一杯の夢
愛の諸問題
「つまりは周りの人をちゃんと愛すってことが大事だと思うのよ」
明日の仕事に特に意味もなく嫌気がさして、夜中に散歩に出たのは良いものの、行く先もないので家から10分ほどの公園で夕涼みをしていた時のことだった。きれいな身なりをした娘が、少し興奮した様子で隣に座った男性にこのように語り掛けているのを耳にした。いや耳にしたというより、あまり広くないこの空間に3人しかいないのだから、あのような大きな声で話されたら、聞こえたのは必然といえるだろう。若い男女にありがちな、愛とは何ぞ、という漠然とした大きな問いに立ち向かっているに違いない。私はしばらくの間、この答えのない議論をBGMに電灯に集まっている蛾や蝶を眺めていた。夏の夜風がひどく心地よく感じた。
一匹の蛾が白熱灯に当たり、その死体がひらひらと落ちていくのを見ていると、また先の娘の声が耳に入った。
「―恋だったら、許すんじゃなくて我慢になっちゃうんじゃないかと思うの」
偶然聞こえたにもかかわらず、妙に耳に残る言葉だった。空の暗闇を眺めながら、何度かこの言葉を反芻した。前後の文脈がわからないので、彼女の真意は不明だが、妙に的を射ているように感じた。
確かにキリスト様のいうところの「隣人愛」というやつも「隣人恋」とは言わない。「隣人愛」の目的とするところである、自分が周囲を愛し、周囲の人々から愛されている感覚(私は敬虔なクリスチャンではないので、これが根本の目的なのかはわからないが)が、心地の良いのは頷ける。しかし、私が周囲の人々に恋をしているという状態は、あまり心地の良いものとは思えない。少し考えるだけで、精神が老衰に近づき疲れ果てて死んでしまいそうになる。ましてやその逆はなおさらだ。ならば彼女の言うところの、「ちゃんと愛す」というのはどういう意味なのだろう。
意味のない脳内議論に花を咲かせているとだんだんと夜も更けて風も冷たくなってきたので,私はそそくさと帰路に就いた。
一晩寝て、私は何事もなかったかのように仕事に向かった。私の仕事先は家から電車で1時間ほどのところにある喫茶店であった。喫茶店とは言っても最近の奇をてらったコンセプトアートのような喫茶店ではなく、いわゆる純喫茶というものである。一通の細い道路の角地にあり、赤い経年劣化したレンガの外装が特徴的であった。焦げ茶色のドアの右側には名前のわからないツタ植物が2階まで伸びていた。私はここの雇われ店長であったが、店にはそれなりの愛着を持っていた。
店につくといつものルーチンワークを始めた。名物メニューとなっているサバサンドの仕込みである。鯖缶の水分を切り、マヨネーズやら、胡椒やらと、適度に形が崩れるまでかき混ぜる。かき混ぜすぎても、かき混ぜなさ過ぎてもいけない、この微妙な塩梅が重要なのである。
しばらくするとバイトの佐々木君がやってきた。近所の大学に通う2年生、さらさらとしたきれいな黒髪でいかにも好青年といった感じだ。少し無口ではあるが、仕事はきちんとこなす彼に私は信頼を置いていた。
自身の作業がひと段落すると、私はコーヒーを淹れた。美味しいコーヒーというのは透明感のある黒茶色をしていて、しっかりとした苦みが広がり、そのあとに豊かさ追いかけてくる。テキパキと、また丁寧にテーブル席の掃除を行う彼を、カウンターの中からぼんやりと眺めながら、私は昨日のことを思い出していた。
ふと、彼を愛してみるのも悪くないと思い、普段より少し高い声で話しかけた。(人間は赤子などの愛の対象に対しては声色が高くなるのだ)
「掃除はその辺にして、コーヒーでも飲まないか」
彼は特に変わった素振りもなく、小さく会釈をしてから、掃除道具を端に片付け、少し駆け足でこっちに来てカウンターに座った。
そこから2言3言とりとめのないやり取りをした。内容としては、国際経済学とかなんとかいう単位を落としてしまったが、それでも春学期の単位は十分に取れているので心配する必要はない。といった、正直どうでもいい内容であったものの、心なしか会話が弾んだように思えた。弾んだといっても、ボールが高くバウンドする、というわけではなく、バウンドの仕方が多彩になったというか、詳細に跳ね方がわかるような感覚だった。
そこからの一週間、この些細な心の変化によって、世界が少し色づいた。言葉にできるような劇的な変化や、珍妙な魔法が使えるようになったわけではなかったが、解像度が少し上がったように感じた。
次の日の朝、休日だったということもあり、私が起きたころには、もう太陽は高く昇っていた。寝巻のまま、ゆっくりとした動きでコーヒーを入れ始めた。赤銅色で口が長く細いヤカンに水を入れて火にかける。沸騰してしまわぬように眺めながら、空いた両手で豆を挽いた。挽いた豆をフィルターに入れて、のの字を書くように湯を回しかけていく。いい香りと微睡みの中で、目を瞑ってもできるほど体に染みついたこの動きを繰り返した。カップにきれいな黒茶色の液体を注いだちょうどその時、インターホンのベルが鳴った。
椅子に掛けっぱなしになっていたパーカーを羽織って、玄関扉を開けた。そこには四十そこそこの、少し痩せて頬のこけた、それでいて満面の作り笑顔を浮かべた夫人が立っていた。
「隣人愛ってご存じですか?」
開口一番に、不自然に語尾を上げた猫なで声で、彼女はそう言った。
私は一瞬、あっけにとられて言葉を失い、それを誤魔化すように少し酸っぱいコーヒーを一口すすった。
一杯の夢