殺人病

紫田夏来

#1

「祐実、ちょっと入るわよ」
「入るわよ」ということは、入ってもいいか確認をとるつもりはないということ。伯母さんはもう入るつもりでいるから、入らないで欲しいという私の気持ちは分かってもらえるはずがない。十七歳の姪の部屋に許可なしで入るなんてあり得ないって、こいつは分からないのかよ。
 足の不自由なお婆ちゃんと、お母さんの姉と、私。ド田舎の小さな集落で、私たちは暮らしている。父は十何年も前に死んだし、母は八百屋に行くと言って家を出たきり戻っていない。私は天涯孤独。このババアと顔を合わせる度に痛感する。結婚に失敗した出戻りクソババア。
 これでも、私は東京の大学に進学するために勉強に励んでいるんだ。高校を卒業したらすぐにでも自立してやる。家の中なのにケバい化粧をして、くさい香水の臭いをプンプンさせているババアは邪魔でしかない。大っ嫌い。
 このうっぷんを吐き出そうと、私は将人に電話した。

 スマホが震えたので確認すると、二宮祐実と表示されていた。なんと間の悪い。やっと千夏とデートにこぎつけたというのに。
「悪い、電話だ。」
「誰から?」
「先輩」もちろん嘘。デート中に他の女からの電話に出るなんて、絶対千夏に嫌われる。
 あいつは何かあると必ず俺を頼ってくる。やっとあのクソ田舎から抜け出したというのに、祐実と話した途端現実に引き戻される。俺は田舎者。この場所の人間じゃない。頭の中に住み憑いた何かが、俺に訴えかける。
「なんだ?」
「ババア。また襲ってきた。」
「それだけか?切るぞ」
「押し入れを漁られてる。」
「俺、今デート中なんだよ。後にしろ。」
「待ってよ。切らないで!あんたに見放されたら、私、」
「とにかく、後で聞く。今は無理だ。」
「将人!ねえ、将人!」
俺は、祐実の叫びが聞こえなかったかのように、電波のつながりを切った。

 将人に見捨てられた。将人に捨てられた。
 お婆ちゃんは動けない。誰も助けてくれない。
 私の居場所なんてない。ここは私の場所じゃない。ババアのテリトリーだ。
 秘密のものをまとめて仕舞ってある天袋を開けられた。無駄に背の高いババアは、脚立なしで手が届く。自分の気持ちを吐き出した日記帳はガムテープでぐるぐる巻きにしてあるけど、あんなものが見つかったらどうなることか。
 ババアへの不満。ババアが嫌い。学校が嫌い。会話が嫌い。この場所が嫌い。人間が嫌い。どこでもいいから、ここ以外の場所に行きたい。私が私でいられる場所に。
「あんた、ここにあった壺知らない?」
「壺?知らないわ。」確か、屋根裏に置いてあったはず。もう出すの?祭りはもう少し先でしょ。
「あんたが小さいとき、中身を見ちゃってさ、食べ物だって教えてやったら食べてみたいってうるさかったんだよ。覚えてるだろ。ほら、どこにある?」
「屋根裏じゃないの。大掃除の時に置き場を変えたじゃない。」
「態度悪いね。さっさと言いなさいよ。」
 ババアは腹の贅肉を揺らしながら、天袋に入るために脚立を取りに行った。
 まずい。隠してあるものが見つかっちゃう。そんなの、困る。私はどうなっちゃう?
 手が小刻みに震える。
 あいつのガラクタが多すぎるせいで、長いこと使い続けていた棚はババアに占拠され、もともと鍵付きの引き出しに仕舞ってあった秘密たちはすべて追い出された。仕方なく天袋に置いておいた。何もかもあいつのせいだ。お婆ちゃんと二人、幸せな生活を奪い、平和な日常を、破壊して。それでもあいつは不満足らしい。
 私は、持ち前の勉強机の椅子を伝って天袋に入った。壺の中身を食べてやる。あいつへの復讐だ。持ち前の運動神経で素早く事を済ませると、壺を持ったまま、床へ飛び降りた。ちょうどババアが戻ってくる。
「お前、なにしてるんだ!壺!」
 思った通り、ババアは激昂する。私はババアに襲いかかる。私の理性は、もうどこかへいなくなった。
「祐実!やめろ!祐実!」
 あおえあんえいああいあおえあんえいああいおんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああ
自業自得なんだよ。私の幸せを奪うから。
「祐実……やめて……お願い……祐実……」
おんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああ
もう一人の私が、私に囁いた。
ババアは悪魔なんだよ。要らない奴だよ。人でなしだよ。あいつなんて要らない。
おんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああ
ババアはもう何も言わなくなった。
おんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああ
「だから、みちゃダメって、言ったのに。」

#2

「ううっ……ああっ……」
「ここがいいの?」
「ああっ!」
 早速、千夏をホテルに連れ込んだ。想いを寄せる女性と一つになっているときは、気持ちよくて。何もかも忘れて、目の前に夢中になれる。
 大学のレポートの締め切りが近いってことも、昼間、祐実にデートを邪魔されそうになったことも、どうでもいいような、そうでもないような。千夏とキスを交わしがら考えていても、彼女の「女性」を感じているうちに、思考はだんだん弱くなっていく。セックスとはそういうものだ。
 一宮将人と二宮祐実。三歳下の彼女は小さいころからの幼馴染だ。家が近く、よく一緒に公園や近所の音羽神社で遊んだ日々は、俺の脳裏に鮮明に焼き付いている。夕日に向かって手を伸ばしたことも、朝日に向かって全力で走ったことも、俺が中一の時、彼女とファーストキスしたことも、何もかも全部、美しい過去だ。
 彼女と恋愛関係になったことはない。でも、不思議と、兄妹で恋に落ちてしまったかのように、なぜか口づけをした。理由は、そればかりは、思い出せない。
 千夏に苦悶の表情を見られていることを自覚して、慌てて祐実の姿を頭から消し去った。千夏を味わい終わる。薄いビニールをゴミ箱に投げ入れた。
「ねえこっち来て」
「ごめん、ちょっとだけ待ってて。通知だけチェックするから」
 千夏とここに来るために試行錯誤していた時、やたらとスマホが鳴いていたのだ。さすがの俺も気になる。
 送り主は母親だった。
"落ち着いて聞いてね。
 祐実ちゃん家の伯母さんが亡くなったの。警察は呼んでないわ。神社にお願いして、秘密裏に処理してもらってる。
 はっきり聞いたわけじゃないけど、おそらく祐実ちゃんが殺したの。
 壺の中身を食べたのかもしれないわ。"
 祐実が?殺した?
「ねえ、早くぅ」
 彼女に急かされる。さっきまで味わっていた千夏の裸体は、今見ても何も感じなかった。
「実家からLINEきてた。なんか、ヤバいことになってる。」
「え、ヤバいってどういうこと?」
「死んだ。」
「は?」
「いや、比喩だよ。終わったっていう意味だ。
 でも、とにかく、マジで終わった。」
「だから、どういうこと?」
「それは説明するとめっちゃ時間かかるから。ごめん、すぐ帰る。埋め合わせは必ずするから。」
「約束だよ。」

「祐実、何の騒ぎだい」
 おんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああ
「祐実や、どうしたんだい」
 おんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああ
 ああ、こりゃあもうだめだ。あれを食べてしまったに違いない。十七歳の祐実にはまだ早い。
 音羽神社を中心としたこの村の秘密、あれは絶対に外部に知られてはいけない。人殺しが起ころうとそれは変わりなく、警察を呼ぶことはできない。正規の儀式を執り行ったお婆さんは、神主に電話を掛けた。彼の手で弔ってもらう以外に、遺体を処理する方法はない。
 殺人事件は何事もなかったかのように終わった。
 そして次に、一宮家の女性である、将人の母に連絡をする。祐実が食べてしまった、と。将人にも、帰ってきてもらう時期が来たかもしれない。男子だからあと三年ばかり余裕があるはずだったが、こうなったら仕方ない。
 お婆さんがもう一度二階に上がり孫の様子を見ようとしたとき、彼女は姿を消していた。

#3

 将人からの返信はたった一言だった。
「どういうこと?」
「とにかく帰ってらっしゃい。そしたら必ず説明するわ。」
「了解」
 スタンプを送ると、下着を身に着け、ジーンズとシャツをまとう。千夏にお別れのキスをすると、すぐさま荷物を片手にホテルを出た。
 この時間なら、ギリギリ終電に間に合うだろう。全力で走り、駅を目指す。千夏を抱きしめて眠っていたいのを我慢して、体に鞭を打った。
東京都奥多摩町音羽集落。そこに俺の実家がある。都内なので、距離的には近い。
立川でJRに飛び乗るととりあえず一安心して、気づいた時には夢の中にいた。

夜の居酒屋はとんでもなくうるさい。当たり前のことだから、キレるだけのエネルギーが無駄だ。大学から近くて、しかもそれなりの時給がもらえる接客業に就こうと思ったら、ここしか候補がなかった。昼間はうどんが名物の昭和情緒漂う名店だが、酒なんか提供するからこんなことになる。昼間シフトは大学生には無理なので、必然的に居酒屋タイムにバイトする羽目になった。
「将人、この大きい機械、何?」
「製麺機だよ。ここから薄く伸ばしたうどんの生地を入れるんだ。今から使うから、そこどいてくれ。」
「ああ、なるほど。それでこのケースに出来上がった麺が落ちてくるわけね。」
「ああ、時々テレビで見るあれな。今から明日の分の仕込みするから、そこにいると邪魔。」
「ええ、ひど。じゃあ将人を眺めてよっかな。」
「気持ちわりいよ」笑顔で祐実に言った。
「お前はお前の仕事があるだろ。早くしろって。寝る時間が遅くなるぞ。」
「もう子供じゃないって。何回言ったらわかるのよ」祐実も笑って将人に言った。

 皿洗いは女の仕事。なんて、バカみたい、あの店長。あの頭、何年前から変わってないんだろう。めんどくせえ!

ガッシャーン!
「なんだ?」
「おい!二宮!なにやってるんだ!」店長の怒号が、建物内に響き渡った。
「こんな仕事アホくさくてやってられないわよ」
「給料貰ってる身で何をいうか!割った皿をきれいに包んで捨てる。飛び散った残飯を処理する。全部お前が一人でやれ。わかったな。
 ああ、あと、お前がわざと壊したそれ、器物損壊ってことで弁償してもらうから。給料から天引きしといてやる。」
「わかったなじゃねえんだよこのクソジジイ!」
 祐実が店長に襲い掛かった。首を肘で締め上げ、頭を前後に振り回す。だめだ、あれは間違いなく暴行罪。
 祐実は悶え苦しむ店長を力づくで連れて行った。彼女が立ち止まった場所の前には、製麺機。彼女の目は赤く染まり、店長の顔は真っ赤に塗られている。
 いつの間に使い方を覚えたのか、電源を入れると、生地を入れる場所に店長の頭部を押し付けた。
 店長の声は、次第に小さくなり、そして止んだ。

#4

「次は、奥多摩、奥多摩」
 車内アナウンスで飛び起きた。
「あれ、ここは……?」
 ああ、そうだ。今のは夢だったんだ。祐実が、また人を殺した。今度はうどん屋の店長を。たったあれだけの不満が元で、店長の頭を製麺機で粉々にしようとした。
 ああ、祐実は変わってしまった。俺がまだ田舎にいた頃は、いや、あいつの伯母が集落に戻ってくるまでは、あいつは優しくて、穏やかで、可愛かった。

「ねえ、将人。いよいよ卒業だね。」
「祐実が中学生?信じられない」
「そういうあんたは高校生じゃん。信じられなぁい。
 てかさ、やっぱり卒業ってさみしいね。これからは会えなくなっちゃう子、たくさんいるもんね。」
「こんなクソ田舎、高校までメンツ変わらないよ。大学入ってやっと、今までとは違う人に逢える。」
「将人はここ嫌いだもんね。すぐにでも東京出たいんでしょ?」
「そうだ。」
 あの頃の祐実は、純粋に物事を見ていた。良い悪いを自分の感情で判断したりはしなかった。良い子、とにかく良い子だった。
 あいつはおばあちゃんが大好きだった。普通の子なら鬱蒼とした森の中の木造住宅なんかに住みたくないと思うけど、私はここが好き。だって、空気が美味しいでしょ。出来立ての空気を味わえる。それに、黒ずんだ壁とか、風流だと思うけどな。いつの頃だったか、祐実はそう言っていた。

 俺は、自分が涙を流していることに気付いた。祐実は変わってしまった。祐実はあれを食べて、殺人鬼になってしまった。
 家を出る時にすべて聞いたんだ。この村に生まれ育った者は皆、必ず知らなければならないことを。なによりもずっと恐ろしい、村のルーツを。
 始めは、全く信じなかった。宮司の、いつもの出任せだと思った。しかし、宮司の話を聞く俺の周りにいた大人たちは、真剣だった。
 あいつを、絶対に助けなければ。
 俺しかいない。二宮祐実を助けられるのは。祐実を殺さずに、祐実に生きていて欲しいから。祐実を、俺は助けるんだ。
 俺は決意した。


「証拠不十分!?なんですか、その対応は!」
「警察としては、ご主人が亡くなった件は、事故として扱うことになりまして。調理場に防犯カメラはないし、目撃者もいない。となると、同じ場にいた、えー、二宮祐実さんですね。彼女を疑うことになるのですが、根拠はない。ご遺族の方々の心中お察ししますが、二宮さんが殺したという結論を出すには、あまりに証拠が少なすぎるので、事故という形に、」
「おかしい、二十年以上、あの台所を使い続けてきた主人が、まさか製麺機で死ぬなんて、ありえない……」
 婦人は涙を流しながら訴えた。
「あの製麺機は、主人が店を興すと決めて初めて買ったものなんです。私たち夫婦の、絆の結晶なんです。その、製麺機で、お前さんが死ぬなんて……」
「ありえないはずのことが起こる。そんな事例は、往々にしてあることですよ。」
 刑事の言葉は、全く慰めになっていなかった。

#5

 懐かしい、そして忌々しい実家が見えてくる。電車の中で寝て、しかも変な夢まで見たのだから、明らかに睡眠不足だった。東の空に見える太陽のせいで、頭がくらくらする。何十年もの間その場所に閉じ込められた引き戸を開けると、母の声が響いた。
「将人?将人なの?」
「ああ、ただいま。」
「居間に来てちょうだい。すぐに話をするわ。」
 俺は母に従った。
「今日は眠れた?」
「いいや、まったく。おかしな夢を見たせいだ。」
「そう、大学のほうは大丈夫?元気にやってる?」
「俺だってもう二十歳なんだから、母さんに心配されるほど弱くないよ。」
「そう、それならいいんだけど。」
「ここに呼びつけたのは理由があるんだろ。」
「ええ、じゃあ本題に入ろうかしら。少し待っててね。」
 母は席を外した。重い腰を持ち上げ、そして、早くも足腰は弱り始めている。立ち上がる瞬間にこぼれた「よいしょ」という台詞を、俺は聞き漏らさなかった。
 彼女は一杯の水を木の枝をもって戻ってきた。
「将人、これから、音羽集落に伝わる儀式をします。本来なら二十三になるまで待たなきゃいけないんだけど、宮司さんに神様へ伝えてもらうよう頼んで、今日できるようにしたから。ここに住んでいる者の一部は、儀式をすると、人柱になるのよ。」
 人柱。それは神と人間の間を取り持つ存在である。人間は元来悪であり、その社会に倫理は存在しない。たとえて言うなら、殺人は悪だという概念がないのである。しかし、人柱を生贄として神にささげることで、人間は神に赦され、倫理を持つことが出来る。
 母は将人に水をかけた。枝に白い陶器に入れた水を含ませ、将人の頭にかける。
「神よ、ああ神よ、人間を赦したまえ。」彼女は連呼した。

 人間は七歳までは神の子である。音羽集落に代々伝わる言い伝え。八歳になる年の正月、将人は祖母からその話を聞いた。十九になる年の正月、女子は儀式を受けて、神への使いになる。男はいづれも、彼女たちを送り出さなければならない。そのためには、女子と同じように儀式を執り行い、巫女を天に送る人間を代表してあいさつしなければならない。それがお前の役割だ。
 この集落も人が減って、その役割を担える者はお前しかいない。お前は、二十三になったら、儀式をするんだよ。
 将来の夢はなんだ?大人はよく子供に聞くが、そんなことは関係ない。
 必ず、お前はこの村に生きなければならないのだよ。

 祖母、つまり巫女は、将人が中三の時、心筋梗塞で亡くなった。以来、将人は、女子は巫女になるなど、アホ臭いと思っていた。この世で、普通に人間として生きて死んでいったお婆ちゃんが、神の使いなんかであるはずがない、と。

 

#6

 水をかけ終わると、今度は真っ黒い物体が皿に載せられて出てきた。
「神よ、人間を救いたまえ。魂の身を食べた一宮将人を、救い、そして人間を救いたまえ。」
 恐ろしい。恐ろしい。恐ろしい。
 こんなの、狂ってる。
 謎の物体を食べさせて、何が人間を救うだ。ただの伝説ごときに振り回されるこの集落の住人達は、全員バカだ。俺は神への使いになどなりたくない。
「俺は、断る」
「将人、なんと言った⁉」
「俺は使者になどならない。無意味だよ。祐実を警察に出頭させるべきだ。」
「将来の巫女を警察になんて、ああ、あり得ない。」
「逮捕されるよりは自首した方が罪は軽くなる、そんなの当たり前だ。」
 母がこんなにもバカに見えたのは、これが人生初めてだ。俺は珍しいタイプで、反抗期らしい反抗期がなかった。母とは、ずっと友好な関係を築いてきたはずだった。それなのに、母を貶さなければならない日が来てしまった。このクソ田舎が嫌いでも、いつも俺の味方でいてくれた母を嫌いにはなりたくなかった。
 俺は走り出した。平屋建ての家の廊下を走り抜けると、建物の外に飛び出す。
 千夏に電話を掛けた。
 セックスしよう、と誘おうとした。

 今度の職場は、建設会社。事務員として雇ってもらえた。本当にありがたいと思う。前のうどん屋兼居酒屋では、トラブル起こしちゃったから。首になったら、もう食べていけない。
 ただし、体力がない私にはキツかった。
 時々、手伝いをさせられる。事務の仕事もあるのに、なぜか現場に駆り出される。倒産寸前で屈強な男性たちを雇う金がないらしい、ということは、働き始めてすぐ察しがついた。社長はあほだ。私のような事務員を雇う金があったら自分でやればいい。そうすれば私の給料の分だけ作業員を雇える。アホに会社経営など無謀だと、勉強させてもらえた。ラッキー、ラッキー。面白い。
 組みあがった足場の上にいる作業員、一人は佐藤さんで、もう一人は夏野さん。二人だけではバケツリレーのように道具を渡すことが出来ないので、私は二人の間に入ることになった。めんどくさい。こんな狭くて金属臭いところに、ただ立っていなきゃいけないなんて。面倒以上に拷問だ。
 イライラしてきた。
 なんで私がこんなことやらされなきゃいけないんだよ。女の私が男の仕事を手伝わされるなんてあり得ない。私は東京の大学を受験するはずだった、未来への希望なのに。この私を、こんな風にこき使うなんて、信じられない。
「二宮さん、目が赤いよ。」夏野さんが、下から言った。

#7

「二宮さん、目が赤いよ。」夏野さんが言った。
「目にごみが入ったかもしれません。洗ってきます。」
 鉄製の梯子で地上に降り立つと、すぐ近くにあったスパナを手に取った。
 ああ、むかむかする。殺してやる。
 ころしてやる、ころしてやる、ころしてやる……
 私は……おんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああ……
 二度目の殺人を犯した。今度は、感じていたものは、苛立ちのみであった。

 私は走る。グライダーでジャンプし、山中を飛び回るためだけの建物、いや、足場?これは人間の羽だ。依頼主は気が早いらしく、まだ建設途中なのにすでにグライダーだけ運び込れてあった。私はそれに乗り込む。これでいい。これで私は苛立ちから逃げられる。
 飛び回るのではなく、私は一直線に飛んだ。赤く染まった視界には、里の家々が見える。次の山を越えれば集落がある。また山を越え、そしてまた山を越え、いくつもの壁を乗り越えた先に、生まれ育った音羽集落がある。あそこに行けば、将人がいる。私にはわかる。
 いったん地上に足をつけると、それを蹴った。体中に力がみなぎる。私はなんでもできる。将人を殺すことさえできる。
 私のことを見捨てたから。私は音羽で生まれ育ったから。将人の幼馴染だから。
 おんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああ……

 なんだ、あれは。エンジン音がしないのに飛行機が飛んでいる。
 ああ、あれはグライダーか。なぜこんなところに?俺は疑問に思う。
 人間に操作された巨大な鳥は、こちらに向かってきていた。俺はまるでB25に襲われた昭和時代の市民のような心持ちがした。
 俺は逃げる。あのグライダーに襲われてはならない。確実に殺される。銃撃される。恐ろしい、ああ恐ろしい。
 杉の並木の中を走り回る。子供時代の遊び場。

集落の子供は、公園などなく、また郵便物の配達もたまにしかないため、いつも山で遊んでいる。かつての俺も例外ではなかった。
 例えば鬼ごっこをしていたとする。鬼も逃げも関係なく、山の中を走ることになる。すると、自然と足腰が鍛わる。
 例えば、かくれんぼをしていたとする。鬼は山を歩き回って探すことになるし、隠れる側も山中を歩くことに変わりはない。
 俺はあのころを思い出した。俺と、俺の同級生と、祐実と、祐実の友達。この四つの中で一番人数が多かったのは、祐実の友達だ。あいつは快活で、あいつの周りはいつも賑やかだった。
 俺の目が熱くなる。よく考えてみたら、あれから逃げる意味なんてない。俺の頭がおかしかっただけ。いよいよ、洗礼を受けた俺は、この集落の伝統に染まってしまったのだろうか。

#8

 将人だ。あそこに将人がいる。山の中に、杉の森の中に。
 あいつのせいだ、何もかも。あいつの、せいだ、何もかも。
 おんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああおんあおおおあいああ……

 おんあおおおあいああ……こんなところはいやだ、こんなところはいやだ。
 祐実の声が聞こえる。こんなところはいやだ、こんなところはいやだ。

 あいつは嫌いだった、この場所が。離婚して戻ってきた伯母のせいで、この町を嫌いになった。それまでは、祐実は祖母と二人でしあわせに暮らしていた。
 俺のせいだ。俺が何もしてやらなかったから。祐実に手を差し伸べてやらなかったから。一人だけ勝手に東京に行って、彼女を作って、祐実の助けを求める、逃げる先を求める君の叫びを、なかったことにしてしまったんだ。
 千夏を思い出す。必ず埋め合わせをすると約束した彼女。今ここで倒れたら、彼女は泣いてくれるだろうか。泣いてほしい、俺はそう思う。

「将人!何してるの!」母の叫びが聞こえた。何してるも何も、俺は祐実から逃げている。俺はあんなに仲の良かった幼馴染から逃げている。
 母は猟銃を持って外に出てきた。
 ああ、終わった。
 母は撃つ。何発も、何発も。
 祐実が乗ったグライダーは堕ちていく。どこまでも深い場所まで、たった一人で。
 伝説が悪いわけじゃない。俺が悪い。きちんと向き合わなかった俺が、あいつを無視した俺が、自己中な俺が。

「将人、大丈夫かい?怪我はない?」優しい声で、母は問うた。
「そんなことより、祐実が……」
「あれは、こうなる運命だったんだよ。まだ十七なのに、あの実を食べちまったからね。」
「どういうことだよ。母さんが祐実を殺しておいて、運命だなんて、そんな、おかしいだろ⁉」
「仕方ないんだよ。わかった、全部説明するよ。
 お前は普通より早く洗礼を受けているから、大丈夫なはずだ。
 もし何かあったら、母さんは巫女の洗礼を受けているから、息子のお前を助けてあげられるからね。」
 母さんは訥々と語り始めた。この町の伝説の真実を。君を殺した俺が、俺が暮らした町を染めていた真実を。
 俺は聞いている間、涙をこらえるので必死だった。話が終わると、俺は思い切り叫んだ。その背中を、母さんはずっと、さすり続けてくれた。
 よかっただよ、祐実、千夏、母さん。この町に生まれてよかった。

最終話

 この町に代々受け継がれているのは、初代の音羽神社の神主が作った梅干しである。現在の神主が十五代目だというから、徳川幕府が出来てから幕末までの期間に相当すると思えば話は早い。二百何十年もの間漬け込まれていると、酸っぱさは薄れ、
甘味が増すようである。
 女子は十九、男子は二十三になる年の正月に洗礼を受ける。ただし、音羽家と血縁関係のあるもののみである。音羽家は、文字通り神主の一家のことである。
 この洗礼を受けることで、女子は巫女に、男子は巫女を神のもとへ送り出す使者になるといわれる。
 第七代の神主の時代。五人の娘たちをそれぞれ良い家系の家へ嫁がせ、一宮、二宮、三宮、四宮、五宮の、五つの宮家が出来た。将人は一宮家、祐実は二宮家のものである。
 音羽家の直系が途切れると、この五つの宮家から跡取りを出すことになった。
 以上が、家の流れについてである。

 母が語る昔話はけして面白いものではなかった。
「それでね、梅干しを食べることと、神社の水を頭にかけることが、洗礼の主な内容なの。あなたも受けたからわかるわよね。
 でも、あの梅干しは恐ろしいの。交代で保管しているんだけど、今年は二宮のところね。あれを女の子が十九歳より若いうちに食べると、殺人病にかかってしまうの。祐実ちゃんは、まさにそれね。
 仕方ないのよ。送り込まれる巫女がまだ若いなんて、規則を大事にしない人間のことなんて、神様は嫌って当然でしょ。反対に、男子はただの使者。多少若くても、多少年を取っていても大丈夫。」
 昔話なんてくだらない。神様なんてくだらない。俺はそう思った。
 祐実は集落の伝説に殺されたんだ。二宮祐実であったばっかりに、この集落に生まれてしまったばっかりに。
「でも、規則を破った巫女は罰を受けると同時に、きちんとしあわせになれると言われてる。だから、今までにも何人か、わざと早くに梅干しを食べた女の子もいたらしいわ。でも、そういう子はしあわせにはなれないのよ。
 若いうちは、家とか地元とか、嫌う傾向にある。それにはみんな理由があって、祐実ちゃんみたいに、伯母さんが嫌いだったり、あるいは反抗期だったりする。
 嫌いと思う感情を乗り越えて、うまく対処できるようになるころには、洗礼を受ける時期がやってくる。
 あの梅干しはね、そのためにある。嫌いを乗り越えるため。ただそれだけ。
 あんたも昔は、母さんをババアって呼んだりしてたじゃないか。」
 嫌いと思うことは当たり前。それでもその感情は嫌われる。
 好きと思うことも当たり前。その感情は好かれる。千夏と俺みたいに。
 俺は伝説をただ恨んでいた自分を、恥ずかしく思った。
「今日の話は、外部の人に知られても大丈夫なのかい。」
「ダメ。集落の人だけの秘密。」
 早く帰って、千夏とまた愛し合おう。そして、次の正月には必ずきちんと帰って来よう。俺はそう決意した。

殺人病

殺人病

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-11-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. #1
  2. #2
  3. #3
  4. #4
  5. #5
  6. #6
  7. #7
  8. #8
  9. 最終話