フェアリーテール

 ママがきえて、かなしいのか、うれしいのか、どちらかといえば、うれしいのかもしれませんと、女の子は言う。地味な色のワンピースに、白いエプロンをして、なんだか、童話の、マッチを売っている少女みたいと、サクマがつぶやいて、女の子がひかえめに笑う。百舌鳥(もず)は、ふたりのようすをながめていて、ぼくは、人数分のレモネードをつくることにする。女の子と、サクマは、年齢が近いせいか、はじめましてのわりには、みょうなギクシャク感がない。ぼくも、パパとママ、いないよ。サクマのことばに、女の子はうなずいて、いまは、そうめずらしくないですよね、と言って、ぼくは、ひそかに首を傾げる。パパとママ、もとい、おとうさんとおかあさん、という存在は、いま、この世界に生きているものにはかならず、もれなくひとりずつは、かならずいる、もしくは、いたもので、女の子やサクマの年頃には、だいたいはいるもので、むしろ、いない方がめずらしいではないかと思いながら、しかし、ぼくや百舌鳥が、ふたりのように幼かった頃とは、価値観というか、世の常識というのがすこしばかり、ちがうのかもしれないとも思う。午前中にやっているテレビ番組は、とくにこれといって興味をひかれるものがない。さっきまでサクマが観ていたアニメも、かわいいのか、きもちわるいのか、ひとによって異なる感想を抱きそうな、よくわからないキャラクターが、画面中をはしりまわっていた。情報番組の、あの、芸能人のおおげさなリアクションに、寒気をおぼえることがあるという百舌鳥は、女の子とサクマを観察しながら、さりげなくテレビを消した。女の子のママは、海の一部となった。サクマのパパとママも、同様である。ぼくのおとうさんとおかあさんは健在だが、百舌鳥のおかあさんは、行方不明である。たまに、パソコンにメールが来るから、生きていることは確かで、生きているのならばべつに、他人様に迷惑をかけるような悪いことをしていなければ、どこでなにをしていようとかまわないというのが、百舌鳥の自論だった。おとうさんがいるから、百舌鳥は、おかあさんがいなくてもいいのかもしれなくて、逆におとうさんがいなくなったら、百舌鳥はきっと、おかしくなるとぼくは予想しているので、どうか百舌鳥のおとうさんには一生、百舌鳥といっしょにいてほしいと思っている。沸かしたお湯で割ったホットレモネードを、グラスひとつずつ、マドラーでまぜながら、ぼくは、女の子の長い髪からのぞく耳朶にイヤリングがあることに気づき、マッチを売っている少女ではなく、くまにおいかけられる少女だと、その光景を思い描いていた。

フェアリーテール

フェアリーテール

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-11-06

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