重なり合うプシュケーの塔

南天

重なり合うプシュケーの塔

スマホで読みやすいように、改行多めにしています。
長いので少しずつ更新していきます。

※1日1回は更新する予定です。
 全58章です。

※表紙変えました。
 ノーコピーライトガール(NCG)さんからお借りしました。

【第一部】プロローグ 流れ出す生命

 
 五メートル先から放たれた二十二口径の金属の塊。

 その塊は少女の頭部を通り抜ける際に、何億、何兆という組織を破壊した。

 それにより彼女は笑うことも、泣くことも、僕に語り掛けることも、たった今不可能となった。

 撃ち抜かれたその小さな頭から、明確な意味を持ち|生命(いのち)は流れ出て行く。

 あの日から一年間。背だって伸びたし、たくさん笑うようになっていた。そうだ……この子は今朝。初潮を迎えたばかりだった。

 手を伸ばしても届かない……どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 
 

 引き金を引いた男は、何やら一言呟いて何処かへ行ってしまった。僕ももうこれ以上は、何も考えられなくなって来ていた。

 少女と共に暮らした家は、すぐ隣で巨大な炎に包まれていた。その炎が僕の元まで延び、いっそのこと焼き殺してくれればよかった。

【第一部】一章 北の灯台

【第一部】一章 北の灯台

 
 僕は、国の最北端にある岬の灯台で管理人をしている。

 船舶の誘導だけでなく、一応監視としての業務もあるが、もう十年以上、所属不明の船がこの灯台から観測されることもないので、言ってしまえば、かなり楽な仕事だった。また、灯台の足元には小さな家が付いており、そこが僕の住居となっている。

 監視をする時間は決められていて、それ以外の時間は好きにしていいことになっているが、近くには誰も住んでいないため、人と話す機会は街に買い出しに下りた時くらいのものだ。

 僕には友人と呼べる相手はいないが、特に不便を感じたこともない。野菜を育てたり、岬から森へ自転車で下ったり、灯台から見える景色をスケッチしたりして暮らしている。毎回同じ絵になってしまうが、不思議と何度描いても飽きないものなのだ。

 森には動物もいるが狩をしたことはない。肉が食べたい時は街で買って来ている。僕はそんな、風のない日の海のような、どこまでも穏やかな生活を送っていた。

【第一部】二章 出会い

 その夜は、大雪が降っていた。

 国の最北端といってもこの国自体雪国ではないので、雪が降ることは珍しい。そんな急な大雪おかげで灯台から見える景色もいつもとは大きく異なり、僕は何だか少しだけわくわくしていた。
 久しぶりに付けたストーブで暖まりながら海の様子を確認していた時、大粒の雪が降りしきる向こう。小舟が一瞬、見えた気がした。

「えっ」と思わず声が出た。まさか……

 もう十年以上こんなことはなかったのに。僕は照明の角度をそちらの方に向け目を凝らしたが、やはり間違いではなかった。
 この極寒の中、小舟はこちらに向かって来ていた。僕は傍に置いてあったライフル銃とランタンを手にとり、厚手のムートンコートを着ると外に出た。

 浜の近くまで下って行き、確認すると、小舟は既に着岸していた。僕は足音を殺しながら相手に悟られない距離まで近づき、岩陰に隠れて様子を伺った。しかし見る限り着岸したというより、漂着したという表現の方が近いのかもしれない。止まっている場所も、角度も、あまり適切とはいえないからだ。

 無人の小舟がどこかから流れて来ただけなんだろうか? そうであれば僕としては面倒がなくてありがたい。

 僕は、しばらくその場から小舟の様子を見ていたが、誰も降りてくる気配がないので、ゆっくりと近付き、ランタンの光を向けた。

 するとそこに見えたのは、小舟の上で気絶している子供の姿で、駆け寄ってみるとそれは、およそ十歳の少女であった。

 一体どこから……

 どのくらいの時間、こんな状態で……

 事情は分からないが、このままでは死んでしまう。僕は少女をおぶると灯台下の家まで走った。

 部屋に入ると、彼女の濡れたコートを脱がせ、タオルで髪の毛や手などを拭き、暖炉の近くに寝かせ毛布で包んだ。
 手は氷のように冷たく、血の気が引き顔は白くなっているが、脈はまだ打っている。どうか間に合ってくれと、あとは願うしかなかった。

【第一部】三章 涙

 
 少女が目を覚ましたのは翌日の朝だった。


 僕は眠らずに彼女の様子を見ていた。朝になり陽が昇るころには、彼女の顔は赤みを取り戻し、僕もウトウトし始めていた。

 彼女は目を覚ますと、ここが何処なのか把握しようと目だけをキョロキョロと動かした。そして、ソファに座っている僕の存在に気がつく。

「体の具合はどうだい?」と僕は尋ねる。

「頭が……ボンヤリします」と少女は答えた。

「ちゃんと手は動く?」と尋ねると彼女は、腕を少し浮かせ、手を握ったり開いたりしてみせた。

「大丈夫そうだね。じゃあひとまず水を飲んで、少し何か食べよう」と僕は言う。

 しかし彼女は、今は何も食べたくないと言うので、じゃあせめて水は飲まないとダメだと僕は言った。今彼女の体はおそらく、水分をかなり失っているはずだった。僕は、この家にある一番大きなグラスに水を注いで彼女に手渡した。

 彼女は黙って受け取ると、一口だけ飲み込んだ。すると、身体が反応するように大きなグラスに入った水をゴクゴクとあっという間に飲み干してしまった。

 僕は、まだ要るかと尋ねたが返事がなかった。最初、無視されたのかと思ったが、そうではなく、返事をすることが出来なかったようだ。彼女は、深々と泣いていた。まるで今飲んだ水がそのまま目から溢れるように、とめどなく涙は流れ続けた。

 無理もないだろう。よほどな事情があったことくらい、僕にだって察しがつく。あんなにも寒い夜に、一寸先も見えない暗い海を、子供一人で漂うなんて、並大抵の事態ではない。

「水はまだいっぱいあるから好きなだけ泣いたらいいよ」と伝え、顔を拭くためのタオルを手渡した。

 僕は彼女が落ち着くまで一度、表に出ていようと思い立ち上がったが、彼女が僕のシャツの裾を掴んでいることに気がつき、隣に座り直した。

 ——それからしばらく、僕は待った。

 そして、少し落ち着いてきた様子の彼女を見て、迷ったが……思い切って訳を聞くことにした。

「ねえ、もし嫌じゃなければ何があったのか話してくれないか? 一人で抱え込むよりは良いんじゃないか?」

 そう言うと、彼女は一瞬考えるような様子を見せたが、海を漂うこととなったその経緯を話し始めた。


==========

 彼女の話では。ここから北に二十キロメートルほどの地点に、彼女の故郷の小さな島国があるとのことだった。漁業が盛んな国で、湊町はいつも賑わい皆平和に暮らしていたという。

 しかし突然、ある一人の男の体に異変が起きた。

 体から水分が無くなったみたいに、男の体はカラカラになり、目は霞み、数日後には歩くのもやっとになった。

 そして、十日後にその男は死んだ。

 気がつけば、彼と暮らしていた家族や仕事仲間にも同じ症状が現れ始めていた。

 みるみる内にその病気は国中に広がっていき、気がつけば疫病と呼ばれるようになった。既に国民の三割以上が感染し、その一割以上の人間が亡くなっていた。

 感染の広がるスピードは凄まじく、あまり医療の発達していない少女の国では特効薬もない。症状の出た者はただ死を待つばかりだった。

 そして、少女の両親もまたその疫病に感染し、助かる見込みがなかったという。

 島から出ることは条約により禁止されていたが、少女の母親は、まだ感染していないこの子を国から逃がそうと、彼女を小舟に乗せ、海に出させた。

 しかし、運悪く数時間後には大雪が降り出し、気を失っている内にここに流れ着き、僕に発見された。

 という事だそうだ……

==========

「……なるほど、そういうことだったのか」

 僕もここより二十キロメートル程北に、小さな島国があることは知っていたが、あまり詳しくは分からなかった。それ程の事態なら、僕の耳に入っててもおかしくはないと思うのだが。

「すぐに出て行きますから」と、ふいに少女は言った。

 その言葉に、僕は少々面食らう。

「どうして? 感染を気にしてるならもう手遅れだよ。昨晩君を散々看病したし、君の体を暖めるために、換気だって最低限しかしてなかったんだ。それに、君は感染していないから、お母さんが逃してくれたんだろ?」

「だけど、今発症していないだけかもしれません」

「そうか。まあ僕はほとんど人に会わない生活をしているから、誰かに移す危険もないし、もし君が感染してたとしても、死ぬのは僕だけだ」

 そう伝えると彼女は、驚いている様でもあり、戸惑っている様でもあった。

「とにかく、それなら尚更今はここにいて欲しい。君が安全と分かるまでは、僕も国の見張り人として君を、街に行かせるわけにはいかないんだ」

 それを聞いた彼女は何も言わなかったが、僕の顔から目をそらした。僕は続けて言う。

「だからひとまず、十日くらいはここにいてくれないか? 君のことは国には黙っておくよ。その後は好きにしていいから。出て行きたかったらそれでいいし、ここに居たければ、しばらく居てもいいから」

「……分かりました」と少女は俯いたまま答えた。

 僕は、彼女の隣から立ち上がる。

「外を散歩しに行こうと思うんだけど、君も行く?」

「今はいいです」と、彼女は言った。

 僕は家から出ると岬の先端の方まで歩いて行き、朝の潮風に当たりながら考えた。

 急に大雪が降ったり、かと思えば十年ぶりに舟が観測され、そこにはなんと少女が乗っていたりと……今までの静かな日々は、この日のための序章だったのだろうか。

 足元には、昨晩降った場違いな雪が積もっていたが、朝の日差しと、この島本来の気候により、既に多くは溶け始めていた。

【第一部】四章 朝食(トマトとチーズのサンドイッチ)

 
 ———五分ほど潮風にあたり、僕は家に戻ることにした。


 部屋に入ると、少女は変わらぬ様子でベッドに腰掛けていた。さっき渡したタオルはテーブルに畳んで置かれている。

 僕は、クロワッサンとサンドイッチの入ったバスケットをテーブルに置き、彼女の飲み干したグラスに再び水を注いだ。

「無理して食べなくていいけど、出来れば少しでも食べた方がいいよ。トマトとチーズは食べれる?」

 彼女は「大丈夫です」と答えた。

 僕は、クロワッサンとサンドイッチを一つずつ、自分の皿に取り食べ始めた。彼女も戸惑ってはいたみたいだが、サンドイッチを一つ、自分の皿に取った。

 強い子だ。と僕は思った。それはきっとこの子にとって生涯の糧となるだろう。

 それからしばらく僕は喋ることなく、黙々と食べていたが彼女はやはりあまり食べられなかったようで、一口だけかじり、後は皿の上に残し、それを何も言わずに見つめていた。

「いいよ、それはとっておくから、夜にまた食べよう」と、僕は言った。

 彼女はまだ、サンドイッチを見つめたままであったが、その目には再び涙が溜まっていた。

「ごめんなさい、あまり気にしないで下さい」

 と、彼女はそう言ったが、この状況で気にしないのは正直難しい。

 その言葉の半分は、気にしないで欲しいというものであり、もう半分は、気にして欲しいというものでもあるように思えた。僕は何も言わずにもう一度、タオルを差し出した。

 この年齢で両親を失ってしまうということが、どんな気持ちなのか僕には分からないけれど、この経験にどういう意味を持たせるのかは、この子がこれから自分で決めることが出来る。

 ただ、今辛いのは仕方ない。そればかりはもう少し、時間が過ぎるのを待つしかない。美味しいサンドイッチも、美しい海も、僕という存在も、悲しみに暮れる今の少女にとってはあまりにも力不足だった。

「大変だったね。辛いだろうけど、必ず少しずつ楽になっていくよ。僕も母親が亡くなった時は辛かった。いや、君の両親はまだ亡くなったわけじゃないから、余計辛いかもしれないね。とにかく、今辛くても少しずつ良くなっていくよ」

「……ありがとう。もう少し寝てても良いですか?」

「うん。好きなだけ寝たら良いよ」

 それから彼女は、ベッドに窓の方を向いて転がった。

 僕は、彼女の残したサンドイッチを冷蔵庫にしまい、お皿とグラスを洗うことにした。洗いながら背中では、彼女の啜り泣く音がずっと聴こえていた。

 あの子の国と、何かしらの連絡を取る手段でもあればいいのだが、連絡船なんて出ていないから手紙は出せない。もちろん舟で乗り込むわけにもいかない。

 彼女の母親があの子を逃がしたというのなら、その気持ちを汲んでとにかく今は、ここで僕が面倒を見るしかないのだろうか。

【第一部】五章 あなたの命はあと十日です

 
 次の日。僕は少女に、街に買い出しに行ってくると言って家を出ようとした。

 すると彼女は「私のことを報告しないと、あなたは捕まっちゃうんじゃないの?」と言った。

だから僕は「んん、どうだろう。大丈夫だと思うよ」と小さく笑って答えた。

 彼女がそれを見てどう思ったかは分からないが、僕は返答を待たず家を出た。

 
 だけど本当は、僕は平気ではなかった。街に行くつもりなどなかったし、今足りないものなど得に何もない。僕はひとまず、考えを整理する時間が欲しかったのだ。彼女の前では強がったものの、自分が死ぬかもしれないという事実に、少なからず恐怖を感じていた。

 僕は森に向かうことにした。森を抜けた先にはストーンサークルがあり、僕は考え事をしたい時には時々、そこを訪れることにしているので、ひとまずそこを目指すこととした。

 森の中を歩きながら「死」と「違反」という2つの言葉が頭から離れず、そのイメージは最初感じたときよりも、明らかに大きくなり始めていた。

 彼女は僕に、報告しないと捕まっちゃうんではないかと言った。その通りだ。

 あの灯台で観測したこと、あの岬で起きた出来事など、全てを報告する義務が僕にはある。嘘をついたり、事実を隠したりすれば僕は捕まる。職を解雇されるだけではない。捕まって城の牢に入れられてしまう。

 ただ城の役人も、ここ十年何もない状況に、深い詮索をわざわざいれてくることもないだろうし、定期的に監視記録を取りに来る使いの者に少女を見られなければ、存在がバレることもないだろう。もし見られても、親戚の子を預かっていると言えばそれで済むだろう。

 やはり恐ろしいのは、彼女が本当に感染していないかどうかという事だ。そして、今もう既に僕に感染していないかということだ。今ならまだ、城に報告し彼女を引き取ってもらえば、彼女が感染していたとしても僕は助かるかもしれない。

 しかし彼女は不法入国で、しかも疫病を持ち込んだ可能性があると知られれば、おそらく国に強制的に送り返されることになるだろう。それはあまりにも不憫だ。

 だけど、僕にどうしろと言うのだ。僕はファンタジーの勇者ではないし、賢者でもない……ただの灯台の管理人だ。モンスターとも、病魔とも、戦うことは出来ない。

 さっきまで少女の前で強がっていた自分が、別人のように思えた。



 ———気がつくと既に森を抜け、ストーンサークルのある広場に出ていた。あまりに集中していたので、自分がどの辺りを歩いているのか、全く把握していなかった。

 ひとまず石の上に腰を下ろした。ここにも雪は降ったようだが、既に石の上の雪は溶けてしまったようだ。芝生にはまだ少し残っている。

 僕は、今日までの何もない自分の生活が、とても特別なものだったのだと思い知った。

 友人はいないし、もちろん結婚だってしていない。だけど僕は、日々の生活に満足していた。幸せだった。そう。ちゃんと幸せだった。

 もし、心を病んでいる人に対して、何か特効薬のようなモノがあるのだとしたら、それは「あなたの命はあと十日日です」と伝えることだろう。

 そして僕は、少しの間途方に暮れる。

 十分後。諦めて少女の待つ家へと引き返すことにした。

【第一部】六章 目を潰した話

 ストーンサークルを後にした僕は、森を抜け海岸へ向かうことにした。あの子に街に行くと言ってしまったため、今帰るとあまりに早くなってしまうからだ。


 ———海岸に着くと、一人の老婆が海の方に向かい椅子に座り、膝に抱えた何かを撫でていた。

 あまりこの辺りで誰かを見かけることがないので不思議に思い、僕はしばらく背後から眺めていた。

 すると、老婆はなんと、振り返らないまま「あそこの灯台の人かい?」と、僕に声をかけた。

 僕は驚き、一瞬体が震えた。

 そんなに近くに立っていたわけじゃない。足音が聞こえる距離とは思えない。なのに、老婆は僕の存在に気付いていた。

「そうです。すみません。何も言わず背後に立ってしまって」

「聞こえずらいからもう少し近くに来てくれないかい?」

「はい。しかし僕は今体調を崩していまして、あなたの近くに行くと、迷惑をかけてしまうかもしれない」

 しかし老婆は「お前は何の病にもかかっていないから大丈夫だ」と言った。

 なぜ老婆がそう断言したのか分からないが、僕は袖で、口と鼻を覆いながら老婆に近付いた。

 そして老婆の前に回り込み、声をかけようとしたが、老婆が膝に抱えているモノを見て一瞬、息が止まった。


 それは、人間のしゃれこうべだった。



「驚かして悪かったね。これはあまり気にしないでおくれ」

 老婆が言うには、そのしゃれこうべは若い内になくなった、ある青年だという。

 生前。その青年には友人がおらず、いつも孤独だったそうだ。しかしこの老婆だけには心を開いており、何気ない身の上話をよく交わし合ったと、そう話してくれた。

 また、その老婆は目をつむっていたので僕は「失礼ですが、目が見えないのですか?」と訪ねると、この青年が死んだ日に自分で目を潰したと言った。

 薬を使って失明させ、その後取り出したと。だけどそれから、本当の事と、偽りの事の見分けがつくようになったという。

「だから安心しなさい。お前は病気ではないし、お前の判断は間違ってはいない。それからね……」

 そして老婆は、その瞳のないまぶたを閉じたまま、ゆっくりと顔を上げ、こちらを向いた。



「いずれ、あの子はお前の命を救うことになるよ」



「えっ……⁉︎」

 僕は、驚いて尋ねずにはいられなかった。

「あなたはあの少女について何か、知っているのですか?」  


「もちろん知っているよ。ただね。『知っている』とはとても難しい言葉だね。多くの場合それは『ただ表面をなぞる』や『都合よく解釈する』といった意味として使われてしまう。

 それは他人を見るときだけでなく、自分自身を見るときにも当てはまるだろう。しかしあの少女の場合は少し違う。彼女が『どういう目的で生まれ』『どういう信念を持っているのか』私は確かに知っている。

だけど例えば、どんな食べ物が好きだとか、どんな家庭で育ったのかは知らない。私が少女について知っていることは、そういう類の事だけさ」


 僕にはその具体的な意味は分からなかったが、老婆の話す言葉には妙な説得力があり、「お前の判断は間違っていない」という言葉は、確かに僕の心を軽くした。

 この感覚こそ、老婆の言う「都合よく解釈する」ということかもしれないが、今の僕にとっては、それで十分だった。

「ありがとうございます」と礼を言って、僕は森に引き返そうとした。すると老婆は最後にこんなことを言った。

「帰りの道で、中心が白く花弁が水色の花が咲いているはずだから、それを摘んで帰るといい」

 僕は「分かりました」と言い、再び森の中へと足を踏み入れた。

【第二部】七章 母からもらった本

 老婆としばらく話をしたおかげで、もう家に戻っても不自然ではない時間となっていた。

 まだ陽が沈むほどの時間ではないが、傾きかけている時間だった。

 帰り道、確かに老婆の言った「中心が白く花弁が水色の花」があったので、一輪摘んだ。僕は、この森にこんな花が咲いていたこと、今まで気が付かなかった。


 ———灯台までたどり着く頃には、もう夕暮れ時になり、海はオレンジ色に染まっていた。

 家の扉の前に立つと、今朝この中で交わした少女との会話が、自分の妄想だったのではないかという気がした。

 ふと。少女がこの中にもう既にいないような気さえしたのだ。

 扉を開けると、少女はやはり居なかった。だけど不思議と、逃げ出したとも思えなかった。

 どこに行ったんだろうと思い、灯台を上ったが見張り台にはいない。そこから海岸を見下ろすと、昨晩彼女が乗ってきた小舟のところにいた。

 
 僕は見張り台から降りて、彼女を迎えに行った。


 浜辺に続く道を降りている途中で、彼女は僕に気付く。

 手には一冊の本を持っていた。

 僕から聞いたわけではないが彼女は「お母さんからもらった本で、舟に置いたままだったので取りに来ただけなんです」と説明した。

 僕は「そう。陽が沈むと寒くなるから、家に戻ろう」と言った。


 ———家に戻り、少しだけこれからのことを彼女と話すことにした。

 まず、城の使いが来た時には、隠れてもらうこと。好きに出歩いてもいいが、一先ず人には近付かないことなど、全て了承してくれた。

 そして、もし助けが必要なら遠慮なく言ってほしい。例えば何か欲しいものがあれば僕が街で買って来るし、この家にある物は好きに使ってくれていい。自分の家と思って構わない。

 だけどその分家のことを手伝って欲しい。もちろん君に出来ることでいいから。

 それからしばらくして、君が感染していないことが分かれば、後は君の好きにしていい。もちろんここに居なくてもいいし、居てもいい。

 僕は君の保護をしたわけじゃなく、あくまでも経緯によって、一緒に住んでいるだけだから。僕のことは対等に見てほしいと、そう伝えた。

 彼女は「わかりました。それで大丈夫です」と言った。そして「ごめんなさい」と謝った。

 僕は「謝ることは何もないよ」と言ったが、彼女は何やら気まずそうだったので、「良かったら明日この周りを案内するけど」と提案した。

 しかし彼女は、「きっとすぐ出て行きますから、大丈夫です」と言った。

 そして窓辺に生けてある花に気付き、「この花はどうしたんですか?」と僕に訪ねた。

「さっき森で摘んで来たんだけど、この花知ってるの?」と僕は答える。

「故郷にはよく咲いている花なんです」

 どうやら、彼女の母親が部屋の窓辺にいつも飾っていた花らしい。その島にしか咲かない花だと母親から聞いていたそうで、どうしてここにあるんだろう。と少女は驚いていた。

 確かに僕も、あの森はよく通るが、こんな花はやはり見たことはなかった。

 あの老婆は、本当に何者だったのだろうか……

【第一部】八章 生きていてはいけない人間

 
 ———少女との共同生活が始まって二週間が経った。



 彼女は本当によく働いた。しかもかなり要領が良かった。

 庭の野菜への水やり、洗濯、掃除、僕は簡単に説明をしただけだったが、僕が見張りの為に灯台に登り、夕方降りた時には全て器用に済ませていた。

 食事の支度は最初は僕がやっていたが。二週間が経過し、彼女が安全だと分かってからは、お願いするようにもなった。

 彼女はまだ、空中を見つめボンヤリする瞬間があった。

 よく働くのは、考える時間を作りたくないからだろう。

 自分が彼女の立場であれば、同じようなことが出来るだろうか。本当に強い子だと思う。

 だから僕はなるべく彼女に話しかけるようにした。

 しかしもちろん故郷のことや、両親のことを聞くわけにはいかないので、この国の美味しい食べ物の話や、僕が絵の資材を買うために通っている画材屋の話、そして、三年前までここで共に暮らしていた恋人の話もした。


 僕の話を聞く時の彼女は、やはりボンヤリしていて、左から右にただ通り抜けているようにも見えた。

 だけどどうやら、恋人の話をしている時だけは興味を持ってくれているようだったので、僕はなるべくその話をするようにした。


 ———そんなある日。森から出てきた彼女は、首から血を流す一匹のハクビシンを右手に掴んでいた。

「どうしたの? それ」

「晩ご飯になるかと思って」

「そっか。ありがとう。今日は野菜しかなかったから助かったよ。だけど、狩りが出来るなんてすごいね。どこでそんなこと覚えたの?」

「父に教わりました」

「へぇ。変わったことを教えるもんだね」と言うと、彼女は暗い顔になった。

「父が動物を狩る理由は、食べるためではなく甚振るためでした」

「甚振るため?」

「はい。父はよく私を狩りに連れていきました。最初のうちはまだ普通だったと思います。だけど段々とおかしくなっていきました。

 捕えた動物を、色々なやり方で殺すようになったんです。

 お母さんが言うには『お父さんは仕事で疲れてしまい正気ではなくなった』と言ってたけど、父をいつも近くで見ていた私には、それは違うように思えました。

 父はいつも正気でした。正気のまま、楽しんでそういうことをしていました。

 私は、父が死んでしまったことは良い事だと思っています。生きていてはいけない人間というものが、この世界にはいると思うんです。

 父は、いや。あの人はそういう人だったと思います」

【第一部】九章 絵の描き方

 

 ———少女との共同生活が始まって一か月が経った。


 僕は、久しぶりに絵を描いていた。

 あの子がここに来てからというもの、何だかバタバタしていて、絵を描くことをすっかり忘れてしまっていた。

 今日は、家の窓から見えるすぐそこの丘に行き、そこから見た灯台とその周りの景色を写生していている。

 描いている間に集中力が途切れることもある。

 大体いつも一時間くらいは集中出来るのだが、今日は十分も持たずに、絵とは違うことを考え始めていることに気がついた。

 それはやはり、少女のことだった。

 僕は、あの子のように大変な苦難を経験したことはない。

 ごく普通の家庭で、ごく普通に育てられた。

 十八歳までは故郷の街にある神学校に通った。

 僕はあまり神とか信仰に対して興味を持つことは出来なかったけど、親切な友人もいたおかげで、学校生活自体は楽しめていたように思う。

 両親は、卒業後は神父になってほしいと考えているようだったけど、僕にはずっと、誰にも話していない小さな夢……というほどでもないけど、ボンヤリとした願望のようなものがあった。

 それは「海の近くに住んで、暮らしてみたい」というものだ。

 そんな時に、灯台の管理人の仕事に空きがあることを街で聞き、僕は思い切って父親に相談した。

 人里から離れた場所であるため心配はされたが、父親は「お前は自分にとっての幸福が何なのかよく分かっている。それは何よりも重要なことだ」と言って、賛成してくれた。

 人が焚火の炎を見ていると心が安らぐように、僕は海を見ているだけで、自分の心が満たされることを知っていた。

 そして灯台の灯は、僕にとっては焚火の炎だった。

 僕は、理解ある両親のもとで育てられたことが、何よりも今の生活の基盤となっていることを知った。

 特に父親はいつも、僕のことを一人の自立した人間として扱ってくれた。

 神学校ではそんなことは教わらないはずなので、父の元々持つ気質かもしれないが、父はそういった理念を持っていた。

 そして僕は、そのおかげで自分の道を自由に選べたのだと思う。



 ———そんなことを考えているうちに、少女が家から出てきて、こちらに向かって歩いてきた。

 こちらまで来ると、僕の隣に座り、スケッチブックを覗き込んだ。

 隣で誰かに見られながら絵を描くというのは何年ぶりのことだろうか……

「見てて楽しい?」と尋ねると、彼女はコクンと頷いた。「自分で描いたことはないの?」

「少しだけ」

「良かったら描いてみるかい?」

 そう尋ねると、満更でもない様子を見せたので、僕は色えんぴつのセットと、新品のスケッチブックを渡した。

「そのスケッチブックはあげるよ。色えんぴつは僕の机のひきだしにいつもあるから、好きな時に好きに使っていいから」

 と言うと少女は「ありがとう」と言い、少しだけ笑った。

 それは、この子がここに来てからの間、僕が切に願っていることだった。


 そうか。この子は笑うとこんな顔になるのか。


 僕はこのスケッチブックと色えんぴつが、今までで一番役に立ったような気がした。

 
 人は一度、大きな闇に食べられたとしても、ちゃんと這い出ることが出来る。

 
 這い出ることの出来ない多くの人はきっと、その闇の渦中にいる「可哀想な私」を見て欲しい。そんな「不幸な私」のことを特別扱いをして欲しいと、きっとそう願っているのだろう。

 病みを手放すというのは、とても勇気のいることだからだ。

 僕は以前この子の言った。「生きていてはいけない人間もいる」という言葉に心の闇を感じていたが、その感覚は間違っていたのかもしれない。

 実はそれは、この子の強さであり、真っ直ぐに生き抜こうとする生命力の一部なのかもしれない。

 今そんな風に、僕の中での解釈が変わった瞬間だった。

 今目の前にいる少女は、スケッチブックをその小さな左手で支え、もう一方の手にえんぴつを持ち、灯台の輪郭を一生懸命に描いていた。

 この子がどんな絵を描くのか、僕は知りたかった。

 風が吹いて、足元の草を揺らす。

 春が、もうすぐそこに訪れていた。

【第一部】十章 本棚の上の本

 

 ———少女との共同生活が始まって三か月が経った。


 少女は、初めの頃に比べれば本当に元気になった。

 ご飯もちゃんと食べてくれるし、今では当たり前のように自分から色々と話すようにもなってくれた。

 今日は午前中から、街に一人で買い物に行っている。僕は留守番だ。

 僕は少女が出て行ってすぐ部屋の掃除を始めた。

 あの子が来てから、そういえばまだ本格的な掃除をしていないことに気がついたのだ。

 やはり、二人で暮らすようになって、部屋が汚れるスピードも少し早くなっていた。

 まず出しっ放しになっている本は全て本棚に戻した。といってもあの子は自分で読んだ本はちゃんと自分でしまうから、片付けていない本は全て僕が読んだものだった。

 あの子は自分の家でも、こんなにきちんとしていたのだろうか。

 それから扉と窓を開け放して、床をホウキではき、ソファやベッドなどを叩いてホコリを外に出した。

 
 夢中になって掃除をしていると、僕は本棚にぶつかってしまい、その衝撃で僕の頭の上に本が落ちた。

 拾い上げるとそれは、いつか少女が舟に取りに戻った、あの母親からもらったという本だった。

 本棚に戻そうと思い見上げる。すると、不思議なことに気がついた。

 ぶつかった衝撃で本が落ちるのは分かる。だけど一番上の段でも、僕の顔と同じ高さの本棚である。

 じゃあなぜ僕の頭の上に当たったのか……?

 考えられる場所は《《本棚の上しかない》》。

 本棚の上は僕の身長よりも少し高い位置なので、そこに置いていたのであれば、頭の上に当たった事の説明も付く。

 だけどどうして、あの子はわざわざ本棚の上に本を置いたのだろう?

 あの子の身長で考えると、椅子に上って背伸びをしてやっと届くくらいではないだろうか。

 まあ。考えても仕方がないので、ひとまず掃除を終わらせることとした。



  ——–それから一時間ほどで掃除は終わってしまった。

 大きな家でもないから当たり前なのだが、面倒だと思っていても取り掛かってみるといつも予想していたよりも早く終わってしまう。

 あの子が帰ってくるまで、まだ時間があるだろうから、せっかくなので僕は先ほどの、あの子の本を読みながら待つことにした。



 —–—数時間後。

 僕は夕食の準備をしながら少女の帰りを待っていた。
 彼女はただいまと言いながら部屋へ入って来る。

 僕は振り返らずに、おかえりと背中で返事をした。

 彼女は少しその様子を気にしているようではあったが、街で自分のキャンバス立てを買ってきたことを楽しそうに話した。

 そして僕に、絵の描き方を教えて欲しいと言った。

 僕はまた背中を向けたまま、いいよと答えた。

 彼女はやはり、僕の様子がおかしいことに気付き、それから喋るのを控えた。

 僕は黙ったまま食卓に白身魚の塩焼き、ポトフ、バタールのスライスを並べた。

 僕たちは向かい合って座ったが、僕は自分一人で食べるかのように、小さくいただきますと言った。

 彼女も同じくらいの声で寂しく、いただきますと言った。

 カチャカチャという食器の立てる音。

 風が窓を揺らす音。

 波が砕ける音。

 最近はいつも、僕たちは何か話をしながらご飯を食べていたから、こういった音がいつも側で鳴っていることを忘れていたような気がする。

 少女の顔を一瞥する。そこには初めて彼女を見た時のような暗い顔があった。

 僕は、自分がとても悪いことをしている気分になってしまい「ごめん、少し頭が痛くて。明日また外に絵を描きに行こう。そのキャンバス立てを使って描いてみよう」と言った。

 彼女は「ううん。今日は私が洗い物をするからゆっくり休んで」と言った。

 一瞬、目の前の少女が、かつてここで共に暮らしていた、恋人の顔と重なって見えた気がした。

 僕も、ありがとうと答えた。

【第一部】十一章 城の使い

 ——–少女との共同生活が始まって半年が経った。


 今日は、城から使いの者が監視記録を取りに来る日だ。

 僕は少女に「悪いけどその時だけ、ベッドの下に隠れていてくれるかい?」とお願いし、彼女は了承した。

 使いの人間は稀に時間よりも早く来ることもあるので、外はうろつかず家の中で過ごした。

 僕はコーヒーを、彼女はミルクコーヒーを飲みながら時間が来るまでノンビリ過ごした。

 

 ——–いつも通りの時間になると、車がこちらに向かって来る音が聞こえた。

 僕は彼女に目配せをし、彼女は素早くベッドの下に潜り込んだ。

 車が家の前で止まる。エンジンを切る音が聞こえ、扉がノックされた。

「はい、今開けます」と、僕は扉を開けた。

 そこにはいつもの男が立っていた。

 ヒョロリとした線の細い体格。メガネをかけ、支給された城の制服と、肩掛け鞄を斜めに下げた彼は、いかにも城の使いが似合う男である。

「こんにちは。監視記録を受け取りに来ました」と男は言う。

 僕はいつも通り今日までの記録を男に手渡した。

「特に変わったことはありませんでしたか?」

「ええ、特に何も」

「承知しました」と言いながら男は、監視記録をパラパラとめくり、簡単に目を通しているようだった。

 いつもなら、そのまますんなり帰るはずなのだが、男は口を開いた。

「そういえば、先ほど裏の浜辺で小舟を見かけたのですが、あれはあなたのものでしょうか? 前回来たときにはなかったように思うのですが」

 しまった……舟を隠すのをすっかり忘れてしまっていた。

「そうです。いつもは入り江の先の洞窟に止めているのですが、昨日あれで釣りに行っていたもので」

「そうですか、では一度近くで確認したいので、案内してもらえますか? 何か変化があった場合には確認しなくてはいけない事となっていまして」

「分かりました」と言い、僕は男と家を出て、舟のある浜辺の方へ歩き出した。



 ——–おそらく少女の手がかりとなるようなものは、何も残っていない筈だ。

 しかし……浜辺の方へ下れば下るほど、僕の心臓の音はどんどん大きくなり、まるで頭の中で鳴っているようだった。

 小舟の元へ着くと、男は舟に上がり中を調べ始めた。

 そして時々、手に持っていた用紙に何かを書き込んでいる。

 僕も近づいて、何かマズいものが落ちていないか覗き込んだが、見る限り舟の中は空っぽだった。

 そして男は小舟から降りると、僕の前に立ち、用紙に目を落としたままこう尋ねた。

「しかしこの辺りでは見ない作りの舟ですね。どこから持って来たのですか?」

 僕はひとまず、確認の取れないような言い訳を答えなければならないと思い「すみません。これは確か、随分前に友人から譲り受けたものなので、元々どこで作られたものかは、僕にも分からないのです」と答えた。

 男は僕の話を聞きながら用紙にまた何かを記入していたが、納得した様子で、ペンと用紙を鞄にしまった。

 そして「ではもう大丈夫です。舟が傷んでいるようなので沖にでる際は気をつけて使った方がいいでしょう」と言った。

 そして僕と男は再び浜辺から、灯台の方へと上り始めた。



 ——–家の前に着くと男は「ではまた」と言い車に乗り込んだ。

 僕はホッと胸を撫で下ろす。しかし男は最後に、こんな言葉を口にする。

「お忙しいところすみませんでした。ベッドの下のご友人にもそうお伝え下さい。では」

 そして、森の中へと消えて行った。

 僕はその場で立ち尽くし、男の車が小さくなるのをただ見ていた。

【第一部】十ニ章 油断


 僕は訳がわからないまま家に戻った。

 見ると、テーブルの上には飲みかけのコーヒーとミルクコーヒーがそのままになっていた。この二つのカップを見て男は、他に人が居ると勘づいたのか?

 しかしどうしてベッドの下だと分かったんだろう……くそ、僕は城の使いを甘く見ていたようだ。

 僕はベッドの方に向かい「もう大丈夫だよ」と声をかけた。

 少女はのそのそとベッドの下から這い出てきて、大丈夫だったかと尋ねたので、問題ないよと言った。そして、悪いけどもう少し家にいてくれるかいと言って僕は一度外に出た。


 僕は家の前をゆっくりと歩きながら考えた。

 今までこの岬では何もトラブルはなかったので、何かを隠すようなことは一切無かった。嘘を答えたのは今回が初めてだった。

 あの男は僕の僅かな動揺と、部屋の様子の違いで何かを見抜いたというのか。あの男は、城の使いに専任されるだけの人物だったということか……とは言うものの、こうなった以上どうすればいい。

 あの男は僕を疑っているだろう。城に何か報告をされるかもしれない。そうすれば次は、衛兵を引き連れて来て、本格的な調査と尋問が行われるかもしれない。

 そうなれば僕は終わりだ。少女だって不法入国だしタダじゃ済まない。これ以上ここに居るのは危険ということか。どうすれば…………

 僕は不意に、あの日のしゃれこうべを抱えた老婆のことを思い出す。あの人なら、この状況に何かしらの助言を与えてくれるような気がした。



 ——僕はもう一度、あの老婆のいた海岸を目指し森の中へと入って行った。そして足早に森を抜け海岸に着いた。

 そこには、あの日と同じように、海に向かい、椅子に座る老婆の後ろ姿があった。

【第一部】十三章 助言

「こんにちは」と僕は声をかけた。

 老婆は振り返ることなく「また来てくれたのかい」と答えた。

 僕は老婆の前に回り込んだ。老婆は相変わらず膝にしゃれこうべを抱え、目を閉じたまま波打ち際の辺りに顔を向けていた。

「すみません。また少し困った事態になってしまいました」

「そうかい。だけど困難とは起こる時にはひっきりなしに起こるものだから、受け入れるしかないよ」

 そして老婆は手招きをした。僕は老婆のすぐ近くまで行くと、持っていなさいと羅針盤を手渡された。

「これは?」と僕は尋ねる。

「この問題はお前が考えるよりも、まだ大きいものになって行く。それを持っていた方がいい」

 僕は、分かりましたといい羅針盤をポケットにしまった。

「この世界には、二種類の人間がいる。分かるかい?」と老婆は言う。

「二種類ですか……いえ、どうでしょう。わかりません」

「それはね。親に愛された者と、愛されなかった者だよ。この二者の間にはとても大きな隔たりが出来てしまう。お前さんは一目見てすぐ分かったよ。よい両親に恵まれたんだね。
 
 だけど残念ながら、そうではない者も居る。きっと私たちが想像する以上にその数は多いだろうし、またその深淵の深さは、よほど勇気のある者でないと覗き込むことは出来ない。
 
 勇気とは、『自身には価値があると思える』ということだよ。そして、その感覚を最初に教えてくれるのは両親だ。

 分かるかい? だから愛されなかった者は危険なんだ。誰かを傷つけることで、己の存在を誇示しようとするからだよ」



 僕は、老婆の言うことの意味が感覚的にとてもよく理解出来た。老婆は続ける。


「お前さんは、もう既にそういった問題の渦中に身を置いている。愛情を知っているお前さんには、この問題を乗り越える為の知恵と素質がある。

 だけど簡単じゃないよ。気を抜かずにしっかりと、目の前の状況を切り抜けていかなければ、未来は全く違うものになってしまう。

 私に出来ることはこんな風に助言を与えることくらいだ。全てはお前さんにかかっている」



「ありがとうございます。分かりました。僕が今日こちらに来た理由はですね。やはりあの少女のことなのですが、今日は城の使いが灯台に監視記録を取りに来る日でした。

 ついさっきのことなのですが、その城の使いの男に、どうやら僕が少女を匿っていることがバレてしまったようなのです」



 僕はそこで少し言葉を区切ったが、老婆は何も答えようとしなかったので続けた。


「その使いの男はですね、最後去るときに、ベッドの下に少女を匿っていることを見抜いているような発言をして帰りました。なぜ男にそれがバレてしまったのか、僕には全く不思議なのです」



「そうかい……私が思う以上にもう事は進んでいるのかもしれないね。いいかい? 落ち着いて聞きなさい。その男はマズい。とても危険だ。
 
 しかも頭も良いだろう。とにかく逃げなさい。決して冷静に話し合おうなどと考えてはいけない。

 どうしてその男が、少女の存在を見抜いたかよりも、なぜその事を最後にお前さんにわざわざもらして行ったのかを考えてみなさい」


「なぜ……ですか?」


 確かにそうだ。なぜ最後にわざわざそれを僕に教えるような言葉を残して行ったのだろう。


 まさか……僕に行動を起こさせるためか。


 揺さぶりをかけて、例えば僕が逃げる準備を始めるとか、少女と何か決定的な話をするとか、そういった行動を誘発させて、証拠を掴もうとしているのか。


 だとしたら男はまだ、灯台の近くに潜んでいる⁉


 老婆が、口を開いた。


「もう戻った方がいい。今すぐに。走って戻りなさい」

【第一部】十四章 推理

 
 僕は老婆にお礼を述べると、すぐに駆け出し、森を全力で走り抜けた。



 ———岬に着くとやはり不安通り、家の前にはあの城の使いの男の車が停まっていた。

 マズい。既に家の中にいるのか。

 僕はあがった息を整えながら、一歩ずつゆっくりと家に近付いていく。


 扉の前に立ち深呼吸をする。


 平常心だ。いつも通り扉を開けるんだ。


 僕は扉を開ける。先ほどの城の使いの男が、椅子に腰掛け、玄関口の方を向き足を組んだ姿勢で待っていた。

 しかし少女の姿はどこにもない。なぜだ……どこへ消えたんだ。

「何をしているんですか? 人の家で」僕は言った。

「確認し忘れたことがあって戻ったのですが、留守のようなので勝手に上がらせてもらいました」と男は答える。

「そうですか。確認とは何でしょうか?」

 僕はそう答えたが、少女が見当たらないことがただひたすらに気掛かりで、男の言葉が頭に入って来ない。何なんだ……この男は……一体どこまで分かっていて、どうしようというのだ。

「いえ、大したことじゃないのですが、さっきね、このテーブルにコーヒーカップが二つ。しかも飲みかけのコーヒーと、ミルクコーヒーがあったのが気になりまして。どなたかが来ていたのかなと……思ったんです」

 男は僕を見透かすように、血の通わない声でそう言った。僕が返答に詰まっていると男は続けた。

「それともあなた、コーヒーを飲んでる途中で飽きてしまって、それでミルクコーヒーを淹れたんですか? しかも新しいカップで。幾分変わった飲み方だとは思いますがねえ」

「よく分かりません。何が言いたいのですか?」と僕は答える。

 男は、ふぅと溜息をついた。

「質問を質問で返すということは、何か答えにくい事があり焦っているのでしょうね。それと、疲れるんですよね。会話が成り立たない相手と話すのは」

「それはすみません。あなたが来る少し前まで来客がいたんです。だからカップが二つあるというだけです」

「そうですか。来客とは誰ですか?」

「なぜあなたにそこまで……」

 僕が喋り終わるよりも先に、男は手慣れた素早い動きで、腰の拳銃を引き抜くと、僕の顔に銃口を向けた。

「ちょ! 何ですか急に!」僕は思わず両手を顔の前にかざした。

「さっき言いましたよね? 成り立たない会話は嫌いだと」

「いや、だからって……」

 ズドンッ! という破裂音が狭い家の中に響き、放たれた銃弾は僕の顔の少し左辺りを通り、後方の壁に穴を空けた。

「あなた、死にたいんですか? 質問に答えろと言っているだろうが……まずこれに答えて下さい。死にたいんですか?」

「し……しに、死にたくありません」僕は震える声でそう答えた。高い音で耳鳴りがしている。

「そう。それで良いのです。まあどうせあなたは、後は捕まるだけですので教えてもいいでしょう」

 男は眼鏡を外すと、テーブルの上に置き、目頭を右手の人差し指と親指で軽く揉みほぐした。

「消去方のようなものですよ。私は浜辺にある小舟を見つけた時点で、ある仮説を立てていました。ここに何者かが流れ着いて、あなたが何らかの理由でかくまっていると。

 そして、私が来る時間帯に外をうろつくのは危ない。この辺りは外に隠れるといっても森か海岸沿いくらしかありません。

 しかし森は私がここに来る途中に通るから危険だ。海岸沿いは見通しが良いし、小舟を確認しに降りる時に私に見つかるかもしれない。尤も、あなたは小舟の存在自体を忘れていたようですが。

 灯台の上の監視台の鍵は、私も合鍵を持っているから危ない。だとしたら安全に隠れられる場所は家の中だと思ったわけです。私は玄関先に立つだけでいつも中までは入りませんからね。

 そしてあなたが扉を開けた時、テーブルの上に二つのコーヒーカップが見えた。あなたは本当に詰めが甘い」


 男はため息をついた。


「そして、こんな物の少ない狭い家の中に、人間が隠れられるとしたらベッドの下くらいのものです。

 これが私の推理です。そして私の揺さぶりにも、あなたは素直に応じてくれた。焦って何処かに駆けて行く様を見て確信したのです。

 さぁもう良いでしょう。全て白状して下さい。どちらにしてもあなたはもう、終わりなんですから。ハハ」


 と、使いの男は幸せそうに笑った。 

【第一部】十五章 試練


「ちょっと待って下さい。確かに僕は嘘をついた。だけど、いつまでも黙ってるつもりではなかったんです。落ち着いたら報告するつもりでした」

 男は一言、だまれと言った。そして、拳銃を構えたまま縄を取り出し、僕に両手を前に出すように指示する。

 僕は黙って両手を前に出し、男は慣れた手つきで縛った。

「しかし、お前ほどの間抜けを私は他に見たことがない。こんな誰もいない岬の管理人を引き受け、安い報酬を受け取り、所帯を持つこともなく、いつも一人でニヤニヤと暮らしている。

 自分が惨めだと気づくこともなく、街の人間とも関わろうとしない。城の人間がお前のことをどう呼んでいるか知ってるのか? 灯台の管理人だなんて、誰も言ってない。『北のおとり』って言われてるんだよ。

 北側から攻められた時にここは真っ先に狙われるからな。お前が連絡をよこし、殺されている間に、我々は城を防衛する準備が出来るってわけだ。

 知ってるか? 北から攻め入られた時、灯台の管理人の生命を守るための作は何も立てられていないんだ。

 要はお前は、国に正式に認められた捨て駒なんだよ。死んでもいいやつをここにつかせるんだ。実際そうだろう。お前が死んだところで誰が困る? ええ? 誰も困らないだろう。

 寂しい人生だったな。もうお前が城の地下から解放されることはない。明日から死ぬまで、湿った牢屋で暮らすことになるだろう」



 使いの男は、そのように僕を散々罵ると、唾をぺっと床に吐いた。

 僕の家の床に。

「チッ、ここは嫌いだ。潮風が喉に張り付いて気持ちりい」

 さっきまでとはまるで別人のように、言葉遣いや顔つきまで変わってしまった男に、僕は更に狂気を感じた。それはまるで、人間の持つ醜さそのものであるように思えた。

 しかし、僕の脳裏ではやはり、少女はどこに行ったのだろうという疑問だけが、ずっと残っていた。

 男が来る前に逃げたのだろうか。

 無事だろうか……

 男は僕の両手を縛った縄の先を持ち、僕に玄関の扉を開けて出るように指示した。僕は言われた通り、男の前を歩き扉を開ける。

 
 外はもう夕暮れだった。きれいな夕焼けが目の前に広がっていた。僕はここでの生活が好きだった。

 いつも優しい何かで満たされていた。それがたった今失われたのだと思うと、心が真っ暗になった気がした。

 だけどこうなったのも当然だ。僕のとった選択は違法だ、国の決まりに背く行為だったのだから。

 だけど仕方ないだろう。あの状況で少女のことを国に引き渡していたらあの子は、長い拘束と尋問を受けることになり、最後には国へ送り返されることになるだろう。それはあまりに不憫だ。あの子の母親の努力だって無駄になってしまう。

 僕が考え込んでいると、男は僕の背中を力任せに蹴飛ばした。

 僕は草の上に倒れ込み、両手が使えないせいで、地面で鼻を打った。鼻の奥に、あの嫌な鉄の感覚が広がっていく。

「言われた通りに歩くことも出来んのか。なんならここで殺してやろうか?」

 男は腰の拳銃を引き抜き、倒れている僕に向ける。

「や、やめて下さい!」と僕は恐怖のあまり丸くなる。


 その時だった。


 ガァンッ! という低く鈍い、金属で何かを殴るような音が、鳴り響いた。

 僕が慌てて顔を上げると、目のとんだ男がまさに倒れる瞬間だった。

 倒れた男の背後には、しっかりと両手でフライパンを握る少女が立っていた。

【第一部】十六章 逃亡

 
 僕は声も出せず、鼻の痛みと共にその場でへたり込んでいた。殴られた男もまた、草の上で丸まり低い唸り声を上げている。

 すると、少女はフライパンを振り上げ、倒れている男にもう一撃くらわせようとした。

「おいやめろ!」と僕は彼女に怒鳴った。「もうそれは捨てるんだ」

 彼女はこちらを一瞥すると、無表情にフライパンを地面に投げ捨てた。僕はほっとする。


「隠れてたのか?」

 彼女はこくんと頷く。

「そうか……とにかく、ひとまず逃げよう。もうここには居られない。分かるね?」

 彼女はもう一度頷いた。

 そして僕は、男の手にあった拳銃を奪い取ると海に投げ捨てた。それから家の中に戻り、金を入れた袋とランタンだけ取ると、すぐに浜へと向かった。



 ——–小舟の場所へ着くと、僕は縛られた手のまま、小舟を沖の方へ押し出し、少女と共に乗り込んだ。

 舟に乗り込んですぐ、彼女は僕の手の縄をほどこうとしてくれたが、上手くいかない。手が震えているようだ。

 僕はその震える手を見つめながら言う。

「驚いたよ。あんな事するなんて」 

「ああするしかないと思ったから」

「うん……そうだね。ありがとう。助かったよ。僕があいつを甘く見ていたのが悪かった。本当にすまない」

 そして彼女が縄を解くことに成功すると、僕はポケットから、老婆にもらった羅針盤を取り出し彼女に手渡した。

 それで方角を見ていてくれと彼女にお願いし、僕は舟を漕ぎ始めた。

 何度か振り返ったが、浜辺に男の姿は見えなかった。

 あの男は大丈夫だったろうか。死ぬことはないだろうがやはり気がかりだった。

 ふと見ると、オールを漕ぐ僕の手もまた、震えていた。

【第一部】十七章 満月の夜に彼女が死んだ理由

 満月が昇っていた。その光が水面で真っ直ぐに揺れながら道を作っている。小舟はその道に沿うようにして、ある場所に向かっている。

 僕たちが居た灯台の灯りは、もうとうに見えなくなってしまい、少女は少し前から、隣で眠っている。

 僕は一体、こんなところで何をしているのだろう……という感覚が不意にやって来たが、それはこの子だって同じだろう。

 いや、この子はもうずっと前からそんな気持ちなのかもしれない。まだ十歳なのに、本当に壮絶な人生だと思うよ。

 大人をフライパンで殴ることが出来るだなんて、普通の生活をしてた十歳の子が、そんなこと出来るだろうか。

 多分、普通じゃなかったんだろう……この子について僕が知っていることなんて、ほんの一部に過ぎないのだろうから。

 もしあの時僕が止めなかったら、あの男を殺すつもりだったのだろうか……複雑な気分だ。助けられたのは事実だけど、この子はあまりにも気を張りすぎているように思える。

 気がつくと僕は無意識に、眠っている少女の背中をゆっくりトントンと、子供を寝かしつける母親のように、手を一定のリズムで動かしていた。

 僕はふと思う。そういえば、三年前。彼女が亡くなった夜も、こんな、満月の夜だった。



 ——–結婚したら女の子が欲しいと、彼女はよく話していた。彼女がまだ生きているうちにこの子が灯台に流れ着いていたら、ある意味で僕たちは家族のようになれたのかもしれない。いや、そうじゃなくても、きっと僕たちは結婚していただろうし、子供だって作ったかもしれない。

 僕と彼女は、とても似ていた。表面的な好き嫌いはもちろん異なっていたが、根本的な部分が本当によく似ていた。

 人は誰であれ、仮面をかぶって生きている。長い時間を生きる途中で、当たり前のように「他人に見せる自分」と「他人には見せない自分」が作られてゆく。

 僕は初めて彼女と話した時、彼女の付けていた仮面に、今までにない居心地の良さを感じた。

 運命の人に出会うと、本当の自分をさらけ出せると言う。それは半分は正しいが、半分は間違っている。

 人は、他人の仮面を見た時に、その人がどういう理由でその仮面を付けたのか直感的に判断する。その感覚が正しいのか間違っているのかとは関係なく、ただ、そのようにして人の印象というものは、一人一人の中で勝手に、都合よく作られていく。

 だから僕が、彼女の仮面に対して居心地の良さを感じたのも、ある意味僕の、都合の良い解釈だったのかもしれない。

 だけど、それでも僕は彼女の仮面を見た時に、仮面の下の彼女が無意識に恐れている何かと、無意識に抱いている願望が、僕の抱えているものと同じものであると感じた。その仮面を選んだ事情が、手に取るように伝わって来る気がした。

 それは、分かりやすくいうと恥ずかしいのだが、人から嫌われたくない。いや、自分が人から嫌われるような人間だと、認めたくない。

 人から愛されなければ「私」は幸せになれない。だから、人から愛させるような特別な人間でありたい。そんな思いであったと思う。

 そういった人がつける、いわゆる「良い人」の仮面であった。

 今の僕はそうではないが、当時の僕はまさにそんは人間だった。そして、彼女もまた僕と同じ仮面を付けていた。

 そして最も大切なことは、仮面の下の素顔だけが、その人ではないということである。「仮面」もまた、同じくらい、もしくはある場面においては「素顔」以上に重要な意味を持ち、生活に理由をもたらしている。

 つまり僕は、彼女の「素顔」も「仮面」も、どちらも同じくらい愛していた。なぜならそれは表裏一体で、それ以上分けることの出来ない最小単位だったからだ。



 ——–僕達は知り合ってから、すぐに付き合ったわけではなかった。知人を交えて会うことはあったが、初めて二人だけで会ったのは、出会ってから約二か月が経った時だった。

 僕は彼女に対しやはり好意を持っていたし、どこか似たような人間性を感じていたこともあり、あまり人には話さないことも話した。

 その時彼女に話したのは、僕が何年も持ち歩いているある青春小説の話だった。彼女はその小説は知っているが読んだことはないと言った。

 僕は彼女に勧めるつもりなどは全くなく、ただその小説が自分にとってとても大切なものであるという話をしたかっただけだった。

 そういう、自分の内面を晒すような話をしたいと、相手にそう思わせる雰囲気が、彼女にはあった。僕はそれに甘えたかったのだと思う。

 彼女は一度も口を挟まずに、わざとらしく笑みを作ることもなく、静かに僕の話を最後まで聞いてくれた。

 そして、また後日会った時、彼女の鞄の中に、僕の話したその小説がチラリと見えた。

 僕がどうしたのかと尋ねると、図書館で借りたのだと言った。

 僕の話を聞いて、読みたいと思ったのか、それとも僕のことを知りたいと思ってくれたのか、それは分からないけれど、少なくとも彼女はわざわざ図書館に行きその本を借りた。

 そしてそれを僕に言うこともなく、僕の知らないところで、ただ読んでいた。

 それが、僕が彼女を好きになった理由だった。

 その日のうちに僕は彼女に告白をし、その半年後には僕たちは一緒に住み始めた。


 そう、あの灯台下の家で。


 それから彼女が死ぬまでの五年間。僕たちは一度も喧嘩をしなかった。

 時々どちらかが不機嫌になることはあったが、そんな時は、そうでない方が訳を聞き、知らずに傷つけてしまっていたことについて謝る。それだけ。

 僕も彼女も自分の都合で勝手に不機嫌になったり、相手に当たったりする人間ではないので、そういう時は何かしらのすれ違いが起きている時だった。

 それはただそれだけのことであり、僕たちにとっては、喧嘩する理由にはなり得なかった。



 ——それから。これは、信じられないことなんだけど僕は、なぜ彼女が死んだのか覚えていない。

 本当に全く覚えていないんだ。

 もしかしたら、もう一人の「仮面」をつけた僕、もしくは「素顔」の僕が、その出来事に蓋をしてしまったのかもしれない。僕が眠ったり、絵を描いたりしている間にそっと、僕にバレないように。

 それから僕は友人に会うことを止め、街に行くことも最低限となり、あの灯台で隠居生活を送るようになった。

 そうして「良い人」であるための仮面は、僕には必要なくなった。



 ——–今。隣で眠っているこの子は、初めて会った時からその仮面は付けていなかった。

 僕は「生きていてはいけない人間もいる」と言った、この子の言葉を思い出し「僕もそう思うよ」と一人呟いた。

 眠っている少女の目から涙が伝った。母親の夢でも見ているのだろうか。

【第一部】十八章 花の名前

 翌朝。少女が目覚めるよりも前に、僕は目的地近くの入り江に着岸していた。そこは、あの灯台から数十キロメートル離れた、国の北西辺りの海岸だった。僕が目指しているのは、祖父の別荘である。

 祖父はもう亡くなっているので、正確には今は父の所有となっているが、父はもう何年もそこを使っていないから、空き家同然となっている筈だった。

 少女は具合悪そうに目を覚ます。そりゃそうだ。こんなグラグラと揺れる小舟の上で熟睡など出来るわけない。

 僕が「大丈夫?」と尋ねると、彼女は「吐きそう」と答えた。

「ひとまずもう岸には着いたから、少し休もう」

「夜通しずっと、漕いでたの?」

「うん。なるべく暗いうちに着いておきたかったから」

「ありがとう」と彼女は言う。

 それから彼女の気分が落ち着くまで少しの間、僕たちは入り江近くの洞窟で休憩をした。それから、今度こそこの小舟が発見されてはマズいので、僕は彼女と一緒に小舟を洞窟の奥まで運んだ。

 それから僕たちは、祖父の別荘へ向けて歩き始めた。

 その道すがら、花を見つけると彼女は「ヒメジョオン、ノヂシャ、キュウリグサ、オオイヌノフグリ」と、おそらく花の名前であろう言葉を口にしていた。

「詳しいね」と僕が言うと、「お母さんに教わったから」と彼女は言った。



 ——二十分も歩かない内に僕たちは、目的地である祖父の別荘に着いた。僕は一睡もしていないし、彼女だって寝たと言っても疲れは取れていないだろうから、二人とも、もう疲労困憊だった。

 別荘の中は案の定埃まみれで、木の湿った匂いがした。僕達は今からここを掃除する気力など当然残っておらず、ひとまず自分たちが寝転がれるスペースだけを簡単に掃除をして、そこに倒れ込んだ。

「やっと眠れる」

「ありがとう。お疲れ様……私たち大丈夫かな」

「大丈夫だよ。何とかなるさ」

「もう、犯罪者ってことかな? 二人とも」

「そうだね。多分……そういうことになるね」

 そこで、少しの間沈黙が流れる。

 そのまま眠っても良かったのかもしれないが、僕はこの子が心配だったし、何か声をかけるべきだと思い「起きたら、掃除しような」と言ってみる。

 彼女は「前の家より広いね」と答える。

「確かにね……」と僕はほとんど無意識に答え、そのまま、深い眠りの底へと落ちて行った。

【第一部】十九章 告白

 目を覚ますと外は既に暗くなっていた。どれくらい眠ったのだろうか。

 少女は先に起きて、窓から入り込む外灯の明かりで本を読んでいた。その本は、母親からもらったというあの本だった。

「起きてたんだ? 寝れた?」

「……私も今起きたばかり」

  そう答えた彼女は、何やら元気がないように見えた。



 —–—僕たちはひとまず、街まで食料を買いに行くことにした。子供の頃、この別荘に遊びに来た時の記憶がまだ残っていたので、おおよその場所は覚えていた。

 夜道を歩いていると、彼女はやはり言葉数が少なかった。やはりこの一連のドタバタで疲れてしまったのかとも思ったが、寝る前はもう少し元気だったし、僕には起きてから様子が変わったように思えた。

「どうかした?」と僕が訪ねると、少し沈黙したあと、緊張した様子で彼女は「謝らなきゃいけないことがある」と切り出した。

「本当に……取り返しのつかない嘘をついてしまいました。もっと早く言うべきだったんだけど、怖くて、ずっと言い出せなくて……」

 僕はその言葉で、彼女が何を言い出すのか検討はついたが、黙って聞くことにした。そして彼女は、先ほど読んでいたあの本を僕に手渡し、上ずりそうな声で話し始める。

「私が……その。つまり……私が、疫病の流行っている島から来たという話は……嘘なんです」

 僕は「知ってたよ」と答える。

 彼女は驚いて、時が止まったようにまん丸い目のまま、僕の顔を見つめている。

「前、部屋の掃除をしてる時に偶然、この本が本棚の上から落ちて来たんだ。時間があったから読ませてもらった。そしたら、君が話した疫病の島の話が全くそのまま、この小説の中に書かれていた。君はそのストーリーを、自分に当てはめて僕に話したんだろ?」

 彼女は何も言わず、いや、何も言えず強張った表情のまま僕を見ている。僕は続ける。

「そりゃ驚いたし、ショックだったけど、きっと君はこの話をすれば、僕が君を追い出すと思ったんじゃないか? そして僕から離れようと思った。まあその気持ちは分かるよ。急に見知らぬ人を信用する方が難しいさ。
 でも君は、その後にいつだって逃げ出す機会はあった筈なのに、逃げ出さずに僕との生活を選んでくれた。それに何らかの事情で、夜中に海を漂っていたことは事実なんだし、大変な事態だったということには変わりないんだ。だから別に、最初についた嘘なんてことは対した問題じゃない。気にすることないよ」

「ごめんなさい。本当に……私が初めから嘘なんてつかなければ、きっとこんなことにはなっていなかったのにと思うと、私があなたの生活を奪ってしまったような気がして」

そう言うと、彼女は泣き出した。


「いいって。ほら、今度の家だってそう悪くないよ。前よりも広いんだし、海からだってそう遠くないよ。だからあんまり変わらないよ」

「ありがとう。私はあの時……海を漂っていた時、恐怖でいっぱいだった。意識もほとんどなかったけど、多分このまま死んじゃうんだろうって、揺れる舟の上で考えていたんです。だけど、あの灯台の、オレンジ色の灯りが見えた時、一瞬暖かいモノが心に生まれた気がしたんです。
 だけどやっぱり気は失ってしまって。次に気が付いた時は、あなたがそこにいました。暖かい暖炉と、おいしそうなスープの香りがしたことも覚えています。だから私は『あぁ、まだ生きているんだ』って分かったんです。
 その時は生きているという事実だけで辛かったけど、今はもう辛くないです。こうしていられることは。あなたのおかげです」

「そっか。今生きてて良かったと思えるならそれが一番だね。良かったよ」

 少女は涙を拭うと、短く深呼吸をした。

「少し長くなるかもしれないけど、本当のことを聞いてくれますか? 私がどうして夜の海を漂っていたのかを」

 彼女のその言葉によって、鈍い音と共に重い扉の鍵が外された。そんな感じがした。

「うん。聞かせてほしい」と僕は答える。

【第一部】二十章 夜を駆ける

 少女の家は父親、母親、そして彼女の三人で暮らしていたという。

 彼女の父親は国の役人で、故郷では名の知れた人物だったそうだ。しかし彼には裏の顔があった。それは日常的に母親に対し暴力をふるうという一面であった。

 母親は「あの人がいないと私たちは貧乏になってしまうから」と言って別れようとはしなかったそうだ。しかしそれは単なる理由付けであり、本当は母親はただ父親に依存しているだけだった。暴力を振るう時もあれば「すまなかった。もう二度と手はあげないから」という父親をいつも許し、そして翻弄されていた。

 少女の故郷には争いごとも無く、平和な国ではあったが、国の役人として働いていた父親は、いつも国民の不満の吐口にされ、その度に困ったような笑顔を浮かべていたという。



 ——–そしてあの日。酷く酔った父親が帰って来た。

 母親はふらついている父親を介抱しようとしていたが、父親は家に入るなり「なぜ俺の帰る時間に部屋が暖まっていないんだ!」と怒鳴り散らし、母親の顔をぶった。

 少女もその音で目を覚まし、扉の隙間からその様子を覗いていた。

 母親が「ごめんなさい」と謝ると父親は「いいからまず水を持って来い」と言った。

 しかし母親は、殴られた恐怖で手が震えており、水を用意するのに手間取っていると父親は再び怒り、母親を張り倒した。そして転がった母親の腹を蹴り始めた。何度も何度も蹴り続けた。三発、四発、五発、どんどんと音は大きくなっていく。

 少女は、このままでは母親が死んでしまうと思い、飛び出して父親の背中に飛び付いた。

 父親は「お前も俺が嫌なんだろう!」と大きな声をあげ、少女を振り払うと、側にあった椅子を掴み、少女の目の前で振り上げた。

 その時だった。後ろから母親が父親に体当たりをした。

 父親の手にあった椅子は、床に落ちて大きな音をたてた。そして、父親の脇腹から血が流れ始めた。母親は、父親の脇腹から包丁を抜くと、今度は背中に力一杯突き立てた。そしてついに父親は床に倒れ込んだ。

 母親は少女の元へ這って行くと、抱き寄せ、そして「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も繰り返した。「お母さんにもっと勇気があれば、こんなことにはならなかった。もっとはやく逃げるべきだった」

 そして少女はそこで、母親からある秘密を打ち明けられた。

 実は父親と母親は夫婦ではなく、不倫関係であったというのだった。父親には他に本来の家庭があるのだと。そして国の役人である父親は、不倫が表沙汰になってしまうことを避けるために、少女の出生を国に申し出ていないとのことだった。


 つまり、《《少女は隠し子ということだった》》。


 状況が状況なだけに、少女には十分に理解が追いつかなかったが、ただ。母親の言いたいことはこうだった。

「私は今この人を殺したことによって犯罪者となった。この先、犯罪者の娘として生きていくことはあなたにとって、大きな足かせになってしまうだろう。だけどあなたの存在は、この国には知られていない。だから今逃げなさい。もう会うことは出来ないけど、世界には、あなたのことを大切にしてくれる良い人が、たくさんいるから大丈夫」と。

 少女は当然それを拒否した。嫌だと言った。どこに逃げればいいのか、一人でどうすればいいのか、何も分からないと。

 そうごねる少女の手を引いて、母親は、裏口から家を飛び出した。人気のない暗い路地を、少女の手を力強く握り駆け抜けた。その手には、空気に触れて固まりつつある、父親の血液が付いていた。



 ——–島の南にある入り江に着くと母親は、海水で少女の手に付いた血をよく洗った。

 そこには小舟が一艘あり、あれは父親の舟だと母親は少女に教えた。少女が生まれる前。まだ父親が優しく暴力も振るわなかった頃は、舟でよく沖に出ていたのだと、昔聞かされたことを少女は思い出した。

「まだ使えるはずだから、あれに乗って南に向かって。しばらくすると灯台の灯りが見えるから、そこを目指して進みなさい。そこの人達がきっと、助けてくれるから」と、そう言った。

 少女はずっと泣いていた。「そんなこと出来ない!」と言った。

 すると母親は、少女の頬を強くぶち「言う通りにしなさい!」と怒鳴った。

 少女が母親にぶたれたのは、この時が最初で最後だった。

 そして「またすぐに会えるから」と言った。少女には、その言葉が本当でない事は分かったが、受け取るしかなかった。

 少女はほとんど強制的に舟へ押し込まれ、海へと流された。泳いで岸に戻ることも出来たが、母親をこれ以上困らせることも出来ず、ただ言う通りにするしかなかった。小さくなっていく母親を見ながら、少女はずっと泣いていた。

 そして、家を飛び出すとき、母親に着さされたコートのポケットには、疫病に侵され一つの島国が崩壊するまでを書いた、一冊の小説本が入っていた。

【第一部】二十一章 深緑色の傘

 
 光の裏には闇があるというが、ある場合には、闇を隠すために闇を使うこともある。少女の告白はそんな人生の不条理を感じさせるものだった。ただ偶然。そこに生まれ落ちただけの命に、なぜそんな厳しい現実が用意されてなくてはいけないのだろうか。

 この別荘に逃げて来て一週間が経過し、大掃除も終わり、あらかた必要な物は揃えることが出来ていた。そして僕は、これからのことを考えていた。

 あの子の故郷が疫病の島でないということが確定し、あの子の母親は、まだ生きていることが分かった。しかしおそらく今はもう捕まってしまっているだろう。例えば僕が父親のフリをして、あの子を連れて、面会に行くことは出来るのかもしれない。けれども、城の役人を殺害したとなれば、母親はもう牢屋から出ることは出来ないだろうし、悪ければ死刑もある。

 あの子は、どのくらいまで理解しているのだろうか……

 分からないが、これから殺されてしまうかもしれない母親に会うことは、余計辛いのではないだろうか。きっとあの子は、僕が想像する以上に色々なことを理解し、そして受け入れようとしているのかもしれない。

 

「ただいま」

 スケッチブックを抱えた少女が、外から帰ってくる。

 僕はあまりに考え込んでいたので、つい返事するのを忘れてしまう。

「帰ったぞ!」と、彼女は僕の近くでもう一度、大きな声で言った。

「わっ! お、おかえり」と僕はびっくりして答える。

「どうかした?」

「いやいや、どうもしないよ。なに、今日は何を描いてきたの?」

 彼女は僕の質問には答えず、握りしめた右手をこちらに差し出した。僕は彼女の顔をちらりと見やり、何かを手渡そうとしていることを理解する。僕は彼女の握りしめた手の下に、両手で水をすくうような形の手を差し出す。彼女が手を開くと、僕の手のひらに落ちてきた物はクルミだった。

「クルミかあ。どうしたのこれ?」

「いっぱい落ちてる場所見つけたんだ。これで、何か美味しいもの作れる?」

「そうだね。なんだろう、サラダにも使えるし、あと、鶏肉とかキノコとかと一緒に料理してもいけると思う」

「それ、食べたい」

「よし。じゃあ、食材を買いに行こうか」

 というわけで僕たちは、街の市場まで晩御飯の材料その他諸々を、買いに行くことにした。



 ——–僕たちは祖父の別荘を出ると、海とは反対方向にある街の方へと歩き出した。

 その道中、水路を泳いでいる鴨を見つけると少女は、不意に「ねえ。馬が泳いでるところ見たことある?」と聞いてきた。

「ないかな。馬って泳げるの?」と僕は聞き返す。

「泳げるよ。私一度だけ見たことがあって、ブルブルと鼻を鳴らしながら器用に泳ぐんだよ。なんかね、城で飼ってる馬が逃げ出して、近くの池に落っこちたんだって。私急いで友達を呼びに行ったんだけど、友達と戻った時にはもう引き上げられて、体を拭かれてるところだった」

「そうか、そりゃあ惜しかったね。でも馬が無事でよかったじゃないか」

「うん、そうだね」

 と、こんな具合に僕たちは特に中身のない会話を交わしながら歩いた。しかし、まだ慣れない新居から街への順路。無意識で辿り着くことは出来ない。

「ここ曲がるんだったよね?」と、僕が言い。

「もう一つ先だよ」と彼女が答える。

「あ、そうだそうだ」と互いに確認しながら進まなければならなかった。その感覚は同時に、僕たちに新生活という新鮮な空気を、取り入れてもくれていた。

 それにしても、僕は早く仕事を見つけなければいけない。まだしばらくは大丈夫だけど、この子も思ったよりも元気そうだから、あとはお金さえ安定させられれば、ひとまずはそれなりに何とか暮らしていけるだろう。



 ——–街に着くと、それほど人で賑わっていたわけではないが、通りにはたくさんの店が軒を連ねていた。服屋、酒屋、雑貨屋、食べもの屋、宝石屋など。灯台の方にあった街よりもこちらの方が、少し大きい街のようだ。少女はその中でも、傘屋に興味をそそられたようだった。店先には売り物の傘が、色とりどりに並んでいた。

 彼女は美しい深緑色の傘を手に取り「広げてもいいかな?」と僕に尋ねる。

「ゆっくりね」と僕は答える。

 ばっと広げた傘はとても大きく、彼女の体はすっぽりと包まれた。

「それなら全く濡れずに歩けそうだ」と僕は言う。

「この傘があれば、雨の日だって待ち遠しくなるね」そう言いながら彼女は、クルクルと回った。

 僕は彼女のそんな姿を、出来ることなら彼女の母親にも見せてやりたいと思った。命がけで我が子を海に流した母親の判断が正しかったのかは分からないが、少なくとも彼女は、賭けに勝ったと考えて良いだろう。いまこうして、あなたの娘は元気なのだから。

 少女は傘を閉じると、元の場所に置き「行こっか」と言った。



 ——–その後、僕たちは通りを抜け市場で食材を買い、家に帰る道中で、彼女の言ったクルミの落ちている場所に寄って、いくつかのクルミを拾って帰り、晩御飯にはクルミを使った何品かの料理を作って食べた。

 サラダは予想通りの味に作れたが、その他は何とも微妙な仕上がりだった。彼女は満足そうだった。

【第一部】二十二章 朝焼け

 ––––この別荘に越して来て、もう半年が経っていた。

 夜明け頃、僕は体を揺らされて目を覚ました。

 目の前には少女が立っていて、その背後の窓から小さな朝焼けの空が見えた。今、一体何時なんだ?

「どうしたの?」と僕は尋ねた。

「……血が出た」

「え、血って、どうして?」と聞くと、彼女は黙り込んでしまった。

 ああ。なるほど……僕は、その様子で察した。

「こういうのは初めて?」と聞くと、彼女は頷いた。

「そっか。それはね、君くらいの年齢になるとみんな起こることなんだ。聞いたことはある?」

「ある……」

「そっか、とにかくそれは当たり前のことで、君がある意味健康な証でもあり、大人になった一つの証でもあり、んん何ていうか、あえて心配するようなことじゃないんだ。だけどこれから月に一回くらいはあるはずだから」

「……シーツを汚しちゃった」

「大丈夫だよ。シーツはどうする? 自分で洗うかい?」と言うと彼女は頷いた。

「体調が悪くなったら、すぐに言うんだよ」と言うと、彼女は分かったと言って、自分のベッドの方に戻った。

 僕はもう一度横になり目を閉じた。彼女がばたばたとシーツをはぎ取り、外に持って行く音が聞こえる。まだ陽も上りきらない朝焼けの中に、血のついたシーツを抱えて、溶けて行く少女の様子を僕は想像する。そして、ふと気がつくと僕の顔は緩んでいた。何となく、あの子の成長が嬉しいと感じたのだと思う。たった一年ほど一緒に過ごしただけだけど、父親のような気分になっていたのかもしれない。

 僕は二度寝は止めることにして、あの子が洗濯を終えて戻って来るまでに、朝ごはんを作ることにした。

 この国では、初潮を迎えた女の子には、ハチミツを食べさせるのが一つの文化としてある。しかし彼女は、外の国の子だし、こういうときの女の子の心理が、僕にはよく分からないので、特別なことはやめておくことにした。僕はいつも通り、パンにスライスしたトマトとチーズを挟み、トースターで焼いた。それと、タマネギとキノコを使った簡単なスープを作った。

 

 ––––二十分が経ち、ちょうど朝食が出来上がる頃、シーツを干し終えた彼女が戻って来たので「朝ご飯食べれる?」と聞くと、食べれるというので僕たちは食卓を挟み、椅子に座った。

「いただきまーす!」と言うと同時くらいに、外で何やら物音がした。

「……なんだろう。聞こえた?」と僕は彼女に聞く。

「うん。何か落ちるような音」

 音の距離は近かった。玄関のすぐ向こうに何かがいるのか?

「ちょっと待ってて」と僕は彼女にそう伝え、扉の方まで進む。

 取手に手をかけ、ゆっくりと、ほんの少しだけ扉を開き覗いてみると、そこから見えたのは山羊だった。わずかな隙間なので顔と前足くらいしか見えなかったが、山羊がすぐそこに横たわっていた。

「なんで山羊が?」少なくとも人間じゃなかったことで僕はホッとして、扉を全開にする。

 しかしその瞬間。僕の背筋は一瞬で凍り付くことになる。


 山羊の下半身が無いのである。

 
「なっ、なんなんだ……」

【第一部】二十三章 骨髄


「なっ、なんなんだ……」

 腹より下は、何か鋭利なもので切断されたように、すっかりなくなっていた。切断面には骨の髄が見え、生臭い血の匂いが漂っている。しかもまだ意識があるようで、山羊の虚ろな目は、わずかに動いていた。

 僕は嫌な予感がして、急いで扉を閉め鍵をかける。

「何だったの?」と少女は心配そうに僕に尋ねるが、僕はほとんど過呼吸のようになっており、すぐには答えられなかった。

「はぁ、はぁ、山羊だよ。死にかけの山羊だ」

「山羊? 私がさっきシーツを干した時には何も……」

「嫌な予感がするよ」

「きっとあの男だよ! あなたのことを撃とうとしたあの、使いの男」

「僕もあの男のことはよぎった。だけど、なぜこんな猟奇的なまねを? 僕らを捕まえるつもりなら普通、衛兵を連れてやってくるはずだ」

「ううん。私には、あいつがまともな人間には見えなかった。多分もっとどろどろしたものに覆われてて、自分が人とは違う特別な存在だと思い込んでいるような、きっとそんな奴だ」

 なぜ彼女がそこまで、あの男の人間性について見抜けたのか、僕には分からなかったが、そういえばあの老婆も、男が危険であるという話をしていたことを、僕は思い出す。

「じゃあ例えば、今はすぐ近くに潜んでて、僕たちが怖がってるのを楽しんでいる。そんな感じのことかな?」

「そんな感じだと思う」

「そうか……」

 しかし男の拳銃は、あの時海に投げ捨ててきた。城の正式な職務として僕たちを追いかけているわけじゃないなら、新たな銃も支給されることはない。おそらく奴は今銃は持っていないはずだ。

 だけど、どうすればいい。まるでケージに入れられた実験動物の気分だ。落ち着かない。動くことが危険でもあり、ここに立て篭もることもまた危険に思えた。

 僕は全ての窓に鍵がかかっていることを確かめ、カーテンを閉めた。そして彼女の手を引いて階段の下まで連れていく。

「ひとまず様子を伺おう。今すぐは動かない方がいいと思う。僕は二階で武器になりそうな物を探してくるから、君はここで待ってて。ここなら扉かも窓からも離れてるから。もし何か異変があれば、大きな声で教えて」

「分かった」と彼女は言う。

 さっきの切断された山羊を見せられて分かった。きっと彼女の言う通りだ。相手はまともじゃない。こっちだって覚悟を決めなくてはいけないということか。



 ——–僕は階段を上がると、まだほとんど踏み入れてなかった、かつて父が書斎として使っていた部屋に入った。

 そして父が使っていた机の前に立つ。今はこの父の別荘を、勝手に使わせてもらっている訳だが、それでもやはり、人の机の引き出しを勝手に開けるのには抵抗があり、今まで開けたことはなかった。

 一段目を開けてみると、中身のないペンケースといくつかのクリップがあるだけだった。次は二段目を開けてみる。空だった。続いて三段目。中にはよく分からない書類が数枚入っているだけだった。

 最後に四段目。他の引き出しよりも多少、高さが設けられている引き出しだ。開けると、中には大きな四角い缶が入っていた。

 僕はそれを手に取ると、机の上に置いた。蓋を開けると、中には日焼けした地図、コンパス、帽子、懐中電灯、そしてダガーナイフが入っていた。

「武器……あった」と思わず声が出た。

 それは刃渡り約二十センチ以上はある本格的な両刃作りで、多少古びてはいるが、重量感のあるナイフだった。これなら十分に人を殺すことが出来るだろう。

 一緒に入っていたホルダーにそのナイフを納め、腰に装着した。

 しかし、いざ武器が見つかってしまうと、それはそれで戸惑ってしまう。確かに今、僕たちが追い詰められていることも、あの使いの男が危険であることも事実だろう。

 だけど、僕にこのナイフで人を殺すことなんて出来るだろうか。例えばどうしようもなく追い詰められ、少女の命に関わるような事態となれば、アイツにこの刃を、突き立てることが出来るのだろうか。そう、例えば少女の母親のように。

 その時だった。

「大変! 降りて来て!」と少女の呼ぶ声が下から聞こえた。

 僕は父の書斎を飛び出し、階段を駆け下りる。

 焦げくさい臭いと共に、立ち上がる大きな炎が僕の目に飛び込んできた。

「なっ⁉」

 家の玄関辺りから火をつけられ、少しずつ燃え広がっているようだった。

「もうダメだよ! 逃げるしかないよ!」と少女は言う。

 確かに家の中に水気のものはないから、消火することは不可能だ。いくら奴が外で待ち構えているとはいえ、僕たちに残された選択肢は、家から飛び出すという一択だけだった。

 しかし奴はおそらく、入り口を燃やすことによって、僕たちを窓から逃げさせようとしているのだろう。いま二人で窓から飛び出せば奴の思う壺だ。

「いいかい? よく聞いて。僕は今からそこの窓から飛び出して、男を引きつける。君は三十秒数えてから出てくるんだ。向こうの壁と床の角に顔を近づけて浅く呼吸をするんだよ。これくらいの火ならまだしばらく大丈夫だから」

 少女は涙目になっていたが、泣かないよう我慢しているようだった。

「分かった。無事でね。後でね」と少女は答える。

「うん。後で小舟のところで会おう」

 僕は窓から飛び出した。



 ——–やはりそこには、松明を手に持った、あの使いの男が立っていた。

「おや。まだそんなに燃えていないのに、もう飛び出すのですね」と男は楽しそうに笑っている。

 それはまさに、自分の趣味を楽しむ人間の顔であった。

 その顔を見た瞬間。僕は自分の心が冷たくなっていくのを感じた。

 あの子を守るためには、僕はこいつを殺さなくてはいけない。

 そう。話が通じるような相手ではない。

 僕は、腰のナイフに右手を添えた。

【第一部】二十四章 おまもりのうた

 
 僕は右手で、腰につけたホルダーの留め具を外し、ナイフを抜き取ると、それを男に向かって構えた。

「そんなものを出して。人を殺したこともないくせに、お前に何が出来るというんだ」と、使いの男はあざ笑うように言った。

「残念だけど、ここには僕しかいないよ」

「嘘をつくな。お前だけがどうしてこここにいる? しかもこんな時間に——」

 使いの男が喋り終わる前に、僕は思い切り地面を蹴り、奴の腹に向かって突進する。使いの男は反射的に横に跳び避けた。

 ナイフは使いの男の太もも辺りをかすめ、ズボンとその中の肉を、少しだけ裂いたようだった。

「このバカが!」と、奴は僕を睨む。

「今ので分かったろう。僕は本気だ」

 僕はもう一度、ナイフを両手でしっかりと握り、正面に構えると、突進する体制に入る。足に力を入れようとした瞬間、奴は持っていた松明を僕の顔目掛け投げつけた。

 僕は反射的に両腕で顔をガードする。視界が塞がれ、一瞬腕に凄まじい熱が伝わるが、松明は僕の腕に弾かれ背後に飛んで行った。


 しかし、次の瞬間。


 僕の視界に映ったのは、五メートルほど先でライフル銃を構える、奴の姿だった。

 あれは。あのライフル銃はそう、灯台の監視台に置いてあった物だ。

 そうか、どうして僕は気付かなかったんだろう。いつもあんなに身近に、銃が置いてあったことに…………

「私の勝ちだ。惜しかったな」

 けたたましい音と共に二発の銃弾が放たれ、僕の太ももと腹に命中した。痛みは無かった。何かが自分の体を通り抜けていった。それから力の抜けるような感覚があり、僕はそのまま地面に倒れ込んだ。

 音を聞いたのか、それとももう三十秒経ったのか分からないが、少女が窓から出てくる。

 そして、もうろうとする意識の中で、彼女の悲鳴が聞こえ、僕のもとへ駆け寄って来るのが分かった。

「そんな……」

 彼女はしゃがみ込んで、僕の撃たれた傷の具合を見ているようだったが、くるりと向きを変え、僕を背中に隠すようにして男の方を向いた。

 僕は、少女の背中に向けて声を放つ。

「おい逃げろ。早く。何やってんだ」

 しかし少女は、背中を向けたまま答えない。

 男は、銃に新しい弾を込めながら言った。

「そのガキを逃すわけがないだろう。一体、誰の頭をぶん殴ったと思ってるんだ? いいか、お前らは二人ともここで死ぬんだ。それはもう決まっている事だ」

 僕は、力を振り絞って腕を動かし、少女の背中を強く叩いた。

「逃げろってんだ! ばかやろう!」

 しかし彼女は、振り返ると僕の首に抱きついた。
 
 そして「ありがとう」と、耳元で囁いた。

 それから彼女は立ち上がり、男を真っ直ぐに見つめ、言い放つ。

「だから私はあの時、お前に止めをさしておこうと思ったんだ。お前がどんな危険な人間か分かってた。お母さんをいつも殴ってたあのクズと同じ匂いがしたんだ。撃つなら撃てばいい。私にはもうどこにも行く所なんてない。
 だけどお前みたいにはならない。お前はずっとそんな風に、その銃口をあらゆる人に向けながら生きて行くんだ。誰にも愛されないってことを、言い訳にしながら」

 男の目は本気になっていた。もはや、子供を見る目ではなくなっている。

「言いたいことはそれだけか?」と言い、少女の顔へ銃口を向ける。

 しかし彼女の目は、もう涙目ではないし、怯えているようでもなかった。ただ冷たい瞳がそこにあった。いや……だけどおかしい。僕から彼女の顔が見える筈はないのに、背中越しでもそのガラス玉のような瞳を、僕は確かに見ることが出来た。

「ううん。そっか、きっと大変だったんだね。同情してあげるよ。お母さんには愛されなかったの? 私のお母さんは私を愛してくれたよ。それを知らずに大人になるのは大変なことなんだね。可哀想だから同情してあげる。辛かったんだね」と言って彼女は笑った。「これで満足?」

 いつも冷静だった男の姿はもう無い。男は怒りにまかせその勢いのまま引き金を引く。またしても、けたたましい破裂音が鳴り響いた。

 それは、運命の糸が断ち切られる音なのか、それとも紡がれる音なのか……少女の体は文字通り貫かれる。二十二口径の金属の塊が、彼女の頭部を通り抜ける際に、何億、何兆という組織を破壊する。それにより、彼女は笑うことも、泣くことも、僕に語り掛けることも、たった今不可能となった。

 倒れた彼女の後頭部が僕の目に映り込んだ。その小さな頭から血の池ができ、広がっていった。少女のもとに近づきたいが体が動かない。

「ちょうど弾切れか。胸くその悪いガキが」

 奴がそう言ったのを覚えている。その言葉の記憶を最後に、僕はそのまま意識を失った。
 

 すぐ隣では、僕たちの家が燃えていた。

【第一部】二十五章 パレード

 
 真っ暗な画面の中には、線香花火のような、小さな火花がぱちぱちと散っている。やがてその火花から色々なものが形成され、しばらくすると弾け、また新たなイメージが創られる。それが何度も繰り返されていく。

 雪の降りしきる海。

 少女を運ぶ小舟。

 それを照らす灯台の灯り。

 名も知らない白い花。

 暗い瞳。

 嘘を隠した、母の本。

 絵を描く小さな手。

 フライパンを握る頼もしい手。

 笑ったときの顔。



 そして、火花は少女の形で留まり、僕に語りかける。


 ——–「私は昔、故郷の街で一度だけ、パレードを見たことがあった。お母さんが私の七歳の誕生日の時に、連れて行ってくれたんだ。夏の涼しい夕方だった。年に一度の大きなパレードで、外の国から観に来ている人もいたから、すごく賑わってた。私は背が小さいからあまりちゃんと見えなくて、半べそをかいてた。
 そしたら、前で見てた二人組の男女が私に気付いて、前で見なよって譲ってくれたんだ。お母さんはその人達にお礼を言って、私を連れて前に出た。そのおかげで私はパレードをちゃんと見ることが出来たんだ。


 —–—パレードが終わった後、私とお母さんは、場所を譲ってくれたその二人と一緒に、レストランへ夜ご飯を食べに行った。

 二人は、ここから二十キロメートルほど南の、ある国から、観光にやって来てたそうで、今日は泊まって明日の夕方頃に帰るって言ってた。今はその国の一番北にある、灯台下の家に二人で住んでいるそうで、男の人の方が、『僕たちは今年の冬には結婚するんです』って言った。女の人も嬉しそうだったけど、私はその人から何か、影のようなものを感じた。

 その後、私がトイレで手を洗っていると、その女の人が入って来た。私を見つけるなり目の前まで来てしゃがみ込むと、私の顔を見つめ言った。

『もし良かったら、まだ誰にも話していない秘密の話を、聞いてくれない?』って。

 私が頷くと、その女の人はこんな事を話し始めた。

『実は私は、あの人とは結婚出来ないんだ。どうしてかって言うと、私はもうすぐあの人の心臓になるの。あの人の心臓は海に住む悪い菌にやられてしまって、もうかなり弱ってる。だから私は昨日、城の病院まで行って来たの。
 そこで心臓を移植するための手続きをして来たんだ。だからつまり、私が死んだ時は他の人のために、どうぞこの心臓を使って下さいってこと』

 当時七歳の私には、その話は半分くらいしか理解出来なかったけど、その女の人の目が、何ていうかあまりにも真っ暗で、先の見えない洞窟のようで、私はその引力にひかれて、目を、意識を、そらすことが出来なかった。

 その女の人は話を続ける。

『彼は、お医者さんの話では、冬まではもたないから、多分あと二ヶ月もしないうちに倒れて病院に運ばれてしまう。私はその時にすぐ死ねるように、ある薬を持ち歩いてるんだ。もちろん。心臓には害を残さないものだけど。そうすれば、私の心臓を使ってもらえるでしょ?
 私はもう。あの人がいない世界では、生きて行く気になれなくて。わがままだとは思うけど、嫌なんだ。どうしても。だから文字通り私は、あの人の中で生きて行くことを選ぼうと思った。それが、私にとって一番良い選択なんだ。あの人にとってはきっと違うだろうけど……あなたはまだ七歳だったかな? 意味分からないよね。ごめんね。怖い話をしちゃって』

 そこまで話すと、女の人は泣き出したので、私が泣かないでと言うと、その人は私を抱きしめた。私はそのまま動かないことにした。

 そしてその人が泣き止むと、私達は席へと戻った。

 席に戻ると、女の人は何事もなったかのように、穏やかな表情で振る舞っていた。その二人の様子を見ていると、それはもう既に夫婦のように思えた。二人は本当によく似ていたから。
 


 ——–この話は、もう結構前の事だけど、私はあの岬であなたに助けられた時からずっと、記憶のどこかで何か引っかかってる気がしてた。それであなたが、亡くなった恋人の話をしてくれた時に、パチンッて綺麗に繋がった。やっと思い出すことが出来たんだ。

 だからお母さんはあの時『そこの人達が助けてくれる』って、私に言ったんだって分かった。

 暗い顔をしてた私に、いつも話しかけてくれてありがとう。疫病にかかってるかもしれないのに、受け入れてくれてありがとう。嘘をついたこと、許してくれてありがとう。絵の描き方を教えてくれて、いつも美味しい料理を作ってくれて、本当にありがとう。

 色々あったけど今思えば私は、不幸なんかじゃなかったと思う。スケッチブックをくれた時は、本当は飛び上がりたい気分だった。私も、あなたの体の一部になれたら良かった。それじゃあ、ばいばい」


 そしてその少女の形をしたものは、またぱちぱちと火花をちらしながら消えていった。ついに画面は真っ暗になり、深い静寂が訪れる。

 そこにはもう、生命と呼べそうなものは、何も残っていなかった。




「重なり合うプシュケーの塔」
 【第一部】 完

【第二部】二十六章 森の教会

【第二部】二十六章 森の教会

 

 ——–目を覚ますと、知らない天井がそこにあった。体の痛みを感じた。だから僕は、自分がまだ生きているということを知った。


 周りを見渡すと、そこは六畳ほどの大きさの部屋で、ベッドの他には、薬の瓶などが置かれた棚、四角い窓、その窓にひっ付ける形で置かれた机と椅子。そして木の扉があった。

 上体を起こそうとしたが、うまく力が入らない。体はぼろぼろで、心は他の場所に置き忘れて来たように空っぽだった。


 扉が開き人が入ってくる。見るとそれは、いつか浜辺で会った、膝にしゃれこうべを抱えた、あの盲目の老婆であった。老婆は何も言わずに窓を開け放し、手に持っていたグラスと薬を、ベッド脇のテーブルに置いた。そして、椅子に腰掛け、僕の方に顔を向けた。もちろん、目は閉じたまま。

 僕の気のせいだろうか、老婆はあの浜辺で会った時よりも若返ったように見えた。あの時は八十歳は過ぎたご老人だった気がするが、今はどう見ても六十代くらいに見えた。老婆ではなく、老婦人と言った方が良いのかもしれない。

「目が覚めましたか? 陽の光が眩しいでしょう。すぐ慣れますよ。ここは、もう誰も訪れることのなくなった、忘れられた教会です。かつては人で賑わっていたし、私もここの修道女だったけど、今はただ、ここが朽ちないように守りながら暮しているだけです。
 ここにはもうずっと誰も来ていないし、もし来たいと思う方がいたとしても、辿り着くことは出来ない筈です。それは道が複雑だからという理由ではなく、望まない人にとっては見つけようがないという意味です。
 だから、|プシュケー《魂》を休めるにはどこよりも適した場所です。まだ休んでいなさい。あなたはしばらく休んだ方がいい」

 そう言うと老婦人は、僕の左手を取り両手で包んだ。暖かく柔らかい老婦人の手には、混じり気のない慈しみがあった。その手は、僕の精神にのしかかる何かを、ゆっくりと退かせようとしてくれている。その何かは僕の内側で、胸の辺りから徐々にスライドして、左肩、左膝、左の手の平へ、そして、老婦人の手へと移って行く。

 途端、悲しみが胸に広がり、涙がぽろぽろと出てきた。空っぽだった僕の心が、痛みを取り戻したことが分かった。

 呼吸が、胸が、息苦しい。痛い…………。

 老婦人は手を離し「今は、泣けるだけ泣きなさい。その方がいいでしょう」と見える筈のない眼差しを向け、言った。

「私はもう少しやることがあるから、あなたは落ち着いたらそこの水を飲んで、まだ少しゆっくりしていて下さい。もし歩けそうなら、この辺りを散歩するのも良いかもしれませんね。この辺りは空気が澄んでいますから」

 そして、最初部屋に入って来た時よりも重い足取りで、老婦人は部屋を出て行った。僕の枕は既に、濡れてぐしゃぐしゃになっていた。

 頬が冷たいので僕は上体を起こしてみることにした。目が回るような感覚が訪れる。僕はどのくらい眠っていたのだろう。その回転が落ち着くまでしばらく、僕は目を閉じて待った。

 それからゆっくりと目を開き、ぼやけた視界で窓の外を見ると、どこかの森のようだった。老婦人が窓を開けて行ってくれたおかげで、初春の新鮮な空気が部屋に流れ込んできた。

 僕は、近くにある机の角を掴んで、腕の力を使い無理やり立ち上がる。机のすぐ横には杖が置かれていた。きっとあの老婦人が僕のために置いてくれているのだろう。僕は杖をつきながら歩き、部屋の扉を開けた。

 すると目の前に、美しい、教会堂内部の景観が開かれた。

【第二部】二十八章 暗い瞳の青年

 天井には花紋様の装飾が施され、カラフルなステンドグラスには、様々な物語が陽の光を通して七色に輝いている。柱頭には、ごつごつとした個性的な彫刻。そして祭壇には白い布がかけられ、その向こうの壁に、聖体を安置している証の赤いランプが灯っていた。

 僕は杖をつきながら身廊を歩き、誰もいない会衆席へ座る。あの老婦人がいつも掃除をしているおかげだろう。席には埃一つなかった。

 それからしばらく、僕はぼんやりと教会内部の様子を眺めていた。ふと壁に目をやると、所々から細い光が差し込んでいた。

 近付いて見てみると、壁にはガラス玉がいくつか埋め込まれており、そのガラス玉を通して入り込む光だと分かった。

 やがて外から老婦人が戻って来る。老婦人はこちらまで歩いてくると、僕の隣に腰掛けた。

「三十年ほど前。いえ。実際の時間で言うと五十年前です。まだ私もあなたくらいの歳の頃のことです。この周りにも人が住んでいて、多くの人がこの教会を必要としていました。


 ——–ある日の昼下がり、一人の青年が訪ねてきました。それはそれは深淵のような暗い瞳の青年でした。初めて見る顔で、身なりからしてもおそらく旅人だろうと私は思いました。長い紺色のローブを着込み、あちらこちら泥が跳ねて汚れていて、顔つきからしてまだおそらく二十代の中頃くらいだろうという感じでした。

 私が『なんの御用でしょう?』と尋ねると彼は、『もし水があれば、分けては頂けませんか?』と言いました。

 私は教会の裏手にある井戸まで青年を案内し、『ここの井戸水であれば好きなだけ飲んで構いません』と言いました。彼はお礼を述べ、井戸水を汲み上げて飲み始めました。それも、ごくごくと凄い勢いで大量の水を飲んだのです。

 もしかしたら数日、何も飲み食いをしていなかったのかもしれないと思い、私は『パンはいかがですか? 時間があるようでしたら、その着ているものも洗って差し上げますが』と提案しました。しかし彼は『ありがとう。だけど、今は時間がないからお気持ちだけ受け取らせて下さい』と丁重に断りました。

 それから私たちはまた教会の正面へ回り込みました。
『どうかお気をつけて。そして困った時はまたいつでも、この教会を訪ねて下さい』と私は彼に別れの言葉を告げました。

 すると彼は、鞄から綺麗な青色の輝く石を取り出すと、こちらに差し出し『これは、旅の途中に出会った商人から譲り受けた、マラムという宝石です。これを売れば、一年分ほどの生活の糧となるはずです。親切にして頂いたお礼です。受け取って下さい』と言いました。

 私は『これはしかし、私のした行いを遥かに超える対価です』と言いました。

 彼は『そんなことはありません。あなたは僕だけでなく、ここに訪れる全ての人へ分け隔てなく慈悲の心を向けてきたのでしょう。これでは足りないくらいです。それに僕は罪を犯した身の人間です。このような物を持ち歩くのは、あまり似合いません』と言いました。

 私は、青年の言うその罪というものが、何なのか分かりませんが、その暗い瞳からは何か深い部分で入り混じった、混沌のような心情が伺えました。
『ありがとうございます。では、この石はこの教会のために使わせて頂きます』と言い、私はそのマラムという宝石を受け取りました。

 彼は力なく笑い『もし時間があれば、僕はあなたに、その罪を打ち明けていたと思います。またこの国に来ることが出来たら、ここを必ず訪ねたいと思います』と言い、森の中へと消えて行きました。
 

 それから一年後、彼は本当にまた、この教会を訪れてくれたのです。

『お久しぶりです』と彼が現れた時は、私はまるで夢のように思いました。何となく、彼にはもう二度と会えないような気がしていたものですから。

 それから彼はほとんど毎日、この教会に訪れてお祈りをして帰るようになりました。彼がここに通ってくれている間は、私は彼と色々な話をしました。彼は両親の話や仕事の話など、たくさんのことを私に話してくれました。

 私も同じくらい、特に楽しくもない身の上話を、たくさんしたことと思います。気がつくと私は毎日、彼が来ることを楽しみにするようになっていました。
 そして彼の瞳はもう、初めて会った時のような暗い瞳ではなくなっていました。そうですね。それは、海のような……そんな、優しい瞳でした。きっとそれがあの人の、本来の色だったのだと思います」
 



 ——–老婦人は、光の失ったその目を閉じたまま微笑んでいた。

「ごめんなさいね。長話になりました。もうとても昔の話です。ただあなたの瞳が、その時の青年の瞳とよく似ているのです」

 そう言うと老婦人は、僕の顔を覗き込んだ。もちろん、まぶたは閉じたままで。

「今は確かに暗いけれど、また必ず元のような優しい瞳に戻るでしょう。さぁ、では行きましょうか。少し歩きますが、ゆっくり行きましょう」と老婦人は言う。

 僕は頷く。

【第二部】二十八章 故郷の花

 僕たちは教会を出ると、森へ入り坂道を上っていく。老婦人は、やはりあの浜辺で会った時よりも若返っているようで、山を上るその足取りも軽かった。

 だけど、ゆっくりしか歩けない僕を気づかい、合わせて歩いてくれているようだった。この人が白杖も無しに、山道を上ることが出来ることに対し、僕は特に疑問は持たなかった。この人の実体はきっと、あの浜辺に座る老婆なのだから。
 
 山道を登っていくにつれ、道端にちらほらと花を見かけるようになった。その花は、かつて僕が灯台近くの森で老婆に言われ摘んで帰ったあの中心が白く、花弁が水色の花。そう、少女の故郷の花だった。

 山道を上れば上るほど、その花が道を占める割合は増えて行く。そして、足元のほとんどがその花で覆われて、踏まずに歩くのが困難になってきたころ、やっと森を抜け、開けた場所へと出た。
 


 ——–そこは、一面その花で覆い尽くされた高台の丘であった。向こうには海も見える。

「さぁ、もうそこです」と老婦人は、その丘の中心の方を指差した。
 
 僕は、後ろを付いて歩く。既に花は、踏まなければ一歩も進めないまでになっていた。僕はなるべく、老婦人が踏んだ花の上を歩く。そして、丘の中心へと到着する。

 そこには、木で作られた墓標となる十字架があった。まるで故人を慰めるかのように、その墓を中心に、花はぎっしりと咲き誇っていた。いや、そうではなく、この墓が花を咲かせているのかもしれない。
 
 老婦人は墓の少し手前で止まり、僕を振り返る。

 僕は老婦人に深く頭を下げ、墓の前まで歩み寄る。

 少女の頭に手を添えるように、そっと、十字架の天辺へと手を置いた。

 しかし何も感じなかった。当たり前だ。それは……ただの冷たい木である。
 
 僕は目をつむる。風が吹き、花は揺れる。長い間眠っていた気もするが、この体にも、少女との記憶は残っているようだった。

 この十字架の下に、彼女が横たわっているのだと思うと、胸が締め付けられた。腹の弾痕が、熱を持ちうずき出す。

 結局、この子を守ることの出来なかった自分が情けなかった。むしろ守られたのは僕の方だった。

 重い扉が開かれ、心に抑えつけていた思いが、言葉となり流れ出る。

「僕はどうすれば良かったんだろう。初めて君を助けた夜に、やはりすぐ城に報告するべきだったのかな。それで故郷に送り返されるくらいなら、それなら、あの灯台で時間を使いながら、少しずつ生き方を見つけて行く方が良いように思ったんだ。
 
 だけどね。だけど……今だから、正直に言うと、君が来てくれたことが、僕は嬉しかったんだ。恋人が亡くなってからはずっと一人で暮してた。それは穏やかで自由な生活だった。一人でも幸せだからという理由で、僕は人と関わることを避けていたように思う。

 それが間違いだったとは、別に思ってないんだ。だけどね、君が来てからの方が、ずっと楽しかった。多分僕は、本当は誰かと話がしたかったんだと思う。一人じゃなく、誰かと空間を分け合って、下らないことでも報告し合って、そして、誰かの為にサンドイッチを焼くような生活を、僕は望んでいたんだ。望むことは怖いことだと知っていたから、僕は望まなかったんだ。今はもう、君とお喋りが出来ないから、つまらないね。
 
 僕が君の父親の代わりになれたかどうかは、分からないけど、いや、正直そんなことはどうだっていいんだ。ただ僕は。君が少しずつ元気になってくれてたことが、本当に嬉しかった。だって、良い人間が苦労するばかりの世界じゃ辛いだろ? きっとそんな筈はないって、もっと『世界』は、一人一人のために存在していて良いものなんだ。

 そしてその『世界』を見つけることが君の旅であり、僕の旅でもあったんだ。だから君は僕の中に、抱えきれないくらいの多くの意味を残してくれたよ。それは今までだけじゃなくて、これからもまだ僕の『世界』の中で増えていくんだ。きっと君のお母さんにとってもそうなんだよ。君が関わった人全てに、君はそんな風にこれからも、ここに咲くこの花達のように、凛とした姿を見せてくれる。

 今はこの陽だまりの中で、ただ、静かに休んでいてほしい。いつも、僕の手を引いてくれていたんだから。今度来るときは、あの傘をあの市場で買って持ってくるよ。いつものサンドイッチも持ってくるから。ここで食べたらおいしいだろうねきっと。それじゃあまたね。またすぐ来るから、それまで」
 
 あの日、あの岬で。僕たちが絵を描いていた時のような、一度会ったことのあるような、懐かしい風が海の方から吹き抜けた。

 冷たい木の上に生ぬるい涙が落ち、染み込んで行った。

【第二部】二十九章 海のような瞳

 僕が少女の墓の前で膝をついていると。後ろで見守ってくれていた老婦人が、僕の肩にそっと手を置いた。

「あなたのせいじゃない。もともとその子は……私の思念が生み出したものだった。きっとあなたと出会えて幸せだったと思う」
 
 そして、肩に置かれたその手は、瑞々しい若い女性の手であることに気づき、僕は振り返る。

 《《そこには更に若返った老婦人、いや、女性の姿があった。》》

 おそらく僕とほとんど同じくらいの年齢で、今まで閉じていた目は開かれ、初めて見るその人の瞳がそこにあった。それはもちろん、あの老婆が若返った姿ではあるが、この墓の下に眠っている少女の、成長した姿でもあるように思えた。

「その少女のことについて、私から少し、お話してもよろしいでしょうか?」と、女性は僕に尋ねる。

「……はい。お願いします」と、僕は答える。

「教会の壁に埋め込まれていたガラス玉を見ましたか? あれは、もう五十年も前の話になりますが、あの教会で襲撃事件がありました。
 やはり教会などは、他の過激な集団から狙われることもあるのです。

 先ほど私がお話したあの青年ですが、その時、あの教会にお祈りに来ており、その銃撃に巻き込まれ死んでしまいました。壁に埋め込まれたガラス玉は、その時に空いてしまった穴を塞ぐために、後で子供たちがはめ込んでくれたものです。

 あれも、運命だったと言うのでしょうか。いえ、ただ無残だったとしか言えません。私は悲しみに暮れ、自分の無力さを憎みました。私は人間にとって最も大切なことは、罪を許す心だと真っ直ぐに信じていました。しかし、あの青年が殺された時に気付いたのです。
 私は平和主義者でも博愛主義者でもなく、ただ問題に立ち向かう勇気のない臆病者であったと。現実はいとも簡単に、私の大切なものを奪っていきました。
 
 そして、その痛みと向き合わざる得ない状況に立たされた私は考えました。何日もまともに眠れず、必死に救いを探し続けました。救いなどありはしないことは、きっと気付いていたのです。
 しかし、その気づきを受け入れることは、私にとっては死よりも恐ろしく、真っ暗で、どんな魑魅魍魎が潜んでいるか分からない闇の中へと、身一つで飛び込むような、そんな恐怖と絶望がありました。本当に私は愚かでした。既に地獄だったのに。私の立っているところは、まぎれもない地の底だったのに、救いだなんて笑える話です。
 
 私は修道女を辞めることを決意し、その事を長上に伝えました。長上は残念そうに『こんな時だからこそ、今はここに留まるべきだ』と言いました。私を本当に心配してくれていたことは分かりましたが、私は、お世話になりましたとだけ言い、教会を出て行きました。

 私はそのまま青年の墓まで行き、墓から骨壺を取り出すと、壺を布袋で包みました。その様子を、長上と一人の修道女が見ていましたが、何も言わないので、私も何も言わず、その壺を胸の前に抱えて立ち去りました。
 
 私は家に着くと、テーブルの上に、持ち帰った骨壺を置き布を解きました。そしてその横に、空の瓶を置き、教会から持ってきた、神を宿すと言われるいくつかの品々を瓶に詰めました。

 その品々とは、『子宮への回帰』と呼ばれる儀式で使うものです。私は、このように願いました。

『強かで、悪魔に対して武器を向けることが出来、愛する人を守るための強い意思と勇気を持った新しい命』
 それが産み落とされますように。私の命と引き換えでも構いませんから。

 それから私は、あらかじめ用意してあった薬を使い目を潰しました。

 そして、使えなくなった二つのそれらを取り出し、一つを骨壷の中へ、もう一つを瓶の中へ入れました。そのようにした理由は、二つの思念に「目」を持たせる必要があったからです。

 そして瓶は海へと流し、壺は家で保管しました。

 本来は『子宮への回帰』は、そういった風に行うものではないのですが、ただ、私のその強い思念……いや、そんな綺麗なものではなく、渇望と言った方がいいでしょう。

 私の渇望の一つはこの地に。もう一つは海を漂いました。

 やがて、その二つの「目」は、あなたのプシュケー、そして少女のプシュケーを、それぞれに見つけました。

 あなたのプシュケーは青年の遺骨の方へ、その少女のプシュケーは海を漂う瓶の方へ、それぞれに惹かれ、結びつき、宿りました」
 
 そこまで話すと、話を一度区切るように、女性は目を閉じて静かに深呼吸をした。

 そして、僕が瞬きをしている間に、既に女性は幼い少女へと姿を変えていた。

 その少女は、「少女」の墓の方を見下ろした。自身の無念を受け継いで散った少女のことを、考えているようだった。

「だけど別に、この少女の半分がわたしで、あなたの半分があの青年だとか、そういうことではないんだ。あなたはあなただし、この子はこの子。ただ、始まりのきっかけがそうだったというだけの事なの。
 だけどやっぱりその子の中には、私があの時あの人を守れなかったことの無念が、きっと強く影響してたから、だからこの子は、あんなにも強かったし、自分よりもあなたの命を守ったんだと思う」と少女は言った。
 
 しかし、彼女は何かに気付いたように、少しの間黙り込み、こう言い直した。

「ううん。ごめん違うね。この子があなたを守ったのは、あなたがこの子に、ちゃんと愛情を注いだからだね。きっとこの子が、今まで経験したことのないくらいの愛情だったんじゃないかな。だからだね」

「……ありがとう」と僕は言う。 
 
 その少女の顔は、僕が共に過ごした少女と、どことなく似ていた。それは多分、同じ使命を抱えたもう一つの姿であるからだと思う。だけどあの少女よりもか弱く、無邪気でまだ何も知らない、どこにでもいるような、健康な少女の姿だった。

「君はあの青年の事を、海のような優しい瞳だったと言ったけど、君も、同じ目をしているよ」と僕は言った。
 
 少女は「あなたもだよ」と、言って笑った。それから「あのね。あんまり悲しまないで。きっとこの子は、またいつかどこかで、あなたの事を思い出して、それで、再会するための旅に出る筈だから」と言った。

「それは、どういうこと?」と僕は尋ねる。
 
 しかし少女は何も言わず、くるりと回転し僕に背を向けると、一面の花の中を、森の方へと歩いて行った。そして向こうの方から「じゃあね! 幸運を!」と言い手を振った。そして森の中へと姿を消してしまった。
 
 一人残された僕は、少女の墓を振り返りもう一度見つめる。

 僕が知っている、これまでの少女の勇敢な姿や、普通の子供らしい姿を、僕は恐れることなく、今やっと鮮明に思い返すことが出来た。

 そしてそれは、僕の胸を暖かく満たしてくれた。

「僕も、やるべきことをやらなくちゃね」と、少女の墓に向かって言った。

【第二部】 三十章 再び灯台へ

 ——–僕はその日の夜には、必要なものを鞄に詰め込んでいた。


 まだ傷が完治したわけではなかったが、いつまでもここにいるわけにもいかないし、不思議と痛みはほとんど無かった。

 家は燃えてしまい、僕の手元にはダガーナイフとコンパスしかなかったが、僕が寝かされていた教会の小部屋の壁には、ランタンと薄手の黒のローブが掛かっていた。

 そのローブはおそらく、神父が着るものであると思うが、シンプルな作りであまり聖職者ぽくなく、他に着るものもないので、着ていくことにした。

 そして、机の上には「これがマラムです。きっと何かの役に立つから持って行って下さい」という置き書きと共に、ほんのりと青みがかった、約二十カラット程の重さの、透き通る石が置かれていた。

 僕はその宝石を手頃な大きさの布で包み込み、鞄にしまった。そして最後にランタンを手に持ち、部屋を出た。
 
 教会正面の入口まで進み扉を開いた。一歩踏み出し、教会の扉を閉め、お世話になったその教会を見上げる。

 そして、この中に居たであろう、あの人の|プシュケー《魂》にお礼を言う。マッチを擦ってランタンに火を灯し、僕は夜の森へと足を踏み入れた。
 
 

 ——–あの教会は老婦人が言ったように、もう長年誰も訪れていない、人々から忘れ去られた場所だったようだ。またもう一度行きたいと願っても、辿り着けるかどうかすら分からない。
 
 おそらく銃撃事件があった辺りから誰も訪れなくなり、少しずつ廃れてゆき、あの人は周囲の森ごと、教会を隠してしまっていたのだろう。もうこれ以上、悪意に教会を汚されないように。
 
 森を抜けるのは簡単だった。道が手にとるように分かった。それはやはりこの森自体が、あの人の意識の一部だからだろうと思う。僕に、道を示してくれているように思えた。そしてなんと、五分と歩かない内に森を抜けることが出来た。
 
 目の前には海岸……ではなく、最北端の岬だった。目の前に灯台がある。

「どうして……」と僕は思わず呟いた。
 
 僕は、半年前にこの灯台を逃げ出し、父の別荘のある、北西の地方に居た筈だった。そしてその家の前で、あの使いの男に撃たれたのだ。あそこからこの岬まで、随分離れている筈なのに。
 
 僕は振り返り、今自分が出てきたばかりの森を見つめた。森はただ静まり返り、岬からの潮風を受けた葉が、微かに揺れていた。

 きっと、この森に再び入り、来た道を引き返したとしても、もう二度と、あの「森の教会」へ、たどり着くことは出来ないのだろう。

 ……いや、もしくは。まだ僕はあの老婦人の内側に留まっているのかもしれない。

 今朝、教会で目を覚ましてからは、説明のつかない不思議なことばかりが起こってしまっている。僕はひとまず考えることを止め、灯台下の家の方まで歩き始めた。
 


 ———家には灯りが灯っていなかったが、僕は扉の前に立ちゆっくりと丁寧に、三回ノックをした。

 それは、使いの男が来る時にいつもするノックと同じやり方であることに、自分でやってみて気付いた。その気付きは僕を嫌な気分にさせた。長年あの男のノック音を聞いていたので、その音とリズムが、頭に染み付いているようだった。

 やはり返事は返って来ない。誰もいないようだ。新たな管理人が居てもおかしくはないのだが。僕は扉のドアノブに手をかけ、ゆっくりと回し、前方に力をかけた。部屋の中に月明かりが入り込み、部屋の様子が少し見える。とても懐かしい匂いがした。
 
 電気をつけ、部屋の様子をじっくり見渡した。その様子は、驚くほどそのままであった。

 僕たちがここを飛び出したあの日から、何も変わっていないように見える。半年もの間、誰もここを訪れなかったのだろうか。いや……というよりも、正直僕には、あの日から一日も時間が進んでいないように見えた。

「ただいま」と僕は小さく呟く。
 
 するとそこに。ベッドに腰掛け本を読む少女の影が見えた。また、中央のテーブルでシチューを啜る少女が見えた。中身のない話で盛り上がる少女と、僕の姿まで見えた。

 ここではまだ、あの日の僕と、あの日の少女が暮らしているようだった。

 今ここで、その二人の様子を見ているこの「僕」は、きっと既に別人なのだろう。一度死んだようなものなのだから。

 僕は「お邪魔します」と言い直し、部屋へ足を踏み入れ、扉を閉めた。
 
 僕はベッドに横になり、部屋の中をボンヤリと見渡した。

 それから一度目を閉じてみる。

 すると、部屋の中にはやはり二人の気配があった。

 目を閉じ、ゆっくりと呼吸をし、頭を空っぽにする。意識を、内ではなく外に集中させるよう務めた。

 少女が動く気配や小さな物音が、少しずつ、より鮮やかで立体的な音に聴こえてくる。

 まるで僕の心臓や血管、脳の細胞までもが、この空間に存在していた少女の情報を、可能な限り正しく、そして純粋に捉えようと努めているように思えた。
 

 これは、いつのことだろう……?
 
 少女は、何をしているのだろうか?


 (それは。暖かい日差しが窓から差し込む正午前。少女はどうやら絵を描いているようだった。すぐそこの椅子に座り、ソファの方に向かい何かを描いていた。とても真剣に、何かを観察しながら描いているようだ。
 少し描くとスケッチブックから鉛筆を放し、前方の何かを眺める。そしてまた少し描く。時々、消しゴムで修正をした。そして、その上をまた薄くササッと鉛筆でなぞっている。
 しかし突然、焦ったように、クルッと体を半回転させ、ソファではなく机の方へと向き、スケッチブックを閉じると、急いで引き出しに閉まってしまった)
 
 

 ———僕はそこで目を開ける。


 少女はその時、何を描いていたのだろう?
 
 僕はベッドから起き上がると、机の前に行き引き出しを開けた。するとそこには、少女の使っていたスケッチブックが一冊入っていた。

 そうか。あの時急いで飛び出したから、ここで使ってたスケッチブックは、ここに置いたままだったんだ。

 僕はそのスケッチブックを取り出し、開いてみる。花の絵、海の絵、野菜の絵、蝶の絵など、いろいろな絵が描かれていた。見たところ、どうやら風景よりも、物や虫など、近くにある物を見て、細かく描く方が得意なようだった。

 それは僕とは逆だった。僕はどちらかというと風景を描く時の方が自然と、あまり何も考えずに描くことが出来る。何かを観察して細かく描くのは苦手である。

 だからそうだな。まず、あの子に花を描いてもらい、僕がその後ろの木々や丘などを描けば、バランスの取れた良い絵になるんじゃないかな。多分、僕たちが共に過ごした時間も、そんな風に成り立っていたんだと思う。しかし本当に、こんなにたくさんの絵を描いていたなんて。
 
 スケッチブックはめくってもめくっても、また次の絵があった。このスケッチブックの中にはあの子がここで暮らした日々と、命と、ささやかな幸福が感じられた。

 ページが、永遠に終わらなければ良いと思ったが、とうとう最後のページとなった。そして、最後のページをめくる。


 そこに描かれていたのは、「眠っている僕の顔」だった。
 

 目の横にあるホクロや鼻の形など、とても上手に描けていた。髪の毛も上手だった。耳も、まつ毛も、とても上手だ。上手なだけではなく、他の絵よりも明らかに丁寧に描かれていた。

 きっと時間をかけて少しずつ、僕が寝ている間に描いていたんだろう。僕に見せるつもりだったのだろうか。間に合ったのだろうか。この絵は完成品で、僕が見て良かったのだろうか。

 部屋にいる少女の気配に尋ねてみようと一瞬思ったが、やめた。結果は分かっているし余計悲しくなるだけだ。既に、僕と彼女は違う世界にいるのだから。

 それは亡霊とかではなく、何と言えばいいのか分からないが、ただ確かに「命を持った気配」がそこで暮らしていた。僕はスケッチブックを鞄の中にしまい、もう一度ベッドへ転がり目を閉じた。
 
 

 ———今、目を開けば、目の前で少女が、僕の寝顔を描いているところかもしれない。だとしたら今は、目を開けてはいけないな。

 そんなことを考えながら、僕は鉛のように重い体を、泥の中へ沈み込ませ、深い眠りについた。
 

【第二部】三十一章 真相

 ———朝になり、窓から陽が差し込んでいた。

 頭はかなりぼんやりとしている。あまりに疲れていたので、自分でも信じられない程深い眠りについていたようだ。

 まるで二十四時間一度も目覚めることなく、ぐっすりと眠ったような感覚だった。まだ上手く焦点が合わないが、部屋の中を眺めてみる。すると、昨晩見た時とは、部屋の様子がまるで違っていた。

 昨晩は確かに、僕と少女が住んでいた部屋そのものだった。僕が記憶している限りでは、間違いなくそうだった。

 それに何よりも「少女と自分」の気配が消えていた。昨日眠りに就く直前まで、くっきりと感じていたそれは、跡形もなく消滅していた。
 
 僕は一度目をこすり、感覚ではなく、そこにある物質的なものを一つずつ見ていくことにした。家具の配置は、さほど変わってはいなかったが、部屋の中心に置かれている長方形のテーブルは、僕が以前使っていた物とは違うし、部屋の角に置いている冷蔵庫も、一回り大きいサイズのものに変わっていた。ソファもベッドも、やはり全く別物に変わっていた。
 
 僕はベッドから起き上がり、テーブルの上を見てみる。するとそこに、監視記録の束と、多分、城の使いに向け書かれた一枚の書置きがあった。そこには「連絡を差し上げた通り、一カ月分の監視記録です。お持ち帰り下さい」と書かれていた。
 
 やはりこの灯台にも、既に新しい管理人が就いているようだ。しかし、どうやらメモから察するに、今はここを空けていて、城の使いが取りに来た時の為に、ここにこの監視記録を置いて何処かに出掛けている。という感じだろうと思う。

 その時だった。
 
 コン、コン、コン

 と扉を誰かがノックする音が聞こえた。慌てて窓の方を見ると、使いの男が着る城の制服が見えた。

 まずい! と思ったが。

「こんにちはー」と扉の向こうから声がした。

 しかしその声は、僕の想像したあの男の声とは違った。おそらくもっと若い、二十代の男の声だ。

「い、今開けます」と言い、僕はゆっくり扉を開いた。そこに立っていたのはやはり、あの眼鏡の使いの男ではなく、初めて見る若い青年であった。

「ごめんなさい。もしかして、まだ休まれていましたか?」と、その青年は、焦った様子の僕を見て言った。

「いや。申し訳ない……」と僕は恥ずかしい気持ちと、あの使いの男でなかったことの安堵の気持ちで、少し混乱していた。

「ええと、初めてですよね? お会いするの。新しくここの担当になった者です」と、その若い青年は言った。

「あ、ああそうか。すまない。すっかり寝過ぎてしまったようで」と僕は答える。

 だけど、新しい担当だって? こんなタイミングで。

「じゃあ、前の担当の眼鏡の男は、別の地区の担当になったのかい?」と僕は尋ねる。
 
 すると、若い使いの青年は、なにやら深刻な表情になった。

「あなた……ご存知ないんですか?」と若い使いは、何か事情を含んだ言い方をした。

「ああ、すまない。教えてくれないか」と僕は素直に答える。

「あの男はいま、指名手配中です」と彼は言ったが、僕にはよく理解が出来なかった。

「指名手配って、どうして?」

「あなたは、あの男から何か異常さのようなものは感じませんでしたか?」と若い使いの青年は言う。
 
 あの男が異常なことは、今の僕は誰よりも身に染みて分かっている。けれどこの青年が、僕たちに起こった一連の出来事を知っているとは思えなかった。

「いや、分からない」と僕は答える。

「そうですか……いえね。僕も城に勤め始めたばかりの時、あの男から研修を受けている期間もあったもので、本当に驚いたのですが」と青年は言い、鞄から二枚綴りの紙を取り出した。「あなたも城に仕える人間なので、一応、お知らせしておく必要があるのですが、結論から言いますとあのメガネの男は現在、殺人容疑で指名手配中となっています」

「殺人容疑だって⁉︎」

 なぜ……? 僕や少女との間で起こった事件のことを、城側が知っているとはやはり思えなかった。

「詳しく教えてくれないか?」と僕は尋ねる。
 
 若い使いの青年は手に持った用紙に目を落とし、あのメガネの元使いの男が、指名手配となるまでの経緯を話し始めた。

「つい先月の話ですが、夕方頃、私たちは仕事を終えて帰ろうとしていました。そこに突然、女性が一人、城の保安課に駆け込んで来ました。そして、人殺しを見たと言うのです。
 彼女は主婦で、国の北西に位置する山村から来たと言いました。その場所はあのメガネの男が担当している地区でもあり、まさにその日は、そこに記録の回収に向かっている日でしたから、我々は彼に話に参加してもらおうと思い、帰りを待ちました。

 そしてしばらくして、仕事を終え帰ってきた彼に、その女性の待機する部屋へ行くように指示しました。彼は『分かりました』と素直に、急な申し出にも応じました。
 部屋の中には、保安課の窓口で話を受けた中年の男性と、その女性が待機していました。しかし、部屋に入って来た彼の顔を見るなり、その女性は静かに震え出し、俯いたかと思うと『すみませんが、お手洗いをお借りして良いですか?』と言いました。そして足早に部屋から出ると、課内の別の者に、『あの眼鏡の男が犯人です』と耳打ちしたのです」
 
 僕には正直まだ、正確に理解が出来ていなかった。どういうことだ? つまり、僕たち以外にも被害者がいるということか? 青年は話を続ける。

「私たちも本当に驚きました。なんせ影の薄い人物でしたし、礼儀正しく丁寧な言葉を使う男でした。だから最初はきっと人違いだと思ったのです。眼鏡をかけた細身の男なんて結構いますから。
 だけど、その保安課の中年男性が、念のため事情は伝えずに、『仕事終わりのところ申し訳ないが、事情聴取をさせてもらってもいいか? 今日、あの地区に行っていた者にはやっておくように言われてね』と言うと、メガネの男は『構わないが私も今戻ったばかりで、急に連れ回されてるんだ。先にトイレくらい行かせてはもらえないか?』と言ったんです。鞄を置いて行くことを条件とし、保安課の中年男性はそれを了承しました。
 それから、トイレから帰ってくるのを待っていたのですが、彼はいつまで経ってもトイレからは戻りませんでした。それが我々が見た、彼の最後の姿でした。そしてその後、置き去られた鞄からは拳銃が発見されました。
 
 後日、駆け込んできた女性の言った現場を捜索したところ、死体が発見されたのです。殺された人物はその山村に住む、貧しい家庭の主でした。そして、死体から出てきた銃弾が、あの男の鞄にあった拳銃に込められていたものと一致しました。その女性の証言や、彼がそのタイミングで行方をくらましたことなども含め、我々はあの男を指名手配とし、捜査に踏み切ることとなりました」
 
 僕は激しいめまいに襲われ、椅子から床に倒れこんでしまう。

「大丈夫ですか!」と若い使いの青年は、駆け寄る。
 
 つまりアイツは、そもそも常習的な殺人犯だったということなのか?

 殺されたのは少女だけではなく、他にもいるということか。

 確かに、城の制服を着ていれば、疑われることもないだろう。だから何かしらの理由をつけて、人目のつかないところに連れて行くことも容易だったんだ。

「大丈夫。ありがとう」と僕は答える。
 
 僕はあの日、男に拳銃を突きつけられ連行されそうになった時の事を思い出す。あのまま連れて行かれていたら僕は、森の中で殺されていたのかもしれない。確かに今考えれば、僕に不審なところがあったのに、衛兵も引き連れずに単独で引き返して来たことは、おかしいことであった。

 少女はあの時本当に、僕を救ってくれていたんだ。

 それにあの時、僕があの子を止めず、あの場でちゃんと殺してれば……そう思わずにはいられなかった。悔しくて仕方がない。

 あの男を憎めばいいのか、自分の無能さを憎めばいいのか、あの子のように、いやせめてあの老婆の言った通り初めから、あの男の危険性を見抜くことが出来ていれば。

「だ、大丈夫ですか?」と若い使いの青年は僕に、心配そうに尋ねた。

「ああ。だ、大丈夫だよ。いつも、顔を合わせていた相手だったから、少し驚いてしまって」と、僕は何とか声が震えないよう、気をつけながら答える。

「分かります。私も初め聞いたときはショックでした」

「だけど指名手配中って、あの男の行方に関する手がかりは、何か掴めているの?」

「いや、私も保安課の人間ではないのでそこまでは。私が知っていることはあの男の生まれ故郷くらいです。先程も言いましたが、私が城に勤め始めたばかりの頃、担当する地区が近かったこともあって、あの男に研修をしてもらっていたんです。
 その時に故郷のことを一度だけ聞いたのですが、意外な場所の出身だったので、何となく記憶に残っていたのです」と若い使いの青年は答える。

「そうか。ちなみにその生まれ故郷っていうのは、どこなんだい?」と僕は、興味本位の質問であるかのようなニュアンスで尋ねる。

「国の『南西にある農村』です。比較的、貧困層の国民が集まる村で、おそらくこの国に数ある集落の中でも、かなり貧しい方の地域と言えるでしょう。あの男はどちらかというと、街出身者のような雰囲気があったので、私としては意外だったのです。洋服もわりといつも、高価そうなものを着ていましたし、だからこそ印象に残って覚えていたのです」と、青年は教えてくれた。

「そうか。確かに意外だね」

「はい。しかしどうやら収穫はなかったようです。先月、既に城の保安課から数名、捜査に向かいましたが、行方の手掛かりとなるようなものはなかったようです」と、若い使いの青年は答える。
 
 
 それはそうと、何やら彼は、さっきから僕のことを少し不思議な様子で眺めているように見えた。

 すると「すみません。一つ、お尋ねしてよろしいでしょうか?」と僕に言った。

「あ、うん。何?」と僕は返す。

「どうして、黒いローブを着ているのですか? まるで教会の神父のようだ」と、彼は言った。

「ああ、いや、深い理由はないんだけど、悪いデザインじゃないから、着てるだけなんだ。変かな?」と、僕は適当に答える。

「いえ、変ではないですが、珍しい格好だったもので気になっただけです……ああそれで、今日は私は、監視記録を受け取りに来たのですが」と、若い使いの青年は言う。
 
 僕は、テーブルに置いていた、一か月分の監視記録の事を思い出す。

「はい。ではこれを」と言い、僕は書置きの紙は省いて、監視記録の束を彼に渡した。

「……あれ? しかしそういえば。本日はここに居られないから、記録だけを取ってくるようにと、言伝を受けていたのですが」と若い使いの青年は言う。

「ああ、すまない。予定が変わってね」と僕は答える。そうか。どうやら彼も、担当地区が変わって初めての訪問なので、僕が既に、ここの管理人じゃない事には気付いていないようだ。

「そうでしたか。承知しました。では、そろそろ失礼したいと思います」と言うと、彼は丁寧に頭を下げ、部屋を出て行った。

  僕は「ありがとう。それじゃあまた」と言い、扉を閉めた。
 
 扉の向こうで車のエンジンがかかる音が聞こえ、若い使いの青年は去っていった。

 次回、彼が来た時には、また違う人間が管理人をしているわけだから、きっと驚くだろうな。僕は少し申し訳ない気持ちになった。

 しかし、これで次に行くところが決まったわけだ。「南西の農村」か。
 
 

 ———僕はその時、閉めた玄関の扉の辺りに何か違和感を感じた。しかし、何によってもたらされている違和感なのか分からなかった。だけどどうしても、何かが引っかかる。何年も見続けたこの風景が、よそよそしく感じられた。

 久しぶりに見たからだろうか?

 しばらく考えてみたものの、答えは見つかりそうにないので、僕はあきらめてベッドへ腰かけた。そしてあの日、ここを、少女と共に飛び出した日の事を、何となく思い出していた。
 
 
 あの日僕が扉を開くと、そこの食卓の椅子に、使いの男が足を組んで座っていた。玄関から入ってきた僕は、まず少女が部屋のどこにも見当たらない状況に焦る。
 
 そして使いの男は、僕を徐々に追い詰めるように、いやらしい言い方で僕に質問を投げかけてくる。僕は彼の質問に対応しきれず、ついには拳銃を抜かれ、発砲されてしまう。

 放たれた銃弾は、僕の顔の少し左辺りを通り、後方の壁に穴を開けた。

 つまり、この位置から見ると、玄関の扉の右上辺りだ。僕はベッドに座ったまま目を細め、その辺りにあるはずの穴を探してみた。しかし上手く見つけることが出来ずに、再びベッドから立ち上がり、玄関の前まで歩いた。
 
 そう。僕はこの辺りに立っていた。

 そして使いの男は、部屋の中心に置いてある、そこの食卓の椅子に座ったまま、僕に対して発砲した。間違いない。

「だからこの辺りに、弾痕があるはず」と、僕はそう呟きながら、玄関の扉の周りの壁一面をくまなく探す。

 しかしそれでも、あるはずの穴は見つからなかった。

 そうか。僕がさっき感じた違和感というのは、これが原因だったのか。
 
 あの日、使いの男が空けた筈の壁の穴は、どこにも残っていなかった。

重なり合うプシュケーの塔

重なり合うプシュケーの塔

大雪の晩。灯台に住む青年の元に流れ着いた10歳の少女——物語は50年前の、ある教会の襲撃事件から始まっていた。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-11-07

CC BY
原著作者の表示の条件で、作品の改変や二次創作などの自由な利用を許可します。

CC BY
  1. 【第一部】プロローグ 流れ出す生命
  2. 【第一部】一章 北の灯台
  3. 【第一部】二章 出会い
  4. 【第一部】三章 涙
  5. 【第一部】四章 朝食(トマトとチーズのサンドイッチ)
  6. 【第一部】五章 あなたの命はあと十日です
  7. 【第一部】六章 目を潰した話
  8. 【第二部】七章 母からもらった本
  9. 【第一部】八章 生きていてはいけない人間
  10. 【第一部】九章 絵の描き方
  11. 【第一部】十章 本棚の上の本
  12. 【第一部】十一章 城の使い
  13. 【第一部】十ニ章 油断
  14. 【第一部】十三章 助言
  15. 【第一部】十四章 推理
  16. 【第一部】十五章 試練
  17. 【第一部】十六章 逃亡
  18. 【第一部】十七章 満月の夜に彼女が死んだ理由
  19. 【第一部】十八章 花の名前
  20. 【第一部】十九章 告白
  21. 【第一部】二十章 夜を駆ける
  22. 【第一部】二十一章 深緑色の傘
  23. 【第一部】二十二章 朝焼け
  24. 【第一部】二十三章 骨髄
  25. 【第一部】二十四章 おまもりのうた
  26. 【第一部】二十五章 パレード
  27. 【第二部】二十六章 森の教会
  28. 【第二部】二十八章 暗い瞳の青年
  29. 【第二部】二十八章 故郷の花
  30. 【第二部】二十九章 海のような瞳
  31. 【第二部】 三十章 再び灯台へ
  32. 【第二部】三十一章 真相