山の小道

バニラダヌキ

  

     1

 里見健児と草野繭子は、今、一本の小道である。
 その小道は信州のとある山里の端から、さほど広からぬ(かや)の草原を縫って緩やかな下り勾配をなし、さらにいささかの森を抜けて東の湖へと続いている。その湖もまた健児と繭子であり、湖のさらに東の険しい峠道までが、健児と繭子そのものであるらしい。
 しかしその峠の彼方、停車場のある街に下る五里あまりの山道は、残念ながら繭子でも健児でもなかった。そこに至る以前に、二人は人という窮屈な体を脱ぎ捨ててしまったからである。

 人が人の形を脱ぎ捨てられることを、俺は、寡聞にしてそれまで知らずにいた。

 俺は湖に棲む一匹の龍である。稀に気が向くと湖を出て山の空に遊び、雷雲や嵐を呼んだりもする。しかし人々が言い習わすような、滝昇りの鯉であったことは一度もない。
 湖には大勢の鯉も棲んでおり、中には湖に流れこむ細々とした川を遡って滝を目ざす元気な奴もいるにはいるが、龍になって帰ってきた奴や、天に昇った奴は一尾も見たことがない。生まれついての体と似ても似つかぬ姿に化けるのは、狐と狸くらいなものである。それもしぶとく百年は生きねば、変化(へんげ)の術を体得できぬらしい。
 しかし俺はあくまで龍であるから、かれこれ千年は生きていると思うのに、思い出せる限りの昔からただの龍である。もしかしたらタツノオトシゴであったことはあるのかもしれないが、そんな昔の事は、もう自分でも思い出せない。

         ◎

 あれは、人の世が明治から大正とやらに代替わりする、少し前の頃であったか。
 ようやく山の雪が融け、俺が日当たりのいい水辺の草叢に顔だけ出して昼寝していると、なじみの古狸が、何やらどでかい獲物を口にくわえて引きずりながら、東の山道を下ってきた。この狸はかれこれ三百年近く生きており、分福茶釜から大入道までたいがいのものに化けられる。その日は八尺あまりの虎に化けていた。
 もっとも、このあたりの山に虎は棲んでいない。当然、俺も本物の虎を見たことがない。だから当初は山猫に化け損ねた古狸かと思った。顔の造作は育ちすぎた山猫のようで、尻尾の形はどことなく狸っぽい。それでも毛皮の色柄は噂に聞く虎に相違ないから、古狸自身は虎のつもりなのだろうし、俺も細かく注文をつけるほど野暮ではない。
「虎かよ」
「おう、虎だよ」
 古狸の虎は得意げに言って、くわえていた獲物を俺の前に投げだした。どうやら若い男の死骸である。
「食うか?」
「そんな不味そうなものを食うものか」
 人間などという代物は()きが良くても不味いのに、薄汚れた死骸など嘗める気にもならない。
「いくら虎に化けたからといって、悪食まで真似ることもあるまいに」
「俺だって食うものか。くわえやすいように、でかい生き物に化けただけさ」
 八尺あまりの虎猫は、その場でころりとでんぐり返り、二尺ほどの古狸に戻った。
「山を散歩していたら、こいつが獣道(けものみち)に倒れていたんだ。大方、山越えの途中で道に迷ったのだろう」
「その服装(なり)だと、山を知らぬ都会者だな」
 山向きの背嚢は背負っているが、この時期に背広姿は無茶である。麓の街ならいざ知らず、ここいらでは外套を着ていても凍え死ぬ。
「こんな代物を、なんでわざわざ運んできたのだ」
「一度しっかり人に化けて、村人をたぶらかしてみたかったのさ。村人を見本に化けると、皆、顔なじみだからすぐにばれてしまう。こいつはどうやら、まるっきりの余所者だ。化ける見本にちょうどいい」
「なるほどなあ」
「俺が化けたら、こいつは湖の底に沈めて魚の餌にしてくれ」
「それくらいなら手伝おう」
「かっちけない」
 古狸は、またころりとでんぐりがえり、死骸と同じ姿に化けた。汚れて傷んだ背広や背嚢は、そこそこ新しそうに化けている。狸も三百年生きると、なかなかそつがないのである。
 ポケットや背嚢の中身にまでは化けられないらしく、元の死骸の持ち物をこまめに移しながら、
「ほう。こいつはどうやら、村の分教場の新しい教員らしいぞ」
「そんな者に化けて大丈夫か? 子供に読み書きやら算術やら、いろいろ教えるのだろう」
「馬鹿にするな。俺は並の人間の数倍も生きておるのだぞ。尋常小学校くらいお茶の子さ」
 そうであった。滅多に湖を離れない俺と違って、こいつはしょっちゅう村に出入りし、村長の家の書物から寺の経典まで、こっそり盗み読んでいる。無学では馬鹿な人間にしか化けられない、それがこの古狸の持論であった。
「じゃあ、あとの始末は頼んだぞ」
「心得た。いずれ土産話を聞かせてくれ」
「おうよ。楽しみに待っていろ」

     2

 意気揚々と西の森に消えた古狸は、夏になっても帰ってこなかった。
 秋風が吹いても、まだ帰ってこなかった。
 ああ、これはきっと正体がばれて、村人に始末されたな――。
 俺が神妙に古狸の成仏を願っていると、山の紅葉がすっかり色づいた頃になって、ようやく例の背広姿が、西の森の小道を下ってきた。しかも、ぞろぞろと人の子供を引き連れている。
 俺は泡を食って湖の水に顔を沈めた。相手が大人であれば、よほどの通力でもないかぎり俺の姿を見ることはできないのだが、なぜか子供には気づかれてしまうことがあり、油断ならないのである。
 教員姿の古狸は、二十人ほどの生徒たちをひとりひとり点呼して、「溺れるから水に入るな」だの「迷子になるから遠くに行くな」だの、もっともらしく訓示をたれた。
 生徒たちが三々五々に散って弁当を食い始めると、古狸は俺の潜んでいる岩場に顔を出した。
 万一の覗き見を用心してか、教員姿のままで、
「土産話は山ほどあるが、そのうちゆっくりしてやろう。今日は子供らを、日が陰る前に帰さねばならぬでな」
 俺は目玉から上だけを水面に浮かべ、
「それはかまわぬが、この騒ぎはなんだ」
「これは遠足という分校の行事だ。まあ物見遊山みたようなものだな。人の学校では、毎年やる決まりになっておる。そのうち運動会とかいう奴もあるそうだ。分校前の広場を皆で駆け回るらしい。なんでわざわざ駆け回るのかよくわからぬが、まあ、やる決まりなら、やらねばなるまいよ」
「なんだかよくわからぬが、うまく教員に化けられて何よりだ。俺はてっきり狸汁にされたかと思った」
「正直、初めはずいぶん危ない橋を渡ったよ。それでも子供らが先生先生と懐いてくれるんで、他の大人連中も、なんとか化かしおおせた」
 岩場のあちら側から響いてくる子供たちの笑い声に、古狸は目を細め、
「なかなか、かわいい奴らだろう」
「俺には人の子など、猿と同じにしか見えぬ」
「いやいや。猿も色々、人も狸も色々だぞ。馬鹿だが面白い奴、利口だがつまらん奴、何をやっても変てこりんな奴――おぬしは一匹だけで生きておるから世間が狭いのだ」
 確かに俺は俺以外の龍と滅多に会わないから、仲間内の情に疎いところがある。
 古狸は、岩場の隙間から子供たちを指し示し、
「俺のお気に入りを、おぬしにも教えておこう。あそこに、ちょいと身なりのいい活発な男の子と、身なりは悪いが利発そうな女の子がおるだろう。年少のチビどもを世話している、あの年長のふたり組だ。里見健児と、草野繭子という」
「サトミケ? クサノマ?」
「いやいや、サトミ・ケンジとクサノ・マユコ。人間には、それぞれ姓と名というものがあるのだよ」
「なんだかよくわからぬが、面倒な生き物だな。しかし確かに、あれらは他の小猿よりも猿っぽくない。見ていてなぜか気持ちがいい」
「そうだろう。姿もいいが気立てもいいからな。健児は大地主の総領息子だが、ちっともそれを鼻に掛けない一本気な奴だ。繭子は貧しい山番の娘だが、頭がよくて少しもいじけたところがない。あの人気者二人が俺を好いてくれるおかげで、俺もうまく教師に化けられていられるのさ」
 そのうち他の小猿のひとりが、なんの用事か「先生、先生」と、こちらを呼んだ。
 古狸は、そちらに「おう」と応じた後、
「じゃあ、またな。村人を化かし飽きたら、そのうち帰ってくる」
 そう言い残し、遠足とやらの続きに戻って行った。
 こいつは当分帰ってくるまい、と俺は思った。
 一旦うまく化かしたら、とことん化かしつくすのが古狸の本性である。

     3

 案の定、古狸は何年たっても帰ってこなかった。
 まだ十年は過ぎていないが、五年はとうに過ぎたと覚しい夏の宵、俺は数多の蛍火が飛び交う湖畔に顔を出し、上弦の月が星空を移ろう様を眺めていた。
 あの古狸は、毎年、中秋の名月に浮かれて腹鼓を打ちまくるのが常であった。しかしその音も絶えて久しい。あれくらい劫を経た狸だと、あんがい人に化けたまま、人として生を終える覚悟なのかもしれない。それならそれで俺は別にかまわないが、お互い長いつき合いなのだから、一言くらい挨拶があってしかるべきではないか――。
 俺は生まれて初めて感じる鬱屈した胸の疼きに、我ながら戸惑っていた。それはおそらく|寂寥感と呼ばれる感情なのであろうが、人や狸ならいざ知らず、生まれついての精霊である龍に、そんな感情は無縁のはずである。しかし現に感じてしまったものは仕方がない。
 こんな気の塞ぐ夜は久々に天に上って、役立たずの半身の月など黒雲に隠してやろう――。
 そう俺が思い立って、岸の岩場に前足を掛けようとしたとき、西の森の小道から、何かが近づいてくる気配がした。目を凝らせば、気配の主は山の獣でも古狸でもなく、どうやら二つの人影であった。
 この湖は村から二里半少々のところにある。田舎育ちの健脚があれば、雪のない季節には一時《いっとき》ほどでたどり着ける。だから夏の夜は蛍見物に訪れる村人も少なくない。俺は例によって目玉のあたりだけを水面に残し、湖に身を沈めた。
 上背のある逞しい影と、やや低い細身の影――二つの影は岩場の上で立ち止まると、何やら手を取り合って、無言のままお互いを見つめていた。
 思い人同士の逢い引きならば、さほど珍しいものではない。しかし、いつもなら尾のない猿に見えるはずの人間たちが、なぜか今夜は妙に美しい。二人を照らす月の光が美しいからか、あるいは天蓋のように二人を擁している夜空の銀河が美しいからか、とも思ったが、あながちそれだけではないようだ。抱擁や接吻に至る気配がなく、ただ手と手、眼差しと眼差しだけで情を交わしている様子そのものが、なんとも神妙で美しいのである。
「どうだ、美しいであろう」
 いつのまに近づいていたやら、一尾の大鯰が俺の耳元でささやいた。
 この湖に、しゃべる鯰は棲んでいない。
「……また妙なものに化けたものだ」
「狸のままでは溺れてしまうからな」
 大鯰は古狸と同じ声で、
「あれらは健児と繭子だよ。いい若者に育ったろう」
「ほう、あの遠足の子らであったか。なるほど確かに麗しく育った」
「俺の教育がいいからな」
「あれらの姿形(すがたかたち)まで、おぬしが教えたわけでもあるまいに」
「形ではない。気韻の問題なのだよ。俺が分校で、じっくり修身を仕込んだ」
「修身?」
「おうよ。人が人として道を誤らぬための心得のことだ。『嘘つきは泥棒の始まり』『情けは人のためならず』『清く正しく美しく』――その他もろもろだな。『子作りは祝言をあげてから』なんてのも、若い者には大事な修身であろうよ」
 この狸が若い自分、とっかえひっかえ(めす)の尻ばかり追い回す姿を見ていた俺には、(にわか)には信じがたい話であった。しかし化けるようになってからは、こいつも確かに仙人じみて、ずいぶん生臭さが抜けた気がする。
 古狸の大鯰は、俺の顔の周りをぬらぬらと泳ぎながら、
「ご覧のとおり似合いの二人、あのまま雛壇(ひなだん)の上に並べてやりたいところだが、どうやらもう一押し、工夫(くふう)が要りそうなのだ。大地主の総領息子と山番の娘、なんといっても身分が違う。しかし繭子ほどの娘なら、健児の家も嫁として文句はあるまい。それに俺という後ろ盾がある。ここいらの田舎だと、都会から来た学士様の看板は、なかなか大したものだからな」
「人の身分など俺にはわからぬが、まあ、せいぜい教師やら学士やら、好きなように化けおおせればよかろう」
「おう。春までには、きっとあの二人に祝言をあげさせてみせる。それが済んだら帰ってくるよ。人を化かすのは確かに面白いが、村中化かすとなると、どうも気忙(きぜわ)しなくていけない。このところ百歳も老いぼれたような気がする」
 この鯰、もとい古狸の根性なら、五百年くらいは平気で生きるだろう――。
 ぬらぬらと鼻面を撫でられながら、俺は楽観していた。

     4

 真冬になっても、このあたりにはさほど雪が積もらない。
 代わりに冷たい刃先のような風が吹き、木々は霧氷や樹氷で白く凍てつく。
 湖にも厚い氷が張る。
 春と夏と秋には天井のない俺の住処(すみか)に、氷の天井ができてしまうわけである。
 天井に氷が張りっぱなしでは、冬の暮らしが鬱陶しい。
 だから晴れた日には片端から氷を割って回るのが、俺の冬の楽しみであった。
 同じ信州の諏訪湖に棲んでいる龍仲間は滅多に氷を割らず、たまに(ひび)を入れると、周りの人々は「御神渡りだ」とか騒いで拝んだりしているが、あれはただの出不精なのである。

 ある朝、湖の底で目覚めると、氷の天井が薄暗いなりに白っぽく、東の彼方に陽の光が透けて見えたので、俺はとりあえず近場の岸の氷に頭突きをくらわせた。
 真冬の北風に、久々に首を晒す。雲ひとつない空の青天井が、爽快きわまりない。ここ二三日続いていた吹雪は、昨夜の内に止んだらしかった。
 さほど雪が積もらないといっても、見渡す限りの森や山並みは、真綿に覆われたような白銀の世界である。ただ凍りついた湖面だけは、苛烈な北風に雪が吹き飛ばされて南の岸の森際にわだかまり、大半の湖面は割りがいのありそうな渺々(びょうびょう)たる氷原に仕上がっている。
 その氷原に薄くこびりついた新雪に、何やら点々と続く踏み跡らしいへこみを見つけ、俺は首をかしげた。
 俺が顔を出した西の岩場から、遙かな東の岸に向かって、ほぼ一直線に足跡が続いている。明らかに森の獣の仕業ではない。個々の形や乱れ具合からして、どうやら二人連れの人間らしかった。
 真冬でも猟師たちを見かけることは稀にあるが、わざわざ湖の上を横切る奴はいない。少なくともここ二三百年はいなかった。諏訪湖と違って、この湖の神はいつなんどき癇癪(かんしゃく)を起こすかわからない、そんな評判が昔から根付いている。まあ実際は神の癇癪(かんしゃく)ではなく、俺の憂さ晴らしなのだが。
 度胸のある奴らがいたものだ――。
 俺が感心していると、村方向の森から、せわしなく雪を蹴散らす音が聞こえてきた。
「おい、龍よ」
 教員に化けた古狸であった。
「もしや健児と繭子を見かけておらんか?」
 着ぶくれた外套姿で、機関車のように白い息を吐きながら、
「こっちに来たと思うのだが、雪にまぎれて跡がたどれん」
 俺は首を反らせ、村とは逆の氷原を古狸に示した。
「いつ通ったかは知らぬが、足跡だけなら残っておるようだぞ」
「おお!」
 古狸は例の足跡の先を目で追って、
「無事に街まで逃げおおせればいいが……」
「なんだそれは。春の祝言はどうなった」
「算段が狂った。村の連中、思ったより根性悪ばかりであった。健児の親どもは、結婚に反対するだけならまだしも、裏で手を回して繭子に別の婿をあてがおうとした。奥の村に住む山持ちの男だ。繭子の親どもは、その婿候補もそこそこの財産家だと知って、そっちにしろと繭子に無理強いする始末だ。これだから田舎者は野暮でいかん。粋な江戸っ子なら唾を吐くぞ。『人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ』とな」
「江戸はもうなくなったと聞くがな」
「おう。今は四民平等、自由民権の時代よ。ならばなおのこと、惚れた同士に地主も山番もあるものか」
 都会出の学士とやらに化けたせいか、こいつもすっかり文明開化している。そういえば、いつぞやの夜は汽車に化けて、谷間の線路を駆け回ったとも聞く。
「それで、手に手を取って道行きか」
「ああ。村から南に下りて麓の街道を逃げれば楽だが、それでは追っ手に捕まってしまう。金持ちは(くるま)を雇えるからな。ならば秘かに東の峠を越えて、街から汽車に乗るしかない。ここは俺が加勢してやらねば」
 身構える古狸の前に、俺は首を下ろして言った。
「ここに乗れ。夜明け前に渡ったなら、そう遠くには行っておらぬ」
「おぬし、俺を誰だと思うてか」
 教員姿の古狸は、その場でくるりとでんぐり返り、みごとな大鷲に化けて空に舞った。
 尻尾のあたりがどことなく狸っぽいのは、まあ御愛敬である。

     5

 古狸が化けた大鷲は、凍りついた湖の空を大鷲よりも速く飛んだ。飛龍の俺が後れを取りそうな勢いであった。
 その気持ちは俺にもわかる。夜中に吹雪の原や森を抜けるだけでも、人はしばしば凍え死ぬ。さらに風のきつい氷原を無事に渡りきるなど、屈強な猟師でさえ難しい。
 案の定、湖の半ばを過ぎたあたりで、足跡が一人分に変わっていた。
「あの若者が娘を背負ったらしいな」
「おう。いじらしい奴らよ」
 古狸の大鷲は悔しげに、
「逃げる前に、ひとこと俺に相談してくれたら、大入道にでも化けて運んでやったものを」
「修身とやらを吹きこんだ教師に、駆け落ちの相談をする生徒はなかろう」
「……律儀に化けすぎたか」
 やがて氷原を横切って東の岸に至ると、上り道の積雪に、長々と続く一筋の踏み跡が見えた。
 古狸の大鷲はそれに近づき、
「ありがたい。なんとか渡りきったようだな。この具合だと、吹雪が止んでから進んだ跡に相違ない。このまま無事に山を越えられるかもしれぬ」
 どうだかな、と俺は思った。踏み分け跡はあくまで一人分、しかも膝丈以上の深さに見える。いかに屈強な若者とて、人一人を背負ったまま長く登り続けるのは難しかろう。まして吹雪の中を一晩中歩いてきた身である。
 ところが案に相違して、その深々とした踏み分け跡は、しだいに急峻となる雪道をものともせず、最初の峠の頂まで続いていた。
 俺は人の一念というものに舌をまいた。
 空から見下ろすその一筋の道は、潔い群青色の芯を水色のぼかしが淡く縁どるようにして、白銀の斜面を延々と貫いている。これがあの夏の宵、あの二人が交わしていた美しい情の気による道行きの跡ならば、俺は千年も生きながら、人の気韻というものを見損なっていたのかもしれない。
「あ!」
 峠を越えた刹那、古狸の大鷲が声をあげて雪面に舞い降りた。
 頂からほんの数歩の所で紺青の筋が途切れ、その先に、娘を背負ったあの若者が、なかば雪に埋もれてうずくまっている。傍らには旅支度の風呂敷包みが、雪にまみれて転がっていた。
「健児! 繭子!」
 教員姿に戻った古狸は、がくがくと二人を揺すった。
 娘は背負われた形のまま、すでに氷像のように()てついていた。
 それを知ってか知らずか、若者はようように顔を上げ、唇を震わせた。
「先生……」
「おう、健児! 大丈夫だ! 安心しろ! 二人とも俺が汽車に乗せてやる!」
 すでに娘が生きていないことは、無論、古狸も悟っている。
「……先生……ごめん……」
「何を謝る! おまえは大した奴だ!」
「……ごめん……」
 若者の口元に漂っていた白い息が、風に流れて、それきり消えた。
 ほとんど凍りかけていた若者の体は、やがて背中の娘と分かちがたく固まり、同じひとつの白い塑像を成してゆく。
「健児……繭子……」
 古狸は元の姿に戻って肩を震わせながら、ただ呆けたように二人の名を呟いていた。
 生身の狸にとって、己が長く生きれば生きるほど、若い者に先立たれる悼みは深かろう。山の獣はめったに流さぬ涙が、顔の毛に染みを広げている。
 俺もまた悼みに耽っていたが、生身ならぬ精霊の身、心が沈むばかりで涙は流れない。
 居たたまれずに目をそらしたとき、ふと、峠の下の湖が目に入った。
「……おい、狸よ」
「……なんだ」
「村の方を見ろ」
 古狸は振り返って、西の彼方を見晴るかした。
 朝に古狸が抜けてきた森から大勢の人影が現れ、蟻の行列のように氷原を渡りはじめている。
「村の連中かな」
「……地主の差し向けた追っ手であろう」
 言いながら古狸は、およそ狸らしくない鬼のような形相となり、
「おい、龍よ。いっとき、おぬしの姿を借りるぞ」
「かまわぬが、なぜ?」
「こうとなっては、あれらすべてがこの二人の仇よ」
「屠ろうというのか?」
「殺しはせぬ。軽く意趣返しをするだけだ」
「ならば、派手に化けるがよい」
「かっちけない」
 古狸は二人の亡骸を前に、くるりとでんぐり返った。
 俺に化けたわりには、俺よりもはるかに凶相の飛龍と化し、蒼空をびゅんびゅんとのたくりながら、湖に向かって突進する。
 しかも俺と違って、誰にでも見える生身の飛龍である。
 村人たちは、彼方の山から凄まじい勢いで迫ってくる巨竜に文字どおり仰天し、箒で掃かれた蟻の群れのように、元来た方へ逃げだした。
 その手前で、古狸の龍は頭から氷に突っこんだ。
「うぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ!」
 龍の俺は、あれほど異様な声で咆えたことがない。
 また、あのような勢いで、湖一面の氷を木っ端微塵に砕き回ったこともない。
 古狸とは、実に端倪すべからざる妖物である。

 氷塊と湖水と龍の腹が、あちこちごっちゃに入り乱れ、湖全体が白く煮えくりかえること、しばし――。
 荒ぶっていた湖の面が、やがて、ゆったりと波打つザラメの湖くらいに治まると、古狸の龍はようやく気を鎮め、悠々とこちらに引き上げてきた。
 くたびれたなりに清々した顔で古狸の姿に戻り、
「……まあ、こんなものか」
「何人か溺れ死んだようだが」
「気にするな。沈んだのは村の荒くれ者ばかりだ。地主に媚びて金をせびる他には、弱い者いじめと博打くらいしか能がない奴らよ」
「そうか。なら、俺もかまわぬ」
 それから古狸は、健児と繭子の亡骸に、神妙に手を合わせた。
 俺もつきあって合掌していると、
「……のう、龍よ」
「なんだ」
「人が死んだら、あの世とやらに行くというのは本当かな」
「知らぬ。だいたい俺は死んだことがない」
「しかし龍は天にも昇ると聞くぞ。もともとは天界、つまりあの世にいたのではないか?」
「いや。空を突き抜けるまで高く昇っても、なお星や月があるばかりだ。天界などどこにもない。まだ地の底に潜ったことはないが、たぶん地獄もなかろうよ」
「……そうか」
「俺が思うに、俺やおぬしが生きておるのがこの世なら、俺やおぬしが死んだとたんに、同じこの世があの世になるだけなのさ。そのとき俺やおぬしは、もうこの世の者ではないのだからな」
「……そうか。わかった」
 古狸は、なにやら悟ったような目で、健児と繭子の亡骸をながめながら、
「本当のところ、何一つわからぬのだが……ともあれ、ここにこうしておる二人は、もうこの世の者ではない」
「ああ」
「ならば、俺の手で弔ってやりたい。薄情な親どもの手に渡して、別々の墓に入れられてたまるものか。しかし狸仲間の死骸なら森に埋めて地虫の餌にすれば立派な供養だが、この二人がそれでは、あまりに哀れではないか」
「確かに――このように美しい者たちは、立派な墓所に葬ってやりたいな」
「そうだろう」
「俺に心当たりがあるぞ」
「本当か?」

     6

 俺は二人の凍てついた亡骸を大事に抱えて、湖の底に潜った。
 古狸は鯰でも山椒魚でもなく、獣とも魚ともつかぬ奇態な生き物に化けてついてくる。
「おい、狸よ。その姿は、いったいなんなのだ」
海豹(あざらし)さ。北の海に住む獣だよ。鯰に化けたのでは寒くて身が保たぬ」
「……この世には珍妙な獣がいるものだな」
 氷の天井が粉々のザラメになったせいか、水の中は朝より仄暗い。
 湖岸から水底に至る少し前の岩場に、俺の『心当たり』への入口があった。
「あの岩棚の下から入る」
「ほう。こんなところに洞窟があったか」
 洞窟は入口あたりが狭苦しいだけで、体をくねらせながら斜め下に抜けると、すぐに眼界が開ける。
「おお、伽藍のように立派ではないか。しかも、けっこう明るい。どこからこんな光が入る」
「天窓があるのさ。上をよく見ろ。小さな光がいくつも見えるだろう。それぞれ山の泉や滝壺に通じておる」
「水さえなければ、化ける修行にうってつけの造作だな。――しかし寒い。湖より水が冷たいぞ」
「冷たいはずだ。四方をよく見ろ」
「――なんと、岩壁ではなく氷の壁――ここは氷室(ひむろ)か!」
「おう。ここの氷は真夏にも融けぬ。なぜ融けぬのか、俺にはわからぬがな」
「外の山にも万年雪の雪渓があろう。異国の山には、もっと大きい氷河とやらがあるそうだ。大昔には、この世界全体が凍りついていた時代さえあるらしい。その頃の氷が融けずに残っている場所も、世界中にはけっこうあると聞くぞ」
「さすが、おぬしは学があるな」
「……氷の奥のあちこちで、妙な連中が何匹も凍っておるが、おぬしの親戚たちか?」
「知らぬ。俺がここを見つけたときは、もう凍っておった」
「……思い出したぞ。村長の家の書物に、あんな生き物の絵が描いてあった。あれらは何万年も昔の生き物たちよ。確か『首長竜』とかいったな。きっとおぬしの御先祖様に相違ない」
「俺はあんなに腹が出ておらぬ。だいたい、あれらには立派な髭や角がない」
「目元あたりは、そっくりだがなあ」
「そんなことより――ほら、あそこだよ」
 伽藍の奥の氷壁に、俺が床の間に見立てた一坪ほどの四角い棚場がある。
「これはよいな。ここなら健児と繭子も落ち着けよう」
 古狸の海豹も満足そうなので、俺は二人の亡骸を、そっと氷の棚に据えた。
「おお、奥に立派な墓印まで置いてあるではないか。こんなにどでかい水晶玉、どこで見つけた。三尺近くもあるぞ」
「俺の宝珠だよ。龍ならみんな、生まれつき一つは持っておる」
「ほう、これが噂に聞く龍の玉か。どうりで豪儀だ」
「日の出の時刻など、上の泉からの光がまっすぐに届いて、とても美しい。だからここに隠したのだ」
 古狸の海豹はふむふむとうなずきながら、しばらく床の間の周りを泳ぎ回っていたが、
「ならば――ここは、こうしたほうがよかろう」
 ぶつぶつとそんなことを言いながら、奥の宝珠を鼻先で転がし、健児と繭子の横に据えた。
「龍よ、二人を玉のほうに向かせてくれ。俺の(ひれ)ではうまく動かせぬ」
「こうか?」
 言われたように向きを変えると、健児が繭子を背負ったまま、宝珠を伏し拝んでいるような形になった。
 古狸の海豹は、感に堪えぬ顔で、
「……まるで一幅の泰西名画ではないか」
 俺もすっかり見惚れてしまい、
「うむ、なんとも神々しい」
「日の出にはまっすぐに光が射すと言ったな。明日の朝にでも、ぜひ拝みに来よう」
「やめておけ。せっかくの夫婦水入らず、邪魔するのは野暮であろう」
「……そうさな。来年の命日にでも拝もうか」
 古狸の海豹は、しみじみとうなずいて、
「この二人も、ようやく蜜月を迎えたのだなあ……」

     7

 古狸は、その日、いったん村に戻った。
 狸と違って教員という仕事は、いきなりどろんと消えるわけにはいかないらしい。生徒たちのために春の卒業式まで仕事を続け、ちゃんと後釜の教員を手配した後で、都会に戻るために山を越える途中、山道に迷って行方知れずになる――そんな段取りである。
 数年前に山道に迷って魚の餌になってしまった先代の教員も、そこまで勤め上げれば本望であろう。

 そして山桜の花が散る頃、ようやく山に戻ってきた古狸は、
「のう、龍よ。おぬし近頃、村人に何か悪さをしたか?」
「だしぬけになんだ。俺は人など相手にせぬ。だいたい、冬におぬしが暴れたおかげで、あれからは誰一人この湖に近寄らぬぞ」
「そうよなあ。湖の龍が健児と繭子を生け贄にしたとか、いや健児と繭子が世をはかなんで入水したのを龍が憐れんで追っ手を誅したとか、今ではすっかり、村の語り草になっておるからなあ」
「人聞きの悪い話だよ。まあ、龍として恐れられるのはかまわぬが、どのみち俺は何もしておらぬ。俺が寝ている間に通ったとしても、俺の知ったことではない」
「といって、この山で人を化かす狐狸は、今のところ俺だけのはず」
「だから何があったのだ」
「おう。――この春先、雪が融けた頃の話よ」
 古狸は、土産に持ってきた一束の干し大根を、俺と一緒に食いながら話しはじめた。
「奥の村の山持ちの話は、前にもしたろう。繭子が無理に嫁がされそうになった相手の男だ」
「おう、聞いたぞ」
「繭子がいなくなったので、(やっこ)さん、奥の村から別の嫁をもらおうとした。その娘にも幼馴染みの許婚(いいなずけ)がおったのだが、また金に物を言わせての横槍よ」
「ずいぶん根性の曲がった奴だな」
「おう。根性も悪いし顔も悪い。口の臭い蝦蟇(がま)のような奴だ。だから、その娘も許婚といっしょに村から逃げた。駆け落ちとなれば奥の村でも俺のいた村でも同じ道――つまり、いったん俺の村を通ってから茅原(かやはら)と森を抜け、この岸に出て湖を巡り、あの山の峠を越えるしかない。湖の主の噂は奥の村にも届いておったから、その二人、もしかしたら健児や繭子を手本に逃げたのかも知れぬ。あんな口の臭い蝦蟇に仲を裂かれるくらいなら、龍に食われるほうがまだましであろう。現に、夜中にその二人が村を通る姿を見た者もおったし、しばらく後には、追っ手の蝦蟇たちが駆け抜けて行った」
「そんな者ら、俺は見ても食ってもおらぬ」
「そこだよ」
「どこだよ」
「蝦蟇たちは、ここまでたどりつけなかったのだ。なんでも道に迷ってなかなか原を抜けられず、ようやく森に入ったと思ったら、またどこをどう迷ったものやら、皆、北の沢に転げ落ちた。なんとか這い上がって、生きて戻ったようだがな」
「迷うも何も、村からここまで、ずっと一本道ではないか。だいたい北の沢に出る道など見たこともないぞ」
「おう。だから俺は、てっきりおぬしの仕業と思ったのだ」
「逃げた二人はどうなった?」
「そのまま逃げおおせた。半月ほどたった頃、親どもに手紙が届いたとよ。松本あたりから出したらしいが、今頃はもっと遠くに逃げておろう。たぶん東京だな。あそこなら、素性の知れぬ夫婦でも、なんとか食っていける」
「ならいいが……」
「そう。ならいいんだが、となると追っ手の蝦蟇たちを化かしたのは、どこの誰であろう。俺が留守にしている間に、九尾の狐でも遊びに来たか」
「いや、あの(から)渡りの牝狐は、ここ二百年ほど見かけておらぬぞ」
「と、なると……」
 お互い首をひねっているところへ、なにやら慌ただしい足音が、森の奥から近づいてきた。
 微かに男たちの怒声も響く。
「待て!」
「逃がさんぞ!」
 その声の主たちより先に、風呂敷包みを背負った二人の女が、森から駆けだしてきた。
 とっさのことゆえ、俺は湖に隠れる暇がない。狸も岩陰に隠れる暇がなく、その場ででんぐりがえって石地蔵に化けた。
 母と娘ほど歳の離れた二人の女は、村の百姓らしい粗末な身なりで、手に手を取ってこちらに駆けてくる。若い娘は俺に気づくほど子供ではなく、また二人とも追っ手に気を取られて、石地蔵や大根の束は目に入っていないようだ。
 古狸の石地蔵がつぶやいた。
四辻(よつつじ)のお(きよ)と、お袋ではないか」
「誰だ?」
「俺の生徒だった娘と、その母親だよ」
「なんで親子で逃げておる」
「もしや――」
 狸が言いかけたところで、俺たちの前を親子が通りすぎた。
 そのまま走ったのでは湖に落ちてしまう――二人の背を目で追って振り返った俺たちは、揃って驚愕した。
「おう?」
「ぬぬ?」
 今まで湖だったところが、そっくり芦原(あしわら)に化けている。母と娘は逃げるのに夢中で異変に気づかぬらしく、芦原を貫いている一筋の道を、見慣れた東の山に向かって一散に遠ざかってゆく。おそらく森を抜けたときも、あの二人には湖が見えていなかったのであろう。
「龍よ、湖はどこに消えたのだ」
「……知るものか」
 するうち森の方角から、さっきの怒声がまた響いた。
 見れば男が三人ばかり、どたばたと駆けてくる。一人は百姓の身なりだが、あとの二人は洋服姿である。
 古狸の石地蔵が、得心したように行った。
「やはりか――事情が読めたぞ」
「俺の住処(すみか)はどこに消えた?」
「その話ではない。お清とお袋が逃げた理由よ。追っているのはお清の親父と、街の女衒(ぜげん)どもだ」
「女衒?」
「人買いのことだ。貧しい家の娘を買って、街の女郎屋に売りつける因業者たちよ。俺も何度か村で見かけたことがある。そしてお清の親父は、昔から博打狂いのろくでなしだ。おおかた金に困って、お清を売ろうとしたのだろう。そんな亭主を、とうとう女房も見限って、娘といっしょに出奔した――そんなところさ」
「人とはずいぶん(ごう)の深いものだな」
「おうよ。狸や龍では真似できぬ」
 父親と女衒たちは俺たちの前を過ぎ、女たちを追って謎の芦原へ――と思いきや、
「おう?」
「ぬぬ?」
 男たちは芦原でも湖でもなく、小暗い森の道に駆けこんでゆく。
 面食らった俺が元の森を振り返ると、そこに広がっているのは森ではなく、なぜか村に続く茅原(かやはら)なのであった。
 古狸の地蔵もいっしょに面食らい、
「……今度は東と西が裏返っておるぞ」
「俺の住処は……」
「ええい、迷っておっても埒が明かん!」
 古狸の石地蔵はくるりとでんぐりがえり、いつぞやの大鷲に化けて宙に舞った。
 俺も後を追って宙に昇る。
 空から大地を見下ろして、古狸の大鷲は感嘆した。
「ほほう――」
 村に続く茅原や森の広がりそのものは、なぜかいつもと変わっていない。男たちは森を東に抜けたはずなのに、また西から飛びこんでしまったらしい。しかも道筋が無茶苦茶である。いつもよりずいぶん奇妙に曲がりくねっているばかりでなく、三人の男が駆けている道の先などは、俺たちが見ている間にも、なお、うねうねとうねってゆく。
「――これはおもしろい」
「面白がってる場合かよ」
「いいではないか。あれなら、お清たちに追いつこうにも絶対に追いつけぬ。――おう、道の先が、北の沢に繋がったぞ。――よし、三人とも沢に転げ落ちた!」
「……皆、溺れておるな」
「お清の親父は金槌なのだ。街の女衒たちも、あの様子ではたぶん泳げまい。――よし、三人とも沈んだ!」
「……皆、浮いてこぬな」
「千曲川まで流れてしまえばよい」
「……そうだな」
 揃って土左衛門になったなら、浮いてこないほうが確かにありがたい。
 それよりも逃げた母娘が気になって、俺が森の東に目をやると、なぜかさっき見た芦原ではなく、いつもの湖が広がっている。
「俺の住処は戻っておるが……」
 しかし改めて目を凝らせば、細長い芦原が中州のように湖の東西を横切り、その芦原を貫く細道を、あの母娘が峠に向かってせっせと駆けている。
「……なんと、俺の住処が真っ二つに」
「いいではないか。噂に聞く丹後の名勝、天橋立(あまのはしだて)のようだ。俺の散歩にちょうどいい」
「おぬしがよくとも俺は――おや?」
 女たちが東の岸にたどりついたとたん、中州のような芦原は、西の方からしだいに湖水に飲みこまれ、するすると消えてゆく。
「よし、元に戻った!」
「これは残念」
 ふと気づけば森の道も、村に続く茅原の道も、いつもの緩やかな一本道に戻っているのであった。
「……のう、狸よ」
「……おう」
「化けるのは狸と狐だけかと思っていたら、なんと、大地も化けることがあるのだなあ」
「このような大技、俺ではとてもかなわぬ……」

     8

 大地の化けっぷりに負けて悔しかったわけでもあるまいが、古狸は森に帰った後も、村からの道や峠への道を、ふんふんと嗅ぎ回っていた。九尾の狐がどこかに潜んでいるのではないかと疑っていたのである。
 しかし梅雨に入ると、しつこい古狸もさすがに音を上げ、
「あの妖狐ではないな。俺の鼻でも嗅ぎつけられぬ」
 狸は犬の仲間らしく鼻がいい。その狸に匂わないのなら、やはり狐の仕業ではないのだろう。

「ただ、おかしなことがあるのだよ」
 しとしとと雨がけぶる中、古狸は湖の岸で、蕗の葉を傘にしながら言った。
「茅原から峠までの道を嗅いでおると、なにか健児と繭子らしい匂いがする。この長雨でも匂いは消えぬ。実は、今ここでも匂っておる。まあ、そんな気がするくらいの、僅かな匂いなのだがな」
「生きていた頃の匂いが、残っておるのではないか?」
「いや、それが、村の中ではちっとも匂わぬのだ。二人が通った分校でも匂わぬ。間尺に合わぬ話であろう」
「ふむ……確かにそれは道理に合わぬな」
 お互い首をひねっているところへ、森の方角から、なにやら泥を跳ね上げて走る音が聞こえてきた。
「なんと、またもや誰かが駆けてきたぞ」
 古狸は、ころりと石地蔵に化けた。
 簑笠を着けた一組の男女が、森から走り出た。
 よほど急いでいるらしく、蕗の葉を傘にした珍妙な石地蔵には目もくれず、俺たちの前を通りすぎてゆく。
 二十歳(はたち)ほどの若い男が、少し年嵩の女に言った。
「これはありがたい! 姉さん、雨が上がったよ。これなら楽に峠を越えられる」
 女も顔を輝かせてうなずき、男に寄り添って駆け続ける。
 抜けるような夏空の下、青々とした草原の道を峠に向かって一散に駆けてゆく二人を見送りながら、俺はもう、さほど驚いていなかった。湖が道に変わるなら、梅雨空が青空に変わっても不思議はない。そして青空の下を走るなら、葦原よりも夏草の草原がふさわしい。
「狸よ、あの二人は誰だ?」
 元の姿に戻った古狸も、さほど驚いておらぬ(てい)で、
「お(よし)と与作――お芳は(きこり)の吾作の女房で、与作は吾作の弟だ」
「不倫の道行きかよ。俺は不義者は好かぬぞ」
「一概に言うでない。吾作のお袋は、嫁いびりしか能のない鬼のような姑よ。吾作もお袋べったりで、いっしょになって嫁のお芳をいじめておる。弟の与作は、そんな不憫な義姉(あね)のお芳を、いつも憐れんでおったのだ」
「与作は独り身か?」
「おう。兄と違って優しい男だが、なぜか嫁取りも婿入りも望んでおらぬ。それもお芳がいたからであろう。『かわいそうだたあ、ほれたってことよ』――流行りの文士に言わせれば、そんなところさ」
「なるほど。ならば、手に手を取って逃げるのも道理」
 俺は得心して言った。
「そして、この山の道筋が化ける道理もわかった」
「ほう?」
「人は理不尽から逃げるのが道理、ならば理不尽から逃がしてやるのも道理。つまり健児と繭子の道理ではないか」
「――それだ!」
 古狸は、ぽん、と手を打ち、
「おぬし、いつか言っておったな。『俺やおぬしが生きておるのがこの世なら、俺やおぬしが死んだとたんに、同じこの世があの世になるだけ』と」
「おう、言ったぞ」
「ならば、もう健児と繭子には、村から続くこの山の小道――あの日、ままならぬ村のしがらみを捨てて二人たどったこの道だけが、おぬしの言う『あの世』――今となっては『この世』なのであろうよ」
 うむ、と俺はうなずいた。
 古狸は、背後の森の雨空を見返り、
「しかし空まで変えられるなら、あちらも晴にすればよかろうに」
「まあ、そこも道理があるのだろうさ」
 そのとき森の奥から、しわがれた老婆の怒鳴り声が響いてきた。
「逃がすでないぞ、吾作よ! あれほどいじめ甲斐のある嫁は、またとないぞ!」
「おうよ、お袋! くそ、与作の奴、弟の分際で兄の俺を出し抜きおって、絶対逃がさぬぞ!」
 そんな根性悪げな罵声が聞こえるあたりで、いきなり森の空に暗雲が渦を巻く。
 村の溜め池をぶちまけたほどの大雨が、そこだけまとめて轟々と降り注ぐ。
「ひええええ! 助けておくれ、吾作よ! 溺れる、溺れる! ごぼごぼごぼ――」
「いかん! お袋が山津波に流されてゆく! こ、これはたまらぬ。俺も流される。ごぼごぼごぼごぼ――――」

 やがて誰の声も聞こえなくなった頃、森はいつもの梅雨空に戻っていた。
「……なるほど、いろいろ道理があるのだな」
「……あるのだよ」
 夏空の峠を見返ると、お芳と与作は、もう草原の彼方に去っていた。
 あの二人が峠を越えたとき、この原はまた長雨の湖に戻るのかもしれない。
 峠の先は、ぬかるんだ暗い山道が続くのかもしれない。
 しかし今の陽射しなら、それまでに笠が乾く。簑も乾く。
 ならばきっと無事に山を下り、麓から汽車に乗って、二人、どこにでも行けよう。
 蒼天に湧き上がる入道雲を眺めながら、古狸は言った。
「いつかは俺も、大地や空に化けてみたいものだ」
「化けるのはかまわぬが、天気は俺に任せてくれよ」
 俺は夏の陽射しに目を細め、
「これでは龍の仕事がなくなってしまう」

        ◎

 それから幾星霜、人の世が大正から昭和とやらに代替わりするうちにも、山の小道は何度か姿を変えた。
 しかし、そのうち海の彼方からどでかい機械仕掛けの鳥たちが飛来し、山の彼方の街々を片端から焼き払いはじめると、村から逃げる人々の姿も、ほとんど見かけなくなった。
 やがて街々の焼け跡に、見違えるような高い建物が際限なく広がるにつれて、機械仕掛けの鉄の(くるま)が、石灰で固めた街道を風のごとく駆け回るようになり、妙に先の尖った汽車などは、もはや停車場で停まりたくとも停まれないほどの勢いで、新しい隧道を駆け抜けてゆく。だから村人たちも、いよいよ自分の足で逃げる苦労がなくなった。
 そして今、あの鄙びた村は、鄙びているところがかえって珍重され、村から人が逃げるどころか、わざわざ街から逃げてきて村に住み着く者が増えている。
 それでも山の小道に伝わる古い噂が、まるきり消えたわけではない。
 その証拠に、村の役場や街の広告屋が、昭和の末までは『縁結びの道』、平成以降は『ラブラブ・トレッキング・ロード』と銘打って、ふやけた笑顔の都会者を盛んに呼びこんでいる。「好きな人といっしょに、村から峠まで歩き通せば、きっと結ばれて幸せになれます』――そんな看板も、山道のあちこちで見かける。

 ちなみにあの古狸は、あれからしばらくの間、大地や空に化けようと頻りにでんぐりがえっていたが、どう修行しても汽車より大物には化けられず、令和の今では、週末になると都会風の若い衆に化けて街の洋風音楽隊に紛れこみ、洋風連太鼓を叩いている。「ドラムのグルーヴがハンパない」と、街の演舞場あたりで評判らしいが、俺にはなんのことやら、ちっともわからない。昔から腹鼓に長けていた狸のこと、やはり楽隊向きなのであろう。
 俺はあいかわらず、ただの龍である。日々好きなだけ湖を泳ぎ、山の空に遊んでいる。当節は頑是ない子供さえ俺の姿にまったく気づかないから、なんの遠慮もいらない。ただ近頃、俺の縄張りを荒らす南洋渡りの無法者が増えて、際限なく雨雲を呼ぼうとするので、それを蹴散らすのになかなか忙しい。

 そして氷像となった健児と繭子は、今も俺の宝珠といっしょに、湖の氷室(ひむろ)できらきら光っている。
 氷室の入り口は、俺と古狸が交代で守っている。
 神社の狛犬のように、並んで守ることもある。
 だから湖で舟遊びをするのはいいが、海人(あま)のように深く潜ってはいけない。


               〈了〉

 

山の小道

山の小道

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-11-10

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