午後八時十分発
きれいだったから、よごしたかったのだと、あのひとはつぶやいて、わたしは、なんでもいいから早く、バスがきてほしいと願っていた。午後八時の、バスの待合所のベンチが、いまいましいほどにつめたい。あのひとの恋愛のあれこれなど、微塵も興味なかったのに、あのひとはひとりごとのように、ぽつぽつと話しだして、わたしは、十一月の、夜の、スマホの天気予報が表示するところの、一桁の気温に、からだも、心も、凍えてしまいそうだった。もう、とっくにおわった恋のことなど、訥々と語るものではないと思うのに、回顧癖のある、あのひとは、まるで、獲物に執着する蛇みたいで、ちょっと、こわかった。でも、実際、あのひとは、蛇のなかま、というか、蛇と同族、というか、そもそも、蛇、であるというか。さいきんはめずらしくもない、爬虫類と、にんげんの、混血というやつなので、しかたないとも思った。おなじアルバイト先で、あのひとは、仕事に対して真摯であり、むしろ、くそまじめすぎて、融通がきかないので、他のメンバーに少し疎まれている、なんだか気の毒なひとだなぁと、わたしは感じている。たぶん、この、おのれの過去の恋愛をべらべらしゃべりたがるのも、ウザがられる一因なのだろうから、自業自得ともいえるけれど。
たまたま、家の方向が、おなじなのである。
バスは、まだ来ない。山の上からおりてくるバスなので、もしかしたら、山では、雪が積もっているのかもしれない。それで、遅れているのかもしれない。今時、運行状況すらインターネットに開示してくれない、田舎のバス会社なのだ。
ぼんやりと、トイレに行きたいなと思って、でも、まだ、切羽詰まっているわけではないから、トイレのことは、考えないようにする。こういうのは考え出すと、途端に、がまんできなくなるからだ。
あのひとが、たばこを吸いはじめる。世にも美しい恋人をぐちゃぐちゃに汚した話は、以前も聞いたことがある。胸くそ悪い愛し方をするひとだと呆れて、でも、あのひとはそのことを酷く後悔しているようだった。そう取り繕っているだけかもしれないけれど。
あのひとが吐いた煙の先に、白い、ちらつくものがみえた。
冬だな、と思った。
午後八時十分発