空想逃避
絵のなかにきみはいた。生きていて、呼吸をしていた。心臓は躍動し、血液は滞りなく流れているようだった。きっと、骨も頑丈で、肉体には張りがあるのだろうと思った。美術館に飾られた、一枚の絵である。絵のタイトルは、きみ、だった。描いたひとのなまえに、わたしは見覚えがなかったので、わたし以外のだれかにも、きみは、きみと呼ばれていたのだろうと思うと、つまらない嫉妬に狂いそうだった。冬になって、破滅の足音を聴いた。とくに気温の低い、朝と夜には、その足音は空気を振るわせて、わたしたち生きているものを怯えさせた。穢れを浄化するかの如く、マイナス温度に達した深夜は、いよいよ終わりの気配を感じた。なんらかの終わり。終焉。エンド。時間をかけて滅び朽ち果てるというよりも、一瞬ですべてが消えるような、そういう終わりの予感。
わたしのからだを侵食する、新人類。月からの使者。
絵のなかのきみが、ときどき、むせび泣く。
美術館じゅうに響き渡る声で、まるで怪獣みたいと、ノアは顔を顰める。
細胞から、わたしは、わたしという人格をうばわれていく。
そのうちにノアのことも、きみのことも、きれいさっぱり忘れるのだろう。
もう、それでいいと思う。
空想逃避