こどもの予感

草片文庫(くさびらぶんこ)

こどもの予感

おかしな小説です。縦書きでお読みください。

 私はれっきとした男である。遺伝子を調べてもらえば「Y」をもつこと明らかであろう。遺伝的に全く正常な者であることが証明されるであろう。性のアイデンティーだって、ここに男であることをはっきりと申し上げる。さらにヘテロセクシャルである、性の欲求も女性にしか感じない。
 ところが、半年前から、頭の中で、十ヶ月後に、子供を産む予感がし始めた。きっかけは一つ考えられるが、あれがそうだとはいいきれない。そのころのことをちょっと思い出してみよう。
 その時分、自分は変わったことは何一つしていなかった。仕事は商社マン、というか、商社の経理部に勤めている。地味な仕事で、数字を正確に求めるだけの、人によってはつまらない仕事だというだろう。自分にとって、計算がぴったり合うと、とても気持ちがいい、あわないと、書類をひっくり返して、どこで間違えているか探し出す。これも大変だが、見つけたときはとてもすっきりする。最後にすべての計算が合ったら最高だ。その作業は無駄ではない、経営そのものに欠陥があることがわかり、上の方に何度かご注進申し上げ、感謝されたこともある。
 この10年間、一度も計算を間違えたことがない。だけど平社員だ。管理職に応募する資格はあるがしない。なにしろ、管理職になると周りのみんなを評価しなければならない。そんなことでいるわけがない。みんなすごい奴ばかりだ、うらやましく思っている。そういったみんなと、わけへだてなく飲みにいく。社内にはグループができている。行くところは誘う人によって決まっている。だがすべてのグループから誘われるので、いろいろなところに飲みにいく。一人で行くことはない。
 そうだあの日が問題か。はじめて秘書室の女性たちと飲みに行ったときのことだ。三人の秘書さんと、僕と同じ課の二人、計六人である。直接誘われたのは僕じゃなく、ほかの二人だが人数あわせで、僕が呼ばれたのだろう。六月の半ばだったか。
 その日は計算がぴったり合ったので僕も気持ちがよく、飲みたいなと思っていたところである。喜んでついていった。秘書課の人はみな美人ぞろいだ、とみなはいう。確かにモデルさんのような人ばっかりだ。だけど、僕はお芋がすきだ。ころっとしたかわいい奴。秘書さんのとりまとめ役のような人も一緒だ。その人はとても有能で、ほかの会社でも知られているくらいの人だ。その人はまるっこい。ほっとする。
 行ったところはしゃれたレストランバーで、ちょっと高そうだ。まあ、そこそこの給料をもらい、独り身だし、こういうところも悪くない。きっと二人分払うことになるのだろう。
 まあ少し気になりながら、席に着いた。
 「子足(したり)さん、なに飲みます」
 僕は子足一蝋(いちろう)という。三人の平社員の中では一番としかさがいっている。あとの二人は大学をでてまだ2ー3年の若造だ。それで自分に最初声をかけてきたのだろう。その秘書さんは、社長付きの人で姉御肌の人だ。あとの二人は部長付きの人だ。みんな独身。仕事と遊びをうまくくっつけて楽しんでいる。たまに皆を誘って夕食にいく。若い男の中には誘われるのを楽しみにしているのもいる。そのときの連中もその口だ。様子を全部社長や部長に報告されるのを知らないのだ。
 「僕はビールがいいですね」
 「みなさんもそうかしらぁ」
 その秘書さんは山科景子といって、めっぽう酒が強く三ヶ国語を話す。
 男たちがうなずいた。
 「生を六つお願い」
 景子さんが声を上げると、あわててウェーターが飛んできた。
 「すみません聞きにくるのが遅くなりました、今日お食事はなさいますか」
 まだ水の入っていなかったグラスに水を注いだ。
 「うん、いつものコースでちょうだい」
 「はい、ほかはよろしいですか」
 「景子さん、私今日エビ食べたい」
 もう一人の秘書、斉藤照美が言った。「私も」一番若い、と言っても僕くらいだが、秘書の倉田万里も言った。
 「それじゃ、前菜に、エビローストして、皆で食べられるように分けてよ、二匹くらいでいいわ」
 いったいなにが出てくるのだか想像がつかない。
 ビールがきて、すぐに大きな焼いたエビが二匹、それぞれ三つに輪切りにされて出てきた。
 「ビールにあうのよね」
 秘書たちはもうホークで自分の皿に取りわけた。あわてて、われわれもそうした。
 「それでは、いただきましょう」
 山科さんがジョッキをもちあげた。
 「いただきまーす」
 ジョッキをお互いかちんとぶつけて、ビールを具具具ぐーっと飲んだ。のは三人の秘書さんだ。我々も飲んだが、ぐぐっと、ぐらいだ。次に、彼女たちがエビにホークをぶっさして、口の中に放り込むのを眺めながら、僕はエビをナイフでちょっぴり切って口に運んだ。ほかの男たちもそうしている。
 「子足さん、いつも数字がきちんと合うんで、みな助かっていますよ」
 山科さんが声をかけてきた。
 「いや、なんとかやってます」
 「お二人もだいぶ慣れたようね」
 「はい、居心地がいい会社です」
 一人が答えて、もう一人がうなずいた。
 「社長はどお」
 ほらきた、下手に答えたらいかんぞ。若い奴の一人が遠慮なしに、「ずいぶん上等の背広着てますね、だけど、動きにあいませんね」
 と言った。そうは思うが、しょうがないのに。若い連中の格好いいというのは僕とは違う。
 「あはは、はっきりいうわね、たしかにね」
山科さんは大きな口を開けて笑った。
一人の秘書が「でもね、男を感じるわよ」、もう一人は「おなかもでてるけどね」と笑った。
 「そう、社長は、ほら、下の方の袋で考えているからね」
 山科さんがそう言っても、二人の若い奴らはきょとんとしている。下の袋の意味が分からなかったのだ。
 「女性は子袋で考えるのですか」
 僕はちょっと年とっていると言うところを見せつけたかった。
 「あはははは」山科さんがまた笑った。
 「子足さんも進化しなきゃ、女は子宮でものを考えるなんて、古いわよ、あんなものいらないわよ」
 三人とも一生独身で楽しもうということがありありと見える。
 「どこでしょう」
 「ここ」山科さんは自分の大きな目玉を指さした。
 「女は目玉よ、目がよくなけりゃ」
 若い男二人は下の袋の意味がわかったようだ。
 「子足さんは、爪の先でものを考えているわね、細かい、計算を、ぴっちりするのはそうじゃなくちゃね」
 山科さんが言うと、二人の秘書は「そうそう、頼りになるわよ、仕事は」とうなずいている。仕事は、の後はなんと言いたかったのだろう。
 「きっと、女性だったら、子宮で考える人ね」
 どういう意味だろう。
 「女性でも、子宮で考える人もいれば、目で考える人もいる、指先の人も、胃の人だって」
 また山科さんが笑った。
 「僕たちはどこで考えているのでしょう」
 「皮膚ね」
 山科さんが言った。二人にはなんだかわからなかったようだ。上っ面って言うことだろう。爪先の方がいいようなきがするが、爪は皮膚が変わっただけだ。
 「社長になるには、やっぱり下の袋で考えるようにならなきゃいけないのでしょうね」
 「そうね、でもね、人それぞれ、世の中の役割があって、考える部分によって、役割が決まってくるのだから、みんな下の袋で考えるようになったら、経理をやってくれる人がいなくなるわね」
 なるほど。こんな話をしながら食べていると、メインディッシュの子牛のステーキが食べ終わった。そうか筋肉で考える人も沢山いるな。果物が出てきていた。
 「考えるところに合った生活しているのが幸せなのよ」
 山科さんの独壇場だ。
 「下の袋ったって、大きさがありますよね」
 一人の若い奴が言った。山科さんがまた笑った。
 「そうね、大きさって、なんのこと」
 「あそこの大きさ」
 「なんだ、あんなところが大きかろうが、小さかろうが関係ないわよ、あそこで考えることが大事なの、そこで考えることの大きさが重要ね」
 ふざけた話のようだが、なかなか人間科学の話しになってきた。
 「女性もそうですね、どこで考えようとも、懐の深さですね」
 「そうね、肝っ玉母さんがいいのよね」
 山科さんはさすがに、秘書の準優勝者だ。テレビの秘書の大会にでたことがあって、二位だった。一位の人は、山科さんよりちょっと英語がうまかっただけだ。どちらかというと、山科さんの受け答えの方が上だったと思う。
 「山科さんは子宮で考えようとは思わないのですか」
 「人間は動物だからね、目玉が疲れると、子宮で考えちゃうこともあるわね」
 「僕は指先で考えているかもしれないけど、耳で考えることもあります、山科さんが言ったこと、耳で考えていました」
 コーヒーの香りがいい。
 「おいしかったわね、どこか飲みにいく」
 「いきましょう」
 二人の男どもは大のりきである。
 「僕は指先が疲れたから、帰ります、次には行きますよ」
 一緒にいったら、高いところに連れて行かれて、払わされるにきまっている。結婚している若い連中はこういう機会が楽しいことはよくわかる。散財しても会社の仕事だと家に言えるのだろう。
 「子足さん、残念ね、次はきてよ」
 「ええ、男の持ってない臓器で考えてみます」
 「え、そんじゃ、子宮の気持ちになるわけ」
 若い秘書の一人が笑った。おもしろい。
 「できたらそうしてみます」
 「それじゃ」
 僕は家路に向かった。
 こんなことがあった。
 
 マンションの自分の部屋に帰れば、テレビを見て、本を読んだり、小型の真空管アンプで、音を楽しんだりして寝る。音楽はどちらかというとクラシックだったのだが、今はロックというか、フュージョンと言うらしいのだが、新しい音が気に入っている。といっても、おそらくおとなしい音楽だろう。ムードミュージックとか、癒し系のミュージックというのとはちがう。電子音楽でも、楽器の音でもいいが、どこか新しい気持ちにさせてくれるものがいい。ゆったりとしたリズムの音だ。
 僕が生まれる前、ピンクフロイドとかタンジュリンドリームと言うミュージシャンたちがいた。それからジャズに分類されているが、ウエザーリポートというのもあった。それに近いかもしれないが、さらに今の電子音が加わったものだ。
 数字を忘れさせてくれるのだろう、スローテンポのリズムがいい。
 21世紀になったばかりの頃に、日本で飛頭と言うグループが一つのCDをだした。もう20年も前になるが、それなどがいい。
 次の日、会社で、秘書さんたちと食事の後に銀座に飲みに行った若い二人がぼやくのを聞きながら、せっせと計算合わせをした。
 彼らは、あれから銀座のスコッチバーにいって、シングルで五千円もするウイスキーを飲んだらしい、それも何杯も、さらに、おつまみは高級チョコレートでひとかけら千円もするものだったようだ。それも割り勘じゃなく、払わされる羽目になったらしい。給料の半分近くいったようで、奥さんになって言うか困ったということを、僕にわざわざいいにきた。いい勉強になっただろう。
 「語学学校に行ったたようなものだよ」と僕が言うと、「なんですかそれ」と聞くので「会社の言葉がわかるようになるにはお金がかかるさ」
 といってやると、「そうですね」とやっと分かったらしい。
 「秘書さんは、会社の情報網をつくっている電話交換機のようなものだよ、なにかいうと、電話代は高くなって社長や部長に伝わったり、全く伝わらなかったりね」
 「十年いると、子足さんのようになれますかね」
 彼らは分かったのか分からないのか仕事に戻った。きっと何度も繰り返すさ。

 家で、音を聞きながら、だいぶ前の会社でのそんな会話を思い出し、山科さんに「男がもってない臓器で考えます」と言ったことを思い出したのである。
 何であんなことを言ったのだろう。明らかに彼女たちは、子宮でものを考えていない。目玉で考えている。それだけではない、彼女たちこそ、特にあの山科さんは、女にはない、臓器、下の袋でものを考えているような気がする
 今聞いているのは、ふるいふるいピンクフロイドのCDだ。原子心母だ。ジャケットに大きな牛さんが振り向いている写真がある。大きな乳房だ。子供をもつと、女性は乳房でものを考えるのだろうか。
 原子に母の心があるのなら、男でも女でも、どの臓器に心が宿り、考えを作り出してもかまわない。いや、腹部内蔵で考えてもいい。
 こんなことを思っていると、自分の考えがどこからわき出てくるのかわからなくなる。
 指先だと彼女たちは言ったが、いや、違う、どこかにうずくものがある。
 脳だよと科学者は言う。生きている動物はそうだろう。だが、脳の中に自分にはない、架空の臓器を作り出して、それが考えを作り出してもいいじゃないか。
 もしかすると、自分は小さな子宮でものを考えているのかもしれない。どうもそうらしい。
 23分42秒の原子心母がおわった。眠くなった。もう寝よう。

 その次の朝、通勤電車のなかで、ぱちっと頭の中で何かがはぜた。くらっとした、脳出血、脳梗塞、いやな言葉が浮かび上がった。いや、それはほんの一瞬で自分に戻った。だが、頭の中に赤い小さなものがあるような気持ちになった。それはいつまでも消えなかった。
 会社に行って、経理の部屋には行って、もうきていた連中におはようを言って、自分のデスクにすわるとPCを立ち上げた。
 今日やるべきことが頭の中に浮かんだ。そのときも赤い小さなものは消えなかった。仕事に支障になることはないだろうが。
 秘書の人たちと食事をしてから調子が狂ったらしい。と言って、体調が悪いわけではなく、ただ頭の中に小さな真っ赤なものがあるような気がし続けていた。決して心地の悪いものでもなく、頭の中が何ともいえずほんわかと暖かかった。

 それから一月たった頃、山科さんと会社のビルのエントランスでばったりあった。
 「あら、久しぶりね、同じ会社でもなかなかあわないわね、どう、今日、ご飯でも食べに行かない」
 今度は集団ではない、直接誘われた。断る理由もない。軽く「いいですよ」と言ったら、「喜んでいきますと言ってよ」と大きな目で見られてしまった。
 「はあ、はあ、大喜びで行きます」
 と答えたら、受付の子もびっくりするような声で「よくできました、じゃあ6時にエントランスでね」
 エレベーターに乗って行ってしまった。
 受付の子が「珍しく山科さんうれしそうですよ、子足さん、もてますね」
 「冗談でしょう」
 「山科さんたち、いろんな課の人とのみに行くけど、一人で誘うのは珍しいですね、社長からの伝言でもあるかもしれませんよ」
 受付の若い女の子もきれいで、頭が切れて、語学力がある子だ。
 「今日は計算を間違えそうだ」
 「どうしてですか」
 「恐怖の館に行かなければならないからねえ」と笑うと、受付の子も「そうですね」とえくぼを寄せた。

 六時より少し前にエントランスに行くと、もう山科さんがきていた。会社は5時で終了なので、受付の子はもういない。
 「あ、すみません、おくれました」
 「なにいってるの、ほら、時計をみてよ」
 壁の時計をみると、秒針がちょうど12をさすところだった。
「今6時よ」遅れたわけじゃないといいたかったのだろう。
 「どこ行きます、銀座は怖いですよ」
 「ははは、あのときの二人、悪いことしたかな」
 意識してあいつ等に金を出させるようにしたようだ。秘書というのは教育係でもある。
 「新宿になじみの店があるの」
 「へえ、いいんですか僕なんか連れて行ってもらって」
 「頭で考えたり、心臓で考えたりする人はつれていかないの、指先ならいいわよ」
 会社をでると、すぐにタクシーを拾った。新宿には10分もかからない。
 歌舞伎町よりちょっと手前で、降りて、露地にはいっていくと、地味な白句塗られた店があった。アムという書かれた板がドアの上に打ち付けてある。その上を丸いガラスの玄関灯がぼんやり照らしている。
 山科さんがドアを開けると、「いらっしゃい」ときれいな声がした。椅子が八つしかないカウンタースナックだ。奥が少し広くなっていて、マホガニーのピアノが一つおいてある。となりに小型のドラムセットもある。
 「今日は早いわね」
 カウンターにいた女性はにこっと笑って、くりっとした目を、山科さんに向けて、それから僕に向けた。
 「おつれさん珍しいわね、いらっしゃい」
 かわいらしい人だ。僕も挨拶をした。
 「うん、指先で考える人、つれてきた、ママの味野、こちら子足さん」
 「珍しい名前ですね」
 「ええ、まともに呼ばれたことはあいません」
 ママはおしぼりを渡してくれながら、
 「ピアノ弾きますか」
 と、いきなり聞いた。
 「子供の頃はピアノやりたかったんだけど、やらせてもらえなくて」
 「そうですの、景子さんはおじょうずよ」
 山科さんがピアノを弾くというのは知らなかった。
 「食事はこれからでしょ、飲んでから行くの」
 「今日はここだけ」
 「それじゃ、最初ビールにする」
 「子足さんいいかしら」
 「山科さんにお任せしますよ」
 「それじゃお願い、いつものように」
 「はい」
 ママはカウンターのサーバーからジョッキにビールをゆっくり満たした。黒ビールだ。
 「いただきましょう、今日はきてくださってありがとう」
 山科さんがジョッキを持ち上げた。僕も同じようにすると、ママも小さなグラスに黒ビールを注いで、山科さんのジョッキに「おめでとう」とかちんとぶつけた。僕も同じようにした。そうしなければいけないような雰囲気だ。
 ぐっと飲んだ。コールドギネスじゃないか。本物だ。小さなスナックにこれがあるとは驚いた。泡がマイルドで何ともうまい。だが、なぜおめでとうなんだろう。
 「とうとう私と同じになった」
 ママが言うと、山科さんが「とうとうね」
と笑った。
 「なにの話なんです」
 僕が尋ねると、ママが「あら、知らなかったの、でも何で一緒にいらしたの」と山科さんと僕をみた。
 「ただ飲みに誘っただけだから」と珍しくおとなしく言った。
 「あら、やだ、子足さん知らないで誘われたの」
 僕がなんだ、と言う顔をしていたのだろう、ママはえくぼを寄せて、
「今日、景子は40になったのよ、私は一月前」
 驚いた。「そうでしたか、いやおめでとうございます」
 僕はジョッキを飲み干した。
 「いま、アイスバインができますから、どうします、ふつうのビールにします」
 「いや、ギネスのコールドを」
 「あら、これギネスじゃないんです、富山の魚津の地ビールなんですよ」
 「日本の地ビールもすごいでしょう」
 山科さんが言った。
 黒ビールとアイスバインが出てきた。
 「これもおいしい」
 「そうでしょう」
 味野さんが、カウンターからでると、ピアノの前に座った。いきなり、ちょっとうら悲しいような、きれいな旋律が力強く流れてきた。プロだ。またこの曲はなんだろう、聞いたことがない。耳の中で鍵盤が踊る。
 終わった。
「いいわねえ、味野チャンが弾くの聞くの久しぶりだわよ」
 「誕生祝いよ」
 「何の曲」
 「チリの革命歌」
 「あのきれいなピアノ曲がですか」
 「ええ、ミラバッシと言うピアニストが弾いて有名になったわね」
 そう言ってママはカウンターに戻った。
 「ママはもと元ジャズピアニスト、ヨーロッパで活躍していたのに、急にやめちゃったのよ」
 「どうしてやめたのです」
 彼女は僕をみた。
 「子宮で考えたかったから」
 どういう意味だろう。
 「もったいない」
 「私も、そう思うけどね」
 「そういえばお二人の関係は、大学かどこかで同級生だったのですか」
 二人の関係を聞いていなかった。
 山科さんが笑った。
 「私の彼氏だったのよ」
 「ほら、言っていいの、子足さん驚いている」
 「いいわよ、10年前まではピアニスト、私の彼、もう忘れたから大丈夫、子足さんは男の持っていない臓器で考えるなんて言うもんだから、つれてきたの」
 「そう、おわかりになって、私十年前までは男、カミングアウトしてね、ピアノもそこでやめました」
 びっくりどころではない、男がひとかけらも残っていない、いや、ピアノを弾いたとき確かに女性とは違うものを聞いた。それにしても自然に女性を感じる。それが性同一性障害の人たちなんだろう。障害というのはおかしいと言わざるを得ない。どうしてなのだろう。ほかの生き物はなにも考えずに雄と雌を生きている。考える脳を持った人間だからか、脳の性のアイデンティティーの発達に遺伝子が絡んでいるからか。
 「なにが本人にとっていいか、それは本人が決めることだものね」
 山科景子はまた目玉で考える女性に戻っていた。
 「今日、山科さんの誕生日におつきあいできたのはとてもラッキーでしたけど、どうして僕を選んだのです」
 「あなたの指は男でも女でもなくて、数字を子供のように、愛しんでいるから」
 よくわからない返事である。
 「はは、我ながら変なこと言ってるわね、社長の考えていることを、伝えたかったからよ」
 「なんでしょう」
 「今度、フィンランドに支店出すのよ、きちんと計算できる人を送りたいようなの、きっと、子足さんに話が行くわよ、私は、子足さんが平社員のままでいたいのを感じていたけど、数日中に社長からおよびがかかるわよ」
 忠告の為に誕生日に呼んでくれたんだ。ありがたいことである。
 「私、子足さん断ると思うわよ」
 「そうお、味野さんはあたるからきっとそうね」
 山科さんはうなずいている。もちろん断ろうと思っていた。ただ、子宮がないのに子宮で考えている味野さんの人を読む力が強いのには尊敬した。
 ふと、味野さんと目があった。柔らかい目だ。子供を抱いた母親の目だ。そのとき、頭の中の赤いものがふっと消えた。だが、何かほかのきもちがわいてきた。子供が産まれる。子供を産む。いつかまだわからない、そんな気がした。
 「アイラの何かちょうだい」
 山科さんの声で自分に気がついた。
 「誕生日でしょ、私がごちそうするわ、オーソドックスなのにね、店には出していないわ」反対だろう、僕がおごらなきゃいけないはずだ。
 彼女の足元の棚の戸をあけると、青い布張りの箱をとりだし、中から四角っぽい瓶をとりだした。
 「グレンユーリーロイヤルよ」
 「あら、まだあったの」
 「私の30の誕生日にあなたがくれたのよ、なにかのときに一杯飲むだけだから、まだ半分くらいあるわよ」
 初めてウイスキーグラスというものを知った。ワイングラスを小さくしたような奴だ。だいたいウイスキーを飲むことはあまりない。だから、二人の会話はわからない。
 「これはスコッチウイスキー、これをつくっているところはもうないの、珍しいウイスキー、36年寝かしたもので、香りがいいわよ」
 味野さんが僕の前に、水とウイスキーをおいてくれた。
 「あれ、子足さん、ウイスキーあまり飲まないの」
 「ええ、お酒のこと知らないんです、ビールは少しは知ってますけど」
 「そう、これいい香りよ、なめるようにのむといいわよ」
 言われるように、ちょっぴり口に入れた。ふわっと、口と鼻を刺激して、いろいろな匂いが広がった、匂いというものも画像と繋がる、森の匂い、花畑の匂い、果樹園の匂い。
 初めての経験だ。
 「この年になって初めて、ウイスキーってすごいんだってわかりました。おいしいですね、でも強いお酒ですね」
 「57。9度、火がつくわよ」
 もう一口。うまい。
 「子足さん、お酒は強いのね」
 味野さんが、つまみにチョコレートをだしてくれた。
 一時間ほどたったとき、お客が何人かはいってきた。山科さんがそうっと耳打ちした。「味野が男だって、誰も知らないからね」
 客の一人が、「味野チャン、今日は誰」
 と聞いている。なんだろう。
 「もうくるわよ、JJJ」
 「いいね」
 他の客もうなずいている。
 7時半になった。入り口が開いて、女性が三人はいってきた。一人は大きな袋を肩に掛けている。
 「おやよう」
 みんなが手をたたいた。僕もたたいた。
 彼女たちは奥に行くと、演奏の準備をした。ここはライブの店なのだ。
 「今日はJJJ,ジョセフィーノ、ジュリアン、ジュネ、曲はおまかせ」
 味野は紹介をすますと、客に出すものの用意を始めた。JJJは勝手に演奏を始めた。曲名は知らないが、ゆったりとした曲を選んでいる。控えめだが、小さな店の中でこだまが耳をくすぐる。
 「このグループうまいのよ、でもテレビにでたりはしたくないようなの、子足さん的ね、でもCDはだしているのよ」
 「いいですね、たまにきていいですか」
 「あーら、私の許可なんていらないわよ」
 山科さんが笑った。
 結局11時まで、アムで飲んで、家に帰った。さっぱりとしたいい飲み会だった。誕生日祝いだから僕が払うと言ったのだが、山科さんが今日はつけだからいいの、とうけとらなかった。彼女の本当の顔を見たような気がした。
 後で知ったのだが、グレンユーリーロイヤルとかいうウイスキーは、一瓶、10万もするものだということがわかった。もっともっと高いものあるようだ。それに店の名前、アムはフランス語で、魂、霊魂だそうだ。今度言ったときに、どうしてつけたか尋ねてみよう。
 ともかく、そのときから子供が産まれそうな気になったのだ。

 山科さんとアムで飲んだ2ー3日後、社長室に呼ばれた。
 「子足です、おはようございます」
 入っていくと、すっきりと茶色のスーツを着こなした、中肉中背の社長が、デスクから立ち上がった。
 「あ、おはよう、そこに座ってくれたまえ」
 銀座などに行くと、さぞもてるだろう。山科さんが下の袋で考える人と言ったが、そのようには見えない。しかし、業界内ではやり手で知られている。
 彼は僕の前に座ると笑いながら、「もう知っているでしょう、きっと山科君が情報を漏らしているだろうから、どうです」
 と前置きなしに切り出したのには驚いた。
 社長は僕の顔をみて、「いやそうだな、君は英語もできるし、計算も性格で速い、向こうの人に任せるわけには行かないポジションでね、もし、管理職がいやなら、管理職並の給料で、平でいてくれてもいいんだが、ただ、名前として、主任というのはつけないと、向こうの人たちの君に対する対応が困ることになるからね」
 そこで、僕はいまの気持ちを正直に言った。
 「僕はれっきとした男なんです、だけど、子供が産まれるような気がするのです」
 社長はちょっとびっくりした顔をしたが。
 「うーん、どうだろう、フィンランドで生んでみては」
 と答えを返してきた。そこが社長のすごいところなのだろう。
 フィンランドには興味があるし、好きな国の一つではある。
 「それなら」
 と自分で返事をしていた。社長は山科さんを始め、秘書たちの体質を皆わかっているようである。異動の話も伝わるだろうと思って、部長たちと僕のことを話していたのだろう。社長は下の袋だけで考えているのではない、すべての感覚器で考えている。
 だが、なぜ僕が子供を産みそうだと言うことを理解できるのだろうか。
 「フィンランドで、子供を産むの大変ですか」
 「日本よりいいんじゃないかな、何しろ森が多い」
 「日本も国土の多くが林や森に覆われています」
 「森と林の違いを知っている?」
 「木のおおさでしょうか」
 「本当はね、森は人の手が加わっていないもの、林は人の手によって作られたものなんだ、本当の自然の中で、子供を産みたまえ」
 「社長は、子供を産んだことはありますか」
 「流産だった」
 「なにがあったのです」
 「僕は、下の袋で考えるようになったからね、下の袋が強くなると、胎児は育たない」
 「どこから、流産したのです」
 「銀座だよ、フィンランドにいたらそんなことにならない」
 そう言われた。
 「フィンランドで産みます、ありがとうございました」
 僕は社長室をでた。隣の部屋のデスクにいた山科さんが
 「ことわったの」
 と聞くから、「フィンランドで産むことにした」と言ったら、目を丸くした。
 「社長も子供を産むと思っていたそうだ、だけど銀座で流産したと言っていた」
 「社長はやっぱり、一流なのね」
 「僕もそう思いますよ、山科さんも秘書として一流です」
 「フィンランドは来年の1月からでしょう、寒いときね、年度末は、またアムルで、飲みましょう、送別会」
 「ありがとうございます」
 
 そういったいきさつで、今フィンランドのアパルトマンで、胎児をを育てている。男にはない臓器で育てるには注意がいる。子宮がなければ胎盤ができない。胎盤は母胎から栄養や酸素を供給する、胎児には欠かせない構造だ。僕が胎児に酸素や栄養を供給するには、森に行って、自然に生えた木から放たれる酸素をもらわなければならない。
 フィンランドでの仕事も順調だ。平社員だが、経理課のチーフである。副所長待遇で、フィンランドの人からもよくしてもらっている。僕はムーミンにも似ているそうだ。今、フィン語をしゃべれるように学んでいる。カレワラと言うフィンランド伝承の本を何とか読もうと思っている。
 自分に子どもが産まれるという気持ちが芽生えて10ヶ月、そろそろだが、オーロラの下で産みたいと思う。フィンランドの北の方、ラップランドに電車とバスで雪の積もる中、旅をした。
 小さなコテージを借りて、子供が産まれるのをまった。
 3月18日、僕の誕生日だ。今日は雪がやんでいる。コテージの雪の庭で、夜中、防寒具に身を包み、長椅子に横たわって空をみていると、赤いオーロラが空一面に現れ、ゆらゆらと空から降りてきた。雪に覆われた樹木たちが赤く輝いた。
 こりゃ生まれるなと、思っていると、指の先が真っ赤なオーロラに包まれ、すーっと、気が遠くなった。どのくらいたったのかわからないが、ふと気がつくと、横たわっている僕の脇に人影があった。空には緑色のオーロラがゆらゆら揺れていた。
 「うまれたのかい」
 と聞くと、陰がはっきりしてきた。
 「パパ」と言って、そばにきた。
 かわいい一つ目の女の子のトロールだった。
 「いい子だ」
 そう言うと、娘はぴょんぴょん飛び跳ねて、広がっている雪の積もった森の中に遊びに行った。僕の指先がジーンと熱くなって、眠気がおそってきた。産後の指先をやすませよう。
 トロールはこうやって生まれるのだなと思いながら、産後の眠りに陥った。

こどもの予感

こどもの予感

私は男なのだが、いつからだろう、子供が生まれる予感がし始めた。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-11-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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