クロスオーバー

性同一障害に悩む海子は自分の居場所を求めて故郷の小樽から横浜にやって来ます。そこで偶然にショーパブで働くことになり「おなべ」として勤め初めて数年後、店に遊びに来るキャバクラ嬢の涼子に指名を貰うようになる。
ある晩、涼子と海子に事件が起こります。二日酔いと疲労でお互い同時に意識を失ったとき、二人の心と体が入れ替わってしまう。
それから二人は元に戻る術を探すが、手段が見つからない。あるとき、海子が勤めるショーパブのマネージャーに事を打ち明けると「人の心はときどき入れ替わっているもの」と不思議なことを言われてしまう。二週間が経った頃、海子は母親が危篤の連絡を受け小樽に帰ると母親を看取ることは出来なかったが母親のベッド脇に置いてあった古い手紙を見つけます。その手紙は海子が小樽を出る時に残した母親への置き手紙でした。その手紙には海子と涼子に起きた不思議な出来事を予見していたかのような文章が書かれていた。

プロローグ
「ニューハーフ、ミスダンディ、ショーパブ・・・ねえミスダンディって何?」
「オナベのことじゃない?」
「あーそうゆうことなんだ、じゃあ、ここだね、場所はえ~と、弁天町?」
「弁天町なら近くだよ、ここから電車で3駅先かな」
ミッコは横浜駅近くの漫画喫茶のパソコンで横浜周辺のバイト先を探していた。
一週間前、実家の有る小樽から友達を頼って横浜に来ていた。この3日間、一人でバイト先を探してはみたもの、店の前に行っては店内で働く従業員の姿を見てはあきらめて帰ってくることの繰り返しだった。
予め準備していた履歴書は一通も使っていなかった。
見かねた友達から「とりあえず夜で探してみたら」とアドバイスされて、その友達と
一緒に漫画喫茶にいた。
「やっぱりあんまり無いんだねー、限られるよ、さっきの弁天町は」と言って友達がページを戻した。
「横浜、ショーパブ、「OLIVE」 従業員随時募集だって、ここに電話してみたら?」
「代わりに電話してくれないかな?」
「あんた、自分のことじゃん、自分のことは自分でしな!」
といいながら友達はミッコの携帯に店の電話番号を入力して渡した。
「えっ、うそ!」
電話の向こうで誰かが出てしまった。
「あのー、済みません、従業員の募集はしていますか?」
「あっ、募集の広告見たのね?」
「はい、あの、オナベって・・・」
「あっ、オナベちゃんね、先ずは店に来てみたら?今日でも大丈夫よ」
「今日ですか?」
「うん、今、どこにいるの?」
「あの、横浜駅です」
「じゃ今からすぐ来れるかしら?9時から営業始まるから、その前に来てよ、場所は
わかる?」
「えっ、あっ、なんとかわかります、じゃあ行きます」
消え入りそうな声で返事をして、ミッコは電話を切った。
「こんなに早い展開でいいのかな?」
「いいじゃん、店まで一緒に行ってあげるよ」
漫画喫茶のあるビルを出ると7月の湿気を沢山含んだ暑い空気の中、夕方の帰宅時間と相まって駅までの道と駅ビルの中は人々の姿でごった返していた。ミッコはその人の流れの隙間を縫って、友達の後を追いながら駅の構内へ吸い込まれて行く。
二人はJRの券売機の上の案内板で行き先と乗車料金を確認して切符を買い、自動改札機に切符を通して改札を通り過ぎる。その先に続く階段を昇りホームに上がると、丁度滑り込んで来た電車に乗れた。
扉が閉まり、走り出した電車の窓から見えるホームと、そこを行き来する人々を眺めながらミッコは呟いた。
「やっぱりこっちは人がいっぱい居るね」
「うん、私も最初は緊張したけど」
その友達はミッコより三ヶ月前に小樽から横浜に出て来ていた。
ミッコとその友達は高校を卒業した後に、小樽のファミレスでバイトをしているときに知り合った。美容師を志望していた友達はバイトをしながら通っていた美容師の学校を卒業して、その学校の紹介でこの春から横浜の美容室で見習いとして働いている。
ミッコは横浜に来て何をしたいといった目標はまだ無い、でも小樽では、幼いころからの自分を知る人々のいる小樽では、自分の気持ちの通りに生きることが難しい。
「札幌まで出ないとこんなに人が居ないよね」
「人はいっぱい居るけど、みんな回りのことなんか見ている余裕は無いみたいだからミッコもまわりを気にしなくていいよ」
「うん、ありがとう」
電車は二つ駅を過ぎて左手にオフィス街のビルが立ち並ぶ辺りに差し掛かると右手にはデパートや居酒屋などが入るビルが見え始めた。その、それほどの高さのないビルの背景に小高い山が見える。
「あんなところに山があるよ、なんか不思議」
「ああ、あの店はあの山の辺りだと思うよ」

横浜市西区弁天町。
横浜からJR線で3駅先の関波駅を降りて駅前を交差する国道から西側の一本先に併走する道路沿いにその店はあった。その一帯は横浜では古くからの繁華街で駅の反対側にはオフィス街が広がる土地柄の為か、クラブ、バー、スナックなどの飲み屋の多い街でもあった。その店の裏側には小高い山があり、その山の上には神社があった。その神社には弁天様が奉られていて、弁天町という地名の由来はそこから来ている。
ミッコとその友達はその店がある5階建てのビルの下にいた。
午後7時を過ぎてその店の前の通りは夜の喧噪に包まれ、サラリーマンのグループやカップルが行き来している、その顔には一日が終わった後の開放感が溢れている。
そのビルの入り口の上にはビルに入っている店子である店の看板が縦に連なっていた。
その看板を目で順に上に追っていくと3つ目に「OLIVE」と書かれた極彩色に彩られた看板が目に入った。
綺麗な色の看板だなと思いながらミッコは友達にこの店だねと確認した。
「そう、ここだよ」
店の入り口に来てみて、なんだか気持ちが萎えてしまった。
「やっぱり今日はやめておこうかな」
「あんたさー、もっと気軽に考えて、見るだけみてみれば」
「あ・・そうだよね」
エレベーターの前に立ち、横の案内看板で階数を確認する。
そうだ、見るだけみてみないと――
ミッコは上に向いた矢印のボタンを強く押した。
「そんなに強く押さなくても、何を緊張してるの」と友達は笑う。
「あ・・そうだよね」
「さっきから、そればっかりだよ」とまた笑われた。
1FのLEDが点灯してエレベーターの扉が開いた、二人はエレベーターに乗り込み3Fのボタンを押した。
3階に到着して扉が開くと、目の前がその店の入り口になっている。扉のすぐ目の前が入り口であったことで、少し和らいでいた緊張感がミッコをまた襲った。
扉は自動ドアであるようだが今は電源が落とされて開いたままの状態であるようだ。
店内はまだ照明が明るい。ミッコはその開けっ放しのドアから中を覗いてみた。
ドアの左側の先にステージが見える。誰かがそのステージの上でしゃがみ込み何か作業をしている。
「あの、何か?」ドアの右側から声がした。
ミッコが振り向くと、そこには長身で引き締まった身体つきの日焼けした顔にアイシャドウをした男性が立っていた。
「あっ、すみません、あの、さっき電話したものですけど・・・」
「あー、オナベちゃん?」とアイシャドウをした男性が納得したように答えた。
「はい、それで面接に来たんですけど・・・」
「さっき電話を受けたのは私よ、じゃあこちらへどうぞ」とアイシャドウの男性はミッコと友達をステージ前のボックスシートに案内した。
どうぞ座ってと促されて二人はボックスシートに腰をかけた。
「そちらの方はオナベちゃんでは無いようね」とその男性が聞いた。
「あの、友達です、僕がこっちに来て分からないことが多いので今日は付き合って貰ってます」とミッコが言うとその友達が緊張したように頭をさげた。
その男性を見て友達も少し緊張しているようだった。
「あなた何処からきたの?」
「小樽から来ました」
「あら、私も北海道よ!」とその男性が目を見開いた。
「あっ何処ですか?」ミッコは緊張が解けるように聞いた。
「私は札幌よ」
「美穂ちゃんも生まれは札幌だよね?」とミッコが友達に同意を求めると友達はうんうんと頷いた。友達も出身地の話で緊張が解けたようだった。
「あらそうなの、二人とも北海道なんだ、奇遇ね」と男性も嬉しそうに答えた。その後、お互いの地元に関する話のやり取りが何回かあった後、ミッコは履歴書を取り出して簡単に自己紹介をした。そして、こういう仕事はまったく初めてであることを付け加えた。
その男性は笑顔で履歴書を受け取り、一通り目を通すと一旦横のテーブルに丁寧に置いた。
「うちはね、接客だけじゃなくてショーもやってもらいたいの、もちろんすぐにではなくて慣れてきてからだけどね、どう?興味あるかしら?あなたと同じタイプの子も何人か居るのよ」と言うと、横のステージでダンボールの中を整理している「男の子」に目をやった。
ダンボールの中には色とりどりの衣装が入っているようで、衣装とその明細が書いてある紙の内容をひとつひとつ照らし合わせているようだった。
「面白そう、やってみたら?私も見に来たい!」と友達の美穂が言った。
「僕、音感が無いから自信無いですけど、大丈夫ですか?」ミッコの声が少し弾んだ。
「それはそれで味が出るのよ」とその男性は微笑んだ。
そして思い出したように付け加えた。
「そういえば、自己紹介してなかったわね、私はパールです、この店のマネージャーもやっています。このあと時間が許せば、営業が始まるから暫く見ていかない?」
「あっ、見たいです、美穂ちゃんもいいですか?」
と言いながら友達を見ると、友達はパールを遠慮がちにちらりと見た。
「どうぞ、お二人で」とパールは両手を広げて微笑んだ。
「じゃあ見学させてください」
ミッコはパールに頭を下げた後、ステージの「男の子」を見るとその彼もミッコを見て微笑んでいた。


そうして「OLIVE」に入店すると、ミッコの源氏名は「ウミ」と付けられた。
本名の海子(みこ)の海からだった。
それを自分で申告したとき、パールからは「なんだか語呂が悪いわね」と言われたが、それは以上は何も言われなかったのでそのままウミとなった。
「ウミ」と名乗るようになってからの1年間は瞬く間に過ぎていった。
その一年の間にショーのステージにも参加するようになり「OLIVE」のスタッフの一員としての毎日を送るようになっていた。
一年を過ぎてから半年の間には指名が入るようにもなってきた。
その日はウミを指名するまだ数少ない客の一人で、近くのクラブのホステスである涼子が友人のいづみを連れて遊びに来ていた。
その涼子はクラブが終わって「OLIVE」に来てから2時間ほど経っていたので、もう朝に近い時間になっている。

「ウッセーバーローてめー!」
「涼ちゃん酔い過ぎだよ!」
「イヅミはいーから、イヅミはいーから」
「いっちゃん、僕も帰り一緒に涼ちゃんを家まで送ろうか?」
「うん、お願い」
「私は帰らないから!だいたい、ウミの踊りはまたレベルが落ちてるんだよー」
「いや今回はレッスンにあまり参加できなくて」
「私、今までウミにいくら注ぎ込んでると思ってるの!あれなら、明日から私が代わりに踊ってやるから!」
「人前に出ると以外に小心者なんだからステージなんて無理だよ」と友達のいづみが小声で囁く。
「ウッセーバーローてめー!聞こえてるんだよー」
「ごめん、ごめん、じゃあ涼ちゃんそろそろ帰ろうか」
「・・・」
「あれ、あっ、寝ちゃってるわ」

翌日午前 涼子のマンション
飼っている子犬に鼻を舐められて、涼子は目が覚めたが、まだ完全に酔っていた。
この状態で起きると胃の痛みに襲われそうなので、無理に目を閉じてまた眠りに入った。

その日、起き上がることが出来たのは午後8:00を過ぎていた。
例によって胃が痛い、でも胃が痛いことには慣れている。
シャワーを浴び、髪を乾かしながら昨夜のことを思い出していた。
服を着て、家を出る。タクシーを拾い、その日は10時に入店した。
「おはよう」と店のマネージャーに挨拶する涼子。
「大丈夫?」とマネージャーが聞いた。
「意外と大丈夫、不思議なくらい」
昨日の酔い方だと店に来れないだろうと思われていたらしい。
胃の痛さと体のだるさはひどいものだったが反面、麻痺しているようにも感じられた。

翌日午前0:00 ショーパブ「OLIVE」店内
キャッシャー前でショーの衣装を着けたウミがパールと話している。
ウミとパールは涼子のお気に入りで、涼子が「OLIVE」に遊びに来ると必ず二人が接客をしていた。
ウミはオナベ、パールは店のマネージャーであり綺麗目なホモである。
その店は横浜で人気のニューハーフとミスダンディによるショーパブで、週末を問わず
いつも混んでいた。営業時間は午後9時から翌朝5時迄の為、午前0時を過ぎると周辺の
同業者――水商売の人々-たちも店が空けたあとのアフターとして遊びに訪れる。
「パールさん、昨日の涼ちゃん凄かったすねー、なのにパールさんはいつも冷静に対処
してますよねー、僕なんかついつい感情的になっちゃうので、涼ちゃんは酔うと僕に何か不満が有るのかな・・・」
「そうかしら、私は酔っている涼ちゃんがけっこう好きなもので・・・」
ショーが始まった、ウミは昨日の涼子からの言われ無き非難を噛締めて、ステージの中央に進んだ・・・

午前3:40 涼子の勤め先「Honey」店内
そこは「OLIVE」に程近い場所にあるキャバクラで、美人が多いと評判の店だった。涼子はその店の看板ホステスであった。
涼子は31歳であるが自分より若さを持ったホステスを押しのけて看板であり続けられる
理由のひとつはその美しさだった。
顔立ちは派手ではないが、ハーフとも見られる顔立ちで、ひとりで煙草を燻らせる姿は何故かしら寂しげに見え、周囲の擁護欲をかきたてた。それと、あまり物事にこだわりを見せない態度も人を惹きつける。
その日、涼子はアルコールは口にせず、ミルクティーで接客を乗り切った。
「いっちゃん、お疲れさま」帰り際、涼子はいづみに声をかけた。
いづみはこの店で涼子が一番仲のいい友達であり同僚だった。
「涼ちゃん今日は帰るの?」
「昨日の今日だし、もうクタクタ、真っ直ぐ帰るよ、明日は同伴だし、遅れると機嫌損ねるから」
「涼ちゃんも大変だね、おやすみ」
「おやすみ」
これからアフターに行くのであろうと思われるいづみと店の入り口で別れ、エレベーターを待つ涼子。
エレベーターを待つ間、目眩を感じた涼子だが30秒ほど経つと店が有る4FのLEDが
点灯してドアが開いた。
エレベーターに乗り込む涼子。
ドアが閉まる。
4FのLEDが消え、降下が始まる、エレベーターの降下に同期して3回ほど目の前が
真っ暗になり、涼子の意識は遠ざかっていった・・・

午前3:40 ショーパブ「OLIVE」店内
ウミはその後、接客の席でテキーラ、シャンパンと一気飲みが続き、正体不明になりながらもショーの後半に差し掛かっていた。
この状態では昨日の涼子の言われ無き非難も受け入れなくてはいけないと思いながらも踊り続ける。ショーが終わり、出演スタッフの紹介となるとショーのスタッフがステージに並ぶ、ウミはいつものように後ろのほうに並んで自分が紹介される番を待つ。待っている間にも目眩を感じるウミ、朦朧としてくる意識。
パールの「弁天町のモテ男ウミですー!」のアナウンスに同期して3回程目の前が
真っ暗になり、ウミの意識は遠ざかっていった・・・

午前3:50「Honey」エレベーター内
間髪を入れず意識を取り戻すウミ、しかしそこはエレベーターの中であった。
気を失っている間にもう店が終わり、エレベーターに載せられたのだと思った。
だが、周りには誰もいない、しかも体には凄い違和感、とりわけ胃が痛かった。
エレベーターの上を見るとモニターが有り、モニターには上を見上げる涼子が映って
いた。
「エーッ!何これ??――」

午前3:50 ショーパブ「OLIVE」店内
涼子は朦朧とした意識の中、「OLIVE」の店内で意識を回復した。
ステージの後ろにいたが、誰かに押され前につんのめった。
つんのめって下を見た瞬間、半ズボンで網タイツにスニーカーを履いてる足が見えた。
(何これ??しかも筋肉質な足!)しかも体には凄い違和感があった。
「B卓4番のお客様からも頂いておりますー」とのパールの声で振り返ると、パールが
自分を見て促している姿が見えた。戸惑っていると、後ろから誰かに支えられてB卓4番につれて行かれてチップの千円札3枚を受け取らされてしまった。

午前3:52「Honey」エレベーター内
「エーッ、エーッ」と繰り返しながらウミがモニターに向かって手を動かすと、モニターに映る涼子もまったく同じ動きをしていた。しかも自分意外にエレベーター内には誰も
居ない。エレベーターの扉のステンレスの部分に顔を映すと、そこには涼子が映っていた。
現実のように思える感覚だが、到底受け入れられない現実、たが外に出てここが店の近所「涼子の店の入口」だとわかると、とにかく店に走った。
だが走りだした途端に転んでしまった、ヒールの高い靴で全力疾走は無理だった。
「痛ってー!」膝を擦りむいてしまった。

10分後、「涼子になったウミ」が「OLIVE」のエレベーター下にいた。
腕時計を見ると4:15を指していた。
慌てて上に向いた矢印のボタンを何回も押し、エレベーターに乗った。
3Fに到着して扉が開き、急いで店に入る。店の中はショーの後のスタッフ紹介になっていた。ステージに近づくと後ろの列に自分の姿が見えた。
自分に気が付いたスタッフに「涼ちゃん一人?」と聞かれたので「僕は涼ちゃんじゃない!」と答えてしまうウミ。
呆然としながらも席に案内されてしまう「涼子になったウミ」。
スタッフ紹介が終わり、ステージから自分――自分の姿をした――が自分の方へ近づいてくる姿はなんとも不思議な光景だった。
「ちょっとあんた誰?」と「ウミになった涼子」が聞く。
「僕、ウミです、まさか涼ちゃん?」と「涼子になったウミ」が答えた。
「そうだよ、何なのこれ!」
お互いが目の前にいる自分を確認した。
「何で私がよりによってウミになるの?この筋肉質で汚い足、耐えられない!」
「そんなこと言わないでください」
「てか、その膝擦りむいてるジャン!てか、鼻も赤くなってるジャン!私の体に何したの?!」
「だってこんなヒール履くから転んじゃいました」
「もう、信じられない!」
「僕だって信じられないー」
少し離れた席に着いていたパールがいつもとは逆の二人のやりとりを不思議そうに眺めて
呟いた。
(あら?ウミが涼ちゃんを叱っているわ・・・)

午前5:20タクシー内
「とにかく今日は私の家に来て」と「ウミになった涼子」が切り出した。
「はい、とりあえずそうしましょう」と「涼子になったウミ」が答える。
お互いが状況を受け入れたのか少し落ち着いてきたようだった。
というより冷静になるように努めた。
タクシーが涼子のマンション下に着き、二人でマンションの中に入った。玄関のドアを開けると、涼子が飼っている子犬が出迎えてくれた。
子犬は涼子のところに来てくれたが、よく考えるとウミの姿をしている自分になつくこともおかしいことに気が付いた。
でも、それよりこれからどうすれば良いかを考えることのほうが先決に思えた。
だが、自分の姿をしたウミの化粧を落としてあげながら考えてみたものの、良い考えなどあるはずが無かった。目の前にいる自分の傍にいる他は無い。
もう二人はしばらくの間、運命共同体なのだ。
先ずは明日をどうすればいいのかを考えてみることにした。
「ウミ、明日、私は高井さんとご飯の約束があるの、こんな状態だからキャンセルしたいけど、先週も都合付かなかったから明日キャンセルしたら、機嫌損ねちゃうからなんとかしなきゃ」
「じゃ僕が高井さんとご飯に行けばいいんですね」
「そうだけど、私も付いて行く」
「心配なんですか?大丈夫ですよ」
「駄目!」
「大体、言葉使い気をつけて、ウミはワタシ、私はボク」
「それから、そ-すねッとか、えーッとか連発しないで」
「わかったわッ」
「それから、甘えたしぐさとか甘えた言動とかしないで、あたしが甘えたら違和感ある
でしょ?」
「それはわかります、でもちょっとぐらい甘いところも見せたほうが・・・」
「わかるけど、もとに戻ったら自分でやるから、余計なことはしないで」
「ところで涼ちゃん、僕、お風呂に入りたい」
「駄目!」
「えーッ、何で」
「そんなの私の体見られたく無いじゃん、トイレも駄目!」
「えーッ」
「えーッを連発しないで」
「お風呂はウミが目隠しして、私が洗ってあげる」
「僕の体は?」
「私、風呂には入らない、見たくないもん」
「そんなーッ」


翌日、「涼子になったウミ」がマンションを降りると、前に黒い4WDが停まっていた、
高井の車だ、高井とは涼子の仲のいいお客さんで、涼子と「OLIVE」に一緒に来てくれていたのでよく知っているが、まさかこんな状況で二人で会うのは緊張した。
涼子に言われた通り15分ぐらい遅れて行き、車のドアを開けて「遅れてごめんなさい、おはよう」と言って助手席に座る。
「おはよう、涼ちゃん、ウミとは現地で待ち合わせ?」
「はい、そうです、現地集合になっています」
緊張して棒読みになり敬語までつけてしまった。
早くもとに戻って、高井に打ち明けて笑い話にしたかった。
普段の自分であるならばそれほど会話には困らないが、この姿では何を話していいのか分からず携帯を取り出してメールをしているふりをして、車が前に進むことに身を任せた。
(普段の涼ちゃんはこんなときどうしているのだろう?
案外この通りだったりして・・・だったら、ちょっとひどいかも・・・
あとで聞いてみよう――)
マンションから車で15分ほどで「山本屋」の前に着いた。
「山本屋」とは涼子が好きでよく行く蕎麦屋であった。
予約をしてあったらしく、店員が「根本様ですね」と奥のテーブルに通された。テーブルには「ウミになった涼子」が待っていた。
「おはよございます~高井さん、済みません、今日はお邪魔します」と涼子が言った。これは昨日の打ち合わせ通り。
「高井さん、今日はウミと私の店に行って、後で『OLIVE』に行かない?2~3時間
店で飲んだら私も早上がりするから」「涼子になったウミ」が切り出した。
高井に2軒も付き合わせてしまうことに少し申し訳なく思ったが、とにかく今日のウミと涼子は一緒に居ないとボロが出るのでそうさせてもらうしかない。
本当のことを話しても理解してもらえる訳がない――
「ああ、いいよ」と高井が返事した途端、「涼子になったウミ」が「アザースッ」と思わず
言ってしまった。
一瞬、怪訝な顔をする高井――

蕎麦屋を出て車を車庫に入れたあと、タクシーを拾い涼子の店に向かった。
タクシーで10分程走ると店に着いた。
店に着くと、まだ、時間は午後9:00なのに涼子の友達のいづみがすっかりいい調子になっていた。
こんな早い時間から同伴のお客に相当飲まされたらしい。
ウミが着替えて髪をセットしている間、涼子と高井のいるテーブルはいづみの独壇場となっていた。
「今日は二人で、あっ三人で何処に行って来たの~あっ、分かったまた蕎麦でしょ~、ほんとに涼ちゃん蕎麦好きだから~、あたしは居酒屋で日本酒とワイン飲んじゃったの~
そんでもって一緒に来たイザワさんは一時間で帰っちゃったの~、あっ、ウミちゃんは何たべたの~」
その日、いづみのお蔭であまり話さなくてよい状況になったことにウミと涼子は感謝した。
いづみの独壇場となったテーブルも3時間が過ぎ、「OLIVE」に移動する時間となった。
いづみも誘って、テーブルにいた4人でエレベーターに乗る。
ウミは昨日を思い出し、エレベーター上のモニターを見上げた。
4人の頭しか見えなかったが、もう深くは考えたくはなかった。

「OLIVE」店内
涼子は緊張していた。
これから30分程でショーが始まる、ウミの代わりに自分が踊るのかと思うと気が滅入った。普段、ショーはよく見ているので動きはなんとなくわかっていたが、全くのぶっつけ
本番だった。
(何で私がこんな目に遭うの?こう見えて人前は苦手なんだからステージなんて無理)と突然襲った運命を恨む涼子だった。
30分があっという間に過ぎショーの衣装に着替えるともう開き直るしかなかった。
音楽が流れ始め、ステージの緞帳にショーのプロローグビデオが映された、ショーが始まる。着替えた後、一旦テーブルに戻り、行ってきますと挨拶をしてステージに向かう・・・
緞帳が開きステージはスポットライトで照らされた。

30分後、ショーが終わった。
涼子にとっては凄い緊張だった。ウミの振り付けは客として週に何度も見ていて分かっていたので、周りの動きに合わせて踊ったが、観客にどう見られたかは知る由もない。席に戻ると「涼子になったウミ」が顔を近づけて小声で囁いた。
「全然違和感無かったですよ!凄いです」
(なぜ普通に踊れたのだろう、体が覚えているからだろうか)
不思議と踊れてしまったことに違和感を感じる涼子だった。
緊張から開放された今になって膝が震えてきた。
震える膝を周りに悟られないように手で押さえ込んだ。
(ウミは凄いよ、こんなに緊張することを毎日繰り返しているんだから。)

涼子が「OLIVE」に通い始めたのは、1年ほど前だった。今の店に勤める前の店にいた頃の友達に連れてこられたのがきっかけだった。
お客からの色恋沙汰に追いかけられることも多く、かといってハッキリとした態度をとることは仕事柄難しい、そんなときここへ来ると――ここにはニューハーフ、オナベ、オカマちゃん達が相手なので面倒な話にはならない――涼子にとっては癒しの場となった。
ウミは涼子より5つ年下で、上京したての頃は店に出ても、お客と会話がなかなか出来ないようなときからすでに涼子から指名を貰っていた。
涼子は初めてウミが自分の席についた頃から今でもウミが無くしていない特長に好感を持っている。
涼子からすればウミは年下の「男の子」ではあるが「通常の男の子」に見られるスレた生意気なところがなく素直なところだ。
その素直さによるものなのかどうか分からないが、自分の弟のように感じるときがある。ウミ意外のオナベ達にもこの「男の子」の性質が感じられたので、涼子は同僚のホステスやお客と付き合いで行くホストクラブやボーイズバーにいるより楽しかった。
そんな涼子にとって「気が休まる人たち」によるショーを見ることも、この店に通わせる要素の一つだった。
但し、ウミは今でも踊りに関してはショーのスタッフの中でも一人だけテンポが遅れているのが遠目で見てもはっきりわかる程苦手だ、それでも少しずつ上達するウミの姿を見ることが涼子にとっては楽しみだった。
ショーは3ヶ月ごとに内容が新しくなる、その内容は店のスタッフ自ら構成や振り付けを考えて創る。そんな過程を見ていると羨ましく感じ、次に生まれ変わったとしたら自分もこの仲間に入ってみたいと思っていた。

翌日、ウミは涼子の部屋でフローリングに直に敷いた布団の上で目を覚ました。布団1枚で寝ていた為か背中や腰の辺りが少し痛い、そのせいで目が覚めたようだ。
涼子はベッドの中でまだ寝ている。
壁に掛けられた時計はまだ午前11時を少し過ぎたところを指している。
部屋の隅にいた涼子の飼っている子犬が布団の中で動き出したウミに気が付き、そろそろと傍に来た。
子犬を抱き上げて首の周りを撫でながら思い出した――自分の姿。
少し慌てて辺りを見回して鏡を探し当てた。覗き込むとその顔はやはり涼子だった。
(なんでこんなことに、本当にこんなことがあるんだ)
目覚めたばかりのぼんやりとした意識でこの二日間に起きた出来事を思い出すと、意識はさらに過去のことまで遡りはじめた。
始めて横浜に来たときのこと、小樽の実家を出たときのこと、高校生の頃のこと、中学生
の頃のこと・・・
中学生の頃に自分の気持ちが同性に向いていることに気づいていたウミは女子高に進学してしばらくすると彼女が出来た。友達ではなく彼女、自分の気持ちを打ち明けるとそれを受け止てくれた彼女。ウミはソフトボール部の選手で彼女はマネージャーだった。
そして自分は彼女にとって、ルーズソックスを履いた彼氏だった。
(今頃あの彼女はどうしているだろうか?) 記憶の遡りはそこで止まった。

――四日前に兄さんからあった電話。
こんなことがなければ休みの今日は小樽に帰らなければと思っていたのに・・・
これじゃ帰れないよ――

翌週の月曜日、「涼子になったウミ」は一人で涼子の店に出勤しなければならなかった。
涼子から午後9時に出勤すればいいと言われていたが、いつもの「OLIVE」の出勤時間と同じ午後8時に出勤するとマネージャーから「どうしたの?今日は早くない?」と怪訝な顔をされてしまった。
店のメイクのお姉さんにヘアメイクをしてもらい涼子のロッカーからワインカラーのドレスを選んで着た後、待機場所である店の隅のボックスシートに座った。
何度か涼子の店に遊びに来ていたので、見た顔の女の子は居たがこちらからは声を掛けられなかった。
午後9時を過ぎて、いづみが出勤してきた。
「涼ちゃん、おはよう」
「おはよう、いっちゃん」
いづみは何度も涼子と一緒に「OLIVE」に来てくれていたのでウミも良く知っている、
やっと会話が出来る相手が来てくれたことでウミは安心した。
「いっちゃん、土曜日、あのあと大丈夫だったの?」
「土曜日?最初は酔って覚えていないけど『OLIVE』に行ってからのことは覚えてるよ、場所が変わって少し醒めたみたい」
「そうなんだ」
「ねえ、涼ちゃん、土曜日のウミ、踊りが上手くなったよね」といづみが言った。
「そうだよね、だいぶ練習したみたいだよ」
いづみの言葉に合槌を打ったが、僕は今まであんなに練習しても上手くならないのに・・・とウミは思った。
涼子と入れ替わって初めての出勤日、ウミは普段の自分の肩幅や筋肉質の足があまりにもこのドレスには不釣合いに思えて――ウミは日ごろから筋トレを欠かさず筋肉質の体が自慢で、鏡の前で筋肉の付き具合を確認するのが日課になっている――不安になり、席が変わるたびにロッカーの鏡で確認しても、鏡に映る姿は間違いなく涼子のものであった。
自分の姿が涼子であることがまだ信じられない。
「涼ちゃん、3番のテーブルお願い」マネージャーから声がかかった
マネージャーに付き添われて3番のテーブルに移動する。
涼子となって最初のお客だ、マネージャーに涼子さんですと紹介され席に着く。
「こんばんは」
「涼子ちゃん久しぶりだね」
なんとなく顔を覚えている、涼子と一緒に「OLIVE」に来てくれた人なのか?
「そうですね、どのくらいぶりかしら、どうしてました?」
「いや、出張でね、二ヶ月ぶりぐらいかな」
話をしている間に名前も思い出した。
「そうなんだ、で、青木さんはどこに出張だったの?」
「九州の現場にね」
思い出した名前に不安があったが、口に出してしまった。しかし否定されなかったので
合っているのだろう。
「ねえ、青木さんと『OLIVE』に行ったことありましたっけ?」
いきなりの質問だが聞いてみたくなった。
「『OLIVE』?どこ?」
「あの、ショーパブの・・・」
「無いなー、涼子ちゃんよく行くの?今度連れていってよ」
うちの店に来てくれていないお客さんなのに何故僕が覚えているのだろう。(涼子の記憶
なのだろうか、入れ替わっても記憶が残っているのだろうか?)
「今日の涼子ちゃんはなんだか穏やかでいいね」とその客が帰り際に言ってくれた。
(これは、涼ちゃんに伝えるべきか、いや、機嫌を損ねるだけだからやめておこう)

その日は涼子の馴染みの客はあまり来なかった為、客との会話でボロを出すことはなかったが、涼子の客の顔を覚えていたり、自然と涼子が普段話す口調になっていることが不思議でならなかった。


あの出来事が起きてから最初の一週間は涼子の家で二人で過ごした。
その間、涼子とウミは元に戻れないかと、いろいろなことを考える。
鏡の前で短くなった髪をとかしながら「ウミになった涼子」が言う。
「ねえ、私あのときエレベーターで意識を失ったの、そして気が付いたら『OLIVE』の店内に居たの」
「僕は『OLIVE』で気を失って、『Honey』のエレベーターで意識を回復しました」
「やっぱり場所が関係有るんじゃないかな?エレベーターよ!」
その夜、接客の合間にそれぞれの店のエレベーターに乗り、携帯電話で合図して同時に降下することになった。
「涼ちゃん、今エレベーターに乗りましたよ」
「私も乗ったよ、じゃあ1階を押すよ」
「はい、僕も押します」
ウミはきつく目をつぶりながらボタンを押した。
エレベーターが降下し始めると、ウミはあの日に見たエレベーターの天井に付けられたモニターを凝視したが、3階、2階と何事も起こらず涼子の姿のまま1階に到着した。
何が足りないのだろう?酔っている状態ならどうだろうか?と考えた二人はその日、もう一度、店の終了間際の時間帯に酒に酔った状態でエレベーターによる同時降下を試したが何事もなく1階に到着してしまう。

翌日、涼子の部屋のパソコンでウミがネットで何かを探している。
「ウミになった涼子」がパソコン画面に見入るウミの顔の前に小さなカードを突き出した。
「あんた、これ何枚作ったの?引き出しの中に恐ろしいくらい有ったよ」
涼子が突き出した物は店で使うウミの名刺だった。名刺の表に両手を上に上げて背筋を強調したウミを背中から撮った写真が印刷されている。
「あの三千枚ほど・・・」
「ばっかじゃないの!筋肉自慢の信じがたい自分好きだね。私、お店でお客にこれ渡すとき毎回鳥肌立つよ」
「済みません・・・」
「ところでさ、ウミ、エステ行ってないでしょ!私もちゃんと手入れしないといけない歳なんだから、お願いよ!」
「分かりました。涼ちゃんも腹筋と腕立てをお願いしますよ」
「やってる、やってる、適当にやってるから心配しないで」
「そういえば、ワンちゃんつながりのお嬢達とのセレブなお茶会はどうしましょうか?最近行ってないですよね」と「涼子になったウミ」が逆襲した。
「何よ、その言い方! それは・・・落ち着いてから自分で行くからいいわよ・・・」
「ねえ涼ちゃん、これなんかどうでしょう!」急に腹筋を始めた涼子にウミが話しかけた。
「んー? 二人一緒にバンジージャンプ? 無理!無理だから!」と腹筋をしながら手に持ったヘアブラシを振る涼子。
「エレベーターよりかなり過激だけど、そのくらいしないと駄目じゃないかと」
「うーん・・・そーかなー・・・」
「行きましょう」
「うーん・・・で場所はどこ?」とパソコンの画面を覗き込む涼子。
「御殿場です、『御殿場ハイランド』」
「御殿場か、ちょっと遠いね、でも行ってみようか」
それぞれの店が終わったあとレンタカーを借りて御殿場に向かうことになった。
二人とも運転免許証は持っていたが、ウミは元々ペーパードライバーだというので
涼子が運転をすることにした。運転席に「ウミになった涼子」が座り、助手席に「涼子になったウミ」が座った。男が運転して助手席には女、傍目には自然な光景であったが内情はまったく違っている。車をゆっくりと走らせ始めると涼子は言った。
「なんか怖い、私こんなに運転下手だったかな・・・」
「え、じゃあ、僕が運転しましょうか?やっぱり運転は体が覚えてるのかも」
「いや、ゆっくり行くから大丈夫だよ」
二人の車は涼子の住むマンションから近くにある首都高速の入口に入って行った。
まだ明け方だった為、走っている車の数は少なく30分程で東名高速に乗り継ぐことができた。
東名高速を走りながら、お互いの昨日の出来事を報告し合った。出来事の報告は入れ替わりが起きてから毎日必ず行っている。お互いのお客さんに対してどう接すればいいかなどをそれぞれアドバイスしていた。それから、嫌な客の愚痴も共有する。
「涼ちゃん、改めてクラブのホステスって大変ですね」とウミが言う。
「どこが?」
「お客さんの機嫌を損ねないようにするだけで疲れちゃって、同伴やアフターが多いし。まあ、涼ちゃんを指名する人が多いこともありますけど」
「お店に遊びに来てくれたときに楽しく飲んでもらえることだけ考えていればいいよ、でも、ウミも結構人気あるよね、弁天町のモテ男ってあながち嘘ではないかな」
「いや、そうでもないです」
「冗談だから、すぐその気にならないで」と涼子は笑った。
途中、サービスエリアで休憩を取る為車を止めた。車から降りる涼子にウミは声を掛ける。
「涼ちゃん、トイレは男ですよ」
「あっ、言われなければ黙って女子に行ってた。ところでウミは女子に行けて良かったね」
「あっ!そうですね、なんかうれしいっすね」

御殿場ハイランドに着いたとき、まだ辺りは日が昇り始めたばかりで少し暗かった。
駐車場に車を止めて、二人は少し眠ることにした。
まどろみの中にいた涼子は一度目を覚ましたとき、運転席に居たはずの自分が、目を覚ましたときは助手席にいたように思えたが、眠さに負けて再びまどろみの中に入った。
ウミが目を覚ますと目の前には富士山がいた。
こんなに大きな富士山を見たのは初めてだった。時計を見ると午前10時になっていた。
運転席の涼子をゆっくり起す。
「いま、何時?」
「もう10時です、開園ですよ、それより富士山が綺麗ですよ」
「えっ、あー本当凄く綺麗!」
「なんかいいことありそうですよ」と正面の富士山を見つめながらウミが言った。二人は簡単に顔を洗い、ソフトドリンクを飲んだだけで、朝食も取らずにバンジージャンプのある場所へ向かった。外の空気は冷たく、白い息を交互に吐きながら、まだ人の少ない園内を二人は歩いた。そこに着くと平日のまだ朝であった為なのか他の客は居なかったので、係員はすぐに案内してくれた。鉄骨で組み立てられた塔のような建物の階段を登り上に着いた。階段を昇る途中から二人の白く吐く息が荒くなる。
高さは20m~30mはあるだろうか、上に立つと目眩がする高さだ。
「これやっぱり怖いですね、止めます?」
「こうなったらやるしかないじゃん!」涼子の顔は紅潮している。
「涼ちゃん、いざとなるとやっぱり強いですね」
係員は涼子とウミを背中合わせにベルトで固定した。二人は背中合わせで落下することになった。係員はいいですかと二人に確認する。
「いけると思ったときでいいですから」と付け加える。
「すぐに大丈夫です」と涼子が言った。しかしウミが「ちょっと待ってください」と言って止めた。
それから20分程、二人はその場で固まっていた・・・
係員は客に付き合って黙って待つことに十分に慣れているようだ。
「はい、涼ちゃん、僕大丈夫です」と急に決心したようにウミが言った。
「ちょっと待って、私、怖くなってきた、さっきだったらOKだったのに」
「涼ちゃん、怖い状態で飛ぶほうがいいかもしれませんよ!」
「わかったよ・・・」暫く目を閉じて眉間を寄せる。
「じゃあ、お願いします」と涼子が言い放つ。
係員は行きますよと念を押してから、背中合わせに縛られた涼子とウミをゆっくりと台から押し出した・・・
二人は落ちた――
落ちていくときのスピードで大きな声は出なかったが呻くように何か声が出た。
ウミが目を開けたら、目の前に逆さまになった富士山が二人を祝福するように弾んでいた、ゆっくりと、一回、二回、三回と・・・

ウミと涼子は少し前に自分たちが落ちたその塔の下で塔の周りに設けられた柵にもたれ掛かりながら、これから登っていくカップルを見上げていた。
「まさかあの二人も僕たちみたいな状況にはなっていないですよね?」
「だったら、これ効きませんよ!って言ってあげなくちゃ」と涼子が笑った。
「涼ちゃん、済みません、無駄足踏ませて」
「いいよ、こんなことが無ければバンジージャンプなんて一生飛ばなかったと思うし」
「そうですよね、僕は楽しかったです、しかも涼ちゃんと二人で飛んだんですから」
「ほんとに、何をやってたのだろうね私達、笑える。あーなんかお腹減った、ご飯食べて帰って少し寝ようよ、今日はまだ殆んど寝てないもんね」
「涼ちゃん、その前に、せっかく来たんだからフジヤマ乗って行きましょうよ!僕、乗りたかったんですよ!それからドドンパも!」

二人はその翌日も店が空けたあとカラオケに行って二人で熱唱して踊り狂ってみたり・・・
テキーラを一気飲みして二人で逆立ちしてみたり・・・
睡眠導入剤をいつもの3倍飲んで寝てみたり・・・
あまり危険ではない範囲で想像出来ることを全てやってはみたが、結局、何も起こらなかった。
二人のその奇行を涼子の飼っている子犬は怪訝そうな顔で見ていた。


翌日からは一緒に居ても、元にもどる術が見つからないと、とりあえず観念した二人はそれぞれの姿の持ち主の家に別々に過ごすようにした。
いつまでも片方の家を空けている訳にもいかない。
その後の一週間はそれぞれに成りきってひとりで生活することに慣れるだけで精一杯で、あっと云う間に過ぎていった。
ウミは入れ替わりが起きる前の涼子がやっていたように週に3回は自分の店が終わった後、「OLIVE」に顔を出すようにしていた。
涼子としての生活に少しなれたウミは思い切って涼子に頼み事を話した。
「涼ちゃん、お願いが有ります。」
「何?」
「一緒に実家に帰ってくれませんか?」
「実家に帰るって・・・」
なにもこの状況で実家に帰ることはないだろうと涼子は一瞬思ったが、
この状況であえて頼まれたことには何か事情が有るのだろうと思い直した。
「どうしたの?」
「母さんが入院しているんです」
「そうなんだ・・・いいよ、実家って何処だっけ?」
「北海道の小樽です」
「わかった、じゃあ今度の週末に行こうよ」

週末の日曜から月曜までお互いに休みを取り、二人はウミの実家が有る小樽に来ていた。
札幌から函館本線に乗り継ぎ小樽駅に着くとウミの母が入院している病院へはタクシーで
向かう。タクシーの窓から見える運河の明かりはウミが母親と暮らした日々の記憶を呼び起した。

小樽に来る三日前になって涼子は現地でウミとしての役をする為の台本を渡された。その台本には次のようなことが書いてあった。
・今まで母親には自分の心が男であることを伝えられないでいたこと。
・今回はそれを伝えたい。
・母親は重い病気であまり長くない命であること。
・だから慌てて行かなくてはならないこと。
涼子はこの台本を読み終わったとき、心が静まりかえり、3年前の自分の身に起きたことの記憶が甦った。
――病院の白いベッドと白いシーツ消毒薬の匂いと薄いブルーの廊下の壁――

タクシーが病院の玄関に着き、二人は受付で母親の病室の番号を聞き病室へ向かった。
病室の前に立ちノックをして部屋に入る。
一番奥のベッドに近づきカーテンをゆっくり開ける。
「母さん、ただいま」「ウミになった涼子」は台本通り声をかけた。
母親はベッドから上体を起こした姿勢で雑誌を読んでいたがウミの声で雑誌を下ろした。
「ああ、 おかえり」ウミの母親はまだ若く、病気になる歳とは思えなかった。
「ミッコ、いつ帰った」
「今日着いたばかりだよ」
後ろにいる女性に気が付いた母親に「ウミになった涼子」がその女性を紹介した。
「ずいぶん綺麗なお姉さんじゃないかい」
「仲のいい友達の根元さんだよ」と照れたように紹介をする「ウミになった涼子」。
母親との何度かのやり取りが無事に進んだ。
台本通りだと帰ったその日にカミングアウトすることに違和感があったが、その通り
涼子は進めた。
「母さん、今まで、はっきり言えなかったけど、僕はね、心が男なの、それで何年か前に男として生きることを決めました」
母親は雑誌に手を伸ばしながら
「お前が小樽を出て行ったときの様子でわかっていたよ、中学のときからもそうじゃないかってね、こっちから聞いてあげなくて悪かったね」
一度手を伸ばした雑誌を再び置き母親は言った。
「今日から晴れて息子かね?それもしょうがないかね」と微笑む母親。

和やかに済んだ母親へのカミングアウト、病院の玄関に下りてきた二人。
「ウミになった涼子」に「涼子になったウミ」が声をかける。
「涼ちゃん、本当に有難う」ウミの声にはいつもの元気が無い。
「僕、年に何回か実家に帰っていましたが、どうしても言えなくて・・・」
「大丈夫だよ、それよりウミのほうこそ気を強く持ちなよ。 あー、でも私、今日は本当に疲れたよ、緊張しすぎて胃が痛い、もうホテルに帰って休ませて」
「そおっすね!じゃあタクシー捕まえますよ」
確かに涼子は緊張した。ウミとはいえ他人になり切って他人の初対面の母親に自分が持って生まれた性と心が一致しないことを面と向かって打ち明ける――それも本人目の前で。
病室を出たときには喉がカラカラに乾いた。緊張から解放された後になって胃が急に締め付けられるように痛くなった。ただ、自分の母親に今になるまで告白出来ずにいたウミが不憫でならない。そのためにも――という思いだけだった。

翌日の朝、もう一度母親のいる病院へ行き、その午後に実家の近くに住むウミの兄に挨拶をしに行った。
「こんな所まで見舞いにつき合わせてしまって、ミッコがいつも世話をかけてしまってごめんね」
「いえ、大丈夫ですよ、一度小樽に来てみたかったものですから」と「涼子になったウミ」が答えた。確かに見舞いに一緒に来てしまうのは少し不自然だと思われたかもしれないが、仲のいい彼女であるようにそれらしく伝えた。

二人は横浜に戻る日の午前中に掃除をするためにウミの実家に寄っていた。
実家に行く途中、二人を乗せたタクシーはウミが通っていた中学校の前を通った。ウミはその校舎を説明しながらその頃の思い出を一つ二つと涼子に話して聞かせた。
ウミの実家は小樽の港から車で15分程離れた住宅地にあった。
木造の二階建ての玄関を開けると右に二階に上がる階段がある。その階段を上がった左にウミの部屋があった。部屋はウミがこの家で生活していたときのままにされていた。
当時使っていたベッド、テレビ、少し大きめのCDラジカセ、机、机の上の縫いぐるみが
整理されて置かれている。その家は緩やかな傾斜する場所に建てられていた為、ウミの部屋の窓からは周囲の住宅地が見渡せた。その日は冬の澄んだ空気のせいで遠くには海が見える。「涼子になったウミ」が下の階で片付けをしている間、「ウミになった涼子」は窓枠に腰掛けてそこから見える景色をしばらく眺めていた。(なんだか懐かしいな・・・)
下から掃除機の音が聞こえてきた。ウミが掃除を始めたようだ。
涼子は机の上に置いてあった犬の縫いぐるみを持って階段を降りた。
居間の絨毯に掃除機をかけるウミに、涼子が言った。
「ねえ、このワンちゃん私も持っていた、今もたぶん実家にあるよ」
「本当ですか?それって凄い偶然ですよね!僕のその縫いぐるみは、母さんからのプレゼントだったんですよ」ウミが目を丸くして答えた。
「そうなんだ、本当に偶然だよね!」涼子は縫いぐるみを両手で肩の上まで持ち上げてしげしげと見つめた――

午後の飛行機に乗るため、二人は千歳空港の出発ロビーに居た。
「次にここへ来るときは元の姿に戻ってるといいね」
「そのときは一人で来ますから」
「そのときも私は一緒に来るよ」
「有難うございます、涼子さん」
「涼子さんなんて、鳥肌立つからやめて!」
「済みません」
搭乗の時間がきて、搭乗ゲートから飛行機に乗り込む二人。ウミは細長くジグザグに曲がったゲートを歩きながら、ゲートの窓から見えるこれから乗り込む飛行機の機体に子供に人気のピカチューのペイントがされていることに気付く。
今の二人の置かれた状況とその飛行機の色はあまりにも釣り合わなかった。
(なんだってこんなときに乗る飛行機がピカチューなんだろう)
とウミは思った。母親が倒れている最中に入れ替わりなどという厄介な事が起きて、そんなときに乗る飛行機がまるでこれからリゾートに行くような色だとは。
(――人生ってなんと皮肉に溢れているのかな)
そういえば最近、何かと目に映る物の意味を考えてしまう自分に気が付いた。
でも結局、考えてもわからない意味。
(普通に毎日を繰り返していたときはいちいち意味なんて考えなかったな)と思いながら
ゲートの先に繋げられている飛行機に乗り込んだ。


横浜に戻ったその夜、「ウミになった涼子」はマンションで身支度を整えて店に向かった。
小樽での緊張から開放された今日は酔ってしまいたいと思った。
出来れば酔った弾みで元の体に戻れたらどれだけいいかと思った。
その日は30分程遅れて店に入った。店に着くとパールがウミの母親の容体を心配してくれた。
「まだ普通に話が出来るようですが、やはりいい方向には向かっていないです」
「そうなの、こんなときだからあまり店のことは気にしなくていいのよ」
ショーのスタッフである為、休みを取りづらいウミをパールは気遣った。
着替えて接客のテーブルに着くと、ステージ前のテーブルがやけに騒がしい。
(あっ、あのオバサンまた来てる!)と涼子はそのテーブルの客に気が付いた。
涼子としてこの店に来ていたときもしばしばそのオバサンが来ている場面に出くわした。
そのテーブルにはシャンパンやワインやらが次々と運ばれていた。
そのオバサンはオナベのヒロシという子を目当てにこの店に通っていた。
ヒロシはそのオバサンのテーブルに着かされる度に服を脱がされ、パンツにチップの万札を挿まれた。涼子はそのとき遠目から見てもはっきりと分かるヒロシの引き攣った笑顔を
を見ると憂鬱になった。(いくらなんでも下品な客だわ!)
そのヒロシが涼子のテーブルに着いたときにあのオバサンのことをそれとなく聞いたことがある。年齢は40代後半で会社を経営する女社長だという。(いくらお金があるといってもあんな遊びを週に何回もして大丈夫だろうか?それよりあんな下品な遊び方はどうかと思う)
店だけではなく休みの日にも遊びに付き合わされるという。店でもあんなでは休みの日
にどんなことを要求されるかは想像がつく。
「ヒロ君も嫌だったらはっきり言った方がいいよ」と涼子が言うと「そうなんですけどなかなか・・・」と消え入りそうな声でヒロシは本心を誤魔化した。
「限界になったらパンツに挿まれたチップを突っ返してあげなよ」立場の弱いヒロシを
気遣って涼子はそんなことを言ったこともある。
涼子はそのテーブルの騒がしさをなるべく意識から追い出すように努めたが上手くいかない。そんなときパールが「ウミになった涼子」に近づき囁いた。
「ちょっとヒロ君が限界だからヘルプに行ってくれない」
「えっウソ、あっ分かりました」と涼子は返事をした。
(なんとか穏便にということ?)と思いながらそのテーブルに涼子は向かった。
テーブルに近づくとヒロシはそのオバサンにべったり抱きつかれていた。
(なんか憂鬱)と思いながらテーブルに着くと、「いらっしゃいませ今晩は」
いつものウミのようにさわやかに挨拶する。
ウミにはあまり興味がないらしいそのオバサンはウミには構わずに小声でヒロシに囁いていた。「今日一緒に帰ろうよ~」近くにいる涼子にも聞こえた。
「済みません今日は・・・」とヒロシが何度も答えていると、そのオバサンは「ウミになった涼子」に気が付いたように「あっ、あんたいい体してよるね~シャンパン頂戴!」
この場でシャンパンは脱げということを意味していた。
(いきなり脱げって?)涼子は頭の後ろが熱くなってくるのを感じた。
シャンパンのオーダーが入るとテーマソングのようにいつも決まったBGMが流れる。
そのBGMにつれて涼子の頭はさらに熱くなっていく。横ではオバサンの(一緒に帰ろうよ~)という声が聞こえる。シャンパンがテーブルに到着した。
「ちょっとウミちゃんシャンパン来たよ!ほらほら!」とオバサンの催促。
膝の上で拳を握り締めていた「ウミになった涼子」は立ち上がり踊り始めた。
踊りながら黒いジャケットを脱ぎ捨てる。Yシャツも脱ぎ捨てる。上半身裸になった涼子はよくウミがやっていたように両手を上に上げ、ボデイビルダーのような決めポーズを取った。オバサンは上機嫌で「もっともっと、下も下も!」と捲くし立てた。(私の体じゃないからまあいいや、やってやる、でも今日きっぱり決着つけてやる)
と決意する涼子。ベルトを外し、ズボンを脱ぎ捨てるとパンツ一枚になった。オバサンは機嫌良くパンツに万札を一枚挿んだ。もっとと要求するように涼子は腰をグラインドさせた。そのオバサンは最後には10枚もの札を「ウミになった涼子」の腰に挿んだ。
シャンパンが方付けられている隙に涼子はパールにヘルプを頼んだ。
しばらくするとパールと店長がそのテーブルに着き、名残惜しむオバサンを尻目に涼子とヒロシはその場から解放された。
涼子はヒロシをトイレの中に連れて行き囁いた。
「ちょっと、ヒロ君相談があるんだ・・・」
それから30分が過ぎて今日二回目のショーが始まった。
「ウミになった涼子」はステージで踊りながらあのオバサンに何度か目配せした――引き攣った笑い顔で。
ショーが終わりステージではスタッフの紹介が始まった。
オナベの子たちの紹介は決まって最後の方だった。
オバサンはオナベの子たちの紹介になるとテーブルに回ってくるオナベの子に千円札を
自分の口に挟んで渡していた。
ヒロシの紹介がされるとオバサンはまた万札を数枚準備した。ヒロシが前に出ると同時に「ウミになった涼子」も前に出る。二人でオバサンの前に立つ、そのオバサンは万札を口に咥えて待っていた。涼子とヒロシはお互いの顔を見つめた後、ズボンのベルトを外し、ズボンとパンツを同時に下ろした。下ろすと同時にオバサンに二つのお尻を突き出した。そのお尻には先ほど涼子がオバサンから巻き上げた万札がそれぞれのお尻に5枚づつ挿まれていた。
「何よ、あんた達!」オバサンの口から万札がぱらぱらと落ちる。
涼子とヒロシは立ち上がりその10万円札をオバサンにつき返した。
そして涼子は言った。
「下品には下品でお返し!これはもういらないからこの店には二度と来ないで!おばさん!」
紹介の間に流れているBGMのみが聞こえている。流れるBGMを除いて店内は静まりかえった。少しの間をおいてテーブルのあちこちから拍手が沸き起り出した。その拍手は段々と大きくなった。その拍手はオバサンが店を出る迄、止むことはなかった。
パールも隠れて小さく拍手をしていた。疑問を持つように小さく首を横に傾けながら・・・


翌日、「涼子になったウミ」は店が終わった後「OLIVE」に行った。さすがに昨日は疲れた為、真っ直ぐ帰り眠ったが、夕方のパールからの電話で涼子の様子が気になっていた。「涼子になったウミ」のテーブルにはいつものように「ウミになった涼子」が付き、またいつものようにパールもテーブルに付いていた。涼子が席を外し、席にはパールとウミの二人になった。二人になって少し間をおいてからパールが切り出す。
「あなたそんなカッコしてるけど、ウミでしょ?」
「――えっ、」
「そうなんでしょ?だいたい昨日のウミはね、ウミじゃない、あんなことウミには出来ないもの、それからね、あなたの姿は涼ちゃんだけど、時々見せるしぐさや目線がウミだもの」とかまをかけるようにパールは言った。
「涼ちゃんがそう言ったんですか?」
「やはり涼ちゃんと入れ替わったのね・・・まさか本人からは言わないでしょうよ、誰も信じてくれないと思うから、」
「信じてくれますか?パールさん、こんなことってあるんですか?」
「そうね、まあ、よくあることよ」テーブルに肘をつき、顎を指で軽く摘みながらパールが言う。
「よくあることって、そんな!」あまりに簡単に返されて拍子抜けしたウミにパールは続ける。
「人の魂は生きている間にも何度も入れ替わっているという説があるの、実は魂ってそれほど強くない、長く辛い状況の人生だったとしたら、それをずっと耐えられるほど強くないのよ。だから時々、別の魂と交代しているらしいのよ。神様もよく考えてくれているわよね。
それでね、入れ替わった魂はそれまでの記憶を忘れてしまうらしいの、だからその身体に入ってしまうと入れ替わったことには気が付かずに、その身体の持つ記憶に従って生きてしまう。でも魂には個性があるから人格を変化させたりする、よく人生の転期と云われるように、それまでと違った生き方をする人がいるじゃない、あれは魂の入れ替わりだと思うのよ、まあ仮説だけどね・・・だいたいさぁ、私達だってあるとき気が付いたら同性を好きになったりしたわけでしょ?これも魂の入れ替わりじゃないかしら。
何を間違えたのか身体の持つ性の記憶とは裏腹にね・・・それはそれで、とても特別な個性だと思うのよ、私たちは入れ替わっても性の記憶だけは捨てられなかった特別な存在と言うことね」
「えーっ、ということは・・・僕は少なくとも2回目の入れ替わりということですか?・・・すぐには理解出来ないけど・・・パールさん凄い!」とウミは澱みなく答えを出したパールに目を丸くした。
「オカマは誰でも宗教家か哲学者なのよ、屁理屈着けなきゃここまで生きてこれないわ」
と組んでいた足を組み替えながらパールは言った。

パールはウミにとって頼りになる存在だった。年齢はウミより当然上であったが年齢
以上に不思議となんでも知っていた。何を聞いても直ぐに答えが返ってくる。
そんなパールに自分たちに起きたこの問題を藁をも掴む思いで聞いて欲しい気持ちで一杯になった。トイレから戻った涼子にウミが今のパールとのやり取りを伝えた。涼子はパールに昨日の事を謝った。
「いいのよ、大体ああゆう客はそのうち来なくなるのよ、私は何度も見てきているからわかるのよ、涼ちゃん、もう気にしなくていいのよ」
それでもあれは、やりすぎたと涼子は思っていた。ウミの姿であったが故に出来たことだったと反省していた。
でも、それよりも今は、この問題を相談出来る第三者が見つかったことに涼子も興奮した。

その日、店が終わると三人はパールのマンションに行った。マンションに着くと入れ替わりが起きた日のこと、お互いどのような状況で入れ替わりが起きたのか、などを息せき切って二人はパールに話した。
「ところで涼ちゃんは今まで人が変わったとか言われたことはない?」とパールが聞いた。
「私はせいぜい高校生のときに成績がガクンと落ちたくらいかな?中学迄はこれでも
成績優秀だったの」と涼子が答えた。
落ちたくらいかなと言いつつ、それからの涼子は人が変わったようにかなり荒れた学生生活を送っていたことを思い出した。(高校からは両親にも心配をかけていたな・・・)
でも、その頃に何があったのかは思い出せない。
「僕は中学生になった途端に女の子と勉強が好きになりました。」と少し自慢をするようにウミが話した。
「なんかその話、感じ悪いわね、ウミ」
「いや、済みません涼子さん」
「まあまあ、でも、涼ちゃんはよくその姿で2週間我慢したわね?」
柔らかい笑顔を作りながらパールが言った。
「ほんと、最悪、いきなりオッパイは無くなっちゃうし、この筋肉質の汚い足!」
「そんなー、僕だってやっと男になりかけたと思ったらまた女に戻ったんですよ!」
「でもいい女になれたじゃない!だいたいウミは私に気が有ったのでしょ!あんた、
一人のとき変なことしてないでしょうね?!」
「してません」
「本当に?一回もしてない?」
「ちょっとだけ・・・」
「もう、何したかは聞きたくない!」
「ねえ!パールちゃん、早く私達もとに戻りたい!どうすればいいと思う?」パールに真っ直ぐに顔を向けて涼子が聞いた。
「二人の場合、それぞれの人格とか記憶を持ったまま入れ替わったということは私の知っている魂の入れ替わりとはちょっと違ったケースよね、ふたつの魂が同時に二人の人格を
体験しているということかしら?」
「僕は僕なのに体は涼ちゃんですよ・・・」
「私は私なのに体はウミだもの・・・」
「私の知っている仮説からするとレアケースよね、でもそれぞれ前の記憶を持ったまま入れ替わっているということには何か意味があるのではないかしら・・・」
「意味ってどんな意味?」
「・・・それがね、大体に於いて意味を知ろうともがいている間はわからないものなのよ、何故か後になってわかることが多いのよね・・・ねえ、お二人さん、とりあえず今日はもう休まない?起きたら元に戻っているかもしれませんよ」とパールは再び柔らかい笑顔をつくった。

そのあと、気持ちが少し落ち着いた為か、涼子は深い睡眠に入った――
夢をみていた。それは現実よりもはっきりとした鮮やかな色彩のついたとても鮮明な夢。
夢の中で涼子は書店にいた。そこでは元の涼子の姿に戻っていた。
その書店はビルのワンフロアが全て書店のスペースとなっているほど大きな書店だった。
涼子はそれに関する本を探そうとしていた。
涼子の読書量は多くない、雑誌を除いて年に1、2冊だろうか。
(だって二日酔いが多いからしょうがないよ)と理由付けをした。だからこんな大きな書店に来る機会も少なく、探す本がどのようなジャンルに属するのかがよく分からなかった。
大きな書店には棚ごとにそこに置かれる本のジャンルが分かるように案内が表示されて
いる。文芸小説、ノンフィクション、エッセイ、経済、科学、宗教などというように書店の入り口の平積みされた新刊などのスペースを通り過ぎ奥の方へ進んだ。
「魂の入れ替わり」といえばいいのか分からないが、それに関することが書かれた本が
ないのだろうかと涼子は思ってここへ来た。
奥の棚の上に宗教と書かれた案内板の棚の前に来ると、そこにある本をゆっくりと見てみた。こんなことにならなければこの棚の前を通っても何の意識もせずに通りすぎていたに違いないだろうと思った。最近ではスピリチユアリズムに関心が高まっている為、魂、前世などという言葉が表紙の帯に書かれた本が多い、涼子はそこに積まれた本から一冊を手にとって、ぱらぱらとめくった。――前世、輪廻転生――輪廻転生って人が死んでまた生まれ変わることでしょ?私とウミの場合は死んでないのに、生きたまま転生しているのかしら・・・
「あら?おはよう」
すぐ肩越しに声がした。よく聞き覚えのある声とその言い回しだった。ゆっくりと涼子は声の方に顔を向けた。そこにはパールがいた。
「あっパールちゃん!」まさかここで偶然にもパールと会うなんて・・・
パールは涼子が持っている本を見つめている。
「私も昨日二人に聞かれてうまく答えられなかったものだから、本で知識だけでも得ようと思ってね、ここに来たのよ」
「ここで会うなんて凄い偶然ね!」
「そうね、ところで、私はこの書店以外にも探して見たけれど、無いみたいよ」
「パールちゃんが探しても無いなら、私が探しても無理ね」少し口を尖らせながら涼子は手に取っていた本を元に戻した。
「涼ちゃんに取っては大きな悩みよね、少し時間ある?昨日の続き、話しましょうか?」
パールと涼子は平積みされた本を後にして、並んで書店の入り口を出た。
パールは書店を出るとその先の左にある下りのエスカレーターに乗った。
エスカレーターの後ろにいる涼子に振り返ったパールは「今から店に行きましょう、地下鉄で行きましょうね」と言う。頷きを返してパールとエスカレーターを下る涼子。
先ほど訪ねた書店のフロアは駅ビルの3階にあった。エスカレーターは4回下に切り返して、さらにもう一回下に続いている。
「こんなに下まで続いていたんだ」と涼子は前に乗るパールに話かけた。
パールは首を横に捻じり少し笑顔を返した。
エスカレーターを降りると、すぐ目の前に小さな地下鉄の改札口があった。
パールはそのまま改札口に向かって歩いて行く。涼子は改札口の右手にある自動券売機の前に立ちその上の案内板で行き先の駅の料金を探した。
「切符はいいのよ」パールがすぐ横にいて声を掛けた。
先に改札に向かっていたと思っていたので、こんなにすぐ横にいたとは思わなかった涼子はビクッとしてパールの顔を見た。パールは昨日と同じ柔らかい笑顔で笑っていた。
「行きましょう」とパールは笑顔のまま左手の改札口に歩いて行く。涼子もそのあとを追い歩きはじめた。歩き始めてすぐ後ろの自動券売機の辺りを振り返った。
自動券売機といい改札口といいレトロな雰囲気がして、その上の駅ビルの店内とはまったく違った時代にいるような錯覚を起こさせる。正面に向き直ると少し先にパールがこちらに顔を向けて立っていた。改札を過ぎてもそこには電車のホームは無いようで、左曲がりに通路が続いていた。その通路の先は少し照明が薄暗いように見えた。パールはその通路の左にある扉のドアノブに手をかけて涼子を待っている。
涼子が近づくと「ここよ」と言いながらパールが扉を開けた。
すると、開き始めた扉の隙間から白い光が差し込んだ。扉が全て開けられると涼子の目の前は白い光に包まれ、眩しくて何も見えなくなった――
「早く入って」とパールの声がする。涼子はさっき見えていた扉のある方へ進んだ。
「もう少し前よ」と声が聞こえた。
言われる通り少し前に涼子は進んだ。「そこでいいわ」と声が聞こえると扉が閉まる音が聞こえて白い光が消え、視界が戻ってきた。視界が戻ると涼子のすぐ横にパールが居た。
そして二人の正面には白い建物があった。
その建物は涼子の目にも古い建築様式の建物であるように見えた。建物の上には青い空が広がっていた。その青い空は初めて見るような鮮明な青い空だった――

夢はそこで途切れた――
頬を濡れたものに擦りつけられる感触とともに涼子は眼を覚ました。子犬が涼子の頬を舐めていた。昨夜パールのマンションに寄ったあと、久しぶりに子犬に会いたくなって、ウミと一緒に涼子のマンションに帰ったのだった。
涼子は子犬を抱き抱えると、目覚める直前に見ていた夢を思い出した。
(不思議な夢を見ていたな――あんなにはっきりとしたカラーの夢は始めて見た――まだ続きがあったように思えるけど思い出せない・・・)
時計を見ると午後6時を過ぎていた。パールのマンションに長居をしたとはいえ今日は随分と良く寝たものだと思い、そろそろと支度を始めた。

ウミと涼子の支度が終わる頃、涼子の携帯の呼び出し音が鳴った。
「涼子になったウミ」が手に取って見ると涼子の母親からだった。
そういえば、ここ2週間以上連絡を取っていなかった「ウミになった涼子」は「涼子になったウミ」に無言で手を合わせて電話に出るようにとお願いした。
「もしもし涼子?あなた元気なの?」
「元気だよ、お母さんはどうなの?」
「こっちは私もお父さんも元気よ、あなたは大丈夫なの?」
涼子は子犬の頭を撫でている。すると思い出したようにウミに手招きをした。ウミが怪訝な顔をするとさらに大袈裟に手招きした。
「何ですか?」電話の通話口を塞ぎながらウミが聞いた。
「あの犬の縫いぐるみまだあるか聞いてみて、私の部屋に有ったと思うから」と涼子が小声で囁いた。
「縫いぐるみ?」
「ウミの実家に有ったのと同じ縫いぐるみだよ」
「あーあれ!」
ウミの実家で見つけた縫いぐるみが私の実家にもまだ有るのか涼子は気になっていて母親に聞こうと思っていたのだ。
「ねえ、お母さん、私の部屋に犬の縫いぐるみが有ったでしょ?あの茶色いプードルの・・・」
「縫いぐるみ?」
「あの、茶色いプードルで赤いベスト着ているの」
「そんな物有ったかしら、あなたの部屋行ってみるわ、ちょっと待ってて・・・」
階段を上っている足音がする。続いてガサガサと捜している音が聞こえる。
「もしもし、見当たらないわよ・・・やっぱり無いわね」
「涼子になったウミ」は「ウミになった涼子」に胸の前で腕をクロスさせ×を作った。
「だいたい涼子は縫いぐるみとか全然興味無かったじゃない」と母親の声。
「そうだったかな?じゃあ見つかったら教えてよ」
「本当にないと思うわよ」
「見つかったらでいいから、お母さん、私そろそろ出かけるから」
「ああ、そうなの、最近体調はどうなの?あなた気を付けてよ」
「ありがとう、心配しなくても大丈夫、体調も良いから、じゃあまた連絡するから」
「涼子になったウミ」が電話を切ると、子犬を抱いた涼子が聞いた。
「見つからないって?」
ウミが黙って頷く。
(そうだったかな?でもあの縫いぐるみは私も持っていたって感じたんだけど・・・)
「さて、そろそろ出かけなきゃ、じゃあ、私先にいくね」
涼子は玄関で靴を履くと、思い出したように振り返った。
「ねえウミ、時間があったらカラーの夢ってどうゆう意味があるのか調べてくれない?」
「カラーの夢ですか?」
「うん、今日、カラーの夢見たんだよね、すごく鮮明な、なんだか気になって・・・」

涼子には以前から週末になると訪ねるところがあった。
(あの出来事が起きてからの2週間はそこに行けずにいたから・・・)
週末が近づいた金曜日の夕方、涼子はウミに電話をした。
(週末、一緒に言って欲しい所がある・・・)
涼子の願いを快く聞いて、ウミは日曜の午後、待ち合わせ先である市大病院に向かった。
その病院は横浜駅からバスで15分程の距離に有り、途中に遅刻坂と呼ばれる曲がりくねった坂の上にある。ウミが乗ったバスはその遅刻坂に差しかかっていた。
バスが坂の傾斜がきつくなったところに来るとエンジンの排気音は一層大きい音をたてた。その排気音の大きさは坂を上り切るまでしばらく続いた。坂を登り切った先を左に曲がると左右に広がる街路樹の先に病院の建物と玄関前のロータリーが見えてくる。バスはロータリーに入るとスピードを落とし、半周して停留所に止まった。バスのドアが開くとウミはバスから停留所に降り立った。
正面玄関の自動ドアを通り過ぎるとそこは吹き抜けとなった大きな待合室になっていた。
大きな待合室の左右をゆっくりと見渡し涼子を探す。左右に何度か見渡していると右の先にこちらに向かって手を小刻みに振る自分の姿をした涼子を見つけた。自分の姿をした涼子がこちらに向かって小走りで近づいて来た。手には花束が握られている。
「おはよう、ごめんね」
「済みません、ちょっと遅れましたかね」
「大丈夫だよ」
「この近くにこんなに大きな病院があったんですね」
「うん、今日はちょっと付き合ってね」
エレベーターで4階に着くと涼子はエレベーター前のナースセンターで受付けを済ませた後、廊下の先へ進んだ。ウミは自分の姿をした涼子の後に続いて廊下を歩いた。涼子は廊下の突き当たりから3部屋手前の病室の扉の前で歩みを止める。ウミの顔を見ると少し頷いて病室の扉をノックして入って行く。涼子が入った病室には男性がベッドに横たわっていた。
その男性はウミや涼子の父親と同年代かと思われた。この病室では二人はお互いの役割を演じる必要は無かった。涼子は慣れた要領で窓ぎわのテーブルに花を飾る。
ベッドの横の椅子に腰掛けた涼子は話しかけることもなくその男性を見つめる、
そのまま10分ぐらいは経過しただろうか、その間、ウミは涼子に声を掛けられなかった。
暫らくの沈黙のあと、遠くを見るように天井を見つめ、立ち上がった涼子は病室を後にした。ウミも涼子のあとに続き病室を後にする。
病室の扉を静かに閉めるとき、ウミは病室の名札に一瞬目が止まった――

病院の玄関を出て二人は歩いていた。
「涼ちゃん、あの人は?」
「あの人はね、ドナーとして骨髄摘出手術中の麻酔事故で意識が戻らなくなったそうよ・・・当時54歳で、あと半年でドナー資格が終わるところだったって。
私、3年前に入院したことがあるの、血液の病気でね、私は骨髄を提供してくれた人がいたから今、こうして無事にいられるの。
ドナーが誰かは教えてもらえない、だから誰が私を救ってくれたかはわからない。あの人、実は高井さんのお兄さんなのよ、私がドナーに助けられたことを話したら、高井さんからお兄さんのことを聞いてね、一度一緒にお見舞いに行ったの、それから私一人でもここへ来るようになって。ドナーとして提供してくれた人たちの動機は皆すべて同じ・・・ドナーの人達のお陰で私は生きていると思っているの」
「そうだったんですか、涼ちゃんがそんな大変なことに・・・」
二人は玄関前のバス停留所の脇にあるベンチに腰掛けた。
「もし二人ともこの状況が続いたら、つまりウミが私のままだったら、これからもここにお見舞いに来て欲しいの。まあ、今日ここへ連れて来なくても自然と来てくれるようになるかも知れないけど・・・」
「来ますよ、でも自然と来るようになるってどうゆうこと?」
「段々と今までの記憶が薄れてこない?入れ替わりが起きたころは感じなかったけど・・・
そのかわり、ウミが持っていたと思われる最近の記憶から順を追って増えてきているように思うの」
「涼ちゃん、実は僕、その感覚は前からありました。涼ちゃんのお店でも不思議と涼ちゃんのお客さんの名前が出てきたり、自然と話せてしまう、時間が経つにつれて段々と涼ちゃんになりきっているようです。やはりパールさんが言っていたように入れ替わると前に持っていた記憶を忘れてしまうということが少しずつ起きているのかもしれません」
「私、体が持つ記憶に従ってしまうということが耐えられない、私は私だもの、誰にも代わって欲しくない」
涼子はもし神様がいて、神様がこれを操っているものなら直訴したいと思った。
「だけど僕は段々、涼ちゃんになる、もともとあった僕のこころは涼ちゃんとして
生きていく、もともとあった僕の心は消えてなくなってしまうような・・・なんだか乗り物を乗り換えるようで寂しいです」
「あの話の通りになるならば、本当に寂しい、体と記憶に従った人格は生きて行くけど、今までの私達の心は一体何だったの?」
「僕もそう思いますよ」
「もう自分の姿で高井さんに会えないかな・・・」
「やっぱり高井さんのことが?・・・」
「3年前、化学療法の繰り返しで入退院を繰り返していた頃、高井さんにメールで愚痴を
言ったの――楽しいことなんて何一つない――なんてね、そしたら治療の合間に『OLIVE』に連れて行ってくれた――ここが涼ちゃんの一番楽しいところでしょって。私、薬で薄くなった髪の毛をキャップで隠して一緒に遊んだよ、あのときの私には本当に砂漠にオアシスだった。そんなときに一緒に居てくれた人だからね」
二人に少しのあいだ沈黙の時間が流れる。

「涼ちゃん、いいですか?もう一つ質問が・・・」
「何?」
「病室にいたあの人の下の名前知っていますか?」
「確か・・・アキオさん」目を上に向けながら涼子は答える。
「離婚した父さんと同姓同名だ」
「えっ、あなた前の苗字は高井だったの?」
「そうです」
「それでお父さんの歳は?」
「たぶん同じくらい」
「顔見たでしょう?」
「顔は僕が物心付く前のことで覚えてないです、でもまさかですよね、いくらなんでもそんな偶然があるわけない」
病院と駅の間を循環するシャトルバスが排気音を響かせてロータリーに入って来た。
「ねえ、小樽に行こうよ、実は昨日ウミのお兄さんから電話があってね、お母さんあまり良くないみたいだし、小樽に行けばお父さんのことも何かわかるかも」
二人はそのまま互いのマンションに戻り、急いで支度を済ませると羽田空港へ向かった。
急な旅立ちであったが、チケットを手に入れ、搭乗時間までの間、母親への土産物を探していた。日曜の夕方ではあるがそれほど混雑していない空港のロビーを二人は歩いていた。
売店に入ると売り場の棚から涼子が一つ箱を手に取った。
「確か・・・これでしょ?」
「そうですけど、そんなことまでわかるようになってきたんですか?」
涼子が手にした箱はカステラだった。ウミの母親はカステラが好物だった。
「でも、食べられないかな・・・」涼子は別の棚を見廻した。
「いや、母さんカステラ大好きだったから喜びますよ、でも涼ちゃん、本当に僕は言って無かったですよね?カステラのこと」ウミは涼子の顔を覗き込む。
「もう、私一人で行っても大丈夫かもね」と「ウミになった涼子」は微笑んだ。
「そんなー、僕も行きますよ!」


二人が小樽の病院に着いたのは面会時間終了の15分前だった。
羽田から連絡を取っていた為、病室の手前のホールでウミの兄が待っていてくれた。
「兄ちゃんごめん、急で」
「いいよ、なるべく一緒に居てあげてくれよ、母さん、あのときより悪くなってしまって」
静かに病室の扉を開け、中に入る二人。
「母さん、ただいま」
「ミッコかい?」
「うん、そうだよ。気分はどうなの?」
「今日は大分いいよ」
「ウミになった涼子」は母親の手を握る。
「母さん、今日、カステラ買ってきた、今日はもう遅いから、明日も来るからそのときに一緒に食べようよ」
「カステラ・・・そうかい、ありがとう」
「お母さん、カステラが好きなんですね」「涼子になったウミ」が母親の手を握った。
「あの綺麗なお姉さんかい?」
「また一緒に来てくれたよ」「ウミになった涼子」が言った。
「有難うね、ミッコがお世話になっているね」
「お母さん、大丈夫よ、お世話になっているのはこちらの方ですから」「涼子になったウミ」は泣きそうになるのを堪えて笑顔で答えた。
面会時間が終わり病院を出るとき、「ウミになった涼子」はウミの兄に聞いた。
「父さんには連絡ついたの?」
「それが、弟さんとは連絡が取れたけど・・・横浜で入院してるらしい、何年も意識が戻らない状態だというから・・・」
「横浜で入院!?・・・」

病院の玄関のフロアでウミが電話をしている。電話の声にしっかりと反応して何度も頷いている。
「わかった、じゃあ高井さん、お願いね」
電話を折りたたみ、バッグにしまいながら玄関ホールのシートで待つ涼子に近づいた。
「高井さんのお兄さん、結婚していた頃は小樽に居たようです。それから奥さんとの間には娘さんがいたと・・・明日、高井さんが戸籍を調べてくれるそうです、そうすればはっきりします」

二人は遅い夕食を病院の近くのファミレスで取った。
「涼ちゃん、僕は母さんがこんな容体なのに自分として接することが出来ないことが辛いです」
「そうだね、その分私がウミとして頑張ってお母さんに接するよ」
「巻き込んでしまい、ごめんなさい」ウミはゆっくりと頭を下げた。
「大丈夫だよ、ウミはさ、自分の気持ちが身体と違うことに気づいてからずっと本当の自分として人に接することが難しかったのだろうね、理解されることも難しいだろうし、私こうなってみて気持ちが少し分かるようになったよ・・・でも今は本当に辛いよね」
「僕、自分の気持ち通りに生きられないことには慣れていますよ。でも横浜に来てからは随分と楽になりました。自分と同じ気持ちを持つ人達に出会えましたから、なんかやっと居場所が見つかったという感じでした」と涼子の労いに応えるウミ。
「ねえ、ウミはいつからお父さんと離れ離れになったの?」涼子が聞いた。
「物心がつく前だから・・・母さんはそのことについてはあまり触れなかった、僕は正直に言うと父さんを少し恨んでましたよ、でも母さんは父さんが戻るのを待っていたように思います。それからは僕と母さんと二人きりで・・・なのに結局、僕も母さんを置いて出て行ってしまった。
僕は中学生のときに女の子を好きな気持ちに気が付いたんです、でもそれが僕にとっては自然なことだからどうしようもない、僕は僕で私にはなれない、でも、こんな娘で母さんはどんなふうに思っているのかな?せっかく娘として生んだのに、がっかりさせたのかと思うと・・・今からでも何か喜ばせてあげたいけどあまり時間がない・・・」
「そうだね・・・今の私達に出来ることは・・・出来るだけ傍にいてあげようよ。でもね、あまりシリアスになっては駄目よ、無力感だけになっちゃうから。さてと、そろそろ今日泊まるホテル探さなくっちゃ」
テーブルを見つめていたウミがふっ切るように顔を上げた。
「そうですね、ところで涼ちゃん、これがもしドラマとか映画だったら二人は結ばれる夜になりそうですね」「涼子になったウミ」は大げさに身を乗り出すようにした。
「これがもしドラマや映画だったとしても、そうゆう場面は不必要だと思うし、私達の場合それは有り得ないから!」
「やはり、この物語は男と女を超越した愛の物語ですか?」
「むず痒いこと言わないで、そろそろ行くよ」
「そうですね、あっ、そうそう、涼ちゃん、言うの忘れていましたよ、カラーの夢のこと」
「カラーの夢? あっ、何か分かった?」
「お告げの夢、真実を伝える夢、メッセージドリームだそうです」
「メッセージドリーム?・・・」

翌日の朝、二人は再びウミの母親の病室を訪れ、三人で居る時間を慈しむように過ごした。
お土産のカステラを3人で切り分けたが、母親はそのカステラの香りだけを楽しんだ。
カステラの香りと二人との会話を。
「涼ちゃんはね、僕が勤めているショーパブによく来てくれるお客さんなの、すぐ近くのクラブに勤めるお姉さんでね」
「そうかい」
「多いときは週に5回ぐらい遊びに行くこともあるんですよ、毎日ショーがあるお店で、とても素敵なお店なんです」
「そうかい、ミッコは良くして貰っているんだ」
「僕もお返しでたまに涼ちゃんのお店に遊びに行くことも有るんだよ」
「そうかい」
「でもね、お母さん、ミッコはあまり踊りが得意じゃないんですよ、最初の頃はもう見るに堪えないぐらい、幼稚園のお遊戯みたいで」と「涼子になったウミ」がその振りをして見せた。
「踊りって、お前が踊っているのかい?大丈夫かね?」
「そうだけど、毎日頑張っているから」
「でも、最近は最初の頃に比べたら大分うまくなったんですよ。私もそれが楽しみで」
午後の飛行機の時間が近付くと、ウミはこのままここに残りたいが残れない今の自分の姿を悔やみながら病室を後にしなければならなかった。
二人が病室を出ようとするとき母親は二人に声を掛けた。
「二人とも本当によく来てくれたね。ありがとうね」

4時間後、二人は関東地方の天候不順で2時間遅れで離陸した飛行機に乗っていた。
二人は発着便の遅れによる混乱で席が離れていた為、一人になった涼子は軽いまどろみの中にいた、なぜか不思議に気分が良かった。ここに来るまではこのまま自分が自分でなくなることへの抵抗感があったが、今はもうその気持ちが薄れてきていた。小樽の町並みを見たときやウミの母親に対して湧き上がる不思議な懐かしい感覚とともに・・・
二人を乗せた飛行機が茨城上空に差しかかったとき、冬には季節外れな積乱雲が発達していた。羽田への着陸が天候のため15分ほど遅れるとアナウンスが流れたとき、白い機体の前方に落雷による閃光が走った、閃光は機体の前方から主翼を走り抜けて主翼の端に取り付けられたディスチャージャーを抜け空に散った。機内でも閃光が走る、前方右から側面に走る白い閃光、衝撃はないが強く白い光が機内を包んだ。
閃光が去った機内は少し間をおいて騒然となった。悲鳴と立ち上がる乗客、その閃光で目が覚めた涼子は騒然とする機内に気が付いて立ち上がったとき、先ほどまで座っていた席とは違う席にいることに驚いた。そしてウミを探して振り向く。後方の席で立ち上がり両手を振り涼子に何かを叫ぶウミ、だがキャビンアテンダントに座席に着くように促されてしまう。しばらく騒然となった機内も5分後には落ち着きを取り戻し、アナウンスは無事に10分後に着陸予定であることを告げた。
着陸した飛行機からゲートを抜け、涼子はウミをフロアで待った。
急ぎ足で歩く乗客たち、無事着陸できたことの安堵感からか皆が饒舌で騒がしい、その後方から涼子を見つけると走り近づくウミ、涼子の前に立つと、大袈裟に手を動かし、興奮しながら言った。
「涼ちゃん、雷、あの雷の後どう?どうなった?!」
「何が? 大丈夫だけど?」
「じゃなくて!元の体に戻っているでしょ?!」
「あれっ、ほんとだ、私の体だ!」急いでバッグから鏡を探す涼子。
「涼ちゃん!これ、元に戻れたんだよ!雷だよ、雷が落ちたときに!」
「やったー!」
両手を合わせて小躍りする二人、そしてあまりに喜ぶ二人の姿に引いてしまう周りの乗客たち。その日の空港からの帰りに高速道路から見える横浜の夜景は、二人にとって久しぶりに輝いて見えた。 

10
そして一週間後、二人は再び小樽の病院にいた。
昨夜、店の営業時間中にウミの兄から母親が危篤だと電話で連絡が入った。
涼子に連絡すると一緒に行くと言ってくれた。
早朝に横浜を出てウミと涼子は小樽に向った。羽田から飛行機に乗り、小樽駅からタクシーで病院に向かう。タクシーで小樽運河を走る際、後ろに流れ去るガス灯のスピードがもどかしい程に遅く感じた。そうして駆けつけたが母親を看取ることは出来なかった。

病室には西日が差し込んでいた。
母親が居たベッドの横で椅子に腰掛けたまま数時間が過ぎて、初めてベッド脇の袖机の上に西日に照らされた古い封筒があることに気が付く。その皺だらけの古い封筒を手に取ってみると、宛名書きのところには「母さんへ」と書かれていた。
ウミの兄が病室に入ってきた。
「その手紙、お前が2年前に小樽を出て横浜に行くと言って飛び出していったときの置手紙だろ?母さん入院中も枕の下に入れていたんだよ、余程大切だったんだな」
「僕が書いた手紙?そんなこと、すっかり忘れていたけど・・・」
「母さん、ミッコが本当にお姉さんを連れて帰って来てくれたって喜んでいたよ、それから
父さんのことでミッコに淋しい思いをさせて悪かったと・・・」
「僕にお姉さんなんていないでしょ?」
「俺も読ませて貰ったけど、その手紙よく意味がわからないな、ただな、あの頃のお前は大分思い詰めていたから、そんな手紙を置いて行ってしまったのかもしれないな・・・まあ、読んでみなよ」と兄は微笑んだ。ウミは皺だらけの封筒から青い便箋を出した。
手紙には、こう書かれていた。

「母さんへ
ずっと一緒に居てあげられなくてごめんなさい。
僕が女の子でいてあげられなくてごめんなさい。
僕は生まれたときは女の子だったけれど、あるときその女の子を追い出して
男の子の僕が居座ってしまったのかもしれません。
そうだとしたら、僕にはお姉ちゃんがいたのかも知れません。
だから母さんの心には、そのお姉ちゃんと今の僕の二人がいるのかも知れませんね。
いつか、僕が小樽に帰ってくるときが来たら、そのお姉ちゃんも連れて帰って来れるといいな。そのときは、母さんの好きなカステラをお土産に持って帰るから一緒に食べられるといいね。 それから、そのときは、いなくなっちゃった父さんも一緒だといいね。
ごめんなさい。 行って来ます。     海子」


手紙に見入ったままのウミに涼子が近づき、後ろから肩越しに手紙を覗きこんだ。
涼子が手紙の書かれた文字を追って行くと、その便箋の青い色に反応するように突然あの不思議な夢の続きが蘇った――

初めて見たと思えるほど鮮明な青い空――
その空の下、パールと涼子の正面には真っ白で古い建築様式の建物があった。
建物の正面の入り口には10段程の白い階段がある。
「あの、ここは?」と正面の建物を見ながら涼子は聞いた。
「うん、そうね、ここは・・・お役所のようなものかしら」パールは自信無さげに言う。
「お役所?」
「まあ、入ってみない?」と言うとパールは階段を先に登りだした。涼子もパールの後に続いて階段を登る。パールが重そうな扉を両手で押すと、きいと擦れる音がして扉が開いた。どうぞこちらへとパールの声に促されて涼子は扉の内側に入った。
中に入ると正面には大理石の階段が有り、その上に踊り場が有る。その踊り場の上には正面と左右に分かれて階段が続いている。正面の階段の手前には左右に廊下が伸びていた。パールと涼子は左側に伸びる廊下を進んで行った。廊下は建物を外から見たときの印象より遥かに長く先まで続いている。廊下の左側には窓があり、窓の外には芝生が植えられたスペースがあり、芝生の先には森のように木々が続いている。窓から見える芝生と木々の緑もまた、初めて見る鮮明な緑だった。
廊下の右側には20メートル程度の間隔を置いて木製の扉が並んでいた。
数えて5個目の扉の前でパールは足を止めた。
「中で説明するわ」と言うと扉のノブを押してパールが先に入った。
中で扉を開いたまま、どうぞと涼子を促す。
涼子はゆっくりと扉の中に入った。後ろでかたんと扉の閉まる音がした。
その視界に入ってきたものは扉の外から想像出来た以上に広く遥か彼方まで続くかのような広さがあった。その部屋には机が整然とこれもまた遥か彼方まで並び、沢山の人が机の前に座り、何か作業をしていた。その人々は上下とも白い作務衣のような服装をしている。パールの後に続いて並んだ机に近づくと、机の上にはコンピュータが置かれており、そのコンピュータに向かって人々は作業をしている。
涼子はそのコンピュータの画面に見入っていた。
画面には画面の左角から螺旋を描くように小さな画面が表示され右上に行くにしたがって段々とその画面が大きく表示されていた。その螺旋はカーソルを動かすとその動きに連動して伸びたり縮んだりした。小さな画面は自由に拡大表示が出来るようだった。
肝心なその画面に表示されているものは、まるで盗撮でもしているかのように人々の日常生活が映されていた。
「なんだか分かる?」パールが涼子に話しかける。
「説明・・・してよ」
「ここに表示されているものは人々が今まで生きてきたこと全てが表示されているの、現在とこれから起きる予定のことも全てが」
「・・・・・」
「ここは世界の人々の日常をサポートしているコントロールルームよ」
「キャバ嬢をこんなところへ連れてきてどうするつもり?」涼子は眉間を寄せて眉の左右を下げて聞いた。
「私だってショーパブの綺麗目なホモよ」としなを作ってパールは笑った。
「ねえ、パールちゃん、あなた一体何者なの?何故ここにいるの?」
「私は天使・・・まあ、堕天使かしら? ところで涼ちゃん、ここであなたの知りたかったことの全てが分かるわ!」
パールは画面上のカーソルを動かし始めた。すると画面が切り替わり、何かのマークが画面上に無数に並んだ。何かのマークは象形文字のように見えた。その中から一つのマークを選択して確定すると、先ほどの螺旋を描く画面が表示された。
「これが涼ちゃんの画面よ」と言ってパールはコンピュータの画面を涼子に良く見える角度に向けてくれた。
涼子が自分でカーソルを動かすと螺旋を描く画面もそれにつられてぐるぐると動いた。
中央に拡大された画面を次々と切り換えると涼子にとって見覚えのある場面が次々と表示された。画面の左下にカーソルを動かすと過去に遡り、右上に動かすと未来に進むようだ。
覚えている場面が多いが忘れている場面も全てが自在に切り替わった。
そして、ここ数カ月、数年前の画面を丹念に覗いていた涼子はふと思い出したようにカーソルを左下に次々と動かし始めた――さらに過去の自分を見てみたい・・・
カーソルの動きは加速して左下に続く画面を表示して行った。画面の切り替えが早くなり、画面の内容が確認出来なくなる程になって急に画面の切り替えが停止した。その画面に表示されたのは涼子では無かった。
そこに映し出されたのは小樽のウミの部屋と、あの窓枠から外の風景を見つめるウミの姿だった――まだ小学生ぐらいだろうか。
窓の横にある机の上には犬のぬいぐるみが置いて有る。
画面を見つめる涼子に、いつもとは違うゆっくりとした口調でパールが話し始めた。
「あなたの魂は涼子の身体に入る前はウミの身体にあった。人の魂は身体の死によって入れ替わるものだけではなく、身体が生きている間にも、魂は必要な間隔を持って入れ替わる、入れ替わると、身体と、身体の持つ記憶と向き合って生きる。 あなたの前にも後ろにも必ず、誰かがいて繋がっている。 だから、誰も一人では無いのよ――」

そこでパールの声は聞こえなくなり、夢の再生は終わった。

涼子は手紙を読み終わると、ウミの手から手紙をゆっくりと取り上げた。
「お姉ちゃん――か・・・」そう言いながら涼子は手紙を折り目に沿って丁寧に折り
たたんだ。
折りたたむと、封筒のシワを伸ばし、中に入れた。
涼子はウミにその封筒を渡しながら言った。
「ウミ、私、またお母さんに会えて良かったよ」

エピローグ
涼子は店が終わると「OLIVE」へ遊びに行こうと友達のいづみを誘った。
涼子は店のエレベーター前で矢印のボタンを押し、5Fで点灯しているLEDを見つめながら降りてくるエレベーターをいづみと待っている。早く来ないかとでも言いたげに操作ボタンの付いているプレートを人差し指で何度も軽く叩いている。
「涼ちゃん、今日、高井さん来てたよね」
「うん」
「なんか今日の涼ちゃん嬉しそう」いづみが涼子の顔を覗き込む。
「そうなんだ」嬉しそうにいづみに振り向く涼子。
「何が有ったの?」
「あのね・・・『OLIVE』で話すよ」
エレベーターの4FのLEDが点灯してドアが開いた。
エレベーターに乗り込む二人。ドアが閉まる。

OLIVEに着くと丁度ショーの最中だった。
暗い客席をOLIVEのスタッフにハンドランプで案内されて二人は席に着く。
ショーが終わり、涼子といづみのテーブルに衣装から着替えたウミとパールが早足で着く。涼子はウミが来るのを待ちきれないようだった。
「ウミ!今日、高井さんから聞いたんだけど、高井さんのお兄さん、いや、あなたのお父さんね、意識が戻る兆候が出てきたらしいの! 連絡来てない?」と涼子がテーブル越しに体を乗り出してウミに聞く。
「エーッ本当?! 留守電にしていました! じゃ、日曜に行きましょう!」
「大丈夫なの?小樽の方は?でも、お母さんのことは残念だったよね・・・」
「涼ちゃん、もう大丈夫ですから、日曜は絶対に僕も行きます」

嬉しそうに話す涼子とウミを見ながらパールは小声でいづみに言った。
「なんだか兄弟みたいよね、この二人は・・・それにしても最近ウミは踊りが上手くなるし、涼ちゃんは飲んでも悪酔いしなくなるし、拍子抜けよ、私は涼ちゃんの酔った姿が好きだったのよ」
「そういえば、最近の涼ちゃんは酔っても暴れなくなったな――今日もけっこう飲んでいるはずなのに・・・」
「そうよねえ、何か変よねえ、あの二人、本当に元に戻ったのかしら」とパールは呟いた。
「えっ、パールちゃん、今、何か言った?」
「いや、何でもないわ・・・」
「でもさ、パールちゃん、二人とも嬉しそうだからいいじゃない」
-終-

クロスオーバー

クロスオーバー

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-12-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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