くつがた
そう言えば今夜から十時のニュース番組で、紅葉の夜景を放送していたんだ。静谷深織がそのことに気づいたのは、携帯電話を持って男がホテルのドアから一旦出て行った後のことだった。
その番組では、秋もたけなわになったシーズンに何週か、紅葉スポットの夜景を放送する。大仰な撮影用の照明器具を持ち込んで、日本の古刹の美しい庭をライトアップして放映するのだが、今週は円覚寺と言うので、録画しておく気でいた。北鎌倉の円覚寺は、ある人と、紅葉の折に何度も訪れた場所だったからだ。
円覚寺は、鎮魂の寺と言う。はるか鎌倉幕府の時代に起こった元寇で、遠く九州の地でモンゴル兵のために果てた武士たちを祀るため、時の執権・北条時宗が建てた名刹である。
そこにある、枯淡のもみじの古木のたたずまいを深織は思い出していた。
いくとせの年を経て、黒ぐろとして男くさい、ふてぶてしい観のある節くれだった古木から、放射状に伸びた枝についた女の力でもたやすく手折れたそうな儚いもみじの濡れた朱が、雨あがりの日など陽に映えて胸を刺すほどに明るかった。そこにはどこか、とてもアンバランスな美的感覚があった。不均衡をこそ、その人は愛した。彼は言った。へたくそに端正より、美は、ほど好くたわんだものにこそあると。
それからよくも判らずに連れていかれた茶会で出された織部焼の、沓形の茶碗の歪んだ波形の良さは、正直、深織には判らなかった。茶会の後のお道具拝見でも、茶室の亭主の自慢を、丸窓の向こうに散り敷くもみじを見てごまかしていたほどだ。
秋の草を染め抜いた深織の振袖を、六十も半ばを過ぎた白髪の亭主は、折をみて褒めた。しかし、その折の見方がいかにも社交辞令で、十六歳のまだ小娘程度に向けたもので不満だった。
その後も話柄に他人行儀な冷たさが少なからず感じられたので実にいい印象がない。
結局、深織の印象に残ったのは、茶会で出た懐石でほど良い焼き具合の鱸が美味しかったことだけだった。亭主の話によればその日は、朝に相模湾で獲れた旬の鱸を自邸の庭で摘んだ柚子を使って幽庵焼きにしたそうなのだ。
幽庵焼きは、柚子を利かせただし汁のつけ焼きである。
高校生だった深織はそれを食べたとき、即座に憶えようと思った。
細かく切り刻んだ柚子の皮とほんのり香るだし汁で漬けた魚の身は漬け汁を吸ってほんわりと優しく、ふくらかな白身の甘みに淡く香る柚子の千切りの苦味がきいて、焼けた皮の香ばしさなどは、実に特筆すべきものだった。白身の鱸が崩れておらず、表面は柔らかくても噛むとしっかりとした歯ごたえを感じさせたのが、今夜の僥倖だった。そのことを、茶会の後であの人に話したら、ひどく褒められた。十年以上前のことだ。もう、かなり昔のことに思える。
夢想に浸っていると、ドアを開けて男が戻ってきた。
「ごめんね。ちょっと忙しくてさ」
男は、それがまるで当たり前だと言うように、のっぺりとした下品な日焼けをしていた。今どき、日焼けサロンででも焼いているのだろうか。六本木のバーにいるとき、初手からして、無遠慮な男だった。深織の目には、高級品のスーツを着て、ワイシャツのボタンを寛がせたような日焼けした男は、田夫野人に見えた。
「大丈夫? 緊張してるみたいだけど、先、シャワー浴びてきたら」
つとめて軽く、深織は肯いた。
男は、この六本木の飲食店に輸入食品を卸している貿易業者だと言う。羽振りは悪くなさそうだ。彼がいくつか挙げたその界隈の有名店の名前は知らなかったが六本木ヒルズにほど近い、チーズの専門店を彼はよく知っていた。そこは深織が時折、癖のあるワインに合うウォッシュタイプのチーズを買いにいくところだ。フランス産だけでなく、イタリアやドイツ、チリやアルゼンチンのワインにも彼は詳しかった。
部屋に行ったのは、ごく自然な流れだった。あんな籠ったホテルのラウンジでうら若い二十代の女性がひとりで飲んでいれば、それはどこか意味ありげなのだ。
地方から出張してきた風の意気旺盛な三十代のスーツ姿の二人連れのあと、その男は席に座った。苗字は成毛で下の名前を名乗ったりはしなかった。ちょうど、独りでいたらしい。約束をすっぽかされたと言う言い訳は、ごくごく一般的な常套句だ。
「いや、本当はたまには一人で飲もうと思って」
照れたように片頬に笑窪を作って話す様子は、こうしたことシチュエーションに場慣れしている、しるしとも思える。実際、深織自身、そうした男たちを何度かものにしてきたのでよく判っていた。
男たちの多くは、酒に酔って気が大きくなっている。
会話のふしぶしに深織にも、男たちの葛藤が感じられる。はめをはずしたい衝動と、日常を逸脱することへの気おくれの境。夜は昼を破壊し、昼は夜を分断する。その自覚がないのだ。自分がそこから、非日常に踏み込んでいくための感性と勇気が足りない男が多い。
男たちのパターンは決まっていた。最初は、部屋に入る前後、警戒心が翳を射す。ホテルのラウンジで網を張っている金銭目的の高級娼婦だと勘繰ったり、例えば美人局のような、それ以外に犯罪の匂いのする誘いのように怖がったり。そう疑われた時点で深織は男との交渉をやめる。それはまず、身体を合わせるに足りない男だ。
第二は、裸になってからの深織に一種、畏怖めいた気おくれを感じるもの。判るのだ。ちょうど、女性が大きすぎる男性のそれをみて、本能的な畏れを感じるように。
「お前の身体は均衡がとれすぎている」
あの人は言った。いかにもつまらなすぎる。そう言いたげだった。
「素晴らしい。でもだからこそ、不完全とも言える」
うすうす、深織自身も感じていた。
自分の風貌には、どこか人に緊張を強いるものがあると。
二十七歳になった深織にはその身体のどこにも不満がないように思える。
すらりと整えた眉に、きっちり製図したようなアーチ型の瞳は切れ長でいつも潤っている。そこからまっすぐ伸びた鼻梁はほどよい高さで、受け口ぎみの唇は今造られたかのようだ。
腰まで長く伸びた髪は小学生のとき以来、ずっと変わっていない。自然のままの黒髪はしっとりと照りのある光沢を見せて枝毛もなく、近づくと、かすかに甘いアップルミントのシャンプーが香る。もしことに狎れたものならその人工の香りに隠れて熟れた彼女の体臭を感じることが出来ただろう。
彼女に相対する者は時々、自分の視界が、靄がかって錯覚がするらしい。深織の周りにはマイナスイオンのミストが漂っているなどと下らないことを言う男もいる。
シャワーを浴びるため、深織はひとり服を脱ぐ。丁寧に衣服を畳んで置き、髪をまとめると、左肩にまとめて垂らした。蜂蜜色のやや暗い照明のついたシャワールームの一枚鏡に深織の裸身が映りこんでいる。それは週に四日、水泳とジムワークでメンテナンスする磨き抜かれたプロポーションだ。
足の長さもモデルみたいに長いとは言わないが、彼女の肉体には十分にして必要すぎるものだった。ヒップもつんと持ち上がって小さすぎたりはしない。
伏せられた輪島塗の日月椀を思わせる張り切った乳房は豊かにふくらんでいたし、ほんのり色づいた乳首はほどよい主張をしている。これは十二の春にブラを買い始めてから、高校を出るまで毎年、サイズを変えてきたものだ。
艶やかに伸びた陰毛は念入りに手入れされ、湯水に立った陽炎のように楚々と萌えたっていた。乳白色の肌は淡い色の絵の具の塊をたっぷり落として、水面を薄く煙らせたようで、表面には青白く血の脈を透かして浮かび上がっている。
それは、そこに歯をあてて噛み切りたいと言う男の衝動を起こさせる儚さで、性の興奮を覚えるとき、その肌は血の気を帯びて蝦を茹でたように紅く染まった。しかし、大抵の男は汗の珠の浮いた、深織の本当の肌を見る前に堪えきれず果ててしまい、セックスで乱れる深織をめったに見ることはない。
深織は藤沢で生まれた。生家にはまったく憶えがない。
父は無名の日本画家と言う。深織の幼い頃にはすでに実に父はなくなってい、大磯に居を構えるその人の元へ養女として入った。物心ついた深織が育ったのは、大きな日本家屋だった。彼は父を畏友と呼び、深織には、若い頃その人が考えた名前をつけた。
彼には資産があった。
家は相模湾一帯に古くから土地を持つ名士で、一族は政財界に名をなす人がいた。その人の祖父の代から美術品の収集に力を入れていて、有望な日本画家や陶芸家の窯に出資もしたりしていた。
深織の父は生涯名をなさなかったが、彼はその手になる何点かを収集して秘蔵していた。深織も何度か書庫で見せてもらったことがある。小品だが、際立った切れ味の鋭い画風が心に残るものがある。その人は父の作品を愛していた。そして、同じようにその遺した娘もその作品として愛したのだ。
イギリスの大学を卒業すると、深織はヨーロッパ留学時代のつてを頼って北青山にあるアロマ用の精油を卸す会社に籍を置いた。その会社はロンドンにある本社からまだ商品化されていない生の精油を空輸で成田空港から仕入れ、都内に取引のある業者に卸すブランド企業で海外経験のある深織は入社してすぐ、現地との交渉役を任された。
普段の彼女は太い色つきフレームの眼鏡を掛け、ダーク系のスーツをまとって材料の調達から顧客との交渉に廻る腕利きのビジネスパーソンだ。
仕事柄、沢山の店を回るので、自信満々の大小の企業の経営者や、女蕩しで自慢の名うてのイケメン営業担当などを目の当たりにしてきた。しかし心動かされる人は一人もいなかった。シズタニさんは美人だけどまったく隙がないと言われる。実際その仕事ぶりも厳しかった。
異性の同期や後輩の中には、そんな深織の態度を茶化したり、中でも口さがないものは、シズタニさんは、カラコルム山脈K2(エベレストより登頂が困難と言われる世界最高峰のひとつ)の万年処女雪なんだと陰口を叩くものもいる。
「そんな深織先輩に萌えです。て言うかおれ、ドMなんでびしびしいじめて下さい」
などとふざけて言っていた新人の男性社員が深織に泣かされて三ヶ月で辞めたときは、その男の子の物真似芸がしばらく飲み会の肴になったものだ。
しかしそんな極端なパロディも、よく見れば深織に袖にされた男たちがやっかみ半分でやっていることが多いことを知っていた。実際その中には、彼女にもっと手ひどい拒まれ方をして、泣きながらバーを去った男も何人かいたからだ。
深織は、言葉つきがきついわけではない。いつでも抑制の効いた声音で感情をあらわにせず、話しぶりは真摯さと配慮を忘れない。事実、同性からは、評判がよかった。決して表に出て人を引っ張るタイプではないが、ときに、はっとさせる発言で人を愕かすことがある。男を拒んだときはそれが辛らつな方向へ出るのかも知れないが、礼儀と一線を守る人間には一様に、彼女は親切でおおらかですらあった。
そんな礼節と節度に満ちた深織がこうして夜、蝶のようにさまよいでて、見知らぬ男を探して宿って歩くのは、一見矛盾しているようにみえるかも知れないが、もちろんそのことは彼女も自認していることだった。そうした歪みを帯びた矛盾と刺すような美醜の間隔と共に彼女の身体に刻みこんだのは他ならぬあの人だったのだ。
生まれて初めてあの人に身体を求められたとき、実に自然に深織はそのことを受け入れていた。忍従を美徳としてきた彼女の生活の中では肌に触れられることもごく当たり前のように思えた。
自分の身体にその歪みが、いかにしても消えない形で刻み込まれたと知ったときには、深織はそこに強い女性の悦びを知った後だった。
だからそのとき覚えたのは憎しみではなく、むしろ罪悪感だった。そのため、深織は特定の恋人を作ったことはなかった。家を離れてから、逢った男とはほぼ行きずりで、セックスも、多くてひとり三度を超えないようにした。男性と性を通じて、深い心の関わりを持つのが怖かったのである。
それにしても、最近思うのは今の男たちが退屈なことだ。話と言えば、自分の身の回り数メートルのことだけに限られている。音楽を聴けばカラオケでネタに使えそうな流行の曲をチェックする程度、しかも携帯電話で聴く。女性観と金銭感覚と車かギャンブルの話をしたら一周して最初に戻ってしまう。
彼女にしてみれば、今の同年代に近い男性たちには、確固とした美的感覚がなかった。そもそも女性と会ったら機会があればもったいないからセックスしとけ、程度にしか考えていないのだ。だからこそいざと言うときにも、行き当たりばったり、出たとこ勝負でその場に望んでくる。
「みおり判ってないなあ。それは、愛がないからだよ」
と、結婚を経験した友達は言うが、深織にしてみればそうした男たちの中にも、似たような感覚で相手を選んで後悔しているものが多い気がした。職場にいれば分かる。結婚した男は、女のいないところでは、もうこれでお前も終わりだな、などと冷やかしあっている。結婚した男の中でもそんな男は、どこか諦めた風貌でそれを訊いているし、その表情をした男はたいていその後、なんらかの理由で結婚生活を解消している。
深織は傍観者としてでもそんな状況に立ち遭うことすら嫌いだった。そのとき、もし本当に彼が目指すパートナーに出会っていたなら、目立って反論はしないまでも、顔色くらいは変わるだろう。つまりは自分に嘘をついているのだ。
「だますことに意味のある嘘くらいはついてもいいが」
と、あの人は言った。
「自分には嘘をつかない方がいい。それはちょうど、滓のように溜まっていく。お前は行くべき方向を見失い、やがては取り返しがつかなくひずんでしまうだろう。ほかのことはいい。だが、私にとって、そのことだけは許せない」
歪みがあるほどに美しいんだ。それは、そう言っていたあの人とは同じ言とは思えなかった。深織が自分にとって間違ったことをしたと思ったとき、おのれのなしたことに一点でも躊躇を見せたとき、あの人は、憤りを隠さなかった。
幼かった深織ですら、そんなときは容赦なく罰せられた。身体を傷つけるような体罰はなかったが、着ていたものを剥がれ雪の日に裸で、外に放り出されたこともある。それが親代わりに深織を育ててくれたその人の教育方針でもあった。
「準備できた?」
シャワーを浴びてきた男は、ダンヒルのライターでラッキーストライクを吸い、ぴかぴかに磨かれた陶製の白い灰皿にまだそれほど燃え落ちていない煙草を押しつけた。
「じゃあ、そろそろベッドに行こうか」
いつもの展開だ。部屋の照明を落とした深織はベッドサイドのランプのつまみを加減して、ほどよい薄闇に部屋を調える。灰色の眠りに落ちるような鈍色(にびいろ)だ。それから男の目を意識しながら、ベッドサイドでタオルを脱ぎ捨てた。
ほとんどの男がそこで、息を呑んで緊張した。中にはそれからさっぱり、勃たなくなってしまったものもいた。しかしその男は、それらの凡庸な反応とはまったく違った。
最初はただの気のせいだと思った。
薄い闇の中で、くす、と、男が笑った気配がしたのだ。
二度目があった。
確かに聞いた。男は己の理性を失したように、思わずかすかな忍び笑いを漏らしたのだ。
「何か変、わたし?」
今度は明らかに男が笑ったので、深織は声音を強張らせた。つとめて優しい声音を心がけたが、そこに緊迫の色が出てしまったかも知れない。ことの前に詰まらない諍いでせっかくの楽しみをふいにしたくなかった。
「あ、いやなんでもないよ。おれさ―――」
と言うと、男は目頭をおさえ、大仰にため息をついて、
「て言うか気にしないで。大丈夫」
「何が、大丈夫なの?」
笑ってごまかそうとするので、深織はむきになった。
「いいから話してよ」
「だって、こんなこと、話していいのかな」
「話さないなら、わたし帰るけどどうする?」
「シャワーまで浴びて?」
ええ、と、深織は肯いてみせた。我ながら強情な性格だ。だから職場でも近寄りがたいと言われるのだ。自己嫌悪すら覚える。しかもこれでたぶん、わたしはしばらくは職場でも機嫌が悪いだろうとそのとき深織は思った。
「興味があるの。とにかく話して」
難詰すると照れ気味に、とうとう男は言った。
「えっとさ―――つまり、女の子が初めて自分の前で裸になったとき、なんか可笑しくなるんだ」
「どうして?」
「なんて言うかさ、まず誤解しないで欲しいのは君の身体が変、とかじゃないんだよ」
決して、と、言うと、男はうろたえたように少し慌てて、
「おれは普通の男だし、女の子は大好きなんだ。特に今みたいな瞬間が好きだ。どんなシチュエーションでも、こんな風に女の子が来ているものをすべて脱いで、本当のすっぽんぽんになると例外なく嬉しくなる。女の子だなって感じがするし、実際、興奮もする」
「話がよく見えないけど」
深織は不快げに眉を吊り上げた。彼女ほどの美人がそれをすると、ドライアイスで焼入れしたナイフより、よほど鋭利な感じがする。事実、男はあわてて続きの言葉をつむいだ。
「つまり、普通の男より好きかもしれないってことさ。こうやってたまには格好つけてバーのラウンジで飲んだりするけど、今夜君に逢ったみたいにいいことがなかったら、しかるべき場所に連絡して、適当な女の子を見つけたりするんだ」
「デリヘルのこと?」
「まあ、そんな感じ。だから日本人ばっかりじゃなく、他の国の女の子を抱いたこともある。中国人、台湾人、韓国人、タイ人、フィリピン人、オランダ人も抱いた。でも、我慢が出来ないんだ」
「何が?」
深織はため息をつくと、男の隣に座った。眉をひそめ、訝しげに唇を突き出す。そのとき気づいたのだが、みると、なぜか相手の男も似たような複雑な表情をしていた。
「だってさ、女の子の身体って、もう一コずつ、余分な眼がないか」
しばし、沈黙があった。
「どう言うこと?」
「つまり、えっと、つまり、おっぱいのこと」
と言うと、男は深織の盛りあがった二つの乳房をそれぞれ指差した。
えっ? 深織は形のいい瞳をこれ以上ないくらいまん丸に開いた。
「胸のこと?」
「そう、それ」
「本気で言ってる?」
本気だよ、と言うと、男は深く肯いた。あれほど軽い風貌だったのに、今度はなぜか笑っていない。本当の、本気で言っているらしかった。
「おれ、女の子はそこでも、物を見てる気がするんだ。シャワーを浴びて、裸になった女の子がこっちへ来るだろ。大きな目が二つ、おれを初めてみた、って言うように、こっちを見つめてくる。向こうは絶対びっくりしてる。こっちもなんか、びっくりするんだ」
「要は胸の大きい子ばっかり、相手にしてきたからってことじゃない?」
半ば呆れて、深織は言った。そんなこと、気にした人間は初めてみた。
「いや、胸の小さな子だって、乳首が小さくたって、男のものとはやっぱり違うよ。女の子とセックスしたいと思うようになるはるか前、ほんの小さな子供のときから思ってたんだ。どんなタフな男だって、子供の頃はお母さんとお風呂に入るだろ。そのときからずっと、そう思えてならないんだ」
「今の今まで?」
そう、と、男はどこか深刻げに肯いた。
「女の子はみんな、裸になると別の目でも男を見てるんだ。そしてそれを見ると、なんか敬虔な気分になる。そいつは言ってる。お前は、今から女を抱くんだぞ。そこにお前のために裸になった女がいるんだ。お前は彼女の中に入る」
「入るの? 入らないの?」
胸元にタオルを引き上げると、深織はふざけて男の肩をつねった。
「もちろん入るさ。ぜひその中に、とっぷり入れてほしい」
と、おどけて男は言うと、
「でも、すると同時に自分がとても罪深くも思える。いつもどこかでちゃんと誰かがみているんだ。どんな誰だって、いつどこでなにをしていたってね。そんな気持ちは本当は必要なのかもしれない。特にこんなことしてていいのかな、ってときとかは余計にね」
「悪いことし過ぎてるからじゃないの」
「かも知れない」
くすり、と笑うと、深織は拳で男の胸を叩いた。この人、本物の馬鹿だ。まさかおっぱい一つでそんなこと考えているなんて。冗談でも馬鹿馬鹿しすぎる。でも、初めて聞いた。
「で、そう言えばなんだけど、さっきの君、何だかとっても興味深かったな。おれが君の胸を指差したとき」
「いつ?」
と、尋ねると、男はもう一度、つまり、と言った先のことを繰り返した。
「君みたいな人でも、そんな表情をすることがあるんだな、と思ったよ」
言われてみれば、だ。えっ? と、目を見開いたとき、自分はどんな表情をしていたのだろうと、深織は思った。たぶんどこでだって、したことのない表情だ。自分でさえ、みたことはない。誰にも見せたことのない顔。誰にも見せることのないだろうと思っていた顔だ。
それがまさか、こんな変な男の前で出てしまうなんて。
「ものの見方が歪んでるんだ。前に、全くおんなじことを君とは別の女の子に話したら、グーで思いっきり殴られた。そうだよな。実際、女の子のおっぱいを見て、思わなきゃ、しなきゃいけないことは別のことなんだろう。でも、どうしてもそう思うんだから、仕方ない」
「あなたって、びっくりするくらい変わった人」
いつのまにか深織も、くすくすと笑っていた。
「セックスするとき、いつもそんな風に考えてるの?」
でも、と思った。自分だって人のことは言えない。厳しかったあの人が死に、遺されたわたしは社会に出て毎週、結婚相手も探さずに夜になると男を探して歩いているのだから。
心地よい抑制の中で、バランスを尊んで生きていたわたし。過ぎ去ってみれば、それが最良の場所だった。でもそこには戻れない。それが善だったか、今が悪なのか、それすらわからない。処女で居続けることが素晴らしいとは思わない。同時に無知が美しいとも。
でも今のわたしは。そう、今だってすすんで、バランスを壊している。
「でも君は間違ってはいないと、俺は思うよ」
なぜか深織の心を見透かしたように、突然男が言った。
「色んな男に抱かれることが悪だとは、俺は思わない。ガラスの水差しにそそいで大海の上に投げ出したかのように、本当の心はうつろっていくものだ。それは誰にも捉えることは出来ない。たぶん、君自身も。他の誰でも」
「ふうん」
「それは、どこかでゴールのテープを切ったと思っても続くだろう。レベルだとか、多数派だとかと言う価値で測ることはできない。同時に善だとか悪だとかって言う二極的な価値観でもね。考えてみれば実際、美醜すらごく相対的な価値観でしかないのだから」
「そうね」
と、深織は言った。
「わたしもあなたの言うこと、間違ってないと思う」
男はタオル地を少し引き下げてこんもり膨らんだ深織の乳房を差してた。無遠慮をとがめる気にはなれなかった。なぜか、おかしくて流してしまった。
「さて、そこから何が見える?」
彼は言った。今みてみると確かにそれは、大きな二つの目だった。しかもさっきあっけにとられて目を丸くしたときの深織のように、びっくりしている。
そう言えば、なにをみてそんなにびっくりしているのだろう。そんなこと。くだらない。でも、わたしも不思議に思えてきた。変なの。ふふ、と忍び笑いをしながら深織は自分の乳房についた双眸を撫でさすった。
「さあ? でもたぶん、あなたたち男が感じてることとはまったく別のものかも。だってこの子、別にびっくりはしてないんだもの」
今度は男が目を丸くする番だった。
「君は、面白いな。こんなに面白い子は初めてかもしれない」
「あなたも」
なんだか、急に聖者のような話し方をしていたその男の姿を、深織は見直した。なぜか猫背になった男は、膝の上で二つの拳を組んで、大きく息をついている。そこで何か大きなものの亡霊を吐き出したかのように虚脱した表情だった。
すべての言葉を吐きつくした物憂さが、そこにあった。
世界は歪んだものたちで出来ている。くつがたなのだ。
深織はふと思った。
円覚寺のもみじ。節くれだって黒ずんだ古木の幹についた、たおやかな紅い葉のあでやかさ。まるで馬に踏みつけられたかのように歪んだ、沓形の茶碗。素晴らしいけど、詰まらない、あるとき、はっきりそう言われたあの人の言葉。娘代わりだと言いながら、ついにはわたしを抱いたあの人の心。
矛盾と錯綜に満ちている。
でも、心には歪みが必要なのだ。
歪みとは、決して不正なるものの呼び名ではない。いびつさは、世界に触れあったしるし。誰かを傷つける醜さではなく、受け入れる優しさ。凹んだ部分は突き当たってきた世界を正面から、そのまま、受けとめた証なのだ。
「ねえ、そろそろ寝ましょう」
なんでか、そのとき、深織が思ったより随分と優しい声音が出た。自分でもびっくりするくらい。甘えてみせる声とは違った。それは身体の芯にあるひび割れから深く静かに響く、複雑な和音を伴った音色。彼女が今まで出したことのない声だった。
お腹の底に詰まった泥のようなものが熱くうねり、へその上あたりが強く疼いた。性欲がなぜか、敬虔なものに感じられたのはそのときが初めてのような気がした。
今度こそタオルを脱いで、深織は一糸まとわぬ身体になると男にそっと添った。
「あなたは今、美醜も相対的な価値観だって言ったでしょ。それでなんだけど」
男は首を傾げた。深織は続けて問うた。
「まだわたし、あなたから、一番、肝腎な台詞を聞いてなかった」
「君は綺麗だ」
みて分からないかと言うように、男は自分のタオルを取り去った。
そこにあったものを見て、深織は本当におかしそうに微笑んだ。
見ると男も深織と同じように微笑んでいた。
そこで、これからなにかがつながっていく予感がした。
くつがた
これが3作目ですが、いかがでしたでしょうか。
本当は鎌倉の小町通りあたりを舞台にして、高校生の受験生カップルを描こうとプロットを練ったのですが、いつの間にかこんな感じに。こちらの構想は次回以降に譲ります。出来たら、お付き合い下さい。
本作を書くにあたって、気をつけたことが二つ。一つは、ホテルでの一夜の逢瀬を舞台にした、よくある官能小説の、「こんなすごい人、初めてよ!」みたいな感じにならないこと、もう一つは自分が美しい、と思えるものを全力で描写してみようと言うこと。
個人的には楽しめたのですが、読んだ方に一番楽しんで頂けたら、これに勝る喜びは他にありません。
ちなみに北鎌倉、そろそろ終わりかけの円覚寺の紅葉をしのんで書きました。今年、紅葉を観に行けなかった自分が、作中、テレビで円覚寺の紅葉をみる深織に重ねあってます。だから直接、深織に紅葉を見に行かせる設定にしなかったりして。ちょっと、うらみが籠もっているのかも。来年は遊びに行こう。