足枷

 男は椅子に座っていた。月明かりだけが差し込む暗い部屋の中で、ぼんやりとしていた。至る所に楽譜が散らかっている。そのどれもが鉛筆やボールペンで大きくバツをつけられている。男の前には女が座っていた。美しい女だ。黒く美しい髪を背中に流していた。滑らかな肌は雪のように白く、黒い服を着て男の方を見つめていた。
男が徐に口を開いた。
「もう終わりにしようか」
 男の言葉に女は何も答えなかった。
「俺たち、ここまでよくやったよ。もう十分だと思うんだ。あとは余生を楽しむだけ。お互い自由の身になろう。俺は残りの人生を楽しむ。君は他の人のところにでも行けばいい。それがお互いのためだろう」
 男は早口で捲し立てた。その口元は歪んだ笑みを浮かべている。目は光を灯していない。それでも女は何も答えなかった。男はため息を吐いたあと、乾いた笑い声を上げた。
「君は昔から無口だなあ。でも俺は、君のそういうところを好きになったんだ。初めて会ったのは3歳の頃かな? 無口だけど素敵な笑みを浮かべる君を幼いながらにすぐに好きになった記憶があるよ。君もすぐに俺の気持ちに答えてくれた。時々子供みたいに声を上げて笑う姿がすごく好きだったなあ。なあ、もう一度あの笑顔を見せてくれないか?」
 男は女の顔をじっと見つめた。女は小さく笑った。その笑顔を見て、男はまたため息をついた。そして下を向いた。男の心は冷え切っていた。
「あの時、君は俺の気持ちに答えてくれたと思っていたけど、勘違いだったようだ。俺はずっと君に片思いしている。君にとって俺はただの遊び相手だったってことか」
「そんなことないわ」
 女は初めて言葉を発した。その言葉で男は顔を上げた。女は綺麗な笑みを浮かべていた。男はその笑顔に数秒見惚れた後、いやいや、と首を振った。
「もう俺は騙されないぞ。そう言ってたぶらかしてまた俺のことを傷つけるんだ。俺と君が想い合った日なんて君はどうせ覚えてないんだろう」
「覚えてるわ」
 女は短く言った。表情は変わらない。綺麗な笑みが男にとって冷たく見えた。男は自嘲した。
 君はいつもこうだ。周りに壁を作っているように君の中には踏み込ませてくれない。どれだけ俺が抱きしめても、俺の背中に手を回してはくれない。唇を合わせても綺麗な笑みを見せるだけ。どれだけ君に怒鳴っても恥じらいもせず綺麗な笑みを見せるだけ。俺がどんな行動をしても君は何も返してこない。拒絶もしない。俺はこんなに君を愛しているのに。男はその思いを心の中でグルグルとかき混ぜた。
 男は机に伏せた。そして静かに泣き始めた。女はその様子を見ているだけだ。部屋に男の泣き声と秒針の音が鳴り響いていた。短針は二の数字を指していた。しばらくすると、男は顔を上げた。涙で顔が濡れている。男は鼻をすすりながら話した。
「俺は君を愛しているんだ。こんなにも愛している。でも君の口から愛の言葉を聞いたのは幼少期の頃で最後だ。あれはあの時の気まぐれだったのか。それならどうして今も俺の傍にいるんだ。俺のことを愛していないならさっさとどこか遠くへ行ってくれないか。もう辛いんだ。君の貼り付けられたような笑顔と機械のような言葉が。それを見た時の俺の気持ちがわかるかい? でも俺は君のことをこんなにも愛してしまっているんだ。どれだけ君が答えてくれなくても俺は君のことを愛し続ける。君はあまりにも綺麗だ。見た目の話じゃない。もちろん見た目も綺麗だ。その雪みたいな肌も黒い髪も愛してる。でも、俺は君の存在そのものに魅了されたんだ。俺は君のためなら何でもすると、初めて出会った時から決めてるんだ。そうだ、俺の一番は君なんだ! 俺が持つ全ての時間を君に費やした。今までも、もちろんこれからも。だけど、君は愛してくれないんだろう? じゃあ、いいさ。俺は君が愛してくれないなら死ぬしかない。だって君が俺の生きる意味なんだから。なあ、何か言ったらどうだい?」
 怒ったり泣いたりしながら男は捲し立てた。男の顔はもう涙や鼻水でぐしゃぐしゃになっていて他人が見れば顔を顰めるほどだった。しかし女は少しの動揺も見せず、男の様子を見ていた。男は悔しそうに机を叩いた。
「くそっ、くそっ! 君はいつもそうやって俺を見下したような目で見る! 君は俺を馬鹿にしているのか! ああ、いいさ。君がそのつもりなら俺にだって策はある」
 男はそう言って机に体を乗り上げた。そして女の白い首を両手で掴んだ。そして徐々に力を込めていった。しかし女は顔色を変えない。それどころか口元に笑みを浮かべている。それを見て、男の顔がひどく歪み、男は机に乗り上げたまま小さく泣き始めた。そして女の首を絞めていた手をダラン、と垂らした。
「君がいるから苦しいんだ……でも君を愛しているんだ。俺はどうすればいい? 君を憎んでいるのか愛しているのかわからなくなってきた。でも今更なんだ。今更、君から離れるなんてできない。俺は君の傍にいられることが嬉しかったから。でもどうだい? 君は俺を褒めない、見ない、愛さない。罵りもしない! 君は何を思って俺を傍に置いたんだ……? 俺を苦しめたいから置いたのか……?」
「違うわ。あなたには幸せになってほしいのよ」
 女ははっきりと言った。男は女の顔を見た。相変わらず、綺麗な笑みを浮かべている。女は男の手をそっと握った。
「あなたの手は私の喉を絞めるためにあるわけじゃないでしょう」
 男は女の言葉にポロポロと涙を流した。男は机の上から降りてトボトボと部屋の奥の方へ歩いて行った。そこには見事なグランドピアノがあった。男はピアノ椅子に座り、蓋を開けた。白と黒の鍵盤が美しく並べられている。男は一つの白鍵を鳴らした。同時に足もペダルを踏んでいた。トーンという音が響く。男は両手を鍵盤の上に置き、ピアノを弾き始めた。女はその様子を黙って見つめていた。
 そうだ、俺の手は彼女の首を絞めるためにあるわけじゃない。ピアノを弾くためにあるのだ。このピアノと彼女さえいれば俺は生きていけるのではないか。男は先ほどの自分の言動も忘れて弾き続けた。
最後の音を鳴らして鍵盤から指を離し、ペダルから足を下ろした。そして女を見た。女は変わらない綺麗な笑みで静かに拍手をした。男の顔が少しだけ歪んだ。
「素敵ね」
「思ってないだろう」
「思ってるわ。ピアノ自身が美しいもの」
「なるほどな。俺が弾かなくても素敵だと君は言うわけだ」
 男の言葉に女は答えなかった。男は舌打ちをした。そしてピアノの鍵盤を見つめた。そしてそっとその鍵盤を撫でた。
「もう弾かないの?」
「弾いても君は笑わないだろう」
「そうね、笑わないわ」
 男は女の顔を悲しげに見つめた。そして女のほうへ向かっていき、強く抱きしめた。
「どうしたらあの頃みたいに笑ってくれる? 何故なんだ。俺の何が悪い? なあ、なんでもするからお願いだよ。何が欲しい? 君が望むものは何でもあげるよ。だからさ笑っておくれよ」
「私が欲しいものは美しさよ」
「君は十分美しいじゃないか」
「私の美しさじゃないわ。あなたの美しさよ」
 そう言って女は男の髪を優しく撫でた。男は女を抱きしめるのをやめて女の目を見つめた。真黒な瞳はまるで宇宙の深淵を盗んできたようだった。真っ暗だがその中に強い意志のようなものがあった。
「俺に美しさなんてない……服だってみすぼらしい。髪を切りに行く余裕だってない。それは全部君のためにお金や時間を割いたからだ。なのに君は俺に美しさを求める。そんなの無理に決まってるだろ。君はやっぱり俺を苦しめたいんじゃないか」
 女は黙った。男はそれを肯定と受け取った。男はその場に蹲った。
「ああ、そうかい。結局そうだったんだ。君は俺を苦しめたい。だから傍にいる。あの頃、見せてくれた笑みも俺を苦しめるための誘惑で、時々、甘い言葉を投げかけて期待させるのも俺を苦しめるため。君の行動は全て、俺を傷つけるためのものだったんだ。君のせいで俺の人生はぐちゃぐちゃさ!」
 男はそう叫んだあと、部屋の奥へ消えていき、また戻ってきた。手には頑丈なロープを持っていた。天井からぶら下がる蛍光灯に縄を強く結びつけ、輪を作った。椅子の上に立って、その輪に首をくぐらせた。
「一生君に苦しめられるなら死んだほうがましだ。そうしたら君から解放される」
「死んでも楽にはなれないわ」
「生きていても楽になれない。だから同じだ」
 女は首を吊ろうとする男の元に歩み寄った。そして腕を引っ張った。
「どうか死なないで。誰も喜ばないわ」
「でも俺が生きていても誰も喜ばないだろう」
「私が喜ぶわ。あなたがピアノを弾いてくれるんだもの」
「でも君は笑わない」
「それはあなたの生き方によるわ」
 女はずっと同じ調子で言葉を発した。こんなに話している女を見るのは、初めてだった。男は気づけば椅子から降りていた。そして子供のように泣き出した。
「今更生き方は変えられないさ。でも君に止められたら死ねないじゃないか。俺は君を愛して君に苦しめられながら生きていくしかないのか」
 俺は独り言のように呟いたあと、ゆっくりと玄関の方を指さした。
「君の好きなところに行けばいい。そうすれば俺は自由に生きていけるんだ。そうすれば俺は幸せになれるんだ。もう出て行ってくれ」
「無理よ」
 一呼吸の間もなく、女が答えた。男は顔を上げて女を睨んだ。怒号を浴びせようとした時、女が口を開いた。
「だって枷が繋がれているんだもの」
 女の言葉に男は硬直した。そしてゆっくりと女の足元を見た。長い鎖がついた鉄の足枷が女の足首に繋がれていた。その鎖が繋がっている先は男の足首だった。男の足首にも足枷が付いていた。男はしゃがみ込んで、その足枷を外そうとした。鍵穴はあるが肝心の鍵はない。男は立ち上がって女の肩を揺さぶった。
「鍵はどこだ? 君が持ってるんだろう? なあ、早く出してくれよ」
「持ってないわ」
「嘘を吐くな! 早く出せ! 俺を早く解放しろ!」
 男は女の肩を揺さぶって叫んだ。女の表情は変わらなかった。
「鍵はあなたが持っていたじゃない。昔に」
 男はそう言われて、揺さぶるのをやめた。男の脳裏に昔の記憶が過った。
「言ってたじゃない。『ずっと一緒だ』って」
 男の記憶は鮮明になっていた。自分の意志で女の傍にいることを決めていた。そしてそれは苦しみを感じ始めてもなお。
「『君以外はいらない』って言って足枷の鍵を嬉しそうに飲み込んでいたじゃない」
 また男の記憶は鮮明になっていた。飲み込んで満足していたことを思い出していた。女以外を選ばなくていいことに安心していた。男は心の底から女のことを愛していた。
「あなたがこの足枷をつけたのよ」
 男は金魚のように口をパクパクと動かした。否定したくてもできなかったのだ。
「この苦しみも君の張り付けられた笑みも、全部俺のせいなのか。俺が自分で苦しみを選んだのか」
「苦しみじゃないわ。少なくとも昔のあなたは苦しんでいなかった」
 そう言ったあと、初めて女は表情を崩した。その様子に男は目を見開いた。女は口を開いた。
「あの頃みたいな、楽しそうにピアノを弾くあなたが好きよ」
 女は悲しそうな笑みを浮かべていた。そして男に優しく口づけた。男の瞼が一瞬閉じたあと、女の姿はなくなっていた。男は踵を返してゆっくりとピアノへ向かっていった。そしてまた椅子に座り、蓋を開いた。静かに鍵盤を押して演奏を始めた。男は自分がひどい顔をしていることに気付いた。笑おうにも心が笑えない。
 男は演奏をやめた。そして鍵盤を優しく撫でた。男の心はひどく沈んでいた。足枷の鍵は溶けて無くなってしまった。もう後戻りはできない。
「……君のせいだ」
 男が絞り出した言葉を誰かが否定したように思えた。

足枷

足枷

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-12-12

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