動力



 一倉宏さんの言葉の表現に魅了され、自分でも色々と書いてみて、思い描いたものを文字や意味で表現する楽しさを存分に味わっていた頃、イメージすることの勉強のつもりで最初に足を運んだのが国立新美術館で開催されていたシュルレアリスムの展示だった。
 鑑賞中、夢を見るような、意味で把握し難い絵画表現や彫刻作品を目にする毎にイメージを直感で把握することの正しさを自分の内に高く積み上げていったのとは反対に、(以前どこかで書いたかもしれないが)家畜の屠殺現場を撮影した写真作品に対して、人の野生に向けられたその告発が理性的に構築される都市機能の文脈に乗せて逐一説明できる点をもって消極的な評価を行ったりした。論理に追いやられる野生を表現するにしても、かかる野生の内容を保持した囲い方があるのではないか。家畜の屠殺が日々おこなわれているという覆い隠された事実を衝撃をもって都市に暮らす人々に気付かせることで、理性で把握する自己像に亀裂を走らせるその意図はかかる事実を鑑賞者に知らせることには成功しても、シュルレアリスムが掲げる、意識のコントロールを逃れた自然物たる人の肉体に宿る精神の豊潤さに迫る力に欠けるのでないか。理性の壁を打ち壊し、その外へと迸る無意識に人間の未来を見出そうとしたシュルレアリスムはかかる力をこそ見逃してはならない。言葉で説明できないその勢いをこそ表現すべきだ、と見えない唾を飛ばしながら述懐していたのを覚えている。
 内面でイメージしたものに自らの言葉を貼り付けていく、というイメージで詩などを書く。そうすれば、貼り付けた言葉から内なるイメージの豊かさが溢れる。または内面で抱くイメージは言語化する前の材料であり、鋭い言葉で削っていけばそこから七色の鉱脈が輝き走る景色が生まれる。かかる材料は私の内面で尽きることがないから、気持ちの赴くままに勢い込んで書けばいい。技術はその過程で自然に身につく。だから大事なのはイメージを直感的に把持すること、作品を前にピンときたものを言葉で把握することだ。
 言語表現に向けて筆者が抱いていたかかる方向性は今でも間違っているとは思わない。実際、かかる方向性とは異なる言葉とイメージの関係性を理解しようと努めている今に至るまで、私はかかる方針に従って「思うもの」を書いてきた。
 けれど、ある程度書く表現を行なっていけば慣れが生じる。この慣れが書いているものに対して不満を抱かせる。いつか書いたのと同じという感覚は面白さを産んでくれない。ではとばかりにイメージの方をより奇異なものへと舵を切れば、あっという間に内的想像の枯渇へと繋がっていく。その時に自分が抱けるイメージがどれだけ日常の生活の一つひとつから長い時間をかけて集積していったものだったか、そして普段の言葉遣いからの刺激を受けていたのかを知る。私は、自分が発する言葉を自らの耳で聞き又は身体からその固有の響きを感じ取り、表現したものの滋味をゆっくりと咀嚼していた。これら一切を意識せずに行なっていた。この「意識せずに」という点が肝要なのだろうと思うのは、創作に向けた構えをもってこれらの過程を実践すると不自然なものになる。印象に残る一枚をと躍起になって目に入るもの全てを意味ありげなものに仕上げて撮ろうとするときの感覚と言い換えられるかもしれないその力みは、一所懸命に働かせる表現意識の反動をもって主体の欲を奪い、回復させずに痩せ細らせる所があると思う(プロはこれを自然に又は十分な意思と体力をもって乗り越えられるのかもしれない、という発想ですらアマチュアと評されるだろう。きっとプロは別のことで悩む。それぐらい抱く問題意識に関する隔たりがプロとアマチュアとの間にあると私は考える)。
 イメージは渾々と湧き出るようなものではないし、私から完全に離れて自存してもいない。したがってより面白く、もっとワクワクして表現したい。そう思うのなら、表現の仕方を変えなければならない。
 こうして技術はその重要度を増す。率先して学ぼうとする動機を生む。
 けれど技術を身に付けることが表現の豊かさを保証し、または誰もがそこを歩き回れる奥行きを確保する訳でもないと考える理由は技術が枠のように機能し、内外を移動する自由を奪う面が否定できない点にある。ならばとばかりに技術それ自体の質と量を確保すればいいと考えることはできるが、今度は技術を対象にした進歩的発想の迷宮に入り込む。かかる発想すら尽きたとき、その表現はジャンルとして死んだとか、「私」の表現は終わったと宣告できる行き詰まりを認められるのかもしれない。この辺りのことを村上春樹さんはエッセイで「書き手がそのうちに必要とするビーグルの乗り換え」と言い、トルーマン・カポーティはかかる乗り換えを上手く行えなかったと評したのだと理解している。
 向上心を抱く表現者が進む道の途上で生まれる以前の表現との差異を表現者自身が丁寧に見出しても、鑑賞者がかかる差異に気付いてくれるかは分からないし、気付かないままで終えることも少なくないと想像する。かかる差異を歩幅に喩えるなら誰もが気付ける大きな一歩を踏み出す表現者は天才と言われるのだろうし、変則的な歩行によっても絵画史にその名と足跡を残せる機会に恵まれる。そういう現実があると言えるだろうか。



 楽しいだけでいられなくなるその道に敷き詰められる事実を、けれど何度も見直そう。
 横浜美術館で開催された奈良美智さんの展示会場にて鑑賞できた『夜まで待てない』の制作過程には、奈良さんがそれまで描いていた絵を塗り潰す様子が記録されていた。今でもTwitter上で奈良さん自身のコメントとともに完成に向けて描いていた絵を潰したキャンバスを拝見できる。勿論、苦労すれば良い作品に仕上がるなどと宣う気はない。ただ奈良さんが完成させた作品にある作家の納得には間違いなく一人の画家として学び、実践して積んできた歴史の全てが賭けられている。
 思い出を振り返れば一階の巨大な彫像から始まり、ダンボールに描かれたあの女の子のいつも以上にカジュアルな一面を数多く楽しんだ後、出口が設けられた最後の展示スペースに飾られた『夜まで待てない』、そして『春少女』を見た時はその大きさに圧倒されたのが最初の印象だった。空気の変わり方を肌で感じたその迫力は、私の記憶として全く色褪せていないから、やはり表現の要素として軽視できないと今でも思う。可愛らしさだろうが何だろうが、量としてぶつけられたモチーフの各要素に掛けられた時間は鑑賞者にイニシアチブを握らせない。
 見上げたままに見つめる画面にはお喋りするような色の煌めき、囁くような色のざわめき、またときめきのお尻を隠すようなニヒルな表情と強さを広げた面差しがあってそれら全てを信じさせる肌と、服と、髪色が言葉以前のやり取りの始まりをこちらに伝えてくる。それらを上手く受け止めたくて、またそれらに遅れて言葉にするという感動を味わいたくて、互いに九十度の位置に設置された両作品を視界に収められるよう近くに置かれたソファーに座って本当に長い時間を過ごした。モチーフの可愛らしさやとっつき易さが溶け込む私の好きな奈良美智さんの色彩表現には東京国立近代美術館で開催中の『MOMATコレクション』に展示されている奈良美智さんの「In the Box」で再度出会えて、同じく魅了された。
 生み出された技術を用いて作品が描かれる度に広がっていく絵画表現。前進するよりもまず先に足元を彩る思いが表され、それを知るやり取りが芸事の長き歴史を紡ぐのだと固く信じる。
 注文に応じて質の高い作品を作成し、注文主に手渡す。そのために工房を作り、確立された技法を弟子たちに学ばせ、それらを忠実に再現する過程をシステムとして確立する。浅学な私の狩野派に対する認識であるが、『MOMATコレクション』で展示されていた『紙漉き』を鑑賞してその名を知った冨田溪仙さんはかかる狩野派で学び、また四条派の下でも絵を学んでいる。四条派は画家の人格ないし精神によって絵の良さが決まるという思想に基づき、内面の表現を重視するという南画に円山派の写実的技法を取り入れ独自の画風を確立したものと理解している。勢いある自然描写や生きるものの愛らしさを優れた技法で見逃さない。かかる四条派の特徴が冨田溪仙さんの絵にも窺えるが、仏画に禅画、さらには西洋の表現主義も学んだ冨田さんの絵は情緒の表れがより重視されている。
 『紙漉き』は二隻の屏風絵である。右手奥の水船に水がたっぷりと貯められ、白く小振りな花を咲かせる一振りの枝がそこに挿されている。その手前では三人の女性がそれぞれ漉き舟の中で簀桁を動かし一枚、一枚と紙を漉いている。その左手にある生垣の手前で兎が二羽、無邪気に遊んでいて鑑賞者から見て一番左で作業する女性がその様子に気を取られ、その手を止めている。
 微笑ましくなる作業風景は恐らくやや上方から俯瞰して見ている構図だからか水船は不自然に大きく見え、また漉き船は不自然に下方へと窄まって見える。左手にある生垣も同様で、紅白の椿の伸び方が非現実的に表れる。画面全体に施された意図的なデフォルメは、しかし一見して好ましく、また鑑賞する目を色の表現へと惹きつけ、随所で光る写実的な描写へと導く。水に入れた繊維やノリの量が違うのか又は作業時間に差があるのか、漉き船の中で濁る色の濃淡を水船の中の水色と対比すると視覚的に楽しく、また水船に挿された白花と生垣の背後で咲く紅白の椿とを見比べて知る大小が、椿の枝葉の黒い描写にひたすら映えて美しい。そして紙漉きの過程で流れ落ちる水の流れが最後のひと押しとばかりに、冷たさに冴える日常のリズムを生んでいく。そうして私は幸せになる。
 技術的な枠組みを踏まえた自由が私たち一人ひとりの個人史に刻む単純な事実は、作品を通してしか知れない。



 思いを表すための技術に満ちる自由は河鍋暁斎さんや和田誠さんの作品に対しても感じるが、両氏の描かれた絵は自らこの世に出てきたかのような必然性が宿り、絵の方が作り手を必要としていないように感じられる点が面白い。
 例えば東京オペラシティで開催中の和田誠展で拝見した小泉今日子さんのエッセイ本、『黄色いマンション 黒い猫』を飾るあの表紙の絵には本文を読めばより伝わる、あの日の笑顔と思い出がぎゅっと温かく握り締められていた。和田誠さんが手掛ける表紙絵や挿絵には特にそういうところがある、何というか、自立心溢れる活発な子供のような雰囲気で見る者との関係を直ちに作ってしまう。商品の紹介を果たすとても優秀なメッセンジャーとしての表現。一目で分かる和田誠という作者の個性が認められるにも関わらずという仕事ぶりで、きっと誰もが羨む。言葉と共にあるべき絵柄の塩梅は至難の業に思えて止まない。
 作品としても優れていることは展示会場と同階に設けられたショップに入ると分かる。手元に置きたいと思うグッズばかりで目移りし、その日の都合で一つも買えなかったことを私は今でも悔やんでいる。
 何気ない筆使いで展示された作品が仕上がる過程を映した映像展示には、『マルタの鷹』で主演を務めたハンフリー・ボガートを参照しながら映画チラシを仕上げる和田さんの姿がある。長年にわたる和田さんの凄まじい仕事ぶりからブレのようなものが全く窺えない秘密の一端など見れないかと思っていたが、そんなものの影も形も見当たらない。「食べるみたいにバレーしよる」や「強いって自由だ」という愛読する漫画『ハイキュー』の名台詞がこういう時にこそ腑に落ちる。表現者自身が体現する昇華された自由は眩しくて仕方ない。強すぎる輝きに目を焼かれ、とんでもない光量をもって耐え切れない熱さをこの身にもたらそうとも、そのあり方はやはり同じ道を歩む者の道標なのだと想像する。



 身近にあって、動かされる。その距離が個人の人生に収まるものであればある程にその偉業は唯一無二のものになる。ここにこそ限りはない。「そんなもの、所詮は開き直りだ」と指摘する意地悪な心をも持ち合わせている私が両手を広げて寝転べる、このど真ん中で拍動する今を賭けて。
 熱を発する笑みを溢す。

動力

動力

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-12-09

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