大森汐音は、時おり、夢に行く。
 その夢は母親が出て行った七歳の頃から、やたら見るものだった。夢には色も匂いも感覚もはっきりとあって、やたらと生々しい。目覚めてもまだその夢にいるような感覚になり、現実に戻れたのかと不安になる。十年以上も見ている夢なのに、慣れというのは未だになかった。
 夢の中で、彼は父親に殴られている。その拳はとても重たく、殴られた頬はひどく痛む。怒り、憎しみ、悲しみ、恐怖。いくつもの感情が乗っかっているような拳。父親は躊躇いもなく、彼に降りかけた。残念だったな、汐音。こうなる運命なんだよお前はァ。
 拳で足りないときは、タバコを焚き、ゆっくりと背中に押し当てられた。圧倒的な痛みと恐怖が、夢の中の彼に植えつけられる。ごめんなさい。ごめんなさい。もうしません。そして彼は、ひたすらに謝った。
 けれども、同時に殺してくれという感情も確かにあった。このままずっとやられっぱなしの人生なのか? 終わりはあんのか? いつか終わって俺は幸せになってくれるのか? いつまで我慢したら許してくれるんだよ。泣きそうになりながらも、必死に耐えて殴られ焼かれる。もう、疲れたな。いっそのこと早く人生終わらねぇかな。どうやったら終わるのかな。俺が幸せになると、誰かが不幸になるんじゃないか。そんなことが頭に過ぎる。けっきょく、何をどうしたら、いいのかよくわからない。
 わからないまま、かき集められた怒りの灯を思いっきり落とされる。痛い。苦しい。ちょっと休んだと思ったら、再び殴りかかられる。ざまあねえなぁ。
 そのあたりで、目が覚める。彼は、ベッドの中で息を切らして、汗をかいている。白いシーツ。白いカーテン。なにも変わらない景色。心臓は早く脈を打っていて、吐きそうになる。しばらくは、現実なのかはっきりせず、どこにいるのかもぼんやりとしている。誰かに追われたような、なにかに逃げてきたような、気持ち悪い感覚に支配される。拳に力が入る。怖い。誰も助けてくれなかった、あの時間が鮮明に蘇った。時間が経つうちに、夢を見ていたと気づく。
 ああ、あの夢か。またなのか。汐音は自分で理解をしている。あの夢を見るのは、自分への罰なんだ。父親を満足させられなかった、自分への。神様から罰が与えられているんだ。受け入れるしか、ないんだ。
「随分と長い夢を見てたんだね、汐音」
 一緒に寝ていた未琴がそう言いながら優しく笑いながら、頭を撫でる。ちゃんとここにいるんだ。その温もりは、現実に戻ってきたことを教えてくれているようだった。汐音は、それを強く実感した。ちゃんといるんだ、俺は現実で生きることが出来ているんだ、と。
「まあね」
 なあ、未琴。お前は俺の過去を話したらどうなる? 嫌いになる? 同情する? どれでもいいな。いやだ、いやだよ。俺、夢のままはいやだよ。俺は、ギュッと未琴を抱きしめる。思い出して泣きそうになって、苦しくなる。ごめんなさい、お父さん、なにも出来なくて、ごめんなさい。彼は心の中で、そう唱える。
「汐音、大丈夫」
 そう言って未琴が、俺を抱きしめる。
「ごめん……ごめん……」
 俺の目から涙があふれた。
「汐音、やろっか」
「うん」
 涙ぐんだ声で、俺は応えた。

 父親は、一年前に死んだ。長年会ってなかったのに、父親の顔はすぐ浮かんだ。汐音は、涼花と違って、なんにもできねえからなあ。父親はそう笑いながら、愛用しているタバコのゴールデンバットを吸いながら言った。ほんと、おまえはおれにそっくりだなあ。そう言い残して、あいつは出て行ってしまった。ばかだ、あいつは最悪な父親だ。
 死因は、自殺だと父親の友人から電話で聞いたが、汐音は納得いかなかった。それで、つい返してしまう。はあ? 嘘だろ? あいつが自殺とか信じられないんだけど。そうすると、友人は温度のない声で、さらりと言った。
「俺だって信じらんねーよ。けど、人身事故のニュースやってると思ったら俺の方に大森彰が死んだ話だ。だからほんとなんだろ。まあ、つまり死んだってことさ。あ、葬式はちゃんと来いよ。んじゃ」
 なぜだか、気が遠くなった。でも、どこかで安心している自分もいた。ああ、そうだった。やっとなんだ。やっと、あいつから何もされなくなるんだ。
 葬式に出た汐音は、ようやく父親が死んだ現実を思い知った。死んだんだ、本当に死んだんだ、あいつ。忘れたはずに、どうにも忘れられない。父親の友人も何人か参列して、話もしたが、正直あまり記憶がない。なぜなのか、自分でもわからない。

「……汐音?」
「ああ、ごめん。少し思い出して」
「大丈夫?」
「うん、ごめん。本当に、ごめん」
 汐音は、謝ることしかできなかった。

***

 付き合っていた彼女の実の妹と、一度だけ寝たことがある。 忘れもしない、入学式の次の日。連絡もせず突然行った彼女の家に、未琴はすんなりと招き入れ、今日は誰もいないの、と彼女は嬉しそうに言った。汐音? 彼女の部屋のベッドに座った汐音に、彼女は優しく訊いてきた。顔を覗き込まれ、つい彼女の身体を引き寄せる。拒むことなく、ギュッと背中を寄せられる。やらない? 汐音は言った。え、うん。たどたどしい言い方に違和感を覚え、つい言った。
「誰?」
「未来。陣内未来。未琴の、双子の妹だよ」
 彼女たちは、一卵性の双子だった。存在こそは知っていたものの、いざ対面すると見た目は彼氏の俺でも、区別出来ないほどそっくりだった。
 もちろん驚いた。なんで俺を受け入れてんだ、こいつ。そう思いながらも、俺はけっきょく行為を続行させたのだ。未来と会ったのは、その行為をした一度だけで、今何をしているのかなんて、知る由もない。
セフレという関係になった未琴に、このことは未だバレていなかった。
バレる前に、俺が、未琴の浮気を知ったからだ。自分も浮気したのに、しかも彼女の妹とやったのにも関わらず、俺は別れを切り出した。そして、セフレになることを自ら申し出たのだ。
ずるいと自分でも思っている。傷ついた自分を忘れるように、やりたくなったら日付と場所をLINEする。ああ、ほんとだな、父親。俺はあんたに似て最悪だ。最低だ。これじゃ暴力とやってること変わんねぇじゃん。わかっているのに、それなのに、どうして何度も未琴を抱くのだろうと、心の底から自分を責める。
「未琴、好きだよ」
「わたしもだよ、汐音」
 もし未琴が次、人を好きになるとしたら、俺なんかよりも優しい人であるようにと、汐音は願っていた。

  • 小説
  • 掌編
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  • 青年向け
更新日
登録日
2021-11-16

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