世界一美しいテロリズム

春告黎

序章「その日、芸術が消えた」

「芸術」というのはいつも人々の心の中にあった。
ある時は絵画となって人々の目を彩り、またある時は音楽となって、人々の鼓膜を歓喜に震わせた。小説となって、言葉の花を見せ、映画となってもう一つの人生を歩ませてくれる。踊りとなって、人々は華やかな蝶に魅了される。
 芸術は何にでもなれる。芸術はいつもどこかに潜んでいる。雲一つ取ってもそうだ。街中に吊るされている看板にも雑踏にも道路にも話し声にも、芸術はあった。当たり前に、日常に溶け込んでいた。人々はそのことに気づかなかった。目に見てわかりやすいものだけを「芸術」だと思っていた。
 しかし、「芸術」を創り出す者たちはそう考えていなかった。自分の目に映るもの、耳に聞こえるもの、触れたものその全てを「芸術」という布を織るための糸だと信じて疑わなかった。「芸術」を創り出す者たちは、当たり前に潜む「美」というものをいつも引き出そうとしていた。
だから、「芸術」というものが消えた時、彼らは何を思ったのだろう。

 日の光が教室を明るく照らしている。水銀彩心(みしろがねあみ)は時計を見たあと、鉛筆を置いて立ち上がった。廊下に出ると、絵の具の独特の匂いが漂っている。
 カフェテリアには多くの学生が楽しく会話をしながら学食を取っていた。その会話の多くはある一つの出来事についてだった。彩心は食事を選んで席に着いた。
 ふとテレビに目を向けると、朝と同じようなニュースが流れていた。何人かの学生はテレビに釘付けになっていた。彩心もその一人だった。テレビの右端には「芸術、法律により禁止に」と映っている。朝からずっとこの話題で持ちきりだ。テレビの中で専門家が難しい顔をして難しそうに話している。
 要するに芸術は経済を停滞させる原因の一つとなる、ということを言っている。芸術家になって一獲千金を狙おうと仕事を辞める人が増える。しかし芸術で食っていける人はほんの一握りで、その手から零れ落ちた人々は貧しい生活を強いられる。そうして経済は回らなくなってくる。テレビの中の専門家が言っているのはそういうことだ。
 しかし、彩心は考えた。それは芸術というものを舐めすぎた結果で、芸術自体が経済を停滞させるわけないはずだ。
彩心は白米を咀嚼しながら、周りを見渡した。ここにいる人たちも芸術に対して生半可な気持ちで取り組んでいる人はいないと思う。もちろん、自分も含めて
そこまで考えて彩心は「自分がどうこうできる問題じゃない」と結論付けた。
「ごちそうさまでした」
 彩心は小さくそう言い、立ち上がった。食器を片付けて彩心はカフェテリアから去っていった。
 教室には誰もいなかった。他の人はまだお昼ご飯を食べているみたいだ。彩心は椅子に座って描き途中のカンバスを見つめた。まだ下書きの途中だ。ここからこの下書きを仕上げて、水彩絵の具で色を付けていく。彩心はその過程を想像するだけで少し頬が緩んでしまうほどだった。
 彩心は鉛筆を手に取り、下書きを再開した。だんだんと形が出来上がっていく。彩心は時間を忘れるほど、描くことに没頭した。彩心は描きながら未来のことを考えた。彩心は大学三年生。今年と来年通って、卒業したらまた絵を描く。それだけだが、彩心にとっては幸せな未来だった。
 二、三時間経ったとき、教室の外が何やら騒がしくなっていた。彩心は我に返って、教室の扉を見つめた。周りにいた複数の学生も訝しそうに扉を見つめた。ある一人の学生が立ち上がって教室から出て行った。それを合図にだんだん学生たちが教室から出て行った。彩心も鉛筆を置いて教室から出た。廊下の窓越しに複数人の学生が並んで下を見ていた。彩心は人を押し退けて窓越しに下を見た。
「なにあれ……」
 彩心は思わずそう呟いた。彩心の見つめる先には武装を施した体格のいい男が何十人も並んでいた。その男たちの多くが銃を持っていた。学生の多くが困惑しているように見える。彩心もあの男たちが何者なのか全くわからなかった。
 ある一人の学生が窓を開けた。すると武装した男たちの一人が即座に、銃を発砲してきた。女子学生の多くは悲鳴を上げ、その場に座り込んだ。彩心も頭を抱えて座り込んだ。彩心はその場から逃れようと教室の扉へ向かった。その時、開かれた窓から拡声器を通した声が聞こえてきた。
『校舎に残っている芸術者に告げる! 今すぐ、筆を置いて大人しく身柄を拘束されろ! 抵抗するものは容赦なく撃つ!』
 学生たちの騒ぎが大きくなっていった。彩心は混乱して何が起こっているかわからず、ただ体の震えだけで「自分の身が危険に晒されている」と判断した。
また銃声がした。それと同時に下の階で何かが倒れた音がした。そして大勢の慌ただしい足音が聞こえた。銃声が校舎内に響く。学生たちはパニックに陥り、我先にと、校舎から出ようとしていた。
彩心はそんな学生たちに押されながらも教室に戻っていった。教室の中は静かで、廊下の騒音がよく響いていた。彩心は自分のカンバスの元に駆け寄った。まだ描きかけだ。そのカンバスをちらっと見たあと、諦めるようにため息をついた。こんな大きいカンバスを持って逃げることなんてできるわけない。そう思ったのだ。彩心は椅子の上に置いてある鉛筆と絵の具を手に取った。そして教室から出ようとしたとき、近くで銃声とバタバタという足音、それから悲痛な叫び声が聞こえてきた。
出ることができないと悟った彩心は教室をぐるりと見渡した。そして意を決して大きめなロッカーに急いで入った。小柄な彩心の体は、少し丸くなればすっぽりと入った。そこでじっと息を潜ませていると、教室の扉が乱暴に開かれた。
「……ここにはいないか」
「みたいだな」
二人の男の声が聞こえた。カチャ、カチャという音も聞こえる。次の瞬間、銃声が教室に響き渡った。発砲したようだ。彩心の心臓はもう、破裂しそうになっていた。息を殺して、ただ男たちが去るのを待った。
「いや、もしかしたら掃除ロッカーの中にいたりするかもしれない」
「まさか。そんな馬鹿なことをする奴がいるか?」
 男たちは可笑しそうに笑って言った。足音が近づいてくる。教室の端にある掃除ロッカーが開かれた。そのあと、すぐに閉められた。
「ここのロッカーはどうだ?」
「小柄な女だったら入れるかもしれないな」
 男たちは彩心の入っているロッカーの列を順番に開けていった。彩心は震えそうになる体を必死に抑えた。ここで自分が見つかったらどうなってしまうのだろう。命は助かるのだろうか。零れそうになる吐息を飲んでただ祈ることしかできなかった。
 その時、また教室の扉が開いた。
「南校舎に芸術者を発見した! すぐに捕獲に入れ!」
 別の男の声がした。すぐに三つの足音は教室から去っていった。彩心はそれでもまだ安心しきれずロッカーの中で息を潜め続けた。その中で彩心は回らない頭で考えた。あの男たちは自分たちのことを「芸術者」と呼んだ。彼らは政府の下に属している何らかの組織? でもニュースではそんな組織があることなんて言ってなかった。じゃあ、あの人たちは何だろう? いくら芸術が禁止されたからってあんな横暴なこと許されるわけがない。
 彩心は目から溢れてくる涙を拭いもせず、ロッカーの中で縮こまった。辺りは既に静かになっていた。銃声はどこからも聞こえない。

 彩心はいつの間にか眠っていた。目を覚まし、ロッカーの隙間から教室を覗くと真っ暗になっていた。彩心は恐る恐るロッカーから出た。ずっと縮こまっていたせいで体が凝り固まっていた。肩や首をぐるぐると回した。教室には誰もいなかった。廊下からも音がしない。あの男たちの集団は去っていったようだ。彩心はホッとため息をついたあと、心に不安が押し寄せてきた。これから自分はどうすればいいのだろうか。実家に帰って親に助けを求めたところでどうにかなるのだろうか。ただ絵を描いていたいだけなのに、何故こんなことになってしまったのだろうか。
 彩心はポロポロと涙を流しながら、教室から出ていこうとした。自分が描いていたカンバスはもう粉々になっていて、使い物にならない。彩心は自分の兄弟が殺されたような気持ちになっていた。彩心はカンバスの破片を一つ拾ってポケットの中に入れた。止まらない涙を拭って教室を出た。
 彩心は暗い廊下を歩いて、ある場所に向かっていた。階段を降りる音が響く。人なんて一人もいない。試しに「あー」と声を出すと、それは音になり、そして響きとなり消えていった。宙に消えた音を見つめながら彩心は他の「芸術者」と呼ばれる人たちのことを考えた。これから彼らはどうやって生きていくのだろうか。芸術を生業としていた人たちの生きる場所はどこなのだろう。そもそも芸術が禁止された今日、「芸術者」たちは普通に生きていけるのだろうか。ただ、好きで芸術を作っていただけなのに。
 彩心はまた零れてきた涙で頬を濡らしながら、階段を降り切った。明りの点かない廊下をトボトボと歩いて、彩心はある部屋の前で止まった。銃弾の跡が大量についた扉は、鍵が壊されていた。この中もボロボロになっているかもしれない。扉をスライドさせて開けた。中は想像以上に綺麗だった。木製のいい香りが彩心の鼻孔をくすぐった。奥に進んでいくと、まだ綺麗なカンバスが何枚かあった。白いコピー用紙もある。さすがにここまでは破壊しなかったようだ。
 彩心はまず、穴だらけの棚を何とか動かして入り口から姿が見えないようにした。一番汚いカンバスで窓を塞いで外からも見えないようにした。真っ暗な中、彩心はスマホの懐中電灯をつけて、手元が見えるように照らした。
「これで絵は描ける……」
 彩心は思わず呟いた。その声が震えていたのはきっと寒さのせいだろう。窓を覆ったカンバスの隙間から外を見ると、強い風が木々をいじめていた。微かに雪も降っている。白い息が宙に舞う。ここは外同然の気温なのだ。
今ここで自分ができるのは絵を描くことだけだ。食べ物なんてないけれど絵さえ描いていれば時間を忘れられる。彩心はそう信じてポケットにしまった鉛筆を取り出した。床に転がった古びたランプを遠くの床に置いた。鉛筆を持って腕を伸ばし片目を瞑って比率を計った。瞑ったほうの目から涙が零れた。彩心の視界は滲んだ。目を擦って、カンバスに向かう。大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせ、絵を描き始めた。彩心の手はもう既に悴んでいた。それでも彩心は手を動かし続けた。描かなければ虚ろな時間を過ごしてしまうことになるから。どんなに苦しくとも描くことをやめたら、生きる意味を無くしてしまうような気がしていた。
「誰か、助けて……」
彩心の声は誰にも届かない。それでも彩心は描き続けた。眠っている間にあの男の集団が来てしまうかもしれないから。光がカンバスの間から差し込んできたころ、ランプの下書きは終わっていた。いつもより視界が明瞭でない空間で絵を描いていたから、本領を発揮できていない。しかし、彩心は満足だった。彩心は立ち上がって、筆とパレットを探し始めた。それはすぐに見つかった。彩心はまた元の位置に戻った。パレットに絵の具を垂らし、色を作ったところで彩心は、ここには水がないことに気が付く。水道はこの部屋にはない。ここから出たら命の危機だ
「どうしよう……外にならあるけど……」
 彩心はぶつぶつと呟いた。そのあと、カンバスを見つめた。筆に灰青の絵の具を少しつけてそっとカンバスに塗った。しかし、彩心はどうも納得がいかなかった。
「やっぱり水彩画じゃないとだめだな」
 しかしここから出るわけにもいかず、彩心は諦めてカンバスを自分の前から退けてコピー用紙を取った。その紙に彩心は一心不乱で絵を描き続けた。いつか芸術が復活した時のために彩心は描き続けた。彩心は時間を忘れていた。
 意識が現実に戻ったとき、彩心の体に急に負担がかかった。彩心はスマホの日付を見た。
「……三日経ってる」
 この部屋に引きこもってから彩心は絵だけを描き続けた。寝ることもせずに。彩心の瞼が重くなった。少しだけ、少しだけならと思い、彩心は意識を失うように眠りに入った。手には鉛筆をしっかりと握っていた。

大きな音が彩心の鼓膜を刺激した。彩心は目を覚まして上半身を起こした。三日前の恐怖がこみ上げてくる。彩心は立ち上がろうとしたが疲労で力が入らない。足音が聞こえる。その足音はこちらに向かってくる。次の時、部屋の扉が乱暴に開けられた。彩心は棚の陰に隠れて、息を潜めた。しかし、様子が違うことに気付く。前のように突然発砲したりしない。銃と服の金属部分が擦れあう音もしない。それでも彩心は気を抜かずに息を潜めた。
足音が身近に迫っていた。彩心の鼓動は速く大きくなっていた。彩心は思わず目を瞑った。ちょうどその時、足音が止まった。彩心はそっと目を開けた。スニーカーが見えた。顔を上げると、彩心と同じくらいの男が彩心を見下ろしていた。
「……いた」
 男は息混じりの小さな声で言った。

世界一美しいテロリズム

世界一美しいテロリズム

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • SF
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-11-19

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted