徳利童歌(下巻)
酒田から戻った一郎はしばらく家にいた。三原君と稼いだデンターノの手持ち金は15万円程だ。その金を由恵に渡したが、納得しているわけではない。
妻は言葉には出さないけれど早く仕事に付いてくれれば良いと思っているに違いないと感じながら過ごしていた。特別なおかずなし、夫婦の会話なし、子供は寄り付かない。冷めた家庭は相変わらずだ。
10日ばかり過ぎたころ、朝日新聞の就職欄で少劇団が営業するメンバーを探している記事に目を走らせていた。
一路の年齢は42歳になっていた。これといった経歴があるのではなし、手っ取り早く考えられるのは交通誘導警備員だが、一度経験済みなので金にはなるけど社会の歯車で終わるのは納得出来ないのでパスを決めたが、理想と現実のギャップは冷たく、悶々としていた時にこの広告にぶっかった。
劇団の仕事の営業はどうこなすのかなわからなかったが、全国各地を営業して行くことは容易に推察出来たので、ダメ元で面接に行くことにした。
もしかすると高校時代には文化祭には熱を上げていた自分だから水を得た魚かも知れないと劇団のドアを開けて見る事にしたのだ。
劇団創芸は高円寺駅から歩いて5分ほどの4階建ての古いビルの4階にあり、入口を入ると壁際に長椅子が二連あり、そこに劇団員らしき男が三人いて、面接する団長は奥の部屋にいた。
面接は営業マンになり手がいないらしく細かいことは尋ねてこない。強いて言えば趣味は何ですかと尋ねるのでパチンコとは言えないので、うーんと考えながら絵を描くことぐらいですと答えた。団長は37歳と言う若さだ。体格の良い実直らしい男だ。彼は直感で一郎が営業に向いたいると判断したようだ。
旅費交通費、宿泊代、電話代、給料日等々お互いに納得して採用が決まった。営業の旅立ちは厳冬の北海道を40日で小中学校を廻り演劇鑑賞会を勧めると言う。今年の演目は寝太郎物語だと言う。学校の芸術担当の先生に演目の内容を説明しに行く仕事だ。
一郎の小学生5年頃、父が東京中野で酒屋をしている時に近くの広場でテント小屋仕掛けの尾上菊之丞一座と言う大衆演劇が行われていた。一郎は親の目を盗んで舞台の前にの袖側に坐り(赤城山忠太郎?)を観ていて別れの哀しい場面を観て汚れて緞帳の、袖で涙を拭いていたと言う。そんな感性が身体のどこかに潜んでいるのか学校演劇の営業の仕事でも抵抗感はなかったのだ。
学校巡りの移動には中古のトヨタエースにスタッドレスタイヤをはかせて30万ぐらいで購入した。居酒屋吉富を閉店してからは運転資金などと縁のない世界にいたので余裕などない。僅かな稼いだ金を家計に入れるのが精一杯の状態だった。車の購入費は便利屋をしている昔仲間の斉藤の紹介で武富士から借りた金で済ませた。
営業の準備が何とか整って旅立ちは真冬の二月の三日と決まった。
採用から二週間程で一郎は夜更けの有明からヘリーに乗り込んだ。
一番安い団体部屋で船倉の方からきこえてくるエンジン音を背にの寝転んでいると、営業のよしなし事をめぐらしていると幹部の劇団員から役者にならないかと一言、言われたことを思い出していた。即座に年齢も42歳、妻子持ちの身だからとても無理だと返事をしたが、この小さな劇団でも毎年公演をしているし、テレビの仕事もあるので仲間の団員はそれなりの稼ぎがあるのだなと興味を抱いたが、歩合給の営業のほうが稼げるし、40面して役者もないだろう、まして浮き沈みの激しい世界であると一郎は厳しく見ているので、独身なら挑戦したかもしれないなとロマンチックな夢に思いを寄せていた。また、(お前は子供たちの前で感動を与える役者になる資格などないだろう、親父の期待を裏切って酒屋の後は継がない親不孝だし、博打はやるし、女は買いに行くし、ヤクザまがいの行動はするし、よくそんなこと考えるな、恥を知れ、劇団の営業をできるだけ幸せな男だ)と天から不動明王が怒鳴りつけているようだった。
(確かに不動明王を言う通りだ。卑下するわけではないが、こんな純な仕事を出来るなんて俺も運がいい。ここいらで積年の垢を落として1からやり直しだ)と人生の第三幕か、四幕か分からないが分水嶺に差し掛かっているようだった。
川奈一郎が乗っているサンフラワー丸は漆黒の海を重いエンジン音をリズミカルに刻みながら打ち寄せる白い波しぶきを捌きながらまもなく苫小牧港に着く。
人影のない暗闇のデッキに立つ一郎は冷たい潮風に身を晒しながら東京の、酒屋の跡継ぎをきらって家でした最初の地がこの北海道であったからこの暗闇も昔の思い出の映像が脳裏に浮かんでいて漆黒の海に寂しさはなかった。むしろ懐かしき青春を思い出していた。
ガンガンガンと船底からエンジンが唸っている。しばらくして闇の海原に小さな灯りが見えてきた。一昨日東京湾の有明から出港したサンフラワーが間もなく苫小牧港に着くのだ。はやり歌ではないが津軽海峡冬景色の大地に踏み込むのもまもなくだ。昨晩は行楽客が多くて船室は人であふれていてよく眠れなかった。
特に東京からスキー客を乗せた船室は若い人達で賑わっていた。ラウンジで赤や黄色、ブルーの派手な姿の若い人はそれぞれと、グループをつくり夜通し会話を楽しんでいるようだ。
一郎はそんな楽しげなスキー客を壁に背をつけ足を組んで彼らを観ていると(俺もあんな時があったな)と苦笑いをしながら懐かしい目で眺めていた。その苦笑交じりとは、一郎は高校時代に友人の山内に越後湯沢に、スキーに来ないかと誘われていたがスキーもなし、経験も無しなので躊躇っていたが、親友の、山内と炬燵を囲んで歓談するのも楽しいだろうからと、先に行っている山内を追い掛けるように夜汽車に乗って湯沢スキー場を尋ねることにしたのだ。
普段着のジャンバーとソニーの宣伝用バックの、軽装で夜行列車に乗り薄明かりの湯沢駅に着いた。
一郎は(スキーの服装などなんとかなるさ)という気楽な気持ちで宿を訪ねたのだ。
辺りは雪化粧一色だ。茅葺きの屋根にはドッシリと雪がつもり、あたり一面は雪の世界だ。
冬山の装備は何もして来ないからスキーを楽しむどころでは無いのだ。
山内と会った時
(お前その格好ではスキーはできない)と笑い出す始末。
紺のジャンバーに着替えを少々入れたバックだけの軽装だ。
一郎はスキーは初めての体験なのでスキーや靴は借りれば済むと考えていたのでスキーズボンや、ヤッケも、貸出用があると思っていたのだ。
すると一郎は隣りにいた宿の主人に着る物の、貸出は無いかと尋ねると無いと言う。スキーや靴はあるけど他はないと言う。
(それなら貸モモヒキはありませんか、外は寒そうなので)と言うと怪訝そうな顔つきで宿の主人も苦笑して答えに困って山内の顔を見ると、山内が
(バカヤロウ貸モモヒキなんてあるわけ無いだろ)と笑いだした。
そんな無謀な事を良く吟味もせずスキーに出かけた事を思い出していた。一郎はその時はスキーは学友の山内に(良かったら湯沢に来いよ、)と誘われたのだがスキーにたいする興味はそれほど無かった。むしろ川端康則の雪国の小説ではないがあの有名なトンネルを通り過ぎて見たかった事も要因の一つだった。民宿の隣部屋には運良く北里大に通うと言う女学生が二人来ていた。日本橋人形町と横浜から来ている大学生だ。襖一つの壁だから親近感抜群の舞台だ。
山内は國學院大學スキー部の新人生だ。酒も飲む。
地元の朝日山と言う一升瓶を炬燵の脇に置き夕餉が終わると四人ででよしなし事を語り合う青春の宴となった。
スキーは初めてと言うのでスキーが得意な山内が、翌日から女生徒わ指導してやる事になり、ケレンではトッブを行くのが山内でその後に二人の女生徒が続き、ラストは一郎が行くというスタイルが主であった。勿論昼も夜も四人ですごす楽しいスキーだった。思い出せば当時、流行りのトニー・ザイラーのメロディがゲレンデに流れていた。一郎はシンガリをやれるほどスキーは上手くないが、慣れとはおそろしいもので、二日目辺りから緩やかなスローブはこなせるようになり、帰る前日の三日目には弾丸直角行もこなす様になっていた。
一郎は寝つかれないサンフラワーの夜を、若い女性達のスキー客を観ながら、己の青春時代を懐かしく思い出していたのだ。
目の前には憧れた北海道の大地が待ち受けている。家出2回と自衛隊員をやめて以来の津軽海峡だ。北海道の思い出の缶詰が錯綜していた。
船は、夜明け前の苫小牧港に接岸した。一郎は船倉の駐車場に戻り、中古のワンボックスカーに戻り出口に出る順番を待っていた。
これから一月半に渡り北海道の小中学校を訪問して東京にある小さな劇団である、民話創芸の今年の演目を売り込むために苫小牧港に上陸をしようとしている。
順番まちの車は次々船を離れてアイスバーンで青白くなっている道路に出て行く。
一郎は苫小牧港を出て国道にでると、すぐに車を広い雪に覆われた公園の空き地を見つけ車を止めた。凍てついた路面は青白く、風に吹かれた雪の残層が薄く一面を覆っていた。
公園に入ったのはアイスバーンの状態でブレーキテストをするためだ。初めて凍てつく道路を走破するので身体に覚えさせておかないと不安だからだった。50メートルの距離を何度も往復して自動車のブレーキ感触を身体に覚えさせると急ブレーキをかけてから3メートル位で止まった。これからの安全基準が出来た。これで安心だ。
高速道路を使い札幌の訪問は後回しにいてニセコ町に入った。高速道路から見る冬景色は一面真っ白だ。ときおり真綿の様な雪を被ったな木々が点在している。
ニセコの街は道幅が広く、町並みは二階建ての商店が多く、屋根は雪が積もり氷柱も光に輝いていた。小学校の案内看板も半分は雪の下生徒数の200名ほどÁ小学校は雪の中の木立の中にあった。枝の合間から光が差し込む。その合間を縫う様にして、玄関に着いた。
校舎は木造で一郎は小学校時代に過ごした中野区の、外れにある多田小学校を思い出していた。それはどの趣きのある古い校舎だった。
玄関には簀子があり。両サイドには懐かしい靴入れがあり。どの棚もくつで満員だ。
靴入れの片隅に来客用のスリッパがあり、それに履き替えて職員室に行った。
玄関先には学校に用事のある方は事前連絡が必要なのは分かっているが、電話でアポイント取ると事前に断られる可能性があるので直接職員室を訪ねるのが有効手段でもあった。
職員室に入るとストーブがあり部屋は暖かい。
ドアを、ノックして近くの先生に声をかけた。女性の先生だ。
(劇団創芸ですが、芸術担当の先生に今年の演劇の演物を説明に来たのですが)
(あぁ、毎年来てくれる劇団てますね。寒い中ご苦労様です、さぁ、どうぞ)とストーブの近くに案内してくれだ。
二、三人の先生が集まってインスタントコヒーを囲み到着を歓迎してくれた。
(今、担当の先生は授業中なので私達が聞いておきますね、)と言うのでコヒーを頂きながら演目の話をした。
(今年はかぐや姫です)
(かぐや姫ね。きれいな衣装と舞台の明かりが綺麗な出し物ね。数年前札幌でみましたよ。分かりました、この小学校は生徒数が少ないけど採算取れるのかしらねー毎年のことだけど)
(はい、だいじょうぶです、大きな学校と午前、午後と抱き合わせにしますので)
(こんな小さな学校にも、来てくださるなんて有り難い事です、日程などの詳しいことは担当から電話入れさせますね,私は教頭の田辺です)
話は詳しく説明をしなくて済んだ。東京の劇団と言うだけで公演を依頼してくれる雰囲気だ。
劇団の過去の学校公演のリストに乗っているせいか雪深い学校に訪ねてくれただけでOKだった
生徒一人300円の観劇会だ。家庭の事情のある生徒は無料で観劇できる配慮の行き届いた劇団だ。公演は1時間で前座として団員が発声練習など生徒を笑わせながら舞台に引き込んでいく。一郎は実際の舞台を見たことがないがビデオで勉強させられていた。公演回数は一郎と5歳年上の木田さんとの二人の営業成績で決まるが過去の劇団の実績もるので劇団経営は安定しているようだ。営業の一人は南に、一人は北に向かうのが基本らしいが今回は木田さんが北海道の東、一郎が北回りをすることなった。一足先に北海道入りをしている木田さんと小樽で再会する約束をしていた。営業のスケジュールは劇団から指定された日数でリストの学校を訪問するとの契約だから、今日はこの街に行かなければいけないとする、こまごまとした規定はないから比較的自由に行動できる面白さがあった。特に一郎は北海道の雪の自然をスケッチにしたいのでこの仕事に飛びついていたから、極端な行動をしなければ自由時間が確保できることはありがたいことであった。ひと月近く北海道をスケッチ旅行すれば100万ぐらいは必要だろう。それに家庭を維持しなければならないから、それなりの資金が必要になる。一郎は預金するほどの芸達者ではない。預金ゼロからのスタートは毎度のことだ。従ってこの劇団営業はとてもありがたい仕事なのだ。
それから数校の小中学校を案内にまわり夕暮れになり学校訪問はやめて劇団の指定した函館の安いホテルに泊まろうとしたが、万が一の為耐寒訓練を兼ねて!、、の健康サンターの駐車場で一晩明かす事にした。地元の人ならこんな無茶はしないはずだ。
高校時代には冬の戸隠山を登った経験があるので冬の街場での野営は平常心でいけると自信があった。
夜の10時過ぎ岩見沢の大型健康センターの駐車場に着いた。駐車場はおそらく500台は止める事が出来る。
一郎は広い駐車場の灯りの少ない隅の場所を選んでワゴン車を止めた。温泉付きの健康センターで横並びの広い施設の入り口は一際灯りが派手にともっていた。
ワゴン車後部にはいざと言う時に備えて生活備品を用意してきてある。
寝袋、厚めのジャンバー、厚めの靴下、軍手。マフラー、マット、ガスバーナ、セター、菓子、等一日吹雪に会っても大丈夫なように用意はしてある。
耐寒訓練を楽しんでいるのだ。
エンジンは止めている。排気ガスが逆流しないと思うが念に念を入れて止めてある。従って部屋は暖房が効かない事になる。
一郎は駐車場の微かな灯りを頼りに運転席で冷たい買い置きの弁当を食べ始めた。途中で買った500円弁当だ。
脚を投げ出して食事をしていると、暗闇から二人の警備員が窓を叩いた。
極寒の深夜になっていた。この時間になるとお客様の車はみな、家路についたはずで駐車場はがらんとしていて街路灯だけが雪明かりを演出していて寂しい駐車場だ。
『もしもし、お客様、もうお店は閉店しましたよ、どうなさいました』
二人の防寒着に身を包んだ男が懐中電灯を揺らせながら質問をして来た。車の前に凍てついた木の枝が微かに揺れていた。
『はい。すいません、今夜はここで泊まろうかと思っています。中に入るお金がないので仕方なくです。旅の途中ですので』
『それはこまります。出て行ってもらわないと、警備上問題があります。』
『大丈夫です、数時間したらここから出ていきますから』
警備員の二人はお互いに顔を見合わせながら1人が尋問して来た
『ここに止められては困るのですよね、どこから来たのですか』
『東京です、劇団の営業で、北海道の小中学校を訪問しているのです、怪しい者ではありません』
窓から演目のパンフレットを出して見せた。確認している警備員は迷惑そうな顔つきで言った
『気温が零下13度まで下がるからここでは身体を壊しますよ、まだ間に合いますからセンターに行った方がいいですよ』
警備員はそう言い残すと渋々去って行った。
一郎は後部座席に行き段ボールを敷いた上に毛布を敷いて、寝袋にもぐりこんだ。普通の寒さならばカイロもつけているし心配しないのだが、思わぬ事がおきた。予想もしていなかった。セターに厚いジャンバーを二枚着て頭は頭巾でと襟巻の完全装備をしているから寒さには耐えられると思っていたが呼吸をする鼻の穴から光のような冷気がさしこんでくるのだ。まるで穴を狙い撃ちにするように。これには往生した。頭の位置を変えても執拗に迫ってくる。エンジンかけて暖房もとれるが、排気ガスで死んだ人もいることから、止めたままだ。幸いにして雪は降らなかったから、よく睡眠をとれないまま、明け方近く岩見沢を離れた。
朝早くから江別市、北広島市と学校を訪ねて札幌に入った。その日のスケジュールをこなして劇団の宿泊名簿に従い宿を探すのだが慣れない雪道を走るのでビルの谷間でもスリップはするし、おまけに雪となり、通りすがりにあった札幌健康ランドに入った。
冬の北海道は演歌ではないがなんとなく寂しく感じる。まして慣れない雪道だ。スタッドレスタイヤだけど地元の人たちはチエンタイヤを履いている。今のところスリップも少ないがこれかの道中は心配だ。
健康ランドは賑やかだ。都会に帰ってきた感じがした。大浴場につかり窓から外を見ると寒さで湯煙で外がぼんやりしていた。大浴場のへりに座りのんびりしていると、ここから僅かな距離にある真駒内駐屯地にいたころを思い出していた。親父が甲州街道の笹塚でトラックにはねれれ交通事故にあわなければ、まだこの駐屯地にいて戦車の運転か、自動二輪を運転していたかもしれないと、自衛隊員であった二十歳のころを思い出していた。余市に台風の災害派遣に出動して、現地で土嚢作業をして少しは貢献して、そのお礼にと地元の小学生が大きな帯にでもなるような昆布をくれた事などよぎってくるのであった。
この今の降り方だと明日も雪が降り続く可能性が強いと思うので学校訪問も骨が折れることと思い、この健康ランドに一週間滞在することにした。
一郎は平均して5000円ぐらいが劇団規定の宿泊費であるからこのセンターで週刊泊まり割引をすれば2500円と半額になるので
小遣い稼ぎに連泊をする事に決めた。
健康ランドは年配の人が深夜まで起きている人がいる。
ソファに座っているとお婆ちゃんが話しかけてきた。
(役者さんですか)
(いいえ、違いますよ)演芸ホールで旅回りの役者さんたちが公演をしているので、そう思ったらしい。
ガッカリした様子で話は途絶えたが時間を持て余しているのは一郎も同じだ。寝る場所は雑魚寝が主だ。一郎は人の鼾で眠れないからこうして深夜でもソファで一人寝する事が多い。
仕事は夕方には終わる。一郎の仕事は演目のパンフレットを説明にいくか、置いてくるかで、金額とかスケージュールなどの仔細は東京の劇団本部が訪問をした数日後
電話を入れて交渉に当たるので、ノルマはあるようで無いも同然だった。
時間が持て余すと繁華街に出て時間を潰す。酒が飲めない一郎はよくバチンコにいく。ほとんど負けだから、旨いもの等食べられ無い。
出発前に団長から次回公演の宣伝用パンフレットを頼まれていたので、画用紙に走り書きをしていりして時を埋めていた。
団長の思いは一郎が面接の時に絵に興味を抱いていたのを知っていたのか、それで振ってきたと思う。一郎にとっては自作の作品になる事からやり甲斐があった。
一郎はこの旅の半分は、スケッチ旅行だと決めてきたので、絵の用具は持参しているからどこに居ても作品が描けた。
スケッチでは思い出が幾つもある。
雪の美幌峠を超えて摩周湖でスケッチをした。
真冬だから観光客はいない。
吹雪いていた。展望台に立つことさえできない。時折日差しがさしてきていた。
身近なところでは雪が光っていた。ダイアモンドダストだ。
一郎は遠く微かに観える
白い山並みと手前の風雪に耐えている木々をえがきたくて画用紙に鉛筆を走らすのだが、画用紙に粉雪が吹付け、紙が濡れてくるのだ。
中山峠を、越えようと小雪の降る中除雪車が、通った痕跡のある道を登って行くと、不安になって来た。上からも下からも車の影は無い。雪は段々強くなる。辺りは白一色だ。こんな雪道は初めての経験たから、不安がつのる。
万が一の時に備え寝袋、食料なとは二三日は、耐えられる。
とうとう坂道を登るのを止めて引き返す事にした。Uターンが道幅が無いので、少しずつハンドルを切りながら無事に、脱出が出来た。遭難に遭うのではと東京ドライバーは自信を無くした。地元の人だとこんな時には峠を超えるはずが無いだろう。
翌日は函館市内の、学校を訪ねた。朝早く行くと子供たちの登校時間と重なる時がある。
教育の差なのかおはようございますと挨拶を元気な声で言う生徒達がいるのと挨拶をしない学校がある。
挨拶をしてくれる生徒達をみているとこちらも元気になるから不思議だ。
函館港に立ち寄りスケッチをした。赤煉瓦の立ち並ぶ倉庫の屋根に雪がつもり、その前は港だ。
絵になる光景に、魅せられて、リストの学校を、訪ねるのをやめて、この機会を逃してはつまらないとスケッチブックに気を入れた。
スケッチ旅行を自前でするとお金がかかる。劇団と併せてやると費用が少なくて済む。
一日一枚が自分に架したノルマだ。時間に追われるので、ノンビリしていられない。
10分ほどで、輪郭を整え、水彩で色付けして終わりだ。
素人運転手は冬の北海道は危険だ。
一郎は小雪のなか中山峠を越えようと車を走らせた。
ゆるい坂道が続く。道は湿った黒い色から雪で段々白くなってきた。外は雪で視界が悪くなる。
車の往来はない。このまま突っ込んで行くと何が待ち受けているか不安がつ乗る。
峠超えを諦めてUターンを始めたが道幅が狭くアクセルをユックリと踏みながら時間をかけながら
脱出が出来た。
地元の人ならこんな時には峠超えたなどよほどでない限りするはずがない。
一郎は万が一遭難した時を考えて、余分に食料や水や防寒着等を、車に積んで来ているので、安心感はあったが、誰もいない、風と冷たさと白い世界は恐怖であった。
劇団を首になる
翌年は四国九州を周る事になった。春先だった。予定日より早目に家を出て高速を走り京都に向かった。
高校の同級生で大手製薬会社の池野に会うためだ。二十年程あっていない。
一歩間違えればヤケクソでヤクザの道に入っていたかも知れない一郎だから、級友で出世頭の池野にみっともなくて自然と距離感があった。
訪ねて行っても評判の悪い一郎だから体よく断られると思っていた。理由は社会的地位から見ると月と鼈で級友といえども恥ずかしく、勇気がいるからだ。
クラスでも真面目に勉学に励んでいた彼の姿は、父の酒屋の跡を継がなければならないのか、と青春をさまよっていた一郎には羨ましかった。
今の一郎には劇団の営業をしていても気楽に話せる友達はいなかった。
本来ならば、エネルギッシュでプラス志向で社交的センスもあるから友人がいても不思議ではないのだが、自分でまいた種だけど、世間の厳しい竜巻に巻き込めれ己を失っていたから落ち着いて話せる友達など出来る状態ではなかったのだ。
焼き芋や。ラーメンの引き売り、ハンヤクザ、ノミ行為、ヒリピンパフの店長、低辺の仕事ばかりだ。生きる手段にせよもう少しまともな仕事をしていれば、彼との距離感は和らいだのだが、プライドだけは強い一郎だから会いたくても会えないと言う事なのだ。
池野に合う決心がついたのは、倅の結婚式に来賓として出席をしてもらいたいからだ。
せめて、こんなやくざな親父でも、いい友達がいたのだそ、と倅に見せたかったのだ。
それと、親戚からは一郎は素行不良で通っていて、兄弟に見放されていた時だけに、結婚式には息子どうしが仲がいいこともあって歯科医の三女夫婦だけの参加と寂しい事情もあった。
池野から京都の都ホテルのロビーで会おうと連絡が来たので待ち合わせの時間に行った。夜の七時だ。
彼は単身赴任で大阪の本社に来ている。
(おお、川奈、久しぶりだね。元気そうだね、劇団の営業をしているって、いいなー、好きな道を行けてさー)
(そんなこと無いですよ、生きていくために、何でもやらないと。
)
一郎は、焼き芋屋の引き売り、夜泣きそば、セメント運び、ヒリピンパブ、やくざの仕事の仲介業が僕の職歴です、とは言えなかった。
ケーキとコヒーが運ばれてきた。
彼は一線で輝く人間だけに、身なりも、姿勢も凛としている。
(これから、どっちの方へ行くの)
(四国から九州かな、小中学校廻りですよ。今年はこんな演物です)
と言いながら寝太郎物語の一枚のパンフレットを見せた。
『このパンフは俺が団長から頼まれて作ったのだ』
今の一郎には心の支えとなる自慢できる物はこの薄っぺらいパンフ一枚だけだ。
(いいなー、好きなことやれて、食べていけれるとは、僕なんかそうはいかないから、羨ましい)
彼は、愚痴をこぼす男ではない、高校のときから、それは変わっていなかった。
旧友の話題になると勉強熱心だった級友の名前が彼から出てくる。あの大学、この大学の教授になったとか、耳鼻科の先生、た内科の先生とかの社会的地位を築いた友達ばかりだ。彼の交際の広さを感じる一郎だった。
それに比べ一郎から出てくる友達は、麻雀とか競馬とか競艇とか女とで結ばれている友達が多く、とても太刀打ち出来る友達では無いので、恥ずかしくて沈黙していた。
話がはずんで一郎は劇団の仕事の合間に広い高原で一休みをしたときの話を始めた。
(又の間に頭を入れて高原の遠くにある山並を眺めてみたらどう映るのか暇に任せて覗いてみたら、あたり一面レンゲの花の群集でビンクの花が満開なのだ。
そのままレンゲを、見つめていると、まるで家族のように暮らしているのだね。
赤ちゃんやもいれば、息子も、母も親父も娘もばあさん、爺さんも皆細い茎で繋がっているのだ。ジーンと、きたよ。自然も手を繋いで生きているのだと実感した。
私なんか子供達は家内が一人で育てたようなものだから、レンゲに敬意を表さなければならない男ですよ)
(なるほどね。見る角度で良さが見えるのだね)
彼はこの風景を後輩の教育実習に使ったそうだ。
一郎にはその良さが分からないが彼には思う事があったようだ。
倅の、結婚式の来賓挨拶の事で意向を聞いてみた。『
俺は、息子の結婚式に金を出してやることも出来なかった男だが、嫁さんの手前、せめて来賓祝辞には社会的信用のある人にお願いできないかと考えていて、それで、迷惑だろうと思ったけれど、勇気を出してお願いに来たのですよ。高校時代の友達も何人かよんである、山内、与三、六さん、だ』
彼は二つ返事で快く引き受けてくれた
『僕でいいの、僕でよければ引き受けるよ。山内はどうしているのかな、六さんは税理士の試験受かったのかな、みなと会えるのも楽しみだよ』
『ありがとう』一郎の池野に対するお礼の言葉は少なめだった。一郎にしてみれば、胸が熱くなっていたのだ。
結婚式は二月後に迫っていた。
仲人はせがれの勤務先である、コンピューターの接続をする工事会社の社長で富田さんだ。彼は一郎のクラス違いの同級生であるが、仲良しというほどの付き合いは無かったが、親しい六さんの紹介で、富田が小さな会社を作り人材募集で若い人を探していると聞いたので、息子が勤める事になった。面接のとき、一郎は富田さんと息子に言った。
『
富田さん、息子がお世話になりますがよろしくお願いいたします、ただ一言いえば、息子が途中退職しても勘弁してください。これからの二人には私は一切関係ありませんから、進退問題が起きても遠慮なく決めてください』と当たり前の事だが一言言って送り出した経緯がある。
当時、息子は高校を卒業したばかりで、運送会社に就職しようと考えていたようだ。ある日、息子は、運送会社の小型トラックののって自慢げに親に店に来た。一郎も『お。お恰好がいいじゃ、ユニホームも似合うぞ』と、たくましく成長した姿をみて喜んだ。
その後、運送会社の採用担当者から一郎に電話があり
『お宅の息子さんを是非とも会社で採用したいのですが、息子さんが親と話してくださいということなので、』
息子は由恵が苦労しているので、社会に出て金を稼ぎたいと思っているが、将来を見据えると不安を抱えているよだった。
電話で。一郎は担当者に返答した。
『たいへん、ありがたいのですが、申し訳ございませんが、今回はお断りさせていただきます』と返事をした。
息子が家に戻ってきたとき一郎は言った
『運送会社の件、断ったよ、お前、まだ若いのだから将来を少し見ろよ、死んだ爺さんとお前は機械いじり好きだったから何か技術を身につけたほうがいいよ。俺の友達がコンピューターの設置をする会社を立ち上げたからそこに行って見ては。やなら、やめればいいから』
息子はコンピューター専門学校を途中退学をしたが、親が継続させる資金ができないで、息子が選んだ道だった。入学金は出せるが後はアルバイトをしながら、卒業しろ、と言って専門学校に行かせたが、学生はパソコンはある、周辺機器はある、遊ぶ金はあるで、息子はついていけないとこぼすようになり、親と相談しても、学費の捻出は無理だと思って運送会社に勤めようとしたのである。だが、技術者の道は途絶えて無かったのだ。友人の一押しで憧れのコンピューターに触れる世界が広げられるからだ。
案の定、アイ・ビー・エムの下請け会社だけど、技術のレベルが上がるとアクリル板の認定証ももらって自慢げに帰って来るようになった。
その社長が息子の結婚式の仲人どになるのだ。もちろん、来賓挨拶の池野とも面識がある。
息子の嫁は高校の同級生だと言う。名前は芳子といい、クリスチャンだと言う。
嫁さんの父は一郎と真逆の人で福祉協議会の会長をしているという。妻の由恵は夫の不甲斐なさに気落ちしていたに違い無い。
小さな劇団の営業職など世間では聞いたことの無い職種だからだ。
それでも真面目な仕事だから、黙っていたのだが内心では父親の経歴の、不甲斐ない職歴は伏せておきたかったのだ。
家賃は滞納しているし、仕事という仕事はしていない。焼き芋の引き売り、夜鳴きそば、土方、駅での干物売り、その日暮らしのオンパレードでは、恥ずかしくて父を紹介出来ないでいたのだが、先方の両親が、挨拶にくると言う事になり、一郎夫婦は2dkの町田に借りていたマンションで会うことになった。
嫁になる両親は幸いにして福祉協会に勤める人格者であったから、大方の事は息子から聞いて分かっているのか、品定めするような言葉はでなかった。
一郎は言った
(息子の嫁にはもったいない話です。私は息子を養子にいったと思っていますので、よろしくおねがいします)
(お父さんも、ご苦労なされて頑張ってこられましたね。どうぞ郁子をよろしくおねがいします)
一郎はお父さんの寛大な気持ちに感謝の一念だった。
(この紅葉の絵はお父様が描いたのですか)
後ろを振り向きながら視線を絵にに当てて言った
(いや、お恥ずかしい。去年の秋に奥入瀬に絵の仲間と行った時の絵です。趣味です)
(いい、趣味ですね、私は何も取り柄はありませんから、)
形式的な会話が続いた。
子供の結婚に親が口出しするわけにはいかないが、先方様は、こんな貧乏な家庭に嫁に行かせてさぞかし心配だと思ったに違いない。
強いて結婚を認めたのは、息子の誠実さと、素直な所かも知れない。
二人の愛は高校時代から育んでいたから、むべに割くことが出来ないと先方の親は思ったはずだ。
そのような事情からせめて友人には社会的地位のある友人の池野に依頼をしたかった一郎だった。
池野は忙しい合間をぬって快く来賓挨拶を、ひき受けてくれた。
仲人も、友人で、息子を採用してくれた00だった。
結婚式場は息子夫婦がブランを立てて、品川の®®®レストランで行われた。会場には100名ほどいて、その中の8名は、一郎の友人達で円形テーブルの一角を占領していた。
後日ら息子から親父の、同窓会では無いのだぞ、と笑われた。
来賓の池野の挨拶は一郎はよく覚えていない。彼のことだからそつなくこなしてくれるという、安心感があり、嫁さんの親類達の顔を見ていた。
息子はこれより一月前に、珍しく親を怒鳴りつけていた。理由は一郎が保証協会の未払い金や、不渡り手形を出して、銀行にまったく信用が無くて、息子のマンション購入の時に不動産会社から、その事を責められて、恥をかいたから、叱責したのだ。嫁さんの手前親を叱責したのかも知れない。
その日は一郎が夜の8時頃、劇団の仕事を終えて賃貸マンションの家に着いて、一服して、畳の上に座ってテレビのスイッチを入れ、ニースが流れる画面を見ている時だった。
父の帰るのを待ち受けていたように、隣の部屋にいた息子がいきなり声を上げて言った。こんな事は初めてのことだ。
(親父のために住宅ローンの借り入れが出来なくなりどうしてくれるのだよ。こんなの親ではない。
みっともなくて恥をかかされた、みっともない事してくれた)
てなことを言い出したのだ。
一郎は黙っているしかない。倅の言うとおりだからだ。
結婚式が二月後にあるという時期だった。
一郎は言い訳はしなかった。沈黙して倅か離れるのを待っていた。
妻の由恵は、台所で用を足しながら、黙って二人の様子を聴いていた。
その後このローンの話は一切出なくなり倅も親の不憫な心境を受け入れざるをえなくなった。嫁には親の恥を素直に伝えたのだろう。
そんな事を思い出しながら一郎の劇団営業の旅は続いていた。
ある夏の日に一郎は大分県の日田地方の学校を回っていた。
その日の、泊まりは日田市の市営である、ロッジ風の宿舎に泊まった。雨降り続き、風も、出てきてたので、通りすがりにあった宿泊施設の看板をみて飛び込むように、宿泊の、話をすると、幸いの事に受け入れてくれた。
施設は従業員の姿も簡素でおそらく近くの主婦がパートさんとして働いているようだった。
明日にはここを出られると思っていたが、翌日になると、雨は土砂降りだ。施設の人に事情を、聞くと市内に通じる道路はがけ崩れで倒木がかなりあって通れないと言う。
劇団に、電話を入れ、復旧まで待機となった。施設の人の話だと一週間ほど、復旧にかかりそうだと言う。
仕方無しに、部屋で待機するのだが、この機会を活かそうと、油絵を描くことにした。
10号のキャンバス2枚は常に持ち歩いているので思わぬところで役にたった。時間を潰すには最高だ。
がけ崩れは、一箇所だけでなく、数箇所という事だ。
雨が止んでも道路は通じないから、その合間を、見ては、施設の、裏山に流れる小さな滝と言うのか、激しく流れる水流を描くことにした。
薄暗い岩山に囲まれた滝は激しく岩を砕く。水飛沫は足元まで飛んできた。狭い空間で、聞こえるのは水流だけだ。
キャンバスを、膝に載せ、荒々しく色を載せていく。寒い。
手間を惜しまず時間を忘れ、食事も受け付けないほどに、没頭して絵は完成した。
絵は薄暗い闇の中に、激しく流れる水流に、激しく抵抗するように立ち向かう鋭い岩と、水の戦いを描いたものだ。
ここにとどまる、二三日前に、天草の、島々と穏やかな海を水彩で、スケッチをしていたら、品の良い中年の婦人が、声をかけてきた。少し前から一郎の絵を描く姿を覗いていた女性だ。
(失礼ですけど、その絵を売ってもらえませんか)
と声をかけてくれた。
びっくりして、
(この絵ですか、売るなんて、気にいって頂いのなら差し上げます)
上質の、紙に描かれているから、雰囲気は出ていた。
青い海原と、手前の岩礁と大きな天空の絵だ。
婦人は、無料だと申し訳ないと、思ってのか、三千円を、(絵の具の足しにしてくだされば)と言って、去って行った。
一郎はこの、天草の、一幕を
思い出していた。
(売れるような絵でもないのに)と言いながら、人の絵を、見る目はそれぞれなんだ、と、思うようになっていたので、この、施設で暇潰しに、描いた滝の、油絵を、道路が開通して帰る前日に施設の方に
(裏の滝を、描いてみました。良ければ、受け取ってください)と言うと、従業員さん達が、笑顔をならべてもらってくれた。
営業に出る日は快晴で、九時には車のエンジンを、かけ。ドアの窓を開けて、見送ってくれる、数人の、従業員にお礼を言った。
(長い間、ありがとうございました。とても美味しい食事で感謝してます)
と、手を上げたとき、一人の方が茶封筒を手渡してくれるのだ。
(これは、絵を描いてくれた事のお礼です)
と言って絵を、購入してくれた。
(この絵はロビーの壁に飾りますからね)
途中で茶封筒を、開けると五千円が入っていた。
私は購入してくれるより、ロビーに飾ってくれるのが嬉しかった。
ここからコピーする
1028誕生日
小雨がぱらついていた。がけ崩れの山道は開通したが、途中には、倒木がやたら多くあり、薄暗い。
峠を超えると日田市の街が見えてきた。
私は日程の遅れを取り戻そうと、学校には子供の登校と同じ時間にした。
学校の門も色々で、山間部だと、広い運動場を渡り玄関に着く。
山根小学校を早朝に訪問すると、若い学芸担当の女の先生が、会ってくれた。
生徒数が130名と少ないが、スケジュールが会えは午前と、午後と分けて公演できるので訪ねた。
教務室の入口近くにある机を挟んで話しを、始めた。
担当の先生は小柄で、新人らしい。
寝太郎物語のあらすじを話、子供達の反響などを、説明すると、
(私は、芸術担当は初めてなので今日は、話を伺って置きます。後日連絡下さい。そうですね。一週間ほどでどうですか)
交渉は大抵の場合、こんな具合だ。
交渉にどれだけの時間を費やしたかで、興味の、度合いが解る。
挨拶程度だと、ほぼ公演は貰えない。どんな交渉ごとでも同じのようだ。
私も小学校の頃は、まだ、公演に来てくれる劇団がそうない時だから、当時の学校は、自分達で、学芸会をしたものだ。
私も劇に参加した。題名は忘れたが、主人公がptaの会長のむすこで、蝶々の、パパルが、主人公だ。私はその、パパルをいじめる役だった。皆で唄った声を未だに覚えている。;
(ぼくは、パパル 蝶々のパパル、誰より立派な蝶々なパパル)そこだけか覚えている。
当時はレッドパージがあり、親しく思っていた、優しい山本先生が退職していなくなり哀しくなった事を覚えている。
その時の教訓で、私は劇を学校で公演する事は先生方の思惑より、子供達に意外な思い出を創造させる事が出来ると思う。
私の場合は、市川君は主役のパパルの役をやらせてもらった。
(市川は、主役だ。お父さんが、PTAの、会長だし、社長さんだから、仕方ないな)とこの歳で、人生の悲哀を、知った。
私のことは別として、演劇鑑賞は、子供達に、色々な想像力を与える。大人が考えつかない、何かをだ。それがいいと思う。
大分県を回っていると熊野魔崖がの看板が見えたので、車を走らせた。辺り一面畑や田圃だが、しばらく行くと、山道の坂道だった。
駐車場に、車を止めて、崖沿いに掘られた仏様を見学した。
こんな、崖によく造ったなと感心するばかりだ。
おそらく、今流で言うなら、余程の暇人が、里に籠もりながら、この崖まで登り、野見一つで、朝から日没まで。彫り続けたのだろうと、思って見た。
なんでこんな事をするのだろか。夜のため人のためだろうが、他にやる事あるだろうと、ゲスな勘繰りをして、己の浅はかさを認めた。
ついでに田原坂に立ち寄った。司馬遼太郎のファンである私は一度は確認したい場所だった。
白いなまこ壁に銃弾の痕跡が点々とある。
坂の反対側は緩やかな下りだ。
私は車を駐車場に預け、草むらの土手を下ってみた。
背丈ほど雑木や竹で前になかなか進まない。
僅かな隙間を見つけて、外界を観ると、そこは一面に高原が広がっていた。
私の頭はこの光景をみて司馬遼太郎の白髪で眼鏡をかけた顔を思い出した。坂の上の雲や人切以蔵、新選組始末記、他の作品が出てきて、この今いる私が彼の舞台にいることを感激の眼で見ていた。そればかりか、いつの間にか時計の針は幕末に戻っていて私の心は薩摩藩士の抜刀隊の気分になっていた。
眼下の草むらには黒に赤い帯をつけた軍帽に西洋式の軍服を着た官軍兵士が刀を振り上げて私にとっては、向かってくる光景だ。
銃声がけたたましけたたましく轟く、草むらで薩摩兵がうめいている。
まるで、映画の戦闘シーンにいる心境だ。
私は刀を振りかざして突撃を試みたが圧倒的な戦力を目の前にみて、草むらを這い上がり、暫くすると駐車場にいた。
まるで、漫画の世界だが一人で旅すると自由自在に感動を味う事ができるから不思議だ。
一人舞台の感動も終えて私はその足で西郷隆盛の終焉地城山行った。
歴史的には洞窟で自害したことは事実ではないらしいが、川の崖にある湿った洞窟は西郷さんの終焉の迎える場面としはドラマ的に使うなら充分な洞窟だと私は感じた。
いずれにしてもこの洞窟で薩摩の行く末を案じていたと思うと感激深いところがだった。
司馬良太郎のファンとしては、充実した時だった。
学校訪問のおかげだから、仕事に意欲を燃やさないと訪問を続けた。
旅も一と月程過ぎた頃、劇団の団長から、電話があり、東京にもどれと指示が
(関根が団長に報告をしたな。これはまずい)
私は電話がきた理由がわかっている。
他の芸術団体のカタログを学校に紹介した事が原因だ。
旅に出る前に辞めた佐藤君から電話きて、いいアルバイトがあると言われて音楽公演を決めて来れば手数料が出ると言われてのったのがいけなかった。
当時私は北海道の、aコースを、任されたが、音楽は中学校が開催する
率が高いので区域外の、bコースにある中学校を訪ねたのだ。
学校に行く途中で、車が雪の轍にはまり動けなくなって、地元の、人の応援で、引き上げている最中に、bコース担当の梅原君に見られてしまい、その事を団長に連絡されて、(すぐ帰れ)の指令が飛んで来たと言う事だ。
私の契約違反なのだ。
205日
厳重注意で、済むかと思ったが甘かった。
轍にタイヤが落ちたのが運の尽き。管弦楽団公演カタログだから演劇とバッテングしないから許されると安易に考えたのが間違いだった。
その上、楽団のピーアールを現実にした訳でもない。
何もしないから、お金にもならない。全くの骨折り損の草臥れ儲けだ。
後悔しても始まらないので、次のアクションを考えるしかない。
そんなある日、電車の中で新聞を見ていると、占い鑑定士募集の広告が目に止まった。
占??
(占いなんてできるのかな、俺に、歩合給込で50万、魅力だな、裏街道か、?)
私は新聞に募集広告を、出すのだから社会的には認知されているのかも知れないと思った。
せっかくまともな劇団の営業という仕事についたのに、退職する羽目になり、これも宿命か?。
山手線の電車は夕暮れも過ぎて、帰宅する人でほぼ満員だ。
目の前の男はつり革に両手でぶら下がり、身体が揺れている。煩わしい。
(だが待てよ、占いの仕事とは、なんだろう。人の運命を占いで予知するのか。危ないな。まともな男のやる仕事では無いな。
そうか。俺は昔はまともではなかったから応募資格はあるか?
占いはどう見ても論理的な、根拠がない。当たるも八卦の世界だろう。詐欺師の片割れか、)
私の脳裏はマイナス志向で固まってきた。
(俺の今までの人生は、間違えてヤクザの仕事を手伝ったり、焼き芋や、ラーメンの引き売りとか香具師の世界に近い。劇団は、まくれだ。そうか。とりあえず、応募だけしてみるか。
どうせ、底辺を歩いて来た男だ、怖いものは無い。気に入らなければ退散すればいい事だ)
私は占いが仕事になるなら門を潜って見るのも面白いと、考えるようになり、翌日応募に行くことにした。
占い募集を、している会社は埼玉県入間にある。
駅から、20分ほど歩いていくと畑の多い土地の中にこんもりと木々が茂り、白い4階建てのビルかあった。
隣接する、県道から正門に続く階段があり、登り終えると朱色した鳥居があった。
鳥居を潜り抜けると正面にりっばな伽藍があり、その隣に、ビルがある。
面接をしてくれた人物は、総務部長さんだ。小柄だが、目は鋭い、六十は超えているかも知れない。名刺には
不二易断館。総務部長、山崎拓郎金銭を扱うので、保証人が必要になり、困った。
私の保証人など、なってくれる人などいるはずがないと、思っているからだ。
と書かれていた。
事務所の、ソファに座り仕事の内容を、教えてくれた。
内容は大方こんな様子だ。
固定給25万ブラス歩合。
全国各地を周り祈願を貰う仕事だと言う。一週間単位で、ホテルや、旅館で八卦占を行い、人生相談会を開き、災いの原因を占い、出た卦を読んで相談者に説明をして、望むならば因縁解脱の修法を勧めて、祈願料として代金を頂くと言う仕事だ。
私には思いも寄らない仕事なので躊躇したが、これという仕事も見つからないので、
当たって砕けろの精神で仕事をする事にした。
祈願料と言うお金を扱うので、保証人が必要と言う。
私は困り果てた。
親から勘当されているし、兄弟からは相手にされていない。
身から出た錆だ。なんとか探さないとこの仕事は出来なくなるなる。
あの人ならもしかして受けてくれるかもと思いだした。
それよりもどう説明するのかが問題だと不安が生まれた。
何故かといえば、占いの仕事だからだ。
占いと言う仕事は社会的な仕事とは思えないし、昔から裏街道と言う一般的な評判だから、(そんな会社辞めたほうがいい、)と言われる心配があるからだ。
私は、数年前、新島で共に料理職人として保養所で働いた二つ年上の鈴木さんに相談をしてみることにした。
彼は今大手の警備会社に勤めている。
私とは気の合う人で川崎でクラブを経営していたが、道楽が好きで店を閉める事になって一からやり直し途中の男だ。
私と類似点はかなりある。
Baccara博打で韓国に行き、大枚を負けてきたという歴史がある。闇の世界にもつきあわされた苦労人なので、痛さ痒さのわかる人だ。
私から見ると心の深い人間だから、占い鑑定の仕事の保証人も理解を示してくれるはずだと相談をしてみた。
鈴木さんは、最後まだ私の話を聞かないうちに
(川奈さんのする事だから信用してますよ。私で良ければどうぞ)
と言う事で、保証人野、件は無事な乗り越える事ができた。
占い研修は、採用されて三日後に始まった。
先ずは八卦占いの、基本からだ、
先ずは身体で覚えろだった。
正座で、両手で筮竹を抑えおでこの上迄持っていき、そこで止めて
祝詞を言うのだ。
法要の所作、易の理解、鑑定の仕方。等盛り沢山だ。
一月の研修をこなして日本国中の旅に出た。
八卦占いは、ホテルか、大きな旅館で10間行程で開催された。
この世界は、皆目見当がつかなかったので、真摯に向きあった。
家族の事も心配だから稼がなければならないという、焦りもあった。
基本給プラス歩合給の募集広告につられ就職したが、思ったより数字が上がらないので8年勤めたがやめてしまった。
一言で言えば、精神的に、まいったということだ。
上司と意見が合わす、こんな男に頭を下げる必要はないと思い潔く辞めたのだ。
私から見れば人格を否定する行動は、できるはずがない。
具体的
宮崎県宮崎市の大型商業施設の、イオンで仲間の紹介で占いをすることになった。
車が2千台ほど止まれる駐車場がある。
占いする場所は、二階の、中央辺りにある。
ペントスという店名で、よんせきが横に並んである。
二階の、フロアーだけでも25店ほどある。人の流れも土日祭日だと人で埋まる。
私の宿泊は、宮崎駅の近くに社長さんがワンデイケイを、格安で貸してくれだ。
契約期間は年末の12月始めから翌年の、1月一杯だ。
二階の中央フロワーの2間ほどの空間に占い机が4台が並んでいる。
四人の占い師が居る席だ。
前面には手摺があり、両サイドには幅の広い、階段が下がっている。
占い師との間には仕切りがあり、隣の声は聴こえない。
一人一坪位のスペースがある。
私の鑑定机の、サイドには立て看板ある。
社長が、書いた宣伝文がが綺麗に印刷されてある。
中味を読むと。派手な内容だ。
横浜中華街の、経験豊富な、占い師創山先生来る。
人生相談、八卦易断、四柱推命。
手相は。千円。
などだ。顔写真付き。
恥ずかしいが仕方ない。広告にお客様の目が向かないと相談にも来ないからだ。
私は女占い師3人に囲まれ真ん中に座っている。
横の仕切壁には、中華街で、見よう見まねで教わった花文字作品を数枚貼ってある。
東京から来た占い師は、二人でここで会った麗香先生だ。五十前後の女性だ。
後は地元の女占い師だ。
朝の10時に、店がオープンする。その時間に合わさて、私達は、鑑定机の前に整列して、(いらっしゃいませ)と最初に階段を上がってきたお客様に、挨拶をするのだ。
年末だから忙しい、冬休みで子連れだらけだ。
鑑定は一日15名程で、山は年末から、正月5日までだ。
私は目黒の、自由ヶ丘に、机二つを又借りで、借りている。其処は占い影技してから八年は経過しているが、家賃が十八万円と高いので、私が食べていくのに苦労している。店の名前は元気村占い館と言って、在籍する先生は、私を含めて3人で運営しいる、、、
タロット占いのマイクさん、と女性占い師の、小森さん、と私だ。
宮崎に私だけ来たのは、年末年始は、稼げるからだ。自由が丘の家賃の足しにもなるので、ここ数年は、宮崎に来ている。
宿舎は、社長が駅前のマンションを、借りて東京メンバーの、私と麗華先生似、一日千円で貸してくれている。
私は朝、駅前から、バスに乗ってイオンまで行くが。麗華先生は、三十分ほど歩いて行く。
帰りは社長が8時過ぎ自家用車で迎えに来てくれる。
社長と言っても、元はホテルマンでお母さんが池袋で占いを、していてその関係で、イオンに店を出したという。
正月は、いつもこのところ、家にいない。妻の由恵も慣れたもんだ。金さえ稼いで来れば正月なんて要らないようだ。
私は家にじっとしていたことがない。特に仕事では。貧乏していて、部屋が狭い事もあるだろう。
それと夫としての責任を果たしていないから妻との折り合いが悪いのもある。折り合いが悪いのは安定した会社に務めているわけではないから、給料が不安定で、何時もお金で揉めているからだ。
劇団しかり、占いしかり。建設営業長野勤務しかり、兎に角家にいない。
似たような、男は他にもいくらでもいると思う。
自営の、占い館てまある、自由が丘の店が心配だ。私はこの宮崎に来ていても気が気でない。
私の親友で占い師のマイクさんが、自由ガ丘を守っていてくれるが、売り上げがないと落ち込むからだ。勿論家賃にも、影響するので落ち着かない。
私が宮崎イオンで稼がないとウカウカ出来ないのが、本音だ。
そうは言っても、開店の、淡い音楽が流れると気合を入れていく。
一般的には、男の占い師は、相談者が入りにくい。4席のうち、三席が、女性占い師たまから、私の、机に座る相談者は、4番目になる事が多い。
昼食は二階のホールで食べる。ホールを取り囲むように店が並んでいる。なんでもある。
私は吉野家の牛肉が定番だ。
一月半が私の出番だか、占いという仕事はお客様が来ないと退屈になる。
占は年末から大繁盛だ。
タバコ吸う暇がないほどだ。
月末になり、精算をしてもらい神奈川県大和市の自宅に戻った。45円のうち由恵には、15万円渡し、残りは自由が丘の店の家賃にあてた。
マイク
港の近くに岩風呂がある。休みが無いので、一度だけ昼間の休憩時間を利用して、入ってみた。
目の前は大海原だ。湯に浸かっている自分が此処に居ることが不思議でならない。
こんな幸せを感じて申し訳ないと思うからだ。
鈴木さんも、磐にすわり海風を浴びて幸せそうだ。
川奈さん、一昔前は箱根や伊豆など仲間で行っていたが、慌ただしく気を使っていた、温泉旅行だからね。今は全てを投げうって来ているからノンビリだよ、
私も同じです。一生懸命、閉店の整理に追われての毎日でしたからね
この景色は、夕日が沈む頃は絶好のポイントになるね。
私はね目黒の東国会館で西洋料理を学んでいたけど根が付かないのだよ。何しても飽き足らず、友達とオートバイでアメリカ大陸横断旅行をしたり、ナイトクラブの店をつくって、ソロで歌っていたり、タロット占い師をしてみたりしていてね。あの派手さは今はないが、人間何が幸せかわからないネ
そうですよ、でも、私達は、よく似ていますね。私なんか失敗談なら山程ありますよ。ここに来て自分を見直す事が出来て感謝ですよ。これも鈴木さんのおかげです。
面接のとき、川奈さんは今日決めて下さい、そうでないと就職しませんと言ったとき、随分せっかちな人だなと思いましたよ。
そうなんですよ。即決してもらわないと一日でも棒に振ること出来なかったのです。金欠病でね。
何処も同じですよ
翌日の夜東海汽船に乗って新島に行ってくださいと言われた時はホッとしましたた。
海の音がする、岩風呂を去って夕食の仕込みのため二人は調理場に戻っていった。
十日ほど過ぎた頃、私は宿泊するお客様が新島に来た記念のため何か印象に残るものを企画しようと、ある提案をした。
お化け大会。
徳利童歌(下巻)