炎の果てに…。横浜編
文明開化の機運に沸く明治時代の横浜。英国人の父と日本人の母を持つ混血少女アスカは、母の死後5歳で花街に売られ、見習い禿(かむろ)として美しい花魁の貴蝶に出会う。姉と慕う優しい貴蝶の存在があればこそ日々の辛い苛めにも耐えられたが、10歳になったある日、貴蝶の留守にアスカは意地悪な仲間の奸略に遭い娼館を逃げ出した。行く宛てのないアスカは街を彷徨ううちに大通りに飛び出して行き合わせたアメリカの大富豪ジェームズ・メルビル夫妻の乗る馬車に轢かれそうになる。意識を取り戻したアスカの銀色の瞳を見て、彼女が混血であることを知った二人は、アスカを自分の娘としてアメリカに連れて帰ることを決意した。そして7年後、ある決意をもってアスカは再び横浜に戻ってきた。
「私にメルビルの名前を授けてくれた父の汚名はきっと私が晴らしてみせるわ…。そして母を捨てた父を見つけてみせる…きっと」
プロローグ~ 1 1884年 サンフランシスコ 3月
昨日から降り始めた季節はずれの雨は、止むことなくずっと降り続いていた。比較的温暖なこの場所に、この時期これだけの雨が降り続くことはとても珍しい。
陰鬱とした灰色の空の下、重苦しい雰囲気をまとった人々の列が、町のはずれにある小高い丘の墓地へと続いている。
故人を悼むように町の教会の鐘が鳴り響き、まるで空も泣いているように冷たい雨粒が大地を濡らし続けた。
「わが友、ジェームズ・メルビルは神の御許に召され、その魂の永遠に安らかならんことを…アーメン…」
押し殺した啜り泣きの中、教会神父の声だけが静かに響く…。
郷士メルビル家の当主、ジェームズ・メルビルが永眠したのは今からちょうど2日前、突然の心臓発作だった。
享年55歳。祖父であるリチャード・メルビルが開拓者としてこの地に居を構えてから1世紀あまり、3代続いたメルビル家を小地主からアメリカでも有数の富豪へと変えたのは、ひとえに彼の持ち前の勤勉さと一途なまでの探究心があったからだ。
加えて世界に通じる先見の明があった彼は、40代になってから船を持ち、ヨーロッパはもちろんのことアフリカ、東インドを経てアジア大陸の中国…果ては極東の日本に至るまで広く巡り歩き、交易を広めた。
それだけ成功し財を集めたにも関わらず、ジェームズ・メルビルは多くの人に愛された。白人でありながら不遇に喘ぐ他人種にも同情心を失わず、すべての人々に慈悲深かった彼の死を悼むために、これほど多くの人々が集まったのもそのためだろう。
「お母さま…お父さまはきっと少しも苦しまずに逝かれたに違いないわ…」
彼の一人娘、フローレンス・メルビルは隣に立つ母の痩せた肩を抱きしめながら、頭に乗せた帽子の縁を飾る黒いヴェール越しに重苦しい空を見上げた。
黒い睫に縁取られた美しい銀色の瞳には、深い悲しみと同じくらい強い決意を表す光が浮かんでいた。
ゆらゆらと燃え上がる銀色の炎のように…。
4ヶ月後…。
ギラギラとした真夏の太陽を浴びながら、アスカは目の前に広がった遠い水平線へと続く碧い海原に、浮かんでは消えていくいくつもの白波をじっと見つめていた。
白いレース飾りのついたボンネット(外出用のツバ広の帽子)の襟元から幾筋かの黒絹のような髪が、吹く風に巻き上げられて舞っていた。時々その波間に白いカモメ達が飛び交い、すぐ近くに島があることを告げている。
「フラン、ここにいたんだね? ここは陽射しがきつ過ぎる。時々君は自分がレディーだということを忘れているんじゃないかって思うよ。」
アスカはゆっくり振り返って声の主を見つめた。
背の高いがっしりとした体躯、肩までの濃い金髪を肩先でひとまとめに括って、広い額と堀の深い顔立ちは理知的で誰の目から見てもハンサムだ。
逞しい太ももを覆うぴったりとしたなめし革のズボンを履き、パリッとした白い綿のシャツからは、日焼けした褐色の肌がのぞいている。
微笑む口もとから真っ白い歯がのぞいて、この空と同じスカイブルーの瞳はまるで吸い寄せられるような引力を放っていた。
こんな海の上ではなく陸に上がったなら、彼はきっと多くの女性の心を虜にするに違いない。
アスカはこの背の高い魅力的な従兄に微笑みながら、その腕の中に飛び込んだ。
「アンソニー! まあ、あなたの中でわたしがいつレディーに昇格したのか教えてくれない? 確か私の記憶が正しければ、前に会った時にあなたは私のことを勇敢なアパッチの女戦士と呼んだのよ」
「おや、おや、5年前のことを言っているんなら、君の記憶力はきわめて優秀と言わなければならないね? でもあえて言わせてもらうなら、あの時君は勇敢にも頭に羽飾りをしたインディアンの格好をして、裸馬に乗って草原を駆け回っていたんだから…。おまけにその時の君は髪を短く切って、肌だって日焼けして真っ黒だったじゃないか?」
彼はすっと近づくと、力いっぱいアスカを抱きしめた。アスカの従兄、アンソニー・クレメンスは27歳。アスカよりは10歳年上で、彼の母親はアスカの父の妹だった。
彼は16歳から海に出て叔父の船に乗って世界中を回っていたから、このハンサムな従兄に会えるのはあって一年に一度、彼の乗った船がサンフランシスコに戻ってきた時だけだった。
「叔父さんは残念だったね? 葬儀に行けなくて悪かった」
「いいのよ、その頃あなたは東インドにいたんでしょう? 父も分かってくれるわ」
二人は並んでデッキにたたずむと、心地よい風に吹かれながらまた遠い地平線を見つめた。
父であるジェームズ・メルビルが亡くなって5ヶ月が過ぎ、メルビル商会は遺言に従って次の後継者に、彼の甥であるアンソニーを指名をした。
ジェームズには子どもはアスカ以外にはいなかったけれど、彼はこの甥をとても可愛がっていた。
はっきり言葉には出さなくても、アンソニーがいつかアスカと結婚してこのメルビル商会を継いでくれることを希望していたことは、回りの誰もが知っていた。
「フラン、どうしても君は日本に行くつもりなんだね?」
「ええ、私の本当の名前はアスカ…。7年前、パパとママが私にメルビルの名前を与えてくれて、本当の娘のように可愛がってくれたけれど、フローレンス・メルビルは仮の姿なの。7年経っても私の気持ちは変わらなかった。今こそアスカに戻って、もう一度私のルーツを確かめたいの…」
彼女の横顔を見つめながら、アンソニーは大きく息を吐いた。
「ジェイ二ー・ママのためにフランのままでいて欲しいと頼むことは無理なのかな?」
「ママのことは忘れたわけじゃない。いつか望みが叶ったら、必ず帰ってくるとママと約束したのよ。ママもわかってくれたわ。」
「そうなのか? ではボクが一緒にこれから先の人生をともに歩んで欲しいと言っても…?」
アスカは傍らの背の高い従兄を見つめた。彼の気持ちにはうすうす気づいてはいたが、わざと気付かないふりをしていたのかも知れない。
「ごめんなさい…。私はアスカなの。まだメルビルにはなれない。わたしは…。」
「わかっていたよ。君のその銀色の瞳の中にいつも何が映っていたのかは…。いいんだ。ボクも待つから。君がいつか可愛いボクのフランに戻ってくれるまで…。」
「アンソニー…。」
自分がこれからしようとしていることを思えば、この先もう純真無垢な少女フローレンスにはもう戻れないことはわかっていた。
その時にもっとアンソニーを傷つけることになるのではないのだろうか? 不意にアスカは胸が痛んだ。
横浜…。それがアスカの生まれた町だった。
母親の生家は下級だが旧華族の家柄で、今のアスカと同じ17歳の時に父に付いて出かけた同じ華族の屋敷で、当時の英国大使の見習い書記官として来日していたアスカの父親と出会って、二人はたちまち恋に堕ちた。
だが母の父は軍人の出であり厳しい人で、一人娘が外国人と結婚するのを許さなかった。
二人は密かに街の小さな教会で結婚式を挙げたが、その翌年父は急に本国に召還され、必ず再び戻ってくると約束したにも関わらず、その後一度も戻ってくることはなかったという…。
その後娘が身籠っていることを知った父親は、ついに彼女を勘当してその乳母と一緒に屋敷を追い出してしまった。
事実上母は身内からも捨てられて、アスカが5歳の誕生日を迎える前に病気で亡くなってしまったのである。
そしてその先は…?
しばらく物思いに耽っていたアスカは、不意に力強い従兄の腕に抱き寄せられてわれに返った。
「ボクも一緒に日本へいく。そのつもりで昨夜上海からこの船に乗り込んだんだ」
アンソニーはその場の気詰まりな空気を振り払うように明るい声で笑った。
「まあ、全然気づかなかったわ…」
「東インドからの便が夜遅く着いたんで、そのまま乗り込んだんだよ。」
「でもあなたは本当はインドから直接サンフランシスコに戻らなければならなかったのでしょう? 弁護士のウィルトン氏が相続の手続きに入りたいって…」
「シィーッ! いいんだ…」
アンソニーはアスカの唇に人差し指を当てた。
「手続きはボクが居なくても彼が上手くやってくれる。昨日手紙を送っておいたよ。それに…ボクは君を手伝いたいし…それにもうひとつ問題があるんだ。」
さっきまで穏やかだった従兄の顔に急に緊張が走ったのをアスカは見逃さなかった。
「もうひとつの問題…?」
「ああ…南アフリカでボクは叔父さんからの手紙を受け取ったんだ。叔父さんはどうやら騙されていたらしい。ここ何年か、アジアで…そう台湾や香港、日本で運んでいたはずの積荷の中身がすり返られていた。絹や綿製品を運んでいたはずなのに、実際には国外に持ち出してはいけないはずの美術品だったり、禁断の麻薬だったり…。叔父さんは途中でそれに気が付いて、ボクに連絡してきたんだ。」
「でも父は…」
「ああ…手紙を受け取った時にはもう叔父さんは亡くなった後だった。きっとショックだったんだろう。長い間裏切られていたんだから。ボクはきっとその証拠を見つける。叔父さんをショック死させるほどに打撃を与えたその相手をきっと突き止めてみせる…」
「アンソニー…」
「叔父さんは5年前から日本のある海運会社と提携していた。そこに何か鍵があるような気がするんだ。叔父さんがそれに気が付くと同時に英国政府も動き出した。英国王室の財宝の一部がその中に含まれていたらしいんだよ。英国政府がそれを見つける前に、それを是が非でも探し出さなければならない。そうしなければメルビル商会は終わりだ。」
「アンソニー、私にも何か出来る?」
「大丈夫、それはボクがやる。君はメルビルの娘として堂々としていてくれればいいんだ。それに来月になれば東インドにいる友達が、ボクに力を貸すために日本に来てくれる。すべては極秘に行わなければならないんだ。フラン、力を貸してくれるね?」
「ええ、アンソニー、パパのためなら何でもするわ。」
「ああ…でも君のことはボクが守る。危険なことはさせないから…」
ジェームズは誰かに裏切られて、そのショックで亡くなったのだ…。
初めて聞かされる事実にアスカは震えた。
7年前、野良猫同然だったアスカを拾ってくれたのはジェームズだった。
その養父の無実を晴らすためなら、自分の望みなどほんの少し横においておくくらいなんでもないのだ。
これから向かう日本は自分が生まれた場所だ。でも…不思議と懐かしさなど感じない…。
あるのは悲しみと虚しさだけ…。それでも帰らなければならないのは…私を生んでくれた母がどんな気持ちでその人を愛し、生きたのか…。
なぜその人は一度も連絡をくれなかったのか…知りたいだけ。
日本に戻って母と私のことを知っている人を探し出す。
そして、いつか英国に渡ってその人に聞いてみたい。
何故私たちを捨てたのか…と。
プロローグ 2 1877年 (明治5) 1月 旧横浜歓楽街
「あんた! 昨夜あたいの客を盗っただろう…!?」
「何だって!?変な言いがかりつけないでおくれよ! あの人はもともとあたしんとこに来てくれたんだ。あたしのお客なんだからね!」
「馬鹿言うんじゃないよ! 」
朝の喧騒の中、この歓楽街一の娼館『陽炎』の奥まった広い台所の一角で、多くの遊女達が膳を並べて食事する中で、二人の若い遊女が今にも互いに掴みかからんばかりの勢いで睨み合っている。昨夜の客のことで揉めているのだろう。この世界ではその稼ぎによって、女達の地位は決まるのだ。より自分自身に磨きをかけ、より高く買ってくれるお客を掴むことで、彼女達の地位は上がり、自分の自尊心を慰めた上に、男に身体を売るという行為を正当化出来る。それに、人よりも少しでも多く稼ぐことが、彼女達が自由になる唯一の道でもある。
遊女達には下から半玉、もしくはかむろ(見習い)、仲見世前の新造から、最高位の太夫は花魁(おいらん)と呼ばれ、その店一番の看板太夫であり、抱えている顧客も大棚の商人や、武家や外国の要人だったりと、一流の男達である。
そんな素晴らしい花魁をどれだけ抱えているかということこそが、それぞれの遊郭のステータスであり、何十件と並ぶこの街の歓楽街の顔といえるのがその花魁たちなのである。
華やかな花魁たちは、高く美しく結い上げた島田をたくさんの鼈甲の櫛やかんざしで飾り立て、身につける衣装は錦の内掛けに金糸銀糸で織り上げられた豪華な帯を胸の下で個性的な形に結んでいる。
薄い一重の襦袢の上に一重の着物をまとっただけというほかの太夫たちとは明らかに一線を隔てる彼女達の風貌からは、遊女たちの持つ悲哀感は微塵も感じられない。
ただ実際にはこの世界に足を踏み入れた遊女たちの中で、花魁まで上り詰めることが出来るのはほんのわずかだった。
争っている女達以外の遊女たちはみな表情も虚ろで、我関せず…という顔をしている。
実際客のことは気になるが、自分に直接関わりのないことには皆無関心なのだ。
昨夜は明け方まで自分の身体を酷使したあとだから、誰も無駄なエネルギーは使いたくない。さっきから争っている彼女達以外の遊女たちの動きは皆緩慢で、気だるさを含んでいる。
その女達が膳に向かって座る間を、下働きの炊事女やまだ10代に上がったばかりの少女達が忙しなく食事の世話に走り回っていた。
髪は桃割れという幼い少女達が結う髪型で、額の中央を軽く摘んだ残りの髪を両脇から頭の後頭部のてっぺんでまとめ、飾り布を巻いて結い分けている。
彼女達は、まだ幼い頃に親元から売られてきた貧しい農家の生まれがほとんどだった。
大概の娘は10代の半ばくらいまでに初潮が来ると、”初物“として店頭に並べられ、一番高い値を着けた客に競り落とされる。
それまでは半人前の見習いで、他の太夫たちの世話をしながらその日が来るまでにいろいろと心構えを学ばなければならなかった。
その中で、見た目にも美しく、才能があると認められれば、花魁になる道も開かれるのだが…。
「姐さん、箸が…」
少女の目の前に転がってきた箸を拾って差し出そうとした時、睨み合っていた二人のうちの一人がもう一方の女のゆるく束ねた髪を引っ張った。
「何すんだよ…! この…!」
もう一人の女も負けずと相手の髪を掴んで引っ張ると、相手が倒れた拍子に置かれた膳がひっくり返って、あたりに悲鳴が飛び交う。
「何やってるんだ!? おまえたち…!」
すかさず一段高いところで朝食の膳を囲んでいたこの店の女将、お万は鋭い声を発した。
「それ以上騒いだら、二人とも裸にして通りに放り出すからね! それが嫌なら黙ってお食べ!」
お万が鋭い表情で二人を一瞥すると、さっきまで憤っていた二人の女は途端に蛇に睨まれたカエルのように大人しくなった。
下働きの女達が散らかった膳の中身を片付けている間、二人は決まり悪そうに下を向いて座っていた。
『陽炎』の女将、お万は恰幅のいい年は40絡みの女で、女の盛りはとうに過ぎていたが、豊かな髪やまだまだ艶のある肌はかつてはかなりの美貌の持ち主であったことを思い出させる。
彼女は他の店の女将のように嫉妬深くも欲深くもない。女たちを支配するためにはときに非情にならざるを得ないのだが、そうでない時には出来るだけ公平を心がけていた。
お万は外に通じる通路から騒ぎを聞いて顔をのぞかせた店の用心棒に手を振って下がれと合図すると、もう一度騒ぎを起こした二人の女が、のろのろとまた食事に戻るのをじっと見つめた。
もう誰も口を開かず、黙々と膳に向かって箸を動かしている。聞こえてくるのは、カチャカチャという箸を動かす音と、遠くから聞こえる犬の鳴き声と荷車を引く人夫の掛け声だけだった。
「アスカ…!」
突然名前を呼ばれて、女達の膳にお茶を運んでいた10歳くらいの少女がビクッとして顔を上げた。小さく返事をしてすぐ小走りにお万の側に駆け寄る。
「貴蝶のところに手洗い用のたらいと水差しを持っていっておいで。そろそろ若旦那がお目覚めになることだろう。万事差しさわりのないようにね?」
お万のいう若旦那とは、この店の一番の花魁“貴蝶”(きちょう)のお客でここ1年近く毎日のように通いつめ、時々は昨夜のように泊まっていくことも多い。商いを多く行う大きな船問屋の跡取りで、関東でも有数と言われている豪商のひとりだった。
密かに仲間内ではこの羽振りのいい若旦那が、近いうちにこの花街一番の花魁を身請け(遊女の残りの借金を肩代わりして引き取ること)するのではないかと噂していた。
「はい!」
アスカはそう返事して立ち上がると、小走りに部屋を横切って一段下がった所にある炊事場に下りると、大きな水差しを手にとって端にある大カメの中から水を汲んで、別の女が用意してくれた大きな盆の上にのっている小さな手桶と一緒に二階へと運んでいく。重たい盆が、あかぎれの切れた小さな手に食い込んで、思わずうめき声が漏れるのをアスカは必至で堪えた。この娼館に連れてこられたその日から毎日こなしてきた仕事を、手が痛いからといって休むわけにはいかない。働かなければ食べさせてもらえない…助けてくれる親も身内もいない子どもは、自分の力で生きていくほかないのだ。
「桐の間」とかかれた部屋の入り口まで来ると、一度手にした盆を床に下ろして、豪華な桐の花が描かれた部屋の引き戸を静かに開ける。音を立てないようにそっと中に身体を滑り込ませて、盆を中に引き入れながら…アスカは部屋の主にそっと声をかける。
「姐さん…」
「アスカね? いいわ、入ってちょうだい。」
この部屋の主である『陽炎』の花魁“貴蝶”の声は、羽のように軽やかだった。アスカはこの貴蝶の花魁付き半玉だったけれど、この姿だけではなく心も美しい貴蝶が大好きだった。
「あの…」
「遠慮しなくていい…。さあ、入っておいで…。」
突然聞こえてきた貴蝶以外の優しい男の人の声にアスカはうろたえた。
もちろん毎日のように貴蝶の元を訪れる若旦那のことは知っていたから、時々は用事のためにこの部屋を訪れることはあったけれど、こんな風に直接声をかけてもらうことなど一度もなかったのだ。
ついたての陰でモジモジしながら動けないでいると、その奥から貴蝶が現れて、アスカの手をとって中に入る。
貴蝶に与えられている部屋は、陽炎にある何十もある部屋の中でも最も広く豪華な部屋だった。居間と奥にある寝室とが、仕切りになっている豪華な襖で隔てられている続き部屋で、西洋風の豪華な内装はまるで海岸通にある外人居留地にある洋館にいるような錯覚さえおこさせる。
二人は居間に置かれたソファーに寄り添いながら、素肌の上に柔らかな素材のローブをまとってくつろいでいる。
貴蝶はいつもは念入りに結い上げている豊かな黒髪を、今日は緩やかに片側に垂らして先を白いシルクのリボンで結んでいた。
小さな卵形の顔に黒い睫に縁取られた黒曜石のようにキラキラ輝く美しい瞳があった。
真っ直ぐ通った鼻筋の下にはふっくらとした愛らしい唇が、まるで恋人のキスを待っているようにうっすらと開いている。
アスカは緊張しながら、初めて見る貴蝶の恋人を見上げた。
貴蝶の恋人、“浩二郎”は、商家の跡取りにしては背が高く、理知的な瞳をした青年だった。
大棚の跡取りらしく多少尊大に見えるところはあるものの、少しも傲慢さは感じられない。
それどころか、髪も今風に伸ばしてきちんと手入れされていて、きっと西洋風の衣装を身に着けたならさぞかし見映えがするだろうとアスカは思った。
気取った金持ちの西洋かぶれした日本人達がこぞって外国人の真似をするのを、ヨーロッパ人たちが馬鹿にしているのを知っていたから、この目の前にいる、見るからに立派に見える紳士が、アスカにはとても素晴らしく見えた。
もちろん、自分の敬愛する貴蝶の恋人として…。
「若旦那がお土産に西洋のお菓子を持ってきてくださったの。たくさんあるからアスカにも分けてあげようと思って…。」
貴蝶はきれいな包みに入った小箱をアスカの手に握らせた。
「まあ、こんなに手が荒れてしまって…。痛かったでしょう? おまえはまだ小さいのに…。」
アスカの手のあかぎれに気が付くと、貴蝶はきれいな白い手でアスカの小さな手を包み込んだ。
「この子は私の小さな妹みたいなものなの。5年前にここに来たときから放って置けなくて…。ねえ、あなた、私がここを出るときにはこの子も連れて行きたいの。」
貴蝶は甘えたように恋人を見つめた。アスカはそれを聞いてすっかり困ってしまった。
確かにアスカはここに居る誰よりも貴蝶が好きだった。初めてここに来た5年前のあの日、泣いていたアスカに優しく声をかけてくれたのは、やっと太夫になったばかりの貴蝶だったし、貴蝶なら何でも話せた。自分の秘密さえも…。
「貴蝶…君の大切な妹なら、ボクにとっても妹だな。よろしくアスカ、君が望むなら貴蝶と一緒に来るかい…?」
浩二郎はアスカに向かってにっこりと微笑んだ。アスカは急に恥ずかしくなってぎこちなくうなづくと、小さな声でお菓子のお礼を言って貴蝶の部屋を後にする。
部屋を出ると急に嬉しくなって、思わず口笛を吹きたくなる。あの貴蝶が一緒に連れて行ってくれる。
そうすればこの牢獄から抜け出せるのだ。
5年前に5歳の時、アスカは『陽炎』に売られた。
母が亡くなって…それまで一緒に暮らしていた母の乳母のツタと、貧民街の長屋でひっそりと身を寄せ合って暮らしていたところへ、何年も行方不明だったツタの亭主が戻ってきた。
ツタの亭主は飲んだくれの怠け者で、最初はアスカのことをツタが背負い込んでいる厄介者だと思っていたが、どこからかこのやせっぽちの子どもを花街の娼館に売れば金になると聞いてくると、このヤクザ者はツタが留守の間に、無理やりアスカを『陽炎』に連れて行った。
最初は目の前に連れてこられた幼い子供の、あまりの血色の悪さに大して気乗りのしなかったお万だが、泣いている子どもの黒い睫に隠された瞳の色が、澄んだ水晶の色だと知ると、迷わず大枚をその男に渡したのだ。
それからの日々はアスカにとっては地獄の連続だった。唯一その中で、美しく優しい貴蝶の存在だけが、幼いアスカにとってはたった一つの救いだったのである。
「あら、こんなところで混ざり物が何をしているのかしら?」
階段のすぐ脇の部屋から、意地の悪い声が聞こえてきた。
さっきまで感じていた高揚感が一気に萎んでしまう…。
この陽炎で貴蝶の次に力のある太夫“お京”付きの半玉“りん”だ。りんはアスカよりも3才年上の13歳。
少し太り気味で、のっぺりした平らな顔立ちに大きめの口の少女で、意地悪そうな目が、階段の下にひとりでいるアスカを見つけて、きらりと光った。
「混ざり物は混ざり物らしく大人しくしていればいいのよ、目障りだわ」
そう言って、不機嫌そうな表情でアスカを見下ろした。りんはアスカより10センチほど背が高い。
大きな身体でじわじわと廊下の壁際にアスカを追い込むと、口元を歪めながら馬鹿にしたように笑いながら見下ろしている。
混ざり物とは、英国人との混血であるアスカのことを言っているのだ。リンの主人のお京はこの花街一番の花魁と言われている貴蝶に嫉妬していて、お万が何かにつけて貴蝶を特別扱いするのが気に入らない。
かといって花魁である貴蝶に面と向かって意地悪は出来ないから、そのはけ口はいつでもアスカに向けられた。
「黙っていないで何か言いなさいよ。それとも口も利けなくなったわけ?」
飛鳥は唇を噛みながら上目で大きなリンの顔を睨む。後ろ手に握った手の中には、さっき貴蝶の恋人、浩二郎からもらったお菓子の小箱がある。
見つかればきっと取り上げられてしまうだろう。
「馬鹿の上に口がきけないんじゃどうしようもないわね」
りんは憎々しげに言い放つと、細いアスカの二の腕を掴んでぎゅっと力任せにつねった。
痛さに指先が痺れて、思わず手にしていた小箱を床に落しそうになって、アスカはグッと足に力を入れて踏ん張った。
ここで逆らえば、リンの嫌がらせはさらに酷くなる。アスカはじっと堪えて唇をかみ締めた。
「ふん! 生意気ね、覚えておいで!」
りんはそう捨て台詞を吐いて、現れた時同様に乱暴に戸を押し開けて中に入っていく。
りんの姿が見えなくなると、アスカはへなへなと力が抜けたようにその場に座り込んだ。
さっき強く掴まれた二の腕を着物の上からさする。袖を捲って見ると、はっきりと赤い痣が残っていた。
きっと明日になれば青く変色していることだろう。今まで数え切れないほど付けられて来た痣だ。
いまさらひとつふたつ増えたところでどうってことはないけれど…。
アスカはそろそろと起き上がって、また階下に向かう階段を下り始めた。
そしてまた台所に戻ると、すでに太夫たちの膳はすっかり片付けられていて、下働きの女達が忙しそうに働いていた。
その中でひとりの年配の女がアスカに気づいて手招きする。
「あんた、朝ごはんまだだろう? これ持っていって裏で食べておいで、そのかわりあとで洗い物を手伝ってくれるかい?」
女はそう言ってそっとアスカの手に握り飯の入った小さな包みを押し付けると、片側の勝手口を指差した。
ここの決まりで泊り客のいる太夫以外は、朝食は使用人に至るまで決まった時間内に摂らなければならないことになっていた。
もしそれを逃したら、夕方まで何も口に出来ないことになる。
炊事女のひとりが、アスカがりんに捕まったせいで朝食を食べ損なったのを知っていて、アスカのために小さな握り飯を作っておいてくれたのだ。
「ありがとう、おばさん!」
「誰かに見つかるんじゃないよ!」
女にお礼を言ってアスカは勝手口から裏庭に出た。裏庭の隅の生垣と植え込みの間にはわずかな隙間があって、そこは隠れるのには打ってつけの場所なのだ。
アスカは誰にも見られていないのを確認して、そこに入って腰を下ろすと、女からもらった握り飯をおいしそうに食べた。
アスカにとってここの暮らしは辛いことの方が圧倒的に多かったけれど、貴蝶や古くからの使用人たちが時々見せる優しさが、今のアスカの支えだった。
ものごころ付く頃から自分の置かれた立場は、嫌というほど思い知らされてきた。
どこへ行っても“合いの子”という混血であることがまるで罪であるかのような、心無い中傷に深く傷付けられてきたから、混血児を生んだことで、世間から爪弾きにされ、実の父親からも見捨てられた母の孤独と苦悩が、今はとてもよくわかる。
今のアスカには姉のように可愛がってくれる貴蝶や、端女のおしんがいる。でも母には乳母のツタ以外には誰もいなかった。
母は死ぬまで、自分を捨てた遠い異国にいる恋人をずっと待ち続けていたという…。けれど母は一度も“その人”を恨んではいなかった。
アスカは首にかけていた小さな黒いビロードの袋を取り出した。中には鎖の切れた小さなロケットとお守り袋が入っている。
それは唯一の母の形見だった。
銀製のロケットは、母がアスカの父親からもらったもので、扉の表側には拍車を象った紋章があり、その中心には宝石のエメラルドが埋め込まれている。
そのロケットの中にはひと房の金褐色の髪の毛が入っていた。
それが父親のものであることは疑いようがない。
こんなものを愛する女に残しながら、父はどんな気持ちで日本を離れたのだろう。
愛する女が自分の子どもを身籠っていると知りながら…。
涙が浮かんでくるのを睫で払うように瞬きすると、不意に目の前の生垣の上から見慣れた顔が現れた。
「見~つけた! やっぱりここにいたんだな?」
そう言って覗き込んだのは、宗太という近所に住む大工の棟梁に弟子入りしている少年だった。
館の増築のため1ヶ月前から棟梁について何人かの大工に混じって館の中に出入りしていた。
頭は無造作に刈り上げている上に小柄で痩せているせいで、15歳という年齢よりはずっと子供っぽく見える。
性格も明るくひょうきんで物怖じしない宗太は、太夫たちや端女からも好かれていた。
初めて宗太が『陽炎』にやってきた日、いつものようにりんに意地悪されていた所を助けてくれたのも彼だったのだ。
それ以来まるで兄妹のように気軽に声を掛け合うようになった。
「宗太…! いきなり顔出すからびっくりするじゃないの!」
「へへ…またりんに何か意地悪されて泣いてたんじゃないのかって思ってさ…」
「まさか…!」
アスカは思わず苦笑する。りんの意地悪はもう日課のようになっている。
わざと逆らったりしなければ、それなりのところで自然に収まることをアスカは知っているのだけれど、黙っていた。
「これさっき貴蝶姐さんのところに来ている若旦那さんにもらったの。一緒に食べる?」
アスカは懐からきれいに包装された小箱を取り出して見せた。
「すごいな、それって西洋のお菓子だろ? いいのかい?」
宗太はサッと生垣を飛び越えてアスカの側にやってくると、その隣に腰を下ろした。
アスカが頷くと、宗太は目を丸くして恐る恐る手を伸ばす。
「美味い!」
小さな星型の焼き菓子を指先でつまんで口に放り投げ、満足そうに言うと、二人は顔を見合わせて笑う。
アスカにとってはアスカにとっては宗太は初めて出来た友達だった。
『陽炎』にはアスカのような子供はほとんどいない。半玉といっても普通は13,4歳の太夫になる直前の娘のことを言う。
アスカのように10歳に満たない頃から娼館に身を置くことは珍しい。仮にあったとしても娼婦の産んだ子供に限られたことだった。
「宗太! またどこで油を売ってやがるんだ!?」
どこからか野太い声が聞こえてきて、宗太は慌てて飛び起きる。
「やばいっ! 棟梁が探してる! じゃあまたなっ!」
それだけ言ってニッと笑うと、宗太は来たとき同様軽い身のこなしで低い生垣を飛び越えて行った。
それを見送りながら、アスカもそろそろと立ち上がる。
さあ、休憩はこれで終わりだ。これからの時間…アスカには下働きの手伝いから、太夫の身の回りの世話に至るまで、することは山ほどある。
午後から夜にかけては目が回るほどの忙しさだ。
ひとつ大きく息を吐いてまた勝手口の敷居を跨いで行く。
夕闇にあちこちの街灯がともり始める頃、多くの娼館が立ち並ぶ、港に近い歓楽街も多くの人並みを集めていた。
通りの両側に並んだ屋台では、美味しそうな匂いがあたり一面立ち込めて、色鮮やかな飾り提灯がさらに通りの賑やかさを盛り上げている。
広い通りの中央には幅3メートルほどの川が流れていて、その川を挟むようにして通りの両側に軒を連ねるのは賭博場と多くの飲食店が並んでいる。
賑やかなその界隈の一番奥、ふたつの通りを結んだ赤い大きな橋のたもとに『陽炎館』は建っていた。10軒近くある娼館の中でも『陽炎』は一番目立っており、建物の大きさ壮麗さ、抱える太夫たちの多さでも群を抜いていた。
「黒田屋の旦那のお越し~! 梅の間に御案内だよ!」
店の看板に明かりが灯るや否や、押しかけてきた客を皮切りに、次々と引っ切り無しに訪れる客達に、とたんに店の入り口はてんやわんやの大騒ぎになる。
下足番の男たちは息つく暇もないほど忙しく走り回り、店の上がり口にある番台からは、常に愛想のいいお万の声が響いていた。
2階にある大広間では大勢の客の宴会が催されているのだろう。
さっきから賑やかな人の笑い声と、お囃子の太鼓の音が階段の下まで響いている。
真っ赤な絨毯の敷かれているその階段を、料理や酒をのせた盆を運ぶ女中達が駆けるような足取りで上ったり下りたりしている。
またその横を華やかな化粧を施した太夫たちが、自分の得意客の腕を取りながら、まるで絡むようにして階段を上っていく。
娼館の中はムッとするような熱気と甘い白粉の匂いでまるで噎せ返るようだ。
アスカもさっきから多くの女中たちに混ざって料理を運んだり、太夫たちの部屋に酒や清めのための水桶を運ぶために何度も狭い階段を往復していた。
今夜は何でも、何とかという偉いお役人が、何人もの供を引き連れてやってきて、2階の大広間を貸しきっている。
花魁の貴蝶をはじめ、人気の太夫が何人もその相手に駆りだされていた。
女中の後をついていきながら、ちらりとアスカが目をあげて上座にいる貴蝶を見れば、貴蝶は偉そうにふんぞり返っている役人に手を取られて、美しい顔に微笑を浮かべながら…小さく頷いている。
役人は酔って真っ赤な顔を満足そうにほころばせて、口元を貴蝶の耳元に寄せて盛んに何かを囁いている。きっと今夜の夜伽に口説いているのだろう。
貴蝶ほどの花魁になると、誰でも自由に相手をしてもらえるわけではない。
もちろん一晩相手をするとなると、並みの太夫の何倍もの代価を払わなければならないし、ある意味花魁が気に入らなければ断ることもできるのだ。
それがこの花街で一番華やかな『陽炎館』の花魁だけに許された“特権”だった。
アスカはひと目みてその役人の傲慢そうな顔が嫌いになった。どうか貴蝶姐さんが断ってくれますように…。
そう心の中で祈りながら部屋を出ようとして、誰かにむんずと腕を掴まれた。
びっくりしたアスカが顔を上げると、にやけた顔の下級役人だろうか、下卑た笑いを浮かべながら珍しいものでも見るように、アスカをジロジロ上から下まで値踏みするように見下ろしている。
「おまえ、変わった目の色をしているな? 毛唐との合いの子か…。面白い、こっちへ来い!」
男がアスカの手を強引に引いて階段の角の暗がりへ引っ張り込もうとしたところで、どこからか体格のいい男が現れて、アスカと男の間に入った。
「すみませんね、旦那。こいつはまだ子供で、売り物じゃないんですよ」
男は口調こそ丁寧だったが、態度は威嚇するように大きな体格にものを言わせて、その横柄な男の前に立ちはだかる。
するととたんにアスカの腕を掴んでいた男は、怯んだように肩を竦めて掴んでいた手を離すと、後ろに後ずさった。
そして男が小さく悪態を吐きながら、また何事もなかったように宴会の席に戻っていくと、もう一人の男がアスカに、早く行けというように身振りで示した。アスカは頷くと小走りに階段を駆け下りた。
店には用心棒として常に20人くらいの腕と体力に自信のある男達が雇われている。
彼らのほとんどは、以前どこかの藩に召抱えられていた武士だと噂されていたけれど、その中にもごろつきと大して変わらない連中がいることもアスカは知っている。
さっきのように店の中での些細なトラブルに対応することも彼らの仕事のうちのひとつだがもうひとつの主な仕事は、店から女達が逃げ出さないための監視役なのだ。
遠くから売られてくる彼女達は、その借金がすべてなくなるまでは、この館を許可なく出ることは許されない。
金で縛られた遊女が男と駆け落ちしたり、逃げ出したりするのはどの娼館でも日常茶飯事で、そのために多くの用心棒が番犬よろしく飼われているのだ。
夜中近くになると館の中も落ち着いてきて、酔っ払った客が廊下でくだを巻いたり、太夫たちと悪ふざけをする姿も見なくなった。
ただ長い廊下の両端に設えられたそれぞれの花の名前をあしらった客室からは、何とも艶っぽい声が漏れ聞こえてくる。
それぞれの太夫たちが、今夜の泊り客のために精一杯の奉仕をしている証なのだ。
5歳の頃からここに居るアスカには、今この部屋の中で何が行われているのか大体はわかっている。
男と女…太古から繰り返されてきたその行為が、ただ純粋な生殖のためでないことくらいは百も承知だ。
男たちはひと時の肉体の快楽を求めて女を買う。ここにいる女達は、皆自分の運命を受け入れ、男の吐き出す欲望に見合うだけの代価を受け取る。だが決して自分自身は充たされることはないのだ。そこに愛はないのだから…。
時々それに耐え切れなくなった弱い女達が逃げ出し、でも必ず連れ戻される彼女達は、そのあと縛られたまま…反省を強いられる。
それでも更生できない者はさらに酷い遊女屋に売られ…その先は…。
貴蝶のように裕福で愛情深い顧客を見つけられる例は稀なのだ。貴蝶の恋人、“浩二郎”は、成貴屋という江戸時代から続く船問屋の跡取り息子で、関東でも1,2を争う豪商の家柄だった。
二人はひと目合った時から恋に堕ちたのだと貴蝶は言った。
普通なら大棚の跡取り息子である浩二郎が、たとえ貴蝶が関東一と評判の花魁であっても、遊女を妻に迎えるということは絶対に有り得ないことだろう。
だが一人息子で有能な跡取りだった浩二郎は、両親を説得して近いうちに貴蝶を身請けすることを納得された。
もちろん、貴蝶の評判は関東中に広まっていたし、貴蝶自身ただ美しいだけではなく、読み書き、計算が出来て英語まで話す。
貴蝶はもともと下級士族の娘だった。父親が人に騙されて借金を負って、それを負い目に自殺した後、病弱な母親と生まれつき身体の不自由な妹の生活を支えるために、自らの意志でこの世界に入ったのだと以前、貴蝶はアスカに語ってくれたことがある。
こんな世界に足を踏み入れても、決して彼女の魂は汚れることはなかったのだ。
そして時々貴蝶はアスカを見ると、別れた妹を思い出すと言って美しい瞳を潤ませる。
結局貴蝶が自分の身を売ってまで守ろうとした母と妹は、貴蝶が『陽炎』に入った数年後、はやり病が元で呆気なく亡くなってしまったらしい…。そして今では天涯孤独の身の上だということも、アスカと貴蝶が互いに惹かれあう理由のひとつだろう。
アスカは貴蝶だけは誰よりも幸せになって欲しかった。自分の意志とは関係なくこの世界に入ったアスカには、貴蝶の存在だけが救いであり希望だったのである。
いつか自分も大人になれば、他の太夫のように男に媚を売る娼婦になるだろう…。でも私は決して魂まで売り渡したりしない。いつの日か自由になって、生きて父親に会うまで、私は決して自分を見失ったりしない…。
年明けから、中国で云うところの“春節”の頃まで、この界隈は昼間でも新年を祝う賑やかな祭りが続く。
海に近い海岸通りと言われる外国人居留区に立ち並ぶ洋館でも、政府の要人達を招いて多くのサロンが開かれ、主催者側の接待の一環として名のある娼館から多くの太夫たちが招かれることが多々あった。
「ほら、急ぐんだよ。時間に遅れるわけにいかないんだから…!」
店の前にずらりと並んだ人力の列に向かって、『陽炎』の女将、お万の声が響く。
今日はフランス大使の公邸で大掛かりな園遊会があるという。貴蝶をはじめ『陽炎』の主な太夫たちは皆朝早くから準備に余念がなく、次々と人力に乗り込んではいそいそと出かけていく。
普段はなかなか店の外には出れない太夫たちも、今日だけは特別で…それだけにどの太夫の顔にも、早起きをした不機嫌さは感じられなかった。
最後の車が店を離れると、店の中は水を打ったように静かになる。今見せの中に残っているのは、下働きの女達と店に来て間もない半玉、あとは留守番として残されている用心棒達だけだった。
お万や、店でも力のある者たちがいなくなると、とたんにそれまで大人しくへつらっている連中が頭をもたげてくる。
店のお抱え用心棒の中でも、アスカがごろつきと呼んでいる連中は特に性質が悪かった。
大人の男たちは、お万と一緒に出かけて行ったが、ロクとキスケという22,3位の二人組みの若者は特に乱暴で、年寄りだろうが子供だろうが、目に付けば誰かれ構わずからかって歩く。
だからこんな時には、皆彼らの姿を見れば逃げるように姿を隠した。
「やっぱり合いの子のあんたは連れて行ってもらえなかったんだね? いくら花魁付きの半玉でも、まがい物じゃあね。花席での付き添いは出来ないはずだものね?」
裏で洗い物をしていたら、いつの間に側に来たのだろう…りんが傍らに立って、勝ち誇ったようにアスカを見下ろしていた。
あんただって居残り組みじゃないの…。
アスカはそう言い返してやりたい気持ちをぐっと堪えた。
「あんたに頼みがあるんだけど…」
今日のりんは、いつもの意地悪い顔にまるでとってつけたような愛想笑いまで浮かべている。
その気味悪さに身震いして、アスカが黙っていると、苛立しそうにりんはアスカの腕を乱暴に掴んで立ち上がらせた。
「女将さんにこの手紙をあるところに届けて欲しいって頼まれてるのよ。」
「女将さんが…?」
「そうよ。でもあたしはこれから人が訪ねてくる予定だから、ここを離れるわけにはいかなのよ。」
アスカはりんの顔をじっと見つめた。
何かがおかしい…。お万がいくら忙しくて、手が足りないとしても、りんなどに頼みごとをするだろうか…?
「早く行って来てよ! 行き先はあの二人が知っているから!」
りんは急かすようにアスカの手に小さく折曲げられた手紙を押し付けると、店の外へと押し出した。
そしてツン!とあごを上げて視線を店の外へと向ける。
アスカがその視線を辿っていくと、その先にはあのロクとキスケの姿が見えた。
二人を見た瞬間、ぶるっとした悪寒が走る。
ダ…ダメよ…! 本能的に危険な何かを察して後退りしたアスカの腕を、強い力でギュッと掴んだまま、りんはアスカの身体を自分の大きな身体で押すようにして、暖簾の外へと押し出した。
アスカが手紙を手にしたまま呆然と立ち尽くしていると、あの“ごろつき”がアスカに近づいてきた。
「出掛けるんだろう? おれ達が付き添ってやるよ」
背が低く小太りのロクが馴れ馴れしくアスカの肘を撫でる。アスカはゾッとして手を引っ込めた。
「や…やめて…。場所さえ教えてくれれば、ひとりで行けるわ。」
「馬鹿言うんじゃないよ。逃げられたりしたらおれ達の責任だからな。大丈夫、おれ達は紳士だからな。なあ? キスケ…。」
ロクはニヤニヤしながら、顔一面ニキビの浮き出た赤ら顔を後ろにいるキスケに向ける。
キスケも卑猥な笑みを口元に浮かべて、ロクにウィンクしている。
それを見たアスカは言い知れぬ不安を覚えて身震いした。
貴蝶もお万もいない今、頼れるのは自分しかいない。
“ 大丈夫、昼間なら人目もあるし、きっとこのごろつき達も無茶はしなだろう…。”
そう心の中で自分を励まして、先に歩くロクの少し後を用心深くついて行った。
すぐ後ろにはキスケがいる。アスカがおかしな動きをしたら、すぐにでも飛び掛るつもりなのだろう。
アスカはこの二人が大嫌いだった。特にこの数ヶ月、何かにつけてアスカに擦り寄ってきてはこれ見よがしに身体に触れてきたり、卑猥な言葉を口にしたりと、明白な嫌がらせがあったからだ。
りんが絡んでいるとなおさらで、きっと今回も何か企んでいるに違いない。
それがわかっていながら、なぜこの二人の顔を見た時に逃げ出さなかったのだろう。
歯噛みするほどの悔しさに唇をかみ締めながら、アスカは何とか逃れられないものかと必至で考えた。
この二人は前からアスカに異常な関心を寄せていた。外国人との混血である自分のどこが彼らを引きつけるのか、アスカにはわからなかった。
他の連中のように忌み嫌い無視してくれればいいのに…。
美しくもなく痩せ過ぎで…目だけ異常に目立つ…。こんな自分が太夫になったところで、男たちの関心を引くとは到底思えなかった。
せいぜいがサーカスの檻の中の動物のように物珍しいだけなのだ。
どれくらい歩いた頃だろうか…? 不意に肩を押されて、アスカはある古い建物の敷地内に入っていたことに気が付いた。
どうやら空き家のようだが、顔を上げてみれば入り口の戸は半分壊れかけていて、引き戸は大きく傾いていた。
「ここはどこ…? 手紙を渡す相手はどこにいるの?」
アスカは振り向いてごろつきたちを見た。二人は並んでアスカを見下ろして笑っているが、二人の目は異様にギラギラと輝いている。
この目は欲望で我を忘れている目だ。
“この二人は狂っている。わたしなんかに欲望を感じるなんて…!”
アスカは恐怖を感じてじりじりと後ろへと退った。
するといつの間に後ろに回ったのか、キスケがいきなり後ろからアスカを羽交い絞めにして両手の自由を奪う。
「離して…!」
「へ、へ、へ…。いつかこんな機会が来るのを待ってたんだ。合いの子のおまえが他の女とどう違うのか、確かめたくてさ…。」
「やめて、そんなことが女将さんに知れたら…。」
「バレやしないさ。おまえが喋るわけないよな? 売り出し前の商品が傷物になったら、おまえはもっと下級な店に売られる。そうしたらもう貴蝶にも会えないよな。おまえは誰にも言わない。そうだろう…?」
アスカは悔しさに唇を強く噛む。キスケの言うとおりだった。アスカが傷つけられても、ここでは誰も助けてくれない…。
口の中に血の味が広がる。
「さて、さっそく味見といくか。心配するな、おまえはまだ子供だ。手加減するさ…。」
ロクの言葉にアスカは吐き気がしてきた。
「ほう…ガキのくせにこっちのほうはもう膨らみ始めてやがるぜ。」
後ろから回した手でキスケにいきなり着物の上から膨らみ始めたばかりの小さな胸を掴まれて、アスカは悲鳴を上げた。
そうしたら今度はいきなり反対側の手が、着物の合わせから胸元に忍び込んで来る。冷たい無遠慮な手がぎゅっと小さな膨らみを握り締め、その痛みにアスカは涙ぐむ。
「下のほうはどうだろう…? 西洋の女は早熟だって言うからな。案外もうこっちの方は…」
ロクがアスカの前にしゃがみこんで、着物の裾を捲ろうとするのをアスカは必至で足をバタつかせて抵抗すると、かえってロクは面白がって笑っていたが、たまたま蹴り上げた前足がロクの顔面に入り、ロクは後ろに勢いよくひっくり返った。
それを見てアスカは今度は思いっきり肘を曲げて後ろに繰り出すと、見事にキスケの股間に当たる。
キスケはそのまま前かがみになって地面に倒れると、股間を押さえて転げまわった。
その隙にアスカはその場を逃げ出した。
壊れかけた引き戸を夢中で抉じ開け、わずかな隙間から外へ飛び出すと、あまりの外の眩しさにたじろいだが、いつ彼らが起き上がって追いかけて来るとも限らないので、慌ててすぐさままた駆け出した。
もう自分がどこをどう走っているのかさえもわからなかった。いまさら『陽炎』に戻ることも出来ない。
店に戻った彼らは、きっとアスカのほうから逃げたと言うに決まっている。アスカにはもうどこにも行くあてはなかった。
絶望に胸が張り裂けそうになる。優しい貴蝶の美しい顔が浮かんできて…もう二度と会えないと思うと…自然に涙が溢れてきた。
“ 貴蝶姐さん…助けて…! ”
心の中で叫びながらさらにアスカは夢中で駆け続け、人ごみを掻き分け…自分がいつの間にか馬車が行き交う大通りへと飛び出していたことにも気づかなかった。
誰かの叫ぶ声と、車輪の軋む音にハッとなって立ち止まった時、目の前に大きな黒い馬の姿が迫り、そのまま意識は暗闇の淵へと落ちていった。
どれくらい眠っていたのだろう…? どこか遠くから漏れてくる穏やかな人の話し声とさらさらという心地よい衣擦れの音が聞こえてくる。
温かく柔らかい誰かの手が優しくそっと額を撫でるのを感じて、アスカは重たいまぶたを開けた。
「まあ、あなた、女の子が、気が付いたわ」
「ああ、そうだね。良かった…」
アスカは枕元で心配そうに見つめている人物をぼーっと眺めていた。穏やかな風貌の異国の紳士が静かに微笑みながらアスカを見下ろしている。
その隣では同じように優しい笑みを浮かべた美しい婦人が、心配そうに飛鳥の額に手を当てながら何かつぶやいていた。
「まあ、あなた、この子の瞳をご覧になって…? 格好からてっきり日本人の女の子だとばっかり思っていたのに…この子の瞳は澄んだ水晶の色だわ。なんて綺麗なんでしょう?」
彼女はうっとりとした眼差しでアスカを見つめて、不意に思いついたように隣に居る紳士を見上げた。
「あなた、この子の身元はわかったのでしょうか? 」
「いいや、日本の警察に問い合わせてみたのだが、行方不明になっている子供はいないそうだ。」
「それなら、この子を私たちで引き取ってはどうでしょう…? この子は私たちが5年前に亡くした娘にとてもよく似ているわ。この子の瞳は母方の祖母にそっくりよ。」
紳士は髪の毛と同じ濃い栗色のあごひげをさすりながらしばらく考え込んでいたが、やがて小さく頷いて妻の手を取った。
「わかった。わたしに任せなさい…。」
3ヵ月後…。アスカは沖に浮かぶ船の上から、だんだん遠くなっていく陸地を眺めていた。
「だいぶ風が強くなってきた。中へ入りなさい。」
「はい…。」
優しげな紳士に肩を抱かれて、アスカはもう一度陸地の方を振り返って見た。
3ヶ月前、アスカは横浜の港通りに近い大通りで、アメリカの海運王“ジェームズ・メルビルとその妻”の乗る馬車に轢かれそうになったところを助けられた。ケガはすぐ良くなったけれど、心の傷は深く、最初は話すことさえ出来なかったアスカだが、優しい夫妻の献身的な優しさと愛情に触れるにつれて、徐々に明るさを取り戻していった。
彼らは身寄りのないアスカを養女にして、故郷のアメリカはサンフランシスコに連れて行くことにしたのである。
「どうしたのかね? フラン…?」
「いいえ、何でも…」
アスカは小さな声で答えてうつむいた。髪は下ろして耳の上のわずかな髪だけ三つ編みにして後ろで括って大きな青いリボンで留めてある。
着ているドレスも暖かな青いビロードに襟元には白いレースをあしらった西洋のドレスだ。
メルビル夫妻の亡くなった娘の名前をもらって、洗礼名はフローレンスと名づけられた。
アスカ・フローレンス・メルビル…。それが今のアスカの名前だった。
だんだん遠くなっていく生まれ故郷を見つめているうちに、今までの出来事が次々と頭を過ぎっていく…。きっと貴蝶は心配しているに違いない。
せめて貴蝶にだけは無事を知らせたいところだけれど、それが出来ないことは良くわかっている。
アスカの居所が知れれば連れ戻されることは必至なのだ。それも逃亡者として…。そうすれば前よりももっと悲惨な運命がアスカを待っていることだろう。それを思ってアスカは大きくため息をついた。
“ 母のことも貴蝶のことも…それからアスカに優しくしてくれた人々も…みんな幻だろうか…?
そうならいいのに…。新しい両親の元で何もかも忘れてやり直せたら…。
ああ…でもわたしはアスカなのよ。合いの子で5歳で娼館に売られた娘。決して忘れてはならない。
いつかきっとわたしは帰ってくる。母のこと…。本当の父のことを確かめるために…。 ”
アスカは心に浮かんでくる様々な想いを心の奥深くに封印して、新しく父になったその人に向けて、精一杯の微笑を浮かべて見上げた。
1884年 6月 イギリス領 香港 英国シェフィールド公爵
「アレックス? ブリッジにお客さんだ。居るんだろう…?」
ジャマールはドアをノックした後で、部屋の内側から漏れてくる微かな甘いうめき声に気がついた。友人であり、この船の主人でもあるこの部屋の主が、並外れた道楽者で底なしの精力の持ち主であることを思い出した。
彼はこの1週間、香港一の娼館から名だたる美姫を集めて、ドンちゃん騒ぎとも言うべき乱交パーティーに明け暮れているのである。船が港に着いてからというもの、クルーのほとんどがこのパーティーに参加していたのだから、今船が急襲を受けたらひとたまりもないな…。ジャマールはドアに背を向けながら大きく息を吐く。
もっともルシアン・アレクサンダー・クレファードの船を襲おうなどという愚か者は、世界広しといえどもそう多くはないだろうが…。
英国のシェフィールド公爵で、世界中の港に船を持つ海運王。一見商船に見えるこの船が、実は最新鋭の軍艦だと知る者はごくわずかだ。
デッキに上がってさらにその上の操舵室につながる階段を上ると、この船の船長…元地中海辺りを荒らしまわっていた海賊船の船長をしていたという変わった経歴を持つキャプテン・コンウェイが楽しそうに鼻歌混じりにジャマールを振り返った。歳はもう40も近いという大男で、日焼けした浅黒い顔の、片方の頬骨の上に鋭い刀傷があるのが、彼をいっそう恐ろしげに見せている。だが実際には愛嬌のあるかなり実直な男だということをジャマールは知っていた。
「閣下はまだお楽しみか…? 昨夜は特にお盛んだったな? ラッソーの話じゃあ、3人の女を同時にお愉しみだったというじゃないか? もしかしたら、あんたも一緒だったんじゃないかって、噂になってたんだがね。」
「まさか…。オレは何年も前から禁欲の誓いを立てている。キリスト教徒の言うところの解禁の行はオレにはさっぱり理解できないね。」
「ハハ…そっちの趣味はどの宗教でも同じことだ。トルコのスルタンのほうがよっぽどお盛んじゃないのか? 何でもハーレムにいる女の数は100人をくだらないそうな…」
「さあな…」
ジャマールはコンウェイの隣に腰を下ろしながら、差し出されたウィスキーのボトルを、首を振って断ると、階下から聞こえる賑やかな物音に耳をすませた。
「閣下同様あんたも女の気を惹くには十分な容貌をしているのに、まったくそっちのほうには興味がないなんて、信じられないね…」
「興味がないというよりも、自制心の鍛錬をしているのさ。」
ジャマールは声を立てて笑った。ジャマールもコンウェイ同様背は高く肩幅は広いが、彼ほど筋骨隆々ではない。でもその細身の身体を覆う筋肉には無駄がなく、浅黒い肌が整った容貌をさらに引き立てている。
黒く艶やかな髪が肩まで垂れて…それを無造作にかきあげる時、長い睫に縁取られた、燃えるような眼差しの黒い瞳が現れた。
引き締まった顎のラインと高い頬骨…堀の深い顔立ちは、エキゾチックな雰囲気を醸し出している。それもそのはず、ジャマールの生まれは、地中海を挟んだギリシャの向こう側…そしてさらにその先、カスピ海に望む中東の砂漠の国“ドゥメイラ”だった。
なぜそんなアラブ生まれの男がイギリス貴族の船に乗り込むことになったのか…その理由を知る者は少ない。このコンウェイ同様に古くからのアレックスの腹心として働く者だけだった。
ジャマールがアレックスと出合ったのは今から13年前、ギリシャのクレタ島沖でトルコのガレー船にアレックスが海戦を挑んできた時のことだった。
当時そのガレー船に奴隷として乗り込んでいたジャマールは、敵船に乗り込んできたアレックスが、まず部下に命じて奴隷達を繋いでいる鎖をすべて切らせたことに驚いた。戦いの最中に、敵船の奴隷のことなど気にかける大将はまずいない。
その際に勇敢にもジャマールは、奴隷の身でありながら最後まで闘い、素手で相手を10人倒した。最後には捕まってアレックスの前に引き立てられていったが、その戦いぶりにアレックスはひどく感銘して、彼を捕虜ではなく客人として迎えるとともに、他の捕虜同様にフランス領のカレー港に着き次第解放することを約束した。
ジャマールも英国の身分の高い貴族でありながら、敵船の奴隷の命を尊重するこの若い指揮官を唯一、異教徒でありながら敬愛するようになった。それ以来、ルシアン・アレクサンダー・クレファードは、ジャマールの唯一の親友であり、忠実な主になったのである。
「さて、何か閣下に大切な用事があったのではなかったのか?」
「ああ…。だがあのとおり、閣下は目下お楽しみ中だ。客人にはそれが終わるまで待ってもらうしかない」
「客人というのは香港の英国総領事だろう? あの男は思いの他狭量だと聞いている。いくらボスでもあの男を待たせるのはまずいんじゃないのか? あとでどんな面倒をふっかけてくるともわからんからな…。」
「さて、果たしてそんなことをアレックスが気にするかな…? でもまあもう一度声をかけてくるか。そろそろそのお愉しみも終わった頃だろう。」
ジャマールはまた立ち上がってデッキに繋がる階段へと向かった。今回香港に立ち寄ったのには、特別な理由があることをジャマールも承知している。今回の航海の間、アレックスがいつになく緊張していることにも気づいていた。ここに着いてから、彼がいつにもまして無分別な行動をしているのも、緊張の裏返しなのだ。
ジャマールは細身の、ヨーロッパ風のズボンの上に、イスラムの丈の長い上着、カフタンを着て、細いウエストを華やかなペルシャ織りの飾り帯で留めていたが、その帯に差した50センチほどの三日月刀を右手でしっかりと握り締めた。
この船の広いメインキャビンにあたる主寝室の、キングサイズの天蓋つきベッドの上で、アレックスは腕に抱いた黒髪の美女をじっと見下ろした。彼女はぐったりとした様子で黒いサテンのシーツの上に横たわっている。
上気した頬はうっすらと赤く色づき、長い黒髪は枕の上に奔放に散らばって、さっきまでの激しい情事の名残を残していた。赤く腫れた唇は半ば開いて…中からピンク色の小さな舌が誘うようにのぞいているが、アレックスは彼女が、昨日から絶え間なく何度も繰り返されてきた淫らな行為によって疲れ果てて、半ば気絶するように眠っていることを知っていた。
彼女のすぐ隣には同じように眠る美女が2人、寄り添うように眠っている。昨夜ワインの酔いに任せて、3人の美女を自室のベッドに誘い込んで、代わる代わる…あるいは同時に交わったが、アレックス自身は少しも疲れは感じていなかった。
初めて異性との交わりを体験した時から、自分の自制力には自信を持っていたし、数え切れないほどの経験を積んだ今となっては、女を歓ばせることに関しては絶対的なものがある。
アレックスは自分の腰にしっかりと巻きついた女の足を解いてベッドから下りると、傍らのイスの背に立て掛けたシルクのローブを手に取る。すると同時にドアをノックする音がして、ジャマールが入ってきた。
「やれ、やれ、どうやらやっとお愉しみにけりがついたようだ」
ジャマールは死んだように眠っているベッドの上の美女達に目をやった。
「お愉しみというのは彼女達の? それともオレのかな…?」
アレックスは肩にローブをひっかけたまま…部屋を横切って窓際のテーブルに置かれたままのワイングラスを手に取った。
「もちろん、君のだ…」
「なら残念ながら、オレはちっとも愉しくなかった。さっきはもう少しでイカないのかと思ったくらいだ…」
「美女を3人もノックアウトしておいてから言う言葉じゃないな。まあ、いい…。君の精力に終わりがないのは前から知っているから、いまさら驚きはしないさ」
ジャマールはそう言って、窓際に立つ眩いばかりの友人の姿に目を凝らした。背丈はジャマールと同じくらい高く…細くしなやかな身体は、生きた芸術品というにふさわしい美しさだ。
プラチナブロンドの髪が、褐色に日焼けした肌にこぼれて肩先に揺れる様はまるでギリシャ神話に出てくるアポロンのようだ。
もちろん美しいのはその肉体だけではない。部屋の高窓に設えられた小さなステンドグラスから漏れる光に照らされる横顔は完璧で、その際立った顔立ちの中でも真っ直ぐに通った鼻筋から続く官能的な唇は、見るものを惹きつけずにはおかない魔力を持っている。
濃いグレーの長い睫の奥の瞳は陰影のあるブルーで、反射する光によってクルクルと表情を変えて、見るものを魅了するのだ。
ルシアン・アレクサンダー・クレファードは悪魔的な美しさを持った稀有な人物だった。
「さて、実は隣の謁見用のキャビンに客人が来ていたんだが、ちょうど君はお取り込み中だったんで、かれこれ1時間ほど待ってもらっているんだが、どうしたものかな?」
「ふっ…待たせておけばいい。オレをここに1週間も待ちぼうけさせたんだ。ほんの1,2時間待たされたからといって、ウエントワースは文句は言わないさ」
アレックスはジャマールが何も言わなくても、訪ねて来た客が香港総領事のウエントワースだとわかっていたようだ。彼は美しいだけでなく、頭もキレる。だからこそ英国議会で最も権力のあるランスロット卿の下で働けるのだ。
「ではそのように伝えよう。でも希望を言わせてもらうなら、出来るだけ早く来てもらいたいものだ。わたしもあの男の相手は御免被る」
「わかった…」
アレックスはジャマールが出て行くと、手にしたグラスの中身を飲み干して…肩からローブを滑らせた。今度の仕事は今までとは違う。ただの交渉ごとならアレックスの得意とするところだ。相手の出方を読み、先回りして攻め込みながら相手から出来るだけ有利な譲歩を引き出す…。そのことに関しては、絶対的な自信を持って対処してきたけれど…。
アレックスがランスロット卿の下で働くようになったのは10年前からだった。17で故郷を飛び出して軍隊に入隊したアレックスは、海軍に配属されて、それこそ世界中を回って、19の時には外国との海戦にも参戦し、めまぐるしい活躍もした。
その時の働きが認められて、ランスロット卿の下で働くことになったのだが、彼の下で働くということは、世界の表舞台からは一線を画した裏社会の顔を持つということだ。
故郷のデヴォンを離れてから世界中を放浪して、ロンドンに戻ることはあっても、一度も生まれ故郷に戻ることはなかった。父との確執があったこともその理由だが、もの心つく頃から、奔放な生き方を続ける母親にどうにも我慢がならなかったからだ。そして…それを嫌いながら、世間への体裁のために見て見ぬふりを続ける父親にも…。
以来父親の臨終にも戻らず、父の後を継いでシェフィールド公爵になったあともそれは変わらなかった。表向きは英国議会ジェントリーの一員で、東インド会社にも席をおく世界の海運王…。ことを荒立てることを嫌う小心者の父親とは違う別の人生が歩みたかったのかもしれない。
一人の女に翻弄されながら、それに逆らえなかった父親に、子供の頃からずっと嫌悪感を抱いてきた。7つの時、母の寝室で…若い愛人と、淫らに絡み合う母の姿を目にしたアレックスの中で、何かが壊れた。妻の不貞を知りながら諌めようともしない父に失望して、激しい口論の後、衝動的に屋敷を飛び出したのが、つい昨日のことのように感じられる。もう12年も前のことなのに…。
「アレックス…?」
いつの間に側に来たのか、ベッドで眠っていたはずの女のひとりが裸の胸をアレックスの腕にすり寄せるようにして、誘うように彼を見上げて微笑んでいる。アレックスは彼女の豊満な乳房を見下ろしながら、片手で彼女の頬にかかった黒髪をかき上げる。
「残念ながら、お愉しみの時間は終わった。1時間以内に誰かに送らせよう…。」
冷めた口調で言い放つと、女の腕を振りほどいて足早にドアに向かった。
マディソン・ウエントワースはさっきからひどく落ち着かなかった。香港の総領事として、このアレクサンダー・マレー号に乗り込んでからすでに2時間近くが過ぎている。護衛として連れてきた部下達も、きっと岸壁の上でイライラしながら待っていることだろう。
この船の主人に面会を求めて、このキャビンの応接室に案内されてから何度この豪華なペルシャ製の絨毯の上を歩き回ったことか、時々部屋の外から聞こえてくる賑やかな笑い声や、女の甲高い笑い声が聞こえてきて、何とも妙な気分になった。
この船の主のルシアン・アレクサンダー・クレファードは油断のならない人物だ。世界中に商船を持つ実業家ということになっているが、その実…彼の持ち船の半分は軍用の改造船だ。
この船だって一見、豪華な客船に見えるが、一度臨戦態勢に入れば、豪華な装飾が施された窓には防弾用の鋼鉄の鎧戸が下りてきて、船の側面からは隠されていた見事な大砲が現れる。
数ヶ月前、本国からある密書が送られてきた。港に入ってくる商船をすべて検閲して報告せよと言うものだった。この1年の間に英国から多くの歴史的美術品が国外に持ち出された痕跡があるというのだ。それもこのアジアに…。
その中にビクトリア女王のティアラが含まれていたから、事は大事になった。もしこれが公になれば、数世紀続いた大英帝国の威信が損なわれることになるのだ。
この港に入ってくる商船はすべて、総領事であるウエントワースのサインがなければ荷物の積み下ろしは出来ないことになっている。それをいいことにこの数年は、かなりのお賄賂でウエントワースの懐は潤ったが、小さな密輸が大半で…まさか女王の持ち物まで取引されているとは思わなかった。
特に最近の大口は日本のある海運会社だったが、ウエントワースの下にもたらされる利益も絶大だったから、かなりのことにも目をつぶってきた。だがこんな風に本国が探りを入れてきたとなると、さすがにそれを無視するわけにもいかない。日本に事情を説明して対策を練っているうちに数ヶ月が過ぎ、ついに業を煮やした本国の議会が直接クレファードをこのアジアに送り込んで来たのだ。
クレファードは、貴族院の最高位、ランスロット卿の懐刀だ。奴が動き出したと言うことは、もう一刻の猶予もないということだ。
ルシアン・アレクサンダー・クレファードは海賊仲間から、“ホーク(海上の鷲)”と呼ばれて恐れられている。一度その鷲のような鋭い目で相手を捉えたら、決して最後まで容赦しないのだ。
もしこの件に自分が深く関わっていると知れたら身の破滅だ。実際には利用されていただけだと言ったところで、そんな言い訳が通用する相手ではない。さて、どうしたものか…?“
さらに落ち着きなくウエントワースが、広いキャビンの中を歩き回っていると、ホークに影のように付き添っている異教徒が音もなく入って来た。小太りで小男のウエントワースからすると、かなりの大男で浅黒い肌と鋭い眼光を放つ切れ長の目は、ゾッとするほど威圧的だった。
「主人は今取り込み中で、すぐには来られない。もうしばらく待つように言い付かっている。」
異教徒の男はそう言って冷やかな目をして、ウエントワースを見下ろしている。その眼差しの冷たさに、思わずウエントワースは身震いした。
「もう十分に待たされたと思うが…。わたしも忙しい身の上でね…。何ならまたお手隙の頃に出直して来よう…。」
しどろもどろになりながら、やっとのことでそれだけ言って出口に向かおうとして一歩踏み出したとき、入り口とは反対側にあるあるドアがサッと開いた。
「あなたがここに来るまでの1週間、ボクも十分待たされたと思うが…? 船は先週には港に入っていた。あんまり退屈なので、女と酒と…考えられる最高のパーティーを思いついたほどだ…」
アレックスは、白いシャツと雌ジカのバックスキンという長い足にぴったりとしたズボンを履き、優雅にキャビンに入ってくると…傍らのキャビネットから琥珀色の飲み物の入ったデカンターを取り出してグラスに注ぎ、客人に差し出した。
長めの金髪の巻き毛が端正な顔をふんわりと包み、悪魔的な微笑を浮かべた形のいい唇が退廃的な美しさを漂わせている。
ウエントワースが断ったので、アレックスはグラスをそのまま自分の口元にあてて美味そうに飲み干してから、真っ直ぐウエントワースを振り返った。
「ボクがここに何をしに来たか…あなたはもう御存知ですね?」
「ええ…まあ…。それでわたしに何をしろと…?」
「本来なら、3ヶ月前に本国に報告書が届いていなければならなかった。そうしていればティアラは国外に持ち出されることはなかったはずだ…。」
「そ…それは今、調査中で…。すぐには答えが出なかったものですから…。」
ウエントワースはうろたえて口ごもる。アレックスは、目を細めて相手を眺めた。
「なるほど…。それで議会は我慢しきれなくなって、ボクを送り込んできた来たというわけだ。それがどういうことか、あなたがわかっていらっしゃるといいのだが…。もしボクがこのアジアで女王のティアラを見つけて、それにあなたが何かしら関わりがあったと認められた場合には、あなたにもそれなりの覚悟が必要になるでしょうね…?」
アレックスは楽しげに言ってニヤリと笑う。ウエントワースの表情が一瞬、怯えたようにに歪んだのを、アレックスは見逃さなかった。
「そうなりたくなかったら、協力することだ。賄賂をもらっている連中は世界中どこでもいる。ボクはそんな小さなことに拘るつもりはない。それよりももっと大きなことを知りたいのでね…」
ウエントワースは困惑を隠しきれない様子で目をしばたくと、挨拶もそこそこにその場を後にした。
「奴は間違いなく黒だな。だがあの小心者にそんな大それた計画が出来たとは思わないな」
ウエントワースの後姿がドアの向こう側に消えるのを待って、ジャマールが言った。
「ああ…たぶん。ウエントワースは利用されただけだろう。メルビル同様にね。ロンドンで調べたところによると…宮殿の宝物庫からティアラを持ち出したのは、ほんの下級役人だった。誰も本当の黒幕、今回の事件を目論んだ人物の名前は知らされていなかった。実に巧妙に仕組まれていたようだ」
「だが、何のために? これだけ大掛かりな計画を立てて、たかが女王のティアラを盗み出すなんて…正気の沙汰とは思えないね…」
ジャマールが呆れた様子で方をすくめて見せると、アレックスはそれを見て愉快そうに笑った。
「ハハ…それはおまえが異教徒だからだ。われわれ英国人にとって、女王のティアラは国の象徴だからな。だが、もっともオレはそんなことには露ほども拘ってはいないがな…」
「おい、おい、それは聞き捨てならないぞ。そんなことがランスロット卿の耳にでも入ってみろ! ロンドン塔にぶち込まれるぞ」
「まさか…。オレの心が冷めているのは、彼だって知っているさ」
「じゃあ、何で君は英国のために働いているんだ?」
「……」
アレックスは無言で一瞬眉をひそめて、傍らの親友の顔を見つめた。
「働いているんじゃない。退屈しのぎをしてるんだ…。オレは英国で大人しく田舎に引っ込んでいるような生き方は出来なかった。かといって一生海賊に身をやつして生きるほど卑しくもなれない…。政府の名前で海に出れば、ある程度の無茶は大目に見てもらえる」
「君が政府を利用していると言うことか…?」
「そうとも言える…」
「まあ、そういうことか。わたしはてっきりレッジーナのことが引っかかっているのかと思っていたんだが…」
ジャマールがその名前を口にした瞬間、アレックスの顔から笑みが消えた。その名前を耳にする度に胸に苦いものが込み上げてくる。レッジーナ…幸せだった少年時代のアレックスの夢を挫き、希望を奪った女…。
「もういい…。その名前は聞きたくない。オレにとってはどうでもいいことだ」
「そうだな。で、今回の日本行きはアレックスとして行くのか? それともシェフィールド公爵として行くのか? どっちだ…?」
「当然、海賊アレックスとして行く。このオレが大人しく、行儀良くしているとは思うなよ」
「ああ…思わないよ。それでこそ我らがアレックスだ」
「なら結構。明日の朝早く出航だ。みんなを叩き起こして大急ぎで準備させろ! 女達は1時間以内に追い出せ!」
「ヨウソロ~!」
ジャマールはピュウと口笛を鳴らして、うれしそうにキャビンを飛び出して行った。
さあ、いよいよ戦闘開始だ。香港から黒潮に乗れば2週間もあれば日本へと着く。黒柳海運…。ここ10年くらいで急速に頭角を現してきた日本の海運会社だ。
その総裁である黒柳清明は一介の渡し舟の船主から現在の成功を収めたということだが…。政界にも繋がりがあって、かなりの影響力もありそうだ。
アレックスは、香港に停泊していた間に様々なことを部下に調べさせていた。英国からティアラを運び出したのが、アメリカ船籍のメルビル商会の船だということは、ロンドンを出る前にすでにわかっていた。そのメルビル商会が、アジアの極東で黒柳海運と取引があったのは周知の事だった。
ただ…3ヶ月前にティアラを積んだメルビルの船が、香港に着いた時にはティアラは跡形もなく消えていた。何故だ…? この件の裏には巧妙に偽装された何かがある。
もし黒柳がこの事件の黒幕なら、一介の海運会社のオーナーふぜいが大英帝国の象徴である女王のティアラを欲しがるなど理解しがたいが、それとも…奴は大英博物館の貯蔵品を残らず盗むつもりか?
どちらにしても、自分が乗り出してきたからには、これ以上奴の自由にはさせない。いずれ白黒はっきりつけるまでは、日本に腰を落ち着ける事になりそうだ。そのためにわざわざ策を講じてメルビルに近づき、友人の振りをして黒柳を探る事にしたのだ。
でもそうなったらまた違うお楽しみを探さなければならない。どんなに酒に溺れようが、何人女を抱いても癒されない心の渇望が、アレックスの心の奥に巣食っている。せめて黒柳が期待以上にアレックスを愉しませてくれればいいが…。
1884年 7月 日本 横浜 ”ホーク”との出会い…そして黒い陰謀
アスカが日本に戻ってきて1ヶ月が過ぎた。カリフォルニアの乾いた気候と違って日本のこの時期のジメジメした気候は慣れるのに時間がかかる。じっとりするほどの長雨の後に現れたギラギラするほどの太陽は、住み慣れたサンフランシスコの空を思い出させたけれど、実際には湿度の多い日本の夏はアスカにはかなり堪えた。
アンソニーとともにひと月前に横浜についたアスカは、外人居留区のなかにある旧メルビル邸に落ち着いた。この海岸通と呼ばれる一画には、外国から駐留する武人や軍人、商人たちが住み、二階建ての洒落た西洋造の屋敷が立ち並んで、ここだけはとても日本とは思えない雰囲気を醸し出している。
アスカが以前この屋敷に滞在していたのはほんの数ヶ月だったから、あの頃はこの屋敷の内装の豪華さには気が付かなかった。サンフランシスコにあるタウンハウスは、広くて居心地がよかったが、豪華というよりは実に実用的な造りになっていた。
それに比べてこの屋敷は美しかった。何でも維新後に来日したアメリカの商人が、ヨーロッパの職人を招いて作らせたのだと後に父が言っていたのを思い出した。
まず玄関を入って目にするのは、磨きぬかれた総大理石の床で、高い天井には豪華なクリスタルガラスをふんだんに使ったシャンデリアが輝き、緩やかにカーブして上っていく階段には真っ赤な絨毯が敷き詰められている。階段の手擦り部分は、白木と黄金色の真鍮で出来ていた。
5つある寝室はどれも広くて明るい。大きな天蓋つきベッドが置かれ、枕元にはシルクやサテンに彩られた小さなクッションがいくつも並んでいる。窓辺で揺れる淡いミントグリーンのカーテンは、アイボリーのベッドカバーや壁紙の色と絶妙な調和を見せていた。
「ゆっくりお休みになれましたか?」
太陽がだいぶ高く上った頃、アスカが階下のダイニングルームに下りていくと、屋敷の家政頭のローズ夫人が微笑んだ。
「ええ…とても。アンソニーは出かけたの?」
「はい、総領事のところに朝からお出かけになりました。今回の滞在の許可を取りに行くのと、今後の事を相談に行くとおっしゃっていました。」
「そうなの…」
アンソニーはアメリカ総領事ジョージ・ウインカムに、父が英国政府に密輸の容疑をかけられていることを話しただろうか? いいえ、たとえ話したところでどうなるものではない事はわかっている。アメリカ政府としても、本音では英国との間に妙な波風は立てたくないはずだ。それならアンソニーの言うように、今回は自分達で身の潔白を立てなければならない…。それにしても、アンソニーのいう手助けはいつ来るのだろう…?
アスカは朝食を終えると、白いボンネットと日傘を持って散歩に出かけた。屋敷の前の、海岸線に続く小道をのろのろと海に向かって歩く。梅雨明けの眩しい陽射しが容赦なく降り注ぎ、陽射しを遮るように片手を額にあてながら、沖に停泊している船を眺めた。
日本の港は、外国の大型船が直接停泊できるほど整備できているわけではないから、香港のような大きな寄港地のように直接岸壁に接岸することは出来ない。沖合いに停泊して小船に乗り換えて岸まで移動しなければならなかった。
目の前に広がる海の沖合いには、各国の色とりどりの国旗を掲げた船が、何艘も停泊していた。その中でひと際目立つ大きな最新鋭の汽船が、誇らしげにユニオンジャックを高々と風にはためかせている。
客船だろうか? 遠くから見ても白い優雅な船体の美しさは群を抜いていた。
“ きれい…。イギリスの貨物船…? いったい何を運んで来たのかしら…? ”
アスカが岸壁の端に立って、うっとりと沖合いを眺めていると、凪いだように穏やかだった目の前の海面が不意に盛り上がったかと思ったら…次の瞬間なんと人の顔が飛び出して、アスカは心臓が飛び出るほど驚いて、後ろに飛び退った。
その人物は最初、あたりを警戒するようにきょろきょろと見回していたと思ったら、おもむろに岸壁の上にたたずむアスカの姿に目を留めた。すると濃い青色をした瞳が一瞬大きく見開かれた後、興味深そうにじっと見つめてくる。
アスカも彼の濡れてこめかみに張り付いた美しいプラチナブロンドの髪や、びっくりするほど整ったその顔立ちを呆然と見つめた。言葉にならない鋭い衝撃が全身を駆け抜ける…。
“ こんなに綺麗な男の人を見るのは初めてだわ…。まるでギリシャ神話に出てくるアポロンみたい… ”
自然と呼吸が速くなる。
彼はアスカの見ている目の前で素早く岸壁まで泳ぎ着くと、優雅な仕草でアスカの足元に這い上がって来た。こうして彼が目の前に立ってみると、かなり背が高いことがわかる。この時代の女性にしては背高のっぽのアスカが小さく見えるほど、この青年は長身だった。
おそらくは190センチ近くは優にあるだろう。彼は全身びしょ濡れのままアスカの前に立つと、右手を胸に当てて優雅にお辞儀した。
「これは、これは…。こんなところで、こんな素晴らしい美女と出会えるとは思わなかった。どうかこんな身なりでお会いする事をお許しください…」
彼は驚くアスカの手を取って、その手のひらに形のいい唇をつけた。白い麻のシャツは、細く逞しい筋肉が張り詰めた上半身にぴったりと張り付き、髪の毛よりも少し濃い色合いの、金色の産毛のような巻き毛が透けている。
ぴったりとした腹部と細い腰を包むなめし革のズボンは、彼の飛び抜けて長い足を強調していた。
手のひらに感じたひんやりとした唇の感触と…彼の褐色に日焼けした整った顔が、何とも言えず魅力的な笑みを浮かべると、魅入られたように、見つめていたアスカの呼吸は乱れ、足も震えてきた。目の前に居るこのアポロンに比べたら、あのアンソニーでさえ霞んで見えるほどだ。
アスカの見せる反応に彼は満足そうに微笑んで、その顔を覗き込むように頭をかがめると、不意に両手でアスカの腕を掴んで引き寄せて、何の前触れもなくその唇を奪った。
「…!」
アスカは一瞬ボーっとなりかけたがすぐ我に返って、両手で弾かれたように彼の胸を押し退ける。
「何、何をするんですか…!?」
大きく胸を上下させながらアスカは相手を思いっきり睨む。するとアポロンは、こぼれるような笑みを口元に浮かべながらアスカを見下ろした。
長い睫を伏せて欲望にけぶる目は、アスカの大きく開いたドレスの胸元からのぞいている白いなめらかな膨らみに注がれている。
“ このひと…あたしに欲望を感じているんだわ…! ”
アスカが素早く息を吸い込む音とともに、彼は手の甲で優しくドレスの上からアスカの胸を撫でてそのまま一歩さがると、もう一度膝を曲げて丁寧にお辞儀した。
「これは失礼、マドモアゼル…。あなたのあまりの眩さにどうやら理性が吹き飛んでしまったようだ。近いうちにまた会いましょう…」
アポロンはそう言って高らかに笑いながら、アスカにくるりと背を向けると、見事な弧を描いてまた海の中に飛び込んだ。驚いて立ち竦むアスカの目の前を優雅に沖へと泳いでいく。その向こう側に一艘の小船が浮かんでいるのが見える。
アスカはそれを見て、踵を返した。
“ばかにしているわ! ” 急にむらむらと怒りが込み上げてきた。今までこんな風にアスカにキスをした男性は一人もいなかった。従兄のアンソニーですら挨拶程度の軽く頬に触れるだけのキスだったのに…。
それがあのアポロンは明らかにアスカに欲望を感じていた。彼の唇から伝わってくる情熱を、思い出しただけでもカッと身体が熱くなってくる。
自分の中にこんな情熱が潜んでいたなんて…。自分でも知らなかった感情をいとも簡単に引き出したあのアポロンが妙に憎らしかった。
初夏の陽射しがさらに眩しく感じられて…アスカはひとり顔をしかめながら、足早に来た道を引き返して行った。
アレックスは仲間の手を借りて小船に乗り移ると、岸壁を振り返ってあの女性の姿を探した。
「ジャマール、あの辺りは誰の屋敷だ…?」
そう言ってさっき居た岸壁あたりを指差す。
「そうだな。あの辺りはアメリカ人が多い。そういえばメルビルの屋敷もその辺りだと聞いているが…?」
“ アメリカ人だったのだろうか? アメリカ人というには彼女は少し、微妙なニュアンスが違う気がする。瞳は鋳造されたばかりの銀色だった。いや、あれは光の加減によって色を変える水晶だ。黒絹のような髪が腰の辺りで揺れていた。キスをした瞬間の反応を見れば、どこかの良家の令嬢であることは間違いないだろう…”
アレックスは今までその類の女性は、わざと避けてきた。ロンドンでもどこでもアレックスは無垢なバージンには興味なかったし、そういう女性ほどあとあと面倒なことになるとわかっていたからだ。
だがさっきのアレックスには、いつもの自制力がまったく効かなかった。ひとりで偵察を兼ねて海に飛び込んだまではよかったが…。
海岸線近くまで泳いで行って岸壁近くまで来た時、埠頭の上で何かがキラキラ光るのが見えると、無性に傍まで行って確かめたくなった。
近寄って行って…そこに眩いばかりの美女を発見すると、もういつもの警戒心はどこへやら、数分後には岸壁に這い上がって彼女の唇を奪っていた。
“こんなことは今まで一度もなかったことだ。世界の海に名を馳せた海賊アレックスが、ひとりの女に我を忘れてしまうなど、あってはならないことだ。ジャマールが知ったら、きっと死ぬほど笑い転げるに違いない。まあ、今のところは奴に、そんな愉しみを提供するつもりはないが…。”
「さてどうする? あのお堅い総領事殿のところに居候するつもりなのか?」
ジャマールが何か言いたげに目の前に迫ったひと際大きな洋館を見上げた。
「まさか、あそこに入るくらいなら船底で夜を明かした方がよっぽどましだな」
3年前に赴任してきた英国の日本総領事、ハリス・ロンバートはアレックスの又従兄だった。12歳年上のこの又従兄は、昔から真面目一本の堅物で、顔を合わせるたびにあれこれとアレックスに説教してくる。大学の専攻も政治学というよりも法律の分野に精通していて、アレックスから言えば外国の総領事になるくらいなら、お堅い判事にでもなったほうがよっぽど似合っている。
「おまえのことだから、ちゃんとどこかに隠れ家を用意しておいたんだろうな? ジャマール」
「もちろんだ、あの男と一緒では君の好きな遊びは無理だからな。それに、わたしもあの男は好かん…」
「ハハ…それは初耳だった。もっとも彼に合わせられる人物がいるとは思えないがな…」
そこで何年か前に会った又従兄の顔が浮かんできて、思わずアレックスは噴出した。
岸壁沿いにある小さな埠頭に船を繋ぐと、先に着いて荷下ろしを済ませた連中が寄って来て、岸壁の上にアレックスとジャマールを引き上げる。
“いろんな意味でこれから面白くなりそうだ。”
アレックスは目を閉じて、さっき別の岸壁で会った乙女の唇の柔らかさとキスの甘さを思い出して微笑んだ。
“きっと君を必ず見つけるよ…”
アスカは息苦しさに、何度も寝返りを打ってはまぶたの内側に…繰り返し浮かんでくる男の面影を振り払おうとした。
その男は不適なほど魅力的な笑みを浮かべて…アスカに片手を差し出してきた。碧い目が真っ直ぐにアスカを捉えて離さない。
魅入られたようにアスカは、震える指先を男の方へ伸ばした。男の手がアスカの指先に触れると…電気ショックを受けたような激しい慄きが全身を駆け抜けた。
男の目がスッと細くなる…。悪魔のような微笑と官能的な唇を持った男…。
“ アポロン…いえ、あれは堕天使ルシファーだわ…。美しい顔と妖しいまでの魅力を放ち、その微笑みは…息をのむほど…。 ”
息を継ぐのを忘れて魅入られたように見つめるアスカに…男の顔が覆いかぶさって来て夢の中で激しく唇を奪われた。
いつの間に眠っていたのか…。アスカはハッとして目を開ける。
激しい動悸に大きく息を吸い込んだ。夢なのか、現なのか…わからないほど、唇にははっきりと甘いキスの名残がある。あの男と出会ってから、毎晩眠れない夜が続いていた。
“ 忌々しい…! 今までもハンサムな男ならたくさん見てきたじゃないの! 金髪の男だってたくさんいたはずよ…。何であの男なの? ”
心乱すその眼差しが、始終ちらついて…アスカは落ち着かなかった。
“ あの男はわたしに何をしたの…? 今度会ったら絶対に許さない…! 二度と心許したりするものですか! ”
アスカは力任せに上掛けを頭の上まで引き上げた。
「フラン、アレックスから手紙が来た。来週の鹿鳴館の、ダンスパーティーの席で会いたいそうだ」
アンソニーは朝食の席で嬉しそうに言ったが、日本に着いてからもうすでに6週間以上が過ぎている。
アンソニーは毎日のように出かけては、必至に何か手がかりを探しているようだった。けれど依然として確かな証拠は見つけられず、かといって直接黒柳に会って確かめるのは無謀というものだ。
アスカもその状況にしだいに焦れてきた。アスカはアンソニーのように自由に外を出歩くわけにはいかない。この時代、外国籍の…それも女性が日本の市街地を自由に出歩く事はいろんな意味で容易ではなかった。
アンソニーでさえ、事前に何箇所も許可証を求めなければならないのだ。よっぽどのコネでもなければ、この時代に横浜の市中を自由に出入りする事は難しかった。
「お嬢様はこの町でお生まれになったと聞きました。懐かしくないですか?久しぶりに戻られて…」
この屋敷のメイド頭の女性が、アスカの部屋に花を生けながら笑顔で尋ねてきた。彼女は7年前、アスカが初めてこの屋敷に来た時にも居た女性で、執事のトマックとともにアスカがメルビルの養女になる経緯を知る数少ない使用人の一人である。
「ええ、懐かしいわ。とても…。でも10歳の頃の記憶はあまり楽しいものではなかったから…」
「申し訳ありません。わたしとしたことが気が付かなくて…。」
彼女は申し訳なさそうにそれだけ言って、また忙しなく手を動かし始めた。
「いいのよ、あなたの言うとおりだわ。何もかも久しぶり。でも悪い事ばかりではなかったのよ。本当に…」
「そうですか、それならよいのですが…」
アスカは2階の窓から遠くに見える町並みの…あの『陽炎館』が建っていたあたりを見つめた。
“今もあの場所にあるのだろうか…? 貴蝶は? ”
貴蝶は今ごろは宗二郎と幸せに暮らしていることだろう。きっとあの頃一緒に暮らしていたやせっぽちの、10歳の女の子のことなど、すっかり忘れているに違いない。
不意に寂しさが込み上げてくるが、アスカはすぐにそれを心の中から追い払った。
過ぎた年月はもう取り戻せない。今は今でしかないのだから、くよくよしたところで仕方がない。今出来ることは、出来るだけ黒柳に近づいて情報を得る事だ。
アスカは知っている黒柳の顔を思い出して、ぶるっと身震いした。黒柳清明…。2年前、サンフランシスコで一度会っている。市が主催するレセプションパーティーで、アスカは父から、仕事上で最も信頼するパートナーのひとりだと黒柳を紹介された。
「はじめまして、お嬢さん…」
低いバリトンで、囁くようにアスカの手を取って、その手首の内側に唇を当てる。その声にはゾッとするような響きがあった。
「美しいお嬢さんだ…。それに…何かそそられますな…?」
黒柳の目はまるで目の前の獲物を吟味するようにアスカの全身を見回した後、小さくニヤリと笑った。その瞬間、得たいの知れない恐怖がアスカを包んだ。
「あ…あの、わたし…母のところに行かなければ、呼ばれていたのを忘れていましたわ…」
しどろもどろになりながら、アスカは何とかその場を離れたが、その時の恐怖は今でもはっきりと覚えている。
“あの黒柳にまた会うなんて…。”
そう思っただけで、再びあの恐怖が蘇ってきそうな気がしたが、アスカは必死でそれを押さえ込んだ。
“いいえ、恐れてはいけないわ。これは父のためなのよ。きっとメルビルにかけられた疑いを晴らしてみせると誓ったんだもの…。”
鹿鳴館…。その頃、日本では、長い時代続いた江戸幕府の後で出来た明治政府の下で、文明開化の気運に乗って、日本人は我先にと西洋文化を取り入れようとした。
その象徴的なものが『鹿鳴館』で、夜毎催される舞踏会には日本の上流階級を気取る連中がこぞって集まると、着慣れない洋装に身を包んでダンスに興ずる姿は、西洋人には酷く滑稽に見えた。
「ごらん、フラン…。あれが日本の外務大臣の井上だ。あれは内務大臣の…。どうだ?
滑稽だろう? 彼らはこれが正しいと思っているんだ。何もかも西洋人の真似をすることがね。この国にはこの国にしかない素晴らしいものがあるというのに…。日本の夫人は慣れないドレスの下に窮屈なコルセットを着て、今にも窒息しそうな顔をしている」
アンソニーはアスカと踊りながら、近くでぎこちないステップを踏んでいる何組かのカップルを見てそっと小声で囁く。
「まあ、仕方ないわ。今の日本人には何もかも珍しいのよ。彼らにはすべてが新鮮に見えるんでしょうね? それが、自分達に合っているのかどうかなんていうのは二の次にしてもね」
「そうかもしれないね。でも今夜の君は素晴らしいよ。ワインカラーのドレスが最高に似合っている」
アンソニーは賞賛の眼差しでアスカを見つめた。今夜のアスカは大きく襟ぐりの開いたワイン色のサテンのドレスを着ていた。
豊かな黒髪は流行の形に結い上げて、ドレスと同じ色のリボンを中に編みこんでいる。
日本の女性達は色こそ華やかだったが、どれも襟ぐりの詰まった大人しめのドレスをまとっていた。それはヨーロッパではすでに流行おくれであり、アスカを含めてここにいる何人かのヨーロッパの女性達は、そういう意味で光り輝いていた。
「この中ではアスカ、君が一番だ。知っていたかい? さっき僕たちが入ってきたときから、君がここにいる男性達の視線を独り占めしていることを…」
「まあ、それを言うならあなただってそうよ。ほら右側の若い女性なんて、さっきからポカンとあなたの顔ばかり見ているわよ」
アスカもからかうように笑ってアンソニーの顔を見上げた。白いタイを結び、濃紺の燕尾服に身を包んだ彼はうっとりするほど優雅だ。父の容疑を晴らすという目的がなければ、きっとこの日本滞在はとても楽しいものになったに違いない。
「ボクは鼻が高いよ。こんな素敵なレディーを腕に抱いて踊れるんだから…」
「あなたはひとつ大事な事を忘れているわ。わたしの中に流れている血の半分は日本人なのよ。つまりはここに居るたくさんの人とそんなにかわらないということ…」
アスカは半分自分に言い聞かせるように言った。どんなに見かけは西洋人を装ったところで、自分は混血の合いの子ことには変わらない。
どこへ行っても完全に受け入れられることはないのである。そうするうちに最初のダンスタイムが終わって楽団の演奏が終わると、フロアーに居た人々はそれぞれ休憩場所を求めて移動し始めた。
「さあ、最初のダンスは終わった。そろそろ彼が現れる頃だろう。噂によると、彼は舞踏会は、あまり好きじゃないらしいんだ。根っからの自由人だからね」
アンソニーは込み合うフロアーの中をアスカの手を取って、空いている席へと案内した。アンソニーの言う“彼”とは、今回のことを手助けしてくれるという東インド会社の友人のことだろう。
アンソニー自身も彼のことは、英国の有力な貴族で、世界中に船を持っている実業家というくらいしか知らないようだ。
そんな人物を信用していいのかとアスカは思っているが、東インドで船を海賊に襲われたところをその彼に救われてから、すっかり心酔しているアンソニーに、アスカは異議を唱える事は出来なかった。
経緯はどうであれ、今はどんな手助けでも欲しい気持ちに変わりはない。今は成り行きを見守るしかないと思っていた。
見事な鹿毛の馬車が建物の前に止まると、アレックスは御者が下りてドアを開けるのを待たずに外へと降り立った。
「アレックス…!」
奥の座席からジャマールが問いかけるような視線を投げかけてくる。
「おまえは馬車で待て…。ここでおまえがクレメンスに近づくのはマズイ。東インドで彼を襲わせたのがオレだと知れたら、計画が水の泡になるからな。ただでさえおまえの風貌はオレ以上に目立つ…。」
「わかった。ただし、君に身の危険が迫った時にはその約束は守れない…」
「相変わらずだな。だがその心配はないさ…」
アレックスはニヤリと笑って馬車のドアを閉めた。
鹿鳴館の入り口でアレックスは、上着の内ポケットから今夜の舞踏会の招待状を取り出して、そこに立つ燕尾服姿の守衛に見せる。
その守衛は体格こそがっしりとしていたが背は低く、遅れて現れたこの立派な身なりの、見上げるように背の高い英国人に思わず見とれていた彼は、慌ててホールに通じるドアを開ける。
「英国シェフィールド公爵様…!」
上ずった声でコールすると、また慌てた様子でドアを閉め、その様子を見てアレックスは思わず肩を竦める。
“こんな辺境の地に来てまで、その名前で苦労するとはな…。”
ひとり苦笑していると、さっそく見知った顔のアメリカ人が近づいてきた。
アスカが手にしたシャンパンで軽く喉の渇きをいやしていると、入り口近くがざわざわとして何やら人だかりがしているのが見える。
時々誰かが“あの方だわ…!”そう興奮して話す声が聞こえたが、アスカのいる場所からはそれが誰なのかは、人の陰になってわからなかった。
少し前にシャンパンのお代りを取りにアンソニーは席を離れている。
アレックスが動くたびに、ざわざわと人だかりも一緒に移動する。アレックスは大概こういう貴族や金持ちといった上流階級の連中が集まるパーティーというものが苦手で、めったに顔を出さないことにしているが、表向きの仕事上で、どうしても避けられない場合だけ参加する事にしていた。
顔を出せばいつも、力のある貴族や金持ち連中に媚びへつらう連中たちが集まってきて、歯の浮くような台詞を並べ立ててくる。それを聞くのが死ぬほど嫌なのだ。
彼らの言葉のほとんどが、心とは裏腹の嘘だとわかっているからだ。
だが内心はどうであれ、そんな人々の反応をものともせずアレックスは、優雅な仕草で両脇に立つ人々にこぼれるような笑顔を向けながら会釈して進んでいく。時折知った顔に出会った時だけ立ち止まって挨拶しては短い会話を交わした。
ある人物を取り囲むように小さな人の輪がこちら側に進んでくると、その中心にいるひとりの紳士の顔をひと目見るなり、アスカは凍りついたように足が動かなくなった。急に体温が上がったように頬は熱くなって、さっきから心臓が飛び出しそうな勢いで脈拍を刻んでいる。
“ア…アポロン…? ”
静かに人垣の中を進んでくるのが、先日岸壁で見た金髪の男だと知って、アスカはただポカン…としてその優雅な姿を見つめた。
綺麗に後ろに撫でつけられたプラチナブロンドがシャンデリアの光に反射してキラキラと輝いている。時々身を屈めた時に長い前髪が頬にこぼれ落ちて、それをしなやかな指でかき上げる仕草が妙に艶っぽい。
上質な黒い燕尾服は明らかに他の紳士とは違っていて、個性的なタイの結び方もチラリと見えるグレーのジャガード織のベストも彼の独特な雰囲気にとても似合っている。
憎らしいのは、彼自身もそれをよく解っていて…口元にあの悪魔的な笑みを浮かべながら微笑む様は、夢で見たとおりの堕天使ぶりそのままだった。
不意にあの時のキスの感覚が蘇ってきて、唇が疼く…。
その時思いがけず、アポロンの瞳がアスカの視線を捉えた。一瞬きらりと碧い瞳が煌く。彼は小さく頷いてから、大胆にも真っ直ぐアスカのところへやって来た。
「アレックス…!」
アンソニーの声にアスカは我に返る。
「やあ、アンソニー! 遅くなってすまなかった。どうもこういう集まりは昔から苦手でね。」
彼は片手を差し出すと、アンソニーと固く握手を交わした。アスカはそんな2人を呆然と見つめる。
「アンソニー、こちらの魅力的なレディーを紹介してもらえないかな?」
低く抑えたような魅力的なバリトンで彼はアスカの方を振り返った。
「ああ、ぼくの従妹でフローレンス・メルビル。亡くなった叔父さんの娘なんだ。フラン、こちらが前に話していたアレックスだ。本名はルシアン・アレクサンダー・クレファード。英国のシェフィールド公爵で、世界中に船を持つ海運王だよ」
「よろしく、ミスメルビル…。お会い出来て光栄です。どうかボクのことはアレックスと呼んでください」
アレックスは何事もなかったようにアスカの手を取って、手袋の上から唇を押し付けた。手袋越しに感じる柔らかな唇の感覚にぶるっと小さな震えが指先を駆け抜ける。
それを感じたのか、アスカの目を見つめるアレックスの唇に面白がるような笑みが浮かんだ。
“このひと…からかっているんだわ。先日のこと、忘れていないって言いたいのね…?”
「どこかでお会いしましたかしら…?」
アスカも負けじと彼の目を見つめて言った。
「あなたのように魅力的なレディーなら、一度会ったら決して忘れられなくなりそうだ…。あとでダンスを一曲お願いできますか?」
アスカがコクリと頷くと、アレックスは礼儀正しく会釈してアンソニーと一緒に休憩用に用意された小部屋へと移動して行った。きっとこれからのことについて話し合うつもりなのだろう。
アスカは彼の姿が見えなくなると、ホッとして大きな息を吐いた。
“まさか、あのアポロンがアンソニーの言う協力者だったなんて…”
まだ胸がドキドキしている…。あの瞳で見つめられた時、身体の芯がカッと熱くなるのを感じて…彼が自分に及ぼす作用にアスカは戸惑っていた。
「素敵な方ね? あなたの従兄の知り合いなの?」
振り返るとアメリカ領事館の一等書記官、マイク・ラドクリフの娘のマリアンが立っていた。マリアンはアスカと同い年で、何日か前に始めて領事館に挨拶に行ってから彼女とは妙に気が合って、まるで何年も前からの知り合いのような気がしている。
「ええ…。東インドで知り合ったらしいの」
「あなたの従兄もとても素敵だけれど、彼には何か妖しい美しさがあるわね。とっても魅力的だわ。近いうちにわたしにも紹介してくださらない?」
「ええ、もちろん…」
アスカはそう答えたが、心は落ち着かなかった。あの美しい微笑ならマリアンでなくとも夢中になるだろう。きっと今まで数限りない娘達の心を蕩けさせてきたに違いない…。
英国のシェフィールド公爵。世界中に船を持つ大富豪で世界一の放蕩者…。サンフランシスコでいくつか噂を聞いたことがある。
“その放蕩者にキスされて、ボーっとなるなんて、とんでもない! ”
アスカはアレックスに乱された思考力を取り戻すかのように、小さく頭をふって彼の面影を振り払うと、近くに居る知り合いの夫人に声をかけて話の輪に加わった。
やがてフロアーでは最後のダンスが始まり、フランスの若い書記官と踊っていたアスカは、不意に別の誰かに手を捕まれて驚いて振り返った拍子に誰かと身体が触れ合う…。
「あ…ごめんなさい…!」
慌てて謝ろうとしたアスカは、その人物の顔を見て言葉を失った。
「あなたは…」
「失礼レディ…。さっきの約束を思い出したものでね。ダンスをする約束だった…」
アレックスは若いフランス人を一瞥すると、アスカの手を取ってフロアーの中心へと移動する。
「離して…」
「君はダンスを約束した。ボクはそれを果たしに来ただけだ。ミスメルビル…」
アレックスは巧みにアスカをリードすると、彼女の身体を回して自分の胸元に引き寄せた。唇がアレックスの肩に押し付けられる。
上品なムスクの香りと彼の男らしい香りが鼻先をかすめ、アスカはくらくらとめまいを感じてよろめいた。するとさらにアレックスの手がアスカのウエストに添えられて、より彼の方に引き寄せる。
「大丈夫。ボクにつかまって…」
そう言ってリードする振りをしてアレックスは巧みにアスカをフロアーから外のバルコニーへと連れ出していく。
「中は暑すぎる…。これではサウナと大して変わらないな。どう? 少しは落ち着いた? 」
バルコニーは中よりは涼しかったが、アスカにはそれほど涼しいとは感じられなかった。
息が苦しくなったのは暑さのせいだけじゃない…。アスカは黙って頷いた。
今目の前にいる男性の存在が、アスカに及ぼす影響については今さら説明するまでもない。
「苦しかったら、ボクにつかまって…」
「大…大丈夫です…」
そしてアレックスはアスカの手を取って自分の胸にあてると、両手をアスカのウエストに添えてさらに自分の方へと引き寄せる。さらに片手をアスカの頬に添えて上を向かせると…熱い眼差しでその顔を覗き込んだ。キスの予感にアスカはとっさに顔を背ける。
「やめて…! そんなこと望んでないわ…!」
「そうかな? 君もけっこう愉しんでいるように感じたんだが…それともボクの気のせいかな…?」
「そ…そうよ。それにあなた失礼だわ…」
アスカは大きく息を継ぎながら、必死に自分を立て直そうと両腕を突っ張ってアレックスの身体を遠ざける。このまま彼の側にいて、彼の香りを嗅いでいればとんでもないことになりそうな気がした…。
“ルシアン・アレクサンダー・クレファードは危険すぎる。これ以上近づけてはいけないわ…”
本能的な感でアスカはアレックスを押し退ける。今度は以外にもアレックスはすんなりと身を引いた。
「まあいいだろう…。別に急ぐことはない。ボクもしばらくは日本に留まるつもりだから、時間はいくらでもある…」
アレックスはあくまでも余裕の構えだ。ゆっくりと誘惑するつもりなのだ。アスカはあらためてアレックスが憎らしくなった。
“ 誰が放蕩者なんかに心許すものですか…! ”
「あなた勘違いしていらっしゃるわ! わたし達は協力するためにここにいるのよ。欲望を充たすためじゃない…。それにあなたの目的は何? ただの友情だけであなたほどの人がここまでやってくるとは思えないわ…」
「なかなか鋭いね…」
そこでアレックスは一歩下がって手擦りにもたれかかるようにして立つと、じっとアスカを見つめた。一瞬の沈黙が続く…。
「わかった。君と少し話をするとしよう。君とアンソニーはメルビルにかけられた疑惑を晴らしたいと思っている。そしてボクは…大英帝国から持ち出されたあるものを探している。目的は違っても利害関係は一致していると思わないか…?互いに協力できない理由はないだろう?」
アレックスは例の魅力的な笑みを浮かべながら、探るようにアスカの目を覗き込んだ。その目をまともに見ないようにして、アスカはアレックスの胸を人差し指の先でトンと叩く。
「その言葉に嘘はないのね…? アンソニーはそうでも、わたしはあなたを信用できない。まして出逢った早々女の唇を奪うような男は…」
「ハハ…! 手厳しいね…」
アレックスは愉快そうに声を立てて笑った。その声がとてもセクシーに聞こえて、アスカは再び速まった自分の鼓動を必死に抑える。
「わかった。君に対して行き過ぎた行動はしないと約束しよう。決して君の意志に反して迫ったりしない。ボク達は仲間だ。お互いの目的のために協力しようじゃないか」
「ええ、いいわ…」
アスカはあらためて差し出された手を取った。
「わたしの名前はアスカよ。アスカ・フローレンス・メルビル…」
その晩アレックスは、照明を落とした薄暗い書斎のデスクに足を乗せたまま…ぼんやりと自分の手の中の、琥珀色の液体を見つめていた。
今夜のアレックスはいつもの彼らしくなかった。もともとどこであれ、舞踏会は好きではなかったが、それでも今まではそれなりに愉しむことは出来た。だが今夜は何かが違った…。
“何故だ…?”
アスカ…。アレックスの誘いをあれほど明確に拒んだ女は初めてだった。だいたいがNOと言われることに彼は慣れていない。悔しくもあり、彼女の勇気に賞賛もしていた。だが、心はどうも釈然としない…。
「アレックス…?」
ジャマールは今までにない友の様子に戸惑っていた。あれほどすべてに自信たっぷりで、高慢なほど決然としていたアレックスが、鹿鳴館から戻ってからというもの、夢遊病者のように明かりを落とした書斎に籠ったまま…ブランデーを片手に黙り込んでいる。鹿鳴館で何かあったことは一目瞭然だが…?
「アレックス…何かあったのか…?」
「いや、何も…」
ジャマールの問いかけにアレックスは、ちらりとジャマールを見たきり、また手元のグラスに目を落とした。
「黒柳が舞踏会に現れたのか?」
「いや…」
「じゃあ、何が問題なんだ…? そんな君の姿を見るのは、君の叔父上が亡くなった時以来じゃないか…!」
“ロード・ウィンスレット…”
アレックスは子供の頃から敬愛して止まなかった母方の叔父にあたる、ロバート・ウィンスレットを思い出した。
あの不実な母親とロバートが、血が繋がっていたとは信じられない。ロバートは、姉とは似ても似つかないほど高潔な人物だった。
幼い頃から両親に失望していたアレックスは、年若く優しい叔父に、両親からは得られない何かを求めていたのかも知れない。
叔父もアレックスを可愛がり、同様に若くして爵位を継いだ彼は、アレックスに領主としての振る舞いや心構えを切々と説いたのである。
その叔父から1年前、当時ロンドンに戻っていたアレックスは、急きょ呼び出された。ロバートと会うのは5年ぶりで、彼の領地のある南西部のリンフォードは、ロンドンからは馬で1日のところにある。
アレックスは、久しぶりに会うロバートの変わりようにまず驚かされた。健康そうだった頬の肉はげっそりと落ちて、その時ベッドに横たわった彼が死の病魔に犯されているのは一目瞭然だった。
「叔父上…!」
駆け寄ったアレックスに、ロバートは弱々しく微笑むと…ベッド横のテーブルの上を指差した。
見るとオルゴールの小箱があって、その開いた扉の内側には古い手紙と好い香りのする美しい錦の小袋が入っていた。
「アレックス…」
ロバートは死の間際にあることをアレックスに託したかったらしい。彼は20年前…条約を結んだばかりの極東の国、日本に書記官として赴任した。その時ある日本人女性と知り合い、結婚の約束をしたのだと言う。
しかし間もなく本国で伯爵だった父が亡くなり帰国すると、爵位を相続後そのまま今度は南アフリカへの赴任を言い渡された。何度か彼女と連絡を取ろうと必死で試みたが、どういうわけか一度も返事が来なかったらしい。
そうするうちに年月が経って母親が亡くなった時、その遺品の日記を見つけて彼は、日本からの手紙が一度も届かなかった理由を知った。
息子と異国の娘との結婚を望まなかった母親は、息子の書いた手紙を隠して日本へ届かないようにした。そしてただ一度、日本から送られてきた手紙を、自身の手で封印したと日記には綴られていたのだ。
さすがにその事実だけは天国まで持っていくことが出来なかったレディリンフォードは、日記に残すことで贖罪されたかったのかもしれない。
そしてロバートは、その日記に挿まれていた愛する女性の手紙から、日本に自分の娘がいることを知った。
生涯結婚もせず、独身を通した彼は、その女性に終生の愛を誓ったのだ。そうしてロバートは臨終の床で、最後の力を振り絞ってアレックスに、日本にいる自分の娘を探して欲しいと告げたのである。
「で、その君の敬愛する叔父上が亡くなった時、君は何がしらの遺言を受け取ったというわけだ」
「ああ…ロバートはこの日本に娘がいるらしい。その娘を探して欲しいと言っていた。」
「ほう…? それは初耳だな。わたしにも話せないほど込み入ったことかな? それともわたしがその手助けを断るとでも…?」
ジャマールの言葉にはどこか非難めいた声の響きがある。
「いや、身内のことでおまえの手を煩わせたくなかっただけだ。この一件が片付いた後でとりかかるつもりだった。それに今は余計なことを考えている余裕などないだろう? 思ったよりも黒柳は厄介な相手のような気がする…」
アレックスはすぐさま反論したが、どこか表情は上の空だ。
「そうだな。わたしもそんな予感がしている。ところで、今日の舞踏会でクレメンスに会ったんだろう? 何か計画は?」
「計画はこれからだ。まずは彼が直接黒柳の動向を探るのが先だろう。オレは香港でウエントワースに脅しを掛けた。奴が黒柳と繋がっているなら、間違いなくオレのことを黒柳は警戒しているはずだ。今はじっくりと様子を見ようじゃないか…」
「そうだな、今は…。それにこの2週間のうちに、アジアで調べさせていたことにも片が着く。動くのはその報告を聞いてからでもお遅くはないさ」
「そうだな…」
別のグラスにブランデーを注いで、ジャマールに差し出すアレックスの瞳が、妙に沈んでいるのをジャマールは見逃さなかった。
「どうしたアレックス…? ウィンスレット卿の娘の件が君のその物思いの原因でないなら、鹿鳴館から戻ってからこの書斎に籠りっぱなしの理由は何だ…?」
「気になるか…?」
「ああ…大いに気になるね。君のそんな顔を見るのは、知り合ったこの10年あまりで、君の叔父上が亡くなった時を除いて、初めてなんでね」
訝しがるジャマールにアレックスは無表情で言った。
「女だ…」
「はっ…?」
ジャマールはアレックスに関してこんなに驚かされたのは初めてだった。アレックスが女のことで思い悩むことなど考えられない…。
彼にとって女は単なる欲望の捌け口であって、ただシャンパンかお気に入りのワインをすする程度の存在でしかなかったはずだ。今までは…。
「どういうことだ…? 解るように説明して欲しいね?」
そこでアレックスは手にしていたグラスをテーブルに置いてジャマールを振り返った。
「今日、いやもう昨日か…。鹿鳴館でメルビルの娘に会った。いや…会ったのはもう少し前、船が横浜に着いた日に岸壁まで泳いで近づいたことがあっただろう? その時彼女を見つけて思わず口説いたんだが…。最高にいい女だった…」
「で、それがメルビルの娘だとわかったんだな? だが、それがそんなにショックか?」
「いや、彼女が誰の娘かなんて関係ない。オレは欲しいと思ったものは必ず手に入れる。ただ…」
「ただ、何だ…?」
「オレは彼女に約束した。この件に片がつくまでは決して強引に迫ったりしないと…。 くそっ…! 信じられるか? この海賊アレックスがただ見ているだけなんて…!」
アレックスはそれだけ言って悔しそうにデスクを拳で叩く。
「いや、だがその君にそれを約束させたのなら、彼女はきっと素晴らしく気骨のある女性に違いない。一度会ってみたいものだ…」
「ああ、そのうち会えるさ。彼女は燃える銀色の炎のようだ。触れればきっと火傷するだろうな…」
苛立たしげにアレックスは吐き出すように言う。その目はもうジャマールの方を見てはいなかった。
それを見てジャマールはにやりと笑う。もしかしたら彼女の存在は、氷のようなアレックスの心にとんでもない革命を起こすかもしれない。
― 黒い触手 -
ひと月ぶりに戻った屋敷で黒柳は、厳つい顔をした側近の一人が持ってきた手紙の束をひとつひとつ確かめるように目を通した。
何事にも用心が肝心だ。特に自分のような人間には…。この屋敷の中にも裏切る側の人間はたくさんいる。ほとんどの使用人は、口の堅い人間ばかりだが、彼らは自分達の主人が何をしているのかは一部の人間を除いてほとんど知らない。
ただ主人が何事にも必要以上に用心深い性格で、使用人たちが細かい詮索をすることを嫌っていることを知っているだけだ。
黒柳は自分以外の誰も信用していなかった。江戸時代の末期、貧乏な小作の4男として生まれた彼は、6歳になると口減らしのために街の商家へと奉公に出された。奉公とは聞こえがいいが、実際には奴隷として売られたも同然で、15になるまで家畜のように働かされた彼は、金こそがこの世のすべてだと思うようになった。
育ちはともかく見映えのよかった黒柳は、ある日主人の留守に夫人に誘惑されて初めて女の味を覚えると、金持ちの未亡人達に自分の若い肉体がどれほど有効な武器になるかを知った。
それからは自分の持てる総てを駆使して伸し上がることに全力を尽くしたのだ。
いずれは世界を征服してやる。そのためには何だって利用してやるのだ。
日本の政治家といえども黒柳のもたらす富の前にはNOとは言えないはずだ。彼らは愚かにもみな西洋かぶれしているが、欲しがるものを与えてやれば、嬉しそうにすぐさま尻尾を振ってくる奴らばかりだった。
次期総裁を狙っている大河原退助は、特に強欲な男だった。この男を手なずけるためにおおよそひと財産使ったようなものだ。
この男の欲求を充たすために、ヨーロッパ各国からルノアールやマネー…レンブラントに至るまで、様々な名のある絵画を集めてきたが、そして次には大英帝国の象徴が欲しいとまで言い出した。
愚の骨頂だが、女王のティアラには黒柳自身も触手が動いた。数年前ある娘に出会ってから、その娘がどうしようもなく欲しくなったのだ。
若い頃から女の持つ欲望にはうんざりしていた。彼女たちは男のプライドを踏みにじることなど何とも思っちゃいない。
自身が充たされるためならどんなことでもやってのけるのだ。いつの頃からか、黒柳は女を憎むようになっていった。女は愛し守るものではなく、彼にとっては征服し、服従させるもの…。
初めて金の力で美しく高貴な女をものにした時、言い知れぬ快感を黒柳は味わった。それから世界中を回るうちに様々な倒錯的なプレイを身につけ、今ではそれなしではいられなくなっている。
黒柳はずっと夢を見ていた。何年か前から欲しくて堪らないその女の頭に女王のティアラを戴き、その美しい無垢な肉体の中心に自分自身を突き立て征服するその時を…。
美しいその顔が涙を流して懇願するまで責め続けるのだ。そのためなら自分は何だってする。デスクの上に飾られた写真の中の美しい娘の姿を愛しそうに撫でながら、黒柳はひとりほくそ笑んだ。
アスカはひどく当惑していた。約束どおりアレックスは、あれから明白な誘惑は一切して来ない。毎日のようにアンソニーを訪ねて来ては、義務的にアスカに挨拶する程度だ。
“彼はいったい何を企んでいるのかしら? まるであの情熱的な求愛が嘘のように振舞っている。それともあれはわたしをからかっていただけなのかしら?“
ある日いつものように馬でメルビル邸を訪ねて来たアレックスは、屋敷に入るなりすぐアンソニーと書斎に籠ったきり何やら真剣に話し込んでいる様子だった。
たったひとり放っておかれたアスカは自分だけ除け者にされた気がして面白くない。
あとで嫌味のひとつでも言ってやろうと待ち構えていたところへ、2人揃って書斎から出てきた。
「やあ、フラン。お茶の準備でもして待っていてくれたのかい?」
アスカの顔を見ると、アンソニーが愛想よく微笑みかけてきた。・
「ええ…その通りよ」
わざと不機嫌そうに答えたが、アスカはちらりとアンソニーの後ろに立つアレックスを盗み見た。彼は何を考え込むような顔をして応接室の窓から外をじっと眺めている。
その表情が読めなくて…思ったよりは長く見つめていたらしい。振り返ったアレックスと、不意に目が合ったアスカは慌てて目を逸らした。
でもその一瞬に見えたアレックスの瞳に宿ったきらめきをアスカは見逃さなかった。
「ねえ、アンソニー。今どうなっているのか、わたしには教えてもらえないの? 女だからって邪険にされるのは我慢できないわ! いつまでわたしを閉じ込めておくつもり…!?」
ついに我慢しきれなくなって、アスカはアンソニーに食って掛かる。日本に戻って来てから、あの舞踏会以来…アスカはまだ一度も屋敷の外へ出ていない。
アンソニーは毎日、情報を得るためにどこかへ出かけていくが、アスカが同行することはなかった。
「仕方ないんだ、アスカ。外国人の…それも女性が外出するにはそれだけ危険が伴うし、ボクは君を危険なことには巻き込みたくないんだよ。」
「わたしはこの日本で…この街で生まれたのよ! あなたたちよりこの街のことをよく知っている。それでもこのままわたしをここに閉じ込めておくつもり?」
アスカの剣幕にアンソニーはたじろいだ。昔からアスカは気性が激しかった。
日本に戻ると言った時も、叔母のジェイ二―がいくらなだめても聞かなかったくらいだから、彼女が黙ってじっとしているなどありえないことだった。
困ったようにアンソニーはアスカを見る。アスカは一歩も引かない様子で、アンソニーを睨んでいる。
「それならこうしよう。アンソニーの言うとおり、今この街で外国人の一人歩きは危険だ。いくら君が勇気のある女性でもそれは変わらない…。それでも君が出かけたいというのなら、ボクが一緒についていくとしよう。ボクはこの国でもいろんな特権を持っている。ボクならこの街のどこでも自由に出入りできる。」
さっきまで黙って2人のやり取りを聞いていたアレックスが、間に割って入った。
「ああ…それは助かる。僕はいろんな事情でまだまだ役所に拘束されているんだ。情報を集めるにしても君たちの方がよっぽど自由に動ける」
ホッとした表情でアンソニーは頷いた。彼は何があっても絶対的にアレックスを信頼しているようだ。
出会った最初にアレックスが、アスカにキスを仕掛けてきたと言ったら、アンソニーはどんな顔をするだろう…?
「なら、決まりだ」
アレックスは嬉しそうにさらりと言った。アスカは上目使いにアレックスを見る。
“彼と2人っきりになるなんて危険だわ…。”
ありがたい申し出だけれど、何となくアスカは彼を完全に信用できない。でも反面、心の奥で、疼くような熱い痛みを感じていた。
「お待たせしたかしら…?」
声のする方を振り返ったとき、アレックスは衝撃に打たれた。上品な外出用のドレスに身を包んだアスカは、息をのむほど美しかった。
玄関ホールでたたずむ彼の目の前を、優雅な仕草で一段、一段階段を下りてくるアスカの姿は、さながら銀色の女神といったところだ。淡いパールグレーのシンプルなドレスは、襟元が首元まである慎み深いものだが、形のいい豊かな胸や、細いウエストラインを隠してはいなかった。
白い羽飾りの付いたボンネットからこぼれる豊かな黒髪は艶やかでシルクのようななめらかさだ。
アレックスはすぐにでもこのまま彼女を抱き上げて、ベッドに直行したい衝撃に駆られた。ベッドでなくても今の絨毯の上でもいい…このドレスを剥ぎ取ってすぐにでも彼女と愛を交わしたい…。
“ああ…でもダメだ。今この誓いを破ってしまったら、今までの我慢がすべて無駄になる。自制しなければ…。”
「素晴らしいの一言だね。では出かけるとしよう…」
アレックスは見事な自制力で自分の中で吹き荒れる欲望の嵐を押さえ込むと、微笑みながらアスカの手を取った。玄関の車寄せに待たせた立派な4輪馬車の扉を開けて彼女を乗せると、自分もその向かいに乗り込む。
アレックスは爆発寸前の自分の欲望を見下ろしながら、彼女に気づかれないように手袋でそっと隠した。
「さて…どこから向かえばいいのかな?」
「市場に行ってみたいわ。昔その近くに住んでいたことがあるの」
アスカは、馬車が外人居留区を抜けて一般の市街地に入ると、目を輝かせ…馬車の窓から身を乗り出すようにして、通りの両側の景色に見入っている。
「不思議ね…? この辺りは知っているはずなのに見覚えがないわ…」
しばらく走ったあと、困惑したようにアスカはポツリとつぶやく。
「この辺りは7年前に大火があって燃えたんだ。ずいぶんひどい火事でたくさんの人が亡くなったと聞いたよ」
「7年前?」
アスカが日本を離れた年だ。ではそのあとに大火で何もかも灰になってしまったのだろうか?
“母の乳母だったツタは…? 死んでしまったのだろうか?”
アスカの不安を感じ取ったのだろう。アレックスはそっと彼女の手を取って握り締めた。
「君はこの横浜で生まれたと言ったね? 君がメルビルの本当の娘さんでないことはアンソニーから聞いている。話してくれないか? 君はどうやって生まれたんだ?」
アスカはアレックスの顔を見つめた。アスカの生まれに関する秘密は、メルビルの両親以外には誰も知らない。
アンソニーにさえ話してはいなかった。母と死に別れ、5歳で娼館に売られたと知ったら、アンソニーだっていい気はしないだろう。この目の前の男だって…。
「大したことじゃないわ。両親が貧しくて、わたしは里子に出されたの。それだけ…何もないわ」
「君はアメリカ人じゃないね? かといって日本人でもない。違うかい…?」
“彼は何が言いたいのだろう…?”
「ええ…母は日本人だった。父は外国人だったけど…」
「そうか、でもこの時代には珍しくもない。ボクにだって4分の1だがフランス人の血が流れている。ボク達貴族と言われている連中でさえ、遠い昔から殺戮と略奪にまみれて生きてきたんだ。さかのぼって調べてみれば、案外とんでもない血筋が紛れ込んでいたりするのさ」
そう言ってアレックスは愉快そうに笑った。その吸い込まれるような笑顔を見ていると、アスカはさっきまで感じていた緊張が急激に消えていくのを感じた。
“彼を油断のならない危険な男と思っていたのは間違いだったのだろうか? さっき彼が見せてくれた思いやりは、長い間アスカが受けてきた混血であることの差別に対するものだろう。わたしは彼に対して何か思い違いをしていたのだろうか…?”
アレックスは黙って窓の外をじっと見つめるアスカの横顔を見ていた。
“彼女の出自を訪ねた時、彼女は一瞬苦しそうな顔をした。彼女が混血であることは疑いようもないが、何がそんなに彼女を苦しめているのだろうか…? ”
アレックスは強気なアスカが見せた一瞬の苦悩に、大きく胸を揺さぶられた。急に彼女がか弱い存在に思えて、無性に護ってやりたくなる。
自分にはそれだけの力があるのだ。ただ彼女がアレックスに総てを投げ出してさえくれれば…。
やはり横浜の市街地も、一歩通りを入ればもう昔の面影は何もないことにアスカは気が付いた。前は込み合って建っていた古い長屋もすべて取り壊されて、新しい道路になっている。
広い通りの両側には横文字で書かれた看板が目立ち、行き交う人々もどことなく洋装が多い。
「何もかも前とは違う…。わたしが10歳まで暮らした街はもうどこにもないのね…?」
馬車を通りの端に止めて…しばらくあたりを散策したあとで、アスカは独り言をつぶやいた。
「この辺りはずいぶん近代的になったな? ボクも前にここに来たのは5年前だ。ごらん、あのカフェは、前はただの酒屋だった。入ってみよう」
アレックスがアスカの肘を支えるようにして店の入り口に立つと、すぐいわゆる日本で言うところの女給といわれている数人の女性達が現れ、2人を多くの客で賑わうフロアーの空いている席へと案内した。
そのカフェは、ヨーロッパのそれとは比べ物にはならない質素なものだが、それでも少しの間腰を下ろして休憩するくらいならなんの支障もなさそうだ。
店の客の大半は西洋かぶれした日本人だが、時々日本人女性を連れた外国人の姿も見える。彼女達が娼婦であるのはアスカにはすぐわかった。
アスカたちが店の奥へと入ってくると、他のテーブルの客達はもの珍しそうに眺めたり、明らかな羨望の眼差しでふたりの動きを見守っている。
さっきの女給を含めて店の女性達が、端正なアレックスの顔を呆然と見つめて溜息をつく様を見て、あらためて彼の女性に及ぼす影響を思った。
「あなたってどこへ行っても目立つ人なのね?」
「そうかい? 君だってまわりの男たちみんなの視線を集めているよ。見てごらん…」
アレックスは面白がるようにわざと大きな身振りで周りを見渡した。つられてアスカも彼の視線を追いかけると、すぐ後ろにいた髭面の男性が慌てて目を逸らした。
「君は美しい…。君の微笑みひとつで男はみんなその気になる。試してみるかい? 」
アレックスの碧い瞳が欲望にきらりと光る。アスカは彼が決して諦めていないことを知った。
アレックスの碧い瞳に真っ直ぐ見つめられて…アスカの全身に慄きが走った。
「あ…あなたは、約束したわ…」
アスカはしどろもどろになって答えるが、アレックスの顔をまともに見ることさえ出来ない。
「ああ、約束した。でも永遠じゃないよ。ボクは欲しいものは必ず手に入れる。我慢することには慣れていないんだ。
「あ…あなたは…」
その先を言おうとして思わず口ごもる。
“ダメ、彼のペースに引き込まれては…。彼はわざとわたしの心を乱そうとしているのよ。その手にのるものですか!”
アスカはツンと顎を反らしてアレックスを見た。
「あなたはわたし達に協力すると約束した。それまではあなたはわたしに触れることは出来ないわ…」
「ああ…そのとおりだ。お互いの問題が解決するまで、ボクは君にジェントルマンでいると約束した。それでいいんだろう…?」
最初は余裕だったアレックスの頬がピクピク小さく痙攣している。実際にはかなり怒っているのかもしれない。
“大丈夫、そのほうがわたしにとっては都合がいいわ。怒っているアレックスの方がよっぽど解りやすい。その微笑がどれほどわたしの心をかき乱すか、彼は知っているのかしら…?”
「教えて! 黒柳のことはどれくらい解ったの? 彼は本当に父のこと…」
アスカが思わず口走ったその口元にアレックスは人差し指を当てる。
「シッ…! 知りたければ教えてやるが、こんなところではダメだ。君が直接関われるほど、奴は安全な相手ではない。いいかい? このことはアンソニーとボクに任せるんだ」
「でも…」
「いいから…」
さらに何か言い募ろうとしたアスカの視線の中を一組のカップルが通り過ぎていく。
40代くらいの品のいい紳士と一緒に居るのは、ニュースタイルと言われる今風の髪型をした和服姿の女性で、彼女は気品があって美しくそれでいて艶やかだった。
その女性の顔に見覚えがあって、とっさにアスカは立ち上がる。
「貴蝶姐さん…!?」
アスカの声が聞こえたのか、女性は振り返ってあたりを見回した。やがてアスカの姿を捉えた女性は最初不思議そうに見つめていたが、不意に何かに気づいたように大きく目を見開く。
そして信じられないというように両手を大きく広げてアスカに歩み寄ってきた。
「まあ、まさか…! わたくしのことをそう呼んでくれたのはひとりしかいないわ。まさか…あなたはアスカなの…?」
「ああ…貴蝶姐さん…!」
まさかこんなところで貴蝶に会えるとは思わなかった。そう思うともう周りのことなど何も目に入らなかった。真っ直ぐ貴蝶に駆け寄ると、ふたりはしっかりと抱き合った。
「あなたがいなくなってどれだけ心配したか…。よかった。生きていてくれたのね…?」
アスカは涙で言葉が詰まって何も言えず、ただ黙って頷くしかなかった。貴蝶の声も震えている。
7年の歳月がアスカの容姿をすっかり変えていた。それでも貴蝶がアスカだと気が付いたのは、きっとふたりだけに通じる何かがそうさせたに違いなかった。
「失礼、感動的な場面に申し訳ないが、場所を変えて話しませんか? よろしければ、こちらのレディもボクがお送りしましょう…。」
アスカは側にいたアレックスの存在をすっかり忘れていた。アレックスはそう言うのと同時に貴蝶に同行していた紳士に何か小声で囁く。
紳士は一瞬驚いたような表情をしたが、すぐ貴蝶の方をみて頷くとそのまま店を出て行った。
「あ…姐さんと一緒にいらした方が…」
「あの方ならいいのよ。さっきも送っていただく途中だったのだから…」
貴蝶も大して気にする風でもなく、アスカの手を取ったままアレックスの方に顔を向ける。
「さっきの紳士は岩倉卿ですね?」
「ええ、そう。よく御存知ですね? 若いながら有能な方で…。今日は園遊会のお供を賜ったものですから…」
そう言いながら貴蝶は驚いたようにアレックスを見る。アレックスは微笑みながらゆっくりと貴蝶に軽く頭を下げた。
「これは失礼、挨拶がまだでしたね。ボクはルシアン・アレクサンダー・クレファードといいます。英国籍の船を持っていて、世界中を廻っているんです」
「まあ、もしかしてあなたがシェフィールド公爵でいらっしゃるの? 噂は聞いていますわ。世界中に船をお持ちだとか…? 英国で一番裕福な紳士だと伺っておりますわ。こんなところで実際にお会いできるなんて…。それに、噂どおりの美男子でいらっしゃるのね?」
貴蝶は少し頬を赤らめて、うっとりとした眼差しでアレックスを見上げている。7年前と変わらず美しい貴蝶が、微笑みながらアレックスに話しかける様子を見て、アスカはなぜか胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
“こんなに綺麗な貴蝶姐さんを見て、アレックスが何も感じないわけがないわ…”
アスカはせっかくの貴蝶との再会の喜びがほんの少し色あせたような気がして戸惑う。
「こんな素敵な紳士と一緒にいるなんて、アスカあなた結婚したの?」
「ま、まさか…わたし達は…」
慌てて説明しようとして口ごもるアスカを遮ってアレックスが答える。
「友達ですよ…。今のところはね…?」
意味深な笑みを浮かべて、アスカを振り返るアレックスの目を見た瞬間、アスカはカッと全身が熱くなるのを感じた。
“彼はまだわたしに興味を持ってる?”
「さあ、馬車まで案内しますよ。」
アレックスはふたりをエスコートして通りの端に留めた馬車に乗せると、自分もその向かい側に座って女性達が夢中になって昔話に深けるのをじっと聞いていた。アスカはアレックスに『陽炎館』のことを聞かれたくなくて、内心びくびくしていたけれども、貴蝶はそれが分かっていて娼館でのことには何も触れず、当たり障りのない会話に終始した。
そしてしばらく行き先を決めずに市中を廻ったあと、貴蝶を送って行った。市内のこじんまりした屋敷の前で貴蝶を下ろすと、アスカは再会を誓って貴蝶と分かれた。
貴蝶と別れてからメルビル邸につくまでの間、アスカは一言も喋らなかった。アレックスも無表情で遠く夕闇の迫った空を眺めるだけで、アスカと目を合わそうともしない…。
メルビル邸の車寄せに馬車が留まって、馬丁が下りて扉を開けるまで、アレックスはまるでアスカの存在を忘れているかのようだった。
「今日はありがとう。とても楽しかったわ。」
「いつでもどうぞ…」
馬車を下りておずおずと遠慮がちにアスカが礼を言うと、アレックスは呆気ないほどの口調でそう言い放った。
“さっきはあんなに熱い視線を向けておきながら、今ではまるで嘘のように冷めているなんて…。何を考えているのかしら…? わたしより綺麗なひとを見つけて、気持ちがそっちに傾いているのかしら…? きっとそうにちがいないわ。アレックスは美女に目がないという噂だから…。わたしにとってもそのほうがいいに決まっている。ルシアン・アレクサンダー・クレファードにとってわたしは単なる暇つぶしの相手…。手に入れたら簡単に捨てられる程度の女なのだ…。”
アスカは振り返りもせずに走ってドアの向こう側に消えた。
屋敷に戻ってもアレックスはじっと押し黙ったままだった。自身の書斎でいつものようにジャマールの報告を聞く間もその唇は真一文字に結ばれたままで、ついに耐え切れなくなってジャマールが声を上げる。
「何があったんだ…!?」
「何も…」
上等の上着を肩から滑らせてソファーに放ると、タイを外してシャツの襟元を緩めて溜息を吐く。
「何もないわけないじゃないか!? 君は日本に着いてからおおよそ君らしくないことばかりだ。今までなら陸に上がって3日と経たずにベッドに引きずり込んだ女は片手に余るほどだっただろう? それが今回はどうだ? ひとりも寄せ付けず、聖人のように清らかな毎日だ。アレックス、君に禁欲は似合わない。まさかわたしと同じで誓いを立てたなんて、言い出すんじゃないだろうな?」
からかうような口調でジャマールは言った。
「いや…。だが誓いを立てたも同然かもな。この件が片付くまでは手を出さないと約束したんだから…」
「だったら、他の女で気を紛らわせればいい…。何なら今から街の娼館に誰か使いをやって…」
「いらない…!」
アレックスは吐き捨てるように言った。
「欲しいのはひとつだけだ。あの銀色の宝石だけでいいんだ…」
“ジャマールは知らない。感情が高ぶった時、アスカの銀色の瞳がどんなに美しく煌くかを…。だが今日そのアスカの過去をほんのかい間、覗き見てしまった。今日の午後、カフェで出会った女性をアスカは姐さんと呼んだ…。だが彼女はどう見ても娼婦だ。それもかなり高級な…。外務省の岩倉が連れ歩くほどの女性なら、この街で1,2を争うほどの娼館の美姫に違いない。彼女たちは必死に隠そうとしていたが、自分にはわかる。アスカはもしかしたら娼婦なのかもしれない…”
そう思い当たってアレックスの胸は言いようのない痛みに疼いた。
“何を驚いている? 相手が娼婦なら得意とするところじゃないか…。何を戸惑う?”
「彼女が娼婦なら、騒ごうかどうしようがベッドに連れて行って押さえつけてやるところだがな…。」
「相手がレディでバージンなら真っ逆さまに教会行きだ。英国一、いや世界一の放蕩者も一貫の終わりだな。まあわたしは君のそんな姿を見るのも悪くないと思っているんだが…」
「フッ…有り得ないな。女に縛られるのはたくさんだ。オレが欲しいのは最高にベッドを盛り上げてくれる女だけだ」
「ほお…そうかい? 」
呆れたように肩をすくめるとジャマールは部屋を出て行った。
“まったく…! このアレックスがひとりの女に物思いか…。女などに現を抜かしている暇などないだろうに…。”
3日前に黒柳が戻ってきたと報告があった。それを書斎で聞いたアレックスは、壁の時計を見てイスから立ち上がった。
「どこへ行くんだ?」
「そろそろ迎えに行く時間だ」
アレックスはクレファード家の持ち物として、山の手に落ち着いた日本風の屋敷を持っていた。元は地元の武家の持ち物だったが、例に漏れず江戸幕府が倒れた時に没落し、手放したのだという。
アレックスがここに来ることは滅多にないが、時々はあのお堅い又従兄の総領事が家族を連れてやってくるらしい。
アレックスはこの屋敷をアスカと貴蝶のために解放した。ここならアスカも何の気兼ねなしに貴蝶に会えるのだ。それにここで働く使用人達は皆口が堅く、噂になることもない。
アスカが望めばアレックスがここに彼女を連れて行く。そして今日のように時間がある時にはアレックス自身で迎えに行った。
「アレックス…君の気持ちが報われることを祈っているよ…」
小さくなっていくアレックスの背中を見つめながら、ジャマールはつぶやいた。
昼前にアスカはやって来て、屋敷の奥の間に作られた回廊式の美しい日本庭園に見入っていた。庭園は3方をぐるりと廊下で囲まれていて、廊下に続く襖を開けると、どの部屋からでも素晴らしい眺めが一望できた。
中央の部屋の縁側に出て敷き詰められた赤い絨毯の上に座って、じっと目の前に広がる美しい景色に目を向ける。真夏だというのに、ここだけは涼しい風が吹き渡り…心地よいそよ風がアスカの頬を撫でていく。
庭園は渦を巻いたように模った白砂の中に大小の様々な形の石が埋め込まれていて、一見秩序なようで絶妙なバランスで保たれているのだという。日本人の美的感覚は繊細で欧米人には理解できないこともあるが、この目の前の静けさとシンプルな美しさは何よりも換えがたい安らぎを与えてくれる。ここにいると、すべての心のしがらみや苦しみから解放されていくような錯覚さえ覚える。
「アスカ…?」
後方からさえずるようなこえが聞こえてきた。声のするほうへ頭をめぐらせると、美しい島田に結い上げた貴蝶が立っていた。貴蝶は真っ直ぐアスカの側にやってくると、アスカの隣に腰を下ろして座り、大きく深呼吸して気持ちのいい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「ここはシェフィールド公爵の持ち物なんでしょう? 噂どおりすごいお金持ちなのね? 彼と婚約しているの?」
そう問いかけられて赤くなるアスカを見て、貴蝶は悪戯っぽく笑う。
「本当はもうこんな風にあなたに会うべきではないんでしょうね? あなたは今はアメリカの令嬢として真っ当な人生を歩んでいるんでいるのですもの…」
貴蝶はそう言ってまた溜息をついた。
貴蝶にはすでに前回の訪問で、アスカが『陽炎館』から居なくなった理由を告げている。そして今はアメリカ人であるメルビルの養女となり、今回その父の容疑を晴らすために再び日本に来たことも話していた。
「あなたのためにはこれでよかったのかもしれないわ。あのままわたしの側にいても、わたしにはあなたをあそこから連れ出してあげることは出来なかったのですもの…」
貴蝶は悲しげに目を伏せた。7年前、当時大棚の舟問屋の若旦那と恋仲だった貴蝶は、年明けすぐに身請けされて若旦那と祝言を挙げる予定だった。
すでに身請け金が支払われて、『陽炎館』を出るまさにその直前に悲劇が起きたのだった。
あの横浜の大火で舟問屋『成田屋』も焼け、店を守ろうとした若旦那も帰らぬ人となった。娼館のある繁華街も例外ではなく、焼け落ちた店の下からは多くの遊女たちの遺体が見つかった。
途中風向きが変わったおかげで、『陽炎館』も全焼だけは免れたものの、それでも被害は大きく、太夫の半分を失い…女将のお万も堕ちてきた天井に足を挟まれて片足を失ってからは、店に出ることもなくなって事実上の引退となった。
お万を失った『陽炎館』がかつての輝きを取り戻したのは貴蝶のおかげだった。貴蝶はお万が去ったあと残った太夫たちを励まし、徐々に『陽炎館』は元の輝きを取り戻していく。
貴蝶にしても浩二郎を失った悲しみは大きく…それを紛らわせるために彼女は、『陽炎館』の再建にのめりこんで行った。最初は貴蝶自らが花魁として後輩の太夫たちを育て、後輩達が一人前になると、今度は女将となって店を盛り立てた。
女将といっても貴蝶はまだ32歳という若さなのだ。名のある盟主や金のある地主からは後添いの誘いも多くあったが、貴蝶は断り続けた。自分が生涯を捧げた相手は浩二郎だけだと自負していたからだ。
「あれからもう7年も経ったのね? あなたは大人になってとても美しくなったわ。恋人はいないの…?」
「恋人なんて…。わたしは混血だし、日本人は西洋ではまだまだ辺境の野蛮人だと思われているから、それがわかったらとてもまともな結婚相手としては見てもらえないわ」
「そんな…」
そう言いながら貴蝶はアスカの手を取って微笑んだ。
「あなたは美しいわ。あの時あなたはまだ子供だった。わたしはあなたの美しさを疑ったことはないけれど、ついにさなぎは美しい蝶になったのね? 」
貴蝶は微笑みながらアスカを眩しそうに見つめた。
アスカはその視線を受けて寂しそうに目を伏せる。
「どんなに美しくても、その美しさは何の役にも立たないわ。わたしの血筋を知ったら、どんな殿方だって妻には望まないでしょう…。日本でもヨーロッパでもわたしは合いの子でしかないの。だからわたしは結婚なんて望んでない。それにわたしにはやらなければならないことがあるから…」
そう言ってアスカは、そっと肩にかけたケープの陰で、母の形見の小さな匂い袋を握り締める。
英国にいるはずの父のことは心のどこかでずっと忘れたことはなかった。何故戻ってきてくれなかったのか…? 生きていれば聞いてみたかった。
いつかその日が来たら、英国に渡って本当の父親を探したい…。誰にも語ったことはないけれど、それがアスカの密かな願いでもあった。
「アスカ、あのシェフィールド公爵のことはどう思っているの? こんなに親切にしてくださるんだもの。きっとあなたのことを大切に思っているからに違いないわ」
「シェフィールド公爵、いえあの人がわたしに親切なのは、自分の目的に忠実だからよ。メルビルを助けてくれるのもね。あの人は黒柳から取り戻したいものがあるの。そのためならきっと何でもするわ。今回のことは戦争だと言っていた。アレックスは美しい…。でもそれと同じくらい冷酷で容赦がないっていうわ」
アスカはそう言っている自分の言葉が、まるで他人の言葉のように響くのを聞いた。
「そうかしら…? でもわたしは嬉しいの。こうして又あなたに会えたんですもの。あなたはわたしの亡くなった妹によく似ていたわ。たったひとりの妹のように感じていたのよ。あの人も逝ってしまって、もうわたしには家族と思える人は誰もいないとかんじていたんですもの…。」
美しい貴蝶の瞳から大粒の涙がいくつもこぼれ落ちた。アスカはそっと華奢な貴蝶の身体を抱きしめる。
「貴蝶姐さん、メルビルの件が片付いたらわたしと一緒にアメリカに行きましょう?アメリカに行っていちから出直しましょう。」
「ああ…そうなったらどんなにいいかと思うわ。でもあなたのお荷物になるつもりはないの。今だって、こんな形で会うべきではないのよ。昔…わたしと一緒にいたことが知れれば、あなたの評判に傷がつくわ。現にシェフィールド公爵だって…親切にしてくださるけれど、きっとよくは思っていらっしゃらないはずだもの…」
「そんなこと…」
どうでもいいと言いかけて…アスカは口を噤んだ。アレックスだってイギリス貴族だ。名誉を重んじる彼らの世界では、たとえ生きるためとはいえ娼婦に身をおとした女は虫けらに等しい。
事実有名な娼館の女将である貴蝶であっても、誰か有力者の後ろ盾がなければ、政府の集まりはもちろん、外国人の居留区に立ち入ることすら許されないのだ。
「アレックスは女としてのわたしが欲しいだけ…。手に入れたらさっさとまた次の新しい玩具を探すわ。だからそう簡単には許すつもりはないの。それまで彼の好意は有り難く利用させてもらうけれど…」
そう言うとアスカは口をキッと結んで前を見つめた。
“アレックスがわたしのことを本気で心配しているとは思えない…。”
アレックスがアスカを欲しがっていることは、最初の出会いからはっきりと態度で示している。
時々判別不能な表情を浮かべることはあっても、彼はたいていは紳士らしく接してくれていた。それとも貴蝶の言うように、アレックスも貴蝶とアスカの関係を疑っているのだろうか…?
「まあ、あなたがそんなに大人だとは思わなかったわ。でも女がひとりで生きていくのにはそれくらいの強さが必要ね。でもアスカ、約束して…。決して自分の心を偽らないでね。あなたの瞳の中にはあの頃と同じ炎が燃えているわ。真っ直ぐで…どんな困難にも屈しない強い意志がある。それを忘れないで…。」
貴蝶はそう言って又優しく微笑んだ。
この頃忙しいのか、一日中アンソニーと顔を合わせることがほとんどない日が続いていた。アンソニーどころか、アレックスも現れない。
遅めの朝食の席で何となく食欲もなく、ひとりコーヒーをすすりながらアスカは、アンソニーの不在について、りくに訪ねた。
「さあ、何もお聞きしていないので…。昨夜も遅くお帰りになって…。でも朝早く夜が明ける早々にまたお出かけになりました」
りくにもよく分からないらしい。執事のグレアムもアスカの問いには困ったように首をかしげるだけだった。キッとアンソニーのことだ。アスカに心配をかけまいとしてわざと何も告げずに出かけたのかもしれない…。でも気になる…。
“いったい今何が起きているの? 誰も黒柳のことは教えてくれない…。”
あのアレックスでさえ最近はそれを訪ねると、決まって口を噤んでしまうのだ。きっとアスカの知らないところで何かが起こっているに違いない…。
ダイニングテーブルの席についたまま、アスカが物思いに耽っていると、忙しなくドアをノックしたと思ったら、蒼い顔をしたグレアムが緊張した面持ちで入ってきた。
「あ、あの…お嬢様、お客様がおいでになっていらっしゃいます…。だんな様は留守だとお伝えしたんですが、お嬢様でもよいとおっしゃって…」
グレアムは額の汗をハンカチで拭いながら、言葉もつまりがちで、いつもは落ち着いているグレアムがこんなに取り乱すのを見るのは初めてだった。
アスカはいぶかしみながらゆっくりと立ち上がった。
「お客様ってどなたなの…?」
「あ、あの黒柳さまです…」
その名前を聞いた瞬間、アスカの呼吸が止まった。
“黒柳…!? ”
何年か前に見た蛇のような目を思い出してアスカは思わず身震いした。
黒柳がついにここまで訪ねて来た。それもアンソニーが留守の間に…。
まさか、それを狙ってきたのだろうか? 黒柳がアスカに対して何らかの欲望を抱いているのは何となく感じていた。
そのことは父のジェームズにも話していなかった。黒柳を最高のビジネスパートナーだと信じて疑っていない父にどうしてもそのことは言えなかった。
あの時感じた言いようのない不安がアスカを恐れさせた。
“その黒柳が今ここにいる…!”
膝ががたがた震え、喉が急に渇いてきた…。
「お嬢様…どういたしましょう…?」
「い、いいわ…。わたしが会います。 応接室に案内して…」
アスカは大きく深呼吸して、心に巣食う恐怖を吹き払うと、キッと前を見据えて言った。
黒柳は応接室の中央にあるソファーの側に立っていた。ドアに背を向けて手を後ろで荷組んだまま、じっとどこか一点を見つめていた。
年齢はすでに50近く、髪にも白いものが混じっていたが、依然背は高くその頃の日本人にしてはかなり大柄なほうだった。
目は鋭く、頬骨の張った彫りの深い顔立ちは、見る人はかなり威圧的な印象を与える。眉間に刻まれた深いしわはさらにそれを際立たせていた。
アスカが応接室に入っていくと、黒柳はゆっくりと振り返った。口元は笑みを浮かべるように唇の両端は持ち上がり、片方のまゆが大きく上がる。
長年の洋行のために日焼けした肌が日本人というよりは、どこか異国の人間を感じさせるものがあった。
アスカは恐ろしさで心臓が縮み上がるのを感じた。それでも必死に息を整えて、顔を上げて真っ直ぐ黒柳を見る。
恐怖を感じているのを黒柳に知られてはならない…。
「これはお嬢さん、久しぶりですね? またいちだんと美しくなられたようだ」
黒柳は自信たっぷりにアスカの側までやって来ると、その手を取って通常行うような手の甲ではなく、手首の内側に唇を押し付けた。
その瞬間…ぶるっとした震えが全身を駆け巡る…。
するとそれを感じてニヤリと笑った黒柳は、アスカが手を引っ込める前に敏感なその皮膚を舌先でぺろりと舐めたのだ。
「や…やめて…!」
とっさに触れられた手を隠すようにもう一方の手で隠す。
「はは…これはほんの挨拶ですよ。あなたはもう大人のはずだ。これが何を表すか、すでに知っているでしょう…?」
黒柳の声はゾッとするほど低く響き…瞬時にアスカの全身の血液を凍らせる。
「今メルビル商会が危機に瀕していることはわたしの耳にも入っていますよ。亡くなった父上は実に良い方だった。何が災いしてこんなことになったかは知らないが、なくなられたのは非常に残念だ。」
黒柳は平然としてそう言ってのけると、さも残念そうに顔をしかめて見せる。
“嘘よ…。あなたは嘘を言っている。父を殺したのはあなただわ…。”
そう叫びたい気持ちを抑えながら、アスカは一歩後ろへ後ずさる。
「クレファードなどに助けを求めずとも、わたしが力になったものを…。わたしなら君の力になれる。君さえわたしに身を任せてさえくれれば…」
“ 黒柳はアレックスのことを知っている…!? ”
欲望に懸ぶる瞳は暗い闇のような光を放っている。その蛇のような眼がアスカを捕らえて奈落のそこへと引きずって行くような感覚に思わずめまいを感じた。
「まあいい…。アンソニーには新しい提案をしておいた。そのうちにすぐ結果は出る。楽しみにしているよ。わたしのものになれば、君は無常の悦びを知ることが出来る。わたしは君を女王のように扱うだろう…。」
黒柳の声はアスカの服を剥いで、素肌を残さず丸裸にするような響きがあった。
恐ろしさと恥ずかしさで真っ赤になったアスカの頬に、黒柳は冷たい指先を伸ばすと…動けないアスカの唇を撫でる。
「可愛い人だ。君のために最高のものを用意した。きっと君も気に入るはずだ。楽しみだよ、君がわたしの腕の中で蕩けるときが…」
声もなく凍りついたように黒柳の顔を見つめるアスカに彼は目を細めて舐めるような視線を送った。
“狂っているわ…”
彼の目の中に狂気を感じたアスカは声を震わせて言った。
「わたしは…あなた…の…ところへは…いか…ない…。」
「フ…フ…いつまでそう言っていられるかな? まあ、いい…。その気がないのをその気にさせるのがわたしの流儀でね。それもまた楽しいものだ。それではお嬢さん、近いうちにまた会いましょう…」
黒柳はそれだけ言って去って行った。黒柳が消えたドアを見つめながら、アスカは急に両足が萎えて、自分が応接室の絨毯の上にへなへなと座り込んだことにも気づかなかった。
“ 黒柳はわたしを必ず手に入れると言っていた…。あれほどはっきり宣言したからには、必ずそうするだろう。もう手は打ってあると言っていた。アンソニーはどこにいるの? アレックスは…? ああ…アレックス… ”
アスカは今ほどアレックスが恋しいと感じたことはなかった。側にいればあれほど憎らしく、腹が立つ美しい悪魔をもとめてしまうなんて…。
目を閉じればさっきの残忍な黒柳の顔が浮かんでくる。振り払いたくても、何度も何度も追いついてきてはアスカを捕らえ、恐怖でがんじがらめにしてしまう…。
それから気を失ったのか? それとも恐怖に堪えられなくなった脳が都合よく眠らせてしまったのか、アスカは床の絨毯に突っ伏したまま…眠っていた。
カーテンの隙間から床に落ちた夕日が、アスカのまつ毛を揺らしたことにも気がつかない。やがて誰かの優しい手に揺り起こされて、やっとアスカはその目を開けた。
「アスカ、起きるんだ…!」
その手はアスカを優しく抱きながら、その目を心配そうに覗き込んでいる。
「アスカ、何があったんだ!?」
「アレックス…!?」
自分を抱いているのがアレックスだと気が付いたが、アスカはその顔をぼんやりと眺める。間近で見るアレックスは美しかった。
この美しさをあれほど憎らしく感じていたことが信じられない…。今は無性に恋しくて…アスカは無我夢中でしがみついていた。
「アスカ…?」
アレックスは身体を突き抜ける衝撃に慄いた。今のアスカはびっくりするほど無防備だ。普段決して警戒心を怠らないアスカが、今はまるで何かに怯える子供のように彼の腕の中で震えている。思わずアスカを抱く手に力がこもる。
“ いけない…! これは彼女の本当の姿ではない…。今彼女を誘惑するのは間違っている…”
分かっていても一度燃え上がった感情を抑えるのは難しい。何とか思いとどまったのは、険しい顔をして部屋に入って来たグレアムを見たせいだろう。
「クレファードさま、お嬢様が動揺されていらっしゃるのは、さっき黒柳様がおいでになったせいでございましょう。」
「何だって…!? 黒柳がここへ来たのか?」
「はい、旦那様がお留守なので一度はお断りしたのですが、お嬢様に是非話したいことがあるとおっしゃって…」
「ああ…アスカすまない…。こういうことがあると考えておくべきだった…」
アレックスはアスカの身体をしっかりと胸に抱きながら、その髪に顔を埋めた。自分の迂闊さに腹が立つ。
昨夜日本の内閣府の応接室でそこにいた黒柳と対面した時、黒柳はアレックスに不適な笑みを向けてきた。
言葉では一応礼を尽くしているが、心の中では嘲笑っていたに違いない。明らかに黒柳はアレックスの正体を知っている。
女王のティアラを英国から持ち出した時から、アレックスがここに現れることを知っていたとでも言いたげな表情だった。
その黒柳がアスカに何を言ったのだろう…? アスカの今の様子を見ればかなり脅かされたのは確かのようだ。だが何のために…? アンソニーに脅しを掛けるならまだしも、娘のアスカに何の用があると云うのだろう…?
“ ともかく今はアスカの身の安全を図ることが先だろう。こうして黒柳が現れたというならば、一刻も早く…”
「アスカ、君は今すぐボクと一緒に来るんだ…」
アレックスはアスカを抱きあげて歩き始める。
「アレックス…?」
不安げなアスカの瞳がアレックスを見上げている。励ますようにように頷きながら早足で玄関へと向かう。
「よく聞くんだ。今日アンソニーが領事館に拘束された。アメリカ政府はこの件を直々取り調べることにしたらしい。」
「どうして!? アンソニーは何も知らないわ。悪いのは黒柳でしょう!?」
アスカは不満げに叫んだ。
「そうだと思う。だが証拠がない。証拠がはっきりしない以上はメルビルの疑惑を晴らすことも出来ない。黒柳は政界にも深いパイプを持っている。今は待つしかないんだ。アスカ…」
「でも、アンソニーはどうなるの? もし不当な扱いを受けたら…何か危害を加えられているということはないの?」
「大丈夫だ。そうならないように今手を尽くしている。ボクを信じるんだ」
アスカを玄関先に留めた馬車に載せるまでの間、アレックスは執事のグレアムに短い指示を与えて、自分も素早く乗り込む。
アレックスが座席に落ち着くのを待っていたように馬車はすぐ走り出した。
「時間がなかったんだ。領事館の連中はすぐにでもメルビル邸を封鎖して厳しく人の出入りを制限するだろう。そうなったら当然君も軟禁状態におかれることになる。自由に出歩くことも出来なくなり、貴蝶にも会えなくなる。」
「そんな…」
アレックスの言葉を聞いてアスカは蒼くなる。
「大丈夫。君は今からボクの屋敷に来るんだ。僕のフィアンセとして…」
「何ですって…!?」
アスカはアレックスの言葉が信じられなかった。この状況を利用して、彼はアスカに迫るつもりだろうか?
アスカの表情に何かを感じたのだろう、アレックスはわざと感情を殺して事務的な口調で言った。
「心配しなくてもいい…。これは便宜上のことだ。君がボクのフィアンセになれば、アメリカ領事館からは治外法権となり、彼らは君に手出しは出来なくなる。そして君は今までどおり自由でいられる。ただし、屋敷を出る時にはぼくか、ボク以外の誰かの付き添いが必要だけれどね」
アスカが見上げたアレックスの目には今まで見たこともないほどの厳しい光が宿っていた。アスカは彼に、さっき黒柳がいっていた謎めいた誘いの言葉を伝えるべきか迷っていた。
“君のために最高のものを用意した…君も気に入るはずだよ…。”
黒柳がアスカに対して、何かを企んでいるのは確かだった。たとえアスカの身を護る便宜上の理由だったとしても、アスカがアレックスの婚約者を名乗るのはとても危険なことではないだろうか? アレックスはそのことを分かっているのだろうか…?
聞きたいことはたくさんあったけれど、アスカはただ黙ってうつむいていた。肩にはアレックスの手が回され、アスカを励ますように優しくそっと腕を撫でている。
“ いまはこのままアレックスの優しい腕に抱かれていたい…”
自然と頬を彼の白いシャツの襟元に押し付けると、上品なコロンの香りがアスカを包んで…まるで恋人の腕の中に守られているような気がした。
「安心して…。ボクは必ず君を守るから…」
アレックスは港通りにある屋敷に着くまで、ずっとそう囁き続けた。
アレックスの屋敷は、英国人居留区の中でも一番奥まった広い敷地に建っていた。広い門の入り口には、ふたりの守衛が不審者の侵入に備えて警備についていた。
ユニオンジャックと三つの剣を象ったクレファード家の紋章を付けた立派な4輪馬車が入ってくると、守衛は恭しく高い鋼鉄製の門を開けた。馬車は難なく屋敷へと続く石畳へと滑り込んでいく。
馬車が前庭に着く頃には、アスカの心もかなり落ち着いていた。先にアレックスが降りて、両手でアスカのウエストを支えるようにして馬車から下ろす。玄関先にはジャマールをはじめ執事のメイスン、他の使用人たちが並んでふたりを出迎えていた。
アスカが降り立つと、その列の中から背の高い変わった布のターバンを巻いた男性が一歩前に出てきて、アスカに軽く頭を下げる。
「彼はジャマール、ボクの側近で、異国人で恐ろしげに見えるがいい男だ。君のことも守ってくれる。」
アレックスはアスカの手を取って前に引き出すと、ジャマールを紹介した。
「はじめまして、ミス・メルビル…」
異教徒の青年はアレックスと同じくらいの年だろうか…? 口元は穏やかな笑みを浮かべているが、その黒い瞳は何か不思議な光をたたえていた。
「よ…よろしくジャマール…」
近くで見るとジャマールは見上げるほど大きく、アレックスよりもさらに背が高く見える。
浅黒い肌と頭に巻いた濃いインディゴブルーのターバンがよりジャマールの印象を鋭くしていた。
「さあ、中に入って…。リリアに君の部屋へ案内させよう。今日はいろいろあって疲れただろう。アンソニーのことはボクに任せて、君は何も心配せずにゆっくり休むといい…」
アレックスは優しかった。すぐにリリアというメイドを呼んでアスカを客間に案内させると、あとで夕食を届けると言って出て行った。
アレックスがいなくなると、アスカは不意にめまいがして、近くのソファーに倒れこんだ。思えば朝から何も食べていないことを思い出した。
空腹にボーっとしながら、アスカは部屋の中を見回した。明るい色のソファーにカーテン、すべてが清潔で美しく、寝室の天蓋つきベッドはふかふかして気持ちよさそうだ。
“ アレックスはアスカをフィアンセとして迎えると言った。そうすれば安全だと…。でも逆にアレックスはどうだろう…? アスカを個人的に抱え込んだことで、大変な厄介事を自ら引き込んだことになるのでは…? ”
あの黒柳が黙っているわけがない。あのゾッとするような微笑が脳裏に蘇ってきて、季節は初夏だというのに寒気が襲ってくる。アンソニーのことも気になるし…。
大きなベッドの中央に身を丸めていると、引きずり込まれるように眠りに落ちていた。
「これがどういうことか、君はわかっているのか?」
書斎の窓際に立って、水平線に消えていく夕日を黙って見つめているアレックスの背中に向けてジャマールは言った。
「ああ…承知している。おまえの言いたいこともな…。彼女をこの屋敷に入れるのは危険だと言いたいんだろう…?」
夕日を背に受けながらアレックスは振り返った。ジャマールの憂鬱そうな瞳と視線がぶつかると、困ったように頭をふってみせる。
「ここ最近の君の様子を知る限り、とてもまともな判断だとは思えない…。ティアラを取り戻すためにクレメンスに近づいたまではいい…。だが必要以上にメルビルの娘に関わるのは良くないと言っているんだ」
「確かに…。今のオレはらしくないな…。欲望を抑えて礼儀正しくジェントルマンを気取るのも結構骨が折れるんだ」
「じゃあ何でそれを続けている…? いつもらしく欲しいものはさっさと奪ってしまえばいい。そうすればいつもの君に戻って冷静な判断が出来るというものだ」
そう言ってジャマールはグッと前に踏み出して、アレックスの目を正面から覗き込んだ。
ジャマールはいつでもこの美しく高慢で高潔な親友の心を見通すことが出来た。だからこそ常に彼の側でその行動の一歩前を読み、危険は事前に察知して避けてきた。それが今回に限ってはまったく読めないのだ。
アレックスがメルビルの娘に惹かれていることは知っていた。しかしそれは原始的な欲望のせいで、今までのアレックスのように一度充たされてしまえば、すぐに冷めてしまう程度のものだと思っていた。それが今回はどうだ…?
若い娘…それも娼婦ではない淑女をここまで身近に置くのは初めてだった。それに便宜上とはいえ婚約までするとは…。
「馬鹿げていると思っているんだろう? ホークと呼ばれた男が小娘相手に手も足も出ないとは…」
アレックスの表情には自己憐憫があった。彼にしてみても案外自分の感情がコントロール出来ていないのかもしれない。それが問題なのだ。
「まさか…あの娘に恋したと…?」
わざと面白がるようにジャマールは訪ねた。こうすればアレックスの自尊心を刺激することが出来る。男のプライドは何よりもコントロールしやすい。
「恋…? このオレが…? いや、恋ではない。そんな感情はとっくの昔に捨てた。これはただの欲望だ。それを完璧な形で果たすまでは油断が出来ないだけだ…」
「完璧…?」
ジャマールは呆れてアレックスを見る。アレックスは自尊心を満たすために婚約までしたと言うのに、それをただの欲望だと思っている。
まあ、あれほどひどい母親が側にいたんだ。アレックスが愛というものを信じられないのも無理はないが…。
「だったら、婚約までしたのはどういう理由だ?」
「さあな…。お堅い処女を口説くのに必要だと思っただけかもな…。そのほうが彼女も安心するだろう。ましてアンソニーがいない今の状況ならば…。」
「そうか、ならわたしの思っていることがただの推測に過ぎないことを祈るね。君は彼女に深入りし過ぎている。あとで面倒なことにならなければいいが…」
ジャマールは意味深な言葉を残して去って行った。ジャマールに言われなくても分かっている。
“ くそ…! ”
アレックスは心の中で悪態をついた。自分で自分を罵りたいくらいだ。アスカに出会った時から、とっくに自制心は失われている。
このオレが婚約…!? 英国の噂好きの連中が聞いたら度肝を抜かすだろう。アスカには便宜上といったが、本心はアスカを側に置いておくためだった。
特に黒柳が直接メルビル邸に現れたと聞いてからは…。
彼女の銀色の瞳に見つめられる度に自制心の壁は綻んでいく。このまま側に置けば、近いうちに完全に崩壊するのは時間の問題だった。すべてはジャマールの云うとおりかもしれない…。
アスカはなかなか眠れなかった。日暮れ時に少しうとうとしたものの、月明かりの中で目覚めたあとで、寝室の扉が開いていつアレックスが入って来るとも限らない。
ここはアレックスの屋敷なのだ。放蕩者として世界に名の知れた彼のことだ。きっとこの機会を利用して誘惑してくるに違いない…。
部屋に案内してくれたリリアというメイドはおしゃべり好きで、この屋敷の主人がいかに好色で美しい容貌に似合うだけの素晴らしいテクニックを持っているかを、臆面もなく語ってアスカを赤面させた。
彼女はアスカがどういう経緯でこの屋敷に来たか、知っているのだろうか? 最も英国のシェフィールド公爵の放蕩ぶりは、アメリカでも伝説になっていたから、今さら聞かされても大して驚かないけれど…。
でもそんなアレックスが本気でアスカを誘惑しようと迫ったら、経験のないアスカなどひとたまりもないだろう。
“そんな時が来たら…”
アスカは心とは裏腹にその時を想像して、カッと全身が熱くなるのを感じた。アレックスのキスの甘さは経験済みだ。
“彼がもっとその先へ進んだら…?”
想像があらぬ報告へと進んでいって、さらにアスカは眠れなくなった。
それから数日の間、アレックスは忙しなく動いて、何度も領事館に足を運んではアンソニーのためになにがしかの働きかけをしているようだった。
その彼の側に影のようにぴったりと寄り添うジャマールは、まるでアレックスを守るように常に目を光らせている。
時々そのジャマールがアスカに向ける何か物言いたげな視線が気になった。アスカが屋敷に来てから、他の使用人や仲間達が好意的に接してくれている中で、ジャマールだけは少し距離を置いているように見えた。
礼儀正しく挨拶程度の会話は交わしてもそれ以上は決して踏み込んで来ない。あくまでもじっと見守る姿勢のようだ。
アレックスもアスカに対してはあくまでも紳士的に振舞っている。最初に出会った時、唇を奪われて以来、キスさえも仕掛けて来なかった。せいぜいが挨拶程度にさっと唇をかすめる程度だ。
最初は礼儀正しいアレックスの姿にホッとしていたアスカだが、そのうち物足りなく感じてきた。それがどんなに危険なことか知りながら、それでもアスカはアレックスの唇が恋しかった。
ある日いつものように忙しなく屋敷に戻ってきたアレックスは、書斎にアスカを呼んだ。
ドアの前で一度立ち止まったアスカは大きく深呼吸して息を整えてから、書斎のドアをノックする。
すると中からドアが開き、中にいたメイスンがアスカを招き入れると小さく会釈してからドアを閉めて去って行った。アレックスの書斎は続き部屋になっていて、手前は図書室…奥の部屋が執務室になっていた。
アスカが来たのが分かると、アレックスは奥の部屋に来るように促した。恐る恐るアスカが入っていくと、書斎のデスクに軽く寄りかかるようにしてアレックスが立っていた。
彼は少し疲れているように見えた。いつもは隙のない服装が、今日は少しばかり乱れている。きちんと結ばれていたはずのクラバットは解けて、シャツの胸元は大きく開き…上着は近くのソファーの上に無造作に放り投げられていた。
「アレックス…?」
アスカが近くまで来ると、アレックスはソファーから上着を除けて、そこに座るように促した。
「アンソニーに会って来た。どうやら黒柳は彼にある取引を持ちかけてきたらしい…。アンソニーはそれを即座に断った」
「だからアンソニーは領事館に拘束されたの?」
アスカはアレックスの言葉を最後まで待ちきれずに思わず口を挿む。
「ああ…アメリカ領事館の連中は金で買収されたんだ。その金がどこから出ているかなんて大した問題じゃない。問題は…黒柳がアンソニーに持ちかけてきた取引の内容についてだ…」
アレックスの碧い瞳が鋭く光る。
「奴は…メルビルを救う条件として、君を要求して来たんだ…」
「…!?」
アスカはあまりの息苦しさに音を立てて息を吸い込んだ。片手を胸元に置いて大きく肩で息をすると、いつの間にか側にやって来たのかアレックスの大きな手が背中を撫でていた。
「大丈夫かい? 落ち着いて…。あいつは君を欲しがっている。親子ほど年も違う君をだ。
何故だ…?」
吐き捨てるように言ったあとで、いぶかしむようにアスカを見つめた。
「わたしにも分からない…。黒柳に前に会ったのは2年前…15歳の時だった。サンフランシスコのパーティーで…。父と一緒だったの…。あの頃から恐ろしくて…」
嘘ではなかった。あの蛇のような目…。身体の奥底から来る震えにぶるっと震えたアスカの身体を、アレックスは抱き寄せた。
そして気が付くと、アスカに覆いかぶさるようにしてその唇を重ねていた。
わずかに開いた唇の間から舌を差し入れて深く探るようなキスは次第に激しさを増し、夢中になって舌を絡めながら、背中に回した手をゆっくりと動かして…片方の手でアスカの胸に触れた。ピクンとアスカの身体が跳ねる。薄い生地の下から胸の頂が固くなってくるのがわかった。
“ダメ…いけない…!”
これ以上自由にさせてはいけないと分かっているのに、身体が言うことを利かない…。
アスカはアレックスに触れられている胸の先から両足の間に走るジン…とするような熱い疼きにすっかり我を忘れた。
アレックスの両手は下からアスカの豊かな胸を救い上げるようにして、その重さを確かめるようにやんわりと揉みしだき、親指は小さな頂をゆっくり円を描くように撫でた。
アスカの唇から小さな溜息が漏れる。
「そう…それでいい…」
囁くような声が聞こえたかと思ったら、不意にひんやりとした空気を胸元に感じて、見るとドレスの襟ぐりが大きく開けられていることに気づいた。アスカが身体をよじるよりも早く、アレックスの唇が下りてきて…小さなばら色の蕾を口に含んでいた。唇は巧みに動いて、小さな蕾を挿んで引っ張り…舌先でなぞっては強く吸い上げる。初めて知る快感が両足の付け根辺りに疼くような熱い痛みをもたらした。
「ああ…ダメよ…」
あまりの衝撃にアスカはパニックになった。
「いや、君も望んでいたはずだよ、ほら、力を抜いて…両足を開いてごらん…もっと感じるはずだよ…」
アレックスも完全に自制心を忘れていた。黒柳がアスカを求めていると知って、嫉妬に駆られて思わず誓いを忘れた。アスカの唇から小さな喘ぎ声が漏れるともう何も考えられなくなった。
“今すぐ彼女が欲しい…。たった今ここで…”
容赦のないキスを浴びせながら、片手を彼女のスカートの中に忍ばせた。形のいいふくらはぎから膝を撫で上げて、指先を彼女の艶やかな茂みに滑り込ませると、声にならないさけび声が喉の奥で漏れる。
信じられないほど熱くたぎったそこは、すでに彼を受け入れる準備は出来ていた。
アレックスがついに耐え切れなくなってズボンのベルトに手を掛けようとした時、ドアをノックする音が部屋の中に大きく響いた。
“くそ…!”
アレックスは小声で悪態をつくと、上体を起こしてアスカの大きく開いたドレスの胸元を引き上げる。アスカも真っ赤になってソファーから身を起こして、彼がドアを開けに行く間に身支度を整えた。
アレックスが書斎のドアを開けると、執事のメイスンが厳しい顔をして立っていた。その後ろにはジャマールが探るような目をしてアレックスを見ている。
「邪魔をしたのではなければいいんだが…?」
アスカのうろたえた表情を見てジャマールは言った。
「いや…別に。彼女にアンソニーのことを話していただけだ…」
無意識のうちにアレックスの声は不機嫌になる。アスカは真っ赤になってうつむいていたが、きっとジャマールにはふたりがどこに行き着こうとしていたか、みんなわかっているような気がしていた。
「あ、あの…お話は済んだので、わたし…お部屋に帰らせていただきます…」
アスカが消え入りそうな声でそう言って立ち上がると、アレックスがそれを遮った。
「いや、まだだ。話は終わっちゃいない。君はここに居るんだ」
アレックスの強い声に気圧されて、アスカはまたソファーに腰を下ろした。
「どうした? ジャマール、何か変化があったか…?」
振り返るアレックスの表情は厳しい。さっきまでの熱情の籠った眼差しの余韻など微塵も感じられない。
「ハリス・ロンバートから急ぎの使いが来た。やはりある人物の名前を使って賄賂を贈って来たらしい…」
「ほう…? 面白い。あのロンバートがそんなものに引っかかると思うか?」
「思わない。だからこそ早く手を打つ必要がある」
そう言うジャマールの顔にも決意が表れていた。それを見てアレックスはアスカの耳元で囁いた。
「黒柳は国内外を問わず、あっちこっちに賄賂を贈って役人達を傀儡しているが、わが大英帝国の日本総領事、ハリス・ロンバートはそれを真っ向からはねつけた。わが堅物の又従兄はそんなものには動じない男でね。だがそうなると別の心配も出てくる。メイスン、コンウェイはどうした?」
アスカの肩に手を置いたまま、目は部屋の入り口に控えているメイスンに向ける。
「はい、昨夜遅く屋敷に入られてから先ほどお目覚めになったようです。今ごろは台所でお食事中だと…」
「すぐさま船に戻って、今夜中に出航できるように準備をしておけと伝えてくれないか? オレは今から出かけてくる」
「わたしも一緒に行こう…」
アレックスが立ち上がるとジャマールも動いたが、それをアレックスは押し止めた。
「おまえはアスカのことを頼む。彼女には少々説明が必要だ。おまえなら物事を冷静に判断できる。」
「分かった…そういうことならば。」
アスカを見てジャマールの眉が片方上がる。アレックスは小さくうなづくと、アスカに大丈夫という風に微笑んでから、足早に部屋を後にした。
アレックスが出て行くのと入れ替わりに、大柄の…見るからに恐ろしげな男が部屋に入って来た。
「おや? 食事を中断して来たんだが、ボスはどうした?」
男は伸び放題のあごひげをさすりながら不機嫌そうに部屋を見回した。男は部屋の中にジャマールとアスカだけなのを知ると、大男は訝しげにアスカを見る。だが次の瞬間その眼差しは賞賛に変わった。
「ほう…これは素晴らしい美女じゃないか? この屋敷でこれほどの美女のもてなしを受けるとは思わなかったぞ!」
男は声高に笑って、アスカの居るソファーの足元に跪いて、驚くアスカの手を取って口元に持っていく。
「もしかして、今夜はこの美女にお相手してもらえるとか…?」
男は臆面もなくそう言うと、面白そうにジャマールを振り返った。
「その言葉をアレックスに言ってみろ、すぐさま岸壁から海に放り投げられるぞ。彼女の名前はアスカ・フローレンス・メルビル…アレックスの婚約者だ。」
「何だって…!?」
慌てて大男はアスカの手を離すと、びっくりして後に下がった。
「おお、これは失礼した。昨夜遅く船から上がったばかりで、ボスが婚約したとは知らなかった…。わたしはキャプテン・コンウェイ、閣下の船、アレクサンダー・マレー号の船長をしている。よろしくミス・メルビル…」
キャプテン、コンウェイと名乗った男は、さっきとは打って変わって恭しい態度で、アスカに頭を下げた。アスカもちょっと安心して小さな息を吐く。
実際この男が部屋に入って来た時には、恐ろしさに息をするのも忘れたほどだ。でも今のコンウェイは、体格の大きさや、頬に走る恐ろしげな傷跡も気にならないほど、人懐こい笑顔を見せている。
このコンウェイにしてもジャマールにしても、アレックスの周りには個性的な男が多い。きわめて個性的で美しいあの男にまだどんな秘密があるのだろう…?。今までアレックスがアスカにみせた表情の他にまだいくつの顔を彼は持っているのだろうか…? それをもっと知りたいと思っている自分にアスカは驚いた。
「コンウェイ、そのボスから伝言だ。すぐ船に戻って今夜中に出航出来るようにしておいて欲しいそうだ」
「今夜中だって!?」
コンウェイは思わず唸り声を上げる。昨夜船は仕事を終えて港に入ったばかりだというのに、それを24時間を措かずにまた海に出ろというのか…? やれやれ、ボスの気紛れはいつものことだが、昨日の今日というのは初めてだ。
「それで、今ごろは温かい女の懐に転がり込んでいる連中を今から叩き起こして、船に引きずって来いというんだな? それほど今回は急ぎの仕事ということか? で、今回の積荷は何だ?」
諦めたようにコンウェイはかぶりを振るとジャマールを振り返る。するとジャマールは落ち着き払った声で語り始めた。
彼の言葉は早口でよく聞き取れなかったが、アスカには聞きなれない言葉で、もしかしたらラテン語なのかもしれない…。
「ハリス・ロンバートの家族を宝龍島まで運ぶ。あそこなら黒柳も手出しできない」
黒柳の名前を聞いてアスカは思わず息をのむ。
「ロンバートが賄賂でなびかないとなると、今度は脅ししかないだろう? 今のうちに家族を安全なところへ移動させる。今アレックスがロンバートのところへ行っている。首尾良く行けば、もうひとりの客人の連れて行けるだろう」
「もうひとりの客人とは?」
「アンソニー・クレメンスだ。夜10時を廻ったら、アメリカ領事館の裏手の岸壁に小船を付けろ。わたしとアレックスでクレメンスを連れ出す…」
「わかった。10時だな? そうと聞けばすぐにでも動かなければ…ではお嬢さん、また…」
コンウェイは右腕を胸の上に添えて膝を折ると、恭しくアスカに向かって頭を下げて部屋を出て行った。コンウェイがいなくなると、部屋にはまたジャマールとアスカのふたりきりになった。
アスカには聞きたいことがたくさんあって、言葉は分からなくても二人の会話の中に黒柳やアンソニーの名前があったことはわかっている。きっと何か大切なことを話していたに違いないのだ。アスカは焦れたような視線をジャマールに向けた。
「君に説明するようにアレックスから仰せつかっている。歩きながら説明するから、しばらく中庭を散歩しないか…?」
ジャマールの言葉にアスカは黙ってうなづいた。歩き出したジャマールの後ろをそのまま付いて行くと、ある廊下のエントランス部分の扉を開いて、目の前には緑の美しい芝生が続く庭園になっていた。
大きな両開きの扉を開いて、ジャマールは脇によって前を開けると、アスカを先に通した。
中庭の庭園には様々な色とりどりの花々が植えられ、特に遊歩道の両側に設えた花壇には大振りのバラが大輪の花を咲かせていた。その見事さにアスカは溜息をもらした。
「アレックスはまだここに君を案内してなかったのかな? 」
アスカが嬉しそうにバラに顔を近づけて、香りを楽しむ様子を見て、ジャマールはたずねた。
「ええ、ここに来てから…アレックスはずっと忙しくて、二人で会うことはなかったから…」
アスカは振り返って、ジャマールを見る。両腕を組んでアスカを見つめるジャマールからは何の感情も感じられない。
今日は白いターバンを頭に巻いて、同じ色の丈の長い上着を着ている。カフタンという彼が生まれた地域の民族衣装だとリリアが教えてくれた。
背が高く堂々とした風貌のジャマールはまるでアラブの高貴なシークのように見える。最もアスカはそんな異国のシークなど見たこともないが、こうしてまじまじと見ると、彼もアレックスに負けず劣らずかなりの美男子だということが分かる。
たかい頬骨や彫りの深い顔立ち、個性的な唇がアレックスよりは多少荒削りな印象を与える以外はほぼ完璧だ。
「さて…何から説明すればいいのかな…?」
アスカが芝生の上に置かれた木製のベンチに腰を下ろすと、ジャマールはおもむろに口を開いた。
「まずはアンソニーのことをお願い。彼は無事なの?」
「ああ…今のところは…。黒柳はクレメンスに脅しにも似た提案を送ってよこした。だが彼がそれをはねつけたために、今度はアメリカ領事館をけしかけてクレメンスを拘束させた」
「何のために…? 自由と交換にメルビルの権利を要求したとか…?」
「いいや…」
ジャマールの黒い瞳がきらりと光る。
「黒柳が要求したのは、君らしい…。アレックスはそう言っていた。直接クレメンスから聞いたと…」
「で…アンソニーは断ったのね? 可哀相なアンソニー…。酷い扱いを受けていなければいいのだけれど…」
「アメリカからすれば、メルビルは英国政府から密輸の容疑をかけられている。取り調べるのは当然といえば当然だが、中には拷問を得意とする者もいる。彼らの手に掛かれば長くは持たないかも知れない…。アレックスもあらゆる方向から揺さぶりをかけてみたが、せいぜいが数分間の面会が許された程度だ。それも監視付きで…」
その言葉にアスカは涙ぐむ。アンソニーは今苦しんでいる…。彼には何の罪もないのに…。拷問される理由など何もないのだ…。
「アンソニーを助けることは出来ないの?」
「外交ルートを利用して、直接英国政府が取り調べると申し入れたが受け入れられなかった。影で誰が糸を引いているとしか思えない。それが誰かなんていまさら説明するまでもないと思うが…」
アスカは思わず唇を噛む。黒柳…アンソニーを拷問して無理やり罪を告白させてしまえば、自身の身は安泰なのだ。すべてをメルビルに押し付けて…。
すでにアメリカ領事館は彼の言いなりなのだから…。
「何とか、アンソニーを救い出すことは出来ないの? 」
アスカはすがるようにジャマールを見る。ジャマールは一瞬目を細めてアスカを見つめたが、すぐにその視線をそらした。
「今夜彼を領事館の牢獄から連れ出す計画を立てている。多くは語れないが、領事館の中には現在我々のスパイも多く潜入させている。彼らの力を借りて、深夜闇に紛れて彼を連れ出ししばらく日本を離れる。
「離れるってどこへ…? 」
「香港の沖に宝龍島という島がある。そこはクレファード家の屋敷があって、言わば隠れ家になっている。そこなら黒柳といえども手出しは出来ない」
「じゃあ、そこにアンソニーを匿うのね? 彼に会える?」
「残念ながらそれは無理だ。今の彼はかなりのケガを負っていて、歩くこともままならない。すぐにでも彼を安全な場所へ移さなければならないだろう…」
“アンソニーがケガをしている。それもかなり酷い…。”
それだけでもアスカを打ちのめすのには十分だった。涙がまぶたの内側に溢れてくる。泣いてはいけないと思い立って、必死に瞬きをして涙を押さえ込んだ。
「それで…アレックスは何をしようとしているの…?」
アスカの問いかけにジャマールは冷静に答える。
「英国総領事のハリス・ロンバートはアレックスの又従兄で、これ以上はないというほどの潔癖な男だ。賄賂をきっぱりと断った上に、英国はどんな傀儡にも応じないと黒柳に言った。それがどういうことか君にわかるか…?」
「いいえ…」
「ロンバートは黒柳に宣戦布告をしたんだ。まああのアレックスの又従兄なら、女王陛下の命令でも気に入らなければ跳ね除けるだろうが…。だからアレックスは安全のためにロンバートの家族、妻とふたりの娘を日本から逃すことにした。」
「黒柳が家族に危害を加えると…?」
「奴は目的を果たすためなら何でもする。現にクレメンスは酷い扱いを受けている。アレックスだって例外じゃない…。まして奴の狙いが君ならば…。君はアレックスのフィアンセになったのだから…」
その時のジャマールの目に宿った一瞬の光にアスカは茫然となった。
“この人はわたしを決して認めていないんだわ…。”
このアレックスの最側近である異教徒に信用されていないことは何となく分かっていたけれど…ここまで警戒されているとは思っていなかった。
きっとアスカの存在がアレックスにとって脅威になることを本能的に知っているのだ。
アスカは緊張に呼吸が速くなるのを感じた。わたしの存在がアレックスを危うくする…? そんなことはあらためて言われなくてもアスカ自身わかっていたことだった。
「アレックスは誰も愛さない…。君に執心しているのは欲望からだ。彼は今まで一度も女性からノーと言われたことがない。アレックスが君を求めるのはプライドからだ。賢い君にはそれがよくわかっていると思っていたが…」
アスカはカッと顔が熱くなるのを感じた。やはりジャマールは知っていたのだ。さっき彼が部屋に入って来るまでの間、ふたりの間に何があったのかを…。
もう少しでアスカはアレックスに何もかも与えてしまうところだった。あともう少し、彼らが入ってくるのが遅かったら…。
アスカも彼の瞳の中にあるものが欲望だけではないと信じたかった。さっきアスカの理性を失わせたあの燃えるような眼差しの中に、彼女を狂わせる何かがあったのだ。
その何かがアスカを捕らえ、自分の中に潜んでいる情熱を引き出した。自分の中にあるとは思えなかったその情熱は、いつかアスカ自身さえ燃やし尽くしてしまうのではないかと思えるほどに…激しく燃え上がった。
“ダメ、あの時の彼の顔を思い出しては…!”
アスカは自分の様子を冷静に見つめる黒い瞳のことをすっかり忘れていた。ジャマールの言葉で、呆気なくアスカはアレックスによって目覚めさせられた自分の中の情熱を思い出して、今すぐどこかに隠れてしまいたい衝動に駆られた。
「君はアレックスのことを何も知らない。彼は自分信じてくれる者に対しては、無条件ですべてを投げ打ってでも守ろうとする一方で、裏切りに対してはゾッとするほど冷酷になれる男だ。まして愛などというものには決して左右されない。アレックスを愛で縛ろうとするなら、きっと君は後悔することになる…」
ジャマールの言葉は、真夏の午後の蒸し暑い空気を一瞬で凍らせる冷たさがあった。
「あなたは…わたしがアレックスの側にいることが気に入らないのね…?」
「わたしはアレックスを守りたいだけだ。君の存在はアレックスを危うくさせる…」
「わたしは彼に愛など望んでないわ。そもそも何も望んでいないの。わたしが欲しいのは、メルビルの…父の汚名が晴らされることだけ…。そのためならなんでもするつもりよ」
アスカは決意を込めてジャマールの黒い瞳をグッと見返した。
「もし…わたしがアレックスを傷つけるようなことがあったらどうするの? わたしを殺す…?」
「場合によっては…。だがそうならないことを祈るね。アレックスに恨まれたくはないから。たとえアレックスが君を欲しがる理由が欲望だけだと知っていても、あまり君に彼に近づいて欲しくない。清潔な処女の欲望は、冷静な男の理性を狂わせる。それに…いつ君のほうが本気になるとも限らないから…」
明確な言葉にアスカは言葉を失った。
“ジャマールはわたしがアレックスに惹かれ始めていることを知っている…!”
「わかったわ…。もう必要以上に彼を近づけさせない。それであなたは満足…?」
「とりあえず…今のところはね…」
ジャマールは表情を変えず、それだけ言うとくるりとアスカに背を向けた。もう話は終わったということなのだろう。
ジャマールが去ったあとで、アスカはぐったりとベンチの背もたれに寄りかかりながら、もう一度さっきのジャマールの言葉を思い出していた。
ジャマールは必要ならばアレックスのためにわたしを殺すと言った。その言葉は真実なのだろうとアスカは思っている。ジャマールのアレックスに対する無条件の愛と信頼は、二人だけに通じるものなのだろう。嫉妬にも似た感情がアスカの胸を刺した。
“ジャマールが言うようにアレックスが欲しがっているのは、わたしの身体だけ…。間違っても心を欲しがってはいない…。わたしが彼に欲しいのは…?”
本当に欲しいのは真実の愛の言葉だと言いかけて、自分でも驚いた。アスカの記憶の中に、貴蝶と貴蝶が心から愛した恋人宗二郎の面影があった。
見つめ合う二人の眼差しの中にある、溢れるばかりの愛情…その姿がアスカの愛し合う恋人達の理想の姿だった。
いつか自分が心から結ばれたいと願う相手は、そういう相手なのだ。決して一時的な欲望を満たすだけの相手ではなく…永遠に魂まで結ばれたいと願う相手…。
そう思いながら、なぜ心の中からアレックスの面影を消すことが出来ないのだろう…? あの美しくも堕落した天使は、そこまでアスカを絡め盗ってしまったのだろうか…?
アンソニーのことが気になって仕方がないアスカは、眠るのを諦めてドレスのまま、アレックスたちが戻ってくるのを待っていた。
どんな物音も逃すまいと、階下の音に耳を済ませていたのに、気が付けばソファーの肘掛に持たれて眠っていた。
ハッとして気が付いて、部屋の時計を見ればすでに午前2時を廻っている。物音を立てないようにそっと部屋を抜け出したアスカは、ゆっくりと階段を下りて行った。
階段下の廊下を右に折れたところが応接室。その隣がアレックスの書斎があるはずだ。薄暗い廊下を足音を忍ばせてそっと書斎に近づくと、中から力強い声がする。
“アレックスの声だ…。やっぱり帰ってきてたんだわ…。”
手前にある図書室のドアをほんの少し開けてみると、奥の執務室のドアが少し開いていて、中から明かりが漏れていた。声もそこから聞こえてくる。
ノックをしようか、どうしようか迷っていると、不意に中から不機嫌そうなアレックスの声が聞こえてきて、思わず出しかけた手を止めた。
「で、何が言いたいんだ…!? おまえは…。馬鹿を言うな…! オレはホークと呼ばれた男だ。自分の決めたことは必ず守る!」
きっとジャマールと話しているのだろう。話す口調でわかったが、ジャマールの声は聞こえなかった。もっとよく聞こうとして、ドアに寄りかかった時、アスカの全身は凍りついた。
「オレが本気であの娘に惚れていると思っているのか…!? オレはオレだ! 何も変わらない。愛などという戯言はとっくの昔に忘れてしまった。それはおまえが一番知っているだろう…!?」
“アレックスはかなり激高している。いったいジャマールはアレックスに何を言ったのだろう…? でも…。”
「ああ…そうだ! そのためにわざとおまえにインド洋でアンソニーを襲わせたんだ。それもこれもみんなメルビルに近づくためじゃないか!? わかっている…オレが目的を忘れたことがあったか…!?」
アスカはそこまで聞いたところで、くらくらとめまいがしてきた。
“アレックスはわたし達を騙していた…!”
それだけでもショックなのに…愛されていないとあらためて聞かされるのは、胸が引き裂かれるほどに辛い。唇をかみ締めると、口の中に血の味が広がった。
“あの優しさも、熱い眼差しもみんな嘘だったなんて…。”
胸がむかむかして吐き気さえしてくる。
アスカはよろよろとふらつきながらその場を離れた。もうアスカがここに居る理由はなくなった。アレックスはアスカたちを利用するために近づいて来たのだ。
自分の目的を果たすために…。アレックスは自分のことをホークだと言っていた。
アスカはぼんやりと思い出した。アメリカに居た頃、噂で聞いたことがあった。海賊ホークは冷徹無比で、逆らうものは徹底的に叩くのだという…。そんな男なら、甘い言葉を並べ立てて、嘘をつくことなど造作もないことなのだろう。
よろよろと力なく階段を上がりながら、やっとのことで自分の部屋にたどり着くと、アスカはベッドの上に倒れこんだ。
胸の奥が痛くて…哀しみに息をするのも苦しいほど…もう何も考えられなかった。それなのに、不思議と涙は出てこなかった。
あまり悲しすぎると、涙は出てこないのかもしれない。メルビルの父が亡くなった時もアスカは泣かなかった。
アスカを生んでくれた母が亡くなって、世話をしてくれたツタの極道の亭主に娼館に売り飛ばされた時に、もう二度と泣かないと誓ったのだ。
泣くのは弱虫だ。いつか大人になって、本当の父親に会う時まで、何があっても泣かないのだと…。
“大丈夫…! わたしは強いわ。ひとりの男に振り回されて終わる人生など要らない! アレックスに利用されてたまるもんですか…!? ”
アスカは暗闇の中、目の前に浮かぶアレックスの面影を思いっきりにらみつけた。
「クレメンスが領事館から姿を消しました」
黒柳は寝室のベッドの上で、側近の一人がその報告書を淡々と読み上げるのを聞いていた。昼間だというのに窓には分厚いカーテンが引かれ、部屋の中は薄暗く、ベッド周りだけが数本のろうそくでぼんやり照らし出されていた。辺りには不思議な香りの香が焚かれ…薄いベッドカーテン越しに男の陰がチラチラ揺れていた。
「ほう…? で、どうした…?」
黒柳の声は低く、何の感情も感じられない。
「手引きしたのはやはりクレファードのようです。奴は侮れません。噂どおり、油断のならない相手です。」
「今さら何を言う。奴はホークだぞ。一見、美しい放蕩者を気取っているが、一度動き出したらめまぐるしい働きをする。大英帝国の懐刀だと聞かなかったか…?」
黒柳は口調こそ穏やかだったが、その表情はかなり厳しい。この側近がカーテン越しではなく、直接対面していたらその形相の激しさにたじろいだことだろう。
黒柳は、ベッドのうえで自分の目の前に横たわる美しい女の顔を見下ろした。苦悶の表情を浮かべた彼女の両手は、ベッドヘッドの端から伸びた黄金の鎖につながれたまま…全裸の美しい両足を大きく広げてベッドに横たわっていた。豊かに張り詰めた白い乳房は大きく息をするたびに上下に弾んで、その先に誘うように突き出た濃い色の蕾が固く尖って男の欲望を誘っている。
黒柳はその両足の間に屈みこむと、片手を伸ばして女の乳房を乱暴に掴んだ。柔肌に食い込む指先が力を増すと、女は低くくぐもった声を上げる。
「それにアスカを連れ去った…」
「はい、居留区の自分の屋敷に置いて、婚約者だと吹聴しているようです。」
カーテン越しに、女の苦痛に満ちた悲鳴が上がると、側近のひとりである木村賢吾はゾッとして背筋に震えが走った。黒柳が残酷な趣味の持ち主であることは知っている。何度かこんな場面にも出くわしているが、何度体験しても慣れることはなかった。
黒柳は女の白い胸に残る無残な赤い痣を舌先でなぞりながら、歪んだ笑みを浮かべる。
「まあいい…。チャンスはいくらでもある。しっかり見張っておけ。レイのものが届くのにはもうしばらくかかる。それまでは泳がせておけばいい…」
「ロンバートはどうしますか? ロンバートもあのまま放っておくんで…?」
「あの男には金は通用しない。別の手を考える。それより上海からウェイを呼び寄せろ。今すぐにだ。チャンスを見て、いつかウェイにクレファードを始末させる。海の上ならホークとの無用な闘いは避けたいがここは陸だ。陸の上なら条件は同じだからな」
「わかりました。ではそのように…」
賢吾はカーテン越しに恭しくお辞儀をして、黒柳の寝室を後にした。ドアを閉めてホッとひとつ溜息をつく。おそらくあの女は明日まで生きてはいないだろう。
怒りを感じた時の黒柳はことさら残酷だった。女を縛ったまま犯すのはいつものことだが、怒りに駆られた黒柳はもっと残酷なことまでやってのける。ひと月前には、拐かしてきた遊郭の娼妓を行為の最中に絞め殺したのだ。翌日その死体の始末を命じられた時には、生きた心地がしなかったものだ。明日の朝呼び出されるのが、どうか自分でありませんようにと祈るばかりだ。
アレックスは何かがおかしいと感じていた。あの日…午後の書斎の執務室で、もう少しでアスカと愛を交わす寸前だったと思っていたのに、あの日以来微妙にアスカが自分を避けているように感じるのだ。
今までは遠慮しながらでも、アンソニーの様子を尋ねてきたアスカが、今は食事の時でさえアレックスと口をきこうとしない。それどころか、明らかに顔を合わすことを避けている。あの留守をジャマールに預けて出かけた日に何かあったのだろうか?
あの晩、拷問に近い取調べを受けてぐったりしたアンソニーを、領事館の独房から救い出して、アレクサンダー・マレー号に乗せ、無事に宝龍島に送り出して屋敷に戻ってきたのは、もう夜中の1時をまわっていた。翌日の午後、その様子をアスカに話した時も、短い感謝の言葉を発したきり、大して取り乱す様子もなかった。
“何かがおかしい…。”
たった1日で何が彼女の態度を変えさせたのか…? アレックスはそれが知りたかった。
リリアを使ってアスカを呼びにやった時も、頭痛がするという理由で彼女は部屋から出てこなかった。
「どうした? アレックス、やけに落ち着かないな?」
さっきから何度も書斎の絨毯の上を行ったり来たりしているアレックスを見てジャマールは言った。
「何でだ…!? 理由を知っているなら教えてくれ、ジャマール…」
「何を…?」
「アスカのことだ。どうしておれを避けている? オレがわからないとでも思っているのか? あれから彼女はオレと顔を合わせようとしない。何故だ?」
アレックスはジャマールに噛み付いた。ジャマールなら何か知っているのかもしれない。そんな気がしたのだ。
「いや…。きっとアンソニーがいなくなって不安を感じているんじゃないのか?
ジャマールは平然と言った。このところアレックスは酷く機嫌が悪い。それがアスカのせいであるのは一目瞭然だが、そう仕向けたのはジャマールだった。強制こそしなかったが、アスカはジャマールの言いつけを守って、ひたすらアレックスを遠ざけている。
本当にこれで良かったのか、ジャマールにも確信はなかった。本気でアレックスがアスカを欲しいと思えば、きっと躊躇しないはずだし、それでもアレックスが礼儀正しく保っているのは、もしかしたらアレックス自身気づいていないだけで、案外物事はもっと深刻なのかもしれない…。それならば次の手を打つまでだ。
ジャマールは、難しい顔をしてじっと窓の外を眺める親友の厳しい横顔を見つめた。
アスカは何があっても部屋を出ないと決めていた。
“とりあえずアンソニーの危機は去ったわけだし、今頃は大陸の孤島できっと献身的な看病を受けているはずだ。もうしばらくはアンソニーに出来ることは何もないはずで、だったらあとはわたしが何かしなければ…。でもこの屋敷に囚われたままで、いったい何が出来るというの…? わたしがここにいるだけでアレックスの脅威になると、ジャマールに言われたばかりじゃないの? だったらどうしてわたしはここに居続ける理由がある…? ”
アスカは自室に閉じ籠ったまま、ずっと自問自答していた。
アレックスと顔を合わせない日がもう1週間以上続いている。このまま時間が過ぎれば、きっといつかあの熱い抱擁もただの幻になってしまうのではないか? という気がしてくる。たぶん、わたしがここから居なくなればきっと黒柳はアレックスのことはそっとしておいてくれるはず…。わたしは女だけれど、自分のことは自分で守れる。
アスカはすぐに貴蝶に手紙を書いた。アレックスのもとを出て自由になりたい。そのために力を貸して欲しいと…。貴蝶ならアスカの気持ちをわかってくれるはずだ。
その手紙をリリアを呼んで託すと、部屋を出てジャマールを探した。午前中にアレックスはどこかに出かけていった。ジャマールも一緒でなければいいのだけれど…。
心配したものの、幸いジャマールは一緒ではなかった。リリアを通じて会いたいと申し入れると、ジャマールはあっさりと承諾してアスカをアレックスの書斎へと招きいれた。
「わたしに話があるそうだね?」
「ええ、あなたに頼みたいことがあって…」
アスカは部屋の入り口に立ったまま、じっとジャマールの表情を見つめた。その目根ざしには何の感情も感じられなかった。ただいつもの探るような鋭い光があるだけだ。
「わたし…ここを出て行こうと思うの…。あなたの言うとおり、ここに居続ければ、いつかアレックスを傷つけることになるでしょう…」
「わたしの意見を受け入れると…?」
「ええ、彼はもう十分にしてくれたわ。これ以上は迷惑をかけられない…。わたしはもといた場所に戻るわ。アレックスは知らなくても、あなたはわたしが日本で暮らしていた頃、何をしていたか、御存知でしょう?」
アスカは真っ直ぐジャマールを見つめた。彼の表情に一瞬戸惑いの色が浮かんだあと、小さくうなずいた。
“やっぱりそうだった。ジャマールは、アスカが昔…娼館にいたことを知っている。”
当然彼なら、アスカの素性を調べようとするだろう。ジャマールにとって、アレックスに脅威を与えるものはみんな敵なのだ。
「では話が早いわ。わたしは自分の生き方に誇りを持っている。生まれにも何も恥じてはいないから…。だからもとの世界に戻りたいの。今のわたしは、ある意味わたしじゃない…。あなたならわかってくれると思っているんだけど…」
「ああ…」
ジャマールの探るような瞳に真っ向から見つめられて…アスカは竦みそうになる心を奮い立たせる。
“ここで負けてはダメ…! わたしはジャマールに言われたからではなく、自分の意志で出て行くのよ…! 絶対にうつむいたりしない…!”
「お願いよ、わたしをあるところまで送っていって欲しいの。今すぐ…」
凛とした声で、ジャマールの目を見つめたまま…顎を前にツン…!と突き出した。
ジャマールは目の前に立つアスカの顔を瞬きもせずに見つめていた。か細く見えるこの女性の、どこにそんな強さがあるのだろうか? アレックスからアスカを遠ざけようとしたのは自分の方だったが…。今の彼女には天性の強さがある。もしかしたら、自分は何か大きな思い違いをしていたのではないかとさえ思えてくる。
「もちろん、アレックスには言わないで…! 後で伝えてくださる? もうわたしに関わらないでいただきたいと…。望みはそれだけです」
アスカは簡素な街屋敷の…小さな応接間に座っていた。西洋風に設えられた部屋の中は明るく、アスカの胸を焦がす鋭い痛みをほんの少しだけ和らげてくれるような気がしていた。最初待ち合わせに選んだ山の手にあるアレックスの別邸には、すでに貴蝶の用意した迎えが来ていた。ジャマールは約束どおりアスカを別邸まで送り届けると、何も言わずに
帰って行った。
最後に別れるとき、ほんの一瞬だがジャマールの眼差しに浮かぶ賞賛の輝きを見たような気がした。
“これでわたしはもう2度と前と同じ気持ちでアレックスに会うことはなくなったんだわ…”
アレックスだって同じはず。もうフローレンス・メルビルはどこにもいないのだ。たった今からわたしは『陽炎館』の娼妓“あすか”なのだ。
花魁 アスカ
「ごめんなさい。アスカ…待たせてしまって…」
うしろを振り返ると、優しい笑みを浮かべた貴蝶が立っていた。貴蝶はそれ以上何も言わずに、アスカの側に座ってそっとアスカの身体を抱きしめる。
「アスカ、あなたが何を考えているのか、わたしにはわかるわ…。でも聞かせて欲しいの、あなたは本当にそれでいいの? 今ならまだ引き返せるわ…」
どうしてだろう…? 心に染みるような貴蝶の言葉を耳にした途端、あれだけ泣かないと決めていたのに、涙が溢れてとまらなかった。
“いいの…。これでいいんだわ。アレックスの本心を知った今、あそこに居てわたしに何ができるんだろう…? もう誰かに利用されるのはたくさん…!”
「貴蝶姐さん、わたしを太夫にして欲しいの」
「まあ、そんな…。それこそあなた…もう2度と後戻り出来なくなるのよ…!」
「わかっているわ。でもどんなに願っても叶えられないことだってあると思うの。アンソニーの居ない今、黒柳のことは自分で何とかしてみせるわ…」
アスカの強い決意に、ただ貴蝶はアスカの顔をじっと見つめたが、それ以上は何も言わなかった。何も聞きもしないし、アスカを責める言葉もない。黙ってアレックスのもとを出てきてしまったアスカを貴蝶は温かく受け入れてくれた。
「しばらくここにいればいいわ。ここはわたしがひとりになりたい時にやってくるの。ここにいるのは家政婦のマツさんとその御主人だけだから、気を遣うことは何もないから…」
貴蝶が言ったとおり、この屋敷にいるのは管理人として雇われている60絡みの夫婦で、物静かなこの老夫婦は、必要以上に干渉してくることもなかった。
最初は静かなこの環境に満足していたアスカも、時が経つにつれ…アレックスと過ごした時間が思い出されて、時折激しく胸を揺さぶられた。話し相手もいないこの場所では、あのおしゃべりだったリリアの甲高い笑い声が懐かしい。
“思い出してはダメ…! ”
そう自分に言い聞かせながらも、つい心はアレックスのことを想っていた。突然何も告げずにいなくなったアスカをアレックスはどう思っているだろうか…? あのプライドの高い彼のことだ。きっと怒っているだろう…。でもアレックスもアスカを騙していたのだから…。
“これでお互い様だわ…”
アスカは自分を慰めるように、ぽつりとつぶやいた。
貴蝶の家にいる間、アスカは太夫になるためにあらゆることを学んだ。もともとアスカは“引き込みかむろ”といって将来は花魁になるために選ばれた子供として、『陽炎館』に居たのだ。将来花魁になるためには読み書きはもちろん、踊りや歌、その他花魁として恥ずかしくない程度の教養を身につけなければならない。
貴蝶の計らいで小唄や和歌、日本舞踊からお茶やお花に至るまで有名な師範を招いて徹底的に学んだ。
「あの太夫はいずれきっと後々名を残すほどの花魁になりますね? わたしが太鼓判を押しますよ。立ち居振る舞いはもちろんのこと、殿方を狂わせる何か天性の魅力をお持ちですよ…」
師範たちがこぞってそうアスカを賞賛するのを、貴蝶は目を細めて聞いていた。彼らから聞かされるまでもなく、貴蝶にはとうにわかっていた。12年前、初めて貴蝶の前に連れて来られたアスカは、蒼白い頬をしたか細い少女だった。まだ5歳の少女は唇をかみ締めて、悲しみに耐えるようにその手を握り締めていたけれど、決して顔を下に向けようとはしなかった。涙を必死に堪えながら、真っ直ぐ前を見つめるその瞳は水晶を思わせるような澄んだ銀色で、キラキラ輝きながら…まるで銀色の炎がもえているようだった。
この子はいつかきっと素晴らしい太夫になる。その予感は日を追うごとに確信にかわっていく…。黒髪は豊かで絹のような光沢を持ち、肌はなめらかで顔立ちは繊細な美しさがあった。時折見せる笑顔は、彼女が本来持っている知性の輝きもあって、見るものがハッとするほどの魅力を放っていた。
それが、あの日…。
貴蝶が陽炎館に戻ってみると、どこにもアスカの姿はなく…午後から誰もその姿を見ていないという…。お京つきのかむろであるリンの様子がおかしくて、何か知っているのではないかと問い詰めたが、リンは頑として知らないと言い張ったので、それ以上の詮索は出来なかった。人づてに探してもらったけれど、まるで神隠しにあったようにアスカの痕跡を見つけることは出来なかったのである。すっかり気落ちしてしまった貴蝶だったが、浩二郎の慰めもあって、ついにあきらめたのだった。
そしてこの7年の間…なんといろいろ変わってしまったことだろう…。貴蝶は大切な浩二郎を失い…アスカは命の恩人である義理の父親を亡くした。そして運命は再び巡って、7年後のこの横浜でまた貴蝶とアスカをめぐり合わせたのだ。
“この幸運を二度と逃したくない…”
かつてはたった一人の妹…そう本気で思っていたアスカをもう二度と手放すものか…何としても自分の手で守ってやりたい…。貴蝶はそう思っていた。
「ジャマール! これはおまえが仕組んだことか…!? 」
アレックスはかつてないほど怒り狂っていた。2日前、領事館のハリス・ロンバートの元から戻ってみれば屋敷からアスカが消えていた。侍女のリリアも執事のメイスンも知らないという。
誘拐もありうるとアレックスが思い始めた頃、ジャマールが自分がアスカを別邸に送って行ったことを認めた。
「そうじゃない…。アスカにあそこまで送って欲しいと頼まれたんだ。いつものように貴蝶に会いに行ったのだと思っていたんだが…」
「ところが、迎えに行ってみると、アスカは居なかったという事か…?」
「ああ…そのとおりだ。そうしたら馬車のシートの上に手紙が置かれていた。君宛だ…」
ジャマールが差し出した短い手紙にサッと目を通して、アレックスは苛立たしげに片手で丸めて後ろに放り投げた。
「ふざけるな! 親切をありがとうだと…!? 親切…親切か…!」
テーブルの上のワイングラスを取って一気に煽ると、振り向きざまにグラスを暖炉の中に放り込んだ。グラスは音を立てて、暖炉の中に砕け散る。
「落ち着け、アレックス。何も彼女は逃げたわけじゃない。自分の世界に戻ると言ったんだ。わかっているんだろう…?」
ジャマールの言葉にアレックスは、目を閉じて固く拳を握り締める。
貴蝶が娼婦なのは見てすぐわかった。その彼女と知り合いだとわかったときから気にはなっていた。こうなったのは、それをわざと見てみぬ振りをしてきたその結果だとわかっているが、アレックス自身納得出来ない。
「何故だ…!? 」
「何故だと思うなら、自分の心に聞いてみるといい…。君は何と言った? 彼女を一度でも愛していると言ったか? 彼女に惹かれるのはただの欲望だとわたしに宣言した。それを聞けばどんな女でも逃げ出すさ…」
「聞いて…いたのか…?」
アレックスは振り返ってジャマールを見た。
「ああ…アンソニーを送り出した晩、ドアが開いていたことにわたしも気が付かなかった。そこに彼女が立っていたことにも…。衣擦れの音がして初めてそこに誰かがいたことに気付いたんだが…。次の日、ここに来て…自分を貴蝶のところへ送って欲しいと言われた時、気付いたよ。聞かれたんじゃないかとね…?」
「なんてことだ…。で、おまえは止めなかったんだな?」
「止める理由がどこにある? 正直に言えば、彼女の存在は君にとっては脅威だったからな…」
「脅威…? ホークと呼ばれたオレがひとりの女を恐れると言うのか?」
「脅威にもいろいろあるさ…。前にも言ったが、今は女にかまけている場合じゃない。本来の目的を忘れないでもらいたいね…」
「わかっているさ、クソ…!」
アレックスは悪態をついて、さらに書斎のデスクを拳で叩く。
“わかりすぎるほどわかっている…。オレは黒柳から女王のティアラを取り戻すためにここにいる。そのためなら何でも利用する。それがホーク…だ。アスカがその気ならこちらもそれなりのやり方でいく。オレはオレのやり方で、彼女を自分のものにして見せようじゃないか…”
アレックスはそう心に決めた。
新しい月に入って、いよいよアスカのお披露目の日が決まった。貴蝶の家を出て、7年ぶりに『陽炎館』のある横浜港崎町の廓街(遊郭一帯)の大門をくぐる時には思わず足が震えた。あの早春の寒い日の朝…不安に駆られながらこの門を見上げていたやせっぽちの少女はもういない…。
“わたしは今日から娼妓として生きる…。たとえそれがまやかしの人生でも、もう後戻りはできないのだから…”
人力車の隣に座る貴蝶がアスカの手を励ますようにギュッと握った。貴蝶には今までのメルビルの経緯からアレックスのことまで、包み隠さずすべてを話してある。
本当ならアスカは、今の『陽炎』には何の借りもない。店のために身体を売る必要は何もないのだが、それでも娼妓としてこの廓に身を置く理由を貴蝶だけが知っている。
そしてこの『陽炎館』に一歩足を踏み入れた時から、アスカはもう太夫なのだ。
店の前には出迎えの若い衆や下番、好奇心一杯の若い見習い太夫たちが並んでいた。車が止まると、若い衆の一人が飛び出して来て貴蝶が降りるのを手伝った。次にアスカの方に向き直って、手を差し出した。
その手を借りて、アスカはピンと背筋を伸ばして車から降り立った。美しく豊かな黒髪は、見事な『伊達兵庫』に結い上げて…無数の長いべっ甲のかんざしと櫛で飾られ、華やかな化粧を施した顔立ちは、見るものすべての心を揺さぶる妖しい美しさがある。豪華な錦で織られた衣装を身に着けて、優雅に歩く姿はどこから見ても日本一の“花魁”だった。
店の入り口まで来て、節目がちだった黒く長い睫毛の間から水晶のような銀色の瞳が現れると、その場に居た者たちから小さなどよめきが起こる。並んでいる太夫たちの表情は様々だった。賞賛の眼差しを浮かべつつうっとりと眺める者、困惑の表情で不安そうに見つめている者。でも皆一様に、この若く美しい花魁を驚きの表情で迎えていた。
『陽炎館』はお万が女将の座を退いて以来、いわゆる商家でいうところの男の主人は置いていない。かといって妓楼内の規律が乱れるわけでもなく、大番頭の京左エ門が以前と変わりなく難なくまとめているせいである。
京左エ門は、アスカが衣擦れの音とともに静々と奥の間に入っていくと、惚れ惚れと眺めながら白いものが混じった顎鬚を満足そうに撫でた。
「これは美しい…。これほどの花魁は吉原にもいないでしょう。お目見得の日にはきっと大変なことになるでしょうな…? 」
優雅に目の前を進んでいくアスカの姿を目で追いながら、満足そうにうなづく。
「そうね…でもアスカは特別な子だから、当たり前には店に出せないわ。最初は岩倉卿の園遊会を予定しているの…」
アスカは自分付きのかむろという見習いの少女に案内されて広い階段を上がり、大畳の宴会場のある二階のフロアーのその又さらに奥にある続き間の部屋に入った。ここはこの妓楼の中でも一番の花魁に与えられる名誉ある部屋で、かつては花形太夫だった貴蝶が使っていた部屋である。
今は洋間に造り変えられて、広く落ち着いた雰囲気のリビングにはヨーロッパ風の凝った装飾の家具が置かれている。その続き部屋のベッドルームには、豪華な4本柱の天蓋付きのキングサイズのベッドがあった。そしてベッドルームに続くもう一方の扉の向こう側には、化粧室とトイレ、四足の付いたバスタブが置かれていた。
何もかもが美しく整えられていて、7年前の『陽炎館』にはなかったものだ。
もともと横浜には遊郭はなかったのだが、1858年に日米通商条約が締結されてから、
ヨーロッパ各国との条約が次々と結ばれ…横浜が主要な交易の場になると、様々な外国人が横浜を訪れるようになり、それに合わせるように色町が出来て、今のような華やかな遊郭が形成された。
横浜遊郭は、かつての江戸吉原ほどの華やかさはないにしても、外国から入ってくる異国文化の影響を受けて、一種独特の雰囲気を持っている。集まってくる客の中にも外国人の姿も多かった。
「外国の方も多いのね? どこの国の方が多いのかしら…?」
「米国と英国の方が多いです。小梅姐さんのお客様のモーリス様は
英国の商人だそうですよ」
部屋に落ち着いて、重たい内掛けを脱ぐと、アスカは可愛らしいかむろの朧月(おぼろづき)に微笑んだ。ここがあの『陽炎館』だと思うと、複雑な思いがあるけれど、あの頃の『陽炎館』とは雲泥の差がある。
そこにいる女達に以前のような悲哀の表情はなかった。彼女達の表情は明るく、活き活きとして、楽しげだ。それは女将である貴蝶の采配によるものだが、貴蝶は力で押さえつける代わりに、そこそこ地位のある太夫にはある程度の権限と自由を与えた。それを守り努力することで報酬も与えた。
身体を壊した者達も今までのように捨てられたり、親元に送り返したりせずに、しっかりとした癒しの場を与えて養生させた。そのおかげで病に苦しむ女はほとんどいなくなったと言っていい…。アスカは鏡に映る自分の姿に微笑んだ。
“いよいよ、わたしの娼妓としての生活が始まるんだわ…。たぶん、いつかはアレックスと顔を合わせるときが来るだろう…。その時に絶対にうろたえたりしないようにしよう。アレックスは決してわたしを許さないだろうから…わたしも、決して簡単には彼を許さない…。”
アスカが居なくなって6週間…。屋敷の中はやっと前の落ち着きを取り戻しつつあった。
それでもアレックスの心の中は、相変わらず激しい嵐が吹き荒れていた。表面上は前と変わらず任務に忠実に動いているが、内心では今にも爆発しそうな危うさを持て余していた。
「アレックス、たった今港の沖に船が戻ってきた。きっと何か情報を持って来たに違いないんだ…」
いつものジャマールよりは少し興奮気味の声で港を指差して言った。6週間前、アレクサンダー・マレー号はアンソニーとハリス・ロンバートの家族を宝龍島まで送って行った。その直後にアスカは居なくなったのだ。
“もうあれから6週間も経ったのか…? あらためて自分の無力さを思い知らされる。すべてが思い通りに進んでいると思っていた。アスカのことも、最初は確かに自分の利用できる持ち駒のひとつくらいにしか思っていなかった。それがいつ自分の中で核心といえるものに変わったのか? ”。
どこからどこまでが真実なのか、自分でもわからなくなっている。ただ時間だけがアレックスの心をほんの少しだけ癒してくれた。
“今は少しは冷静で居られる。だが本音では今でも彼女が欲しい…。その切望は増すばかりだ。ジャマールの前では冷静を装っているが、くそっ…! たぶん、彼女を前にしたら、自分がどうなってしまうのか、まったく予測が出来ない…。彼女がどこにいるのかはわかっている。いずれはアレックスの前に現れるだろう…。きっと前のアスカとは別人として…。”
「黒柳の動向は? ティアラは見つかったか…?」
「ティアラはまだ見つからない…。たぶん、中国大陸のどこかに隠されているのかもしれない…。奴が何のために女王のティアラを欲しがっているのか、それがわからない。だがいつか必ず日本に持ち込もうとするはずだ。近いうちに…」
「ふ…む…。それまでは何も動けないということか…」
“こっちの方も八方塞がりか…。”
思わず小さく舌打ちする。
アレックスは領事館の外交ルートだけでなく、あらゆる方面から黒柳の行動を探ろうとしていた。彼が貧しい小作人からのし上がって今の地位を手に入れたことは周知の事実だが、その陰で表だっては言えないようなことまでやってきたに違いない。それを暴いて黒柳の社会的生命を奪ってやるつもりだった。
「アレックス、さっき岩倉卿から手紙が届いた。一緒に貴蝶の手紙もある。」
ジャマールは胸のうちポケットから一通の白い封筒を取り出して、アレックスに差し出した。
岩倉卿はいつかアスカが貴蝶と再会した時に、貴蝶が一緒に居た人物だ。岩倉正吾は、10代から20代を海外で過ごし、7年前に帰国して以来海外諸国と日本とをつなぐ大事なパイプ役を果たしていた。あの日以来密かにアレックスは、貴蝶を通じて岩倉と蜜に連絡を取り合っていた。岩倉もアレックス同様、黒柳の動向を探っていたのである。
アレックスは封筒を開いてさっと岩倉の手紙を読む。岩倉の手紙の中には、この1週間の間に黒柳の元に出入りしている役人や政治家、商人などの名前が記載されていた。
「岩倉の持っているコネクションは大したものだ。ここに名前がある連中を徹底的に調べれば、案外簡単に綻びは見つかるかもしれないな…」
「ああ…そのとおりだ。すぐに人をやって調べさせよう…」
ジャマールがそう言って部屋を出ようとすると、アレックスが呼び止めた。
「待ってくれ、ジャマール。その前におまえにやって欲しいことがある。ひとつ買い物をしてきて欲しい…」
アレックスは窓際を向いてジャマールに背を向けながら、もうひとつの手紙も封筒の中に戻した。
「買い物…? 武器か…? それとも船を1艘買ってくるか…?」
「買って来て欲しいのは…女だ…」
「女…?」
ジャマールの片方の眉が上がる。訝しげにアレックスを見て言った。
「で…いくらだ…?」
「1200両…。即金で…」
アレックスは振り返ってジャマールの目を見る。大して驚いた風でもないのは、アレックスの言葉が何を意図しているのかわかっているのだろう。
「船の積荷1艘分じゃないか? しかし、それだけの金を両替するとなると、君のあのお堅い総領事殿の許可がいるが、どうする…? 」
「大したことじゃない。ハリスはオレに借りがあるからな…」
「わかった。そういうことならば…」
それだけ言って出て行こうとするジャマールの腕をアレックスは掴んだ。
「聞かないのか? オレはただ女を買って来て欲しいとしか言わなかったんだぞ…」
「君がそんな大金を積んでまで欲しがる女は、世界広しと言えどもひとりだけだ。それをわたしがわからないとでも…?」
「いや…。ただおまえはそれを止めないのかと思って…。前におまえはオレを彼女から引き離そうとした…」
アレックスの表情が曇る。それを見てジャマールは思わず微笑んだ。
「ああ確かに…。だが最近のわたしは、あの時何か思い違いをしていたのではないかと思っていたところだ。アスカは強い。君の怒りを買うとわかっていながら君の元を出て、しかも自分から黒柳を罠にかけるために娼婦になった。その勇気は賞賛に値すると思わないか…?」
「ジャマール…」
任せておけ…と言うようにジャマールは、アレックスの方を叩いて部屋を出て行った。
貴蝶はアレックスに、“1週間後に行われる岩倉邸での月見の席で、“新しい花魁”の初見せを行うので是非来て欲しい…“ と手紙に書いてよこした。
その裏席で最も高値をつけた客が、その夜の花魁を自由にすることが出来ると…。そしてさらに貴蝶は書いていた。
“お望みならば、その場で身請けも賜りまする…もしあなた様にまだお気持ちがおありなら…”と…。この謎賭けの答えはひとつしかない。アスカを遊女として買い取れと貴蝶は言っているのだ。
身請けされた遊女は、買い手と囲い主…つまりは娼館の主人との売買契約に則って引き渡されるが、引き渡された後は買い手である貰い主の支配下に入ることになる。
“あのアスカを手元に引き取って手なずけるのは、何とも楽しい作業になりそうだ…”
アレックスはひとり心の中でほくそ笑む。だがきっとアスカはそのことを知らない…。あの小悪魔をとうやって大人しい天使に変えるか…。その時が今は待ち遠しい…。
化粧部屋で髪結いに髪を結ってもらっている間、アスカはかむろのおぼろ月の楽しいおしゃべりにじっと耳を傾けていた。
“いよいよ今夜なのね…?”
今夜アスカは花魁となり、花柳界の女になる。そう思うと胃の辺りがギュッと絞ったように痛くなる。
“怖がってはダメ…これからはあの黒柳と対面する場面もあるだろう。黒柳はわたしを欲しがっている。でもそう簡単に手に入れられないことを思い知らせてやらなければ…”
「アスカ、少し話があるのだけれど…」
ほとんど髪が結いあがった頃に不意に貴蝶が現れた。気を利かせた髪結いとおぼろ月が出て行くと、貴蝶はアスカの正面を向いて座った。
「アスカ…」
いつになく真剣な表情の貴蝶に、アスカはいつもと違う何かを感じた。
「アスカ…今夜あなたは、この『陽炎』の花魁として初めての舞台に立つけれど、覚えておいてほしいの。もちろんこれはあなた自身が望んだことだったけれど、あなたは買われてこの店に来たわけじゃないわ。店には何の義理もないし…本当なら何の制約もないわ。でもこの世界にはこの世界の決まりがあるの…」
「ええ…」
アスカも貴蝶の顔を真っ直ぐみつめながら頷いた。それは最初からわかっていたことだ。店に義理はないとしても、花魁である以上客から望まれれば、それに応えなければならない…。相手を選べるとしても、女将の貴蝶を信じている以上アスカはすべての権限を貴蝶に委ねるつもりでいた。
「あなたを花魁として初見せする以上、わたしも女将として店の信用もあるから、岩倉卿の力も借りてそれなりのお客様を選んでいるの。わたしに任せてくれるかしら…?」
「ええ…姐さんに任せるわ」
アスカはそう言って微笑んだ。貴蝶は『陽炎館』の女将になったが、自分の私欲を肥やす代わりに、私財を投じてあの大火で親を亡くした子供達のために孤児院を作った。そうすれば親を亡くしたり、貧しさのせいで生きていくために子供達が身売りしなくてすむ。
そんな優しい心を持った貴蝶が選ぶ相手なら、アスカは喜んで従うつもりだった。
“ダメ、ダメ…。思い出してはダメよ。彼の優しいキスも…あのしなやかな指先がかきたてる快感に身を震わせたことも…。”
時間が経てばきっと忘れられると思っていた。それが今では忘れるどころか、どんどん強くなっている。
“わたしはいったいどうしてしまったの…?”花魁として初めての舞台に立つというその時に、あの憎らしい悪魔のことを思っても仕方がない…。わたしはもう彼のフィアンセではないのだから…。それにどのみちわたしのような女は、彼の妻にはなれないもの…。きっとアレックスだって今頃は他の誰かを追いかけているに違いないわ…。“
いろいろな想いが交錯する中で戸惑いもあったけれど…綺麗に身支度を整える頃には、アスカの心もすっかり落ち着いていた。今夜の同行を許された太夫たちを従えて、何台かの人力に分乗して『陽炎館』を後にする。
岩倉の別邸がある山の手の閑静な邸宅の立ち並ぶ辺りに差し掛かると、街のあちこちには小さな提灯が灯り始める。明日香たち娼妓たちは、屋敷に招かれた客人たちとは別の入口から入って、いったんは用意された控え室に収まったものの、すぐに中庭に造られた舞台で披露する踊りの準備に入った。
武家造りといわれる独特な屋敷の最奥にある控えの間に向かう途中、アスカはふと…向
かいの廊下の奥の…柱の陰にジャマールの姿を見たような気がして、思わず足を止めた。
“まさか…? ジャマールがいるということは、アレックスもここにいるということだ…。でも、本当に…? もう一度目を凝らしてみるが、もうそこには誰の姿も無かった。
“目の錯覚だろうか…?”
「姐さん…?」
付き添いでやって来たおぼろ月が声を掛ける。
「ああ…何でもないの…。さあ、参りましょう…」
アスカは優雅に重ねた錦の内掛けを揺らして、総檜造りの渡り廊下をゆっくり進んでいった。
岩倉の別邸は、その昔幕府の大名の宿泊所になっていただけあって、見事な造りで出来ていた。広い敷地の周りは高い頑丈な塀で囲まれており、門構えも立派で…屋敷内に設えられた庭園もそれは見事だった。
今夜はその広大な庭園のあちこちに置かれた石灯篭に蝋燭が灯され、メインの舞台の四隅には大きな篝火が燃えていた。客席は中庭の舞台を見下ろすように屋内の座敷の中に設けられ、赤い絨毯の上に豪華な装飾のテーブルとイスが並んでいた。
メインのテーブルにはすでに食前酒が振舞われ、多くの料理が運び込まれていた。その中央のメインテーブルにアレックスは座っていた。隣には英国総領事である又従兄のハリス・ロンバートがいる。
右側に座っている岩倉に気を遣いながらアレックスは、他のテーブルの客達の顔ぶれを見回した。各国の大使や重要な地位の役人、承認に至るまで満遍なく招待されている。
その中には、先日岩倉が手紙に書いてよこした“疑惑の人物”の姿もある。自分の目で見て判断せよということか…? 向いの席から盛んに話してくるフランス人を適当にあしらいながら、眼はある一点にすえられたまま動かない。
二つテーブルを挟んだその先に“その人物”はいた。日本人の高官二人をまるで従えるように座っている人物…それこそ“疑惑の張本人” 黒柳だった…。ゆったりと落ち着いた様子で寛いでいるが、放つオーラは特別なものがある。
アレックスはあらかじめ岩倉から、今夜の宴に黒柳が来ることを聞かされていたから、別にその姿を見ても驚きはしなかったが、黒柳の方でもアレックスの姿に気付いているはずである。時折盗み見るように目を細めて…こちらを伺う黒柳の視線を感じていた。
今夜…これから起こる出来事を黒柳はどう受け取るか…? これは、ある意味真っ向から黒柳に決闘を挑むようなものだ。好むと好まざるに関わらず、アスカは自分から闘いのステージへと上がってしまった…。
黒柳が彼女を欲していることをアレックスは知っている。知っていて…アレックスは絶対に渡すつもりはなかった。自分以外の誰にも…。
“今夜アスカは花魁として舞台に立ち…そこにいる男たちに競わせ、自分を競り落とさせる。名のある娼婦とはそういうものだが…。それがアスカなら…何でアスカなんだ…!?”」
突然、怒りにも似た感情が込み上げて、アレックスはテーブルの下で拳を握り締めた。アスカさえあの時出て行かなければ…あのまま屋敷で彼女を守れるはずだった。
だがアスカは自分から出て行った。何故だ…? 自ら危険な道を選んだのだ。黒柳を自分から近づける方法を選ぶとは…。
“だがおれは絶対に彼女の思い通りにはさせない…!”
各テーブルでフランス料理が供される間、中庭では弦楽器の演奏が絶えず穏やかな調べを奏でていた。やがて食事も終わって、客人の席が中庭の反対側に移り、ワインやブランデーが振舞われる頃になると、中庭の松の間から見事な満月が現れた。
それを待っていたかのように、渡り廊下の奥から艶やかな衣装を身にまとった太夫たちが、次々に現れて、客人たちを驚かせた。『陽炎館』の女将、貴蝶がなかでも選りすぐった太夫たちだ。甲乙付けがたいほどみな美しい…。彼女たちは嬉々として客席に侍りながら…にこやかに愛敬を振りまき始めた。
気が付くと隣に貴蝶がいて、微笑みながらアレックスに小声で囁いた。
「じきにアスカが出てきます。あの子は何も知らないの…。でもそれでいいとわたしは考えます。あの子はあなたに託すのが一番良いと思っているのです。その理由はあなたが一番わかっていらっしゃることでしょう…。あの子の気持ちはあなたと同じ…。でも素直ではないから…。あなたの力であの子に気付かせて欲しいの…自分の本当の心を…」
貴蝶は他の客に気付かれずにアスカをアレックスに託したのだ。そのことはあらかじめ申し入れてあったけれど、アレックスにも確信があったわけではない。ただ貴蝶を信じるしかなかったのだが…。
「アスカ姐さん…!すごいたくさんのお客様です!」
回廊の端まで様子を見に行っていたおぼろ月が、すっかり興奮して戻ってきた。
「みなさん、とても立派な殿方ばかりで、外国人も多くいます。あの…岩倉卿のとなりに座っていらっしゃる方はどなたでしょう…? あんなに美しい殿方は初めて見ました。前に見た西洋の童話に出てくる王子様のようです…」
“アレックスだわ…”
おぼろ月がうっとりするような眼差しで語る王子様のような殿方が、アレックスであることは疑いようもない。アスカ自身、アレックスほど美しい男は見たことがなかった。
流れるように豊かなプラチナブロンドは、うなじの下で緩やかにカールしている。形のいい眉や、真っ直ぐ通った鼻筋…官能的な唇も目を瞑っていても思い描くことが出来るほど、アスカの脳裏にはっきりと焼きついている。
“そしてあの目…。ホーク…鷹のように鋭く相手を射竦める目が、時には信じられないほど優しくなることもわたしは知っている…。これから…あのアレックスの前に立たなければならない…。花魁のわたしは、彼にはどんな風に映るのだろうか…? もし彼の目の前で、わたしが今夜彼以外の誰かに身を任せなければならないとしたら…? ああ…わたしはそんなことに堪えられるだろうか…?”
アスカは覚悟していたけれど、実際には簡単ではなかった。それに気付いた時、嫌でもアスカは自分の気持ちに気付かされた。
“わたしはアレックスを愛している…。どうしようもなく…!”
「姐さん…?」
そんなアスカの様子をおぼろ月は不思議そうに見つめている。飛鳥は、“大丈夫…”そう言って微笑んでみせる。
“そう…わたしは大丈夫…。わたしならやれる…。”
自分で自分を励まして、アスカは部屋を出て長い廊下へと一歩踏み出した。遠くにお囃子の調べが聞こえる廊下に、アスカの衣擦れの音が響く。頭に挿したかんざしもそうだが、幾重にも重ねた艶やかな衣装は、ずっしりと重かった。
でもそれよりも重いのはアスカの心…。アレックスを愛していると気付いても、もう後戻りできないという現実がある…。
回廊の端…。明るく照らされた、ステージとなる舞台に続く渡り廊下の端まで来た時、賑やかな太鼓や鼓の音が聞こえてきた。すでにステージの上では数人の太夫たちが華やかな演舞を舞っていた。アスカよりはずっと年配の太夫たちだ。
渡り廊下の端にアスカの姿が現れると、太夫たちはさっと踊りをやめてステージの端に座ってアスカを待つ…。音楽も琴を使った穏やかなものに変わった。煌びやかな花魁姿のアスカが、明るい篝火の中に浮かび上がった瞬間、客席から大きなどよめきが起こる。
アスカはその視線を全身に受けながら…しずしずとステージの中央に移動してその場に座り、他の太夫たちと一緒に客席に向かって深々とお辞儀をした。
女将である貴蝶の声が響く…。
「新しい『陽炎』の花魁…“アスカ”でございます…。お見知り置きを…」
するとまた賑やかな音楽が鳴り始め…アスカは立ち上がって周りにいる太夫に助けられて身に着けている打掛を脱いで渡すと、帯の間から扇を取り出して音楽に合わせて舞い始めた。
その姿をアレックスは瞬きも忘れて見つめていた。29年間生きてきて、初めて感じる衝撃だった。海の上で海賊と遭遇した時でさえ、これほどのショックを受けたことはない。
“これがあのアスカか…? まるで別人を見るようだが、同時に押さえがたいほどの欲望も感じる。もはやアスカは、本当に娼婦になってしまったのだろうか…? いや、それは考えるのはやめよう。今は、今だ…。今、手に入れられるものがすべてだ…。
アレックス自身も、否応なくアスカに惹き付けられていく自分を感じていた。どんなにあがいてもあの銀色の炎からは逃れようもなかった…。
踊りによる初披露も無事に終わって、飛鳥は貴蝶とともにテーブルの端からその場にいる客達に挨拶していく…。途中アスカは、客の中に黒柳がいることに気が付いて…一瞬表情が強ばったものの、気丈にも意志を奮い立たせると…まっすぐ黒柳に向けて微笑んでみせる。
「これは驚きましたね…? こんなところでお会いするとは思いませんでした…」
黒柳は、さも以外だったと言いたげに肩を竦めてみせるが、その眼は笑っていない。
「今夜のお相手はもう決まっていらっしゃるのかな? でもちかいうちに是非お相手していただきたいものだ…」
「どうぞ、御ひいきに…」
アスカはそれだけ言って次の客席に移ったが、離れた途端…膝が震えるのを感じた。黒柳が持つ何かがアスカを怯えさせる。得体の知れない何かがそこにはあった。
各テーブルへの挨拶回りも、だんだん主賓客のテーブルが近づくに連れてアスカの緊張も増してきた。だんだん呼吸が速くなる…。この屋敷の主で今夜の会の主催でもある岩倉の隣に座っているのがアレックスなのだ。さっきからずっと身じろぎもせず、アスカを見つめている。それをひしひしと肌で感じて…アスカは対面するその時が怖かった。
アレックスはきっと怒っているに違いない。こんな人前で怒りを爆発させるような真似はしないとわかっていても、ただでは済まないことぐらいはわかる。
今夜のアレックスは寸分の隙もないほど完璧に見えた。上質なカシミアのディナー・ジャケットに白のシルクシャツ、刺繍の入ったパールグレイのベストを身につけ、首に巻いたクラバットも個性的だった。細い腰を強調するようなズボンのシルエットは、とてもセクシーで、今夜のアレックスはいつにも増してゴージャスだ。
客席に侍るほかの太夫たちも、チラチラとアレックスを覗き見ている。
“ああ…神さま…どうかわたしに勇気を下さい…”
アスカは最大限の勇気を振り絞ると、初めて会うような素振りを装って最初に岩倉卿に…そして次にアレックスに会釈をして、貴蝶の隣の席に着こうとするところを、アレックスがサッと立って自分の隣にエスコートした。
逆らう間もなく、アレックスとハリスの間に座らされたアスカは、うつむきがちに隣のアレックスの表情を見た。
大して動揺する風でもなく…平然と前方を見つめて何を考えているのか読めない。わざと視線をこちらに向けないようにしているのかもしれないが、ハリスに呼ばれて振り向いた時、一瞬その目に浮かんでいたのはあからさまな欲望だった。
時々右側にいるハリスからあれこれ話しかけられて…アスカは半分気のない返事を繰り返しながら…意識はアレックスに集中していた。
きっと今彼に何か囁かれたら…アスカは気を失っていたかも知れない…。さっきいから鼓動は引っ切り無しに激しく打ち続け、呼吸はどんどん速くなる…。
やがて…舞台で行われていた能楽も終わり、客達が主人にそれぞれ挨拶をするために席を立って移動する頃になると、アスカたち太夫もそれぞれ客を見送るために出口へと移動して行く。黒柳の視線も気になるが、それよりも…アレックスの側を離れたことにホッとしていた。そして帰りの客の…その列の中にアレックスがいることにも気が付かなかった。
目の前をハリスと並んで歩いていたアレックスが、ちょうど通り過ぎようとした時、不意に身を屈めてアスカの耳元で囁いた。
“あとで訪ねていく”と…。
「さっきあの美しい花魁に何を囁いたのかな…?」
帰りの馬車を待つ間に、ハリスが訳ありげに尋ねた。
「いや…今夜のお相手をお願いしただけだ…」
アレックスはぶっきらぼうに答えた。このお堅い又従兄に遊女との艶っぽい駆け引きについて語ったところで大して面白くもないが、この男にしては珍しく、さっきさかんにアスカに話しかけていたところをみると、彼もアスカの魅力には叶わなかったらしい。
「ほう…? 独り身の君が羨ましいよ。ボクの分まで愉しんでくれたまえ」
「ああ…もちろん…」
言われなくても愉しむつもりだ。そう心の中でつぶやいたが、ハリスはアレックスとアスカのいきさつを知らない。
“こんな形での再会にはなったけれど、アスカは最初からおれのものだった。クソ…!”
アスカが目の前に現れた時からとっくに自制心は失われていたのだ。まわりに誰もいなければ、すぐにでもアスカの手を引っ張ってこの場から連れ出していたところだ。
ハリスを先に見送ったアレックスは、小さく口籠りながら…こんな状況になったことを呪った。
「おや…ずいぶんと機嫌が悪い様子だが、お目当てのものは手に入らなかったのかね?」
いつの間に側にやって来たのか、黒柳が背の高い側近を従えて立っていた。口元には笑みを浮かべているが、高い頬骨と抜け目のなさそうな鋭い眼光が容赦なくアレックスに向けられている。
背後に立つ男はさらに危険なオーラを放ち、その男がただの側近でないことは、アレックスには一目でわかった。
「いえ、もちろん手に入れましたよ。万事抜かりなく…。あなたの方はどうなのでしょう…? ずいぶん珍しいものを探していらっしゃるとか…?」
一瞬黒柳の眉が上がる。ティアラのことを引っ掛けてみたのだが、どうやら効果はあったらしい…。
「わたしの方もまあ、まあといったところでしょうか。ただ欲しいもうひとつの方はもう少し我慢しなければならないようだが…。そのうち手に入れますよ。必ずね…」
黒柳は謎賭けのように意味深な言葉を吐いたあと、その場を去って行った。
“ティアラはもうしばらく手元に来るまで時間が掛かるという意味か…? それにアスカのことも、今はアレックスに渡しても…じきに自分が取り戻すということなのだろうか…? 黒柳め…! 今に正体を掴んでやる! 絶対にアスカを渡すものか…!!”
黒柳に対して、めらめらと怒りが込み上げてくる。 黒柳自身がアレックスに対して、かなりの敵対心を持っているのは知っていたが、今夜のアスカがそれをさらに煽ったことは確かなようだ。
「知っているか…? さっき黒柳が連れていた男…香港では一番と言われている凄腕の殺し屋だ…」
後ろからジャマールが囁いた。さっきの経緯を見ていたのだろう。ジャマールの声は何時になく殺気じみている。
「ああ…そうだろう。これでいよいよストーリーは大詰めといったところか…?」
アレックスがすこし皮肉めいた言葉を吐くと、すぐさま厳しい言葉でジャマールが言い放つ。
「気をつけろ…。奴は請け負った仕事は完璧にこなすという評判だ。奴の次のターゲットが君なら…」
「ああ、それは間違いないだろうな…。だが心配するな、次も完璧にいくとは限らない。オレの側におまえがいるうちは…」
アレックスは笑いながら、隣の背の高い異教徒を振り返る。確かに誰かに命を狙われるという経験はありがたくないが、何もこれは今に限ったことはない。
カリブ海でも賞金稼ぎのならず者に何度も追いかけられたし、ロンドンでも逆恨みから暴漢に襲われることも珍しくなかったはずだ。その度に影の様に寄り添うジャマールに命を救われてきたのだ。今回も何も恐れてはいなかった。
「今までは今までだ…。前は君の周りには女の影はなかった。」
「何が言いたい…?」
「アスカのことで、君の判断が鈍らないことを祈るばかりだ。彼女を助けようとして…君自身が自分の命を危険にさらすようなことが起きないとも限らない。それを心配しているんだ」
「ああ…わかっている。確かに…彼女はオレの中に潜む狂気のようなものだが、それ以上でもそれ以下でもないんだ」
アレックスは冷静に自分の心の中を見ようとした。
“確かにおれはアスカを求めているが、それはすべてを犠牲にしてまでも欲しいものなのか…? 自分の命さえも…? ああ…そうかもしれない。最初にあの燃える瞳を見てしまった時から、もう後戻りは出来ないんだ…”
アレックスの瞳の中に宿る何かを感じたのか、それ以上ジャマールは何も言わなかった。黙ってクレファード家の馬車が門の外に着くのを確かめてから、ゆっくりとアレックスを手招きした。
帰りの馬車の中で、黒柳は自分でもこれほど冷静でいられたことに驚いていた。今夜の余興の舞台に、アスカが花魁として現れたのは、まさに晴天のヘキレキだったが…。
純真無垢な穢れない娘が、じつは娼婦だったとは…。それならそれで愉しみは別にあるというものだ。娼婦なら別に処女にこだわる必要もないのだ。最初の計画からは外れることになるが、それもまた仕方がない。処女の血を好む連中には又別の生贄を探してやればいい…。
黒柳が欲しているのは、女王のティアラを戴くに相応しい女だった。美しく気高く…野生のしなやかさを持った女…。
“今はあの忌々しいクレファードにくれてやろう…。だがそれもずっとではない。手元にティアラが届いたら…その時は…”
「クレファードをいつまであのままにしておくので…?」
向いの眼光鋭い男が口を開いた。今日は側近として連れて行ったが、この男は3日前に香港から招いたウェイという殺し屋だった。得体の知れない男だが、金次第でどんな殺しでもやってのける。
「2週間以内に片付けてもらいたい…。やり方はおまえに任せる」
「御意…」
肌が浅黒く、中国人らしいこの男には、額に大きな三日月型の傷跡があった。細い切れ長の目は眼光鋭く、主人を見る時でさえ、不適な表情を隠そうともしていない。残忍そうな大きな唇の端が一瞬歪んで又すぐもとに戻った。
愛そして…忍び寄る影
アスカは貴蝶ととも、に『陽炎館』に戻ったけれど、心はひどく落ち着かなかった。帰りの車の中で貴蝶から、アレックスを今夜の初見世の客として迎えることを聞かされたのである。
「驚くことはないでしょう? もともとあの方はあなたに御執心だったし、今夜いらっしゃった殿方の中でも最高の方ですよ。それにもちろん一番の値を付けてくださったわ…」
貴蝶はいかにも嬉しそうに微笑んでいる。貴蝶にすべてを任せると言ったのはアスカ自身だし、それを疑っていたわけではなかったけれど…。
“本当にアレックスがわたしを買うとは思わなかった。黙って出て行ったことへの復讐をしたいのだろうか? それとも単に欲望のはけ口にしたいだけ…?”
どちらにしてもアスカはアレックスに自分を自由に出来る口実を与えてしまった…。
メルビルの娘なら、この件が片付くまでは決して手出しはしないという、あの約束は有効かもしれないが、娼婦になった今ではそんな戯言は通用しない。
お金で買われた以上、アスカはアレックスの奴隷同然になる。それもベッドの中で何でも意のままになる愛の奴隷に…。
そう思ったら急に恥ずかしさが込み上げてきた。娼婦なら何もかも知っていて当然だとアレックスは思うかもしれない…。実際には、キスさえまともにしたこともないのに…。そう思うだけで、もう身が竦む思いだった。
「姐さん…?」
部屋に戻ると、おぼろ月が不思議そうに飛鳥を見上げている。おぼろ月にしても、目の前の美しい花魁が、今夜男を迎えるのが初めてなんて想像も出来ないだろう…。アスカの戸惑いが理解できないのも無理はない。
「ううん…何でもないのよ。今夜の初見世の宴で、あまりに緊張してしまったものだから、気が抜けてしまったの…」
重い打ち掛を脱いでから、かんざしを外して…豊かな黒髪を梳きながら…アスカは微笑んだ。
「本当に素晴らしい宴でしたね。お客様も素晴らしくて…。今夜姐さんのところにおいでになる殿方はどんな方なのですか? 若い方…? それとも岩倉卿のように落ち着いた方でしょうか?」
若いおぼろ月には興味津々なのだろう。これからやって来る殿方が、少し前におぼろ月がうっとりと眺めていたあのアレックスだと知ったら…彼女はどういう顔をするだろう…?
“アレックスがもうすぐここにやって来る…”
そう思っただけで、胃のあたりがギュッと締め付けられるような感覚になる。でもその反面、どうしようもなく待ち焦がれている自分にも気付いていた。心の奥が甘く疼いて…キスを待つ唇は自然と開く…。鏡に中の自分の瞳が濡れたように輝くのを…アスカは不思議な気持ちで眺めていた。
すると…階下がにわかにざわざわと騒がしくなってきた。岩倉邸で太夫たちを見初めた最初の客が到着したのかも知れない…。
“ああ…神さま…”
初めてくぐる遊郭を仕切る大門を、アレックスは不思議な気持ちで見上げた。この大門は午後12時を過ぎると閉じられ…翌朝6時に開くと言われている。
「12時を過ぎればこの中に閉じ込められるというわけか…。日本の娼館は不便だな…」
アレックスは賑やかに行き交う人々でごった返す通りを見ながらつぶやいた。
「大人しくしていろということさ。ここは君には最も相応しくないね…」
「まさしく…似つかわしくない。アスカにもね…。明日の朝、彼女をここから連れ出す。山の手にある別邸を調えておいてくれないか? 」
「わかった。だがあの屋敷は警備に手薄い。人を増やさないと…」
「ああ…おまえに任せる」
やがて馬車は大きな『陽炎館』という看板のある店の前で止まった。先にジャマールが降り立ち、続いてアレックスが店の前に立つと、廻りを歩いていた人々が足を止めて…この煌びやかな二人組を見つめた。
ひとりは頭に布のターバンを巻いて、エキゾチックな衣装を着た異教徒。もうひとりは金髪、碧眼の西洋人で、二人とも恐ろしく背が高い。
横浜港が開港されてから数10年…様々な外国人が来るようになって異形の人間にも見慣れていても、これだけ整った容貌の外国人を見るのは彼らも初めてだった。
「なんか、サーカスの見世物にでもなったような気分だな…」
ジャマールが眉をひそめて廻りを見渡すと、人々は驚いたように一歩後ろへ下がる。明らかに困惑した表情のジャマールとは対照的に、アレックスはこの状況を愉しんでいる様子だった。
どの娼館もそれほど大差はないとアレックスは思っているのだが、ジャマールはこんな遊郭に足を踏み入れるのも初めてなのだ。
今までは港の娼館から女たちを船に呼ぶだけでよかったが、ここではそうはいかない。日本はまだまだそういう意味では未開の国だ。
「さあ、行こう。時間を無駄にしたくない…」
アレックスは意を決したように、華やかな暖簾をくぐって…店の中に身を乗り入れた。
店の中は、次々とやって来る新客の対応に追われていた。案内役の若い衆は二人の姿を見ると、すぐに奥に取って返して、あらかじめ言われていたのだろう…すぐさま店の奥から貴蝶が出てきた。
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ…」
貴蝶自ら先に立って二人を案内していく。靴を脱ぐ習慣に慣れていないジャマールが少し手間取ったが、難なく二人は階段を通って二階へと進んで行った。階段を上りきると、赤い絨毯を敷いた長い廊下が縦横に伸びている。
貴蝶はある部屋のひとつに二人を案内すると、そこで待つように言ってまた奥へと消えていった。大きなソファーを置いた広い部屋に入って、アレックスはジャマールを振り返った。
「さて、おまえはどうする? 明日の朝、また迎えに来てもいいぞ…?」
「いいや、朝までここで待つ…。あの殺し屋を見た以上、君をひとりには出来ないからな…」
「ではおまえも誰か、太夫に相手を頼むか…? そろそろ例の禁欲の誓いとやらを返上したらどうだ?」
「いや、わたしに女は要らない…。どこか空き部屋を見つけて眠るさ…」
「何とももったいないことを言うやつだ。コンウェイなら泣いて喜ぶところだがな。」
こういう時のジャマールは頑なだ。娼館に来て、女は要らないなどというばか者はジャマールくらいなものだ。アレックスは声を立てて笑った。
「それにしても、ここは騒々しいところだな。こんなところで愛が語られるとは信じられない…」
「ここに愛を持ち込むのは君くらいなものだ。おっと、それも相手がアスカという条件つきか…?」
ジャマールの鋭い突っ込みに思わずアレックスは苦笑する。ジャマールは正しい…。娼婦相手に愛を語るのは、正気の沙汰とは思えない。ジャマールは部屋を仕切っている襖を少し開けて、じっと外の様子を伺っている。どこに行っても用心を怠らないのだ。
「アレックス、言っておくが自分の屋敷以外では飲み物は一切口にするな…。ましてわたしが側にいない時には…」
「わかった。気をつけよう…」
“ジャマールはオレが毒を盛られることを恐れているのか…。まああの男の目を見れば仕方がないか…。あれは獲物を狙う獣の目だ”
アレックスは黒柳の後ろに立っていた不気味な男のことを思い出した。だがすぐそれを頭から追い払う。
“今はアスカだ。彼女のことを考えよう…。いよいよ今夜だ…。”
今夜彼女を自分のものにする。そう思うと、甘美な陶酔感と激しい欲望がわきあがってくる。もうすでに下半身は痛いくらいに張り詰めていた。
「お待たせいたしました。どうぞこちらへ…御案内します…」
やっと、そう言って若い衆のひとりが呼びに来た時には心から安心した。
「姐さん…! いらっしゃいました!」
入口の戸の隙間から廊下を覗いていたおぼろ月が慌てて中に駆け込んできた。アスカの緊張が一気に高まる。
“いよいよ、アレックスが来る…!”
自分の鼓動が頭の中を駆け巡り、体中の血液が熱くたぎっている。震える指先から掴んでいた櫛を鏡の前に置く。化粧台の小さな引き出しを開けて、母の形見の匂い袋を握り締めた。
新客は部屋の入口で出迎えなければならない。飛鳥はおぼろ月と並んで、入口に敷き詰められた毛足の長い絨毯の上に両手をついてかしこまる。
「花魁…お客様のおいでです」
声と同時にスッと開いた扉の陰から…長い足の先が見えた。頭を下げたアスカたちからは、客の表情はわからない。彼は案内役の若い衆に短い礼を言って、ゆっくりと部屋の中に入ってくる。そして再び扉が閉じられるのを待って、アスカたちの前に膝まずいた。
「頭を上げてくれないか…? アスカ…」
低い聞きなれたあのバリトンが心地よく響く。
「いいえ、こうしてお客様をお迎えするのが、わたし達の習わしなので…」
「なら、その客が頼んでいるんだ。頭を上げて、その顔をよく見せてくれないか…?」
そう言われて初めてアスカは、顔を上げてアレックスを見た。さっき岩倉邸で会ったときと同じ格好で、輝くようなオーラを放っている。頬の端がピクピク震えて見えるのは、彼がアスカ同様緊張しているせいだろうか…?
「ああ、それでいい。それと…お嬢ちゃん、君の名前はなんて言うのかな…?」
アレックスはアスカの隣で頬を赤く染めながら、うっとりと彼を見上げている少女に声を掛けた。
「お…おぼろ月といいます…あ…あの、わたしは…あすか姐さん付きのかむろ(花魁付きの見習い)で…」
おぼろ月は緊張のあまりろれつが上手く回らない。それを聞いてアスカが引き継いで言った。
「おぼろ月はわたしの世話をしてくれているの。妹のようなものよ…」
「そうか、では君にもちゃんあいさつしなければ…。よろしく、おぼろ月…これは君にだよ…」
アレックスはそう言って上着の内ポケットから小さな包みを取り出して、おぼろ月の小さな手のひらにのせた。包みの上には一朱銀も置かれている。それを見たおぼろ月の表情が見る見る喜びの表情に変わった。
「ありがとうございます! 旦那さま…! あの…姐さん…?」
おぼろ月は嬉しそうにアスカを見る。飛鳥も微笑んで彼女の手を取ると、もう下がっていい…というようにうなずいてみせる。すると嬉しそうにおぼろ月はもう一度アレックスにお辞儀をして、部屋の外へと飛び出していった。きっと誰かにプレゼントを見せびらかしたいのだろう。まだ10歳の子供なのだ。
おぼろ月が居なくなると…アスカは一気に現実に引き戻された。今ここにアスカは、アレックスと二人きりなのだ。それもアレックスは今夜、アスカの客としてここにいる…。
「こちらへ…」
アスカは緊張と興奮で今にも気を失いそうな自分を励まして、奥の部屋へとアレックスを案内する。大きなリビング風の部屋の中央には大きなソファーが置かれ、壁には西洋絵画、おまけに暖炉まで設えられた、完全に外国人客のための部屋だった。
そして部屋のさらに奥には薄いカーテンで仕切られた。キングサイズのゆったりとしたベッドがある。部屋の天上には最新型のシャンデリアがあって、部屋を明るく照らしていた。
ベッドを見たとたん、アレックスの緊張は一気に高まった。
「アスカ、聞かせてくれないか? これはいったいどういうゲームなんだ…?」
部屋に入るなり、上着とクラバットを外して、ソファーの背に投げかけると、アレックスはアスカを振り返る。
「ゲームですって…? ごらんのとおりよ。ジャマールに聞かなかった? わたしは、わたしの世界に戻ったの。それだけだわ…」
アスカは気丈に応えようとしているが、その肩が小さく震えているのをアレックスは見逃さなかった。
「自分の世界? これがそうなのか? 男に身体を売って生きていくことが君の本当の姿だと言うのか…!?」
アレックスの声がだんだん険しくなっていく。怒りが彼の感情を支配しているのがわかって、アスカの全身は強ばる。
「ボクの元で、ボクの婚約者でいるよりも…?」
「あなたは便宜上の関係だと言ったわ…。本当では無いと…。あなたはわたしの体が欲しかっただけ…そうでしょう…!?」
「だったら、何故あんな約束をしたと思う!? メルビルの容疑が晴れるまでは、君に指一本触れないと約束した…。君を大切にしたかっただけだ。わからないのか…!?」
アレックスはアスカとの距離をグッと詰めて、両手でその肩を掴んだ。櫛で梳かれた長い黒髪は、艶やかに肩先から背中へと流れ…鮮やかな単衣に包まれた細い肩は、アレックスの手の中で小刻みに震えている。
「クソッ…!」
アスカの怯えたような大きな目を見ていると、急に自分のしていることが理不尽に思えてきて…アレックスは掴んでいた手を離した。
不意に支えを失った身体は一瞬ふらついたが、アスカはすぐにイスの背を掴んで自分の身体を支えた。
「まあ、いい…。これが君の望んだことならば、ボクもそれに従うまで…もとより娼婦の扱いなら得意とするところだ。」
アレックスはソファーにゆったりと腰を下ろすと、アスカの方を向き直った。その目を見つめながら、アスカは彼の瞳の中に徐々に欲望が膨れ上がっていくのを感じて…全身が震えた。
“どうあがいても…もう逃れようがないのだわ…。彼はわたしを求めている。わたしも彼が欲しい…。”
離れている間、どんなに否定しても心からアレックスへの想いを消し去ることは出来なかった。
危険な男…堕天使ルシファー…。どんな形容詞を使おうと、アレックスが抗いがたい魅力の持ち主であることには変わりがなかった。
“そしてわたしも…どうしようもなく彼に惹かれている…。どうせわたしは遊女になった女。身を任せたところでどんな罪になるというの…?”
「さあ、脱いで見せてもらおうか…?」
アスカは、そのあと出てきたアレックスの言葉に凍りついた。
「ボクは自分が支払った代価に見合う商品かどうか、確かめる権利がある…」
「あなたは…わたしを商品だと言いたいのね…?」
「違うかい? 君は娼婦になったんだ。買われた以上、ボクには君を自由に出来る権利があるのさ。さあ、見せてもらおう…」
“アレックスは今、ここで裸になって見せろとい言っているんだわ…そして、ひとつ…ひとつ確かめるつもりなのね…? ひどい…こんな残酷なことが…”
アスカは屈辱に唇を噛んだ。膝はガクガクと震え…指先が思うように動かない…。アレックスはアスカに自分から裸になることを強要することで、黙って彼の下を飛び出した罰を与えているつもりなのかもしれない。
“それなら受けて立つまでだ。心と身体は屈しても、決してプライドだけは捨てないようにしよう…”
アスカは真っ直ぐ顔を上げたまま…アレックスの目を見つめながら、ゆっくりと単衣の上に巻かれた帯を解いた。
スルスルという衣擦れの音とともに…帯は頼りなげに足元に落ちる。そこでアスカはアレックスに背を向けて、単衣の襟を緩めながら…少しずつ肩を滑らせていく…。
鮮やかな色彩で彩られた単衣が、アスカの真珠のようになめらかな白い肌を滑っていくと、思わずアレックスは息をのむ。
「こっちを向いて…」
そう言うアレックスの声も膨らんだ欲望にかすれていた。正面を向いて目を閉じると、アスカは手を離した。アスカの身体を包んでいた単衣は、一枚の布切れのようになって足元に広がった。
アレックスの目は、アスカの露わになった全身の…輝くような白い肌にくぎづけになる。
恥ずかしそうにうつむく彼女の肌がほのかにピンク色に染まるのを見ると、アレックスはもう自分の切望が我慢しきれないところまで高まっていることを知った。
「こっちへ…ボクの前に来るんだ…」
誘うような赤い唇に…細い肩から豊かな胸に続く曲線…。張り詰めた膨らみの先にはピンク色の小さな蕾がツンと誇らしげに上を向いている。
細いウエストのくびれからヒップにかけてのなだらかなラインから伸びている細くしなやかな足は、想像していたよりもはるかに美しかった。
その足が震えながらゆっくりとアレックスの目の前、手が届く位置までやって来る。するとアレックスの視線は、その足の付け根に息づく艶やかな黒い巻き毛に注がれた。彼の中で信じがたいほど膨れ上がった欲望は、抑えがたいほど身体の中で荒れ狂っている。
それでも冷静を装って両手を伸ばすと…アスカの豊かな胸をしたからすくい上げて、その量感を確かめるようにゆっくりと揉みしだいた。アスカの口から小さな溜息が漏れる。
「美しい胸だ。これほど美しいものは見たことがない…」
両手でゆっくりとその量感を愛でながら…親指と人差し指でその先の小さな蕾を摘んで弄ぶ。摘んで引っ張る間にアスカの唇から漏れる小さな悲鳴を愉しんだ。
やがてツンと硬くなった蕾をいきなり口に含む。柔らかく噛んだり、強く吸ったりしているうちに、アスカの身体はガクガクと震え始めて、上体を支えるためにアレックスの肩を掴んだ。
アレックスに触れられた瞬間に全身がカッと熱くなった。胸の先が疼いて、身体の中心が自然と潤ってくるのがわかる。
”わたしはどうなってしまったのかしら…?”
「大きさもボクの手にちょうどいい…どうした? もうたっていられないのかい?」
からかうように言ってアレックスは、サッと素早く身体を入れ替えるようにして…アスカの身体をソファーに横たえた。碧い眼は欲望に細められ、さっきから大きく喘ぐように上下している胸を見下ろしている。
「君の唇の柔らかさはもう知っている。こちらの方はどうかな…?」
アレックスの手がウエストをかすめて…さらにその先を目指そうとしているのを感じてアスカは身を震わせた。
「君の反応はまるで処女のようだ。遊女が処女なんて信じられないが…。まあ、いい。それを探るのも愉しみのひとつだから…」
アレックスの手は艶やかな巻き毛の感触をしばらく愉しんだ後…しなやかな指先がその中にすべり込んだかと思ったら、熱い泉を探るように動いた。もうすでにそこはすっかり潤っていて、アレックスは我慢しきれなくなってアスカの両足を大きく開かせると、その中心に唇をつけた。彼女の中に舌を差し入れて、存分に彼女を味わう。ひっそりと息づく女の宝石を探り出し、唇と舌で攻め立てると…アスカの唇から切なげな声がさらに大きくなった。
アスカはアレックスの容赦のない言葉に深く傷ついていたが、深まる愛撫に次第に我を忘れた。自分の唇からもれる言葉にならない声にも戸惑っていた。
思いもしなかった方法で官能の炎を掻き立てられて…大きく身体を仰け反らせながら、無意識にさらに求めるように腰を浮かせていた。
両手はいつしかアレックスの肩から胸へと自然に這い回り、服の上からでも感じる硬く張り詰めた筋肉の感触をひとつひとつ確かめるように、アスカの手のひらはゆっくりと動いていく…。
アスカの息づかいが激しくなって、クライマックスが近いと感じたアレックスは、小さな宝石を巧みに舌で攻めながら…指を一本グイっと彼女の中に押し入れた。するとそれは効果的面でアスカは小さく叫んで、一瞬硬直したように全身を震わせると…ぐったりとなった。
自分の愛撫がもたらしたアスカの反応にすっかり満足したアレックスは、アスカの身体を抱き上げてベッドに移動すると、彼女の身体を柔らかなシーツの上に横たえた。自分もさっさと服を脱いで、彼女の両足の足元に跪く。
「アスカ…目を開けてボクを見るんだ…」
アスカが重たいまぶたを開けると…じっと自分を見下ろすアレックスの眼差しがあった。その瞳は欲望でキラキラ輝き、頬にかかるプラチナブロンドがランプの光に透けて見える。
“きれい…”
アスカは初めて見るアレックスの裸の美しさに息をのんだ。褐色に日焼けした広い肩に細い腰…平らな胸にも引き締まった腹部にも無駄な贅肉はひとつも付いていなかった。
胸を覆う柔らかな金色の巻き毛は、腹部で一本の筋となってその下の茂みへと続いている。
下腹部の…濃い金色の茂みから信じられないほど逞しいものが天を向いてそそり立っていた。その大きさにアスカは驚いた。
頭では男女の交わりがどういうものかは理解していたが、ただ想像するのと、実際に経験するのとでは全然違う。巨大なそれはアスカを恐怖に陥れて、パニックを起こした。
「お願い、アレックス…わたし…」
「まだ始まったばかりだよ。お嬢さん…。さあ、手を出してボクに触れてくれないか…?」
アレックスは震えるアスカの手を取って自分に導く。アスカの手の中でそれは熱く脈打ち、さらに硬さを増していく…。
アスカの官能を高めるための愛撫だったのが、いつしか自分もすっかりその気になってしまったらしい…。いつもは素晴らしい自制心を誇りにしているアレックスも、アスカの手に触れられた瞬間、もう耐え切れなくなった。
アスカに激しく口づけながら、両手で彼女の腰を掴んで自分の方へと引き寄せる。片手で彼女の柔らかな入口を探ったかと思ったら…熱くたぎるそれを押し当てて、グイっと深く強く挿し入れた。
「やめて…!」
強引に押し広げられる感覚に、パニックになったアスカは、両腕を突っ張ってアレックスの身体を押し退けようとする。でもしっかりと押さえ込まれた身体はびくともしなかった。
痛みから逃れようともがくアスカを見下ろしながら、アレックスはアスカが処女ではないと思おうとした。だが彼自身、ごまかしようのない真実に阻まれて、苛立ったように言った。
「なぜ言わなかった…」
「言ったところで、何が変わったの? どうでもいいと言ったのはあなたよ…」
涙の溜まった目で見つめるアスカを見て、アレックスは無性に自分に腹が立った。
「だからといって今さら遅い…。痛いのは初めだけだ。すぐによくなる。覚悟するんだな…いくぞ。お嬢さん…!」
アレックスは鋭い一突きで最後の障壁を突破すると、しばらくそのままの姿勢でじっと動かず、アスカの身体が自分に慣れるのを待った。
アレックスの褐色の肌から汗が滴り落ちる。さっきからアレックス自身は絶えず解放を求めて熱く脈打ち…きつい彼女の熱い締め付けに堪えていた。もう限界かと思われたとき、アスカの方が耐え切れなくなって動き始めた。いつしか痛みが消えて、我慢しきれないほどの甘美な疼きが体中を支配していたのだ。
「ああ…アレックス…お願い、もう…!」
細い両手をアレックスの背中に回し、アスカがすすり泣くような声を漏らすと、アレックスの自制心はついに爆発した。激しく突き上げながらアスカの唇を求め、舌を絡めて強く吸う。そしてさらに激しくアスカを官能の嵐の中に放り込む。
白い光が脳天に弾けて…アスカはアレックスの名前を叫びながらその光の海を飛んだ。
アレックスもアスカの身体が燃え上がってエクスタシーを迎えるのを感じて嬉しくなった。彼女の口からアレックスの名前が叫ばれるのを聞いた瞬間、彼自身も上り詰めて叫び声を上げた。
“女を抱いた後でこんな気持ちになるのは初めてだった。今までは、どんな女を抱いても決して心まで満たされることはなかったし、まして同じ女を何回も欲しいと感じたことはなかった。何故だ…?”
アレックスは疲れて眠っているアスカの横顔を見つめた。後れ毛が濡れて頬に張り付いている。それを指先で払って、愛おしげに柔らかな頬を撫でた。緊張と初めての体験に疲れはてたのか…アスカはアレックスの腕の中で眠ってしまった。
“彼女はおれにどんな魔法をかけたのだろう…? ひと目見た時から彼女が欲しくてたまらなかった。求めては拒絶されるうちに、何を犠牲にしても欲しくなった。今までは、どんな美女に対しても欲望は感じても、心まで奪われることなどなかったのに…。今すぐにでもまたアスカが欲しい…”
アレックスは、アスカの無邪気な寝顔を見つめながら、片手を伸ばしてその手のひらで彼女の胸を包んだ。瑞々しい弾力を愉しみながら…中指と人差し指の間で硬い蕾を挿んで転がした。後ろから抱き寄せて、そっと耳の下の柔らかい肌に唇をつけると…う~ん…眠ったままアスカは背中を仰け反らせて、頭をアレックスの肩にもたれかかるようにして、彼の愛撫に応えてきた。
アレックスはニヤリと笑ってさらに愛撫を深めていく…。もう一方の手を下に伸ばして彼女の方足を持ち上げるようにして、後ろから柔らかな襞の中に指を這わせた。最も敏感な突起を探りあて、弧を描くように攻め立てると、そこでアスカは目を開けた。
「ああ…アレックス…?」
「ああ…そうだ、もう一度、一緒に天国へ行こう…」
後ろから突き立てるように押し入ったアレックスは、その熱さに思わず呻いた。
「君は素晴らしいよ…素晴らしい…」
17歳で海に出てから、それぞれの港で数え切れないほどの女を求めて、快楽を得るためにあらゆる手法を試して、身につけた技法は誰にも負けないと自負していた。そのアレックスを惹きつけ夢中にさせる。アスカは魔女かも知れない…。
身体の向きを入れ替えて、彼女を自分の上に引き上げる。アスカはアレックスの腰をまたぐようにして、彼を自分の中に引き入れる。もう痛みは感じないものの、ジワジワときつく押し広げられるその大きさに、アスカは低く呻いた。
やっと根元まで収まったところで、アレックスはアスカの腰を掴んでゆっくりと前後に揺さぶった。そして片手を内側にずらして親指を彼女の足の付け根に滑り込ませた。親指の腹で敏感な突起を撫で上げると、その瞬間にアスカは激しい叫び声を上げて、一気に高みへと上り詰めた。アレックスも誘われるように頂点を迎え、アスカの奥深くに情熱を解き放つ…。激しい息づかいの中で、しっかりと彼女の身体を抱き寄せて唇を重ねた。
アスカは身体の震えが止まらなかった。それが寒さからではなく、身体の奥深くから…アレックスによって初めて知った肉体の悦びによるものだとわかっていた。
“いったいわたしに何が起こったの…?”
体中がだるくて…初めて感じる部分に微かな痛みが残っている。アレックスの巧みな愛撫によってかき立てられた炎は、未だにアスカの身体の中にくすぶっていて、きっと少しでも触れられれば、またすぐにでも燃え上がってしまうだろう…。
“ああ…わたしはアレックスを愛している…。でも彼はただわたしの身体が欲しいだけなのでは…? きっと飽きたら…昔姐さん達が話していたように、他の男たちと同じようにさっさと去っていくのね。わたしがアレックスをつなぎとめていられるのは、彼が日本にいる間だけなんだわ…”
アスカの閉じたまぶたから、涙が一筋こぼれ落ちた。それを見てアレックスは胸の奥がチクリと痛んだ。
「ああ…アスカ君は後悔しているのか…? こうなったことを…」
「いいえ、わたしは娼婦だから…」
「自分を卑下するのは止めるんだ! 正直、こんな娼館で君を抱きたくはなかった。何故だろうな…? 今まで良心など痛んだことなどなかったのに…。どうやら君はボクの心の…一番敏感な部分を揺さぶるらしい…。さあ、少し眠ろう…。朝までにはまだ少し時間がある…」
しっかりとアスカを抱き寄せて、アレックスは彼女の髪にキスをすると眼を閉じた。
やがて…規則正しい寝息が聞こえてきて、彼が眠りに落ちたことを知る。彼の胸に頬をあてて…力強い鼓動を聞いていると、守られているような安心感があって、飛鳥はジワジワと熱い想いが込み上げてくるのを感じた。
“ねえ、今だけは彼に愛されていると錯覚してもいいでしょう…? お願い、今だけは…”
翌朝、遠慮がちなおぼろ月の声でアスカは目覚めた。
「アスカ姐さん…? ごめんなさい、あの…。旦那さまの従者の方が旦那さまとの面会を求めていらっしゃいます…」
「待って、今行くわ…」
アスカは慌てて上体を起こそうとして、自分の身体にしっかりと巻きついたアレックスの両手に気が付いた。
「アレックス…起きて、ジャマールが…」
「う…ん…」
アレックスはわざと寝ぼけた振りをして、アスカの身体を自分の上に抱え上げると、豊かな胸の谷間に顔を埋めた。そして口いっぱいに乳房を頬張って強く吸い上げる。
「ああ…!」
すぐ近くにおぼろ月がいるかと思うと…アスカは驚きと恥ずかしさで真っ赤にになる。でもすぐさま身体は反応して、胸から下腹部にツンとした快感が駆け抜けた。アレックスの強張りが柔らかな内股を押し上げると、飛鳥は彼の髪に指を絡ませながら、大きく背中を仰け反って、さらなる愛撫をせがむように胸を突き出した。
「ジャマールに後10分待てと伝えてくれ…!」
そういうアレックスの声も切羽詰まっている。アスカの腰を掴んで一気に埋めると、もうこれ以上は待てないというように激しく突き上げた。身体の奥に灯った熱い炎は、激しく突かれるたびにアスカを高みに押し上げ、やがて来る激しい閃光とともに砕け散った。
アスカが叫ぶのと同時にアレックスも最後の一撃を送り込んだあと、低く呻いて…アスカの肩に顔を埋めた。
昨夜アレックスによって初めて性の悦びを教えられたアスカは、こんなことが何度も起こるなんて信じられなかった。
幼い頃、娼館で男女の営みについては、人並みに先輩太夫たちが面白半分に話すのを聞いていたけれど、彼女たちは、大概は客のために感じた振りをするのだと言っていた。そうすれば客は喜ぶのだと…。だから太夫たちは、お金のためにみんな嫌々するのだと思っていたのだ。
それがこんなに素晴らしいものだったなんて…。自分が経験するまでは信じられなかった。
“それともアレックスのせい…? 彼は数え切れないほどの経験をしていると誰かが言っていた。彼は、相手がアスカでなくてもこんな風に感じるのだろうか…? ”
「どうした? こんなに素晴らしいものを分ち合ったあとだというのに、疑うような目をしてボクを見ているね? 何が気に入らないんだ…?」
くるりと今度はアスカの身体を組み敷くと、アレックスは彼女の目を覗き込んだ。
「いいえ、自分がこんな風になるなんて信じられなかったの…。今にも気絶してしまうかと思ったわ」
「それは何もかも自然なことなんだよ、可愛い人…。求め合う者同士が愛し合うのは自然なことだ。君だってボクを欲しいと思っていたんだろう…?」
アレックスの言葉にアスカはただうなずくしかなかった。いまさら隠しても何になるだろう。彼が側に来るだけで身体は自然と彼を求めて疼き出すのだから…。
「さあ、これ以上ジャマールを待たせるわけにはいかないな…。きっと君の可愛い妹分も困っていることだろう」
アレックスは名残惜しそうに飛鳥の肩先にキスすると、ベッドを下りて隣の化粧室に用意されていたリネンを手にとって水に浸し、サッと自分の身体を拭き始めた。そして腰に大きめのリネンを巻いて戻ってくると、アスカの側に腰をおろして、彼女が包まっている上掛けを引き剥がそうとする。
「や、やめて…」
「大丈夫だから、ボクに任せて…」
恥ずかしそうに身を屈めて、抵抗するアスカをなだめてアレックスは、素早く上掛けをはがして自分の身体を彼女の足元に滑り込ませる。
「いいかい…力を抜いて…」
アスカの腰に下から手を入れて下から救い上げるように、難なく両足を開かせると…彼女が抗議の声を上げる間もなく、開いた両足の間に濡れたリネンを押し当てた。昨夜から何度も愛し合ったせいで、その部分は熱を帯びてひりひりとした痛みがあったが、ひんやりとした感覚が、うっとりするほど気持ちよかった。
「もう少しで君が初めてだったということを忘れるところだったよ」
アレックスは、優しく太ももの内側についたわずかな血のあとを拭き取りながら、耳元でささやいて首筋の脈打つ部分に唇をつけた。
「あ…あ…アレックス、ジャマールが…」
「クソッ…! そうだった。でもこれからは毎日、君はボクの隣で眠るんだ。今日の午後、迎えに来るから待っていてくれ…」
手早く身支度を調えて…又あの魅力的な笑顔を見せながら、アレックスは言った。
“彼はわたしをここから連れ出すと言っているの? でもそうしたらおぼろ月は…?”
かむろは花魁に従うのが習いだった。アスカがいなくなれば、おぼろ月はまた新たな花魁を探さなければならない。新しい花魁がおぼろ月を可愛がってくれればいいのだけれど…。アスカはこの素直な少女が好きになっていた。かつて花魁だった貴蝶が、アスカを可愛がったように、いつしかおぼろ月を妹のように思っていたのだ。
「アレックス…おぼろ月を置いていけないわ…」
アスカも急いで昨夜脱いだ単衣に袖を通すと、しっかりと腰紐を結んだ。
「わかった。彼女に会いに行こう」
アスカを伴って続き部屋に行くと、おぼろ月がかしこまって座っていた。昨夜のアレックスを見てすっかり心酔してしまったのだろう…。美しい笑顔を浮かべながら膝間ずいて、真っ赤になっているおぼろ月の小さな顔を見下ろすアレックスは、確かに非の打ちどころがない。
「やあ、お嬢ちゃん、君はいくつだい…?」
アレックスの言葉をアスカが通訳する。
「10歳です…」
小さな声で答えるおぼろ月はうつむいたままで、アレックスの顔をまともに見ることさえ出来ない。
「名前は…?」
「おぼろ月です…」
「源氏名ではなくて、本当の…」
「香代…香代といいます…」
「香代か…? いい名前だね。君は大きくなったら何になりたいの?」
そこでおぼろ月は困ったように、アスカを見た。娼館にいるかむろのおぼろ月の未来はもう決まっているのだ。
「君が立派なレディーになるための教育を受けられるように手配しよう。アスカと一緒に暮らして、家庭教師をつけて勉強するといい…。ダンスや裁縫も…。英語はアスカが教えてくれる。君もアスカと一緒に来てくれるね…?香代…」
おぼろ月に通訳する前にアスカは感極まって、涙で言葉が詰まってしまう。不思議そうに見つめているおぼろ月にアレックスの言葉を伝えると、おぼろ月はワッと泣き出してしまった。おぼろ月にしてみれば、一生この廓から出られないと思っていたところに、急にここから連れ出して自由にしてくれるばかりでなく、一人前の女性になるまで面倒を見てくれる人が現れたのだ。それも大好きなアスカと一緒にいられる。それだけでもう、天国に昇る気分だったに違いない。
「ありがとう…アレックス、おぼろ月はわたしの妹みたいなものだから…」
「ああ…君にとって妹なら、きっとボクにとってもそうなるよ。さあ、じきに時間は過ぎる。準備をしたまえ。ボクはしばらく屋敷に戻らなければならない…」
「アレックス、わたしたちはどこへ行くの…? 又あの屋敷に行くのかしら…?」
「いや、あそこに愛人は入れられない…」
さっきまでは笑みを浮かべていたアレックスの表情が急に厳しくなったのを見て、アスカの胸を鋭い痛みがかけぬける。
“愛人…? 確かに彼はそう言ったわ。恋人ではなくて愛人…。そんなこと最初からわかっていたことじゃないの…。いまさら嘆いてどうするつもり…? 自分を哀れんでみても何も変わらない…。彼を愛することを止められない限り、わたしはわたしの気持ちのままに行くしかないのだから…。愛されなくてもいい…。愛しつけることがわたしのプライドなのだと心に誓おう…”
アスカは瞬きで涙を抑えると、真っ直ぐアレックスを見て微笑んだ。
「どこでも…あなたの望むところへ行くわ…」
「ああ…アスカ、君があの時素直にボクに従っていてくれたら…。いや、それは言うまい…。もう過ぎたことだ。いいね、今度こそボクを信じるんだ」
アレックスはもう一度しっかりとアスカを抱きしめて、その髪に顔を埋めた。胸いっぱいにアスカの香りを吸い込んでから、耳元から頬へと唇をかすめて…ついに唇にたどり着くと、また狂おしく求めた。
「だめだ。こんなことをしていると、また厄介なことになってくる。君が相手だとまったく自制が効かなくなってくるんだ。困ったことに…」
苦笑しながら身体を離すと、名残惜しそうにもう一度頬にキスして、アレックスは部屋を出て行った。
彼がいなくなってひとりになったアスカは、ヘナヘナと絨毯の上に座り込む。さっきは平気な顔をしていたが、本当はかなり酷使したために身体中の筋肉が軋み、今まで思ってもみなかった部分が痛んでいた。
でも昨夜のアレックスの…耳元でささやく声や、全身に受けた優しく甘美な愛撫を思い出して…アスカはまた全身が蕩けてくるのを感じた。
君はボクが今までに経験した誰よりも甘美な味がする…。アレックスはそう言ってアスカの思いがけない部分にキスをした。最初は淑女にするように穏やかに優しくキスしながら…甘い愛の言葉をフランス語でささやき続け、アスカが思いがけず大胆にアレックスの愛撫に応えるようになると、彼は激しく燃えるような愛し方でアスカを翻弄した。
アスカも求められるまま…奴隷のように後ろから彼を受け入れ、淫らな歓びに震えながら彼のものを口に含み…信じられないほどに奔放に振舞った。これが娼婦の振る舞いじゃないといえるだろうか…?
結局は、アスカはアレックスのものなのだ。彼が望む限りは…。だけど彼がいつかアスカに飽きた時…自分はそのことに堪えられるだろうか? それにもうひとつだけ、避けられない問題がある。このまま彼の情婦で居続けるならば、いずれは彼の私生児を生むことになる。母がそうだったように、決して夫にはならない男を愛して、世間からは“ラシャ面”と蔑まれながら、子供にもわたしが感じたと同じ苦痛を味わわせることになる。そんな罪なことが出来るだろうか?すでにもう妊娠しているかもしれない…。
「クレファード卿はお優しい方ですね?」
おぼろ月が頬を上気させながら言った。
「こんなわたしを姐さんと一緒に引き取ってくださるなんて…。わたしうれしいんです。ずっと姐さんと一緒にいられるんですもの…」
そう言って涙ぐんでいるおぼろ月の小さな身体を、アスカは愛しくなって抱きしめた。きっとアスカに妹がいたらこんな感じなのだろう。7年前、同じように貴蝶の恋人、浩二郎の言葉にうれし泣きをしたアスカを、貴蝶は優しく抱きしめてくれた。それと同じことを今アスカはしているのだ。
アレックスはあの時の浩二郎と同じだ。彼はあの浩二郎と同じ優しさを持っている。そう思うとあらためてアレックスに対する想いが溢れて止まらなくなった。
“もっと彼のことが知りたい…”
押さえがたい欲求に胸が震えた…。どうしようもなくアレックスに恋してしまったことに戸惑いながら…アスカはこれから始まる彼との暮らしに想いを馳せた。
アレックスが最初に案内された待合室に行くと、憔悴しきった様子でジャマールが待っていた。
「おや、どうした? ずいぶん疲れたようすだが、何か愉しみがあったか?」
アレックスがわざとふざけて問いかければ、ジャマールはとんでもないというように首を振る。
「冗談じゃないぞ…! しつこい女を振り払うのに無駄なエネルギーを費やしてしまった。仕方がないからさっきの若い衆を捕まえて、朝までチェスの相手をさせたほどだ。一刻も早くここを出たいものだな」
「まあ、そう言うな、オレが一番幸せな朝を迎えたというのに、祝ってくれないのか…?」
「ああ…祝うとも。すぐにここから抜け出してくれるなら…」
「はは…オレはずっとここに居たい気分だがな…」
「勘弁してくれ…!」
さらにジャマールをからかいながら、ふざけていたアレックスは、おぼろ月を伴って入って来たアスカの姿に目がくぎづけになる。アスカは身支度を整え、すっきりとした和装に着替えていた。髪も下ろしてゆったりとした三つ編みにして、その先を白いリボンで結んでいる。淡い藤色の着物は、アスカの銀色の瞳によく似合う。
「アスカ…」
「良かった、まだそこにいらして…。初めての朝にお見送りするのが習わしなので…」
恥ずかしそうに飛鳥は言った。
“なんて初々しいんだ…”感動にちかい感情がアレックスの胸を満たしていたが、同時にまたムクムクと欲望が湧きあがってきて、すぐさま身体が反応するのがわかった。
「さて、厄介なことにならないうちに戻りたいね。たまった問題をさっさと片付けてもらわなければ困る…」
ちらりとアレックスのほうを見て、今度はジャマールがアレックスをからかうように笑った。
「仕方がないな…さっさと片付けることにしよう。午後に誰かを迎えによこすよ。荷物はほんの少しでいい。すべてはこちらで用意する。君たちはもう遊女ではない。今日から生まれ変わっていきるんだ。いいね…?お嬢ちゃん…」
アレックスは二人の側に膝をついて腰をおろすと、蕩けるような笑顔を見せておぼろ月に微笑んだ。おぼろ月は、隣でささやくアスカの言葉に目を潤ませながらうなずいた。
「アスカ、もう逃げないでくれるね?」
「ええ…逃げたりしないと約束するわ」
アスカの言葉を聞いて、アレックスは満足そうにうなずいて、かすめるようにアスカの頬にキスをする。
「さあ、名残惜しいが、ひとまず帰るとするか。朝帰りの客はどうやって店を出るのか教えてくれるかな?」
「ええ…こちらよ…」
アスカは立ち上がって、先に立って歩き始めた。
イェンは屋敷の広い居間の絨毯の上を、何度も行ったり来たりしながら、1年ぶりにあう主人に何と報告するべきか悩んでいた。彼は今朝早く、香港沖にある宝龍島(ホウロントウ)から着いたばかりだった。
イェンが主人として忠誠を誓うのは、7つの海でその名を知られた“ホーク”だ。6年前、まだ10代だった頃、この横浜で彼はホークに拾われた。拾われたというよりは、命を救われたといった方が正しい。
イェンは、本当は日本人だった。この横浜で生まれ、両親が亡くなったあと、知り合いの元で育てられたが、それはそれで幸せだった。引き取ってくれた大工の棟梁は、堅気の職人らしく厳しいところはあるけれど、愛情深い人柄だったからだ。だが、7年前の大火がすべてを変えた。
建設中の建物を守ろうとして親代わりの棟梁が亡くなると、住む家もなくした彼は、市中を徘徊して悪い仲間に入って、良からぬことにも手を染めた。
当時はまだ政情も安定していなくて、年号は明治に変わっても、世の中はひどく混乱していた。初めてアメリカのペリーが伊豆の下田に来て以来、様々な外国人がこの横浜を訪れるようになったが、日本中が文明開化と浮かれる中で、昔気質の人間の中には、街中をわがもの顔で歩く外国人を許せない者もいて、金を払ってわざとならず者に襲わせたりもした。
そのならず者の中のひとりだったイェンは、ある日、馬に乗って通りかかった“ホーク”異名を持つ、英国貴族であるルシアン・アレクサンダー・クレファードを仲間とともに襲い、ただひとりケガをして捕まってしまったのだった。
普通ならその場で殺されても文句の言えないところだったが、ホークは彼を、自分の屋敷に連れて帰って傷の手当をしたばかりか、まだ16歳になったばかりの彼に、自分と一緒に世界の海に出て、広く世界を見て学ぶことを説いたのである。
ホークは、英国と日本…それぞれの機関には、襲ってきた賊のひとりをすでに処刑したと報告し、それ以来イェンは日本人であることを捨てた。
ホークにすっかり心酔し魅せられたイェンは、それから中国人として、このアジアで彼の手足となって働いた。この6年間で、彼がホークについて知り得たことは、彼が若く大変な美貌の持ち主であることと、それ以上に高潔な魂を持ち、世界中に船を持つ大富豪であり、本国に戻れば女王陛下の寵愛も深いということだった。
ホークは、彼らが絶対的な忠誠心を誓う限り、決して裏切らない魂の持ち主なのだ。
「困った…メイファンのことはどう言えばいいんだろう…?」
「何が困ったって…?」
そこへ背の高い異教徒の男が入って来た。ホークが最も信頼する側近のジャマールだ。イェンはホーク同様、この男にも多大な尊敬の念を持っていた。
「ジャマール!」
「久しぶりだな、イェン! いつ着いていたんだ?」
「今朝早く…! でも屋敷に着いてみたら、あんたもボスも留守だった」
「ああ…昨日から、のっぴきならない用事があったんでね…」
ジャマールが大きな欠伸を堪えながら、困ったように笑った。ジャマールがこんな風に笑う時は、またボスの気紛れが起こった時だ。イェンもボスの“ホーク”ことアレックスが、人並み外れた精力の持ち主であることは知っていた。
アレックスは類稀な美貌の持ち主であり、最高の戦士なのだ。剣だろうが、銃だろうが華麗に操る。世界中の海で、彼に沈められた海賊船は数知れず、もうこの10年で伝説になっている。“英雄色を好む”という言葉通り、アレックスはそっちのほうでも伝説的なのだ。
「そういう付き合いもしなければならないとは、あんたも大変だな? 」
イェンは面白がるように言った。
「ハハ…慰めてくれるのか? イェン」
「いや、あんたも男だから…」
「残念ながら、それはわたしには当てはまらない。わたしはそっちには皆目興味がない。おまえも知っていると思っていたが…?」
「まあ…」
イェンはこの一風変わった異教徒の戦士が好きだった。率直で、一途で…物事を決してごまかしたりしない。腕は恐ろしく立つけれど、決してそれをひけらかしたりしない。常にアレックスに寄り添い彼を護ることに自分を捧げているのだ。
「で、ボスは…?」
「自分の部屋で入浴中だ。昨夜はお楽しみだったからな。今朝は二人で朝帰りをしたんでね…」
「朝帰り…?」
イェンには以外だった。彼のボスは、愉しむ時には大概船の上が多かったし、時々は港の娼館にも通ったが、決して泊まってくることはなかったのである。
「そんなに御執心な女がいたのか?」
「まあ、な…。執心どころか、買い取ってしまったくらいだ」
「買い取った…!? この屋敷に…?」
イェンは思わず大声を上げた。何もかもビックりだ。第一にボスが女に夢中になるわけがない。女に対しては欲望以外の感情は持たないと宣言していたのだから…。だとすると、その宣言を覆すほどの女性が現れたということか…? それならこの日本にメイファンを伴って戻ってきたとわかったら…? マズイ! これはとてもマズイことになった…。
「彼女が住むのはここじゃない。ここは英国の管轄だからな。彼女は、山の手にある屋敷に住むことになる」
「そうか、でもやっぱり、マズイかな…」
「何がマズイんだ? イェン…? 」
そこへまだ髪を湿らせたままのアレックスが入って来た。
「ボス…!」
イェンはすぐさま跪いて、頭を下げたまま…側にアレックスが来るのを待った。アレックスは象牙色のスラックスを身に着け、上半身裸の上に黒いシルクのローブを着ていた。前を開けているために、褐色に日焼けして引き締まった胸から硬い腹部までの筋肉が
覗いている。
「一年ぶりか…? みんな元気なんだろうな…? 」
アレックスはデスク脇のキャビネットからグラスを取り出して、ちょうど執事のメイスンが持ってきたワインを注いだ。二人にグラスを差し出して微笑む。
「久しぶりの再会に乾杯しよう。それと新しい今日の始まりに…」
アレックスはそう言うと高々とグラスを持ち上げて乾杯の仕草をすると、美味そうに飲み干した。今朝はことのほか上機嫌だった。その理由をジャマールは知っているが、断片的にしか聞かされていないイェンは、訝しげに彼を見上げた。
「今朝の君があまりに機嫌がいいんで、イェンが不思議がっているぞ。説明してやったらどうだ?」
ジャマールが、口の端に笑みを浮かべて振り返る。
「ああ…あとでな。それより、例の件の報告を聞きたい。何か掴んだか…?」
アレックスはジャマールは言葉を聞き流し、急に真顔になってイェンを振り返った。
この顔はホークの顔だ。瞬時にイェンに緊張が走る。彼はこの半年、アレックスの指示で西インドから中国大陸…ロシア極東地域に及ぶまで、黒柳の動向を探っていたのである。
「はい、ボスの考えていたとおりでした。黒柳はこのアジアの広い地域で、あらゆることに手を染めていました。密輸から始まって、麻薬の売買、そして極めつけは奴隷の売買です。日本の田舎から若い娘を奉公先を斡旋すると騙して連れてくると、定期的に大陸に売り飛ばしていたいたようです。またその逆もあったようで…。誘拐して来た娘を麻薬漬けにして送れば、まず逃げません…。それで荒稼ぎした金を各国の領事館や、港の役人に賄賂として送っていたようです…」
「ああ…それなら知っている。香港総領事のマディソン・ウエントワースもそのひとりだった。どのみちあの男は、狭量すぎて香港を任せるにはお粗末すぎる。香港を出る前に、本国のランスロット卿に一筆したためておいたから、そのうち議会が解決してくれるだろう…」
「ただ、問題はティアラがどこに消えたかということだな…?」
それまで黙って聞いていたジャマールが言った。
「たぶん…どこかの小さな港から、大陸伝いに運ばれたのかもしれません…。香港では積荷の記録はこちらでも調べられますから、それを避けたのかもしれません」
「なら、時間がかかるはずだ。どのみち日本まで運ぶとなると船を使う以外にないからな…」
「だがこの横浜に入ってくるとは限らない…」
「そういうことだ。黒柳は用心深い。大陸を陸伝いに運ばせたのだとしたら…日本でもそうするはずだ。さしあたっては、長崎か…大阪辺りかもしれない…」
アレックスはデスクの上に広げられた地図を見ながら言った。
「けれど…黒柳は何のためにティアラを…? 絵画とか宝石というならわかりますが、日本人の黒柳が何故こんな複雑な工程を経てまで、女王のティアラを欲しがるのかわかりません…」
イェンは首を傾げながら言った。イェンも形は中国人だが下は日本人なのだ。自分ならそんなものに命は掛けないと言いたいのだろう…。
「ビクトリア女王のティアラには、5個のサファイアと10個のルビー、極めつけは数百個のダイヤモンドが使われている。おまけにその中のひとつは100カラット以上のブルーダイヤだ。時価にして100万ポンド(日本円で200億以上)以上の値がつく代物だぞ。それだけでも十分に価値があると思わないか…?」
「はあ…?」
ジャマールの言葉にイェンは目をしばたいた。100万ポンドといわれてもイェンには皆目見当もつかない。
「まあいい…。日本に入って来たところで押さえればいい…。かえってその方がやり易い。弱いものを食いものにするやからにはヘドが出る。しかるべき罰が下されるべきだな」
アレックスは嫌悪感を露わにして言った。昔からこういう類の話は大嫌いだった。それもみな高潔だった叔父の影響かも知れない。今は亡き母方の叔父であるロバート・ウィンスレットは尊敬すべき紳士だった。
「それと、コンウェイ船長が運んできたケガをした客人も、ロンバート卿の細君も皆元気でした。ケガも順調に回復しています」
「そうか、わかった。すまなかった、イェン…。せっかく日本に来たんだ。ゆっくりしていけばいい…。きっとここではおまえの手助けが必要になる」
「はい、なんなりと…」
イェンは目の前にいる美しい主人の横顔を誇らしげに見上げた。自分はこの人のためなら何でも出来るだろう。たとえ命を投げ出しても惜しくないほどに…。だがそこでふとイェンはあることに興味を覚えた。この素晴らしい主人を夢中にさせた女性はどんな女なのか…?と。ジャマールはさっき、ボスはその女を買い取ったと言った。ということはやはり娼婦なのだろうか…? ああ、いやダメだ。じゃあ、船で待っているメイファンのことはどうする? メイファンはこの日本までボスを追いかけて来るほど、ボスに夢中だ。ボスにそんな女性がいるならなおさらマズイ。とりあえずは船で待てと言い残して出てきたが…。
「あの…ボス…?」
アレックスにメイファンのことを告げようとしたその時、執事のメイスンが入って来た。メイスンは何か小さな紙切れをアレックスに手渡してすぐ出て行ったが、それを見たアレックスの表情はひどく緊張していた。
「ジャマール、すぐ出仕掛けなければならなくなった」
「彼女のことはどうする?」
ジャマールの問いかけに一瞬考えたアレックスは、何か思いついたようにイェンを振り返った。
「イェン、頼みがある…」
「はい、オレでよければ何なりと…」
「ある所へ人を迎えに行って欲しい。詳しいことはジャマールに聞け。オレは着替えて来るから、用意が出来次第出発する」
アレックスは早口で告げたあと、足早で部屋を出て行った。ボスがこんな風に事を急ぐからにはよほど重要な件なのだろう。イェンはメイファンのことを告げるチャンスを失ったことに溜息をついた。
「どうしたイェン、何か心配事でも…?」
アレックスがいなくなると、ジャマールはすぐさまイェンに聞いてきた。さっきからイェンの様子がおかしいことに気が付いていたのだろう。イェンもまたジャマールなら何か良い解決策を考えてくれるような気がした。
「ああ…じつは困ったことがあって…」
イェンは宝龍島を出た後で、メイファンが船に勝手に忍び込んでいるのがわかったけれど、気づいた時にはもう引き返せないところまで来ていたことを話した。
「ああ、それは問題だな…アレックスは今、例の美女に夢中だ。メイファンの存在は、ことを余計ややこしくするだろうな。たとえメイファンがアレックスの愛人でないとしても、本人はその気十分だから必ずトラブルの元になる」
「だから困っているんだ。一緒にここに来るというのをなだめすかして船においてきたんだ。今頃はきっと、だれかれ構わずに当り散らしていることだろう…」
そう言ってまたイェンは大きなため息を漏らした。メイファンはアレックスの秘密基地ともいうべき宝龍島に住んでいる少女だ。彼女は4年前、マカオの沖で海賊船に襲われている商船を助けた時に乗っていた美少女で、父親は彼女の目の前で殺され、メイファンももう少しで荒くれたちに乱暴されかかっていた。
当時13歳だったメイファンはその時でさえ艶やかな黒髪に黒曜石の瞳を持った、目の覚めるような美少女で、実際の年齢よりははるかに大人びて見えた。
命を助けられたメイファンは、すっかりアレックスに心酔して故郷に戻ることを拒んで宝龍島に住み続けている。アレックスも、メイファンを拒絶することなく、彼女を大切な客人として扱っていた。
ただ…大切に扱うだけで、決して他の女性達に対して見せるような欲望はメイファンには見せなかった。まるで、妹か自分の身内のような存在だとアレックスは言っていたが、果たしてそうだろうかとイェンは思っていた。ここ一年、アレックスは宝龍島を訪れていない。17歳になったメイファンが、どんなに美しくなったか知らないのだ。
“メイファンに会ったら、ボスは気が変わるかもしれない…”
そう思うとイェンの胸は痛んだ。実のところ、イェンはこの少女が好きなのだ。彼女がどんなに彼のボスに心惹かれていようと、イェンは諦め切れなかった。だから暗い船倉で、メイファンを見つけた時、泣きながらアレックスに会いたいと言う彼女を無理に送り返すことが出来なかったのだ。
「わかった。メイファンはわたしが何とかしよう。そのかわり、おまえにはある所まで行ってもらう。アレックスを夢中にしているある美女を引き取って来てもらいたいんだ。彼女が山の手の屋敷に入れるように手配しておいた」
「美女ってどんな…?」
「それは会えばわかる。ただ並みの美女じゃないことは言っておく。彼女は美しいばかりじゃないぞ。簡単にアレックスの鼻を折ることが出来るくらい、気骨のある女性だとだけ言っておく…。それに彼女は黒柳に狙われている」
「黒柳に…?」
イェンは驚いてジャマールを見た。それがどれだけ危険なことか、本能的にわかっていた。
「ああ…どういうわけか、黒柳も彼女に執着している。それがアレックスをどれだけ危うくしているか、おまえにもわかるな? アレックスはあの性格だ。そうなればなるほど、よけいに頑固になるから困ったものだ。彼女を手元に置くことで、わざと黒柳を煽っている」
「それで、おれに何をしろと…?」
そこでジャマールはイェンを見てニヤリと笑った。
「おまえには彼女の身辺警護をしてもらう。おれはアレックスの側を離れられない。殺し屋のウェイ・リーを知っているな? 奴が日本に来ている。何のためかは今さら言うまでもないが、やつが黒柳についているとなれば、ちょっと厄介だ。いよいよ本当の戦争が始まるということだ。おまえにも力を貸してもらわなければならない…」
ジャマールの言葉にイェンは真剣な顔でうなずいた。
馬車の中で、アレックスは口を真一文字に結んだまま、じっと天上の一点を睨んでいた。アスカの元から戻る早々、岩倉卿から火急の件で話がしたいという手紙が届いた。あの冷静な策士がそう言うからにはきっと何かを掴んだに違いない。それともとんでもないことが起きているかだ。どちらにしてもアレックスにとっては有り難くないことだろう。
“昨夜はやっと想いを遂げて、アスカと初めての愛を交わしたというのに、その余韻を感じる間もなく、今度は戦闘体制に入れということか…? 人生はままならないな…”
急に皮肉な笑いが浮かんできて、アレックスはひとり乾いた笑い声を上げた。
「何だ? ついに幸せすぎて狂ったのか? 」
御者台にいたジャマールが振り返って言った。
「ああ…今にも狂いそうな気分だね。こう天国と地獄を行ったり来たりさせられたのではこっちの身体が持たないというものだ…」
「はは…君なら耐えられる…」
「だといいが…」
アレックスはまた硬い表情に戻って窓の外を眺めた。
岩倉将吾の隠れ家とも言うべき別邸は、港の外れにある住宅街の中にひっそりと建っていた。それほど大きくもなく、もとは商家らしい建物は、周りを取り囲む生垣と高い塀に囲まれて、外からはまったく見えない。隠れ家には最適の屋敷だった。
裏門の外に馬車を止めて、アレックスはジャマールとともに素早く建物の中に入っていく。門の内側には岩倉の護衛が何人か立っていて、隙なくあたりを伺っていた。
岩倉将吾は今の政府の中では、勝海舟亡きあと、一番の世界通と言われている。大政奉還のあとの政情はまだまだ混迷を深め、目に見えない権力闘争は続いていた。その中で巧妙に黒柳は、賄賂を使って政治家たちを傀儡にしていったのだ。このままでは日本はつぶされると岩倉は言っていた。
かつては幕末に、幕府はフランスと手を結ぼうとした。再びその残党がフランスとつながろうとしているのか…? 本国と遠く離れたこの極東の日本で…またフランスと一戦交えるのかと思うと、アレックスは気が重い。今までもアレックスは、ヨーロッパでランスロット卿の手足となって様々な交渉事に当たってきた。中にはかなりの際どいものがあったが、そこは持ち前のキレの良さと感の鋭さで乗り切ってきたのだ。
でも今回のことはいろんな要素が複雑に絡んでいる。そこへあの強欲な黒柳一枚噛んでいるのだ。おまけにアスカを巻き込んで…。
「アレックス…!」
岩倉はアレックスが到着するとすぐに姿を現した。
「急にすまなかった。どうしても君の意見が聞きたかったものだから…」
その日の岩倉は、いつになく慌てているように見えた。昨夜の園遊会の席で会った彼とは別人に見える。
「何があったんですか?」
すかさずアレックスは尋ねた。
「昨夜、園遊会の帰りに永友一臣が襲われた。幸い一命は取り留めたが、かなりの重症だ。しばらくは政界に復帰するのは難しいだろう…」
岩倉の声は沈んでいた。永友一臣はもとは長州藩の藩士で、幕末の志士のひとりだ。岩倉の話によると、彼は崇高な魂を持った人物で、次の内閣を背負って立つ人物として人望も集めていたという…。今の日本の中で岩倉同様、黒柳に屈しない唯一の高潔な志士の一人だった。その上永友は、井上崇とともに次の内閣のトップを争うライバルだったはずだ。
それが昨夜襲われた。これには何かがにおう…。黒柳は密輸で稼いだ金をあっちこっちにばら撒いている。兼ねの力で日本の政治を牛耳るつもりか…? この最近の岩倉の話を総合してみると、どうやら黒柳の影響力は至る所に及んでいるようだ。この上岩倉まで倒れることにでもなれば、その心配は現実になるかもしれない…。
せっかく築かれた新時代の日本はいとも簡単に逆戻りしてしまうのか…? そんなことはさせない、絶対に…。
アレックスは悔しさに拳を握り締めた。
「あなたの身辺が心配だ。十分な警護は出来ていますか?」
「ありがとう…相手は常にチャンスを狙っている。これからは十分気をつけるとしよう。わたしもだが、君こそ大丈夫だろうか? 殺し屋に狙われていると聞いたが…?」
「確かに…それでもボクには長年培った感と信頼できる部下がいますから。それに命を狙われるのは今回が初めてではありません」
わかっているというようにアレックスは肩を竦めて見せる。
「貴蝶から聞いているよ。君はやっと素晴らしいパートナーにめぐり合えたそうじゃないか? 君自身も大切にしてもらいたいものだ」
「もちろん、そのつもりです。でもその間に何とか彼らの不正もしくは、天皇に対する反逆行為の証拠でもつかめればいいのですが…」
「そこなんだが…いくつかの動きはある。あることにはあるが、証拠がない。天皇を亡き者にして、再び政権を幕府に戻そうと企む輩の尻尾さえ掴めればと考えている」
「その中心に黒柳がいるわけですね…?」
アレックスは厳しい表情の岩倉を見つめる。岩倉の表情にも確固たる決意があった。
「ただわたしは貴蝶のことが心配なのだ。あれはこの7年間本当に良くやってくれている。君も知っているだろう…? 貴蝶とわたしの関係は皆が思っているような関係ではない事を…」
「さあ、実際にはよくい知りません。ただボクにはアスカのことで彼女には多大な恩義を感じているだけです。彼女は女性にしておくのがもったいないほどの高潔な意志と、行動力の持ち主だ」
ああ…そうだ。貴蝶は素晴らしい。彼女はわたしの情婦ではない。彼女はわたしの妹なのだよ。実際には母の違う異母妹なのだが…。わたしは父の反対を押し切って20歳の時、世界に飛び出した。当時貴蝶はまだ7歳だった。家を出る時、貴蝶は泣いてすがったよ、行かないでくれと…」
「仲の良い兄妹だったんですね?」
「ああ…わたしは貴蝶を可愛がっていたからね。だがそれから16年…日本に戻ってみれば、家はすっかり変わっていた」
岩倉の顔には深い苦渋の色があった。今まで温和だと感じていた彼の中に、簡単には癒せない深い傷跡があるようだった。
「家は他人の手に渡り、母と末の妹はすでに亡くなっていた。他人づてに貴蝶が、母と妹のために自分の身を売ったと聞いたときには、自分で自分を呪いたくなったものだよ。あのまま日本に残っていたら、母も妹も死なずに済んだのではないかとね…。それからのわたしは、貴蝶を探し出し、援助を申し出た。妹として一緒に暮らして欲しいと言ったんだ。だが、貴蝶は断った」
「自分の立場があなたの将来に影をもたらすと考えたのでは…?」
「そのとおり…。君は何もかもわかっているようだ」
岩倉は哀しげにアレックスを振り返る。アレックスにはわかるのだ。彼の最も愛する女性も貴蝶と同じ心を持っているから…。アスカも立場が同じなら、きっと同じことを言っただろう…。
アレックスの胸を鋭い痛みが貫いた。もしアレックスが、本気でアスカを妻として本国に連れ帰りたいと言ったら…彼女は何と言うだろうか…? もしかしたら、貴蝶と同じ理由で、NOというかも知れない…。
「それで…」
アレックスは喉につかえた重い塊りを飲み込んだ。
「ボクに何か手伝えることはありますか…?」
「貴蝶を安全なところへ匿って欲しい…。今のところは何とかやっているが、この先どんな危害が及ぶか、想像出来ないからね…」
岩倉の表情は苦渋に満ちていた。たった一人の肉親を守りたいだけなのだ。
「わかりました。今沖合にボクの個人的な船が停泊しています。すぐ手配して、出来るだけ早いうちに大陸にあるボクの隠れ家に案内しましょう…」
「そうしてもらえると助かるよ。君なら安心して任せられる」
「あなたのためなら、なんでもしますよ。ボクにできることなら…」
岩倉の顔に安堵の表情が浮かぶのを見て、アレックスは小さくうなずいた。岩倉の言うようにすでに状況は、のっぴきならないところまで来ている。ことは日本だけに止まらず、アレックスが介入してきた時点で…英国、アメリカ、フランス各国を巻き込んで、目に見えない火花を散らしていた。
「この数日でフランス海軍の船が何艘も入港している。御存知でしたか…?」
「ああ…承知している。何か警戒していることは…?」
岩倉の顔が再び緊張で引きつっている。
「今のところ、アメリカに動きはありません。中立という立場を変えていないのでしょう。わが英国は、いささか神経質になっています。総領事のハリス・ロンバートは思慮深い男だが、忍耐強くはない。昨夜は何食わぬ顔をして座っていたが、かなりはらわたは煮えくり返っていたはずですから…」
「でも今、両国が衝突するのは賢明ではない…」
「そのとおりです。ましてその根源にひとりの男が深く関わっているかぎりは…」
アレックスは昨夜の黒柳の、勝ち誇ったような顔を思い出した。
「彼の思い通りにはさせません。この日本の近海に、英国の旗を掲げないボクの軍船を配備してあります。必要とあらば世界中の港から船を呼び寄せます…」
「さすが“ホーク”だ。君の能力には疑う余地がないよ。10年前、ロンドンで初めてランスロット卿から紹介をされた時も、只者ではないと思ったがね…」
「あの時は、ボクはまだ19歳の生意気ざかりでしたからね。世の中に怖いものなどなかったのですよ」
「今もそうではないのかね…?」
岩倉の目には問いかけるような光が浮かんだ。もちろん、岩倉はアスカのことを言っているのだろう。確かに…アスカはアレックスの心を揺さぶる唯一の存在だ。
「貴蝶がアスカのことを気にかけていた。あの子には、自分の果たせなかった幸せを掴んで欲しいと言っていた。いくら本人の希望でも、娼妓にはしたくなかったと…」
「ええ…わかっています。アスカは、誰にも頼ることなく、黒柳に挑戦したかっただけなんです。それがどんなに危険なことか、自分でも気付かずに…。でも彼女はボクが守ります。この件が片付いたら、一緒に英国に連れて行くつもりです。英国で結婚式を挙げるつもりなのです」
「ほう…? それは楽しみだ。それを聞いたら、さぞ貴蝶は喜ぶことだろう」
「ええ…出来ればその時には彼女にも同行してもらいたいのですが…」
「もちろん、貴蝶は嫌とは言わないよ。だがその前に、我々は生き残らなければならない…」
岩倉はやっとホッとしたように、満足そうな笑みを浮かべた。
「さあ、今日のところはこれで別れるとしよう。君と君の恋人が無事に日本を旅立てることを祈っているよ…。そのために、わたしに出来ることはなんでもするつもりだ」
岩倉の顔には確固たる強い決意が表れていた。二人とも命を狙われている状態では、今までのように頻繁に連絡を取ることは難しくなるだろう。だからこそ、岩倉はアレックスに貴蝶を託そうとしたのだ。たぶん、しばらくは顔を合わすことも出来ないだろうから、アレックスは、差し出された岩倉の手をしっかりと握り締めた。
「
午後の騒々しい雑踏の中を、一台の馬車を操りながらイェンは、どこか見覚えのある通りをある場所へと向かっていた。この先の通りを曲がって…その辻を真っ直ぐ行けば、かつて賑やかだったあの場所へとたどり着くはずだ。
7年前、養い親だった大工の棟梁と意気揚々毎日通った町だ。通りはやがて、大きくそびえたつ大門へと続き、その門をくぐると…懐かしいあの場所が見えてくる。
当時15歳の好奇心旺盛な少年だったイェン(荘太)は、香りのいい白粉の匂いと…娼妓たちの夜にはない素顔を見るのが好きだった。師匠でもある棟梁の目を盗んでは、妓楼の裏側に忍び込んで…愛想のいい娼妓たちや、台所の端女たちと戯れていたのだ。といっても、それは大人のするような戯れではなくて、一緒に冗談を言って笑いあったり、お茶をすする程度の他愛もないものだったけれど、少年の荘太にとってはとても刺激的だった。
幸いこの界隈での仕事は豊富にあって、その一年ばかりは毎日のようにその花街へと出掛けて行ったものだ。
何もかもが懐かしい…。イェンはちょうど頭上を通り過ぎる赤い門を見上げながら感慨に浸っていた。同時に彼は、ある不思議な色の瞳を持ったひとりの少女のことを思い出す…。
アスカ…。その少女は荘太を見ると、いつもきらきら輝く銀色の瞳で笑いかけてきた。痩せすぎて、ほっそりとした体つきの少女のどこにそんな力強さがるのか不思議になるほど、アスカは生命力にあふれていた。その瞳の中にある炎を見るたびに、当時の荘太は小さな衝撃を感じたものだ。
あとで思えば、自分はその小さな少女に恋していたのだと気が付いたが、アスカがいなくなったと聞かされたとき、少女の存在がどれほど大きかったかを知ったのである。
でももう…それも昔のことだ。荘太という若者は死んだのだ。今ここにいるのはイェンだ。荘太じゃない…。
馬車は両側にずらりと並ぶ娼館のいちばん奥…。『陽炎』という立派な看板のある妓楼の前で止まった。
陽炎館…。店の前に立ったイェンは、懐かしそうに店の看板を見上げた。イェンのボス、“ホーク”の恋人は陽炎館の娼妓だった…?
イェンは妙な胸騒ぎを感じた。一瞬にして7年前の華やかな娼館の様子を思い出した。今でも店先では、客引きの賑やかな声が響いている。ひとつ大きく深呼吸して、イェンは見せの暖簾をくぐった。
「アスカ姐さん、お迎えの車が来ましたよ…!」
おぼろ月が息を弾ませながら、部屋に飛び込んできた。おぼろ月はこのときを朝からずっと心待ちにしていたのだ。昼過ぎから何度も一階に下りて様子を伺いながら、階段の端に座って階下の物音にじっと耳を済ませていた。迎えが来たら、真っ先にアスカに知らせようと待ち構えていた
「ありがとう…おぼろ月」
アスカは喜びいっぱいのおぼろ月の顔を両手ではさんで、その頬にキスをした。アスカも内心は嬉しくて、今にも飛び上がって階段を駆け下りたいくらいだった。
昨夜初めてアレックスに愛されてから…自分の中で何かが変わった。今はあれほど彼を拒んでいたことが、ひどく無意味なことに思えてくる。出会った瞬間から、アレックスの圧倒的なオーラに翻弄されていたのだ。日本に戻ってくるまで、男性にキスされたこともなかったのだから…。
“世界中に名を馳せた“ホーク”と呼ばれる男に太刀打ち出切るわけないじゃないの…“
そう思いながら、心と裏腹にアレックスを思うだけで、身体の中心が熱く潤ってくるのを感じる。
“ああ…もう何も知らなかった頃には戻れないのね…?”
心の中に小波のように、彼への尽きない欲望の炎が、あとからあとから湧きあがってきてアスカを戸惑わせる。早く彼に会いたい…。
アスカがおぼろ月をともなって部屋を出ると、そこに微笑を浮かべた貴蝶が待っていた。
「アスカ、また会いましょう…。わたしはいつでもあなたの幸せを祈っているわ。」
「ありがとう、貴蝶姐さん…」
アスカは小柄な貴蝶の身体を抱きしめた。
「自分の心に嘘はつかないでね…? アスカ」
耳元で優しい貴蝶の言葉が響く…。
「ええ、姐さん。約束するわ」
アスカは小さくうなずいた。アレックスを知る前なら、頑として首を横には振らなかっただろう。今のアスカは貴蝶にはどんな風に映っているだろうか…? あらためて深く頭を下げたアスカの頭にキスをして、貴蝶はアスカを店の裏口からそっと送り出した。
身請けされた娼妓は、こっそりと裏口から出て行くのが決まりだった。アレックスの希望通り荷物はほとんど持っていかない。小さな風呂敷包みがひとつあるだけだ。
アスカもおぼろ月も、地味な着物の上に羽織という質素な装いで、髪も緩やかに編んだ黒髪をうなじで小さくまとめていた。それでもなめらかな白い肌と煌く水晶の瞳は、アスカの際立った美しさを表すには十分だった。
陽炎館の裏門の外で、懐かしさに感慨に耽っていたイェンは、門の内側から数人の若い衆に見送られて出てくるひとりの女性の姿に目を奪われた。質素な和装に身を包んだ彼女は、見送る人々に優雅に会釈をしているが、その後ろ姿にはどことなく人目を引く何かがあった。イェンが近づいて、あいさつしようと一歩踏み出したとき、こちらを振り向いたアスカと目があった。彼女の瞳の色を見た瞬間、衝撃がイェンの全身を貫く…。
アスカ…? そんなわけがない。アスカは7年前行方不明になって、もう誰もがアスカは生きていないといっていたじゃないか…!?
イェンは呆然と彼女の顔を見つめた。彼女も振り向いた瞬間に、驚いたようにイェンの顔をじっと見つめた。
「ま…まさか、荘太…なの?」
「アスカ…?」
恐る恐るイェンが訪ねると、アスカは涙を溜めた目でうなずいた。
「驚いたよ! また会えるとは思わなかった…」
「わたしも…! この辺りは7年前の大火で焼け野原になったと聞いたのよ。だから…もう知っている人で生きているのは、貴蝶姐さんだけだと思っていたわ…」
アスカは信じられない思いで、目の前に立つ青年を見上げる7年前の荘太は、まだ15歳の少年だった。片頬にあどけないえくぼがあって、そのことをよくからかったものだけれど…今目の前にいる彼には、その頃の面影はもうなかった。でも人懐こい笑顔と、片頬にあるえくぼはそのままで、褐色に日焼けした顔が、精悍さを醸し出している。
アスカがあの頃大好きだった少年は、もうどこにもいないのだ。
「君はもう死んだと聞かされていたから…また会えて嬉しいよ」
「ええ…わたしも。ここでの知り合いは貴蝶姐さんだけだと思っていたから、もうひとり知っている人に出会えたことは、素晴らしい発見だわ。それにあなたが迎えに現れたということは、荘太…あなたはアレックスと何か関係があるのでしょう?」
「アレックス…いや、ルシアン・アレクサンダー・クレファード卿、つまり“ホーク”は、おれの命の恩人で、今は命を捧げても惜しくないと思っている人だ。アスカ、君はボスの恋人なのか…?」
荘太の問いかけにアスカは戸惑った。イエスということは簡単だったけれど、何かがアスカを戸惑わせた。
「いいんだ…。君がどういう経緯でここにいるなんて関係ない。大切なのは君がこうして生きていて…また会えたということだろう…? それにボスは、男のおれから見ても惚れ惚れする人だ。その恋人がアスカならおれは嬉しいよ。これからは君の身辺警護も仰せ使っている。こう見えてもおれは強いんだぞ。7年前に日本を離れてから、ホークと一緒に世界中を回って、中国大陸で武術も学んだんだ」
褐色に日焼けした二の腕を見せて、イェンは笑った。
「荘太…」
「今はもうその名前は捨てたんだ…。おれの今の名前はイェンだ」
「イェン…?」
「そう、さあ、行こう。きっとボスがお待ちかねだ。急がないと…。君もボスのことが好きなんだろう…?」
悪戯っぽく笑うイェンの眼差しに、アスカは真っ赤になった。確かにアスカは、アレックスに夢中になっている。昨夜のアレックスの優しい愛撫を思い出しただけで、体中に歓びが小波のように広がっていく…。
“彼の腕の中に飛び込んでいく覚悟は出来ているわ…”
自分に言い聞かせるようにつぶやいて、不安そうに自分を見上げているおぼろ月に微笑みかけた。
「さあ、行きましょう」
アスカは、イェンの手を借りて、豪華な4輪馬車に乗り込む。座席の柔らかなクッションに身を沈めると、やがて走り出した馬車の窓から遠ざかっていく景色を眺めた。
“さようなら…陽炎館…。 もう二度とここへは戻らないわ…。
愛のかたち…そして試練 1
アレックスの用意してくれた屋敷は、思いの他居心地のいいものだった。外見は洋館風だったけれど、中に入ってみると…思ったよりもずっと和風の内装も多かった。和洋折衷、西洋文化と日本文化が上手く融合されて、不思議な居心地の良さを感じさせてくれる。
「気に入った…?」
2階に用意された広い主寝室の中をあれこれ見て回っているところへイェンが入って来た。
「君の世話をしてくれる人を連れてきたよ」
「お嬢様…!」
イェンの言葉に思わず振り返ると、満面の笑みを浮かべたリリアが立っていた。
「まあ、リリア、あなたなの…!?」
「はい、お嬢様…。またお世話できるなんて、本当に信じられません!あんな風にお屋敷をでておしまいになったので、ずいぶん心配していたんです。よかった…」
リリアは駆け寄ると、アスカの手をとって感激深げに目を潤ませている。アレックスの屋敷に居た頃、不安で眠れない夜に、何度もこの陽気な侍女に励まされたことを思い出した。彼女は生まれは英国だが居たのは12歳までで、あとは海外を転々として、5年前に日本に来たと言っていた。日本語も十分わかるようだし、おぼろ月に対してもやさしくしてくれるはずだ。
「あの…」
そこでイェンの後ろに居た少女が前に進み出る。
「この子は知り合いの娘で、名前をスーといいます。もうひとりの若いお嬢様のお世話をするために連れてきたんです。スーは日本で生まれたので、日本語も話せますから…」
リリアがそう言うと、その少女はぺこりと頭を下げた。
「スーといいます。よろしくお願いします」
恥ずかしそうにそう言う少女は、年のころは12、3歳といったところか、おぼろ月よりはほんの少し年上だが、いい話し相手になるだろう。
そこへひょっこり自分の部屋を見に行っていたおぼろ月が入って来た。
「アスカ姉さん…?」
おぼろ月は頬を上気させて、かなり興奮している様子だった。きっとはじめてみる豪華な屋敷のたたずまいに、圧倒されているのだろう。
「おぼろ月…いえ、今日からは香代だったわね? 香代、あなたのお世話をしてくれるスーよ。あなたよりは少しお姉さんだけれど、仲良くしてね…」
「よろしくお願いいたします。お嬢様…」
スーがきれいな日本語のアクセントであいさつしてくれたので、すっかり香代は嬉しくなった。ずっと言葉が通じないことを不安に思っていたのだで、素晴らしい見方を得た気分なのだろう。ふたりはすぐに息投合して、香代は自分の部屋へと引き上げて行った。
「アスカ、不足なものがあれば行ってくれないか…? 大概はボスの指示でジャマールがそろえてくれているはずだけれど…」
「ええ、まだすべてみたわけではないけれど、大丈夫だわ…」
「そう、じゃあまたあとで…」
「ええ、イェン、いろいろありがとう…」
「いや、ボスの夢中になっている女性が、アスカだと知って嬉しいよ」
イェンはそれだけ言って微笑むと、くるりと背を向けて去って行った。
「彼はいつもアレックスと一緒にいるの?」
「いえ、イェンは3年前から、香港にある宝龍島に住んでいるんです。そこには旦那さまの秘密基地があって、そこを守っているんです。旦那さまは1年に1回はそこにお帰りになられますから…」
「そうなの…?」
アスカはあらためて、自分がアレックスについて何も知らないことに気が付いた。アレックスのことを本気で知りたいと思えば、メルビルの屋敷にいた時だってある程度のことは調べられたはずなのに、アスカはそれをしなかった。彼の圧倒的なオーラにしり込みして、真実から目を背けていたのかもしれない…。
噂では“恐ろしいホーク”といわれている男が、意外にも高潔で思いやりに満ちた紳士であることは、疑いようのない真実だった。それを知ってしまった以上、自分の中に芽生えたこの感情を“愛”といわずに何と呼べばいいのだろう…?
「さあ、お嬢様、じきに旦那さまはお帰りになられます。お風呂に入って身支度をしてお待ちになってはいかがですか…?」
リリアの言葉にアスカは真っ赤になった。リリアは何よりも真っ先に、アレックスが何を求めてくるか、知っているのである。
リリアが続き部屋になっている寝室の…となりにある化粧室のバスタブにお湯をはって入浴の準備をする間、アスカはドレッシング・ルームに設えられたクローゼットの中身をのぞいてみた。
広いスツールは半分に仕切られていて、右側には紳士用の高価なスーツがずらりと並んでいる。そしてその反対側には、色とりどりの流行のドレスがかけられていた。どれも最新流行のもので、美しいデザインと素晴らしい素材で出来ている。
アレックスは何も持たずに身体ひとつで来るようにと言っていた。娼婦と感じられるものは一切持つなということなのだろう。実際目の前に並んでいるドレスは、大胆でも絶対に品位を失わないものばかりだった。
アスカが溜息をついていると、リリア
が入浴の準備が出来たと言ってきた。手伝いましょうか? そう言うリリアの申し出を断って化粧室で…アスカはひとり着ていたものを脱ぐと、ゆったりと広いバスタブに身を沈めた。
じんわりと温かさが体中に浸透してきて、アスカの身も心も蕩けさせる。両手を持ち上げて浴槽の中でやんわりと自分の乳房を持ち上げてみる。自分で触れただけで先端の乳首は固く尖って、まるでキスをねだるように突き出した。
“ああ…もうどうしてしまったのかしら…? ”
昨夜アレックスによってかき立てられた…今までアスカが知ることがなかった官能の嵐は、鎮まることなく身体の中でくすぶっていた。さっきから両足の間は甘く疼いて…早く満たされたいと切望している。
“ああ…アレックス…早く来て…。わたしの側に…」
「メイファンが来ていることをおまえはいつ知ったんだ…!?」
アレックスは語気鋭くジャマールを振り返った。
「わたしも今朝、イェンから聞かされたばかりだ。イェンが君に言えなくて、困っていたみたいだから、わたしから伝えると言ったんだ」
ジャマールはいつものように涼しい顔をして答える。それがまたアレックスの勘にさわった。まさかこんな時期にメイファンが、宝龍島を飛び出して来るとは思わなかった。ただでさえ、黒柳のことで緊張を強いられているところに、アスカのこともあるというのに…。
だいいちあの気性の激しいメイファンがアスカのことを知ったらどうなるか…? 考えるだけでも恐ろしい…。またその逆も有り得る。まったく…なんで今なんだ…!?
アレックスは馬車の窓からひとりぶつぶつと悪態をついた。
「イェンを責めるんなら、お門違いだぞ。イェンは船にメイファンが忍び込んでいることを知らなかったんだ」
「わかっているさ、メイファンはあれでなかなかずる賢いからな。大方誰かを上手く誑し込んだんだろう。まいったな…。で、メイファンはどうした…? まさか、アスカのいる屋敷に連れて行ったとかはなしだぞ。」
「はは…そこまで野暮じゃないさ…君の困る顔を見てみたいという気もするが、それはこの先の愉しみにとっておいて…ひとまずは海岸通の屋敷に入れておいた。着いてみたら、君はおろかイェンもいないから、メイファンの癇癪はそれはすごかったらしい。あの冷静なメイスンが目を回していたと聞いたぞ…」
それを聞いてアレックスは思わずふきだした。困った状態には違いないが、あのいつも冷静で決して取り乱さないメイスンが、うろたえる姿はさぞ見物だったに違いない。本当なら真っ直ぐアスカのもとへ飛んで行きたいアレックスだったが、その気持ちを抑えて、とりあえずは一度海岸通の屋敷に戻ることにした。いまここでメイファンに騒がれては困る。何とか機嫌をとっておくことに越したことはない。
「で、メイファンのことはどうするつもりだ? だいたい今まで放っておいたのが問題じゃないのか? その気もないのに、あそこにおいておくこと自体が間違っているとは思わなかったのか…? それともわたしの思い違いで、君は本気でメイファンを愛人にするつもりだったのか?」
「いや、だがおまえは正しいよ…。おれにその気はない。彼女をあそこにおいておいたのは、いつか彼女が大人になった時、そうと認めた相手に託すためだ。誓って下心などなかったが、長くあそこに留め置いたせいで、メイファンに誤ったメッセージを送ってしまったかもしれないな…」
「そうか、ならそれを信じよう…。まあ、アスカの存在を考えれば、当然という気がしてくるが…」
「当たり前だ! メイファンとアスカを同じには考えられない…」
アレックスがムキになって言い返したところで、馬車は海岸通の屋敷の門をくぐると、西日の長く伸びる通路を進んでいく…。そしてやがて木立の中に、屋敷の緑色の屋根が見えてきた。
「アレックス…!」
メイファンはアレックスの姿を見つけるなり、駆け寄ってきた。彼が馬車から下りてくるのを待つのももどかしげに、しっかりとアレックスの首に両手を絡めると、彼を抱きしめる。アレックスも細い彼女のウエストを抱きながら、その頬にキスをした。
「メイファン! 元気そうだな。君が着ていると聞いて驚いたよ」
「わたし、どうしてもあなたに会いたかったの…! お願い、イェンを責めないでね。勝手についてきたのはわたしのほうなの」
嬉しそうにアレックスの腕に自分の手を絡めたメイファンは、彼は自分のものといわんばかりの勢いだ。
アレックスは苦笑いを浮かべながら、助けてくれ…というような視線をジャマールに送ったが、ジャマールはニヤリと笑っただけだった。
それからおよそ二時間あまり…しっかりとメイファンの、とりとめのないおしゃべりに付き合わされたアレックスは、何とか理由をつけて屋敷を飛び出した頃には、もうすっかりくたびれ果てていた。
「かなりお疲れの様子だな。アレックス…」
「笑っているんだろう…? ジャマール。おれの災難がそんなに面白いか…?」
「そりゃあ、もう…。下手な喜劇を見るよりも何倍も面白い…。世紀の色男が、二人の女を相手に右往左往する様は、結構な見物だよ」
「それが長年の親友に言う言葉か…? だがメイファンのことは早く何とかしなければ、いずれ困ったことになる…」
「そうだな、冗談抜きで今は時期もマズイ。しばらくしたら、時期を見て強引にでも船に乗せて送り出すか…」
「ああ…頼む。このままいけば、おれの体力はもたない…」
アレックスは馬車の背もたれにぐったりともたれ掛かる。
「ほう…? わたしは君の精力は底なしだと思っていたんだが…。それともわたしの思い違いか…?」
相変わらずジャマールの口調は、おもしろがっている様子だ。だがその反面、頭の中では素早く事態の対処方法を考えているに違いない。彼はそんな男だ。
アレックスはもどかしかった。本当なら自分自身で、お気に入りの牡馬を駆って真っ直ぐ、アスカのいる屋敷に向かうところだが、命を狙われている今はそんな危険を冒すわけにはいかない。馬車の両側と後方には彼を守るように、数人の護衛たちが常に取り囲んでいた。
クレファード家の馬車も狙撃されても耐えられるように、馬車の内装の内側には硬い金属の合板がはめ込まれている。山の手の屋敷へと向かう道のりが、とてつもなく長く感じられて仕方なかったが、やっと馬車が屋敷の門をくぐった時には、思わず安堵の溜息が漏れる。
馬車が屋敷の車止めに着くなり、アレックスは馬車を飛び降りて玄関に続く階段を駆け上がった。その後姿を呆れたように見つめるジャマールはつぶやいた。
「やれやれ、やはり君の精力は底なしのようだ…」
「アスカ…!」
玄関ホールを突っ切って、緩やかなカーブを描いて2階へと続く階段を一気に駆け上がると、アレックスは2階にある一番広い主寝室のドアを勢いよく開けた。
主寝室の続き部屋になっている、応接室のソファーに腰掛けて、イェンとする昔話に夢中になっていたアスカは、玄関ホールに響く足音にも、彼女の名前を呼びながら勢いよく階段を駆け上がってくる物音にも気付かなかった。
突然開いたドアの外側に立っているアレックスの姿を見た瞬間、反射的に二人はソファーから飛び上がる。イェンは弾かれたように片側に下がると、部屋の片隅で片膝を着いて控えの姿勢を取った。ピリピリとした緊張感が部屋に漂い、アレックスも言葉をなくしたように無表情で立ち尽くしている。
“彼はきっと誤解しているんだわ…”
とっさにそう思ったアスカは、すぐに笑顔を浮かべてアレックスに歩み寄る。
「アレックス…! ごめんなさい、あなたが帰ってきたのに気が付かなくて…」
アスカは両手を広げてアレックスの胸に飛び込むと、上着の裾から手を差し込んで、しっかりと彼のウエストを抱きしめた。
「アスカ、会いたかった。一瞬とんでもないことを考えてしまったんだが…。君の今の態度を見れば、君もボクと同じように思っていてくれると自惚れてしまいそうだ。そうなのかな…?」
「ええ…そのとおりよ。あなたが誤解したのも仕方ないわね。これは話しておかなければ…。本当にこれは偶然なんだけれど、荘太、いえイェンとわたしは幼馴染みなの。7年前、よく娼館の裏で遊んだのよ。つい懐かしくて…昔話に夢中になってしまったの。ごめんなさい…」
アスカはすまなそうに言って、頭を上げてアレックスの碧い瞳を覗き込んだ。アレックスもしばらくアスカの顔を見つめていたが、おもむろに振り返って傍らに居るイェンを見た。
「そうなのか、イェン…?」
「はい、彼女の言うとおりです。ボクが孤児になって、あなたに拾われる前の話です」
「それなら、ボクは何も言うことはない。変な憶測をして、せっかくの時間を無駄にしたくないからな。イェン、しばらくはよほどのことがない限り、誰もこの部屋には入れるな。
外の警護を強化するようにジャマールに言ってくれ…」
「はい、ボス…」
イェンは丁寧にお辞儀をして部屋を出て行った。アスカはほっとしてアレックスを見る。
アレックスは、扉が閉まるのを待ちきれない様子で激しく唇を重ねてきた。片手をアスカの豊かな黒髪に差し入れて、うなじを押さえるようにして上を向かせると、圧し掛かるように柔らかな唇をむさぼる。
アスカはまるで嵐に翻弄される花びらのようだった。激しく燃え上がる胸の炎に煽られ、自分でも気がつかないうちに震える指先が、アレックスのシャツのボタンを外して…その胸元に滑り込んでなめらかな筋肉の上をなぞっていく…。
アレックスの喉から低い唸り声が漏れた瞬間、アスカはふわりと抱き上げられて柔らかな絨毯の上に横たえられた。目の前には欲望に煙る碧い瞳があった。濃いまつげの間からじっとアスカを熱っぽく見つめている…。
“ああ…アレックス、あなたが欲しい…”
その声が届いたのだろうか…? アレックスはアスカの背中にいくつも並んだ小さなボタンを、片手で器用に外していく…。そうしながらも、目はアスカの唇を見つめたまま、ドレスを肩からウエストまで引き下ろして…露わになった白い胸元に指先を伸ばした。
「アスカ、君は本当にきれいだ…」
アレックスが自制できたのはそこまでだった。ほのかに立ち上るアスカの香りに彼の身体の中を駆け巡る熱い本流は、彼のある一点に集中する。上着とシャツを素早く脱いで後ろに放ると、アスカのシルクの下着を胸元から一気に引き裂いた。
そして…目の前で上下する豊かな白い乳房に身を屈めて唇を這わせながら、ズボンのボタンを外して脱ぎ捨てると、アスカの腰を掴んで素早く一気に刺し貫く…。
一時の熱情が去ったあとで、二人は寄り添いながら横たわっていた。アスカはアレックスの胸に頬を寄せて、彼の規則正しい鼓動を聞いていた。アレックスはアスカの乱れた髪を片手ですきながら、なめらかなその白い肌を愛でていた。
アスカの何がこんなに夢中にさせるのか…? 何度奪っても決して満たされることがない…。やはりアスカは魔女かもしれない。オレの心をどんどん侵食していく…。止まることを知らないくらいだ…。
「アレックス…?」
アスカは頬を上気させてアレックスを見る。
「だめだよ、アスカ。そんな目で見つめられると、またすぐその気になってしまう…。さっきはまるで熱病にかかったティーンネージャーみたいに熱くなってしまった。おかしいだろう? ボクは君よりずっと経験豊富なはずなのに…。君にかかると、まるで自制心がなくなってしまう…」
「それはあなたが、熱い血の通った人間である証拠だわ。決して恐ろしいホークではなく…」
「君は面白いことを言う。ホークの何を知っている…?」
「何も…何も知らないの。だからあなたのことをもっと知りたい…教えて、あなたのことを…」
アスカはアレックスの手を取って、自分の頬に当てた。手のひらから伝わってくる熱がまたアスカの胸に火をつける。
「何から知りたい…? いつどこで生まれたとか…?」
「ええ…続けて…」
アスカはアレックスの胸の柔らかい巻き毛に指を絡ませた。
「ボクは…英国南西部のデヴォンで生まれた。父はシェフィールド公爵、母はリンフォード伯爵の娘だった。典型的な政略結婚で、母は跡継ぎを儲けると、さっさと自分の世界に戻って行った。派手好きな彼女は、田舎暮らしが性に合わなかったのさ。子供が生まれて2年も経つと、夫と幼い子供を残してロンドンの華やかな宮廷生活に戻って行った。ボクの子供時代の話なんて退屈だろう…?
アレックスは苦笑しながら、アスカの手を取って指の一本一本に唇を押し当てた。アスカは急に胸が押しつぶされそうな哀しみに身体が震えた。
「お父さまはどんな方…? 」
「聞きたいのかい…?」
アレックスの声には嘲るような響きがあった。英国の貴族の生活がどんなものなのか、アスカには想像も出来ないけれど、どんなに裕福でも幸せとは限らない。それはどこで生まれようとも変わらないのだとアスカは思っている。
「ええ、聞きたいわ。あなたのことなら何でも知っておきたいの」
「君は好奇心旺盛なんだな。いいだろう…。そのかわり、君のことも話してくれるかい?」
アスカは黙ってうなずいた。 するとアレックスは、淡々と自分の両親について語った。派手好きで破廉恥な母親と、小心者で体面しか気にかけない愚かな父親と…もの心つく頃には、そんな両親に失望し、憎しみさえ感じていたことを…。
「あなたを愛してくれた人は誰もいなかったの?」
「いや、乳母のイレインと母方の祖父母は可愛がってくれた。それに母の異母弟である叔父も…。母が居なくなって、ボクは12歳になるまでとなりの領地にあるリンフォード伯爵である祖父の屋敷で育ったんだ。叔父のロバートは、まるでわが子のように可愛がってくれた。あの悪魔のような女と同じ血が流れているとは思えないほど、ロバートは高潔な心を持っていた。幼いボクは彼を崇拝していたんだ」
アレックスの表情がフッと緩む。普段は弱さなど微塵も感じさせない彼の、心の奥深くに隠された脆く傷つきやすい部分に触れたような気がした。
「叔父さんは素敵な人だったのね?」
「ああ…優しくて、厳しい人だった。跡取りとしての心構えもみんなロバートから学んだんだ。彼が父ならどんなにいいだろうと思っていた」
アレックスの高潔さは、きっとその人から受け継いだものだろう。アスカは、その会ったこともないアレックスの叔父だという人物に不思議な親近感を覚えた。
「ロバートは若い頃、日本にも来たことがあるんだ。その頃はずいぶんと向こう見ずなこともしたと言っていた」
「まあ、あなたの無鉄砲さも叔父様譲りだと言いたいの…?」
「ハハ…そうだな、そうとも言える。船に乗ることもロバートが教えてくれた。12の時に初めてフランスに向けて航海してから、もう夢中になった。それからは毎年のように航海に出て、17の時にはもういっぱしの船乗りのつもりでいたんだ…」
アスカの髪を指先で弄びながら、もう一方の手でなめらかな肌をなぞっていく…。
アレックスの指先が、敏感な部分をかすめるたびにアスカの唇から小さな溜息が漏れた。
「その…叔父さまは…今でも船に…?」
「いや、15年前、ボクが14の時に乗っていた船が難破して、片足が不自由になってからはもう海には出ていない。それに…半年前に亡くなったんだ…」
不意にアレックスの手がアスカを離れ、固く拳を握り締めて絨毯の上に落ちた。唇はキッと結ばれ、瞼を閉じた頬は小さく引きつっている。今のアレックスは、傷ついた小さな少年のようだった。
アレックスは一度アスカを騙している。目的のためには非情にもなれるホークに、こんな一面があったなんて…。
「アレックス…?」
アスカは今のアレックスが、傷つきやすい無防備な少年のように思えて、急に愛しさが込み上げてくる。両手を伸ばして彼の頬を自分に引き寄せ、そっと唇を重ねた。
「慰めてくれるんだね? 君はなんて優しいんだ…」
アレックスはアスカを抱きしめ、豊かな黒髪に顔を埋める。何がこんなに自分を突き動かしているのだろう…? アレックス自身にもわからなかった。今までひとりの女にこうまで自分の心のうちを語ったことなどなかった。まして、幼い頃の話など論外だ。今ではロバートのことを知っているのは、ジャマールくらいなものだ。
ただアスカにはロバートの子供が日本にいることは言わなかった。その子供を捜してほしいという彼の遺言も今は語るつもりはない…。ただでさえ黒柳のことが重く圧し掛かっている今は、そんな話をすればさらにことをややこしくするだけだとわかっている…。
「さあ、あとは何を聞きたい…?」
何事もなかったように顔を上げてアレックスは微笑んだ。アスカはその笑みに蕩けそうになりながらも、自分の心を引き締める。
「子供の頃はどうであれ、今のあなたはホークと呼ばれている人だもの…ここに来た本当の目的は何? 策を弄して私たちに近づいてまで手に入れたいものって何なの…?」
アスカの目はまっすぐアレックスの瞳を捉えている。その目は“もうごまかされないわよ…”そう言っていた。
一瞬の沈黙のあと…アレックスは小さく呻いて、身体を起こすと、一糸まとわぬ姿ですっくと立ち上がった。広い肩と盛り上がった筋肉に覆われた褐色の胸が眩しい。
その胸から引き締まった腹部へと視線が移るにつれ…アスカの頬はカッと熱くなった。さっき彼女をあれほど夢中にさせた逞しい彼自身が、今またしっかりと天を向いて誘っているのを見てしまったのだ。
その瞬間、自分もあられの無い姿で横たわっているのを思い出してとても恥ずかしくなった。慌てて開いていた両膝を閉じて起き上がると、回りに散らばっている自分の服を掻き集めて胸の前を覆った。
「その話をするには、君の自制心をもっと無くしてからだ…」
唸るように言って、アレックスは素早くアスカを抱き上げてベッドに運ぶと、有無を言わせない速さで彼女の中に押し入った。すぐさま再び激しい官能の炎に火が付いて、目まぐるしい嵐のような激しさでアスカを翻弄する。彼女もさらに彼を深く迎え入れようと、仰け反るように腰を突き出して、その激しいリズムに合わせた。
熱い奔流は身体中を駆け巡り、二人は同時に上り詰める。一瞬気を失うのではないかと思うほどの激しい衝撃のあとで、何もかもが光の欠片のようになって飛び散った。アレックスはアスカの名前を叫びながら、ぐったりと彼女の上に覆いかぶさると…アスカはその時初めて、自分が快感のあまり…アレックスの腕に歯を立てていたことに気が付いた。
じんわりと…口の中に血の味がして、見れば彼の上腕にくっきりとアスカの歯型が付いている…。
「まったく…君はまるで山猫だな…これから君をいかせる時には何か猿ぐつわを噛ませることにしよう…」
からかうような口調にアスカは真っ赤になった。
「アレックス…!」
「ボクはホークだ。君に噛み付かれたくらいでビクともしやしない、そうだろう…?」
「ええ…」
「ティアラだ…」
アレックスは唐突に言った。何のことかわからなくて、アスカは瞬きする。
「さっき知りたいと言っただろう…? ボクが何を探しているか…ボクは女王のティアラを探している…」
「女王のティアラ…?」
「そうだ…」
“とてもべッドの中でする寝物語じゃないな…” そう思いながらアレックスは続けた。
「ビクトリア女王のティアラが盗まれた。もう7ヶ月も前の話だ。それは宮廷に仕える女官によって運び出され、密かに海外に持ち去られた。その時に使われたのがメルビルの船だった…」
その瞬間に、アスカは自分の喉がヒューと音を立てたのがわかった。
“何故…? 何故父の船が使われたの…?”
何か言おうとするアスカの唇をアレックスの指が押さえた。
「メルビル…つまりは君の父上の船が、数年前から密輸に関わっていることは調べが付いていたんだ。綿製品や工業製品と偽って、名のある名画や美術品が取引されていた。それがどういうルートで持ち出されているのか、探るのがボクの仕事だった。ボクは英国議会最高位のランスロット卿のもとで働いている。世界中に船を持つクレファード商会のオーナーは仮の姿だ。実際は世界の海を股に掛けて動き回る“海賊ホーク”なのさ。ボクは女王の免罪符を持っている。ボクがこの極東で行うすべての行為は、女王の意志ということになる…」
アスカはただ黙って目の前にいる男の顔を見つめた。この男が世界中で恐れられるあの“ホーク”なのだ。でも同時にアスカの恋人でもある。熱い口づけと抱擁によって、アスカを蕩けさせ…恋の奴隷にしてしまう…。素晴らしい愛撫によって何度も我を忘れ…昨夜から何度天国に連れて行かれたことだろう…。
「それで…」
アスカはやっと喉からかすれた声を絞り出した。
「それで…?」
「メルビルのことよ…何かわかったの…?」
「結局は黒柳に利用されていただけだとわかった。人のいい父上は、10年前からだまされていたんだ。いくら黒柳がやり手でも、ヨーロッパの交易に乗り出すには余程の投資とかなりのコネが必要なことは、やつもわかっていたんだな…。そこでまずはメルビルに目をつけて、日本での交易に手を貸すふりをして言葉巧みにヨーロッパでの取引を持ちかけた。もちろん、そんなことは知りもしない父上は、一も二も無く承諾した。そのあと起こったことは君も知ってのとおりだ」
「父は上手く騙され、密輸の汚名を着せられたのね…?」
「そうだ…そしてそれを知ったショックで父上は亡くなった。英国政府が最初に警告の手紙を父上に送ってから半年後のことだった…」
「だから今回はわざとアンソニーの船を襲わせて、彼に近づいたのね?」
「ああ…下手に警告して、逆に警戒されたのでは、かえってことをややこしくするだけだからね。協力者として近づいた方がことの真相にを知るには役立つと考えたんだ。あのまま放っておいたら、きっと黒柳に利用されたまま…命を落していたかもしれない…」
アレックスの言葉にアスカは蒼くなった。彼の言うとおりだ。あのままアンソニーをアメリカ領事館においておいたなら、今頃は取調べと称した拷問の果てに命を落していたことだろう…。
「ではやはりわたしはあなたに感謝しなければならないわね…アンソニーの命を救っていただいたのだから…。たとえそこにどんな下心があったにしても、あなたを責めることなんて出来ないわ」
「アスカ…ボクはそうしたいからそうしたまでだ。誓って下心なんて無かったし、まして君を手に入れるためにしたんじゃない…」
アスカは真実を見極めようと、アレックスの顔を見つめた。その碧く澄んだ瞳からは、何の疚しさも感じられない…。今までのアレックスの行動と、イェンが話してくれた彼の人柄については、今さら疑う余地は無い。だからこそアスカは彼にすべてを委ねたのだ。
「アレックス…あなたを信じるわ」
「ああ、アスカ…嬉しいよ。君が信じてくれて…。ボクはホークと呼ばれるようになっても、無益な殺生はしたことは一度もないと自負している。ボクが相手の息の根を止めるのは、それだけの価値のある連中だけだ。当然黒柳もその部類の人間だ。奴は密輸品を賄賂にして、各国の大使館に送って連中を傀儡してきた。そして今はそれを操ってこの国さえも変えようとしている。岩倉卿は何年も前から、それを警告してきたが、頭の鈍い連中にはそれがわからない。己の私欲を肥やすことばかりに夢中で、操られていることすら気付かない愚かな連中ばかりだから…」
「何とか止めることは出来ないの?」
「ああ…今それを探っている。連中は近いうちに何かを企てているんだ。それが何かわかれば打つ手もあるだろう。だがその前にわれわれがやつの放った刺客に倒されない限りは…」
「ああ…アレックス、あなたも狙われているのね…!?」
アスカは不意に恐怖に襲われて息をのむ。どうして今まで気付かなかったのだろう…。あれほど身近にいて、ジャマールからも暗に警告されていたはずなのに…。
昨夜の夜会に黒柳も同席していた。その目の前で、アスカを連れ去ったアレックスは、黒柳に宣戦布告したも同然なのだ。それにアンソニーの件もある。その時すでに彼の存在は、黒柳も知っていたに違いない。きっと黒柳はアレックスの命も狙ってくる。そう思うと…アスカは心の奥底から湧いてくる恐怖に、震えが止まらなくなった。
「心配しないで…ボクにはジャマールも付いているし、今までだって何度も命を狙われることはあった。その度にくぐり抜けてきたんだ。今度だってきっとやれる。それより君のことが心配だ。やつだどういうわけか君を狙っている。だがやつには指一本触れさせやしない。絶対に…君はボクのものだ。ボクだけの…」
再びアレックスの瞳が欲望に碧く煌くのをドキドキしながら見つめていた。しだいに呼吸は速さをまして…鼓動は熱く鳴り響く…。抗いきれない欲求にアスカは耐え切れなくなって、自分からアレックスの首に両腕を絡めていった。
「ああ…アレックス…もう一度わたしを奪って…!」
メイファンは朝からずっとイライラして、2階のバルコニーから玄関辺りをうかがっていた。このところアレックスは何日もこの屋敷に姿を見せていない。前に会った時も、忙しいと言い訳をしては、一時間もおかずにまたどこかへ出かけていった。あのイェンでさえ、時々様子を見に来るものの…何かほかに気掛かりがあるのか、いつもそそくさとどこかえ帰っていくのだ。
“何かがおかしい…” きっと自分の知らない何かが起こっているのだとメイファンは気付いていた。今まで何かと側で気遣いを見せていたイェンでさえ遠くに感じられて、無性に寂しくなった。
アレックスが恋しくてたまらずにここまで追いかけてきたのに…そのアレックスはますます遠ざかるばかり、毎日顔を合わせる執事のメイスンは、いつも苦い表情をしているし、女中頭のアリソンのもの言いたげな表情には我慢がならなかった。
それに…メイファンはついに偶然聞いてしまったのだ。たまたま喉がかわいて…台所にミルクを取りに下りてきた時のことだった。若いメイドが二人、キッチンのテーブルの下に隠れてクッキーを摘み食いしながら噂話をしていたのだ。
「ねえ、この前からお屋敷にいらっしゃるお嬢様のこと知ってる? お気の毒に香港から旦那さまを追いかけていらっしゃったんですって…」
「知っているわ。でもお気の毒…旦那さまには今熱烈に愛していらっしゃる方がいらっしゃるんでしょう…? 山の手のお屋敷に住んでいらっしゃるんですって…。旦那さまがいらっしゃらない時には、イェンが側で守っているんですって…どんな方かしら? あの世界一の放蕩者と噂された旦那さまを夢中にさせた方だもの…」
「あら知らないの…? その方は一時このお屋敷にいらっしゃったこともあるのよ…ほら、メルビルのお嬢様…世間的には旦那さまのフィアンセだと公表していらした…」
「ああ…あの方…!? 黒髪に銀色の瞳をしていらした…?」
「そう…素晴らしく美しい方だったわ…!」
二人の若いメイドは、扉の陰でメイファンが聞いていることも知らないで、ペラペラとおしゃべりに夢中になっている。最初は好奇心からじっと耳を傾けていたメイファンも、途中から胸が苦しくなってきて、居たたまれない気持ちになってきた。あのアレックスに恋人がいたと聞いて…平静でいられるわけがない。ましてフィアンセだったと聞けばなおさらだ。
今までもアレックスの並外れた豪遊ぶりは何度もメイファンの耳に入ってきたし、それを聞いてもこんなに動揺することはなかった。どうせ相手は一夜限りの娼婦たちだったし、アレックスが同じ相手を何度も求めたことはなかったからだ。それが今回はどうだろう…? 明らかに今までとは違っている。ひとりの女に屋敷を与え…護衛までつけて…。それにこの本邸といえる屋敷にはほとんど帰って来ないのだ。
メイファンはくらくらするようなめまいを感じてよろめいた。自分でも押さえようの無いどす黒い嫉妬の怒りが、さっきからフツフツと胸の中に渦巻いている。
あのアレックスが夢中になるなんて…いったいどんな女なんだろう…? どうしても自分の目で確かめずにはいられないほど激しい衝動に突き動かされて、メイファンはすぐさま行動に出た。
クレファード邸に出入りしている商人を捕まえて、アレックスが別邸に囲っている“恋人”の情報を聞き出した。その若い商人は、メイファンの美貌に鼻の下を伸ばしながら…彼女が聞きたくないことまで話して聞かせた。
その女は“混血の遊女”で…最近横浜の有名な娼館から身請けされて来たのだという…。
豊かな黒髪に銀色の瞳を持った絶世の美女で、アレックスはその女のために船一艘分の大枚をはたいたということだった。
そこまで聞くと…メイファンはどうしてもその女に会いたくなって、若い商人にいくらかの金を握らせたうえで、山の手にある別邸まで連れて行く約束をさせたのだった。
“絶対に自分の目で確かめてやるわ…! わたしこそがアレックスに相応しい女…そのために今日まで待ち続けたのに、今さら諦められないわ…”
愛のかたち…そして試練 2
それからしばらくは平穏な日々が続いていた。
アスカがこの山の手の別邸に落ち着いてからすでに2週間が過ぎようとしている。
初めてアレックスによって女であることの歓びを教えられてから、夜ごと彼の腕に抱かれる度に、その感覚は飛躍的に広がっている。思いもよらない場所への愛撫に悶えわななきながら、アスカは自分の中に眠る無限大の歓びを知った。
アレックスとの結びつきが、すでに肉欲以上のものであると知っているから、自分がもはや後戻りできないほどアレックスを愛していることも自覚していた。
アレックスも毎日がどんなに忙しく、帰宅が深夜になろうとも、ベッドの中でアスカを愛することを忘れない…。夜になると、彼は誰よりも情熱的で献身的な恋人だった。
「君を何度抱いても飽きることがない…。君とこうしていると、命を狙われているという現実さえ忘れていられる…」
アレックスは以前、アスカに自分の幼い頃の話を聞かせてから、出来るだけ今起こっていることを彼女にも伝えるようにしていた。それはとりも直さず、アスカを信頼している証であり、そのことはアスカをとても安心させるものだったが、ある日深夜にやってきたアレックスを抱きしめた時、アスカはその上着の中に手を入れてギョッとした。
アレックスの肩からわき腹にかけた革製のホルダーに収められた冷たい銃身に触れたのだ。
慌ててアスカが手を引っ込めたので、アレックスは自分で上着の裾を広げてわき腹に収まる銃身を見せた。
「ジャマールに持たされているんだ。いざという時のお守りのようなものだ。心配はいらないよ。ここは陸だが、海に出るときには大概身に付けている」
「アレックス…?」
表情こそ笑っているが、アレックスの頬には疲労の影があった。今の状況はアスカが思っている以上に深刻なのかもしれない。もし今アレックスの身に何かがあったら、自分はどうしたらいいのだろう…? 言い知れない不安にアスカは胸が苦しくなる。
「ボクのことなら大丈夫だ。誰よりも強い守護天使が付いている。そうだろう? ジャマール…」
アレックスは後ろに立っているジャマールを振り返った。ジャマールはやれやれという風に肩をすくめてみせたが、その眼が笑っていないことをアスカは知っていた。
「さあ、せっかくの短い夜を無駄にしたくないんだ。わかってくれるね…?」
「ええ…」
アスカは頬を赤らめながらうなずいた。今は何を言っても仕方ないけれど…。今の幸せが長くは続かないような気がして…それがまたアスカを不安にさせる。でもすぐさまアレックスに抱えあげられて、寝室のドアの向こうに消えるころには、ふたたびアスカの心は、体中を彷徨う彼のしなやかな指先によって掻き立てられる果てしない官能の世界へとさらわれていった。
ジャマールは今までに感じたことのない奇妙な感覚に囚われていた。どんなことにも瞬時に反応する鋭い分析力を自負していたにも関わらず、彼の親友であり、かけがえのない主と仰ぐ人物が今夢中になっている女性に関しては、その感がまったく働かないのだ。
彼女がアレックスに及ぼす影響については、最初からまったく彼の予想外の方向へと進んでいる。アスカに対してあの冷静なアレックスが、まるでティーンネイジャーのような情熱を隠しもしない様子に最初は不安を感じたが、今では頼もしささえ感じている。
ホークと呼ばれ、海賊たちから恐れられる男が、惚れた女のために苦悩する姿は、なんとも興味深い。自分の人生には愛などという甘ったるい感情は無縁だと言い切った男が、今はどうだ…? 今の自分の心情がまさしく”愛”そのものだということに、アレックスは気が付いているのだろうか…?
最初はそのことにかなりの危惧を感じていたが、アレックスの側でふたりの成り行きを見守るうちに、自分の中に妙な保護者的な感情が芽生えていることに、ジャマール自身驚いていた。そしてアレックスはもちろんのことアスカのことも、何があっても命をかけて守り抜こうと決めていた。
「イェン、我々が留守の間に何か変わったことが無かったか? 」
アレックスの姿が二階に消えると、ジャマールは側に控えていたイェンを振り返った。
「いえ、何も…。今のところは目立ったことはなかったけれど…?」
「そうか、このところ立て続けに政府の要人が襲われている。雇われているのはプロの連中だ。ウェン・リーを覚えているか?」
「ああ…香港でも1,2位を争う腕前の持ち主だからな。奴が何か…? 」
イェンはその殺し屋の名前を聞いただけで背筋に寒気を感じた。奴の名前は香港中、いや大陸中に轟いていたのだ。奴はこうと決めた相手は絶対に外さない。それも情け容赦のないやり方だともっぱらの評判だったのだ。
「ウェン・リーがアレックスを狙っている。雇ったのは黒柳…。これまでは奴が直接手を下したことはないが、少なくともここに来るまで三回は襲われている。もちろん、今のところはアレックスに何の影響もないが、奴が直接乗り出して来たら何が起こるか予測もつかない。本来なら英国領事館に閉じ込めて外には出さないところだが、今のアレックスを閉じ込めておくことは不可能だな…」
ウェンはさっきからずっと厳しい表情を崩さないジャマールの目がふっと笑ったのを不思議そうに見つめていた。
「あんたはアスカのことをどう思っている? 僕は幼い頃のアスカを知っている。彼女はどんな困難な時にも葉を食いしばって笑っていた。アスカはきっと本気でボスを愛している。アスカの存在がボスを危険にさらしているとあんたが思っているんなら…」
「勘違いするなよ、イェン」
途端にジャマールはまた厳しい顔に戻る。
「彼女の存在は最初から危険だったんだ。なにせ黒柳は執念深い。そう簡単にアスカのことをあきらめないさ。アレックスだって同じだよ。周りが何を言っても聞く耳は持たないさ。ならば逆に利用するまでだ。黒柳はきっと近いうちに必ずアスカに対して何かを仕掛けてくる。おまえはいつも彼女の側にいて目を光らせていてほしい。名ファンのことはわたしに任せておけ…。アレックスだって承知しているさ。今は海岸通りの屋敷にいるが、時期を見て宝龍島に送り返す。アレックスは、お前の名ファンに対する気持ちにもちゃんと気が付いている」
ジャマールの言葉にイェンは真っ赤になった。ジャマールならともかくボスにまでしれていたなんて…。名ファンの行動に一喜一憂していたのが自分だけだったと知って、イェンは大声で泣きたくなった。
「ということだから、この件が片付けばお前の気持ちも報われるさ」
「でもメイファンの気持ちは…」
自分にはないと言いかけてイェンは口を噤んだ。そんなことを今論じてみたところで何になるだろう。すべては何もかもが片付いてからの話だ。今はボスの身の安全とアスカの幸せを一番に考えなければ…。アスカのつらい子供時代を知っているだけに、彼女には幸せになってほしい。ボスならきっとアスカを幸せにしてくれるだろう。
イェンはただ大きくうなずいていた。
黒柳の書斎には朝早くから次々と手紙が届けられた。そのほとんどが港に入る船とその積み荷に関してだが、彼の最も欲しがっている情報はその中にはなかった。
側近が読み上げる内容に、黒柳は不機嫌な様子を隠しもせず、デスクの上の葉巻の箱へと手を伸ばした。
側近のひとりが素早く火をつけるのに任せながら、片手で膝の上に抱いた黒猫の頭を撫でる。猫は甘えたように喉をゴロゴロと鳴らしてその手に顔を摺り寄せている。
一週間前の手紙では、すぐにでも大陸から”あれ ”は手元に届くはずだったのだ。それが急に大陸を襲った台風のせいで出発が大幅に遅れそうだと連絡が入ったのだ。
「幸いだったな、ウェン。おまえに切った期限がこれでまた伸びたらしい。わたしは”あれ ”が手に入るまでに奴を始末しろと言っていたのだからな…」
昼間だというのに窓に引かれた分厚いゴブラン織りのカーテンは、一切の太陽光を遮って豪華な造りの書斎の中を、薄暗い威圧的な雰囲気に変えていた。マホガニー製の研き抜かれた重厚なテーブルの表面には妖婦を象った彫刻が施されたオイルランプの炎が揺らめいていて、ますます怪しげな雰囲気を醸し出している。
「確かに…おっしゃるとおり…」
どこから現れたのか、暗闇に中からゾッとするような眼差しの男が現れた。髪も黒、浅黒い頬のこけた顔の中で、凍るような冷たい眼差しの黒い瞳が嘲るような光を放っている。
「この二週間じっくりと奴を観察させてもらった。実に興味深い。殺すには惜しいほどの美形ですな…」
男は傷のある口元を微かに歪めて笑った。
「ふ…いざとなったら殺すのが惜しくなったのか? ウェン・リー。おまえの趣味は知っている。柔らかい女の肌よりも美しく引き締まった若い男を好むこともな…。だが奴は危険すぎる。あの男は女王の免罪符を持っている。それがどういうことか、おまえもわかっているはずだが…?」
「もちろん、ただわたしなりにやり方を選んでいるだけだ。もっとも効果的なやり方で、あの男の息を止める。どうせならあの美しい顔が苦痛に悶える様をゆっくり眺めたいだけなのでね…」
「ふむ…やり方はお前に任せる。奴の息の根を止め、わたしの欲しがっているものをここに連れてきてもらえばそれでいい。大陸から”あれ ”が手元に届くその日までにな…。そのためにある筋から手を打っておいた。来週クレファードはあることのためにしばらく領事館に足止めを食う。その間に事を起こせ。それによってお前の仕事はさらにやりやすくなるはずだ」
「感謝いたします…御前」
男は現れた時同様、猫のように音も立てずに部屋を出て行った。黒柳は葉巻をくよらせながら、吐き出した煙の向こうに男の顔が消えると、おもむろに立ち上がった。猫は膝から飛び降りて、小さく鳴いてまたどこかへ消えていく。
窓に近寄ってカーテンの隙間から空を見上げた瞬間、黒柳は小さく唸って後ずさった。太陽光線が、一瞬目の中に飛び込んで来た瞬間に激しい痛みを感じたのだ。もう何年も前から症状は始まっていた。
徐々に視界がぼやける様になって、やがて明るい陽射しは否応なく黒柳の目を蝕んでいった。昼間でも暗闇を好み、仕方なく外出する時には、特注の濃い色の眼鏡をかけた。
そうするうちに徐々に視力も奪われていって、今ではもうぼんやりとした明かりの中でさえまともに見ることさえ出来なくなっていた。
“忌々しい…!” どんな医者に見せてもこの病を治す手立ては見つけられなかった。
どうせいつかこの目が見えなくなって、永遠の暗闇に閉じ込められるのなら…その前に最高の美しいものをこの目に焼き付けておきたい。いつしかそう心の奥で切望するようになった。
そんな時にあの娘に出会ったのだ。その姿は月の女神、アルテミスのようだと黒柳は思った。青みが買った美しい黒髪は豊かで真っすぐに腰まで流れ落ち、染みひとつない透き通るような白い肌は真珠のように輝いていた。すっと通った小さな鼻は愛らしく、ふっくらとした唇はバラ色だった。
そしてあの目…。瞳の外側は鋳造されたばかりの銀色でその内側は済んだ碧水晶の輝きがあった。一目見るなり魅せられ、何をしても欲しくなったのだ。
彼女こそ女王にふさわしい…。輝くばかりの宝石に彩られたティアラを頭上に戴き…アルテミス…月の女神のように、一糸まとわぬ姿で月光の下に立つその姿を、この目に永遠に焼き付けるのだ。
黒柳はその時を思い描いて密かな笑みを浮かべた。ティアラはもうすぐ手元に届く。そしてアスカも…。あの忌々しいクレファードにアスカの純潔はくれてやったかもしれないが、そんなことは黒柳にはどうでもよかった。今目の前に見えるもの…それだけがすべてなのだ。
ティアラだけ…その身に付けたアスカが自分の目の前に立つさまを黒柳は思い浮かべる。細い両腕を天井から吊るされた細い鎖につながれたその姿は、最高に美しい…。
華奢な身体に似つかわしくないほど豊かに張り詰めた胸の頂はツンと上を向いて、細いウエストから腰に続く曲線はなめらかで官能的だ。
その細くしなやかな足首を掴んで、思いっきり開かせる様を思い描くと…黒柳は歪んだ欲望に指先が震えるのを覚えた。
もうすぐ…もうすぐなのだ。そのすべてがこの手にはいるのは…。期待に胸は子供のように疼いてくる。その欲望を満たすためなら、この国がどうなろうと知ったことか…。たったそれだけのために…今まで黒柳がしてきたことを見てきた連中が知ったら口をそろえてそう言うだろう。だがそれで構わない。今の黒柳にはそれだけがすべてなのだから…。
メイファンはまさに今、爆発寸前だった。約束したにも関わらず、業者は一向にその日がいつとも伝えてこない。
この一週間、アレックスは一度も屋敷に戻らず、申し訳程度にジャマールが様子を伺いに来ただけだ。そのうえにイェンも一度も会いに来てくれず、毎日目にするのは、厳つい執事のメイソンとメイド頭のアリソンの退屈な顔だけ…。
遅い朝食の並んだテーブルにひとり座りながら、メイファンは遂に我慢しきれなくなって、膝の上のナプキンを床に放り投げた。
勢いよく立ち上がってすぐさま二階に駆け上がると、自室のワードローブの中に頭を突っ込んで、中から黒い布包を取り出した。慎重に包を解いて中から小型の拳銃を手に取る。英国製の銃で、女性でも扱えるように銃身は短く、握りの部分も細く出来ているので、ドレスの中に隠し持つことも可能なのだ。
メイファンは安全装置が掛かっているのをを確認して、それをドレスのポケットに忍ばせた。
もうこれ以上待っては居られないわ。今日こそ真実を確かめるのよ…。
今日はいつもの業者が屋敷にやってくる日だった。今日こそは脅してでも山の手の屋敷に連れて行ってもらうのだ。
メイファンはさりげなく地下にある食糧貯蔵庫の中に身を隠すと、午後になって荷物を積んだ商人の馬車が裏門から入ってくるのを待った。
貯蔵庫は屋敷の裏手にあって、いちいち屋敷の中に入らなくても、直接荷物を運びこめるように、外側にもう一つ扉が作られている。
メイファンは商人が荷馬車から荷物を運び込んでいる間にこっそり荷馬車の中に忍び込むつもりだった。
荷馬車がいったん屋敷を離れてしまえば、あとは拳銃で業者を脅して山の手まで荷馬車を走らせればいいのだ。
メイファンは若いメイドが貯蔵庫に下りていくのをこっそりつけていくと、物陰から
わざと彼女の名前を呼んで、呼ばれた彼女が外に出て、声の主を探している間に素早く貯蔵庫の中に滑り込んだ。しばらくして首をかしげながら戻ってきた彼女が、用を済ませてまた鍵を下ろして去っていく頃には、メイファンは貯蔵庫の中でひとりクスクスと笑いをかみ殺していた。
ここまでは上手くいった。屋敷の使用人の誰ひとりとして、メイファンがこんなところに隠れているなんて思いもしないだろう。あとは最後の仕上げが待っている。ここで失敗したら元も子もないのだから、慎重にしないと…。
予定ならあと一時間もしないうちに荷馬車がやって来るはず…。メイファンはワクワクしながらその時を待った。
「イェン、アレックスはどこ…? さっき馬車が入ってくるのが見えたわ…!」
二階のテラスで読書をしていたアスカは、表門をくぐって来るばしゃが目にとまると、急いで玄関ポーチにつながる階段を駆け下りてきた。
階段の下ではイェンがかしこまった面持ちで控えている。彼がこんな表情をするのは、アレックスを迎える時だけだ。
彼が来た…! そう思うだけで気持ちが高揚してくる。この屋敷に住むようになって二週間余り…アレックスを深く知るようになって、アスカはますます自分の心が彼に傾いていくのを感じていた。
それはどうしようもなく、理性も感情も超越した世界での結びつきだとアスカは思っている。ただ自分が想うのと同じくらい彼が自分のことを想っていてくれると自惚れるほど愚かにはなれなくて…。
アスカの心には常に、いつかくる“別れ”にたいするあきらめに似も似た想いがある。
アレックスほどの男が、愚にもつかない小娘にのぼせ上って一生を決めるほど愚かでないことはよくわかっている。今は熱情に浮かれて、毎夜のように通ってきては一つのベッドで夜を明かしているけれど、一度任務を遂行してしまえば、ホークはまたひとりの上田肉食獣に戻るのだ。決して誰か一人に飼い馴らされるような生き方はしない…。
彼の硬く引き締まった身体に組み敷かれ、夜ごと彼の持つ激しい情熱を知れば知るほど、その確信は強まっていく。
ホークは決して、一人の女のものにはならない…。ましてただの男として…私のもとにとどまるなんてありえないのだから…。
「イェン、アレックスはどこ…?」
「ボスならたった今書斎に…。大切な報せが届いて、すぐさま返事を書くために書斎に入ったんだ。その他にもすぐ処理しなければならない案件がいくつもあって…」
イェンはアスカを見ると、申し訳なさそうに言った。
わかっているのだ。アレックスが忙しいのは…。だからそんなに気を使わないで…。
アスカはそうイェンに言った。
「いいの…。用事が済むまで部屋でまっているわ」
アスカはそう言ってほほ笑むと、二階への階段を上って行った。
アレックスは、自分の本当の姿をアスカに明かしてからは、もう自分の日々の活動を彼女に隠すことはなくなった。堂々とこの屋敷の中で、腹心たちを相手にあらゆる支持を出しながら、ホークさながらの鋭さで動き回っている。
その姿を間近で見るのはかえって心地いいと感じるくらいだ。だからアスカも出来るだけ邪魔をしないように、アレックスが自分からアスカの元へ来るまでは一階へは下りないようにしていたのだ。
「旦那様は今日も戻るなり、書斎に直行して…そのまま籠りっぱなしですか? もう何のためにここにいらしたのか、わかっていらっしゃるのかしら? お嬢様をこの屋敷に閉じ込めたままで、顔も見せないなんて…。手に入れるまでは一生懸命なのに、手に入れたとたんに疎かにするなんて許せませんよ。ここはわたしから旦那様に申し上げて…」
ちょっとアスカが沈んだ表情をすると、すぐさまリリアがそう言って慰めるようにアスカの手をそっとたたいた。
「いいのよ、リリア。旦那様は忙しいんだもの。前の何も知らなかった頃の私なら放っておかれたことに腹を立てていたかもしれないけれど、今のわたしは彼のことも少しは理解できるの。アレックスは今大変な仕事をしているんだもの。命が掛かっているならなおさらだわ。わたしなら大丈夫だから…」
アスカは微笑んで見せるが、自分の今の顔がひどい状態なのはわかっていた。この数日間、自分を取り巻くすべてのことが目まぐるしく変わっていくのに、アスカだけが取り残され行くような、そんな焦燥感にずっと囚われていたのだ。
三日前から突然それは始まった。大阪から香代の母の妹だという女性が訪ねてきたのだ。もともと香代の母の実家は大阪にあって、母親は当時大阪に旅芸人として訪れていた父親と知り合い、駆け落ち同然にして東京に上京して来たのだという。
東京に出てきたものの、職もなく生活に困った二人は、知人に子供を預け再び旅回りの芸人として日本中を回っていたが、ある日二人とも遠く離れた地で流行り病を得て呆気なくなくなった。
子供を預かってくれていた夫婦も決して裕福ではなかったために、幼かった香代を里子に出し、そこから香代は陽炎館に身を寄せることになったのだ。
香代の叔母と名乗る女性は、大棚の女将らしく品のいい身なりをしていた。彼女は駆け落ちした妹の身を案じて、こっそり何年もその行方をさがしていたのだという…。
「人を雇って何年も探し続けていたんです。5年前まで東京の品川に住んでいたことは確かめたのですが、その先はなかなか掴めなくて…。先月たまたまこちらの港に取引のある知人からそれらしい娘がこちらのお屋敷でお世話になっていると聞かされてからは、居てもたってもいられなくてこうして訪ねてきたのです…」
女性はそう涙ながらに語ると、呼ばれてやってきた香代を一目見るなり駆け寄って抱きしめた。
最初は疑っていたアスカも、二人を並べてみてその女性の面差しが、あまりにも香代に似ていることに気が付くと、それ以上は何も言えなくなった。
香代自身も最初はひどく驚いていたけれど、話をして打ち解けるうちにすっかりその女性に心を許したようで、自分に身寄りがいたことをとても喜んだ。
「香代…あなたがこの型と一緒に行きたいのなら、行ってかまわないのよ。あなたにとっては唯一の身内で、これからは家族になるんですもの。わたしと一緒にいるよりも、きっと幸せになれると思うの。あなたにはお父さんとお母さんになってくれる人が必要だもの…」
アスカは不安そうな表情の香代の手を取ってそう言った。
実際大阪から来た香代の叔母には子供がなく、夫共々香代を養子にしたいと申し出ていた。
それに叔母の家は大阪でも大手のコメ問屋で、これから先香代が生活に困ることはないだろう。
そう…アレックスの愛人として暮らす今のわたしの側によりも、もっと子供らしい当たり前の生活を送れるにちがいないのだ。
「でも姉さん、旦那様が…」
「大丈夫。アレックスもきっと私と同じ考えよ。いつでもあなたの幸せを祈っているわ」
「大阪に行ったら、手紙を書いていい…?」
「もちろんよ…!」
アスカは笑いながら小さな香代の身体を抱きしめる。今離れたらもう二度と会えないことはわかっていた。これから香代の行く世界と、今アスカの住む世界は天と地ほどに違うのだ。
香代の叔母は次の船で帰らなければならないために、二日ほど屋敷に滞在してから、香代を伴って大阪へと帰って行った。
香代のためにはそうすることが一番だとわかっていながら、たった二か月という短い間だったとはいえ、香代と過ごした日々は楽しくて…アスカは香代の去った屋敷の中で、ぽっかりと空いた心の隙間を埋めるのは難しかった。
アレックスも忙しい合間をぬって出来るだけアスカと過ごす時間をとるように気を配って
くれていることに感謝しながら、それでも何かが足りない気がしていた。
そして昨日…。唯一の心の拠りどころだった貴蝶までもが日本を離れるという知らせがアスカの元に届いた。
「貴蝶の身に危険が及ぶことを岩倉卿は心配しているんだ。彼女は岩倉卿の腹違いの妹だ」
「そうなの…?」
アレックスの説明を聞いていてもアスカの心が晴れることはなかった。最初はアンソニー、そして香代に貴蝶までも…アスカが大切に思う人はみんなどこか遠くへと行ってしまう…。そんな想いは日毎に膨らんでいって、いつかアレックスさえもアスカの手の届かないところへ行ってしまうような気がして、気持ちはひどく落ち込んだ。
「アスカ…すまない、このところ君の側にいられなくて…。寂しい想いをさせているのはわかっているんだが…」
「何…? そんな言葉はあなたには似合わないわ。わたしなら大丈夫。今まで生きてきて、どんな時にも泣き言を吐いたことはないのよ、そんな軟な慰めの言葉ならどこかに捨ててきて…!」
今にも泣き出しそうな想いを押し込んで、アスカはツンと顎をそらして机上にアレックスを睨みつける。
「ハハ…それでこそボクのアスカだ…」
アレックスはアスカを抱き上げて、声を上げるまで情熱的な口づけを顔や胸元に繰り返しながら、二階への階段を駆け上がる。
「大丈夫だ。」貴蝶が日本を離れるのは黒柳の県が片付くまでだ。すべてが終わったらまた貴蝶に会える。アンソニーにもだ。彼らは大陸にあるボクの隠れ家である宝龍島にいる。黒柳を倒したら君を必ず宝龍島へ連れて行くよ」
「アレックス…」
「さあ、おいで。ボクに与えられた時間は短いんだ。時間は有効に使いたい…」
アレックスは待ちきれない様子で、アスカを抱いたまま二階の主寝室に入って、後ろ足でドアを閉めた。
情熱的に唇を求めながらアスカをベッドに運ぶと、背中に回した手でドレスに並ぶ小さなボタンを器用に片手で外していく。
アスカももどかしげに両手でアレックスの首からシルクのクラバットを解いて、シャツのボタンをひとつひとつ外すと、胸元に手を滑り込ませた。
アスカはこれまで以上にアレックスが欲しかった。確かな肌の温もりが、これほどの安心感を与えてくれるとは思わなかった。いつの間にか自分の身体からすべての衣が取り払われて、アレックスの硬い膝が自分の両足を深く割って入るころには、彼を求める甘い切望に全身が震えるのを感じた。
「アレックス、お願い…!」
「まだだ…」
アレックスの声も欲望にかすれている。もどかしげにシャツとズボンを脱ぎ棄てて、アスカの片足を抱きかかえると、唇を首の付け根のくぼみへと押し当てた。
ゆっくりと焦らしながら固く張り詰めた乳房の先にツンと誇らしげに上を向くピンク色の蕾へと舌を這わせていく…。
期待を込めた小さな吐息がアスカの唇から漏れると、わざと焦らすように白い肌との境目に沿って円を描くようにした先でなぞった。
抗議するようにアスカが唸ると、アレックスは舌先を丸めてベルベットのような蕾の先を突き、なぞり…唇で挟んで強く吸い上げる。
同時に両足の間の秘めた場所に忍び込ませた手で柔らかな谷間を覆いながら…人差し指と中指を熱い襞の中に滑り込ませた。
親指の腹でゆっくりと膨らんだ小さな突起を撫で上げると、アスカの喉の奥から小さな悲鳴がほとばしり…小刻みに震えながらきつくアレックスの指を締め付けてくる。
「ああ…最高だよ。アスカ…」
素早く指を引き抜いて、代わりに今にも爆ぜそうな自分自身をあてがうと、」アレックスは勢いそのまま中に押し入った。もう何度もその体に受け入れてその大きさに慣れているはずなのに、アレックス自身の硬く張り詰めた先端が、じわじわと柔らかな襞を押し広げながら入って来る感覚に、アスカは慄く…。
激しく突き上げられる度に狂ったようにアスカの中で、熱いほとばしりが出口を求めて舞い上がっていく。それでも今の素晴らしい時間をほんの少しでも長続きさせたくて、」アスカが小さく自制していると、それを許さないというようにアレックスはさらに深く穿ちながら強く突き上げる…。
「ああ…アレックス!もうダメ…!」
アスカが大きく叫んで背中をのけぞらせると、彼女の中で起こった激しい痙攣に誘われるようにアレックスも一気に上り詰め…かつて感じたことのないほどの開館に我を忘れた。
明るい午後の日差しの中で、二人は寄り添いながら互いを愛おしむように肌を寄せ合い微睡んでいた。
「あなたの身に危険はないの…? 貴蝶姉さんはもう無事に出航できたのかしら…?」
「ああ…昨夜出航した。貴蝶のことは心配しなくてもいい。宝龍島は安全な島だから、誰にも手出しはさせないさ…」
「ええ…でもあなたは? あなたはどうなの…? 最近のあなたはとても疲れているみたい…」
アスカは手をのばして、アレックスの目の下にうっすらと浮かぶ肌のくすみを指先でなぞる。
「ああ…このところ油断のならない状況が続いている。今では黒柳だけじゃなく、フランスの動きにも注意しなければならない。連中は抜け目がないから、政府が危うくなればすぐさま足元をすくいに来るだろう。だから常に目を光らせておかなければならない…」
「だからあなたは毎日人を送って見晴らせているのね…?」
そうさ。ついでにフランス大使と黒柳、政府の役人の誰かが結んでいるという密約の証拠も探している…」
「それは確かなの…?」
「ああ、それが手に入れば、一気に奴らを片付ける口実が出来るんだが…。でも今は君だ。君と過ごすこの時間だけがボクにとっては唯一の癒しになるんだ。頼む…君の中で何もかも忘れさせてほしい…」
その言葉に、アスカはまた甘美な陶酔の中に引込まれていった。アレックスの指先は、まるで羽毛のように軽やかにアスカの剝き出しの柔肌を撫でていく…。
唇を軽くなぞった後で、耳たぶを挟んで引っ張る。首筋の波打つ動脈をなぞりながら…胸のふくらみの下側を丸くカーブを描くようになぞっていくと…アスカは切なげに身体をよじってその先を求め親指の腹でレックスの膝の上を彷徨い、しばらくは張り詰めた硬い筋肉とそれを覆う金色の巻き毛の感触を楽しんでいたが、不意に彼の…力強く天を向く男性自身に触れると…アレックスの喉から低いうめき声が漏れた。
アスカは自分でも気が付かないうちに掌でそっと包み込むように握ると…夢中で親指の腹で硬く張り詰めた太く長い彼自身の、その脈動がどくどくと流れ込むあたりを優しくなでながら、上下に動かした。その度にアレックスの下半身がピクピク跳ねる。
「それ以上はだめだ、アスカ…。君を満足させるまで持ちそうにない…」
切なげに吐き出す言葉を聞きながら、アスカは片足をアレックスの腰に巻き付けて、自分の熱くたぎる泉の中へそれを導いた。難なくアスカの中に滑りこんだアレックスはその熱さに呻いた。
何度アスカを抱いても決して飽きることが無い。それどころかますますほしくなるのだ。甘い蜜に引き寄せられる蝶のように五管は麻痺したまま…永遠にその場所に囚われてしまった気がする…。
穏やかで緩慢なけだるい雰囲気の中…アスカはアレックスの温かな腕の中で、彼の喉元あたりに額を摺り寄せる。すっかり慣れてしまった高級コロンと彼の男性的な香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「アスカ…これからしばらくは君とこんな風に過ごすこともままならない日が続く…。黒柳のことはボクに任せてくれないか?」
「ええ…あなたを信じます…」
アスカはアレックスの吸い込まれそうな碧い瞳を見つめながら言った。
今は彼を信じる以外にないことはわかっている。また余計な詮索をすれば、それこそ彼を危険にさらすことになると知っているから…。今はじっと待つしかないのだとアスカは自分に言い聞かせた。
「すべてが片付いたら君はボクと一緒にロンドンに行くんだ…」
「ロンドンへ…?」
びっくりして見つめるアスカの肩先にキスをして、アレックスはとろけるような笑顔で彼女を魅了する。
「ああ、君はそこでレディ・シェフィールドになる…」
「え…?」
「公爵夫人と呼ばれるのは嫌かい…?」
アレックスの瞳がますます碧く感じられて…アスカは眩しさに目を閉じた。
孤児で混血の私が公爵夫人…? とても信じられない…。アレックスの言葉を疑うわけではないけれど、アメリカにいたころに、英国の古くからの貴族社会がどういうものか、少しは聞いて知っている。
高貴な血筋を重んじ、古くからの因習にとらわれた世界に、今のアスカが受け入れられるとは到底思えなかった。ましてアレックスは英国でも最も高貴で裕福な貴族だ。その跡継ぎを生む女性に混血なんて許されるわけがない…。
「ありがとう…。でも私は身寄りのない孤児よ。あなたの奥さんにはなれない…」
それ以上は言わせないというようにアレックスはアスカの唇を指先で抑えた。
「話を聞いたかぎりでは君の父上は間違いなく貴族だ。そのうえ母上も没落したとはいえ、名士の生まれだった。それ以上何を望む…? 調べさせたんだ。当時日本に来ていた英国人は100人近く…その中に貴族の生まれもたくさんいたんだ。領事館の記録にも残っているけれど、確かなことはロンドンに戻ってみなければ分からない。だからボクと一緒にロンドンに行って、君の父上が誰なのか突き止めよう。もしかしたらまだ生きていて、君が会いに来るのを待っているのかもしれない…」
「ああ…アレックス…」
自分でもあふれてくる涙をどうしようもなかった。涙でかすれてアレックスが今どんな表情をしているのか、確かめようがない…。きっと彼は相変わらず最高に魅力的な笑みを浮かべているはず…。
アレックスの唇がアスカの瞼に下りてきて、涙を吸い取るようにそっと頬を撫でる。アスカは自分がまるで幼い子供になったような気がしていた。
逞しい腕に抱かれ、優しく背中を撫でる大きな手にすっかり安心して、いつまでも守られているという感覚にどっぷりと甘えていたかった。
お願い、神様…。どうかわたしに勇気をください。この先何があっても耐えていけるだけの勇気を…。
愛のかたち…そして試練 3
アレックスの言うとおり、平和で穏やかな時間はそう長くは続かなかった。次の日の朝早く、英国領事館から使いがくると、アレックスはジャマールを伴ってあわただしく出かけて行った。
今は仕方がないとわかってはいるものの…心の中の不安が顔に現れているのだろう…。側に立つイェンがそっと大丈夫だというように微笑む。
真夏の太陽はすでに容赦なく大地に降り注ぎ、その眩しさにアスカは目を細めた。
閉じた瞼の裏側に、昨夜の熱い抱擁と揺るぎない愛の言葉をささやいたアレックスの面影が浮かんでくる。
繊細な彫刻のように整った顔立ちを淡い金色の髪が包む…真っ青な空色の瞳が優しく微笑むとき、アスカは今すぐ死んでもいいと思えるほどの幸福感に胸が震えた。
彼の言葉通りにすべてが片付いて、本当にそんな日が来るのなら…何を迷うことがあるのだろう…?
だが心の片隅に巣食う小さな悪魔がそっとささやく…。
“甘い夢は見ないで…。さんざん裏切られたくせに、まだ夢を見たいロマンチックなハッピーエンドはおとぎ話の中だけ…。アレックスとの間にはそんな日は永遠に来ないのよ…”
愛のかたち…そして試練 4
メイファンは心の底から込み上げてくる興奮を抑えきれなかった。何日も前から綿密に練り上げてきた計画がついに実行する時が来たのだ。
居留区にある屋敷の貯蔵庫の中にじっと隠れていたメイファンは、商人が外の扉の鍵を開けて荷物を運び込む間に素早く商人の乗ってきた荷馬車に乗り込むと、物陰に隠れて用事を終えた商人が戻ってくるのを待った。
何も知らない商人は、仕事を終えて再び扉の鍵を下ろして荷馬車に戻ると、何食わぬ顔で馬車をまた屋敷の裏門へと走らせた。
馬車が長い私道を通って裏門をくぐり、大きな邸宅の並ぶ海岸通りの外れに差し掛かると、メイファンは意を決したように立ち上がって足音を忍ばせながら、そっと御者台の後ろへと回った。
「声を立てないで…! 私の顔は覚えているわよね? 命が惜しかったら域ことを聞いて…!」
50過ぎの中国人は背中に突き付けられたピストルに怯えながら青い顔をして小さくうなずいた。
「クレファード卿の山の手にある屋敷へ行って…! いつも通り荷物を下すふりをしてくれればいいの。あとは勝手にするから…」
男は何度も小さくうなずきながら、震える手で馬車の手綱操った。
午後になってイェンも何か急用が出来たようで、慌ただしく挨拶に来ると、そのまま何処かへ出かけて行った。
「まあ、まあ! このところお屋敷はずいぶんと騒々しいですね? 旦那様は夜更けに来たと思ったら、すぐに夜明けを待たずにまたお出かけなんて…。お気づきでしたか? 昨日から警備の人数が倍になりましたよ…」
アスカの髪を梳かしながら、侍女のリリアが心配そうに言った。
「まるで今から戦争でも起こりそうな雰囲気ですよ…」
「仕方がないわ。今は大切な時期なんですもの…」
「ですが、お嬢様はこの屋敷にいらしてから、まだ一度も外出なさっていらっしゃいません。どんなに気詰まりでいらっしゃるか…。旦那様はお嬢様をここに閉じ込めて平気なんでしょうか…?」
「いいのよ、リリア、わたしは…」
リリアに、自分こそが黒柳の標的になっているのだと説明したところで混乱を招くだけだろう…。
アスカは困ったように微笑んで、疲れたからしばらく横になると告げた。
「晩餐まではまだしばらく時間がありますから、ゆっくりお休みになれますよ」
リリアは午後の日差しを避けるように、窓辺のカーテンを引いてから、ベッドの上がったアスカの足元に薄い上掛けを引き寄せた。
リリアが出ていくと、部屋はまたひっそりと静まり返って、外の物々しい雰囲気を全く感じさせない。
一人になると、どっと疲れが押し寄せてきて、瞼を閉じたとたんに深い眠りに落ちて行った。
どれだけ時間がたったのだろう…? ドアの向こう側の廊下の奥から聞こえてくる騒々しい物音にアスカは目を開けた。
いつの間にかあたりはすっかり暗くなっていて、白いベッドカバーの上に明るい月が覗いていた。
「お嬢様…?」
音もなく開いたドアから困惑した表情のリリアが入ってきて、アスカは反射的に起き上がった。
「どうしたの…? 何があったの…? あの音は何」…?」
ドアの隙間からはっきりと誰かの叫び声と、」争うような声が聞こえている。一瞬黒柳のことが頭に浮かんで、アスカは身体をこわばらせた。
それを見てリリアは急に口ごもる。
「いえ、実はあの…海岸通りにあるお屋敷から、ある方が急にこちらにいらっしゃって…」
リリアはどう説明して良いかわからない…というように困った顔をして首を振る。
「なあに…? わかるように説明してちょうだい…」
「あの…2週間ほど前に、宝龍島からあるお嬢様がいらっしゃって、ずっとあちらに滞在なさっていたのですが、困ったことに急にこの屋敷にいらっしゃってアスカ様に会わせろとおっしゃっているのです…」
「まあ、お客様なの…?」
「はい、いえ…あのお嬢様があの方に会われるのは、旦那様が喜ばれないのではないかと…」
リリアの言葉にアスカはことのいきさつを何となく理解した。今この屋敷を訪ねてきているというのは、アレックスが宝龍島で育てているメイファンという少女だ。16歳の美少女で、幼い頃からアレックスを慕っているという…。
メイファンのことはアスカもイェンからそれとなく聞いていた。
アレックスが彼女を引き取ることになった経緯も、イェンがメイファンに対して抱いている感情も…。
「いいわ…。わたしもその方に会いたいわ。客間に通して差し上げて…。用意が出来次第下に下りてお会いすると伝えてちょうだい…」
「でも…旦那様はおろか、イェンもいない今、あの方をここにお入れするのは…」
「大丈夫よ。それに若いお嬢さんを玄関先で追い払うのはどうかと思うわ。彼女をどうするかはアレックスが決めることよ。それまではお客様として扱うわ…」
アスカの言葉に不満ながらも小さくうなずいたリリアは、アスカの支度を無言で手伝うと…入ってきた時同様また静かに出て行った。
「まあ困ったことと言えば困ったことなんだろうけれど…」
メイファンは気の強い少女で、アレックスを一途に慕っていたとイェンは言っていた。ならばアスカの存在は、彼女にとってひどく気がかりなことに違いない。
アレックスを追いかけて日本まで来たはいいものの…そこで愛人の存在を何かの形で知らされたのだろう。そうなら心穏やかでいられるわけがない…。きっと居ても立ってもいられずにここまで会いに来たに違いないのだ。
だがそんな話を聞いても意外と冷静でいられる自分に、アスカは自分でも驚いていた。決して優越感に浸っているわけではない。どんなにアレックスがアスカの耳元で甘い言葉をささやいて…熱い抱擁でアスカを包もうと、それは一時の情熱に過ぎないと思っていた。どこかで彼を信じたいと一途に想う心がある反面、決してそうはならないと…もうひとつの心の中の何かがそう告げているのだ。
「さあ、勇気を出すのよ…あなたは彼のいっときの愛人に過ぎないのだから、立場は何も変わらないのよ…」
そう言葉に出して、アスカは自分を励ました。
この屋敷に忍び込むまでは上手くいったのに…。
脅して連れてきた商人は、屋敷の裏手に馬車を止めてメイファンを裏門の中に押し込めると、さっさと馬車を走らせて彼女を置き去りにして行ってしまった。
あとに残されたメイファンはちょうど通りかかった屋敷の用心棒らしき男に簡単に見つかってしまったのだ。
その男は背丈が2メートル近くある大男で、何を言ってもまず言葉が通じないだけでなく、片手でメイファンの両手を封じると…容赦ない力で屋敷の方へと引きずって行った。
途中イェンの名前を出した時、一瞬男の力が緩んだ隙に腕を振りほどいて逃げ出したが、すぐさま追いつかれて再び捕まってしまった。
「離しなさいってば…! このとうへんぼく…!」
メイファンはひどく暴れながら、屋敷の玄関ホールへと引きずられて行った。侵入者と聞いて、何人かの似たような男たちが集まってきて囲まれたが、彼らはそこにいるのがか細い少女だと知って、皆困ったように顔を見合わせている。
「おい、どうする…? 男なら引っ括ってどこかに押し込めておくところだが、女が相手ではどうしたものか…」
「イェンはまだか? どうやらこの女イェンを知っているらしい。さっきイェンの名前を叫んでいたぞ…」
「私に乱暴したら承知しないから…! アレックスに言って懲らしめてもらうわよ!」
さらに凄むメイファンに屈強な男たちも皆一様に閉口している。そこへアスカの元を辞したリリアが割って入った。
「まあ、若いお嬢様が何ですか、その恰好は…? あなたは宝龍島にお住いのメイファン様ですね? お話だけは聞いていますよ。わたしは小間使いのリリアといいます。どんな事情でここをお尋ねになったかは知りませんが、こんな風に騒ぎを起こされるのは旦那様はお望みになりませんよ」
「だってこの人たちが悪いのよ。寄ってたかって私を悪者扱いするから…」
メイファンはリリアの姿を見てホッとしたのか、さらに憤慨して早口でまくし立てた。
「それは今このお屋敷は大変な警戒態勢をとっているいるからなんです。それもこれもすべて旦那様がお命じになったことです。ここに居らっしゃるお嬢様を護ろうとしていらっしゃるからですよ。ともかく…騒ぎを起こされては困ります。もうすぐ出かけているイェンも戻ってくることでしょう。旦那様も近頃は忙しくていつ戻ってこられるかもわかりません。それまではこのお屋敷の主人はアスカお嬢様ですから…。そのお嬢様があなたに会うと言っていらっしゃいます。あなたはお嬢様に会いにいらしたのでしょう…?」
リリアは強い口調でメイファンの行動を諫めたあと、少しため息交じりに言った。
「その方はアスカとおっしゃるの…?」
「ええ、アスカ・フローレンス・メルビル様です。下りてこられるまで、客間でお待ちくださいとおっしゃっていました」
「わ、わかったわ…。待たせていただきます…」
メイファンは急にそわそわして、乱れた服装や髪形を直した。いよいよアレックスが隠していた愛人に会える。
メイファンは妙な高揚感を抑えながら、リリアのあとを付いていった。
アスカは髪を片方の耳の下で緩く束ねると、白いリボンで結わえた。身に付けるドレスはハイウエストの淡いブルーのものを選んだ。出来るだけ地味に見えるようにアクセサリーは何もつけなかった。
別にメイファンの目を意識したわけではないけれど、アスカはメイファンの気持ちを刺激することだけはしたくなかった。アスカと会うことでメイファンが動揺することは避けられない…。メイファンが傷つけば、イェンも傷つく…。
自分のことでこれ以上誰かが傷つくことには耐えられなかった…。でも…アレックスを知り、どうしようもなく彼を愛してしまった今は、二人を取り巻くすべてから逃れようもなく…重くのしかかってくるような気がしていた。
アスカが広い客間に入っていくと、背を向けてソファーに腰掛けていた少女がはじかれたように立ち上がった。
ゆっくりと振り向いて…アスカを視線の先に捕らえると、その瞳が大きく見開かれた。
視線を素早くアスカの全身にはしらせたあと、そのまなざしは真っすぐアスカの顔に注がれる。
アスカの銀色の瞳と…メイファンの黒い瞳…。互いにじっと見つめあったまま、重苦しい沈黙が続く…。
「あなたがアレックスの…?」
先に口を開いたのはメイファンの方だった。
「ええ…あなたがわたしのことをどう思っていらっしゃるのか分からないけれど、質問の答えならイエスだわ…」
アスカも落ち着いた声で答える。
「父の一件があって、アレックスと知り合ったの。まさかこんなことになるとは思わなかったけれど…。あなたがメイファンね? イェンからあなたのことは聞いているの。信じられないだろうけれど、わたしとイェンは幼馴染なのよ。再会したのはしたのはつい最近だけれど懐かしくて…イェンはいろいろなことを話してくれたわ。あなたがどんなに素晴らしいということもね…」
「イェンが…?」
アスカの言葉にメイファンは真っ赤になってうつむいた。まさか、アレックスの愛人に褒められるとは思わなかった…。それがイェンの口から語られた言葉であっても悪い気はしない。それにしても目の前に立つこのひとはいったいどんな女性なんだろう…?
ここに来るまでメイファンはひどく怒っていた。自分以外にアレックスの心を独り占めしているその女が憎くてたまらなかった。なのに…どうだろう…? アレックスの愛人だというその女性を目の前にしたとたん…急に気持ちが萎えてしまった。
美しい銀色の瞳を見てしまったからだろうか…? 不思議な感覚に囚われて…あらためてメイファンはじっとアスカの姿に見入っていた。
少女ははじめ、明らかに憤慨し…興奮していた。きっと感情の赴くままにここまでやってきたに違いない。
美しい黒髪は乱れ、頬は赤く高揚していた。唇はキッと固く結ばれて…彼女の憤りを強く表していた。
アスカの立場からすれば、本当ならこの突然の訪問者に対して、もっと慎重に厳しい態度で接するべきなのだろう…。
でもアスカはとてもそんな気になれなかった。もちろん、メイファンのことはあらかじめイェンから聞かされていたせいもあるけれど、この目の前にいる少女に妙な親近感を覚えたのも確かだった。
メイファンは関節が白くなるほど握りしめていた拳を身体の横でブルブルとふるわせている。アスカよりは2,3歳くらい年下だろうか? 濃く長い睫毛が謎めいた黒い瞳を覆い、唇は摘みたての赤いバラを思わせ…少女はハッとするほどの美少女だった。
「どうやってここまでいらっしゃったのかはわからないけれど…おなかは空いていらっしゃらない…? 夕食をわたしとご一緒していただけないかしら…? 今夜はひとりで居たくないの。よろしかったら…」
アスカの突然の申し出に、メイファンは面食らったようだった。突然訪問した愛人宅で、まさかこんな風に歓待されるとは思ってもみなかった。
アスカはうつむくメイファンに微笑みながら、いつの間にか側に着て心配げに見つめていたリリアに、二人分の食事の用意とメイファンの部屋を用意するように告げる。
「さあ、いらっしゃいな…。アレックスもイェンも今はとても忙しいの。でもそのうちかえって来るでしょう…」
アスカに圧倒されたのか、メイファンは黙ってアスカに従った。
何て可愛い子なの…。イェンにお似合いだわ。アレックスの気持ちが分からない。こんなきれいな女の子を何年も島に放っておいたなんて…。
アスカは不意にアレックスに対して、怒りというよりはいら立ちを感じた。でも裏切られたという気持ちはない。アスカはメイファンよりはずっと後にアレックスと出会ったわけだし、確かな約束は何も交わしていないのだから、文句は言えない…。
私だってアレックスの愛人のひとりに過ぎない。今は目新しいだけで、きっとロンドンに戻れば…洗練された魅力的な女性たちがたくさん待っているはずだから…。
料理人の用意した晩餐は申し分のないものだった。いつもなら留守がちなアレックスに代わって、イェンがアスカの相手をしてくれるところだが、そのイェンも今は居ない…。
でも今夜はメイファンがいる。
ひとりの男を巡って関わる二人の女が、こうして晩餐のためにテーブルをはさんで向かい合っている様子は、事情を知る使用人の目からはひどく滑稽に映っているに違いない。
でも給仕をする料理人も、屋敷を取り仕切るワトソン夫妻も、普段と変わらない様子で接してくれる。
当たり障りのない会話で何とか晩餐を終えた二人は、場所をリビングに移して…リリアの運んできたワインのグラスを片手に、ソファーでゆったりとくつろいでいた。
最初はひどく緊張していたメイファンも、アスカが想像していた女性とは全く違うことに戸惑いながら…徐々に心を開いていった。
アレックスの選んだ女性は、香港で何度も目にしていた、どうせ見せかけが美しいだけの品のない娼婦だろうと勝手に思い込んでいたメイファンは、アスカの聡明で繊細な美しさにまず驚いた。
顔を見たら思いっきり毒づいてやろうと思っていたのに、その美しい瞳に浮かぶ温かな光を見たとたん、そんな気はどこかへ吹き飛んでしまった。
このひとはどうしてこんなに冷静でいられるの…? 私の名前を知っているのなら…突然現れた私の存在が疎ましくないのだろうか…? どうしてそんな優しい目をしてわたしを見つめていられるの…?
アスカに求められるまま宝龍島のことを話すうちに、メイファンは急に疲れを感じて座っていたソファーの背もたれにもたれかかる。
「まあ、ごめんなさい…いろんなことを聞いて、あなたを疲れさせてしまったわね。リリアにすぐ部屋に案内させるわ。今夜はゆっくり休んでちょうだい。明日になればアレックスも戻って来るし、イェンだって居てくれるわ」
「ええ…そうさせてもらいます…」
消え入るような声で答えると、メイファンは素直にリリアのあとを付いていった。
二階に上がると、メイファンは前を歩くリリアに尋ねた。
「今夜はアレックスは戻ってくるのかしら…?」
「さあ、どうでしょう…? 旦那様はこのところひどく忙しくていらっしゃるから…ここに居らっしゃるとしても深夜になってからが多いですから何とも申し上げられません…」
「そうなの…」
これ以上は何も言えないという風に口を噤んでしまったリリアの後ろを黙って歩きながら、メイファンは素早くアスカの部屋の位置を頭に入れた。
メイファンにはここに来るまでにある計画があった。もちろん最近のアレックスが夜中にならないとこの屋敷に戻って来ないことも、とっくの昔に自分で調べて承知していたのだ。
そしてメイファンは部屋に入ると、入り口のドアを少しだけ開けて…廊下の反対側の端にあるアスカの部屋のドアが開く音にじっと耳を澄ませた。明かりを消してじっと息をひそめて待つ…。
どれくらい待ったころだろうか…? 階段を上がって来る小さな足音がして、アスカが小さなオイルランプを手にした若い護衛とともに寝室のドアの前に立っている姿をじっとドアの隙間から覗いていた。
「ありがとう…エバンス」
「いいえ、今夜は旦那様もイェンも居ませんから…用心しないと。おれたちは舌の階に居ますから、何かあったらすぐ呼んでください」
エバンスと呼ばれた若者は礼儀正しくお辞儀をすると、アスカが部屋に入るのを見届けてから、また階下へと降りて行った。
アスカは自分の部屋に入るとドアにもたれたまま…大きくため息をついた。
いきなり現れたメイファンにアスカは、それでも何とか取り乱すことなく冷静に接することが出来て心から安堵していた。
メイファンはきっと思い詰めてここまでやってきたのだろう。最初真正面から彼女と向き合った時、唇が小さく震えているのに気が付いた。
メイファンは純真無垢な心と一途な激しさを持っているのだとイェンは言っていた。そんな無垢な少女を何の約束もせずに、何年も孤島に匿っていたなんて…アレックスはいったいどういうつもりだったのだろう…?
あれこれ思い巡るうちに、アスカはアレックスに対して無性に腹が立ってきた。アスカに対してあれほど情熱的になれる男が、無垢な少女に関して無頓着で居られることが信じられない…。
本当ならすぐにでも護衛をつけて居留区の中にある屋敷に帰すのが筋だろうが、アスカはそうしなかった。
香代が居なくなった今、孤独を感じていたアスカは誰であれ一緒に過ごせる相手を求めていたのだ。
広い寝室の中で、ぼんやりしながらのろのろとベッドの上のないとドレスに手をのばした。リリアが置いておいてくれたのだろう。
アレックスがアスカの元を訪れるのは決まって深夜で、アスカはいつも先にベッドに入って休んでいることが多い。
アレックスは眠っているアスカを起こさないようにそっとベッドに潜りこむと、巧みな手と唇による愛撫で、官能の中で目覚めさせることが常だった。
アスカが気づいた時には、薄いナイトドレスはすっかり脱がされていて…アレックスの指先が羽のように軽やかに素肌の上を滑っていくのを、うっとりとアスカは眺めていた。
今夜も彼はやって来るのだろうか…? 薄い羽のようなナイトドレスを身に付けながら…アスカはゆっくりと息を吐いた。
敏感になっている胸の先を薄い生地がすれるたびに、疼くような欲望がアスカの身体の中を突き抜けていく…。
ナイトドレスの上にシルクのローブを羽織って鏡の前で髪を梳いていると、誰かが入り口のドアを叩いた。
誰かしら…? リリア…? アスカは立ち上がってドアを開くと、そこには小さなランプを手にしたメイファンが不安そうな面持ちで立っていた。
「ごめんなさい…。なんだか怖くて眠れなくて…。もう少しここでお話をしていてはいけないでしょうか…?」
不安げにそうつぶやく仕草がかわいらしくて、アスカは小さく微笑むとすぐさまメイファンを自分の部屋に引き入れた。
「いいのよ…わたしも眠れそうになかったから…。ワインを飲みながらもう少しお話をしましょう…」
アスカはメイファンを側にあるソファーに座らせて、近くのキャビネットからワインとグラスを取り出して注ぐと、そのうちの一つをそっと」華奢なメイファンの手に握らせた。
「さあ、どうぞ…」
「あなたも眠れないときはワインを…?」
そう言って見つめるメイファンにアスカは小さく首を振る。部屋にワインを置いているのはアレックスのためだ。
夜中にやって来るアレックスは、アスカとベッドで愛を交わした後は必ずワインを飲む。夜中に使用人を起こすのは気の毒なので、寝室の中にキャビネットを置いているのだ。
それをわざわざ説明するのもおかしな気がして、アスカはただ黙って小さく微笑んだ。
そこへ再び小さなノックの音が響いて、入り口のドアが開いてリリアが顔をのぞかせて、そこにメイファンがいるのを見てちょっと怪訝な顔をしたが、小さな身振りでアスカを手招きする。
それを見てアスカはグラスを置いて立ち上がると、メイファンに向かってほほ笑んで小さくうなずいてから、ドアの側に立つリリアの側に近づいていく。
メイファンはアスカが側を離れた隙にちらりとドアの方を見て、二人がこちらを見ていないのを確かめてから、ドレスのポケットに隠し持っていた小さな紙包を取り出して素早くアスカのグラスに入れた。
これは無味無臭の睡眠薬で、量は少ないがかなりの効き目がある。メイファンの亡くなった父親は薬師で、商売の他にもあらゆる薬の調合に秀でていた。そのせいでメイファンも薬に関しては誰よりも詳しいのだ。
メイファンは今夜アスカを眠らせて、その彼女の代わりにベッドでアレックスを待つつもりだった。背格好だけならメイファンはアスカに似ている。
髪の色も同じだしてん瞳の色は違っても暗闇の中なら気づかれることはないだろうとメイファンは踏んでいた。既成事実さえ作ってしまえば、アレックスだってもうメイファンを無視することは出来ないはずだ。
グラスを元に戻してメイファンはアスカが戻って来るのを待った。アスカはしばらくドアの陰でリリアと何かを話していたが、小さくおやすみなさい…そう言ってまたメイファンの側に戻ってきた。
「心配しなくていいの…。さっき近くでボヤ騒ぎがあったらしくて、でも様子を見に行った者の話では大したことはないらしいから、安心していいわ…」
何か緊張している様子のメイファンが気になったけれど…アスカはきっと今の状況に戸惑っているのだと思った。誰も知った顔のいない屋敷の中で不安にならない方がおかしいのだから…。
それから二人はそれぞれが知っているイェンのことについてあれこれと語り合ったが、メイファンの話を聞いているうちにアスカは耐えきれないほどの睡魔に襲われた。
どうしたのかしら…? 考える間もなくアスカは深い暗闇の中に沈んでいった。
愛のかたち…そして試練 5 メイファンの誤算
午前中に始まった会議は午後を費やしても終わらず…夜になっても一向に進展する兆しはなかった。
英国が、フランス海軍の横浜沖に軍船を集めている理由を求めたのに対して、フランスはあくまでも航海中立ち寄っただけだと返答した。
その上で逆に英国がここ半年の間に秘密裏にヨーロッパ、アメリカ~極東地域において活動を広げているのはどういう理由かと聞いてきた。
もちろん、それはメルビルに関しての調査と盗まれたティアラを探してのことだったが、そんなことをいちいち連中に説明してやる気などさらさらない。
英国領事館に急な呼び出しを受けたアレックスは、英国側の代表として、ハリス・ロンバートとともに交渉のテーブルについていた。
交渉相手はアメリカとフランス。アメリカに至っては比較的冷静な態度を崩しておらず、あくまでも両国の出方を見極める姿勢だった。
もともとあまり忍耐が得意でないアレックスの又従弟のロンバートも今日ばかりは神妙な顔つきで連中の主張を黙って聞いていた。ことの重要性をよくわかっているのだ。
だがいつもこういう交渉事には骨が折れる…。アレックスもさすがに疲れを感じて、眉をひそめてテーブルの向こう側に座る連中の顔を見つめた。
フランスは英国との長年の確執を何とか打開しようと、交渉役にフランス海軍の生え抜き軍人であるクロード・デュバリエを送り込んできた。
デュバリエはいくつもの海戦を潜り抜けてきた男で、年齢はアレックスよりは一回りは上…。大きな体躯と海の男らしい不屈の精神を持っている。
フランス総領事、フランシス・バロンが理屈っぽい優男なのに対して、デュバリエは海賊然とした男だった。
「これはあくまでも英国独自の問題なのです…。あなた方には手出しをしないと約束していただきたい…」
「それはどうかな…? 我々と日本国との間には昔から密接なかかわりがある。彼らから要請があれば、我々はいつでも加勢に回るつもりだ…」
ロンバートが忍耐強く、慎重に事p場を選びながら話すのに対し、テーブルの向こう側で、バロンは細く整えられた口髭の先を神経質そうに撫でながら…尊大な態度を崩していない。
その隣でデュバリエは、無表情でたばこをふかしている。いかにも口先だけといった風のバロンよりも、無口で荒っぽい雰囲気のデュバリエの方がまだ信用できる。
つまりは同じ海に生きる者同士、雰囲気にも相通じるものがあるのだ。今目の前で喋り続けているこの胡散臭い見せかけだけの男にはどうも我慢がならない…。きっとたたけばいくらでも埃が出てくるタイプの男だ。後ろに控えているジャマールもきっと同じように感じているに違いない。
「どうやらこれ以上の話し合いは時間の無駄というものですね…? これから先はお互いの良心に元図いて行動する以外にはないようだ。」
アレックスの言葉にバロンをはじめ、ロンバートまでが驚いてアレックスを見る。
アレックスは、フランス側に譲歩する気持ちは全くなかった。最初からフランスは英国側を焦らし揺さぶるためにここに居るのだと承知していたからだ。
「この不毛な会議を終わらせるにあたってただ一言申し上げておきましょう…。ボクの察するところ、それぞれの国家の思惑とはまったく違うところで、別個の計画が進められているようです。全く個人的な野心から始まったこの企みは、すでに一国の政府を蝕み、我々西側諸国の間にも重大な影響を及ぼし始めている…」
「それはいったいどんなたくらみだというのかね…?」
それまで一言も喋らずに聞き役に回っていたアメリカ大使、ダニエル・ブラウンが険しい表情で頭を上げた。
「今はまだ詳しくは言えません…。まだ確たる証拠がないので。でも近いうちにそれも手に入るでしょう。ただ…」
アレックスは少し声を落として目も前の連中を鋭く見渡した。
「ここに居る我々の中にもそのたくらみに加担している者がいるという情報もあるのです。あくまでもまだ証拠がないので憶測の域を出ていませんが…」
「君は証拠もないのに、我々を侮辱するつもりか…!」
急にバロンは顔を真っ赤にして怒り出すと、勢いよく席を立ってその場を退出してしまった。あとにひとり残されたデュバリエは、一瞬口元に面白そうな笑みを浮かべて、ゆっくりと一同に会釈してから、その大きな体を起こしてバロンのあとを追った。
フランス人たちが居なくなると、ブラウンは急に人懐こそうな笑みを浮かべてアレックス達を振り返る。
「前からどうもあの気取ったフランス人には我慢がならなかったんだ。だがあの…さっき君が言っていたことは本当のことなのかね? 我々の中の誰かがその企みに関与していると…」
「ええ、まあ…。さっきの態度でそれが誰か、大概わかったも同然ですが、さっきも言ったとおりまだ証拠がありません…。サンフランシスコに本拠地のあるメルビル商会をご存じですか?」
「ああ、よく知っている。我が国の貿易に長年多大な功績をもたらしてくれた。だが半年前にそのトップが亡くなったと聞いたんだが…。わたし自身3年前、ここに赴任する前に何度か会ったことがあるんだよ。亡くなったとはとても残念だ…」
本当にブラウンは残念そうに肩を落とした。今のアメリカ総領事とはいえ、彼はほんの数週間前に就任したばかりだ。あのアンソニーの一件にこの男は関わっていない。あの後領事館の人事が一新されたのだ。
「今回のことではメルビル商会も無関係ではありませんでした。ただ彼らは利用されていただけだったのです。それでこんな形で話し合いが無効になった以上…我々は互いに協力しなければなりません。ボクは日本にいるその中心人物を叩く…。そのことは英国及び西側諸国の…ひいては日本のためになるのです。任務上これ以上明かせないのは残念ですが、必ず損はさせません。ボクを信用して協力していただけませんか…?」
「もちろんアメリカは信じた相手を裏切らない…。君は現在、アメリカの造船業の最も有力な顧客のひとりじゃないか? 君を失脚させることは、その偉大な顧客を失うことになるんだからね…?」
誠実そうな面立ちに、こめかみあたりに白いものが混じり始めたブラウンは、人懐こい笑顔を浮かべてアレックス達の方へ片手を差し出してきた。
ロンバート、アレックスの順に握手をして、アメリカ総領事ダニエル・ブラウンは帰って行った。
「あれでなかなか骨のある男だ。ああいうからには大丈夫だと君も思わんかね…?」
多少疲れの滲んだ表情で、ロンバートは火のついていない葉巻を指先でもてあそびながら、振り返ってアレックスを見る。
アレックスも軽くうなずきながら立ち上がると、ロンバートとともに会議室から外へ出ると、したり顔のジャマールが待っていた。
「何か言いたそうだな、ジャマール…?」
「会話はだいたい聞かせてもらった。やはりホシはあのフランス野郎だな。君が黒柳のことを匂わせ始めたら、妙にそわそわして見られたものじゃなかったが…」
「どのみち奴には天罰が下る。そう遠くないうちに尻尾を出すさ。ちょっと突いただけであの驚きようだ。きっと今夜のうちに奴は黒柳のところに転がり込むさ…」
「ああ…そう思ったからすぐ奴のあとを追わせている。明日の朝にはわかるさ…」
「さすがジャマール、抜け目ないな。おまえほど頼りになる府期間はいないよ」
「お褒めにあずかって光栄だ。閣下…」
ジャマールは悪戯っぽく笑うとすぐさま踵を返して、廊下の奥の暗闇へと消えて行った。
「君たちがうらやましい。実に素晴らしいチームだ。わたしも日本に来てかれこれ6年になるが、つくづく自分はこの仕事は不向きだと思うよ。第一に忍耐力がない。おまけに臆病だときている…」
「そんなことはない。この数か月の君の我慢強さには平伏するよ」
「それは君たちが側にいるからだ。普段のわたしからしたら考えられないよ。それに前にはこんな問題は起こらなかった。要するに、わたしの手には余るということだ。本当のわたしは法律家として平凡に暮らし、妻と二人の娘たちとの暮らしに十分満足しているのだから…。エリザベートたちは元気にしているのだろうか…?」
「ああ…とても元気だ」
アレックスは励ますように年上の又従弟の肩を叩いた。要するに見かけ以上にハリス・ロンバートは生真面目な善人なのだ。
オクスフォード大学で法律を学び、末は大法廷の最高判事を目指していたはずのロンバートが何を間違ってこんな極東の領事官に選ばれたのか、アレックスにもわからない。
書斎でブランデーでも…? というロンバートの誘いを断って、アレックスはジャマールを伴って急いで待たせていた馬車に乗り込んだ。
心はすぐにでもアスカのもとへと飛んでいく…。すでに時刻は午前零時を越えている。
「もうすぐにでも飛んで帰りたい…とでも言わんばかりの顔じゃないか…?」
馬車に乗るなり、ジャケットの内ポケットに忍ばせた時計を見ながら顔をしかめるアレックスを見てジャマールは笑う。
「こんな時だからこそ、最高の慰めが必要なのさ…」
「ハハ…ホークも人の子だということか…」
「さもあらん…」
アレックスは肩をすくめて笑ったが、直後に馬車は道の端に急停車した。
「どうした…!?」
「すみません! 慌ててしまって…馬車の正面に飛び出してしまいました…!」
居留区の屋敷で馬番をしているジャックという若者が、すまなそうに目の前で興奮している黒馬を抑えながら近づいてきた。
「ジャック…! 屋敷で何かがあったのか…!?」
若者の顔を見てアレックスはすぐに異常事態に気が付いた。普段よほどのことが無い限り、こんな風に執事のメイスンがアレックスに報せてくる来ることはないのだ。
「申し訳ありません! お屋敷に滞在していらっしゃったお嬢様が居なくなりました!」
「なんだと…!? メイファンが…!?」
アレックスとジャマールは瞬時に顔を見合わせた。まさか、黒柳が…? 一瞬そんな考えが頭を過ったが、すぐに否定する。メイファンの存在は屋敷の人間以外誰も知らないはず…。まして黒柳が知るはずがない。だったら、誰が…?
「もしかしたら…メイファンは山の手の屋敷に向かったのかもしれないな…? イェンもそこにいるわけだし…」
そうかもしれない…ジャマールの言葉にアレックスはうなずいた。
「ジャック! 馬を借りるよ。わたしが屋敷に行って、直接メイスンの話を聞いて来る。君は真っすぐ山の手に帰って様子を確かめるんだ。このところイェンも独自に動いているから、もしメイファンが来ていたとしても、会えなかったかもしれない。もしメイファンがアスカに会ったら…?」
そんなことは考えたくもない…。アスカはメイファンのことは何も知らない…。増してメイファンは気性の激しい娘だ。アスカに何を言ってくるか、想像も出来ない…。
アレックスは小さなため息をついた。
「でもいいか、くれぐれも気を付けてくれ…! ウェイ・リーは君とわたしが離れるのを待っている。絶対油断だけはしないと約束してほしい」
「ああ…わかっている」
アレックスは半分上の空で答える。頭の中ではアスカのことだけを考えていた。メイファンの存在が面倒なことになるとわかっていながら放っておいた自分にもいら立ちを感じていた。目先の幸せだけを考えて、肝心のことがおろそかになってしまったのはすべて自分のせいだと、今更悔やんでみても仕方ない。
馬車が屋敷の玄関に横付けされるのと同時にアレックスはドアを自分で開けて外へと飛び出した。それと同時にいっせいに、すぐ側に控えていた男たちがアレックスを取り囲む。
車寄せから階段の上の玄関ドアに至るまでのほんのわずかの間でさえ、アレックスの身を護ろうとするジャマールの配慮だろう。
だがそれが今日ほど疎ましいと感じたことはない…。
その階段を一足飛びに駆け上がって、もどかし気にドアを開けて中に滑りこむと、大声でこの屋敷の責任者であるワトソンを呼んだ。
「ワトソン! 聞きたいことがある。ここにメイファンが来たのか…!?」
「はい、旦那様。そのお嬢様なら、今日の午後…かなり遅くなってからひとりでおいでになりました。どうやら屋敷に出入りしている商人と一緒にいらっしゃったようで、旦那様か、イェンに会いたいとおっしゃったのですが、あいにくお二人ともお留守だとお伝えすると、ひどく興奮なさって…困っていると、アスカ様が出てきてお話になりました…」
その言葉を聞いてアレックスはめまいを覚えた。どうやら事態は思ったよりも深刻らしい…。
「で…? アスカはどうした…? メイファンを追い返したか…?」
「いえ、アスカ様はそのお嬢様と晩餐を一緒にされて、お泊り用の部屋を用意するようおっしゃいました…」
「アスカがメイファンをこの屋敷に泊めた…?」
「はい、明日になればお二人に会えるからとおっしゃって…」
何ということだ…? アスカはあの気の強いおてんば娘を手なづけてしまったというのか…?
アレックスはすっかり頭を抱えてしまった。いまここにジャマールが居たらきっと大笑いしたことだろう…。だがともかくいますぐアスカに会わなければ…。
そう思った時、二階から血相を変えたリリアが駆け下りてきた。
「まあ、旦那様! よくぞお帰りになりました! 大変です! さっきからお嬢様の姿がどこにも見えません!」
「お嬢様とは誰のことだ…!?」
「お二人ともです!」
その言葉を聞いた瞬間、アレックスは二階への階段を一足飛びに駆け上がると、廊下の奥の寝室へと急いだ。
重い扉を勢いよく開いて中に駆け込むと、誰もいない居間を見渡してさらに奥の寝室へと入っていく。
広い天蓋付きのベッドのわきのテーブルにはからのワイングラスと、赤々としたオイルランプがあるだけだった。
ベッドの上掛けははがされて、微かに誰かが眠っていた形跡がある。アスカは確かにここで眠っていたのだ。ならば…誰がいったいアスカを連れ去ったのか…?
まさか黒柳が…!? 脳裏に冷酷な笑みを浮かべるひとりの男の顔が浮かんでくると、アレックスは激しい怒りに全身が震えた。
「すぐここに居る者全員で屋敷内を探すんだ…! メイファンの部屋はどうなっている…?」
「そちらももぬけの殻です…。どうやらおやすみになった形跡もありませんでした…」
警備を担っていた若者のひとりが真っさおになって言った。そこへ恐怖にも似た表情を浮かべたイェンが飛び込んでくる。
「申し訳ありません!ボス…おれがついていながら…」
イェンの声も心なし震えている。自分の留守中に起こったことに責任を感じているのだろう。それにイェンがメイファンを好いていることはアレックスも知っている。
最もそのことをイェンに言ったことはなのだが…。
「そのことはもういい…。おまえはジャマールの別の用で動いていたのだろう…? 別にお前を責めているわけではない。だが二人が同時に消えたというのはどうも腑に落ちない。今夜何か変わったことはなかったか…!?」
その問いかけに何人かの若者が、数時間前にここから数軒先の屋敷でボヤ騒ぎがあったと告げた。焼けたのは1軒だけだったが、そのかいわいはかなり大騒ぎになっていて、この屋敷からも何人か消火の手伝いに駆り出されたことを話した。
「それだ…! もし誰かが二人を連れ出したのだとしたら、その時を除いては考えられない…。他には何かないか…!?」
「あの…アスカ様はひどくメイファン様のことを気にかけておいででした。その小さなボヤ騒ぎのことを報告しにお部屋に行った時にはお部屋でお休みの準備をされていました。
「そうか…。ならば敵はその騒ぎに乗じて、屋敷の中に忍び込んでいたのだろう…。何か手掛かりになるものが残っているはずだ。手分けして探すんだ…!」
アレックスの号令で、皆それぞれに屋敷の中に散らばって行った。
アスカは両肩と手頸の痛さに思わずうめいた。
どうしたというのだろう…? メイファンと一緒に、寝室でワインを飲んだまでは覚えていたのに…。その先からは記憶がない…。メイファンは…?
それに…目を開けているはずなのに視界は真っ暗で…おまけに今の自分がひどく狭いところにはまり込んでいるのに気が付いた。
声を出そうにも口にさるぐつわを嚙まされているせいで、小さなうめき声しか出せない。それに…両手は後ろで縛られている…!?
自分の今置かれている状況がわからなくて…アスカはパニックになる。
何…!? ここはどこ…!? わたしはどこかにさらわれたの…!?
窮屈な状態で不自由な身体をゆっくり動かしてみる。少しずつ寝返りを打つようにして、
何とか体の向きを変えると、わずかながら隙間から明かりが漏れているのに気が付いた。
目を細めてその隙間からのぞいて見ると、そこは見慣れているはずのアスカの寝室だった。
混乱する頭でアスカは必死に考える。どうやらアスカは自分の部屋のクローゼットの中にいるらしい…。それも両手を縛られた上にさるぐつわまでされて…。
アレックス…!? 不意にアスカの狭い視界の中にアレックスの姿が映った。アレックスは難しい顔をして、必死に何かを叫んでいる。きっと姿の見えないアスカを探しているのだろう…。わたしがここに居るのなら、メイファンは…? メイファンももしかしたらどこかに閉じ込められているのかも…? それならば早くアレックスに報せなければ…!
そう思ったけれど、クローゼットの扉は表から鍵をかけられているので、中からは開けられない。おまけに体の自由を奪われて、さるぐつわをされていたのでは大声を出して助けを呼ぶわけにもいかない。それなら…。
アスカは息を整えてから、力任せに扉に体当たりした。扉を開けることは出来なくても、きっと物音に誰か気づいてくれるはず…!
そう思って、1回、2回と…狭いクローゼットの中で、不自由な身体を扉にぶつけるうちにクラクラとめまいがしてきた。
もうダメだと思って気を失う瞬間、アスカの身体は支えを失って前に崩れ落ちる。床に倒れる直前に誰かの逞しい腕に抱き留められた。
「アスカ…!? 君なのか…!? 誰が君をこんなひどい目に…」
アレックスは優しくいたわるようにアスカを絨毯の上に下ろすと、さるぐつわを外して、両手足の戒めを解いた。
「アレックス…!? あなたなの…?」
暗いところから急に明るいところに出たせいで、目がちかちかして視界がおぼつかない…。それでも自分を優しく抱きしめている腕がアレックスのものだと知ると、アスカは大きな安堵のため息を漏らした。
アレックスは自分でも制御出来ないくらいの怒りに、全身がブルブル震えるのを感じた。メイファンどころかアスカまで行方が分からないと聞かされた時には、怒りが爆発して誰かれかまわず傷つけてしまいそうなほどだった。
もし目の前に黒柳がいたとしたら、ジャマール以外誰も知らないアレックスの最も凶暴な部分を見ることになっただろう…。
「アスカ、アスカ…! 君が無事でよかった! どこもけがはしていないんだね…?」
青白いアスカの頬を撫で…細い手首を手にとって、うっすら赤く跡がついている部分に自分の唇に押しつける。唇に感じる力強い脈動にアレックスは、彼女の無事を神に感謝した。
「ああ…アレックス…!」
アスカはアレックスの首に両腕を回してすがりつくと、激しく泣きじゃくる。この数日間感じていた寂しさや不安、さっき暗いクローゼットの中で目覚めたときの恐怖感などがごちゃ混ぜになって、自分でもどうしてよいかわからなくなったのだ。
「ああ、アスカもう安心していい…。ボクが側にいるから…。さあ、落ち着いて…。何があったのか話してごらん…」
「ええ…夕方、メイファンがここに来たの…。ひどく興奮してて…警備の男の人に何かわめいている声が聞こえたの…」
「それで…?」
やっぱり…。心の動揺を隠すように、アレックスは出来るだけ穏やかな声で言った。
「メイファンのことはイェンから聞いていたのよ。ごめんなさい。あなたに言わなくて…。わたしには関係ないことだと思っていたから…」
アスカのその言葉を聞いて、アレックスは小さく唸った。
自分に関係ないだと…? イェンがどんな言葉でメイファンのことを語ったにしろ、アスカはすでに知っているのだ。その時アレックスの胸に過ぎったのが来るべき時への不安なのか、それともすでに彼女が知っていることへの安心感なのか、自分でも解らなかった。
「で、メイファンはどうした…?」
「あの子もひどく不安げで、寂しそうだったから一緒に夕食をすすめたの…。イェンに会いたいだろうと思ったのよ。もちろんあなたにも…」
アスカはそう言った瞬間、遠慮がちに目を伏せる。
「で、メイファンと何か話した…?」
「いいえ、特別なことは…。メイファンは宝龍島がいかに素晴らしいところか話してくれたわ。それだけよ…」
「そうだろうな…だがメイファンはどこにいるんだ…?」
「それが分からないの…。寝る支度をして髪をとかしていたら、メイファンが部屋にやって来たの。眠れないからしばらく一緒に居て話をしてほしいと言って…」
「それで君は快く彼女を受け入れたんだね? 一緒にワインを飲みながら、時間を過ごしたわけだ…」
「ええ…そのとおりよ。でもわたし、途中でとても眠くなってしまって…後のことは何も覚えていないの。気がついて見たら、あのクローゼットの中に居て…」
「それも両手足を縛られて、おまけにさるぐつわまでされてね…?」
アレックスは眉をしかめながら、ベッド脇のグラスをとって底にわずかに残るワインの匂いを嗅いでから、ハッとして顔を上げる。
「誰かいないか…!?」
アスカを抱き上げてそっとベッドの上に下ろすと、アレックスはすぐさまドアの外で控えている男たちを呼んだ。
何人かの屈強な男たちに交じってイェンの姿もあった。きっと知らせを受けてすっ飛んで来たのだろう。その表情は、普段の彼からは想像もできないほど蒼白かった。
「申し訳ありません、ボス。ボクがメイファンを連れてきたばっかりにこんなことになって…」
イェンはすぐさま側に来て控えの姿勢をとると、がっくりとうなだれた様子でアレックスの言葉を待った。
「起こってしまったことは仕方がない…。だが気になることがある。メイファンは薬の調合に詳しいと前にお前から聞いたことがある。それは事実か…?」
「はい。メイファンの亡くなった父親は薬を扱う商人でした。幼い頃から薬草には詳しいと言っていましたが…それが何か…?」
「メイファンはアスカに薬の入ったワインを飲ませたらしい。グラスの底にわずかにそれが残っていた…」
ハッとしてアスカの鋭く息を吸う音があたりに響く。アレックスは手にしていたグラスをイェンに渡すと、もう一度アスカを振り返った。
「メイファンは恐らく君と入れ替わって、ベッドで僕を待つつもりだったんだろう。その証拠に君はメイファンを部屋に入れた時、ナイトドレスを着ていたんだろう…? なのに今の君はドレスを着ている。そのドレスがメイファンのものなら…」
「……」
アレックスの言葉を聞いてアスカはぼんやりと考えた。確かにあの時わたしは、アレックスをいつ迎えてもいいように、彼が気に入っている薄いシルクのナイトガウンに着替えていたはず…。でも今のわたしは…?
アスカは自分の身に付けているドレスを見下ろした。
薄いワイン色のモスリンのドレス…? そう、確かにこれは部屋を訪れた時にメイファンが来ていたドレスだわ…!
どういうこと…!? 本当にメイファンは薬を使って、わたしと入れ替わろうとしたの…?
アスカはめまいを感じて、そのままベッドに倒れこみそうになるところをアレックスに抱き留められた。
「事実はそうだったとして…そうならいったいメイファンはどこに消えたんだ…!?」
「屋敷中くまなく探しましたが、どこにも姿は見えませんでした…」
アレックスの号令で屋敷中に散らばっていた者たちが戻ってきて、そう報告するのをアレックスは、1階の書斎で黙って聞いていた。
アスカの無事をこの目で確認してひとまず安堵したものの…それで問題がすべて解決したわけではない。
「アスカは無事だったが、メイファンは姿を消した…。これを説明出来る者は…?」
アレックスが重い口を開こうとした時、ドアの外でバタバタと慌ただしい物音がして急に勢いよくドアが開いたと思ったら、海岸通りの屋敷に行っていたはずのジャマールが入ってきた。
ジャマールの表情は厳しく、片手には手紙らしきものを握りしめ…もう一方の手は、小柄の痩せた貧相な男の襟首をつかんでいる。
背の高いジャマールに襟首をつかまれて、まるで引きずられるように部屋に入ってきた男は、大きく目を見開きながら怯えたようにブルブル震えていた。
「外の通りでこちらを伺ってうろうろしているところを捕まえた。君宛ての手紙を持って生きように言われただけだと言っているが…」
「嘘じゃないんだ…! 本当に知らない男に頼まれただけなんだよ…!」
男は今にも泣き出しそうな声で訴えると、情けない様子で両手を合わせながら必死に目の前のアレックスに懇願している。
アレックスは書斎のどっしりとした革張りのソファーに腰掛けながら、ゆっくりと男子の方を振り返った。
無言で顎をしゃくると、イェンがさっと動いてジャマールの持っている手紙を受け取ってアレックスに渡した。
それに素早く目を通したアレックスは、目の前の男を目を細めて見据えた。
「これをお前に託した男はどんな奴だったか覚えているか…?」
「お…覚えているとも…。体の大きな…顔のここんとろに傷のある恐ろしい男だったよ。この屋敷の…外国人の主人に必ず渡せって言ったんだ…。全身黒ずくめの男たちを連れていたよ…」
「女は…女を連れていなかったか?」
「いや、女はいなかったが、大きな布の袋を担いでいたっけ…。なんだか急いでいるみたいだった…」
男は夢中になって喋っていたが、ジャマールが舌打ちするのを聞いて再び怖くなったのか、またぶるぶる震えながら、自分は嘘は言っていないから…どうか命だけは助けてほしいと訴えた。
「ジャマール、この男は利用されただけだ。もういい…放してやれ…」
アレックスが男に背を向けると、ジャマールは男の襟首をつかんでいた手を離した。
すると男はその場に腰が抜けたように座り込んだが、すぐさま他の男たちによって部屋の外へと連れ去られた。
「アレックス…?」
ジャマールが苛立たしそうにアレックスを見たので、アレックスはさっき目を通した手紙をジャマールの方に放った。
ジャマールはすぐさまそれを開いて読むとアレックスを振り返る。
「どうやら黒柳は、アスカをさらうつもりで間違えてメイファンを連れ去ったらしいな…。メイファンはアスカと入れ替わっていたんだ。部屋が暗かったのと、火事騒ぎに乗じて誘拐を企てたらしいが、騒ぎが想ったよりも早くに片付いたので、慌てた連中は相手を確認する暇がなかったらしい…」
「じゃあメイファンは…?」
イェンが真っ青になった顔を上げた。
「黒柳のところだ。おそらく連中も今頃は自分たちの間違いに気が付いているころだろう…。なんとかしてメイファンを取り戻さなければ…ジャマール…」
「敵は何か罠を仕掛けてくるかもしれない…。今すぐ動くのは危険だ。しばらくは相手の出方を見た方がいい…」
アレックスの視線に応えるジャマールの表情は厳しい。
「それではメイファンは…!?」
イェンが苦しそうな表情でアレックスの次の言葉を待っている。
アレックスも内心は苦しいのだ。メイファンのことはずっと大切な妹のように思ってきた。それにイェンの気持ちもある。
「すぐさま人を増やして、黒柳の屋敷を見張らせろ。奴らは近いうちに必ず動く…! その時がチャンスだ…」
「わかった」
すぐさまジャマールが動き、そのあとを追いかけようとしたイェンをアレックスが呼び止めた。
「イェン、心配するな…メイファンは必ず取り戻す…」
「はい、わかって…います…」
イェンの声はしわがれていた。返事をするのもやっとという有様だったが…イェンの気持ちはよくわかる。もしこれがアスカだったら…?
きっと今頃アレックスは怒り狂っていただろう。おそらくジャマールの手を振り切ってでも黒柳の屋敷に踏み込んでいたかもしれない…。
アレックスは気落ちしているイェンをジャマールに任せて、2階のアスカの寝室へと戻った。
物音を立てないようにそっとドアを開けて中へ入る。
寝室の中はほの暗く…明かりは窓から漏れる月明かりだけだった。
眠っているのだろうか…?
カーテン越しにベッドに横たわるほっそりとしたシルエットは見えるものの…その姿は身じろぎもしない。
アレックスはカーテンを押しのけてアスカの直ぐそばに滑りこむ。アスカはまくらに顔を押し付けたまま…声を殺して泣いていた。
よく見ると小さな方が細かく震えている。
「アスカ…?」
アレックスが肩を抱いて自分の胸に引き寄せると、アスカは小さな子供のようにその体を摺り寄せてきた。
「ああ…アレックス、わたし…どうしたらいいの…? メイファンのことを考えるとわたし…」
「君が案じることはない。我々がきっとメイファンを救い出す…。君が心配することは何もないんだ…」
アスカを安心させたくて、アレックスはアスカを抱きしめながら、その体を優しく揺すった。
今は何も言わないでおこう…。メイファンのことをどう言い繕ったところで、言い訳にしかならない…。明日になってアスカが落ち着いたところできちんと話をしよう…。
まるで自分自身に言い聞かせるようにアレックスは心の中でつぶやいた。
黒い罠 1 アレックスの憂鬱
「さらってきた娘が別人だったというのか…?」
「はい…。まさか娘のベッドで別人が眠っていようとは…夢にも思わなくて…」
黒柳の側近のひとり、木村賢吾は恐ろしさに目の前の主人の顔をまともに見ることが出来なかった。
この失敗に対して、どんな罰が下されるのか…それを考えただけで、生きた心地がしなかった。
昨夜賢吾は、黒柳の配下の中でも屈強な手下を10人ほど連れて黒柳邸をあとにした。
実は主からある仕事を任されていたのだ。
ある屋敷から女をさらってくる…。
今までも賢吾は言われたとおり、黒柳が目を付けた女をあちこちからさらってくるという仕事を淡々とこなしてきた。
今回も成功するはずだった。近隣で騒ぎを起こしてそれに紛れて目当ての女をさらってくるはずだったのに…。
それがいざさらってみれば全く別の女だったなんて…。
その女の顔は前に一度だけ見たことがあった。
黒髪の…不思議な瞳の色をした美しい女だったが…。
「その女はどこにいる…?」
「東の棟に押し込めてあります。まだ薬が効いているので眠っていますが…?」
てっきり罰を与えられると思っていた賢吾は、驚いて顔を上げた。
「その女が目覚めたら連れて来い。美しい女ならいくらでも使い道はある。それに、その女を使って新しい罠を仕掛けることも出来る。あの屋敷にいたということは、その女もクレファードに関係があるはずだ。面白い…」
怒り出すどころか、高笑いを始めた黒柳に賢吾は、何か得体のしれない恐怖を感じて背筋が寒くなった。
「すぐさま例の連中に声をかけろ。面白いショーを開くと言えば、連中はすぐにでも乗って来る。それまでにお前は…今度こそ間違いなくアスカを連れて来るんだ。いいな…?」
「わ…わかりました…」
黒柳の低い凄んだ声に、内心賢吾は震えあがった。
慌てて部屋を飛び出すと、東の棟…自分の研究室にいる女の様子を見に行く…。
女はまだ眠っていた。大人しくさせるために与えた薬が効きすぎたのかもしれない…。
感覚を麻痺させるその薬は、大陸ではしばしば麻酔薬として用いられるが、量を間違えると死に至ることもある危険なものだった。
実際いままでかどわかしてきた娘の中には、一度も目を覚ますことなく亡くなったものもいる。
賢吾は濃い睫毛が影を落とす蒼白い顔をじっと見つめた。
さっきはゆっくりと娘の顔を拝む時間はなかったが、こうして見るとこの娘もかなりの美少女だった。
おそらく彼が今までさらってきた女たちの中では一番だろう…。普段さらってきた娘にまったく興味を持たない賢吾だったが、なぜかその娘には心惹かれるものがあった。
この娘はあのクレファードとどういう関係なのだろう…?
主人が欲しがっている娘は、クレファードの愛人だという…。
だがどのみちこの娘も黒柳のものなのだ。どんなに心惹かれようと、決して賢吾のものにはならない…。
黒柳は近いうちにまた例のパーティーを開くつもりだと言った。
きっとそのパーティーの次の“生贄”にその娘を供するつもりなのだ。
そう思った時、わけの分からない疼くような痛みが賢吾の胸を貫いた。
今日はうんざりするぐらい、いろんなことがあり過ぎた…。
アスカが眠りにつくまで、ベッドの上で優しく抱きしめていたアレックスは、そのあとも書斎でジャマールをはじめ、腹心たちを集めて朝まで作戦会議に余念がない。
「黒柳の屋敷の見取り図は手に入ったのか…?」
「まだです。ですが、あの屋敷を立てるのに携わった大工のひとりと話が出来たので、時期に手に入るでしょう…」
「急げ! 他に何か動きはあったか…?」
「フランス側から黒柳の元に頻繁に使いが来ています。バロンは巧みに偽装していますが、我々の目は誤魔化されません…」
「ああ…続けて見張りを頼む…」
ひと通りの説明を受けて、アレックスは小さく息を吐いた。
黒柳に始まって次はバロン…歯ぎしりするほどのもどかしさを抱えながら、メイファンを奪われた状態では、半分翼をもがれたにも等しい…。
「ともかくはメイファンを取り戻さなければならない…。ジャマール何か案はないか…?」
それまでじっと壁にもたれて事の成り行きを見つめていたジャマールが顔を上げた。
「奴らの目的が分からない…。黒柳の欲していたのは確かにアスカだった。その目論見が外れて、彼らがメイファンをどう扱うかに掛かっている…」
「……」
一瞬の沈黙のあって、重苦しい雰囲気が漂う。
イェンはもちろんのこと、誰しもが黒柳の邪悪さを知っている。
その懐に囚われたメイファンが今どういう状況に置かれているか、筆舌に尽くせないものがあった。
「黒柳の屋敷の見取り図が手に入り次第、メイファンの救出に掛かる…。それまではみな警戒を怠るな…。まだ闘いは始まったばかりだ」
それぞれに指示を与えて解散すると、あとにはジャマールとイェンだけが残った。
「イェン、出来るだけ早くメイファンを救い出す。その時にはお前に力を貸してもらわなければならない…」
「わかっています…」
そう応えるイェンの顔も蒼白く沈んでいる。何とかその雰囲気を紛らわそうと、アレックスは話題を変えた。
「イェン、それと…お前に託していた例のことはどうなった…?」
アレックスは黒柳の身辺を探ることとは別に、叔父であるロバート・ウィンスレットの遺児についての調査もイェンに命じていたのだ。
「はい、じつは昨日連絡があって、急に出かけたのはその件があったからなのです。いろんなことがあって報告が遅れて申し訳ありませんでした」
イェンは詫びながら、昔ウィンスレット卿が度々気に入って足を運んでいた商家で働いていたという使用人が生きていて、偶然話が聞けたことを話した。
その年老いた老婆は、ウィンスレット卿のことも、当時噂になっていた女性のこともよく覚えていた。
女性は旧家の出で、名前は菊川夏子。小柄で美しい女性だった。
「あくまでも噂なのですが、旧家の令嬢だったその方は、ウィンスレット卿とのことが父上に知れて、ひどく反対されて身籠ったことが分かると…ついには家を出されたとのことです」
「何ということだ…! 勘当されたのか…? それでその先はどうなった…?」
「その老婆はそれ以上は知らないようで…。でもその時ツタという侍女が一緒に付いていったということまではわかったのですが、どこに住んでいたかまではわかりませんでした。菊川家もあの大火で焼けてしまったようで、当主もその時亡くなったと聞きました」
「うむ…。せめて生まれた子供が無事に育っていてほしいものだ。あの火事で多くの人の命が奪われた。その子が生きているという可能性がわずかでもあるのなら、諦めずに探してくれ…」
「わかりました…」
イェンは小さくうなずいて頭を下げると、そのまま部屋を出て行った。
「イェンの気持ちを考えると、いたたまれなくなる…。出来るなら今すぐメイファンを取り戻したいところだ」
「もちろんそれは私も同じ気持ちだが…相手はあの黒柳だ。下手に動けばこちらの命取りになる。冷静にならなければ…」
部屋にはジャマールとアレックスの二人だけ…。アレックスは疲れ切った様子で、肘掛け椅子にもたれるように座ったまま動かない。
ジャマールは壁際のキャビネットの中からブランデーを取り出してグラスに注ぐと、アレックスに差し出した。
「今の君にはこれが必要だろう…? アスカはどうしている?」
「昨夜はかなりショックを受けていたようだ。以外にもアスカとメイファンは気が合ったようで、だから余計自分の身代わりに誘拐されたと知って動揺していた…」
「自分が騙されたと知ってもか…?」
「ああ…アスカはそんな女だ」
グラスの中の琥珀色の液体を一気に飲み干して、アレックスは大きく息を吐く…。
今さらながらアスカのやさしさに胸が熱くなった。
普通ならメイファンの存在は、アスカにとっては怒りこそすれ、決して同情や哀れみをを感じる対象ではないはずだ。
それなのにアスカはメイファンを優しく迎え入れ、温かく姉のように接していたとリリアは言っていた。
それを聞く度にアレックスの胸は痛む。結局アレックスの口からメイファンのことを一言も説明していないことに、内心ひどく罪悪感を感じているのだ。
「それでアスカにはメイファンのことを説明したのか…?」
「いや…昨夜はかなり取り乱していたから何も話せなかった…。朝になったら話すつもりだった…」
「そうか、出来るだけ早く話した方がいい…。君とアスカの関係がギクシャクすることがあれば、それだけで黒柳に付け込まれる。ウェイ・リーは油断がならない。今のところはおとなしくしているが、きっと隙を伺っているだけだと思う…」
アレックスはジャマールの黒い瞳をじっと見つめた。その眼差しには複雑な想いが現れていた。
この屋敷でアスカと過ごすようになってから、直接ジャマールがアスカとの関係についてあれこれ意見することはなかった。
アスカを深く知るにつれ、ジャマールの中の何かが変化しているのかもしれない…。
「明るくなったら馬車の用意をしてくれないか? 岩倉卿に会いに行く。どうもフランスの動向が気になるんだ。彼の意見が聞きたい…」
「わかった。手配しよう…」
ジャマールがうなずいて立ち上がった時、ドアがわずかに開いて…その隙間からアスカの、ロウのように白い顔がのぞいた。
ハッとして顔を上げたアレックスに目配せしてから、ジャマールはゆっくりと出口へ向かう。
ドアを内側から開いて、戸口にたたずむアスカに穏やかな笑みを向けると、彼女を中に招きれて、自分は外に出て静かにドアを閉めた。
部屋の中にはアレックスとアスカのふたり…。
アレックスの温もりが欲しくて…明け方目を覚ましたアスカは、自分でも意識しないまま…気が付けば1階の書斎の前に立っていた。
中から漏れてくる話し声からそこにアレックスが居ることはわかっていたけれど…なぜか中に入ることは躊躇われた。
そうしているうちにドアが開かれ…気が付けアスカは、ジャマールに導かれて、アレックスの目の前に立っていた。
アレックス…?
目の前にいるアレックスはひどく疲れたように見える。そうだろう…。ただでさえ忙しいこの時期に、屋敷からいるはずのメイファンが消えたのだから…。
「アスカ…」
アレックスは立ち上がってアスカの側まで来ると、その手を取って近くのソファーへと座らせる。そして自分もその隣に腰掛けて、その手に唇を落とした。
「気分はどうだい…?」
「ええ…少しは落ち着いたわ。でもイェンは…イェンはどうしているの?」
「ああ…必死に平静を装っているが…辛いだろうな…?」
「そう…」
イェンの気持ちを考えれば、今こうして無事でいられる自分の幸運を素直に喜ぶ期にはなれない…。こうしている今にも、敵に捕らわれたメイファンは苦しんでいるかもしれないのだから…。
「メイファンは…あなたに助けられてから過ごした宝龍島のすばらしさをたくさん話してくれたわ…」
「ああ…あそこは平和な島だから…それにとても美しい…」
しばらくの沈黙のあと、アスカの口から出たのはメイファンのことだった。
本当ならアレックスの方から話してくれるのを待つべきなのだろう…。
だがその時のアスカはそれまで待つ余裕がなかった。今すぐアレックスの気持ちを聞きたかったのだ。
あれほどの美少女をなぜ小さな島に閉じ込めていたのかと…。
「イェンは、メイファンはずっとあなたに憧れていて…それで宝龍島を離れたがらなかったと…」
「馬鹿な…ボクがあの島に立ち寄るのは、あって1年に数回だ。それに最初にあの子に出会った時、彼女はまだほんの子供だった。そんな感情があったなんて信じられない。
「そうかしら…? あなたは女の子のことを何もわかっちゃいないわ。きっとメイファンはあなたに恋していたのね? 裕福な英国貴族で、大きな軍船を操るハンサムな大人の男性に恋してしまったのよ。それにあなたは何も気づかなかったというの…?」
「何が言いたいんだ…?」
だんだん非難めいた口調になってくるアスカの口調にアレックスは眉をひそめた。
黒い罠 2 大切なもの
「あなたは…自分が他人に及ぼす影響について考えたことがあるかしら…? 特に若い純真な女の子に対して…」
「さあ…? 今までは経験豊富な女性しか相手にしてこなかったからな…。処女は君が初めてだった…」
「ふざけないで…!」
アスカは真っ赤になってアレックスを睨む。
“ホーク”と呼ばれ、恐れられる男は、アポロンのように輝く容姿を持ちながら、身勝手でわがままな海の男だ。
そんな男の優しさに惑わされたメイファンは気の毒としか言えない…。そして私も…。
アスカは心中で自分自身に言い聞かせた。
アレックスの言葉を信じてはいけない…。あの魅力的な微笑みに惑わされてはいけないの…。
さあ、アスカ、目を覚まして…。いつかアレックスは言っていたじゃないの…。わたしに感じているのは欲望だけだと…。
「ではなぜそんなに長い間…メイファンを放っておいたの? どんな子供だろうと大切にされれば希望を持ちたがる…。メイファンが、いつかはあなたが自分に振り向いてくれると考えても不思議じゃないわ…」
少し考えてアレックスは口を開く。
「メイファンは…純真で愛らしく、素晴らしい少女だった。故郷に帰っても身内は誰もいないと聞いたから、いつか大人になったら…信頼のおける男に託すつもりだったんだ…」
それがイェンだとアレックスは言わなかった。
メイファンを想うイェンの気持ちには、ずいぶん前から気が付いていたし、いずれは宝龍島自体をイェンに譲るつもりでいたのだ。
だからと言って、今ここでイェンの気持ちをアスカに話すのは躊躇われた。
あくまでもそれはイェン自身の問題なのだ。
「メイファンに無駄な気持ちを抱かせたのは、ボクの責任だと言いたいんだな…?
今回彼女にこんな行動をとらせたのもボクのせいだと…?」
「違うと言うの…?」
アレックスは大きく息を吐いた。
いつからこんな話になったのだろう…?
「だからと言って今さら何が出来る…? 確かに今までメイファンをイェンに任せたまま放りっぱなしにした責任はあるかもしれない…。だがメイファンに対して、妹のような感情しか持てないのだから仕方がない。はっきりそう言ってあの子の気持ちを傷つけることはしたくなかった。まして日本に来て、君に出会ってからは…」
アレックスはアスカの手を取って引き寄せ、彼女の瞳をじっと見つめた。
その真っ青な瞳を見ていると、思わずそれが真実のような気がして…アスカは胸が詰まる。
ダメよ…ダメ…! 私をそんな目で見ないで…!
アスカは息苦しくなって、両手でアレックスの胸を押しのける。それでもなおアレックスは、アスカを捕まえようとして回した腕に力を籠める。
「アスカ…!?」
「いやよ、アレックス! あなたがわたしに感じているのは欲望だけ…ロンドンに連れて行きたいと言ったのも、気まぐれからでしょう…!? 混血の私が、あなたの世界に受け入れられるはずがないもの…。あなたと私の関係は日本にいる間だけの一時の情事に過ぎないのよ…。あなただって本当はわかっているのでしょう…!?」
飛び出した言葉は止めようもなく…せきを切ったように流れ出した。
「君は…君は…ボクのことをそんな風に考えていたのか…!? 」
思わず声を荒げてアスカの肩を掴むと、アレックスはその細い肩を強く揺さぶった。
「そうよ…! どんなにつくろってもわたしは遊女だもの! レディーにはなれない…」
こらえていた涙があふれてアスカの頬を濡らした。
メイファンが現れたことで、今まで隠してきた…アスカの中の不安定な部分が一気に飛び出してきた…そんな気分だった。
無言になったアレックスの頬が痙攣したようにピクピク波打ち、辛うじて自分を抑えているのがわかる。
二人の間にピリピリとした緊張感が漂い…それがこれ以上ないという場面で、部屋のドアをノックする音に二人は同時にびくっとしてドアを見つめた。
「あの…旦那様、表にこの手紙が…」
護衛のひとりが部屋に入ってくると、きまり悪そうに胃痛の手紙を差し出した。
アレックスは無言で受け取って中を開いて読み始める。だがその顔はすぐに激しい怒りで真っ赤に染まった。
「アレックス…?」
息をひそめてその様子を伺っていた
アスカは、その1通の手紙が、ついにアレックスの自制心を突き崩したことを知る。
「イェン!」
アレックスはアスカの手を掴んだまま廊下に出ると、大声でイェンを呼んだ。
イェンはすぐさま飛んでくると、アレックスの側で拝跪の姿勢をとる。
「イェン、居間からアスカを部屋から出すな! 命令だ!」
アレックスは有無を言わせない勢いで、アスカを階段へと引っ張っていく…。
「わかりました…」
イェンは困惑した面持ちでアレックスを見ていた。これほど怒った主人の姿を初めて見たのだ。
アスカはその言葉を聞いてまたむらむらと怒りが込み上げてきた。
「何なの…!? また私を閉じ込めるつもり…!? そうはいかないわ…!! 離して…! 嫌よ、もうここに閉じ込められるのはたくさん! アレックス…わたしは…!」
今まで我慢してきた分、抑えていた感情が爆発して、アスカ自身自分で何を言っているのかさえわからない…。涙があふれてきてどうしようもなかった。
「ダメだ、君はどこへもやらない…! まして黒柳になど渡すものか…!!」
アレックスは片手に手紙を握りしめたまま…アスカの腕を掴んで強引に引っ張っていく。
目は怒りでぎらぎらと輝き、口元は一直線にギュッと引き結ばれている。いつもの彼にはないその表情に一瞬アスカは、瞬間的に恐怖を感じた。
「……!!」
とっさにアスカはアレックスの手を振り切って登りかけていた階段を一気に駆け下りた。
「アスカ…!? 戻るんだ…!」
呆然と見守るイェンのわきをすり抜けて…後ろで叫ぶアレックスの声を聴きながら、アスカは自分でも意識のないまま、玄関のドアをb開いて外へと飛び出していた。
すぐ後ろをアレックスが追いかけてきていることもわからない…。
いつの間に夜が明けていたのだろう…? まばゆさに目を細めながら、アスカは明るい朝の陽ざしの中に一台の馬車が止まっているのを目にして、それに向かって走った。
ここから離れなければ…! それしか頭にないアスカは、後ろで叫ぶ声も耳に入らない…。
玄関のポーチを出て、車寄せに泊めてある馬車までは白い石づくりの階段を降りなければならない…。
馬車まであと数歩…というところで、朝の澄んだ空気の中、突然鋭い発砲音が鳴り響き…アスカはそこで初めてハッとして後ろを振り返る。
それからはまるでスローモーションを見るかのようだった。
アスカを追いかけて、石の階段を下りかけていたアレックスの目が大きく見開かれた次の瞬間…その表情が苦痛に歪んだと思ったら、ゆっくりと石段の上に崩れるように倒れた。
彼の直ぐ後ろを追いかけていたイェンが叫び声をあげて、近くにいた男たちが一斉に駆け寄ってくる。
「アレックス…!?」
倒れているアレックスの身体の下から流れ出した真っ赤な血だまりを見て、アスカは恐怖の声を上げた。
「いやぁ!アレックス…!?」
アスカは恐怖で全身がガタガタと震えるのを感じた。
アレックスが銃で撃たれた…!?
がくがくと膝が震えて、立っているのもままならない。
多くの男たちがアレックスをかばうように周りを取り囲んで、いつの間に現れたのか厳しい表情をしたジャマールが、アレックスのジャケットの中を探って傷の様子を調べている。
「すぐ馬車へ運ぶんだ…! イェン、アスカを中へ…。しばらくは誰も門の中へ入れるな!」
ジャマールは早口で指示を与えると、自身もサッと馬車に乗り込んでいってしまった。
アレックスを乗せた馬車が走り去ってから、アスカは2階の寝室に引きこもって泣いた。
自分の無分別で衝動的な行動が、アレックスの命を危険にさらしてしまった…。
あれほどジャマールに警告されていたにも関わらず、アスカはもっとも愛する人の命を失わせてしまったかもしれない…。
悔やんでも悔やみきれないけれど…。お願いです、神様…。彼を助けてください…。
「イェン、教えて…! アレックスのけがは…!?」
アスカはベッドの近くにたたずむ、沈痛な表情のイェンに詰め寄った。
「お願い…彼の様子が知りたいの…!」
「アスカ…ボクにもよくわからないんだ…。さっき届いた知らせによると、銃弾は2発。1発は肩を貫通して…もう1発は確実に心臓を狙っていたそうだ…」
息をつめて聞いていたアスカの喉から悲鳴が漏れるのを見て、慌ててイェンは言い足した。
「だが心配するな、ボスは生きている…。心臓を狙った弾は、胸ポケットに入っていた時計に当たって、それた弾丸は助骨に食い込んでいたそうだ。今頃は手術によって取り除かれている。ああ見えてジャマールには医術の心得があるんだ。東洋の薬学にも詳しいし…彼に任せておけば大丈夫だよ…」
「でも…お願い、彼の側に行かせて…! 彼が撃たれたのはわたしのせいなの…だから彼の看病がしたいのよ…」
「それは…出来ないんだ…。君をここから出すなというジャマールの命令があって…。それに外国人居留区の中には、誰でも自由には入れないんだ…」
苦し気に顔を背けるイェンを見て、アスカはただ唇を血がにじむほど噛みしめるほかなかった。
ジャマールはベッドに力なく横たわる友の、蒼白い顔をじっと見つめた。
石段に倒れているアレックスを見た時には正直息が止まるかと思った。
何とか手術は成功したが、麻酔が効き始めるまでの間…大の男5人がかりで押さえつけなければならなかった。
出血も多く、全く予断を許さない状況で…弾丸の位置が、あと数センチずれていたら、大動脈を傷つけて手の施しようがなかっただろう。
それにしても…ウェイ・リーは噂通り恐ろしい男だ。寸分違わず心臓を狙い、もしロバートの時計が無かったら…その場でアレックスは命を落としていた。
アレックスの命があったのは…幸運だったとしか言いようがない…。
「アレックスの容体はどうかね…? いまだに信じられないよ。あのホークと呼ばれた男が撃たれたなんて…」
沈痛な面持ちのハリス・ロンバートがアレックスの横たわる客用の寝室に入ってきた。
アレックスが撃たれてからすでに24時間近くが経過している。
昨日の朝、ジャマールはアレックスを本邸ではなく英国領事館へと運んだ。
ここなら仮に最悪の事態になっても何とかすぐ対処できると思ったからだ。
それにハリス・ロンバートはアレックスの身うちでもある。
「アレックスは油断したんです。それを殺し屋のウェイ・リーは見逃さなかった。ただ、最悪は免れたものの…依然予断は許さない状況です。傷は思ったより深い。弾はきれいに取り除いたが、あとは感染症の心配があるんです。傷は浅くても、感染症でなくなる人間がいかに多いか…」
ジャマールはそう言いながらアレックスの横顔を見つめた。
相変わらず意識は戻らないが、さっきまで蒼白かった頬が赤く上気し始めている…。感染症による高熱が現れる兆しだった。
「これからしばらく熱が出ます。東洋の薬草も何種類か試していますが、あとは運と…アレックス自身の力に期待するしかないんです…」
「こんな時に彼を失ったのは痛いな…。ますますフランスをつけ上がらせるだけだ…」
「私も出来るだけ手助けしますが、しばらくは彼らが何か吹っ掛けてきても相手にしないことが賢明でしょう。少なくともアレックスの意識が戻るまでは…」
「ああ…そうするとしよう。でももどかしいよ。彼のために祈ることしかできないなんて…」
「それはわたしも同じです…」
ジャマールもそう言ってまたアレックスの方を見つめた。
「だが教えてくれないか? ジャマール…。わたしはホークと呼ばれるわが従弟が、ヨーロッパで…あの非情な戦いの中で、冷徹な交渉を難なく成功させていくのを何度も見てきた。なのに…今回はどうしてこんな簡単な過ちを犯したのだ…?」
ハリス・ロンバートは瞬きもせずに眼鏡の奥の瞳で、ジャマールを見つめた。
彼も気づいていたのか…? 確かに日本に来てから、アレックスはいつもの冷静さを欠いていた。
いつかはこうなることを危惧して、アレックスからアスカを遠ざけようとしたが…。
結局ジャマールがしたことは、彼らをさらに深く結びつけただけだった…。
ジャマールは眉をひそめて、ハリス・ロンバートを振り返る。
「アレックスも人の子だったということですよ。あなたと同じ…。心の中では愛を求めてた。やっとそれを惜しみなく与えられる相手に巡り合えただけなんです…」
「愛か…。わたしもエリザベートがいたからこそこんな苦境にも耐えられる。アレックスもそんな相手に巡り合えたと…?」
「そうです…」
暗く沈んでいたハリスの顔がパッと明るくなった。
「ああ…あのいつか岩倉卿の園遊会で出会った太夫か…? 彼女を見つめるアレックスのあんな目を見たのははじめてだった。そうなんだな…? ジャマール…」
好奇心に輝くハリス・ロンバートの瞳を見下ろしながら、ジャマールはうなずいた。
「ただアスカは遊女ではありません。それを装っていただけで…。父親は英国貴族で、母親は日本の士族の娘だったのですから…。それに最近まで彼女は、アメリカの実業家ジェームズ・メルビルの養女でした」
「それならなぜここに彼女を呼ばない…? 一緒に暮らしていたんだ。きっと心配していることだろう…?」
「もちろんです。でもそのためにはあなたの承認が必要です。英国所有の領地に外国人の…娼婦の立ち入りを禁じる決定を出したのはあなたですから…」
「ならそれは簡単なことだ…」
そう言ってハリス・ロンバートはニヤリと笑った。
「彼女は娼婦ではない…。君はさっきそういわなかったか…? それに私の記憶が正しければ、ひと月前、メルビル嬢はアレックスの婚約者だったはずだが…?」
「仰せの通りです、総領事。ではわたしも急な用事を思い出したのでこれで失礼します…」
ジャマールは早口でそれだけ言うと、素早く身をひるがえした。
「確かにクレファードの息の根を止めたと言うのだな…?」
黒柳は、暗闇の中にたたずむ男に向かって言った。
「ええ…弾は2発。1発は確実に届いたはず…。奴が倒れて血を流すのを、確かにこの目で見ましたから…」
「ならばもう英国を恐れることはない。バロンにもそう伝えよう…。調印式は予定どおり10日後に行うこととする。その時に例のものも公開するつもりだと…」
「例の女は…?」
暗闇の中の影が動き、ぞっとするような低い声が響いた。
「それなら…ことはもっと簡単だ。例の娘との交換に応じなければ、力ずくで奪えばいい…」
「ティアラも明日届くし…邪魔者が居なくなったからですか…?」
「ああ…いよいよなんでね。やっとわが夢がかなう時が来たんだ。あれさえ手に入れば、あとはどうなろうと私の知ったことではない…。この国の腐り切った連中がどんな理想を掲げたところで、所詮は井の中の蛙。いずれはヨーロッパの大国の波にのまれて消えてしまうのだ」
「その前にあなたはさっさと大陸に逃げるおつもりですね? そのためにあなたは、何年も前から海外にしっかりと投資をしておいたのだから…」
「ふっ…ウェイ・リー。おまえが味方でよかったよ…。この先もずっと味方で居てくれるといいがな…」
「それは御前しだい…。わたしも御前と同じ、欲望には忠実なのですよ…」
暗闇の影は低い声で不気味に笑った。
その晩、アスカはベッドで泣き疲れて眠ってしまった。
アレックスの無事を祈りながら…何度もベッドの上で寝返りを打つ…。
目を閉じれば、倒れる瞬間のアレックスの顔が浮かんできて…アスカの心を容赦なく引き裂いていく…。
彼をあんな風に危険にさらしたのはアスカのせい…。
わたしが取り乱して飛び出さなければ、アレックスも撃たれることはなかったのに…。
どんなに悔やんでみても時を戻せるわけではないのに…。
わかっていても、何度も同じことを考えてしまう…。
もしこのまま彼を失ってしまったら…わたしはきっと自分で自分を許せないだろう…。
そう思うとまた涙が止まらなくなった。
わたしは…わたしは…アレックスの側に行くことさえ許されていないのだから…。
目覚めては起き、また眠りにつくということを繰り返しているうちに、2度目の夜が明けてきた。
たぶんあれからもう3日め…。何も知らせがないということは、アレックスはまだ生きている証拠だわ…。
朦朧とした意識の中でそう思った時、部屋のドアを勢いよく叩く音でアスカは飛び起きた。
まさか、アレックスに何か…!?
そんな不安が胸に渦巻く中、よろよろとベッドの上に起き上がると、ドアを開けたリリアの歓びいっぱいの顔が目に入って、アスカは一気に体の力が抜けるのを感じた。
「お嬢様! すぐに支度をなさってください! お迎えの馬車が下で待っているんです…!」
リリアはわずかの時間も惜しいというようにアスカを追い立てる。
「まあ、リリア何なの…? わたしは今朝、頭痛がして…」
眉をしかめてのろのろとベッドから下りたアスカを、リリアは鏡の前に引っ張って行って、すとんと椅子に座らせてアスカの髪を梳き始める。
「領事館からのお迎えです。すぐさまお嬢様をお連れするようにとジャマールからの伝言なんです…」
嬉しそうに笑うリリアの目にも涙がにじんでいた。
しばらく二人は鏡の中で見つめあう。アスカの目にも涙があふれてすぐさまその顔はにじんで見えなくなったけれど…。
「リリア…?」
「さあ、さあ、お嬢様。時間がもったいないですよ…。きっと目覚めた旦那様がお呼びになったんですよ。きっとそうに違いないんですから…」
アスカは立ち上がると、素早く身に付けていたナイトドレスを床に落とした。
領事館までの道のりは、アスカには永遠に感じられた。
山の手の屋敷から領事館のある居留地までは、馬車で半時ほどの距離だが、イェンが一緒に付き添ってきた。
イェンは何も言わずにただ黙って微笑みながらアスカが馬車に乗るのを手伝ってくれた。
何も言わなくても、アスカにはイェンの気持ちが分かる。今は信じろと…その目は言っていた。
海岸通りのアレックスの屋敷も見事だったが、領事館はさらに立派な建物だった。
入口の門は高く、まるで彼女を拒んでいるようにアスカには感じられる。
正面に立ってる門番はもちろんのこと…玄関わきに立っている制服姿の衛兵の表情のない顔もひどくアスカを怯えさせる
「アスカ、大丈夫だ…」
イェンがそっとアスカの腕に触れてきて、アスカは思わず声を上げそうになる。それほど緊張していたのだ。
この建物のどこかにアレックスがいる…。
そう思うだけで、期待にアスカの足は震えてくる。
長い廊下の両端にはたくさんのドアが並んでいた。そのドアを片っ端から開けて、アレックスを探しに行きたい衝動をアスカは必死に抑えた。
今すぐにでもアレックスに会いたいのに、あとどのくらい待たなければならないのだろう…?
広い謁見用の待合室に通されて…案内役がまたドアの向こう側に消えると、アスカはイェンとともに取り残される不安に、胸が押しつぶされそうになる。
「待つんだ。アスカ…」
横からイェンがささやいた。
「わかっているの…でもわたし…」
言った先から涙がこぼれ落ちてアスカの頬を濡らした。
イェンが慰めるように肩を抱くと、止まらなくなった涙は嗚咽となって溢れだし、アスカはイェンの胸に縋りついて泣きじゃくった。
どれだけ時が過ぎたのだろう…?
アスカの激しい嗚咽が静かな啜り泣きに変わったころ、小さなノックのあとでドアが静かに開いた。
「ジャマール…」
入口にはジャマールが立っていた。
表情はどこか虚ろで、いつもは謎めいて見える表情が、今は苦痛に歪んでいる。
アスカは言葉なくジャマールを見つめた。
きっとジャマールはわたしを憎んでいるはず…。アレックスをあんな目に遭わせたわたしをきっと彼は許してくれないかもしれない…。
でもわたしは…彼の命が助かるなら、この命を差し出してもかまわない…。
「アスカ…」
ジャマールの声はひどくかすれていた。
たぶん、何日も眠っていないのだろう…。目の下にうっすらと暗い影が浮かんでいる。
「ジャマール、ごめんなさい…! わたしのせいでアレックスは…」
「何も言わなくていい…。わたしについて来なさい…」
ジャマールはそれだけ言って、また二人に背を向けて歩き始めた。イェンとアスカは慌ててその後を追う…。
歩きながらジャマールは言った。
「アレックスの今の状態は、あまりいいとは言えないんだ。手術は成功したが、2日前から高熱が出て下がらない…。
感染症を起こしていて、張り薬も薬湯も効かない…。今朝から呼吸も浅くなってきた。このままいくと…」
「やめて…!」
アスカはその先を聞くことが出来なかった。
彼がわたしを残して死んでしまうなんて…。 そんなこと考えられない…! 考えたくもない…!
「嫌よ、そんな…。お願い、違うと言って…! 」
ジャマールの腕に縋りつくと、アスカは必死でその目を覗き込んだ。
「お願い、ジャマール! アレックスは助かると言って…! あなたは素晴らしい医術を持っているとイェンから聞いたわ。アレックスを助けて…!」
「アスカ…」
ジャマールは両手を回してアスカを優しく抱きしめた。
「わたしも…そう言いたいんだ。だがわたしは神ではない…。神の領域のことはわからないんだ。
わたしの生まれた国では、こんな考え方がある。体を離れようとしている魂を呼び戻すために…家族や恋人が、3日間ともに同じ部屋で過ごして皆で祈るんだ。
戻ってきてほしいと…。
死神から愛しい者を取り戻すために必要なものは、そのものに対する想いの深さだ。
今のアレックスには君の力が必要なんだ…」
ジャマールの言葉は、アスカの心に優しく沁みていく…。
「さあ、アレックスのところへ行こう…」
3人は並んで長い廊下を進んでいくと、やがて大きなドアの前に行きついた。
ドアの前に立つと、ドアは内側から音もなく開かれ…そのまま中へと入っていく。
そこからジャマールが先に立って、数人の護衛の立つ部屋のさらに奥…続き部屋になっている部屋へと入って行った。
アスカは緊張した面持ちでジャマールのあとをついていく。その間怖くてアスカは顔を上げられなかった。
もし今のアレックスの状態が、アスカが想っている以上に悪かったらどうしよう…。
そんな気持ちがアスカを戸惑わせる。
でも窓際に置かれたベッドの上で、蒼白い顔をして横たわるアレックスの姿を目にした瞬間にアスカの想いは一気に爆発した。
「アレックス…!?」
枕もとに駆け寄ると…意識のないアレックスの手を取って握りしめる。その手は燃えるように熱く、ジャマールの言うとおり今のアレックスがかなりの高熱に侵されているのが分かる。
「ああ…アレックス、ごめんなさい…!」
再びアスカの目から涙があふれだして、その涙は頬を伝ってアレックスの手のひらを濡らした。
アスカの見つめるアレックスの頬はひどくやつれて見えた。
自慢の金髪は汗で濡れて頬に張り付いている。目の下には黒いあざが浮かんで…あの輝くような自信たっぷりだったアレックスとは別人のように見える…。
それでもここに居るのはあのアレックスなのだ。
わたしが心から愛したひと…。ああ…お願い! わたしを残して逝かないで…!
わたしは何に変えても彼を引き留めなければ…これから先、わたしは彼なしでは生きていけない…。
気が付けば…アスカはアレックスと二人きりになっていた。
お願い…! アレックス、私を一人にしないで…! そうよ、勝手にひとりで行かせるものですか! あなたのように身勝手なひとには…!
アスカはそれからひと時も離れずに、献身的にアレックスの世話をした。
相変わらずアレックスの意識は戻らなかったけれど…それでもアスカはかまわなかった。
生きてさえいてくれればいい…。
そう想いながら、水に浸したリネンで熱く燃えるようなアレックスの全身を丁寧に拭いていく…。
呼吸も浅く…自分では水分さえまともに取れないアレックスのために、口移しで水を飲ませた。
素肌の上に、左肩から右わき腹にかけて、真っ白い包帯が巻かれ、それを目にする度にアスカは自分の愚かさを呪った。
午前と午後の数回、様子を見に来るジャマールは、その都度アスカに適当な支持を与えていくが、必要なこと以外は何も口にしない。
相変わらずその表情は厳しいけれど、アスカはジャマールの瞳にわずかではあるけれど安堵の色が浮かぶのを感じた。
お願いよ、アレックス…! 帰ってきて…!
無心でアレックスの看病をしながら、アスカは必死に祈り…語りかけた。
自分がいかに彼を愛しているか…。アスカがどれほどアレックスを必要としているか…。眠っているアレックスに切々と訴えた。
時々アレックスの睫毛が小さく震えたけれど…彼が目を覚ますことはなかった。
アレックスは暗いトンネルの中を延々と…たった一人で歩いていた。
最初は不安で…誰かを呼ぼうと叫んでみるが、どこからも返事がない…。
さっきからずっと左肩が激しく痛み、やがてそれは全身へと広がって…耐え難い痛みとなって体中を責め苛んだ。
それでもアレックスは、何かとても大切なものを忘れているような気がして…必死に考えるが思い出すことが出来なくて、やがて…襲ってきた激しい痛みに、そのことすらも忘れてしまった。
遠い先に小さな光の点が見える。この永遠とも思える長いトンネルの出口だろうか…?
そこへ行けば、すべての痛みから解放されるとわかっているから…必死にそこを目指したいのに、何かが彼を引き留めていた。
遠くで誰かが自分の名前を呼んでいる…? 最初はか細かった声がだんだん強くなっていくにつれて、アレックスはハッと気が付いた。
アスカだ。アスカがボクを呼んでいる…!? その日の朝、アスカはいつものようにアレックスのベッドに寄り添うように眠っていた。瞼が刺すように痛んで、思わず窓から漏れる明るい陽射しに顔を背けた。
アレックス…!?
ハッとしてベッドのアレックスに目を向けると、彼は静に眠っていた。
昨夜は浅かった呼吸が、今は深く規則正しいリズムを刻んでいる。
高熱と痛みに歪んでいた表情は、噓のように穏やかだった。
アスカはそっと手をのばして、もつれたプラチナブロンドを指先で優しく梳かしながら…少し痩せた頬やうっすらと伸びかけた淡い色の髭の目立つ顎をゆっくりと撫でる。
こんなに弱っている時でさえ、アレックスは美しかった。
広い肩から胸にかけて日焼けして褐色に彩られた筋肉はなめらかで、引き締まった腹部や細い腰へと続く髪の毛よりは少し濃い金色の巻き毛は、胸から下に向かっていくほど細くなって…腹部にかけられた上掛けの下へと続いている。
この何日間、熱で火照った身体を冷やすために、アスカはアレックスの一糸まとわぬ姿を何度も目にしていたはずなのに…彼の剥き出しの筋肉に見惚れるうちに、自然と目線は上掛けに隠れる部分へと吸い寄せられていく…。
そこには何の強張りも感じられなかったけれどアスカは、数日前に彼から与えられた激しい抱擁とそれがもたらす快感を思い出して、カッ!と全身が熱くなるのを感じた。
こんな時になんて不埒なんでしょう…!
恥ずかしさにアスカがひとり真っ赤になると…眠っているアレックスの瞼が小さく震えるのが見えた。
「アレックス…!?」
アスカの見守る中で、アレックスの瞼がゆっくり開いて…まだ焦点の定まらない碧い瞳がぼんやりとアスカを見つめた。
虚ろな瞳は一瞬微笑むように揺らいでから、すぐまた目を閉じる。
でもその唇が小さく「ア…ス…カ…」と動くのを見て、アスカはアレックスが自分たちの世界に戻ってきたことを知る。
「ああ…神様…!」
アレックスは助かったのだ。 言葉にならない喜びに、アスカの胸は震えた。
黒い罠 3 アスカの決意 ~ かりそめの花嫁
それからのアレックスの回復には目覚ましいものがあった。
昏睡状態から最初に目覚めてから丸一日眠り続け、そのころにはジャマールももう大丈夫だと太鼓判を押した。
相変わらず病室の外では緊迫した空気が張り詰めていたけれど、訪れる誰もがアレックスの前ではそんなことは一言も漏らさなかった。
まだ満足に起き上がれない彼のために、アスカは食事から着替えまで…身の回りのことを献身的に世話をした。
アスカが自分の部屋に戻って着替えを済ませてくると、アレックスは穏やかな表情で眠っていた。
その横顔を見つめていると…思わずアスカの口元が緩む。彼の官能的な唇に引き寄せられるように、身をかがめて顔を近づけたアスカは、急にキスが欲しくなってゴクリと息を飲み込んだ。
すると…不意に眠っていたアレックスの腕が伸びてきて…アスカのうなじを捕らえると、グイっと引き寄せて自分の唇にアスカの唇を押し付けた。
うなじの上でまとめていた黒髪が落ちてきて…二人の重なった唇の両側にベールのように広がる。
アレックスの唇はまるで貪るようにアスカをとらえ…つい昨日まで生死を彷徨っていたとは思えないほどの生命力にあふれていた。
やっとその唇が離れた時には、二人ともハアハアと肩で息をするほど、呼吸は乱れていた。
「まあ、アレックスダメよ…。まだあなたはそんなことが出来るほどかいふくしていないのよ…」
さらにアレックスの唇がアスカの首筋に下りてきて…片手がドレスの上から豊かな胸の膨らみをとらえると、アスカは喘ぎながら言った。
「ああ…アスカ。ボクは生きているんだね…? それを実感したいんだ…」
アレックスはかすれた声で耳元でささやく…。
でもまだ体力が回復していないアレックスの右手は、力なくベッドの上に落ちた。
「バカね…。まだ早いわ」
アスカはもう一度アレックスの唇に軽いキスをして、その手を握りしめた。
「ああ…もう忌々しい限りだ。ホークと呼ばれた男が、何日もベッドに縛り付けられるなんて…」
「今まであなたは忙しすぎたのよ。しばらく休養するべきだわ」
「メイファンが囚われたままだというのにか…?」
動かない自分の身体に苛立ちを覚え、苦痛に顔を歪んませるアレックスは、根っからの戦士なのだ。こんな時でさえ自分の立場を忘れていない。
「メイファンのことは、ジャマールやイェンに任せて、今はあなたが元気になることに専念してちょうだい。わたしのために…」
「君のために…?」
「そうよ。わたしをロンドンに連れて行ってくれるんでしょう…? それなら早く元気になって、あの黒柳に一泡吹かせてやりましょう…!」
アスカから出てきた言葉に、アレックスは声を立てて笑った。
「ああ…そのとおりだ。アスカ、君はまったくなんて女だ。わかったよ。もうしばらくはベッドと仲良くすることにしよう。でも約束してくれないか…? もう勝手にボクの側から飛び出していかないと…」
片手でアスカの肩にかかる髪をすくいあげて愛しげに口づける。
「ええ…約束するわ。ごめんなさい、アレックス…。あなたをこんな風に傷つけるつもりはなかったのよ…」
アスカはアレックスが銃弾に倒れたあの日の光景が浮かんできて、その恐怖にまた涙が浮かんで来た。
アレックスの傷のない方の胸に額をつけて泣きじゃくると…その背中をアレックスは優しく撫でた。
「わかっているよ。いいんんだ…アスカ、もう心配はいらない…。こうしてボクは帰ってきた。君が呼び戻したんじゃないか…。さあ、君も少し休むといい…。僕も少し眠るから…」
「ええ…そうさせてもらうわ…」
アスカは素直に従うと、立ち上がってもう一度アレックスの額にキスをして、そっと部屋をあとにした。
アレックスは助かった…。 深い安堵感に思わず涙がまたあふれてくる。
それからのアレックスの回復には目覚ましいものがあった。
昏睡状態から最初に目覚めてから丸一日眠り続け、そのころにはジャマールももう大丈夫だと太鼓判を押した。
相変わらず病室の外では緊迫した空気が張り詰めていたけれど、訪れる誰もがアレックスの前ではそんなことは一言も漏らさなかった。
まだ満足に起き上がれない彼のために、アスカは食事から着替えまで…身の回りのことを献身的に世話をした。
アスカが自分の部屋に戻って着替えを済ませてくると、アレックスは穏やかな表情で眠っていた。
その横顔を見つめていると…思わずアスカの口元が緩む。彼の官能的な唇に引き寄せられるように、身をかがめて顔を近づけたアスカは、急にキスが欲しくなってゴクリと息を飲み込んだ。
すると…不意に眠っていたアレックスの腕が伸びてきて…アスカのうなじを捕らえると、グイっと引き寄せて自分の唇にアスカの唇を押し付けた。
うなじの上でまとめていた黒髪が落ちてきて…二人の重なった唇の両側にベールのように広がる。
アレックスの唇はまるで貪るようにアスカをとらえ…つい昨日まで生死を彷徨っていたとは思えないほどの生命力にあふれていた。
やっとその唇が離れた時には、二人ともハアハアと肩で息をするほど、呼吸は乱れていた。
「まあ、アレックスダメよ…。まだあなたはそんなことが出来るほど回復していないのよ…」
さらにアレックスの唇がアスカの首筋に下りてきて…片手がドレスの上から豊かな胸の膨らみをとらえると、アスカは喘ぎながら言った。
「ああ…アスカ。ボクは生きているんだね…? それを実感したいんだ…」
アレックスはかすれた声で耳元でささやく…。
でもまだ体力が回復していないアレックスの右手は、力なくベッドの上に落ちた。
「バカね…。まだ早いわ」
アスカはもう一度アレックスの唇に軽いキスをして、その手を握りしめた。
「ああ…もう忌々しい限りだ。ホークと呼ばれた男が、何日もベッドに縛り付けられるなんて…」
「今まであなたは忙しすぎたのよ。しばらく休養するべきだわ」
「メイファンが囚われたままだというのにか…?」
動かない自分の身体に苛立ちを覚え、苦痛に顔を歪んませるアレックスは、根っからの戦士なのだ。こんな時でさえ自分の立場を忘れていない。
「メイファンのことは、ジャマールやイェンに任せて、今はあなたが元気になることに専念してちょうだい。わたしのために…」
「君のために…?」
「そうよ。わたしをロンドンに連れて行ってくれるんでしょう…? それなら早く元気になって、あの黒柳に一泡吹かせてやりましょう…!」
アスカから出てきた言葉に、アレックスは声を立てて笑った。
「ああ…そのとおりだ。アスカ、君はまったくなんて女だ。わかったよ。もうしばらくはベッドと仲良くすることにしよう。でも約束してくれないか…? もう勝手にボクの側から飛び出していかないと…」
片手でアスカの肩にかかる髪をすくいあげて愛しげに口づける。
「ええ…約束するわ。ごめんなさい、アレックス…。あなたをこんな風に傷つけるつもりはなかったのよ…」
アスカはアレックスが銃弾に倒れたあの日の光景が浮かんできて、その恐怖にまた涙が浮かんで来た。
アレックスの傷のない方の胸に額をつけて泣きじゃくると…その背中をアレックスは優しく撫でた。
「わかっているよ。いいんんだ…アスカ、もう心配はいらない…。こうしてボクは帰ってきた。君が呼び戻したんじゃないか…。さあ、君も少し休むといい…。僕も少し眠るから…」
「ええ…そうさせてもらうわ…」
アスカは素直に従うと、立ち上がってもう一度アレックスの額にキスをして、そっと部屋をあとにした。
アレックスは助かった…。 深い安堵感に思わず涙がまたあふれてくる。
長い廊下をフラフラと歩きながら、アスカはどっと疲れが押し寄せてくるのを感じた。
同時に、うれしさと同じくらい重たい現実もそこにあることも知っていた。
今朝早く、英国領事館に届けられた一通の手紙…。黒柳から祭儀通告ともいえる内容の手紙が届けられたのだ。
ジャマールを探していて、アスカはたまたまそばを通りかかった時に、ジャマールとハリス・ロンバートの会話を聞いてしまったのだが…。
二人はそこにアスカがいるとは思わなかったのだろう…。ドアの外まで漏れるほど激しく言い合っていた。
「連中はアレックスの今の状態を知っていて、その条件を突き付けてきたのだ。彼を失った今、我々に何が出来るというのだ…!?」
「ならあなたは、奴が言うとおりに変わりの人質を差し出せというのですか…!? それがアレックスが最も大切にしている者でもですか…!?」
いつも冷静なジャマールがひどく激高している。
アスカの理性はすぐその場を離れなければ…。そう告げていたが、両足は根が生えたように動かなかった。
「奴の目的は何であれ、彼女は黒柳があれほど欲しがった娘だ。すぐに命まで危険にさらされるとは思えない…。でも返答しだいではもうひとりの娘の命は確実に失われるぞ…! どうするつもりだ!?」
「今我々も必死に彼女の救出に動いています。もうしばらく待てば、黒柳の屋敷の見取り図が手に入れば…」
「それはいつだ…!? 報告によれば、黒柳の元にはすでにティアラが届いているはずだ。それにこの2,3日中に奴らの言う調印式は行われる。その証拠となる念書も奪うはずだったが、実際にはその手筈さえ整っていない有様だ…!」
ハリスの声からも苦悩の色が深く感じられた。黒柳はメイファンを返す交換条件として、アスカを求めているのだ。
きっと期日までにその要求が通らなければ、メイファンの命はないと、黒柳は言っているのだろう…。
アスカは重たい足を引きずりながら自分の部屋に入ると、倒れこむようにしてベッドの横たわった。
アレックスの命は助かった。今度はメイファンの命を助けなければ…。
もしこのままメイファンを永遠に失うことになったら、きっとイェンは生きていけないかもしれない…。
ここ何日間のイェンの生気のない顔をアスカは思い浮かべた。
ああ…神様…わたしに勇気をください。アスカは心の中で祈る。
メイファンを助けるためには、わたしが黒柳の元へ向かうしかない…。わかっていても考えただけで恐ろしさに足がすくむ。
それに…わたしにもう一度アレックスに背を向けるよお気があるだろうか…?
アスカは一度アレックスを裏切っている。今度また同じことをしたら、きっとアレックスは永遠にわたしを許さないかもしれない…。
たとえそれがメイファンを助けるためであっても、今度こそわたしは…男に身を売る娼婦になるのだ…。
アスカは数時間眠った後で、リリアに手伝ってもらって、入浴して身を清めた。
リリアは蒼白いアスカの頬や生気のない瞳に、ひどく心配そうな顔を向けたが、看病に疲れただけ…そういうアスカの言葉に納得したのか、それ以上は何も言わなかった。
アスカは無理して微笑んで見せると、身支度を手伝うリリアに、とびきりの美人にして欲しいと言った。
「まあ、だんなさまが元気になられたお祝いをなさるつもりですね? それなら、精一杯のおめかしをしなければ…」
リリアは嬉しそうに弾んだ声で笑ったが、アスカは彼女を騙しているようで心が痛んだ。
確かに今は、アレックスのために美しく装っているけれど、それは…来るべき“別れ”のための装いなのだ。
アスカは目を瞑って、出来るだけ鏡の中の、自分の姿を見ないようにした。鏡に映っている自分の真実の姿を見たら…きっと涙が止まらなくなるとわかっていたから…。
アスカがシンプルだけれど、美しい白いサテン地のドレスに身を包むと、リリアはそれに合わせてアスカの黒髪を高く結い上げて、後れ毛を緩やかなカールにして小さな顔の横に垂らした。
結った髪の間には開きかけた小さな白バラを編みこんだ。
「ごらんになってください。何て美しいんでしょう…! まるで花嫁のようですよ。さぞだんな様はお喜びになられることでしょう。」
リリアは感心しながら、鏡の中のアスカの姿に見入っては、溜息をついているけれど、アスカは小さく微笑んだだけだった。
これが本当にアレックスとの婚礼の装いなら、こんなに嬉しいことはないだろう…。で
も実際のアスカの心は死んだも同然なのだ。
「さあ、さあ…さっそく見せて差し上げてくださいな。だんな様はさっきお目覚めになって、とてもお加減がよろしいようでしたよ…」
「そうなの…? ありがとう、リリア。あなたには最初からどれほど助けてもらったことか、どれだけ感謝しているか…その気持ちを伝えるのにいくら言葉をつないでも足りないくらいだわ…」
「まあ、何をおっしゃるんです? 最初にお目にかかったときから、お嬢様は何か特別な力をお持ちだと気付いていましたよ」
“この衣装はわたしの言うならば“死装束”なのよ…“
アスカの感傷的な気持ちがリリアにもわかるのか、彼女は訳もわからず涙ぐむと、そっとエプロンの裾で涙を拭って出て行った。
ひとりになると、アスカはじっと自分の胸に手をあてて、心の中で祈る。
“ああ…お母さん…どこかで見ていてくれるなら、どうか力を貸して…。これから成し遂げなければならないことのために、わたしは…この世で一番愛する人を裏切らなければならないの…。
アレックスは一瞬目を疑った。今目の前に立っているのは、確かにアスカだ…。雪のように白いドレスを着て、頭には小さな白いバラをあしらったアスカは夢のように美しかった。
「ボクは夢を見ているのか…? それとも助かったというのは間違いで、ボクは天国にいるのか…?」
「ばかなことを言わないで…!アレックス…これは現実よ。あなたがわたしのところに戻ってきてくれたお祝いをしたかったの。あなたのために装いたかったの…」
最高の笑みを浮かべながら、アスカはベッドの上で半身起こしたアレックスに向けて、両手を差し出した。
「信じられないな…ボクの愛した妖精は、やはり魔女だったのか…?」
アスカをその腕に抱き寄せ、額に額を合わせて…じっとその目を覗き込む。アレックスの曇りない瞳の碧さに、アスカは挫けて思わず涙ぐみそうになる。そして、心の中で自分を叱りながら、狂おしいまでの激しさでアレックスの唇を求めた。
“これから先、こんな風にアレックスに触れることはもう二度と出来ないかもしれない…。どんなに愛していても、一度黒柳の手に堕ちた女を、彼が受け入れてくれるわけがないもの…。ああ…アレックス、どうしようもないほど、あなたを愛している。お願い、これからわたしがすることをあなたが知ったら、きっとあなたはわたしを許さないでしょう…”
それからの数時間、アスカはアレックスの許で、誰にも邪魔されない時間を過ごした。時々、ジャマールやハリスが部屋を訪れたが、必要最低限な話をしただけでそそくさと帰っていく。まるで二人の時間を邪魔しないように気を遣っているようだった。
アレックスが再び休養のための眠りについた後も、アスカはしばらく部屋に留まって、端正なアレックスの寝顔を見つめていた。彼の面影を永遠に脳裏に焼き付けるように、じっと食い入るように見つめてから…彼の唇にそっとキスをして離れた。
“さようなら…アレックス…どうか、わたしを許して…”
ジャマールは、ハリス・ロンバートの執務室で、アレックスに代わってあちこちからの報告書に目を通すのに忙しかった。今のアレックスの体調を考えれば、まだ直接それらに指示を出すのは難しい。とりあえず、ジャマールが目を通したものを報告するのに留まっていた。
ジャマールの側にはイェンがいて、ジャマールの出す命令に即座に反応できるように備えている。ハリス・ロンバート自身は毎日、列国との交渉に追われていた。
「あれから何か動きはあったか…? 」
報告書から顔を上げずにジャマールは言った。
「いえ、何も…。ただこの頃深夜になって、人の出入りが多くなっていて、やはりあの情報は正しかったって思えてくるんだ」
「近いうちに、連中が顔を合わせるというやつだな…?確信は…?」
「あると思う…。黒柳は、本当にこの国にクーデターを起こすつもりなんだ。自分に邪魔な連中は、一人残らず始末して…回りにはしっかり予備線を張っている。ボスが撃たれたのだって…」
「シツ…! それ以上は言うな。 アレックスが元に戻るまでは、何とか我々で処理しなければならない。おまえもメイファンのことが気にかかるのはわかる。だが冷静になるんだ。我々に今出来ることは、ともかくやつの動きを見張ることだ。やつは必ず動き出す。その時が我々のチャンスとなる…」
「それはいつ…? こうしている間にもメイファンは…!」
いつも穏やかなイェンがひどく興奮している。その声をアスカはドアの向こう側で聞いていた。
“さあ、勇気を出して、アスカ…。一歩を踏み出すのよ…”
アスカは自分を励ますように胸に手をあてて、大きく息を吸い込んだ。
ドアをノックして…数秒おいてからドアを開けると、二人は驚いたように振り返った。
「驚いたな、アスカ…。君のそんな姿を見るのは久しぶりだな…」
急に笑顔をつくると、イェンは両手を広げてアスカを迎えいれた。
「ええ、この装いはアレックスのためよ。彼の命が助かったことを祝いたかったの。それで、ジャマール、話があるのだけれど…」
アスカのひどく緊張した様子を見て、ジャマールは黙ってうなずいた。
「じゃあ、ボクはまたあとで…」
そう言って部屋を出ようとしたイェンをアスカは呼び止める。
「イェン、あなたにも聞いて欲しいの…。ジャマール、わたしは…黒柳のところへ行くわ…」
「ダメだ…!!」
ジャマールと、イェンは、二人同時に叫んで、互いの顔を見合わせた。
「メイファンのことを思ってそう言っているのなら、大丈夫だよ。ボクはメイファンを信じているし、きっとボクがこの手で彼女を助けるから…」
イェンはアスカの腕を強く掴んで、揺さぶるように言う。その傷ついたような彼の眼差しをアスカは見つめた。
「いいえ、メイファンのためじゃないわ。わたしのために行くのよ。前にアレックスには話したことがあったけれど、4年前から黒柳は、わたしを欲しがっていたの。あの蛇のような眼が恐ろしかった…」
緊張して、身体の前で握り締めた手のひらに汗が滲む。
「でも、逃げてばかりはいられない…。今まではアレックスが護ってくれた。でも今度はわたしが彼を護る番だと思うの。わたしなら、黒柳を油断させられる…黒柳を罠にかけるのよ」
「でも黒柳は狡猾な男だ…。君だって無事でいられるわけがない…」
ジャマールが苦痛と困惑の入り混じった表情でアスカを見つめている。アスカは黙ってうなずいた。
「知っているわ…。でも、もう逃げたくはないのよ。わたしはメルビルの娘。わたしを拾って育ててくれた父のためにも、わたしに出来ることをしたいだけ…。お願い、わたしの願いを聞いて欲しいの…」
「アレックスのことはどうする…? もう一度君が離れていったと知ったら…アレックスは、君を許さないかもしれない…」
「それなら…彼にわたしを憎ませて…。忘れられるより、憎まれた方がよっぽどいいわ…。でも信じて…わたしが、これから先どんな目に遭おうと、心だけは汚されない…。わたしの魂は、とっくの昔にアレックスに捧げているのだから…」
そう言ったあとで、不思議とアスカの心は晴れていた。
これから先、自分が向かおうとしている先は、恐ろしい獣達の巣窟だというのに…。
“今の私の心は、痛いほどアレックスへの愛で満ちている。きっとこの先、どんな苦しみが待っていようとも、その想いがわたしを助けてくれるだろう…”
アスカは二人に微笑んだ。
「お願い、ジャマール…。あなたの力を貸して…」
「わかった。それで、わたしは何をすればいい…?」
ジャマールの張り詰めた表情がふっと緩んだ。
「まず、アレックスが死んだと…嘘の情報を流してちょうだい。わたしは、彼を失って、絶望して黒柳の元へ来たと言うわ…」
「黒柳を油断させるんだな…?」
「ええ、そうすればきっと、黒柳は動き出すに違いないから…。それにメイファンを救い出す手立ても見つかるわ」
「君が言いたいことはわかった…。だが…?」
再びジャマールの黒い瞳に緊張が走るのをアスカは感じた。ジャマールは、アレックスを裏切ることに躊躇しているのだ。
「もう一度言うわ。これはアレックスのためなの。これ以上黒柳に、アレックスを傷つけさせないための…そのために、あなたに力を貸してほしいと言っているのよ…」
それ以上の言葉は要らなかった。ジャマールはすぐさま行動し、アスカはそれに従った。部屋を出る時、イェンが万感を込めた眼差しをアスカに送ってきた。それに応えるようにアスカは微笑む。
“心配しないで…。わたしは大丈夫…!”
そう言ってアスカは、イェンを抱きしめたかったけれど、ただギュッと彼の手を握り締めただけだった。
「娘はまだ目を覚まさないんだな…?」
「はい…。あらゆる解毒方法を試しましたが、最初の薬がこの娘の体質には合わなかったのかも知れません…」
賢吾は出来るだけ感情を表に出さず、わざと黒柳の方を見ないようにして答えた。
「なら今すぐ別の娘を探さねばなるまい…。連中が集まってくるのは明日だ。一度味をしめた奴等は、妥協するまい。半端なものでは満足させられないぞ…」
「わかっています。
黒柳の声は、何回聞いてもゾッとするほど背筋を凍らせる。応える賢吾の声も、緊張で震えていた。
「昨夜、吉原(東京)の遊郭から、初見世前の太夫をさらって来ました。年は16…末は吉原でも1,2を争う美姫と評判の娘です。きっとお気に召すと思いますが…?」
「ほう…? それは楽しみだ。間違いなく生娘なんだろうな…?」
「はい、確かめましたから…」
それを聞いて、黒柳はニヤリと笑う。賢吾は背筋に冷たいものを感じて身震いした。こんなやり取りは、今までも何度も交わされているはずなのに、何度体験しても慣れることはない。
黒柳が当たり前の行為では満足しないことは知っていたが、時々自分の下僕ともいえる連中を招いて行われる“儀式”と呼ばれる密なる集まりは、まともな人間なら目を覆いたくなるような行為が平然と行われていた。
仮面を着けた男たちが、無垢な少女を、獲物を狙うハゲタカのように食らう姿には、吐き気させもよおす…。こんな男の側で仕えながら、賢吾が正気を失わずにいられるのは、ひとえに賢吾の自制心が人並み以上に強いせいだろう。
「なら、もうその準備に入っていると思っていいのだな…?」
「その通りです。で…今抱えているあの娘の件ですが、あとの始末はわたしに任せていただいてもよろしいでしょうか? 恐らくあの娘も、過去にいたほかの娘同様、あともって
数日…そのあとは一度も目を覚ますことなく、心臓麻痺を起こして命はないものと思われます…」
「うむ…あの娘が役に立たないとなれば、それまでにアスカを手に入れる別の手段を考えなければならん…。明日わしは、ティアラを受け取るために東京まで出向く…。その間におまえは、アスカを奪う手はずを整えておけ…。今度はあの娘のように失敗は許されない…いいな?」
「御意…」
賢吾は自室に下がると、そのさらに奥にある自分だけの研究室に入っていった。
薄暗い6畳ほどの広さの、部屋の壁の至る所に、様々な植物の根を乾燥させたものが天井からぶら下がっている。
その側の棚には、トカゲやイモリ…得体の知れない小動物のホルマリン漬けの容器が並び、ひとつしかない机の上には、多くの書物や書き散らした紙切れが隙間のないほどに乱雑におかれていた。
その部屋の一角にある、簡素なベッドの上にその少女は横たわっていた。
何故だ…? なぜおれはこの娘を手放せない…? ただ美しいだけなら、今まで手にかけてきた娘の中にもたくさんいたはずだ。なのに、この娘はなぜこれほどおれを惹き付けるのだろう…?
賢吾は目の前に横たわる、無垢な娘の顔をじっと見つめた。すると…不意に娘の顔に、ある少女の面影が重なる。
“シズ…?”
無邪気に笑う少女の表情に、賢吾の胸は息苦しさと…鋭い痛みに大きく喘いだ。
シズ…。遠い昔、航海と深い憤りの中で失った、たったひとりの妹だった。
賢吾は遠い南の島、本土とは遠く離れた孤島で生まれた…。
美しい自然の中で暮らす人々は、細々と漁業で暮らし…皆等しく貧しかった。
賢吾が8歳の時に、漁に出たまま、父親は帰らなかった。
幼い賢吾と生まれたばかりの乳飲み子を抱えた母親は、漁師仲間に身体を売って命をつなぎ、賢吾が13歳になって漁師の手伝いが出来るようになった時、ついに身体を壊して命を落とした。
それから賢吾は、幼い妹のために一生懸命働き、古ぼけて壊れかけたあずまやの中で、二人は身体を寄せ合って生きてきたのである。
賢吾が黒柳の側近になったのは、ひとえに彼が持っている人並み外れた薬草についての知識のおかげだった。
二人が育った魚村には医者こそいなかったが、古くから薬草に詳しい老婆が住んでいて、気難しい老婆だったが、不思議と賢吾だけには優しかった。
子供の頃からよくその老婆の元へと通っては、あらゆる知識を彼女から学んだのだった。
老婆は村の中で、ただひとり読み書きが出来て、それも賢吾には大いに役立った。
そして…10年前のある晩、嵐が島を襲い、漁のために遠出をしていた賢吾は、仲間達と3日間無人島で嵐をやり過ごした後、4日目の朝にやっとのことで島に戻ってみると、村の様子は一変していた。
小さな漁村は、幸いにして嵐の被害にはさらされなかったが、それよりももっと酷い状況になっていたのだった。
彼らが戻る2日前に、嵐を避けて島の入り江に現れた大型船から、多くの荒くれたちが村にやって来た。
彼らは残っていた村人たちに略奪の限りを尽くし…女たちに至っては、まだ大人に成りきっていない子供に至るまで陵辱され、挙句の果てには殺された。
何人かの娘はそのまま連れ去られたが、抵抗した者は子供から年寄りまで皆命をうばわれたのである。
賢吾の妹、シズも例外ではなかった。まだ13歳にも満たなかったシズは、年のわりには大人びた美しい少女だった。
激しく抵抗したのだろう。両手の爪は剥がれ…頬にはひどく殴られた痕があった。
恐怖のために大きく見開かれたままの眼が空を睨んでいた。
無残にも広げられた両足の間に広がっていた血の痕を思い出す度に、今でも賢吾は激しい憤りと後悔に胸が痛むのだ。
あの時シズは、行かないでくれと、賢吾に泣いて頼んだ。
いつもは聞き分けのいい妹が、妙に感情的になっていることに不安を感じながらも、あの時の賢吾は結局妹の頼みを聞いてやらなかった。
あの時、自分がシズの側にいてやったら…? もしかしたら、シズは死なずに済んだのでは…? そんな想いが今でも賢吾を苦しめている。
この娘が気になるのは、シズににているからだ。守ってやれなかった妹へのおれの良心が痛んでいるだけなのだ。
そう自分に納得させながら賢吾は、この娘を助けることで、黒柳に背いているという罪悪感をごまかそうとした。
この数年間、黒柳のもとで、賢吾がしてきたことは、悪魔の所業にも等しいことだった。
シズを殺した連中に復讐しようと、故郷をあとにしたが、この10年間、賢吾がしてきたことは、結局憎むべき連中と大して変わらなかった。
自虐的な笑みを浮かべている賢吾の目の前で、眠っているはずの娘が小さくまつ毛を震わせた。
意識が戻る前触れといったところだが、もともとこの娘は、黒柳に説明したところの、薬の副作用からくる意識障害ではない。
賢吾が意図的に、定期的に薬を与えて眠らせていたに過ぎないのだ。
だから当然、薬の作用が切れれば娘は目覚める。
賢吾は素早く、自分の研究室のドアの外に人影がないことを確かめてから、扉に鍵を掛けて、娘の横たわる寝台に目を凝らした。
蒼白かった頬にはうっすらと赤みが注して、すでに彼女が目覚めの段階に入ったことを示している。
賢吾が見ている目の前で、娘はゆっくりと寝返りを打ち、やがてうっすらと目を開けた。
メイファンはぼんやりとした視界の中で、一生懸命自分が今どこにいるのか、どうしてここにいるのかを考えた。
あの時、山の手にあるアレックスの屋敷の中で…アスカのベッドに入って、アレックスを待っていた時、不意に暗闇の中から現れた男の顔を思い出して、メイファンは身震いした。
今、その時の男が目の前にいて、自分を見下ろしている…!?
瞬間的に叫ぼうとしたメイファンの口を、男が片手で押さえる。
「静かに…! わたしはおまえを傷つけるつもりはない。助かりたかったら、これからわたしが言うことをよく聞くんだ…」
男の声は抑制が効いていて、何の感情も感じられない。
メイファンは、男の目を見て、ただ黙ってうなずいた。
時々、廊下の向こう側を通り過ぎる足音に、アスカはビクッとして顔を上げた。
言い知れぬ恐怖と緊張に、さっきから胃袋はねじれ…微かに吐き気さえしてくる。
今朝早く英国領事館を出たときには、これが自分に出来る唯一のことだと納得して、自分の行動に疑問の余地などなかったはずなのに…。
ジャマールは、黒柳の拠点となっている屋敷のある通りの、ほんの数ブロック手前まで、アスカを送ってくれた。
すでに黒柳側と話はついていて、そこまで迎えがきているはずなのだ。
その道中の、馬車の中の空気は重苦しく…これから彼女を待ち受けている運命を物語っているようだったが、アスカもあえて自分から口を開くことはしなかった。
言葉にすれば最後、涙が溢れて止まらなくなることがわかっていたからだ。
もう泣くことは止めようと自分に誓いを立てた。アレックスを守り、自分の力で、憎い黒柳に父の復讐を果たすまでは、自分の心に思い扉を下ろすつもりだった。
黒柳に正面から対決するためには、鉄の心が必要になる。そのためには、すべての感情を押し殺さなければならない…。
ジャマールも同じ気持ちなのだろう…。キッと唇を引き結んで、険しい光を宿したその眼差しからは、何の感情も感じられなかった。
ただそれは、彼が冷たい人間ではなく、人一倍自制心に富んでいることをアスカは知っている。
ジャマールは、今自分が優しい言葉を吐くことで、アスカが必死で鎧のように固めている心を乱したくないのだろう…。
「ジャマール…アレックスのことをお願い…」
「わかっている…君は心配しないで、」自分の信じることをすればいい…」
「ええ…そのつもりよ。ありがとう、ジャマール…」
馬車を下りる時、初めてアスカはちらりとジャマールを見た。ジャマールは無言でうなずくと、ギュッと強くアスカの手を握り締めてきた。アスカは彼の無言のメッセージを感じていた。
“きっと必ず、君を救い出す…”
その瞳はそう語っていた…。
待ち合わせの場所に行くと、見慣れない大きな黒い馬車が止まっていた。
アスカは振り向きもせず、開いたドアから馬車に乗り込むと、馬車は何事もなかったように走り出した。
さあ、ゲームの歯車は回り始めたんだわ…。もうあとには引けない…。
アスカは膝の上に置いた両手を関節が白くなるまでギュッと握り締めた。
愛のゆくえ 1 譲れないもの…。
「閣下が直接会うそうだ。付いて来るがいい…」
屋敷に着いてから、どれほど経ったころか…ひとりの痩せて背の高い男が部屋に入って来た。この屋敷に一歩入るなり、感じたことだが、屋敷の中はひどく暗くて、日中なのに太陽の光など、まるで届かない世界にいるようだった。
おまけに屋敷の使用人に至るまで、皆陰気で暗く…余計なことは一切話さない。アレックスの屋敷の、明るく開放的な雰囲気とはまるで雲泥の差だった。
目の前にいる男のの目も生気に乏しく、アスカを値踏みするように見下ろす目に、一瞬称賛の光が浮かんだ以外は、何の感情も読み取ることが出来なかった。
暗い廊下を男のあとについて歩きながら、アスカはじっと目の前の男を観察した。
すれ違う使用人たちが目を合わせないようにしながら、一様に男に頭を下げる様子を見て、彼がこの屋敷の中である程度の地位にいることが分かる。
でもその後ろ姿を見る限りでは、まだかなり若いはずだ。きっとアレックスとそれほど変わらないきがする…。
だがその表情は全く違う。アレックスが若さと自信に光り輝いていたのに対して、その男はどこか怠惰で投げやりな雰囲気を醸し出していた。
黒柳のような悪党のもとにいるのだから、当然と言えば当然なのだが…。
アスカが心の中でうなずいていると、男はある部屋の前で立ち止まった。
仰々しくドアをノックした後で、ドアは内側から音もなく開き…アスカは漏れてくる
部屋の中の重苦しい空気に思わず息をのむ。
「入って…」
傍らに立つ男の声に促されて、アスカは重い足を踏み出した。
後ろで閉まるドアの音にハッとして顔を上げると、広い部屋の中を無数に照らすキャンドルの炎の向こうで…じっとこちらを見つめる黒い瞳に気が付いた。
黒柳だ…。
「おや、おや最初に聞いた時は冗談かと思ったが、どうやら本物らしい…。いったいどういう気まぐれかな…?」
黒柳はわざと仰々しい声で言いながら…デスクの前からゆっくりと立ち上がる。
「いいえ、冗談では…ないわ…。わたしは…あなたと取引をしに来たの…」
アスカの声もかすれていた。さっきから膝はガクガク震えている。
それを相手に気づかれないために、必死で両足に力を込めた。
「あなたはメイファンを人質に取って、アレックスに私を求めたわ…」
「それで、君はその娘の代わりにここへやって来たというわけか? クレファードが君を簡単に手放すわけがない…。それとも君は偽物なのか…? 」
アスカをじっと見つめる黒柳の目が細くなる。
黒柳がわたしを疑っている…? 今こそ私が毅然とした態度を示さなければ…。
「いいえ…! わたしは本物よ。わたしは…メイファンを助けたいだけ…。彼女には何の罪はないわ…。それに…それにもう私には守るべきものが何もないのよ…。昨夜、アレックスは亡くなったわ…」
アスカの言葉に黒柳の表情が動く。
「クレファードが死んだと…?」
黒柳の黒い瞳が怪しい光に揺らめく。
黒柳はアレックスの死を喜んでいるんだわ…!
激しい怒りに吐き気がしてくるが、今ここでアスカが狼狽えてはすべての計画が水に流れてしまう…。
アスカは歯を食いしばってそれに耐えると、悔し涙があふれて頬を濡らした。
「クレファードが死んで悔しいか…? 恋しい男が居なくなって仕方なしにここに来たと言うんだな…? あの娘を助けるために…」
「そうよ、他に何があると言うの…!?」
アスカはキッと黒柳を睨み返した。
この男がアレックスをあんな目に遭わせたのだ。憎んでも余りあるくらいだ。
「恋人の死に嘆き悲しむ女…見事だな。涙を誘うよ。だがわたしは違う…。ここにひとりできたその勇気は褒めてやろう…。だが誰もあの娘を素直に返すとは言っていない…。そもそも娘が無事だとどうして言えるのだ…?」
「何ですって…!?」
アスカは正面にいる黒柳を見つめた。メイファンに何かあったのだろうか…?
しばらく物思いに沈んでいると、グッと顎を掴まれて上を向かされた。
「他の娘の心配をする前に自分の心配をするんだな。おまえの処女はクレファードにくれてやったが、奴はもういない。クレファードは世界中に名の知れた放蕩者だ。さぞやベッドの中ではお前を楽しませてくれたに違いない…」
「やめて…!」
黒柳の言葉の攻撃にアスカは喘いだ。
「だが奴はもういない…。一度男を知った身体は、さぞや毎晩疼いて眠れないことだろう…? 私ならその疼気を癒してやれる…。クレファードが想いもしない方法でな…」
黒柳は淫靡な笑みを浮かべながら、アスカのうなじに唇を寄せて、その地路鋳肌をペロリと舐めた。
ゾクッとするような震えが全身にはしる。
背筋を伝う冷たい汗にアスカは肩を震わせた。
「まあ、まだ時間はたっぷりある。おまえは2日後のパーティーに参加するんだ。わたしの最高のコレクションとしてな…」
「コレクション…? わたしを品物のように見せびらかすつもり…?」
アスカは顔を上げて銀色の瞳で思いっきり黒柳を睨みつけた。憎しみと精一杯の怒りを込めて…。
「ほう…? 怒った時のお前の瞳は最高に美しい…。だがその誇り高い精神もいつまで保つかな…? どんなに強靭な精神の持ち主でもわたしには逆らえない。おまえだって私に掛かればきっと何でも言いなりになる…。うっとりするような目でわたしを見つめて、自分から足を開いて抱いてほしいと懇願するようになるだろう…」
「やめて…! そんなことあり得ないわ…!」
「そうかな…? アスカ、おまえがわたしのところへ自分からやって来た時点で、こては出ているはずだが…?」
アスカは喉の奥で小さく唸る。
黒柳の言うとおりだった。わたしは自分から黒柳の元に来た。
今のわたしは黒柳に何をされても文句は言えないのだ…。
ただこの手で復讐を果たすまでは、どんなことにも耐え抜いてみせる…。必ず…。
「さあ、おまえにいいものを見せてやろう…。最高の見世物だ。おまえがわたしの開くパーティーで、これからどういう役を演じるのか。それを知る手掛かりになるだろう…」
黒柳は有無を言わせない力強さでアスカの腕を掴むと、続き部屋になっている奥の部屋へと入って行った。
片側には深紅のサテンのシーツの掛かった4本支柱の大きなベッドがあって、アスカは思わず顔を背けた。
「おっと、今夜はまだおまえにその用はない。それよりもこっちを見るんだ」
ベッドの反対側には柔らかなクッションがいくつも置かれた寝椅子が壁を向く形で置かれていて、その前にはかーてを引かれた出窓があった。
アスカは黒柳に肩を押される形でその寝椅子に座らされる。薄いエメラルドグリーンのドレスがふわりと足元に揺れると、肩に置かれた黒柳の指先がドレスのデコルテをなぞり…なめらかな肌を撫でていくと、再び全身に悪寒が走った。
「いちいち反応していたんでは身が持たないぞ。学習することだな…。さあ、目を開けて前を見るんだ…!」
黒柳の言葉を受けて、アスカはゆっくりと目を開けた。
そして…目の前に広がる光景に思わず息をのむ。それを何と形容していいのかわからない…。
出窓はのぞき窓になっていて、さっきカーテンで仕切られている時にはわからなかったが、その部屋はアスカのいる位置からはさらに低い位置に造られているようだった。
だが確かこの屋敷に足を踏み入れた時から一度も階段を上がった記憶がない。そうだとするとここは1階で、今目にしている部屋は地下にあるということになる。
なのに部屋は無数のキャンドルと、アスカのいる側の反対の位置にある高窓の色とりどりのステンドグラスから入ってくる光によって、大理石で出来た床には様々な光のイルミネーションが踊っていた。
ただアスカを驚かせたのは、その鮮やかなイルミネーションの中にたたずむ一人の少女の姿だった。
色白の肌に長い黒髪の…ハッとするほどの美しい少女で、年のころは14,5歳といったところか…。
彼女は一糸まとわぬ姿をその光の中にさらしている。でもよく見ると…少女の両方の細い手首は、天井から吊るされた細い金色の鎖につながれ…まるで十字架に縛られたように両手を開いたまま、ゆらゆらと揺れていた。
長い黒髪が彼女の若々しい胸の膨らみを隠していたけれど、細く形のいい両足の付け根にひっそりと息づく黒い巻き毛までは隠してはいない…。
そこで初めてアスカは、その部屋にいるのが少女ひとりでないことに気がついた。彼女を取り囲むように置かれたソファーには、顔を隠すように黒い仮面をつけた男たちがすわっている。
彼らはその手に琥珀色の液体の入ったグラスを持ちながら…まるで彼女を鑑賞するかのように、笑いながらグラスを傾けている。
彼らの意図するところは明白で、アスカは再び吐き気を感じて顔を背けた。
「見るんだ! 顔を背けるんじゃない…!」
背後にいる黒柳に再び顎を掴まれてアスカは正面を向かされる。
目の前では男のうちのひとりが、手にしたグラスを持って立ち上がると、他の男たちもそれにならった。
そしてさらに目を凝らして見つめるアスカの目の前で、男はグラスを少女の胸元へと傾ける。
グラスからこぼれる琥珀色の液体は、真珠のような少女の肌を伝いながらこぼれ落ち、驚いたことに次の瞬間男たちは、狂ったように少女の肌に唇をよせて…流れる液体を嬉々として貪り始めた。
少女のまだ幼さの残る蒼白いまろやかな乳房に、ごつごつした野太い指が食い込むさまは、痛々しささえ感じられる。
ひとりの男は、華奢な彼女の両足を大きく開いて、片足を自分の肩に担ぐようにしてその両足の付け根の中心に夢中になって口づけていた。
アスカの口から言葉にならない悲鳴がほとばしる。
まさか…メイファンじゃないわよね…!? 言葉にするのも恐ろしくて、アスカはただブルブルと震えるだけだった。
「いきなりではショックが大きすぎたか…? これは処女の儀式だ。穢れ亡き無垢な少女が一度だけ食されるのだ。彼らはわたしの顧客だが、儀式が好きなんだよ。もちろんわたしもだが…」
アスカの耳元で黒柳がささやく…。
悪魔のようなその声は低く…凍り付くほどに冷酷な響きがあった。
「よく見ておくんだ。いずれはお前もあそこに立つことになる。もっともアスカ、おまえは処女じゃないから…交わりの痛みはないがな…。そのかわりそのかわり、もっとも官能的なやり方でお前は彼らのものとなるのだ。ただし…最初に私に抱かれた後でな…」
黒柳がそう言った時、目の前の少女が絶叫にも近い叫び声をあげた。
「ひ…ひとでなし…!」
アスカは思わず罵りの言葉を吐いたが、目の前で繰り広げられる光景のあまりの浅ましさに全身が凍り付いたまま…言葉を無くした。
「可愛いアスカ…。わたしが何のためにあんな危険を冒してまで、女王のティアラを求めたと思う…? すべてはお前のためだ…。2年前のあのパーティーで、初めてお前の姿を目にした時から、わたしはお前が欲しかった。
その芳しい黒髪に煌めくダイヤモンドのティアラを載せて…素肌の上に純白の羽のローブをまとっただけのお前の姿を想像しただけで、わたしは今にも昇天しそうになる…」
欲望に駆られた黒柳の黒い瞳が異様に光るのを見て、アスカは新たな恐怖に身をひきつらせた。
「安心するがいい…。今すぐここでお前を奪ってやってもいいが、わたしは最高の楽しみは最後に取っておく質でね。それに儀式までにはほんの少しの調教も必要だろう…」
「調教…!?」
反射的に聞き返したアスカの言葉に、黒柳は意味深な笑みを返してくる。
「そのうちわかる。おまえが大人しく言うことを聞くというのなら、あの娘は返してやってもいい…。ただ誤解のないように言っておくが、我々はあの娘に指一本触れていない。
おまえの気にしている娘はまだ生きている。ただ…最初に与えた薬の副作用で意識が戻らないままだがな…。木村…!」
「はい、ここに…」
いつの間に来たのか、さっきの男がすぐそばに立っているのを見て、アスカは死ぬほど驚いた。
黒柳の側近だという男なら、足音ひとつ立てずに移動することも当たり前なのかもしれない…。
「木村、あとでアスカにあの娘と会わせてやれ…ただ話は何も出来ないと思うがな…」
そう言って黒柳は声を立てて笑うと、そのままアスカを残して部屋を出て行った。
木村と呼ばれた男は、ちらりと出窓の方を見やってから素早くカーテンを閉じて、アスカに付いて来いと身振りで示す。それを見てアスカは黙ってうなずいた。
黒柳に比べれば、この男の方がはるかに安心できる。
黒柳の言うことが本当ならば、今は大人しく従ってメイファンの無事な姿を確認することの方が先だろう。
それにしても…メイファンは本当に生きているのだろうか…?
朝から引っ切り無しに聞こえてくる外の喧騒に、アレックスはついに我慢できなくなって身体を起こした。
寝返りを打ってそろそろとベッドの上に上半身を起こしてみる。
恐る恐るケガをした左肩を動かしてみるが、左肩の傷も鋤骨の痛みも思ったほど強くは感じられなかった。
ジャマールの言うとおり驚異的な速さで回復しているのかもしれない。
一時はもうダメだと諦めたほど、アレックスのケガは酷かったとあとで聞かされたが、そんな彼をすくったのは、他でもないアスカだとハリス・ロンバートをはじめ、皆が口を揃えて言うのを、アレックスはとても誇らしく感じていた。
ただひとりの恋人…。
今なら胸を張って言える。今までアレックスが重ねてきた恋愛遍歴はすべてまやかしだったのだ。
アスカこそが生涯において求める唯一の女性だった。英国に帰ったらすぐにでも結婚しよう…。
アレックスは心の中でそう決めていた。アスカ…! ああ今すぐ会いたい!
今までは目を覚ますといつもそこにアスカの姿があった。なのに今は外から聞こえてくるこの騒がしい物音だけだ。忌々しい…! いったい何が…!?
アレックスは我慢しきれずに、ベッドの枕元にある使用人を呼ぶ引綱に手をのばした。
しばらくしてやって来たのは、アレックスの身の回りの世話をするブレンではなく…少し緊張した表情のジャマールだった。
「ジャマール…? おかしいな…? おれはブレンを呼んだつもりだったんだが…?」
「わかっている。たまにはわたしも友の世話がしたくなってね…」
「バカを言え…。おまえが俺の髭をそってくれるとは思えないが…? 」
何かがおかしい…。
そう思ったアレックスは、目を細めてジャマールを見つめた。
「そうか…? 必要とあればそれも厭わないさ…」
ジャマールは笑顔を作って、アレックスの傍らの椅子に腰を下ろしたが、ジャマールの頬骨あたりが緊張でひきつっているのをアレックスは見逃さなかった。
「お前は何か大事なことをおれに伝えたいんじゃないか…?」
「ああ…」
ジャマールはいったん腰を下ろした椅子からまた立ち上がって、窓の外を眺めた。
「それに朝から外が騒々しい。おれが眠っている間に戦争でも始まったか…?」
「戦争…? 案外それに近いかもしれないな…?」
「何だ…? まどろっこしいな? はっきり言え…!」
ついに我慢しきれなくなってアレックスは叫ぶ。
「これを見ろ…!」
ジャマールは半ば閉められていたカーテンを全開にすると、窓の下に広がる領事館の前庭を指さした。
アレックスは訝しみながら、さらに身を起こしてジャマールが指さす方向を見下ろす。
アレックスが見下ろす中庭には、大きな黒い馬車が表通りからずっと連なって並んでいて…自分たちの順番が来るのを待っていた。
玄関に通じる車寄せには、黒い喪服に身を包んだ人々がひしめき合っている。
それを見たアレックスは低い唸り声をあげた。
「ジャマール、誰か亡くなったのか…?」
「ああ、亡くなった…。君がね…」
ジャマールの言葉にアレックスは唖然とする。
おれが死んだだと…!? バカな…こうして生きているじゃないか…!?
「それは何か悪い冗談なのか…!? 」
やっとのことで息をついで、アレックスは言った。
自分の知らないところで何かが起きている…。とてつもなく、いやな予感がした。
「そうとも言える…。」
ジャマールはいつもの感情の読み取れない表情をしたまま…アレックスを振り返って、じっともの言いたげに見つめている。
ジャマールはおれに何かを隠している。それが分かっていながら…アレックスはその答えを聞くのが怖かった。
こんな時のジャマールがとても遠く感じられる。
「で…おれを殺して…どんな徳がある…?」
部屋の窓から見える領事館の国旗の掲揚台には、いつもの半分の高さにはためくユニオンジャックが示す意味に、アレックスは眉をしかめた。
「まず…黒柳を油断させられる。君は奴の目の上のたんこぶだからな。君が消えたと知れば、絶対に奴は動き出す…」
「そうだな…。奴を動かすにはうってつけの作戦だが…。」
それならなぜおれに内緒で進める必要がある…? 新たな疑問が浮かんできて、アレックスは息苦しくなった。
ジャマールにしても、イェンにしても、今までアレックスに何一つ隠し事などしなかったはずだ。
「君が疎外されていたことで不機嫌になる気持ちはわかるが、これは仕方がないことだったんだ。これはアスカが…」
「アスカ…!?
ジャマールは自分の口から、アスカの名前が出たことにショックを受けていたようだが、すぐにその表情は消えた。
「アスカから、君に事実を伝える役を頼まれたが…それはとても難しい…」
慣れ親しんだ黒い瞳に浮かぶ苦渋の表情にアレックスは戸惑った。
もう疑う余地はない…。ジャマールがこれから伝えようとしているのはアスカのことなのだ。
それもあのジャマールをこれほど苦しめるほどの内容なのか…。
アレックスの胸を何かが鋭い刃で抉っていく…。
「アスカは…自分から黒柳の元へ行った。メイファンを助けるためだ…。君が眠っている間に、アスカを差し出さなければ、メイファンを殺すという最後通告が届いたんだ。我々が躊躇していると…アスカの方から、自分が黒柳の元へ行くと言い出したんだ…」
「……」
アレックスが黙っていると、ジャマールの告白は続く。
「アスカは…アスカは…君のことも守ろうとした…。これ以上君を傷つけさせないために…。君を死んだことにして、奴を油断させるのも彼女の案だった。そのためには自分がじかにそれを黒柳に伝える必要があると…」
「バカな…」
「ああ…。無謀だが…最も効果的ではある…。わたしもロンバートもうなづくしかなかった…。アスカは…」
「アスカは…アスカほど…勇敢な女はいない…」
アレックスはつぶやくように言った。
アスカは死を迎えようとしていたおれを向こうの世界から呼び戻してくれた…。アスカが居なければ…戻って来ても意味がない…。何の…意味も…。
「なぜ引き止めなかった…!?」
アレックスは激しくジャマールに詰めよると、その襟元を掴む。
ジャマールを責めたところで何の解決にもならないとわかっている。それでもアスカを失った痛手は大きく、何かに当たっていなければ耐えられなかった。
それがわかっていて、ジャマールはアレックスに好きなようにさせていた。
ジャマールの想いも嫌というほどわかるから…それがとても辛い。
「教えてくれ、ジャマール…。アスカは…アスカは最後の何と言っていた…? 」
胸を引き裂く痛みに耐えかねて、アレックスはジャマールを掴んでいた手を離した。
両脇に落とした拳を固く握りしめると、くるりと背を向けた。
「君を永遠に愛していると…。この先どんなに体はケガれたとしても…魂はすでに君に捧げたのだから、いつまでも君のものだと言っていた。それに…」
「それに…?」
「君に忘れられるくらいなら、憎まれた方がいいとも言っていた。どうかそうなるようにわたしに差し向けてほしいとも…。だがわたしにはそんなことは出来ない…。君たちがどんなに愛し合っているか知っているから…」
「そうだな…そう出来たらどんなに楽だろうと思うよ。だがオレには出来ない…。今はアスカを信じる以外にないのだろうな…?」
諦めにも近い言葉がアレックスの口をついて出ると、それを受けてジャマールの顔がパッと輝いた。
「ああ…そうだとも…! 」
みんなアスカを信じているのだ。信じているからこそ黙って行かせたに違いない…。
ならばオレが彼女を信じないでどうする…?
新たな想いがアレックスを強くした。
キッと背筋を伸ばしてジャマールを振り返ると、強い口調で言い放つ。
「ならばオレもいつまでも寝てばかりはいられない…。幽霊は幽霊なりに出来ることもあるはずだ。すぐさま総領事をここへ呼んでくれないか?」
「ああ…もちろん、でもその前に今度こそブレンを呼んで入浴と髭剃りに掛からせよう。君の準備がすべて整ったら作戦会議と行こうじゃないか…!」
ジャマールはいつものようにニヤリと笑いながら、いくぶん痩せたアレックスの肩に手を置いて、軽くポンポンと叩いた。
アレックスも微笑んでうなずく。
そうと決まればいつまでもこうしてはいられない…。きっとアスカはこうしている間にもアレックスの助けを待っているのだ。
再び心がアスカへの想いで膨らんでいくと…いつしか心が軽くなっているのにアレックスは気が付いた。
そう…。これから先、何があろうとアスカの心はオレのもの…。そしてオレの心もアスカだけのものだ…。
「やあ、どんな具合だい? 今の君を見る限りでは、数日前まで生死の淵を彷徨っていた同じ人物とは思えないね?」
アレックスの身支度が整うのを待ちかねていたハリス・ロンバートが部屋に飛び込んで来た。
「オレは…寝ている間に死んでしまったようだな…? 」
そう皮肉を込めて言えばハリス・ロンバートは、もうばれたのかと言わんばかりに大げさに肩をすくめてみせる。
「アスカとは実に勇敢なレディーだな? まさに君にピッタリの女性だよ。彼女の提案がなければ、これほど有効な情報は引き出せなかった」
「何が言いたいんだ…?」
勿体ぶったハリス・ロンバートを苛立たし気にアレックスが睨みつけると、ハリスは慌てて言い足した。
「さっきフランス大使館から極秘の情報がもたらされた。先日の会議で顔を合わせたデュバリエだ。覚えているだろう…? 彼はフランス本国からバロンを見張るために送り込まれた人物だと自分からわたしに白状したぞ。
なんでもバロンが日本の政治家と結託して甘い汁を吸っていると告発した人物がいたらしい。これまではバロンも、足がつかないように巧妙に立ち回っていたいたために、なかなか尻尾が掴めなかったらしい。ところが…」
「おれが死んだと思って奴は油断したんだな…? 黒柳にしてもバロンにしても、オレの存在は何よりも煙たかったはずだから…」
「そのとおり…。デュバリエからの情報によると、2日後に黒柳の屋敷で怪しげなパーティーが開かれるそうだ。なんでも黒柳が、長年欲していたコレクションが手に入ったんで、その披露パーティーらしい…」
アスカだ…!
アレックスはすぐさま心の中で思った。
ビクトリア女王のティアラとアスカがどんな風に結びつくのかはわからないが、黒柳がその両方をそこで披露しようとしていることに変わりがないのだ。
「それで、アスカが黒柳のところへ行ったのはいつだ?」
「2日前だ。」
「何だと…!? じゃあオレはあれから2日も眠っていたのか…?」
アレックスは憤慨して思わず天井を睨みつけた。
アスカを最後に見たのは…あの素晴らしい純白のドレスを着ていた朝だ…。
おそらくアスカはその時すでに黒柳の元へ出向く覚悟を決めていたに違いない…。
それなのに…オレは何も気づかなかった…。
「君のせいじゃない…。君にはあの時まだ静養が必要だったんだ。だから私が薬で君を眠らせた…」
ジャマールの言葉を聞いて、アレックスは長い溜息を吐いた。
「だろうな…。情けなさに涙が出てくるよ…。じゃあその間におまえは抜かりなく準備を進めていたんだろうな…?」
自然と言葉尻が皮肉っぽくなってくる。
「もちろんだ。黒柳邸の見取り図も手に入れた。あとは忍び込む手はずだけだが…。向こうには殺し屋のウェイ・リーがいる。簡単にはいかないだろう。もちろん、奴はわたしが引き受ける」
ジャマールは謎めいた瞳を細めてニヤリと笑った。
「頼もしい限りだな? それで…幽霊のオレにはどんな役を振り分けてくれたんだ…?」
アレックスも期待を込めてジャマールを見る。
「君はイェンと一緒にバロンに変装して黒柳邸に忍び込む。本来ならまだ体力の回復していない君を潜入させるのは避けたいところだが、どうせ何を言ったところで君はわたしの言うことなど聞きはしないだろうから…」
「当然だ…! アスカがオレのために黒柳のところへ行ったと聞いたからには、奴を八つ裂きにしても気が済まないところだ…」
ますます憤慨するアレックスをジャマールはその隣で微笑みながら見ている。
「なら話は早いな。君がほんの少しスリムになったおかげで、体つきだけはバロンに似てきた。髪の毛を黒く染めれば、顔はマスクで隠れてわからない。まあ、どんなに繕ったところで、風貌も中身もバロンは君の足元にも及ばないがね…」
ハリス・ロンバートの一言で緊張した部屋の空気は一変する。
フランスのデュバリエがこちら側に着いたことで、事態は急展開を見せていた。
パーティーの当日、デュバリエが二人に同行するということで、黒柳川に疑われる心配もなくなった。
それに相手は、アレックスは死んだものと思っているから、そこに本人がいるなどとは夢にも思わないだろう。
ハリス・ロンバートの話では、すでに岩倉卿との話もついていて、アレックスが生きているという情報も伝えてある。
こちら側の作戦をサポートするために、政府側の役人たちを密かに待機させて、何かあればすぐ踏み込めるようにしておくという返事ももらっていた。
「何もかも完璧なんだな…?」
アレックスの言葉にジャマールは首を振る。
「すべてがというわけじゃない…。相変わらずメイファンの動向はわからないんだ。
向こう側からはまだ何の連絡もない…。アスカが黒柳の元に出向いたからと言って、すぐさまメイファンを返してくるとは思えないんだ…。奴は狡賢い…。向こうから言い出した取引とはいえ、そう簡単に応じてくるとは思えないんだ…」
結局はアスカとメイファン…二人を人質に取られていることに変わりがないのだ。
アレックスはじりじりするような想いに唇をかみしめた。
「ともかくは潜入して奴の証拠をつかむんだ。連中が例のパーティーと称して、禁断の麻薬の取引をしていることは確かだ。その時にさらってきた娘たちを自分たちの欲望のはけ口にしているという…。それまでの我慢だ。アレックス…」
「それはいつだ? ジャマール…」
「おそらく数日のうちに…。まって2日だ…」
「長い2日だな…」
肩に置かれたジャマールの手を、アレックスは強くつかんだ。
愛のゆくえ 2 ホークの逆襲
「ほう…? 大人しいな。やっと観念したということか?
黒柳の言葉にアスカはじっと唇をかみしめた。
アスカがこの屋敷に来てもう3日…。
屋敷全体に広がる不気味な暗さに怯えつつ…アスカは少しずつ屋敷の中を観察して、黒柳の周りにどんな人物がいて、誰がどう動いているのかを探ろうとしていた。
そのためには出来るだけ黒柳に逆らわない方がいいだろうと、何を言われてもひたすら黙って耐えていたのだ。
「いいえ…。決して屈したわけではないわ。無駄なエネルギーを使いたくないだけよ…」
「ふふ…気の強いおまえらしい言葉だ。だがそれもいつまでもつかな…? そろそろその自制心を試す実験を行ってもいい頃だな…?」
「実験…?」
黒柳の目に浮かぶ怪しげな光に、アスカは心の底からゾクッとするような寒気を感じた。
アスカの閉じ込められている部屋は、あのおぞましいのぞき窓のある黒柳の私室の隣にあった。
2つの部屋は小さなドアでつながっていて、アスカはそのドアがいつ開いて、黒柳が自分のベッドに入って来るのかと不安で、毎晩ほとんど眠れなかった。
どうやら黒柳は、最初の晩に言った通りに…“その時”までアスカに指一本触れないつもりらしい。
それはそれで有難いことだったが、それでもこんな状態が長く続けば、きっとアスカの心は壊れてしまうことだろう…。
ああ…アレックス…。お願い、わたしに力をちょうだい…!
だがそんな中、黒柳はいつものようにアスカの様子を見に来ると、例の不思議な雰囲気を持つ若い側近を側に呼び寄せた。
「木村…アスカにそろそろ準備させろ…」
「では御前、いよいよ…」
木村と呼ばれた若い側近は、顔色ひとつ変えずに主人の顔を見てうなずいた。
「ああ、そうだ。明日の晩に召集をかける。だがその前に例の薬を持ってくるんだ…」
そう言ったあとで、黒柳の顔が一瞬苦痛に歪むのをアスカは見逃さなかった。
黒柳はどこか悪いのかしら…? 暗くてよくわからないけれど、少し顔色も悪いような…?
「わかりました。すぐお持ちします…」
そう言うなり木村は踵を返すように急いで部屋を出ていき、アスカのいる部屋と黒柳の寝室のドアは閉じられた。
「ふふ…木村はあらゆる薬剤に通じている男だ。あの男の手に掛かればお前の自制心など、何の意味もない…。楽しみだよ、お前がどう変わるのか見れるのが…。それまで楽しみは取っておくことにしよう…」
黒柳は不気味な含み笑いを残したまま、自室へと戻って行った。
不可解な黒柳の言葉に疑問を持ちながらも、アスカは前に黒柳が言っていたパーティーとやらがまじかに迫っていることを知った。
恐ろしさと緊張に胸が痛む。それにあの木村という男…。
アスカはその木村という男の、恐ろしいほど冷静で無表情なその顔を思い浮かべながら数日前、アスカをメイファンのところに連れて行った時の彼の言葉を思い出していた。
「この娘は昏睡状態ではなく、ただ眠っているだけだ…」
「メイファンに何をしたの…!?」
激しく問い詰めるアスカに、木村はわずかに微笑みながら平然と言ってのけたのだ。
この娘は近いうちに解放されるだろうと…。
そんなことが信じられるだろうか…?
アスカが大人しくしていれば必ず自分がそうすると木村は約束した。
それにこのことは誰にも言ってはいけないと…。
メイファンが無事に助かるなら、もちろんアスカは誰にも話すつもりはないが…。
黒柳の前で見た木村の冷たい無表情な顔を思うと、本気かさえ疑われてくる。
でも今のアスカは無力だ。
囚われの身で何の力もない。黒柳の不正の証拠など、見つけることなど出来るだろうか…?
悔しさに涙があふれてくるけれど、アスカは泣くまいと唇をかみしめ…瞬きをして涙を抑えた。
そしてどれだけ経った頃か、気が付くとベッドの枕もとに木村が立っていて、横たわるアスカをじっと見下している。
びっくりしたアスカはベッドの上に跳ね起きた。
「さあ、これを飲むんだ…。そうすれば恐怖から解放される…」
木村はアスカに小さなグラスに入ったワイン色の液体を差し出してくる。アスカはそれを見て激しく首を横に振った。
「嫌よ、絶対に飲まないわ…!」
「これは毒じゃない…。一種の精神安定剤のようなものだ。不安を取り除き、快感だけをもたらしてくれる…」
「嫌、薬なんかで誤魔化されないわ。それでわたしを大人しくさせようというのね…!」
激しく反応するアスカに木村は小さく肩をすぼめた。
「お前が逆らうのは勝手だが、そのためにあの娘の命が危険にさらされてもかまわないのなら勝手にするがいい…。おまえがその気にならない限り、あの娘は解放されない。あの娘は薬にいる薬物障害ということになっているが、わたしが少量の眠り薬で眠らせているだけだ…。薬が切れればすぐにでも目を覚ます。眠っていれば災難から免れるが、目覚めれば彼女に待っているのは、地獄の苦しみだけだ…」
木村の言葉は、ぞっとするような冷たい響きを持ってアスカの心を引き裂いた。
ああ…メイファン…わたしはどうすればいいの…?
「わかったわ。それで私にどうしろと言うの…?」
「大人しく言うことを聞くことだ。薬はごく少量に抑えてある。おまえの訓練しだいでは意思を保つことも可能だろう。それでもかなりの意志の力は必要になるだろうが…。おまえが主人の注意を引いている間にわたしはこの娘を外に連れ出し、仲間の元へ帰す…」
「本当に…本当にメイファンを返してくれるの…?」
「ああ…そうだ」
本当だろうか…? しばらく木村の顔を見つめながらアスカは考えた。
確かにあの時見た眠っているメイファンの顔は、健康そうに輝いていた。
ただ眠っているだけという木村の言葉は正しいのかもしれない…。
だがやはり、メイファンをそのまま仲間のところへ帰すという木村の言葉を信じることはどうしてもアスカには出来ない…。
そんなアスカの心を読んだように木村は言葉を続けた。
「信じるかどうかはおまえの自由だ。信じないというのならば仕方がない…。あの娘は助からないと言った以上、時期を見て始末しなければならない…。そういうことだ」
それを聞いてアスカの喉から悲鳴が漏れる。
「でも…なぜ、なぜなの…? 黒柳の側近であるあなたがなぜメイファンを助けてくれるの…?」
「それは…」
木村の顔が苦痛で歪む。
木村は昨日…いつも自分の手足として使っていた荒くれたちの集う下僕部屋でのことを思い出した。
「旦那…近いうちにまた若い娘がひとり始末されるっていうのは本当ですかい…?」
賢吾の側に前歯のない赤ら顔の痩せた男がひとりすり寄ってきた。
奴らは、賢吾が黒柳に言われて、不要になった女たちを始末する場面にいつも居合わせて、その時に少しでも甘い汁を吸おうとするのだ。
始末される娘たちのほとんどは、すでに廃人か瀕死の状態で意識がない…。その死にかけた娘たちをさらに毒牙にかけて、自分たちの欲望を満たそうとする連中に賢吾は激しい嫌悪を感じていた。
「だとしたらそれがどうした…?」
「へへ…ここに連れてきた時のことはよく覚えてますが、そりゃあ見たこともないほどのべっぴんでしたよ。始末する前に一度だけ味見させてもらえたら天国でさぁ…。それにあの娘を見ると10年前のことを思い出すんで…」
「10年前…?」
賢吾はなぜかその言葉が引っ掛かった。
「へぇ…あれは旦那様のお供で、大陸に行った帰りでしたよ。南の離れ小島に嵐を避けて立ち寄った時のことで、おれたちは2週間も女を抱いていなかったし、嵐に興奮してたんで、もう見境なく島の女たちを漁ったんでさぁ…。幸い島の男たちは誰もいなくて、そりゃあゾクゾクするような体験でしたよ」
それを聞いてサッと賢吾の頬は青ざめる。それにも気づかず、男は得意になって話し続けた。
「中でもまだ娘というにはちと早い、そりゃあ綺麗な娘がいましてね。旦那様は一目見て気に入って連れて行こうとしたんですが、激しく抵抗したんで、ことが済んだあとで殺っちまったんですよ。本当に殺すには惜しい娘だった。あと何年かしたらすごい美人になったはずなんですがね…。まあ、それでもおれたちもしっかりご相伴にあずかったんですがね。その娘にこないだの娘がちょっと似ていましてね。思い出したってわけですよ…」
その言葉を聞きながら賢吾は激しい怒りを抑えるのに必死だった。体の横で、白くなるまで握りしめられた拳はブルブルと震え…男に背を向けていなければ、すぐさまその場で男を殴る殺していただろう。
しずを辱め、命を奪ったのは…黒柳だった…!?
自分は愚かにも何も知らず、その男の側に仕え…その命に従って働いていたなんて…!。
賢吾は振り返って暗く…ぞっとするような目で男を見据えると、低い声で言った。
「どっちにしろ近いうちにまたお前たちの力を借りることになる。その時にはまた声をかける…」
「ええ…ぜひ。楽しみにしていまさぁ…」
男の間延びした声に吐き気を覚えながら、サッと身をひるがえして賢吾は足早に立ち去った。
アスカはじっと目の前にいる男の顔を見つめた。
無表情を装いながら、微かに歪んだ口元と厳しい光を宿す眼差しは、彼の複雑な心の内を表している。
アスカが黒柳の気を引いているうちに、メイファンを助けてくれるのだという…。
果たしてこの男は敵なのだろうか…? それとも味方…?
理性は信用してはいけないと告げていたが、アスカは自分の直感を信じた。
「わかったわ。でも約束してほしいの。決してメイファンを傷つけないと…。必ず仲間のもとへ帰して…」
「わかった。約束しよう…」
賢吾はうなずき、アスカは震える指で薬の入ったグラスを受け取った。
「薬は通常よりかなり効き目を抑えてある。せいぜいが感覚が多少鈍くなる程度だ。もちろん、人の話も理解できるし、思考も完璧だ。だが実際には主人はそれ以上の効果があると思っている。だから君は薬が効いているように演技しなければならない…。それが出来なければ、すべての約束は守れなくなる…」
アスカはゴクリと唾を飲み込む。
木村はわざと黒柳を欺き、実際にはほとんど効果のない薬をアスカに与えようとしているのだ。そのうえで、助かりたかったら、自分でいかにも薬が効いているように演技しろと言っている…。
「ただこの薬は調合が微妙な分、副作用があって、効果は48時間続いたあと、薬が完全に抜けるまで意識障害が残る。それがどのくらい続くのか全く予測できない…」
「もしかしたら戻らないことも…?」
「それは何とも言えない…。まだ試したことがないから…」
賢吾の言葉を聞いてアスカの顔から血の気が引いた。もしかしたら永遠に目覚めないかもしれない…。二度とアレックスと会えないかもしれない…。
そう思った後で、勢いよく頭を振って、アスカは心の中の不安を振り払った。
アレックスの元を離れた時に、その覚悟は出来ていたはずだ。
何を今さら迷うことがあるだろう…。
「わかったわ。メイファンが助かるなら、わたしはそれでいいわ。 感覚が鈍っても意識があるなら、きっと黒柳から何らかの証拠を見つけることだってできるはず…」
「勇敢だな…? 成功を祈るよ…」
そういうなり部屋を出ようとする木村をアスカは呼び止めた。
「待って…! なぜあなたはわたしやメイファンを助けてくれるの?」
少しの沈黙のあとで、木村はポツリとつぶやく。
「それは…遠い昔に失ったものへの贖罪だ…」
微かに口元に笑みを浮かべて去っていく木村の後ろ姿をアスカは不思議な気持ちで見つめていた。
最初凍り付くほど冷たく感じた男の内側に、以外にこれほど熱いものが隠されていたなんて…。
まだ望みはあるかもしれない…。アスカは覚悟を決めて、グラスの中の液体を一気に飲み干した。
「アスカは薬を飲んだんだな? 」
「はい、御前…準備は順調に整いつつあります」
数時間後、木村は黒柳の居室に立っていた。
「わかった。英国の連中の動きはどうなっている…?」
「今のところ大した動きは見せていません。昨日のうちに送ったバロン今日の手紙にさっき返事が届きました。万事滞りなく…明日のパーティーを楽しみにしているとのことでした。
木村の言葉に黒柳は黙ってうなずいた。
薄暗い居室には無数の蠟燭が揺らめいていて、部屋の中には黒柳と木村の他に黒柳の背後に、暗闇に隠れるようにしてウェイ・リーが寄り添っている。
「ウェイ、クレファードの側にいたあの男…あいつには油断するな。クレファードが死んだからと言ってあの男が大人しくしているとは思えない…」
「あの異教徒はわたしが何とかしましょう…。すぐにクレファードと同じところへ送ってやりますよ」
「ハハ…明日が楽しみだな…」
黒柳は書斎の皮張りの椅子にどっかりと腰を下ろして、満足そうにパイプを揺らしながら、もう一方の手で机の上の濃紺のビロードのケースを愛しげに撫でる。
「木村、例の誓約書をこれへ…」
木村賢吾は手にしていた和紙の巻紙を恭しく黒柳の目の前に広げた。
巻紙には何人もの名前が直筆で記されており、その隣には真っ赤な拇印が押されている。中には外国人の名前もいくつかあった。
「明日の晩のパーティーが終わったら、船で海外に行く。仮に岩倉に感づかれて、追手が来ても、フランス海軍が抑えてくれる。どんなにクレファードの船が早くても、あれほどの軍船に囲まれては手出しは出来まい…」
「仰せの通りです。それで閉じ込めている女たちはどうするつもりですか…?」
表情一つ変えずに賢吾は淡々と言った。
「我々が大陸に出発したら別の船に押し込めて、インドにでも送ってしまえばいい…。あとは向こうの商人がさばいてくれるくれるはずだ」
「承知しました」
「それにあの娘も、明日の夜明け前に始末してしまえ。証拠は残さぬように消してしまうのが一番だ」
「仰せのままに…」
賢吾が深々と頭を下げると、黒柳は黙ってうなずきながら立ち上がった。
「さて…と、お前が調合した新しい薬の効き目を見に行こう。あれほど強情な女がどれだけ素直になったのか、見るのが愉しみだ…」
黒柳の目に浮かぶ怪しい光に賢吾はゴクリと唾を飲み込んだ。
全身に緊張が走る。 あの娘は上手くやるだろうか…?
賢吾の用意した薬は完ぺきだった。
身体の自由は多少奪っても、意識だけは完ぺきに残る。
あの娘は黒柳を死ぬほど嫌悪していたが、決して恐れてはいなかった。
今さら心配しても始まらないが、10年前に妹を死に至らしめたのが黒柳なら、是非とも一矢報いてやらなければ気が済まない…。
「薬は完ぺきにはずです。二度と失敗はしません」
そう言い切った後で、背後からゾクッとするような気配を賢吾は感じた。
黒柳はともかく後ろにいる殺し屋はさらに油断が出来ない。
緊張のために心なしか賢吾の声は震えていた。
「わかっている…お前は同じ失敗を二度繰り返さない男だ。それに今のわたしにはお前が必要なのだ。わかっているな…?」
黒柳の冷たい指先が賢吾の肩先に触れ、賢吾の背中を冷たいものが伝って落ちた。
暗い…。もともと薄暗い部屋がさらに暗く感じられる。
木村賢吾が持ってきた薬を飲んでから数時間後、目を覚ましたアスカは、ふわふわと雲の上を歩いているような奇妙な感覚を感じていた。
それなのに不思議と恐怖心はない…。
賢吾の言うとおりただ苦痛を取り除くためだけの薬なのかもしれない…。
その時部屋のドアが静かに開き、黒柳が入ってくるのが見えた。
頭はさっと緊張し…気をつけろ! そう言っているのに、体に力が入らない。
ベッドの上に座ったまま…ぼんやりと黒柳が近づいてくるのを見つめていた。
「これはなんとまあ、官能的だな…? そんな眼差しで見つめられるとますますそそられる…」
黒柳の指先がアスカの下唇を撫でると、アスカは本能的に身を引きたくなるところを必死でこらえた。
木村は、薬が完璧に効いていると思わせるためにはアスカの演技が必要だと言っていた。
もしそれが見破られたら、メイファンの身にも危険がおよぶ。
「ああ…」
アスカは切なげにため息を漏らすと目を閉じた。
「ふふ…どうやら薬は完ぺきに完ぺきに効いているようだ。明日は最高に官能的な姿を晒して、わたしを楽しませてほしい…。美しいアスカ…おまえはもう私のものだ。さあ、お前のご主人様は誰だ…? 自分の口で言ってごらん…?」
「あ…わ…わたしは…あなたの…ものだわ…」
「そうだ…永遠にな。さあ、わたしの部屋においで…。おまえが誰のものか、丁寧に教えてやろう…」
黒柳はアスカの身体を抱き上げると、自分の部屋のベッドへと運ぶ。
アスカは自由にならない身体とは裏腹に、心の中は恐怖と嫌悪感で狂いそうだった。
ああ…神様、たすけて…!
「さあ、見るんだアスカ…」
黒柳はアスカをベッドの端に座らせると、書斎の机の引き出しからビロードの箱を取り出してふたを開けた。
すると、蝋燭の光に反射してキラキラ光るまばゆいほどの何かが目に入ってきた。
あ…あれは女王のティアラだわ…。
心の中でアスカはつぶやく。
やはり黒柳はすでに手に入れていたんだわ。これのために父は命を落としたなんて…。
「美しいだろう…? これはお前にこそふさわしい…。黒髪に銀の瞳…真珠色の肌に輝くダイアモンド…」
ティアラをアスカの頭にのせると、指先をアスカの頬から首筋を伝って鎖骨のくぼみへと走らせる。
全身に震えが走るが、目を閉じたまま、アスカは耐えていた。
「薬のおかげで感覚は数倍鋭くなる。どうだ…? 感じるだろう…? 」
黒柳はそう言いながらドレスの上から、アスカの豊かな胸の膨らみを掴むと、親指の先で敏感な突起を探る。
その手を払い除けたい衝動に必死で堪えながら、アスカは大きく喘いだ。
そして…目の前で上下する豊かな膨らみを目を細めて眺めていた黒柳は、不意にドレスの胸元に手をかけて力任せに引き裂いた。
絹を引き裂く音とともに低い黒柳の笑い声が部屋いっぱいに響く…。
息をのむアスカの様子など気にも留めずに、黒柳は魅せられたように剥き出しになったアスカの白い乳房に見入っている。
「美しい…。思った通りだった。すべてわたしのものだ。わたしの…」
黒柳の浅黒い手が、まろやかな膨らみを乱暴に掴み、唇が反対側の硬くなった小さなバラ色の蕾をとらえようとした時、不意に黒柳の全身が強張って…唸りながら両手で頭を抱えると、ばったりとアスカの隣に倒れた。
そして倒れたまま、大声で側近の木村の名前を叫んだ。
「木村…! 木村はどこだ…!?」
「御前…!?」
まるでドアの外に控えていたように、すぐさま木村賢吾は飛び込んで来た。
ベッドの近くまでやってきて、そこにいるアスカの姿を目に留めると、ハッとして目を逸らして傍らのシーツでアスカの剥き出しの肌を隠した。
そんな賢吾の姿を見てアスカは泣きたくなった。賢吾は無言で顔を横に振る。
感情を出すなと言っているのだ。
さっきから傍らに倒れている黒柳は、真っ青な顔色をして…死んだように動かない。
一歩遅れて入ってきた別の男たちに黒柳を別の部屋に移すように指示をして、男たちが黒柳を運んでいくと、賢吾はやっとホッとしたようにアスカを振り返った。
「危なかったな…だが君は何とかやり遂せたようだ」
賢吾はアスカの頭からティアラを外してケースに戻した。
「あの…教えて…。黒柳は…どこか悪いの…?」
薬のせいで上手く喋れない。
賢吾は部屋の中に他に誰もいないのを確かめてから小さくうなずくと、そのまま部屋を出て行った。
男たちが皆居なくなると、アスカは改めて部屋の中を見渡した。
部屋の中は相変わらず薄暗く…気味悪さが漂っていたが、ここで怯んでいるわけにはいかない…。ここは黒柳の部屋なのだ。
このチャンスを逃す手はない…。
アスカは破れたドレスの胸元を掻き合わせてゆっくりとベッドを下りて、そろそろとデスクに近づいて引き出しに手をのばす。
引き出しには鍵が掛かっていなかった。
慎重な黒柳は自分がいる時以外はすべての引き出しに鍵をかけていたが、まさかこんな時に倒れるとは思っていなかったのだろう。
今なら何か証拠を見つけられるはず…。
薬のせいで何とも動きは緩慢だったが、それでも動かないよりはましだろう…。
そう思っていくつかの引き出しの中を探っていると、不意にその手を賢吾が掴んだ。
「何をしている…?」
「証拠を…探していたの…。黒…柳に…関わっている…連中…の…連判状が…あるはずなの…」
「君が探しているのはこれのことか…?」
賢吾は懐から小さな巻紙を取り出した。
「お願い…それが…あれば…黒柳を…破滅に…追い込むことが…出来る…。お願い…!」
必死の表情でアスカは賢吾に縋りつく。
だが賢吾は無表情でアスカを見下ろすと冷たく言い放った…。
「わたしは…あの娘は助けると約束したが…それ以上するとは何も言わなかった…」
「おねがい…」
アスカは震える指先で賢吾の上着の襟をつかんだ。
「これ以上は期待するな…」
アスカの手を引きはがすようにして離れると、賢吾は冷たくそう言い残して足音もなく部屋を出て行く…。
ああ…神様…!
あとに残されたアスカは、うずくまるようにしてその場にばったりと倒れこんだ。
愛のゆくえ 3 決戦へ…。
翌朝、夜が明ける前に賢吾は、意識のないメイファンをマントに包んで…自らの手で裏口から目立たない荷馬車で運び出した。
荷馬車を操るのは、例の赤ら顔の男で、男は声をかけると大喜びでついてきた。
きっとあとでおこぼれに預かれると本気で信じているのだろうが、賢吾は男の望みを聞いてやるつもりは微塵もなかった。
取るに足らない虫けら同然の男の命ながら、この男には10年前、何の罪もない無垢な少女を汚した償いをしてもらう…。
この男はもちろんだが、黒柳にもさらなる苦しみを与えてやるつもりだった。
しずが受けた苦しみを、あの男にも味あわせてやるのだ。そのためには、賢吾は悪魔に魂を売り渡してもいいと思っていた。
「旦那…そろそろいつもの場所に着きやすが、どうしますか…?」
「ああ…いつもどおりでいい…」
賢吾は自分の腕の中で眠っている穏やかな娘の顔を見下ろしながら、抑揚のない声で言った。
マントを通して感じる娘の温もりが、殺伐としている賢吾の心を癒してくれる。
だが昨夜、あの娘に放った冷たい言葉が蘇ってきて、賢吾の胸を突き刺した。
もう少し優しい言葉をかけて安心させてやればよかったものを…。
あそこまで情けをかけてやったのだから、もう少しだけ優しく出来たはずだ…。
いや、これ以上あの娘に関わるのは危険だ。もう十分に賢吾は危険を冒しているのだ…。
心の中で自問自答しながら、まだ薄暗い視界の中にぼんやりと浮かぶ、小さな船小屋を見つめた。
死んだ娘、あるいは瀕死の状態の娘をここに運んで来ては、例の下僕たちに始末させるのだ。連中はここから船で川の中州まで娘たちを運び、死体を川に流すか…中州のどこかに埋める。
中州周辺の流れは急で、流された死体はやがて海に流れ着く…。
そうすればまず人目に付くことはなかった。
賢吾は月に数回そういう役目を仰せつかったが、何度経験してもあの後味の悪さにはなれることはない…。
だがそれもこれが最後だ…。もう二度とここへは来ない…。
「旦那、いつもと同じでいいんで…?」
荷馬車が小屋の入り口に止まると、男は歯のないにやけた顔で振り返った。
期待と欲望でギラつく表情を見て、賢吾は思わず催した吐き気に顔を背ける。
だが男がわがもの顔で娘に手をのばそうとした時、賢吾はその手を避けて立ち上がった。
「娘はわたしが運ぶ…」
そう言って身を屈めて…娘を抱いたまま荷馬車を下りた賢吾は、粗末な小屋の中に入って行った。
いつもとは違う賢吾の態度に、男は頭をひねりながらも、どうせ娘を下したらさっさと帰ってしまうだろうと思っているのか、そろそろと後ろを付いて来た。
娘を床に下ろして賢吾が立ち上がると…男が待ってましたとばかりに身をすり寄せて来る。その男の真後ろに立って、男の背中を見下ろした賢吾はニヤリと笑った。
一瞬の静寂のあとで、どさりと男の身体がゆっくりと小屋の土間の上に崩れ落ちる。
賢吾の指先には小さな針が握られていた。
この針の先には、植物から採った猛毒が塗られている。ほんの少し血液に入っただけで
激しいアレルギー症状を引き起こす。そしてあっという間に心臓マヒで死に至らしめる。
傷跡は首筋に残る小さな痕だけだから、誰も毒殺だとは思わない…。
それにこの男は、普段からひどい酒飲みで有名な男だった。
酒ビンをひとつ、ふたつ転がしておけば、みな酒の飲み過ぎで死んだと思うに違いない…。
口の開いた酒ビンを地面に倒せば、あたり一面にムッとするような酒の匂いが漂ってくる。賢吾は顔をしかめながら再び娘を抱き上げた。
不思議と男を殺したことに少しも後悔は感じなかった。
この男は黒柳同様人間の屑だ。10年前、最愛の妹を汚して命を奪った男なのだ。
当然の報いを受けたに過ぎない…。
「くそっ! バロンの奴はまだ来ないのか…!?」
アレックスはイライラしながら、路地裏の暗闇に身を潜めて、じっとその時を待っていた。
バロンが黒柳の屋敷に向かうところを襲ってすり替わろうという計画だった。
髪を黒く染めたアレックスは、ひどくエキゾチックで黒い上下のスーツの上にさらに漆黒のマントを羽織っているために、目の碧さだけが異様に目立つ。
午後になって賢吾が屋敷に戻ると、すぐさま部屋に来るようにとの黒柳からの伝言を受け取った。
まさか…娘のことがばれたのでは…!? 内心ひやひやしながら感情を押し殺して、黒柳の居室に入ると、照明を落とした暗い部屋の中で、黒柳がゆったりとした革張りのソファーの上でくつろいでいた。
「御前…」
賢吾はいつものように無表情を装いながら、ゆっくりと近づいていく。
「お加減はいかがですか…? あの薬は頻繁に服用されるのは危険です。あまり無理はなさらないようにお願いします…」
「ハハ…お前の言いたいことはよくわかっている。だがそれももうすぐ終わる。やっと長年のわたしの長年の夢が叶うのだ…」
黒柳の目にはすでに狂気が浮かんでいる。
賢吾がその気になれば、あの時黒柳の息の根を止めることも出来たはずだった。
それをしなかったのは、黒柳にはその程度では到底許すことが出来ないほどの深い苦しみを負わせてやりたかったからだ。
賢吾が黒柳の側近でいるうちはまだチャンスはいくらでもある…。
「客人は続々と集まってきている。おまえも抜かりなく準備しておくように…。いいな…?」
「わかりました…」
「お前の存在は、わたしにとっては生命線だ。それを忘れるな…」
「はい、御前…」
ぞっとするような黒柳の低い声が賢吾の心を鷲掴みにする。
凍り着いたように賢吾がしばらく動けないでいると、黒柳は傍らの黒い杖に手をのばしてゆっくりと立ち上がった。
「そろそろパーティーの準備が整う頃だろう。さあお愉しみの時間だ…」
その声を合図にビクッと身体を震わせた賢吾は、硬い表情のまま黒柳に会釈して部屋を出て行った。
賢吾がいなくなると、一瞬黒柳の側の蝋燭が小さく揺らいだと思ったら…背後の暗闇の中から、ウェイ・リーが現れる。
「相変わらず、神出鬼没な奴だな…? それで何か私に言いたいことがあるんだろう…?」
「あの男は信用ならない…」
蝋燭の炎に背を向けるように立つウェイ・リーは、蛇のように冷たい目をドアに向ける。
「木村のことを言っているのか? あの男は5年前から片腕としてここに居る。その木村がわたしを裏切るとでも言いたいのか…?」
「そうとは言っていない…。だがその可能性はある…」
「お前特有の感というやつか…? だが木村がわたしを裏切るつもりなら、とっくにそのチャンスがあったと思わないか…? 現に昨夜わたしは彼に命を助けられている…」
「お好きなように…だがこちらも警戒は怠らない。奴がおかしな行動をした時には容赦なくやらせてもらう…」
「ああ、もちろん…わたしは止めはしないさ…」
黒柳の言葉にウェイ・リーはニヤリと笑った。
人気の少なくなった街道をいそいそとやって来たバロンを捕まえて、馬車から引きずり下ろすのはいとも簡単だった。
すぐ後ろを黒い大きな軍馬で付けていたデュバリエは、ことが済むまでじっと馬上で知らんぷりを決め込んでいた。
さすがにフランス海軍でも古豪と呼ばれた男も、裏切り者はバロンの方だったとはいえ、この件に直接関わるのは気が進まないのだろう。
それでいい…。これから先は我々の手でやらなければならない…。自分たちの力でアスカを取り戻す…。
そう誓っているアレックスの動きに迷いはなかった。
バロンの紋章の入った立派な4輪馬車の真紅のビロード張りの豪華な座席に身を沈めながら、アレックスは片手を黒い燕尾服の胸元に入れて、胸ポケットに忍ばせた時計に触れる。
殺し屋の銃弾から命を救ってくれたロバートの時計だ。これが今夜もきっと勇気を与えてくれるはずだ。
反対側の座席には従者のひとりに化けたイェンと、黒装束に身を固めたジャマールがいる。二人とも緊張した面持ちでじっと窓の外に視線を向けたまま…一言も話さない。
失敗は許されないのだ。
デュバリエは黒柳の屋敷には同行するがパーティーには参加しない。別室でアレックス達が目的を果たすのを待つことになっていた。
ジャマールも馬車が屋敷の敷地内に入ったらすぐに消える…。
屋敷の奥深く…パーティー会場まで入り込むのは、バロンに成りすましたアレックスとイェンだけだ。
ふたりとも革製の黒いマスクで目と鼻の多くを覆っているために、その素顔を見られることはない…。
いつもより多くの護衛を配した表門を難なく通り過ぎると、知らぬ間にジャマールは姿を消していた。
馬車が建物正面の車寄せに止まったと同時に、その場にいた厳しい表情の制服を着た召使が駆け寄って馬車のドアを開けた。
バロンに扮したアレックスは、高慢で勿体をつけた横柄な態度で一瞥すると、ゆっくりとした動作で馬車を下りる。
さて…これからが本番だ…。待っていてくれ、アスカ…。
自信たっぷりに召使にうなずいてみせてから、アレックスは先を行く召使のあとに続いた。
絶えずゆらゆらと揺らめく明かりに目を細めて…アスカはぼんやりとあたりを見回した。
意識は緩慢で…あらゆる記憶が浮かんでは消え…消えてはまた浮かび、自分が今どこにいるのかさえ分からなかった。
ただ目覚めた後で、多くの使用人たちによって入浴させられ…全身に心地よいマッサージが施されたまでは覚えている。
そのあと…再び眠ったのかさえもわからない…。
ただここがいつもアスカが置かれていた部屋ではないことは確かだった。
ああ…ここはどこ…? 眩しく感じられるのだから、真っ暗ではないのだろう…。
ゆらゆら揺れているのが明かりではなくて、自分の身体だと気づくのにしばらくかかった。
両腕の付け根が微かに引きつる。
両手を動かそうとして、びくともしないことに驚いて…初めて自分が両手を天井に向けて掲げた状態で縛られていることに気が付いた。
なんていうこと…!?
おまけに肩から白い羽をあしらった丈の長いガウンを羽織っただけで…その下は裸なのだ…。
アスカは絶望の深いため息を吐いた。黒柳の言っていたショーがいよいよ始まるのだ。
それも…アスカを生贄として…。
木村から与えられた薬の効果で動きは緩慢になり…意識が混濁したように虚ろになっていた。いえ違う…! 木村は体の動きは緩慢になっても、意識だけははっきりしていると言っていた…。 でもこれは何…?
アスカは自分の意識がひどく混とんとしていることに戸惑った。まるでふわふわと雲の上を歩いているような心もとない感覚があって…。
これではいざという時役に立たなくなる…。
どんな目に遭わされようと…決して黒柳が喜ぶような姿だけは見せないと決めていたのに…。
悔しさに瞼が熱くなってきたところで…背後からゾッとするような声が響いて来る。
「ああ…素晴らしいよ。アスカ、完璧だ…」
黒柳はアスカの正面に立つと、満足そうに微笑んだ。
視線をアスカの頭のてっぺんからつま先に至るまで、まるで舐めるように這わせながら…低い声でアスカの耳元でささやく…。
「この優美な白い腕の曲線…美しく繊細な顔立ち…結い上げた艶やかな黒髪に燦然と輝くティアラ…。まさしく月の女神の名にふさわしい女だ…アスカ…。どうだ…? これからおまえに天国を見せてやろう…。クレファードが与えたものなど及びもつかない快楽を与えてやる。木村の与えた薬など誘い水のようなものだ…」
「……?」
「クスリは何も飲むだけのものとは限らない…。さっきおまえの全身に塗ったのは、インドに伝わる最高の催淫剤なのさ。この味を知った女は虜になって二度と辞められなくなる…。今夜からお前は、永遠にわたしの奴隷になる…」
悔しさにアスカは唇を噛んだ。
だがすでに意識は薄れつつあり…代わりに感覚だけがどんどん鋭くなっていく…。
素肌を覆う羽のガウンが揺れるたびに、しびれるような熱い衝撃が全身を駆け抜けていって…。
アスカは身体を揺すりながら小さな叫び声をあげた。
「ほほう…? もう我慢が出来ないのかな…? 昨夜お前を自分のものに出来なかったのは残念だったが、その分愉しみは増すというものだ。さあ、ショータイムといこうか…」
黒柳はそう言いながら、欲望でギラギラした視線をアスカに向けたまま…傍らの引き綱を引いた。
アレックスとイェンが最初に通されたのは、豪華な装飾を施された応接室だった。
ヴィンテージものの高価なワインの接待を受けた後、パーティーの準備が出来たという召使の案内で迷路のような暗い廊下を進んで行った。
途中階段を下りたということは、ここは地下なのかもしれない。
苦労して手に入れた黒柳の屋敷の見取り図は、かつては幕末藩士のものだった。
密会用に造られたこの屋敷には、隠し扉や秘密の迷路がたくさんある。
偶然とはいえ、かつては大工の棟梁の見習いだったイェンがこの屋敷の建立に携わっていたのは、なんともラッキーだった。
新しく作り足したものもあったが、ひと目見ただけでイェンはこの複雑な見取り図を理解した。
さっきも歩きながら、自分の位置を頭の中で確認しているようだ。
しばらく歩くと、やがって屈強そうな男二人が守る大きな扉が左右に開いて、アレックスとイェンは内部へと入っていく。
かなり広い部屋らしく、赤い絨毯の敷き詰められたフロアーの一角に黒いベルベットのカーテンで仕切られた半円のステージらしきものがあるのが目に入ってくる。
そしてその周りを取り囲むようにゴブラン織りのゆったりとしたソファーが置かれていた。
アレックスは入り口に立って、部屋の中をゆっくりと見まわした。
かなり広い部屋だったが、照明は少なく…あたりはかなり暗い。
しばらくは目が慣れるのに時間がかかるだろう…。
ソファーの前に置かれたテーブルの上の燭台と明るさを抑えた壁にかかるクリスタルの照明以外、あまり明かりはなさそうだった。
目が慣れるまでは気づかなかったが、すでにソファーには何人かの先客がいた。
その中に何人か見知った顔を見つけると、アレックスは顔をしかめた。
たとえマスクで顔を隠しても、連中が誰であるのかはアレックスには一目瞭然だった。
先日岩倉卿から送られてきたリストにも名前が挙がっていた連中だ。
それに今朝、メイファンと共に送られてきた証拠の品の中にもその名前があった。
日本側の政界の役人が数人…その隣にいるのはあろうことかロシア大使じゃないか…? ドイツの鉄道王もいる。普段英国に媚びへつらっている連中の姿にアレックスは吐き気さえ覚える。
連中は自分たちの企みがすでに明るみに出ていることに気づいていないのだ。
今頃はこの屋敷の周りをそれとなく岩倉卿が包囲しているはずだ。
アレックスは促されるまま…ステージ正面のソファーに腰を下ろした。イェンもそれにならう。
近くで見れば、連中の目にはすでに狂気に歪んだギラギラした欲望の炎が燃えている。
これからステージで始まる狂った饗宴の幕が上がるのを今か今かと待ち焦がれているのだ。もちろん、ステージで彼らに楽しみを供するのはアスカだ…。
クソ…! こんな近くにいるのに…手が出せないなんて…!
すぐ近くに居ながら何も出来ないもどかしさに、アレックスは唇を噛み、上着の中に隠した拳を固く握りしめた。
隣ではアレックスの気持ちを知っているイェンが、心配そうに主人の様子を見つめている。
わかっている…。今は抑えなければ…すべての計画が台無しになってしまう…。
ステージ上にアスカが現れたら…タイミングを見計らって忍び込んでいるジャマールが、部屋の照明を落として…その間にアスカを助けるつもりだった。
もちろん、すぐ近くに黒柳がいることも、側にウェン・りーが控えていることもわかっているが、そんなことはどうでもよかった。
アレックスにはアスカを取り戻すことしか考えられない…。
それに…実際、アレックスが完全に危機を脱してからまだ10日と経っていない。
本来ならこうして立って歩き回ることなど不可能なのだ。
アレックスにそれが出来るのは、並外れた体力と、ホークとしての自制心の賜物だった。
だがすでに左肩とわき腹は息をする度にズキズキと痛み、背中には冷たい汗が伝って落ちるのが自分でもわかる…。
クソっ…! 今倒れるわけにはいかないんだ…。アスカをこの手に抱くまでは…。
アレックスは気持ちを紛らわせるために、手にしたブランデーを一気に飲み干した。
暗いフロアーの中で、ステージだけが突然まばゆい光に包まれた。
眩しさにソファーに座っていた客たちは皆目を細める。
それまでステージと客席を隔てていた黒いカーテンが取り払われたのだ。
一瞬たじろいだ連中も、明るいステージにの上の光景に思わず息をのむ。
天井に煌めくシャンデリアの下で、金色の鎖につながれたすらりとした美女が、白い羽のガウンを羽織って立っていた。
白く滑らかな肌は真珠色に輝き…完ぺきに整った小さな顔は長い睫毛とわずかに開いたバラ色の唇がまるでキスを誘うように微笑んでいる。
髪は両サイドを緩く結って、残りは背中に豊かに垂れていた。
その頭に戴いたティアラに無数に散らばるダイアモンドが天井のシャンデリアの光を幾重にも反射して…神々しいばかりの光を放っていた。
「わたしが長い間…恋焦がれ…待ち望んだもの…。それがやっとわが手元に入ったのです。今夜はそれを祝して、皆さまにもともに愛でていただきたいのです…」
ステージの端に立っていた黒柳の言葉に客たちは、唸り…そして歓声を上げた。
今目の前にいる美しい生贄が…主人が食したあと、自分たちにも味見する権利が与えられることをよくわかっているのである。
アレックスは目の前に現れたアスカの姿を目にした瞬間…目も眩むような激しい衝撃を受けていた。
何か棒のようなもので…無理やり胸をこじ開けられても、これほど激しい痛みを感じることはないだろう…。
と同時に、女王のティアラを頭に戴いたアスカの、あまりの美しさに魅了されていた…。
クソっ…! 最も愛する女の…こんな姿を自分以外の男の目に晒したくなどなかった!
黒柳はアスカにいったい何をしたんだ…!?
黒柳がアスカの耳元で何かを囁くたびに、アスカは睫毛を震わせて…悩まし気に身体を揺らしている…。
アレックスが知っているアスカなら、例え強要されたとしても、決して人前ではこんな表情を晒したりしない…。
出来ることなら、今すぐ目の前の黒柳をステージから引きずり降ろして、八つ裂きにしてやる…!
アレックスは自分の拳がブルブルと震えていることにも気づかなかった。
ただ自分の腕をギュッと掴んだイェンの…お願いだから、抑えてください…! その必死のメッセージを含んだ眼差しに、小さくうなずいただけだった。
ジャマールは、直前まで何度も頭に叩き込んだ見取り図を思い出しながら、細い迷路のような路地を目的地へと急いでいた。
握りしめた両方の拳は汗ばみ、さっきの小競り合いで負った傷がかなり痛み始めていた。
もうすでに予定の時間はとっくに過ぎていて…もしかしたら間に合わないのではないかと…そんな想いに胃がよじれるような痛みを感じて、ジャマールは思わず顔をしかめた。
闇に紛れて屋敷の中庭に忍び込んだまではよかったが、今回最大の強敵となる殺し屋ウェイ・リーとこんなに早く遭遇したことは予想外だった。
中庭から建物の外壁沿いに進んで、二階部分に通じる外階段の踊り場で、ジャマールは待ち構えていたウェイ・リーと鉢合わせしたのだ。
噂どおりウェイ・リーは、あらゆる体術を身に付けた人間兵器だった。
だがジャマールだって戦闘能力なら負けはしない。
17で故郷をあとにして以来、育ての親であるオランダ医師の元で医術を学ぶ傍ら…体術はもとよりあらゆる武器の扱いも身に付けた。
20歳でその両親を失って…数年間、トルコのガレー船で奴隷として過ごす間も、いつか故郷に戻って復讐を果たすために生き延びることに執念を燃やしてきたのだ。そのころのジャマールは復讐だけが生きがいだった。そして…運命のあの日、トルコのガレー船でアレックスと出会うまでは…。
アレックスとの出会いが、それまでのジャマールのすべてを変えた。
稀に見るほどの美しく高慢な英国貴族で、その高い自尊心と同じくらい深い思いやりの心を持つホークと呼ばれる危険な男…。
ルシアン・アレクサンダー・クレファードは瞬く間に、それまで孤独に生きてきたジャマールのすべてを魅了してしまったのだ。
ウェイ・リーは感の鋭い男だった。すべてをわかっていて、待ち構えていたに違いない。それなら…アレックスの身も危なくなる…!
今感じている以上の痛みがジャマールの胸を貫く…。
今のアレックスはとても戦える状態ではないのだ…。もし少しでも計画よりジャマールの登場が遅れたのなら、命取りになりかねない…。
ウェイ・リーとの戦いは激しく延々と続いた。
双方とも銃での戦いは好まず、重装備を投げ捨てて身軽になると…ジャマールも全身を覆っていた黒マントを脱ぎ去って、いつも腰に差している三日月刀を手に取る。
相手も短刀で応戦してきたが、暗がりの中…生き詰まる緊張とみなぎる殺気…。狭い空間には二人の男の激しい息遣いと、剣と剣がぶつかり合う金属音だけが響く…。
二人が行き交う度に飛び散る汗に、足元をすくわれたジャマールの不意を突いて、ウェイ・リーは鋭い一突きを送ってきた。
それを辛うじて身をよじって避けたが、鋭い刃が容赦なくわき腹を傷つける…。
クっ…!
だが同時に斜めに繰り出した三日月刀が、ウェイ・リーの右胸から左肩まで切り裂いた。小さく呻いてウェイ・リーは後ろに退く…。
その頃にはお互いこれ以上時間をかけても決着がつかないこともわかっていた。
それに今はその時間もないことも…。
「この決着はあとでつけてやる…!」
低く叫んでウェイリーは、現れた時と同時にあっという間に暗闇へと消えて行った。
あれほど広く感じたフロアーが、客たちの熱気と部屋全体から漂ってくる異様な雰囲気と焚きつけられた香のかおりに煽られて…ひどく狭く感じられる。
ソファーに座っている客たちは皆、身を乗り出して…ステージの上の美しい生贄に魅入っていた。
むせるような濃い空気の中で…連中はその眼の中に浮かぶ狂気と欲望を隠そうともしていない…。
はやし立てるように、下卑た叫び声をあげながら…黒柳にさらなる開放を促している…。
黒柳もそれを愉しむ様にゆっくりと彼らを見回しながら、彼女の身体を唯一覆い隠している白い羽のガウンの中に片手を滑り込ませると…焦らすようにしてその曲線を撫で始めた。
そのガウンの下にある優美な曲線を想像させるように、わざと軽く…胸から腰に掛けてゆっくりとその指先を下ろしていく…。
その愛撫を受けて、彼女が感じているのは…苦痛なのか、それとも快感なのか…?
美しい眉間を微かに歪めて…切なげに身をよじる。
その行為に夢中になっていた黒柳は、目の前にいるはバロンのマスクに隠された男の顔が、怒りで赤黒く変色していることに全く気が付いていなかった。
血が滲むほど唇を噛みしめ、爆発寸前の怒りを身体全体で必死に抑えている…。
あともう少し…奴の手がアスカの身体に触れることがあったら…!?
もう限界だった。こんなことを許せるわけがない…! たとえこの命がそのことによって絶たれようとかまわない…! これ以上…アスカをを汚すことは許さない…!
アレックスがイェンの手を振り切って、ステージに向けて一歩踏み出そうとした時…アスカの身体を覆っていた羽のガウンが足元に落ちる。
一瞬だがそのまばゆいばかりの白い裸身が、明るいシャンデリアの光の中に浮かび上がった瞬間…バン!バン! という銃声の音が響き、あたりは真っ暗になった。
そして銃声が鳴ったと同時にアレックスも動く。
ステージに一歩で駆け上がると、片手でアスカの身体を支えながら、反対側の手ですぐ横に茫然と立っている黒柳の顎にめがけて渾身の一撃をお見舞いした。
確かに手ごたえがあって、ドサリという倒れる音も聞いた。
「イェン…!」
アレックスの声に応じて、イェンの起こした行動も早かった。
だいぶ目が慣れてきた薄明かりの中で、懐から銃を取り出してアスカを繋いでいる天井の鎖を撃つ。
鈍い音がして、アレックスの腕の中に柔らかなアスカの身体が倒れてくると、アレックスは思いっきりその体を抱きしめる…。
思わずその髪に顔を押し付けて…その芳しい香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「誰か、明かりを持ってこい…!」
誰かの叫び声と、物がぶつかる音が交差して…あたりは騒然としている。
気が付かなかったが、どうやらフロアーの外にも人の気配がしている。おそらく岩倉卿の配下の者だろう。
こうなったらあとは彼らに任せて、アスカを安全な所へ移したら…すぐに黒柳を追いかけよう。
アレックスはさっき、彼らがアスカを助けている間に、誰かが倒れている黒柳に駆け寄る姿を見ていた。
だが今はアスカのことが気になっているアレックスは、手探りで足元に落ちている羽のガウンを引き寄せてアスカの身体を包み込む。
柔らかな肌と身体から立ち上る優美な香りに、瞬時に下半身が強張るのを感じた。
こんな時に欲望を感じるなんてどうかしている…!
自分を叱りながらも、自分に及ぼす圧倒的な力を持つアスカの存在に、今さらながら驚く…。
「ボス…! 急がないと…!」
「ああ…」
ぐったりとしたアスカの身体を抱えたまま…アレックスはゆっくりと立ち上がる。
彼女の重みを受けて、左肩とわき腹が引きつれるように痛んだが、それを無視して…ちょうど飛び込んで来たジャマールと合流した。
「待て、アレックス…それでは目立ちすぎる…」
ジャマールに言われて、初めてアレックスは、アスカの頭にあるティアラの存在に気が付いた。
ジャマールはそれをサッと外して懐に収めると、自分が身に付けていた真っ黒なマントを脱いで、アスカの身体の上にかけた。
「すまない、ジャマール…」
「いや、いいんだ…。それより黒柳はどうする…? たぶん、ステージの後ろにある隠し扉から逃げたに違いない。」
「そうか…だが今はアスカのことを考えたい…ともかく安全なところまで彼女を連れて行かないと…」
「わかった…」
それから3人は、狼狽えて右往左往する客連中を避けるようにして出口へと向かった。
「あの殺し屋はどうした…?」
「ウェイ・リーなら、じつはここに来るまでに一戦やって来たんだ。おかげで、予定よりかなり遅れてしまった…」
「どおりで…! もう間に合わないかと思いましたよ…」
最後尾を歩きながら、ホッとしたようにイェンがつぶやいた。
「あともう少し明かりが落ちるのが遅かったら、ボスが黒柳に殴りかかっていました…」
「そうだろうとも…。まあ、それもまた見物だったかもしれないが…。」
ジャマールの言葉を聞いて、思わずアレックスは唸る。
「心配するな…。明かりが消えた直後に、一発お見舞いしてやったよ。もっともあいつが誰に殴られたか、わかっているかは疑問だがな…」
「ハハ…そりゃあ、いい…! だが油断するなよ…ウェイ・リーは死んだわけじゃない。お互い決着がつかないとみて、休戦しただけだ」
「とにかく、外へ出ないと…」
外へつながる隠れた通路を進みながら、先頭をジャマールが…真ん中にアレックスを挟んでイェンが続く…。
遠くから聞こえる騒ぎがだんだん落ち着いてきていることから、おそらく岩倉卿がすべてを制圧するのは、もう時間の問題だろう。
暗い廊下を進みながら…いくつ目かの角を曲がりかけた時、不意にアレックスの力が抜けて、がっくりと片膝をつく…。
最初から痛みはあったのだが、今ではさらにひどく…アスカの身体を支える左手はもうほとんど感覚がない状態だった。
「ボス…アスカはボクが…」
イェンが慌てて手を差し伸べたが、アレックスは首を横に振る。
「いや、アスカはオレが運ぶ…」
これ以上アスカを誰かに触れさせたくはなかった。たとえそれがイェンだとしても…。
アレックスはイェンの力を借りて立ち上がると、平気だというように笑って見せた。
「黒柳はどうしたんだろう…?」
「おそらくはどこかの隠し扉から逃れたのでしょう…。この屋敷の中には、どうやら記憶以上のからくりがあるようです」
暗い通路を歩きながら、イェンが顔をしかめて言った。
どうもさっきから同じような通路を何度も行き来しているが、時々まったく見覚えのない扉に出会ったりするのだ。
アレックスは徐々に焦り始めていた。
もちろん、アスカを安全な場所に移すことが最優先なことに変わりはないが…黒柳を何としても捕らえてやりたかった。
時間をかければ、かけるだけ…奴は遠くへ行ってしまう…。
「こうなったら、いったん外へ出よう…。たぶん、屋敷の外は岩倉卿がすでに制圧しているはずだ…」
「わかった…」
先頭を行くジャマールの言葉にアレックスはうなずいた。
それを見て、ジャマールは右手で片側の壁を探って、わずかな段差を感じる場所を力いっぱい押した。
すると…ゆっくり壁の一部が動いたかと思うと、視界の向こうに別の通路が口を開けている。
先にジャマールが通り抜け…安全を確認してから、アレックスを手招きする。
その直後、鋭い刃が降り降ろされ、それを咄嗟に三日月刀で受け止める。
「フフ…待っていたぞ…! 今度こそさっきの決着をつけてやる…!」
ウェイ・リーだった。
さっきはお預けになった闘いの続きをしようというのだろう…。ジャマールは応戦しながら、後ろのアレックスを振り返った。
「ここはわたしが引き受ける。君はイェンと先に行け…!」
「ジャマール…!」
アレックスも黙って従う。
アスカを抱えた身では仮にここに残ったところで闘えない。それにこの傷ではかえって足手まといになるだけだ。
「ボス、こちらです…」
イェンもわかっているから、すぐさま反応して通路の反対側を指さした。
それにも無言でうなずいて、アレックスもあとを追う。
相変わらず腕の中のアスカは、ぐったりとして身動き一つしない…。
不安になってその口元に頬を寄せると…そこにゆったりとした息づかいを感じて、アレックスはホッと胸をなでおろした。
たぶん、このままアスカを失うことになったら…きっと自分は生きていけないだろう…。
通路はさらに奥へと続き…ある角をまがったところで、突然イェンは足を止めた。
「ボス、誰か倒れています…」
二人が近づいて見れば、ひとりの男が壁に背を付けたまま…意識を失っていた。
よく見ると、男のわき腹からはかなりの出血が見られる。
「死んでいるのか…?」
「いえ…微かですが息があります…。どうやら銃で撃たれたようです。それにこの男…」
身を屈めて男の様子を探っていたイェンが、ハッとして顔を上げた。
「ボス、この男…黒柳の側近だと言われていた男です。それに…あのメイファンをあの場所まで送ってきたのもこの男なんです。あの時は遠目だったんでよくわからなかったんですが…。近くで見て、間違いないです…!」
イェンは興奮したように叫ぶ。
イェンが言うことが本当なら…目の前に倒れているこの男は、メイファンの命の恩人だということになる。
黒柳の側近だと言われているこの男が撃たれたということは、もしかしたら裏切りがばれたということか…?
「イェン、この男を連れて行けるか…?」
「もちろん、大丈夫です」
イェンは即答した。どうやらイェンもアレックスと同じ考えらしい。
自分よりかなり上背のある男の身体を、軽々と肩に担ぎ上げたイェンは、何事もなかったようにまた先を歩き始めた。
それから先はすべてが順調だった。
屋敷の外に出た二人は、すぐに岩倉卿と合流することが出来た。
岩倉の素早い行動で、すでにあのパーティー会場に来ていた不届きな客たちは皆拘束され、屋敷に残された大概の黒柳の部下たちは、抵抗した者を除いてほとんどが無傷で投降した。
ただ黒柳本人だけは、数人の部下とともに屋敷を離れ、どうやら海岸沿いに待機させてあった小舟で海上へと逃れたようだった。
「残念だが仕方がない…。外洋へ出てしまえば、あとはもう我々には手出しが出来なくなる…」
岩倉は悔し気にそう言ったが、今の日本の立場では…外洋へと逃れた外国籍の船舶を追うことは出来なかった。
それを見こうして黒柳は、いざという時のためにわざわざ大陸から船を呼び寄せていたのだろう…。
岩倉卿は恨めしげに炎の上がった屋敷の東翼を見つめる。
逃げる際、黒柳は混乱を引き起こすために自ら屋敷に火を放ったのだ。
だが幸いなことに周りに民家はなく…じきに火は消し止められるはずだ。
「ところで、恋人の具合はどうだね…? 無事に救出に成功したと聞いたんだが…。ティアラも取り戻したんだろう…?」
「ええ…」
アレックスはそこで言葉を切る。
とてもアスカの今の状態を言葉で言い表すことは出来なかった。
今のアスカは…ただ息をしているだけで、人形のようにまったく反応を示さない彼女をどう表現していいのかわからなかったのだ…。
黒柳から受けたことからのショックなのか…? それとも何か薬物のせいなのか、まったく見当がつかない…。
それがひどくアレックスを戸惑わせた。
アレックス達が岩倉と合流して遅れること…30分、全身傷だらけになったジャマールが戻ってきた。
ジャマールは多くを語らなかったが、殺し屋ウェイ・リーとの激戦は凄まじいものだったに違いない…。
いつかバハマ沖の海戦でも、カリブの海賊相手に派手な戦闘に陥ったが、あの時でさえこれほどの傷を負うことはなかったはずだ。
片足を引きずりながらもジャマールは、自分の傷よりもアレックスとイェンが連れ帰った男の傷の処置を優先した。
「ジャマール、あの男は助かるだろうか…?」
「何とも言えないな…? 弾は腎臓の一部を傷つけていた。運が良ければ助かるだろう。それよりアスカのことだが…」
そこでジャマールの表情が曇った。それを見てアレックスにも緊張が走る。
アスカは今屋敷の外に待たせた馬車の中で眠っている。もちろんその周りには多くの護衛を配備して厳重に守らせていた。
身体に傷跡はどこにも見られなかった。表面的な暴行は受けていなくても…あの黒柳が、アスカに全く触れなかったとは考えられない…。
そのことが今のアレックスをひどく苦しめていた。
「ジャマール、言いたいことがあるなら…はっきり言ってほしい…。何を聞いても覚悟は出来ている…」
「はっきりしたことはわからないが…。君の言うとおりアスカが他に傷つけられていないのなら…意識が戻らないのは何か薬物による意識障害ではないかと思う…。与えられた薬の種類と量にもよるが、案外あの黒柳の側近だったという男の意識が戻れば、それもはっきりするだろう…」
「もしあの男の意識が戻らなかったら…?」
アレックスは悲痛な面持ちで友人の顔を見つめた。
「君の時と同様、神に祈ることにしよう…」
それを聞いてアレックスはがっくりと肩を落とした。
何ということだ…。それではもう自分には何も出来ないということだ…。
あの時、アスカはオレのためにずっと側にいて祈ってくれた。今度はオレがそうする番だ…。もう決して放すものか…!
アレックスはあとを岩倉卿に任せてその場を離れた。
男の世話と屋敷にいるメイファンのことはイェンに託し…領事館のハリス・ロンバートに短い手紙をしたためて送ると、自分は黒柳を追うべくジャマールを伴って海岸へと向かった。
横浜沖に待機させてあるアレックスの旗艦、アレクサンダー・マレー号に乗り込むためだ。もちろん、アスカも連れて行く…。
ここまで来て、少しでも離れていることに耐えられなかった。
広い4輪馬車の中で、膝の上に意識のないアスカを抱きしめながら、その髪に顔をうずめる。
お願いだ…アスカ…! 目を開けてオレを見て…!
腕に感じる温かな温もりが、さらに切なさを募らせる。
アスカの…細く頼りなげな白い手を取って、アレックスは自分の頬にあてた。
手のひらにキスをして反応を確かめても…微かに睫毛を震わせるだけで、その瞼が開くことはなかった…。
黒柳の屋敷を出て、数時間後にはアレックスは船の上にいた。
あらかじめコンウェルに命じて、いつでも出航の準備をさせていたのだが、黒柳の側近だった男の手術を済ませたジャマールが、マレー号に乗り込んできたのはさらに1時間後だった。
「あの男は助かるんだな…?」
「ああ…きみと同じで際どいところだったがな…。あとはイェンが面倒を見てくれる。それにメイファンも…」
ジャマールの話からすると、メイファンはずいぶんと元気になっているらしい。アスカのことはさておいても、それだけでもよかったと言わなければならない…。ただ…。
「オレにはあの男同様おまえにもかなりの治療が必要だと思うがな…?」
アレックスは自分の目の前に立つ友の姿を見て言った。
頭に巻いている黒い布は別にして、彼が身に付けている全身黒ずくめのアラブ風の衣装はすでにボロキレと化している。
体中の至る所が切り刻まれ、血が滲んで凝り固まったまま皮膚に張り付いていた。
「ウェイ・リーは倒したのか…?」
「いや、海岸通りまで追いつめて…埠頭から海に落ちたまでは確認したが、暗くてそれからどうなったかまでは確認できなかった。あれほどの男だ…。簡単に死ぬとは思えないが、今すぐ何か行動を起こせるとは思えないね…」
ジャマールの後ろに回ったアレックスが、彼が身体に張り付いた服を脱ぐのを手伝うために手をかけると、ジャマールは低い唸り声をあげた。
「酷いな…。ブレンを呼ぼうか…? それとも船医のマーシャルか…?」
「いや、ブレンで結構…かすり傷程度だ」
ジャマールはそう言ったが、全身に及ぶ傷は決してかすり傷などという生易しいものではない。特に左胸…心臓の少し上に斜めに走る傷は、あともう少し深ければ確実に命取りになり兼ねないものだった。
アレックスは足早に廊下に出てすぐさま船医のマーシャルを呼んだ。
そしてまた部屋に戻ると、ジャマールはそのままの恰好で壁を睨んだまま…じっとその場に立ち尽くしていた。
口元は微かに苦痛で歪んでいる。あの香港一と言われる殺し屋ウェイ・リーと互角に渡り合って来たのだ。
無傷では済まされないとわかってはいたが、ここまで酷いとは思わなかった。
アレックスは非情なまでの自制心を見せる友の背中をじっと見つめた。
思えば…出会った時からジャマールは不思議な男だった。
生まれは中東の砂漠の国、ドゥメイラ。褐色の肌と漆黒の髪、燃えるような黒い瞳を持ち、粗削りながら整った容貌は、一度見たら忘れられない…。
長身の鍛えられた戦士でありながら、医術の心得も持っている。
キリスト教国に身をおきながら、誇り高いジャマールは決してヨーロッパの衣装を身に付けない。
豊かな髪をターバンで隠し、実用的なアラブの衣装をカフタンを着ていた。
細い腰を際立たせる鮮やかな刺繍の施された飾り帯には、宝石をちりばめた三日月刀を差している。
アレックスはいつも不思議に思っていた。ジャマールには、ただ荒々しいアラブの戦士というだけではなくて…何か高貴なもの、長い年月をかけて身に付けてきた威厳のようなものが感じられるのだ。
ただそれがどこから来るのかはアレックスにもわからない…。
非情な奴隷商人と言われていたトルコの海賊ラダーナフの船を襲った時、奴隷だったジャマールは、ガレー船の船底で多くの奴隷たち同様ひどい有様だった。
服は擦り切れてボロボロ…背は高いが痩せていて、鋭い眼だけが異様に目立っていた。
激しい小競り合いのあと、大方の奴隷たちは怯えていたが、ジャマールだけは鎖につながれたまま…侵入者として船に乗り込んで来たアレックス達をじっと睨みつけていた。
アレックスは海賊船に乗り込むと、部下に奴隷たちを解放するように命じた。
倒すのは海賊ラダーナフ一味であって、彼らに罪はない。
船を奪ったら、適当な港で彼らを解放する…。それがアレックスのやり方だった。
だがジャマールだけは他の奴隷たちとは違った反応を見せた。
足元の鎖が外されると、素手で猛然と挑みかかってきたのだ。アレックス達がまるで憎い襲撃者だと言わんばかりに…。
長い間奴隷生活をしていた割には、ジャマールは素晴らしい戦士だった。
アレックスの部下が5人掛かっても抑えることが出来ず、最後には部下たち大勢でやっと取り押さえたほどだ。
だがその頃、二人の間には不思議な感情が芽生えていた。
それから10年近く、ジャマールはアレックスの側近としてずっと影のように寄り添っている。
実際に二人の関係は、主人とその部下というよりは親友同士という表現がピッタリくる。
アレックスはジャマールに絶大な信頼をおき、すべての采配を彼に任せている。
その代わりにジャマールは、自分のすべてを犠牲にしてもアレックスを護ろうとした。
その揺るぎない関係は、何があっても変わらない…。
「辛いんだろう…? アスカの顔を見るのが…」
「ああ…」
アレックスはジャマールの言葉を否定したかった。
アスカが受けたであろう屈辱を、自分は気にしていない…そう言いたかった。
だが…自分は見てしまったのだ。あの時の彼女の表情を…。
あの忘我の一瞬…アレックスに抱かれながら、何度も上り詰めた歓喜の瞬間にに、かい間見せるあの美しい顔を忘れるものか…!
あの薄暗いステージの上で、アスカは最高に美しい表情をしていた…。そう…自分だけが知っているあの顔だ。
くそっ…!
アレックスは小さく悪態をつきながら、ティアラを頭に戴き…女神のように美しく神々しいその姿を頭から追い払った。
「今は時間をおくのが一番だ。何があったのか、そのうちにはっきりする。ただ変わらないのは…君たちが今も愛し合っているという事実だろう…? それに、アスカが黒柳のところへ行ったのは、君を守るためだったということだ…」
そう言うジャマールの目をアレックスはじっと見つめてうなずいた。
愛のゆくえ 3 戦いのあと
あれからアスカは昏々と眠り続け…アレックスはじゃマールとともに船の操舵室に籠ったまま、じっと目の前の海図を睨んでいた。
黒柳に遅れること1日、ハリス・ロンバートが最速で処理したにもかかわらず、出航の許可が下りたのは、アレックスたちがマレー号に乗り込んで半日後のことだった。
アレクサンダー・マレー号は、外観こそ優美な商船っぽく見せているが、実際には最新鋭の軍船だった。
流線型のボディーと、高く張り巡らされたマスト、中央近くにそびえる様に立った蒸気の排出用の煙突が力強さを強調している。
「それで奴は今頃どのあたりだ…?」
「奴が根城としているのはこのあたり…ならば南回りのコースが必然なんだが…まっすぐそのコースを進んだとすればこのあたり…」
操舵室のテーブルの上に広げた海図のある地点を、ジャマールが指先でトントンと叩く。
「もし途中何処かに寄るとしたら…奴はいつも大阪に立ち寄っていた」
船の舵取りを副官に任せ、時々回帰類に目を走らせながらこの船の船長であるコンウェイが言った。
「奴が真っすぐ目的地に向かうなら、たぶん追いつくのに1日あれば十分だ。だがどこかに寄り道していたら、それだけ見つけるのに手間を食う…」
「うん…それに、出来ればこの国の近海で派手な撃ち合いは遠慮したいからな…」
それに応えるようにジャマールがつぶやく。
それをじっと聞きながら、アレックスは考えていた。
絶対に黒柳の船だけは、この深い海の底へ沈めてやると決めていたが、日本の近海で…外国籍とはいえ日本にゆかりのある船を沈没させるとなると、あらゆる意味で後々の影響も少なからずある。
出来ればより離れた公海上で行うのが好ましい。今日本の近海近くには他国の軍船も多く、特にフランスの動向には注意が必要なのだ。もっともあのデュバリエの言葉を信じるならば、その心配は皆無なのかもしれないが…。
「本当にあのフランス人の言うことは信用できるんでしょうね…? 安心して素通りしたとたんに、後ろからドカン…! というのは無しですからね」
海賊上がりのコンウェイには、この手の取り決めというやつはどうも信用できないらしい。
「ああ…心配するな。デュバリエは信用できる男だ。目立たないハエが一匹、鼻先をかすめたところで、瞬きひとつしやしないさ…」
アレックスが笑うと、コンウェイは仕方ないというように肩をすくめてみせた。
「ともかくフランス政府は、今回は手出しをしないと約束している。あくまでもこの件は英国と日本の一企業家の問題として処理してくれるそうだ。それに…自国の大使も絡んでいたんだ。外に恥を晒したくないんだろう…」
「バロンのことですね…?」
コンウェイがニヤリと笑うと、アレックスはあの晩、バロンと入れ替わる時…馬車から引きずり降ろされたあの誇り高い外交官が、哀れっぽく泣き叫んで命乞いする様子を思い出した。
たぶん…あの哀れな男はもう二度と国外へ出ることはないだろう…。
自業自得だが、バカな男だ…。
すると…その時、船の甲板から操舵室へとつながる階段のドアがいきなり開いたと思ったら、バタバタという足音とともに誰かが駆け上がってくる。
そして操舵室の入り口のドアが勢いよく開いて、茶褐色の頭がのぞいた瞬間、そこにいた男たち全員が振り返った。
スカートの裾を両手で持ち上げながら、駆け足で階段を上ってきたリリアは、その場にいた男たちの視線がいっせいに自分に向けられるのを感じてたじろぐ。
広い操舵室が4人の大男のせいでひどく狭く感じられ…加えて張り詰めた空気のせいですぐに言葉が出てこなかった。
その緊張を解いたのは、船長であるコンウェイの鋭い一言だった。
「この女をここに通したのは誰だ…!? 操舵室に女は入れるなと言っておいただろう…!?」「何度も下から呼んでも誰も返事がなかったんですもの、自分で来るしかないでしょう…!? 」
そう言ってリリアはキッと真正面からコンウェイを睨みつけた。
だがそこにアレックスの姿を見つけると、フッと安堵のため息を漏らした。
「ああ…旦那様。やっぱりここにいらしたんですね? よかった…。さっきお嬢様がお目覚めになりました…」
「ああ、わかった。すぐ行く…!」
そう言うが早いか、アレックスは勢いよく駆け下りて行った。
リリアはそのあとを追いかけようとしてもう一度振り返ると、コンウェイに向かって顎を高く上げて可愛い唇を尖らせると、フン…! というように鼻を鳴らしてそのまま階段を駆け下りて行った。
それを見てジャマールは噴出した。
「残念だったな…? コンウェイ、どうやらリリアに嫌われたぞ…」
「ハン…それがどうした…? 女にオレの領域を汚されるのは好きじゃないんでね…」
コンウェイはきまり悪そうにつぶやいたが、ジャマールは前の滞在で外見も恐ろし気なこのい男が、密かにリリアの機嫌を取っていたのを知っていたのである。
アスカがうっすらと目を開けると…ぼんやりと視界には、白い壁と高い天井が目に入ってきた。
部屋は明るく、天井にはクリスタルのシャンデリアが輝いている。
瞼がとても重くて、長くは目を開けてはいられないけれど…自分が今温かなベッドの中にいることだけはわかった…。
ここはどこ…? わたしは今まで何をしていたのかしら…?
全身にまとう気だるさで…自分が起きているのか、眠っているのかさえ定かではなかった。
夢うつつの状態で、つぎに瞬きをしたあと…誰かが燃えるような目でじっと自分を見つめているのに気がつく…。
まあなんてきれいな碧い瞳なの…? キラキラ輝いて、まるで吸い込まれそう…。
アスカは思わず微笑んだ。
「ああ…アスカ、君はボクがわかるのか…?」
アレックスは細いアスカの手を取って、自分の頬に押し当てる。
出来るならアスカをきつく抱きしめて、その温もりを思いきり感じていたかった。
そしてアスカは自分のものだと実感したかった。
それを思いとどまったのは、あまりにも華奢な彼女の指先の感触と…目の前の彼女の目の下にうっすらと浮かんでいる隈のせいだった。
この数日間、アスカが受けた苦痛を思えば、今アレックスが感じている苦しみなど比べものにならない…。
蒼白い手首の裏側にそっと唇を付ければ…アスカは微笑んだまま…小さく安堵のため息を漏らしてまた瞼を閉じた。
横浜を離れて5日目…アスカは何度となく目覚めはしたが、また眠りにつくことを繰り返して…1時間起きていることもあれば、丸2日眠り続けることもあった。
相変わらず目を覚ましても意識は混沌としていて…いくら呼び掛けても微笑むだけで言葉を発することはなかった。
しだいに焦りを感じたアレックスは、このままアスカの意識がもどらないのでは…? そう本気で心配し始めていた。
「何故…? 何故アスカの意識は戻らない…!? このまま彼女の意識が戻らなかったら…?」
「それは誰にも分らない…。おそらく何かの薬の副作用なんだと思うが…。黒柳が今までもさらってきた娘たちに薬を与えて、自由を奪ってはあちこちに売り飛ばしていたと聞いている。この数日のアスカの様子を見ても禁断症状らしきものは出ていないことから、使われた薬はそれほど危険のないものではなかったのかもしれない…」
「どうしてそう言いきれる…?」
どうしても納得のいかないアレックスは、ジャマールに詰め寄った。
「ああ…それは前にも麻薬の禁断症状で苦しむ連中をたくさん見てきたからな。それはよくわかる。だが薬の副作用には個人差があって、完全に体内から抜けきるまでには時間がかかる場合がある。彼女の場合もそうなのかもしれない…。それに薬を調合したあの木村という男なら、きっと何か方法を知っているに違いない…」
それもあの男が助かった時にはな…。
アレックスは喉まで出かかったその言葉を飲み込んだ。
木村はイェンの手で、領事館で面倒を見ることになっている。
あの男は、どういう了見か、メイファンの命を自分の意志で救ったのだ。
ならば…アスカに対しても何らかの配慮をしたに違いない…。今はそう信じたかった。
「ボス、左舷前方に船を発見しました! 大型船です…!」
見張りから連絡を受けて、操舵室に集まったアレックスたちは、双眼鏡をかざしてじっと前方の地平線辺りに目を凝らした。
すると…波間から確かに船らしき影が見える。
「コンウェイ、もっと近づくことが出来るか…?」
「お安い御用です。全速前進、左舷30度面舵いっぱい…!ヨーソロー! 」
コンウェイは、傍らのパイプのふたを開けて、太さ15センチくらいの空洞に向けて叫んだ。
パイプは船の最下層にあるボイラー室へとつながっていて、操舵室のコンウェイの声が直接届くようになっている。
「もう少し近づけば、相手がどこの船かわかる。黒柳は自分の旗を上げていると思うか…?」
アレックスは双眼鏡を覗いたまま…隣のジャマールに言った。
「ああ、たぶん。近くにフランス海軍がいるとしたら、奴は自分の存在を知らせなければならない…」
「それで連中に護ってもらおうって魂胆なんだな? それでもってオレたちには一杯食わそうってわけか、フン…! 汚ねぇ野郎だ…!」
ジャマールの言葉を受けて、コンウェイは両手で舵を操りながら悔しそうに悪態をつく。
「まあ、そう悔しがるな。それもフランス海軍が奴の思惑通りに動けば…の話だ。そうだろう…? アレックス」
「ああ…。我々はデュバリエを信用するしかあるまい…。どっちに転んでも、もう後戻りはできないということだ」
地平線を睨んだまま、アレックスはつぶやいた。
「じゃあ、そろそろ」戦闘準備といきますか…?」
「ああ頼む」
コンウェイの弾んだ声にアレックスがうなずくと、コンウェイは愉快そうに笑う。
「イエス、サー!!」
コンウェイが操舵室の外に控えている副官に合図すると、またその副官が次の合図を出して、それに従って甲板の上にいた連中がバタバタと走り始めた。
「まあ、どうしたんでしょう…? 船がこんなに揺れて…何が始まるんでしょうか…?」
アスカにずっと付き添っていたリリアは不安げに船室の窓から外を見つめた。
ほんの半時前から、やけに船内が騒がしく、さっきから引っ切り無しに通路を行き交う足音が響いている。
アスカは何の反応もないまま…ぼんやりとベッドの上に座ったまま、窓の外を眺めていた。
すると突然、鈍い音とともに…窓の外側を覆うように黒い鎧戸が下りてきて、視界を塞いでしまう…。
「まあ…! まあ…!」
リリアは驚いて、怯えたように大きな声をあげると、後ろから不意に誰かの声がする。
「そう驚きなさんな…! これからちょっとしたお愉しみが始まるんだ。時々派手な音もするが、この船はびくともしやしない…」
いつ入って来たのか、コンウェイが、入り口のドアにもたれかかるようにして笑っていた。
「まあ、失礼な! レディーの部屋に入る時にはノックくらいするものだわ! それに旦那様の許可なしにお嬢様の部屋に入ることはなりませんよ…!」
リリアはコンウェイの姿を見るなり真っ赤になって怒り始める。
「いや、はや、大した剣幕だ。お嬢様もあんたに護られていれば大丈夫かな…? でもここにオレを来させたのはその旦那様なんでね。そのボスからの伝言だ。これから海戦に入るかもしれないが、心配することはないとのことだ。わかったかな…?」
真っ赤な顔をして睨みつけているリリアを面白そうに眺めながら、コンウェイは高らかに笑ってそれだけ告げると、来た時同様サッと素早く部屋を出て行った。
「まあ、なんて無礼な男なんでしょう…!? この船の船長かなんか知りませんが、本当に嫌な奴!」
真っ赤な顔をして、さらにブツブツと文句を言い立てているリリアの姿
が可笑しくて…アスカは小さくクック…と声を立てて笑った。
「まあ、お嬢様…声が出せるんですね…?」
リリアはさっきまであんなに起こっていたことも忘れてベッドに駆け寄ると、アスカの手を取って涙さえも浮かべている。
「あ…」
アスカは何かを言いかけて口を噤んだ。
覚醒と昏睡状態を繰り返すうちに、少しずつ意識は戻りつつあったけれど…まだ記憶は曖昧で頼りない。
こうして毎日自分に付き添いながら、献身的に世話をしてくれる女性がリリアという名前で、前に知り合いだったということはわかっている。
どことなく見覚えがあるのに、名前が思い出せないのが自分でも歯がゆくて…それに何よりも…時々、自分を切なそうに見つめている美しい碧い瞳の男性が誰なのか…思い出せないのが、死ぬほどつらかった。
その瞳を見るたびに、心が激しく疼くのだ。
よじれるような悲しみと切なさに胸が張り裂けそうになって…。
ああ…あなたは誰なの…? わたしはあなたに何をしたの…?
どうしてそんな悲しい目をしてわたしを見るの…?
アスカはその想いを言葉にしたかった。
でもなぜか、唇は動くのに…不思議と言葉は出てこなかった。
きっとわたしは…どこかおかしいのかもしれない…。
アスカの頬を涙が一筋零れ落ちた…。
「まあ、どうしたんでしょう…!? あんまり興奮しすぎたのでしょう…! さあ、ベッドに入って…!」
リリアはなだめるようにしてアスカをベッドに入れると、まるで幼い子供を寝かしつけるように、耳元で優しくささやき続けた。
リリアの優しい声を聞いていると、まるでゆりかごを揺すられているような気分になって…いつしか安らかな眠りに落ちていった。
「見えてきました…! フランス海軍です!」
頭上の見張りの声がデッキに響き渡る。
アレックスは双眼鏡を覗いて、はるか遠く前方に見えている一団の旗章を確認した。
「ユニオンジャックを上げろ…!」
アレックスの合図にコンウェイが叫ぶと、スルスルと目の前のメインマストを2本の旗が上がっていく。
大英帝国を記したユニオンジャックと、3本の剣を象ったクレファード家の紋章だった。目の前にいるフランス海軍に、マレー号の存在とアレックスの意志を伝えなければならない…。
すでに黒柳の船は彼らの鼻先を悠々とすり抜けている。
フランス海軍は表向き、彼らの行動には関知しないという盟約を交わしているのだ。
デュバリエの言うとおりなら、そのあと通る英国船を見送った後、後方に入って黒柳の船と前後から挟み撃ちにする計画を、バロンは当初企てていたらしい。
もちろん、それはとっくに頓挫していたが、そのことを黒柳自身は知らない…。
「スピードを落として、警戒しているふりをした方がいい…」
隣から同じように双眼鏡を手にしたジャマールがつぶやいた。
「黒柳を油断させるためだろう…? 奴にはさんざん煮え湯を飲まされてきたんだ。その償いはしてもらう…」
アレックスの拳は怒りで震えていた。自分が受けた傷もそうだが、何よりもアスカを傷つけたことが許せなかった。
八つ裂きにしても飽き足らないほどだ。
アレックスのすぐ目の前で…アスカを蹂躙したあの忌々しい光景を思い出すたびに、瞼の内側にチカチカとした炎が沸き立つ。
「アレックス、フランス軍は我々をやり過ごした後、じきに姿を消すだろう。そうなったらきっと黒柳は焦る。慌てて逃げ出すか、逆に捨て鉢になって死に物狂いでこっちに向かってくるかもしれない…。だが絶対に直接船を乗り付けて交えるような戦い方はするな。あくまでも距離を取って戦うんだ。君は直接自分の手で、アスカの敵を取りたいと思っているんだろうが、今日はやめておけ…!」
いつになく厳しい口調でジャマールは言った。
「君自身まだ怪我から完全に回復したわけじゃないし、直接戦えば、それだけ危険も増す…。それに、この船にはアスカも乗っていることを忘れるな…!」
「う…ン…!」
アレックスは思わずうなり声をあげる。
そう…ジャマールの言うとおりだった。今はどんなに腹が立っていても冷静で居なければならない…。
「コンウェイ! 距離を保ったまま…低速で進め…! ただし離されるなよ…!」
「イエス・サー!!」
コンウェイは大げさにうなずいて、部下たちにこれから戦闘態勢に入ることを声高に伝えた。
この計画はどこから狂い始めたのだろう…?
黒柳は操舵室を見下ろす、自室の窓に立っていた。
年頃になってから、ひたすらに自ら欲するものを追い求め、どん欲に生きてきた。
欲しいものは何であれ必ず手に入れて、邪魔するものはすべて力でねじ伏せて来たのだ。
それの何が悪い…。この世には二通りの人間がいるのだ。
生まれつき運のいい人間…血統の良い家に生まれ、有り余る財産に恵まれた人間とそうでない人間…。
貧しく虐げられた人間が、陽の当たる場所の出るためには、当たり前のことをしていたのでは間に合わない…。
わたしは常に最高のものを求めてきた。
金…権力、そして女…。
権力も…唸るほどの金も手に入れた…。最高の女も意のままだった。ついこの間までは…。
黒柳は窓際に置かれた革張りのソファーに沈み込むように腰を下ろすと、手にしたグラスの中の琥珀色の液体をゆっくりと手の中で揺らす…。
アスカ…今まで出会った中で、まさしく最高の女だった…。
あの髪…あの肌…そしてあの瞳…。輝くティアラ以外何も身に着けない姿は、女神のようだった。
手に入れたんだ…やっと手に入れたのに…。
「御前…! 英国船が現れました!」
側近のひとりが慌てて部屋に飛び込んで来た。
長年側にいるこの男は、木村ほどには役に立たない…。忌々しい病に取りつかれて以来、頼りになるのはあの男だけだったが…最後に裏切るとは何とも皮肉なことだ。ただこのまま終わらせはしない…! わたしは決して負けないのだ…!
「奴らの始末はフランスに任せておけ…! 船を真っすぐ大陸に向けるのだ…!」
黒柳はそう言って傍らで怯えている側近を振り返った。
「ですが…御前、フランス軍は撤退を始めています…!」
「何だと…!?」
手にしたグラスを足元に投げ捨て、黒柳は勢いよく立ち上がった。
「艦隊が撤退を始めました!」
「デュバリエの言うとおりになったな…?」
見張りの報告を受け、アレックスは二ヤリと笑った。
「ならもう遠慮はいらないということだ。思う存分やっていいんですね…?」
嬉しそうに笑いながらコンウェイが振り向く。
横浜を出航してからずっとこの時を待っていたのだ。
NO…!という理由はどこにもない。ボスであるアレックスをよく知るコンウェイは、その返事を待たずに即座に行動した。
天候は稀に見るほどの快晴で、突然姿を現した厳めしい大砲はまったくと言っていいほど似つかわしくない。
コンウェイの号令ひとつで、統制の取れたクルーたちは寸分の無駄もなく自分の役割を果たすだろう…。
操舵室からアレックスたちが見守る中、彼らはある命令を待っているのだ。
「奴らに君が生きているのを知らしめなければ、この報復は完ぺきなものにならないのでは…!?」
ジャマールの号令で目の前の最も高いポストにユニオンジャックとともに、3本の剣と誇らし気に羽を広げる大鷹をあしらった深紅の“ホーク”の紋章が掲げられると、アレックスは満足げな笑みを浮かべた。
ジャマールの言うとおりだ。黒柳はアレックスが死んだと思っている。
実は生きていると知らせることで、この報復の中心に誰がいるのか…思い知らせることができるのだ。
正義はまっとうされなければならない…!
アレックスは一点を見据えたまま…片手を挙げた。
奴が掴んだ栄光が、ほんのつかの間のものだということを…最も効果的な方法で知らしめることに、アレックスは何のためらいも感じなかった。
「御前、あれはホークです…!」
「バカな…!? 奴は死んだはずだ…!」
黒柳は部下から奪った双眼鏡で、船尾からはるか後方の海原を食い入るように見つめる。
すでに頼みのフランス海軍の船団はどこかに消え失せ、いつの間に現れたのか、一艘の英国船に後を追われていた。
見れば相手はぐんぐん距離を詰めて、おそらくあと半時もすればこの船に並ぶ勢いだ。
「えい、忌々しい…! 汚らわしい英国の犬が…!! あのホークが生きていただと…!? 」
ウェイ・リーも側にいないばかりか、木村の代わりに連れてきた男は小心者で、怯えるばかりでちっとも役に立たない。
黒柳は腹立たしさから、さっきから引っ切り無しに感じている後頭部を中心とした馴染みの痛みにも気づかなかった。
手にしていた双眼鏡を床にたたきつけ、後ろにいる側近に何か言おうと振り返った時…足元が大きく揺れて、そのまま床にバッタリと倒れこんだ。
「御前…!?」
その頃、マレー号では…。
ドカン…! 突然の轟音とともに、船室が大きく揺れた。
夢うつつでまどろんでいたアスカは、慌ててベッドから飛び起きた。
怯えたようなリリアの悲鳴がこだまして…天井のシャンデリアの繊細なクリスタルが細かく震えると…アスカは大きく目を見開いて、周りを見渡した。
「お嬢様、いったい…!?」
真っ青な顔をしたリリアがアスカに縋りつくようにして二人が抱き合っていると、さらに2度目の爆音が弾けた。
部屋の船窓は黒い鋼鉄の鎧戸が下りていて、外を伺うことは出来ない。
ガタガタ震えるリリアの肩に手を回して、アスカも不安げにドアを見ると…不意にドアが開いて、年若い十代と思われる少年が入ってきた。
「閣下がお嬢様が心配していらっしゃるといけないからとおっしゃって、伝言を持って来たんです。今この船は敵の船と交戦中です。大砲の音が響いても心配しないようにおっしゃっています。」
アスカの不安げな顔を見て、少年はそう言って陽気に笑う。
「なあに、心配はいりませんよ。このアレクサンダー・マレー号は無敵なんです。間違っても相手の弾がこの船に到達することはまずありません…。その前に相手の船は確実に沈んでいますから…」
ほっそりとして背の高いハンサムな彼は、最後にもう一度とっておきの笑顔を見せて去って行った。
「まあ、驚きました。わたしも軍船に乗るのは初めてなんですよ。アレクサンダー・マレー号は商船か、豪華な客船だとばかり思っていたのに…大砲を積んだ軍船だったなんて…本当にびっくりです」
リリアはしばらく興奮した様子で喋り続けていたが、それから3度目の砲撃の音が響くことはなかった。
あの少年の言うとおり、戦いは思ったより呆気なく終わったのかもしれない。
アスカはぼんやりと部屋の中を眺めながら…自分がどうしてここにいるのかを考えていた。
リリアのことは覚えていた。記憶をなくす前から何度となく世話をしてくれたことも…。
意識を取り戻してからわたしはずっとこのベッドで眠っていたんだわ…。わたしの名前はアスカ…。
夢の中でもこのベッドに横たわっている時でも…不思議なくらい美しい瞳をした男性が何度もその名前をささやいていた。
その人の碧い瞳を見つめていると…苦しいほどの切なさを感じるのに…彼の名前も思い出せないなんて…。 きっとわたしは彼を愛していたんだわ…。なのに心のどこかでわたしは、彼と距離を置きたがっている。
どうして…? 愛していたのなら…何故素直にその胸に飛び込んでいけないのだろう…?
アスカは、彼女を見つめる彼の瞳に浮かぶ戸惑いにも気がついていた。
わたしだけではなく、彼の中にもひどく傷ついている部分がある。
わたしはいったい彼に何をしたの…!?
「リリア、教えて…。わたしは何をしたの…? どうして彼はあんなに辛そうな顔をしているの…?」
アスカの問いにリリアは困ったように小さく首を振る。
「わたしには何も答えられません…。お嬢様が早くお元気になって、また前のように微笑んで下さることをお祈りするばかりです…」
リリアはわたしのことも気遣ってくれるけれど…彼女の主人は彼なのだ。
彼の苦しんでいることをリリアが自分の口から語ることはないだろう…。
しばらくしてリリアが部屋を出ていくと…アスカは小さくため息をついた。
時々はまだ頭がボウーッとするけれど、少しづつ体調は確実に良くなっていた。
何となく部屋の中が明るくなっている気がして顔を上げると…さっきまで窓を覆っていた黒い板が取り払われて、船窓からは青い海原がのぞいていた。
さっきの激しい轟音が嘘のような穏やかな情景が広がっていた。
アスカはそっとベッドの下に足を下すと…おぼつかない足でフラフラと立ち上がった。まだ膝に力が入らなくてよろめくと…後ろから伸びてきた逞しい誰かの腕に抱き留められた。
「アスカ…!? 起きるのはまだ早いよ…。君は一週間以上眠っていたんだ…」
彼は支えるようにアスカの細い腰に手を回すと、そのままそっと抱き上げた。
「あ…ありがとう…。でも海がとてもきれいで…もっとよく見たかったの…」
「ああ…そうだね。とてもきれいだ…。わかった。もっとよく見せてあげよう…」
彼は一度アスカをベッドの端に座らせると、ベッドから上掛けをはいでその細い体をすっぽりと覆い隠す…。
そうしておいてからもう一度抱き上げて部屋の外へと連れて行った。
アスカは彼の喉元に顔を寄せながら…上品なコロンの香りと彼の男性的な香りを胸いっぱいに吸い込む。
言葉には出来ない安心感とその心地よさに酔いながら小さなため息が漏れるが、アスカはこれから自分がどこに連れていかれるのか、まったく見当がつかなかった。
しばらく彼の腕に揺られながら…やがて心地よい風が頬を撫でるのを感じて目を開けると…視界いっぱいに青い海原が現れて、アスカは驚きに小さく息を吸い込んだ。 水面には小さな白い波が太陽を反射してキラキラ輝き…水平線では白い鳥が群れている。
「どうだい…? 驚いたかい…? さっきはびっくりさせてすまなかった。もう終わったよ…。すべては終わったんだ…。君を苦しめたものはすべて海の底に沈んだよ…」
アレックスはそう言いながら、青い水平線のさらにその向こう…はるか先をじっと見つめた。
そう…終わったんだ…。
黒柳はわずかに抵抗したものの…呆気なく海の藻屑と消えた。
真横から打ち込んだ2発の砲弾は、正確に船の心臓を貫いた。
激しい爆発のあと…一瞬にして海に没した時に、黒柳の野望も消えたのだ…。
あまりの呆気なさにアレックスは拍子抜けしたが、今はアスカのことが気がかりだった。奴は死んでも、今なお黒柳の残した傷跡は大きな影を落としていた。
このままアスカの記憶が戻らなかったら…?
そう思うと、アレックスの心は引き裂かれそうな痛みを感じた。
確かにアスカは微笑んでくれる。だが決して彼女の口からアレックスの名前が呼ばれることはないのだ。
いつしか苦痛が顔に現れていたのだろう…アスカが心配そうに見つめながら、その細い腕をのばして両手でアレックスの顔を包んで自分の方に引き寄せ…そっと唇を重ねた。
慈しみと優しさを込めたこれ以上はないほどのキスだった。
熱い情熱が身体を貫き…一気に下半身が熱を帯びてくるが、アレックスは唇を噛んでこれに耐える。
アスカが欲しかった…。
すぐさまベッドに駆け戻って、この腕に抱き…すべての忌まわしい痕跡を消し去りたい…。
だが今のアスカは病気なのだ。すべての記憶が戻るまで、辛くとも待たねばならない…。
どんなにこの身体が求めようとも…野獣のようにアスカを求めることなど出来ない…。
アレックスはアスカを力強く抱きしめながら…指先で頬に掛かる髪をすくいあげる。
マレー号の甲板には多くのクルー達が働いていたが、みな自分たちの主人とその恋人の姿をわざと見ないように、一定の距離を置いていた。
時々年若い少年の水夫が好奇心に負けて、マストの影から振り返る。
すると近くにいた年配の水夫が、見るんじゃないというようにその頭を肘で小突いた。
『炎の果てに…横浜編』 END
『炎の果てに…ロンドン編』へ続く
横浜を離れて5日目…アスカは何度となく目覚めはしたが、また眠りにつくことを繰り返し…1時間起きていることもあれば、丸2日眠り続けることもあった。
相変わらず目を覚ましても意識は混沌としていて…いくら呼び掛けても微笑むだけで言葉を発することはなかった。
しだいに焦りを感じたアレックスは、このままアスカの意識がもどらないのでは…? と本気で心配し始めていた。
「何故…? 何故アスカの意識は戻らない…!? このまま彼女の意識が戻らな駆ったら…?」
「それは誰にも分らない…。おそらく何かの薬の副作用なんだと思うが…。黒柳が今までもさらってきた娘たちに薬を与えて、自由を奪ってはあちこちに売り飛ばしていたと聞いている。この数日のアスカの様子を見ても禁断症状らしきものは出ていないことから、使われた薬はそれほど危険のないものではなかったのかもしれない…」
「どうしてそう言いきれる…?」
どうしても納得のいかないアレックスは、ジャマールに詰め寄った。
「ああ…それは前にも麻薬の禁断症状で苦しむ連中をたくさん見てきたからな。それはよくわかる。だが薬の副作用には個人差があって、完全に体内から抜けきるまでには時間がかかる場合がある。彼女の場合もそうなのかもしれない…。それに薬を調合したあの木村という男なら、きっと何か方法を知っているに違いない…」
それもあの男が助かった時にはな…。
アレックスは喉まで出かかったその言葉を飲み込んだ。
木村はイェンの手で、領事館で面倒を見ることになっている。
あの男は、どういう了見か、メイファンの命を自分の意志で救ったのだ。
ならば…アスカに対しても何らかの配慮をしたに違いない…。今はそう信じたかった。
「ボス、左舷前方に船を発見! 大型船です…!」
見張りから連絡を受けて、操舵室に集まったアレックスたちは、双眼鏡をかざしてじっと前方の地平線辺りに目を凝らした。
すると…波間から確かに船らしき影が見える。
「コンウェイ、もっと近づくことが出来るか…?」
「お安い御用です。全速前進、左舷30度面舵いっぱい…!ヨーソロー! 」
コンウェイは、傍らのパイプのふたを開けて、太さ15センチくらいのパイプの空洞に向けて叫んだ。
パイプは船の最下層にあるボイラー室へとつながっていて、操舵室のコンウェイの声が直接届くようになっている。
「もう少し近づけば、相手がどこの船かわかる。黒柳は自分の旗を上げていると思うか…?」
アレックスは双眼鏡を覗いたまま…隣のジャマールに言った。
「ああ、たぶん。近くにフランス海軍がいるとしたら、奴は自分の存在を知らせなければならない…」
「それで連中に護ってもらおうって魂胆なんだな? それでもってオレたちには一杯食わそうってわけか、フン…! 汚ねぇ野郎だ…!」
ジャマールの言葉を受けて、コンウェイは両手で舵を操りながら悔しそうに悪態をつく。
「まあ、そう悔しがるな。それもフランス海軍が奴の思惑通りに動けば…の話だ。そうだろう…? アレックス」
「ああ…。我々はデュバリエを信用するしかあるまい…。どっちに転んでも、もう後戻りはできないということだ」
地平線を睨んだまま、アレックスはつぶやく。
「じゃあ、そろそろ」戦闘準備といきますか…?」
「ああ頼む」
コンウェイの弾んだ声にアレックスがうなずくと、コンウェイは愉快そうに笑う。
「イエス、サー!!」
コンウェイが操舵室の外に控えている副官に合図すると、またその副官が次の合図を出して、それに従って甲板の上にいた連中がバタバタと走り始めた。
「まあ、どうしたんでしょう…? 船がこんなに揺れて…何が始まるんでしょうか…?」
アスカにずっと付き添っていたリリアは不安げに船室の窓から外を見つめた。
ほんの半時前から、やけに船内が騒がしく、さっきから引っ切り無しに通路を行き交う足音が響いている。
アスカは何の反応もないまま…ぼんやりとベッドの上に座ったまま、窓の外を眺めていた。
すると突然、鈍い音とともに…窓の外側を覆うように黒い鎧戸が下りてきて、視界を塞いでしまう…。
「まあ…! まあ…!」
「そう驚きなさんな…! これからちょっとしたお愉しみが始まるんだ。時々派手な音もするが、この船はびくともしやしない…」
いつ入って来たのか、コンウェイが、入り口のドアにもたれかかるようにして笑っている。
「まあ、失礼な! レディーの部屋に入る時にはノックくらいするものだわ! それに旦那様の許可なしにお嬢様の部屋に入ることはなりませんよ…!」
リリアはコンウェイの姿を見るなり真っ赤になって怒り始める。
「いや、はや、大した剣幕だ。お嬢様もあんたに護られていれば大丈夫かな…? でもここにオレを来させたのはその旦那様なんでね。そのボスからの伝言だ。これから海戦に入るかもしれないが、心配することはないとのことだ。わかったかな…?」
真っ赤な顔をして睨みつけているリリアを面白そうに眺めながら、コンウェイは高らかに笑ってそれだけ告げると、来た時同様サッと素早く部屋を出て行った。
炎の果てに…。横浜編
激動の時代を強く生き抜く少女アスカの生命力の強さを時代を通して描きたくて書きました。ひたむきな少女アスカが自分の故郷である横浜で、英国の青年貴族であるアレックスと出会い、傷つきながら愛を深めていく恋愛物語です。時代背景はもちろんですが、文明開化後の日本…そして「ロンドン編」では、ビクトリア女王の君臨する華やかな英国の貴族文化にも注目して愉しんでいただけたら幸いです。書き始めたのは今から15年以上も前でしたが、「横浜編」からはじまって、アスカとアレックスの恋が完結する「ロンドン編」に至り、今では番外編であるジャマールの物語「砂漠の鷹」を執筆中であります。息つく間もない展開にハラハラしながら見守っていただけたら嬉しいです。