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無銘

すこし前に書いたものですが自分でも好きな作品ですので投稿をさせていただきました

 あ、と彼女が短く声をあげた。彼が本から顔を上げ彼女をみると、書きものをしていた手をとめ、ぼうっとした表情で天井の一角あたりを見つめている。部屋の中はしんと静まっていたので、大きく開け放した窓から夏の午後の気だるげな風に乗って街の雑踏が小さく聞こえる。
 春が終わり夏の気配が濃くなってきた頃に彼女は耳の不調を訴えた。朝起きた彼が歯を磨いていると、彼女がやってきて眉をひそめながら言った。「なんだか耳が変なの。なにかが詰まっているみたい。綿かなんかそんな感じのが」。その日、耳鼻科から帰ってきた彼女は自分の置かれた状況を報告した。
「突発性難聴だって」
「重いの? じきに良くなるんでしょ?」
「それがよく分からないんだって。原因もいまのところ不明で精神的なものなのか、他の要因からくるものなのかも。だから、この先よくなるか、悪くなるかもまだなんとも言えないって」
「そっか」
「これから検査をしながら状態を観察して治療方針を決めるんだって」
「今日ネットで少し調べてみたんだけど一時的に聴こえなくなるのはよくあるらしいよ。きっとすぐに良くなるよ」
「だといいけど」
「痛みとかあるの? どんな感じ?」
「うん、痛みとかは全然ない。なんて言ったらいいかな……。プールの底にいるみたいな感じ。聴こえはするんだけど、もごもごというか、くわんくわんというか。遠くの方の音の響きを聴いているみたい」
「ふうん」
 だけど彼女の耳は良くなることはなく、日を重ねるごとに聴こえなくなっていった。最初の頃は音楽やテレビの音量を大きくして、ひとつの音も漏らさぬようにと熱心に聴いていたが、しだいに音を発する家電のスイッチが入れられる機会は減っていき、今では家の中はまるで図書館や美術館のように静けさが支配していた。
「どうしたの?」彼はゆっくり大きな声となるように意識しながら訊いた。
「雨」彼女は上を見つめたまま答えた。
「雨?」彼は耳を澄ませ窓の外の気配を窺った。「そうかなあ」
 手にしていた本をソファーに置くと、彼は窓辺にいき外を眺めた。いつの間にか空は濃い灰色をした雲に覆われていて風の温度が心持ち低くなったような気がする。ベランダの白いコンクリートの床の上に薄墨のような雨粒の跡がぽつりぽつりと生まれ始めていた。
 彼は彼女が座っているテーブルのそばにいって言った。
「ほんとだ。雨が降ってきたよ。でも良くわかったね」
 彼女は彼の顔を見て、続いて窓の外を見た。そしてまた彼の顔に視線を戻し笑顔を浮かべた。
「においがしたの」
「におい?」
「うん、におい。夏の雨って降りはじめに独特のにおいがするじゃない」
「そうかなあ」
「埃っぽいような、土のかおりのような。でもなんだか嫌じゃない、そんなにおい。嗅いだことないの?」
「言われてみたらそんな気もするけど……」
 彼はその場でくんくんとにおいを嗅いでみた。
「うーん、やっぱり分からない」
 そのとき、ざあっという雨音が響いた。反射的に彼が振り向くと、窓の外では雨が目に見えるほどはっきりとした銀色の線の重なりとなっていた。どこかで子どもたちがはしゃぐ声が聞こえる。視線を彼女に戻すとノートになにかを書き綴る作業を再開していた。それはとても熱心で、まるで彼の存在を忘れているかのように深く集中していた。
「ねえ、それってなにを書いてるの?」
 彼女は手を止めると顔だけを彼のほうに向けて言った。
「えっと……日記、のようなものかな」
「読んでみてもいい?」
 彼女はすこし肩を動かし視線を遮るような恰好をした。「今は……だめ。ごめんね。そのうちにきっと見せるから」
「うん、わかった。でもなんだか遺書みたいだな」
 口に出した後でしまったと感じた。だが彼女は気にする様子もなく笑顔を浮かべて言った。
「遺書……うん、遺書。ある意味そうともいえるかもね。最近自分のある部分が消えていってる、そんな気分がするの。そして、もうじき完全に消えて無くなってしまうような。でも私自身が失われてしまったり死んでしまったりするわけではなく、違う形として生まれ変わる、そんな気がする。……おかしいかな?」
「いや、おかしくはないと思うよ。ただ、正直な話ぼくには難しくて実感できないけれど。ごめん」
 彼女はふふと笑い作業に戻った。彼はソファーにいき本を手に取った。窓の外で自動車のタイヤが水をはねる音がしたが、また雨音だけが部屋の中を満たした。

 次の夏になった。彼女は聴力を完全に失っていた。ふたりは手話を学び、日常的な会話はなんとかそれで用を足せるようになっていた。ふたりは週末になると映画館にでかけるのが習慣となっていた。彼女が字幕の洋画を観たがったからだった。字幕なら他の人たちと同様に内容を理解できるし、なにより映画館の大音量は身体に響いて心地よい、と彼女は説明した。
 とあるアクション映画を観ていたときのことだ、スクリーンのなかで銃声が響き、おどろいた主人公の表情がアップになった。すると彼の肘を彼女が突いた。見ると彼女は不思議そうな顔で彼を見つめていた。
『なに?』と彼女は訊いた。
 彼は右手で銃の形をつくると、小さく、撃つ真似をした。彼女は、ああと納得した顔をしてまたスクリーンに戻った。彼はスクリーンに集中している彼女の横顔を見つめた。

 映画館を出ると雨が降っていた。梅雨時のような弱々しい雨だった。ふたりはコンビニで傘を一本買い、それを差して歩いた。すこし歩いたところでふいに彼女が歩を止めた。彼も歩みを止め、見ると彼女は立ち止まったまま目を閉じていた。わずかに空を仰ぐその姿はどこか祈りを連想させる。彼はそっと彼女の肩に手を触れた。彼女は目を開き彼を見た。
『においがない』
『なに?』傘を肩に担ぎ、彼女が濡れないように苦心しながら問う。
『雨のにおい』
 彼は深く息を吸い込んだ。『ああ、雨』
『つまらないね』
『そう?』
『こんな雨はつまらない』
『うん』
 彼は雨粒が傘に当たるぱらぱらという音を聴いていた。その音はやけに大きく感じる。
『ねえ』
『なに?』
『読んでもいい?』
『なにを?』
『日記。書いてたの』
 彼女は一瞬怪訝な表情を浮かべたが、すぐに彼の言う所を理解し笑顔を浮かべた。
『ああ、あれ。いいよ』
『ありがとう』
『おもしろくないよ。きっと』
『そうかな』
『そうだよ』
 彼女はふたたび歩き出した。彼は担いでいた傘を手に持ち直し、遅れないように歩を進めた。
「またきっとあの日のような雨は降るよ」
 彼女に寄りそうように歩きながら彼はそっと呟いた。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-11-26

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