゃんとしなくていいです!」
頭が痛くなってくる。いろんな意味で。
「まー、事情はわかったけどー」
そこで桐風が言う。
「肝心の白姫ちゃんの身体はどうしちゃったの?」
「あっ」
『ぷりゅ!』
共にはっとなるアリスと頭の中の白姫。
『な、何やってんだし、アリス!』
「いえその、白姫が戻れなくなっちゃったってことで頭がいっぱいで」
事実『戻れなくなった白姫』本馬が頭の中にいるのだが。
『探すし!』
「は、はいっ」
あわてて駆け出す。
『もっと急ぐし!』
「急いでますよ!」
『遅いんだし! ノロマなんだし! シロヒメだったらもっとぜんぜん速くて』
「馬と比べないでくださーーい!」
そんなアリス(たち?)を見送って、
「息ぴったりだねー」
のほほんと。つぶやいた。
『いないんだし!』
悲鳴ないななき。
『なんでだし! なんでいないんだし!』
「そんなこと言われても」
アリスも共にあたふたとなって辺りを見渡す。
「今朝まではここで寝てたはずなんですけど」
『ぷりゅ! まさか』
戦慄が走り(という感覚がし)、
『ゆーかいされたんだし! シロヒメ、かわいいから!』
「いや、それは」
さすがに頭をふる。
「白姫、身体はもう大きいですし」
『大きくてもさらわれちゃうかもしれないんだし。なんか、クレーンとか使って』
「そんな大げさなことしたら、周りに気づかれちゃいますよ」
と、そこではっとなり、
「だまされてつれていかれた可能性はあるかも」
『ぷりゅ!?』
「だって、中身は赤ちゃんですから。何かおいしそうなものでつられたとか」
『って、バカみてーに言ってんじゃねーし! 賢いんだし、シロヒメは!』
「賢くても赤ちゃんですし」
『赤ちゃんのころから賢いんだし!』
そこはゆずれないらしい。
『そして、もちろんかわいいんだし』
そこもゆずれないらしい。
『とにかく、さらわれた可能性はゼロだし』
「白姫ですよ、誘拐されたとか言い出したのは」
『となると』
こちらを無視して、
『残された可能性は』
「可能性は?」
『わかんねーんだし』
がくっ。よろめいたところへ、
「何をしているのだ」
昨日と同じく赤ちゃんなユイフォンをつれた真緒がやってくる。
と、かすかに険しい表情になり、
「だめではないか」
「えっ」
「白姫は赤ちゃんなのだぞ。そんな白姫を放っておいては」
『マキオの言う通りだし。なんてひどいアリスだし』
「って、白姫じゃないですか、桐風のところへ行けってせかしたのは」
「?」
白姫がアリスの中にいるなど想像もつかない真緒は、不思議そうに首をかしげる。
「とにかく、向こうにいたぞ、白姫は」
「あっ、ありがとうございます、真緒ちゃん」
お礼を言って、指さされたほうへ行こうとする。
「楽しそうに遊んでいたぞ」
「えっ」
「だから声をかけなかったのだ。邪魔をしては悪いからな」
「は、はあ」
遊んでいた?
「えっ、でも、白姫だけですよね」
『シロヒメだけでも遊べるんだし。賢いから』
「そうなんですか」
『そうなんだし』
じわり。涙のにじむ気配。
『シロヒメ、そーゆーの慣れてんだし。ヨウタローが修行してたとき、いつもシロヒメだけで遊んでたから』
「あ……」
悪いことに触れた。そう感じたのもつかの間、
『って、なにシロヒメにさびしい思いさせてんだしーっ!』
「きゃあっ。だ、だから、そうさせたのは白姫ですよ」
悲鳴をあげてその場から駆け出した。
「いましたよ!」
『しっ。静かにするんだし』
「え?」
とっさに近づこうとしたアリスを白姫が制した。
「でも」
なんでこんな、隠れるようなことをするのだろう。
『けーかいするんだし』
「えっ」
『あやしいアリスがいきなり近づいていったら』
「なんでですか!」
あやしいも何も、ずっと面倒を見ているではないか。
『だから、静かにするし』
すかさずたしなめられる。
『それとも、なんかちょーしに乗ってんだし?』
「ち、調子に乗っているとかでは」
『近くにいても、シロヒメ、アリスのことものすごくあやしんでんだし。なんか変なアリスがうろちょろしてると思ってんだし』
「なんてことを言うんですか!」
こちらは一生懸命にお世話していたというのに。
「ぷりゅっ」
そのとき。
「あっ」
見晴らしのいい草原にいた白姫――赤ちゃん白姫が不意に険しい顔でこちらを見た。アリスはとっさに岩の陰に身を隠す。
「ぷりゅぅー」
不審に満ちた鳴き声。
「け、警戒してますよ」
『けーかいするんだし。賢いから』
と、次の瞬間、
「ぷりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅりゅ」
「あっ!」
驚いて身を乗り出す。
「逃げましたよ!」
『逃げるんだし。賢いから』
「そんなことを言っている場合じゃないですよ!」
あわてて白い影を追う。
「待ってくだ――」
直後、
「!」
落下感。そして、
「きゃあーーーーーっ」
落とし穴。しかも、底にはトゲまで仕かけられている。
「ぷりゅぷりゅー♪」
ごきげんないななき。
『引っかかったしー、アホだしー、って言ってんだし』
「説明しなくていいです、そんなこと!」
ぎりぎりで縁をつかんだアリスは、懸命に身体を引き上げた。
「ど、どういう赤ちゃんなんですか」
『賢くてかわいいシロヒメだし』
「賢くても普通こんな危ないことはしませんよ!」
『かわいいからするんだし』
ぷりゅ。まったく悪びれず、
『さっきも言ったけど、シロヒメ、かわいいから常に誘拐される危険があるんだし。だから、いつ襲われても平気なように罠を作ってたんだし。思い出したし』
「どういう赤ちゃんなんですか……」
あらためて言ってしまう。
『実際、いまもアリスにさらわれそうに』
「なってないです。しようとしてないです」
そこに、
「問題だねー」
はっと。アリスも白姫も。
「桐風」
いつの間にかいた彼女に目を見張る。
『さすが忍馬だしー。しんしゅつきぼつだし』
「で、ですね」
声をうわずらせつつ、うなずく。
と、彼女が口にした言葉を思いだし、
「あの、問題って何がですか」
「だって問題でしょー」
言う。
「白姫ちゃん、大きくなりすぎてる」
『ぷりゅ?』
頭の中で首をかしげる気配がする。
「どういうことですか」
代わってアリスが聞く。
「だってねー」
やれやれと。苦笑まじりに、
「違うわけだから」
「は?」
「馬はね」
静かな眼差しで、
「人間よりずっと早く大人になるんだよ」
「それは」
その通りだろう。
事実、本来の白姫は、年齢で言えばまだ三歳なのだ。
「それにしても早すぎだなー。やっぱり身体は実際の白姫ちゃんのままだからかなー」
『いつまでも思わせぶりに言ってんじゃねーし。どーゆーことか具体的に言うし』
そんな白姫の声が伝わったのか、
「本格的に戻れなくなるよ」
「えっ」
「だって」
こちらの様子をうかがっている赤ちゃん白姫を見やり、
「大きくなってるもの」
「大きく?」
『なに言ってるし。一日、二日で変わるわけないし』
「変わってるよ」
言う。
「赤ちゃんの白姫ちゃん、どんどん成長してる」
「えっ……!」
不吉なものが胸をよぎる。
「だってそうでしょ? 赤ちゃんが普通、こんな罠を作れるわけないよね」
『なに言ってんだし。シロヒメ、賢いから』
「いくら賢くても、赤ちゃんのときにこんなことできた?」
『それは……赤ちゃんって呼ばれるより大きくなってからだけど』
「それだよ」
まるで会話をしているように。桐風は、
「普通よりどんどん早く成長しちゃってるんだ。あの白姫ちゃんは」
『ぷりゅ!』
頭の中で響くいななき。
『どーゆーことだし!?』
「どういうことですか!?」
問いかけが重なる。
「だってね」
わかるでしょ? そんな顔で、
「身体は元の白姫ちゃんなわけだし」
「それは、そうですけど」
「心っていうのは、それだけで独立してるわけじゃない。身体があって、それで心なんだ」
「は、はあ」
じゃあ、いま自分の頭の中にいる白姫は何なのだ? という疑問がよぎるも、
「身体が大きければ、心もそれに引っ張られる。つまり、いま白姫ちゃんの中の赤ちゃんはどんどん成長しちゃってるってわけ」
「それは」
『それじゃダメだし!』
白姫があわてる。
『赤ちゃんじゃなくなったら、赤ちゃんになった意味がないんだし! 赤ちゃんとしてヨウタローにかわいがってもらわないと!』
まだそんなことを。事態は深刻なことになりつつあるらしいというのに。
「まー、あきらめてもらって」
『あきらめられねーし!』
「このままだと戻れなくなる」
『!』
「赤ちゃんの白姫ちゃんが大きくなれば、いまの白姫ちゃんと同じになる」
どこかあやしい色を桐風の目が帯び、
「同じ白姫ちゃんは同時には存在できない」
『ぷ……』
さすがの白姫も気圧される。
『ど……どうなってしまうんだし?』
「どうなってしまうんですか」
問いかけに、
「消える」
「!」
「そうなるでしょ? 同時に存在できないんだから」
「そ……」
『それは困るし!』
いななきが響く。
『消えるって、それってシロヒメがだし!?』
「アリスちゃんの中の白姫ちゃん」
『!』
「だって、もう、それ自体が不自然なんだから」
『困るし!』
さらなるいななき。
『早く! なんとかして元に戻るし!』
「契約しちゃったからねー」
『だから、けーやくとかどーでもいんだし!』
必死のいななき。
『アリス! アリスからもなんとかするよう言うし!』
「な、なんとかならないんでしょうか」
「ならない」
あっさりと。
「最初に戻れなくなったのも、はじき出されちゃったって考えたら納得できる」
『納得してんじゃねーし!』
必死の。
『なんとかするし!』
「う……」
どうしよう。その想いが胸にふくれあがり、
「わ……わかりました」
言っていた。
「自分が白姫になります!」
『………………』
「………………」
沈黙。
『……わ』
そして、
『わけのわかんねーアリスだしー』
「だ、だって」
こちらも必死で、
「友だちが消えるなんて、そんなこと見過ごせません。だから、白姫は頭の中にいたまま、自分の身体を白姫のものとして」
『アホだしー』
「なんでですか!」
『シロヒメがアリスの身体とか意味わかんねーし。気持ち悪いんだし』
「なんてことを言うんですか!」
『あと見過ごせないのは当然だし。かわいいシロヒメだから』
「いまはそういうことを話している場合ではなくて」
『話してる場合だし。シロヒメ、いつでもかわいいんだから』
「白姫ぇ~……」
「あははー」
そんな様子を見て、
「どんなときも、白姫ちゃんは白姫ちゃんみたいだねー」
笑っていた。
Ⅹ
『深刻なじょーきょーだし』
夜。すやすやと赤ちゃん白姫が眠る脇で、
『深刻だし』
くり返される。
「深刻ですよね」
アリスも。頭の中のつぶやきに応え、うなずく。
「夜になりましたけど……やっぱり戻れないんですか」
『戻れないんだし』
悔しそうに、
『シロヒメの身体なのに、なんでシロヒメが戻れないんだし』
「白姫……」
『それもこれも全部アリスが悪いんだし』
「って、なんでですか!」
『アリスがアホだから』
「関係ないですよ!」
『関係あんだし。アリスの脳がスカスカだから、シロヒメ、はまっちゃって抜けられないんだし。底なし沼なんだし』
「スカスカじゃないです!」
なんて言われようだ。
「いいかげんにしてください……」
『ぷりゅ……』
「自分だって白姫に元に戻ってもらいたいんです。本気なんです」
『アリスに本気出されたって』
憎まれ口を言うも、さすがに覇気はない。
『………………』
「白姫……」
『この子は』
はっと。
『やっぱり、シロヒメなんだし』
「は、はい」
安らかに眠る赤ちゃん白姫を見て、
「白姫……なんですよね」
『シロヒメだし』
ぷりゅ。うなずく気配。
『この子のことも考えてあげないといけないんだし』
「それは……」
意外な思いがした。
「白姫がそういうことを言うなんて」
『どういうことだし』
ぷりゅ。かすかに怒る気配が伝わるものの、
『大事なんだし』
言う。
『赤ちゃんは大事なんだし』
「はい……」
それはそうだとアリスも思う。
『だから』
じわり。悲しみが伝わり、
『シロヒメが消えちゃっても……この子は大事にしてほしいんだし』
「白姫!」
あわてて、
「なんてことを言うんですか! 白姫は消えたりしません!」
『わからないんだし』
「……!」
『だから』
ぐっと。声に重みがこめられ、
『大事にしてほしいんだし』
くり返される。
「白姫ぇっ!」
アリスはたまらず、
「白姫……白姫っ」
抱きしめたい。抱きしめられない。
そのことがもどかしくて仕方なかった。
「白……姫……」
『なに泣いてんだし』
あきれたように。けどほんのりうれしさをにじませ、
『泣き虫なんだし』
「泣き虫じゃ……ないです……」
『アホなんだし』
「アホじゃないです」
そこは泣いていても否定する。
「あっ」
そのとき、
「白姫……」
頭の中の白姫ではない。
「ぷりゅー」
いつ起きたのだろう。
すりすりと。
こちらをなぐさめるように鼻先がすり寄せられた。
「う……」
伝わる。
『優しいんだし』
言う。頭の中の白姫が。
『馬は優しいんだし。その中でもシロヒメは特別優しいんだし』
「ですね」
うなずく。
『アリス』
あらためて、
『シロヒメのこと、よろしくね』
「っ」
たまらず、
「うっ……うう……」
あふれる。こぼれる。
『もー』
あきれたように、
『泣き虫なんだし』
「ぷりゅっ」
頭の中の白姫と、目の前の白姫と。
同じ優しさを感じながら、アリスは涙を流し続けた。
「なんとかします」
翌朝。
「自分が」
『………………』
沈黙が伝わる。
そして、
『アホだしー』
「アホじゃないです」
そこは何があっても否定する。
『わけわかんないんだし。アリスが何できるって言うし』
「だから、自分の身体を白姫に」
『何度も気持ち悪いこと言ってんじゃねーし』
ぷりゅっ。本気でいら立たしげに、
『なんで、シロヒメがアリスの身体になんねーといけねーんだし。意味わかんねーって言ってるし』
「そんな」
もうそれしかないではないか。
『きぼーはあるし』
「えっ!」
希望?
「あ、あるんですか」
『あるし』
力強いうなずき。
『ヨウタローだし』
「えっ」
『ヨウタローは騎士だし』
迷いなく、
『騎士はレディの危機に駆けつけるんだし。しかも、ヨウタローはきしどー体質だし』
「は、はい」
その通りだ。
騎士道体質――考えるより早く騎士としてふるまってしまう。騎士にふさわしい行いを自然と成し遂げてしまう。
『だから、きっと、シロヒメのこともなんとかしてくれるんだし。レディだから』
「で、ですよね」
アリスの胸にも希望の光がきざしてくる。
(葉太郎様なら……きっと)
「アリスちゃん!」
そのときだった。
「あっ」
使用人服姿に眼鏡の女性――同じ屋敷で暮らす劉羽花(リュウ・ユイファ)があわてた様子で近づいてきた。
「何かあったんですか、ユイファさん」
「実はその……葉太郎君が」
『ぷりゅ!』
頭の中に驚きのいななきがこだまし、アリスも息をのむ。
「よ、葉太郎様に何か」
「その」
言いづらそうに言葉をつまらせる。
「何があったんですか! ユイファさん!」
気が気でない。
「それが」
眼鏡の向こうの瞳がおどおどとゆれ、
「わたしにもよくわからなくて」
「わからない?」
「ごめんね」
「い、いえ」
ここで彼女を責めても何にもならない。
『ヨウタローはどこだし! どこにいるんだし!』
「葉太郎様はどちらに」
白姫のあせりに押されるようにして問いかける。
「来て」
言葉すくなに。こちらの手を取り、足早に歩きだした。
「葉太郎様!」
悲痛の声がほとばしる。
「ど、どうなさって」
とっさに飛びつこうとしたところを、猫のように首すじをつかまれる。
「依子さん」
息をのむ。
いつもの冷たい表情。
しかしそこに、いまにも沸き立ちそうな怒り、憤りがたぎっていることが否応なく伝わってきた。
「はわわわわわわ」
ぺたり。膝をつく。
あらためて。
寝台に横たわる彼を見る。
「葉太郎様……」
じわり。
涙がにじむのをこらえられない。
こんな――
「誰がこんなひどいことを」
葉太郎は。
全身くまなくと言いたいほどの包帯で身体を覆われていた。
「う……うう……」
抑えられない。
「アリスちゃん」
そっと。ユイファが背中に手を添えてくれる。
その熱に支えられて。
よろよろと立ち上がる。
「俺のせいだな」
はっと。
「金剛寺さん」
その大きな身体を普段なら決して見逃すことはない。
「すまない」
ひっそりと部屋の端に立っていた彼は沈鬱な表情で、
「安易にスジョンさんのところへ向かわせたせいだ。容赦のない人だということはわかっていたのに」
「スジョンさん……」
その人が――葉太郎を。
「アリスさん」
「!」
「何を考えているのです」
胸をつかれる。
「あなたは従騎士。独り立ちできていない身です」
「は、はい」
言われなくともわかっている。けど、
「葉太郎さんが自分で決めたこと」
「っ」
「仕えるべき騎士の決定に、従騎士が口をはさむことは許されません」
「でも……」
「アリスさん」
「!」
言えない。
抑えていても漂う激しい感情。
しかし、依子はそれを氷の仮面の奥に沈めている。
騎士としての筋を通すため。
葉太郎の騎士としての道を汚さないため。
「でも……でも……」
やはり言葉にはならない。ただ涙だけが熱い。
と、気づく。
『白姫……?』
声が聞こえない。気配もない。
普段なら真っ先に騒ぎ出すはずだ。愛する主人がこんな目に合わされたのだから。
『白姫? どうしたんですか』
心の中で。呼びかける。
やはり返事はない。
――と、
「っ」
感じた。これは、
「し、白姫!」
激しいいななき。
「アリスちゃん?」
「あっ」
けげんそうなユイファの声に我に返るも、
『ちょっ……落ち着いてください、白姫』
『落ち着けないし! ヨウタローにこんなひどいことされて!』
『でも、いまの白姫は』
『そんなの』
関係ない。とは言えなかったのだろう。
しかし、すぐに勢いを取り戻し、
『なんでもいいから、カタキ討ちだし!』
「仇討ち!?」
とたんに、
「はい?」
「!」
凍てつく視線が向けられ、瞬間に凍りつく。
『だ、だめですよ!』
心の中で必死に、
『依子さんに殺(ぷりゅ)されちゃいます!』
『殺(ぷりゅ)されちゃってもいいんだし。どうせアリスなんだから』
『なんで、自分が殺(ぷりゅ)されること前提なんですか!』
『だっていま、シロヒメの身体は赤ちゃんシロヒメの身体なんだし。赤ちゃんを殺(ぷりゅ)すようなこと、ヨリコがするはずないし』
『それは……その通りですけど』
「アリスさん」
「きゃあっ」
冷たい声に跳びあがる。
じっと。
念を押すようなその視線に、
「わ……わかりました」
アリスは縮こまるしかなかった。
数日が経った。
『深刻なんだし』
数日前と同じセリフ。しかし、それが自分本馬のこと以上に向けられている対象があるのははっきりしていた。
『ヨウタロー……』
ぷりゅりゅりゅりゅりゅりゅ……。悲しみが伝わる。
「白姫……」
アリスも悲しくなる。
頭の中に同居している分、気持ちもダイレクトに伝わるのだろうか。
いや、何より自分だって悲しいのだ。
「これからどうなってしまうんでしょう」
葉太郎――
その意識はいまだに戻らない。
『どーなってるんだし!』
「あ、いえ、それがわからないから」
『赤ちゃんシロヒメだって心配してるんだし!』
はっと。
「ですね……」
視線を向けた先。
中庭に面した葉太郎の寝室の窓の前では、毎日のように白姫(中身は赤ちゃん)がうろうろとしていた。
「ぷりゅぅー」
切なげな鳴き声。しかし、それは控えめなものだ。
わかっているのだ。
ここで騒ぎ立てることが、絶対安静の葉太郎にとって決してよくないということ。
『賢いんだし』
ぷりゅ。うなずく気配。
『さすが、シロヒメなんだし』
「は、はあ」
意識不明の葉太郎の前で大騒ぎしたのは誰かとも思いつつ、
「成長……してるんですかね」
『ぷりゅ!』
ふるえる気配。
『それは……こ、困るんだし』
「ですよね」
『けど、いまはヨウタローのことだし!』
「ですよね……」
『って、あっさりうなずいてんじゃねーしっ!』
「きゃあっ」
『シロヒメのことだって、もちろん大事だし!』
「で、ですよね」
うなずくしかない。
『アリス』
ぷりゅ。心もち真剣な調子で、
『行くし』
「えっ」
言葉の意味をとらえかねるも、すぐはっとなり、
「だ、だめですよ!」
『何がだめだし』
「仇討ちはだめです! 依子さんに殺(ぷりゅ)されて」
『なに情けねーこと言ってるし!』
「えええっ!?」
ほ、本気なのか?
『本気だし』
「白姫ぇ……」
『シロヒメ、本気で』
言う。
『ヨウタローを助けるし』
息を飲む。
「助ける……」
『そうだし』
ぷりゅ。うなずき、
『ヨウタロー、意識が戻らないんだし』
「は、はい」
そうだ、そこがいま一番みんなが心配していることなのだ。
身体に無数の傷を負っていたが、しかし、直接命にかかわるような深手は一つもなかったと聞いている。そして、葉太郎は幼少のころから騎士として依子に鍛えられた。華奢な外見と裏腹に、肉体的な頑健さもかなりのものがある。
ただ――
意識が戻らない。
そして、原因は不明だった。
『行くし』
「は、はい?」
だから、どこへ行くというのだ。
『ヨウタローのところだし』
「あの……」
意味がわからない。
「葉太郎様は……いますよ」
『いないんだし!』
頭の中に声が響く。
『ここにはいないんだし! シロヒメと同じなんだし!』
はっと。
「それって」
おそるおそる。
「葉太郎様も、その、心がどこかにと」
『わからないんだし』
がくっとなる。
『とにかく、調べてみないとわかんないんだし』
「それは」
そう――なのだろうか。
『行くし』
「えっ」
行く。それはつまり、
「どこにです?」
がくっ。よろける気配が伝わる。
『アホだしー』
「アホじゃないです」
『本当にアホなんだし。だから、ヨウタローのところだし』
「それって」
『言うまでもねーし!』
憤りのいななきをあげ、
『ヨウタローの心の中に入るんだし!』
Ⅺ
「で……できませんよ」
弱気な言葉に、
『できるし』
すかさず。力強いいななきが返る。
「でも、どうやって」
『いまのシロヒメならできるんだし』
はっとなる。
「そ、そうですね。いまの白姫なら」
いまの白姫は――
「でも、どうやって」
『どーにかしてだし』
「そ、そこはアバウトなんですね」
『できるし』
迷いなく、
『シロヒメはヨウタローのシロヒメだし。騎士と馬の絆が奇跡を起こすんだし』
「奇蹟を」
信じるしかなかった。
『しーっ。静かに行くし』
「し、静かにしてますよ」
『信用できないし。アリスはがさつだから。ヨウタローが起きてしまったらどーするし』
「えぇぇ~……?」
むしろ、起きてもらったほうがいいのでは。
『ハッ。ついついご主人様想いなところを発揮してしまったし』
「そ、そうですか」
こんなときにも緊張感がないというか。
「でも」
ここまで来ていながら、
「やっぱり、みんなに話したほうが」
『なに言ってんだし』
ぷりゅ。とがめるように、
『最初に決めたんだし。シロヒメたちだけでやるって』
「でも……」
『決めたんだし』
言い切る。
『本来ならアリスもいらねーけど、いまのシロヒメだけだとヨウタローのところまで来れないんだし』
いま言われている『葉太郎のところ』とは、もちろん『眠っている葉太郎のところ』ということだ。
その寝室に、真夜中、アリスたちは忍びこんでいた。
「……起きませんね」
『起きないんだし』
何をいまさらと。
「葉太郎様……」
あらためて。意識のない憔悴したその顔を見て、涙がにじむ。
『って、泣いてる場合じゃねーんだし!』
「そ、そうですよねっ」
『まったく。泣き虫なんだし』
ぷりゅぷん。不満そうに鼻が鳴らされる。
『それでもいまはアリスしか頼れねーんだし。アリスごときしか』
「やめてください、そういう言い方は」
『とにかくやるんだし!』
「はいっ」
そして――
「何をすればいいんでしょう」
がくぅっ。大きくよろめく気配が伝わるも、
『………………』
「白姫?」
『……送るし』
「は?」
『だから! なんとかしてシロヒメをヨウタローの中に送りこむんだし!』
「なんとかしてって」
言葉をなくす。
「ど、どうやってですか」
『どうにかしてだし』
「そんな、自分、したことないですし」
『使えねーしー』
「そんな……」
言われっぱなしでさすがに、
「白姫ですよ、自分の中に入ってきたのは」
『とーぜんだし。意見するひつよーあったから』
「だったらわかるはずですよ、移動の仕方は」
『わかんねーんだし! 気合でなんとかなっちゃったんだし!』
「気合でって」
いい加減すぎる。
『あと夜だったから』
「えっ」
夜――
「あっ、言ってましたね。夢って」
『夢なんだし』
ぷりゅ。うなずかれる。
『だから、夢を見ているヨウタローの中にも入っていけるはずなんだし』
「夢を見ているとは限りませんけど」
『見ていることにするし!』
「ええ~……」
わがままというか、無茶苦茶というか。
『とにかくやるし!』
「だから」
何をすればいいというのだ。
『近づくし』
「は、はい」
寝台に横たわる葉太郎に顔を寄せる。
「……っ」
どきっと。
こんな近くに。
仕えるべき騎士であり、敬愛する相手でもある男性の顔が。
(葉太郎様……)
ドキドキドキドキドキ。
『って、なにドキドキしてんだしーっ!』
「きゃあっ」
怒声に我に返る。
「し、白姫こそ、葉太郎様の中に入れるよう努力してください」
『なに、話をそらそーとしてるし』
「そらすも何も、それが目的で」
『どんなあやしい目的もってんだしーっ!』
「きゃあっ」
こうなるともうこちらの言葉など届かない。
「お、落ち着いてください。白姫はこれから葉太郎様の中に……って、だから、変なこととか考えてないです! 自分は葉太郎様のことを想って……って、そういう意味の『想って』ではなくて! 従騎士としての尊敬の思いです! 聞いてくださーーーい!」
「……う……」
アリスは、
「あっ」
気がつく。
「じ、自分は」
おそらく――眠ってしまっていた。
白姫との言い合いに疲れて。
(はわわっ。なんてことをしてしまっているんですか。自分には葉太郎様の中へ白姫を送り届けるという)
「ぷりゅっ」
「!」
はっとなる。
「白姫!?」
いた。
しかし、これは、
「赤ちゃんのほう……ですか」
「ぷりゅぅ?」
「えーと」
屋敷の中に入ってきてしまったのだろうか。
と、さらに気づく。
「葉太郎様?」
いない。
ない。
意識不明の彼が横たわっていたベッドそのものが。
「えー……と」
あらためて。周りを見渡す。
「う……」
わからない。
何なのだ、ここは。
視界がはっきりしない。ぼやけている。
立ちくらみ?
いや、濃いもやで一面覆われているような、
「!」
そこに、
「あ……」
影。人影だ。
「あ、あの」
声をかけようとして、はっとなる。
無言。
ゆっくりと近づいてくるその影に、アリスは何か不穏なものを感じる。
「白姫……」
背後に彼女をかばう。
「ど、どなたですか」
影は、
「!」
構えた。
「えっ……え?」
刀――
「な……」
なんで――と言う間もなく、
「!」
斬りかかってきた、
「きゃあっ」
あわてて。背後の白姫と共に倒れこむ。
「っ」
ぶぉん!
「あ……」
ふるわれた。
刀を。
刃物を。
「はわわわわわわわわ」
ど、どういうことなのだ。
理解が追いつかない。
なぜ。
なぜ自分がこのような目に、
「ぷりゅっ!」
「!」
そのとき、
「ぷりゅ! ぷりゅぷりゅ!」
白姫――
赤ちゃん白姫が。
いなないた。いなないていた。
(なんてこと……)
赤ちゃんが。
まだ物心もつかない彼女が自分を守ろうとしてくれている。
「あっ」
気がつく。
(違う……)
正確には〝違う〟というわけではない。
ただ、
(だって……)
赤ちゃん白姫は――白姫の身体だったはずだ。
なのにいまは、
(赤ちゃん……)
というには、すこし大きいかもしれない。
それでもはっきりと違う。
小さい。幼い。
(ど、どういうことですか)
混乱する。
「ぷりゅっ」
はっと。
「は……はわわわわ」
そうだ。いまはよけいなことを考えている場合ではない。
「に……」
とっさに身をひるがえし、赤ちゃん白姫(?)の脇に並ぶ。
「逃げますよ!」
何も考えられない現状、できるのは危機から離れることだけだ。
「ぷりゅっ」
伝わったのだろう。
短いいななきの後、白い馬体は共に駆け出した。
「ど、どういうことなんでしょう」
追撃はなかった。
いや、あったのかもしれないが、それを確かめている余裕はなかった。
「白姫……」
「ぷりゅ」
「っ」
返事は――ある。
「白姫……でいいんですか」
「ぷりゅ?」
どういうこと? と言いたげに首がかしげられる。
と、そこで思い出す。
『白姫。白姫』
呼びかける。頭の中で。
「う……」
返事は――ない。
「どういうことなんでしょう……」
つぶやかれる。
「白姫」
「ぷりゅ?」
「あなたは、その、赤ちゃんの白姫なんですか」
答えは、
「ぷりゅぅ?」
「う……」
首をかしげられる。馬としては当然のリアクションと言えるかもしれない。
(馬として……)
これまで、あまりにも普通に接してきたせいで疑問を抱くこともなかったのだが。
(こっちが普通……なんですよね)
さびしさが胸を吹き抜ける。
(って、いまはそういうことを感じている場合じゃなくて)
とにかく、白姫としか思えないこの子を放っておくわけにはいかない。刃物を持ったあやしい人物がうろついていたりもするのだ。
「ここは」
見渡す。これから何をすべきか決めるため。
「え……?」
あらたなる戸惑い。
「ここって」
見覚えがあった。
「鳳莱島(ほうらいとう)」
つぶやかれる。
それは、
(懐かしい……)
そんな感慨を抱いている場合ではないのだが。
懐かしかった。
記憶にある。
ここは、
(自分が初めて……)
初めて。
家を出て。
生活をした場所。
騎士としての第一歩を踏み出した場所だった。
「って」
我に返る。
「な、なんで、鳳莱島にいるんですか!」
いるはずがない。
自分は、騎士の学園のある島、サン・ジェラールにいたのだ。
葉太郎たちと共に。
(……!)
我に返る。
自分は――何をしようとしていた?
(葉太郎様の……)
そうだ。
意識のない葉太郎の中へ白姫を送りこもうとしていた。
(送れた……んですかね)
白姫(?)を見る。
「ぷりゅ?」
相変わらず首をかしげられる。
「う……」
違う気がする。すると、あらたな疑問が生まれる。
(白姫は)
自分の中にいた白姫は――どこへ行ったのだ。
「っ」
そこに、
「あ……」
聞こえた。
「これって」
子守歌――
(まさか)
聞き覚えのあるその歌声は、
「ぷんぷんぷりゅーりーよ~、ぷりゅーろーりーよ~♪」
(『ぷりゅろり』って何ですか……)
心の中でツッコみつつ、歌の聞こえるほうへ歩いていく。
「あっ」
いた。しかも、
「ああっ!」
白姫――
だけではなかった。
「え……ええっ」
目を疑う。自分の横にいるすこし小さな白姫を見る。
「ぷりゅ?」
「いえ『ぷりゅ?』ではなくて」
混乱する。
そんな中、歌は続く。
「シローヒーメー、よいーこーだー、ねんーねーしーな~♪」
(いやいや……)
寝かせようとしている白姫本馬がそれを言うのは違うのではないか。
ただ、はっきり違うとも言い切れない。
なぜなら、
(し、白姫……)
白姫だった。
白姫が歌いかけていた相手は。
しかし、それは隣の白姫よりさらに小さい――
「赤ちゃんじゃないですか!」
「ぷりゅ?」
こちらを見た。
自分がよく知る大きさの白姫が。
「ぷりゅ!」
耳が立つ。
「アリスだし!」
「ア、アリスですけど」
「マジアリスだし?」
「なんですか『マジアリス』って」
白姫だ。この言葉の使い方は。
「ぷりゅー」
ふんふんと。こちらを確かめるように鼻先を近づけてくる。
「アリスだし」
「アリスですけど」
くり返す。
「ぷりゅー」
かすかに顔がしかめられ、
「なんでいるんだし」
「なんでって」
そもそもここはどこなのだ。
「それに」
思い出す。
「白姫は自分の中に」
「なに気持ち悪いこと言ってんだし」
「えぇぇ~……」
「考えんだし」
言う。
「シロヒメはこうしてここにいるし」
「は、はい」
その『ここ』がどこだかわからないのだが。
「鳳莱島だし」
「……!」
や、やっぱり。
「鳳莱島なんですか」
「鳳莱島なんだし」
うなずく。
「間違いないし。シロヒメの生まれたところなんだから」
「そ、そうですよね」
「ヨウタローも」
海の香り漂う草原を見渡し、
「ここで育ったんだし」
「ですよね」
「ヨウタローなんだし」
「は?」
「だから」
察しが悪い。そう言いたそうな目で、
「ここはヨウタローなんだし。ヨウタローの中なんだし」
「あ……!」
そういうことか。
「つまり、その、葉太郎様の夢の中というか」
「たぶん、そういうことなんだし」
たぶん――そこに不安は感じるが、
「なるほど。だから」
見渡す。
「鳳莱島なんですね」
「鳳莱島なんだし」
ぷりゅ。うなずく。
「……って」
我に返る。
「ま、待ってください。なんで自分までいるんですか」
「それはシロヒメが聞きてーんだし」
「聞きたいって言われても」
わからない。
頭の中の白姫との言い合いの後、気がついたらここにいたのだから。
「アホなんだしー」
「アホじゃないです」
「とにかく、これでようやくアリスのアホな頭の中から脱出できたんだし」
「だから、アホじゃないです」
そこは念を押す。
「探すし」
言う。
「ヨウタローを」
はっと。
「そ、そうですよね。自分たち、そのために葉太郎様の中に」
「だから、アリスは来る予定じゃなかったって言ってんだし」
「それはそうですけど」
しかし、こうなれば自分も協力しないわけにはいかない。
「行きましょう」
「どこにだし」
「どこって」
言葉につまる。
「葉太郎様のいそうなところに」
「だから、それがどこかって聞いてんだし」
「う……」
とっさに答えが出ない。
「ぷりゅふふーん」
得意げに。あきらかにこちらを下に見る調子で、
「シロヒメにはわかるんだし。シロヒメ、生まれたときからヨウタローと一緒だから」
「それは」
その通りなのだ。
「ぷりゅーわけで、アリスはそこらへんにいるんだし。シロヒメがヨウタローを助けてくるから」
「ま、待ってください!」
あわてて、
「自分だって助けに行きます! 従騎士なんですから!」
「えー」
明らかに不満げな顔で、
「なに、ちょーし乗ってんだしー。ぷりゅーか、シロヒメ、アリスのこと従騎士だなんて認めたことないんだしー」
「えええっ!」
な、なんてことを。
「なんてことを言うんですか!」
「従騎士の仕事は何だし」
「えっ」
カウンターな問いかけにあわてつつ、
「それは、仕える騎士様の日常をお助けする……」
「何もお助けできてねーし」
「う……」
確かに。
衣食住にかかわることは、すべてメイドとして依子が完璧にこなしてしまっている。
「でも、白姫のお世話を」
「できてねーんだし」
「えええっ!?」
「できてると思ってたんだし?」
ぷりゅふんっ。鼻を鳴らし、
「シロヒメもなめられたもんだし」
「そんな」
自分としてはがんばってきたつもりなのだが。
「がんばってるだけなんだし」
「えっ」
「結果出てねーんだし、アリスの場合」
「あ、あの」
驚く。
「なんで……わかるんですか」
「ぷりゅっ」
白姫もはっとなる。
「わかってしまったんだし」
「は、はい」
「アリスの考えたことが」
「……!」
一瞬、言葉をなくす。
「それって、やっぱり」
「そうだし。ずっとアリスの中にいたからなんだし」
ぷりゅ。うなずいて、
「アリスにおせんされてしまったんだし」
「なんてことを言うんですか!」
「きっと、ここが夢ってこともあるんだし」
言う。
「夢だから、こーゆーこともあるんだし」
「そ、そうなんですか」
ずいぶんといい加減な。
「とにかく、いまはヨウタローなんだし」
ぷりゅ。鼻息を強くし、
「そのためにシロヒメたちは――」
言葉が止まる。
「シロヒメ……たち」
「あっ、そ、そうですよ」
いまさらながらに、
「なんで、白姫がこんなにいるんですか」
「………………」
かすかに。複雑そうな沈黙の後、
「シロヒメだし」
「は、はい、それはわかってますけど」
「きっと」
子守歌をうたってあげていた白姫、そしてこちらの白姫を見て、
「ヨウタローの中のシロヒメなんだし」
「葉太郎様の中の」
「そうだし」
ちょっぴり誇らしげに、それでも複雑さはにじませ、
「ヨウタローの心の中には、いつもシロヒメがいるんだし」
「で、ですよね。かわいがってますもんね」
「かわいがってるんだし」
うなずくも、
「……シロヒメだけをかわいがってほしいんだし」
「は?」
「だから」
きまり悪そうに、
「いまここにいるシロヒメだけをかわいがってほしいんだし。他のシロヒメじゃなくて」
「ああ」
同じだ。
赤ちゃんとしてかわいがられたいと思いながら、そのよろこびは赤ちゃんでない自分が感じたいという。
「わがままなんですから……」
「よけーなお世話だしっ」
ぷりゅふんっ。そっぽを向く。
「けど、いまはそれより先に」
「そーだし。ヨウタローを探すんだし」
表情が引き締まる。
「赤ちゃんの白姫が泣いてたから、思わず子守歌うたってあげちゃってたけど」
「そうなんですか」
いまはおだやかに眠っている小さな白姫を見る。
「かわいいですね」
「かわいいんだし」
ぷりゅ。うなずく。
「こんなかわいいシロヒメのためにも絶対にヨウタローを」
「あっ」
ひらめく。
「この子なら知ってるんじゃありませんか? 葉太郎様の居場所を」
そう言って、かたわらのすこし小さな白姫を見る。
「そうなんだし? ヨウタローのこと知ってんだし?」
「ぷりゅ」
うなずく。
「ぷりゅ。ぷりゅぷりゅ」
「ぷりゅりゅ? ぷりゅっ」
大きいほうの白姫も「わかった」というようにうなずき返す。
「この子が知ってるって言ってんだし。ついていくんだし」
「はいっ」
「さすがシロヒメなんだし。賢いんだしー」
「で、ですね」
「なんだし? 文句あるし?」
「ないですけど……」
「じゃあ、そんな顔してんじゃねーし。さっさと行くんだし」
「は、はいっ」
こちらも表情を引き締める。
早くも先頭に立つすこし小さな白姫について、アリスも――
「ぷりゅーっ」
「あっ」
目を覚ましていた。
「ぷりゅーっ。ぷりゅーっ」
泣きじゃくる。赤ちゃんらしくじたばたしながら。
「ど、どうしましょう」
「とりあえず寝かせるんだし」
「どうやって」
「子守歌に決まってるし!」
そして、再び歌い出す。
「ぷーんぷーんー、ぷりゅーりーよー、ぷりゅーろーりーよ~♪」
「だから『ぷりゅろり』って……」
しばらくして、
「……眠りましたね」
「いまのうちにそーっと」
しかし、
「ぷりゅーっ。ぷりゅーっ」
「あ……」
起きてしまう。
「どうしましょう」
「きっと、置いてきぼりにされると思ってんだし」
「そんなつもりは」
ないとは言い切れないのだが。
「どうすれば」
「つれていくしかないんだし」
「は、はい」
「ぷりゅったく」
ぷりゅぷん。頬をふくらませ、
「ヨウタローは何をしてるんだし。赤ちゃんなシロヒメが泣いてるっていうのに」
と、言葉の途中で目を見開く。
「……おかしいんだし」
「ですよね」
アリスもその〝異常〟に気づく。
「葉太郎様なら」
泣いている白姫を放っておくなんてことはあり得ない。
それこそ〝騎士道体質〟なのだから。
「何が起こってるんでしょうか」
「何かが起こってるんだし」
ぷりゅ。重々しくうなずく。
「だから、シロヒメが助けに来たんだし」
「そうですよね。自分たちが」
「って、アリスは予定に入ってねーしっ!」
「きゃあっ」
どなりつけられて悲鳴をあげる。
「や、やめてください」
「やめねーし」
「ぷりゅぷりゅー♪」
「ほら、赤ちゃんのシロヒメもよろこんでるし」
「なんで、よろこんでるんですか」
この頃からもう先が思いやられる――
「ぷりゅっ」
「あっ、ごめんだし」
「ご、ごめんなさい」
先に進んでいたすこし小さな白姫がいらだだしげに鼻を鳴らす。
「とにかく行くんだし」
「行きましょう」
異存はなかった。
Ⅻ
「あ……あの……」
「なんだし?」
ぷりゅぷりゅ。やれやれと。
「さっさと来るんだし。のろまなアリスだし」
「なんてことを言うんですか」
さすがに抗議する。
「どうして、自分が赤ちゃんの白姫を背負って」
「当たり前だし。赤ちゃんに歩かせる気だし?」
「いえ……」
もちろん、人間の赤ちゃんにならそんなことはさせられないが、
「馬の赤ちゃんは歩けるじゃないですか」
「とーぜんだし。野生の世界はかこくなんだし。生まれてすぐ走れないようじゃ生き残れないんだし」
「白姫は野生の世界生まれじゃないですよ」
葉太郎の思い出の中のこの子もそういうことになるはずだ。
「とにかく、さっさと来るし」
「だから、さっさとは無理です。急いでこの子が落ちたりしちゃったらどうするんですか」
「そこは細心のちゅーいを払うんだし」
「そうなると、やっぱり急ぐのは無理で」
「情けないアリスだしー」
「ううう……」
言われたい放題だ。
すると、
「ぷりゅっ」
先を進んでいた白姫が鳴き声をあげた。
「ぷりゅ!」
こちらの白姫も。
「家だし!」
「は、はいっ」
完全に見覚えがある。
「葉太郎様の……」
そして、自分も暮らした小さな木造家屋。海風の吹き抜ける広い草原に建つその懐かしい家を忘れるはずもなかった。
「ヨウタロー!」
駆け出す。
ようやく会えるというよろこびを鳴き声に響かせながら。
「ぷりゅ!」
止まった。
「あっ」
アリスも目を見張る。
玄関の木の扉を開けて現れたその人影は、
(葉太郎様の……お父様!)
息子そっくりのその顔立ちを見間違えるはずもない。
若い。
と言っても、現在もまったく年齢を感じさせない人ではあるのだが。
ただ、その腕の中に、明らかに『過去』を思わせる存在があった。
「いい天気だねー、葉太郎」
「!」
やっぱり。
「ヨウタロー……」
白姫もあぜんとつぶやく。
「ヨウタローも赤ちゃんなんだし」
「ですね」
そういうこともあり得るのだろう。ここは葉太郎の心の中なのだから。
「ほーら、高いたかーい」
「ばぶー♪」
大よろこびで手足をじたばたさせる。その愛らしさは、十六歳になったいまの彼を知っていても十分に顔をほころばせるものだった。
「かわいいですね」
「かわいいんだし。さすがシロヒメのご主人様なんだし」
そこは『さすが』となるのかと思いつつも、
「……あ」
そういう場合ではない。
「ど、どうしましょう」
「ぷりゅ?」
「だって」
あたふたと、
「葉太郎様が赤ちゃんだったら、その、事情を聞くようなこともできないんじゃ」
「だいじょーぶだし」
「大丈夫なんですか?」
「大丈夫だし」
うなずいて、
「シロヒメとヨウタローはつながりあってんだし。絆で結ばれてんだし」
「は、はあ」
「だから、きっと伝わるんだし。元に戻ってほしいっていう想いが」
「そ……そうですよねっ」
信じるしかない。
「けど」
ちらり。仲睦まじくしている二人を見やり、
「どうしましょう」
「声かけるし」
「自分がですか!?」
「なに、びびってんだし。相手はヨウタローだし。赤ちゃんでも」
「ですけど」
何と言って声をかければいいのだ。
自分は葉太郎の心の外から来たと? そもそも、彼らに誰かの心の中の人物なのだという自覚はあるのかと。
「ねえねえ」
「きゃっ」
いた。
(いつの間に)
目の前に。
「この子」
と、白姫に視線を向け、
「白霞(しろかすみ)にそっくりだねー。ひょっとして姉妹かなー」
「しろ……かすみ?」
「きっと、シロヒメのご先祖様だし」
言う。
「白姫かー。白姫って名前もいいねー」
どきっと。
思わず小声で、
「こ、これってマズいんじゃありませんか?」
「ぷりゅ? マズい?」
「だって、そうですよ」
さらに声をひそめ、
「ここで白姫が白姫って名前だって知られちゃったら、将来、白姫に白姫って名前をつけてもらえないんじゃ」
「なに言ってんだか、わけわかんねーし」
「はわわっ」
けど言いたいこととしてはそういうことになる。
「自分たち、歴史を変えてしまうことに」
「なーに言ってんだし」
ぷりゅぷりゅ、やれやれ。
「ここは葉太郎の心の中だし。本当に昔に来ちゃったわけじゃないんだし」
「あっ」
言われてみればそうだった。
「で、でも」
そこでまたも気づく。
「ここで自分たちがいろいろしてしまうと、葉太郎様の思い出を変えてしまうことに」
「それでもいまはヨウタローの意識を取り戻すことが大事なんだし」
「それは」
その通りなのだが。
「ねーねー、なんでキミたちだけで話してるのー」
「きゃあっ」
にこにこと。悪意のまったくない笑顔を向けられながらも思わず跳びはねてしまう。
「え、えーと、その」
なんと言って切り出せばいいのだろう。
と、またも先に、
「みんなは姉妹なのかな」
「えっ」
みんな――自分と白姫のことではないだろう。
「この子たちですか」
いまも自分が背負っている白姫。そして、自分たちをここまで案内してくれた白姫に、隣にいる白姫だ。
姉妹。そう見えても不思議はない。
それぞれ年齢は違うし、何より同一〝馬〟物なのだから。
「えーと」
言葉につまる。
肯定することは、嘘をつくことになる。かと言って、自分たちの状況をそのまま説明してしまっていいものかと。
「だうー」
「あっ」
小さな手がこちらに向かって伸ばされた。
「ほらほら、危ないよ」
葉太郎――赤ちゃんの葉太郎が抱え直される。
その手が、
「ぷりゅ?」
アリスが背負っている赤ちゃん白姫の鼻先にふれた。
「だーうー」
にこにこと。
それに応えるように、
「ぷりゅー」
すりすり。赤ちゃん白姫が鼻をすり寄せる。
「ふふっ」
微笑む。
こちらも自然と笑みが浮かぶ。まさに微笑ましいと言うべき光景だった。
「仲良しなんだし」
白姫も。笑って言う。
「仲良しですね」
うなずく。
「僕たち、ママ友みたいだね」
「マ……ママ友ですか」
自分は白姫の母親ではないのだが。
そして、葉太郎の父も〝父〟なわけで。
「ふふっ」
また笑う。
そのさわやかな笑顔を見ていると、まあいいかという気持ちになってしまう。
「あっ」
いやいや『まあいいか』ではなく。
「あ、あのっ」
何から聞けばいいのだろう。それでも何とかするためにここに来たのだと自分をふるい立たせ、
「下がって」
「え?」
不意に。
「頼めるかな」
「えっ、ええっ」
渡された。
「!」
葉太郎を。
「えっ、あの、ちょっ」
わけがわからない。
赤ちゃん白姫に加え、赤ちゃんの葉太郎まで抱えたことで、ほんのすこしでも気を抜いたら倒れそうだ。
「なんで」
問いかけの言葉はとっさに飲みこまれた。
「っ」
感じた。
「は……」
ふり向く。その視線の先に、
「はわわわわわわ」
いた。
「下がってて」
おだやかな声で。前に出る。
向かい合う――
謎の覆面の凶漢と。
「理由は聞かない」
手をかかげる。
「……っ」
肌が泡立つ。空気が変わる。
「あ……」
知っている。騎士なら誰でも。
〝伝説の騎士〟――そう呼ばれる彼にしか扱えない騎士槍のことを。
「!」
ズドォォォォン!
「きゃあっ」
夢の世界。そうわかっていてもその畏怖感は圧倒的だった。
「ひ……」
棺。
天空から大地目がけて突き刺さった――その蓋が開かれる。
「っっ」
光――
欠片の曇りも許さない真白きその槍身は、自らが聖光を放っているかのように見えた。
清らかな。
浄化された空気が辺りに満ちる。
それでも、
(怖い……)
ふるえが止まらない。
自分では想像もつかない〝力〟が目の前にある。仮にも騎士の端につらなる者として、その静かな威容を前にただただ畏敬の念に打たれるばかりだ。
「行って」
「……!」
「見せたくないから」
葉太郎に。
父でなく騎士になる自分を。
それ以上の存在になってしまう自分を。
まだ物心もつかない赤ん坊には苛酷すぎると感じたのかもしれない。
それほどの――
「行って」
くり返される。
「は、はいっ」
自然と背筋が伸ばされる。
そうだ、いまは大事な一人息子――そして自分にとっては将来仕えるべき騎士となる人をあずかっているのだ。
「しっかりつかまっていてください、葉太郎様! 白姫も!」
事態が飲みこめずきょとんとしている葉太郎、そして赤ちゃん白姫を抱え直し、
「行きます!」
走った。
「アリス! アリス!」
隣を走りながら、三歳の白姫が呼びかけてくる。
「どういうことだし! なんなんだし、あの刀持ってたの!」
「わかりま……せんっ」
さすがに息が切れていた。
従騎士に課される基礎訓練によって、普通の十三歳の女子よりは体力や腕力が鍛えられているという自負はある。
それでも、赤ちゃんとはいえ馬の白姫を長く抱え、さらには葉太郎まで加わったのだ。
疲労はかなりのレベルに達していた。
「アリス!」
さっと。白姫が前に回りこむ。
「とりあえず止まるし。追ってはこないみたいなんだし」
「ハァ……ハァ……」
足がもつれかけるも、かろうじてこらえる。
まかり間違って葉太郎を落とすことなど絶対にあってはならない。
「だーうー?」
ぺたぺたと。小さな手が頬にふれる。
「葉太郎様……」
こちらを心配してくれている。それが伝わってきて目頭が熱くなる。
(こんな小さな頃からお優しいんですね)
守りたい。思った。
自分の仕える騎士だからではなく、そういった理由をも超えた心からの気持ちだった。
「いったん、きゅーけーするし。で、シロヒメに事情を話すし」
「は、はい」
言葉に甘えるというわけではないが、このまま走り続けるのは現実的ではない。また何かあったときに動けるだけの体力を回復するためにも、それが正しいと思えた。
「実は」
赤ちゃんの葉太郎、そして白姫を。やわらかい草むらの上にそっと下ろした後、アリスはここに来た直後にあった出来事を語り始めた。
「ぷりゅー」
深刻そうに顔がしかめられる。
「どーゆーことだし」
「自分が聞きたいですよ」
「ここはヨウタローの中だし」
確認するように。そう言い、
「そんな、変なカタナ覆面なんか出るはずないんだし」
「でも、出てますし」
「ぷりゅー」
実際に白姫も見ているのだ。
「だいじょーぶだったし?」
そう聞いた相手は、三歳の白姫と赤ちゃん白姫の中間くらいの白姫だ。
「ぷりゅ」
うなずく。
「ぷりゅ。ぷりゅぷりゅ」
「ぷりゅー」
またも顔がしかめられる。
「すごく怖かったって言ってるし」
「ですよね……」
突然、刀を持った正体不明の人間が現れたら怖いに決まっている。
「だから、なんでそんなのがいるんだし」
「わ、わかりませんって」
「ひょっとして」
深刻な顔で、
「ヨウタローがいしきふめーなことに、なんか関係あんじゃねーんだし?」
「えっ!」
そ、そうなのか?
「だって、実際、ヨウタローが大変なことになってんだし。で、ヨウタローの中で大変なことも起こっちゃってるんだし」
「ですよね」
ということは、
「あの覆面の人に」
顔から血の気が引いていくのがわかる。
「また……会わないとってことなんですよね」
「会わないとなんだし」
ぷりゅ。うなずかれる。
「ううう……」
凶刃の照り返しを思い出しただけでふるえがくる。
「行くし」
「えっ」
「ほら」
うながされる。
「あ、あの、行くって」
「話聞いてないんだし? 想像を絶するアホだし」
「アホじゃないです」
ま、まさか。
「覆面の人のところ……ですか」
「ぷりゅ」
「いますぐですか?」
「いますぐに決まってるし」
ぷりゅ立たしそう、いら立たしそうに。
「だから、言ってんだし! ヨウタローのことに何か関係あるって!」
「言ってましたけど」
「早く行かないとなんだし! じゃないと、ヨウタローのパパがやっつけちゃってるかもしれないんだし!」
「それは」
普通はそのほうがいいのではないかと。
「とにかく戻るんだし! アリス!」
「は、はいっ」
剣幕に押され、その場からUターンする。
「あれ!?」
気づく。
「あ、あの、白姫は」
「ぷりゅ?」
何言ってんだという顔で、
「シロヒメがどーかしたし?」
「いや、だって一緒に」
「誰がそんなこと言ったし」
ぷりゅっ。ふんっと鼻を鳴らし、
「アリスだけで行ってくるし」
「えーーーーっ!」
な、なんてことを!
「無理ですよ!」
「弱虫だしー」
「だって」
あらためてふるえながら、
「あんな、刀を持った人のところへ」
「行くんだし。ヨウタローのためだし」
「なら、白姫も一緒に」
「無理だし」
「えええっ!」
「当たり前だし」
明らかにこちらをさげすむ目で、
「この子たちはどうするんだし」
「あ……」
そうだ。
赤ちゃん白姫、幼い白姫、さらに赤ちゃんの葉太郎までいる。とても危険な場所へつれていくわけにはいかない。
「シロヒメ、この子たちとここにいるし。安全なところに」
「いや、その、安全なところにいるのはいいんですけど」
おずおずと、
「白姫くらいはついてきてくれても」
「『くらい』ってなんだし!」
ぷりゅ!
「あ、いえ、そういう意味では」
あわててあやまる。
「シロヒメまで行っちゃったら、誰がこの子たちの面倒見るし」
「あ」
それはその通りだ。
「け、けど」
それでも一人で行くその不安さに、
「この子たちは安全なところにこのままいてもらえば」
「赤ちゃんを放っておくんだし?」
「う……」
できない。
「あっ、じゃあ、自分がこの子たちの面倒を見れば」
「ぷりゅ」
ぎろり。にらまれる。
「どーゆーつもりだし」
「い、いえ、だからそういう選択もあると」
「シロヒメに行けって言ってんだし!? 信じられないし!」
ぷりゅーーっ! いななく。
「シロヒメなんかどうなってもいいって言ってんだし!」
「そんなことは」
「言ってるもどーぜんなんだし! アリスの本性がわかったし!」
「本性って」
止まらない。
「聞くし、ヨウタロー」
きょとんと目を丸くしている赤ちゃんに向かって、
「アリスはこーゆーアリスだったんだし。元の世界に戻ったらきっちりクビにするし」
「なんてことを言うんですか!」
涙目で訴える。
「本当に行けなんて言ってないじゃないですか! 白姫がどうなってもいいだなんて思ってませんよ!」
「シロヒメは、アリスがどーなってもいいと思ってるし」
「なんてことを言ってるんですか!」
「ぷりゅーわけで行くし」
「そんなことを聞いて行けませんよ!」
もはや絶叫だ。
と、そのとき、
「ぷりゅっ!」
するどいいなき。
「きゃっ。こ、今度はなんですか」
「いたし!」
「えっ!」
どきっとなる。
「まさか、ここまで追いかけてきて」
「そーではないんだし」
「えっ」
「けど、そーでもあるし」
「え……」
い、意味がわからない。
「刀だし」
言う。
「よく考えたら、シロヒメたちの周りにいつも刀持ってるのがいるんだし」
「あっ」
いた。
「よく考えるまでもなく、アブナい子なんだしー」
「なんてことを言うんですか。友だちじゃないですか」
ユイフォンだ。
「ぷりゅ!」
またも不意のいななき。
「感じるし」
「えっ」
「こっちだし!」
「あ、ちょっ」
駆け出した白姫にあわてて、
「み、みんなで待っててくださいね! 絶対ですよ!」
一番年上(?)な小さめ白姫にそう言い置いて、アリスもまた駆け出した。
遠くまで行かれてはと不安だったが、
「白姫」
それほど離れていないところで姿を目にし、胸をなでおろす。
「え……!」
息をのんだ。
くわえていた。その小さな影は、
「あ……赤ちゃん」
また!?
と気がつく。
見覚えがある。
いや、見たことのない赤ちゃんのはずだが、そのぼうっとゆれる瞳は確かに、
「あっ!」
衝撃が走った。
「まさか」
ぷりゅ。赤んぼうの襟もとをくわえたまま、器用にうなずく。
「ユ……」
絶叫した。
「ユイフォンなんですかーーーーーーっ!」
ⅩⅢ
「し……」
信じられない。
「信じられませんよ」
あらためて。言葉に出して言う。
「信じられません」
「うるせーしー」
うざったそうに、
「何が信じられないって言うし。シロヒメのかわいさがだし?」
「そんな話はしてませんよ」
ツッコみ返す声にも力がない。
「う……」
その赤ん坊を見つめる。
「ばぶう?」
見つめ返される。
「うう……」
まったくひるまずこちらを見つめてくるその茫洋さは、やはりあのユイフォンを思わせるものがあった。
「赤ちゃんだし」
断言される。
「ユイフォンの赤ちゃんなんだし」
「ユイフォン『の』って言うと、すこし意味が違ってきちゃいますけど」
「ユイフォンが赤ちゃんなんだし」
言い直す。
「ユイフォンなんだし」
くり返し。断言する。
「でも……」
まだ信じられないという顔のアリスに、
「なんだし。シロヒメの鼻に疑い持ってんだし?」
「い、いえ」
気づいたきっかけも、そのにおいをかぎつけたことではあるのだ。
「だったら、ユイフォンなんだし」
ぷりゅっへん。胸を張る。
「はあ……」
認めるしかない。
「あの」
話しかける。
「ユイフォン……なんですか」
「………………」
答えはない。
「アホなんだしー」
「アホじゃないです」
「相手は赤ちゃんなんだし。そうやって聞いて答えるわけないし」
「あっ、そ、そうでした」
「しかも、ユイフォンだし。アホなんだし」
「やめてください、友だちにそういう言い方は」
問題は、
「この子が本当にユイフォンだったとしたら」
「だから、本当にユイフォンだし」
「なんで」
言う。
「葉太郎様の中にいるんですか」
「いるに決まってるし」
鼻を鳴らし、
「ユイフォンもいちおー家族だし。ヨウタローの夢の中にいても」
「いや、おかしいですよ」
言う。
「葉太郎様とユイフォンが会ってから一年も経ってませんよ? 赤ちゃんのころを知るはずないじゃありませんか」
「ぷりゅ!」
はっとなる。
「言われてみればそーだし」
「はい」
「赤ちゃんのシロヒメはいていいんだし。ヨウタロー、シロヒメが赤ちゃんだったころを知ってるから」
「はい」
「悔しーし」
「えっ」
「なんで」
本当に悔しそうな顔で、
「アリスが気づいたことにシロヒメが気づけなかったんだし。アホなアリスでも気づけたことに」
「アホじゃないです」
ここに来ても暴言は収まらない。
「やめてください、本当に……」
すると、
「何者だし」
「えっ」
険しい視線が赤ちゃんのユイフォンに向けられる。
「賢いシロヒメをだますなんて。そーだいな陰謀のにおいが」
「またにおいですか!?」
と、そんなことを言っている場合ではなく、
「なんですか、陰謀って」
「陰謀だし。それ以外に考えられないし」
「変な言いがかりはやめてください」
あわてて言って、
「だめですよ。赤ちゃんに乱暴するようなことは」
「シロヒメはしないし」
「そ、そうですか」
「けど、シロヒメがしてるし」
「えっ」
「ほら」
「あっ!」
見ると、
「ぷりゅっ。ぷりゅっ」
「うー」
赤ちゃんの白姫が。
同じく赤ちゃんのユイフォンを抑えこんで、その頭を叩いている。
「なんてことを……って同じ光景を前にも見たような」
すると、
「ぷりゅ。ぷりゅぷりゅ」
まるでお姉さんのように。小さな白姫が赤ちゃん白姫をなだめる。
「ぷりゅっ」
こちらも妹のように。素直にうなずいてユイフォンを叩くのをやめる。
「わ……!」
感動のまなざしで、
「すごいじゃないですか。小さな白姫が赤ちゃん白姫にいじめをやめさせましたよ」
「すごいんだし。さすがシロヒメなんだし」
「い、いや」
それにはどうコメントすればいいのだ。
「とにかく」
再びいじめられないよう、赤ちゃんユイフォンを抱き上げる。
「ユイフォンはユイフォンなんですから。疑ったりいじめたりするようなことはだめでず」
すると、
「ふにっ」
つままれた。
「ふはっ、は、はひほ」
引っ張られた。
「ひはぁー」
ユイフォンだ。
相変わらずのぼうっとした顔で。
ふにふにとアリスのやわらかなほっぺをつまんでくる。
「は、はめへふほ、ほういう悪いほほをひたら」
「悪くないんだし」
言う。白姫が。
「ユイフォンは何も悪くないし」
「ひろひめ……」
複雑ではあるが、友だちだということを思い出してくれたのならそれはそれで。
「アリスが悪いんだし。しまりのない顔してるから」
「ふへぇぇぇ~?」
相変わらずなんてことを。
「ぷりゅーか、アリスはいじめてもいいってわかってんだし」
「ふぁはっへはいへふ!」
頬を引っ張られながらも抗議する。
「ぷはっ」
なんとかユイフォンを顔の近くから引きはがす。
「うー」
じたばた、じたばた。
「ユイフォン……」
もっとやらせろと。暴れる赤ん坊を前に口もとを引きつらせるしかない。
「ひどいアリスだしー」
「なんでですか」
「ぷりゅったく。赤ちゃんをかわいがろうという気持ちがないんだし」
「そんなことは」
「見るし」
うながされて視線を向けた先では、
「あ……」
二つの白い影。
赤ちゃんの白姫と小さな白姫。
うずくまり目を閉じている赤ちゃん白姫に、小さな白姫が鼻先をすり寄せつつ、
「ぷーりゅりゅ、ぷーりゅりゅりゅ、ぷーりゅーりゅーりゅ、ぷーりゅーりゅ♪」
歌っていた。
優しく。
その子守歌を聞き、赤ちゃん白姫は心地よさげに眠りについていた。
「優しいんだし」
「はい」
赤ちゃん白姫の脇では、同じく赤ちゃんの葉太郎が寝返りを打っていた。
「かわいいんだし」
「はい」
思わずうなずくも、赤ちゃんとは言え仕えるべき騎士に「かわいい」はいいのだろうかと自問自答してしまう。
「赤ちゃんには、このよーに優しく接しないとダメないんだし」
「は、はい」
自分としてはそうしているつもりなのだが。
「足りてないんだし」
「足りてない?」
「頭が」
「アホじゃないです」
すかさず言う。
「赤ちゃんはアホでは育てられないんだし」
「ううう……」
ひどい言われようだ。
「いえ、その、いまのところ育てるつもりはないんですが」
「じゃあ、ほっとくんだし?」
「そういうことでもなくて」
言う。
「自分たちは何のためにここにいるんですか」
「ぷりゅ!」
ぴんと。
「そーだし、ヨウタローだし!」
「そうですよ」
「ユイフォンなんかどーでもいいんだし」
「どうでもよくはないですけど」
それでいま困ってしまっているのだ。
「なんで」
再びその疑問に戻る。
「赤ちゃんなユイフォンがここに」
あっさり、
「わかんねーし」
「う……」
「ぷりゅーか、そんなことどーでもいいし」
「どうでもよくは」
「どーでもいいし!」
言い切る。
「最優先はヨウタローのことだし!」
「それは……そうなんですけど」
「『そうなんですけど』なんだし」
こちらも弱り顔になり、
「どーすんだし、そのユイフォン」
「本当にどうでもいいというわけにはいきませんよ」
「いかないんだし」
そこへ、
「ばぶうー」
じたばた、じたばた。
「ああ、ごめんなさい、ユイフォン」
なんとかあやそうとするも、
「うー。ばぶうー」
じたばた、じたばた。
「な、何をしてほしいんですか」
早くも弱ってしまう。
「白姫、何かわかりませんか」
「わかんねーし」
「うう……」
「大体、ユイフォン、普段でもなに考えてんだかわかんねーし」
「そういうところは確かにありますけど」
加えて、いまは赤ちゃんだ。
「ユイフォン」
困って。じたばたしている赤ちゃんと目を合わせる。
「自分はユイフォンの友だちです」
「ばぶう?」
「してほしいことがあったら言ってください。遠慮しないで」
すかさず、
「アホだしー」
「アホじゃないです」
赤面しつつ、言う。
「やっぱり、自分の気持ちをきちんと伝えることが大切ですよ。そうすれば、赤ちゃんだってきっと」
そのとき、
「……ふ……」
「えっ?」
「なんか言ったし」
アリスと白姫が同時に顔を寄せる中、
「……ふー」
「ふ?」
「いつもとあんま変わんねーし。『う』と同じだし」
「白姫、すこし静かに」
そして、
「し……ふ……」
「!」
「しーふー」
あわてて、
「聞きましたか、白姫!」
興奮のままに、
「『シーフー』って言いましたよ! 師父って! それってユイフォンの」
そこではっとなる。
思い出す。
そうだ。
この『葉太郎の中』に来る前の出来事――
(始まりは)
赤ちゃんだった。
白姫が赤ちゃんになってかわいがられたいと言い出し、そして桐風の術で赤ちゃんになってしまい、その前の実験段階としてユイフォンまで――
「赤ちゃん……」
そうなった彼女は望んだ。
師父――父同然に自分を育ててくれた人に会いたいと。
「まさか」
そう口にしたが、それがこれまでのこととどうつながってくるのかまだわからない。
すると、
「しーふー!」
「っ」
いた。
「は……」
ふるえが。
「はわわわわわわ」
なぜ。
最強の――〝伝説の騎士〟が相手をしていたはずなのに。
「アリス!」
はっと。
「逃げるし!」
そうだ。いまは考えている余裕はない。しかも、こちらには非戦闘員が大勢――
「……っっ」
非戦闘員どころの話ではない。
赤ん坊が白姫に葉太郎に、いま抱えているユイフォンまで。
「うーっ」
「ああっ!」
跳んだ。
「なっ……!」
くるくるくる。
赤ん坊とは思えない見事な空中回転を決めて着地する。
「あ……なっ」
あわてて止めようとする間もなく、
「しーふー!」
駆けていく。はいはいで。
まさに『駆けていく』としか言いようのないスピードで。
「ユイフォーーーーン!」
謎の覆面の人物の手に――
白刃がひらめく。
「っ……!」
間に合わない。
思わず目を閉じそうになったそのとき、
「うー!」
歓声。
「………………」
おそるおそる。目を開けると、
「ユイフォン……」
うれしそうに。
飛びついていた。
刀を持った覆面の人物の脚に。
「うー❤ しーふー❤」
声をなくす。
「これは」
一体どういうことなのだ。
「アリス!」
せかすように。再び名前を呼ばれる。
「あっ、で、でも」
ユイフォンがまだ覆面の人物のところに。
「いいんだし!」
「そんな」
友だちを、まして赤ちゃんを見捨てるようなことは。
「よく見るし!」
「っ」
見た。
覆面の人物が――脚にまとわりつくユイフォンに、
「っ」
手を伸ばした。
何を、と身をこわばらせたが、その手つきは優しいものだった。
「あ……」
思わず、
「あなたは」
「アリス!」
いななきがこだまする。
しかし、前へ踏み出す足は止まらず、
「あなたは……その」
言った。
「ユイフォンの――師父なんですか!」
「………………」
答えは、
「っ!」
突然に、
「ユイフォン!」
とっさに横っ飛びに跳んでいた。
「う!」
かすかなうめき声。そのぬくもりを胸の内に確かめて、涙が出そうなほどに安堵の気持ちが広がる。
「な……」
叫んでいた。
「なんてことをするんですか!」
覆面――ためらうことなくまとわりつく赤ちゃんを蹴り放ったその人物は、
「っっ……!」
感じさせない。
ない。
怒りも、憎しみも、こちらに向ける何もかもが。
「そんな」
あった。
そう感じた。
すくなくとも、足もとのユイフォンにふれようとしたその手には。
優しさが。
慈しみの気持ちが。
「なんでですか」
言う。
当然のように何も返っては来ず。
「アリス!」
悲痛のいななき。
「っ」
はらはらと。
舞った。
真横に断たれた前髪が。
「は……わ……」
崩れ落ちかける。
耐えた。
自分の腕の中にはユイフォンがいる。
「アリスっ!」
せかすように。
見れば、白姫は赤ちゃんの葉太郎をくわえ、その脇に小さな白姫と赤ちゃん白姫もつき従っている。
「っ……」
このままグズグズしていたら彼女たちまで危険に。
「ど」
最後に、
「どうしてなんですかーーーーっ!」
絶叫しながら。
転げるように立ち上がり、その勢いのまま走り出した。
ⅩⅣ
「なんで」
追ってくる気配がないところまで走った後も、
「なんで……なんですか」
「いつまで言ってるし」
ぷりゅ。いら立たしそうに、
「シロヒメもよそーがいだったんだし」
つぶやき、
「アレは悪者なんだし。変な期待とかしてんじゃねーし」
「いや、期待したのは」
と、反論も口中に留まり、
「なんで葉太郎様の中に悪者が」
「……悪夢」
「えっ」
白姫もいまそれに気づいたという顔で、
「悪夢ってやつじゃねーんだし?」
「あ……」
悪夢。
「だけど」
草むらでたわむれる赤ちゃんたち――その中にいるユイフォンを見て、
「優しくしてくれたと思ったんですよ」
「蹴っ飛ばしたのにだし?」
「蹴っ飛ばしたわけでは」
事実、それに近かっただろう。赤ちゃんがしがみついている状態で、勢いよく脚をふったのだから。
「なんで」
同じ言葉がくり返される。
「なんでとか考えてても意味ねーんだし」
「そんな」
「何をするかなんだし」
「何を」
その言葉は、すっと深いところに落ちた。
「そうですよね」
「そうなんだし」
「行きましょう」
「ぷりゅ?」
首をひねられる。
「なんだし?」
「行くんです」
言う。
「葉太郎様のおうちに」
「ぷっりゅー!?」
信じられないといういななきが響き、
「なに言ってんだし! あそこには」
「わからないじゃないですか」
言う。
「だって、自分たちのところにまた現れたんですよ、あの覆面の人は」
「ぷりゅぅぅ……」
そう言われると言い返せない。
「それに、もともと会いに行くって話だったじゃないですか」
「そ、それはそれだし」
「それはそれでも」
言う。
「あの場所はきっと葉太郎様の想いが一番集まっている場所です」
「それは……その通りだし」
「だったら」
行くしかないだろう。すべてを解決するためには。
「行きましょう」
あらためて。言う。
「シロヒメだって」
視線を落としながら、
「行かなくちゃって思わないわけじゃないんだし」
「だったら」
「ヨウタローはどうすんだし!」
彼女の言っている『葉太郎』は――
「それは」
はっきりとした答えが出せない。
「赤ちゃんでもヨウタローなんだし。危ない目には合わせられないし」
「……ですよね」
と、はっとなり、表情を引き締め、
「自分だけで行きます! さっき白姫に言われた通り。葉太郎様たちのことはここで白姫が」
「ここが安全とは限らねーんだし!」
「っ」
その通りだ。
あの覆面の人物はどこまでも追ってくる。
「ここも」
いまさらながらにあたふたと辺りを見回す。
すると、
「うー! ばぶうー!」
はっと。
「ユ、ユイフォン」
じたばた、じたばた。
暴れていた。
「あ……」
わかった。
会いたいのだ。
「ばぶー! ばぶうー!」
「ユイフォン……」
それほどに師父と呼ばれる人を慕っていたのだ。
こんな赤ん坊のころから――
「!」
衝撃が走る。
「え……でも」
おかしい。
あり得ない。
あり得ないはずだ。
「だって」
聞いたことがある。
ユイフォンが師父と出会ったのは――
六歳のころ。
だから、赤ん坊の彼女が知っているはずはないのだ。
「ど、どういうことなんですか」
混乱する。その間にも、
「ばぶー! うー!」
暴れる。そこに、
「だーう」
「う?」
ぺたぺたと。手が当てられる。
「う!」
赤ちゃんユイフォンが目を見張る。
「あ……」
こちらも息をのむ。
葉太郎――ではない。
仮面。
それを思わせるような穴の開いた大きな葉を、赤ん坊の葉太郎は顔に当てていた。
「うー!」
興奮の声。
「うー! ばぶうー!」
はしゃぐ。葉っぱの仮面をつけた同じ赤ちゃんを前に。
「葉太郎様……」
うれしくなる。
やっぱり葉太郎は葉太郎だ。たとえ赤ちゃんでも自分の仕えるべき人のままだ。
騎士であり、ヒーローなのだ。
「ぷりゅぅっ」
不意に。ごきげんのユイフォンが突き飛ばされる。
「あっ」
赤ちゃん白姫だ。
「ぷりゅっ。ぷりゅっ」
「うー」
「だ、だからやめてください、いじめは」
あわてて止めに入る。
「ふふっ」
笑っていた。
(なんだか)
こわばりが消えていた。
気の向くままにたわむれる赤ちゃんたち。そこには心配も不安もない。
それは、
(みんながいるから……ですよね)
感じた。
「白姫」
心は決まった。
「行きましょう」
「ぷ……!」
目を見張り、
「何度も言わせんじゃねーし! まずはヨウタローたちの安全なんだし!」
「そのためにも」
言う。
「逃げちゃだめなんです」
「ぷりゅ!?」
「騎士なんですから」
確かな想いと共に。
「逃げたらだめなんです。自分の立ち向かっていくべきものから」
「……あ……」
またいつものアレを言われるかと思いきや、
「あきれたし」
あぜんと。それでもそこにわずかな感心をにじませて。
「そして、アホだし」
「や、やっぱり言うんですね」
がくっとなる。
「ぷりゅーか、ヨウタローたちはどうすんだし」
「一緒に行きます」
「ぷりゅぅ!?」
今度こそ本当に驚きのいななきで、
「なに言ってんだし! つれてけるわけねーし! 危ないし!」
「危なくてもです」
言う。
「力を合わせないといけないんです。みんなの」
「赤ちゃんに何ができるし!」
「ただの赤ちゃんじゃありません」
確信を持って、
「本来なら、赤ちゃんのユイフォンが師父さんのことを知っているはずがありません」
「それは……けどなんか気に入ったのかもしれないし。自分と同じように刀持ってるから」
「そもそも、葉太郎様の中に赤ちゃんのユイフォンの記憶はないはずなんです」
「それも……その通りだし」
そして、
「葉太郎様もです」
「ぷりゅ?」
「ほら」
見る。顔に葉っぱの仮面をつけた赤ん坊を。
「ナイトランサーです」
「ナイトランサーだし」
「ないはずなんです」
「ぷりゅぅ?」
「だから」
噛んで含めるように、
「赤ちゃんの葉太郎様にナイトランサーの記憶があるはずありませんよね」
「ぷりゅ!」
目が見張られる。
「ど、どういうことだし」
「きっと、赤ちゃんであって赤ちゃんじゃないんです」
「どういうことだし!」
「どういうことかはわかりませんけど」
「わかってねーのに思わせぶりに言うんじゃねーしっ!」
「きゃあっ」
いななきに悲鳴をあげるも、
「と、とにかく、みんながいないとだめな気がするんです」
「だめな『気』って何なんだし」
「その……カンと言いますか」
「なんで、アホなアリスのカンに賭けなきゃなんねーんだしーっ!」
「きゃあっ」
再びのいななきに今度は尻もちをつく。
「ア、アホじゃないです」
「………………」
「白姫?」
――言う。
「行くし」
「!」
「別にアリスのせつめーに納得したわけじゃないんだしっ」
ぷりゅふんっ、と。そっぽを向きつつ、
「けど、他にないんだし」
「……はい」
「みんなでいれば、いざというときでもなんとかなるかもしれないんだし」
「そうですよ!」
「いざというとき、アリスを囮にして逃げるということが」
「って、なんてことを言うんですか!」
声を張り上げて、
「ふふっ」
笑ってしまった。
そうだ。
(これなんですよね)
離れ離れや一人ぼっちになってしまってはだめだ。
ここで。
葉太郎の心の中で。
きっと大切になるのは、それぞれの心のつながり。
重なる想いなのだ。
「行きましょう」
言う。
小さな白姫も。
赤ちゃんの白姫も、葉太郎も、ユイフォンも。
こちらを見ていた。
そのみんなに向かって、
「取り戻しましょう! 自分たちの、みんなの大切な人を!」
「ぷりゅ足、ぷりゅ足、ぷりゅり足~」
「し、白姫」
かなり苦しい態勢で、
「こんなところから忍び足しなくても」
「なに言ってんだし」
ぷりゅ。鼻息強く、
「油断大敵なんだし。またいつ襲われるかわかんねーんだし」
「それはそうですけど」
遠くのログハウスを見やり、
「まだあんなに先ですよ」
「それが油断と言うんだし」
「う……」
そうなのだろうか。
「で、でも」
やはり言わずにはいられない。
「ここは草原ですよ」
「草原だし」
「こんな見晴らしのいい場所で忍び足って意味があるんでしょうか」
「それが油断だと言うんだし」
「ええぇ~?」
さすがに納得できない。
しかも、
「ぷりゅばぶー」
「ばぶうー」
「ちょっ……動いちゃだめですよ、白姫、ユイフォン」
「ぷりゅばぶっ」
「ほ、本当にだめですって! バランスが」
「だーう」
「ぷりゅばぶー?」
「あ……ありがとうございます、葉太郎様。白姫をなだめてくれて」
アリスはいま。
白姫、ユイフォン、葉太郎――赤ちゃんたちをすべてかつぎ上げていた。
腕力体力的にきついのは当然だが、加えて、いかに赤ちゃんとはいえスペースの限界というものがある。
ほとんど奇跡的なバランスなのだ。
そこへさらに、忍び足である。
「しーっ! 騒がせんじゃねーし、アリス!」
「だから、誰も聞いてませんよ、こんな草原の真ん中で」
はっとなる。
「誰も」
誰も――
「ぷ? どーしたんだし」
「……おかしいですよ」
「おかしいんだし。アリスはいつでもアホで」
「アホじゃないです!」
大声に体勢が崩れるも、なんとかそれをこらえ、
「そういうことじゃなくて……おかしいじゃないですか」
赤ちゃんたちを落とさないよう意識しつつ、
「いないんですよ」
「いない?」
「いないじゃないですか」
またも気持ちが上ずりそうになるのを抑え、
「いないんですよ。自分たち以外に誰も」
「いるんだし。ヨウタローのパパと、あとあの覆面の」
「他には?」
口にしながら、血の気が引く。
「いないんですよ……」
その気づきに我ながらふるえる思いで、
「なんで、島に他の人が誰もいないんですか!」
白姫の答えは、
「アホだしー」
「なんでですか!」
「いるんだし。きっと街のほうに」
「人間はそうかもしれませんけど!」
アリスは引かない。
「馬たちはどうなんですか!」
「ぷりゅ!」
白姫もはっとなり、
「そ、そーいえば」
ふんふんふん。風のにおいをかぐように鼻先を上に向ける。
「……いないんだし」
「やっぱり」
慄然と息をのむ。
「どうしてなんですか」
おかしい。
鳳莱島は葉太郎の所属する現世騎士団(ナイツ・オブ・ザ・ワールド)東アジア区館の拠点だ。
自然の残る広大な島には、多くの馬が放し飼いにされている。
これだけ長く草原を歩いていて馬に出会わないということはまず考えられない。
「これは葉太郎の夢だから」
「夢だとしても」
言葉を強める。
「葉太郎様の思い出の中に馬のみんながいないなんておかしいですよ」
「それはおかしいんだし」
ぷりゅ。うなずく。
「シロヒメはいたけど」
そうつぶやき、赤ちゃん白姫、そして付き従ってきた小さな白姫を見る。
「けど、他の馬のことだって、ヨウタローは大好きだったんだし。とってもかわいがってたんだし」
「ですよね」
一年ほどの島での生活だったが、そばにいてそれはよくわかった。
「おかしいんだし」
あらためて。言う。
「ひょっとして」
かすかに声をふるわせ、
「ここはヨウタローの心の中じゃないんだし?」
「ええっ!」
いまさらながらの指摘に悲鳴があがる。
「だって、葉太郎様がいるんですよ!?」
赤ちゃんの葉太郎はきょとんとしているばかりだ。
「誰かの心の中のヨウタローかもしれないし」
「心の中の? 誰のですか!」
「そんなのわかんねーんだし!」
ぷりゅ! ムキになったように白姫も言い返す。
「ううう……」
言葉をなくしてしまう。
「べそかいてんじゃねーし」
その指摘に、あたふたと頭をふって涙を散らす。
「だーう?」
「葉太郎様……」
ぺたぺたと。小さな手がふれるのに気づき、胸が熱くなる。
やっぱり――
この優しさを偽物とは思いたくない。
思えない。
「行くし」
「えっ」
「はっきりさせるし」
ぷりゅきっ、と。視線の先にあるログハウスを見つめ、
「あそこにすべての手がかりがあるんだし」
「そうなんですか?」
「そう言ったのはアリスだし」
「そ、そこまでは言ってませんけど」
確かにここに来ようと言い出したのは自分だ。
「ぷりゅーーーーっ!」
「ええっ!?」
突然に。
「なんでですかーっ!」
叫んでしまう。
走り出していた。いままでの忍び足がなんだったのかという勢いで。
「お、落ち着いてください! 白姫――っ!」
自分で自分の推測に居ても立ってもいられなくなったのだろう。
アリスもあわてて後を、
「……う」
追えない。
こんなにも赤ちゃんを抱えている状態では。
「ぷりゅっ」
その代わりというわけではないだろうが、小さな白姫が駆け出した。
「お、お願いしますっ」
思わずそう声をかけてしまう。
しかし、すぐに、
「ぷりゅーっ」
泣きいななきで。
「ええっ」
帰ってきた小さな白姫に目を見張る。
「ぷりゅっ」
「きゃっ」
胸に飛びこんできた小さな白姫を、赤ん坊たちを落とさないようにしながらなんとか受け止める。
「ぷりゅりゅりゅりゅ……」
「し、白姫」
ふるえていた。身体を小刻みにふるわせて。
「一体何が」
そう口にして、すぐに思い至る。
「まさか」
あの覆面の人物だ。
先回りという言い方が正確かはわからないが、とにかくログハウスで待ち構えていたのだ。
「あっ!」
あそこにはまだ――三歳の白姫が!
「し……!」
ダッシュできない。
どうしよう。
このまま何もしないわけにはいかないが、赤ちゃんたちを放っておくこともできない。
「白姫ーっ! 返事をしてくださーい! 白姫ぇーーーっ!」
せめて無事を確かめたいと声を張り上げる。
「!」
人影――
「な……」
ログハウスから現れたその人物は、
「依子さん!」
スッ。
「きゃあっ」
距離はあるのに、静かな眼差しを向けられた瞬間、悲鳴をあげていた。
(これも夢の……)
そうは思えないほどの凄味だ。
「あっ!」
その依子の脇に、
「ぷりゅりゅりゅりゅりゅりゅ……」
「白姫」
かしこまってふるえている白い姿。小さな白姫と同じ、いやそれ以上のおびえぶりが遠目にもはっきりわかった。
「え、えーと」
どうすればいいのだ。迷っている間に、
「!」
近づいてきていた。白姫をつれて。
「……ひっ」
静かに見つめられ。のどの奥で小さな悲鳴があがる。
「あ、ああ、あの」
「どなたです」
「えっ」
あぜんとなった。
「どなたって」
まさか。その言葉が飛び出しかける。
しかしすぐに、
「夢……なんですよね」
すかさず白姫が、
「夢でもヨリコは怖いんだし」
「あなたが何も言わずに家に飛びこんできたのですが」
「ぷっりゅーーー!」
つぶやきを聞きとめられ、恐怖のいななきと共に飛び上がる。
「あ、あの」
わからない。けどいま確かめるべきことは、
「味方……なんですか」
「はい?」
「!」
わかった。
凍てつくような眼差し。
怒り――
それはつまりこちらが口にした内容が不本意だったということ。
ということは、
(味方……)
再び確かめることが怖くて、心の中でつぶやくにとどめる。
心の中の世界で『心の中』というのもおかしな話だが。
「何がおかしいのですか」
「きゃあっ」
安堵からか笑みがこぼれていたらしい。
「ア、アリスです……」
白姫がふるえながら、
「アリスがやれって言いました……全部アリスが悪いです……」
「なんでですか!」
すべての責任を押しつけられそうになり、あらたな悲鳴があがる。
「そうなのですか」
「!」
視線に射貫かれ、あわてて何か言おうとするも、
「言いわけは不要」
「っっ!」
その手に握られる――乗馬用の鞭。
「そそ、そんな、自分は言いわけなんてことは……あの、本当に自分は……ど、どうしてそうやって近づいて……きゃーーーーーーっ!」
「ううう……」
見慣れた家――
と思いきや、調度が微妙に異なるテラスの椅子にそろそろと座り、アリスは痛むお尻を押さえていた。
その脇では、白姫と小さな白姫が姉妹のように仲良く並んで飼葉を食べている。
そして、
(うわ……)
思わず感心の目で見てしまう。
赤ん坊の葉太郎に哺乳瓶のミルクを飲ませている依子。
冷たい表情は変わらない。
しかし、その手つきはあくまで優しく、眼差しには慈愛がにじんでいるように思えた。
「何か?」
「あ……いえっ」
あたふたと目を伏せる。
これより先、すでにユイフォンと赤ちゃん白姫にもミルクが与えられていた。いまと同じように優しさを伴って。
(でも)
葉太郎を相手にしているときのほうが、より強くその気持ちを感じ取れる気がする。
なら、なぜ順番が最後なのかというと、
『当然のことです。騎士としてレディを優先させるのは』
(赤ちゃんのころからなんですね……)
それでこそ〝騎士道体質〟と呼ばれるようにもなるのだろう。
(あ……いやいや)
これもおかしい。
確か、依子が葉太郎の面倒を見始めたのは六歳ごろからだったと聞いている。
(どうなってるんでしょう……)
混乱してくる。そんな中、
「ぷりゅー❤」
満足そうないななき。
「はー、おなかいっぱいだしー」
「よ、よかったですね」
「『よかった』じゃねーし」
ぷりゅ。にらまれる。
「とんでもないアリスだし」
「えっ、なんでですか」
「なに、しらばっくれてるし!」
ぷりゅ! 荒い鼻息で、
「シロヒメたちを餓死させよーとしたんだし! とんでもないんだし!」
「なんてことを言うんですか!」
あわてて、
「だって、そんな、夢の中なんですよ?」
「夢の中なんだし」
ぷりゅ。うなずき、
「けど、夢の中でごはん食べちゃいけねーって決まりはないんだし」
「それはそうですけど……」
「よくあるんだし。『もう食べられない』って」
「ああ、寝言でそういう」
すると、
「……う」
ぐぅぅぅ~……。
「ほら、アリスだっておなかすいてんだし」
「い、いえ、白姫がそんな話をするから」
「食いしん坊なんだし。いやしいんだし」
「いやしくないです」
そこに、
「あっ!」
目が輝く。
「こ、これ」
テーブルの上に置かれたのは、様々な具が彩り鮮やかにはさまれたサンドイッチの盛られた大皿。
「……いいんですか?」
「誰も、アリスのために出したなんて言ってねんだし。いやしいしー」
「いやしくないです!」
ぐぅぅぅ~……。
「ああ……」
空腹にへたりこみそうになる。一度覚えたそれは、外からの痛みや苦しみとは違い、どうにも抵抗ができないものだった。
「あの」
すがるような目で見てしまう。
冷たい眼差しが返され、
「どうぞ」
「!」
一瞬で口の中につばがわくのを感じつつ、それでも万が一と、
「ほ、本当にいいんですか」
「はい?」
「!」
凍りつく。
「わたくしが偽りを口にしていると」
「ととっ、とんでもないです! いただきまーーーーす!」
食べ出すともう止まらなかった。
「はぐはぐっ! はぐはぐはぐはぐっ!」
「い、いやしいんだしー」
白姫の声も届かない。
そして、あっという間に、
「はあー」
先ほどの白姫に負けない至福の顔でおなかをさする。夢の中でも、依子の作る料理は現実と変わることなくおいしかった。
「ハッ」
彼女と向き合っていることを思い出し、あわてて背筋を正す。
「ごっ、ごちそうさまでした!」
依子は、
「……あ」
すやすやと。
タオルの敷き詰められたかごで眠る葉太郎の頬をそっとなでていた。
心からの慈しみをこめて。
(依子さん)
やはりこの世界でも、彼女の葉太郎への愛情は変わらないのだ。
そして、怖さも。
「……あっ」
不意に依子が席を立つ。
「お茶を淹れてきます」
「え……」
きょとんとなるも、それが自分のためのものだとわかり、
「あっ、ありがとうございます」
あわててお礼を言う。
「ふー」
緊張から解放され、胸をなでおろす。
(……でも)
初めてかもしれない。
この世界に迷いこんで。
こうして、安心して心と身体を休められるのは。
簡易のベッドでおだやかに眠る葉太郎、そして赤ちゃんのユイフォン。
かたわらでは、満腹のため眠りについた白姫と小さな白姫に守られるように包まれ、赤ちゃん白姫も安らかな寝息を立てている。
(ここは)
夢の中。
自分たちにとっては理想的な。
葉太郎を中心とした世界。
(葉太郎様……)
かごの中の彼を見る。
「ふふっ」
自然と微笑んでしまう。
愛らしい。
現実でも十六歳らしくない童顔なのだが、それが赤ん坊になるとますます周りをなごませてくれるかわいらしさだ。
「どうぞ」
「きゃっ」
静かに。目の前に紅茶を差し出される。
「あ……い、いただきます」
おずおずと言い、カップに口をつける。
(あ)
おいしい。
空腹のときと違い、いまは落ち着いてその香りと味を堪能できた。
(おいしい……)
舌に慣れた依子の味。
それは、サンドイッチと同じで、この夢の中でも変わらなかった。
「ふぅ」
心がやわらぎ、そのまま眠りに落ちそうになる。
「アリスさん」
「!」
「で、よろしかったでしょうか」
「あ……」
思い出す。
そうだ。
この依子は――自分の知る依子ではない。
「は、はい。アリス・クリーヴランドです」
立ち上がり、ぺこりと一礼する。
まだ自分と出会う前の依子。
そして、赤ん坊の葉太郎のことも知らないはず。
(……なのに)
彼のことを騎士として扱った。
(境界が)
入り混じっている。
夢だからで納得していいのか。やはりそのことは一抹の不安となってくすぶり続ける。
「では、あらためて」
静かに。しかし、ごまかしは許さないという目で、
「詳しいお話を聞かせていただけますか」
「は、はい」
夢の中の相手に、ここが夢であると語るのもおかしな話なのだが。
「……わかりました」
自分でもつたないと思う説明の後。
依子が静かにうなずく。
「ここは葉太郎さんの心の中であると」
「はい……」
「そして、わたくしは思い出の中の――過去のわたくし」
「そう……なるかと」
自信はない。齟齬のことが気にかかるため。
「………………」
短い沈黙の後、
「葉太郎さん」
ぴくっ。かごの中の小さな影が跳ね、うっすら目を開く。
「だーう?」
小首をかしげる。
かすかな〝感情〟がにじむも、それを押しこめた冷徹な口調で、
「あなたは」
「だう……」
不安そうな瞳。
またもかすかな感情のゆれが伝わるも、
「すでに正式な騎士となった身」
「だう……」
「あ、あの」
それは現実の世界の話であって、夢の中では赤ちゃんで。
「何か?」
「! い、いえ」
ひとにらみで沈黙させられる。
葉太郎に視線が戻り、
「騎士たる者として、従騎士にこのような危険を強いることは許されません」
「強いられたわけでは……」
訂正の言葉も弱々しい。
「葉太郎さん」
「だ……う」
赤ん坊にも伝わるものがあったのだろう。
その目に涙がにじむ。
「………………」
かすかに息をのむ気配。しかし、すぐに、
「葉太郎さん」
再び厳しい気が放たれる。
「……さ……」
「!」
目を見張るアリス。
「な……さ……」
葉太郎が!? 赤ん坊の彼がふるえながら口を開き、
「ごめ……な……さ……」
「しゃべりましたよ!」
瞬間、
「きゃあっ」
ひとにらみで悲鳴まじりに我に返る。
「で、でも、いま本当に」
「夢の中」
一言。それで説明は終わりと、
「いつまでそのような殻の中にいるのです」
再び葉太郎を見すえる。
「あ……うう……」
そこに、
「だめだよ、依子」
「!」
ふり返る。
「葉太郎様のお父様!」
そこにあったのは、相変わらずの明るい笑顔。
「あ……」
思い出す。
「あの、その、大丈夫で」
葉太郎の父は、アリスたち、そして何より赤ん坊の葉太郎を逃がすために一人であの謎の覆面剣士に立ち向かった。
しかし、覆面は自分たちの前に現れた――
よく考えれば、葉太郎の父に何かあってもおかしくなかったのだ。
いくら彼が〝伝説の騎士〟と呼ばれる人物であっても。
(これは夢……)
そうわかっていても。
「殻」
「えっ」
不意のつぶやきにそちらを見る。
殻――
葉太郎に対しても、依子はそのようなことを言っていた。
「あなたも葉太郎さんにとっての殻です」
「そうかもしれない」
あっさりと。言葉を認める。
「だから?」
はっきりと。
静かな怒りに空気がふるえるのがわかった。
「葉太郎さんは」
つかむ。
「!」
がく然とした。
「え……あ……」
なぜ? その言葉すら出なかった。
「わたくしが」
言う。
手にした――
日本刀を葉太郎の父に向けつつ。
「殻を破る」
え? え? 何を言っているのかわからない。
そして、自分の知る彼女は――
刀など手にしたことはない!
「ま……」
まさか。
まさか、まさか!
「ああっ!」
最悪の形で。
それは目の前に現れた。
「はわわわわわわ」
ぺたんと。
自分がへたりこんだことすら意識できないほどの衝撃だった。
「アリスちゃん」
「!」
「だったかな」
「あ……」
混在している。
父は。
赤ん坊の葉太郎を世話しているころの彼はこちらのことを知らない。
名乗った記憶もない。
混在している。
そして、その証が目の前にまざまざと。
「依子……さん」
違った。
〝彼女〟ですらなかった。
「ひ……」
悲鳴がのどの奥に張りつく。
信じられない。
自分たちにおいしい食事を用意してくれた人が。
あんなに愛おしそうに葉太郎たちの面倒を見てくれていた人が。
「斬る」
言った。
「僕を?」
答えたのは、葉太郎の父だ。
そこへさらなる言葉を発することなく、
「!」
斬りかかった。
ⅩⅤ
「ぷりゅ!」
事態急変の空気に、さすがに白姫たちも目覚めていた。
「何なんだし、これ! どうなってんだし!」
「………………」
答えられない。衝撃が抜けない。
「ぷりゅーっ」
パカーーーン!
「きゃあっ」
顔面への後ろ蹴りで強制的に我に返らされる。
「な、なんてことをするんですか」
「いーから何があったか説明すんだし!」
「ハッ!」
その通りだ。呆けている場合ではない。
「あの、その、信じられないんですが」
自分が見たそのままを語る。
「信じられないし!」
やはり言われる。
「でも、本当なんですよ」
「なんで、あやしいのがヨリコで、シロヒメたちにごはん作るんだし!」
「わ、わかりませんよ」
本当にわからない。
いまも目の前の光景が信じられないのだ。
葉太郎の父と向かい合う――覆面の剣士。
その正体が依子だったなんて。
(えっ、依子さんが正体? 覆面の人のほうが正体で)
もうわからない。何もかもがわからない。
「とにかく、ヨウタローを」
あたふたと。
「ぷりゅ!」
突きつけられた。
「や、やめてください、白姫に!」
「そうだよ」
葉太郎の父が前に出る。
すかさず刀が返され、
「!」
キィィィィィィィィィィィン!
〝聖槍〟が刃を受け止める。澄んだ金属音が辺りに響き渡る。
「騎士が馬に武器を向けるなんて決してあってはならない」
「騎士……」
つぶやく。
「俺は……俺はぁぁっ!」
裂帛の呼気。
「俺は修羅だ」
ぞっと。
その執念、いや妄念のようなものが伝わり、アリスの背筋がふるえる。
(誰なんですか……)
いくら夢の中とは言え。
その存在はあまりにも異質だ。
そして、あらためて確信を持つ。彼――いやそれすら判然としないこの人物が葉太郎の異常の原因なのだと。
(お父様……)
祈るような気持ちで葉太郎の父を見る。
とても自分たちが相手をできるとは思えない。ならば、頼みの綱は最強の騎士――〝伝説の騎士〟だけ。
(負けませんよね……だって)
これは夢の中。
現実とは違うのだと言っても、やはり葉太郎の心の中で父は〝最強〟のはずなのだ。
「フッ!」
覆面の人物から放たれる短い気合。
刀が引かれ、身体をひねりながらのあらたな斬撃がくり出される。
「きゃっ」
思わず手で目を覆ってしまう。
しかし、葉太郎の父は平静な顔で刀をいなし続けていた。
「はわわわわわわ」
大丈夫……大丈夫のはずで。
「って『はわはわ』言ってる場合じゃないんだし!」
「!」
そうだ。いま剣劇がくり広げられているその狭間に――
葉太郎がいる!
「っ……」
とても飛びこんではいけない。
それでもこのまま放っておくのは危険すぎる。
「ぷりゅっ」
白い影が跳んだ。
「白姫!」
かたわらの白姫でも小さな白姫でもない。
赤ちゃん白姫だ。
「だうーっ」
かごに飛びこんできたその鼻先に葉太郎が手を伸ばす。
おぼれかけた者が浮き板にすがるように。
しかし、
「ぷりゅりゅりゅりゅ……」
「だうぅ……」
共に動けなくなる。
刃と槍身が頭上でぶつかり合う中、寄り添ってふるえるばかりだ。
「さ、最悪のじょーきょーだし」
白姫の声もふるえる。
「ど、どうしましょう……」
「どーにかするんだし」
「どうにかって」
「身体張って飛びこんで葉太郎たちを助けるんだし!」
「そんな」
白姫が声を強める。
「これは夢だし!」
はっと。
「だから、ちょっとくらい何かあっても平気なんだし!」
「で、ですよね!」
自分でも自分をふるい立たせるが、
「……本当に平気ですか」
「なに、おじけついてんだし!」
「だって、その『ちょっとくらい』のレベルじゃ」
「シロヒメが行くし!」
「!」
「当たり前だし!」
涙が光る。
「ヨウタローはご主人様だし! シロヒメが助けないでどーするし!」
「っ……」
「そもそも、シロヒメたちはヨウタローを助けるために来たんだし!」
「……その通りです」
あらためて覚悟が決まる。
「白姫だけを行かせません! 自分も」
そこに、
「あわてないで」
ささやかれる。
決して大きな声ではないのに。激しい斬撃を受け続けている最中だというのに。
「守るから」
言う。
「僕が」
はっきりと。
「葉太郎を」
直後、
「それが殻だと言うのだ!」
一際激しい斬りこみ。
「ああっ!」
驚愕する。
かすかににぶい金属音。
飛び散る光片。
「そんな……」
砕かれた! 〝聖槍〟が!?
あり得ない!
〝騎士団〟最強の槍が!
「夢の中だし」
「!」
くり返される。
(そうですよ……夢の中です)
ということは、
(きっと……)
想いの強いものが。
すべてを。
「!」
刃先が葉太郎の父の頬をかすめた。
「お父様!」
自分は。
自分には――その想いが。
「消させない」
言葉が放たれる。
父の口から。
「僕の葉太郎は」
「だめだ!」
ほとばしる。
「私は……俺は……」
そのとき、
「師父!」
はっと。
「ユイフォン!」
葉太郎と同じようにしつらえられたかごのベッドから。
小さな手が外に向かって伸ばされる。
「っ」
刀が止まる。
その隙を見逃すことなく、
「師父! 師父!」
懸命な呼びかけ。
その必死さに打たれてか、くり出されようとしていた槍も止まる。
両者共に――動きを止める。
「アリス!」
「っ」
白姫のいななきを受け、
「葉太郎様!」
飛びこむ。
瞬間、また戦いが始まるのではという恐怖はあったが、幸いに二人は動きを止めたままで、アリスはなんとか赤ちゃんの葉太郎と白姫、そしてユイフォンを抱え上げる。
「師父! 師父!」
じたばたと。
腕の中で暴れる。
「ユイフォン!」
思わず声が強くなる。
「あなたは……赤ちゃんじゃないんですよ!」
ぴくっと。
「そうなんです……」
勢いで口にしたこと。
しかし、アリスはそこに確信を抱く。
混在した様々な記憶。
ただそれでも、一つのことだけは確かなはず。
ここは葉太郎の心の中。
記憶が混ざり合うことで、現実との齟齬を生むことはある。しかし、本来ない記憶に関しては、どのようなことがあっても顕在化するはずがない。
「赤ちゃんのあなたは師父さんを知らないはず」
「………………」
「葉太郎様は赤ちゃんのころのあなた自体を知らない」
それがここにいるのは――
「あなたも……来てしまったんですね」
こくり。
小さくうなずく。
「じゃあ、やっぱり」
見つめる。
目が合う。覆面の奥のそれと。
はっとすぐそらされるが、そこに確かに感じ取った。
愛情――
ユイフォンへの。
「やっぱり、あなたが」
「違うよ」
それを否定したのは、
「お、お父様?」
どうして。そう言うより早く、
「違わない!」
張り裂けそうな声。
「俺は……俺は……」
「無理だよ」
さらりと。
「優しいもの」
「っ……」
「優しい人だったはずだもの」
「……違う。俺は」
「隠せない」
ちらり。ユイフォンを見て。
視線を戻し、
「だから」
ブゥン!
「!」
振られた。長大な騎士槍が軽々と。
「これはもういらない」
「あ……」
宙に舞う布。
それが覆面と気づいた瞬間、とっさにその下の顔を、
「ああっ!」
驚愕。
「そんな……」
見知った顔。そんな言葉すら意味をなくす――
「葉太郎様!」
ⅩⅥ
わかった。
わかっていた。
だから葉太郎の父は、覆面の人物を排除するようなことができなかった。
息子だから。
葉太郎の心の中で父が息子に示す愛は――
絶対だから。
「父……さん……」
口にする。それが自然だと思わせる声で。
が、すぐに表情を険しくし、
「消えろ!」
「消えない」
「っっ……」
言葉につまる。
「消えないよ」
どこまでも。おだやかさをたたえた目で、
「僕は、キミの僕への愛そのものだから」
「うるさい!」
振るう。しかし、その刀にこれまでの覇気はない。
「俺は……俺はぁぁっ!」
「師父!」
止まる。
「くっ」
手のひらで顔を覆う。あくまで正体を隠そうと。
「師父……」
「あの」
言いたくなるところをぐっとこらえる。
師父ではない。
あれは――葉太郎だ。
きっと……。
ユイフォンの望みをかなえようとした。
彼女の望む『師父』になろうとした。
それが、
「違う」
言う。
「俺は……違う……」
悔しさをにじませ、
「おまえの望んでいた人間とは」
「爸爸!」
言った。
「ユイフォンは!」
言う。
「うれしい!」
叫ぶ。
「爸爸がいるからうれしい! 媽媽がいるからうれしい! アリスに白姫、みんながいるからうれしい!」
その姿が、
「あ……」
自然と。
「はわわっ」
取り落としそうなところを、あわてて下におろす。
そこに、
「ユイフォン……」
いた。
アリスと同じ年齢の。
赤ん坊の姿のときと同じく茫洋とした顔立ちの少女が。
「爸爸」
前に出る。
「くっ」
顔をそらす。自分を恥じるかのように。
「違う……」
「違わない」
言う。
「爸爸だから」
「俺は!」
「言わない」
そっと。ヒーローとして顔を隠し続けている葉太郎に寄り添う。
「『俺』なんて爸爸は言わない」
「だが」
「師父は」
はっと。
「師父はいない」
言った。
信じられないというように息をのむところへ、
「いないけど、いる」
「っ……!」
顔を隠しながらユイフォンのほうを見る。
「それは」
その後の言葉が出ない。
やがて、
「………………」
納得したような息。
わかったのだ。
いないけど、いる。
ここと同じ。
葉太郎の夢の中と。
心の中と。
ユイフォンにもそれはある。
ここに父や、依子や、赤ちゃんの白姫がいるように。
彼女にもまた――
(葉太郎様……)
わかった。
騎士道体質。
レディの望みをかなえることをその至上の義務とする。
それは――己自身より優先される。
文字通り。
葉太郎は自分を〝殺そうと〟していたのだ。
「いいんだよ」
そこに。父が、
「キミはキミのままで」
言う。
「そのままのキミで」
「し、しかし」
まだ迷いが消えないのか声がふるえる。
「いいんだよ」
さらに、
「いいんだし」
白姫が前に出る。
「そのままが好きなんだしっ」
「………………」
沈黙。
「私は」
ゆっくりと。顔を覆っていた手を下ろす。
「あっ」
そこに――
白い仮面があった。
「いいのだろうか」
「だーめ」
すかさず、
「よくないよ」
「う……」
「まだでしょ」
「まだ?」
子どもらしい問いかけが出るも、はっと口もとが引き締まり、
「レディ」
ユイフォンと向き合う。
「うー❤」
限りない慈しみをこめて。その頭をなでる。
「爸爸」
言う。
「爸爸は爸爸」
「……フッ」
微笑。
それだけで。
二人の間には確かなものがつながりあっていた。
(そうですよね……)
いまの幸せは、いまここにある。
「これで」
父を見る。
「いいのだな」
「いいんだよ」
うなずく。
そうだ。彼にとって〝爸爸〟――父のイメージは、間違いなくいま目の前に立つ実父にあるのだ。
「仮面は自分を隠すものじゃない」
「っ」
「偽るものじゃない。だよね」
「……その通りだ」
口にする。直後、
「ハァッ!」
刀に代わっていつの間にか手にされていた騎士槍が空を薙ぐ。
「!」
そこに、
「あ……」
聞こえる。
「みんなだし!」
いななく。駆け出していく。
「ぷりゅーっ」
よろこびの鳴き声。
そこに、栗毛、青鹿毛、様々な毛並の馬たちが集っていく。
「そうですよ……」
これなのだ。
命にあふれる世界。
愛にあふれる世界。
それが葉太郎の心の中の世界でなくて何なのかと。
「無限」
父が言う。
「仮面はそこに無限を現す」
「無限を」
そっと。己の白い仮面にふれる。
「だからね」
微笑む。
「会いたいときにはいつでも会えるよ」
「っ……」
「ねっ」
ユイフォンにも。
「う!」
元気の良いうなずきが返る。
「………………」
仮面にふれた手がふるえる。
「お行き」
はっと。
いつの間にか赤ちゃんの葉太郎を抱えていた父は、
「みんなのところへ」
限りなく優しい笑顔で。
「………………」
うなずく。
確かな意志をこめ。
そして、こちらを見る。
「レディ」
「は、はいっ」
思わず気をつけをする。
と、手が取られる。
「えっ」
ま――まさか。
「!」
キス――
「はわわわわわわ」
熱い。頭が真っ白になる。
「ありがとう」
ささやかれる。
「行こう」
「はは、はいっ!」
またも気をつけしそうになる手を取られ。
つながれて。
「行こう」
二人は――
光に向かって歩き出した。
ⅩⅦ
「ぷりゅーっ」
パカーーーン!
「きゃあっ」
蹴り飛ばされた。
「ちょーしに乗ってんじゃねーし」
「え……ええ?」
涙目でヒヅメ痕のついた顔を押さえる。
痛い。
現実の痛み。
「戻って……きたんですね」
「戻ってきたんだし」
ぷりゅ。うなずいて、
「ぷりゅ~ん❤」
器用にその場でくるりと回ってみせる。
「よーやくシロヒメの身体に戻ってこれたんだし。アホなアリスの頭の中から」
「アホじゃないです」
しかし、こちらとしてもほっとした気持ちのほうが大きかった。
「戻ってきたんですね」
噛みしめるように。再び言う。
と、思い出す。
「あ、あの」
おそるおそるというように、
「赤ちゃんの白姫は」
「っ」
浮かれていた白姫の動きが止まる。
「………………」
「白姫……」
不安な気持ちで呼びかける。
「……いないんだし」
「!」
「赤ちゃん白姫は」
そう言いかけ、軽く頭をふる。
「もう、赤ちゃんじゃなくなりかけてたけど」
「はい……」
と、気がつく。
「赤ちゃんじゃなくなりかけてた……」
つぶやいて、そして、
「葉太郎様の中です!」
「ぷりゅ?」
「だから!」
もどかしそうに、
「いたじゃないですか! 赤ちゃんの白姫よりちょっと大きな白姫が!」
「あっ、いたんだし!」
「あの子が赤ちゃん白姫だったんですよ!」
「ぷ――」
うなずきかけたところで、
「ぷりゅ?」
首をひねられる。
「赤ちゃんは……いたし」
「えっ」
何を――と言いかけるも、それが白姫が子守歌をうたってあげていた赤ちゃんのことだとすぐに思い至る。
「あの子はですね」
あの子は――
「えーと」
「赤ちゃんだったんだし」
「あ……赤ちゃんでしたね」
と、あることが頭をよぎる。
「他にもいましたよ」
「ぷりゅ?」
「赤ちゃんです。葉太郎様の」
「いたんだし」
そう言って、はっとなり、
「ま、まさか、ヨウタローも赤ちゃんになってかわいがられようと」
「違いますよ」
違うはずだ。
「きっと、葉太郎様の思い出なんです」
「思い出?」
「そうですよ」
幸せな瞬間の。
父親と一緒だった時間のように。
「消せなかったんですよ……きっと」
「じゃあ、シロヒメも?」
ぷりゅり~ん❤ 瞳が輝き、
「やっぱり、赤ちゃんのシロヒメ、かわいいからー。思い出から消したりなんてできないんだしー」
「そうですよ」
そして、すこし大きくなった白姫は、やはり自分たちと共に外の世界から来てしまったのだろう。
彼女はいまも――
葉太郎の心の中にいるのではないだろうか。
いや、きっとそうだ。
白姫もそう思ったのか、
「みんな、幸せだといいんだし」
「ですね」
うなずく。
(よかったんですよね、きっと)
と、突然、
「ぷりゅーっ」
パカーーーン!
「きゃあっ」
またもの不意蹴りに吹き飛ばされる。
「な、なんでですか!」
「ちょっとムカついたんだし」
「えっ」
「確かに赤ちゃんのシロヒメはかわいいんだし。でも」
ぷっ。頬をふくらませ、
「いまのシロヒメだってものすごくかわいいんだしーっ! 負けないくらいかわいがるんだしーっ!」
「きゃあっ」
暴れ出され、悲鳴をあげる。
(これなら、まだ頭の中にいてくれたほうがよかったですよ)
すくなくとも物理的な被害はなかったのだから。
「や、やめてください。そんなふうにわがままばかりだったら、かわいがってもらえるはずないですよ」
「そんなことないし。赤ちゃんはわがままだけど、かわいがってもらえるし」
「それはそうですけど」
「あっ、思い出したし!」
そして、
「ぷりゅーっ」
パカーーーン!
「きゃあっ」
やはり吹き飛ばされる。
「だから、なんでですか!」
「シロヒメ、見てたし」
「えっ」
「とんでもないアリスだし」
ぷりゅー。怒りが鼻息となり、
「なに、レディあつかいされてんだし。アリスの分際で」
「!」
み、見られていた!?
「ちち、違いますよ! あれはその」
「もちろん違うんだし」
ぷりゅ。うなずき、
「アリスなんて、たかがアリスだし。レディあつかいなんてされるわけないし」
「なんで、そこまでひどいことを言われるんですか」
「だからあれは」
ヒヅメがうなりをあげる。
「夢なんだしーっ」
パカーーーーーーン!
「きゃあっ」
「シロヒメが夢から覚ましてやるんだしーっ」
パカーーーン! パカーーーーン!
「ぐふっ! ち、ちょっと、やめてくだ」
パカーーーーーーン!
「これじゃ、永遠に覚めない眠りについちゃいますよーーーっ!」
パッカァァーーーーーーーーン!!!
「きゃあーーーーーっ!」
「なんだかさわがしいな」
優しい日差しが降りそそぐ芝生の上。
「けど、問題ないな」
視線を向けた。そこには、
「フッ」
仮面で隠したその下に笑みが浮かぶ。
「ナイトランサー」
真緒もまた笑顔を見せる。
「ヒーローはレディの危機に必ず駆けつけるのだ。つまりいまは私たちとこうしていても問題ないということなのだ」
こうして――
「うー❤」
心からうれしそうな息。
「ユイフォン」
彼女にも笑みを向け、
「よかったな」
「よかった」
ぎゅっと。隣に座るナイトランサーの腕にしがみつく。
「爸爸がいてくれる。よかった」
「ふふっ」
「媽媽もいる。家族がいてくれる」
「そうだな」
三人は――
ユイフォンを真ん中にして芝生に座っていた。
「かわいいな」
「う?」
「おまえのことだ」
なでなでと。すこし背伸びをして頭をなでる。
「赤ちゃんでなくとも、娘はかわいいぞ」
「赤ちゃん?」
よくわからない。そう言いたげに首をひねる。
「覚えていないのか。仕方のないユイフォンだな」
そう口にしつつも笑みは消えない。
「夢を見てた」
「む?」
「……気がする」
「覚えていないのか」
「う。夢だから」
うなずく。
「爸爸がいた気がする」
「えっ」
どきっと。かすかに仮面の下の口もとがこわばる。
が、すぐに凛々しい笑みに変わり、
「当然のこと」
「う?」
「どこであろうと馳せ参じます。それが夢の中であろうと」
「うー❤」
歓声がはじける。
「そうだ! ナイトランサーはヒーローなのだからな!」
力強く言い、そして歌い出す。
「しろいかーめんはせーいぎのかめん~♪」
真緒作詞作曲の『ナイトランサーのうた』。ユイフォンもそれに合わせ、歌声が芝生の上を風と共に渡っていく。
「幸せだった」
歌が終わって。言う。
「覚えてないけど」
「いまもだな」
「う?」
「幸せということだ」
「う」
「ナイトランサーも幸せか」
「貴女たちが幸せであるなら」
「そうか」
こぼれるように。
笑う。
「ふふっ」
そこには――
確かな光の世界が広がっていた。
心世界ぷりゅりゅん滞在記? なんだしっ❤