スイッチ屋と死にたがり少女-第三話-


阿婆擦れよ

心の底から
喘いだフリして


運命よ

きっとそれは
ただの戯れ言

昼過ぎにアパート階段下にゴミ捨てに行くとゴミ収集車が来ていた。走って行ってゴミを預けると一階に住んでいる岡部さんと鉢合わせた。
岡部さんはこのアパートの古参住民だが部屋から滅多に出てこないため、あまり顔を合わせたことはない。確か、仕事はせず株やら何やらで稼いでいると依然言葉を交わした時に言っていた気がしたが(とは言ってもそれは数カ月前の話である)、今でもその生活は続いているようだ。そうでなければ、カップラーメンのゴミばかり入ったビニール袋を持って、小さすぎるTシャツと擦り切れすぎたジーンズでこの時間帯に私と鉢合わすことなんかないと思う。私が言うのもなんだが、彼は引きこもりの鑑だと思う。ちなみに褒めてはいない。貶してもいないけれど。  岡部さんがこっちをチラッと見たので、一応礼儀として会釈をしておく。
「あっれ、弘ちゃん?おひさー。今日も暑いねえ」
 岡部さんがボンレスハムみたいな腕を揺らして挨拶してきた。めったに外に出てこないことを除いて、岡部さんは私よりよっぽど社交的で愛想が良い。
「お久しぶりです」
「相変わらず元気そうだねー」
 二人して共通の話題がないので当たり障りのない会話になる。普段から積極的に誰かと話すことはないので、岡部さんの言葉に返答するにしても二言三言だ。
「そういえば呼んでたよー。大家ちゃんが」
「大家さんが?」
「うん、なんかね。この前のこと、聞きたいんだって」
岡部さんは周囲を気にしてか少し小声でそう言った。
「僕は昨日呼ばれたけど、正直なところ何も知らないし。短時間で終わったよ。とりあえず次は弘ちゃんだってさ。今からそれ伝えに行こうと思ってたんだけど、そこの階段急すぎで上るだけでへばっちゃうし。ここで会えて助かったよ」
このアパートで「この前」というとアレか、とすぐ思い当った。竹中さんの件ほど大きな出来事はここ最近このアパートでは起こってないし、私も一応この件の当事者だ。遠からず大家さんに説明する機会もあるだろうとは思っていたが……少し気が重い。岡部さんの好奇の視線が刺さったけど、無視する。早く話を切り上げなければならない。真夏の日差しが暑いのとは別に、変な汗が背中を伝って流れた。岡部さんは額に脂汗を浮かべてすでに息切れ状態だ。
「分かりました。後ほど伺っておきます」
「うん、夕方4時あたりに来てって言ってたからー。忘れずに行ったげて」
 あの気難しい大家さんからの呼び出しを無視するような度胸は私にはない。



この後、部屋に戻ると例のごとくスイッチ屋が居座っていて、今回は鈴カステラを食べていた。近くのコンビニにて半額で売っていたそうだ。いい加減不法侵入には懲り懲りしていたが、正直なところツッこんだ方が負けなような気がしたし何よりもう慣れてきてしまったのでもう文句は言わないことにしている。本当に慣れとは恐ろしい。
今朝は出かけていたようだったが、毎回どこに出かけているのかまでは分からない。最近になって互いに出かけるときはメモをテーブルに置くという決まり事を作ったが、私もスイッチ屋も「●時くらいには帰ります」とか「夕飯はいりません」とかそんなメモばかりだ。そもそも私は生活必需品の買い物くらいしか外出しないのでメモのほとんどがスイッチ屋のものだった。一度だけ私が「どこに行ってたの?」と何となく尋ねた時、彼は曖昧に笑うだけだった。
夕方4時少し前になって、スイッチ屋が作った揚げ玉たっぷりの焼そばでお腹を満たしてから、私たちは大家さんの部屋がある一階へと降りていった。
夏の夜の空気は雨の日ほどではないが少し湿り気を帯びている。日はまだ沈みきっておらず、空は薄く赤らんでいる。まだところどころでセミが鳴き交わしていた。
アパートの周囲は私の実家程ではないが比較的自然が多い。裏手には小川が流れていて子どもが遊べるような小さめの公園もある。一応住宅街ではあるがそれほど住宅が密集しているわけでもないし、近所同士での干渉もない。過ごしやすいところだと思う。
大家さんの部屋のドアまで来たとき、私はスイッチ屋に振り返った。相変わらず改修されていない階段のせいで、スイッチ屋は若干消耗した表情を見せていた。大家さんに呼ばれたのは私だけなのに、どうしてもついてくると言うのだ。
「ねえ、どうしてもついてくるの?」
ここに来る前までにも散々した質問だったので、またその質問か!と返される。
「ああ、どうしてもついていくの」
スイッチ屋をジト目で見やる。
「良いじゃねえか!大家さんにちょっと挨拶しとくだけだ」
「……迷惑かけるようなことしないでくれる?」
ただえさえ、説明が面倒なのに、その上に変なことしてまでかけられたらたまらない。
「え?俺がいつ誰に迷惑をかけたんだ?」
今現在私の部屋に押しかけて迷惑かけている男はそんなことを言った。

「開いてるから勝手に入って」
インターホンを押すと、中から低めでぶっきら棒な声がした。ドアが開いた瞬間、室内には空調が効いていたようで、僅かに外との温度差で風が吹いた。薄くかいた汗が引いていく。大家さんの部屋はアパートの他の部屋より少し広く、余分に一つ小さめな部屋がある。一番大きな部屋のインテリアは棚、タンス、ドレッサーも含めすべて木目のもので統一されており、明らかに高価そうだ。中央にはこれまた高級そうなテーブルとイスが配置されている。テーブルの上には上品な色合いのテーブルクロスがかけられている。余分な部屋の方は寝室のようで一人で寝るには若干大きなベッドが部屋を占拠していた。
「悪かったわね。急に呼び出して」
「あ、いいえ。お邪魔します」
私はあわててベッドから目を逸らして、無感情な声のした方に振り向く。大家さんがキッチンに立っていた。黒い下着にYシャツを羽織っただけという非常に目のやり場に困る格好だが、異様に貫禄があり体は女性らしい起伏を富んでいる。長めの茶髪は大きなクリップでまとめ上げている。どう見ても部屋に他人を招き入れる格好ではないのは重々承知ではあるが、大家さんはその点無頓着だった。キッチンからは微かに爽やかな香りがしている。ハーブティーか何かだろうか。
やがて大家さんは茶器を持ってこちらへやってきた。爽やかな香りがより強くなる。テーブルに置かれるとクロスの色合いと相まって茶器がとても神聖なもののようにも見えた。
「こんばんは、宮前ちゃん。あら、アンタも来てたの?」
「ご無沙汰しておりました」
スイッチ屋が丁寧に会釈をして大家さんに笑いかける。二人の様子からして互いに面識があるらしいことにちょっと驚く。
「カップ、もう一つ要る?」
「いいえ。結構です。お気遣いなく」
不自然なくらいに慇懃なのでスイッチ屋を見やると、スイッチ屋は僅かに顔を強張らせていた。その上、目が僅かに泳いでいるような気がするのは私の気のせいではないと思う。
大家さんは自分の手前にあった椅子に流れるような動作で足を組んで腰かけた。私もスイッチ屋に遠慮する義理はないのでもう一方の椅子に腰かける。
「アンタのとこの男だったのね、それ」
大して興味もなさそうに、私の斜め後ろにポジションを構えたスイッチ屋を大家さんは顎で指した。
「違います。ただの居候です」
「そう」
大家さんはそう呟くとYシャツの胸ポケットから煙草とライター、そしてテーブルの脇から灰皿を取り出した。思ったよりもスイッチ屋について深く突っ込まれなくて内心安堵する。
「吸っても?」
「どうぞ」
大家さんが煙草の火をつける前に私はカップに口をつけた。先ほど香っていた香りが体にスッと入ってくる。次の瞬間には大家さんの煙草で辺りが霞んだ。
「この間は自己紹介してなかったかしら。大家静子よ」
「どうも。スイッチ屋です」
スイッチ屋がまたにこやかに言った。正直気持ち悪い。大家の静子さんは、スッと訝しげに目を細めた。そりゃあ、名前が名前なので仕方ないと思う。相変わらず煙草の煙は静子さんの周りを渦巻いている。結局、静子さんは言葉を発する代わりに、息を吐いた。
黒いブラジャーで包まれた豊満な胸がYシャツのボタンを留めていないせいでかなり目立っている。煙草を口元に持っていく仕草一つとっても、気だるそうな動作の中にどこかしら艶を帯びていた。

「“別れはかくも甘く悲しい。だから私は朝までさよならを言い続けたい”って言うけど、上手い表現ね」
静子さんはいきなりそんなことを言った。
「何のことですか?」
「……シェイクスピア」
スイッチ屋が言った。静子さんはテーブルも見たまま頷く。そしてふと視線を上げて私を見つめた。相変わらず視界は薄く煙っていて、静子さんの目も濁って見えた。ちらりと後ろを振り返ると、スイッチ屋と目が合った。少々所在なさげに肩を竦めたが、呼ばれてもいないくせに自分から押しかけていることを考えると、とても同情はできない仕草だった。
「宮前は、あまり文学作品は読まない方?」
「ちょっとだけなら読みます。でもそんなに頻繁には……。大家さんは職業柄よく読書をする方だって聞きましたけど……」
誰から聞いたかは言わなかったが、静子さんは察したらしく眉を少し上げて少し笑った。
「そうね。職業柄かどうかは別にして、確かに色々読むわ」
静子さんは首だけを回して自分の背後を見やった。壁際に大きめの棚があって小説からビジネス本まで幅広い種類の書籍が並んでいる。薄く色あせたものから、新品そうなものまである。
「シェイクスピア以外にも外国人ならカフカだとかドラッガーとか、日本人だと二葉亭四迷や夏目漱石……有名なところだとこんなところ。最近のもあるけど、どちらかと言えば古い本の方が多いかな。とにかく節操無く色んな本を読んだ」
静子さんの仕事を私は知らなかったけれど、何となく大家じゃない方の仕事内容が想像できてしまっているので、私は口を噤んだままテーブルクロスの白さをジッと見た。白という色は目に眩しくて、何も近づけないような鉄壁さを思わせた。
「こう見えても、普段あっちの仕事で相手にするのは大手企業の社長さんだったりするの。ああいう人たちって頭の弱い女はダメみたいだから。でもそれって我儘な話ね」
あとお堅い女もダメみたいだけど、と静子さんはまた息を吐く。煙草の灰が灰皿に落ちた。
「貴方は何か読むの?」
「俺は、」
スイッチ屋の声が不自然に揺らいだ。急に話しかけられて驚いているのだろうか。それにしても何かおかしい。私は違和感を覚えた。特に注意して聞き耳を立てる。
「俺は、ビジネス書とかは読まないですね。ただ、以前は小説をよく読んでいました。今はめっきりその機会も減ってしまいましたが」
しかし、さっきの違和感がウソだったかのように、スイッチ屋は明るい声でそう言った。それにしてもスイッチ屋が文学を嗜んでいる方が意外だ。そういうイメージは全くない。静子さんはそれ以上スイッチ屋に突っ込んで尋ねなかったので詳しくは分からずじまいだった。
静子さんは短くなった煙草を灰皿の上に押し付けて、新しい煙草を取り出した。
「今回呼んだのは……まあ、単刀直入に言うけど、竹中のこと」
そうだろうとは思っていたので私は黙って頷いた。静子さんも頷き返す。
「正直な話、私は今回のことあまりよく分かってなくてね。うちにも警察は来たけど、聞くだけ聞いてこっちには何も教えてくれなかったし。今後のアパート運営にも関わってくる話だから一応何があったのか聞かせてもらおうと思って」
静子さんに促されて私は竹中さんの話をした。曖昧な部分はスイッチ屋が補って話を進め、時折静子さんが質問を挟んでいた。話した後、何だかひどく消耗して、私は深く息を吐いた。スイッチ屋はそんな私の肩を労わるように軽く叩いた。
「そうだったの。てっきり竹中が彼女さん、殺っちゃったのかと思ってた」
 静子さんは煙草を吹かしながら、あまり興味のなさそうに言った。煙草には薄く口紅の跡が付いている。
「アイツはそんなことしませんよ」
スイッチ屋が強い声で即座に言った。静子さんは持っていた煙草を灰皿に押し付けると、4本目の煙草に火をつけながらスイッチ屋にチラと目を向けた。暗く沈んだ瞳にライターの火が一瞬映って消える。
「あら、するわよ」
口元を綺麗に歪めながら言った静子さんの声音に少しドキリとする。カップに口をつけると、少ししか飲んでいないハーブティーはすっかり冷めきって香りもほとんど消えていた。この部屋は冷房が効きすぎているようで、私にとっては寒いくらいだ。
 静子さんは私の背後を見た。煙の向こうで静子さんの目が怪しく光っているのが見えて、私はひたすら嫌な予感しかしなかった。こういうときに働く勘は当たることが多いから嫌いだった。静子さんは目線をそのままにゆっくりと続ける。
「誰だって追い詰められたらどんな行動をするかなんて分からない。竹中に限らず、人はみんな何かしらそういうものを抱えているものでしょう?」
「よく分かりません」
スイッチ屋が無言のまま答えないので私が代わりに答える。私は素直に答えた。
「若いころはね、きっとそうなのよ。私も分からなかったわ」
静子さんは私の言葉に深く頷く。
「でもね、今の仕事を始めてから色々分かったことがあって、そのうちの一つがこれってわけ。」
分からないままの方が幸せだったかもしれないわね、静子さんは感情を込めずにそっと言った。
「じゃあ、訊きますが、静子さんは誰かを殺したことがありますか?」
突然背後からした低い声に私は肩を強張らせた。声には笑いが含まれていたけれど、まるで嘲るようだったから。失礼な言い草を窘めることも、ましてや振り返ることもできなくて私はまたテーブルクロスを見つめた。
静子さんが笑う気配がした。顔を上げると、静子さんもテーブルクロスを見つめていた。微笑んでいるようだったが、どこか悲しげだった。
「“悲しみというものはそれ単独ではやってこなくて、必ず大挙して押し寄せてくるもの”でしょ?結構人ってそんな理由で簡単に人を殺せるのよ」
静子さんはスイッチ屋の質問には答えずに言った。スイッチ屋がどんな顔をしているかは分からなかったが、静子さんはスイッチ屋の方を見つめて少し気の毒そうな顔をした。そして、静子さんはそこから私に少し視線をずらす。
「――わ。それくらい、私も」
「え?」
何と言ったのだろう。よく聞き取れなかった。
私が困惑しているうちに、静子さんはおもむろに立ち上がった。煙草の火を灰皿でもみ消して、スッと長い足でスイッチ屋の方に歩み寄っていく。脇を煙草の匂いが通り過ぎる。
背後で衣擦れの音がした。
「静子さ……」
「正直に言おうか?竹中の気持ち分からなくもないの」
静子さんの声がスイッチ屋の声を遮った。
「自分がどこにいるかって分からなくなると人って途端に怖くなって、不安定になる。で、自分がここにいるって確かめようとするわけ。確かめる方法は色々あるけれど、竹中の場合は彼女を愛することだったのね」
アナタはどうかしら?と静子さんは呟いた。その呟きの中に艶やかな響きがあるのを聞き取って私はどうしようもなく苦しい思いがした。
「静子さん、ちょっと……」
「――」
静子さんはまた何か言ったようだが、くぐもってしまってよく聞こえない。思わず振り返ろうとすると鋭い声が飛んだ。
「事情は聞いたし、宮前ちゃんはもう良いわ。出て行ってくれる?」
思い出したかのようにそう言った言葉は威圧的で、結局私は足元が竦んで動けなかった。いつだってそうだ。私はなんでいつもいつも動けないんだろう。肝心な時に限ってこうして怯える。
「弘香」
スイッチ屋の優しい声がした。いや、優しいと言うよりは諦めたかのような声。
「……呼ぶな」
震える声で私は思わずそう言っていた。今スイッチ屋に名前を呼んでほしくなかった。
「呼ばないで……」
私がもう一度そう呟くとシュッと息を吐く音がした。スイッチ屋が笑ったようだった。
「ごめん、弘香」
スイッチ屋がどんな顔をしているか確かめたかったが、私は確かめなくても何となくその表情が分かってしまった。分かってしまった瞬間、それに対して激しい嫌悪を覚える。
「大丈夫だから」
スイッチ屋はそう言ったが、私はもう黙って出ていくことしか出来なかった。彼の声色は完全に「ここから出て行け」と訴えているようにしか聞こえなかった。
二人の方を見ないようにしてドアの方まで駆ける。外に出ると湿気を帯びた暑さを感じたが、冷房で冷え切ってしまっていた体にこの暑さはむしろ心地よかった。夕日は完全に落ちていて、辺りは電灯の明るさのみが照らしていた。そんなものはほとんど薄暗がりだったのだけれど。
私は部屋に帰って簡単にシャワーを浴びた。下着を身に着けて、いつもの寝巻用のジャージを着る自分が何だか無性に悔しかった。自分はなんて子供っぽいのだろう。
「最低……」
暗い部屋でたった一人ベッドで横になった。


その夜、スイッチ屋は私の部屋には帰ってこなかった。

スイッチ屋と死にたがり少女-第三話-

12/09 第一話全UPしました。ご意見ご感想、誤字脱字変な日本語指摘などなど何でもお願いします!

スイッチ屋と死にたがり少女-第三話-

これは死にたがりによる、生きたがりな話。 今回は『すがりつく話』(「小説家になろう」さんのささかま。のページでも重複投稿を行っている作品です)

  • 小説
  • 短編
  • 青春
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  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-09

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