真皮

mute



 さて、文字である「私」が語ろう。



 異物を体外に排除するという行為の特徴を強調すること。これをある特定人の周囲で繰り返し、口頭で「死ね!死ね!」と叫ぶ代わりに行うことでかかる特定人を精神的に追い詰め、自殺を強要する代替的で実質的な殺人行為とする。
 その殺傷力を高めるための工夫としては電車などで盗撮した対象者の顔写真をネットなどを通じて流布し、その顔を覚える努力を各人が常に行なってそいつを見かけた場所、時間を問わずにさきの代替的殺人行為を行う。この過程を「不特定又は多数人」で行う。そうすることで「死ね!」という表現の圧力を高め、また人殺しを行なっているという個人的な罪悪感を消す(常識人面して実質的殺人行為を一方的に行うことがこの「殺人ごっこ」の醍醐味だから、各参加者は罪悪感というものを一応持っているといえる)。
 この「不特定又は多数人」という要素は重要で、代替的殺人行為により実現すべき自殺という事件の形式に加え、「不特定又は多数人」に紛れて実質的殺人行為を行うことにより被疑者又は被告人として法的責任を問われる可能性が低くなる。また参加者が増えれば増えるほどに共犯者が増える。これにより、さきの実質的殺人行為を行った人物としてその人間性を消極的に評価されるなどの社会的責任を他の構成員から問われ難くなる。つまり、法的にも社会的にも責任を問われない公的な殺人を行えるのだ!このような広告を打って参加者を増やし、日々殺人行為を繰り返して来たあなた達。
 一部の子供達が始め、失敗しそうな雰囲気を察知したところで自己保身のために自分たちの親を巻き込み、巻き込まれた親たちも子供を叱り飛ばすことなく、むしろ共同してさきの代替的殺人行為を実行し、同じように失敗した。親子まとめて失敗した殺人未遂の共犯関係にある事実を、被害者となるべきアイツから指摘されることを恐れて事態をさらに拡大させた。それこそ世界中で同じ殺人ごっこが行われたときは「アイツは必ず死ぬ!」と血眼になって実質的殺人行為を繰り返したあなたに、あなたに、あなた。
 その行いが見事に失敗してしまった理屈はいつかの「私」が捨て書きした『観察』結果として書いたので、ここでは書かない。記されているこの「私」がここで述べてみたいのは殺害されるべき対象者があなた達のしていることを知りながら、あなた達の期待に沿うことなく普通に生活し『観察』し続けた理由である。それはすなわち、①あなた達の手によってあなた達が実行しているその殺人方法をあなた達の間で慣習化させること、②慣習化された殺人方法の概要を外部の者が指摘した場合にあなた達がそれを必死に否定しようとも、否定し切れない事実としての実態を「あなた達の手によって」積み上げさせること、そして③慣習化されることによってあなた達の手を離れたその方法によりあなた達がお互いに殺害できる環境が整備されたという事実を言葉によって確認し、忘れてはならない教訓を表すというものである。
 まず、あなた達が行なっている実質的殺人行為の効力を誰よりも信じているのは、あなた達であるということを繰り返そう。
 あなた達はかかる殺人行為の内容だけでない、殺人を実行しているときの実質的殺人者の感情面まで十全に理解できる。なぜなら、あなた達は同じ殺人行為を行う殺人者だから。同じ殺人者として自らの行ってきたこと、殺人を犯しているときに感じたあの興奮又は思うように死なないアイツに向けた苛つき具合などの感情経験を基準にして他の参加者の内面を隅々まであなた達同士が理解できる。
 実質的な殺人行為に傾ける情熱もあなた達は十分に知っている。だから、自らがターゲットになったときの「恐れ」をあなた達以上に知っている者はこの世に存在しない。あなた達だからこそ、あなた達が代替的に発信する「死ね!死ね!」という言葉に実体を感じ取れる。殺人者ではないために、部外者とならざるを得ない対象者には決して感じることが叶わないその実体ないしメッセージ性をきちんと受け取り、殺人ごっこのルールとして予定されている「死にたくなるような」感情的反応を示してくれるのはあなた達の他にはいない。したがって、あなた達が実現することを疑わない実質的殺人の結果はあなた達の間で(のみ)起きる。だから、あなた達が実行し慣習化した殺人方法はこの世で最も確実にあなた達を殺せる手段である。ここに至って初めて、同じく部外者である「私」は次の指摘を行える。
 すなわち、人の手を離れ、しかし人の判断又は行動を規定する慣習としてシステム化された無形の『それ』こそこの世に生み落としてはならなかった害であり、後世に残してはいけないものなのだ、と。
 対外的にもあなた達が日々行う殺人行為に意味があるとすれば、それは常識人面することで一応、その内心に抱くことができている道徳心や倫理観に支えられた禁忌という名のハードルを「不特定又は多数人」というどこまでも個人的に抱く観念に背中を突き押されて飛び越える。これにより身も心もすっかり殺人者になった結果、殺人者であるという事実認識と常識人面する主観との間に生じるズレがどれだけ広がり、またどのように歪に捻れていくかという過程を赤の他人が意味内容によって把握できるものを残すという点になるだろう。
 あなた達が日々の殺人行為を行った後で感じているであろう興奮や満足感はあなた達が一応、これまで守ってきた禁忌を犯したことに由来するのは間違いない。その背徳感は僕や私が殺人者になってしまったという事実から目を逸らすのにもきっと役立っている。そのために、外部に置かれ続ける対象者から見て正気を疑うべきあなた達の行動が、しかしいつまでも自身を常識人として認識し続けるあなた達の主観から見てどこまでも常識の範疇に収まり、その一方でアイツを必ず仕留められる絶対的殺人の方法と認識される。つまりは選択する行為の当否を判断する基準が対象者とあなた達の間で共有され得ない。そのために、殺されるべき対象者と殺人者たるあなた達との間でゲームが成立する可能性が「現実」から一切排除される。
 一方的な殺人ごっこの一例を挙げれば、洗濯物を干す位置を変える又は干した洗濯物を取り入れるためにベランダのドアを開閉するというある対象者がとる日常的な行為は、しかしあなた達から見ればネット上で行った罵詈雑言の結果、今にも死にそうになっているためにあの対象者が絶対にとり得ない行為となり、かかる日常的な行為を行なっているかどうかが自らの殺人行為が功を奏するものだったかを知れる指標と設定される。そのために、雨が降っていたから洗濯物を中干ししていた対象者が「ベランダのドアを開閉する必要が無いから、ただいつもの時間に開けなかった」だけであるにも関わらず、あなた達から見れば自分たちが行った殺人が大成功を収めた徴としてその真っ赤な目に写り、直ちに情報として拡散、共有される。殺人者たる欲望にたっぷりと浸り、その欲望にぷかぷかと浮いているためにその脳内で何の疑いもあなた達は抱けないのだから、先走って皆が一体となった勝利の凱旋パレードを真っ裸で行ってしまう。そして、なんとも思っていない対象者にその有り様をまざまざと見られてしまい、一人残らず同様の恥をかく。殺されるべき対象者とあなた達の間で認識されている「現実」が大いに異なっており、しかもその擦り合わせが全く行われないのだから当然である(その対象者の方から、正気を疑って然るべき行動ばかりを取るあなた達に寄り添ってくれる可能性を何よりあなた達が信じるのだとしたらまた違った奇妙さがそこに現れ、文字である「私」たちは怖いもの見たさでお近付きになろうとするかもしれないが)。故にここで記した「現実」のズレがありとあらゆる場面で妥当し、その行動や思考をゲームのキャラクターのように固定した上で、対象者に生じるありとあらゆる変化を自分たちが実行する殺人行為がもたらした予兆と捉える傾向があなた達の間で生じ、その傾きを強めていく。反対に、部外者である対象者にはその必要がない。だからその行動のいちいちが奇異で幼稚、余りにも愚かで下らない表現と評価されてしまう余地が対象者とあなた達の間でどんどんと広がる。そうしてついには対象者があなた達に向ける関心が失われる。奇妙な殺人者の「現実」が対象者の下で意味をなさない妄想めいた「アチラの話」でしかなくなるのだから、仕方ない。
 ただ、ここで記した「現実」のズレについて、あなた達に理解されるとは思っていない。かかるズレは、あなた達の世界にある盲点としてあなた達の世界を構成しているだろうから。
 あなた達が育てたシステムはあなた達の手を離れて、あなた達の内心で息づいている。その殺人システムはあなた達を実質的殺人者として行動させることで今も栄養を得て、実体化している(その確認のために自身にこう問えばいい。かつて僕や私はこんなことができる人間だったか又はこんなことまで「ケタケタ」と笑いながらやってしまえる人間だったか、と。否定したい気持ちがその心中にむくむくと湧き上がったその瞬間、きっとあなた達は殺人システムにとって食われて、忘却という名の自己正当化を図るだろう。気付けば殺人者たる自分を「あなた達」=殺人システムの構成要素として許している。そして二度と同じ疑問を持つことがないよう、事の当否を判断する価値観自体を改変しているはずだ)。
 一度超えてしまったハードルを地面に打ち直すことは難しい。法的にも社会的にも責任を問われないという打算に基づき、ハードルを飛び越えてしまった以前の自分に戻ろうとするには、これまでの自分を反省した自分に生まれ変わらなければ(生まれ変わり続けなければ)ならない。「そんな面倒くさいことを」と判断するであろうあなた達の中から、殺人を忌避するハードル自体を何一つ打ち立てられない者が現れる可能性だってあることは、誰よりもあなた達が予想するのでないか。
「殺人システムを支える大切なプレイヤーの確保が、殺人システム自体を育む。その逆もまた然り。すくすく育った殺人システムの下で殺人者は自然に生まれ、成長する。」
 殺人者であることをも承認して欲しい欲求に従いその殺人行為の全容を自らアピールする者として、例えば私鉄会社である東京西縦の大井森線にあるトトロ駅付近(にこにこかわたま駅方面に向かってすぐの場所)では安全点検の業務にあたる作業員が線路に細工をし、騒音や振動を起こし易い状況にしておいて、電車を運転する運転士が狙いとする建物の前で速度を上げる又はブレーキをかけるなどの運転上の工夫を施し、騒音や振動を起こすことで殺害すべきターゲットの生活環境を破壊、最上の結果としてソイツの気を狂わせて自殺させるという実質的殺人行為を職員全員が一体となって実行中(らしい)のだが、これが事実だとしたらその動機は直ちには了解不能である。何せ、彼らが狙いとする殺害対象者と彼らとの間に一切の関係性はないというのだから。にも関わらず彼らは外形的には業務活動を行いつつ、(彼らがその脳内で愉しんでいるところの)殺人を日々繰り返している(と言われる)。「愉しんでいる」ともう書いてしまったが、考えられる動機はこれしかないだろう。
「皆んなが殺そうとしてるんだから、ウチらも殺しちゃって構わねぇんじゃねぇ?」
 大井森線の職員全員が行っている殺人にはトトロ駅周辺の住民が事後従犯として参加しているそうなのだが、私鉄会社の職員は彼ら周辺住民と一体化して公に人を殺せる生殺与奪権を有する観念的な団体の構成員であると自らを評価することにより個人的意識を拡張させ、その構成員として何の疑問も抱かずに御輿に担ぎ上げられた格好で誇らしげに殺人を犯している(ようである)。しかし、彼らは致命的なことに気付いていない(これもまた、あなた達の世界の盲点といっていい)。
 彼らのしている犯罪が妄想でなく真実であるとして、その事実が露見したときにスケープゴートとして差し出されるのは周辺住民ではなく、彼ら大井森線の職員であることは部外者である「私」たちなら容易に考えつくことだろう。その理由は他でも無い、周辺住民の個々人が逮捕されるのを回避するために直接の実行行為者である彼らを差し出すから。御輿に乗った彼らが地上に降りるための梯子は周辺住民の手によって外され、彼らが被疑者として突き出される。その職員全員が業法だけでなく、刑法上の罪責(ターゲットに身体の不調が生じていれば傷害罪の共同正犯、その行為の内容や回数、実行した期間などの諸般の事情に基づき、殺意を認定できるのであれば殺人未遂の共同正犯など)を問われる。民事責任も同様である。
 また、彼らが自慢するところの「殺人行為」は一方で建物へダメージを与えている点で建物所有権に対する違法な侵害行為である。賃借人は建物が倒壊する前にそこを出れば問題ないが、賃貸人たる所有権者はそうはいかない。建物所有者と委任契約を結んだ弁護士が訴訟代理人になって私鉄会社である東京西縦に対して使用者責任に基づく損害賠償請求を行うリスクがそこで生じる。彼らはこのことにも気付かないか、あるいは建物所有者の了解をとって共犯関係を築いているとすれば、今度は殺害対象となっているアパートの住人が賃借人として法的責任を問える対象が増える。いずれにしろ、大井森線の職員全員を中心にして問われる法的責任から周辺住民は逃れ得る(あるいは、法に関わる職に就いている者全てが自分たちと同じようにアイツを殺す共犯者として行動してくれると大井森線の各職員が期待しているのなら、次の事実を指摘する余計なお世話をしておこう。すなわち、司法作用が形骸化した社会に実現できる正義はない。かかる正義の喪失はあなた達の間で生じる類似の殺人その他の違法行為についてもまともな裁きが行われることがないことを意味する。結果、「誰かに殺されないよう、誰かを殺す」という選択が妥当な血生臭い社会が完成する。その中に生きるのは他でも無い、あなた達である。したがって、大井森線の職員の方々は妄想し実行する犯罪が実現した暁にはその犯罪事実が露見するリスク回避のために口止めとして殺されることがないよう、他の共犯者の動向には注意しておくべきである、と)。
 さらに従業員を管理する側もかかる事実を知っていて黙認していたのなら、この殺人(ごっこ)は社会的にも重大な事件となる。そのネタを周辺住民が握っているのだから、周辺住民の方々は無関係な善人面をしてこれを報道機関に高く売り込める(何せ、彼らの妄想するところによれば、安全点検を装った殺人行為はどこからでもその内実を見ることができる線路上で行われているのだから、必要な情報の取得は実に容易だ)。ならば取り敢えず死なないアイツをぶっ殺すのに彼ら職員を利用するだけ利用して、流れが悪くなったときは直ちに手の平を返し、ネタを高く売り込んで素知らぬ顔を決めると判断するのは、(その救いようの無い人間性を露わにはするが)合理的な判断といえる。
「怖い世の中だねぇ〜。あー、イヤだ、イヤだ!」
 そう言い合って笑い合い、あとは蟻の如く散るのみ。担ぎ上げた御輿を路上に放置して、その責任を全て私鉄会社の職員全員に負わせる(または大井森線の職員、特に整備員の間では中心となって計画を立て安全点検を装った殺人の仕掛けを施す上司が実行中の犯罪事実を部下達が記録し、それらを公にして他の私鉄職員たちが自己保身を図る一手を打つことも考えられるが、いやこれもまた余計なお世話だなと文字であるこの「私」が反省しよう)。
 以上のように圧倒的に不利な立場に立たされている。そのことに彼らが全く気付かないのだから、バイアスはやはり恐ろしい(いやいや死人に口なし、あとは共犯者全員で忘却を図れるいう希望を抱いているとあなた達が言うのなら、いやいや、この点についても文字である「私」は既に『観察』済みなので応答しない、という怠け心をここでは発揮しておこう)。



 不特定また多数人から成る社会という概念が個人に及ぼすもの、良くも悪くも個人の気を大きくさせる拡張された自己意識。
 だが、社会的に重大な問題を可能な限りの解決に導く原動力になるのは間違いなく、かかる問題を他人事で片付けてはならないという思いが結実し、拡張された個人の意識であり、その働きがときに時勢に沿って左右に大きくうねりながらも自分以上の存在と共に見据える「そこ」に向けて継続されるのなら、個々人の日々の有り様から社会として括れる生活実体への大きな変化に繋がると文字で記されるこの「私」は考える。
「無理と知りながら、開き直りながら、他人のことを自らのことのように考える。」
 他の価値観に出会った先で衝突したり阻まれたりしながらも、私が感じるものに少なからず影響するものを時には道徳や倫理又は神の息吹や魂のような宗教的観念にまで拡げて考える。俗っぽく言ってしまえば異なるゲームに参加するプレイヤー間で行う、近似値としての「人」の世界の創造。同じごっこ遊びなら、私はこちらを楽しみたい(そしてそのために、あなた達はある意味でとても有益なサンプルになるのだから、この世は不思議なことばかりである)。
 表皮を剥がしても人としての形を守る真皮。未来においても自発的に作製できたらいいと私が思えることの一つは、押せば返す力を備えた弾力性にきっと優れている。そのアクションでいつでも、人をその身に引き戻す。
 「人間」という表現を一生し続ける、その試みなのだ。



 

真皮

真皮

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-11-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted