夏と月光と海

haruha

第一話

 私の妻のエレナは、死んだ。
 夏の青い海で。

 ―カトレア―
カトレアは、薬である。
 解熱剤や、咳止めなどではない。
将又、入院中に医師から貰うような病を治す薬でもない。
 一錠で一歳若返らせる薬である。
 一見すると魔法のような薬であるが、その副作用は、魔法的ではない、その副作用は『若返らせた一年の記憶が消え去る』
というものである。
つまり、その薬を呑むと、身も心も若返るのだ。
 その薬は、私が作った薬だ。
 『カトレア』を求めるほとんどの人間は、老夫婦や、人生に全く満足していない人間である。後者のほとんどは、
若返りではなく、記憶が消える副作用が目当てなのである(若返りはおまけなのである)
 病には全く効果がないのでカトレアは、主に、神経精神科で処方される。
 この薬が世に認められるまで、思ったより時間は掛からなかった。むしろ、人々は寛容だった。
 ―遡行―
 西日がチェコ・プラハの町を照らす。
それに川が答えるように光る。
夏草は、風を受け、一人が弾くヴァイオリンの音色を運ぶ。
俺はそれを力強く立ち、受け止める。
 今日は老人らしく、朝早く起きることが出来た。
 水一杯を飲み、簡単に歯を磨き、朝食の準備を始める。
それが終わると、エレナを起こしに行く。
 彼女はとても綺麗だ。
エレナは起きると、彼女は欠伸をした。
 ミルクを飲み、朝食を食べながら、
「今日は、クリニックへ行くのよ」
「ああ。分かっているよ。十時の予約だろう」
と短い会話を終え、各自、自分の部屋で支度を始める。
 今日は大切な日だ。
今日のような日は、白いワイシャツにスーツパンツが良い。
帽子でも被ろうか。
 エレナも準備が終わったので、腕を組み、車に乗り込んだ。

 現在、エレナは、病に侵されている。
それは、今の技術では治せないと言うが、ただ進めていないだけだ。
エレナは「こんな病で死ぬより、カトレアを呑んで若々しい姿で、貴方と死にたい」
エレナが死ぬのだったら俺も一緒に死ぬ。

 静まり返った待合室でエレナの弱った声が狭く広がる。
「最近、あたし、おかしな夢を見るのよ。自分が染みになったっていうことしか覚えていないけど、可笑しいわよね」
血色の悪い唇が、クシャっと折れる。
なんと答えたらいいのか俺にはわからない。
「夢ってのは可笑しいものだ」
「そうよね」

 「フランコヴァーさん。二番の部屋にお入りください」
 突然、待合室にナースの声が響いた。
「やっとね。行きましょう」

 「今日は、えーっと、カトレアの治療ですね。お二人は、副作用目当てではないですよね」
目の前に座る医者がカルテを捲る。
「それは、どういう」
「結構いるんですよ。副作用は知っていますよね?」
カトレアの副作用は、若返った分の記憶が消えることだ。
「はい。勿論」
隣に座るエレナも頷く。
「カトレアの副作用はかなり強力なものです。薬を使いすぎると、重度の認知症を患ったり、人や場所を忘れてしまうこともあります。それは、大丈夫ですか?」
当たり前だ。第一そこまでカトレアを使う予定も金もない。
「はい」
エレナも頷くが、一瞬、躊躇が見えた。
「お二人は、当日治療のご予約でしたね。じゃあ、一旦受付で書類にサインをしてもらって、そうしたらすぐ入院ですね」
「はい。分かりました。ありがとうございます」
 重い診察室のドアを開ける。

夏と月光と海

夏と月光と海

  • 小説
  • 掌編
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-11-04

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