医療の春
①ある便こね患者の話
「高橋さんがまたうんこ投げてる!」
看護師は言った。
加藤は、その言葉の持つ意味を瞬時に理解することはできなかったが、ふと目を向けた先の光景を見て、まさしくそれを説明するには『その言葉以外にはない』ことを窺い知った。
高橋さんが、う ん こ を 投 げ て い た の だ。
加藤の目の前で、さも野球を楽しんでいるかのごとく、壁に向かってうんこを投げつけている男は、高橋源治92歳、誤嚥性肺炎で入院中の患者である。
85歳の妻と二人暮らしであったが3ヶ月ほど前に発熱しこの病院へ搬送された。精査の結果、誤嚥性肺炎の診断となり、入院。抗菌薬加療を開始し、治療は奏功した。現在、治療そのものは終了しているが、入院を契機に認知症が急激に進んだため、自宅退院は困難と判断され、退院先の調整が必要となった。現在、退院調整に難渋しており、既に入院日数が89日目となっている長期入院患者だ。
一人の看護師の叫び声を合図に、ナースステーションから数人の看護師が高橋さんの元へ集まった。人によっては一生出会うこともないであろう、その、稀有で強烈な状況に面しても、看護師達は微塵の動揺も見せない。彼女達の手により、悪意なき大便のピッチングマシンは、すぐにその動きを制されることとなった。
「・・・昨日は口に入れてましたからね」
高橋さんの手を受け止めつつ、一人の看護師がため息混じりに衝撃的な発言を見せる。周りの看護師が、ね、と同調する。
こんな非日常が、高橋さんの看護の中では、比較的日常に溶け込んだ出来事なのだ。
弄便。
認知症の症状のひとつで、おむつの中の便を素手で触ったり、その手で衣服や壁などに便を擦り付けたりする行為のことである。医療現場ではしばしば目撃する事例だ。医療者はよく「便こね」と可愛らしく呼称するが、その実全く可愛らしくない、医療者を悩ませる症状のひとつである。
「どうにかなりませんかね?ねえ、先生」
看護師達は、居合わせた加藤に目を向けた。彼女達も、どうにかならないことをわかったうえで、言っているのだ。
加藤は苦い微笑みを頬に浮かべて、目をそらすことしかできない。
高橋さんは、既に認知症薬を複数服用し、さらにせん妄に対しても多数の抗精神病薬を服用している。精神科の医師にも介入いただいたうえで、これ以上どうすることもできない、と太鼓判を押された問題児なのだ。
「あともう少しで退院だから、待っててよ」
「なんで退院難渋してるんでしたっけ」
「奥さん、最初は自宅退院希望だったから初動遅れちゃったんだよね。施設退院決まっても、奥さん足が悪くて、まだ施設見学行けてないみたい。娘さんは遠方だし、協力が得られなくて」
「娘さんも協力してほしいですよね〜」
看護師達は、高橋さんの手や、便のついた壁をアルコールシートで拭き取っていく。便でまみれたベッド周りは、彼女たちの手により修復されていった。
高橋さんの手にはミトンがつけられ、ベッドに括られた。
「不当な身体抑制で賠償請求、ってこの前もニュースになってましたけど、これはさすがに不当じゃないよね」
「不当じゃないでしょ・・・裁判官、うんこ投げつけられたことあるのかしら」
「ないだろうね・・・」
今日も、医療現場は平和である。
②ある夜勤の話
夜は長い。
窓の外には、星空のない薄明るい夜空が見える。大方の人間は浅い眠りから深い眠りへと落ちていく時間だ。
しかし彼女に関して言えば、この夜空に日の光が差し込むまで、病院での労働が課せられている。この一晩、この病棟に入院する42名の患者を、看護師三名で守る。その三名を束ねるリーダーとしての責務が、彼女には課せられている。
夜勤である。
看護師の小川は、今月で6回目の夜勤のさなかであった。もう数え切れないほど夜勤の夜を経験しているが、いや、経験しているからこそ、この夜の長さを思うと、吐き気が込み上げてきそうな程、激しい拒絶感を覚えた。
「ひやああああ」
どこからともなく、断末魔のような叫び声が聞こえる。
710号室の横田さんだな、と小川は思った。彼女はナースステーションの椅子に腰掛け、看護記録の記載を行なっていた。
その脇には、放浪癖のある男性患者を車椅子に座らせ、アルコール綿のシートを箱の中に綺麗に詰め直す作業をしてもらっている。ふらふらどこかへ歩いて行かないように、バンドで腰を車椅子に固定しているが、彼は、作業をしている間だけは、放浪したり、叫んだりすることはなかった。
横田さんの叫び声は一分に一回程度、まるでアラームのように聞こえてくる。すると、今度はそれに共鳴するように、同室の高齢者が叫ぶ。高齢者数名が織りなす叫びの輪唱は、毎夜の恒例行事である。地獄の炎に焼かれているかのごとく鬼気迫るその叫びで、彼女達の声帯が潰れることはないのだろうか。
今日も変わらず、叫びは既に2時間近く続いている。
夜間せん妄である。
既に医師の指示で薬剤の投与を行なったが効果は乏しい。使える回数にも限度があるため、放置するより仕方がない。
「ちょっと、あの叫び声、どうにかならないんでしょうか。眠れないのですが」
女性がナースステーションに近寄ってきて、小川に声をかけてきた。
701号室の斎藤さん。今回は精査目的に2泊3日の入院予定となっている42歳女性だ。
「申し訳ありません。色々と対応はしているのですが、なかなか厳しくて」
悲嘆の意を表情に込めて、小川は言った。斎藤さんは、半ば呆れたような顔を見せた。
「静かにさせることはできないんですか」
「それは・・・難しいですね。よろしければ耳栓をお貸ししましょうか」
「・・・じゃあ、ください」
斎藤さんは、やや不服そうな表情を浮かべたものの、最終的には、ここで争うことの徒労感が勝ったようだった。小川は、ナースステーションの奥の器材庫へ出向き、患者配布用の耳栓を手に取った。夜間の病棟では、このような苦情が時折聞かれるため、この病院では、妥協策として耳栓を無料でお渡しすることとしている。
耳栓を渡すと、斎藤さんは変わらず不服そうな表情を浮かべながらも、おずおずと自室へ引き返して行った。
申し訳ないな、と思いながらも、どうしようもないだろう、というやりようのない鬱憤が、心の内に満ちるのを自覚した。総合病院に入院するということは、そういうことだ。同じ病棟に重症認知症患者がいることは、やや不運なことなのかもしれないが。
その時、プルルルル、と、ナースコールが鳴る音が聞こえた。
721号室の古水さんだ。大腿骨頸部骨折で入院中の78歳女性で、個室入院中の気さくなおばあさんだ。身なりも整っていて、礼儀正しく、看護はやりやすい。
無線で一言、お伺いします、と伝えてから、病室へと向かった。個室は病棟の奥の方に位置しており、ステーションから直接確認することはできない。
小川は、やや小走りで病室へと向かった。
「古水さ〜ん、どうされました?」
個室のドアを開けながら声をかける。中を覗くと、古水さんはベッドの上に腰掛けていた。小灯台の小さな明かりが、広い病室の一部分をうっすらと照らしている。ピンク色の病衣に身を包み、手を膝の上に乗せ、やや背中に丸みを帯びた姿勢で座位を保つ古水さんの姿は、普段と変わりはなさそうに見えた。
古水さんは、小川の姿を視認するなり、腕を上げて、小川が立つ少し横の位置を指さした。
「そこ・・・」
「ん?」
古水さんが指を差した位置に視線を落とす。
「・・・ひっ!」
病室が暗いため、一瞬、何が見えたのか釈然としなかったが、目を凝らすとよくわかった。
人 が い る。
個室内に設けられている入浴スペースに、なぜか古水さん以外にもう一人、人がいる。そしてその人は、しゃがみこんで、何かもぞもぞと動いていた。よく目を凝らすと、入浴スペースのドアレールに溜まった埃を、人差し指でなぞって集めているようだ。
ついに見えたか、と小川は思った。
人がいない病室からナースコールが鳴るとか、麻痺で動けない人の部屋のテレビがなぜか勝手についている、とか、その程度のことは経験したことがある。しかし、幽霊と直接対決したことはない。幽霊が怖くて看護師が勤まるか、と思うことは多々あれど、実際に相対することになろうとは思ってもみないことだった。
妖怪ほこりあつめ・・・。
不謹慎にも、そんな名前が頭を横切った。
しかし、時間の経過とともに、少し冷静になってきた。そして冷静になると、状況が飲み込めてきた。
ここに見えているものは、幽霊ではない。
7 1 2 号 室 の 森 内 さ ん だ。
森内さんは、自力歩行可能ではあるが中等度の認知症がある84歳女性の大腿骨頸部骨折加療後の患者だ。
どうやら、他の病室に迷い込んでしまったらしい。
「さっきから、そこでそうやって作業してるのよ」
古水さんは、普段と変わらない穏やかな口調で言った。
迷い込むだけならまだしも、他人の病室でなぜ埃集めをしているのかは全くの不明であるし、自分の病室で他人が埃集めをしている事実をありのままに受け止め、冷静でいられる古水さんの態度に関しても不明である。
「すみません、古水さん。ほら、森内さん、帰りますよ」
森内さんにそう呼びかけると、返答はないもののすごすごと立ち上がった。意外にも素直だった。
小川には、彼女が全く何を考えているのかわからなかったが、比較的スムーズに帰室できそうなことに今は安堵した。彼女がてこでも動かないようであれば、休憩中の他の夜勤看護師を呼ばなければならなくなるから。
「すみませんでした」
「いいのよ」
「おやすみなさい」
一言残してから、森内さんの手を引いて、病室を後にした。廊下でも、森内さんは無言で小川に引かれるがままに歩いた。
既に消灯後であり、廊下は暗い。森内さんが転べばインシデントになり、骨折でもしようものならアクシデント報告となり、いくつかの始末書の提出が義務付けられてしまうため、慎重に歩かねばならなかった。
「森内さん、迷っちゃったんですか?」
話しかけても返答はなかった。返答はなくとも、自力で歩いてくれればそれで良かった。
小川は、彼女の本来いるべき場所まで送り、ベッドに寝かせ布団を被せてから、ステーションに帰還した。
ステーションに戻っても、横田さんの“叫び”は続いていた。
叫びの輪唱を耳にしながら、看護記録の記載に戻った。
「幽霊が見えたかと思ったな・・・」
先ほどの情景を思い出して、笑いが込み上げてきた。
「他人の病室に入って、埃集めてるって、なに?」
明日、日勤に申し送ることが一つ増えた。
日勤帯で話し合い、森内さんにはモーションセンサーの装着が義務付けられるだろう。
窓の外の夜空は、未だ漆黒の闇に包まれていた。小川は、夜の長さに思いを馳せて、小さく嘆息を漏らした。
夜明けはまだ遠い。
③ある蘇生後脳症の話
「アドレナリン1筒ね。アンカロンも用意しておいて。次、除細動かけるかも〜」
患者の口に当てがったバッグバルブマスクを揉み込みながら、年長者の医師が叫んだ。
白衣を着た若手の大男が前のめりになりながら、一人の患者の胸骨をリズミカルに圧迫している。
そしてその周りには十数名の医療従事者が集まり、一人の患者の魂を三途の川より戻さんと、鬼気迫る表情で各々の仕事をこなしていた。
心肺蘇生。
心停止、呼吸停止に至った患者に対して、胸骨圧迫(一般的には心臓マッサージと呼ばれている)や人工呼吸を行い、蘇生を試みる処置である。
病院内で蘇生が必要な患者が発生した場合、すぐさま院内放送が流れ、その際手が空いている医師や看護師、その他医療従事者が群れをなしてやってくる。そして、人員を交代しながら胸骨圧迫を行いつつ、電気的除細動を行ったり、強心薬を併用したりして、患者の心臓をどうにか正常に戻そうと試みるのだ。
今回も同様に、14時23分に一般病棟入院中の患者が急変、即座に院内放送が流れ、駆けつけた医療従事者により心肺蘇生が開始された。
14時26分現在、駆けつけた医師の中で最も年長者の循環器内科、大沢部長を中心として、組織立った心肺蘇生行為が継続されている。
「患者の情報教えて〜」
「患者は佐藤一郎さん88歳男性、肺がんで入院中の方のようです。患者家族の強い希望で、full CPRの方針になっています」
full CPR、すなわち、『救命のために、行うことのできる全ての医療行為を行う』という方針のことである。
「急変してから、家族に連絡した?」
「主治医の加藤先生が今連絡中です」
「やっぱり蘇生希望な感じ?」
「みたいです」
看護師の言葉を受けて、大沢部長は小さくため息をついた。
「じゃあ続けましょ。癌患者だしトルソーで頭やられたかな。できればCT行きたいな〜一応CTオーダーしといて〜」
大沢部長は、鬼気迫る現場には似つかわしくない、間延びした声で指示を出す。
焦りが生まれやすいこのような現場でこそ、冷静沈着なリーダーが、落ち着いて的確な指示を出すことが、ミスのない臨床には肝要である。焦りがミスの元であることは、もう何十年も前から耳にタコができるほど聞いている。
佐藤さんの担当医である、研修医の藤宮は、胸骨圧迫の交代要因として、ナイロン手袋をつけてベッドサイドに控えていた。
佐藤さんは気さくなおじいさんだ。やや認知機能の低下は見られていたが、基本的に会話は成り立つし、処置の後にはいつも「ありがとう」とお礼を言ってくれた。できることなら、また家に帰してあげたい。
「次、変わります!」
「じゃあ、1、2、3で変わりましょう。1、2、3!」
若手の大男から引き継いで、藤宮は勢いよく胸骨圧迫を開始した。88歳の胸骨が、既に粉々に折れてしまっていることは、掌に伝わる嫌な感触で判った。積もった雪を圧縮するかのような、きしきしと言うべきか、じゃりじゃりと言うべきか、表現に苦慮するその感触は、藤宮にとって人生で初めて味わうものであったが、間違いなく、感じて快いものではなかった。
胸骨圧迫は、胸骨骨折が必発の処置だ。
想像される通り負担が大きい処置であり、また、経験的に高齢者の蘇生成功率は極めて低いため、家族が希望されない限り、高齢者に対して積極的には行われるべきではないというのは、ほとんどの医療現場で共通した認識である。特に、悪性腫瘍などの背景疾患などがある場合はなおさらだ。
高齢者や、背景疾患が重篤な患者の場合、急変時DNARと呼ばれる「心肺蘇生を行わない」という指示を行うかどうかという点は、医療現場では非常に重要視される。蘇生のその先に待つ結果を考えれば、皆が不幸になりえる選択を、医療従事者は望まないからだ。
「パルスチェック〜。あ、脈戻ったね。蘇生開始から何分?」
「10分です」
「10分か〜。厳しいだろうな〜」
大沢部長は顔をしかめた。
心肺蘇生に成功した。10分で。
医療ドラマならチームで手を叩いてエンディングに向かうシーンだろうが、実際の医療現場では、ここからが本番と言える。
医療の春