山の七夕 牽牛と織姫の物語

山の七夕 牽牛と織姫の物語

偶然か、あるいは運命の導きか、黄色いリュックカバーが誠司の目の前に忽然と現れた。
奇跡のような再会、そして24年前の遠い夏の日、北アルプスでの緑との出会いが甦る。
日奈子は父の手紙にその真実の姿を追い求める。

書簡体に託されたヒューマンドラマが新たな山岳ロマンスの世界に誘う

 父、誠司が亡くなってから一ヶ月を過ぎようとした頃、日奈子は棚橋緑と会うことになり、金曜日の午後にJRの駅から少し離れたカフェの前で待合せをした。緑はすでに店の前で、速足で近づいてくる日奈子を待っていた。

「こんにちは。宇野日奈子さんですね。棚橋緑です」
「お待たせしてすみません。今日はお忙しいところ時間をいただき、ありがとうございます」
 二人は店に入り、側道のつつじの花が見える奥の四人掛けの席についた。

「この駅に来るのは久しぶりです。親戚の家が吉祥寺にあったので、乗り換えでよく通ったのですが、駅の外に出るのは初めてかもしれません。ご自宅はこの近くですか?」と日奈子から話を始めた。
「歩くと30分近くかかるんですが、府中行きのバスに乗って10分くらいです。もう二十年近く住んでいます。宇野さんは、今日はお仕事だったのでは?」
「はい。午後半休を取りました。金曜日なので今日は休みの人も結構います。棚橋さんこそ週末の前でお忙しかったのでは?」
「大丈夫です。娘はもう高校生で手がかかりませんし、夫も帰りは遅いので」と緑は言って、少し躊躇っていたが、うつむき加減に話を切りだした。

「この度はこんなことになってしまい、私もとてもショックでしたが、日奈子さんやご家族には何と言ってよいか……。お慰めできるような言葉がうまくみつけられません」と緑は膝の上のハンカチを握りしめながら言った。
「あまりに突然のことで、一ヶ月たった今も、父がいないなんてまだ実感できていません」
「最初に気づかれてから、容態が悪くなるまではかなり急だったんですか?」
「4月の始めに何日か高熱が続いて、病院でPCR検査を受けたところ翌日陽性が判明しました。しばらくは自宅で療養して症状も落ち着いていたのですが、一週間くらいたった頃、再び高熱が出るようになり入院することになりました。最初は抗ウィルス剤の投与や酸素補給を受けていたのですが、容態が急変して最後は集中治療室に入った後、あっという間に息をひきとりました。5月2日でした。私たちは父の近くに近づくこともできず、なす術も無いもないまま、死んでいってしまいました。父の最期をすぐ近くで看取ることができずに、何もしてあげられなかったことが悲しくて、悔しくて……」日奈子はここまで言うと、堪えきれずに込みあげる涙を拭った。

「こんなに酷いことはないですよね」と緑もハンカチで目元を押えながら言った。
「棚橋さんには父が生前たいへんお世話になり、ありがとうございます」
「日奈子さん、よかったら緑と呼んでください。お父様とは昔、北アルプスの山の中で知り合いました。誠司さんと私は少し変わった山友だちでしたが、誠司さんからの手紙を持ってきたので後で読んでみてください」と緑は少し恥ずかしそうに言った。

「ありがとうございます。父の遺品を整理していたところ、机の中から父が緑さんからいただいた手紙を見つけて、申し訳ないのですが、全部読ませていただきました。父にこんな大切な友だちがいたなんて知りませんでした。緑さんからの手紙を読んだ後、父からは緑さんにどんな手紙を出したんだろう、と知りたい気持ちを押えることができずに、勝手なお願いをしてしまいました。実は、母には父と緑さんとの手紙のことは、まだ何も話していません。突然の父の死にショックを受けていますし、私が父と緑さんとのお付き合いのことをよく理解した上で、適切な時に話をしてみようと思っています」と日奈子は言った。

「私の手紙は恥ずかしい内容ばかりですが、久しぶりに誠司さんからの手紙を読み返してみました。毎年、紫陽花の花が咲き出す頃、ちょうど今頃、誠司さんからは連絡がありました。今はもう誠司さんがいないなんて私にも信じられません。日奈子さんには年甲斐もなく、と思われるかもしれませんが、二人のありのままの姿を知っていただければ幸いです」と緑は言って、ハンドバッグから2通の手紙を取り出した。

「6年前の再会後、誠司さんからもらった最初の手紙がどうしても見つかりません。この右側の手紙は、誠司さんからの2通目の手紙、私からの手紙への返信です。これはその次の手紙です。その後は、時々メールで連絡を取りあっていました」と言って緑は手紙を日奈子に手渡した。

「手紙をお預かりして、家で、父が緑さんからいただいた手紙と併せて読んでみたいのですが、少しの間、お借りしてもよいでしょうか?」と日奈子はたずねた。
「わかりました。この手紙はしばらく日奈子さんが預かってください。誠司さんの気持ちは、私の心の中にしっかり届いているので大丈夫です。誠司さんは私にも日奈子さんのことをよく話してくれて、二人の楽しそうな写真もたくさん見せてもらいました。でもこんな形で日奈子さんとお会いすることになってしまい本当に残念です」
「ありがとうございます。少しは父のことを理解していたつもりなのですが、緑さんからの手紙を読んで、自分が全く知らなかった父の姿があって……」
「日奈子さんには何もしてあげられないけど、今から少しだけ誠司さんとの想い出話を聞いてもらえませんか。時間は大丈夫ですか?」
「ええ、もちろん、ぜひ聞かせてください」

 緑は、堰を切ったように、数十年前の二人の北アルプスでの最初の出会い、上越の山での偶然の再会、その後の山行の話を始めた。
 日奈子には始めて聞く話ばかりだった。お父さん、清純派だ、ロマンチックだったんだな……
 日奈子も父との山の話、小学生の頃、始めて奥多摩の雲取山に行ったことや、槍ヶ岳や北岳への山行、八ヶ岳で遭難しかかったこと、最近はテント山行が中心だったことなどを話した。

「八ヶ岳の話は聞いたことがあります。突然の雷雨で九死に一生を得たようなことを仰っていました。その晩、布団の中で涙が止まらなかったとも」と緑は微笑みながら言った。
「確かに!でもすっかり忘れていました」
「そんなことも緑さんには話していたんですね」
「手紙の中にもありますが、誠司さんは日奈子さんと一緒に過ごした時のことを、いつもとても嬉しそうに話してくれました」

 山の話以外にも誠司とのいろいろな想い出や、家族や二人の仕事の事など話が進み、いつの間にか時計は4時を指していた。
「緑さん、遅くまでお引き留めしてしまいすみません」
「もしかしたら私と誠司さんの関係で気になることがあるかもしれませんが、この手紙を読んでもらえたら、わかっていただけると思います」
「お言葉に甘えてそうさせていただきます」
「しばらくたいへんかもしれないけど、元気出してくださいね」
「ありがとうございます。私がこうやって緑さんと会っていることを知ったら、父はきっと驚いていますね」

 二人は店を出て駅まで一緒に歩いた後、それぞれの帰路についた。
 途中で、買い物をしたり本屋に立ち寄ったりして、日奈子が家に着いた頃には、外灯の光が、青く色づき始めた紫陽花の花を照らしていた。

 その夜、日奈子は、緑から父への手紙と、緑から預かった父の手紙を順番に封筒から取り出し、二人の物語を読み始めた。
 

 宇野 誠司様

 前略
 娘のリュックカバーを送っていただき、ありがとうございました。
 同封の手紙を読ませてもらいました。
 驚きました。世界は本当に狭いですね。
 お兄さん。まだそう呼んでも良いですか。私は山小屋では気がつきませんでした。ごめんなさい……。あの日は娘(沙織といいます)とちょっといさかいがあって、夕飯のときはあんまり余裕が無かったみたいです。
 娘は16歳、今年高校に入学しました。私と似ていますか?
 お兄さんが私のことを覚えてくれていて、とっても嬉しかった。私も遠い夏のことを想い出しながら、今この手紙を書いています。

 あの夏、私は21歳でした。
 山の話ばかりで、お互い年の話なんかしてなかったですよね。 あれからもう二十四年か……。
 私は大学4年生で、授業といっても3年でほとんどの単位を取ってしまったので残っているのは卒論だけでした。なので、春休みから山にいったり、キャンプをしたり遊んでばかりいました。あの時は、失恋の痛手から冷めやらぬ頃でした。夏休みの山も付き合っていた彼と行く予定だったのですが、5月の連休後、些細なことが原因で別れてしまい、夏山はどうしようか迷っていました。でも北アルプスの雲ノ平に行くのが夢だったので、一人で名古屋の自宅を飛び出し、夜行列車に乗って、そうそう、思い出しました、お兄さんとは翌朝富山駅で出会ったのでした。愚図な私が、電鉄富山駅で電車に乗り遅れそうになったとき助けてくれて、お互い一人同士だったので折立登山口から太郎平まで、途中チングルマの花の可憐な姿を見ながら、今まで行った山の話をしながら楽しく歩きましたね。
 その日、私は薬師沢小屋で一泊して、お兄さんは黒部五郎岳から三俣蓮華岳を越えて西鎌尾根から槍ヶ岳に向かうはずだったので、2日後に高天原山荘で再会できるとは思ってもいませんでした。お兄さんが山小屋に入ってきたとき、「えっ!」と互いに顔を見合わせ、その後、夕飯は二人で自炊しながら楽しく、というか、私が一人で、雲ノ平の草原で寝ころんで見た360度の青空、まるで神様が造ったようなアラスカ庭園やスイス庭園、草原の池塘……、雲の平の魅力を、感激してずーっと話し続けていました。
 その晩、暗闇の中、二人で高天原の露店風呂に一緒に入ったことを覚えていますか?どうしてもあの露店風呂に入りたかったのですが、一人で真っ暗な山道を行くには怖くて、でも今考える何と無防備だったんでしょう。(笑)

 そのあと、何回も手紙のやりとりをしましたね。お兄さんは確か大阪からの手紙、私は名古屋の実家から、そして何回かはアルバイト先の八ヶ岳の山小屋からの手紙でした。お兄さんからの手紙には、私がまだ行ったことのない山のことがたくさん書いてあって、いつも楽しみにしていました。私は、夏休み前に東京の食品会社から内定をもらっていたので、8月から10月まで三ヶ月間、友達の紹介で八ヶ岳の山小屋でアルバイトをすることにしました。確か10月になって来てくれましたね。(実はお話したいことがあったのですが、紅葉シーズンで忙しく時間が取れませんでした)その後、名古屋に戻ってから、お兄さんに出した最後の手紙に書いたように、私には八ヶ岳の山小屋で新しい出会いがあり、大学生活の最後は、新しい恋人と一緒に過ごす時間が多くなりました。その人は、私と同じように友達の紹介で名古屋からアルバイトに来ていた同じ年の大学4年生でした。私は大学を卒業すると東京で仕事を始め、彼は名古屋で働いていたので、就職後は段々とすれ違いが多くなり、お互い忙しかったこともあり、遠距離恋愛は長くは続きませんでした。

 26歳で、職場で知りあった今の主人と結婚し、そのままずっと東京で暮らしています。結婚当初は主人とも一緒に山に行きましたが、子供が生まれてからは主婦業と子育てに追われ、10年近く山に足を踏み入れていませんでした。沙織が小学校4年のときに、テレビのアウトドア番組を見ながら「お母さんは、沙織が生まれる前は北アルプスや八ヶ岳やいろんな高い山に登って、八ヶ岳の山小屋でも働いたことがあるのよ」と想い出話をすると、彼女は少しばかり山に興味を持ち出して、その年の5月には二人で奥多摩の雲取山に行くことになりました。彼女には初めての山小屋生活が楽しかったようです。6年生の夏には南アルプスの北岳に行き、北岳山頂からのパノラマを満喫した後、肩の小屋の近くでキタダケソウやハクサンイチゲの写真をたくさん撮って、夏休みの自由研究として提出しました。学校では友達から羨ましがられ、先生からも褒められて、それ以来、毎年夏休みには山に行くようになりました。

 でも娘も高校生になり、友達との付き合いもいろいろとあるようで、この間の山行では私は平標山の高山植物を楽しみにしていたのですが、沙織は途中で、山はもうあんまり楽しくない、みたいなことを言うので喧嘩になってしまいました。
 しばらくは山に行けないかもしれないな……、とちょっと寂しい思いをしていたところ、山で失くしてしまったと諦めていた娘のリュックカバーと、お兄さんからの手紙が届いたのです。でも本当に驚きました――。こうやって手紙を書いていると、遠い夏の日の想い出が夢の中の光景のように甦ってきます。そして、またいつの日か雲ノ平や高天原に行けたらな~ と。
 調子に乗ってすっかり長い手紙になってしまいました。お許しください。
 こんなありふれた平凡な人生ですが、今は60%くらい幸せって感じかな。
 お兄さんは? 良かったらまた、お手紙もらえると嬉しいです。
 
                                                 かしこ
 平成26年9月3日
                  棚橋 緑



 棚橋 緑様

 拝復
 返信ありがとうございます。やつぱり、緑さん(僕の想い出の)でしたね。
 荷物に手紙を同封して送った後、たぶん間違い無いと思ったものの、万が一、人違いだったらどうしようと少しドギマギしながら、二十四年前と同じように貴女からの返信を待ち焦がれていました。

 あの日、僕は緑さんと沙織さんが山小屋を出た30分後に出発しました。10分ほど平標山頂に向かって歩いていたところ、稜線の強い風に吹き飛ばされた黄色いリュックカバーが、登山道から少しそれたハイマツに引っ掛かっているのを見つけました。二人が山小屋を出るときの青と黄色のリュックカバーの後ろ姿を記憶していたので、山頂で渡そうとピッチを上げて急いだのですが、追いつくことができず、僕はその後、予定どおり谷川岳に向かい、仙ノ倉山への稜線を進むことにしました。
 前の晩、僕も、あなたが二十数年前に出会ったあの緑さんだとは、すぐには気づきませんでした。夕飯を食べながら、同じテーブルの夫婦が山の温泉の話を始め、僕が那須岳の三斗小屋温泉の話をした後、貴女は昔の想い出話として高天原温泉の話を始めました。(もちろん見知らぬ男子と一緒に露天風呂に入った話はありませんでしたが)
 その時、僕の正面には沙織さんが座っていたのです。彼女を見ていて二十数年前の緑さんの面影がふと脳裏によみがえり、そして、今は眼鏡をかけているあなたの顔立ちを見つめ直しました。もしかしたら……、と思ったものの、実際、僕たちが昔、直接会って話をしたのは4~5日に過ぎず、確信は持てませんでした。沙織さんや他の人もいる中でそんな話をする勇気は小心者の僕にはなく、その晩はシュラフの中で悶々といろいろな想いが駆け巡り、翌朝チャンスを見つけて話かけてみようと決心し、やっと12時過ぎになって眠りにつくことができました。
 目が覚めて時計を見るとすでに5時20分、いつも山小屋では4時過ぎには目が覚めるのですが、あの日は寝過ごしてしまい、慌てて着替えをしてシュラフから抜け出すと、二人の後ろ姿が見え、「お世話になりました」と言って山小屋を出発するところでした。
 「しまった!時すでに遅し…」
 そして、そのあと偶然にも、あるいは運命の導きか、黄色いリュックカバーが僕の目の前に忽然と現れたのです。数日後、山小屋に電話をして、近くの登山道で前の晩一緒だった親子連れのリュックカバーを拾い、送ってあげたいので名前と住所を教えてほしいと連絡したところ、小屋主さんも僕のことを覚えてくれたようで(あの晩、夕食のときに楽しく歓談したので覚えてくれていたようです)すぐに「棚橋 緑」さんの名前と府中市の住所を教えてくれました。苗字は変わっていましたが、下の名前は「緑」であることを聞いて、改めて確信しました。

 僕は、現在52歳です。北アルプスで緑さんと出会ったときは28歳でした。7歳違いのお兄さんということですね。その頃はまだ独身で、東京から大阪に転勤して4年目、大阪で最後の夏を迎えていました。大阪では山仲間がいなかったので、一人で年に何回か夜行列車に乗り富山まで行き、そこから剣岳、後立山連峰、黒部五郎岳から槍ヶ岳までなど北アルプスの山々を巡り歩いていました。
 あの夏の僕の計画は、1日目は黒部五郎小屋まで、2日目に三俣蓮華岳を越え雲ノ平から高天原まででした。僕も高天原山荘の露店風呂のことは良く覚えています。二人とも山の中で気分高揚していたのでしょう。真っ暗だったし、あんな状況では普通、男のほうが意気地なく目をそらしてしまうものです。なのでご安心ください。(笑)
 翌朝は折立登山口まで下山した後、富山駅まで一緒に行き、僕は越後湯沢経由で東京の実家に向かい、緑さんは米原経由で名古屋へ帰ったのでした。今だったら別れ際はメアド交換ですけど、あの頃は互いの住所を教えあって、もうほとんど死語に近いですが「ペンパル」なんていう言葉もありましたね。大阪から緑さんにどんな手紙を出したか、詳しくは覚えていませんが「また緑さんに会いたい」と、久しぶりの淡い恋心を抱いて手紙を綴っていたのは確かです。
 そして、残念ながら僕の片想いは叶うことはありませんでした。

 翌年東京に戻り、数年後に結婚しました。僕にも日奈子という大学生の娘がいます。この春から地方大学に通っていますが、日奈子とは小学生のときから一緒に山に行き、今でも二人でテント山行をしています。北岳にも二人で行ったことがあります。同年代の友人の間ではちょっと羨む間柄です。でも、今年から親元を離れて四年間地方で暮らすことになり、大げさかもしれませんが、今は喪失感のような寂しさが広がっています。
 緑さんは幸せそうで何よりです。もう二人で北アルプスに行くのは夢のまた夢ですが、また再会(再々会ですね!)の機会があれば、タイムマシンを掘り起こすように二十四年前の青春時代に戻り、懐かしい話に花を咲かせたいものです。
 一応、メールアドレスをお知らせしておきます。もしメールいただけるようであれば今のまま「お兄さん」「緑さん」ということでどうでしょうか。迷惑だったら忘れてください。遠い夏の日の想い出として、僕の心の中のアルバムにいつまでも大切にしまっておきます。

                                             敬具
 平成26年9月13日
                                             宇野 誠司


「お兄さん、緑です。手紙ありがとうございます。感激です。私もお兄さんと会いたい気持ちが募っています。急な話ですみませんが9月25日(木)、26日(金)どちらか空いていませんか。 平日なので難しいですか? 娘が友達の家に泊まりに行くので、天気が良ければ日帰りで行ける近くの山に行きたいのですが……。もし雨だったら都内でお茶でもしませんか。どうでしょう? わがまま言ってすみません。今後メールはこのアドレスにご連絡ください」


「9月26日(金)ならば大丈夫です。休みが取れます。ご自宅に夕方までに戻れるよう奥多摩の山で計画してみます。僕も今からワクワクしています。詳しいことはまたメールします。それでは。 宇野 誠司」


 そして、2週間後……
 9月26日の朝、武蔵五日市駅の改札口には、緑がすでに到着していた。
「緑さん、おはようございます。またお会いできてとっても嬉しいです」
「私も! お兄さん、今日はよろしくお願いします」と言って二人は駅前のバスターミナルに進んでいった。
 バスは武蔵五日市の駅を出て約40分で登山口に到着したが、平日の朝ということもあり、ほとんどの乗客は通勤、通学のため途中の停留所で降り、大岳鍾乳洞入口の停留所まで残っていたのは誠司と緑以外には若い男性の登山者が一人だけだった。
 少し肌寒く、長袖のシャツを重ね着したままザックを背負い二人は出発した。

「昨日までは雨続きで心配だったんですが、良い天気になりましたね」と緑が楽しそうに話すのを聞いて、誠司は二十四年前、北アルプスの折立登山から太郎平へと二人で歩き始めたときの光景を思い浮かべた。
「僕も心配で、ゆうべ寝る前にテルテル坊主を飾りました」
「本当ですか~」と二人は笑いながら林道を進んで行った。
 緑は、沙織が昨夜から合唱部の友達の家に泊まりに行っていること、去年の秋は二人で両神山登山に行ったことを話し、誠司は、去年の夏は日奈子と剣岳に行ったが予定よりも台風が早く来て、下山はたいへんな目にあったことを話した。大岳鍾乳洞を過ぎてしばらくすると林道は終わり、登山道に入っていった。林道ではまぶしかった陽射しも樹林帯で遮られ、木々の間からの山風が心地良く、途中何回か渓流を越えて滝が見えるところで最初の休憩を取った。
「緑さん、結構体力ありますね。この調子だとお昼前には大岳山頂に到着しますよ」
と誠司は時計を見ながら言った。
「今日は娘もいないし時間はたっぷりあります。夕方6時くらいまでに家に着ければ大丈夫です。ところで、お兄さんは大岳山には何回も来たことがあるんですか?」
「実は三十年前に一度来ただけです。奥多摩駅からの別のルートだったので、この道は初めてなんです」
「鍾乳洞があったり滝を見ることができたり、本当に素敵なコース。でも週末はきっと人が多いんでしょうね」
「大岳山は登山ルートが多いので分散しますけど、このルートは鍾乳洞観光の人もいるので、休日は林道の途中まではかなり賑わうはずです」
 二人は水分補給をして10分ほど休憩した後、再び登山道を登って行った。徐々に急登が増え、ペースを少し抑えながら途中でもう2回休憩を取った後、大岳山頂直下の大岳山荘前の広場までたどり着いたのは11時過ぎだった。
「お疲れさま。山頂まであと僅かです。いったん小休憩しましょう」と二人はザックを降ろした。
「お腹減った! お昼はどこで……?」緑はバンダナで額の汗をぬぐいながら、ペットボトルの水を口にした。
「この小屋は平日はお休みなんですか?」と緑は誠司にたずねた。
「少し前に廃業したみたいです。僕が三十年前に来たときは立派な小屋だったんですが。大岳山頂まであと20分、今日は人も少ないので山頂でたっぷり時間をとって、お昼ご飯にしましょう」
「了解です」と二人は山頂までの最後のピッチへと進んで行った。

「やった! 大岳山頂、標高1226.5メートル」と緑は本当に嬉しそうだった。二人は山頂のレリーフを背景に互いに写真を撮ってから、昼食の準備を始めた。
 緑は、朝4時に起きて夫を送り出す前に作った弁当を広げ、誠司は登山用のコンロでお湯を沸かしてスープの準備を始めた。
「緑さんは毎朝ご主人や娘さんにお弁当作るんですか?」
「いえいえ、お弁当作るのは娘と山に行くときくらいです」
「僕ももう5年以上、うちの奥さんに弁当作ってもらったことないな~」と二人で顔を見合わせながら笑った。
「それじゃあ、遠慮なくいただきます」
「いただきます」
 山頂付近には、平日とはいえ御岳山方面から登ってきた数組のパーティがいたが、それでも富士山や遠くに南アルプスや八ヶ岳のパノラマを見渡せる昼食場所を確保することができた。山々を眺めながら二十数年前の想い出に浸りながら二人の話はんだ。食後のコーヒーを飲みながら誠司が話を切り出した。
「緑さん、僕から一つ提案があります。もちろん緑さんが嫌でなければですが……、1年に1回、これからも一緒に山に行きませんか? 今日みたいな日帰り登山です」
「1年に1回ですか? 何だか七夕みたい。でも私、休みの日はちょっと難しいかもしれません。お兄さんは大丈夫なんですか? それでも良ければ賛成ですよ。もし実現できれば新しい楽しみができて、とっても嬉しいです」
「3月の年度末や師走の忙しい時でなければ、比較的自由に休みは取れます。今日は、もし山頂で緑さんの昔のような笑顔が見られたらこの話をしてみようと思っていました。でも、またふられちゃったらどうしよう……と正直心配でした」
「もうその話は忘れてください」と緑は照れくさそうに微笑み、誠司が沸かした二杯目のコーヒーを口にした。
「帰りの下山ルートのことですが、僕はしばらく先の分岐で緑さんとお別れして馬頭刈尾根を下りたいと思っています。実は三十年前に下ったルートで、今はどんな感じになっているか見てみたいのですが、長いルートなのでバス停まで4時間近くかかります。緑さんは、御岳神社方面に下りてもらえれば、御岳山ケーブルカーの駅まで2時間もかかりません。たぶん5時前には中央線沿線の駅に着けるはずです」
「わかりました。鈍足の私がお兄さんについていったりすると迷惑かけそうですね」
「そんなことありません。緑さん健脚ですよ。僕が考えていたよりかなり早く山頂に着けて、おかげで昼ごはんをたっぷり楽しめました。これからも二人で山を続けられそうで、本当に来てよかったです」

 昼食のあとかたづけをして山頂を後にしたのは、ちょうど午後1時だった。二人は、御岳山への尾根と馬頭刈尾根の分岐まで進み、
「お兄さん、今日は本当にありがとうございます。楽しかった、久しぶりに気分爽快。来年もきっとですよ!」
「僕も楽しかった。緑さんと再会できたなんて夢のようです。夢は美しいまま終わりたいので、今日はここでお別れしましょう。御岳神社まで迷うところは無いはずです。気をつけて下ってさい」
「お兄さんこそ、気をつけてくださいね。三十年前とは体力が違うんだから――」と言って、それぞれの下山道へと進んでいった。


 それから約2週間後、緑のもとに誠司から一通の手紙が届いた。

 棚橋 緑様

 前略 
 大岳山登山に付き合っていただき、ありがとうございました。
緑さんと再会して二人で山に行けるなんて僕にとっては奇跡に近い出来事です。なくしてしまったオルゴールの鍵がみつかって、中から諦めていた宝石がでてきたような……。
緑さんは無事夕方までに自宅に辿り着けたでしょうか。一人で帰らせることになってしまい、ちょっと後悔しています。僕は、あの後、馬頭刈尾根を下り、武蔵五日市の駅から川越の自宅にたどりついたのは8時近くでした。天気にも恵まれ、本当に楽しい1日でした。
 大岳山には一度だけ行ったことがあるとお話しましたが、実は僕にも忘れられない想い出があります。

 21歳のときのことです。
 当時、僕にも付き合っていた女の子がいました。大学4年になる前の春休みにアルバイト先で知り合った人でした。池袋に本社がある教育系の出版社の仕事に応募し、春休みはそこで仕事をすることになりました。3階の営業部には僕より少し前に働き出した洋子さんという大学生がいました。僕は洋子さんから伝票の書き方や書類のファイリングの仕方を教わり、昼休みになると外に食事に行き、洋子さんは机で昼食を食べていました。ある日、僕がお腹の調子が悪く、昼休みも外出せずに自分の席にいると、彼女は隣の席で音楽を聴いていました。机の上には、ヴィヴァルディの「四季」のテープが入っていたケースが置いてあり、ウォークマンからカセットテープを取り出すのを見計らって、
「イ・ムジチ? 僕はアーノンクール版の四季が好きだな」と声をかけると
「イ・ムジチの四季しか知らないんだけど、結構たくさん聞いてるの?」と始めて仕事以外の会話が成立しました。
 当時名盤と言われていた四季の演奏の違いを洋子さんに説明し、それから時々、僕たちは昼休みに音楽の話をするようになりました。
 洋子さんとの初めてのデートは、クラシックの演奏会でその日は武満徹の交響曲でした。今から考えると、女の子と初めてのデートにそんな楽曲を選ぶのはどうかしてると少し恥ずかしくなりますが、その頃僕は、武満徹や三好晃などの日本の現代音楽に惹かれていたので、思い切って洋子さんを誘ってみました。
「こんな音楽が気に入ってもらえるか分からないので、チケット代は僕が持ちます」と洋子さんに言い、コンサートホールの入口で、アルバイト代で購入したチケットを1枚渡しました。交響曲の第2楽章が始まり、しばらくすると、わけもなく急に涙が溢れ出てきて、洋子さんは僕の横顔をちらっと見てそっとハンカチを差し出してくれました。演奏会が終わった後、近くの喫茶店で二人でコーヒーを飲みながら、
「私、現代音楽のことは良くわからないけど、隣で演奏聞いていると何だか自然にグッとくるものを感じちゃった。宇野君の熱い気持ちが伝わってきたわ」
「僕もよくわからないし、演奏のことは何も理解できていないと思う。ただ、武満徹の曲を聴いていると、ストリングスの響きから何か人間の持っている原始的、根源的な情感を強く感じて、僕の場合はストレートに涙腺にきてしまうんですよ」と音楽のこと、大学のこと、将来の仕事のこと、そして両親や家族のことを、夜遅くまで語りあいました。
 その後、何回か新宿や渋谷の音楽喫茶に行ったり、一緒にレコードを買いに行ったりして、二人の心は少しずつ近づいていきました。6月に入り、梅雨の合間の青空の日に、三浦半島の油壷や城ケ崎を巡り、その夜、僕たちは結ばれました。

 1週間後、夏休みのアルバイトのスケジュールを確認しようと思い、彼女の家に電話をすると、急に体調が悪くなりまだアルバイトの予定はわからないので、こちらから連絡するとのことでした。洋子さんからは10日ほど連絡が無かったので、電話をすると、彼女のお母さんが出て「洋子は入院しました」との一言。7月はずっと彼女からの連絡待っていました。
 梅雨が明けた頃に、洋子さんから「思ったより症状が悪く、今は治療でとても辛い思いをしている、誠司君に会いたいけど、今は見舞いには来ないで」という手紙が届きました。
 その夏、9月に大学が始まるまで池袋の出版社にアルバイトに行き、隣の席には他の女の子が座っていました。僕はその子に伝票の書き方とファイリングの仕方を教え、昼休みは毎日外で食事をし、そして、洋子さんが何もなかったように突然僕の隣に現れることを期待しながら、毎日、毎日、淡々と仕事をしました。まるで12月27日にサンタクロースが訪ねて来るのを待っているように……。
 10月に入り、洋子さんから「当分の間、闘病生活が続き、今は誰とも会うことができない、両親は近くにいてくれるけど苦しくてどうしてよいかわからない」という短い手紙が届き、僕は急いで洋子さんの家に電話をし、彼女のお母さんに、洋子さんと会わせてください、と頼みましたが、僕の願いを聞き届けてくれることはありませんでした。病院にも行きましたが、面会謝絶が続いていました。彼女のお母さんから訃報が届いたのは12月に入ってからでした。急性骨髄性白血病、骨髄移植後の予想外の合併症により、病状が急変したそうです。病気が判明してから半年も経たないうちに、洋子さんは帰らぬ人となってしまいました。

 僕の心は深海の暗闇に沈み、何もすることができずに、ただ毎日涙を流し続けました。2週間は部屋に閉じこもり、時々テレビやラジオをつけてもスピーカから流れてくるメリークリスマスの騒音に耐えることができず、やっと外に出たのは、世の中がクリスマスを忘れた頃でした。クリスマスが終わると、目の前には正月が迫り、そんな世界とは隔絶されていたく、大晦日は一人で山の中で過ごすことにしました。
 12月31日の朝、防寒具、シュラフ、アイゼンとわずかな食糧、そしてカセットデッキをザックに忍ばせて、奥多摩駅から大岳山に向かい歩き出し、山頂で下界を見つめながらしばらくぼーっと過ごし、大岳山荘についた頃にはすでに夕闇が迫っていました。その晩は山荘の横にある自炊小屋に泊まることにしました。僕以外には一組のパーティーがいただけです。部屋の片隅に寝場所を確保して、簡単な夕食を胃袋に押し込んだ後、シュラフの中に逃げ込み、しばらく本を読み、ラジオをつけるとベートーベンの「第九」が流れてきました。洋子さんのこと、僕が生き続けているこの世界のこと、いろいろなことが混乱して頭の中を駆け巡り、とても音楽の調べを味わうような余裕は無く、
「何故、洋子さんは死んでしまったんだろうか、優しくて、誰にも愛され、美しく、輝き続ける存在なのに…… それなのに、僕のような心を閉ざして、友達もほとんどなく、社会の役に立つと思えないような人間と人生の最後に巡りあってしまい、そして、こんな自分が、今も世界に存在し続け、酷いことに最後まで洋子さんには何一つしてあげられなかったではないか、世界のからくりはいったいどうなっているんだ、こんな世界はもう信じられない、僕が存在し続けてよいんだろうか……」と、ハムレットのような思念が頭の中で堂々巡りし、暗闇に沈んだまま、いくら考えてもこの不条理を解きほぐす解は見つからずに、ただ混乱は深まるばかりでした。
 やがてラジオの第九は第3楽章を終え、第四楽章の歓喜の歌へ続いていきましたが、僕にはベートーベンを受け入れることができませんでした。うつ伏せになりシュラフに額を押し付け、涙を流し続けていましたが、いつの間にか眠りに落ち、新しい年の朝を迎えました。その日は馬頭刈尾根を歩いて武蔵五日市駅まで行くことにしました。小屋を出た頃にはまだ闇が続いていましたが、徐々に明るくなり、僕の頬に、ふと柔らかな陽射しが差し込み、そのとき、洋子さんの微笑みが見えたような気がしました。
「誠司君、元気出して、私はいつも君のそばにいて離れないから」と、洋子さんの声が確かに聞こえました。そして、その一瞬の朝の光によって僕はやっと深い闇から一歩だけ抜け出すことができました。

 冬を超えて春休みが終わる頃、大学に退学届けを出し、都内の小さな会社で契約社員として仕事を始め、仕事と音楽のこと以外は何も考えないよう黙々と働き続けました。翌年その会社で社員になり、少しずつ年を重ねるごとに僕の心も落ち着き、やがて凡庸なサラリーマンになっていきました。
 緑さんとの北アルプスの出会いはそんな時でした。
 僕にも久しぶりに小さな恋心が芽生え、心躍るように手紙を書いたことを覚えています。
名古屋からの緑さんの最後の手紙をもらった後、僕は何回か転勤をして、結婚をし、そして子供が生まれ、今では人並みの暮らしとささやかな幸せを手にしています。時の移ろいは、いろいろな事を風化させてくれます。そんな中で、神様は時々僕にも恵みを与えてくれるようです。
 でも、ときに触れ、予期せぬ出来事で突然命を失ってしまった人々を目の当たりにすると、澱のように心の底に淀んでいた、大岳山での大晦日の晩から自分を捉えて離さない思いが今も甦えってきます。五十路を過ぎて何と青臭い、と失笑されることでしょう。
 何だか脈絡のない長い手紙となってしまいました。すみません。

 緑さんとの再会は、神様が僕に与えてくれた思いもかけない新しい喜びです。もし、この手紙を読んでも緑さんの気持ちが変わらなければ、先日、大岳山頂でお話したように、牽牛と織姫のようですが、1年に1度だけ山につき合ってもらえませんか。……
 きっとまた、お会いできることを楽しみにしています。
 沙織さんとの山登り、続けられると良いですね。
 これから少しずつ涼しくなってきますので、風邪など召されぬようご自愛ください。

                                                草々
 平成26年10月4日
                                                宇野 誠司


 宇野 誠司様

 拝復
 昨日、お兄さんからの手紙を、深大寺近くの公園のベンチに座りながら読みました。空にはいわし雲、夜には虫の音も聞こえるようになり、すっかり秋の気配が感じられる今日この頃です。
 週に4日、調布にある大学の食堂でパートの仕事をしています。大学の食堂とはいえ、私の持ち場は職員食堂なので、そんなに雑然とした感じはなく比較的落ち着いた雰囲気です。勤務時間は朝10時から午後3時までなので、時々、仕事が終わってから深大寺の近くまで歩いて、ぶらぶらと散歩をしています。この辺は、武蔵野の自然がまだ残っていて気持ちがよいところです。
 大岳山の想い出、読ませていただきました。ちょっと悲しいけど純真な恋愛でしたね。今のお兄さんからは、昔年の傷心や悩みを知る由もありませんが、でも、手紙を読んでみると、誠実で優しい人柄はきっと昔から変わっていないんだろうな、と改めて感じました。私なんか、もうすっかり毎日の生活に押し流されて、昔のように何かを追い求めていた新鮮な気持ちを忘れていたところです。若かりし頃は、こうやって少し胸をときめかせながら手紙を書いていたんだな~、なんて……。
 ぜひ、これからも一緒に山に付き合ってください。七夕山行、これから何回行けるんでしょう? でもお互い先のことはわかりませんね。
 来年、どこに連れて行ってもらえるのか、今から楽しみです。日奈子さんとの山の話も聞かせてください。
それでは、お兄さんもお体に気をつけて。

                                             かしこ
 平成26年10月12日
                                             棚橋 緑


 日奈子が二人の手紙を読み終えたのは、日付が変わり深夜2時近くになっていた。21歳の棚橋緑と宇野誠司との姿を思い浮かべながら、降り始めた外の雨音を聞いているうちに、いつの間にか朝を迎えていた。雨は静かに降り続いていた。

 土曜日の朝、日奈子は緑への手紙を書き始めた。


 棚橋 緑様

 拝啓 
外は雨模様で、いつの間にか梅雨に入ったようです。昨日はお忙しい中、付き合っていただきありがとうございました。
 川越の自宅に帰った後、夜遅くまで、緑さんと父の手紙を繰り返し何度も読みました。ドラマみたいな再会、七夕のような年に一回の山での邂逅、父も結構ロマンチストだったんですね。今頃、草葉の陰でくしゃみをしているかもしれません。二人で年に1日だけ、山の中で牽牛と織姫のような大切な時間を過ごしていたわけですね。
 父の2通目の手紙は私には衝撃的でした。21歳の悲しく美しい初恋だったんでしょうか?まったく知りませんでした。
 父は、家の中では、辛いことや悩みなどをほとんど口にすることはなく、私にはいつも優しい父親でした。仕事では苦労をして、いろいろと辛苦を舐めてきたことも少しは知っていましたが、私には、父の心の奥底でどんな思いが蠢いていたかなど知る由もありませんでした。もっと長生きをして、第二の人生としてたくさんの喜びを味わえたはずなのに……。どうしてこんなに早く逝ってしまったのでしょうか。
「お父さん、ありがとう」ひとこと、生きているうちにこの思いを伝えたかった。
 緑さんとの再会、そして年に1回の邂逅は、きっと父にとって、忙しい日々の中で新しい喜び、そして安らぎだったのでしょう。緑さんにとっては、父との想い出は、時とともに風化していってしまうのかもしれません。でも、こんな素敵な物語があったことを父のために時々思い出して、そして、いつの日か沙織さんにもそっと伝えてあげてください。
 私も緑さんとまたお話ししたいのですが、今は気持ちの整理にもう少し時間が必要なようです。菩提寺で眠っている父に、緑さんの顔を見せてあげてください。
 末筆ですが、緑さんとご家族のご多幸をお祈りいたします。
                                                 敬具              
 令和2年6月12日
                                                 宇野 日奈子
        

 宇野 日奈子様

 拝復  
 今年は、雨が続きますね。お手紙ありがとうございます。
 そういえば、だいぶ前ですが川越に一度だけ行ったことがあります。最近はずいぶん人気があるようで、蔵の街の様子などを時々テレビで見かけます。誠司さんからは、川越の先の小川町や寄居の山の話を伺いました。牧場で娘と食べたソフトクリームが最高に美味しかった、と言って、日奈子さんとの楽しそうな写真を見せてもらったこともあります。
 誠司さんと一緒に過ごした山でのひとときは、私にとっても平凡な毎日の暮らしの中で新鮮な輝きでした。毎年、娘が新しい学年を迎え、5月の連休には家族旅行に行き、そして6月には誠司さんからの連絡が来るのを楽しみにしていました。
 だから、今は私もとても悲しい……。
 誠司さんの墓前には、お好きだったリンドウの花が咲く頃、行くつもりです。
 最後に、私から誠司さんへの最後の手紙を同封します。日奈子さんから天国のお父様へ伝えていただけますか。
 日奈子さんとは、またお会いできる日が来ることを楽しみにしています。
 それでは、お元気で。お体に気をつけてご自愛ください。
                                               敬具
 令和2年6月18日
                                               棚橋 緑         

 宇野 誠司様
 
 緑です。
 お兄さん、あなたと一緒に過ごした時間、幸せでした。
私にとっては夢のような時間でした。本当に牽牛と織姫の出会いのように。
いつまでもずっと続くように思っていたのですが、やはり夢には終わりがあるのですね。
でも、私はもう決してあなたの心から離れません。
 安心して眠ってください。
 そしてまたお会いしましょう。きっと、いつか……。
                                  
                                 (了)
 

山の七夕 牽牛と織姫の物語

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すみちゃん@AgRRH0COO8ZmLHI

山の七夕 牽牛と織姫の物語

日奈子の父、誠司との死別がきっかけで見つかった、緑との手紙のやり取りで展開していく本作品。今まで日奈子が知らなかった誠司の青春や物語が明らかになっていき、手紙を通して誠司の新たな一面を見つめる、心温まるヒューマンドラマです。 新しい山岳ロマンスの世界に誘います。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-12-19

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