冬のはじまり

 海を見ていた。夜明けに、先生の脱皮に立ち会い、そのままコーヒーを飲みに行った。まだ、あたらしいからだに馴染めていない先生は、ホテルに残った。初冬の朝の、つめたい空気に触れたら、気が狂いそうだとニヒルに笑っていた。ぼくは、ホテルの近くにあった、朝の三時からやっているという喫茶店で、コーヒーを飲んだ。その喫茶店の窓から、海は見えた。魚は、まだ眠っているのだろうかと、どうでもいいことを考えていた。べつに、魚が何時に起床しようと、ぼくの人生には関係のないことだと、ぼくは思いながらも、ゆらゆらと海底を静かに泳ぎ出す、寝起きの魚の様子を想像していた。先生の古い皮は、先生がホテルのゴミ箱に捨てた。脱いだ皮が先生の形をしていたら、ホテルのひとが気味悪がるのではと、ぼくは心配したが、皮は燃えたビニールのようにぎゅっと縮んで、くちゃっとなって、古い皮とあたらしいからだのあいだにあった膜のせいで、なんだかちょっとだけ、使い終わったコンドームを連想させた。朝早い喫茶店には、今から家に帰るのであろうひとが、ちらほらといた。パリッとした、しわのないスーツを着ているひとは、いなかった。みんな、どこか、くたびれていて、よれよれだった。マスターは、ぼくとそう年齢の変わらないような若い男で、白い襟付きシャツに黒いエプロンの、これといった特記事項のない容姿の男だった。コーヒーは美味しかった。毎夜、眠る前の一服として吸っている煙草を、昨夜は吸いそびれたので、コーヒーを飲みながら二本、立て続けに吸った。生まれ変わっても嫌いにならないでねと、女の子みたいなことを先生が言っていたのを思い出して、ぼくはひそかに微笑(わら)った。窓越しに見る薄暗い朝の海は、世界の終わりをただ待っているかのように、穏やかに凪いでいた。

冬のはじまり

冬のはじまり

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-11-23

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