世界一美しいテロリズム
序章「その日、芸術が消えた」
「芸術」というのはいつも人々の心の中にあった。
ある時は絵画となって人々の目を彩り、またある時は音楽となって、人々の鼓膜を歓喜に震わせた。小説となって、言葉の花を見せ、映画となってもう一つの人生を歩ませてくれる。踊りとなって、人々は華やかな蝶に魅了される。
芸術は何にでもなれる。芸術はいつもどこかに潜んでいる。雲一つ取ってもそうだ。街中に吊るされている看板にも雑踏にも道路にも話し声にも、芸術はあった。当たり前に、日常に溶け込んでいた。人々はそのことに気づかなかった。目に見てわかりやすいものだけを「芸術」だと思っていた。
しかし、「芸術」を創り出す者たちはそう考えていなかった。自分の目に映るもの、耳に聞こえるもの、触れたものその全てを「芸術」という布を織るための糸だと信じて疑わなかった。「芸術」を創り出す者たちは、当たり前に潜む「美」というものをいつも引き出そうとしていた。
だから、「芸術」というものが消えた時、彼らは何を思ったのだろう。
日の光が教室を明るく照らしている。水銀彩心は時計を見たあと、鉛筆を置いて立ち上がった。廊下に出ると、絵の具の独特の匂いが漂っている。
カフェテリアには多くの学生が楽しく会話をしながら学食を取っていた。その会話の多くはある一つの出来事についてだった。彩心は食事を選んで席に着いた。
ふとテレビに目を向けると、朝と同じようなニュースが流れていた。何人かの学生はテレビに釘付けになっていた。彩心もその一人だった。テレビの右端には「芸術、法律により禁止に」と映っている。朝からずっとこの話題で持ちきりだ。テレビの中で専門家が難しい顔をして難しそうに話している。
要するに芸術は経済を停滞させる原因の一つとなる、ということを言っている。芸術家になって一獲千金を狙おうと仕事を辞める人が増える。しかし芸術で食っていける人はほんの一握りで、その手から零れ落ちた人々は貧しい生活を強いられる。そうして経済は回らなくなってくる。テレビの中の専門家が言っているのはそういうことだ。
しかし、彩心は考えた。それは芸術というものを舐めすぎた結果で、芸術自体が経済を停滞させるわけないはずだ。
彩心は白米を咀嚼しながら、周りを見渡した。ここにいる人たちも芸術に対して生半可な気持ちで取り組んでいる人はいないと思う。もちろん、自分も含めて
そこまで考えて彩心は「自分がどうこうできる問題じゃない」と結論付けた。
「ごちそうさまでした」
彩心は小さくそう言い、立ち上がった。食器を片付けて彩心はカフェテリアから去っていった。
教室には誰もいなかった。他の人はまだお昼ご飯を食べているみたいだ。彩心は椅子に座って描き途中のカンバスを見つめた。まだ下書きの途中だ。ここからこの下書きを仕上げて、水彩絵の具で色を付けていく。彩心はその過程を想像するだけで少し頬が緩んでしまうほどだった。
彩心は鉛筆を手に取り、下書きを再開した。だんだんと形が出来上がっていく。彩心は時間を忘れるほど、描くことに没頭した。彩心は描きながら未来のことを考えた。彩心は大学三年生。今年と来年通って、卒業したらまた絵を描く。それだけだが、彩心にとっては幸せな未来だった。
二、三時間経ったとき、教室の外が何やら騒がしくなっていた。彩心は我に返って、教室の扉を見つめた。周りにいた複数の学生も訝しそうに扉を見つめた。ある一人の学生が立ち上がって教室から出て行った。それを合図にだんだん学生たちが教室から出て行った。彩心も鉛筆を置いて教室から出た。廊下の窓越しに複数人の学生が並んで下を見ていた。彩心は人を押し退けて窓越しに下を見た。
「なにあれ……」
彩心は思わずそう呟いた。彩心の見つめる先には武装を施した体格のいい男が何十人も並んでいた。その男たちの多くが銃を持っていた。学生の多くが困惑しているように見える。彩心もあの男たちが何者なのか全くわからなかった。
ある一人の学生が窓を開けた。すると武装した男たちの一人が即座に、銃を発砲してきた。女子学生の多くは悲鳴を上げ、その場に座り込んだ。彩心も頭を抱えて座り込んだ。彩心はその場から逃れようと教室の扉へ向かった。その時、開かれた窓から拡声器を通した声が聞こえてきた。
『校舎に残っている芸術者に告げる! 今すぐ、筆を置いて大人しく身柄を拘束されろ! 抵抗するものは容赦なく撃つ!』
学生たちの騒ぎが大きくなっていった。彩心は混乱して何が起こっているかわからず、ただ体の震えだけで「自分の身が危険に晒されている」と判断した。
また銃声がした。それと同時に下の階で何かが倒れた音がした。そして大勢の慌ただしい足音が聞こえた。銃声が校舎内に響く。学生たちはパニックに陥り、我先にと、校舎から出ようとしていた。
彩心はそんな学生たちに押されながらも教室に戻っていった。教室の中は静かで、廊下の騒音がよく響いていた。彩心は自分のカンバスの元に駆け寄った。まだ描きかけだ。そのカンバスをちらっと見たあと、諦めるようにため息をついた。こんな大きいカンバスを持って逃げることなんてできるわけない。そう思ったのだ。彩心は椅子の上に置いてある鉛筆と絵の具を手に取った。そして教室から出ようとしたとき、近くで銃声とバタバタという足音、それから悲痛な叫び声が聞こえてきた。
出ることができないと悟った彩心は教室をぐるりと見渡した。そして意を決して大きめなロッカーに急いで入った。小柄な彩心の体は、少し丸くなればすっぽりと入った。そこでじっと息を潜ませていると、教室の扉が乱暴に開かれた。
「……ここにはいないか」
「みたいだな」
二人の男の声が聞こえた。カチャ、カチャという音も聞こえる。次の瞬間、銃声が教室に響き渡った。発砲したようだ。彩心の心臓はもう、破裂しそうになっていた。息を殺して、ただ男たちが去るのを待った。
「いや、もしかしたら掃除ロッカーの中にいたりするかもしれない」
「まさか。そんな馬鹿なことをする奴がいるか?」
男たちは可笑しそうに笑って言った。足音が近づいてくる。教室の端にある掃除ロッカーが開かれた。そのあと、すぐに閉められた。
「ここのロッカーはどうだ?」
「小柄な女だったら入れるかもしれないな」
男たちは彩心の入っているロッカーの列を順番に開けていった。彩心は震えそうになる体を必死に抑えた。ここで自分が見つかったらどうなってしまうのだろう。命は助かるのだろうか。零れそうになる吐息を飲んでただ祈ることしかできなかった。
その時、また教室の扉が開いた。
「南校舎に芸術者を発見した! すぐに捕獲に入れ!」
別の男の声がした。すぐに三つの足音は教室から去っていった。彩心はそれでもまだ安心しきれずロッカーの中で息を潜め続けた。その中で彩心は回らない頭で考えた。あの男たちは自分たちのことを「芸術者」と呼んだ。彼らは政府の下に属している何らかの組織? でもニュースではそんな組織があることなんて言ってなかった。じゃあ、あの人たちは何だろう? いくら芸術が禁止されたからってあんな横暴なこと許されるわけがない。
彩心は目から溢れてくる涙を拭いもせず、ロッカーの中で縮こまった。辺りは既に静かになっていた。銃声はどこからも聞こえない。
彩心はいつの間にか眠っていた。目を覚まし、ロッカーの隙間から教室を覗くと真っ暗になっていた。彩心は恐る恐るロッカーから出た。ずっと縮こまっていたせいで体が凝り固まっていた。肩や首をぐるぐると回した。教室には誰もいなかった。廊下からも音がしない。あの男たちの集団は去っていったようだ。彩心はホッとため息をついたあと、心に不安が押し寄せてきた。これから自分はどうすればいいのだろうか。実家に帰って親に助けを求めたところでどうにかなるのだろうか。ただ絵を描いていたいだけなのに、何故こんなことになってしまったのだろうか。
彩心はポロポロと涙を流しながら、教室から出ていこうとした。自分が描いていたカンバスはもう粉々になっていて、使い物にならない。彩心は自分の兄弟が殺されたような気持ちになっていた。彩心はカンバスの破片を一つ拾ってポケットの中に入れた。止まらない涙を拭って教室を出た。
彩心は暗い廊下を歩いて、ある場所に向かっていた。階段を降りる音が響く。人なんて一人もいない。試しに「あー」と声を出すと、それは音になり、そして響きとなり消えていった。宙に消えた音を見つめながら彩心は他の「芸術者」と呼ばれる人たちのことを考えた。これから彼らはどうやって生きていくのだろうか。芸術を生業としていた人たちの生きる場所はどこなのだろう。そもそも芸術が禁止された今日、「芸術者」たちは普通に生きていけるのだろうか。ただ、好きで芸術を作っていただけなのに。
彩心はまた零れてきた涙で頬を濡らしながら、階段を降り切った。明りの点かない廊下をトボトボと歩いて、彩心はある部屋の前で止まった。銃弾の跡が大量についた扉は、鍵が壊されていた。この中もボロボロになっているかもしれない。扉をスライドさせて開けた。中は想像以上に綺麗だった。木製のいい香りが彩心の鼻孔をくすぐった。奥に進んでいくと、まだ綺麗なカンバスが何枚かあった。白いコピー用紙もある。さすがにここまでは破壊しなかったようだ。
彩心はまず、穴だらけの棚を何とか動かして入り口から姿が見えないようにした。一番汚いカンバスで窓を塞いで外からも見えないようにした。真っ暗な中、彩心はスマホの懐中電灯をつけて、手元が見えるように照らした。
「これで絵は描ける……」
彩心は思わず呟いた。その声が震えていたのはきっと寒さのせいだろう。窓を覆ったカンバスの隙間から外を見ると、強い風が木々をいじめていた。微かに雪も降っている。白い息が宙に舞う。ここは外同然の気温なのだ。
今ここで自分ができるのは絵を描くことだけだ。食べ物なんてないけれど絵さえ描いていれば時間を忘れられる。彩心はそう信じてポケットにしまった鉛筆を取り出した。床に転がった古びたランプを遠くの床に置いた。鉛筆を持って腕を伸ばし片目を瞑って比率を計った。瞑ったほうの目から涙が零れた。彩心の視界は滲んだ。目を擦って、カンバスに向かう。大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせ、絵を描き始めた。彩心の手はもう既に悴んでいた。それでも彩心は手を動かし続けた。描かなければ虚ろな時間を過ごしてしまうことになるから。どんなに苦しくとも描くことをやめたら、生きる意味を無くしてしまうような気がしていた。
「誰か、助けて……」
彩心の声は誰にも届かない。それでも彩心は描き続けた。眠っている間にあの男の集団が来てしまうかもしれないから。光がカンバスの間から差し込んできたころ、ランプの下書きは終わっていた。いつもより視界が明瞭でない空間で絵を描いていたから、本領を発揮できていない。しかし、彩心は満足だった。彩心は立ち上がって、筆とパレットを探し始めた。それはすぐに見つかった。彩心はまた元の位置に戻った。パレットに絵の具を垂らし、色を作ったところで彩心は、ここには水がないことに気が付く。水道はこの部屋にはない。ここから出たら命の危機だ
「どうしよう……外にならあるけど……」
彩心はぶつぶつと呟いた。そのあと、カンバスを見つめた。筆に灰青の絵の具を少しつけてそっとカンバスに塗った。しかし、彩心はどうも納得がいかなかった。
「やっぱり水彩画じゃないとだめだな」
しかしここから出るわけにもいかず、彩心は諦めてカンバスを自分の前から退けてコピー用紙を取った。その紙に彩心は一心不乱で絵を描き続けた。いつか芸術が復活した時のために彩心は描き続けた。彩心は時間を忘れていた。
意識が現実に戻ったとき、彩心の体に急に負担がかかった。彩心はスマホの日付を見た。
「……三日経ってる」
この部屋に引きこもってから彩心は絵だけを描き続けた。寝ることもせずに。彩心の瞼が重くなった。少しだけ、少しだけならと思い、彩心は意識を失うように眠りに入った。手には鉛筆をしっかりと握っていた。
大きな音が彩心の鼓膜を刺激した。彩心は目を覚まして上半身を起こした。三日前の恐怖がこみ上げてくる。彩心は立ち上がろうとしたが疲労で力が入らない。足音が聞こえる。その足音はこちらに向かってくる。次の時、部屋の扉が乱暴に開けられた。彩心は棚の陰に隠れて、息を潜めた。しかし、様子が違うことに気付く。前のように突然発砲したりしない。銃と服の金属部分が擦れあう音もしない。それでも彩心は気を抜かずに息を潜めた。
足音が身近に迫っていた。彩心の鼓動は速く大きくなっていた。彩心は思わず目を瞑った。ちょうどその時、足音が止まった。彩心はそっと目を開けた。スニーカーが見えた。顔を上げると、彩心と同じくらいの歳の男が彩心を見下ろしていた。
「……いた」
男は息混じりの小さな声で言った。
第一章 「灰色」
彩心を見つめるその男は、綺麗な顔立ちをしていた。愛嬌のある綺麗な目をしていたが、冷たい表情でほとんど隠されていた。彩心もその男を見つめた。銃を撃ってこないということはあの男の集団と関係がないようだ。しかし、見知らぬ男に彩心は怯え切っていた。また逃げようとするが力が入らず、彩心はバランスを崩した。
「……っと、危ないな。大丈夫か?」
男は彩心の体を支えた。反射的に彩心はその手を振り払った。男は一瞬驚いた顔をしたあと、困ったように口元を歪めた。
「そりゃ、怖いよな。ごめんな、急に」
男は素直に謝った。その冷たい表情とは裏腹な態度に彩心の心は少し和らいだ。
「あ、あなたは何なんですか……?」
彩心は男に問いかけた。この三日間誰とも話していなかったせいか、声が掠れている。男は彩心の問いかけに「うーん」と唸った。
「簡潔には説明出来ないんだ。でも、俺は『オルグ』の一員じゃないよ」
「オルグ? なんですか、それ」
「ここに銃を持った男たちが来ただろ? あいつらが『オルグ』。正式名称は『オルターグロウ』。政府公認の芸術取締組織だよ」
彩心は男の言葉で三日前の恐怖をまた思い出し、顔を曇らせた。もうあの恐怖を味わいたくない。
「君はここで何をしていたの?」
「絵を……描いていました。あの男の人たちに捕まるのは嫌だからずっとここで、一人で……」
彩心の目に涙が浮かび、それはすぐに頬を滑り落ちた。男はそれを見てギョッとした表情になり、慌てだした。
「と、とりあえず俺はあいつらの仲間じゃない。むしろ敵だよ」
「敵? あの人たち……その『オルグ』に対抗する組織があるんですか?」
「ああ、もちろんあるよ。一方的に芸術を消されて『芸術者』たちが黙っているわけない」
「そ、それどこですか? どこにあるんですか?」
彩心は男への不信感、恐怖心を忘れ、男の手をしっかりと握って聞いた。もしも、その組織の拠点に身を置けるのなら、私は困ることが何もない。そう思っていた。
男は急に距離を詰めてきた彩心に対して驚いた表情をした。そのあと、目を泳がせたあと、彩心のことを見つめた。
「あんまり綺麗な場所じゃないけど……それでも大丈夫?」
「ここでなければ、私はどこでも行きます!」
彩心は男の手を更に強く握った。期待の眼差しを向けられた男は眩しそうに目を細めたあと、頷いた。
男は調月怜音と名乗った。怜音は深くフードを被って彩心の手を引いて歩いた。
「あの、つか……」
彩心の言葉の途中で怜音は唇に人差し指を当てた。その動作を見て彩心は口を噤んだ。このフードを被った姿と言い、足の速さと言い、彩心はなんだか逆に危ないところに踏み込んでしまったような気分になった。彩心は自然と下を向いていた。
怜音は裏路地に入って、下り坂になっている道をどんどんと進んだ。彩心の足はもう疲れ果てていた。怜音に手を引かれるまま、歩き続けたところに小さな廃墟を見つけた。怜音はその中に入っていた。中はボロボロで住人はいないように見えた。ところどころ壁に同じ大きさの穴が空いている。銃弾だろう。怜音はしゃがみ込むと床のタイルを四枚ほど剥がした。そこには地下に続く梯子があった。彩心は驚いて目を見張った。
「今からここを降りていくんだけど……大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
「そっか。じゃあ先に下に降りてもらえる?」
彩心は言われた通り、梯子を慎重に降りていった。どんどんと暗くなってく視界に彩心は不安を覚えたが止まるわけにもいかず、降り続けた。地面に足が着いた時、彩心は寒さを感じた。ここは地下だ。地上より寒いのは当たり前だが、予想を上回る寒さに彩心は体を摩った。怜音も寒そうに体をさすった。
「中は暖かいから、早く入ろう」
怜音はそう言って、二人の目の前にあった扉を開けた。明るい光と共に暖かい空気が二人を迎えた。彩心は思わずほうっ、と息を吐いた。コンクリートで囲まれた部屋は決して大きいとは言えなかったが、安心感を与えてくれた。右を見ると扉があった。他にも部屋があるみたいだ。部屋の真ん中には会議机が一つ置いてあった。その会議室の一番奥に、向かい合うように男女が座っていた。その二人は彩心と怜音に気が付くと、「あれ?」とか「おお~」とか言い始めた。
「調月く~ん、女の子ナンパしてきたの~?」
パーマのかかった明るい茶髪の男がその髪をふわふわ揺らしながら言った。怜音は「は?」と素っ頓狂な声を出した。
「ズルいぞ~。自分の顔の良さを使って女の子をナンパするなんて~」
「いや、ナンパじゃないですけど」
「知ってる~」
男がけらけらと楽しそうに笑いながら言うと、怜音は呆れたようにため息をついた。その様子を見て、男の真正面に座っている暗い茶髪の女はクスクスと笑った。
「駄目だよ、紬輝君。年下の子からかっちゃ」
「はあ~い」
紬輝君と呼ばれた男が素直に返事をすると、女はにっこりと笑って立ち上がり、彩心と怜音の方を向いた。そして綺麗なお辞儀をした。
「初めまして。あなたは芸術者?」
「は、はい、そうです」
「証拠はある?」
「しょ、証拠?」
彩心は困惑しながらも自分の体を触って、何かないか探した。何もなかったらここを追い出されてしまうのだろうかと不安に思った。その時、ポケットに何か入っていることに気が付いた。取り出してみると、カンバスの破片とすっかり芯が短くなった鉛筆があった。女はそれをじっと見つめた。
「鉛筆はカッターで削ってあるし、白い破片には微かな絵の具がついてるね。立派な芸術者の証拠だ。証拠、ありがとう」
女の満足そうな顔を見て彩心はほっと息を吐いた。カンバスの破片と鉛筆に感謝した。
「四季さん、この人……えーと」
怜音はそう言い淀んだあと、彩心の顔をちらっと見た。
「水銀彩心です」
「……水銀さんを仲間に入れますか?」
怜音の言葉に四季さんと呼ばれた女は優しそうな顔を少しだけ顰めた。
「名前を知らないまま連れてくるとは……。まさか、ここがどんな場所か言ってないわけないよね?」
そう言われて、怜音はわかりやすく顔を背けた。大きなため息が響いた。
「もう、怜音君! しっかりして~!」
「……さーせん」
怜音は小さな声で謝罪した。その様子に彩心は何だか可笑しくなってしまい、小さく笑った。その安心感から彩心は力が抜けてしまい、体がグラついた。その体を怜音が支えた。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫です。ちょっと安心して急に力が……」
「そうだよね~。きっとどこかで何も食べないで過ごしてたんだよね~。それなのに調月君ってば気配りもできないでここまで歩かせちゃって~」
「……はいはい、すみませんでしたぁ」
怜音は投げやりに返事をした。そのあと、彩心に向かって「ごめんな」と言った。
「この部屋の隣にベッドがあるよ。そこで少し休んだ方がいいかも」
「ありがとうございます。えっと……」
「ああ、そうだった。名前言ってなかったね。私は四季愛生。あっちの子は桜羽紬輝君だよ」
「よろしくね~、水銀さ~ん」
紬輝はひらひらと手を振った。彩心は軽くお辞儀をした。そして、怜音に連れられて、隣の部屋へ移った。隣の部屋は先ほどまでいた部屋よりも広かった。奥のほうにベッドが備え付けられていた。部屋は一つのスタンドライトでしか照らされていない。落ち着いた雰囲気で彩心はすぐにここが気に入った。
「ここで体を休めて。体力が十分になったらまた話をするから」
「わかりました。ありがとうございます」
彩心はお辞儀をした。怜音は「じゃあ」というと、また先ほどの部屋へ戻っていった。彩心は怜音の去ったあとの扉を見つめたあと、ベッドに腰を掛け、部屋を見渡した。薄暗い部屋は彩心が三日間隠れていた部屋を彷彿とさせたが、彩心は落ち着いていた。しかしどこかで不安も感じていた。この組織はきっと危ない組織に違いないと、彩心は感じていた。あの横暴な男の人たちと敵対しているのだから、危険じゃないわけがない。でも、ここから出ていけば行く場所なんてどこにもない。彩心の不安は胸のうちでどんどん大きくなっていった。彩心は不安をかき消すように頭を振った。
彩心は立ち上がって、部屋を散策した。体を休めても心は休まらないからだ。彩心はぐるぐると部屋を回ったり、棚を覗いてみたりした。
「あっ」
彩心はあるものを見つけて思わず声を上げた。そこには小さなカンバスと絵具と筆があった。彩心は心の中から湧き出てくる創作意欲に耐えられず、ぞれらに手を伸ばした。筆の毛はしっかりと手入れされている。絵の具も新品だ。彩心にはもう不安などどこにもなく、「描きたい」という気持ちで埋め尽くされた。
「描いていいのかな……でも勝手に描いたら怒られちゃうし……でもあるってことは描いていいってこと? うーん……」
「描いていいよ~」
「うわっ!?」
後ろから声が聞こえて彩心は大きな声を上げた。振り向くと、紬輝がニコニコ笑いながら立っていた。
「あ~、ごめんね~? 食べ物持って来たら一人ぶつぶつ言ってたから~」
「そ、そうなんですね。ありがとうございます」
彩心は戸惑いながらもパンを受け取った。紬輝は彩心の隣に並んでカンバスを眺めた。
「あの……本当に描いていいんですか?」
「ん? いいよ~。だってこれ僕の私物だし~」
「桜羽さん、絵を描くんですか!?」
「絵も描くし~、歌も歌うし~、詩も書くし~、ダンスもするよ~。僕はいろ~んなことするんだ~」
紬輝はにこにこと笑いながら言った。彩心はポカンとしながら紬輝を見つめた。彩心はこんなに様々な芸術に手を出している人に会うのは初めてだった。普通は一つの分野に集中して取り組むものではないのか。彩心の頭の中は混乱していた。
「水銀さんは水彩画かな?」
「なんでわかったんですか?」
「雰囲気。水彩画やってる人って皆、雰囲気が柔らかいから~」
雰囲気が柔らかいのはあなたでは、という言葉を彩心は飲み込んだ。確かに紬輝の言葉の言う通りかもしれない。彩心は人に「雰囲気が柔らかい」と言われることが多かった。彩心自身はよくわからなかったが。
「じゃあ、僕は戻るね~。そこの棚にあるもの、自由に使っていいよ~」
「ありがとうございます!」
「でも、ちゃんと体力が復活してからじゃなきゃダメだからね~」
「は、はい……」
あからさまに落ち込む様子を見せた彩心に紬輝は可笑しそうに笑った。そして軽く手を振って、部屋から去っていった。彩心は棚の中に眠るカンバスや筆を手に取りたい気持ちを抑えて、ベッドに横になり目を瞑った。
彩心は目を覚ました。枕元に置いたスマホの画面をつけた。寝起きの目には眩しすぎて、思わず「うっ」と唸った、時間は朝の五時だ。彩心は寝ぼけ眼を擦って起き上がった。もう一度眠れる気がしないと思った彩心は棚に向かっていった。引き出しを開けると昨日と変わらない様子でカンバスや筆があった。彩心はそれを棚から出して並べた。眠気なんて既に吹き飛んでいた。
彩心は早速描こうとしたが、大切なものがないことに気が付く。棚の近くを探すと小さなバケツを見つけた。彩心はそれを手に取ってどこにもヒビが入っていないことを確かめる。彩心はそのバケツを持って隣の部屋の扉を静かに開けた。しかし、その部屋は既に電気がついていた。彩心は恐る恐るその部屋を覗いた。すると、愛生と目が合った。愛生の目の前には紬輝がいた。愛生は少し驚いた表情をしたあと、ニコッと笑った。
「おはよう、早いね。もしかして物音で起きちゃった?」
「あ、いえ違くて……その……」
「あ~、わかった~。水でしょ?」
「はい、そうです」
彩心は小さな声で答えた。愛生は少し眉を顰めたあと、納得したような表情で「ああ!」と言った。
「そっか、絵かー。紬輝君の私物があるもんね。でも大丈夫? まだこんな時間だけど……」
「いいんです。目が覚めちゃったので」
彩心は力が抜けたように笑った。その笑顔を愛生はじっと見つめた。その顔が何故か観察されているような感じがして、彩心は戸惑った。
「そっか。じゃあ行こうか」
「え?」
「ほらほら、早く水を汲んで」
「は、はい……」
彩心はよくわからないまま、水道で水を汲んだ。部屋へ戻ろうとすると、愛生が後ろから付いてきた。ますます意味がわからなくなった彩心は紬輝の方を見た。
「大丈夫~。怖いことはされないから~」
「それ、逆に怖いんですけど……」
思わず呆れ顔を見せた彩心に紬輝は「大丈夫大丈夫~」と言うだけだった。何が大丈夫なのだろうか、と思いながらも彩心は部屋へ戻った。
カンバスを立てて、パレットに絵の具を垂らした。その作業中に愛生はじっと見つめてきていた。彩心は気になって集中できず、愛生の方を見た。
「ごめんね、見すぎちゃった?」
「えっと、はい……」
彩心は控えめに答えた。
「そうだよね。というかそもそも、説明してなかったね」
愛生はそう言ったあと、隣に置いたカメラを持ち上げた。随分としっかりしている。
「あなたを撮らせてほしいの」
「……写真ですか?」
「ううん、映像。私、映画監督なの」
「映画監督!?」
彩心は驚いて大きな声を出した。桜羽さんと言い、ここの人たちのスペックはどうなっているんだ、と彩心は頭の中が混乱していた。
「映画監督って言っても新人だし、有名じゃないけどね。まだ勉強途中。だから色んなカメラアングルとか、カメラの機能の使い方とか学びたいの。実際にやった方が分かりやすいでしょ? 大丈夫、どこかに出すようなことはしないから。ただ参考するだけ」
愛生はお願いするように両手を合わせた。彩心は頷くと、愛生は嬉しそうに顔を輝かせた。
「ありがとう! 邪魔にはならないようにするから」
愛生はそう言って彩心から少し離れた場所に立ち、カメラを構えた。カメラを向けられることに慣れていない彩心は照れ臭い気持ちを抱えながら絵を描き始めた。
愛生はその光景を見て、時が止まったような錯覚に陥った。彩心の瞳は一瞬で鋭いものに変わり、硬い空気が張り巡らされた。肌を細い針でチクチクと刺されているように感じた。愛生は少しずつ彩心に近づき、瞳を見つめた。もはや、彩心の瞳はカメラを気にしていなかった。愛生の存在などは眼中にも留めず、彩心だけで彩心の世界を描いていた。彩心の瞳は柔らかい光を宿していた。
この子は逸材だ、と愛生は心の中で呟いた。この子なら、とも思った。愛生はしばらくの間、彩心のことを撮ったあと、カメラを下ろした。声をかけようと思ったが、創作の邪魔をしてはいけないと愛生は思い、何も言わずにその部屋去っていった。彩心は気づいていない様子だった。
「あれ~、早いね~」
紬輝が愛生に声をかけた。紬輝の向かい側には怜音も座っていた。
「まだ一時間も経ってないよ~?」
「いや、ちょっとね……あの空間にずっといるのは無理だよ」
「どういうこと~?」
「あの子、集中力が凄まじい。部屋全体が針みたいに棘々しい空間になるの。……別に悪く言ってるわけじゃないの。ただ……」
「自分だけが異質な気がして耐えられないってことですか」
怜音の言った言葉に愛生は頷いた。そして紬輝の隣に座り、カメラで撮った映像をチェックした。しかし、カメラで撮った彩心は、ただ真剣に絵を描いているだけで棘々しい雰囲気は伝わってこなかった。その場にいるものしかあの空気は味わえない、と悟った。
「でも、いいんじゃない~? 僕たちがやろうとしていることにピッタリだと思うよ~」
「そうだね。ただ趣味で絵を描いてるような子じゃなくてよかった。あとは、あの子が私たちを受け入れてくれるかだけど……どう思う? 怜音君」
「え!? えーと……水銀さんはか弱そうだし危険なことは無理な気が……」
「そこは調月君が守ってあげればいいんじゃない~?」
「お、俺ですか?」
「そうだね。ふらついた体を自然と支えてしまうような怜音君なら、守れると思うよ」
「え、支えるのって悪いですか?」
「おーおー、無自覚ジェントルマンがいるなあ」
愛生はニヤニヤ笑いながら言った。怜音は理解できていない顔で首を傾げた。そのあと、「あっ」と言うと、パンをいくつか取り出した。
「そういえば食料調達してきました。どうぞ」
「ありがとう~、無自覚ジェントルマン」
「いつも助かるよ、無自覚ジェントルマン」
「……からかってますよね?」
怜音の言葉に愛生と紬輝は「別に~?」と笑いながら言い、パンを食べ始めた。怜音は呆れたようにため息を吐いたあと、パンを食べ始めた。その時、隣に続く扉を見て、彩心にパンを届けようと思ったが、絵の邪魔をしてはいけないと考えた。いずれ、こちらの部屋に来るだろうと思い、パンを口に運んだ。
三人は扉を見つめていた。こちらに向かってくる足音は少しも聞こえない。生きているかどうかさえも心配になってきた。時計の針は二つとも真上を指していた。
「様子見てきた方がいいですかね」
「そうだね。怜音君、見てきてくれる?」
愛生に言われ、怜音は立ち上がり、ドアノブに手をかけた。ゆっくりと扉を開き、中を覗いた。彩心は相変わらずカンバスに向かって筆を走らせていた。チクチクとした空気が怜音の肌を刺す。怜音は彩心に近づいていった。気づいている様子はない。
「水銀さん」
怜音は声をかけた。しかし反応はなかった。もう一度声をかけたが同じく反応はなかった。怜音は仕方なく彩心の肩を強めに叩いた。彩心は体を大きく反応させ、怜音の顔を見た。
「びっくりした……おはようございます」
「全然、おはようって時間じゃないけどね」
「え?」
彩心はベッドの方に歩いていき、スマホの画面を開いた。彩心はわかりやすく目を開いた。
「七時間ぐらい描いてたんじゃないの?」
「そうですね。びっくりです。二、三時間しか経ってないと思っていたので……」
そう言って彩心は笑った。彩心は疲れている様子はなかった。怜音は心の中で首を傾げた。
「こっちの部屋においで。食べ物あるから」
「はい」
彩心と怜音は隣の部屋に移った。彩心の姿を見た愛生と紬輝は、安心したような顔を見せた。
「生きてて良かった……」
「え?」
愛生の言葉に彩心は素っ頓狂な声を上げた。愛生は何にもなかったように「なんでもないよー」と言った。そして彩心を椅子に座るように促した。
「物音がしないから死んだかと思ったよ~」
「ちょっと紬輝君!」
愛生は紬輝の頭を軽く叩いた。彩心はそれを見て笑った。席に着いた彩心はパンの袋を破いて食べ始めた。昨日と同じパンだった。
彩心はパンを食べながら部屋を見渡した。ここの部屋にもカンバスはあった。ギターも何本か置いてあった。愛生が使っていたカメラの他にもう一台カメラがおいてあった。部屋の隅には本が積み重ねられていたり、三脚が置いてあったりした。彩心はこの組織が具体的に何をしている組織か理解できていなかった。怜音の言っていた「オルグ」に敵対する組織ということしか、わかっていなかった。
彩心は口に含んだパンを飲み込んでから、言葉を発した。
「あの、愛生さん。この組織は何をしているんですか?」
彩心がそう聞くと、怜音と紬輝の食事の手が止まった。愛生は動揺もせず、丁寧に咀嚼を進めた。パンを飲み込んだ後、愛生は口を開いた。
「ここの組織にまだ名前はない。創られたばっかりだから。でも一言で表すなら、ここはテロ組織だよ」
「て、テロ!? テロってあの危険な……」
「まあ、確かにテロって聞いたらそういう危ない組織を思い浮かべるよね……。でも、私たちの組織は一切武器を使わない。人を傷つけない。私たちが使うのは、こういうものだけ」
愛生はそう言って机の上に置いてあるカメラを手に取った。
「まさか……芸術でテロを起こすってことですか?」
「そういうこと。飲み込みが早くて助かる。芸術は法律的に禁止されてしまった。でもまだそれは世の中に浸透しきっていない。人々が芸術の素晴らしさを忘れないうちにテロを起こして、また芸術を蘇らせる」
そう語る愛生の瞳はキラキラと輝いていた。彩心にはその様子が、妄想を語っているだけには見えなかった。本気でそうしようとしているのが伺えた。
「それで、あなたにも協力してほしいの」
「……それは」
彩心は言い淀んだ。今の話を聞いた後では簡単に頷けなかった。
「そうよね。危険だし怖いのはわかる。でもこんな芸術がない世界で生きていく方が嫌なの。お願い」
愛生は彩心に向かって頭を下げた。彩心は戸惑って他の二人を見た。紬輝は彩心と愛生を交互に見つめたあと、同じように頭を下げた。
「僕からもお願い。芸術者ならこの辛さ、わかってくれると思うんだ」
二人に頭を下げられた彩心は困っていた。ここにいたら食料もあるし、寝床もある。しかし、安全は保障できない。テロ行為に参加することは心臓を取り出して前に掲げているようなものだ。そんな危険な真似、彩心にはできなかった。だが、このテロ組織に参加しないでここにいることはできないと彩心は考えた。究極の二択を迫られて、彩心は困惑していた。
そんな時、怜音が立ち上がった。
「実際に見てもらった方がいいかもな」
「え?」
怜音以外の三人が素っ頓狂な声を出した。怜音は何も言わずに部屋の隅に置いてある黒いケースを背負った。そして、フードを深く被った。
「じゃあ、いこっか」
「え、え?」
怜音は椅子にかけてあったフードを彩心に渡し、彩心の腕を掴んで歩いた。
「え、ちょ、怜音君!?」
愛生の慌てる声を無視して彩心の手を引いて部屋から出ていった。
彩心は意味も分からず、怜音に引かれて街に出た。商店街は人が多くいた。しかし聞こえてくるのは雑踏ばかりだった。彩心は首を傾げた。
「何か気づいた?」
怜音が小声で聞いてきた。
「……何でいつもより静かなんだろうって」
「話す内容のものが消えたからだよ」
彩心はそう言われて気づいた。人々は普段何を話しているか。流行りのものとか好きな音楽の話とか。あるいはおすすめの本の話だとか、今日見たテレビの話だとか。でも、それらは全て消えてしまったのだ。だから人々は話さなくなった。
「話してることと言えば、ニュースの話とかだな。服もシンプルなものしか売らなくなったし。この商店街にも音楽は流れていない。看板は文字だけ。それも質素な文字。ストリートミュージシャンとかダンサーとか前はたくさんいたのにな」
怜音はポツリと呟いた。彩心はその様子が寂しそうに見えた。彩心は周りを見渡した。人はいつも通りだ。それでも隙間風のような冷たさを感じる。ここに彩りはない、あるのは灰色の世界だ。彩心はそう思って悲しくなった。
「私たちがついこの間まで見ていた世界は美しかったんですね」
彩心がそう呟くと、怜音も「ああ」と言った。怜音は空を見上げた。分厚い雲が青空を覆っている。灰色の空だ。彩心は息苦しく感じた。そのうちに心の片隅から「芸術があった世界を取り戻したい」という思いが芽生え始めた。彩心はその思いを否定することなく、どんどん増幅させた。
彩心の表情を見て怜音は微笑んだ。
「変えたい?」
「……変えたいです。でもまだ怖くて……すみません」
「謝んなくていいよ。大丈夫。怖いのは当たり前だから」
怜音は優しくそう言ったあと、キョロキョロと辺りを見渡した。
「ちょっと、あそこの陰で隠れて見てて」
怜音は建物の影を指さした。彩心は頷いて言われた通りの場所へ向かった。フードを深く被り直して彩心は怜音の様子を見ていた。怜音は背負っていた黒いケースを降ろし中からギターを取り出した。弦を一本ずつ鳴らして調律している。その様子をちらちらと横目で見たりカメラで撮ったりしている人がいた。怜音は何も気にせずにギターの調弦を終え、一際大きな音で鳴らした。その音で雑踏が少しだけ静まった。そしてフードを深く被り直し、大きく息を吸って歌いだした。
彩心はその様子に釘付けだった。怜音の張りのある澄んだ声は商店街の中に響き渡っていた。マイクはないはずなのに怜音の声は彩心の耳に一直線に届いた。怜音の声柔らかく、そして何より楽しそうだった。彩心はまた芸術のある世界が戻ってきたような気がしていた。
怜音の周りの人を見ると微かにリズムを乗っている人や動画を取っている人もいた。確かにその空間は彩りがあった。彩心は自分も絵が描きたくて堪らない気持ちになっていた。
「私もやりたい……」
気づいたら彩心はそう呟いていた。その時、遠くからパトカーの音が聞こえてきた。彩心はハッとした。怜音もパトカーの音に気付き、すぐにギターを片付けこちらに走ってきた。
「行くよ!」
その場の緊張感とは裏腹に怜音の表情は明るく無邪気だった。怜音は彩心の手を強く握って走った。遠くから無数の足音も聞こえてくる。しかし、彩心と怜音は笑っていた。恐怖心は一切なく、ただひたすらに、彩りの時間を思い出して胸を躍らせていた。
怜音と彩心はオルグに見つかることなく、組織の元へ帰ってきた。二人の姿を見た愛生は椅子から勢いよく立ち上がった。
「二人とも無事で良かった! というか怜音君、何しに行ったの?」
「ん? テロ」
「テっ……」
愛生は大げさなため息を吐いた。
「テロ行為はもっと人数が揃ってからって言ったでしょ……。なんでそうやって突拍子もないことするのかなあ~! いつもは真面目なのに!」
「さーせん。でも顔はばれてないですよ。それにやっぱり見てもらった方がいいと思って」
怜音はそう言ったあと、彩心の方を向いて微笑んだ。
「どうだった?」
怜音にそう聞かれ、彩心は数秒考えたあと、口を開いた。
「芸術が消えるとこんなにも彩りがなくなるんだなって思いました。心なしか、歩いている人たちにも彩りがなくなっていくような気がして……。全部が灰色に見えました。でも、調月産が演奏した途端、波紋みたいに彩りが広がったんです。私、それを見て思わず、『私もやりたい』って口に出してました」
彩心はそう言ったあと、頭を下げた。
「お願いします。私もあなたたちの仲間に入れてください。彩りのある未来を取り戻したいんです」
その言葉が終わった途端、愛生は彩心の手を取った。目が輝いている。
「もちろん。断る理由なんてないよ! ありがとう、彩心ちゃん」
「……はい!」
彩心は満面の笑みを見せた。その様子を見ていた紬輝は怜音の肩を叩いた。
「やるじゃ~ん、調月君~。何が原動力?」
「……別に何も。ただ、ここの組織に入らなかったら水銀さんが後悔すると思っただけです」
「え~、ツンデレ~?」
「違います」
「そっけな~い」
紬輝はそう言って愛生の元へ歩いて行った。
「ねえねえ、愛生さん。僕、水銀さんの話を聞いてパッと思いついたんだけど~」
「何が?」
「ここの組織の名前」
紬輝はそう言ったあと、得意げに人差し指を立てて説明し始めた。
「彩りのある未来を取り戻すためのテロ組織。『Future of coloring terrorist organization』。略して『FCT』!」
紬輝は言い終わったあと、子犬のようなキラキラした目で三人を見た。「どう? 良くない?」と訴えているようだ。
「いいと思います!」
「紬輝君らしくていい名前だね。私も賛成。怜音君は?」
「あー……いいと思います。てか、『organization』の『O』はどこにいったんですか」
「もっと興味持ってよ、怜音く~ん」
「うわっ、腕に引っ付かないでください!」
愛生と彩心には二人がじゃれているようにしか見えなかった。彩心は思わず笑った。ここから「FCT」の活動は始まった。
第二章 「トムの人」
彩心の目の前にキャンバスが広がっていた。彩心はまた絵を描いていた。FCTに入ってからというものの、何もすることがなく彩心は暇をしていた。彩心は鉛筆を置いた。目の前のキャンバスにはギターを持っているフードの男性の下描きが書いてある。怜音だ。この間、彩心は怜音の姿を写真に収めていた。そんな場合ではなかったのだが、彩心はどうしてもギターを弾いている怜音の姿を描きたいと思ったのだ。描いて誰かに見せるわけではない。彩心の自己満足だ。しかし彩心はどんな絵にも一生懸命、取り掛かった。
彩心はまた鉛筆を手に取った。
「水銀さーん」
「ひゃあ!? はい!? 水銀です!」
彩心はあまりにも驚きすぎて変な声を出してしまった。ついでに鉛筆を落としてしまい、芯が欠けてしまった。彩心はあぁ!と大きな声を出した。その声に今度は怜音がびっくりした。
「どうしたの?」
「鉛筆の芯が……」
彩心の手元にある折れた鉛筆の芯を見て、怜音も声を上げた。そして駆け足でこちらに駆け寄ってきた。
「ごめん、俺が急に声をかけたから」
「いえ、大丈夫で……」
その時、彩心はハッと気づいて急いでキャンバスを伏せた。その様子に怜音は眉を潜めた。
「何で隠したの?」
「その、まだ完成してないので見せたくなくて……」
「でもそんなに必死になる?」
「なります、なります。完成してない作品を人に見せるのは私の信条に反するので」
「……それなら仕方ないか」
怜音はそう言って表情を緩めた。彩心は心の中でため息を吐いた。信条に反するというのももちろんあるが、何より怜音を描いているということを知られたくなかった。もし知られたら「やめろ」と言われてしまうかもしれないし、もしかしたら気持ち悪がられるかもしれない。彩心はその光景を思い浮かべたが、すぐに消した。この絵は誰にも見せないようにしよう。そう心に決めた。
「そ、それで何かご用ですか?」
彩心が尋ねると、怜音はわかりやすくむすっとした顔をした。彩心は何故、怜音が不機嫌そうな顔をしているのか分からなかった。
「とりあえずこっち来て」
怜音は彩心に手招きした。彩心は意味もわからず、怜音についていき隣の部屋に向かった。隣の部屋では愛生と紬輝が何か楽しそうに話していた。愛生はこちらに気付くと軽く手を振った。
「どうしたの、怜音君。不機嫌そうな顔をして」
「四季さん。俺って何歳ですか」
怜音が唐突にそう言った。愛生はしばらくの間、きょとんとしていたが、すべて理解したように手を一回叩いた。そして笑顔をこちらに向けた。
「二十一歳。大学で言うと三年生」
「え!?」
彩心は驚いたような声を上げた。その姿を見て怜音はやっぱりとでも言うかのようにため息を吐いた。紬輝は楽しそうにけらけらと笑っている。
「お、同い年ですか?」
「やっぱり同い年か。雰囲気的にそうだとは思ってたけど。でもずっと敬語使われてるもんだからまさかと思って」
「だってすごく落ち着いているから、もっと上かと……」
「老けてるように見えるってこと~? わかる~」
そう言った紬輝の頭を怜音は黙って叩いた。彩心は今までの怜音の言動を思い返してみた。紬輝は怜音に子供みたいにつっかかっていたが、怜音は紬輝に対して敬語だった。それに愛生に対しても。彩心から見て愛生と紬輝は自分より少し年上、二十三、四歳だと考えていた。となると確かに怜音は二十一、二歳となる。それに怜音の顔をよく見てみると確かにまだ幼げのある顔立ちをしていた。もしくは怜音が元々童顔なのか、彩心には分からなかった。
「そんなに顔見て、どうした?」
「あ、いや、なんでもないです」
いつの間にか顔をじっと見ていたことに気付き、彩心は恥ずかしくなって顔を逸らした。そのあと、チラッと横目で見るとまた不機嫌そうな顔をしていた。彩心は何故、怜音が不機嫌そうな顔をしているのかわからなかった。何か言いたげな様子にも見える。
「水銀さ~ん。調月君、敬語だと寂しいんだって~。察してあげて~」
「いや、寂しいまでは言ってないんですけど」
「寂しかったんだ……」
「水銀さん!? 真に受けないでよ!」
怜音は焦ったように言った。彩心は思わず笑った。怜音はむっとした顔をした。
「そういえば調月君は何の用だったの?」
彩心がそう聞くと、怜音は「ああ」と言って手を軽く叩いた。
「水銀さんをある場所に連れて行こうと思って」
「ある場所?」
「あ~、もしかして調月君、水銀さんを危ない場所に連れていこうとしてる~?」
「違います!」
怜音は力強く机を叩いた後、少し恥ずかしそうに咳ばらいをした。そして、誤魔化すような口調で「危ない場所なんかじゃなくて」と付け加えた。
「『トムの人』のところに連れて行こうと思って」
怜音がそう言うと、紬輝と愛生は納得したように声を上げた。一方、彩心は理解が追い付かずにいた。トムとは人の名前のように聞こえるが名前の後に「人」と付けるのは奇妙に思えた。それともトムは人の名前などではなく何かの隠語なのだろうか。考えれば考えるほど、彩心はわからなくなってきた。彩心は口を開いた。
「その人は何をしてる人なんですか?」
愛生は彩心の言葉にしばらく腕を組んで悩んでいた。悩んだ末、こう言った。
「まあ、行けばわかるよ。言えることは私たちに必要なものを提供してくれるってことだけ」
「それって……鉛筆とかもですか?」
「『トムの人』のところはね~、何でもあるよ~。だから鉛筆もあるんじゃない~?」
「ギターの弦の替えが欲しくてさ、どうせならって思ったんだ。どう? 水銀さん」
怜音に聞かれて、彩心は少し考えた後、頷いた。怜音は立ち上がり、フードを被った。そして椅子にかかっている上着を彩心に投げてよこした。彩心はその上着を受け取り、
すぐに着て怜音の後を追った。
閉まった扉を見て、紬輝と愛生は同時にため息を吐いた。
「『トムの人』ね……」
愛生は呟いてカメラのフィルムを見た。
「不足してるものもないみたいだし」
「そうだね~。それにあの人、ちょっと癖あるから会うと疲れるじゃん?」
紬輝の言葉のあと、愛生は笑って「そうだね」と言った。愛生は手元にあるカメラを眺めた。そしてこのカメラさえあれば私は大丈夫、と心の中で呪文のように唱えた。トムの人を思うたびに、愛生の心に小さな不安がさざ波のように打ち寄せてくる。そのさざ波を殺すように愛生は映像を撮る。
「でも、『トムの人』のおかげで前を向けるんだ」
愛生の言葉に紬輝は何も答えなかった。しかし心の中で同意していた。紬輝はゆっくりと口を開いた。
「前を向ける理由がもっと明るいものだったら良かったのに」
紬輝の言葉は鉛のように重かった。部屋に静寂が訪れた。
怜音と彩心はシャッター通りを歩いていた。人気は全くなく、二人の足音だけが響き渡った。彩心は不気味に感じて怜音の腕にしがみつきたい気持ちであったが、怜音が同い年とわかった以上、そんなことは出来なかった。彩心は自然と怜音との間に距離を空けていた。一方怜音は、彩心が不安に思っているのをわかっていながら、何もすることができないでいた。手を繋げば気まずくなるし、世間話をしようにも怜音は世間話が苦手だった。きっとすぐに沈黙が二人の間に流れることだろう。
最初に沈黙を破ったのは、彩心だった。
「『トムの人』って男の人?」
「うん、そうだよ。何歳くらいかな……三十歳とかかも。ちょっと最初は怖いかも」
怜音の言葉を聞いた彩心は表情を曇らせた。怜音は焦った。
「大丈夫。俺たちに危害を加えてくるわけじゃないから」
彩心は「うん」と小さく言っただけだった。その様子に怜音は非常に頭を悩ませてしまった。
実のところ怜音は同い年の女性との関わりをずっと避けていた。少しでも優しくしたり、親しくするような素振りを見せれば、勘違いをされ、付きまとわれる始末となることが多いからだ。そしてそれが勘違いだとわかれば、相手の女性は怒り狂った。
怜音には自分の何が相手をそうさせるのか全く理解できなかったのだが――傍から見ればその月下美人の花のような顔の造形が原因だと一目瞭然である――ともかく怜音は友人がいなかったわけではないが、人全般と関わるのが苦手であった。
彩心のことは何故か最初から「大丈夫な人」として認識していた。だから避けるようなことはせず、普通に接していた。しかし普通の人間への接し方がこれで合っているのかどうかわからなくなってしまった。それは紬輝や愛生でも同じことが言えた。自分の返答や対応は正しいのか、相手を勘違いさせるようなことをしていないか、もしくは不快にさせるようなことはしていないか。そんなことばかりを考えて生きていた。それを表には出さないように頑張っていた。
怜音は彩心が気づかないように小さなため息を吐いた。そしてシャッター通りの一番奥の角を曲がった。太陽は真上に昇っているが、狭い路地は薄暗く、前はよく見えない。
「転ばないようにね」
怜音は後ろにいる彩心に声をかけた。
少し先を行けば、下り坂になり始めた。怜音と彩心は小走りで坂を下っていった。するとその先に小さな一軒家が見えてきた。その有様は酷いもので、屋根は半分以上崩れていて、そこら中に瓦が落ちている。柱は今にも崩れそうな程頼りなく、ギシギシという音が聞こえてくる。ゴミ袋があちらこちらに散乱していて、カラスが群がっていた。彩心は更に不安になり、とうとう怜音の腕を控えめに掴んだ。
「えっと……今からここに入るけど大丈夫?」
「だ、いじょうぶ、多分」
大丈夫ではなさそうな彩心の様子を見て、怜音は心配になったがここまで来て引き返すわけにもいかず、おずおずと家の中を覗き見た。すると男のギョロっとした目と怜音の目が合った。怜音は驚いて一瞬声を失ったがすぐに、明るめの声を出した。
「久しぶり、『トムの人』。俺のこと覚えてる?」
怜音がそう言うと男は身を乗り出して怜音の顔を見た。そのあと目玉だけを動かして彩心の顔を見た。そして「ああ」と声を上げた。
「すまねぇ。寝起きで目がぼやけててよぉ……よく見りゃレイじゃねぇか。そっちの娘は誰だよ?」
「ああ、この子は最近組織に入った子だよ」
「水銀彩心です」
「彩心ねぇ……じゃ、エイミーだ」
「はい?」
突然外国風の名前で呼ばれて、彩心は混乱していた。
「ごめんね、水銀さん。この人、勝手にイングリッシュネームを作って呼ぶのが好きだから」
怜音は呆れたような顔で言った。その奥で「トムの人」はがさがさと音を立て始めた。どうやら片付けているらしい。
「おい、レイ、エイミー。入ってきていいぞ」
崩れた屋根の奥から「トムの人」が呼び掛けた。怜音と彩心は屋根の隙間から家の中へ入っていった。どうやら電気は通っているみたいで彩心が思ったよりも明るかった。家の中はバーのようになっていて、机を隔てて「トムの人」がだらしなく座っていて、その奥に様々なものが無造作に置かれている。その多くはきっとガラクタだろうと彩心は思った。埃が宙に舞っているのが見えた。床には空の缶ビールが何本も落ちている。吸殻も落ちている。
「おぉっと、エイミー。あんた、可愛い顔してんねぇ」
「トムの人」はぐいっと彩心に顔を近づけた。酒の匂いがきつくなり、彩心は一歩後ろに下がった。「トムの人」は下品な笑い声をあげた。
「そんな怯えんなって。アルマとは違って女らしい女だ」
「アルマ?」
「四季さんのことだよ。ここに来た時、『あなたみたいな人を映画の中で見たことがある。最後は無残な死に方をするんだけど』って笑いながら言ってたよ」
「チャドは横で大爆笑して『ありえる~』とか言ってたな。あいつらにはデリカシーってもんがねぇのか」
チャドとはきっと桜羽さんのことだろうと彩心は推測した。
「そんでどうした。今日は何の用事だ」
「俺はギターの弦、水銀さんは鉛筆が欲しくて来た。あるだろ?」
「もちろんあるぜ。俺は物を溜めこむ性格なんだ」
「そうか」
怜音が微笑んで言うと、「トムの人」は背を向けて色んな棚を探し始めた。その度に埃が舞った。こんなところで住んでいて、体調の方は大丈夫なのかと彩心は心配し始めた。しかし、「トムの人」にとってそんなことは今更なのだろう。今も時々吐きそうになるほど激しい咳をしている。
「ほら、弦と鉛筆」
「トムの人」の右手には張り替え用の弦が、左手には鉛筆が二、三本あった。二人はそれらを受け取った。
「さてと、ここから本番ってわけだ」
トムの人はそう言って机に肩肘を付けて意地悪そうに笑った。何が本番なのか彩心にはわからなかったが、いい気はしなかった。
「ただでそいつをやると思うなよ? それ相応の対価が必要だ。金なんかじゃねぇ。もっといいものだ」
「トムの人」の瞳は娼婦を見るように細められた。口元もニヤついているように見える。
「か、身体なんて売りません!」
彩心が必死になって叫ぶと、「トムの人」は心底可笑しそうに笑った。彩心の横にいる怜音も笑いを堪えているように見える。
「すまねぇ、笑うつもりなかったんだが、あんまりにも必死なもんでついな。俺は女の身体なんか求めちゃいねぇよ。そんなものよりもっといいもんだ」
彩心は「トムの人」が何を求めているかわからず、怜音の方を見た。怜音はため息を吐いて「懲りないな」と呟いた。
「『人間の本性が滲み出ている話』、こいつはそれを求めている」
「そうそう。これぞ、人間!っていう人間でしか起こり得ないような、もしくは人間であって動物的な、それでいて醜い美しさを帯びた話を聞きたいんだ。それは俺にとって食事であり、睡眠であり、性行為であるんだ。そういう話を聞いただけで俺は幸せになるし、生きている価値を見出せる。綺麗事の裏にある真実の美を知りたい。火蓋が切られたように自分の欲望に忠実になった人間を思い描きたい。まるでバケツの中に入れられた蟹のように他人を蹴落としてでも這い上がりたい吐き気のする人間の本性を見たい。俺はそんな苦くてまずくて、でもどんなものよりも甘美な人間模様を食したい。犯したい。それで思いたい」
「トムの人」はそこで一旦言葉を区切った。そして低い声で言った。
「そんな人間でも、俺よりも美しいって」
沈黙が部屋を占める。「トムの人」は何を思い浮かべているのか、二人には見当も付かなかった。彩心はともかく、怜音にも。何が「トムの人」をそうさせるのかわからなかった。もしかしたら、「トムの人」にもわかっていないかもしれない。それが彼の本能かもしれないから。
「トムの人」は深く息を吐いた後、先程と同じような意地悪な笑みを浮かべた。
「それで、どっちから聞かせてくれる?」
「じゃあ俺からいこう」
「いいねぇ。聞かせてくれよ」
怜音の躊躇いのない表情に彩心は驚いた。「トムの人」が言ったような、人間の本性が剥き出しになったような瞬間を見たことがあるというのだろうか。
「俺が恋愛に疲れたって話は前したよな?」
「ああ、してたな。あの時の話も良かったな。『あなたが愛してくれないなら死ぬ』って。まさか現実の世界でそんなこと言う人間がいるなんてなぁ。俺は腹を抱えて笑ったよ」
「トムの人」は口の中で転がすように笑った。怜音は苦笑いを浮かべた。あまりいい思い出ではないことがうかがえる。そのあとすぐにいつもの表情に戻り、話し始めた。
「その恋愛に疲れた話の続きだ。俺は女性と話すことを避けた。もちろん、話さなくちゃいけない時もあるからその時は仕方ない。いつも下を向いて暗い雰囲気を醸し出すようにしてた。そうすれば誰も話しかけてこないって思ったから。俺に執拗に話しかけてきた女性も段々と離れていった。だから俺の周りは必然と同性の男だけになった。楽だったよ、すごく。やっぱり友情はいいね」
怜音が最後の言葉を演技じみたように言うと、「トムの人」は大げさに顔を顰めて「うえぇ」と声をあげた。
「そういうのはいらねぇって。いちいち俺が嫌がることすんな」
「ごめんって」
怜音は可笑しそうに笑った。
「恋愛に疲れた俺を慰めてくれる友達も多かった。俺は今まで以上に友情を深めたよ。でもそうだな……まさか友情を超えてくる奴がいるとは思わなかった」
「それって……」
彩心は怜音の顔を見た。口元は綺麗な三日月形を浮かべているが目は死んだ魚の目をしていた。その死んだ魚の目を見て「トムの人」はニコニコと笑った。
「つまりどういうことだよ? ちゃんと言葉にしてくれよ」
怜音はため息を吐いた。そして少しどもったあと、呟くように言った。
「俺を慰めてくれた友達は俺を強姦しようとしてたってこと」
その言葉が終わると同時に「トムの人」は大きな声をあげて笑い始めた。「トムの人」の笑い声はこの場を無法地帯のように感じさせた。彩心は眉間に皺を寄せた。強い不快感を心に抱いていた。今までにこんなにひどい不快感を心に抱くことはなかった。彩心の不快感はだんだんと苛立ちへ変わっていった。「トムの人」は笑うのをやめない。
突如、彩心は堪忍袋の緒が切れたように机を力強く叩いた。大きな音が響き、埃が舞った。「トムの人」は笑うのをやめて、彩心の方を驚いた顔で見ていた。彩心は精一杯の睨みを効かせた。
「笑うのをやめてください」
彩心は言葉を絞り出した。「トムの人」は驚いた顔から眉間に皺を寄せた顔へと変えた。そしてため息を吐いた。
「俺はエイミーみたいなやつが苦手なんだよ。人間味がないからな」
彩心の心に少しだけ痛みが走った。しかし、傷ついている場合ではないと彩心は口を開いた。
「私もあなたみたいな人が苦手です」
「そーかよ。俺はそんなことどーでもいい」
「トムの人」はそう言って、またニやついた笑顔を見せた。
「それでレイはその時どうしたんだよ?」
「幸いなことに俺は武道全般を習ってたからな、全員投げ飛ばしたよ。それに俺を慰めた友達全員が襲おうとしてたわけじゃないしな。複数人だよ。今でも付き合いが続いている友達もいる」
「へぇ、よく人間不信にならなかったもんだ。俺だったらすぐにでも引きこもってるぜ。何で普通に生きていけているんだ? レイにも人間特有の『美しい醜さ』があるからか? それとも俺が大嫌いな『綺麗事』がレイの中に巣くっているからか?」
「後者だね。俺には音楽があったから、生きていこうと思ったんだよ。悪いね、最後のオチまで人間味のある話ができなくて」
怜音の言葉に「トムの人」は何も答えなかった。眉間に皺が寄っている。何か苦いものを口に含んだような顔だった。それは真正面に嫌っている顔ではなく、気まずい時の顔に似ていた。しかしその顔はすぐに崩れ、笑顔に変わった。
「いや、いい話だったぜ。さて、次はエイミーだが……なさそうだね」
「ないです。そんな話。それに調月君の話を聞いたあとで、話す気にもなれません」
彩心が困るように言うと「トムの人」は乾いた笑い声をあげた。
「そうだよな。あるはずがねぇ。『綺麗事』の中に生きている人間は醜い人間の本性ですら『青春』だの『芸術』だの綺麗な言葉に置き換えるんだ。エイミーもそうだろう? 失敗や挫折を成功への階段だと考える気味の悪い人間なんだろ? お前は絵を描くんだろうな。鉛筆を欲しがるってことは。どうせその絵も大衆性に帯びた気味の悪い絵なんだろう? 誰もが綺麗だと称賛する無個性な絵なんだろう?」
彩心は何も答えられなかった。その言葉全て言われたことがあったからだ。お前の絵は無個性だと。大衆的だと。面白味もないと。そして自分でもそう思っていた。返す言葉なんて見つからなかった。俯いた視界が絵の具のように滲んだ。
「言い過ぎだよ、『トムの人』。彼女は正常な感性を持っているんだ。あんたの話を理解できなくて当然だ」
「へぇへぇ、それはすまねぇなぁ。でも、鉛筆はやらないぜ。対価を払ってもらってないからな」
「トムの人」はそう言って、煙草を吸い始めた。彩心は涙を拭って前を向いた。その時、天井付近に置いてあるものに目を奪われた。彩心は自分がひどい言葉を投げかけられたのも忘れてそのものを見た。埃が付いていない。綺麗なままショーケースに入っている。まるで生涯の宝物であるかのように。
彩心の視線に怜音は気づき、同じ方向を見た。「トムの人」も釣られて後ろを向いた。
「……なに、見てんだよ?」
「トムの人」の声が影を帯びたように暗くなった。彩心は顔を真正面に向けた。「トムの人」は彩心の目を覗き込むようにして見た。その時彩心は「トムの人」の魚のような目は、決して死んでいるわけではないと分かった。微かな光がそこにあったのだ。
「あれは、なんですか?」
彩心は指を差しておずおずと聞いた。「トムの人」は答えずに渡すはずだった鉛筆をクルクルと回した。彩心はもう一度口を開いた。
「あのカメラはあなたのものですか?」
「……そうだ」
「トムの人」は小さな声で答えた。そのあと、「それが何か?」とでも言いたげな顔をした。怜音は心配そうな顔をして二人の掛け合いを見ていた。
彩心はまた口を開いた。
「写真を撮っていたんですか?」
「トムの人」は答えない。
「もしかしてあなたも芸――」
彩心の言葉を遮って、大きな音が響いた。「トムの人」が机を叩いたのだ。埃が宙に舞った。その場にいる三人の時が止まった。「トムの人」の手がゆっくりと動き、机の上にあった鉛筆を手に取った。
「やるよ」
「え?」
「トムの人」は驚いている彩心の手を掴み、鉛筆を握らせた。
「そんで、もう帰れ。何も聞くな、話すな。色々悪かったな」
彩心は動揺していた。さっきまで彩心のことを罵倒していたというのに急に態度を変えた「トムの人」のことを奇妙に思っていた。「トムの人」は背を向けて何か作業をし始めた。彩心は怜音の方を見た。怜音は小さく頷いた。
「じゃあな、『トムの人』。また頼むよ」
怜音はそう言って、その家から出ていった。彩心もその後ろに続いた。家を出る直前、彩心は家の中を少し覗き見た。「トムの人」はショーケースからカメラを取り出し愛おしそうに、そして悲しそうに撫でていた。
彩心は悪いことをしてしまったと落ち込んでいた。あんなに聞かなければと後悔もしていた。しかし今更戻って謝っても火に油を注ぐような真似をしてしまうのではないかと思った。
「水銀さん、大丈夫?」
「あ、うん、大丈夫」
彩心はそう答えて、歩く速度を速めて怜音の横に並んだ。
「『トムの人』のこと、気にしてる?」
「うん……。ひどいこと言われたから正気じゃなかったのもあるけど、さすがに踏み込みすぎた。聞いちゃいけないことだったかも」
「聞いちゃいけないことか……そんなことはないかも」
「え?」
「何回も聞かれてきたことだ。俺も聞いた。そして同じ反応を示した。それでも今日は普通に接していた。気分屋なんだ。あいつはまた明日も変わらず人間の本性を貪るよ。だからそこまで気にしなくていいよ」
怜音の言葉に彩心は曖昧な返事をした。彩心はカメラを撫でていた「トムの人」の姿を思い返した。彼もまた芸術者に違いなかった。そして何かしらの理由で芸術から身を引いた。
「あの人は何を考えてあんなことをしているんだろう……」
彩心は誰に言うわけでもなく呟いた。怜音は彩心の横顔を見た。怜音はわかっていた。「トムの人」が何を考えているのかを。そして彩心も心の底では分かっていた。
怜音は口を開いた。
「……あの人は人間の本性を知りたい。知ってそんな人間でも自分よりは美しいと思いたい。夢から逃げた自分よりは」
「夢から逃げた……」
怜音と彩心は後ろを振り向いて、「トムの人」がいる崩れかけの家を見た。
「その美しいものを見てそれを切り取りたいんだよ。『逃夢の人』は」
二人は「トムの人」の家を背に歩き始めた。
二人はFCTのアジトに着いた。扉を開けると紬輝と愛生が出迎えてくれた。彩心の顔色は芳しくなかった。愛生はそれに気づき、少し寂しそうに微笑んだ。
「もう一度行く気にはなる?」
「今はならないです。でも時間が経てばきっと。それに必需品がなくなった時に行かなくちゃだし」
「そうだよね。私も実は一回行ったきり。紬輝君と怜音君は何回か行ってるみたいだけど」
愛生は自分の横に置いてあるカメラを手に取って撫で始めた。その光景が「トムの人」と重なった。彩心は俯いた。
「彼が夢から逃げた人だって知ってしまえば、もう迂闊に訪れることはできない、彼は気にしないと思うけど。きっと私たちも彼の言う「醜い美しさ」を持っている。だから、落ちこぼれた彼を見て『ああ、まだ私たちは大丈夫』『彼みたいにならないように頑張ろう』と思えるの。その不快な安心感がずっと心の中に残り続けるの」
愛生は「でもね」と言い、カメラを置いた。
「彼もきっと綺麗事が好きな人間だった。だからこそ夢から逃げた時、光から闇に移った時、その暗がりに目を奪われてひねくれた事象を好むようになる。それもまた芸術者の形の一つだけどね。私は信じてるよ。彼がまた、光を見ることを」
愛生はそう言ったあと、空気を変えるように手を叩いた。
「さてと、二人が出掛けてる間に食料調達してきたの。食べよっか」
暗い明るさが部屋を支配していた。
世界一美しいテロリズム