幻の楽園(十一)Paradise of the illusion

幻の楽園(十一) 三人の関係ll Paradise of the illusion

休日の少し遅く起きた朝。
昨夜までの冷たい雨は、何処か遠くへ去ってしまった。
何事も無かったように、鳥の囀りが聞こえてくる。

いつものように目を覚ます。フト意識が目覚めた事を忘れ浅く夢の中を彷徨ってから目覚めを自覚するような感じの起床だった。

カーテンの隙間から朝の光が射し込んでくる。

昨日までの気怠さが、爽快な目覚めに入れ替わる様に身体に隅々まで行き渡るまで温かい布団の中に居た。

彼は、完璧に目覚めてから身体を起すと、ベッドを降りて窓際へ歩いた。

勢いよくカーテンを両脇へ引き、眩しい朝の光を身体に浴びた。

日差しに春の兆しを感じる。
部屋はまだ夜の冷たさが浸透して残っていた。
シンシンとして部屋が冷たい。
窓の引き戸を開けると、真冬の朝の冷えた空気が部屋に流れ込む様に入ってくる。
外の空気に触れて気持ちが凛としてくる。
昨夜の天気予報は、日中は春の陽気の様な暖かさだと伝えていた。
彼は何度か深呼吸してから窓を静かに閉めた。
それから、コーヒーを入れる為にキッチンへ歩いた。

ドリッパーにフィルターを入れてコーヒーの粉を入れる。
ポットに入れた水が沸騰して湯気を出す。
湯を少し入れて、蒸らす。それから、少しずつポットのお湯を回し入れていく。ふわっと山のように盛り上がる。ピークを迎えると少しずつ中心に向けて凹みはじめる。
円錐形に凹んでいく濡れたコーヒーの粉とコーヒーが抽出されて、サイフォンへ滴り落ちるのを眺めた。

コーヒーのいい香りが、キッチンを満たしていく。

コーヒーを入れた後、彼は洗面所へ行き歯を磨いた。容器に二本入っている。その内のブルーの歯ブラシを摘んで取り出した。歯磨き粉をつけて鏡を覗きながら隅々まで丁寧に磨いていく。時折、容器に残った赤い歯ブラシに視線を落として見るともなく見た。

時々、この部屋に遊びに来た南沢遥の忘れ物だ。
この歯ブラシは、使われることはもう無い。

そう思ったら、淋しさが心の隙間に入り込んで支配される様な気がした。
別れの淋しさ、悲しさ、刹那さは、
やがて終わりのくる結末のごく自然な感情なのだ。
誰もが淋しいんだ。

彼は、自分に言い聞かせる様に、鏡の中の自分を見た。

若い二人は、初夏の若葉のように輝く。瑞々しく新鮮で心地よい風にゆらぎ。

この先、枯葉になりゆく事も考えず。恐る事もなく。悪戯に時を重ねあわせ心を走らせる。

大抵の場合。自分達なりに幸せを紡ぎ出す。唯、時に残酷な仕打ちをする事もある。
それは、理性ではなく衝動なのだから。

何故、こんな事になってしまったんだろう。

今更、悔やんでも仕方ない事は解っているのに。

今、考えてみると楽しかったのは、真夏の島へ四人で行った頃がピークだったのかもしれない。

男って奴は、馬鹿な生き物なのだ。今更、過去を振り返っても取り返しのつかない事なのに。

ちょっと待って、行かないで。
少し考えさせて。

そう願ってみても、時は無情に過ぎ去って行くものなのだ。

毎日、当たり前の様に存在していた。

幸せに満ちていて輝いていた日々は、もう今はない。

僕達、二人は何処で道を間違えたのだろう。

今は、心の中の未練がましい後悔だけが残された。

慶は、午前中に部屋でしなければならない作業を淡々とこなしていった。

一通り終わると、テーブルの上の小さい置き時計を見た。もう少しで正午になる時間だった。

彼は、クローゼットから履き古した色褪せたブルージーンズと肌触りのいいコットンの白いTシャツを引っ張り出して身につける。
それから、ザックリとした白いローゲージのタートルネックのニットを着た。
オーバーサイズのロングコートを羽織るとキーと財布を持って玄関に歩いた。

いつもはく白いテニスシューズを突っ掛けてドアを開けて外へ出た。

しばらく歩いて、マンションの近くにあるスーパーマーケットに入った。

昼時の店内は、いつものように盛況だった。

2日分くらいの食材を、歩きながら見て回り。選んだ食材をカートへ放り込んだ。

会計を済ませて、食材の入った袋を持つと

マンションまで歩いて帰ってきた。

彼は、入り口のポストに淡いブルーの封筒が入っている事に気がついた。

取り出すと宛名を見た。

南沢遥からだった。

気がつけば、彼女と随分会ってない。
一年くらいか?
あの日がきっかけだったのだ。
あの日をさかいに、一度も会っていない。

大学四年の冬に隆一と遥と三人でキャンプをした。

年が明けて、二人の逢わない時間の経過が少しずつ長くなっていった。

それとなく気がつくものの何も言い出せずにいた。
原因は、僕にあると自覚していた。

結局、就職は決めないまま大学を卒業した。
就職浪人みたいな格好だった。
ただ、大学一年から続けているレストランのアルバイトとサーフィンは日常的に続けている。もはや僕のライフスタイルになっている。
当然、就職活動もしなかった。

卒業する前に、就職の事がきっかけで遥と口論になった。

将来の希望として、会社に就職する事で経済的な安定と幸せを彼女は慶に求めた。

それは、将来の希望のある地点で、二人が結婚をするという想定の未来の為にだけあった。

自由にしたい気持ちを、遥のその言葉は拘束した。

正直、自分の人生に迷っていたのだ。

僕は、大学一年の春に、海岸添いにあるレストランのアルバイトを始めた。

そのレストランのオーナーは、サーフショップも経営していて、サーフィン教室をしていた。  
サーフィン教室の生徒募集のポスターを、レストランの掲示板に貼っていた。
僕はその募集を眺めていたのを、たまたまオーナーが気づき声をかけてきた。それが、サーフィンを始めるきっかけになった。

「サーフボードやウェットスーツもレンタル出来るからやってみないか?」

と、オーナーの熱烈な誘いに乗って始めた。

夢中になってサーフィンの腕が上達していく過程で、僕の中で少しずつ変化が訪れたのだ。

サーフィンをして心が解放される瞬間は、とても素晴らしい体験だった。

その体験は、やがて心に変化をもたらし可能性を感じさせる様になる。

「もう少し別の新しい生き方があるのではないのか?」

そう結論づけるのに時間はあまりかからなかった。

冬のキャンプの頃、隆一は広告代理店の会社へ内定が決まる。
年が明けて、遥も地方公務員の試験に合格。春から勤める配属先が決まっていた。

慶は、そんな二人を見ていて違和感を感じはじめていた。

何の迷いもなく将来を決定してしまった二人に嫉妬していたのかもしれない。

そんな決まりきった人生に抵抗したかったのだろうか。

心は、未来の不安を乗り越えて自由を求めた。

遥は、電話や会うたびに就職の事を問いただすようになった。

二人の間に、少しずつ嫌悪感や違和感が漂い始め閉塞していった。

二人は、お互いを理解しようとせずに心の中の不安だけを募らせた。

朝から気温が低く体の芯から寒い日だった。
曇り空から雪の降り出した午後。

幹線道路沿いにあるアーリーアメリカン風の建物のコーヒーショップチェーン店があった。

その窓際の席に、二人の若い女性が座っている。

南沢遥と中川玲子の二人がブラウンウッドのテーブルを挟んで向き合って座っている。

テーブルの上に、コーヒーショップのポップな印刷をした飲み物の紙コップが二つ置かれている。

南沢遥が中川玲子に相談をしているようだった。

玲子は呆れた表情で遥を見た。

「彼が就職を渋っているのは、何故なの?その理由がわからないんだけど」

そういうと、ブラックコーヒーの入った紙コップを手に取って一口飲んだ。

「何度も、問いただしても。曖昧に受け流すだけなの」

「それって、サーフィンにカッコつけて遊びたいだけじゃないの?」

「そこまで酷くは無いけど」

「だって就職活動してないんでしょ。アルバイトが忙しいとかサーフィンとか。それを言い訳に将来の事を考えて無いよね」

玲子は、怒った様な口調で遥に問いただした。

「将来的にみても安定してないし。私も不安なの」

そう言うと、遥はココアの入った紙コップを手に取った。

紙コップは、まだほんのり暖かい。

「私だったら、そんな将来性もない男とは別れるわ」

「そんな、別れるとかまだ考えてもないし……」

「とにかく、私に相談されてもね。彼を説得する事は出来ないわ。神田くんに相談したらいいじゃない。川崎くんとも友人なんでしょ」

「神田くんか……」

「そうよ。そうした方がいいわ」

「考えてみる」

堂々巡りのような相談を、数時間ほどした挙句の果てに神田隆一に相談をする事で話は終わった。

二人の飲み残した紙カップはすっかり冷めてしまった。

二人は、コーヒーショップを出ると、別れて別々の方向へ歩き出した。

中川玲子は、雪の降る寒い街角を足速に歩いた。
途中で、立ち止まり華奢なショルダーバッグから携帯を取り出して電話をした。
電話をしながらまた足速に歩き出した。

「もしもし?神田くん?私、玲子だけど」

神田隆一の寝起きの様な声が耳元に聞こえる。

「あー。中川さんか」

「あー。じゃないわよ?寝てたの?寝ぼけた声だけど」

「あー、まぁ」

隆一は、まだ眠気があるのか気怠そうに受け応えている。

「もうとっくにお昼過ぎてるわよ」

玲子は、呆れるように言った。

「どうしたの。突然、電話なんか」

「あのさ、さっき遥に会って話をしてたんだけど」

「えっ?南沢さん?何処で?」

隆一は、急に目覚めた様な声で玲子に聞き返した。

「そのうち。遥が川崎くんの事で、貴方に相談に行くそうよ。ねぇ。この際だから言っておくけどさ。川崎くんと南沢さんてもうダメなんじゃない?」

「えっ?ダメって?」

「あの二人、もう別れるんじゃないかしら。君、好きだったんだよね。彼女の事が」

「えっ。ま、まぁ。うん」

「今が、チャンスかしら。多分、川崎くんの事で相談しに行くだろうけど。川崎くんを説得したって考え方が変わるわけないと思うの。どうしようもない話だから。いっそのこと告白しちゃえばいいんじゃない」

「えぇ?だって」

「だって?なんなの?好きなんでしょ。もう卒業なのよ。会えなくなるでしょ。そんなのでいいの?」

「それは……」

「だったら告白しちゃえばいいのよ」

信号待ちで、中川玲子が携帯に更に続けて何かを喋っていた。

その時、交差点を加速していくバスの騒音に彼女の声はかき消された。

ある晴れた寒い日の午後の公園。

ぬけるような青空の冬晴れの日だ。

砂場や滑り台で、幼い子供達が遊んでいる。
少し遠巻きに子供達の母親がグループで世間話をしている。

揺れるブランコに、神田隆一と南沢遥が並んで座っている。

しばらく、二人は何かを話していた。

遥の話しを隆一は聞いている。

隆一は話を聞いているが、何処か心ここに在らず様に見える。

彼女が話終わると、意を決したように神田隆一は立ち上がり遥の方を向いて何かを告げた。

遥はブランコに座ったまま驚く。

遥は、戸惑った表情で彼を見た。

しばらくの間の沈黙。時は長く感じられる。

彼女は、言葉を選ぶ様に何か彼に言った。

それから伏目がちに彼から視線を外した。

そんな彼女に、彼は更に何かを告げた。

再び彼女は彼を仰ぎ見た。

彼女は、戸惑いながらも心揺れる表情をしていた。

遠くに、子供達のはしゃいだ声が聞こえていた。

公園の落ち葉が風に乾いた音を立てて動いた。

Welcome to the afternoon lounge. Ocean Bay FM.

今日は、春の暖かい午後でした。

桜の開花はもうすぐの様ですね。

お花見が楽しみです。

さて、午後の交通量はやや混雑しています。

首都高速C2エリアおよび横浜エリアに1kmの渋滞が発生しています。
お車の方は、お気をつけ下さい。

そろそろ、お別れの時間がやってきました。

Ocean Bay FM.七海 理央奈でした。

最後の曲は、

Lonnie Liston Smith Quiet Moments

see you tomorrow.byby.

切なく柔らかなインストウルメンタルの曲のイントロが始まった。

時の狭間の一瞬。輝き満ちる。

一瞬は、過去に押し流されるように記憶に刻まれる。

もう帰る事は出来ない。

Le soleilにて、カウンターに中川玲子が座っている。

青山健二が、ティーソーダを彼女の前のコースターに置く。

「結局、川崎くんと南沢さんは別れたのか?」

「わからないわ。そんな事を聞けないでしょう」

「最近、二人で来なくなったんだよ。特に、南沢さんは全く来ない」

「へえ。そうなんだ」

「別れるきっかけを君がつくったようなものだね」

「あら?そうかしら」

「で?どうなったの」

「どうもこうもないでしょ。みんな卒業して会わないし、連絡もしないわ」

「フーン」

「それでね、神田くんが南沢さんに告白したらしいけど。その後、どうなったか知らないわ」

「それで、君はいいの?本当は、南沢さんの事を好きだったんでしょ?」

「やだ。青山さん、何を言うの」

「しらばくれても無駄だよ。そんな事くらいわかるよ」

玲子はしばらく沈黙していた。

Le soleilは二人の他はいなかった。

店内は、しばらく静かだった。

玲子は、ようやく重い口調で喋った。

「だって、あの子は普通の女の子なのよ。普通に男に恋して幸せを感じる。だから、いいのよ。あの子が幸せそうなら、それで私はいい」

「そうなのか?奈津子とどっちが好きか気になってたんだけどな」

「そんな意地の悪い言い方しないでよ」

玲子は、口を尖らせ不機嫌な表情で青山を見た。

「そんなに怒る事ないだろ」

「怒ってなんかないわ」

「君が奈津子と別れて、南沢さんを川崎くんから奪いたかったんじゃないのかと思ったんだけどね」

「それを、言うなら貴方だって遥に想いがあったはずよ。私、知ってるんだから」

青山は、少し驚いた後で玲子をからかうような口調で言った。

「君の洞察力は、いつも鋭いよね。人の心を見抜くというか。一つの才能だよ」

健二は、愉快そうに笑った。

「単に人より気がつくだけよ。ふざけないで」

彼女は、不機嫌そうにカウンターに頰杖をついた。

それから、ティーソーダの動く泡をみて独り言の様に言った。

「人の恋心なんて、魔法の泡のようなものなのよ」

青山健二は、何も言わなかった。

ただ、静かに彼女を柔らかな視線で見ていた。

「弾けたら終わり。すれ違いのラブソングの様だわ」

彼女は、ふたたび呟く様に言った。


春の兆しが感じられる寒い冬晴れの午後だった。

大学の近くの大通り沿いに、平凡な喫茶店がある。

その窓際の席に、南沢遥と川崎慶が小さいテーブルを挟んで差し向かいで話している。
午後の穏やかな光が窓から差し込んでくる。
店の中はストーブの温もりで暖かい。

「もう、卒業なのよ。何故、就職を決めないの」

いつもの口癖の様に、南沢遥は切り出した。
彼は、いつも笑って聞き流していた。
けど、今日は違った。

「何故、きみの為に就職しなきゃならない?」

「それは......」

「僕の人生なんだ。僕の自由だろ」

「私達の将来はどうなるの」

「きみの為に、サーフィンもアルバイトも辞めてやり直すのか?」

「そんな事は言ってないじゃない。私は、貴方の心配をしてるのよ」

「もういい。もういいから」

「よくない。私達はこの先どうすればいいの」

「そんな事、知らないよ」

「知らないなんてないでしょう。無責任だわ」

慶は、彼女の言葉にカッとなってしまった。

「無責任?そうだ、そうだよ。あの先生はどうなんだよ。無責任じゃないか」

この言葉を聞いて、遥の表情は青ざめた。

「えっ......。なに?なんなの。何を言っているの」

「あの雨の日に言ったじゃないか。あの先生と一緒になったらいいんだよ。奥さんから奪えばいいんだ」

遥は悲痛な表情を浮かべ目は涙目になっている。

「酷い。何故、そんな事を今頃になって言うの」

「きみの好きな先生と一緒になればいいんだ。先生なら職も安定してるだろ」

慶は、つい勢いよく言ってしまった事を後悔した。

彼女に酷い事を言ってしまった。でも、後戻り出来なかった。

「違うわ。あなたは何が言いたいの」

遥は、みるみるうちに大粒の涙が流れ始めた。

ポロポロと泣きながらしゃくりあげる。

震えるような小さい声で否定した。

「酷い。違うわ。違う......」

知らぬ間に、心に積もり積もったあの嫉妬心。

遂に、積もり積もった感情のままに言ってはいけない事を言って彼女を傷つけてしまった。

もう、とり返しのつかない事になるのはわかっていたのに。

重い沈黙の間、遥は泣いていた。
慶は、彼女を見ないで窓の外ばかり見ていた。

彼は、不愉快な表情の中で明らかに狼狽していた。

彼女がひとしきり泣いて落ち着いた頃に、慰めようと彼女の肩に触れようとした。

遥はとっさにさその手を払い除けた。

「嫌、触らないで」

遥の大きな声が、店内に響き渡った。

周りにいた人が、冷淡な視線で二人を見て見ぬ振りをした。

彼女は、怒りに満ちて震えていた。

もう、これ以上成す術も無かった。

二人は店の前で静かに別れた。

さよならも言わず。黙って別れた。

二人が交わした最後の言葉は、慶の「もう帰ろう」の一言だった。遥は、黙ってうなずいた。

卒業する前に、僕たちは会わなくなってしまった。

「さよなら」を言うきっかけすらないままに。

中途半端な関係のまま会わなかった。

終止符もないまま。時は過ぎ去った。

多分、この封筒の中身にそのメッセージが入っている。

部屋に入って、キッチンに荷物を置いて全て収納した。
手紙は、そのまま中身を開けずにテーブルに置いていた。
朝いれたコーヒーの残りを温めて、マグカップに入れて持ってテーブルに戻ると座った。
コーヒーを一口飲んで側に置くと、震えるような気持ちで置いてある手紙を取りハサミで切り取り中身を取り出した。

僕たちは何処からすれ違っていたのだろう。

川崎慶は、リビングの椅子に座り手紙を読んでいる。

彼は淡いブルーの便箋の手紙を、持っている。
テーブルには冷めたコーヒーと、封を開けた同じ淡いブルーの封筒が置いてある。

宛名は、南沢遥と書いている。

慶は、便箋を読み始めた。

貴方と私は恋人という関係でした。

けれども、二人の間にいつの頃からか少しずつ溝のようなものが出来てしまったのかもしれません。

あなたの気持ちも、私の気持ちも平行線を辿ってしまって次第に不安定になってしまった。

このままでは、二人でバランスがとれないと思いました。

あの日、別れましょうとは言えなくて。

貴方と関係を終わらせないままに、神田くんと恋人の関係になりました。

卒業前に彼が告白してくれたの。一年ほど前です。

私は、本来の自分らしさをとりもどしたかったのかもしれません。

きっと私のしたことで、貴方は失望するかも知れません。

貴方が夢を追いかける間に、彼は私に希望と安心を与えてくれたの。

それでも、未練がましく貴方の気持ちが変わってくれることを少し願ってたわ。

不謹慎だけど二人を比べていたのかもしれない。

けれども、こんな事してもお互いに良くないの。

だから、この様な形で貴方に伝える事にしたの。

私は、貴方との関係を終わらせる事にしたの。

もう終わりにしましょう。黙っててごめんなさい。

彼は、貴方とは正反対の様な人なの。まるで貴方と彼は全く正反対なの。

彼に出逢って
会う事のなくなった貴方の記憶を共にして
三人でバランスをとっていると、
私の中で貴方の存在が少しずつ消え去っていくのです。

あれから、一年間の歳月が過ぎ去りました。

私の中にある貴方への気持ちは完璧に消え去って無くなりました。

貴方と別れて、

私は新しく全てをやり直します。

神田くんは、どうするのかは知りません。

今迄、黙っててごめんなさい。

さようなら。

最後の文字が滲んでいる。
彼女は、書き終えて泣いたのだ。

慶は、大学一年生の時に、彼女と知り合った。
彼女は同じゼミだった。

二人は同じ講義を、専攻していた。
ある日、彼女が隣りの席に座っていた。
その日に限って、筆記用具を忘れて来た。

鞄を開けて探している時に、隣に座っていた彼女が鉛筆を、彼の前にさりげなく置いた。
それが始まりだった。

そして、同じゼミの隆一と彼女を引き合わせる。

三人は意気投合した。

ゴールデンウィークに、初めて三人で海辺をドライブした。楽しかったな。たわいも無い戯言に笑った。

あの後、隆一には内緒で遥と二人でデートの約束をした。

あの雨の日の遥の告白。
大人のふりをしたが、
心は揺れていた。

中川さんも誘って四人で行った真夏の島。輝きに満ちた夏の日。

三人の冬のキャンプ場での会話。

最後の冬が来て。

二人の関係は冷めてしまった。

時の経過と共にコーヒーが冷めていくように。二人の気持ちが冷めてしまったんだ。

時間が経過していくのと比例して、彼女は微妙に変化していった。

僕は彼女の変化に気がつかなかった。

自由を追い過ぎて気がつかなかった。

彼女の気持ちは完璧に変化していた。それさえも気がつかなかった。

情け無いけど気がつかなかった。

言い訳がましく、いつかなんとかなると逃げていたのかもしれない。

決定的なきっかけは就職の事で口論になってしまった事だ。

気がつけば、会うたび就職の話。僕は少し疲れた。
僕は、結局のところやりたい事が見つからない事を言い訳にして就職を決めずにいた。

自由気ままにしていたかった。理想だけ高く、夢を追うだけの人生に憧れた。

そんな僕の側に居て、彼女は次第に不安になっていったんだ。

二人で将来を築く意識が全く欠如していたからだ。

彼女は、過去を乗り越えて未来に希望を持っていた。普通に結婚して安定とゆう形を求めていたんだ。

僕といえば自由を追い求めた。

二人は、すれ違い始めた。

彼女も就職の決まらない僕を責めた。
お互いを傷つけ合う事でしか関係を保てなくなっていたんだ。

二人の不安は募っていくばかりだった。 

少しずつ遥の表情を曇らせる出来事が多くなり。


僕は、苛立ち。理解のない彼女に言ってはいけなかった雨の日の事を言ってしまう。

要するに自分の情けない程の嫉妬心で、彼女の古傷に更に傷をつけてしまったのだ。

あの雨の日の出来事が、深く二人の心に陰を落としていたのだ。

あの日を境に、遥とは会わなくなった。

春先に、ひとり取り残された。

自由と引き換えに彼女を失う。

遥と会わなくなってしまって、別れをきり出せなくて。曖昧に時が過ぎ去った。

時が過ぎ去ると共に、淋しさはより一層深みを増した。

遥は、その曖昧な時間に隆一とも関係を持った。

そんな事は知らなかった。

隆一も、勇気を出して告白したんだろう。
不安な遥は、受け止めてしまった。
隆一は、舞い上がってしまって気がつかなかったのだろう。
彼は、彼女と会うたびに惹かれていった。

そんな、二人の時間を僕は知らなかった。

ある日、慶は一人でショッピングセンターのモール街を歩いていた。
途中で足を止めて、吹き抜けを中心にした回廊の様になった二階から週末の混雑したモール街を眺めていた。

しばらく眺めてから、あっと気がついた。
遥と隆一が二人並んでウインドウショッピングを楽しんでいる。二人は楽しそうに何かを話しながら歩いている。

ふと、遥が二階の方を仰いだ。

僕は、咄嗟に身を引いて隠れた。
しばらくしてそっと手すりの淵から様子を見た。

二人は、ウインドウの前でしばらく眺めていた。
それから二人は楽しそうに並んで歩き出して混雑するモール街に消えていった。

慶は、騒めくモール街で呆然と眺めて困惑していた。

しばらく気持ちの整理がつかず立ち尽くした。

急に二人に会うのが怖くなりその場を立ち去りモール街を後にした。

外は、春先の冷たい風が吹いていた。
黄昏は、蒼い時を経て急速に夜の闇へ包まれようとしている。
街の灯が華やかに映える。
夜の街を歩きながら、整理のつかない困惑と驚きを抱えて足速に歩いた。

彼女の幸せを考えればごく自然の流れだ。

遥と会う機会がなくなって三人の関係が、こんな風になっていたとは気がつかなかったのだ。
あれからも......。

もし、関係を修復したとして。時々、二人で逢ったとしても以前の輝きは戻らなかっただろう。
時が過ぎ去ると共に色褪せていったと思う。

彼女は卒業すると、隆一と恋人の関係を持った。

彼女は、卒業してから僕には会わなかった。

別れの言葉はそのままに時間は過ぎ去った。

彼女は、慶と隆一とどちらとも別れずにバランスをとった。

それから一年間、会わないままそのような三人の関係は続いた。

卒業して一年もの間、慶は二人には会わなかった。連絡さえとらなかった。気まずかった。

今日、二人の事実を知った。

ただ、彼女に対して不愉快な感情も湧いてこなかった。
なんとゆうか淡々とした気持ちだった。

彼女は、幸せに過ごしているのだろうか。
それにしても、二人が恋人同士になるなんて。
気付かなかった自分が滑稽に見えた。
それはもう自分を笑うしかない気持ちだった。

僕達は、どうしようもなかったんだ。
仕方なかったんだ。

僕は、そう自分に言い聞かせて夜の街をあてもなく彷徨った。

彼は手紙を読み終えて、テーブルの上に置いた。

冷めたコーヒーを飲んだ後、
視線を窓へと移した。

窓際の日溜りは、確実に春の予感があった。


あぁ。僕は、また独りだ。
いつもの様にまた独りだよ。
これは、すれ違いのラブソングだったんだ。
これは、ごく自然に流れに沿ってたんだ。

その時は、やがてくる後悔の気持ちもなく。
むしろスッキリとした爽快感があった。

あぁ。終わってしまったんだ。

虚無な掴み用もない出来事だった。

もちろんこの出来事について、失望感もあった。

何故か不思議なのは、ホットしている安堵感だ。

やっと、僕も遥も自由になれて幸せになれる。

エピソードとしていい終わり方だったんだ。

そう言い聞かせたのかもしれない。

彼は、テーブルのフォトグラフに視線を向けた。

あの夏の日のサマードレスの遥が微笑している。

かけがえのない君。穏やかな表情で笑っている。

あの夏の日に、輝きに満ちた彼女のフォトグラフをしばらく眺めた。

「さよなら」

彼は独り言を言うように呟いた。

あの日からどのくらい時間が過ぎ去ったのだろう。

長い時間が過ぎ去った後、記憶をどこかへ押しやって忘れていた二人は再会する。

なんて、その時は思っても見なかった。

Quiet Moments Lonnie Liston Smith

Songwriting

Lonnie Liston Smith

幻の楽園(十一)Paradise of the illusion

幻の楽園(十一)Paradise of the illusion

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-12-25

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