定住すると決めた場所から二度と離れられないのであれば、人生丸ごと地面に縫い付けられるような拘束力を感じてしまう。しかしながら、永遠に流離うことしか許されない仮定の下でも定住する自由を剥奪された事実が同じ縛りの感覚を人に及ぼす。定住するもしないも自らの意思で決められるからこその自由だから、それは移動したいときに移動する自由と言い換えられる。違いは、移動した後でその人がここに帰って来るかどうかという点にあり、一期一会の出会いと別れにかかる重みになるだろう。二度と会えないかもしれないという認識が研ぎ澄ます感覚により、鮮明な記憶と温もった感情の機微が人を多様に形作っていくし、「また帰って来る」という約束は移り変わる自然や社会状況にあって人が二本足でしっかりと立つための固い地盤となる。
 純然たる私というものは存在するか。こういう問いを立てることに感じてしまう私自身の恥ずかしさというか抵抗感は、個人の形成がどうしたって生活する人と人との関わり合いを抜きにして考えられないと思うことに起因するのだろう。私という内側に嵌め込まれた世界を見るためのフレームが形作られる過程でどれだけの人たちの影響があったか、その影響も種々様々なものが考えられるし、その影響を私はそのまま受け止めてきた訳ではなく、その都度行なってきた必要な判断とともに咀嚼し消化してきたのだから、私固有のものの正確な把握は不可能だと思う。斑模様を描く私というフレームが漂白されて真っさらになった状態は、だからうまく想像できない。ありえないと断言し、そもそも純然たる私を想定する問いを立てる意味を底意地悪く考えたくなる。意味などない、と予め結論付けた格好で。
 しかしながら、私という意識が所詮は脳内の情報処理を行うための視点に過ぎないと割り切ったとき、私というフレームすら処理できる情報とし、それを可能な限り客観的に眺められる。フレームの構成要素や歴史的、社会的意味などを多様な視点に立って論じることも努めて行える。この時の私を純然たる私という気はない。けれど、フレームの外に出て違う景色を見ようとする意識で生まれる出会いがあるだろうし、自分自身に対する気付きがあるだろう。
 それまでの私からこれからの私へ。
 産まれ落ち、慣れ親しんだ所から離れることで広がり若しくは深まる世界の事実を、または舞い戻ることでより強く信じることになる価値をどのようにして形にするか。定住と移動を繰り返す自由に似た運動に表現が近付くとき、静止した瞬間を捉える写真又は失われる対象を記録する映像は展示空間を梃子にして、留まることに慣れ親しんだ鑑賞者の意識の足を引っこ抜く。
 コの字型に区切られた展示会場の三面にはバーベキューを楽しむある大家族の集合写真と個々人を写したポートレート、その合間に風景写真が数枚、等間隔で並ぶ。思い返しても一枚一枚がとても良い写真で、その目力から塊のような意思を感じるポートレートには挑まれているとこちらが錯覚する程の迫力を感じた。
 これは池田宏さんの作品に向ける素直な感想である。が、一方でこの感想を私は慎重に取り扱うことを心がける。なぜなら、展示会場に入る前に私は彼や彼女がアイヌ民族のルーツを持つことを知らされており、また会場中央に置かれたアクリルケースの中に手に触れることすら出来ないアイヌ民族について書かれた様々な書籍が置かれているのを見た。不勉強ながら、私はアイヌ民族が辿った歴史を知っている。そのために、池田さんの写真作品を見る私の目に一枚のフィルターがかかっているのは間違いない。各作品に込められた主張などどこにも見当たらないのに無言の圧があると直感する、そんな自分を否定したがる動きを心中に感じ、この感覚を否定する意思の動きにもまた気付く。「差別」の二語に敏感になる、それもまた差別意識の表れだと私は思っている。だから文脈に刺激された言葉を鎮めて写真作品を見つめたい、その欲に従って鑑賞することを実行する私は宙ぶらりんになることを何よりも望んでいる。紹介文の欄に書けそうな一切の私的な情報を捨て、名前も知らない彼や彼女の前に立ち塞がるように対面する。表情一つ変えない彼や彼女から見て私はどう見えるのかという備え又は構えた視点を捨てて臨む。裸になった気分で目一杯の汗をかいてしまいそうな意思主体の感覚は時間が経っても熱を持つ。自由と対をなす責任を、いつの間にかこの腕(かいな)で力強く抱いている。
 純然たる私について否定的な私は、けれど山元彩香さんの写真作品には写り込んでいると判断する。ただし、そこに意思は感じられない。むしろ意思が抜けきった後の殻が周囲のものと一体となって印象深い風景となっていると私は思う。訪れた先の国で言葉によるコミュニケーションを敢えて行わずにモデルとなる少女を撮影する山元さんの作品に対しては、その構図からして被写体に面と向かう感覚が確かに薄いと思った。写す側と写される側の距離は間違いなくあり、風に吹かれて気持ち良さげに靡くような信頼という名の個と個の繋がりは感じ取りにくい。対話のないその接触は、だからこそ、その土地の匂いや空気を被写体と切り離せないままに出くわした一場面として捉え、物語る個人史を収める前の器のような人の形の存在感を損なわず、そのままに抜き出せるのでないかと想像する。ここで興味深いのは、各作品に感じる器としての人の抽象性がしかし各人の身体に刻まれた遺伝子により担保された個性に突き当たり、それ以上先に進めなくなることで生命力を失うことがない点である。そこには生きることを選んだ自由が根を張っており、いまもその大地に広がっている。その繋がりを異邦人たる撮影者が写真として切り取り、それを作品として見る私という鑑賞者がこうして感想を綴る。この流れもまた人という範型を見失うことなく、半永久的に延命させる試みの一端になるとすればその一生で人が知れる世界の縁はまだその外観を現してはいないと信じられる。
 インターネット上の画像と実際に訪れた場所とでは五官で取得できる情報量が違うから、後者の方が臨場感をもって被写体となる場所を撮影できると思える。が、撮影する吉田志穂さんが見つめるのは記録できる情報量でなく、取得した情報と存在する被写体の現実との間隙である。現在、東京都写真美術館で開催中の『記憶は地に沁み、風を超え』の展示会場で最初に目にできる吉田さんの写真作品は接写し過ぎたかのように対象を直ちに把握できなくし、またプリントアウトされた作品を撮影し、それをさらにプリントアウトしてより低く展示することで被写体の異同を問う。また額縁に収められた作品が拡大されたものを壁面に写し、雲間から差し込む光によって緩やかに繋げて見せることで人が抱くイメージの唯一さを問う。人が想起するものに真実なんて必要なのだろうか。五官の作用で取得した情報を脳内で再構成した人間の現実だってどれだけ対象とする世界の客観的な実体に迫れているのか知れない。妄想を価値のないものとして切り捨てられる理由は何か。老荘思想に見られるような虚実の淡いを人が生きているとして、そこを歩む私たちの動機はなんなのか。スクリーンに展開するモノクロな風景と各作品に当たるスポットライトを頼りにして基本的に暗い展示室で立ち止まる度、ズレたり重なったりするイメージの距離感の無さに妙に落ち着いたりするこの心情を、私は何と呼べばいいのか。
 当然視した私の現実から遊離して始まる吉田さんの作品鑑賞は、私の意識をもののように扱って自由な感想を抱くきっかけになったと思う。この点で吉田さんの作品は『記憶は地に沁み、風を超え』の展示の狙いを十分に伝えると私は考える。
 山の中、生い茂った草地を時々に誰かが通る様子を流すスクリーン正面の映像と、所々でくるくると円を描く有線の先で左右に上にと向きを変えた個々のスピーカーから聞こえてくる草を分け入って歩くときに生じる様々な音。展示会場に設置されたベンチから全体を見るとき、本展示唯一のインスタレーションである潘逸舟さんの表現はどこかピンと来ない。あちこちから聞こえる音がスクリーン向こうの草むらを移動しているのが分かり、誰かの存在を感じられはする。有線の引かれ方もその繋がりを示唆する。けれど物足りない。何かヒントはと会場の隅や壁に飾られる小さな作品を見に行く、その時に取る移動の選択が実に正しい。各スピーカーの前に立つことで一時的に聞こえなくなる他のスピーカーが発する音。この遮断によって鑑賞者はその音を発する主体たる誰かになれる気分を味わえる。いや、会えると記した方が作品の本質に近付けるかも知れない。編み物ができない私が把握できない編み棒の動きのように、草むらを進む「誰か」にどう「出会う」かが分からない。その「行き先」も同様である。同じことは草むらを進む「誰か」にとっての私にも言える。だから私たちは何も知らない。移動している限りで私たちに可能な出会いはない。しかし、どちらかが動かなければ生まれる出会いもない。背理するような状況で続けられる小さな画面の編み物だけはきびきびと動き、通り抜け、思い描く模様を作っていく。
 台風により発生した洪水で流された集落の記録を住民の方々と席を共にし、伝承や思い出、社会経済の発展に合わせて変化していった生活や自然環境の様子に関する話を聞いて記録する。小森はるかさんと瀬尾夏美さんが共同で手掛けるこの試みが表現として立ち上がるのは記録された情報を見聞きし、それを再生することが人の間で行われるからだと考える。社会的な動物であると同時に感情を抱けるのが人間で、その感情経験を覚えていられるのも人間であるなら記憶の蓋の開閉に込められる思いがある。この思いを聞き取り、言葉や写真を添えて地図上に書き加え又は絵にし、映像化することは彼女たちを介した住民の方々の心の内を形にしたものと言っても過言ではない。写真撮影が正確に行う物事の記録に人間味を付与するこれらの表現はアーカイブの先を見据え、人為の温もりを忘れていない。
 主張の当否の判断が主張される状況に左右される面があるように、私というフレームにある偏向も場所や状況によってその偏りが見えなくなり、またはその傾きを増したりするだろう。フレームについて分かったつもりでいた自分の傲慢さに気付いて心から打ちのめされたり、あるいはフレームが対象とする光景に信じられない眩しさを発見して誰よりも救われてしまうことがきっとある。深い感情体験は間違いなく記憶に残り、写真や映像がそれを補助する。私にとって大切な記録が私でない他人にとっても大切なものと思われる奇跡のような架橋を可能にするのもまた、「あなたと同じ」と言えてしまう私というフレームから見える世界なのだから、苦笑混じりに肩の力を抜くほか無い。
 人は「それ」を見て、記憶して、感じたり考えたりする。これら一連の過程をレンズを通して行う『記憶は地に沁み、風を超え』の作家たちの各作品が関心を持って止まない世界の生(なま)の実感を見て欲しいと思う。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-11-10

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