炎の果てに…。ロンドン編

アスカの生まれ故郷である横浜で芽生えたアレックスとの恋は、黒柳の陰謀を経て激しく燃え上がる…。
困難を乗り越えてついに黒柳の野望を打ち破った二人だったが、その代償も大きく二人の愛も深く傷ついた。アスカは記憶を失い…そのことがアレックスの苦悩を募らせていく…。そんな中、新たな事実が発覚して、二人の関係は大きく変わっていく…。そして物語の舞台はロンドンへと続いて…。
 再び新たな陰謀と命を狙う殺し屋の影がふたりに迫っていた。

プロローグ 1  英国領 香港 8月

 月日は、穏やかに過ぎていく…。
日本を出てから3週間目にマレー号は香港に寄港した。埠頭から桟橋が掛けられると、待ち構えていた港の水夫達が駆け寄ってくる。
 香港を主要な寄港地にしている船舶は多いが、その中でもマレー号はひと際目を引く。流線型をした最新型のボディーは貴族的な美しさの中に他の追随を許さない厳しさも合わせ持っていた。

「華やかな街ね…」
 船の最後尾に設けられた主寝室の窓から、アスカは賑やかな桟橋を見下ろしながらつぶやいた。
「ええ…香港は世界中の船の寄港地になっているんです。時間があれば、旦那さまが港を案内してくださるのでしょうけれど…」
 アスカが着替えのために脱ぎ捨てたドレスをたたみながら、リリアは残念そうに言った。
日本を離れた直後よりはアスカはずいぶん元気になって、最近ではベッドで過ごす時間も少なくなった。
 アレックスはアスカのために主寝室である自分のキャビンを明け渡し、自分は少し離れたジャマールたちと同じ、航海士のキャビンで寝泊りしていた。
 アスカの記憶は完全に戻ったわけではなかったけれど、アレックスと自分が以前はとても親密な関係だったということは感じていた。彼女を見つめるアレックスの悩ましげな眼差しや、彼に見つめられると…どうしようもなく反応してしまう自分の女の部分がそれを物語っている。

“ああ…なのに彼はどうしてあんなによそよそしい態度をとるのだろう…?”
 いつか甲板で激しい抱擁とキスを交わしてからというものの、アレックスはわざとアスカと距離を置いているように見えた。
 相変わらず物腰は穏やかで、誰よりも大切に扱ってくれる。でもアスカはそれがどうしようもなくもどかしく感じて仕方なかった。
 彼が優しく抱きしめて、軽く唇をかすめるだけのキスをする時、アスカは彼の細い金糸のような淡い色の髪に両手を差し入れて引き寄せ…もっと情熱的なキスをしたかった。
 その欲求を抑えるために拳を固く握り締めて、まぶたに浮かんでくる涙を、瞬きをして堪える。
 でも…時々偶然のように彼の腕や指先が胸の膨らみの横に触れたとき、悦びと同時に浮かんでくる恐怖にアスカは戸惑っていた。
 
ああ…彼に抱かれたいのに…わたしは何を恐れているのだろう…?

「ここを出たら宝龍島(ホウロントウ)は目と鼻の先ですよ」
 窓辺にたたずむアスカの背中に向かってリリアは微笑んだ。
「宝龍島…?」
「ええ…ここから数十キロ離れた東の海上に浮かんでいる島なんですけど、そこに旦那さまのお屋敷があって…。そこには特別なお客様しか招かないんです。そういえば、お嬢様のお知り合いもいらっしゃるとか…?」
「ええ…きっと…」
 アスカの記憶に、アンソニーの優しく穏やかな顔が浮かんでくる。アンソニー…。メルビルの父の甥で、従兄の彼は、子供の頃から兄のように優しかった。一緒に日本にやって来て、最後に言葉を交わしたのはいつだっただろう…? 日本を離れる前にひどい怪我をして…。アスカはその時のことを思い出して、ハッとして顔を上げる。
 
アスカが振り向いたのと、部屋のドアを乱暴に押し開けて3人の、ひと目で娼婦とわかる派手な女達が勢い良く室内に入ってくるのは同時だった。

 アスカとリリアが言葉をなくしていると、3人はずかずかと部屋の中に踏み込んで来るなり、無遠慮な眼差しで二人を一瞥する。

「アレックスはどこ…!?」
 中でも腰まで届く豊かな小麦色のブロンドを揺らしながら、大きく開いたドレスの胸元から溢れそうに豊かな乳房を、これ見よがしに見せている豊満な美女が、尊大な態度でアスカを睨みつける。

「あなた達はどなた…?」
 アスカの問いかけに一瞬、3人はポカン…と互いの顔を見合わせたが、すぐに甲高い声でゲラゲラと笑い出した。
「あたいらが誰だって…? 貴婦人でないことは確かさ。さあ、アレックスはどこなの? 前に来た時、アレックスとあたいたちはベッドで最高の愉しい時間を過ごしたんだ。もう一度そのお愉しみを再現しようって思ったって、罰は当たらないはずさ。それともあんたがここにいるってことは、あんたもアレックスの女のひとりかい…?」

「何て事を…! お嬢様はあなた達とは違うんです! ここにはだんな様はいらっしゃいません! さっさと出て行って!」
 リリアがアスカと女達の間に割り込むようにして立ちはだかると、アスカはホッとした。女達は下品な香水の香りをそこら中に振りまいて、来た時と同様嵐のような勢いで部屋を出て行った。



 アレックスは船が港に着いた時から、自分でもわけのわからない苛立ちを感じていた。数ヶ月前、ロンドンから密かな使命を受けて日本へ向かう途中…この港に立ち寄った時には、まさかこんな結果が待ち受けているとは思いもしなかった。
 尊大なホークそのままにこの香港に降り立ち、当時の香港総領事、マディソン・ウエントワースを更迭させたアレックスは、自分がこれほど誰かに心乱されるとは思わなかった。アスカはまさしくアレックスの世界を180度変えたのだ。
 数ヶ月前に、尊大で誇り高い英国貴族…シェフィールド公爵として訪れた英国総領事館の豪華な応接室で、今回アレックスは、今は代わって総領事になったウェントワースの副官だった男に、最新の報告書を託すとともに、細々とした指示を与えていた。

 「リチャード・クロスはウェントワースほど頭の回転はよくないが、誠実な男だ。今まであの男の下でよく我慢ができたものだ。
 すべての手続きを終えてクロスが執務室を出て行った時、ジャマールが感心したように言った。
「そうだろう? そもそも最初にウェントワースを告発したのは、彼だからな」
「だろうな…わたしもあの男には5分と我慢がならなかった」
 ジャマールが言っているのは、あのマレー号での最初の謁見のことだと思い出して、アレックスは苦笑する。前回ウェントワースがマレー号を訪れた時、アレックスは執務室に彼を1時間以上も待たせたのだ。その間ジャマールは副官として、アレックスの代わりにウェントワースの相手をさせられたのだが…。

「さて、これで香港での用事も終わったことだし、しばらくは宝龍島でのんびり出来るんだろう? 今回は君の旺盛な精力を満たしてくれる相手もいることだし…君自身も休養が必要だ」
 アレックスは黙ってうなずいた。今までのアレックスならひとつ仕事が終わるたびに、立ち寄った港で美女を買い、憂さを晴らすために酒と一時の快楽に溺れたものだ。だが今回は…。

 不意に浮かんできた少女のように無邪気に微笑むアスカの面影に、アレックスは息をのむ。禁欲に慣れていないこの身体が、どんなに求めようと、彼女がすべてを思い出し…心から彼を求めるようになるまで彼女に触れるべきではないのだ。
 まして他の女に慰めを求めるなどとても考えられない。
 アレックスの心の葛藤を知っているジャマールは、口元に笑みを浮かべたまま…張り詰めた表情のアレックスの肩を叩いた。

「まるで悩めるダンテだな…?」
「笑っているのか…?」
「いいや、感心しているんだ。数ヶ月前の君なら任務が終わるなり、最高の快楽に耽ることがお決まりのコースだった。それが今はどうだ?困難な任務をこなし息抜きが必要な今も、君はアスカを気遣い、必死に自分を抑えている。見事な自制心だと思っているんだよ。あの君がこれほど長く禁欲生活を続けられると思っていなかった…」
 「ああ…そうだろう。自分でも信じられないくらいだ。だがそれがどうした? 最初はおまえだっておれからアスカを遠ざけようとした…」
「ああ…そのとおり…」
 日本にいた頃、アスカに執着するアレックスに危機感を感じたジャマールは、策を講じてわざとアスカの方から離れていくように仕向けたのだ。もちろん、その考えが大きく変わったのもアレックスは知っているが…。

「だが正直言って君がここまで苦悩するとは思わなかった。どんなことにも試練はつき物だが、君ほど恋の悩みが似合わない男はいないだろう…」
 ジャマールの皮肉めいたジョークに、アレックスは低い笑い声を上げた。
 確かに…アレックスはこの年になるまで、恋愛沙汰で躊躇したことなど一度もなかった。
 もの心つく頃にはすでに、自分の持つ異性に対する魅力について知っていたし、自分から望まなくてもたくさんの女性達が進んで身を任せてくることもわかっていた。
 時には高慢なまでの態度で、並み居る美女達の投げかけてくる熱い視線をかわす事がほとんど習慣になっていたのだ。
 
あの生き馬の目を抜くといわれている王宮でも、あのビクトリア女王でさえ、彼には一目置く存在であると自負していたのだから、何という傲慢さだろう。

「それで、そのオレがただひとりの女に、あたふたしている姿は面白いだろう…?」
「アスカはただの女ではない…わかっているくせに…」
「ああ…そうとも…アスカは高貴で、気まぐれな美しい野生の雌豹のようだ。今は鋭い爪をどこかに置き忘れているが、そのうち目覚めてきっとオレの胸を引き裂くんだろうな…?」
 そう言葉に出して言ったとたんに、アレックスは胸を切り裂く鋭い痛みに呼吸が苦しくなってきた。

「だが野生の雌豹こそ、ホークに相応しいと思わないか? 君はアスカをロンドンに連れて行くつもりなんだろう? 彼女を公爵夫人にするために…」
「ああ…そうするつもりだった。だがそれが本当に正しいのかどうか、わからなくなってきた。アスカには…あの息苦しい世界は似合わない…」
「そうかな…? アスカなら君同様、どんな世界でもつくり変えてしまうエネルギーを持っていると思うが…?」
「ああ…そう信じることが出来ればな。あの黒柳の屋敷で再会して以来…オレにはそうとは思えなくなってしまったんだ…」
 目を伏せるアレックスに、ジャマールは問いかけるような眼差しを向ける。アレックスは、目の前の友の顔を見ずに叫んだ。

「ああ…おまえの言いたいことはわかっている! 何があってもおれはアスカを護るさ。あの狡猾な連中からでも…」
「そうさ…君は必ずそうするだろう。でもわたしは期待しているんだよ。君とアスカの関係は、きっと凍りついたわたしの心を解放してくれるんじゃないかってね…。」
 それを聞いて、アレックスはじっとジャマールの顔を見つめた。ジャマールに謎は多い。普段冷静でめったに感情を表に出さない副官が自分からこの問題を語ることはほとんど無いのだ。

「例の『禁断の誓い』を改めるということか?」
「さあ…だが長い間、自分に課してきた生き方を変える価値があると思えるほど、君達が分ち合っているものが素晴らしいと実感できればね…」
 謎めいたジャマールの瞳には、好奇心に満ちた温かい輝きがあった。その光の中にアレックスは、言葉にならない無言のメッセージを感じていた。
“二人の間に存在するものが真実の愛ならば、それを…身をもって証明して欲しいと…”
 その目を見つめながら、アレックスは黙ってうなずいた。








 
 それから1時間も経たないうちに、マレー号に帰り着いたアレックスは、再び大きな緊張を強いられることになった。桟橋から船の甲板へと飛び移った瞬間、何かがおかしいと感じたのだ。
 船の荷下ろしと物資の積み込みはすでに終わっている。アレックスとジャマールが戻ったらすぐに出発すると伝えてあったはずだが…?
 それが今は甲板には出航準備をする水夫はおろか、航海士の姿さえ見えない。

「連中はどうしたんだ!?」
 ジャマールもすぐこの異変に気が付いて、訝しげに辺りを見回した。いつもならアレックスの姿を見るとすぐ姿を現すコンウェイでさえいない。まさか、アスカの身に何かあったのでは…!?
  心配になったアレックスが船室に通じる扉を開けようと手を伸ばした次の瞬間、扉は反対側から勢いよく開いた。
 それから起こったことは、それまで微妙に保たれていたアレックスの自制心を完全に破壊した。
ドアの内側から飛び出してきた派手な格好をした3人の美女が、甲高い奇声を発しながらアレックスに飛びついてきたのだ。
「アレックス~! ああん…探したのよ! ねえ、またあの時みたいに愉しみましょうよ!」
 3人は豊満な胸をアレックスの腕や胸にこすりつけるようにして、甘ったるい声を出しながらアレックスを見上げている。アレックスは強烈な香水の匂いと…濃い白粉の匂いにめまいと吐き気を覚えた。とっさに3人の身体を引き剥がす。
 この女達は港の娼館の娼婦たちだった。中のひとりに見覚えがある。前に立ち寄った時、アレックスはこの豊満な美女たちを主寝室に招きいれ、3昼夜に渡って不埒な快楽に耽ったのだ。

「ねえ、ベッドにいたのは新しい女? あんな青臭い女のことは忘れてわたし達と愉しみましょう?」
 不意を突かれたアレックスはその言葉にキレた。彼女たちはアスカに会ったのだ。おまけにアスカのことを同類だと思っている…! 
 次の瞬間アレックスは怒り狂っていた。側にジャマールがいることすらすっかり忘れていた。

「船に女達を入れたのは誰だ!? 」
 まとわりつく女達を蹴散らしながら、船の操舵室に向かうと、階段の下で同じく娼婦のひとりと格闘しているコンウェイの姿を見つけた。コンウェイはアレックスを見るとすまなさそうに大きな身体をすくめた。
「すまない、ボス。どうやら港の連中が気を効かせ過ぎたらしい。ボスたちが出かけて1時間もしないうちに彼女たちがいきなり乗り込んで来たんだ。水夫たちはここ何ヶ月もご無沙汰だったんで、すっかりまいっちまったわけで…あっという間だったんですよ…」
 コンウェイの話が本当なら、誰かに襲われたわけではないのだ。香港に駐在させている部下が、ほんの少し気を回しすぎただけのことで、彼らはアレックスが今まで香港に着くたびにいつもしていることを前もって準備しただけなのだ。だが、今回は違った。今のアレックスに慰めだけを提供する女は必要ない。これからも…。
「すぐに女達を船から追い出せ! 愉しみたい奴は娼館に行って来い! ただし3時間だけだ。3時間後には出航する。時間に遅れた奴は置いていく…」
「了解…!」
 アレックスの言葉を受けてコンウェイが行動を起こすと、アレックスの怒りは現れた時と同じようにスッと消えていった。

「アレックス、アスカのところへ行った方がいい…」
  そういわれて初めて隣に立っているジャマールに気がついた。
「彼女達を見てアスカが動揺していなければいいが…。記憶を無くしていてもアスカは君のことを愛している。それに思い出して欲しくないこともある…」
 一時ではあれ、アスカが娼婦だったことを言っているのだろう。どう呼ばれようと、アスカがアレックス以外の男に身体を許したことはない。アレックスに出会うまで、アスカは間違いなく処女だったのだから…。だが黒柳の元ではどうだったのか…?それはアスカの記憶が戻らないかぎり誰にもわからないのだ。
 またしても想いがそこに行き当たったことに、アレックスは苛立つ。

「アスカはオレが守る…なにがあってもだ…」
 アレックスは強い口調で言い放った。







 女たちが去ったあと、アスカは力が抜けたようにソファーの上に崩れ落ちた。
ショックだった…。アレックスがかつて娼婦を求めたことよりも、彼女達…娼婦である女たちが持っている何かに激しく反応している自分に驚いていた。
“わたしは知っている…。彼女たちが全身で発している哀しいオーラを、わたしは知っている…! わたしは…娼婦だったの…!?”
 そう思うと全身が泡立ち、冷たい汗が噴出してくる。額から血の気が失せ…冷たくなった指先が小刻みに震える。膝の上にきつく握り合わせた両手の上に涙がこぼれた…。
 アレックスのことを完全に思い出せないまでも、彼のことはひと目見た時からこころ惹かれた。たとえもう一度生まれ変わったとしても、また出会いたいと思うほど、アスカは彼のすべてに魅せられているのに、こころのどこかで自分は、彼には似合わないと思っているのは何故だろう…?

 アスカという名前と、メルビルというアメリカ人の養女になってサンフランシスコに渡ったということ以外は、何一つ思い出せないのだ。無理に思い出そうとすれば、激しい頭痛が彼女を襲った。

「まあ、お嬢様、なんていうことでしょう…! きっとあの海賊上がりのコンウェイがあんな下品な女たちを呼んだに違いないんです」
 アスカが両手でこめかみを押さえてうつむくと、リリアが心配そうに覗き込む。

「大丈夫よ。まだ何かを思い出そうとすると激しく頭が痛むの…」
「ええ…そうでしょうとも。ずいぶん元気になられたとはいえ、まだお嬢様は病気なんです。しっかりお休みにならなければ…」
 リリアの手を借りてアスカはベッドに横になると、そこへアレックスが入って来た。アレックスは見たことがないような立派な服装をして、黒い上質な上着は驚くほど端正な顔立ちをさらに引き立たせている。首に結んだクラバットにはダイヤモンドのピンが煌いていた。だがこの時のアレックスはひどく疲れた様子で、頬にかかる長めのプラチナブロンドをもどかしげに指先でかきあげた。
 リリアはアレックスを見ると、一瞬非難めいた眼差しで主人を見返したあと、軽く腰を屈めてあいさつして部屋を出て行った。

「どうやらリリアに嫌われたらしいな…。さっきは嫌な気分にさせてすまなかった」
 アレックスは上着を脱いで、傍らのイスに無造作に放り投げ、クラバットを首元から引き抜いてその上に放った。シャツのボタンを外して首元を自由にすると、日焼けした逞しい胸元がのぞいて、アスカは思わず息をのむ。呼吸が早くなって視線がそこから離れなくなる。指先で彼の素肌に触れたくて仕方なかった。褐色のなめらかな固い筋肉に手のひらを這わせるその感覚が、鮮やかに蘇ってきて、アスカは困惑した。
 アレックスは困ったように微笑みながらベッドの端に腰を下ろした。

「君もボクが欲しいんだね…? ボクが君を求めるように…でも今はだめだ。君がもう少し元気になるまでは…」
「教えて…わたしたちは恋人同士だったのね?」
 アスカは切なる想いを込めてアレックスを見つめた。
「ああ…そうだよ。ボクは君を愛している。そして君も…ボクを何度も受け入れてくれた…」
 アレックスの欲望に煙る瞳がきらりと光る。彼の視線が自分の唇に止まるのを感じて、アスカは自分の下腹部の辺りがジン…と熱くなるのを感じた。

「ではどうしてそんなに哀しそうな顔でわたしを見るの? わたしが娼婦だから…?」
「君は娼婦なんかじゃない…!」
 アレックスは即座に言い返すとアスカをその胸に強く抱き寄せた。その言葉がアスカの口から飛び出した瞬間、アレックスは殴られたような衝撃を感じた。
“アスカが娼婦だって…!? いったい誰がそんなことをアスカに吹き込んだのだろう!? マレー号の誰かか…? いや、違う。船に乗っている連中はアスカがどういう女性か知っている。彼女がどんなに美しく、勇気のある女性だということも…。きっとさっき不埒にも船に乗り込んできた港の娼婦たちに違いない。だからさっきリリアはあんなに非難めいた目で見ていたのだろう…”
 すべての疑問が解けると、アレックスは大きなため息を漏らした。

「許して欲しい。君を侮辱したのなら…彼女たちは何でもない。二度とここへ来ることはないから…」
「ええ…」
 アスカはホッとしたようにうなずいた。アレックスの手を借りてベッドに横になりながら、無邪気に彼を見上げて微笑む。その安心しきった穏やかな表情に、アレックスの胸は高鳴った。いけないと思いながら…そっとばら色の唇に自分の唇を重ねる。徐々に高まっていく欲望に身を震わせながら…必死で暴走する欲望の炎を押込めた。
「さあ、ゆっくりおやすみ…。今度君が目覚める頃には宝龍島が君を迎えてくれる…」

プロローグ 2 宝龍島(ホウロントウ)~記憶のかけら

 船の帆先は追い風を受けて、真っ直ぐ目の前にある島へとすべるように進んでいく…。
香港の沖合数十キロに浮かぶ孤島『宝龍島(ホウロントウ)』は、まさしく龍が棲むに相応しい姿をしていた。 
 船の正面から見ると青黒く見える島の前面は、雄々しい龍が頭をもたげて大きく口を広げているように見える。

「見てごらん…」
 アレックスが指し示す方に目を向けると、まさに今沈もうとする太陽が、大きな岩の突き出た頂に差し掛かった瞬間、龍の大きな口が宝玉のように輝く太陽を飲み込もうとしていた。
「美しいわ…」
 マレー号の先端の手擦りにもたれかかりながら、アスカは溜息を漏らした。ウエストを支えるように後ろからアレックスの両手が添えられている。そっと背伸びをして彼の肩に頭を乗せると、彼の吐息がアスカの髪を揺らした。

「宝龍島はボクの夢の島だ…。きっと君も気に入るよ」
 心地いいバリトンの響きにうっとりしながら…アスカはもう何も考えられなくなっていた。
頭のどこかで小さな警笛が鳴っていたが、わざと無視した。
 今アレックスの腕の中で、これ以上はないほどの幸せを感じているのに、どうしてそれに身を任せてはいけないのだろう。
 何かを言おうと開きかけた唇をアレックスの唇が覆う。背後を染める真っ赤な夕日の中に二人のシルエットがピッタリと寄り添って…徐々に炎の中に溶け込んでいくかのようだった。

  宝龍島…。
 アスカにとってそこは見るものすべてが驚きの連続だった。
まずは島の内海にあたる港の壮麗さに驚かされた。島の外側から見えた荒々しい外観とは真逆で、あの竜頭岬といわれている大きな岩山に沿った水路を回って、さらに狭いところをくぐり抜けると…びっくりするほど設備の整った埠頭が現れる。
 決して広くはないが、マレー号くらいの船でもらくらく停泊することが出来る大きさがあった。
おまけにここが島とは思えないほどの船があって、陽が落ちたとはいえ多くの人々が意気揚々と働いている。

 マレー号のイカリが下ろされ、埠頭から船のデッキに長い桟橋が掛けられると、歓声を上げながら多くの水夫たちが乗り込んで来た。
 彼らはマレー号のクルー達と抱き合いながら再会を喜んでいる。
 そして船長のコンウェイの姿を見ると、サッと敬礼の姿勢を取ってすぐさま仲間の手伝いに入った。

 アスカはアレックスに手を取られながら、桟橋を渡って埠頭に足をおろした。
 港にいた男たちは主人が下りてくると、皆1列になって出迎える。

「やあ、ウォーレン。ここは何も変わらないようだな?」
「はい、旦那さまがお出かけになられたそのままです」
 列の最前列に立っていたこめかみに少し白いものが混じった、日焼けした東洋系のがっしりとした体格の男がにっこり笑って頭を下げた。

「客人は元気か?」
「はい、レディはもちろんのこと、メルビル卿も驚くほど元気になられました。数日前に入れ替わりで、ロンバート卿のご家族は日本に向けて出発されましたが…」
「ああ、香港で聞いている。3週間後にはハリスとも会えるだろう。アンソニーもすっかり元気になったようだ。ここには貴蝶もいる。すぐにでも会えるよ。ウォーレン、彼女はメルビル卿の従妹でアスカだ。しばらく滞在するから、港での警備は今までどおりよろしく頼む…」
「かしこまりました」
 ウォーレンはもう一度、ふたりに丁寧にお辞儀をしてその場を後にした。

 二人が埠頭の端に待つ鹿毛の4輪馬車に乗り込むまで、両端に並んだ人垣は途切れることはなかったが、アスカはそこに並ぶ人々の髪の毛や肌の色が様々なことに気が付いた。
 もちろん、土地柄で中国系の東洋人が多いのだが、それに混じって、白人や肌の浅黒いトルコやインド系…中にははっきりとアフリカ系とわかる黒人の姿もある。

「彼らは、もとは虐げられた奴隷だった。動物以下の扱いを受け、自分の意志で生き続ける自由も、まして故郷に戻る自由さえなかった。」
「それであなたが彼らを…?」
「人間は本来みな自由であるべきだ。生きて死ぬ権利がある。ボクはそれにほんの少し力を貸しただけだ。そして奴隷船を襲って、帰る場所のない者たちに家を与えた」
 馬車は灯りの瞬く賑やかな通りを抜けて…石造りの小さな家が両側に立ち並ぶ石畳の続くなだらかな坂を上っていく。
家の前には住民たちが道路脇に立って、馬車が通り過ぎるたびに手を振る者や、深々と頭を下げる者がいた。

 ある家の前では幼い女の子が小さな花束を持って手を振っている。
アレックスはその子の前で馬車を止めさせると、ドアを開けて半身乗り出してその小さな花束を受け取った。
 そのあまりに自然な仕草にアスカは驚いた。

 再び馬車が走り出して…“これは君に…” 優しく微笑んで花束をアスカの手の中に置く。
ここまででアスカはアレックスのいろいろな面を見てきた。
 日本にいた頃やメルビルの両親のこと…そしてもうすぐ会える貴蝶のことも、今ははっきりとわかる。
あの初めて出会った時の彼がどんなに傲慢だったか、アスカは思い出した。
 薄紙をはがす様に少しずつアスカの記憶は戻りつつあったけれど、依然として空白な部分もあった。
アレックスがアスカの恋人であり、情熱の中でその腕に抱かれた記憶もおぼろげながら思い出せるのに、自分の中でポッカリと抜け落ちた部分だけは、どうしても思い出すことが出来なかった。
 無理に思い出そうとすると、その度に激しい頭痛に襲われた。まるで思い出すのを拒んでいるかのように…。

「どうした? いやに静かだね? 何か気になることでも…?」
「いいえ、でも何となく不安なの。すべてが思い出せているわけではないから…」
「無理に思い出す必要はないよ。ボクが君の恋人であること…。それさえわかっていてくれるなら…ボクは満足だよ。ここには君を傷つけるものは何もない」
 ウエストにまわした手で、アレックスはアスカを抱き寄せた。
 彼女が不安に思うのも無理はない。これから行く先はアスカにとっては、初めて行くところばかりだ。
 もうじきアンソニーと貴蝶に会えるとはいえ、その彼らでさえアスカの身に起きたことは何も知らないのだ。
すべてをわかっていて、アスカを守れるのはアレックス以外にはいない…。





 丘の上に建つ白い石造りの屋敷はとても見事だった。見た目は屋敷というよりは、英国の古い要塞のように見えるが、羽板板の代わりにフランス製のステンドグラスがはめ込まれた窓は、壮麗で美しかった。
 馬車が正面玄関に着くと、港同様玄関ポーチに一列に使用人達が並んで、アレックスが馬車から下りるのを待っていた。

「ロドニー、前から言っているが、こんな仰々しい出迎えは要らないよ…」
 アレックスは下りてくるなり、最前列に居る老紳士に声を掛ける。
「ですが、旦那さま…。旦那さまがこのお屋敷にいらっしゃる間は、出来るだけのことをしてお迎えしたいというのは、ここに居る者たちすべての共通した意見ですので…」
 きっちりとしたお仕着せに身を包んだ白髪の執事は、人の良さそうな笑顔を見せて言った。

「やれやれ…ボクのまわりの連中はみな、必要以上にボクを崇め奉りたいらしいな…。だが、もうこれっきりにしてくれないか? ここでは普通の人間として思いっきり羽を伸ばしたいんでね…」
「かしこまりました。旦那さま」
「それじゃあ、メイド頭のスーに言ってアスカを部屋に案内してくれないか? きっと長旅で疲れているだろうから…」
 開かれた扉の奥へとアスカをエスコートしようと、アレックスが身を屈めた時、誰かが慌しく階段の上で身動きするのが見えた。

「アスカ…!?」
 貴蝶だった。淡いライムグリーンのドレスを着て、美しい黒髪を緩やかに結い上げ、一部を両肩に垂らした貴蝶はとても若く見えた。

「貴蝶姐さん…!」
 階段を下りてくるのを待ちきれずに、二人は階段の途中でしっかりと抱き合った。
「ああ…本当にアスカなのね? もうどれだけ心配したか…。日本を離れてからは、あなたのことが気になって、夜も眠れなかったほどよ。アンソニーだって、あなたのことをどんなに心配していたことか…」
 貴蝶の言葉を聞いて、頭を上げたアスカは、その後ろに微笑みながら立っているアンソニーの姿を見つけた。
「アンソニー!」
アスカは小走りに駆け寄る。アンソニーは両手を広げてアスカを迎え入れた。前と変わらず、ハンサムな顔に浮かべた優しい微笑は、ひどい怪我を負っていたようにはとても見えない。

「もうすっかり良さそうだな、アンソニー!」
「ああ、君のおかげだ。君が居なかったら叔父の無実を晴らすことは出来なかった」
 アスカのあとから入って来たアレックスと、アンソニーがしっかりと両手で互いの手を握り合うと、アンソニーの目に微かに涙が浮かんでいるのがわかった。

「もう何も心配することはない。すべては正されたんだ。日本での後始末はすべて岩倉卿が行ってくれる。君は一刻も早くアメリカに戻って、叔父上の事業を引き継ぐことだ。すでに本国への報告書は送ってある。英国でのメルビル商会の名誉もすぐに回復するだろう」
「ありがとう、何とお礼を言っていいか…」
「それには及ばない。前にも言ったが、この件はボク自身に課せられた任務でもあり、自ら望んでしたことだと言っておこう。もちろん、思いがけない発見もあったが…」
 アレックスがちらりとアスカを振り返ると、その眼差しにアスカは真っ赤になったが、その様子を貴蝶は微笑みながら見つめていた。

「さあ、こんなところで立ち話もなんだからまずは落ち着いて、それから楽しい晩餐といこう。きっと君たちには聞きたいこともたくさんあるだろうから…」
 陽気に雰囲気を盛り上げながら、アレックスはアスカの腕を取って階段を上り始めた。アスカはただ黙って彼に従った。ケガをしたアンソニーも元気になり、あの貴蝶もここに居る。何もかもが元どおり、まるで何もなかったような気さえしてくる。
 おまけにアレックスはアスカをとても大切に扱ってくれる。まるで壊れやすいガラスの人形を扱うように…。


 アスカの部屋は南に面した明るく大きな部屋で、柔らかな色調のソファーのある居間と続きになっている寝室には、天蓋付きの大きなベッドが置かれていた。どちらの部屋にも美しい装飾の家具類があって、落ち着いた雰囲気を醸しだしている。
 アスカは広いクイーンサイズのベッドに腰を下ろして一息つくと、再び頭の中にむくむくと疑問が湧いてくる。
“これって…何かおかしくない…? ”
 日本にいた頃は、アレックスがとても情熱的な恋人だったことはわかっている。なのに今は距離をとって、アスカが病気のうちはそういう関係にはならないと言っていた。
“病気って何…? 彼は何を隠しているの…?”
 そう思い当たったものの…それが何なのかアスカにもわからなかった。
“それはアレックスだけ…? それとも貴蝶姐さんもそうなのだろうか…?”
 新たな疑問が次々と浮かんできて、アスカは息苦しくなる。もう耐え切れなくなったときに、荷物を抱えた使用人を従えたリリアが部屋に入って来た。

「まあ、何て蒼い顔をしていらっしゃるんでしょう…!?さっそく入浴の準備をしなければ…」
「いいのよ、少し疲れただけ…。それよりベッドでしばらく横になりたいの。かまわないかしら…?」
「もちろんですとも…夕食は2時間後と聞いています。用意の時間も含めてその前に起こしに来ますから、安心して横になってください」
 こんな時気心の知れた侍女がいることは有り難い。実際リリアは、アスカにとっては親友のような存在なのだ。
 アスカが服を脱いでベッドの横になるのを確認してから、リリアは控の間で待っていた使用人達に指示を与えてから、またそそくさと部屋を出て行った。




 すっかり陽の落ちた港を見下ろすように書斎の窓辺に立っていたアレックスは、遠慮がちなノックの音に振り向いた。
「アレックス、君がボクに何か言いたいことがあるんじゃないかと思って…」
 アンソニーは中に入ると、音もなくドアを閉めて…ゆっくりとアレックスに向き直った。問いかけるようなその眼差しにふっとアレックスは詰めていたいた息を吐く…。アンソニーには香港から一足先に手紙でアスカの近況は報せてあった。事件は解決したが、アスカは一時的に記憶喪失になり…今は回復しつつあるものの、彼女が自分から思い出して話すまでは何も聞かないでほしいと、アレックスは伝えた。
 アンソニーや貴蝶にとってもアスカは大切な存在だ。彼女の身に何があったか…知りたいと思うのは当然のことだろう。さっきの対面の場面で、二人が何一つ問いかけることなくアスカを迎えてくれたことにアレックスは感謝した。

「感謝しているよアンソニー、さっきはアスカに何も聞かないでくれて…。アスカにはまだ事実に向かい合う覚悟が出来ていない」
「事実とは何だ…? アスカは黒柳に一時囚われていたと言ったな? 黒柳はアスカに何をしたんだ…!?」
 しばらくの沈黙が流れた…。

「アスカは自分から黒柳のところへ行ったんだ。怪我をして倒れたボクを守るために…そしてメイファンを助けるためだった…そしてアスカは…」
 そこでアレックスは口を噤む。
「その先…アスカの身に起こったことは、アスカにしかわからないんだ。そしてアスカはそれを思い出すことを拒んでいる。アスカの記憶が戻らないのは、アスカがそのことを思い出したがらないからだとジャマールは考えている。時間が経てば徐々に記憶は戻るだろうが、その時きっとアスカはひどく傷つくはずだ」
「黒柳がどんな人間かはよくわかっている。奴がアスカをひどく傷つけたと君は考えているんだね…?」
 アレックスは黙ってうなずいた。あの暗いホールのステージの上で…煌くティアラを頭上に戴いて…両手を戒められたアスカの姿を見たのだ。何もなかったとは信じられない。あの場で黒柳を殺したいという衝動を抑えるのは並大抵なことではなかったことを思い出して、アレックスは再び呼び起こされた激しい怒りに拳を固く握り締めた。

「君の言いたいことは良くわかったよ。アスカが自分を取り戻すまでは、ボクは何も言わないことにするよ。貴蝶だってわかっている。彼女はアスカの最も身近な理解者だから…」
 アンソニーの言葉の中で貴蝶の名前を語る時、何かとても優しい響きがあることをアレックスは気が付いた。

「君はこの島での滞在時間を有意義に過ごしたようだね? 」
 アレックスの含みのある言葉にアンソニーは真っ赤になった。
「貴蝶は素晴らしい女性だよ。彼女が今までどんな運命を生きて来ようと関係ない…。ボクは彼女をアメリカに連れて行って幸せにしてあげたいと思っているんだ」
「ああ…君たちなら上手くやっていけるだろう。それに貴蝶は岩倉卿の異母妹だ。語学に堪能で、教養もある。きっと岩倉卿も喜んでくれるよ」
「よかった。君がそう言ってくれると嬉しいよ。ボクは何年も叔父の会社で働いて外洋にも出かけているけれど、日本に行ったのはあれが初めてだったんだ。文化のことも、まして政治のことはわからない。岩倉卿がどんな人物かもわからないんだ…」
 アンソニーの不安な顔を見てアレックスは微笑んだ。

「岩倉卿は高潔な人物だ。黒柳に侵食された日本の政界を必ず正してくれるだろう。貴蝶のことも誰よりも気にかけている。その貴蝶が君を選んだんだから、きっと岩倉卿も君を気に入ってくれるよ。何ならボクが推薦状を書いてもいい…」
「ああ、君にそう言ってもらえたら言うことはないよ。君のことは誰よりも信頼している。最初君はボクたちアメリカ人を騙していると、領事館で散々聞かされたんだ。」
 うんざりしたようにアンソニーは首を振る。日本に着いてすぐアメリカ領事館に呼び出されたアンソニーは、そこで厳しい尋問を受けて負傷したところをアレックスに助け出されたのだ。

「連中は言っていた。実業家とは名ばかりで、じつは君は英国女王の忠実な犬で、英国の利益のためなら平然と人殺しもすると…」
 それを聞いてアレックスは笑い出した。
「ハハ…そのとおりだ。ただしボクが命を奪うのは極悪非道な悪人だけだ。黒柳のような…」
「ああ…今ならわかるよ。ここに来て君がどんな人物かわかったんだ。この島の連中はみんな君を崇拝している。誰に聞いても君は神のような存在だと言う。自由に動けるようになって初めてわかったんだが、ここにはありとあらゆる人種の人間が集まっているような気がする…」
「ああ…そのとおりだよ」
 
この宝龍島はいわば治外法権になっている。香港における英国の影響力を重視したうえで、アレックスの持つ地位や権力、財力を最大限駆使して作り上げたアレックスだけの王国なのだ。
 ここに集まって来ている人々は、遠い故郷から騙されて連れて来られた奴隷たちであり、仮に自由になっても行き場のない人たちだった。アレックスは彼らに自由と庇護を与え、生きる希望を与えた。
 英国ではシェフィールド公爵として一目置かれるアレックスも、ここでは素のままでいられる。本国に帰れば多くの責任と重圧が待っているのだ。せめてここにいる間だけは肩の荷を下ろして自由でいたかった。アレックス自身も、領主と領民ではなく…ただの人間として彼らと接していたいのだ。

「ここでは誰も自由だ。階級も人種もない。他人の命や自由を脅かさない限り、罰せられることもない…」
「まさに彼らにとってここはパラダイスに違いない。それは君にとっても重要なんだろう?」
「もちろん、ここではボクはシェフィールド公爵でもなく、危険なホークでもない。ただのアレックスだ」
「ああ…そうだろうな。ここは自由に満ちている。ここならアスカも安心して心の傷を癒すことが出来るだろう。そばに君がついていることだし…」
 アンソニーの目にはアスカを気遣う優しさが溢れていた。日本に来る前にアレックスが手にした調査書の中には、彼はいずれアスカを妻に迎えてメルビル商会を引き継ぐ予定であると記されていた。ここ宝龍島で貴蝶と出会ったことで、アンソニーの将来に対する考えは大きく変わったのだろう。それでも彼のアスカに寄せる気持ちの重さは、質こそ変わってしまったが中身は何も違わないはずだった。

「アスカを英国に連れて行こうと思っている。君も知っていると思うが、アスカの父親は英国人だ。それもかなり力のある貴族だと思う。ボクならそれを突き止めることが出来る」
 壁に据え付けられたオイルランプが二人の顔に浮かんだ微妙な表情を照らし出す。大きなマホガニー製のテーブルを挟んで二人は見つめあった。
「アメリカにいる叔母は…アスカの母親はそのことをひどく気にしていた。外国にいるという彼女の本当の父親が、いつかアスカを探し出して、自分達の手元からさらっていくのではないかとね。7年前、アスカを養女にしたとき、叔父夫婦はアスカが混血だということにすぐ気が付いた。おまけにその時アスカが身につけていたペンダントはとても高価なものだったから…遠い昔に去って行ったという父親が、とてつもなく高貴な人物だったに違いないと思ったんだ…」

 “ペンダント…? ”
 アンソニーの言葉を聞きながら、アレックスは出会ってから今までのアスカの様子を思い描いてみた。ドレス姿も見たし、もっと親密な雰囲気の中で一糸まとわない姿も見ている。母親の形見と言っていい香りのする匂い袋を大切に持っていたことは覚えているが、そんな高価なペンダントを身に着けていた記憶は無かった。

「それが本当ならきっと彼女の父親を探す手がかりになるはずだが…」
「ああ…君なら必ずそれを突き止めることが出来るだろう。だが約束してくれないか…? アメリカにいる気の毒な叔母から娘を奪ったりしないと…」
 アンソニーの表情は真剣そのものだった。アレックスだってそんな気はもうとうなかった。

「もちろん、そんなことは望んでいない。ボクは彼女の出自をはっきりさせた上で、アスカを正式にボクの花嫁に迎えたいだけだ」
「アスカを公爵夫人に…?」
「ああ…彼女は女性にしておくのがもったいないくらいの勇気がある。ホークの花嫁には相応しいと思わないか?」
「もちろん、思うよ。素晴らしいニュースじゃないか! 君はアスカと…ボクは貴蝶と結婚するんだ…!」
 アンソニーは素晴らしいアイデアを思いついた少年のようにキラキラと瞳を輝かせて、アレックスの手を固く握り締めた。
 アンソニーは無邪気に喜んでいたが、アレックスに限ってはそう簡単にはいかないこともわかっていた。今では滅多に彼自身、自分の領地に戻ることはなかったが、そのためにはそこに待つ不愉快極まりない事実にも対処しなければならない。今までわざと目を瞑ってきたこと…不実な母親や常に財産を狙っている身内連中にも正面から向き合うことになるのだ。
 あの窮屈な社交界にアスカを連れて足を踏み入れることを思うと、寒気すらしてくる。
 そして今は何よりもアスカのことが気掛かりだった。ある日突然、アスカの記憶が戻って、忌まわしい記憶がアスカの繊細な心を粉々に破壊してしまうのではないかと思うと…ひどく心が痛んだ。銃に撃たれた傷など痛みのうちに入らないくらいに…。

「アレックス…?」
訝しげなアンソニーの声で、アレックスは自分がぼうっとしていたことに気が付く。
「すまない、何だったかな…?」
「アスカの状態が落ち着いたら、貴蝶を連れて一度日本に戻って、岩倉卿にあいさつしてからアメリカに発ちたいんだ。賛成してくれるかい…?」
「もちろんだとも。ボクからも手紙を書こう」
 そう言って再びしっかりと握手した。








 



 宝龍島についてからの1週間は驚きの連続だった。屋敷の中でも外でも、出会う人の表情は明るく屈託がない。アレックスもここでは今まで見せたことがなほどくつろいだ表情をしている。
 島の人々はみな彼を神のように崇め、その姿を見かけると、どこからでも飛んできて話をしたがった。アレックスもそれに寛大に応え、分け隔てなくどんな些細な相談にも耳を傾けている。
 その端正な顔立ちの中で、普段は冷酷に見える口元が、とても魅力的なカーブを描くのをアスカはうっとりと眺めていた。陽に焼けて所々金色の筋の入った白に近いブロンドの髪は、潮風に吹かれて肩先に揺れていた。
 島についてからのアレックスは、素肌の上に麻のシャツを着て、シンプルなズボンを身に着けるなど、港で同じ年頃の若者に交じっていると、とても名のある公爵には見えなかった。それでも肩幅の広い見事な体躯と背の高い細身のシルエットは、間違えようもなかったけれど…。

 アレックスは用事のある時以外は、毎日のようにアスカを外へと連れ出した。馬に乗せて港の朝市に出かけたり、島の高台にピクニックに行ったりと、いつもピッタリと寄り添いながら細やかな気遣いを見せている。
 それにとても満足しながらアスカは心のどこかで、それと同じくらいの物足りなさも感じていた。アレックスとのふれあいはいつも心地よくて、手を握り合った感触や、唇への優しいキス…胸に抱き寄せられた時にかすかに感じる高級なコロンに交じった彼の男らしい香りは、いつでもアスカをうっとりとさせた。
 でもそれだけでは足りないのだ。いつかマレー号の甲板の上で、狂おしいほどに抱きしめて荒々しい欲望をむき出しにして唇を奪ったアレックスの…あの熱い情熱の向かう先をアスカは知っている。
 記憶は失われても、アレックスとの間にあった情熱の絆は失われていなかった。なのに今の彼はわざと何事もなかったように振舞おうとしている。
“何故なの…?”

 今日のアレックスは島の男たちに交じって、浜に仕掛けられた流し網を引き上げようとしていた。自給自足の生活をしている彼らは、3日に一度の割合で漁師の仕掛けた網を早朝から島の男達総出で引くのだ。そこには子供から年寄りまでいて、身分はおろか人種の差などひとつもなかった。
 アレックスがこの島を訪れるのは多くて年に1度だけだが、ひどいときには何年も立ち寄れない時もある。それだけに島にいるときは出来るだけ彼らと行動を共にすることにしていた。
 漁師の掛け声に合わせて1時間も引き続けると、水際に魚達の跳ねる銀色のシルエットが見えてくる。すると綱を引く男たちを取り囲むように見物をしていた女たちや小さな子供達からいっせいに歓声が上がった。

「まあ、すごい…!」
「そうでしょう…? だんな様はこの瞬間が一番好きだとおっしゃっていましたよ」
「わかるわ…」
 女たちの列に交じってリリアとこの様子を眺めていたアスカは、自分も一緒になって興奮していたことに気が付いた。あすかたちの目の前で次々と網は引き上げられて、たちまちあたりは大興奮の渦に包まれる。
 人々は皆引き上げられた魚を見ようと網の廻りに集まり、アスカは彼らから少し離れて、人ごみの中にアレックスの姿を探した。アレックスは年配の日焼けしたがっしりとした体躯の男と肩を叩き合いながら、ゆっくりとこちらに向けて歩いていた。
 肩までのプラチナブロンドは襟足で括られ、長い前髪が汗で濡れて頬に張り付いている。腕まくりをした麻のシャツは、胸元を大きく開いて汗の滴る日焼けした肌を輝かせていた。
 アレックスが通り過ぎるたびに若い娘がうっとりとした眼差しでその姿を見つめ…若い娘に限らず誰も彼もがこの魅力的な若い領主に魅了されていた。天性の美貌と途方もない富と権力を持ちながら、ここでは無邪気な青年の顔を持つ彼に…。

「アスカ…」
 アレックスは真っ直ぐアスカのところへやってくると、その手を取ってキスをした。
「どうだった…?」
「とても興奮したわ…こんな経験をする機会はめったにないんですもの。早起きをした甲斐があったわ」
「それはよかった。ボクはここに来るたびに必ず一度は参加するんだ。彼らの生活を知るたびに、何か足りないエネルギーをもらっている気がするよ」
 手にした日傘をほんの少しずらして、アスカは眩しそうに微笑むアレックスの顔を見上げた。その瞬間、彼の碧い瞳に魅せられたように身動きできなくなる。しなやかな指先がアスカの唇をなぞったあと、軽いタッチで唇が重ねられ…離れた瞬間に大きく息を吐く。自分が息を止めていたことにも気付かなかった。

「さあ、馬車を待たせているから一緒に帰ろう。汗をかいたから着替えなければ…」
 アレックスに手を取られて離れた場所に停まっていた馬車に乗り込むと、中にはリリアが待っていた。リリアにアスカを託して一度馬車を離れたアレックスに、従者のブレンが大きな黒い牡馬の手綱を引いて近づいてきた。ブレンは先に手にした清潔なリネンをアレックスに手渡して主人がそれで汗を拭くのをじっと見守った。 
 
アレックスが後ろ向きでシャツのボタンを緩めながら肩をずらして、片方ずつ光る汗を拭き取るのをぼんやりと見つめていたアスカは、彼が誰かの呼びかけに振り向いた瞬間にその左肩にあるピンク色に盛り上がった銃創を見てハッとした。その傷跡は生々しく、怪我をしてからそれほど時間が経っていないことを現している。
 それを見た瞬間に、数日前に見た夢のことを思い出した。
“あれは夢でも何でもなかったんだわ…! アレックスは本当にケガをしていた。それも命が危ぶまれるほどの怪我を…。ああ…思い出したわ! あれはすべてわたしのせいだったんだわ…!そしてわたしは、自分から”あの男“のところへ行った…”

 くらくらするようなめまいに襲われて、アスカは座席にぐったりともたれて目を閉じた。ちらりと向いのリリアに目を向ければ、微笑みながら窓の外に見入っている。ちょうど動き出した馬車の動きに紛れて…アスカは自分の今の動揺をリリアに気付かれなかったことにホッとした。

「どうやら少し陽射しにあたり過ぎたみたい。帰ったら少しベッドで休みたいんだけれど、構わないかしら…?」
「もちろんですとも…まだ本調子ではいらっしゃらないのかもしれませんね? ここでは何もかもがゆっくり進んでいくんです。焦らず養生することが大切ですわ」
「ええ…ありがとう」
 アスカはそう言いながら、少し前を行くアレックスの後姿をまるで魅入られたようにじっと見つめた。

 アレックスの傷跡を見てしまったことが引き金になって、それから数日のうちにアスカは失われた記憶の大半を取り戻した。相変わらずアレックスをはじめ、アンソニーや貴蝶、屋敷の使用人に至るまで、アスカの“不調”については誰も一言も触れなかったし、アスカ自身も自分の記憶が戻りつつあることを誰にも言わなかった。アレックスにさえも…。
 アスカがどうやってアレックスに出会い、二人が過ごした夜にどれほど激しく愛し合ったか…。彼の巧みな指先と熱い唇が、自分の身体から呼び起こした狂おしいほどの悦びを、思い出すたびに身体の奥から疼くような甘美な痛みが湧き上がってくる。
 “自分の名前さえ思い出せない時でも、わたしはアレックスのことを忘れなかった。彼に触れられるたびにわたしは、彼から教えられた悦びを思い出していたんだわ…。そしてアレックスのあの眼差し…。きっと彼も辛かったのね…? 彼はわたしの記憶が戻るのを待っていたんだわ。わたしの記憶がすべて戻って…何もかも承知の上でもう一度あの熱い日びを取り戻したいと…”

 何かに怯えたようにおぼつかない足取りで、アスカは暗闇の中を駆けていた。走りながら何度か見えない黒い手に髪の毛を捕まれる感覚に手足が震え…もがきながら必死に振りほどこうと身をよじる。
“ああ…神さま…!”
 心の中で祈りつつ、あとを振り返るのが怖くて…うつむいたままはを食いしばる。その時耳元でゾッとするような声が響いた。
“逃げても無駄だ…。おまえはわたしのもの…わたしのものなのだ…”
 声にならない悲鳴がほとばしる。耳元の声が甲高い笑い声をあげた瞬間、不意に目の前の一点が明るくなり…その光の中で誰かが倒れているのが見えた。
“アレックス…!?”
 地面に突っ伏したアレックスの身体の下から、真っ赤な鮮血が流れ出したのを目にした瞬間…アスカは自分の叫び声に意識が遠のくのを感じた。

「お嬢様…!? どうなさったのですか? また夢を見ていたのですね? 」
 心配そうなリリアの声を聞いてアスカは重たい瞼を開けた。目を開けた瞬間、明るい光が目に飛び込んできて思わず顔をしかめる。

「わたしはずっと眠っていたの?」
「ええ…お屋敷にお戻りになってすぐ…」
「まあ、ではあれから一度も目が覚めなかったのね?」
 昨夜軽い気持ちで、夕食までのほんの短い時間横になるつもりが、どうやらそのまま朝まで眠ってしまったらしい。夕食も摂らずに眠っているたのなら、アレックスや貴蝶はずいぶん心配したに違いない。

「アレックスは何か言っていたのかしら?」
「ええ、だんな様はずいぶんと心配なさっていましたが、船旅で疲れたのだろうとおっしゃって、そのまま起こさないようにと指示されていました。もうお昼前です。すぐ何かお食事をお持ちしますね?」
「あの、アレックスはどこに…?」
「殿方は全員朝から港にお出かけになりましたよ。なにやらお忙しそうでした」
 リリアは意味ありげに微笑んで部屋を出て行った。
 彼が忙しい人だということはわかっていたけれど…。アスカは無性にアレックスに会いたかった。
さっきのは夢で、傷ついて倒れていたのは本物の彼ではないとわかっているのに…。実際に確かめないではいられなかったのだ。それになぜか目覚めたあとでひどい罪悪感に苛まれたことも、アスカは気になった。


わたしはアレックスにいったい何をしたのだろう…? ああ…すべてを思い出せたら…。でも怖い…!“
 ベッドの上で迷子の子供のように膝を抱えたまま…アスカは心の中に渦巻く不安に震えていた。

「アスカ、ああ…やっと目が覚めたのね?」
 鈴を振ったように清らかな声にアスカが顔を上げると…自分を心配そうに見下ろす優しげな貴蝶の顔があった。
「貴蝶姐さん…!」
「よかった、あなたが記憶を失ったと聞いて…あなたがわたしのことを忘れてしまっていたらどうしようかと心配していたの…」
 貴蝶はアスカのベッドの端に腰を下ろすと、優しくアスカを抱きしめた。淡いバラ色のドレスに身を包んで、豊かな黒髪を下ろした貴蝶はとても29歳とは思えないほどの初々しさがあった。

「姐さんのことを忘れてしまうなんて、そんなことありえないわ」
「そうでしょうとも…。わたしも信じられないのよ。身の安全のためとはいえ、あんなふうにあなたを置いて日本を離れてしまったことをどれほど悔やんでいたか…」
「いいえ、それは違うわ。貴蝶姐さん…」
アスカは震える貴蝶の肩をそっと抱きしめた。
「姐さんはいつでもわたしの味方だった。陽炎館では何度も庇ってくれたし、優しくしてくれたわ…」
「まあ、それはずっと昔のことよ。陽炎をでたあなたは、自分の力で立派に生きてきたんじゃないの」
 貴蝶が言っているのは、陽炎を飛び出したアスカがメルビルの父に拾われ、アメリカで暮らしていた7年間のことだ。その間でもアスカは、貴蝶いのことを忘れたことはなかった。今頃は恋人の浩二郎と幸せになっているはずだったのに…。いったい何が貴蝶の運命を狂わせたのだろう…?

「何を考えているの? アスカ。わたしのことを心配しているのね? わたしなら大丈夫、今がとても幸せなの…」
 貴蝶はそう言ってはにかむように笑った。その顔が少女のように輝いているのを見てアスカはハッとした。この笑顔を見るのは7年ぶりだ。あの陽炎館の一室で、間もなく恋人の浩二郎に身請けされることを嬉しそうに話した時の貴蝶の顔を自分もうっとりと眺めていたことを思い出したのだ。
“貴蝶姐さんは恋をしているのね…?”
 嬉しい反面、ふと不安が心の中を過ぎる。まさか、姐さんが恋しているのはアレックスなのでは…?

「ああ、もちろん勘違いしないでね。今のわたしとクレファード卿とは何の関係もないわ」
 アスカの表情を読んだのだろう。貴蝶は慌てて言い添える。そして日本を離れ、この島に来てからの生活を事細かにアスカに語って聞かせた。アレックスの手を借りて、兄である岩倉卿に見送られて日本を後にしたのはもう2ヶ月近く前のことだった。
 貴蝶の話によれば、そこで傷を癒していたアンソニーと知り合い、すぐさまお互いに惹かれあい、恋に落ちたのだという。

「アンソニーが貴蝶姐さんの恋人だったのね?」
「アスカがそう言って微笑むと、貴蝶はポッと赤くなった。従兄妹として一時期一緒に育ったアンソニーのことは良く知っている。ハンサムなだけでなく、アンソニーには生来の人柄の良さと誠実さがある。
 亡くなったメルビルの父が亡くなった妹の息子であるアンソニーのことを自分の息子のように大切にし、後継者としていずれはアスカのことも託すつもりでいたことも知っていた。父にあんなことが起こらず、自分がアレックスと出会っていなければ、今頃はアスカがアンソニーと将来をともにしていたかもしれないのだ。

「アンソニーはとても誠実でいい人だわ。きっと貴蝶姐さんを幸せにしてくれる。心からお祝いを言いたいわ」
「ありがとう、アスカ。血はつながらなくても、わたしはあなたのことを本当の妹のように思ってきたの。誰よりもあなたに喜んでもらいたかったの」
 貴蝶の目には涙が浮かんでいた。アスカも自分のことのようにうれしくなって、貴蝶の小柄な身体をギュっと抱きしめた。
「今のわたしが幸せなのと同じくらいあなたにも幸せになって欲しいのよ。もちろん今のあなたにはクレファード卿、いえアレックスががついているんですもの。心配は要らないかもしれないけれど、あなたが記憶喪失になったと聞いてわたしは…」
 そこで貴蝶はワッと泣き出した。アスカは黙って貴蝶が落ち着くまで優しくその背中を撫でていたが、やがてぽつりと語り出した。

「大概は覚えているの。姐さんのところに行って花魁としてアレックスと対面したことも…。そのあと恐ろしいことがあって…」
 幼馴染みのイエンと再会したことも覚えていた。アレックスの恋人として過ごしためくるめくような情熱的な夜も、心細いアスカを優しく包んでくれた山の手の屋敷の人々…。アレックスの副官で謎めいた瞳を持つジャマールの…いつも問いかけるような眼差しがアスカの心を揺さぶった。香港から宝龍島への船に彼は乗っていなかった。香港で遣り残した仕事があるとアレックスは行っていたけれど…。ジャマールはきっと何かを知っている。何も言わないけれど、時々彼が者い痛げにアスカを見つめていることも知っていた。それにこの頃、毎晩のように繰り返し見る夢がはっきりと告げていた。
“わたしは何か恐ろしい体験をしたのだ。そしてそれはアレックスを傷つけ、そのために彼も苦しんでいる…。それが何か思い出せれば、彼を苦しみから救ってあげられるのに…。”

「教えて…貴蝶姐さん…。わたしにいったい何があったの…?誰も教えてくれないのよ。どんなに怖くてもわたしは本当のことが知りたいの。お願い…」
「アスカ…あの男は…。ああ、ダメよ! わたしにはいえないわ。あなたが自分で思い出すまでは言ってはいけないとアンソニーに言われているの。アレックスからの頼みだそうよ。だからわかってちょうだい。わたしにはアンソニーがいて、あなたにはアレックスがいる。過ぎた過去よりもこれからの未来を見て生きていかなければ…。アレックスはあなたをロンドンに連れて行って、あなたの本当のお父さんを探すつもりよ。それこそがあなたが長年求めてきたことでしょう?」
 確かに…。貴蝶のいうとおりだった。母を異国に残したまま、母国に戻って一度も戻ってこなかった顔も知らない父親を恨んだこともあった。メルビルの両親の温かい心に接するうちに、いつしかその想いも変化していったが、決して忘れることはなかった…。

「そうね…姐さんの言うとおりかも知れない。過ぎたことを気にしすぎているのかもしれないわ…」
「そうよ、アスカ…。わたしがここに来たのは、アンソニーのことを伝えたかったのと、これをあなたに返したかったからなの」
 貴蝶はそう言ってドレスのポケットから小さなベルベットの黒い袋を取り出して、アスカの手のひらに置いた。
「開けてみて…」
 貴蝶に促されてアスカは、袋の口を開けて中から美しい黄金色のロケットを取り出した。手に触れた瞬間、暖かな温もりが手のひらに伝わってくる。
“お母さまの…これはお母さまが大切にしていたもの…”
 アスカは思わずロケットを両手に握り締めてそっと胸に抱いた。

「思い出した…? あなたがクレファード卿の元を出て、わたしのところに来た最初の日にあなたから預かったのよ。すべてが終わるまであなたから頼まれたから…」
「ええ、思い出したわ。わたしはあの日に娼婦になったのね…?」
「いいえ、それは違うわ!」
 貴蝶はまじめな顔をして強くアスカの手を握った。
「あなたは娼婦なんかじゃない。あれはある男を罠にかける為にあなたが仕組んだことよ。あなたの心は最初からクレファード卿、いえアレックスにあったのだもの。一度だって裏切ったことはなかったはずよ」
 貴蝶の言葉が鋭く胸に突き刺さる。
“アレックス…。彼を誰よりも愛している…。その心に偽りはないはずなのに…何故わたしはこんなに不安になるのだろう…?”

「さあ、そんな顔をしないで、もうすべては終わったのだから…いつまでも過ぎたことにこだわっていてはダメよ。あなたにはわたしと同じように幸せになってもらわなくては…」
 貴蝶はアスカの頬に軽くキスをして優しく微笑んだ。



 アレックスは執事のロドニーを呼んで、書斎にアスカを連れてくるように告げた。昨日の疲れから、昨夜は夕食の席にも下りて来なかった。リリアは強い陽射しにあたり過ぎたせいだと言ったが、確かにその通りだろうと彼は思った。
 黒柳の屋敷を出てマレー号に乗り込んでからの数週間、アスカはずっと重病人のように眠り続けた。事実重病人だったのだ。黒柳に薬を盛られ、屈辱的な扱いを受けた。何があったのかは誰にも判らない。もしかしたら、アスカは黒柳にレイプされたのかもしれない…。それも奴が得意とする最も卑劣な方法で…。
あの闇のパーティーの場で、アレックスがアスカを助けることが叶わず、あのまま黒柳の思い通りにさせていたら…? 今ごろアスカはあの卑怯者たちの犠牲になって、死んだほうがましだと思えるほどの苦しみを味わっていたに違いないのだ…。
そのことを思うたびに身を切られるほどの痛みがアレックスの胸を引き裂いた。黒柳はすでにこの世にはいないが、もし目の前にいたらあと千回は殺してやりたい。アスカの手前、穏やかな表情を装っているが、それも最近は日を追って辛くなってきている。すぐにでもアスカをベッドに連れて行って、あの男の影を消し去ってしまいたかった。
“くそ…! おれは決して聖人君主じゃないんだ…! 欲しい女が目の前にいて、相手もオレを好ましく思っているのに指一本触れられないなんて…!”

 ジリジリするような渇望にアレックスは大きく息を吸い込んだ。たぶん、昨日軽くキスしたときのアスカの反応を見れば、決して彼女が拒まないことはわかっている。拒むどころかアスカの瞳には熱い欲望の炎が燃えていた。アレックスの押すスイッチひとつで、アスカは前と同じくらい熱く燃え上がるに違いない。だがもしそれによってアスカの中に潜む別の感情が飛び出してきたら…? アレックスがキスするたびに、悦びとともに何か怯えたような表情が浮かんだ。それは決して二人だけで過ごした夜には見られなかったことだ。
“今のアスカには何かがある…!”
それがアレックスを戸惑わせていた。


軽いノックの音にアレックスは、デスクから頭を上げてさっきから片手で弄んでいたペンをデスクの上に置いた。居室でひとりで朝食を摂ってからこの書斎で溜まっていた書類の整理に向かったのだが、思ったほどはかどってはいなかった。
「入れ…!」
「お嬢様をお連れしました…」
 黒と青のお仕着せを着たロドニーがドアを開けてアスカを中に通すと、また丁寧にお辞儀をして出て行った。

「アレックス…?」
 アスカはデスクからじっとこちらを見つめるアレックスの碧い瞳を真っ直ぐ見つめながら、おずおずと近づいていく。アレックスは立ち上がってデスクを回ると、アスカを向かえるように両手を広げた。
 今朝のアレックスは高価なスーツに身を包んで、一部のすきもない装いは、最初に出会った時の高慢なまでの美しさを感じさせる。一瞬にしてアスカを惹きつけて止まない、彼だけが持つカリスマ的な魅力だった。

一瞬戸惑うように小さく息を吸い込んで、アスカはアレックスの広い胸に手を置いた。
「どうだい? 気分は良くなった?」
 両手でそっと背中を撫でられると…アスカの全身が小さく震えた。記憶の無い時でも身体はいつでも敏感に反応した。記憶の戻った今はなおさらだった。

「アレックス、おしえて…メイファンはどうなったの?」
 メイファンの名前を出したとたんにアレックスの身体が強張るのを感じた。
「アスカ…君は思い出したんだね?」
 顔を上げると、探るような…それでいて困惑した表情のアレックスがいた。その瞳には深い苦痛も感じられた。
「ええ…でもすべてではないの。昨日あなたの…傷跡を見て…あの恐ろしい夢が本当だったと気付いたのよ。あなたが目の前で血を流して倒れていて…恐ろしくて、何度も叫んだの…。ああ、わたしは…」
「あすか、もういいんんだ…」
 幼い子供をあやすように、アレックスはアスカを抱きしめて優しくゆする。上質な上着の襟を握り締めながら、アスカはアレックスの白いシャツに顔を埋めて泣いた。最初激しく号泣したものの…その泣き声は次第に小さくなって、呼吸も落ち着いてくる。

「さあ、涙を拭いて話をしよう。昨日、君が何かを言いたそうにしているのはわかていたんだ。でも君は疲れていたし、何か動揺しているようだったから、話をするのは朝まで待とうと思っていたんだ」
 アレックスはポケットから白いハンカチを出してアスカの涙を拭い、震えるその指に握らせた。かすかに香るアレックスのコロンの香りを胸いっぱいに吸い込んで、アスカは弱々しく微笑んで見せた。

「メイファンはここに住んでいたのよね? イェンと一緒に…。なのに誰もメイファンの名前を出さないんだもの。昨日の朝、浜辺で小さな女の子に聞かれたの。メイファンはいつ帰ってくるのかって…」
「ああ、メイファンの話を禁じたのはボクだ。君には余計な心配をして欲しくはなかったんだ。誰かに無理やり思い出させられるのではなく、自然に思い出して欲しかったから…」
 アレックスの顔に過ぎった一瞬の悲しみとも苦しみともつかない表情にアスカの胸は痛んだ。

「ごめんなさい、アレックス…。わたしはあなたを二度も裏切ったんだわ。あなたに嘘をついてあなたの側を離れた…」
「それは違う…!」
 アレックスは強く言い放つ。
「それは黒柳から、傷ついたボクを守るためだろう? そしてメイファンを取り戻すために…。君は自らを犠牲にしようとしたんだ。それをどうしてボクが責められる…?」
「でもわたしは…」
「いいんだ…。メイファンも無事に帰ってきた。ボクはティアラを取り戻し、こうして今は君をこの腕に抱くことも出来る。あいつはもういない。あいつは死んだんだ。もう二度と君を脅かしたりしない…」
 アレックスの言うとおりなのだろう。あの悪魔のような男は死に、もう二度と会うこともない。それはわかっているけれど、心の奥底で言い知れぬ不安がアスカを怯えさせた。あの最後の夜…木村に言われるままに薬を飲み、気がつけばゾッとするようなあの男の目が舐めるようにアスカを見つめていた。あの晩からあとがどうしても思い出せないのだ。あの夜にもしかしたら、自分はあの男の手に堕ちたのかもしれない…。
 そう思った瞬間に全身を激しい悪寒が走る。その緊張を感じ取ったアレックスは、もう一度アスカの背中を優しくなで、柔らかな髪に唇を寄せてささやいた。
「もう忘れるんだ…。君はもう一人じゃない。ボクは君を守ると決めたんだ。僕を信用してくれないか…? 今朝早く香港の事務所から連絡があった。来週にはメイファンを連れてイェンが戻って来る」
「イェンが…?」
「メイファンは元気だそうだよ。君に会いたがっていると手紙に書かれていた」
「ああ、メイファンが…良かった」
 心から安堵するようにアスカは大きく息を吐いた。記憶を失っていたとはいえ、何かがずっと心に引っかかっていた。木村の言葉を疑っていたわけではないけれど、信じ切れなかったことも事実だった。

「ジャマールはどこ? この島に来てから一度も見てないわ」
「ジャマールには香港の事務所に留まって、本国への連絡ごとや、あらゆる雑事にあたっている。今頃は日本にいる英国総領事のもとに預かっていた家族を日本に送り返す手はずを整えているはずだ」
「まあ、その方々もあなたがここに…?」
「そうだ。いうならばここは安全な避難場所だからね」
 そう言って微笑むアレックスの顔を見ていたら、心に巣食う暗闇もどこか隅っこの方に押しやられていくような気がした。

「アンソニーと貴蝶のことは聞いているね? 彼らも来週イェンたちが戻ってきたら、ここを離れて日本に戻るそうだ。いったん日本に戻って岩倉卿の許しが出たら、二人でアメリカに行くといっていたよ」
 貴蝶のことは心から嬉しいと思う反面、また遠く離れると思うと込み上げてくる寂しさに胸が痛んだ。アメリカに残してきた育ての母ジェイ二―のことも気にかかる。日本に着いてから一度手紙を書いたが、それ以降は目まぐるしい日々の中ですっかり忘れていた。きっとひどく心配しているに違いない。

「君のアメリカの母上のこともアンソニーから聞いているよ。香港に着いてすぐサンフランシスコの母上のもとにメルビルの件と君の無事の報せを送っておいた。きっと心配していることだろう。アンソニーの報せはさらに母上には朗報となるだろう。君もすべてが片付いたら太平洋を渡って会いに行けばいい。ボクが必ず連れて行くと約束しよう。」
「ああ、アレックス…」
言葉にならない思いが込み上げてきて、アスカは両手をアレックスの背中に回して力いっぱい抱きしめた。今はもう何も考えたくはない。
“ああ…愛しているわ、アレックス…”
 それからの1週間は目まぐるしく過ぎ…アレックスの言葉通り、メイファンとイェンの帰郷と入れ替わりに、貴蝶とアンソニーは旅立っていった。香港で日本への定期便に乗り換える二人を、アスカは宝龍島の港で見送った。
 貴蝶との別れは辛かったけれど、これが最後ではないと自分に言い聞かせて…納得させるしかなかった。貴蝶にアンソニーがいるように、アスカにはアレックスがいる。アスカの記憶が戻ったとわかってから、彼のアスカに対する態度はますます優しくなった。その眼差しの中に感じる情熱と切望は揺るぎのないものだったけれど…。時々ふっと一瞬過ぎる戸惑いの表情が、アスカを怯えさせた。

 船のデッキに移動用の桟橋がかけられると、手を貸そうと駆け寄ってくる人夫を待ち気れずにメイファンが飛び出してきた。淡いブルーの花柄のドレスを着て、頬を高潮させたメイファンは息を呑むほど美しい。
 アレックスと並んでその様子を眺めていたアスカは、不安に胸が苦しくなってきた。メイファンとはあの山の手の屋敷で別れて以来、初めて顔を合わすことになる。それもあの時アスカは、メイファンに薬を飲まされ、縛られて…部屋のクローゼットに閉じ込められるという経緯まであるのだ。
 あの時のメイファンはアレックスに恋をしていて、その時の行動を今のアスカは責めるつもりはなかった。それにメイファンは間違って黒柳に連れ去られるという辛い経験をしたのだ。彼女は今でもアレックスを慕っているのだろうか…? だとしたら、自分はメイファンに対してどんな態度を取ったらいいのだろう…? 
 ボーっと考え事をしていたアスカは、メイファンが真っ直ぐ自分を目指して駆けてくる姿に気付かなかった。

「アスカ…!」
 メイファンは涙で顔をクシャクシャにしながら、両手を広げてアスカに抱きついて、華奢な身体をすり寄せる。
「ああ…あなたに何といって謝ったらいいのか…! 許してちょうだい。わたしは…わたしは…」
 “声を震わせ、懇願するメイファンをどうして拒むことが出来るだろうか? そもそもわたしは、メイファンに腹を立ててはいなかったのだから…”
 メイファンの肩越しに後ろに立っていたイェンと静かに目があった。イェンは眼差しに優しさを称え…うなずいている。アスカの隣にはアレックスもいて、その片手はずっとアスカの腰に添えられていた。

「メイファン、もういいの。すべては終わったことだもの。あなたもわたしも無事に帰ってきた。それでいいんじゃないかしら…。わたしはあなたとまたこうして会えたことがとても嬉しいのよ」
 アスカの目にも涙が溢れていた。それからあとのことはもう何の説明もいらなかった。屋敷に戻ったあとで、イェンは冷静な声で事のあらましを語った。
「木村の自供で黒柳の計画がすべて明らかになりました。今頃は岩倉卿の手によって、日本における黒柳の企みの痕跡はすべて消し去られていることでしょう。奴がこのアジアで犯してきたあらゆる犯罪の痕跡も時間とともに解消していくことを祈ります。」
「その通りだろう。しばらくは注意深く見守る必要がある。大陸にはまだ奴の息のかかった連中がいる…」
 客間の入口から深みのある低い声が聞こえてきて、皆がいっせいに振り返ると、そこには堂々とした風貌のジャマールが立っていた。アスカは白っぽいアラブ風の衣装を身に着け、堂々とした足取りで近づいてくるジャマールを見つめた。
 日本を離れる時、漠然とした意識の中で、心配そうに彼女を見つめる彼の姿を見た気がしていた。香港に着くまでの船の中でも彼の姿を見ることはなかったから、ずいぶん懐かしく感じたのだ。もっともあの船旅の中では、アスカはほとんど眠ってばかりだったし、ジャマールも必要以上にアスカに近づかないようにしていたに違いなかった。

「君がすっかり回復したと聞いて安心したよ」
 アレックスと互いの肩を叩きあったあとで、ジャマールはアスカの方を振り返って、温かい笑みを浮かべている。
「ええ、ありがとう…」
 アスカはジャマールに何といっていいかわからなかった。あの時ジャマールは傷ついたアレックスの枕元で、突拍子のないアスカの提案を困惑しながら受け入れ協力してくれたのだ。そのあと目覚めたアレックスとの間でどんなやりとりがあったのかはだいたい想像できる。深い信頼関係で結ばれている二人で無ければ、とうてい乗り越えられなかったに違いない。
 最初は緊張があったジャマールとの関係だけれど、今ではアスカのことも肝要に受け入れてくれているのもわかっている。

「さあ、今夜は特別なディナーのために料理人が特別な料理を用意している。すべての成功を祈って乾杯しようじゃないか?」
 上機嫌のアレックスに促されて、みんなは広いダイニングルームへと移動して行った。

プロローグ 3 宝龍島(ホウロントウ)~ 暴かれた真実

 久しぶりに弾んだディナーのあとで、アスカとメイファンは連れ立って2階へと引き上げていった。いろいろ経緯はあったけれど、互いに辛い経験をしたことで、二人はそれまでの感情を乗り越えて、お互いを理解出来るようになったのだろう。特にアスカにひどく嫉妬していたメイファンは、今では誰よりも仲の良い友人のようにアスカを慕っていた。

 彼女達と別れてアレックスの書斎に腰を落ち着けた3人の男たちもとっておきのブランデーを愉しみながらもっぱらその話で盛り上がった。
「すべては円く納まったということだな。最初メイファンを連れて来てしまったことで、君にどう言い訳しようかと蒼くなっていたイェンを見た時はさすがのわたしも思案したよ」
 ジャマールの言葉にイェンが真っ赤になって肩を竦めるのを見て、アレックスは愉快そうに笑った。

「今回のことではイェンも大人になったということだ。メイファンも今では考えも変えたようだし、あの子自身も自分に相応しい相手を見つけたようだ」
 ますます赤くなるイェンにさらにジャマールが追い討ちをかける。
「イェン、おまえいくつになった? そろそろ身を固めても決して早くない年だろう…? メイファンはいい女房になるぞ」
「そうだな。そこでオレからも提案があるんだが…?」
 さっきから二人の様子を愉しんで見ていたアレックスが、そこで口を挿む。

「客人もいなくなったことだし、我々もそろそろ本国へ戻らなければならない。イェン、おまえも今回のことで十分経験を積んだことだし、おまえにはここに残って今までどおりあらゆる情報収集に努めてほしい」
「もちろんです。ボス…」
 アレックスはそこでにやりと笑った。
「おまえはこれからわたしに代わってこの島の主人となり、あらゆることから人々を護っていかなければならない。もちろんそのためにはパートナーが必要だ。メイファンを妻に迎えてわたしの名代としてこの島を統治し、管理して欲しい。」
ポカン…とした表情であっけに取られたようにしばらくアレックスの顔を見つめていたイェンは、目の前にいるボスの表情がとても真剣なことに気が付いて、思わず息をのんだ。

「本気ですか…?」
「ああ、本気だ。そろそろオレも自分の生き方を改める時が来たようだ。今までのように気楽に世界中の海を巡って、海賊気取りで暴れまわるのにも飽きたんでね。そろそろ本国に戻ってまじめに自分に課せられた義務に向き合おうと思う。もちろん、今までどおり船を動かすこともするし、世界中の情報を集めることに変わりはないが、直接オレが関わることはもうない…」
 言葉にしてみて初めて、自分がこれほど安定を求めていたことにアレックスは驚いた。数年前までは自分の行動に何の疑問も抱かなかったのに…。心の拠り所だった叔父のロバートを失い、そしてこの辺境の地でアスカと出会ったことで、アレックスの中の何かが変わってしまったのかもしれない。

「それはアスカのことがあるからですか? ボスはアスカをロンドンに連れて行く予定だと聞きました」
 ショックから立ち直ったイェンは、今度はアスカのことでアレックスをからかうつもりなのだろう。口元には悪戯っぽい笑みがうかんでいる。

「まあ、それもあるがそればかりではない。いささか女王陛下の番犬でいることにも疲れたんでね。この辺りで息をつきたいだけなのかもしれない…。実のところ、オレもただの男なんでね…」
“ボスがただの男だって…!? 冗談だろう…?”
 その言葉を飲み込んでイェンは微笑んだ。

「わかりました。あなたから受けた恩情は一生忘れません。メイファンとともに命を賭けてこの島を守ります。」
「ああ、頼もしいな。さて、感動的な話はさておいて…現実に戻るとしよう。イェン、黒柳の片腕と呼ばれていたあの木村という男の話を聞かせてくれないか? あの男は助かったと言ったな?」
 最初の短い面談の中で、大概のあらましだけは聞かされていたが、アスカやメイファンの前ではその男の話題だけは避けたかったアレックスは、このときまでその男の名前は出さなかった。

「はい、傷はかなり深いものでしたが、生命力の強い男のようで、メイファンの看病で何とか一命を取りとめました。メイファンの話によると、彼女の命を救ったのもその男だというのです。薬の副作用だと黒柳には偽って、実際にはただの睡眠薬で眠らされていただけなのだと解放される前に聞かされたとメイファンは言っていたいました」
“それが本当なら、黒柳に次ぐ地位にありながら木村は、黒柳を裏切っていたことになる。何のために…? ”
 ジャマールとアレックスは顔を見合わせた。

「どうやら事情は複雑なようで…。じつは日本を発つ数日前に話が出来たんです。木村が黒柳の
側近の地位に着いたのは数年前、その薬師としての腕を買われたのがその理由らしいのです。何年も前から黒柳は麻薬の取引をしていて、それは調合の難しいものばかりで、腕の良い調合師を探していたようです」
「そこで木村が浮かんだということだな。その男の素性も調べたのか?」
「はい、南の島の出身らしいのですが、経歴は不明です。それとこれは本人から直接聞いたことなんですが、黒柳はどうやら数年前から重い病を患っていたようです」
「奴が病気だったと…?」
 アレックスは目を細めた。“あの悪名高い黒柳が病んでいたなんて信じられない…”

「どうやら頭に問題があったようで…最近は頻繁に発作を起こして、視力もかなり落ちていたらしいのです」
“それであんなに屋敷の中が暗かったのか? ”
 変装して黒柳の屋敷に踏み込んだ時、まるで穴蔵に迷い込んだように暗く感じたことを思い出した。
「木村は言っていました。黒柳はやがて自分の視力が完全に失われてしまうことをひどく恐れていたと…。その前に自分の欲する最高に美しいものを手に入れようと妄執していたのだと…」
「それが女王のティアラであり、アスカだったと…?」
 アレックスに代わってジャマールが応えた。

「哀れな男だな、自分の存在理由をそんなものにしか求められないとは…。病を得たのは天罰としか言いようがないが、だからといって奴がしたことへの言い訳にはならない…」
「もちろんです。木村が黒柳に近づいたのにも理由があって、10年前…南の孤島で幼かった妹を黒柳に殺されたのだと言っていました。最も最初は黒柳がその張本人だとは気付かずに、側にいればいつかその人物を知るきっかけになると考えていたようです」
「ではメイファンを助けたわけは何だ…?」
「それは…メイファンが亡くなった妹に似ていたからそうです。自分が側についていれば妹は死なずに済んだ、その贖罪をしたかっただけだと…」
「なるほど…だからメイファンを無傷で戻してきたのか…。ならアスカについてはどうだ? アスカに薬を盛ったのも木村ならなぜ彼女は記憶を失ったんだ…?」
 アレックスは自分でも気付かないうちにかなり興奮していた。もう1ヶ月以上経つというのに、未だにあの暗い一室でアスカを見つけた瞬間の衝撃を忘れられなかった。薄暗い部屋の中で、天上に煌くシャンデリアの下で、細い両腕を頭の上に掲げ…豊かな黒髪を垂らしたまま立っていたアスカ…。頭には輝くダイヤモンドが…女王のティアラだ。真珠色の肌にバラ色の唇…。黒柳でなくともその姿には一瞬で虜になるだろう…。

「ボス…大丈夫ですか?」
 ぼんやりしていたアレックスは、イェンの言葉に我に帰る。

「ああ…続けてくれ…」
「あの薬はアスカを苦痛から救うために調合したと言っていました。あの状態で彼女を救うにはああするしかなかったと…。黒柳は別の効果を期待していたが、それを叶えてやるつもりはなかったと…大した奴ですよ。木村という男は…。まんまと黒柳を出し抜いたわけですから…」
「それに黒柳の弱みも握っていたわけだ」
 それまで黙っていたジャマールが割ってはいる。
「奴が死の病に犯されていたのなら、木村の存在は欠かせなかったはずだ。上手いことやったものだな。黒柳にとっては災難でも我々にとっては幸いだったわけだ」
「それにメイファンが言っていましたが、あの決定的な証拠となった連判状は、木村がメイファンのドレスの中に忍ばせたんです。アスカが黒柳の部屋から見つけて、それを手にしたところを木村に見られ、アスカはそれがあれば黒柳を破滅させることが出来ると言った…」
「何ということだ。そのためにアスカは…」
 アレックスは悔しげに罵りの言葉を吐いて強く頭を横に振った。

「待ってください、木村の話にはまだ続きがあるんです。木村は黒柳に言われてアスカに薬を飲ませた。黒柳は、アスカに麻薬を与えて、自分の思い通りに操ろうとした。でも木村がアスカに飲ませたのは麻薬ではなく、ただの鎮痛剤だったんです」
「どういうことだ…?」
 さっきから激しい怒りで蒼ざめていたアレックスの頬がさらに緊張してピクリと引きつったように痙攣する。

「一見目は虚ろになって表情も緩慢になるので、麻薬を服用したのと同じような状態になるのですが、意識だけははっきりとしているので、自分を失うことはないと…」
「では何故アスカは記憶を失っていたんだ…!? それに我々がアスカを見つけたとき、確かに彼女は正気を失っていた…」
「それについては木村もよくわからないと言っていました。あの前の晩、黒柳はアスカを自分のものにしようとしたらしいのですが、ひどい発作に襲われて目的を果たすことは出来なかったと…そして次の日にあったことは御存知のとおりですよね?」
「ああ…」
 アスカは黒柳に汚されてはいなかった…。心から安堵したように全身から一気に力が抜けたようだった。アレックスは思わず目を閉じて天を仰ぐと…初めて神に感謝したい気分になった。

「木村がいなければアスカもメイファンも無事ではいられなかったということか…。あの男にはとんだ借りができたものだ。それであの男の扱いはどうなった?」
「しばらくは休養が必要でしょうが、そのあとは岩倉卿の計らいで港に出来る新しい政府の診療所で、薬師として働くことが決まったようです。あの男の持っている薬草の知識は、埋もれさせておくにはもったいないと岩倉卿がおっしゃって…」
「なるほど、さすが岩倉卿だ。時間と機会を無駄にしない人だ。彼がいれば、あの国の将来は心配ないだろうな…」

「ええ、そう思います」
「さて、すべての問題が片付いたところで、わたしは出航の準備具合でも見てこよう…」
 そう言ってジャマールは、アレックスの肩を叩いてから足取りも軽く部屋を出て行った。

 ジャマールがいなくなると、イェンは又真面目な顔に戻って、アレックスの方に向き直る。
「それと…もうひとつ、ボスに報告することがあります」
「……?」
 アレックスは空になったグラスをデスクの上に置くと、イェンを振り返った。



 2階にあるアスカの寝室までついて来たメイファンは、ドアの前で立ち止まると、不意に涙ぐんでアスカの手を握り締めた。
「ああ…あなたが無事で本当に良かった! あなたに何かあったらきっとわたしは一生自分を許せなかったわ…」
「メイファン、あなたもわたしも今はこうしているんだもの。もうすんだことを振り返ることはやめましょう」
「アスカ、あなたに出会えて良かった…そうしなければわたしはいつまでも子供のままで、本当の気持ちに気付けなかったでしょう…」
 アスカは優しく微笑んで華奢なメイファンの身体をしっかりと抱きしめた。13歳でたった一人の肉親だった父親を亡くしてから、メイファンはずっと心の拠り所としてアレックスを慕い続けてきたのだ。日本まで彼を追いかけてきて辛い経験をしたとはいえ、結果的には良かったのだ。幼い憧れを捨てて本当の意味での愛を手に入れたのだから…。
 長い間メイファンを思い続けてきたイェンの願いも叶ったのだし、すべて上手くいったのだろう。

「さあ、顔を上げてメイファン。わたしもあなたとこんな風に仲良く慣れてとてもよろこんでいるのよ。荘太…いえ、イェンとずっと友達だったようにあなたとも友達でいたいわ」
「もちろん、友達ですとも…」
 涙で煌く美しい瞳を上げてメイファンは微笑んだ。従来の美しさに加えて今のメイファンには恋する女性だけの自信に満ちた輝きがある。淡い色のドレスに身を包んで、恥らう姿は眩しいほどに美しかった。

「さあ、もう遅いわ。そろそろ休まないと…。明日から忙しくなるわね。3日後が結婚式なんですもの。イェンはきっと素晴らしい旦那さまになるわ」
 アスカの言葉に真っ赤になったメイファンの手をギュッと握って、アスカはメイファンを自分の部屋へと送り出した。そしてひとりになって自分の部屋の鏡の前に立つと…そこに映っている自分の姿を哀しげに見つめた。
 “すべてが片付いて何もかも上手くいっているように見えるのに、どうしてわたしの心はこんなに不安なの…? メイファンにはイェンがいて、わたしにはアレックスがいる。彼の愛を疑っているわけではないけれど…”
 アスカの心に巣食う何かがその心に大きな影を落としていた。忌まわしい記憶のほとんどは戻りつつある。何があったとしても自分の心は変わらないとアレックスは言ってくれた。その言葉を信じるべきなのだ。

 リリアの手を借りて凝ったドレスを脱いでナイトガウンに着替えてベッドに入る頃には、アスカの心は落ち着いていたが、いざリリアが部屋の明かりを消して出て行くと、またアスカは一晩中まんじりともせず、じっと天井を見つめて過ごした。


明日はイェンとメイファンの結婚式という日、ここ数日…宝龍島(ホウロントウ)の高台の屋敷は式の準備で沸き立っていた。アレックス自身も朝早くからジャマールを伴って、香港の領事館を訪ねている。メイファンもアスカとともに明日の衣装の仕上げをすると張り切っていた。
 イェンは明日からの忙しさに備えて、ここ数日溜まっていた本土からの手紙やら報告書に目を通すことにして、自分用の個室のデスクに腰を下ろした。黒柳の一件が片付いてから主人であるアレックスもこのところ落ち着いた表情を見せているのが、イェンはうれしかった。主人がもともと情熱的で並外れた精力の持ち主であることは知っていた。
 彼が時々見せる無軌道な気まぐれにもイェンは頭を悩ませていたのだが、それが日本でアスカと出会ってから人が変わったようにその無軌道さが見事に制御されていく様に驚いた。
 彼が生まれつき誠実で高潔な人物であることに疑いは持たなかったが、イェンは実際自分の目で見るまでは、英国貴族の生活がどんなものかはまったく知らなかった。生まれた時から広大な領地と莫大な世襲財産を持ち、何の苦労もなく遊び暮らす人生が、時にはどんな高潔な精神をも退廃させるのだろうと思っていた。
 それもルシアン・アレクサンダー・クレファード卿はただの貴族ではない。ビクトリア女王でさえ一目於く英国で最も裕福で高貴な人物なのだ。その人が今は自分の主人であり、その彼が心から愛するのがアスカであることにイェンは無上の喜びを感じていた。アスカはイェンにとっても特別な存在なのだ。昔からの知り合いというだけでなく…妹のようにすべてのものから守ってやりたかった。

 弾む気持ちでイェンは、執事がテーブルの上に置いた自分宛の手紙の束から1通の分厚い封筒を取り出して、裏書の名前を確かめてから封を切る。イェンが日本を離れる前に引き続きあることへの調査を依頼していた人物からの手紙だった。きっとあのあと何かが判って、急いで報せてきたのだろう。イェンは何枚もに及ぶ報告書を読み進むうち、次第に指先に力がこもるのを感じた。

“まさか…? そんなわけが…。そんな偶然があるわけがない…! ボスが探していたウィンスレット卿の遺児がアスカだと…!? ”
 報告書にはイェンが日本にいた頃には判らなかったこと細かな事実が記されていた。その中のいくつかは7年前、あの陽炎館の中で聞いたアスカの生い立ちの話と一致する。イェンは報告書を封筒に戻すと、デスクの一番上の引き出しに入れて鍵をかけた。どちらにしても今日はボスは島にはいない。話をするにしても明日以降になるだろうが…。
 イェンは…ボスであるアレックスが、父とも崇めるウィンスレット卿の願い…彼が身を引き裂かれる想いで日本に残してきた妻と、やがて生まれるであろう我が子を探し出したいという切なる願いをどれだけ時間がかかっても彼に代わって成し遂げたいと決意していたことは知っていた。
 もちろん今回の任務が優先されることは当然だろうが、それでもボスは決して諦めてはいなかった。きっと何年かかってもボスならきっと成し遂げたにちがいない。
ただ…運命は何て気まぐれなのだろう…。求める相手がこんなに間近にいるなんて、誰しも思わないものだ。アスカは伯爵令嬢だった…。どことなく気品があると感じたのは、やはりボスと同じ血が流れているせいなのか…。
 アスカの出生がわかったことは嬉しいはずなのに…なぜかイェンは歓びよりも不安を感じた。その事実が、アレックスとアスカになぜか暗い影を落としている気がして…。







イェンとメイファンの結婚式は素晴らしかった。朝早くからたくさんの人々が屋敷を訪れて、二人を祝福していく…。まるで島中の人々が集まってきたかのようだった。
 屋敷の外れにある礼拝堂で、村の司祭によって結婚式は挙げられた。花嫁を引き渡す役をアレックスが務め、濃紺の礼服に身を包んだその姿を、花嫁の付き添い役のアスカがうっとりと見つめていた。
 シンプルな白いウェデングドレスに身を包んだメイファンはとても美しく、その顔は幸せな微笑で溢れている。凛々しい燕尾服姿のイェンに手を取られて裁断の前に進み出ると、静かな礼拝堂の中に司祭の厳かな声が響いた。

付き添い役のアスカは、花嫁のすぐ側に立ちながら、アイスブルーのドレスに身を包んでじっと二人の誓いの言葉に耳を傾けていた。花嫁の…夢見るような声で誓いの言葉が流れてきた瞬間、アスカは胸が一杯になって目を閉じた。こうしていても隣に立つアレックスの存在は、さっきから痛いほど感じている。
花嫁をイェンに引き渡したあと、アレックスは真っ直ぐアスカのもとにやって来ると、その手を取って白い手袋の上から唇をつけた。上目使いにアスカの目を見つめながら、眼差しで “次は君の番だよ…” そう告げていた。
 二人の視線が絡み合った瞬間、二人だけにしかわからない熱い炎が身体の奥から湧いてきて、アスカの全身を包み込む。
“ああ…これがわたしたちの結婚式なら良かったのに…!”

幸せそうな花嫁の姿にいつしか自分の姿を重ね合わせていたアスカは、急に頬を赤らめてうつむいた。
「君がボクの隣で誓いの言葉をささやく時には、君はあのティアラを身につけ、まるで無垢なプリンセスのような花嫁になることを約束するよ…」
 官能的な声がアスカの耳元をかすめ、吐息がうなじにかかると…アスカは足元が震えて立っていられなくなる。素早く腰に回された手が彼女の身体を支えた。いつだってアレックスはアスカに魔法をかけることが出来る。たぶんそれは永遠に解ける事はないだろう…。
 “もし何かの理由で彼がアスカの前からいなくなってしまったら、きっとわたしは生きていけないだろう…” そう思うとアスカは心から怖くなった…。



「何だと…!?」
 アレックスはにわかに信じられなくて、振り返ってイェンを見た。
「3日前に日本から報告書が届きました。ボクも信じられなくて何度も読み返しましたが、中に書かれていることに間違いはないと判断しました」
「3日も前に判っていたというのか…!?」
 3日前からこんな大事なことを黙っていたのか…!? そう叫びたい気持ちをグッと押さえ込んで、アレックスは口を噤んだ。今日の昼間にイェンとメイファンの結婚式を済ませたばかりではないか? それに英国への出航の準備のために香港へ出かけていたアレックスとジャマールが宝龍島に戻ってきたのは、結婚式の始まる数時間前だったことを思えば、自分の結婚式だったとはいえ、今夜になるまでそのことを持ち出せなかったイェンを責めるのは間違っている。
 実際今夜はイェンにとっても大事な時間のはずなのに、花嫁を放ったまま…アレックスと二人きりで書斎に籠って、こんなふうに事実を告げなければならなかったイェンの気持ちを考えるべきだ。
 理性ではわかっていても、現実には難しかった。

「アスカがロバートの娘だというのか…? あのアスカが…?」
「はい…。信じられませんが…。屋敷を父親によって追い出されたあと、母上はツタという使用人の女とともに下町の長屋暮らしをしていたようです。アスカが5歳の時に母上は病を得て亡くなりました。その後…ツタの亭主が舞い戻ってくるまで二人はそこで暮らしましたが、長らく行方不明だったその男は…」
「ろくでなしのヤクザ者で、自分の女房が面倒を見ている子供が価値があると見るや、女房の目を盗んで娼館に売り飛ばした…」
 アレックスは暗い表情で視線を外に向けたまま…イェンの言葉を継いで言った。

「おまえの感に間違いはないのだな…?」
「はい、昔…陽炎館で聞いたアスカの話とも一致します。ほぼ間違いないと思われます。それにアスカはあの時、母上から父親が日本を離れる時に自分の身代わりに置いて行ったという紋章入りのロケットを持っていたはずです。それが手がかりになるかと…」
「ああ…わかった。すまなかった。せっかくの結婚式の夜を台無しにして…」
「いえ、そんなことは…」
 イェンは敬愛するボスのこんな姿は見たくなかった。呆然とした様子で、窓辺から遠く点在する港の明かりをじっと見つめているアレックスは、まるで魂が抜け落ちてしまったかのようだ。ほんの半時前まで広場で、アスカと陽気にダンスを愉しみ、微笑み合っていた姿とは別人のようだった。

「このことはしばらく誰にも言わず黙っていて欲しい。アスカにはボクから話す。それからすまないが、ジャマールをここに呼んでくれないか?」
「わかりました…」
 アレックスはそれから一度も振り向かなかった。言葉少なくうなずいて部屋を出たイェンは、そのままジャマールを探した。ボスの副官であるジャマールなら、ボスのために何かいい解決策を見つけてくれるのではないかと思ったのだ。
 この事実がボスにとってよくないことであるのは直感的にわかっていた。だがこれほどまでにボスを打ちのめすとは…。ボスが銃弾に倒れ回復したあとで、アスカが自分から黒柳の元へ行ったと聞かされたときでさえ、これほどショックは受けなかったのである。

“探していたロバートの娘がなぜアスカでなくてはならないんだ…!? この世に神がいるのなら…何故こんなに残酷な仕打ちをしなければならない…?”

アレックスは手にしていたからのグラスをデスクの上に置いた。腹が立つというよりは悲しかった。永い放浪生活の果てにやっと見つけた命よりも大切なものが、決して手に入らないと思い知らされたのだ。
アレックスはこのあとアスカを伴って英国に戻り、ランスロット卿に今回の件の報告を済ませたあとで、英国貴族の因習に従って英国教会で式を挙げ、アスカを正式に花嫁にするつもりだった。その計画が根底から覆ったのだ。
アレックスたち英国の世襲貴族には古くから守られてきたいくつもの因習がある。その中の婚姻に関する項目に、王族と血縁のある直系の貴族には厳しい取り決めがあって、従兄妹同士の婚姻も禁止されている。数百年前からの有力な貴族であり、ヨーロッパの王族ともつながりがあるシェフィールド公爵家ならなおさらだ。
 ビクトリア女王でさえ、アレックスが結婚して跡継ぎを作ることを何年も前からしつこく奨励していたくらいだが、それもあくまでも取り決めの中でのことだ。数世代にわたって王家とも姻戚関係にあるアレックスも例外ではない。たとえ命を捨ててでも欲しいと思う女であろうとも…。


「アレックス…?」
 突然背後で聞こえた声に、アレックスは不意打ちを食らったように振り向いた。
「アスカ…」
 アイスブルーのドレスを着て黒髪に白いバラをあしらったアスカは女神のように美しい。頬はバラ色に輝き、将来の希望に溢れたその姿は、全身から歓びが満ち溢れていた。

「あなたの姿が見えなかったから探しに来たの…。さっき廊下でイェンを見かけたんだけれど、何か問題でも…? 結婚式を挙げたばかりだというのに、何か難しい顔をしていたからどうしたのかと思って…」
「いや、大したことじゃない。きっと今夜メイファンと過ごすベッドのことで頭が一杯だったんじゃないかな?」
「まあ…!」
アレックスがそういって微笑むと、アスカは安心したように口元をほころばせた。
“彼女は感受性が豊かだ。アレックスの緊張した雰囲気を感じ取っていたのかもしれない。今はまだ彼女に真実を話すことは出来ない。それよりもさっきイェンが言っていた証拠とは…?
「アスカ、話してくれないか、君の母上のことを…。ロンドンに着いたらさっそく君の父上のことを調べようと思っている。その手掛かりになることを知っておきたいんだ」
「わかったわ…」
 アスカはちいさくうなずいて自分の胸元に手を置くと、何かを手繰り寄せるように指先を動かした。

「母の名前はナツコ…。父の名前は知らないの。当時は外国人とのつながりには世間がうるさくて…。乳母だったツタにさえ母はその名前を言えなかったの。でも日本を離れる前に、父はこれを母に残したのよ…」
 アスカは大きく開いた胸元から小さな金色のロケットを取り出した。アレックスの視線は真珠色に輝くアスカのなめらかな肌に煌く小さなロケットに釘づけになった。そしてアスカは両手を首の後ろに回して鎖の留め金を外すと、小さなロケットを手にとってアレックスに差し出した。

「これが役に立つならあなたに預けるわ。わたしは長い間ずっと母を独りぼっちにした父を許せなかったの…。母は最期まで父に会いたがっていたから…。だからいつか本当の父に会うことが出来たら聞いてみたかったの。本当にわたし達を愛していたのかって…」
 アスカの言葉はアレックスの胸を貫いた。
“ロバートは…君のお父さんも君たちに会いたがっていたよ…。”
 そう言い掛けた言葉をアレックスはグッと飲み込んだ。
“今はまだ真実を告げるべきではない…” アスカも…アレックス自身も、その現実に向き合う準備は出来ていないのだ。

 アレックスは手のひらに置かれた小さなロケットに視線を落とした。見事な金細工だった。裏側に彫られた紋章はまさしくウィンスレット家のものだ。こんなに間近に接していながら、自分は何ひとつ見抜くことは出来なかったなんて…。激しい痛みがアレックスの胸を貫いた。
 一瞬アレックスの顔に過ぎった苦痛の色をアスカは見逃さなかった。

「アレックス…どうかしたの…?」
「いや、何でもない…。ほかに何か手掛かりになるものはあるかい…?」
「ええ、この中に父の髪の毛が入っているの…」
 小さな金色のふたを開けると、中から薄紙に丁寧に包まれた濃い金褐色の髪の毛が現れた。亡くなる前のロバートの髪は銀色がかった金髪だったけれど、アレックスの記憶にある若い頃の叔父は確かに豊かな金褐色だった。
“もう間違いない…。アスカはロバートの娘だ…”

 アレックスは目を閉じてその小さなロケットを握り締めると、ふたたびそれをアスカの首に戻してやった。
「これは君が持っているといい…。これでも記憶力はいいほうなんでね。一度見たものは忘れないんだ。大丈夫。あとはすべてボクに任せてくれるね…?」
「ええ…」
 アスカは小さくうなずいた。

「さあ、今夜はもう遅い。ボクもこれからジャマールとロンドン行きの計画を立てなければならないんだ。今夜は安心してゆっくり休むといいよ…」
 そう言ってアレックスは優しくアスカにキスをすると、彼女を廊下へと送り出した。まだ賑わいの残る屋敷の中を自室へと続く階段を上りながらアスカは、今夜のアレックスの態度が何かいつもとは違うことに気付いていた。
 さっきのお休みのキスも優しかったけれど、今までのような情熱のこもったキスとは全然違う。日本を出て以来、彼はアスカに対してずっと礼儀正しく接してくれているけれど、それは彼女の身体を案じてのことだとアスカはずっと思っていた。時々はハッとするほどの切ない眼差しで見つめていることも知っていたし、そんな時は彼も自分と同じように、あの日本で過ごした情熱的な夜を彼も忘れていないのだとわかって嬉しかった。
 なのに…さっきの彼は、まるで他人行儀でよそよそしかった。

“ いえ、何でもない…。英国に戻れば彼には彼の立場があるのだし、そのために計画を立てなければならないことが山ほどあるのよ…。今は何も考えるのは止めよう…。黒柳のことがあったあとでも彼はアスカを変わらず求めているといってくれた。その言葉を信じなければ…”
 アスカはリリアの手を借りてドレスを脱ぐと、何も考えないようにしてベッドに入って目を閉じた。




 3日後、すべての準備を整えて…アレクサンダー・マレー号は宝龍島を出航した。大陸で2週間のハネムーンを予定しているイェンとメイファンを伴って香港に着くと、香港のホテルにイェンと女性達を残して、アレックスはジャマールを伴って領事館へと出かけていった。

「まったく、旦那さまの忙しさは殺人的ですね。前はジャマールに任せてご自分は好きなことをなさっていたのに、最近は何もかもご自分でなさらないと気がすまないみたい…」
「彼は責任のある身ですもの。仕方がないわ…。最近香港の総領事が交代して、その引継ぎとかで忙しいとイェンが言っていたでしょう…?」
「それにしたって、ホテルの部屋にお嬢様を閉じ込めたままにしていいってことにはなりませんよ」
 部屋で二人っきりになったとたんに、いつものようにリリアが不満をぶちまけた。リリアがこんな風に主人であるアレックスのことを言うのも、多分な崇拝の裏返しだとわかっているから、思わずアスカは微笑んだ。

「まあ、そんなことはないわ。昨日はイェンやメイファンと一緒だったし、今日だってあなたと一緒に買い物だってしたじゃないの…」
 リリアはさっきからこの2日間のアレックス不在に対して不満をまくし立てているが、アスカは半分諦めていた。なぜかあれからアレックスはわざとアスカを避けているような気がする。アスカは服の上から首にかけている母の形見の小さなロケットを握り締めた。これを見た時のアレックスの顔に過ぎった一瞬の苦悩をアスカは忘れられなかった。
“もしかしたらアレックスはアスカの知らない何かを知っているのかも知れない…。いいえ、止めよう…。彼はわたしに信じて欲しいと言ったのよ。その言葉を信じなければ…”

「わたしはもうすぐアレックスとロンドンに行くのよ。同じ船に乗って行くんだから、話す機会はいくらでもあるわよ」
 果たして本当にそうだろうか…? 次々と心に湧いてくる疑問にアスカはすぐさまノーとは言えなかった。このところの彼のよそよそしさを考えれば、先のことはまったくわからない…。日本にいた頃、アスカは彼に愛されながらまた別の不安にも苛まれていた。あの目くるめく愛の日びの中で、アスカは自分も母のようになるのではないかと恐れていた。
 アレックスの子供を身籠り…やがては外国人によって大陸に連れ去られたラシャメンと呼ばれた女たちのように決して跡継ぎにはならない私生児を生むことを…。でも幸いにもアスカは妊娠しなかった。アレックスは本国に戻ったらアスカを花嫁に迎えたいと言ってくれたけれど、それすら今は流動的だ。
“なぜかはわからないけれど、彼は今わたしと距離をおきたがっている…。”
 その事実はアスカを苦しめていた。
「さあ、くよくよ考えていても仕方ありませんよ。わたし達はわたし達で楽しみを見つけなければ…」
 リリアの口調が可笑しくて、アスカは思わず微笑んだ。





「それが君とアスカが別の船で行くという理由なのか…?」
「ああ、そうだ。オレとアスカはしばらく距離を置いたほうがいい…。アスカがロバートの娘、つまりはオレの従妹だという事実はロンドンに着くまでは誰にも言うつもりはないし、オレが自分の船に未婚の女性を同行したと噂されるのも困る…」
「自分の婚約者だとしても…?」
「なおさらだ…」
 ホテルのスイートルームの一室で、アレックスはジャマールと向かい合って今後のことを話し合っていた。アレックスは宝龍島でイェンから衝撃的な事実を聞かされて以来、これから先アスカとの関係をどうするべきか、ずっと考えあぐねていた。長い間感じていた心の空洞を、やっと埋め合わせてくれるかけがえのないものをやっと見つけたというのに、それが実際には永遠に手に入らないものだったという事実は、彼の鋼の精神をも打ち砕き、それにジャマールが気付かないわけがない。
 この数日アレックスの様子を訝しげに眺めていたジャマールだったが、アレックスがマレー号を下りると言った事で、もう放っておけないと思ったらしい。1時間前、有無を言わせない強引さでアレックスをこの部屋に押し込んだのだった。

「今さらわたし相手に下手な言い訳は要らない。何が君の態度を変えさせたのかはっきりしてもらおう…!」
「どうやってもオレの口からしゃべらせたいらしいな…」
「もちろんだ。わたしとの間に隠し事は無用だ…」
「ああ…」
 それには最も強い気付が必要だとばかりに、アレックスは部屋の隅のキャビネットの中から年代もののコニャックを取り出した。グラスをジャマールに差し出したが、ジャマールが首を振るとアレックスはそれに琥珀色の液体を注いで一気に飲み干した。

「アスカとは結婚できない。我が英国貴族の…王族にまつわる法律で…従兄妹同士の婚姻は認められていない。アスカがロバートの娘である以上、仕方がないんだ…」
「それは真実なのか…?」
 苦しげな表情のアレックスが2杯目のグラスに手を伸ばすのをジャマールはじっと見つめた。
「ああ…アスカの父親が日本を離れる前においていったというロケット付きペンダントにはこれと同じ紋章が描かれていた」
 アレックスは片手を乱暴にジャケットの中に突っ込むと、表面に銃弾の痕のある懐中時計をとりだ出した。
あの日…アレックスを銃弾から救ったロバートの形見の時計だ。

「おれがこの紋章を見忘れるわけがない…。」
「だろうな…君が父とも慕っていたウィンスレット卿の紋章ならば…」
 しばらく二人は無言で見つめ合う…。ジャマールの黒い瞳が探るようにアレックスの瞳を見つめた。

「アスカを愛しているんだろう? 従兄妹としてではなく…ひとりの女性として…。わたしは君があらゆる場面でいろんな女性の相手をするのを見てきたが、アスカに接する時ほど優しく思いやりに満ちた君を見るのは初めてだった。だから確信をもって言えるんだが…君は間違いなくアスカを愛している…」
「だからといって何が出来る…? アスカとは結婚できない…その事実に変わりはないんだ…!」
 吐き捨てるようにアレックスは言った。

「そうかな…? わたしの国では欲しいと思えば、異母姉妹でも妻に出来る」
「野蛮だな…だがオレは英国貴族院の一員としてこの因習には従わなければならない…。ロバートは遺言の執行人としてオレを選んだ。オレはロバートの娘…つまりはアスカの後見人としてロンドンに着いたら、速やかに彼女を伯爵家の相続人として世間に認めさせ、立派な夫を見つけてその身を託さなければならない…」
「だがそれは決して君自身ではないと…?」
「当然だ!」
 苦渋を込めた言葉にジャマールは目を細める。こんな時優秀な指揮官で友人でもある彼がどんなに頑固になれるか知っているのだ。
「わかった。で、アスカにはもう話したのか?」
「いや、まだだ。やっと傷の癒えたアスカに今この事実を伝えるのは妥当ではない…」
「妥当か…」
 すでに後見人の口調になっているアレックスにジャマールは、彼の苦悩の大きさを知った。

「ではこの件に関して…これからのわたしの予定を聞かせてくれないか…?」
 努めて冷静な口調を保っているジャマールに、アレックスは心から感謝していた。この副官は何があっても取り乱すことがない。常に客観的な意見を持ち、どんな場面でも落ち着いた態度でアレックスを支えてくれる。もし今この場でジャマールにアスカに対する本当の気持ちを詰問されていたなら、きっとアレックスは悔しさと腹立たしさで、すべてを台無しにするほど取り乱していたに違いない。

「アスカとは少しずつ距離をおいて…彼女が冷静になった時にすべてを打ち明けるつもりだ。そのためには可能な限り二人だけにならない方がいい」
「だから君とアスカはマレー号に乗らないことにしたのか?」
 アレックスはジャマールを彼の代理に立て、一足先にマレー号でロンドンに出発させることに決め、自分達は他の乗客がたくさんいる客船でロンドンに戻ることを選んだ。たとえアスカがアレックスのフィアンセのままだったとしても、独身の男女が長期間ひとつの船で旅をすることは好ましくない。まして適齢期の娘が付き添いなしに外を出歩くことには世間はうるさいのだ。
「仕方ないだろう。アスカはリンフォード伯爵令嬢だ。彼女の評判を落すわけにはいかない。しかるべきシャペロン(付き添い)を付けてロンドンの社交界に送り込むまでは…」
「そして名高いシェフィールド公爵が彼女をエスコートする…? 完璧だな…」
「おまえの言いたいことはわかる。これはオレにとっても最大の試練になるだろう…。離れていることで彼女の安全が保たれるならば、彼女にとってもいいことのはずだ…」
「わたしには君らしくないむちゃくちゃな理論に聞こえるが、君たちキリスト教国のルールは我々異教徒には理解できないね。わたしはただ君とアスカには幸せになってもらいたいだけだ」
「ああ…幸せにも形はいろいろあるだろう…」
 苦渋に満ちたアレックスの言葉を聞いて、ジャマールはそれ以上何も言わなかった。それから二つ三つ言葉を交わしただけで、黙ってうなずいてから部屋を出て行った。

ジャマールがいなくなると、アレックスは部屋の金庫の鍵を開けて重々しいベルベットの四角い箱を取り出した。指先でそっと表面を撫でてから…ためらいがちにふたを開く。赤い血のようなサテン地の台に納まった煌びやかなルビーやダイヤモンドで飾られたティアラが現れる。
 このティアラを頭に戴いたアスカは何と美しかったことか…。一糸まとわぬ姿にこのティアラを付けた姿をもう一度見たいとアレックスは切望していた。それがもう二度と叶わないとは…。
 アレックスはかつてアスカの美しさに幻惑され狂信的にその姿を追い求めた黒柳に、今初めて哀れみを感じていた。あの男も叶わぬ想いに身もだえしていたのだろうか…? 
“アスカは男にとっての永遠の女神なのかもしれない…。そしてオレは決して得られないと知りながら、必死でそれを追いかける哀れな下僕か…”

 新たなる旅立ち 1

 香港を出てインドのポンペイに着くまでは比較的穏やかな航海が続いていた。長い間英国の植民地だったインドは、1858年のシバーヒーの反乱を経てムガール帝国が滅亡したあと、英国の直轄支配となり、約20年後にはインド帝国として成立している。
 ポンペイも主な貿易港として他の主要都市マドラスやカルカッタとともに素晴らしい発展を見せていた。ポンペイに留まったのはわずか数日間だったけれども、その間アスカはリリアとともにインド独特なオリエンタルな雰囲気を十分愉しむことが出来た。数時間港の近くにある市場にも足を運んだが、護衛のためにアレックスが付けた数人の屈強な男たちが常について回っていたにも関わらず、結構愉しめたことがアスカは嬉しかった。
 アメリカにいた頃、養父だったジェームズ・メルビルは、時々船旅にアスカも同行させてくれたけれど、それはアメリカ国内に限られていたから、こんな風に外国の異文化に触れる機会はまったくなかった。すべてが目新しくて、ポンペイで過ごした数時間は、ここしばらくアスカがずっと感じていた憂鬱を忘れさせてくれるには十分だった。

 興奮したアスカとリリアが港に戻ると、港には肩に肩章と立派な制服を身に着けた若い船員らしき人物が待ち構えていた。濃紺に金色の記章をつけた彼は、アスカたちの側までやってくると、優雅な仕草で帽子を取って胸に置き、丁寧に頭を下げる。
「はじめまして…クイーン・ビクトリア号の航海士、アンドルー・ホプキンスです。どうぞ、ドルーとお呼びください。クレファード卿からお嬢様と付き添いの方を船にお連れするよう言い付かりました」
「アレックスから…?」
「はい。閣下はすでにビクトリア号に乗船なさっています。」
 アスカは航海士が指し示す方向に停泊する見上げるような大きな客船を見つめた。アレクサンダー・マレー号もアスカにとっては十分称賛に値するほど豪華で立派な船だったが、目の前にそびえたつ船はマレー号でさえかすむほどだ。大きさも数倍あるばかりでなく…堂々とした風貌は美しく、白と黒の船体のコントラストは何とも言えず上品で、その名前のとおり女王に相応しかった。

「気に入っていただけましたか…? この船は2ヶ月前に処女航海に出たばかりなんです。わが社の誇る最新鋭の蒸気客船なんですよ」
 ドルーはこぼれるような笑みを見せながら、ふたりを船の後方のタラップへと誘う。彼の明るい栗色の髪と魅力的なとび色の瞳をポカンとした表情で見とれていたリリアは、アスカに困ったような表情を向けた。
「大丈夫よ。りりア、御覧なさい。マレー号の仲間の何人かがわたし達の荷物を運んでくれているわ。間違いないわ、これは誘拐ではないわよ」
 アスカは笑いながら心配そうなりリアの手を軽く叩いた。さっき港で誰かがここポンペイでも旅行中の若い娘が奴隷商人に誘拐されることがあると言っていたのをりりあは覚えていたのだ。
 でも大丈夫。そのためにアレックスは護衛として屈強な船乗りたちを付けていてくれていたのだから、もしこれが誘拐なら彼らが黙っているはずがない。
「でもお嬢様、さっきの方は私のことを付き添いとおっしゃいましたわ。わたしは…」
「あなたはわたしの友達よ。それでいいんじゃないの。さあ、行きましょう…」
 まだ不安そうなりリアを促して、アスカは少し離れたところで待っているアンドルーのところへ向かった。新しい船に移ることへの不安はあったけれど、アレックスも一緒なのだ。それなら我慢できる。アスカは自分に納得させて歩きだした。


 案内された船室は申し分なかった。ビクトリア号自体豪華なホテルがそのまま海上に移動したようなそんな印象を受けた。何もかもが桁外れで素晴らしい。広い居間とバスルーム、豪華なベッドルームとどの部屋の装飾も目を見張るばかりだ。二間続きのスイートルームにそれぞれ衣裳部屋まである。そのスィートのひとつに自分の荷物が置かれているのを見てりリアはすっかりうろたえていた。
「まあ、そんな…。お嬢様と同じ部屋に泊まるなんて、そんなこと…」
「あら、同じじゃないわよ。隣の部屋じゃないの」
「同じことです。そんな、使用人のわたしがこんな豪華なお部屋に…」
「気にすることはないよ、りリア。そうするように手配したのはボクだから…」
振り返ると部屋の入口でアレックスが可笑しそうに笑って立っていた。

「独身の男女が同じ部屋で泊まるわけにはいかない。まして令嬢が付き添いなしで船旅をすることもね。りリア、だから君には今日からアスカのシャペロンを務めてもらう。もともと君は勤勉な教会牧師の娘なんだから教養もたしなみも十分だろう。そのために必要なものはすべてそろえておいた。君はもう小間使いじゃない。れっきとしたレディの付き添いなんだ。そのつもりで頼むよ。いいね…?」
 アレックスの言葉を聞いて、りリアは涙ぐむ。両親が早く死んで、遠縁に預けられたりリアは15歳から必死で働いてきた。あのまま父が生きていてくれたら、裕福とまではいかなくても牧師の妻くらいにはなれたのではと何度思ったことだろう。20代半ばになってこんな幸運が訪れるなんて、リリアには夢のようだった。

「ありがとうございます、旦那さま。しっかり務めさせていただきます」
「ああ、頼むよ、アスカわかってくれるね? ボクは君をレディーとして英国へ連れて行く。この船の中では君はメルビルの令嬢として過ごすんだ」
「でも父の名前は…」
 アスカの表情が不安に曇るのを見てすぐアレックスは言い放った。
「大丈夫、香港に着いて本国にことのし次第は報告してある。今頃は父上の汚名はすべて晴らされていることだろう。アンソニーも堂々と本国へ帰ることが出来る。メルビル海運はすべて父上がいた頃に戻ったんだよ」
「ああ…アレックス…!」
アスカは何の躊躇いもなくアレックスの胸に飛び込んだ。居間はこの数週間感じていた彼のよそよそしい態度も気にならなかった。純粋に彼の胸の温かさを感じたくて、アスカはそっとその胸に頬を寄せる。
 アレックスは一瞬躊躇したものの…それからアスカの細い肩を両手でしっかりと抱きしめる。艶やかなその黒髪に顔を埋めた瞬間、彼の中の自制心が弾けとんだ。片手をアスカの背中からうなじに這わせ、もう一方の手を豊かな髪の中に差し込んでグッと引くと、激しく唇を奪った。
 アレックスの唇が覆い被さってきた瞬間、クラクラするようなめまいに襲われて…アスカは小さく悲鳴を上げる。
“やはりアレックスもわたしを求めている…!”
 嬉しくなってアスカも夢中になってキスを返すと、アレックスの上質な黒い上着の中に手を入れて、シルクの白いシャツの上から、逞しい胸を撫でた。互いに夢中になるあまり、ドアをノックする音にも気付かなかった。

「心配で来て見ればやはりな…」
 からかうような低い声を聞いて、アレックスはとっさにアスカから身を引いた。突然支えを失ってアスカは近くのソファーに手を突いた。
「さっきから可哀相にリリアが目のやり場に困っているじゃないか、慎みを忘れる前に、周りに誰かいるかくらい考えてもらいたいものだね」
「あ、あの…わたし荷物を片付けて来ます」
 ジャマールはその場の雰囲気を愉しむように笑っているが、真っ赤になったリリアは自分お部屋に飛び込んでドアを閉めてしまう。それを見て飛鳥も恥ずかしさに顔を上げられなかった。

「からかいに来たのかジャマール…?」
 悪戯を見つかった子供のようにアレックスも罰悪そうにジャマールを振り返った。

「いや、アスカにお別れを言いに来たんだ。ロンドンに着くまでしばらく会えないからね…」
「あら、あなたは一緒に行かないの?」
 びっくりしてアスカは顔を上げた。
「ああ…わたしは英国人の文化にはそぐわなくてね。一足先にマレー号で、ロンドンに向かうよ。そこで君たちを待っている」
「ジャマールにボクの代理を頼んだんだ。女王は一刻も早く手元にティアラが戻って来ることを望んでいる。」
 落ち着きを取り戻したアレックスは、アスカの手を取ってソファーに座らせると、自分もその隣に腰を下ろした。そしてジャマールが向かいに座るのを待って、ドアの外で控えていたメイドに合図してお茶の用意をさせた。
 アスカが顔を上げるといつの間にかシンプルな部屋着に着替えたリリアがジャマールの「隣に座っている。
「さて、ちゃんと説明するよ。これから君とリリアはボクの招きでロンドンに向かうことになっている。さっきも言ったがリリア、君はもうクレファード家の使用人じゃない。ボクの古くからの知人である牧師の娘でシャペロンとしてアスカに付く。いいね?」
「はい、旦那さま…」
「その旦那さまというのもやめてもらおう。ボクのことは今日からクレファード卿と呼んでもらう。そしてジャマールには一足先にロンドンに行って君の父上について調べてもらうつもりだ。我々がロンドンに着く頃にはきっと、何かわかっているはずだから…。それまでは君はアメリカの実業家ジェームズ・メルビル氏の養女ということになる」
「ええ、わかったわ」
 アスカは小さくうなずいたが、その間…アレックスとジャマールの間に交わされた特別な眼差しの意味には気付かなかった。

新たな旅立ち 2

 アスカをのせた英国随一の豪華客船は、昨年開通したスエズ運河を通って、2ヵ月後にはエジプトのカイロを経由してキプロスに立ち寄ったあと、ギリシャをかすめてイタリアへと向かった。
 最初アスカは初めて乗る客船の素晴らしさにすっかり心奪われたが、その豪華客船がそっくりアレックスの持ち船だと聞かされてさらに驚いた。

「いったいあなたは世界にいくつの船を持っているの?」
「さあ…気まぐれで引き取ったものを含めると、数限りなくというところかな…? もちろんそれはクレファード海運によってすべて適正に管理されているけれどね。その事業にはボクは直接タッチはしない。すべては優秀なスタッフに任せているからね。ボクはただ資本を提供しているだけなのさ。それによって多くの雇用が生まれ、貧しい人々は日々の糧を得ることが出来る。理に叶っているだろう…?」
 確かに…。宝龍島(ホウロントウ)ひとつをとってみても、あの島はまるでひとつの産業のようだった。人々は活力にあふれ、あらゆる人種の人々がひとつの社会の中で共存していた。アレックスはあの人たちを救うためにあの島を作ったのだとイェンは行っていたけれど…。
“わたしはアレックスのほんの一部しか知らない。最新鋭の気船を操る海賊であり、宝龍島の優しい領主で…大富豪で近寄り難い大事業主…? きっとそれだけじゃないわね…”
 アレックスは船の上でもずっと礼儀正しい紳士を演じていた。部屋も離れていたので、食事をする時か、ディナーのあとのカクテルパーティーでしか一緒にいられない。どこへ行くにも優しくエスコートしてくれるけれど、決してそれ以上は近づこうとはしなかった。あくまでも長年の知人という立場を崩そうとしないその態度に、アスカはだんだん我慢が出来なくなってきた。
 
香港を離れる直前に見せたあの情熱はいったいなんだったのだろう…? あすかと同じようにアレックスも求めていてくれるものと思っていたのに…。付き添いとしていつもリリアが側にいてくれたので、淋しさは感じないものの、女としてのアスカは悲鳴を上げていた。
 エスコートするたびにアレックスの大きくてしなやかな指先がアスカの手に触れるたびに、小さな衝撃が小波のように全身に広がっていく…。ダンスをする度に彼の腕に抱かれた瞬間に感じる押さえようのない熱情をアスカはずっと持て余していた。
 もしかしたら英国に近づくことで、彼の中にある何かが変わってしまったのかもしれない…。ここは日本ではない…もうすでにわたしの知らない世界なのだ…。

「アスカさま…?」
 客船の後方に設けられた散歩用のデッキをリリアと一緒に歩いていたアスカは、自分がさっきからずっと考え事をしていて、一生懸命話していたリリアの話を何も聞いていなかったことに気付いた。
「あ…ごめんなさい…。ぼんやりしていて何だったかしら…?」
「ええ、ボーモント夫妻が今日の午後、お茶を一緒にどうかと誘ってくださったんです。いかがいたしましょうか?」
「ええ…もちろん、お受けしてかまわないわ」
 そう言って微笑んだけれど、その笑みはどことなくぎこちなく、きっとリリアにはアスカの心の動揺がわかっていたに違いない。船旅が長くなるにつれて他の乗客とも仲良くなったが、それでもアレックスを求める気持ちの穴埋めにはならない。
 アレックスは時々自分の代わりにアンドルーをよこしたが、それもアスカは気に入らなかった。

「旦那さま、いえクレファード卿はお忙しいんです。この船はご自身のものですし、今回この船にはクレファード商会の株主の方も多く乗っていらっしゃるとか…。その方々とのお付き合いも疎かにはできませんわ」
「きっとそうね。あの人は英国に帰れば大事業主で、公爵様ですもの…」
寂しげに笑うアスカの手をリリアはギュッと強く握った。
 その時不意に誰かがアスカの目の前に立った。襟に皮の切り替えのある上質のジャケットにそろいのベスト…ピッタリとしたズボンで固めた姿はどこから見てもれっきとした紳士だった。背は高く髪は黒色の…年齢は30代半ばだろうか…ニッコリ微笑む顔はとてもハンサムだ。

「ミス・メルビルですね…? 自己紹介させてください。ボクの名前はロニー・ウォルター、昔ニューヨークで父上と一緒に仕事をさせてもらったことがあるんですよ。キプロスからこの船に乗り込んだんですが、メルビルの令嬢が乗っていらっしゃると聞いて探していたんですよ。父上は大変お気の毒でした」
 ウォルターと名乗る男は人懐っこい笑みを浮かべながら、アスカの手を握り締める。
「ええ…こちらこそ、ミスター・ウォルター」
「でも、父上の容疑は晴れたと聞いていますよ。本当に良かった。父上は高潔な方で不正の出来るような方ではなかった…」
「ええ…そのとおりです」
 この船にはアレックス以外誰も知り合いはいないと思っていたから、父の知り合いだと名乗るウォルターの登場はアスカにとっては思いがけない歓びとなった。それからしばらく辺りを散策しながら会話したあと別れたが、別れたあとも何となくホッとした気分だった。

「驚きましたね? 意外なところで知っている方に出会うなんて…」
「知っているのは父のほうよ。わたしじゃないわ。でも話の出来る方に会えたのは良かったわ」
「そうでしょうとも、お嬢様にはそんな息抜きが必要なんですよ。これからまったく新しい世界に飛び込むんですもの。英国の貴族の世界は、それはもう偽善的な世界せすから…」
 リリアは寂しげに微笑む。彼女はアレックスたち貴族の生活がどんなものかよく知っているのである。

「昨夜キプロスから乗ってきた方々を見ましたか? ミスター・ウォルターもそうですが、キプロスには英国貴族の地所や別荘がいくつもあるんです。多くの方たちが贅に飽かして多くの奴隷たちを従えているんですよ。国内では社交界の手前、みんな大人しくしていますが、国外に出ればみんなやりたい放題なんです。国内の領地に妻子をおいておいて、自分はロンドンや海外の領地に愛人をおく…。一見紳士を気取っている男たちも一皮向けば、みんなろくでなしばかりなんです」
「まあ、それはアレックスも含めて…ということね?」
「それは旦那さまも男ですからね。とかく噂は絶えませんでしたよ。ただ忙しい方で、1箇所にひと月以上いらした試しがありませんでしたから、そんなに永く続いた愛人といわれる方はいらっしゃいませんでしたね」
“形は違うけれど、わたしが初めてということね?”
 アスカは心の中でつぶやいた。“恋人…それとも愛人? ”
 まだその言葉には親密さが感じられる。今のアスカとアレックスの関係は、そのどちらでもない気がしてアスカはまた悲しくなった。
 
「お気をつけください。昨夜の客の中にレディー・フィオーナを見かけました。彼女は3年前ロンドンにいた頃、旦那さまと噂になった方です。もと女優で、3年前にさる老男爵と結婚されたとか…。でも最近御主人を亡くされて、今は裕福な未亡人らしいのですが…」
 リリアはアスカの耳元でささやいた。
「男爵家に使えるレディー付きのメイドとは昔からの知り合いで、彼女から聞いたんです。レディーフィオーナは、次の結婚相手に旦那さまを狙っているらしいのです」

 英国に戻れば、アレックスの評判は嫌でも耳に入ってくる。そのことは覚悟していたけれど、こんなに早くその現実を目にするとは思っていなかった。
 さっそく現れた彼女は、金色の髪と淡いグリーンの瞳を持った艶やかな美女で、ディナーの席にアスカとアレックスが現れると、すぐさまにじり寄って来てアスカには目も留めずにアレックスの首に手を回してその唇に情熱的なキスをした。

「アレックス、ダーリン! 会いたかったわ…!」
「フィオーナ…」
 アレックスは目の覚めるような真っ赤なドレスに身を包んだ豊満な彼女の身体を自分から引き離すように押し退けると、片手でアスカを引き寄せた。
「アスカを紹介するよ。アスカ・フローレンス・メルビル、ボクの客人だ。アスカ、彼女はレディー・フィオーナ、クラフトン男爵夫人だよ…」
 アスカは軽く手を差し出した。フィオーナは手袋の上からおざなりにアスカの指先に触れると、冷たい眼差しでアスカを一瞥した。明らかな敵視にアスカは怯んだが、表情には出さなかった。
 アレックスは又あとで…そう言ってフィオーナの側を離れたが、ふと見上げたアレックスの表情は固かった。

 食事の間中彼は何かと気を遣ってアスカに話しかけてきたけれど、少し離れた席からじっとこちらを見つめるフィオーナの冷たい視線が気になって、アスカはその半分も集中できなかった。
「アスカ、フィオーナのことなら気にしなくてもいい…。彼女とは3年前に少しかかわりがあっただけだ。とっくの昔に終わっている。ジャマールがここにいたら証明してくれるんだが…」
「ジャマール…今ごろ彼はどの辺りにいるのかしら…?」
「おそらく、マレー号のスピードなら今ごろはスペインの先まで行っているだろう。英国に着くのも、もう間もなくだな…」
「あなたはわたしに付き合ってくれているのでしょうけれど、あなたの帰りが遅くなっても問題はないの?」
 食事のあと、アレックスは葉巻とブランデーの誘いを断って、アスカを誘って最上階のデッキへと上がった。ここはいわばアレックスの個人的なスペースでここなら他の客に見られる心配はなかった。
 暗いデッキをほのかな明かりが照らし出す。その中をアスカの手を引いて歩いていく。周りに誰もいないのを確かめてから、アレックスはアスカを引き寄せる手に力を込めた。
「これから先は君にとっては新しい世界だ。ボクに関することで、この先君が不愉快に感じることは多いと思う。だがボクを信じてほしい。それはすべて過去のことで未来のことではない。君を誰よりも大切に思う気持ちに変わりはないからね」
「ええ…信じるわ…」
 温かなアレックスの胸に引き寄せられて、彼の上品なコロンの香りと男らしい麝香の香りに包まれた時、アスカは何の疑いも持たずそうつぶやいていた。
“いつだってアレックスはわたしを魅了する…”
“ あの出会いの時…海面から這い上がってきた背徳の堕天使ルシファーを見た瞬間、たぶんわたしは逃れられない魔法の虜になってしまったのだろう…”

 夜風がアレックスのプラチナブロンドを揺らし、端正な顔立ちの中でもひと際目立つ碧い瞳がきらりと光り…その瞳がまっすぐアスカを見下ろしている。その眼差しの中に確かな欲望の翳りを見ることが出来るのに、当の本人は頑ななまでに頑固だ。
 彼はその眼差しだけでアスカを蕩けさせることが出来ることを知っているのだろうか…?
たぶん…知っているはず…。日本であれほど情熱的な夜を過ごしたのだから…。

「ボクがいつか叔父の話をしたのを覚えているかい…?」
 何の前触れもなくアレックスは言った。
「ええ…。あなたを10歳の時からずっと育ててくれた方でしょう? その方が本当の父親ならどんなに良かったかとあなたは話してくれたわ…」
「ロバート・ウィンスレットはあらゆる面でボクのすべてだった。彼がいなければ今のボクはなかっただろう。母方の叔父で領地も近かった。叔父は若い頃から常に海外に目を向け、10代で海軍に入隊して、最初に闘ったスペインとの海戦はいつまでも彼の語り草だったよ…」
 ひとつひとつ記憶を手探りするように…気が付いたらアレックスは、アスカに自分の子供の頃からの叔父との楽しかった思い出をしゃべり続けていた。

「そうなの? きっとあなたの叔父様は世界一の冒険家だったのね?」
「ああ…そして素晴らしい人物だった…」
 夢想するようなアレックスの端正な横顔を見上げながらアスカは、少年のアレックスに多大な影響を与えたその人物にあってみたくなった。

「その方は今どこに? ロンドンにいらっしゃるの?」
無邪気な問いかけに、次の瞬間…アレックスの顔に苦痛の表情が浮かんだ。
「いや…ロバートは8ヶ月前に亡くなった。ボクが英国を離れる少し前に…」
「まあ…! それはお気の毒に…。わたしも会ってみたかったわ…」
「ああ…そうだろう…」
“ロバートは君の実の父親なんだから…。”
 喉まで出掛かった言葉をアレックスは飲み込んだ。澄んだ水晶のような淡い銀色の瞳…ロバートと同じその瞳をどうして自分は見落とすことが出来たのだろう…? 心からの同情と哀悼の想いを込めて、彼を見上げるその瞳に、アレックスは今さらながら惹かれた。
“今、アスカに本当のことを話せ…!” 
 そう心は告げていたが、アレックスはそれを無視した。アスカに真実を話せば、その時点でアレックスは永遠にアスカを失うことになる。その時をアレックスは少しでも永く引き伸ばしたかった。

「ロンドンに着けば会えるよ。ロンドンのタウンハウスには肖像画もあるから…。さあ、今夜はもう遅い。そろそろ部屋に戻らなければ、きっとリリアが心配していることだろう」
 アレックスはアスカの部屋の前まで送ってくると、サッと唇をかすめるようなキスをして去って行く…。残されたアスカは、その後姿が廊下の端に消えるまで目を離すことが出来なかった。
 アレックスはさっき、何かを話そうとしていた。一瞬言いよどんだその顔に浮かんでいた表情がとても悲しそうに見えたのだ。
 ふだん豪奢なアレックスが、一瞬見せた傷つきやすい少年のような表情に、アスカは彼の心の中にある深い傷跡を感じた。少年アレックスが抱える癒されることのない傷跡にアスカの心は痛んだ。




 メルビル嬢には3日前からロニー・ウォルターが近づいてきています。今のところ危険な動きはしていませんが、あの男は油断できません…」
 アンドルーは制服姿でアレックスの前に立つと、厳しい表情で彼に向き合った。
「ウォルターならニュ=ヨークで会ったことがある。新聞記者だと言っていたが、実際にはわからないな…」
「乗船の目的は、表向きはこの船の取材ということになっていますが、必要以上にメルビル嬢に近づいているように思われます」
「わかった。引き続きウォルターの動きに気をつけておいてほしい」
「わかりました。サー…」
 アンドルーが部屋を出て行くと、アレックスは広いデスクに両肘をついてそのまま頭を抱え込んだ。アスカと距離をおくと決めておきながら…ひとりでいると気が付けばアスカのことばかり考えている。おまけにキプロスから乗り込んで来たロニー・ウォルターは、機会があればアスカに近づこうとしているらしい。
 たしかにアスカは美しい。繊細さに加えてヨーロッパの貴婦人にはない野生的な魅力があって、男心をそそるのだろう。船に乗り込んでいる独身者ばかりか、妻を同伴している紳士をはじめ、この船のクルーまでもがアスカの持つエキゾチックな美しさについて噂しているのを知っていた。
 自分が決して手に入れられないとわかっていながら、アスカが他の男のものになることを考えるだけで耐えられなくなる…。ましてウォルターは危険だと本能が告げていた。アレックスはイライラしながら、傍らのブランデーのグラスに手を伸ばした。
 こんな時、側にジャマールがいないのがもどかしい。ジャマールならもっともらしい意見を言ってアレックスを納得させてくれるものを…。ジャマールの代わりに若いアンドルー・ホプキンスを側に置いたことをアレックスは後悔し始めていた。
 アンドルーはもとはカリブの海賊の一員だった。身寄りも無く数年前、10代の頃にアレックスの
軍に加わって、度胸の良さと頭の回転の速さを買って、ジャマールが目をかけて育てている若い士官の一人だった。その忠誠心と有能さではジャマールに引けは取らないものの…信頼という点では彼の比ではなかった。

 近いうちにアスカに真実を告げなければならない。それも出来るだけ早く…。日延ばしにしても事をややこしくするだけだとわかっていても、アレックスにとってそれは簡単ではない。ロニー・ウォルターとフィオーナの登場はさらに事態を混乱させることになった。




 イタリアに立ち寄った後、船はイベリア半島を回って…一路英国を目指していった。アスカとアレックスの関係は相変わらずで、これ以上はないというほどアレックスはアスカを大切に扱ってくれるけれど、恋人時代の親密さはまったく感じられなかった。
 最初は身を切られるほどの辛さに苦悩していたアスカも次第にそれに慣れていって、リリアや船内で出来た友人たちとの付き合いにその慰めを求めていった。

「ボーモントご夫妻とイタリアでお別れしたのは残念でしたね? とてもいい方でしたのに…」
 リリアが寂しそうに言った。ボーモント夫妻はアメリカ人で、インドに医師として赴任していたが、引退したのを期にイタリアにいる息子夫婦を尋ねていくのだという。50絡みの人のいい夫婦で、アスカは乗船するなりすぐ仲良くなり、アレックスが側にいない時にはほとんどこの夫婦と一緒に過ごした。二人ともアスカのことを本当の娘のようだと言って可愛がってくれた。
 その二人と別れたことはアスカにとっては大きな事で、心の中にぽっかり大きな穴が開いたような気がしていた。
「ええ、でも英国まではもうすぐだってロニーが言っていたわ」
「ロニーってあのミスター・ウォルターですか? 」
 ロニーのことをどこかうさんくさいと感じているリリアは、機会があるたびに口実を付けて近づいてくる彼を警戒していた。

「新聞記者だって言っていましたが、わたしはあの方を信用できません。何か下心があるような気がして…」
「まあ疑り深いのね…彼は父の知り合いだと言っていたわ」
「あの黒柳だって知り合いでした…」
 リリアの言葉は確信を得ていて、アスカには返す言葉も無い。でもアレックスのよそよそしさに傷ついていたアスカにとっては、理由はどうであれロニーの好意はうれしかったのだ。

 その時、ティールームで午後のお茶を愉しんでいたアスカの向かいに座っていたリリアの表情が急に強張る。入口から背を向けていたアスカには、当のロニー・ウォルターが入ってくるのが見えなかった。
「ミス・アスカ…ご一緒してもよろしいですか? 」
 声を掛けられてはじめてそこにロニーが立っていることに気が付いた。

「ええ、どうぞ」
 アスカの返事を待って、ロニーは二人の間の席に腰を下ろした。広いティー・ルームには数組の客がいるだけで、他の客はみんな午後の時間を自分の部屋か上のデッキで日向ぼっこをして過ごしているのだろう。
「紳士はみなさん、午後はカードかゲームコーナーにいらっしゃると思っていましたわ」
 さっきまでの不機嫌を隠してリリアが愛想よく言うと、ロニーはハンサムな顔をほころばせた。
「ボクはアメリカ人ですからね。英国紳士の娯楽には興味が無いんですよ。それよりは魅力的なレディーのお相手をしたほうがよっぽどいい…」
 するとそこへボーイの一人が近づいてきて、リリアの耳元で何かささやくと、リリアはソワソワして立ち上がった。
「お嬢様、すみません…。失礼して先にお部屋に下がらせていただいてよろしいでしょうか? 知り合いから手紙が届いたようなのです」
「もちろん、わたしもすぐにもどるわ、心配しないで…」
 アスカが微笑むとリリアは嬉しそうにうなずいて立ち上がる。軽く頭を下げてそのまま自室に下がっていった。
リリアがいなくなると、それまで愛想の良かったロニーの顔から笑顔が消えた。

「彼女はあなたにとても忠実なようだ。あなたにクレファード卿以外の誰かが近づくのを警戒している。教えてもらいたいものだ。あなたとクレファード卿の関係はみなが言っているようにたんに知り合いなのか? それとも彼の今までの噂が本当なら君は彼の愛人のひとりなのか…? 」
「愛人ですって…!?」
 アスカの顔から血の気が引いた。本当ならすぐにでも笑い飛ばしてしまうべきなのだろう。けれどこの数ヶ月心の中に抱いていたアレックスへの想いがそうすることを拒んだ。
「あなたならどう思いになる? わたしたちそんなに親密に見えるかしら? 」
 涙を瞬きで抑えて微笑むのが精一杯だった。
「いや、それどころか、彼はとても君を大切にしているようだ。ボクは長年彼に注目してその行動を追ってきたんだ。ホークと呼ばれて世界中の海を股にかける彼は、女性に対して発揮する能力も絶倫だという噂だからね」
「まあ、でも今の彼は英国貴族そのものよ。それにわたしはわたしなりの理由があってこの船に乗っているの。でもそれをあなたに言うつもりはないわ」
 アスカがきっぱりと言い放つと、そこでロニーの表情が緩んだ。
「やっぱり君はボクが思ったとおりの人だね。美しいだけじゃなく気骨がある。そこがボクが君を気に入っている理由だよ。もし君がクレファード卿に惹かれているなら気をつけたほうがいい。彼は決して女性には本気にならないよ」
 どうやらロニー・ウォルターはアレックスに対して敵対心を持っているらしい。そう感じてアスカはさっきまで彼に感じていた好意に急に水を差された気がして決まりが悪かった。

「あら本当の彼は噂とは違うかも知れないわよ」
「いいや、違わないね。ニューヨークでも複数の美女を常に侍らせている姿を見たし、ロンドンには何人もの愛人がいるっていう噂だよ」
「あなたは彼が嫌いなの?」
「いや、興味があるって言うべきかな。非情にもなれるくせに、一介の奴隷にも敬意を払う変わった人物だよ、彼は…」
 ロニーの言葉に何か彼なりの複雑な感情があることを感じ取って、アスカは目の前にいる男性のハンサムな顔を改めて別の角度から見つめてみた。彼はアレックスよりは5歳は年上のはずだ。アメリカ人だと言っているけれど、語尾に感じられる微かな英語の発音は、アメリカ人のそれよりは英国人のそれに近いことを自分でわかっているのだろうか? もしかしたらロニーとアレックスの間には、アスカの知らない何かがあるのかもしれない…。

「さて、噂をすれば何とかだ。今君を誘惑して彼に恨まれたくないからね、これで失礼するよ…」
 ロニーはそう言って素早くアスカの手をとって唇をつけると、さっと席を立ってアスカの側を離れた。見れば反対側の扉からひとりの白髪の紳士を伴って、アレックスが入ってくる。
 アレックスは去って行くロニーの後姿を目にして眉をひそめる。そしてアスカが一人でいるのを見ると、紳士に何かささやいてから、彼を連れて真っ直ぐアスカのところへとやって来た。
「やあ、アスカ…さっきのはロニー・ウォルターだね? 君たちがそんなに親しいとは知らなかったな…」
「彼は父と知り合いだったらしいの、ただの友達…それだけよ」
「そうかな…? 彼が君に近づくのは何か別の目的がある気がする」
「あるいはわたしの魅力に惹かれたとか…?」
 アスカはわざとアレックスを挑発するように微笑んでみせる。一瞬彼の碧い瞳が危険な光を帯びてきらりと光った。もしかしてアレックスは、ロニーの存在に嫉妬を感じているのだろうか? そう思ってアスカの心は弾んだが、それは次のアレックスの言葉で完全にしぼんでしまった。
「そうかもしれない…。君は魅力的な人だからその引力に逆らえる男はそういないだろうね」
“あなた以外はね…”
 心の中でアスカはそっと溜息をつく…。そんなアスカの心にまったく気付かないアレックスは、さらにからかうような笑みを浮かべて振り返ると、後ろに立っていた品のよさそうな紳士をアスカに紹介した。

「アスカ、ミスター・ジョン・フォーサイスを紹介しよう。叔父のロバート・ウィンスレットの…リンフォード伯爵家の顧問弁護士でもある。長年の友人でもあるんだよ」
「はじめまして、メルビル嬢でしたな…?」
「アスカ・フローレンス・メルビルです」
アスカがはにかみながら差し出した手をフォーサイスは大きな手で包み込むと、白髪の豊かな髪と恰幅のいい体格の紳士は、人懐こい笑顔を浮かべてうなずいた。
彼の顔に一瞬値踏みするような表情が浮かんだが、それはすぐ賞賛の笑みに変わる。

「いつも思うことですが閣下、本当にあなたのまわりには息をのむような美女ばかりですな。まったく羨ましい。それにミス・メルビル、あなたには特別美しいばかりではなく、何か気品がある」
「まったくです…」
 そう言ってうなずくアレックスの目が真っ直ぐ自分に注がれているのを感じて、アスカは久しぶりに身体の奥から熱くなってくるのを感じた。
“諦めるのはまだ早いかもしれない…”
 アスカは半ば上の空で、二人の話を聞いていた。

新たな旅立ち 3

 ロニー・ウォルターは船室のベッドに横たわって、天井を眺めながらじっと考え込んでいた。
この数年、ずっとルシアン・アレクサンダー・クレファードを追ってきたが、この数週間ほど奇妙な感覚を覚えたことはなかった。

彼は高慢な甘やかされて育った英国の貴族であり、それも生まれながらにして特権階級だけに許されたあらゆる免罪符を持っている。
自分達のように汗水たらして働くことなど考えもしない連中を、ロニーはずっと憎んできた。

彼らは自分達労働階級の人間を虫けら程度にしか考えていない。
自分たちが普段踏み付けている貧しい人々の命など何とも思っていないのだ。
  おまけに彼らは自分達を紳士だといいながら、その裏で下層階級の女達に対して、まるで娼婦だといわんばかりの扱いをする。

 そんな場面を何度となく目にしてきたロニーには、一部の隙もないクレファードは、最も忌むべき相手のはずだった。
それに…彼には人には言えない個人的な恨みもある。

 “小さなアニー”
 ドーチェスターの知り合いの家に預けていた、当時5歳の姪っ子のことは片時も忘れたことはない…。

 13歳年の離れたロニーの妹は、6年前シェフィールド公爵家のメイドとして17歳でロンドンのタウンハウスに雇われ、1年後に使用人として不適切として突然解雇されたのだ。
 それも妊娠したまま…。実家にも戻れず、可哀相な妹はロンドンの下町で娼婦にまで身をおとしてアニーを産み落とすと、妹はそのまま息を引き取った。

 その頃ニューヨークにいたロニーが妹の死を知ったのは半年後で、ロンドンの下町の教会でアニーが面倒を見てもらっていることを探し当てると、すぐさま引き取って昔からの知り合いに預けた。
 アニーを預けたのは子供の頃からの知り合いで、子供のいない人のいい仕立て屋の夫婦だった。
ロニーと妹のマリアンは血の繋がらない姉妹だったが、留守がちな両親に育てられたせいで、二人は血のつながり以上の絆を感じていたのだ。
 あの日まだ若かったマリアンは、高貴なシェフィールド公爵家で働けることを何より喜んでいた。

 ロニーはそのあとすぐ、新天地を求めてアメリカに渡り、二人の間はそれっきりになったのだが、それから2年後にロンドンに戻ってみると、養父母はすでに亡くなり…可愛いマリアンも幼子を残してこの世を去っていた…。

 それからしばらくロニーは悲しみに暮れ酒に溺れる日々が続く。
彼はマリアンをおいて英国を離れたことをひどく後悔した。
 側にいて彼女を守ってやれなかったことで…悲しみと孤独がそんなロニーをしだいに蝕み、やがてそれは妊娠したマリアンをいとも簡単に放り出したクレファード一族への深い憎しみへと変わっていった。

 あの屋敷にメイドとして上がるまではマリアンは、何も知らない無垢な少女だったはずだ。
それをいったい何が…? 当時のクレファード家の当主は先代のシェフィールド公爵、リチャード・ジョシュア・クレファード、アレクサンダーの父親だ。
 その頃息子のアレクサンダーは海軍に所属していて、当時はアフリカにいたはずだが、それでも奴も穢れたクレファード一族のひとりに違いない。ロニーが妹の復讐を誓ったそのすぐあと、リチャード・ジョシュア・クレファードは亡くなり…、ロニーは標的を息子のルシアン・アレクサンダー・クレファードに切り替えた。

 調べてみればアレクサンダーは、父親よりもずっと骨のある人物に見えた。
 それでも聞こえて来る女癖の悪さは、ロニーを納得させるのには十分だったが…。

 大英帝国の王族にも匹敵する強大な力を持つシェフィールド公爵にも何か弱点があるはず…。
ロニーはそれを探し出し、新聞記者としての鋭い目でそれをあぶりだして世間に公表するつもりだった。
 ホークとして名高い彼の評判を地に落とすことで復讐を果たすことになるのだと信じて…。

 だが実際には思ったほど上手くはいってはいなかった。
あれこれ人を遣って調べてはいるが、今のところ世界中に散らばっているクレファードの強固なネットワークを崩すまでには至っていない。

 彼は本当に神出鬼勃没で、ひと月前にパリにいたかと思えば、その次の月には地球の反対側にいるという風にまったく所在が掴めないのだ。
今回も3ヶ月前、ニューヨークにいるロニーのもとに、彼が極東に向かったという情報をもらってあわてて追いかけたときにはすでに、彼は仕事を終えて香港からインドを経てヨーロッパに向かっている途中だった。

 仕方なくロニーは、彼をギリシャのキプロス島で待つことにしたのだ。
彼の持つ海運会社が資本提携している船会社所有の豪華客船が、地中海からインド洋への処女航海に出る情報を掴んだ。
 それにインドのポンペイからクレファードが乗り込むという山を張ったのだが、どうやらそれは正しかったらしい。

 相変わらず高慢なクレファードは、多くの取り巻き連中を回りに従えていて、何度か取材を申し込んだものの、未だに面会は叶えられていない。 だが今回は同じ船に乗り込むというチャンスを得たせいで、相手をじっくり観察することが出来た。
 この船旅でクレファードは、メルビル嬢という素晴らしく美しい令嬢を伴っていて、二人はロンドンまで一緒に旅するという…。

 ロニーはすぐさま彼女に近づいた。メルビルという名前を聞いて実際心の中で微笑んだくらいだ。
アメリカの海運王、ジェームズ・メルビルとは7年前、はじめてロニーがニューヨークに行ったときからの知り合いだったし、半年以上前に彼が急死したと聞いた時には本心から心を痛めたものだ。

 一時英国をはじめ、ヨーロッパのすべての港からメルビル海運が手を引くという噂があったが、彼がキプロスに着く前にはその噂はすっかり払拭されていた。
 それも、こうしてクレファードがその令嬢を伴って、この豪華客船で英国に向かっているということは、それも単なる噂に過ぎなかったということだろうか…。

 確かにアスカは美しかった。
実際に話してみてわかったのだが、ただ美しいだけではなく、聡明で頭の回転も速い。
 その上一本筋の通った強さがあった。

 青みがかった美しい黒髪は、象げ色の肌と繊細な顔立ちをひどくエキゾチックに見せている。
おまけにあの瞳…。大きな切れ長の目を黒く長いまつ毛が縁取って…アイスブルー、いや鋳造されたばかりの銀色に輝く瞳は…まるで銀色の炎のように見える。
 ユーモアもあって、彼女がただ従順で大人しいだけの女性でないのはひと目でわかる。
それがまた魅力的で、ロニーは自分でも気がつかないうちに彼女に惹きつけられていた。
 
 どうやらロニーが彼女に近づくことを、クレファードがあまり喜んでいないのは一目瞭然で、出来るだけ彼女を近づけないように部下に命じているのは彼にもわかった。
 だがそんなことに怯むロニーではない。
何かと理由をつけて彼女に近づいた。近づきながら、彼女とクレファードとの関係を探る。
 この何年か、ずっとクレファードを追って来たせいで、彼がプライベートであれ、何であれ、こんな風に自分の船に女性を伴って旅をするのははじめてだということに気が付いたのだ。

“きっとこれには何かがある…!”

 ロニーの記者としての感がそう告げていた。それに今回はクレファードにいつもピッタリと陰のように付き添っているあの異国人の姿がなかった。もちろん、この最新式の客船に危険はないと踏んでのことなのだろうが…何とも奇妙だ。
 おまけに船に乗ってからのクレファードはかつてないほど優しい仕草でアスカをエスコートしている。

 ロンドンで貴族然として愛人達をエスコートする彼を見た時でさえ、これほど思いやりにあふれた彼を見ることはなかったのである。
おまけに彼女に向けるあの眼差しは、他のどの女性に向けるものとはまったく違っている。
 ましてあのフィオーナ・クラフトンが現れてからは…。

 面白い…。ロニーはクレファードを憎んでいるにも関わらず、何となく最近のアレクサンダー・クレファードに同情している自分に戸惑いを感じていた。

 ベッドに横たわったまま…じっと考え事をしていたロニーは、控えめなノックの音に気が付いた。
ロニーが返事をすると、小さくドアが開いて、細身だが、背の高い黒ずくめの男がひとり入って来た。

「ガース…」
「旦那…」
 男は伏し目がちにチラリとロニーに視線を向けると、油断なくあたりを見回して、部屋にほかに誰もいないのを確認して近くのイスに腰掛けた。

「相変わらず、用心深いんだな…」
 ロニーも立ち上がって、ベッド脇のテーブルからウイスキーの小瓶を取って男に差し出した。男は首を振って断ると、上着の内ポケットから何やら封筒を取り出してニヤリと笑った。無精ひげを生やした顔の左目の下には斜めに走る大きな傷跡があって、笑うとさらにそれが不気味に見える。

「この船に乗り込むにはかなり苦労しましたぜ。機関士のひとりに知り合いがいて、やっと忍び込むことが出来たんで…」
「それで何かわかったのか?」
 ロニーの問いかけに男は再びニヤリと笑った。

 ロニーもこの男のことはガースと言う名前以外は何も知らなかった。
ロンドンの知り合いから、私立探偵をしているというこの男を紹介されたのだ。
 料金は少し高めだが、確実に仕事をこなすという点では最高の折り紙つきで。

 ロニーはガースに、この1年間…ルシアン・アレクサンダー・クレファードの動向を探らせていた。
8ヶ月前にクレファードが突如極東に向かったと報せてきたのも彼だった。

「今回はちょっと面白い情報を手に入れたんですよ。だから直接旦那にお知らせしたほうがいいと思いまして…」
「で、その情報はすべてこの中にあるというのだな?」
「そうです。なかなか面白い内容だと思いますよ。ですが旦那にひとつ聞きたいことがあるんですが…旦那はルシアン・アレクサンダー・クレファードにいたく御執心だが、彼を調べてどうするつもりですか?」
「そんなことを知ってどうする?」
 分厚い封筒をテーブルの上に置くと、鋭い目つきでロニーはガースを振り返る。
ガースにはその目的を明かすつもりは毛頭なかった。

「いや、あの男は見かけ以上に手ごわいということを言いたかっただけですよ。じつは何年か前に同じような依頼を受けたことがあったんで…・。ただその時の依頼主はそれ以上を望んでいたんですが…」
「それ以上とは誰かクレファードを傷つけようとしていたということか?」
 ガースはゆっくりとうなずいた。 

「まあ、もともと敵の多い男ですからね。ただその相手はかなり恨んでいるようで、命を奪うのも手段を選ばないようでしたが…」
「まさか、その顔の傷はその時のものだとか…?」
「そのまさかです。ただ今回はあの、やたらと腕の立つ異教徒がいないという点は違いますが…。ともかくおれも命が惜しいんで、これ以上の依頼は受けられないということです。」
「その点は安心していい…。奴を傷つけるつもりはないから…」
 これ以上は望まない、そうはっきりさせた上で、ロニーは分厚い報酬の入った封筒を引き出しから取り出してガースに渡した。
ガースはサッと中身を確認して自分の上着の内ポケットにしまい込む。

「クレファードを追って香港まで行ってみたんですが、そこで面白い話を聞けたんですよ。これに見合うだけの価値はあると思いますよ」
 ガースは意味深に笑って、上着の上から膨らんだ内ポケットをポンポンと叩くと、現れた時同様、素早い動きでドアの外側へ消えていった。
ロニーはしばらく男が消えたドアを見つめていたが、ハッとして手にしていた分厚い封筒の中身をベッドの上に広げた。

「こ…これは…!?」
 数ページに及ぶ報告書を一気に読み終えて、ロニーは自分がひどく興奮していることに気が付いた。
報告書に書かれた内容は、彼の想像をはるかに超えるものだった。

 ニヤリと笑ってまたベッドの上に横たわる。
今度こそあのクレファードを揺さぶることが出来るかもしれない…。
 幸いなことにインドから乗船して以来、ずっと面会を求めていたその願いが今夜、叶いそうなのだ。


「サー、ミス・メルビルが面会を求めていらっしゃいますが…?」
 船室の最上階にある自室の居間で、さっきから何度も落ち着かない様子で部屋の中を歩き回っていたアレックスは、アンドルーの声に振り返った。苛立ちはピークに達していたが、務めてそれを押し留めるように無理やり笑みを浮かべてみせる。

「アスカが…? わかった。応接室で会おう…通しておいてくれないか?」
「わかりました…」
 幾分乱れたアレックスの声から何かを感じ取ったのだろう。
アンドルーは一瞬心配そうな表情を見せたが、何も言わずに部屋を出て行った。

 アンドルーがいなくなると、アレックスは大きなため息をついて、デスクのイスに深く腰を下ろした。
昨夜遅く…アレックスはロニー・ウォルターの訪問を受けた。
 あらかじめ申し込まれていたものだったが、アレックスは多忙を理由にことあるごとに断っていた。
あの男がアレックスに近づくのは、単なる船の取材ではないことは本能的にわかっていた。

 ましてアスカのこともある。ロニー・ウォルターは危険だ。
アスカに近づくなと警告するつもりで会見に臨んだつもりが、思わぬ反撃を食らうことになった。
 ウォルターはどうやって調べたかは知らないが、日本での1件と…アスカとの関係を知っていた。
どんなに秘密裏に動いてもわずかな綻びが生じるのは仕方がないとしても…アスカがロバートの娘だという事実だけは誰にも知られたくなかった。


 「意外だと思いましたよ。美しい女性には目のないあなたが、彼女だけはまるで大切な身内のように扱っている。身内に若い女性はひとりもいなかったはずでしたよね…?」
「何が言いたい…?」
 得意げなウォルターの表情に疑いの眼差しを向けながら、アレックスは眉をひそめた。
「今回の会見はこの船に関してのことだと思っていたんだが…?」
「当初はそのつもりでした。でも最近面白い情報を手にしましてね…? たとえばあなたがヨーロッパから急きょ日本へ向かった理由とか…?」
 アレックスはデスクを挟んでロニーとにらみ合った。

 “この男は知っている…”
 そう確信した瞬間、アレックスはアスカのことを思った。

“女王のティアラのことは英国にいるランスロット卿が上手く封じてくれるはずだ。
 そのためにひと足早く、ジャマールを送り返したのだ。だがアスカのことは…?”

「ボクは遠まわしが嫌いでね。はっきり言ってもらおう…。君はボクの口から何を聞きたいんだ…」
「メルビル嬢です。彼女はメルビル氏の実の娘じゃない。それは周知の事実です。今回の件にメルビル氏が関わっていたことはあなたも否定はしないはずだ。それに彼女の母親は日本人だ。それも認めて下さいますか…?」
 自信たっぷりの口調で、ロニー・ウォルターは真っすぐアレックスを見つめてくる。。
 しばらく口を噤んだまま、アレックスはロニーをにらみつけた。

 言葉は慎重に選ばなければならない…。
アレックスはアスカにまだあの事実を告げていないのだ。
 ロニーがその事実をどこまで知っているにしろ、そのことをアレックス以外の人間から聞かされるようなことがあれば、きっとアスカはひどく傷つくだろう。

「君はアスカの何が知りたいんだ…?」
「彼女はウィンスレット卿の娘では…?」
 ロニーの言葉にアレックスは思わず息をのむ。
 だが動揺を隠すように身体の後ろで組んだ拳を白くなるまで握り締めた。

「ハハ…素晴らしい発想だな。どこからそんな考えが浮かんだんだ…?」
「浮かんだのではありません。知っていたんです。あなたの叔父上であるウィンスレット卿が遠い異国の地にいるわが子を探していることは、彼のまわりの一部の人間しか知らなかった。その一部の人間の中にボクが含まれていたというだけです。」
 小さな声で悪態をつくと、アレックスはそれまで装っていた冷静さをかなぐり捨てて…ロニーに迫る。

「それで、そんなことを調べて、君はいったい何を企んでいる? 金か?ウィンスレット家のスキャンダルを記事にして儲けようという魂胆か?」
「まさか…!それにあなたが絡んでいるとなると確かに面白い記事にはなりますが、ボクはあの美しい人を困らせようと思っているわけじゃない。彼女はまだ何も知らない、そう思っていいんですね…?」
「君が何を企んでいるのかは知らないが…アスカだけは傷つけるな…! 彼女はたしかにウィンスレット家の娘だが、親子が離れ離れになった経緯は何も知らないんだ。いい加減な憶測で、その事実を捻じ曲げて伝えて欲しくはない…」
「あなたが言うことが真実なら、どうしてそれを彼女に伝えてないんです…?あなた方はもう2ヶ月近く一緒に旅して来られたはずだ。あなたが彼女に対して、あんなに慎重なのもそのせいだ。アスカがあなたの従妹だからだ。違いますか…? 」
「君には関係のないことだ…!!」
 ついにアレックスはロニーに掴みかかるように身を乗り出した。
その変貌ぶりに面食らいながら、ロニーは気を取り直してさらにたたみ掛ける。

「北欧から戻ったばかりのあなたが、急きょアジアの極東へ向かった理由もわかっています。女王の威信を取り戻すためにランスロット卿は、当時重要な交渉のテーブルについていたあなたを、半ば強引に引き戻したんだ。日本行きはウィンスレット卿の遺言を果たすまたとないチャンスになるとたきつけて…」

“この男はそこまで知っているのか…?”
 そう思うと、アレックスは怒るよりも感心するしかなかった。
 敵にするよりは見方に付けておいたほうがはるかに安全な相手に違いない…。

「そこまで調べているのなら、こちらとしては何もいうことはない…。これ以上無駄な講釈は必要ないだろう。はっきり君の望みを言ったらどうだ…?」
 アレックスの顔に決然とした表情が浮かぶのを見て、ロニー口元を引き締めた。

「ボクはあることを知りたいだけなんだ。」
「あること…?」
 怪訝そうな顔でアレックスはあらためてロニーを見る。

「8年前、あなたの領地、メイフィールドにあるハディントン・コートで、マリアンと言う名前の若い娘がメイドとして雇われたはずだ。まだ17になったばかりだった。小間使いとして雇われたはずなのに、1年も満たないうちにお屋敷を追い出された…」
「悪いが、その頃ボクはアフリカからインド洋の航海に出ていた。おまけに12の時に自身の領地を出てから6年前に父が亡くなるまで、屋敷には一度も帰っていない。その間、たくさんいる使用人のことなど関知している余裕などなかった」
「マリアンは…妹は屋敷を出された時、妊娠していたんだ。当時妹をよく知っていた人物から、妹は屋敷の主から弄ばれた上に捨てられたと聞いたんだ…!」
 そう言ったロニーの声はひどく激高していた。

“ウォルターの妹がハディントン・コートで働いていた…!? ”

 そう聞かされて少なからずアレックスは驚いたが、それが理由でアレックスに近づいてきたのだとしたら、ずいぶん的外れなことだろう。

「だったら、なぜ直接父に問い合わせなかった? 8年も経った今頃になって、その息子に話したところで何になる? 父はすでに亡くなっているんだ…」
 ウォルターの妹がどうなっていようが知ったことではないが…それが自分の生まれた屋敷で起こったことだと思うとあまりいい気はしなかった。
それにその娘は妊娠していたと言わなかったか?
  アレックスは、怒りの表情で自分を見つめるロニーを真っ向から見返した。

「その事実をすぐにでも知っていたら、ボクはすぐにでも行動を起こしただろう。その頃ボクはニュウーヨークにいて、2年後ロンドンに戻ってみればすでに妹は亡くなっていたんだ。憎むべきあなたの父親も…」
 悔しそうにロニーは拳をテーブルに叩き付けた。

「君の妹は妊娠していたと言ったな? 子供は…その子は生まれたのか…?」
「生まれたのは女の子だった。ロンドンの貧民街で生まれ、娼婦たちに面倒を見られていた。その後教会に預けられたが、妹は娼婦にまで身を落していたんだ。」
 苦しげなロニーの言葉にアレックスは目を背けた。

「君の話が本当なら…その子はボクの腹違いの妹ということになるが…間違ってもそれは有り得ない」
「何故だ…! 妹が嘘をついているとでも言うのか…? 日記にも確かに公爵の寝室に呼ばれたと書かれていたんだ。それも何日も…!」
「父は…亡くなる10年前に事故に遭って、子供を作る機能は失われていたんだ。その証拠に、ずっと車椅子の生活を余儀なくされていた。そのことは当時の使用人なら誰でも知っている。だから、その子が公爵の庶子だというのは事実ではない…」
 そう言ってからアレックスはロニーの表情を伺った。
ロニーは蒼ざめた頬を引きつらせて必死に言葉を探している。

“あの父が若いメイドを身籠らせるなんて…”

 父と最後に会ったのは亡くなる3年前だった。
 もともと外見の華やかさとは反して内向的で閉鎖的な性格だった父は、ロンドンの華やかな社交界よりも田舎の領地でひっそりと暮らすことを好んだ。
 領主というよりは芸術家に近い性格だったのだ。
いつも自室に閉じ籠って、アレックスはもの心ついた頃から、父に何か声をかけてもらった記憶がない。

「嘘だ…! それでは妹が嘘をついているというのか…!」
「そうとしか答えられない…。ボクが知る限りあの気弱な人物が、誰かをベッドに引き込んだなんて信じられないな…。それにそんな事実があるならば、真っ先にボクに報せがあるはずだ…」
 アレックスは毅然とした態度でロニーを見返す。
ロニーも身じろぎもせずにアレックスを睨みつけている。

「オレはそんなことは信じない…。あんたたち貴族は自分たちに都合の悪いことは平気で隠すんだ。妹はその子を産んで死んだ。その子のためにボクは闘う…! そのためなら、たとえあんたが相手でも手加減はしない…」
「いいだろう…。好きにするがいい…」
 アレックスが冷たく吐き捨てるように言うと、ロニーの目が鋭く光った。

「まずは彼女のことだ。アスカに真実を告げていないところをみると、何か理由があるのでは?」
「よせ! 彼女には関係ないことだ」
 アスカの名前が出た瞬間にアレックスは憤慨した。

「いいや、だから言っただろう…? あんたと闘うためなら何でもすると…だから覚悟しておくんだな…」
 ロニーはそういい残して去って行った。

 この数週間…いや、数ヶ月か…。アレックスはアスカに出会って以来、ひどく混乱していた。
 今までの日々の中でも、こんな脅しは日常茶飯事だった。
その度に綿密な計画を立てて対処してきたはずだったのに…。アスカの存在はアレックスそのものを根底から覆してしまった。

“くそっ…!”

 今ここにはジャマールさえいない…自分だけで対処しなければならないのだ。
思えばアレックスは、宝龍島(ホウロントウ)を出た時点で、3つの過ちを犯した。
 一つ目はジャマールを自身の側から離したこと…。二つ目はマレー号を下りてこの船に乗り換えたこと…。
そして三つ目、最大の過ちはアスカにすぐこの事実を告げなかったことだ。

 自分の心の弱さからその時を引き伸ばしていたに過ぎなかったが…。
ついにアレックスは四つ目の過ちを犯すことになった。
 すぐにアスカに会いに行くべきだったのに、緊急に会いたいと言うクライアントに時間をとられて、それを後回しにしてしまったことだ。
解放された時にはすでにあとの祭りだった。

 気難しい投資者のひとりを納得させるのに数時間を費やして、自分のオフィイスになっている最上階のスィートに戻って来れば、すっかり途方に暮れているアンドルーが待っていた。
 アンドルーはアレックスの顔を見るなり、早口で外にアスカが面会を求めて来ていることを告げた。
 
 アスカはかなりの憤りようで、今すぐアレックスに会わせろと息巻いているらしい。
きっとロニー・ウォルターから真実を聞かされたのは確実だろう…。
 あの男が時間を無駄にしない性格だということを頭においておくべきだった。

 アレックスは自身に対して小さく罵りの言葉を吐きながら、アンドルーにアスカを応接室に通しておくことを告げて、すぐ行くと返事をした。
 このベッドルームを兼ねたスイートの内側にあるクルー用の廊下をはさんだ先に来客用の応接室がある。
  アスカの待つ応接室に入る前に、心の整理をしなければならない。
 いつもなら指揮官らしくいとも簡単に出来ることが、今のアレックスには途方もなく難しく感じられて仕方なかった。



 客室の最上階にあるアレックスの居住スペースの中にある豪華な応接室の中で、アスカは身体の内側を吹き荒れる嵐に翻弄されながら、全身を駆け抜ける激しい怒りに身をやつしていた。
 震える身体を両手で抱きしめて、今日の午後起こったことをひとつひとつ思い出してみる。
ほとんど日課になっていた食事後の散歩のあと、先に部屋に帰るリリアを見送って、アスカはひとりで後部デッキにある展望台にたたずんで、気持ちのいい午後の海風を愉しんでいた。

「やあ、ひとりですか? こんなところでまた君と出会えるとは、ボクはなんとも運がいい…」
 いつもの人懐こい笑顔を見せて、ロニー・ウォルターが近づいてきた。何日か前にアレックスから彼は信用できないからあまり近づけないほうがいいと警告されていたが、アスカは気にも留めなかった。ロニーの持つ雰囲気が好きだったし、父の知り合いだったという彼の存在は、この船に乗ってからずっと感じていた疎外感をほんの少し忘れさせてくれたから、アスカは警戒さえしていなかった。

「君はロンドンは初めてだと言っていたよね?」
「ええ…英国に来たことは一度もないの…」
「今回のロンドン行きは、クレファード卿が計画したものなんだろう? 君は従兄と一緒に日本に来たはずだ。その従兄は香港からアメリカに戻り、君だけがクレファード卿と一緒にロンドンに向かっているなんて…何か不自然じゃないか?」
 いつもと違って明らかに毒を含んだロニーのい言葉にアスカは思わず怯む。
「それは…ロンドンに一度も言ったことがないと言ったら、アレックス、いえクレファード卿が親切に招待してくださっただけよ。それにわたしの父親は英国人なの。クレファード卿はその父を探す手助けをして下さる予定なの…」
 ロニーがアレックスに何か敵意を持っているのはうすうす感じていたけれど、こんなあからさまな感情をぶつけられてアスカは戸惑った。アスカにとってアレックスは特別だ。ともに情熱をぶつけ合い、自分の命よりも互いに相手を大切に思っていることは、日本での事件を通して確かめ合ったばかりだった。そして宝龍島で過ごしたひととき…。
 ふたりの間にある特別な何かを信じている今、どうしてアレックスを疑うことが出来るだろうか?

「クレファードは偽善者だ。彼がt言うよりはあの一族が…。ボクは7年前からずっと彼の動向を追ってきた。彼の人物像を記事にするためではなく、あることの真実を確かめるために…」
「ある真実…?」
 怪訝そうな顔でアスカがロニーを見ると、その目に苦しみの表情が浮かんで消える。
「ボクの妹は8年前、クレファード家の田舎の領地にある屋敷にメイドとして勤め始めた。だが1年もしないうちに屋敷を追い出されたんだ。しかもその時、妹は妊娠していた。クレファードの連中は、妹が不適切な行為に及んだためだと言っていたが、あの真面目なマリアンにそんなことが出来るわけがないんだ。ボクは誰よりも知っている。あとで屋敷に勤めていた使用人のひとりから聞きだしたんだが、妹は毎晩のように無理やり当主の部屋に連れ込まれていたと…」
 アスカは突然胸苦しさに大きく喘いだ。アメリカにいた頃もこれと似た話はいくつも聞いたことがあった。金持ちが自分の屋敷の使用人に手を出すのは、半ば当たり前のように思われていたのだ。
 もちろん、父の屋敷ではそんなことはなかったが、一部の特権階級の富豪たちの間では、奴隷制度が廃止された今でも理不尽な慣例がまかり通っていた。英国には奴隷制度はなかったはずだ。でも身分の高い低いに関わらず、卑劣な人間はどこにでもいるものだ。もの心ついた時からアスカはそれを身をもって知っていた。
「それがアレックスのせいだと言いたいの?」
 さっきから心臓が音を立てて鳴り響いている。どうしてもその卑劣な悪党がアレックスに関係があるとは思いたくない…。
「いや、当時のクレファード家の当主は彼の父親だ。だがその父親はそのあとすぐに亡くなっているんだ。彼が屋敷で起こっていたことを知らないはずはないんだ…」
「知らないかもしれないわよ。アレックスは父親を…田舎の屋敷を嫌っていたから…」
 はっきりアレックスからそう聞かされていたわけではない。数少ない彼の生い立ちの話の中で、時々見せる彼の表情はそう告げていた。

「君は彼を信じているんだね…? でもボクの死んだ妹はどうなる? 生まれて間もなく母親を亡くした小さな娘は…」
 再びロニーの苦痛に満ちた表情を見て、アスカは口を噤む。
「君を傷つけたくはなかった。でもアレクサンダー・クレファードは、その子が父親の子供…つまりは自分の妹ではないと即座に否定した。何の疑念も持たずに…。それが許せない…」
「わからないわ…そのことと、わたしと何の関係があるの?」
「大有りだ…。君は彼の叔父にあたるロバート・ウィンスレット卿の娘だ。」
「嘘だわ…」
 瞬時にアスカはそう答えていた。
ロバート・ウィンスレットのことならアレックスの口から何度も聞かされていた。その彼ががどんなに
素晴らしい人物で、自分が母親の弟である彼を敬愛し崇拝していたか…アレックスはこと細かに語ってくれたものだ。その人物がかつて母と自分を遠い異国の地に残して去って行ったその人だったなんて…。
 長い間、会いたいと思う気持ちの裏側で、同じくらい強い憎しみを感じたこともあった。それが本当なら…アレックスは何故何も話してくれなかったのだろう…? そう思うとスッーと頭から血の気が引いていくのがわかった。膝がガクガクして力が抜けて…くず折れる前にロニーが両手でその身体を支える。

「やめて…あなたはそれを言うためにわたしに近づいたの…? 卑怯だわ…」
 ロニーの手を払いのけて、アスカはきつく両手でデッキの手擦りを掴むと、必死で身体を支えて彼を鋭く睨みつけた。
「何とでも言えばいいさ。まずは自分の口からクレファードに聞いてみればいい…。彼は何年も前からウィンスレット卿の子供を捜していたんだ。ウィンスレット卿は何ヶ月も前に亡くなっている。亡くなってから1年以内に直系である相続人が現れないと、爵位も莫大な世襲財産も顔も見たこともないような遠縁の誰かに持っていかれてしまうんだ。だからクレファードも必死になっていたはずだ。君を上手く騙してロンドンに連れて来るくらい、ホークと呼ばれた男からすれば簡単なことだろう…?」
 アスカは全身の震えを止めることが出来なかった。気が付けばロニーを押し退け、めちゃくちゃに走ってその場を逃げ出した後、どうやって自分の部屋に戻ったのかもわからなかった。幸いなことにリリアは部屋を留守にしていて、取り乱した姿を見られることはなかった。

 自分のベッドに倒れこむと、枕に顔を押し付けたまま…アスカは切り裂かれるような胸の痛みに耐えた。
“アレックスはわたしに嘘をついていた…。いつから真実を知っていたのだろう…? 日本を発つ前だろうか? それとも宝龍島を出る時…? ”
 何となく彼の様子がおかしいと感じたのは気のせいではなかったのだ。すべての事実を知った今、思い返してみると、不可解だったアレックスの行動がまるでパズルのピースを埋めていくようにアスカには理解できた。彼が必要以上に礼儀正しかったのは、フィアンセとしてアスカの立場を尊重したのではなく、身内として距離を置いただけだったのだ。
“それをわたしは彼なりの思いやりだと勘違いしていたなんて…。それともさっきロニーが言うように、アレックスは最初からアスカをロンドンにつれて来るために甘い言葉でわたしを騙し、この船に乗せたのだろうか…?”

 一度心に根付いた疑惑は、嵐のようにすべてを覆い尽くしてアスカを翻弄し…どこへともなく運び去っていく…。
 ひどく取り乱したアスカの姿を見たリリアは、何とかなだめようとしたが、アスカはその手を振り切って部屋を飛び出した。自分でも何をしたいのかわからなかった。
 ただアスカはアレックスを求めていた。裏切られたことにひどくショックを受けながらも、心のどこかでは、彼を信じたいと願っている自分がいる…。

 気が付くと…アスカはアレックスのプライベートルームのある最上階のフロアーに立っていた。話には聞かされていたけれど、ここに来るのは初めてだった。数メートル先には大きな両開きの重装な扉があって、オーク材で出来た扉には細やかな彫刻が施され、まずその豪華さに目を奪われる。だが、その扉の前には背の高い厳ついボディーガードが二人立っていて、その扉同様アスカを拒んでいるように見えた。
「すみませんがレディー…誰もこの先にお通しすることは出来ません…。そのままお部屋にお帰りください…」
 肌の浅黒い、いかにも外国人風とわかる男のひとりが言った。
「いいえ、アスカが来たといってもらえばいいわ。どうしてもアレックスに会いたいの…」
 アスカも一歩も引かず、遮るように立ちはだかる大男としばらくにらみ合っていると、そこにアンドルーが困ったような表情で現れた。アンドルーはアスカに小さくうなずいてから、男たちに何か小声でささやくと…男たちは表情ひとつ変えずに、重い扉を黙って両側から開いた。

「申し訳ありません、彼らはあれが仕事なんです。さあ、こちらへどうぞ…」
 アンドルーについてその部屋に入ったアスカは、その豪華さに圧倒された。高いホールの天井には煌びやかなシャンデリアが輝き、壁にかけられた見事な絵画や彫刻の数々が、整然と並んでいる様は、ここが船の中だとはとても思えなかった。
 アスカは広いホールを抜けて続いている廊下を通ってさらに奥の応接間に通されたが、その部屋も美しく…まるで王族の居室のようだった。
「ここでお待ちください。閣下はただ今、お客様のもとを訪ねて外出中です。戻られたら必ずここにおいでになるように伝えますから…」
「ありがとう、ドルー…」
 アンドルーははにかむような笑みを浮かべて部屋を出て行ったが、その頃にはアスカの心も大分落ち着いていて、少しづつ今の自分の状況を考えられるようになっていた。
 
 柔らかなカーブを描くダマスクス織のソファーの背もたれに指を走らせながら、視線を足元の毛足の長い豪華なペルシャ絨毯に目を落とす。不意にアスカは自分が着ている質素なライラック色のドレスが、急にみすぼらしく感じられて恥ずかしくなった。
 感情に任せてここまで押しかけては来たものの…この部屋はおそらくアレックスの特別な客達を迎える部屋なのだろう。部屋を飾る調度品はどれも美しく品のあるもので、美術品に詳しくないアスカでもそれがかなりの値打ちのあるものであることはわかる。入口のドアの前にはボディーガードが常に守っていて、外界と隔てられていた。

 本当ならこんな風に怒りに任せて押しかけてくるべきではなく、もっと適切な時間とタイミングを見計って来るべきだったのだろう…。今さらそう思ってみたところでもう遅い…。さいはなげられたのだ。そのとき、入口とは反対側のドアが音もなく開いたことにアスカは気付かなかった。



 アレックスは自室と来客用の応接室をつなぐドアにもたれて…小さくうなだれるように立ち尽くしているアスカの姿を見つめていた。明らかにアスカは動揺していた。
 小刻みに震えている指先と大きく息をする度に上下する肩先が彼女の感情の高ぶりを表している。
“彼女は泣いているのだろうか…?”
 アレックスはアスカの顔を見るのが怖かった。一度彼女の涙を見てしまえば、冷静に話をすることは出来なくなるとわかっているからだ。出来ることならばアスカを傷つけたくはなかった。
 この先二人に未来はないのだと告げることがこれほど苦しくなければ、アレックスはとっくの昔に話していたはずだ。それが出来なかったのは…彼自身どうしようもないほどアスカを愛しているからだ…。

「アスカ…」
 アレックスが搾り出すような声で名前を呼ぶと、アスカは弾かれたように振り返った。二人はしばらく無言で見つめ合う…。
 沈黙がすべてを物語っていた。アスカはアレックスの…無表情を装いながらも暗くけむる眼差しの中に現れるものを探り、アレックスはアスカの大きく見開かれた目の中に深く傷ついた心を見た。

「アスカ、ボクは…」
「いつから知っていたの…?」
 アスカはアレックスの言葉を最後まで待たずに聞いた。落ち着こうと思いながら込み上げてくる激情に声が震える。
「宝龍島を出る前に…」
「イェンとメイファンの結婚式があったその日に…? 信じられない…。あなたはそんなに前に知っていながらわたしに話す気はなかったのね?」
 涙で潤んだ目で、アレックスの瞳の映すものを決して見逃すまいと、必死で見つめるアスカの姿にアレックスは鋭い胸の痛みを感じた。
「ああ…知っていた。だがこれだけはわかってほしい…。ボクは…君を失いたくはなかった。これまで生きてきて…君ほど欲しいと思った女はいなかったから…」
 今こそ真実を言うしかない…。アレックスは苦しげに言葉を吐き出した。

「君は間違いなくロバート・ウィンスレットの娘だ。横浜の古い教会に君の母上とロバートの結婚証明書が残されていた。それがある限り君は私生児ではなく、れっきとした伯爵家の相続人だ」
「いいえ、わたしはジェームズ・メルビルの娘よ。アスカ・フローレンス・メルビル…。それがわたしの名前だわ」
「違う…。君はボクの母の弟であるロバートの娘で、ボクの従妹だ。その証拠に…」
  アレックスはアスカの胸元に手を伸ばすと、指先でペンダントの鎖を探る。アレックスの長い指が繊細な肌に触れた瞬間、小さな慄きが全身を駆け抜けた。
“前にこんな風に彼に触れられたのはいつだったのだろう…?”
 心臓が激しく鼓動を刻むと…息苦しさに呼吸が乱れた。

 アスカの頬がバラ色に染まって、胸元からのぞいている白い膨らみに目を落としながら、アレックスは自分の手が震えているのを感じた。
“くそっ…! こんなにもアスカを求めていながら…触れることも許されないなんて…!”
 悔しさに歯噛みしながら、わざと見ないようにしてアスカのドレスの胸元から小ぶりの金色のペンダントを取り出す。そしてもうひとつの手で自分の上着のポケットを探って、形の歪んだ金時計を取り出した。
「これはあの時、ボクの命を救ってくれた時計だ。ロバートのものだった。」
 その時計のことならアスカも知っていた。アレックスが叔父の形見として肌身離さず身につけているものだ。この時計のおかげでアレックスは、殺し屋の放った銃弾から命拾いしたのだ。

「そして、君の父上が母上に送ったというロケット付きペンダントだ…」
 両の手のひらを並べるようにしてアレックスは、二つの貴重品をアスカの目の前に差し出した。ふたつとも時代の流れを受けて所々刻まれた紋章らしき彫刻は薄れているものの…はっきりとわかる部分の紋章は同じものだった。
「こんなに近くにありながら気付かなかったなんて…。ごらん、それぞれに刻まれた紋章は同じものだ。つながりあった拍車はウィンスレット家が300年前に爵位を得てからずっと使われてきたものだ。疑いようもない…」
 二つの金細工を食い入るように見つめていたアスカの頬が蒼ざめたかと思ったら赤くなり、そのうちに小さく唇が震え始めた。

「アレックス…」
 アスカは胸が詰まってそれ以上言葉を発することが出来なかった。目の前にいる自分の命より大切に思っている男性が、思いもよらず自分の血の繋がったと従兄だと聞かされて、アスカはすっかり混乱してしまう…。
“わたしが今まで彼に抱いていた感情は、無意識のうちに抱いてきた親しみだったのかしら…? いいえ、そんなことはないわ。”
 あの山の手の屋敷の玄関先で…黒柳が放った刺客の銃弾に倒れた、アレックスの姿を見た瞬間に感じた…あの胸を引き裂かれるような痛みを…アスカは今でも忘れられない。あの時も今も彼に感じているのは、狂おしいまでの情熱だけだ。
 アスカは自分を見つめるアレックスの視線を感じたが、キツク瞼を閉じたまま…唇をかみ締めた。アレックスはさらに何かを自分に伝えようとして迷っている。ボーっとした意識の中でそれだけはわかったが、それが何なのかアスカにもわからず、ただ黙ってアレックスの次の言葉を待った。

「あすか、ボクは…」
 “言葉が鉛のように重くて喉に詰まる。伝えなければならない想いは頭の中にあっても、それを伝えるべき言葉が見当たらない…”
 しばらくの重い沈黙のあと…口を開いたのはアスカの方だった。

「あなたの崇拝するウィンスレット卿がわたしの父だったのね…?」
「ああ…そうだ」
「どうして…? どうしてそのことを黙っていたの? ロニーが言っていたようにわたしを騙してロンドンに連れて行くため…? ウィンスレット卿が亡くなって1年以内に彼の子供が見つからければ、顔も知らない遠い親戚の誰かに爵位を持っていかれてしまうんでしょう? それを避けるためにあなたはわたしに嘘をついたの…?」
「違う…」
 アレックスは苦々しげに小さな溜息を漏らすと、アスカの目をまっすぐ覗き込んだ。
「君のためだ。君は…君と亡くなった母上が英国人の父親に捨てられたと長い間信じていた。だから、君を混乱させたくなくて…出来るなら何の先入観なしに、ロバート…君の父上が素晴らしい人物であることを知って欲しかったんだ…」
「皮肉ね…そういう意味なら、あなたのその目論見は成功したわ。わたしはあなたの口から…ウィンスレット卿がどんなに素晴らしい人物か、何度も聞かされていたんだもの。疑いもしなかったわ…」
 弱々しい笑みを浮かべてアスカはアレックスを見上げた。彼の瞳はさらに碧く…その中に深い悲しみを見た時、心の中にあった暗い怒りはいつしか消えていった。

「父のことは本当は恨んでいたわけではないの…母は亡くなるまで一度だって父のことを悪く言ったことはなかったわ。心から愛していたから…。でも悲しそうだった。きっと母はその時、もう二度と会えないとわかっていたのかも知れない…。わたしが父に感じていたのは悲しさだけ…。知りたかったの、どうして迎えに来てくれなかったのか…」
「ああ…そうだろうな。ロバートもそのことを嘆いていた。よく聞いてほしい。ロバートは、君たちを迎えに行きたくても行けなかったんだ。ロンドンに呼び戻されたその3ヶ月後には、今度はアフリカへの赴任を命じられたんだよ。君たちのことは一度だって忘れたことはなかったはずだ。何度も日本への手紙を書いていたから…」
「手紙なんて一度も届かなかったわ…」
 アスカが訴えるような眼差しでアレックスを見ると、彼は目を閉じて首を横に振った。
「ロバートの手紙はすべて、先代の伯爵夫人によって止められていたんだ。だから彼の書いた手紙は、君たちのところへは届かなかった…」
「何ていうこと…! 」
「レディー・ウィンスレットは、たったひとりの跡取り息子が異国の花嫁を迎えることを許さなかったんだ。プライドの高い彼女は、ロバートには高貴な…王族にも匹敵する花嫁が相応しいと考えていた…。だがロバートは、レディー・ウィンスレットが連れてきた数々の花嫁候補には見向きもしなかった。彼にとって人生の伴侶はアスカ、君の母上ただ一人だったんだよ…」
「アレックス…」
「ただレディー・ウィンスレットも自分が行った罪深い行為を永遠に隠し通すことは出来なくて…最後にはロバートに告白することになったが…。ロバートでさえその真実を知ったのは、レディ・ウィンスレットの死の間際だったのだから。全ては遅すぎた。身動き出来ないロバートは、あらゆる手立てを使って君たちの行方を捜したに違いない。」
 冷静を装いながらアレックスは続けた。

「その手紙が届いた日の朝のことを、当時15歳だったボクは今でもはっきりと覚えている。屋敷の自分の書斎でその手紙を読んだロバートは、酷く取り乱して誰はばかることなく号泣していた。ボクはその姿に酷くショックを受けたよ。そんなロバートを見たのは初めてだったから、そのまま死んでしまうんじゃないかって本気で思ったくらいだった。」
 アレックスがちらりとアスカを見ると、何かに耐えるように唇を強く噛み締めながら両手を握り締め、小さな肩は小刻みにブルブルと震えている。今すぐやさしく抱きしめて慰めてやりたい衝動をアレックスは必死に押さえ込んだ。

「アレックス….わかったわ。父は…私と母を捨てたわけではなかったのね? 一生思い続けてくれたのね?」
「そうだ。アスカ.…君たちはずっと…ロバートに心から愛されていた…」
「ああ.…!アレックス!!」
 アスカはそれまで堪えていたものが堰を切って溢れてくるとそのままアレックスの胸に飛び込んで、香りのよいコロンの染み込んだシャツに頬を埋めると激しく泣きじゃくった。
 その背中に両手を回してまるで小さな子供をあやすようにやさしく抱きしめながら、アレックスは自らの衝動と必死に闘っていた。

“だめだ…今のうちに早く離れないと…もう後戻りできなくなる…。”

「アレックス…お願い…私を抱いて…今ここで.…。」
アスカは涙に濡れた瞳を上げて、熱っぽいまなざしでアレックスの瞳をじっと見つめると、震える指でアレックスのシャツのボタンをひとつひとつ外していく。
そして半ば露わになった日焼けしたその胸に両手を這わせながら、背伸びしてその震える唇をアレックスの首筋のドクドクと息づいていている部分に押し当てる。

「だめだ…アスカ…それ以上は…」
大きく息を荒げながら、アレックスはアスカの細い手首をつかんで引き剥がす。
はっとしてアスカは頭を上げた。

「宝龍島で…まだ私の記憶が戻らなかった時から、私たちの間にはずっと何かがあると感じていたわ。あなたに触れられるたびに全身に感じているこの感覚…私たちは恋人同士だったのでしょう?」
「それは…」
「ごまかさないで…。あなただって判っているはず…!」
 確かめるようにアスカは、アレックスの胸においていた手を下ろして、彼の引き締まった身体の線に沿って硬く張り詰めた胸から細く男性的に引き締まったウエストへ…そしてさらにその先へ…。ぴったりとしたズボンの下でもはっきりとわかるくらい硬くこわばっているものを生地の上からそっと触れる。

「止めるんだ、アスカ…! 」
いつしかアレックスの声もかすれたように震えている。
「嫌よ…! 私は全て思い出したの! あんなに私を求めてくれたあなたが、宝龍島を出てからずっと私を避けているのは何故? 私があなたを裏切って黒柳の元へ行ってしまったから!?」
「違う…!」
「いいえ…私が黒柳に汚されてしまったからなのね!?」
「違う…! そんなんじゃない…!君が潔白なのは証明されているじゃないか…!」
「じゃあ、何故…!? あなたの身体はまだこんなに私を求めているのに何故あなたは抗うの!? お願い! 私をまだ愛してくれているのなら、今すぐ私を奪って!!」
アスカの涙でくぐもった悲痛な叫び声を聞いたとき、ついにアレックスの最後の防波堤はもろくも崩れ去った。

「うぉ…!」
 小さく叫ぶとアレックスはアスカの身体を素早く抱き上げる。隣の執務室のデスクの上に積み上げられていた書類の束を片手で乱暴に叩き落とすと、そこにアスカを押し倒した。
 もう頭の中ではアスカとひとつになることしか考えられなかった。ドレスのすそを捲り上げて、彼女の両足を自分の腰に巻きつけるように抱えながら、ズボンの前を開けるのももどかしく、アスカのシルクの下着を一気に引き裂くと、猛り狂う自らをその中心に深く沈めた。
 アスカも小さな悲鳴を上げながら、上体を大きく仰け反らせて両足をきつくアレックスの腰に巻きつける。
 あとで後悔するとわかっていながら今にも爆発しそうな想いを自分でもどうすることも出来ずに、アレックスは激流に流されるままにアスカを求め続けた。
 あれほど夢に恋焦がれた懐かしい香りに包まれながら、アスカも自らその情熱に身を任せていく。
 
“私は…もうこのまま死んでもいい…。”

そう思えるほど、アスカはずっと長い間アレックスを求めていた。
  どうか、この時間が永遠に終わりませんように…。
 そう願いながらアスカは、喜びとも苦痛ともつかない眼差しで、じっと自分を見つめているアレックスの瞳を…また同じ想いで見つめていた。
 
 愛している…。アスカ…。

 アスカを抱く腕に力を込めて、もう一度深く深く自らを彼女の中に沈めると、アレックスは一気に昇りつめ、アスカも追いかけるように小さく叫びながら内なる炎を爆発させた。

 どれくらい時が過ぎたのだろう…?
気がつくと自分の腰にきつく両足を絡めたまま..気を失っているアスカの姿が目に入った。
 黒い髪が乱れて半ばあらわになった白い胸にこぼれかかる様は、とても美しい。
頬はピンク色に上気して、うっすらと開いた唇がなお誘うように微笑んでいるようにも見える。アレックスは人差し指の先で、柔らかな頬をゆっくりとなでた。
  何ということだ…!

 いくらアスカからの誘いとはいえ、熱情に任せてこんな厳つい執務室のデスクの上で、まるで娼婦を抱くように扱ってしまったことを、アレックスは深く悔いていた。
 あまりに抑圧された感情が一気に爆発してしまった。欲しいという想いが強すぎて、彼女が未だ病み上がりだということさえすっかり忘れていた。もしかしたらどこか傷つけてしまったかもしれない…。

 恐る恐る顔を近づけると、小さな寝息が聞こえてきて、アレックスは大きく安堵の息を吐いた。
 
 良かった…。生きている…。

 そっと身体を離して彼女の身支度を整えてから、抱き上げて隣の続き部屋のドアを蹴って開けると、そこに置かれた柔らかなソファーの上にそっと横たえた。
その唇に軽くなでるようなキスをして、アレックスは立ち上がると近くの呼び鈴を鳴らした。

「お呼びでしょうか? ボス」
しばらくして、入り口とは別のドアからアンドルーが音もなく現れる。

「彼女を他の客に気づかれないようにそっと部屋に戻せ…」
「わかりました」
アンドルーはちらりとソファーに横たわるアスカとアレックスを見やった後、黙ってソファーに近づき、宝物でも扱うような仕草でアスカの身体を抱き上げると、入ってきたときと同じ様に足音ひとつ立てずに部屋を出て行った。

 アンドルーの姿がなくなると、アレックスは放心した様に窓際に立ち、両手を窓に押し当てたまま…漆黒の海を見つめていた。

どれくらい時が経ったのか、不意に執務室の入り口に立ってじっとこちらを見つめているジャマールの姿に気がついた。
「いつからそこにいたんだ…?」
「アンドルーが大切な荷物を運び出したときからだ」
ジャマールはそれまで、ドアにもたれかかるようにして腕組みして立っていたが、意を決したように足早に近づいてきた。

「ここへ呼んだ覚えはないぞ、ジャマール」
 ジャマールは今頃マレー号と共にロンドンにいるはずだった。アレックス一行とは別に一足先にロンドンにいるランスロット卿の下に女王のティアラを届け、ことの全貌を報告するように伝えてあったはずだ。あらかじめランスロット卿にも香港をでる時にその旨を手紙にしたためて本国に送ってある。

「ああ、ランスロット卿にはすでに報告は終わっている。女王陛下も甚くご満悦だ。是非直接君から話を聞きたいとお待ちかねなんでね。明後日の朝にはブリストル港に到着する前に君を捕まえようとこうして参上したわけだが…。ひどい顔だな、一番欲しいものを手に入れた後にしては最悪な顔をしている」
「ああ、最悪だよ。」
おそらくジャマールは全てを見越してここにいるのだろう。わかっていて迎えに来たのだ。

「わかった。マレー号はどこにいる?」
「ここから数マイル離れた場所に錨を下ろしている。どうする?このままアスカから逃げ出すつもりか?」
 アレックスはその問いかけには答えずに黙ってジャマールの脇をすり抜けると、執務室へ戻ってデスクに腰を下ろした。
床には先ほどアレックスが払い落とした書類の束が散乱している。

「ひどい有様だな。アスカの存在が君にとって吉なのか、凶なのか、いまだわたしには判断がつかないね」
「そうだろうな。だがやはり、おれは彼女のそばにいないほうがいい。こうもあっさり誓いが破られるなら、この先おれはおれ自身から彼女を守れない…。」
(ロンドンでロバートの娘としての彼女の地位を確立することが、ロバートに対するおれの義務であり恩返しであると思っていたが..もうそれすら危うくなってきている。もしかしたら、さっきの行為でオレは取り返しのつかないことをしてしまったかもしれない。)

「彼女を妊娠させてしまったら…おれは自分で自分が許せない…」
「わたしは、それはそれでアスカにとっては幸せなことだと思うが…?」
「それは違う! アスカはロバートの娘だ。伯爵令嬢として多くの人々に崇められ大切に扱われるべき人間だ。結婚も出来ずに、ただおれの愛人として生きるべきではないんだ…」
「アスカと結婚するんじゃなかったのか?」
「そのつもりだった。宝龍島を出る間際までは…。」
諦めにも似た表情でアレックスは、さっきアスカが横たわっていたあたりを指先でなぞった。

「出来ないんだよ。おれとアスカはどんなに望んだところで、この英国では結婚することは許されない。王家につながる血筋に生まれたものは、二親等以内の血縁同士の婚姻を禁じられている。つまりはクレファード家の当主であるおれは、アスカを花嫁に迎えることは永遠に出来ないということだ」
「くだらん! キリスト教国の因習などオレからすればくそ食らえだ! 君たちがないよりも崇めている女王陛下の血統でさえ、その昔から忌まわしい近親相姦の歴史そのものじゃないか」
あざけるようなジャマールの言葉にアレックスは首を振って、もうそれ以上言うなとばかりに手を上げる。
「だからこそ現在のわれわれは慎まなければならないんだ。おれは今からマレー号に移る。あとはアンドルーがうまくやってくれるだろう」

急いでアンドルー宛に短い手紙を書き終えたアレックスは、もう一度広いマホガニー製のデスクの表面を手のひらでなぞってみる。
目を閉じればかぐわしいアスカの髪の匂いが漂ってくるような錯覚を感じながら、それを振り払うように勢いよく椅子から立ち上がったアレックスは、そのまま足早にその場を後にした。

ロンドンへ…。 レディー・ウィンスレット

アスカはカーテンの隙間からうっすら漏れてくる朝の明るい光に照らされて、ゆっくりと目を開けた。
(ここは…?アレックスはどこ?)

夕べ彼にどうしても会いたくて、この船の主の執務室のある最上階まで押しかけて行ったまでは覚えている。主は来客で忙しいというアンドルーの制止を押し切って、アスカはついにアレックスを彼の執務室で捕まえることができた。
そこにいたアレックスはひどく疲れた様子だった。
船の中で知り合ったアメリカの新聞記者だというロニー・ウォルターの言葉を確かめたくて問い詰めるアスカに彼は全てを打ち明けてくれた。アスカの出自について、父親が誰なのかも自分は英国に旅立つ前から知っていたことも…。

愛するアレックスが敬愛して止まない叔父であるその人がアスカの父であるということは、アレックスはアスカの従兄ということになる。その真実を直接聞かされて、なおいっそう愛しさが募ると同時に、それを語るときのアレックスの瞳の中に、言いようのない哀しみを感じて不安になった。
(アレックスはまだ何か隠しているのでは…?)
夕べのあの狂おしいまでに互いの感情をぶつけ合って過した時間は、幻なんかじゃないわ…! 

身体のあちこちに感じる気だるさや、未だ疼くような熱を持って熱く火照って止まないからだの中心が、確かに彼の情熱を受け入れた証でもあった。
(だったらどうして朝まで一緒にいてくれなかったのだろう..?日本にいた頃、明け方まだ薄暗いまどろみの中で、何度も愛し合った甘い記憶が思い出されて、アスカは思わずまぶたの裏側が熱くなった。

「お嬢様、お目覚めになったようですね?知り合いの船員の話だと明後日の明け方にはブリストルの港に着くそうですよ。そこからロンドンまでは馬車で半日ほどです」
弾むようなリリアの声に、アスカは瞬きをしてまぶたの奥にそっと涙を押し戻した。

「そうなのね? ロンドンはどんなところかしら?」
弱々しく微笑みながら、アスカはゆっくりと重い身体を起こした。
リリアが天幕のカーテンを開けると、太陽はすでに中天近くまで上っていて、自分で思っていたよりもずっと長く眠っていたことを知る。

アスカがふうっと息を吐くと、リリアは申し訳なさそうに振り返った。
「すみません、お嬢様。旦那様がお嬢様はお疲れだろうから、目が覚めるまで声を掛けないようにという申し付けだったものですから…」
「アレックスは? アレックスはどこ…?」
やっぱり夕べのことは夢ではなかったのだ。不意にうれしくなってアスカが勢い良くベッドから降りたところで、リリアの表情を見て何か問題がおきたことを知る。

「お嬢様…」
何か言い難そうにリリアが口を開く。
「旦那様は…今この船にはいらっしゃいません…。」
「…?」
「明け方、ジャマール様と一緒に下船されて…。」
「ジャマール? ジャマールは一足先にロンドンに行ったのでは…?」
「はい、そのはずなのですが、アンドルーの話では、女王陛下から急な召喚があったのだとか…。」
本当に申し訳なさそうにリリアは口ごもりながらそれだけ言うと、あとは黙々とアスカの身支度を整え始めた。
リリアが悪いわけではない。アレックスはもともと英国女王の直属の兵士のひとりなのだ。国家のためなら、その命さえ投げ打って闘う冷徹無比な「海賊ホーク」なのだから。
たかが一人の女に拘っている時間などあるはずがない。

「お嬢様…?」
黙ってじっと窓の外を眺めているアスカの様子に不安になったリリアが問いかけた。
「ごめんなさい。大丈夫よ。私はメルビルの娘よ。今まではアレックスに守ってもらったけれど、これからは一人でも大丈夫。それに付き添いとしてリリア、あなたがいてくれるから心強いわ」
「ありがとうございます。でもロンドンには私も12歳の頃までの記憶しかなくて、明日の朝、ブリストル港についたらきっと旦那様が迎えに来てくださいます。ロンドンの社交界はそれはにぎやかで華やかでしょうね? お嬢様も毎日お忙しくて、きっと日本を離れた寂しさなんて吹っ飛んでしまいますよ」
「そうね…そうかも知れないわね」
 アスカはそういって無理に笑ってみせる。リリアは寂しいアスカの心情を察して励まそうとして言った言葉に違いないが、毎日が忙しいということは、それだけアレックスとの距離がまた遠くなるということだ。
 
ロンドン行きが果たして正しかったのかどうか、この頃のアスカにはもうわからなくなっていた。まだ見ぬ父親の存在をここロンドンで確かめて、想いの長をぶつけて母の悲しさや無念の思いを晴らすのが目的だったはず…。それがあの日アレックスと出会って彼に恋をしてしまったせいで、どれほど方向がかわってしまったことか…。
 
父の名前もどういう人物だったかということも、すべてアレックスの口から真実は語られていたのだから、これ以上ロンドンに行って何を確かめようというのだろう…?
メルビルの娘としてサンフランシスコで待っている母の元に戻って、残りの人生を穏やかに過すことだって出来たはずなのに…。

アレックス…。心の中でその名前をつぶやくだけで、心の奥に締め付けられるような痛みが駆け抜けていく。
日本を離れる前、あの最初に結ばれた夜からアレックスは幾度となくロンドンに着いたらアスカを自分の花嫁として迎えたいと言っていた。
あれからどれだけの時間が二人の間に流れ、何度も困難な波に飲み込まれながらそれでも自分自身を見失わなかったのは、ひたすら彼を信じてその後ろ姿を追いかけて来たからだ。
状況が変わったからといって、そう簡単に忘れられるものではないはず…。彼も同じであって欲しい。そう願いながら、アスカから遠く離れていく彼へ想いを馳せて、アスカは心のうちにしっかりとアレックスの姿を刻んでいた。

マレー号に急きょ乗り込んだアレックスは、その晩のうちに錨を上げロンドンを目指して船を走らせた。コンウェイをはじめ乗組員たちも、いつもより口数が少ないボスを見ても誰一人口を開くものはいなかった。いつもどおり何事もなかったようにきびきびと働いていたが、船内はいつもとは違った緊張感が漂っていた。
いつもなら難しい任務を終えて帰還する帰路では、どこか開放感があって、船内は陽気に歌うものや、軽いジョークを言い合ってふざけ合う者たちで賑やかなのだが、今日ばかりは違った。
 アレックスはコンウェイに短い指示を与えただけで、自室に籠ったっきり出てこないだけでなく、普段ならアレックスに影のように付き添っているジャマールでさえ、わざと距離を置くように操舵室の一角を陣取ったままじっと腕組みをして動かない。

「君がそんな顔をしているから、1年ぶりにロンドンに戻れるというのにみなはしゃぐことが出来なくて困っている。」
 自室のソファーに崩れるようにもたれながら、強い酒に救いを求めてあおるように飲み続けていたアレックスは、いつ現れたのか、入り口からこちらを伺うように見つめるジャマールの姿に気がついた。

「はしゃぎたい奴ははしゃげばいい…。別に禁止しているわけじゃない。」
「ひどい顔だな。とても英国中、いや世界中の女たちを騒がせ続けたホークと同じ人物とはとは思えないな」
「ふん…! ほざけ! たかが女などどうでもいい…!」
「そうか、ただそのたかが女一人にこうも骨抜きにされては、これから先が思いやられる」
 ジャマールはそう言って近づいて、アレックスの手からグラスを奪い取ると、中身を近くの植木鉢の中にぶちまけた。

「明日の夜明けにはロンドンに着く。その足ですぐ女王陛下に謁見するというのに、酒臭い息で女王の前に出るつもりか?」
「ハハハ・・女王はホークのいつもの悪ふざけだと思うさ」
アレックスはケラ、ケラと笑いながら立ち上がろうとしてよろけた拍子に、ソファーの背もたれに手をつこうとしたとき、ジャマールがすばやく動いて、アレックスの開いたシャツの首元を掴んで強引に立ち上がらせた。

「ふざけるな、私はそんな君の姿を見たくて、ここにこうしているわけじゃない!君の言うたかが一人の女にこうまで骨抜きにされて、ホークのプライドはどうした!? ロンドンにはレッジーナもいる。アスカのことが彼女の耳に入れば、きっと又あの女に付け入る隙を与えることになる。それでいいのか?」
ジャマールの言葉で、それまで暗く沈んでいたアレックスの瞳にきらりと鋭い光が戻る。キッとジャマールを見返すと、両手でジャマールの手を振り払う。
「あの女だけには好きにさせるものか! 今度こそスコットランドの片田舎から、二度と出てこられないようにしてやる」
「その意気だな。早く元のホークに戻ってもらいたいものだ。」
低く笑いながら、現れたとき同様あっという間にジャマールは姿を消した。

(そうだろう…? ジャマールの言うとおりだ。たかが一人の女にこうまで乱されるとは、冷徹無比なホークが聞いて呆れる。)
アレックスは、目の前の鏡に映った自分の姿に呆れながら、よろよろと立ち上がった。




その夜のうちに途中で小型船に乗り換えて、ロンドンのふ頭に到着したアレックス一行は、待たせてあった馬車に乗り込んでロンドン市内でも一等地にあるクレファード家のタウンハウスに落ち着いた。
 主人の突然の、真夜中の帰宅にもすっかり慣れている留守を預かる執事のロレンスは、さも当たり前のように寝室のバスルームに熱い湯をいっぱいに満たし、忙しい彼の主がいつでも身支度できるように万事抜かりなく整えて待っていた。
 この口数少なく大きな体格の厳しい執事は、年は60をいくらか越えているだろうか、立派な表門からではなく、脇の通用口からなれた様子でアレックスが入ってくると、顔色ひとつ変えることなく、「お帰りなさいませ。」 ひと言言って深々と頭を下げると、主人について主寝室に入り、自分自ら入浴の手伝いから着替えに至るまで無言で黙々と世話をする。
 アレックスが子供の頃からずっとそばについて世話をしてきた人物で、先代の公爵が亡くなってアレックスが次代のシェフィールド公爵になった後も、変わらずクレファード家の執事としてロンドンのタウンハウスと、領地にあるマナーハウスを行き来しながら留守を守り、こうして主人がロンドンにいる間には何かと細やかな気配りを欠かさなかった。

「特別変わったことはなかったか? ロレンス」
 入浴を済ませ、腰にリネンを巻いただけの姿で、鏡に向かって自ら伸びたひげを剃りながら、後ろで着替えを手に直立不動の執事に問いかける。

「特別にはございません。だんな様。ただ…エジンバラの寡婦領地にいらっしゃる前公爵夫人から、年間の寡婦手当を増やして欲しいとのお手紙が届いております。婦人からの手紙はご指示通り、クレファード家の顧問弁護士であるロスフェル殿に送っておりますが、どうやら婦人は納得されていらっしゃらないご様子で、最近は再三問い合わせの手紙が届いております。併せて数週間前ロンドンに滞在された間に、ホワイツで浪費されたと思われる金額の請求書もこちらに届いております。」
「いくらだ…?」
「1万ポンドかと」
「1万…!? 前回ロンドンに来たときは3000だったぞ…!?」
[1万に間違いございません。]
 執事は眉ひとつ動かさずに答えると、近くに置いたトレーから丁寧に封印されたホワイツの刻印のある白い封筒を差し出した。
 アレックスは手を止めてそれを受取ると、さっとペーパーナイフを走らせてすばやく中身を確かめる。

「ばかな….。たった一晩でこれだけ大金をいったい何に遣ったと言うんだ…!」
前公爵夫人、つまりはアレックスの母、レッジーナ・マリー・クレファードは、年はすでに40代の後半を過ぎてもうすぐ50歳に届こうかというところだったが、アレックスと同じプラチナブロンドと碧い瞳を持つ類稀な美女で、その美貌は若い頃に比べて幾分衰えはしたが、今なおその艶かしさは失われず、前公爵が生きていた頃から何人もの若い愛人を囲っては、ロンドン社交界のうわさ好きな連中から常に掛けの対象になっていた。
 
物心ついた頃から母親のそんな姿を嫌というほど見てきたアレックスは、極度の女性不信に陥るとともに、そんな妻を野放しにして田舎暮らしを続ける父親にも我慢出来なかった。6歳で両親の元を離れたアレックスは、それからずっと伯父であるロバート・ウィンスレットを実の父として崇拝してきたのだった。
 
英国に広大な領地と世界中にあらゆる資産を持つ今のアレックスなら1万ポンド(日本円なら2億円)くらい用意することなど造作もないことだろうが、あの女のために使うのは、どうにも納得がいかない。
ロンドンでも1,2位を争うナイトクラブから送られてきた請求書を乱暴にトレイの上にほうり投げると、ロレンスの差し出す柔らかなリネンで髭剃りの泡をふき取って、きちんとアイロンの当てられた上質のシルクのシャツに袖を通した。

数時間後、早朝のロンドンの市街地を女王の待つ宮殿へと続く通りを、クレファード家の紋章入りの、2頭立ての馬車が進んでいく。
馬車にはきちんと礼装に身を包んだアレックスと、普段めったに洋装を身につけることがないジャマールが乗っている。ジャマールはいつもなら長めの黒髪を濃い色のターバンで覆っているが、今日ばかりはうなじで束ねて、アレックス同様一部の隙がないほどきっちりと整えられている。

「さすがのお前も今日ばかりは異国人の装いは出来なかったらしいな。」
「濠に入れば濠に従えだ。私だってそれぐらいの礼儀は心得ているさ」
 そう言いながら皮肉っぽく笑うじゃマールだが、以外にも洋装が良く似合う。仕立ての良い上質なジャケットが広い肩幅をいっそう引き立てていた。

「女王陛下からサーの称号を与えられているおまえだ。いっそのことこの英国で腰を落ち着けたらどうだ。」
「下らん…。私にとってはそんな称号など何の価値もないね。君たち英国人がそんなものにいちいちこだわる理由がまったく理解できない。」
「ハ..ハ..その通り。血統のよいといわれる貴族院に属するほんの一部の人間が、この国の富のほとんどを独占している。だがその連中のほとんどは人間的にはどうしようもない奴ばかりだ」
「そういう君もその中の一人じゃないのか?」
「そのとおり、ろくでなしの海賊ホークそのものさ!」
アレックスはそう言って声を立てて笑う。

(今頃アスカはどのあたりにいるだろうか…? 彼女がロンドンに着けば、世間は何かと騒がしくなる。冷静なロレンスの言葉を借りるなら、巷では世紀の放蕩貴族のシェフィールド公爵が、アメリカ合衆国の海運王の令嬢をエスコートして戻るという噂で持ちきりなのだそうだ。おそらくは新聞記者のロニー・ウォルターの仕業だろう。ロンドンタイムスに記事を売ることでアレックスに報復しているつもりなのだ。

他人の噂などどうでもいい…。問題はアスカだ。結局アレックスは、アスカが伯父であるロバートの娘であり、自分とは従妹に当ることは話したが、その事実が二人の関係に決定的な変化を及ぼすことについては何一つ語ることは出来なかった。

「いよいよ、女王陛下とのご対面だ」
ジャマールの言葉にはっとして顔を上げると、右手の建物の屋根越しに宮殿に掲げられたユニオンジャックが現れた。







アレックスとの短くも切ない一夜を過してから3日後の早朝、アスカの乗るビクトリア号はブリストル港へと入って行った。
陽が高く上るのを待ってからリリアを伴って、他の一等客室の乗客に混じって後方のタラップから桟橋へと降り立った。狭い桟橋を抜けて、港の岸壁には迎えの人々の馬車や、荷物を運ぶ人夫たちでごった返しており、ぼーっとしていると迷子になってしまいそうな勢いがあった。

「まあ、何て多くの人でしょう? これではお迎えがどこにいるのかわかりませんわ!」
 リリアが困ったようにつぶやくと、後方から背の高い身なりのしっかりした若者が声を掛けてきた。
「リリア! 昔 ハディントン・パークにいたリリア・カーライルじゃないかい? 僕だよ、ジョン・オールズ。覚えてないかな? メアリーの息子の…!」
一瞬、きょとんとして若者の顔を見つめていたリリアの顔が、次の瞬間涙でぐしゃぐしゃになった。
「まあ! あのジョン!? 小さくていつも後ろをくっついて来てた…!?」
 ハディントン・パークとはアレックスの父で前シェフィールド公爵が田舎に持っていた屋敷のひとつで、その昔敷地内にある教会牧師だった父親の影響でリリアも一緒に生活していたことがあったのだ。そのときのこま使いの一人でリリアによくしてくれていたメアリーという女がいたのだが、その息子の名前がジョンで、当時5歳だったジョンはいつも12歳のリリアの後を子犬の様にまとわりついて離れなかった。
 でも今目の前にいる17さいのジョンは背丈は見上げるほど高く、どことなく面影はあるものの、昔のやせこけた小さな少年のイメージは微塵もなく、人懐こい笑顔が印象的な立派な若者になっていた。

「大きくなったわね。こんなところで会うなんてびっくりするじゃない…!?」
「そうだろう? 僕は今はロンドンのタウンハウスで働いているんだ。執事のロレンス様に言われてお嬢様のお迎えにきたんだよ。僕ならリリアの顔も覚えているからって」
 少年はリリアに得意げに言うと、はにかんだように笑いながら傍らで様子を見ていたアスカに向かって丁寧にお辞儀をする。

「はじめまして。お嬢様。馬丁見習いのジョン・オールズと言います。これからロンドンのタウンハウスへご案内いたします。」
「ありがとう、ジョン。よろしくお願いします」
アスカがにっこりと微笑みかけると、ジョンの頬が見る見る赤くなった。

 ジョンというこの青年とリリアは、ロンドンの南西部にあるシェフィールド家のカントリーハウス、ハディントンパークで使用人の子として一緒に育ち、教会牧師だったリリアの父親がなくなると、リリアは母と共に親戚を頼って東インド~香港へと渡り、そこでさらに母親がなくなって後、リリアはアレックスの求めに応じて日本へとやってきたのだった。
 
「驚きました。こんなところで幼馴染と出会うなんて…。ロンドンに戻ってきたら昔のなじみに会いたいとは思っていたんですけど…。」
うっすらと涙を浮かべて、リリアがうれしそうに話す様子を、アスカは黙って聞いていた。

(私にとってロンドンは全ての始まりになるんだわ….。父の生まれた故郷や、血のつながっているという遠縁の人たち…。1年以内に父の直系の跡継ぎが現れなければ、その地位や財産は遠縁の親族の、誰かのものになるとロニー・ウォルターは言っていた。
 それが真実なら、彼らからすればアスカの存在は招かれざる客、邪魔者にすぎないということになる。再会したとしても歓迎されているとも思えない。
 それを知っいてアレックスは、私をロンドンに連れてこようとしていた。そしてそのアレックスもここロンドンでは私の知らない別の顔を持っている。近いうちにそれを思い知らされるときが必ず来るだろう。私はそれに耐えられるだろうか…?
ここへ来るまでの間、アスカは何度も自問自答しながら決して得られる事のない答えを求めて大きなため息をついた。

「すみません、お嬢様。お嬢様ははじめてのロンドンに着かれたばかりでお疲れなのに、一人で長々とおしゃべりしてしまって…。」
「いいのよ、こんなときは誰かが話しかけてくれれば、気持ちが和むわ」
「ええ、そうですとも、ご心配はご無用ですとも。クレファード家のロンドンのタウンハウスは、キングスロード沿いの一等地にあって、ハイドパークの近くで乗馬だって出来るんです。さあ、きっとお屋敷ではだんな様がお待ちですよ」

 その時馬車は、中央に噴水のある大通りを大きく回ってカーブすると、やがて立派な屋敷が立ち並ぶ一角へとやってきた。街角の風景も通りを歩いている人たちもアスカが知っているサンフランシスコや、横浜のそれとはまったく違う。季節は秋を迎え、冷たい空気が頬をかすめていく。
(アレックス…。リリアの言うように本当に彼は待っていてくれるのだろうか…?)
何一つ確証を得られないまま…私はロンドンに来てしまった。でも…今までだって辛いことは数え切れないほどあったはずで、そのたびに乗り越えて来たのだから、これからだって大丈夫。何があっても決して泣いたりはしない…。)
 アスカは一人頷いて、キッと顔をあげた。
通り沿いに並ぶ立派なタウンハウスの中で、突き当りの一番奥の一画にさらに目を引く大きな建物が見えてきた。アメリカ一の海運王といわれたアスカの養父の、サンフランシスコの持ち家でさえ、これほど大きく立派ではなかった。
 4階建ての赤いレンガ造りの建物で、屋根には大きな張り出しと大きな窓にはいくつもの美しい装飾が施されている。贅を尽くしたその佇まいは、裕福なシェフィールド公爵の持ち物にふさわしいいものだった。

「アシュリー・ハウスに到着しました」
 誇らしげに告げてジョンがひょいと御者台から飛び降りて、馬車の入り口のドアを開ける。先にリリアが降りると、アスカはゆっくりとステップへと足を伸ばした。
 ジョンの手を借りて玄関前のポーチに降り立つと、玄関へとつながる階段にずらりと人が並んで出迎えているのが見える。

「お嬢様、クレファード家の執事のローレンスさまです」
リリアに促されて、アスカは入り口に続く石畳に足を進めた。するとずらりと姿勢よく並んでいた、同じお仕着せを着た人々の中から、上品なひげを蓄えた細身で長身の中年紳士が一歩前に出て、アスカに向かって丁寧におじぎした。
「クレファード家の執事を務めますロレンスと申します。お嬢様のことはだんな様からお客人として丁寧にお迎えするようにと賜わっております。どうぞご安心下さいませ」
「ありがとう。ミスター・ローレンス。アスカ・フローレンス・メルビルです。よろしくお願いします。」
「ようこそ、ミスメルビル。」

 それから屋敷の玄関ホールに入るまで、居並ぶ使用人一人ひとりに歓迎の挨拶を受けたアスカは、女中頭のシープ夫人に案内されて3階にある豪華なゲストルームのひとつに落ち着く頃にはすっかり疲れ果ててしまった。
「このお屋敷には何人の使用人がいるのかしら?」
「ジョンの話だとここで働く人たちは、執事のロレンス様とシープ夫人以外みんな何年か前のロンドン大火で家を失ったり、家族を亡くしたりした人ばかりなんだそうです。もちろん全員身元のはっきりしている人ばかりですが、あの災難にあってわずかな職や家を失って路頭に迷っている人たちにだんな様は仕事を与えているんですよ。ここにいれば食べることはもちろん、ちゃんとした読み書きくらいの教育は受けられますから…。」
「まあ、そうなのね」
 豪華な装飾の施された見事な部屋の調度品を眺めながらアスカは、今は遠い宝龍島(ホウロントウ)を思い出した。あの島では世界中のあらゆる場所で虐げられて生きてきた人たちが、のびのびと暮らしていた。ここでもきっとそうなのだ。部屋の隅々に至るまできちんと掃除され、手抜きやごまかしがない。彼らは主人に感謝しながら必死に自分の与えられた仕事をこなそうとしているのだろう。一見冷徹に見えるホークの内面に、思いやりに満ちた温かい心があるのをあらためて感じられてアスカはうれしくなった。

「さっき小間使いの女の子に聞いたところによれば、旦那様は3日前にお屋敷に戻られてから、慌ただしく女王陛下への謁見のために出かけられてからまだ一度も戻られていないとのことでした。相変わらずお忙しいですね。せっかくお嬢様をロンドンにお招きしたというのに、また何か秘密のお仕事をなさっているのかも知れませんね」
 部屋に運ばれてくる荷物の中からアスカのドレスを引っ張り出して、リリアはひとりぷりぷりしながらせっせとクローゼットの中に入れている。その姿が可笑しくて思わず笑みが出てくるが、ふと窓辺に目をやると、窓越しに陰鬱とした空が広がる中、遠くに女王のいる宮殿の塔の屋根が見えていた。

(アレックスは今頃どこにいるのだろう…?)
 ロンドンのアレックスのタウンハウスに落ち着いたことで、これからここで何があっても二度と取り乱すまいと覚悟していたアスカだが、心の奥底から沸いてくる心細さと不安に思わず両手で自分の身体を抱きしめた。
父親のことを知りたいという想いもあったが、何よりもアレックスを愛してしまったことで、彼のそばにいたい…。その想いだけに囚われている自分があった。


その頃アレックスは、ジャマールと馬を並べて領地のあるロンドンの北西部、イーストアングリア地方に向かっていた。この頃の英国貴族のほとんどは、1年のうち社交シーズンの12月~8月くらいまでロンドンのタウンハウスで過し、それ以外はそれぞれ代々先祖から受け継いだ領地のあるカントリーハウスと呼ばれる広大な屋敷とを交互に移動する生活を送っている。
 11月の今は来月から始まる社交シーズンに向けて、それぞれのカントリーハウスからこぞって貴族たちが大移動する時期だった。

「よりによってこんなシーズン前に突然田舎に行くなんて、どういう風の吹き回しなんだ? まさか、女王の出した注文を本気で考えているんじゃないだろうな?」
 轡を並べて進みながら、ジャマールが問いかける。
「ふっ…まさか、少し気になっていることを確かめたいだけだ」
 アレックスはあいまいに答えながら、隣のジャマールを振り返った。

 ほんの1日前、宮殿を訪れたアレックスは女王に謁見した。女王は御歳60歳の後半を迎えるが、大英帝国の長い歴史の中で最も輝かしく、華々しい時代を築いた女王であり、凛とした表情の中に確固たる強い意志を持った女性である。
 女王は自身の摂政であり、議会の最高位のランスロット卿を伴って現れた。
「久しぶりですね? アレックス。このたびはよく働いてくれました。これでわが英国の威信は保たれました。その働きの代償として何を望みます?」
 
女王は悪戯っぽい表情を浮かべながら、傍らのランスロット卿をちらりと見る。少しふくよかな身体をゆったりとした椅子に預けて、微笑む姿は決して美人ではないが、年のわりにはまだ艶かしさや持って生まれた血統の良さが伺える。そして圧倒的なオーラを全身に纏っていた。
 アレックスとジャマールは女王のいる王座より一段低い場所に控えていたが、ランスロット卿に手招きされると、すばやく立ち上がって王座に近寄り、差し出された右手の甲に手袋越しにキスをした。

「女王陛下…。」
「おや、よく見ると少し痩せたようですね。アレックス。この度の任務はひどく困難があったと聞いていますよ」
 女王は穏やかな笑みを浮かべながら面白そうにアレックスとジャマールを見比べてもの言いたげに見つめている。
「いささか…。」
無表情を装いながらアレックスは短く答える。女王は十代で王位についてから、その知性と教養で数々の困難な政局を乗り越えてきた女傑でもある。その表情から相手の心情を読み解くのも得意なのだ。
 
アレックスが少し決まり悪そうにジャマールを見ると、ジャマールはわざとそ知らぬふりをしてしているが、さあどうする? と言わんばかりの表情がその瞳には浮かんでいる。
 アレックスは大きなため息をひとつついた。

「文書で報告したとおり、事件の黒幕は極東にあるひとつの海運会社でした。メルビルは何年も前から巧みに操られていたのです。わが国の要職に着いていた者の中にも、彼らに加担し、悪に浸潤しているものも多くいました。そのほとんどはランスロット卿のすばやい決断により、すでに排除されましたが…。」
「その通り。腐ったりんごは一刻も早く取り除かねばならん。わが偉大なる大英帝国の栄光に影をもたらしかねんからな。その点、君は大いに役立ってくれたよ」
 それまでじっと黙って聞いていたランスロット卿が口を開いた。女王より少し年上の宰相は、穏やかな口ぶりながらその眼鏡は鋭い。

「で、陛下は君に、今回の働きに対して何か褒美を取らせよとおっしゃるが、何を望む?
いまさら勲章をと言っても君が喜ぶととも思えんが…?]
「そのとおり。そんなものは僕にとって何の意味もありません。でも、もし適えていただけるのなら、ひとつだけお願いがあります」
「そうか、今までも君には幾度も褒美を与えようとしてその度に自由が欲しいといって、今回の旅で何者にも縛られない最高の女王の免罪符を与えた。それ以上の自由はないと思うのだが…?」

 そう…アレックスはこの大英帝国で女王から、世界中で英国の力の及ぶ地域ならどこでも自由に航行出来る、未だかつて誰も手にしたことがなかった女王のパスポートを与えられているのだ。ほんの半年前までは、それだけが何よりも換えがたい宝物だったはずだが…。今のアレックスにとってそれさえ色あせて感じるほど、何かが大きく変わってしまった。

「アレックス…?」
 隣に立つジャマールから脇をつつかれて、初めて自分が長い間物思いに耽っていたことに気づく。
「申し訳ありません。何か今回の旅は、僕にとってもいささか特別なものになりました。生まれて初めてあの世との境まで行き着いたということもありますが…」
「聞いていますよ。比類ないほど屈強だったそなたが敵の銃弾を受けて生死を彷徨ったとか…? そなたを失わなくてよかった。 この大英帝国にとって大きな損失になるところでした」
 女王はそう言いながらも唇の端に悪戯っぽい笑みを浮かべながら、アレックスの隣に立つジャマールをちらりと見る。ジャマールは何事もなかったように無表情を装っている。
やれやれ、いったいジャマールはどんな言葉で女王にいきさつを語ったのやら…。
コホン! ひとつ咳払いをして、アレックスは言葉をつないだ。

「今回の旅で僕は貴重なある事実を知ることが出来ました。僕の母方の伯父であるロバート・ウィンスレットを覚えておられますでしょうか?」
「もちろん、覚えておりますとも。彼はその地位にふさわしく高潔な人物でした。彼を亡くした事はこの英国にとっても何よりも換えがたい損失でしょう」
 黎明な女王の表情が一瞬曇る。当時の評議会のメンバーだったロバートは、女王にとっても貴重な存在だったと知ってアレックスはうれしかった。その父とも慕うロバートのために、アレックスがこれからしようとしていることは何よりも正しい事のような気がしていた。

「僕は日本で、ロバートがある日本女性と密かに結婚して、子供をもうけていたことを突き止めたのです。彼女はロバートが日本を去ったあとに生まれ、母親が病気でなくなったあと、ある人物に託されて育てられましたが…」
そこでアレックスは一瞬言葉を詰まらせ、しばらく想いをめぐらせたあと、ゆっくり言葉を続けた。

「信じられませんが、彼女は…アスカは、メルビルの養女となっていました。もともとロバートの遺言として、この件は内々に捜査していたのですが、こんな形で見つかるとは思っていなかったので…」
「それで、君の話が確かなら、その娘はロバートに似ているのか?」
それまで黙って聞いていたランスロット卿は、いつもの冷徹なまでの声音とはまったく違う声のトーンでアレックスに迫った。

「彼女はとても頭の良い女性で、ロバート譲りの美しい銀色の瞳を持っています」
 アレックスはそう言いながら、飛鳥の怒った時キラキラと光る美しい銀色の瞳を思い出していた。

「なんということでしょう?それが本当なら私もぜひ会ってみたい。彼女は今どこにいるのです?」
「はい、今頃はロンドンに着いて、クレファード家のタウンハウスに落ち着いた頃でしょう。」
「では、来月の王室主催の舞踏会に彼女を招きましょう。良いわね? ランスロット」
「御意…。もちろんです。陛下の思し召しなら…」
「もちろん、僕もそれを望むところですが、その前にお願いがあるのです。伯父であるロバート・ウィンスレットの爵位は、このままいくと来月には遠縁のモルウェルに継承されることになっています。モルウェルという人物はおおよそウィンスレット家の爵位を継承するに値する人間ではありません。なので陛下のお力で正式な相続人であるアスカにウィンスレット家の爵位の継承を認めていただきたいのです」
「それがそなたの望みだと思ってよいのですね?」
「なくなったロバートの意志であり、希望でもあります。」
「わかりました。ではそのアスカという娘が、ロバートの娘だという確かな証拠がありますか?」
「はい、日本の教会に二人の結婚証明書が残っていたのと、彼女は母親の形見としてロバートから送られたウィンスレット家の紋章の入ったペンダントを持っていました。それが何よりの証拠となります。」
「わかりました。認めましょう。ですが彼女を女伯爵として認めるということは、彼女はこの英国の法律に従って半年以内に伴侶を見つけなければなりません。それも彼女は承知しているのですか?」
「それは…。」
 言えば飛鳥は納得するわけがない。たとえそのことで永遠にアスカと結ばれることがなくなってしまうとしても、飛鳥はロバートの娘なのだ。正統なウィンスレット家の相続人として人々に敬意をもたれるべき存在なのだ。他の男にアスカを託すことがどんなに困難なことだとしても、今は仕方ないのだとアレックスは自分に言い聞かせていた。

「ボクが後見人となって必ずそうなるように務めましょう。」
「わかりました。そなたがそこまで言うのなら、そなたの願いをかなえましょう。では来月の再会を楽しみにしていますよ。」
女王はそう言い残して、ランスロット卿を伴って謁見室を去っていった。

「楽しみですね、ランスロット。あのロバートが残した娘に早く会ってみたいものです。」
「そうですね。しかし…私か彼女について聞いていた報告とは若干違っているような…」
「おや、それは聞き捨てならないこと。何のことです?」
「私が別の方面から聞いたのは、あのアレックスが異国から婚約者を連れ帰ったということだったのですが…」
「まあ、どうやらそれには何か面白いからくりがありそうですね。あとでゆっくり詳しく聞かせてもらえるかしら…?」
「御意…。」

アレックスの決断  もうひとつの真実 1

ロンドンを後にして3時間後、途中馬を休ませながらアレックスは、自分の領地のある英国南西部のアングマリア地方、シェフィールド領を見下ろす小高い丘に立っていた。
 こうしてこの場所に立ったのは何年ぶりだろう? 恐らく7年前、アレックスの父先代のシェフィールド公爵が亡くなってその爵位の継承のために訪れて以来だろうか。
 前回訪れた時は季節は春で、目の前に広がる台地は青々と茂った麦で一面緑色だったが、
今は11月の終わり、すでに晩秋を過ぎて冬を迎えようとしていた。

「どうした? アレックス。懐かしさに言葉を失くしたか?」
いつもの異国風の衣装の上に、厚手のマントを羽織ったジャマールが、いつものようにからかうような言葉を投げかけてくる。
「懐かしさを感じるほどの愛着があればいいが…。残念ながらおれにとってここは単に生まれた場所であって、懐かしい故郷というには嫌な思い出が多すぎるんでね。それよりもこっち側のほうがはるかに懐かしさを感じるよ」
 そう言いながら、目の前の、風景の中のちょうど真ん中を流れる川を挟んだ左側を指差した。そこは亡きロバートの領地、リンフォード領だった。

「それで…? 女王の謁見から真っ直ぐこっちに向かったのは何か意味があるんだろう? 本来なら慣れないロンドンに着いて、心細いアスカについていてやるはずだとは考えなかったのか? 宝龍島(ホウロントウ)を離れてから、おおよそ君らしくない行動を見てきたから驚きはしないが、そろそろこれからの計画を話してもらいたいものだ」
 いつもアレックスに対して率直な物言いをするジャマールだが、その声には少し非難めいたところがあった。

「不思議だな? いつかあれほどアスカに深入りするなと警告したお前が、今度はアスカを一人にするなという」
「それは彼女をよく知らなかった頃のことだ。アスカは強い。彼女こそホークの花嫁にふさわしい。他の誰でもなく…」
「ハ、ハ、ハ…その通り! だが今は優先すべきは爵位の継承だ。それを片付けないと前には進めない」
「そうか、なら本気で君は彼女のことをあきらめていないと思っていいんだな? 」
「ああ…。今のところは」
「なら安心だ」
 そう言ってジャマールは馬の手綱を引いて再び進み始めた。アレックスもすぐ後を追う。
ジャマールにはそう言ったものの、本心ではアレックスにも解らなかった。今は少しだけ距離を置いて自身の心を冷静に見定めなければならない。いずれはアスカと正面から向き合わなければならないが、その時以前のように熱情に負けて過ちを犯さないよう自分自身を諫めるためにもアレックスには時間が必要だった。

 領地のはずれに在る小さな村々に立ち寄って、道行く人々の様子をつぶさに観察しながら二人はゆっくりと街道を進んでいく。賑やかな町並みから少し離れると、整備されていないぬかるんで荒れた道路があったり、荒れ果てた農地の外れにまた今にも朽ち果てそうな農民の小屋がいくつもあって、アレックスはそれを見て眉をひそめる。その昔、記憶にある領地の農民たちは、生き生きとして活気にある暮らしをしていたはずだった。
領主のいないこの10年でいったい何があったのだろうか?
 途中12,3歳くらいのいかにも農夫の子供に出会ったが、大きな立派な馬にまたがった二人の姿を見て、脅えたように物影に隠れてしまった。何かがおかしい…。
.
「ジャマール、しばらく留守にしていた間に何かがかわってしまっているようだ。」
「確かに…。少し違和感を感じるな。見渡すかぎりのどかな田園風景といいたいところだが、荒地が目立つ上にどこか活気がない」
「ああ…。毎年上がってくる管理人からの報告書の数字には、いつも同じ数字が並んでいたが、どうやらこれは詳しく調べる必要がありそうだ」
 本当ならマナーハウスまであと数キロというところまで来ていたが、二人はわざと引き返して数キロほど手前の宿場町に宿をとることにした。

 大きな街道沿いにあるこの町のメインストリートにあるホテルの馬着き場は、社交シーズン前の大移動の貴族の一行の馬車でにぎわっていたが、アレックスとジャマールが馬を下りると、16,7歳の少年二人が飛び出して来て、馬の手綱を預かろうとする。二人は兄弟なのだろう。少しニキビのある頬に笑うとえくぼが浮かぶところなど良く似ていた。
「2頭とも素晴しい馬ですね。ここいらでは見たことないや」
 兄らしい少年は眼を輝かせながら、上客の到着に弾んだ声を上げている。アレックスもジャマールも質素な黒い厚手のフード着きマントに身を包んでいるが、駆る馬の見事さもあって身分までは隠しきれない。彼らからすると身分のある客ほど多くのチップをもらえるのだから、先を争って世話を申し出る。
「すまないが、部屋を二つ用意してくれないか? 夕食の準備も頼む」
 内ポケットから銀のコインを2枚出して、年長の少年に渡すと、彼は馬の世話を弟に任せて、素早くコインを自分のポケットに入れて嬉々として二人を並びのホテルへと案内した。
 少し前から小雨が降り出したこともあって、数件あるホテルはどこも満室だった。幸いなことにアレックスたちが到着した時間帯にキャンセルが出て、このホテルで一等のスイートルームが空いていた。この頃のスイートルームといっても一部屋ではなく、必ず主寝室の隣には続き部屋があり、従者たちのベッドルームがある。そこにジャマールも落ち着いた。

「天候の悪さもあって、この時期はどこの宿屋もいっぱいになる。ここが空いていたのはラッキーだったな」
「ああ、だがさっきこの部屋に来るまでに通った食堂の中で、少し気になる顔を見た。人違いなら良いが….」
 濡れたマントを暖炉で乾かしながら、ジャマールが言った。彼は一度見た人間の顔は絶対に忘れない。

「デール・オズモンド。金融の裏取引を専門に行っている。以前君が携わった件にも捜査リストに上がっていた人物だ」
「そいつが何でこんなところに? 奴はロンドンのブラックマーケット専門だろう?」
「さあ、なんかきな臭いものを感じるな。さっそくヒットしたとなると、調べてみる価値はある。そうなったらしばらくはまたロンドンには戻れなくなるぞ。アスカに手紙でも書いたらどうだ?」
「ああ、そうしよう」
 
 11月のこの時期の英国は、夜になるとぐっと気温も下がる。 部屋の一方に備えられた暖炉には火が入れられ、パチパチと乾いた木が燃える音が響いている。窓際に置かれたデスクの引き出しを開けて、インクと紙を取り出して、一言一言考えながらアスカへの手紙を書いた。
 確かに、ジャマールの言うようにアスカの側から逃げ出したことを、どういい繕っても言い訳にしかならないことをアレックスは知っている。リリアはきっとアスカ以上に怒っているだろう…。
 食事の準備が出来たことを言いに来たさっきの少年にチップと一緒に手紙を渡すと、彼は封印の紋章を見てヒュウと口笛を吹く。
「旦那たちは、シェフィールド公爵家の関係の人かい?」
「近からずも、遠からずだ。それがどうかしたのか?」
 アレックスが問い返すと少年は興味深そうに喋り始めた。
「ここ3,4年前から変な噂があって、領地内の農家の子どもが何人も行方不明になっているって言うんだ。6年前に前のご領主様が亡くなって、あとを継いだ若い御領主は、母親似で放蕩三昧…帰って来ない事をいいことに誰かが悪いことをしているんだって噂だよ。ああ…でもあくまでも噂だから、オレが喋ったって大将には言わないでよ。叱られちゃうから…」
 アレックスの表情が厳しくなったのに気づいた少年はあわててそれだけ言って部屋を出て行った。

 少年がいなくなったあとアレックスとジャマールは顔を見合わせる。
「驚いたな…。だが若い領主が母親に似て放蕩三昧で…というのは笑える…。」
 食事を終えて戻ってきてからジャマールがポツリと言った。
「ああ…泣きたい気分だよ。あの女と似ていると言われることが何より腹が立つ。」
「だろうな…。だが、さっきの少年の言葉は気になる。さっき我々を見た村人の少年が隠れるように姿を消したのも、その話を聞けば説明が付く。」
「ああ…。オレが領主としての仕事をないがしろにしている間に何かがここで起こっているのは間違いない…。それを確かめなければならないが…」

 7年ぶりにいきなり帰郷して様子をを確かめようと思っていたが、どうやら現状は思ったより複雑かもしれない。一度ロンドンに戻って、内々に調べさせてからの方がいいかも知れない。

「どうする…? 一度ロンドンに戻るか? 我々が直接動くには目立ちすぎるし、女王の言う王室主催の舞踏会までは3週間も無いぞ。アスカの準備もあるだろう…。」
 
ジャマールの言うとおりだ。今はアスカのことを優先させるべきだ。
「わかった。そうしよう。だがせっかくここまで来たんだ。1箇所だけ、どうしても行きたいところがある。」
「もちろん、それは構わないが…。」
 いつも身に着けている三日月刀を手入れしながら、ジャマールがちらりとアレックスを見る。まさかまたいつもの気まぐれか? その瞳はそう言っていた。
「心配するな、訪ねて行くのは女だが、間違っても娼婦じゃない」
「ああ、そうかい…。」
 そう言うなりジャマールはまた黙々と剣の手入れに戻った。
 
  ジャマールとはこんな風にこの10年余、どこへでも行動を共にしたが、この英国で
アレックスのルーツとも言うべき領地に赴くことは初めてだった。アレックスが両親を嫌い、そのせいで領地の管理を部下に任せたまま何年も海外を飛び回っていたことも知っているし、母親を誰よりも嫌悪していることも知っていた。
 去年叔父のロバートを亡くしてからはこの地でもうアレックスの身内と呼べる人間はほとんどいなかったが、唯一彼がロンドンの全寮制のイートン校に入るまでずっと側で世話をしてくれた乳母のイレインだけは特別だった。
 12年前、海軍に入隊する前に会ったのを最後に会っていない。父が亡くなって相続のために戻ったときには、イレインは海外にいる親戚を尋ねていて留守だったために会えなかった。
今までのアレックスなら、今頃はロンドンの娼館あたりで派手に遊び回っていただろう。
だが今のアレックスは誰かの温かい言葉を無意識に求めていたのかもしれない…。
翌日遅めの朝食を取ってから二人は、例の少年たちが連れてきた見事な黒い牡馬に跨ると街道沿いを自分の領地とは反対側…今は亡きロバートの領地へと向かう。

「アスカを案内する前にウィンスレット卿の領地を確かめておくつもりか…?」
「いや、この機会に昔なじみの顔を見に寄ろうと考えただけだ」
「ほう…。この半年ばかり、君に関して言うならば、初めての発見ばかりだ…。」
「何が言いたい…?」
 意味深なジャマールの言葉に反応してそう言ったが、アレックス自身、自分がこうまで感傷的になっていることに驚いていた。確かに今まで忙しく任務を理由に突っ走るばかりで、自分の内面とこうして向き合う余裕など無かったのだが…。

「この辺りで少し休憩して行こう。」
 長閑な田園地帯の中の小さな森の入り口を流れる小川の側で馬の背から降りて、近くの木に馬の手綱を括りつけると、2頭の牡馬たちもそれぞれに小川の水を飲んだり、足元の草を食べたり自由に動き始める。
 それを横目で見ながらアレックスは、履いていたブーツと靴下を脱いで裸足になると、ズボンの裾を捲り上げて、小川の中に入った。
「ヒュウ…!さすがにもう水は冷たいな、昔は良くこの辺りで遊んだものだが…」
 アレックスがジャマールを振返ると、ジャマールは辺りを警戒するように左右を見回している。
「心配するな、ジャマール、こんな片田舎に来てまで、オレの命を狙う奴はいない…」
「何事にも用心が肝心なんでね。ただでさえ、最近の君は感傷的になって隙だらけだ。」
「なるほどね、では付き合え…!」
 アレックスは傍らの木切れを取ってジャマールに放って、自分も別の物を拾って向かっていく。時々はこうやって移動の最中に身体を鈍らせないための訓練のために互いに打ち合うこともあったが、今日はいつに無く熱心になって気がつけば二人ともかなり激しく肩で息を吐いていた。
「お前の言うとおりだな…こんな時に襲われたらどうしようもない…」
 笑いながらアレックスは小川の冷たい水に頭をつけると、側でジャマールも呆れたように首を振る。
「禁欲中には時にはこういうことも必要になる。私でよければいつでも相手になるぞ」
「ああ、頼もしい限りだ」
  アスカは今頃タウンハウスに落ち着いただろうか…? ロンドンに戻ったら、其の時こそ飛鳥に全てを話すと心に決めていた。



 
なだらかな田園地帯を抜けると、鉄道の走っている線路があり、その先には石炭を採掘している鉱山があった。
「ウィンスレット卿は鉱山も持っていたと言ってなかったかな? 」
「ああ、知り合いの鉱山を頼まれて買い取ったと言っていたが…。それがどうした?」
「いや、前に聞いたことがある。多くの鉱山の中には働き手として身寄りの無い子どもが集められて働かされていると。もしかしたら…行方不明の子供と何か関係があるんじゃないかと思ってね」
「まさか…? それは10年ほど前に法律で禁止されているはずだが…」
 ロバートは足が不自由になってからは自分自身は経営にはタッチしておらず、知り合いをそのまま管理人として全てを任せていると言っていた。
 調べる価値はありそうだ…。

「たしか、この辺りに住んでいると言っていたんだが…?」
 しばらく行くと、大きな石造りのサイロがあって、小さな民家風の建物がいくつか並んでいるが、どの建物も激しく傷んでいて今すぐにでも修理が必要な状態だった。
「いったい誰を訪ねて来たんだ…?」 
 その様子をいぶかしみながらジャマールが言った。
「乳母のイレインだ」
 アレックスは馬から下りて、近くの木に手綱を留めて辺りを見回した。
建物の間には野菜を育てている小さな菜園もあって、確かに誰か住人がいる気配がある。アレックスが10年前に訪れた時には、ここまで荒れ果てた印象は無かったのだが、やがて正面の建物の後ろから子犬を追いかけて、一人の少女が飛び出してくる。
 少女は家の前に立っている二人の背の高い男の姿を見ると、脅えたような声を上げて慌てて家の中に走りこんでいく。
「待って…!」
 すぐさま声を掛けるが少女はドアをぴったりと閉じてしまう。仕方なしにアレックスは入り口のドアをノックすると、中から少し野太い女の声で、返事があった。
「誰だい? うちに男の働き手はいないんだ…。何度来たって払えないものは払えないんだよ…!」
「待ってくれ、我々は何かを取りに来たわけじゃない。イレイン・フォーサイスに会いに来たんだが…?」
「待って…もしかして、その声は…?」
短い沈黙があって…中からかんぬきを外す音がすると、やがてドアは内側から開けられる。そして、60歳くらいの老女が恐る恐る顔をのぞかせて、そこに立つアレックスの姿を見るや、ワッと泣き出した。
「まあ、本当にアレックス坊ちゃまですか…!? 幻じゃ無いですよね? こんなところまで訪ねてくださるなんて、長生きした甲斐がありましたよ」
「ああ、イレイン、僕も会えて嬉しいよ。12で別れて以来だから17年ぶりか」
「まあ、私としたことが、坊ちゃまを玄関先に立たせておくなんて、どうぞ汚いところですが中に入ってください…。」
 そう言ってイレインは家の中に二人を招き入れる。外の風景よりは中は幾分きちんとしていたが、それでもすぐにでも手入れしなければならないところばかりだった。
 イレインは、質素なソファーに二人を案内すると、さっき二人を見て慌てて隠れた少女を孫のアンナだと紹介した。アンナは最初は、イレインのうしろに隠れていたが、そのうち珍しい風貌のジャマールに興味深々で、慣れてくると自分から近づいて、あれやこれや質問していた。ジャマールもそれにユーモアを交えて答えている。

「何もおもてなし出来ませんが、お茶くらい飲んでいってくださいまし…。」
 そう言って手渡されたティーカップにはどこか見覚えがある。たしか、これは…。
「覚えていらっしゃいませんか…? 亡くなられた大奥様が大切にされていたティーカップの中に坊ちゃまが蛙を隠していらっしゃって、びっくりした大奥様が割っておしまいになって、もう使いたくないからと言われて下さったんです。」
 イレインは嬉しそうに思い出話を語っていたがアレックスは、あることが気になっていた。もちろんジャマールももう気がついているだろう。イレインは、さっきアレックスたちを誰かと勘違いして、ここには男の働き手はいないと言っていた。どういうことだろう?

「申し訳ありません、ついつい気安い物言いをしてしまいました。あなたはもう私の知っているアレックス坊ちゃまではなく、今はシェフィールド公爵様ですものね。なんと立派になられて…。これからは閣下とお呼びしなければならないですわね。」
 イレインは再び涙ぐんでハンカチで目をぬぐっていた。
「イレイン、僕もここに戻ってくるのは6年ぶりなんだが、シェフィールドの領地もここも何かがおかしい。わかっていることがあれば教えてくれないか?」
「はい、3年前から土地の借地料が倍になったんです。農地を耕すだけではそれが払えないものは鉱山の人夫として借り出されて、この辺りの農地には年寄りと子どもばかりになってしまいました。」
「待て、3年前といえばまだ叔父のロバートは生きていたはず、そんなことが起こっていたなら、ロバートは決して放っておかなかったはずだが…。」
「その頃旦那様は徐々に病も重くなられていて、炭鉱も土地の管理もほとんど人に任せておいででした。何度か窮状をお伝えすべく、息子もお手紙を差し上げていたのですが…」
「返事は来なかったんだな…?」
「はい、一度も…」
そんなことが解っていたなら、ロバートは何があってもアレックスに連絡してきたはずだ。どこかでそれを伝えなかった者がいるということだ。
「わかった。それと…6年前爵位を継いだ時から、イレインお前への慰労金として毎年200ポンドが支払われるように手配してあったはずだが…?」
 その金があればもう少しましな暮らしが出来ていたはずだ。
「はい、最初の3年間は確かにいただいていましたが、残りの3年間は5分の1に減らされていました」
「何だと…?」
 すまなそうに言うイレインになんでそれを言ってこなかったのかとは、アレックスは言えなかった。イレインは最初その申し出を断っていたのだ。17年前に乳母の職を辞した時に、前公爵であるアレックスの父から十分な手当をもらっているから必要ないと言っていた。それを無理に受取らせたのはアレックスのほうだ。実際にその時の退職金で今の家と土地を買ったのだろうが…。どう見ても今の生活は、楽とは言えない状況に見える。

「オレは減額しろと命じた覚えは無い。どこかで小細工したものがいるということだ。それに気になっていたんだが、この子の両親はどこにいるんだ…?」
 そこでイレインは大きなため息をついた。
「息子のサムは1年ほど前から炭鉱で働くようになって、母親は100キロほど離れた紡績工場に働きに出ているんです。全ては借地料と税金の支払いのためです」

 “なんていうことだ。領主としての勤めを疎かにしていた撥が当ったのか、自分への不甲斐なさで腹が立ってくる。”
「ここでこうしてあなた様とお話が出来たのも何かのお導きだと信じます。先日も近いうちにご領主様の交代があると聞いて、古くからの小作人の中にはもっと都会へ出て働こうと考えている者もいるようで皆不安に思っているのです。」
 イレインはここぞとばかりにここ数年に起こっている身の回りの変化について事細かく語って聞かせた。孫のアンナの相手をしながら、ジャマールもじっと聞き耳を立てているのがわかる。
「よくわかった。イレイン、病に倒れていたロバートを除いてオレはこの10年近く、まったく領主としての管理が出来ていなかったということだ。すまなかったイレイン。心からお詫びするよ。」
「いえ、もったいないことです。だんな様はご病気でしたし、あなた様はお忙しくて…ずっと海外を飛び回っていらっしゃると聞いていたんですもの。武勇伝はいろいろ聞いておりましたから…」
 イレインがそう言うのを聞いてアレックスは苦笑する。放蕩者としての噂がこんな田舎のかつての乳母の耳にまで入っているとは何ともいえない気分だ。
「だがイレイン、どう通達されているかは知らないが、今度の新しい領主はきっとみんなの生活を正してくれる。」
「本当でしょうか…?」
「ああ…、ロバート・ウィンスレット卿には娘がいたんだ。生まれは日本だが、アメリカで育った。爵位継承のために今ロンドンにいる。オレが後見人に指名されている以上、必ずそうすると約束しよう」
 それだけ告げるとまたイレインは涙をこぼして喜んだ。
それからもう半時ほどイレインの元で過した後、アレックスは再び帰途の道に就いた。

「あのひどい女が母親でよくまあ耐えられたものだと思ったが、実際には優しい乳母が君を育てたというわけだ…。」
 再び2つの領地を見下ろす丘まで来たとき、振返りながらジャマールがつぶやく。
「そうだな、イレインのおかげでオレは人格崩壊を起こさずにすんだのかも知れない。」
「しかし、あの短い訪問の中で君の乳母殿は、どんな報告書よりも如実に現実に起こっている事柄を教えてくれたな…?」
 ジャマールの言うとおりだった。ロバートの領地の借地料が倍になったのも、イレインの手当を勝手に減額させたのも、明らかに誰かの意思が働いている。アレックスの留守中にそんなことが出来るのは、一人しかいない…。でもそこまで出来る才覚があの人物にあるとは思えないが…。
「考えられるとしたら、レッジーナ以外にはいないところだが…?」
「だが、あの女にそこまで出来るほどの才覚があるとは思えないが…」
 ジャマールもアレックスと同じことを考えていたのだろう。確かにレッジーナはアレックスの実母であり、前公爵夫人なのだ。寡婦となって引退したとはいえ、独身である息子に代わって社交界でのシェフィールド公爵家の顔であることには変わらない。

「それに乳母殿は実に興味深いことを言っていた…。」
「ン…?」
 ジャマールの声のトーンが変わったことに気がついてアレックスが振返ると、ジャマールがにやりと笑った。
「君は自分の生まれに対して疑問を持ったことは無いのか?」
「疑問? 貴族の出産には多くの証人が居る。医師に助産婦、使用人に至るまでだ。それともお前はオレが公爵家の正統な跡取りではないと言いたいのか…?」
「いや、そうじゃない。乳母殿はこう言っていたんだ。ご領主様から遺言以外に何か聞かされていないかと…? もしそうならレッジーナ様には気をつけて下さいと…。そう言っていたんだ。普通実の母親なら、名前で呼んだりしない…。乳母殿は何か知っているとわたしは感じたんだが…。」
 こう云う時のジャマールの感は鋭い。だが特徴から言ってもアレックスとレッジーナは良く似ている。他人だなどと思う人間はまずいないのだ。
「もしあの女がオレの実母で無いと証明してくれる人物が現れたら、オレの全財産をくれてやってもいいくらいだ。残念ながらそれくらいありえない話だ」
 アレックスは鼻で笑ってあしらったが、ジャマールはそのまま黙って何かを考えている様子だった。



 

アスカがロンドンのアレックスのタウンハウスに落ち着いてから3日目の朝、執事のロレンスが主人の手紙を持ってきた。
 朝食を終えて、リビングでリリアと一緒にお茶を啜っていると、小さなトレイに乗せた封筒を恭しく差し出した。
「ありがとう、Mr.ロレンス 」
 礼を言って受取ると、アスカは添えられた小さなペーパーナイフで封を切って、中身を取り出した。
 便箋には見慣れたアレックスの男性的な文字が並んでいた。かなり気を遣いながら書いたのがわかる文章で、突然船から姿を消したことを詫びながら、所要を済ませてロンドンに戻ったら、隠さずに全てを話した上で、これからのことを協議したいと書かれていた。
 協議…? アレックスはそんな堅苦しい言葉で二人の将来を決めるつもりで居るのだろうか…?
 そう思うとまた気持ちが滅入ってきた。どのみちあと数日後にはアレックスはここに帰ってくる。アスカもこの前のように取り乱すことなく落ち着いて、彼が何を言い出そうと冷静でいようと決めていた。
“彼の言うところの義務がどういうもので、自分に何が出来るのか…? 冷静な心でしっかり見つめた上で判断しよう。”
彼の言うとおりアスカは伯爵令嬢かも知れないが、同時にアメリカ人であり、メルビルの娘なのだ。

その日の午後…テータイムの時間に、急に屋敷内が騒がしくなったかと思ったら、食堂のならびに造られていたサンルームを兼ねたティールームで、読書をしながらお茶を楽しんでいたアスカの元へ、血相を変えたリリアが飛び込んできた。
「どうしたの?そんなに慌てて…。」
「それが、たった今公爵未亡人がおいでになって…」
 リリアがそう言い終る間もなく、正面のドアが勢いよく開いて、いかにも貴族然とした威厳たっぷりの夫人が若い男性を伴って入ってくる。その後ろには狼狽した様子のローレンスが困ったような顔をして立っていた。

「お待ち下さい、公爵未亡人。今日おいでになることは、旦那様からは何も聞いておりませんので…。」
「あら、自分の家を訪ねるのにいちいち息子の許可を取らなくてはならないのかしら…?」
「ですが、今は旦那様もお留守ですし、大切なお客様をお預かりしているところで…」
「そう…。そのお客様に会いに来たのよ。ロバートの娘が見つかったと聞いたから…」
 横柄な態度のその婦人はまっすぐアスカのところまで来ると、立ち尽くしているアスカを値踏みするように上から下まで見回したあとで、変わらぬ高慢な口調で自分の名前を名乗った。
「あなたがロバートの娘なの? 私はルシアンの母で前公爵夫人のレッジーナ・マリー・クレファードよ。」
「はじめまして、公爵未亡人…。アスカ・フローレンス・メルビルです」
 アスカはたち立ち上がると、片ひざを曲げて丁寧におじぎをして、控えめながら目の前の婦人をじっと観察した。
 (この人がアレックスのお母さん…?)
 背丈はそれほど高くはない。年齢はもう50歳も近いはずなのに、顔にしわもなく整った顔立ちは確かにアレックスに似ている。艶やかで豊かなプラチナブロンドも、吸い込まれそうな碧い瞳も確かに同じに見えるけれど…?

「メルビル…? アメリカ人なの? 確かにロバートと同じ瞳の色をしているわね。お母様は日本人ですって? そんな未開の地で生まれたなんて信じられないわ。ロバートの跡を継いでこの英国でうまくやっていけるのかしら…?」
 公爵未亡人は無遠慮な声でそう言うと、高らかに笑う。彼女はアスカの父の姉ならアスカにとっては伯母ということになる。改めてみると、血のつながっていると思われる目の前の婦人にアスカは一ミリの親近感も感じられなかった。

 するとその時、再びドアが勢い良く開いて、かなり険しい表情のアレックスが入ってきた。
アレックスはアスカを庇うように彼女を自分の身体の陰に隠すと、しっかりとテーブルを挟んで公爵未亡人と向き合った。
「あなたにここに来ていいという許可は与えたつもりはないが…?」
「あら、それが7年ぶりに会う実の母親に言う言葉かしら…? ルシアン…。」
「あなたこそ…。僕がその名前で呼ばれることを最も嫌っているのを知っていて使うところは同罪だと思うが…?」
「相変わらずね…。でもロバートの娘なら私の姪のはず。姪に会いたいと思うのは肉親として当然じゃない…?」
「あなたに肉親の情というものが理解できればの話だ。とにかく今すぐ出て行ってもらおう。ここはあなたの知っている前の公爵家のタウンハウスとは違う。あなたにはメイフェアの一等地をロンドンでの滞在地として与えてあるはずだ。この屋敷にあなたが公然と連れ歩いている愛人を伴って来られても迷惑だ。今度同じことが有ったときには、今あなたに与えている寡婦手当を半分にしますから、よく覚えておいて下さい。」
「まあ、私を脅すつもり…?」
「場合によっては…。」
「わかったわ。今日のところは帰ります。来月また王宮で会いましょう…。」
 公爵未亡人はそう言い残すなり、来たとき同様またつむじ風のような勢いで帰って行った。

「すまない、アスカ…。慣れないロンドンでさっそく嫌な想いをさせたのでなければいいが…?」
 アレックスは罰悪そうにアスカを振り返る。アスカにしても今までの彼とのかかわりから、アレックスが自分の母親を幼い頃から毛嫌いしているのは解っていた。
 だが実際にそのやり取りを目の当たりにして、少なからずショックを受けていた。アレックスが初めて見せた激しい嫌悪の言葉もそうだったし、公爵未亡人の冷たい表情もとても血のつながった親子のものとは思えなかったからだ。

「驚いただろう…? あれがボクの母親の姿だ。まあ、物心付いた時から一緒に暮らしたことなんてないんだ。母親だなんて思っちゃいないが…。」
 そう言って笑ってみせるアレックスの横顔には苦痛の表情があった。本当なら会って言いたいことがたくさんあったはずなのにその表情を見たとたんにアスカは何も言えなくなってしまう。
「すまない、急ぎの旅だったんでいささか疲れてしまった。夕食までしばらく休むとするよ、その時にまたきちんと話をしよう。そう言ってアレックスは部屋を出て行ってしまった。本当はもう少し一緒に居てその存在を感じていたかったアスカは、一気に身体から力が抜けた気がして、ティールームの椅子にがっくりと腰を落とした。

「もうびっくりしました。あの方が噂に名高いシェフィールド公爵未亡人なんですね?」
 そこで初めてアスカは隣にいたリリアの存在に気づいた。リリアも初めての状況にどうしていいのか解らなかったに違いない。
「あなたは知っていたの?」
 アスカは冷めた紅茶を啜りながら言った。
「いえ、お会いしたことは…。ただ当時は、それは絶世の美女ともてはやされておいででしたから…。使用人の間でも有名でした。おまけに派手に遊んでいらして、いつも今日のように随分と年若い恋人を同伴されていたということです。」
「そうなの…?」
 そんな人が母親なら、愛や恋などというものを信じられなくなるのもわかる気がする。
アスカはさっき見たアレックスの母親と、アレックスの共通点を思い出していた。確かに彼が高慢になれるときの表情は、何となく似通っている気がするものの…根本的に何かが違っている気がしていた。ただその何かがわからない…。

「やあ、アスカ…。船旅は楽しかったかい?」
 そう言ってアレックスと入れ替わりに入ってきたのは、アレックスの副官ジャマールだった。
「ジャマール…!」
 アスカはジャマールの姿を見ると思わず立ち上がっていた。いつも影のようにアレックスに寄り添い彼を護っているこの異国人の戦士を、最初アスカはひどく恐れていたのだが、いろんな困難を克服しながら彼の内面を理解する内に彼に対して、何か戦友のような奇妙な感情が芽生えていた。ジャマールにしても同じなのだろう。普段は決して自分から女性に近づくことはしないが、唯一アスカにだけは気軽に声を掛けてくれる。
 今のアスカにとって、このロンドンでリリアとアレックス以外に真に心を開けるのはジャマールしかいない。それも彼と会うのは宝龍島を出て以来だから、2ヶ月ぶりの再会ということになる。ひどく懐かしく感じてアスカは思わずジャマールの差し出した手を強く握った。

「2ヶ月ぶりかしら…?あなたの顔を見るのは…。」
「そうだな、前に会ったのは香港以来だから…。」
実はポルトガル沖の客船の中で会っていることを今ここで告げても仕方ない。あの時アスカは意識を失っていたわけだし、アレックスも最悪な状態だったのだ。

「教えて、ジャマール。あなたならアレックスの態度がどうしてあんなに変わったのかわかるでしょう? 彼はわたしのせいではないと言うけれど…わたしにはどうしても信じられないの。何故…?」
「わたしからは何も言えないとだけ言おう…。その質問に答えられるのはアレックスだけだ。ただ彼の親友として言うならば、彼も君と同じくらい苦しんでいるということだ。アレックスが自分の言葉で語るまでもうしばらく待って欲しい。今わたしから言えることはそれだけだ。」
「わかったわ。アレックスが話してくれるまで待ちます。でもひとつだけ教えて…アレックスと公爵未亡人との関係は…?」
「あれは…天敵だ。アレックスは彼女を母親だなんて認めちゃいない。クレファード家の財産を食い荒らす害虫位にしか思っちゃいないんだ。だからロンドンの社交界には絶対に顔を出さないし、仕方なしにクレファード家の当主として毎年寡婦年金として5千ポンドを渡しているが、それでも足りずに毎年年末になると、あちこちから婦人が個人的に発行した手形の請求書がアレックスの元に届くんだ。その額が2万ポンドを下回ったことはない。」
その金額を聞いてアスカは驚いた。2万ポンドといえば大きな田舎の屋敷が1軒丸ごと買える金額だ。世界中に資産を持つアレックスだからこそ支払える金額かもしれないが。
「今日のことはそれなりにアレックスにとってはショッキングなことだったに違いない。今の彼にとってレッジーナは、君に一番会わせたくない人間のひとりだったことは確かだ。」
「実のお母さんなのに…?」
「まともなら…ということだ。」
 アレックスの家系はいろいろ複雑すぎて、アスカにはすぐには理解出来そうもなかった。
「複雑すぎてわからないわ…。」
 そう答えるアスカにジャマールはさらに謎掛けのような言葉を放つ。
「そう、アレックスという人間も複雑な面を持っている。だが、そこら辺に案外解決の糸口があるのかも知れない…。」
 それだけ言ってまたじゃマールも部屋を出て行ってしまった。

「何年も前からジャマール様も知っていますが、あの方も不思議な方です。噂では生まれは中東の砂漠の国だと聞いていますが、育てのご両親はオランダ人のお医者様だったとか、だから医術にも詳しいんです。でも、あのマレー号の船長の大男が前に言っていたんです。あの方が大切に身に着けている不思議な形の剣は、先祖代々伝わる大切なものだそうですが、そんなものを持つのは砂漠の王族くらいだって言っていました。何か不思議な威厳みたいなものがジャマール様にはありますね…。」
 リリアに言われてハッと気がつくところがアスカにもあった。アレックスとジャマール
対照的な風貌だが、どことなく漂う風格のようなものが二人にはあるのだ。

「さあ、アスカ様、午後は短いんです。今日は久しぶりにみな揃った晩餐なんですから精一杯お洒落しなくては…」
弾んだリリアの声にせきたてられて、アスカは2階の自室へと向かった。朝からいろいろあったものの、この屋敷の中にアレックスもいるのだ。そういう安心感が今のアスカを落ち着かせていた。





ブレンに手伝わせて入浴を済ませたアレックスは、素肌の上に薄いローブをまとっただけの姿でベッドに横たわっていた。
最初に思い描いていた計画が、少しずつ違う方向へ向かい始めていることに、アレックスは少し苛立ちを覚えていた。
アスカにきちんと状況を伝えるために、先にジャマールと二人で領地を視察に行って、まずその荒廃振りに驚かされた。
17年ぶりに乳母のイレインに会えたのは良かったのだが、その目にした様子も決して好ましいものではなかったし、別れ際に手持ちの金貨の多くを何かの足しにするように言って握らせて遣った時、イレインは泣きながら感謝の言葉を述べていたが、そんな彼女の姿など見たくなかった。
そして今日のレッジーナだ。途中の宿場町で噂を聞いて、まさかと思い大急ぎで馬を跳ばして戻ってみれば、案の定あの女はアレックスが留守なのを幸いに、ずうずうしくもアスカに面会していた。この屋敷の中に立ち入らせたロレンスにまで、思わず当り散らしたほどだ。どうせあの狡猾な女は難癖をつけて生真面目な執事を脅したのだろうが…。
考えれば考えるほど腹が立ってしょうがない…。どうにかこの想いを整理しないと、とても冷静に今のアスカに話をすることなど出来そうもない…。

そんな状況でひとり悶々と過していると、ノックもせずにいきなりジャマールが入ってきた。
「この部屋にノックもせずに入ってくるのは、ジャマールお前くらいだな…。」
「全ての人間にかしずかれるよりはいいだろう…?どうせ今頃は自己嫌悪で一杯になって悶々としているんじゃないかと心配してきてみたんだが…。図星か…?」
「まあ、親切なことで…。」
アレックスは半親身を起こしてベッドに腰掛けると、空のグラスにワインをついでジャマールに差し出した。
「最近は君のそんな顔も見慣れたんでそれほど驚きもしないが…アスカになんと言って切り出すつもりだ。さっき君が出て行ったあと、アスカに聞かれたよ。宝龍島を離れてから君の態度が変わった理由を教えてほしいと…。」
 ジャマールはグラスを受取ってアレックスの側の椅子に腰を下ろした。
「それでお前はなんと答えたんだ…?」
「わたしの口からは言えないと言ったんだ。当然だろう? わたしは君の代弁者にはなれない」
 目の前いる友の目をじっと見つめながらジャマールは言った。
「いっそのこと、あのレッジーナと君が血縁関係にないことの証明を見つけるとか…?
いや、なければ作ればいい…。」 
「あんまりオレの様子が哀れなんで…ふざけて言っているのか…?」
ジャマールの言うことが、あまりに突飛なので怒る気にもならない。それほど今のアスカとアレックスを取り巻く状況はどうすることも出来ないということだ。

「まあいい…わたしは今回問題になっている件で、あらゆる方面から探ってくる。しばらくは戻らない、その間にアスカとしっかり向き合うことだ。それと、こんなに早くレッジーナがここに現れた理由がわかった。」
 そう言ってジャマールは今朝の新聞をアレックスに放ってよこした。その新聞の1面のゴシップ欄に大きくアスカの記事が載っていた。

“アメリカの海運王ジェームズ・メルビル氏の養女アスカ・フローレンス・メルビル嬢
実はリンフォード伯爵 ロバート・ウィンスレット卿の娘であり、法定相続人としてロンドンに現る“

例の新聞記者だというロニー・ウォルターの仕業に違いない。だからこんなに早くあの女はここにやってきたのだ。だがまずはアスカだ。アスカは知りたがっている。もうこれ以上の引き伸ばしは出来ない。覚悟を決めて、おれ自身が自分の欲望に負けないようにしなければならない…。
朝からめまぐるしくいろいろ事件が起こったせいで、何となく落ち着かなかった屋敷内も午後遅くになると、何事もなかったように執事のフローレンスを中心に回り始めた。
 レディズメイドのマリアの話によると、この屋敷に女性の客を迎えるのは実に10年ぶりということだった。
 前公爵夫人がいた頃は毎晩のように続く舞踏会とパーティーで息つく暇もないほど忙しくて、おまけにあらゆる面で厳しかったために何人もの使用人が数ヶ月と持たずに辞めていった話を、身支度の合間に延々としゃべり続けた。
 そして前公爵が亡くなった後、それまで海外の軍隊にいて一度も英国に戻って来なかった嫡子が全財産を相続すると、全てが一変したのだと語った。
「前に働いていた使用人たちで退職を希望する者達には、手厚い年金か一時金を与えて解雇した後、執事のロレンス様とシープ婦人だけがが残ったんです。」
「どうりで昔なじみがいないはずだわ。」
 今夜のドレスに合う装飾品を選んでいたリリアが言った。
「それに…何年か前にロンドンの3分の1が燃える火事があったんです。燃え落ちたほとんどがウエストエンドにある貧民街だったんですけど、当時職を無くした人も多くて、今の旦那様はそういう方を積極的に雇われたんです。」
 実は私もその中の一人なんです…そう言って少しそばかすの浮いた少女は笑った。

「旦那様、いえクレファード卿は、見た目も行動もあの通りですから、とかく誤解はされますが、本当に思いやりがあって優しい方なんです。お母様とは大違い…」
 今朝はアスカを放ってばかりだと言って怒っていたリリアが、今度はアレックスを誉めそやす様が可笑しくてアスカは笑った。

 






その夜の晩餐は、アレックスが二人のレディをエスコートして始まった。もちろんアスカと彼女の付き添い役のリリアだった。
 最初リリアは英国に戻ってきたことでもう自分の役は終わったと思っていたのを、アレックスのたっての希望で延長した。延長というより、最初からそのつもりでリリアを選んだつもりだったのだが、当のリリアはそう思っていなかったらしい。
「旅の間こそ問題はありませんでしたが、この英国に戻ってからもわたしのような者がお嬢様のお役に立てるでしょうか?」
「何を言うの? あなたでなければだめだと思うわ。誰よりもわたしのことを理解してくれているのはあなたですもの」
 アスカは小柄なリリアのほっそりした手を取って微笑む。本当に、最初に出会ってから彼女には何度も励まされてきた。この心細いロンドンで…こうしていられるのも彼女がいてくれるからだ。

 料理人の用意したディナーは最高で、今日の不愉快な出来事を忘れさせてくれるには十分だった。ジャマールの姿がないことにアスカは気づいたが、彼はこういう会食の文化があまり好きではないというアレックスの説明に納得した。アレックスも、アスカとの微妙な緊張感をほぐすために積極的に話しかけ、二人の女性を大いに楽しませた。
 
そして食事が終わったあと、アレックスはアスカを自分の書斎に招いた。今度こそ全ての事実をアスカに告げようと心に決めていた。ビクトリア号でのときのように自制心を無くして、全てを台無しにしないように細心の注意をはらって…。
 アスカも今回は取り乱すことなく冷静にアレックスの言葉のすべてを聞き逃すまいと思っていた。今夜のアレックスはディナーの間中気を遣いながら、思いやりのある紳士を演じていた。それが恋人に対するものなのか、それとも単なる身内の女性に対するものなのか…まったく解らない。

「入って…」
 アレックスは続き部屋になっている応接室にアスカを招き入れると、椅子に座るように促した。
アスカは緊張しながら、テーブルを挟んで立つアレックスの向かい側のソファーに腰を下ろした。
 こうしていると広い応接室がひどく狭く感じられる。どんなに平静を装っても、ふたりだけの特別な緊張感は誤魔化しようがない。手のひらに浮かぶ汗を隠すように、アスカは右手でドレスのひざの辺りを撫でた。

「今日こそ…君に隠さずすべての真実を語らなければと思っているが…それは自分で思った以上に難しい…」
 低く抑えた声で、搾り出すような言葉に、アスカは彼の苦悩の深さを感じて思わず立ち上がって抱きしめたい衝動に駆られた。
「アレックス…。」
「だめだ、アスカ…そのままで聞いて欲しい。前の様に衝動的になって、後で後悔したくない…。」
「わかったわ」
 アスカはまたストンと腰を落とした。

「君は…ボクの…君に対する態度が変わったわけを知りたいと言ったね。それは…君がボクの身内だと判ったからだ。前にも話したが、君はロバートの娘だ。ロバート・ウィンスレットが君の父親で、フローレンスが洗礼名でそのまま引用するなら、この英国での名前はアスカ・フローレンス・ウィンスレット。そしてその名前の前にはロードの呼称が付く。」
「それは前にもあなたは話してくれたわ。そのためにあなたはわたしをロンドンに連れて行って、父の爵位の相続人として認めさせたいと…」
「その通りだ。父上はそのために遺言で僕を君の後見人として指名した。 今から1年近く前のことで、その時にはロバートの最後の願いを叶えることが、ボクにとって最大の恩返しになると信じていた。もちろん、今もその想いに変わりはないが…。」
「では何が変わったの…?」
 アスカは目を逸らさずにまっすぐアレックスを見つめた。
「状況が変わったんだ。」
アレックスは大きなため息をついた。ここから先、何よりも大切な話をしなければならない…。
「ボクは日本で君に出会った。それまで世界中の海で海賊ホークとして自由に飛び回っていたボクが…初めて他の何かを犠牲にしても欲しいと思ったのが君だった…。」
「アレックス…」
 アスカは胸の奥が再び熱くなるのを感じた。
「あの黒柳との闘いで、君は勇敢だった。女性にしておくのが勿体ないくらいだ。アスカ、君がいなければ、あの任務は成功していなかったかもしれないし…その前にボクは生きて帰れなかったかも知れない…。」
「アレックス、それは…。」
「君をあの暗闇から救い出してから何日も、君の意識は戻らなかった。このまま人形のように君は永遠に眠り続けるんじゃないかって思ったよ」
「ええ…どんなに意識が混濁して記憶が戻らなくても、あなたはずっと側で優しい目で見守り続けてくれた」
「ああ…永遠に護り続けるつもりだった。君をロンドンに連れて行き、たとえ君がどんなに自分のことを混血だの、孤児だから相応しくないなどと言おうが、強引に引きずってでも教会の祭壇に連れて行こうと思っていたんだ。」
「アレックス…」
気づかないうちにアスカの目から涙が溢れていた。確かにロンドンに来るまでのアスカは、自分はアレックスには相応しくないとずっと思っていたのだ。それをアレックスは知っていた…?
「今回の任務の陰で、イエンに命じてずっとロバートの子どもの行き先を探させていたんだ。それがあの晩、イエンとメイファンの結婚式の夜のことだ。イエンも言い難そうに、日本から届いた報告書の内容を伝えてくれた。話を聞くボクの様子がよっぽど気にかかったんだろう。」
 アスカは結婚式の夜のパーティ会場から、気がつくと居なくなっていた二人を探しに行ったことを思い出した。あの夜一人で書斎の窓辺で外を見つめていたアレックスは見たこともないような虚ろな表情をしていた。

「これからボクの言うことをよく聞いてほしい…。アスカ、ボクと君が血の繋がった従兄妹同士であることは間違いのない事実だ。その上で伝えなければならないことがある。この英国の…王族にまつわる決まりごとはいくつかあるが…その中のひとつには、従兄妹同士での婚姻は認められていない。つまりは現ビクトリア女王の血縁関係にある我がシェフィールド公爵家も例外ではないということだ。ボクと君がどんなに愛し合い、結婚を望んでもそれは叶えられない…。」
 そう言った後でアレックスは苦しそうに天を仰いだ。この一言が言えなくて…長い航海の間中苦しみ続けたのだ。今はアスカの顔さえまともに見られなかった。
 もし彼女がまた泣き崩れることがあって、再び自制を無くすようなことがあれば、今度こそ自分を許せなくなる。

「アレックス…」
アスカはアレックスの、自分とは結婚が出来ないという告白の声が、何処か遠くで聞こえているような気がしていた。彼の…どんなに愛していても…そのフレーズだけが、何度も何度も頭の中を駆け巡る。
「そのためにあなたは…宝龍島を出てからずっと苦しんできたのね…。わたしは何も知らずにあなたをどこか疑っていた。ロニー・ウォルターの言葉を信じて、あなたは…父の遺言を果たす目的だけにわたしをロンドンに連れてきたのだと思っていたわ。」
 アスカは出来るだけ、言葉をひとつひとつ噛み締めるように言った。正直今は何を答えていいのかわからない。
「ボクは女王に君の伯爵家の正統な相続権を要求した。女王は承諾したが、来月王室主催の舞踏会が王宮で開かれる。その席で君に会いたいと女王は言っているんだ。ロバートは議会の貴族院でも信頼が厚く、女王のお気に入りだった。だから、ボクもそれは断れない…。」
 出来るだけ感情を殺して、淡々と伝えようとアレックスは心がけていた。
「もちろん、後見人としてボクも付いていく。英国貴族社会のろくでもない連中に君一人で立ち向かわせたりしない…。」
「そうね…あなたなら必ずそうするでしょうね…? 他にまだわたしに伝えてないことは…?」
「ああ…もうひとつだけある。伯爵家の称号を君が相続して女伯爵となった場合、君はこの英国の法律に従って、半年以内に伴侶を決めなければならない…。」
 二人にとってこれが一番大きな障害になることは間違いない。アスカが選ぶその相手は、間違ってもアレックスではないのだ…。
 アスカは大きく息を吐いた。
「仮に…わたしがそれを拒否した場合、どうなるの?」
「爵位は他人に渡り…」
「わたしは…永遠にあなたを失うのね…?」
 アスカはアレックスの言葉を引き継いで言った。苦しげに顔を背けたアレックスの表情を見れば、答えはもうわかっている。
「アレックス、今は少し考える時間をもらえるかしら…?」
「もちろん、だが、舞踏会までは3週間しかない。いろんな意味で準備が必要になるだろう…。ボクも君も…。今日は冷静に聞いてくれてありがとう。ボクも過ちを犯さずに済んだ。」
「過ち…?」
「ああ…前のように感情的になって君を奪って、もし妊娠でもさせていたら…君は結婚も出来ずに一生ボクの愛人で過すことになる。そんなことになったら…ボクは一生自分で自分が許せなくなるだろう…。そんなことはあってはならない…。」
「そう…? わたしは父のように…一生誰かを想い続ける自由もないのね?」
「アスカ…」
 今のアレックスには、アスカを慰める言葉さえ見つからなかった。アスカの言うように今の二人には考える時間が必要なのだろう。
「アレックス最後にひとつだけ聞かせて…。お願い隠さないで本当のことを教えてほしいの。血の繋がった従兄妹と知っても、わたしを一人の女として愛している…?」
 銀色の曇りのない澄んだ瞳がまっすぐアレックスに向けられている。
「もちろんだ。君の代わりは世界中探しても見つけられないだろう…。」
 アスカは目を閉じて…その言葉のひとつひとつを大切に心の中にしまい込んだ。
 その言葉だけで…これからわたしは生きていけるだろうか…?


 その晩アスカはベッドの中で…アレックスが語った言葉のひとつひとつを思い出していた。
アレックスもアスカ同様にずっと苦しんでいたのだ。そしてその間も変わらず愛しているといってくれた。恐らくわたしも…永遠にアレックスを愛していくだろう。ただ…神の前でみなに祝福される日は永遠に来ない。そしてわたしに残された猶予は、半年しかないなんて…。
気がつけばあとからあとから涙があふれてきて止まらなかった。

もうひとつの真実 2

女王の晩餐会まで後一週間という日、朝早くジャマールが屋敷に戻ってきた。特別な任務がない限りこれほど長い間、ジャマールがアレックスのそばを離れることは珍しい。
屋敷に到着後、簡単な休憩を取っただけで、すぐジャマールはアレックスの元にやってきた。
「この時間に君の部屋に来て、邪魔したのじゃなければいいが…?」
 ジャマールの言葉はどこかからかうような響きがある。以前のアレックスなら、早朝のベッドで一人でいることなどまずなかった。
「残念だったな…。ジャマール。ご覧のとおりだ。」
 アレックスは起きていて、寝室のデスクに座ってなにやら手紙を書いていた。
「君が夜になっても外出もせず、おとなしくベッドを温めている様は、ロレンスにとっては驚きだろうな…? ロンドンの噂好き連中もそろそろ気づき始めている。君はどこか具合が悪いのか、それともそろそろ本気で、シェフィールド公爵は跡継ぎ問題に取り組む気になったのではとね…?」
それを聞いてアレックスは大声で笑い出した。
「そうだな…? それは面白い。だがどちらも大はずれだな。遊んでいられる余裕がなくなっただけだ。見ろ、この数字を。この10年間に動いた中央銀行にあるクレファード家の口座内の動きをグラフにしてみたんだが…」
デスクの引き出しから黒い表紙のファイルを取り出してジャマールに見せた。2週間前に顧問会計士のモリソンを招いて、クレファード家の財務について意見を求めてから、すぐに銀行の責任者を呼び出し、記録を調べさせたのだ。
「なるほど。やっと自分の領地に対する義務に真剣に取り組む覚悟が出来たというわけだ。で、アスカはどうしている? 」
「来週の女王との謁見のための準備をしている。とりあえずは、アスカは現状を…オレの言葉を受け入れてくれている。」
 本心はわからないが、ひとまずは取り乱すこともなく、このところの二人の関係は安定していた。正直に言えば、アレックスも今の状況は受け入れがたいが、かろうじて理性の力で抑え込んでいるだけだ。間違いを犯さないために…。

「君たちの自制力には感心するが、何度も言うが私には理解できないことばかりだ。しばらくその件に関して、私に出来ることは何もないだろうがね…。まあ、君が他の過ちも犯さずに済んでいる点を喜ぶべきかな?」
 ジャマールは暗に、毎年ロンドンに帰省した際の…派手な夜遊びのことを言っているのだろう。毎晩愛人たちとナイトクラブを朝まではしごした挙句、昼過ぎまで自室に籠って彼女たちと過ごしていたことをいっているのだ。
「何とでも言え。ロレンスをはじめ、使用人たちはなんとも思っちゃいないだろうよ。オレのことより、こんなに朝早くやってきたところを見ると、何か重大な報告があったんじゃないのか?」
「そうだ。そのためにはるばる英国の西の端から急いで戻ってきたんだから、」
 そう言って、ジャマールはやっとほっとしたように近くのソファーに腰を下ろした。
「まず、ウィンスレット卿のことだが…西部に持っていた石炭の採掘工場は、かなり危険な操業を続けていて、この1年の間、報告されないだけで数十人の死者を出している。おまけにその中には10歳にも満たない子供も含まれているということだった。」
「何ということだ…!」
 アレックスは怒りに任せて手にしていたファイルを乱暴にデスクの上にたたきつける。
数字の誤魔化しなど、たいした裏切りのうちには入らない。人の命を虫けらのように扱う連中だけは許せない。
「それで…何か手は打ったのか? 」
「工場のある州の判事に詳しい捜査を依頼してきたが、実際に行われるかは疑問だな。担当判事は、君の書状だけでは動けない可能性があると言っていた。ウィンスレット卿の遺言で、君は相続人が確定するまでの遺産管財人として指名を受けているが、すでに女王の裁定も受けていることで、相続人としてアスカの同意が必要なんだそうだ。」
「小賢しい連中の言いそうなことだな。ウィンスレットも、クレファードも古くからの弁護士たちは当てにならない。」
「どうする? みんな交代させるか?」
 ジャマールは簡単に言う。古参の弁護士たちを罷免するにはそれなりの理由が要るものだ。つまりは証拠が必要なのだ。
「それともうひとつ、面白い話を君の乳母殿が話してくれたぞ」
「イレインが…?」
 ジャマールが再びイレインの元を訪れていたことにアレックスは驚いた。
「もちろん、彼女の息子が鉱山に出稼ぎに行っているという話を改めて聞きに行ったのだが…。」
 そう前置きした上で、ジャマールは驚くべき話をアレックスに伝えた。それは彼が今まで生きてきた上での常識を、ある意味根底から覆すだけの力をもっていた。
「もう一度言ってみろ…。ジャマール…。」
 すぐには理解できなくて、アレックスはもう一度聞き返した。
「だから…。レッジーナには1つ違いの姉がいたんだ…。君を生んだのは、レッジーナではなく、その姉の方だと乳母殿は語ってくれた。レッジーナの姉は、先代のリンフォード伯爵の娘ではない…。もしかしたら、この事実は君たち、君とアスカを救ってくれるのではないかと思ってね…。」
 レッジーナが母親ではなかった…。喜んでいいのか、悲しんでいいのかわからなかった。
自分でも頭の中が混乱していて、どう答えていいのかわからない…。
「それは事実か…? ロバートはそんなことは何も言っていなかった。」

「これは、ウィンスレット家とクレファード家に関する最高機密だったらしい。だから、一部の人間しか知らないし…しっかりとした緘口令が敷かれたわけだ。」
「ではオレの母親がレッジーナでないなら誰だ? 」
 アレックスは混乱していた。いくら血の繋がった姉妹とはいえ、正式な婚姻から生まれない子供は嫡子ではない。まさか、自分が庶子の生まれだったとは思いたくない…。
「自分の耳で確かめるといい。乳母殿は、前シェフィールド公爵が結婚したのは、姉のエレオノーラだったと証言したぞ…。」
「エレオノーラ…?。 ではなぜレッジーナが公爵夫人なんだ…?」」
 アレックスはうわごとのようにつぶやいた。確か、遠い昔…アレックスが10代の前半だった頃、自分には母親の違う姉がいたとロバートが話すのを聞いたことがあるのを思い出した。でもその時ロバートはその姉はもうずいぶん前に外国旅行中に火事にあって亡くなったと言ってなかっただろうか…?
「まさか、今頃になって、自分の足元がこんな風に揺らいでくるとは思いもしなかったぞ! では何で今になってイレインは、そんな大事な秘密を話す気になったんだ…?」
 アレックスは半ば混乱して感情を爆発させた。
「そこが大事なんだ。彼女はその秘密を、墓場まで持っていくように前公爵にも言われていたが、最近レジーナから脅しにも似た手紙が届いたんだそうだ。その事実を君に伝えてはならないと…。レッジーナは何かに怯えているようだったと乳母殿は言っていたが…。」
 レッジーナはアレックスがその事実を知ることで、自分の地位が脅かされることを恐れているのか…。とにかく自分の耳で確かめなければ信じられない…。 
「今からイレインに会ってくる。自分で確かめないと信じられない。」
「だろうな…。アスカはどうする? 舞踏会までは1週間もないぞ、」
「危険はないと思うが…お前に頼む。」
 アレックスは立ち上がってジャマールに手にしていたファイルを押し付ける。
「一人で行くつもりか?」
「二人より、一人のほうが目立たない。それにこれはおれ自身の問題だ。自分でかたをつける。一人なら、急げば往復で3日もあれば行って戻れる。ここは英国だ。ヨーロッパより安全だろう…。」
「わかった。だが気をつけてくれ、どこに敵が隠れているかわからない」
  こういった時のアレックスはとても頑固だ。誰の言うことも聞かないことはわかっているジャマールは、黙って小さくうなずいた。



その日の午後、アスカは久しぶりに会ったジャマールからアレックスが急用でまた屋敷を離れたことを聞かされた。
「どうやら、君とアレックスはお互いの関係に折り合いをつけたようだ。」
 折り合い…言葉で言うのは簡単だけれど、自分とアレックスが今まで重ねてきた想いと日々をどう表現してよいのか、アスカにはわからなかった。
「ねえ、ジャマール…教えてほしいの。ここにはもう黒柳のように、私たちが一緒になって戦うべき相手はいないのよね? そうしたら、今私が闘っているものは何なのかしら…?」
 窓を打つ冷たい雨を見つめながら…アスカはひとりごとともつかない言葉でつぶやいた。この英国に戻ってから、アレックスは完璧なまでの自制心でアスカに接している。時々つかの間に見せる表情の中には、変らず見せる情熱のかけらが感じられるものの、それでも次の瞬間にはまたあくまでも保護者然とした仮面に戻っている。
 “アレックスを永遠に失うことが怖くて…私はここにこうしている…。いつまでもそれでいいの…?” 

「私にも、うまくは答えられないが…。アレックスは君と出会って180度変わった。今までは任務に対する緊張の裏返しで、ロンドンに戻れば無軌道な放蕩ぶりで、世間を騒がせたものだが、今では違う意味で世間を騒がせている。ここロンドンに戻って2週間あまり、かつての愛人たちの誘いにも乗らず、ひたすらデスクに向かっている姿は表彰ものだ。」
 ジャマールは笑いながらアスカにこのところのアレックスの様子を語った。不思議なもので日本にいる間、この一風変わった異国の青年はアレックスを守るあまり、アスカがアレックスに近づくことをとても警戒していた。それが共通の敵との闘いの中で、お互いに大きな犠牲を払いながら一緒に乗り越えるうちに、何か同志的な感情が芽生えていた。

「あえて言うならば、アレックスの自制心かな? 君たちの将来において、私が言えることは何もないが、もしアスカ、君がアレックスを…ただの身内ではなく、一人の男として見ているなら、闘うべきだな。アレックスは今、自分の一族に関する問題で自分の時間を奪われている。その内容によっては君たちの未来も変るかもしれない。今はそこまでしか言えないが…。」
「楽な希望なんて何も持ってはいないわ…。私はこうして自分が、父の生まれた英国にきていることさえ信じられない気持ちよ。もちろん、私の中心には変らずアレックスがいて、私たちの表向きの関係がどんなに変ったとしても、ぶれることはないと思うの。」
「それを聞いて安心したよ。日本でのことを乗り越えたことで、君は強くなったな。これから君が受け継ぐことになる責任には、それを快く思わない者もいて…きっといやな思いをする場面も出てくるだろうから、覚悟は必要になる。」
「そうね、きっとそんな場面も出てくるでしょうね…。」
 アスカは先日突然現れた、アレックスの生母、公爵未亡人の姿を思い出した。彼女も亡くなった父の身内なのだ。
「ジャマール、私に剣を教えてほしいの。自分の身は自分で守れるように…。もちろん、アレックスには内緒で…。もうアレックスに守られるだけの女でいたくない。あなたにまたアレックスに秘密を持つようなことをお願いするのは心苦しいんだけど。」
 アスカは真っ直ぐジャマールを見つめた。自分の人生は自分で決める。ロンドンに来て自分の心と向き合ううちにそう自然と思えるようになっていた。
 私はアレックスを愛している…。それはこれからもずっと変わらない。それなら…私は、私だけの愛し方で彼を愛していこう。アスカは決意を込めてジャマールに迫った。

「それは簡単なことだが…。アレックスに内緒にする意味は…?」
「ええ、彼と対等でいたいの。それだけ…。それに私はアメリカで育ったのよ。それもかなり自由に。だから本当は裸馬(鞍を乗せない状態の馬)にだって乗れるし、ナイフ投げだって得意よ」
 メルビルの養父は牧場もいくつも持っていて、アスカはそこで乗馬も覚え、そこで働くカウボーイたちにナイフ投げも教えてもらったのだ。
「アスカ、君には本当に驚かされる。ホークの花嫁として君ほどふさわしい女性はいないと思うんだが…。」
 ジャマールは腕組みしながら、やれやれというように首を振って困ったように笑って見せたが、どこか面白がるような声の響きがあった。


朝から冷たい雨は降り続き、午後になっても止む気配はなかった。イレインの住むロバートの領地までは馬で約一日。朝早くジャマールと対面して、その足で飛び出したアレックスは、途中何回か馬を休ませながら、ほぼ1日かかって領地の手前の宿場までやってきた。
 日はどっぷりと暮れかかってから、1件の宿屋に泊まることを決めて、宿屋の馬番に馬の世話を任せて、アレックスはこじんまりした宿屋のカウンターへと移動した。
 目立たないように地味な服装の上に濃いグレーの長いマントを身につけていたが、雨にぐっしょりと濡れて重たかった。
「すまないが。部屋をひとつと、食事を頼む…」
「いらっしゃいませ。部屋は2階の広い部屋が空いていますよ階段上がってすぐのところです。食事はどちらで…?」
 宿屋の主は背の高い頬のこけた男で、質素な身なりをしていても雰囲気でわかるのか、上客を迎えたと思った店主は、愛想笑いを浮かべながらアレックスに、目の前の階段を指さした。 
「ああ…食堂でかまわない。すぐ食べられるものを…」
「ではすぐ用意しますので、あとで食堂の方へどうぞ…」
 食堂は階段の、反対側の通路の奥にあった。居酒屋も兼ねているのだろう。食堂の中からは賑やかな笑い声が響いている。とりあえずは濡れたマントを乾かすことにして、アレックスは2階の客室でマントを脱いで、暖炉のそばの椅子に引っ掛けてから階下の食堂へと降りていく。建物は古く階段の床が少しきしむくらいで、あとはそれほど気にならない。
 それより気になるのは、それほど広くない食堂の一角を占拠している、いかにも外国人と思われる一団だ。最奥の角のテーブルを取り囲んでいる一行は、肌の浅黒いひと目見てアフリカ系と思われる男たちだが、彼らは一言も発さずに黙々と目の前に置かれたスープと、パンにかじりついている。その側で数人の男たちが機嫌よく酒盛りをしているのだが、その中の男の一人が抜け目なく彼らを監視しているのがわかる。
 その違和感のある集団を横目にアレックスは、店主の女房が案内する彼らとは少し離れた暖炉に近い席に座った。この天気もあって、食堂はほぼ満席状態で、テーブルはどこも合い席となっている。やせた店主とは対照的に、女房は丸々と太っていて、多くの客で込み合った食堂内を器用に動き回っていた。
「すみませんねえ、今夜は込み合っていて、料理もミートパイと、豆のスープくらいしか出来なくて…。」
「それでかまわない、種類は何でもいいからワインを一緒に持ってきてもらえればいい…」
 アレックスは女房の手に数枚の金貨を握らせると、とたんに彼女は笑顔になって戻っていった。やがて女房とよく似た娘が料理を運んできたが、娘は思わせぶりな態度でアレックスに流し目を送ってきたが、わざと無視して金貨を一枚渡して引き取ってもらった。
 どんなに身をやつそうと全身にまとっているオーラは隠せない。さっさと食事を終えて、思ったほど悪くないワインを楽しんでいると、近くに座っていた男が声をかけてきた。
「旦那はここいらでは見かけない顔だな?」
「旅行者だ。この近くの知り合いを訪ねてきたんだが…?」
「そうか、この頃、あの隅の一団みたいな連中が増えて、この町の治安も悪くなって困ってるんだ。」
 男は、自分は町の鍛冶屋で、生まれたときからここで住んでいるが、数マイル北に石炭が取れる鉱脈が見つかってから、人夫としてさまざまな人種の人間が出入りするようになって、それまで穏やかだった町に、喧嘩や強盗やおおよそ今までなかった事件が起こるようになったことを切々と語っていた。
「聞いてくれよ、旦那。毎週のように炭鉱の働き手としてあんな外国人が連れてこられるんだが…そのうちの何人かは必ず逃げ出すんだ。そいつらが町の中で悪さをしても、あいつらは知らん顔をしてまた違う人間を送り込んでくるんだ。」
「町の警察は何をしている…?」
やつらは鉱山側から賄賂を貰っているから、捜査するふりだけして、何もしやしない。やつらは腐ってる。」
男は憤慨して、それだけ吐き捨てるように告げると、ふらつく足で帰って行った。今朝早く帰ってきたジャマールもほぼ同じことを言っていた。もうこれ以上放っておけない段階まできていることをアレックスは感じていた。時間はないが、今こそホークの力を最大限発揮すべきだろう…。
そう頭の中で考えをいろいろ巡らせているその目の前を、例の一団が、ぞろぞろとテーブルを離れていくのが見える。異国人たちはみな表情も暗く、彼らがこれからどこに連れられて行くのか、すべてわかっているようだ。彼らは遠い植民地から、うまい言葉でだまして連れて来られ、家畜のように働かされて…捨てられる。世界中でこれと同じ場面に何度遭遇したことだろう。だが、そんなことがまさか自分の故郷の…まさに膝元で行われているとは夢にも思わなかった。これからアレックスがしようとしていることを、きっとロバートも喜んでくれるだろう…。そしてアスカも…。
明日になったら、まずイレインを訪ねて、すべての真実を明らかにしよう。それからだ、ホークに戻るのは…。






次の日の朝早く、アレックスは再びイレインの元を訪れた。イレインはまるでアレックスが現れるのを待っていたように、嬉しげにアレックスを招き入れた。
「あの異国の方がおいでになった時から、じきに坊ちゃまは現れると思っていましたよ。」
イレインは嬉しげにまるで来ることがわかって、用意していたように朝食のマフィンと紅茶を並べてアレックスに勧めてきた。
「ありがとう、お前の焼いたマフィンを食べるのは17年ぶりか…。」
美味そうにほうばるアレックスを見てイレインはまた涙ぐむ。
「お許しください。今日まで秘密にしてきたことを…。亡くなった旦那様の言いつけどおり、私もこのことは墓場まで持っていくつもりでした。ですが…」
「それを破ってまでおれに真実を伝えようと思ったのはなぜだ。」
イレインの言葉を待ちきれずにアレックスは問いかけた。
「レッジーナ様です。レッジーナ様が…恐ろしいことです。あの方には気をつけなければなりません…。」
レッジーナが関わっていることはジャマールから聞いている。それでも自分の耳で確かめなければならない。
「レッジーナがオレの母親でないなら、オレを生んでくれたのは誰だ?」
「エレオノーラ様です。エレオノーラ様はレッジーナ様のひとつ違いのお姉さまです。ああ…神様。私に勇気を…」
 イレインは天を仰いで大きく息を継ぐと、驚くべき事実を語り始めた。
エレオノーラとレッジーナの母は、前リンフォード伯爵の最初の夫人でフランス人だったこと。出会いは49年前、当時フランス国内で起こった反乱から逃れてきた彼女は、船で逃れる際に伯爵だった夫を失い、スペイン沖で難破して海岸に流れ着いたところを前リンフォード伯爵に助けられた。その時すでに彼女は身籠っていて、それを承知で伯爵は彼女と結婚して、7ヵ月後にエレオノーラが生まれた。そして1年後レッジーナが生まれ、姉妹は双子のように育ったという。それが12年後のある日、馬車の事故があって、二人の母親は亡くなったという。それからしばらくして、再びリンフォード伯爵は新たな花嫁を迎え、その後ロバートが生まれた。
「ここからが大切なのです。エレオノーラ様と、レッジーナ様は双子のように本当によく似ていらっしゃいました。でも中身は正反対…穏やかでおっとりしたエレオノーラ様に比べてレッジーナ様は我がままで自己中心的な方でした。お優しいエレオノーラ様はいつだってレッジーナ様に譲ってこられたのです。元々シェフィールド公爵家とリンフォード伯爵家は領地も隣同士で古くから両家は使用人に至るまで交流があって、お子様方も子供の頃から慣れ親しんでおいででした。」
「オレの両親は幼馴染だったというわけか…?」
「そうです。でもそれが狂ってしまったのは…お母様が亡くなったあの馬車の事故からでした。暴走した馬が増水した水路にはまってしまって…その事故でお二人も大変なけがを負われました。エレオノーラ様は視力を失くされ…レッジーナ様は強く腹部を打ったことによって女性としての機能を失ってしまわれたのです…。」
「何ていうことだ…。それで…?」
「もとはとても仲のよい御姉妹だったのです。それが年頃になって…お二人ともそれは美しいお嬢様たちでした。本来ならきちんと社交界に出て、素晴らしい殿方を選ぶことだって出来たのです。それがあの事故で…」
「すべてが失われた…?」
 アレックスは不思議と冷静に聞いている自分に驚きながら言った。
「そうです。でも幼い頃からお父上とエレオノーラ様はお互いに惹かれあっておいででした。それはもう両家の使用人に至るまで、みな知っていることでした。なのでお父上は盲目になられたことを承知の上でエレオノーラ様を望まれたのです。」
「では何故、表向きはオレの母親はレッジーナなんだ?」
「それを決められたのは、エレオノーラ様なのです。エレオノーラ様はレッジーナ様もお父上を慕っておられたのを知っていたのです。それに目の見えない自分には公爵夫人は務まらないとおっしゃって、最初は辞退されたのですが…。」
 イレインはまるで自分のことのように苦しげな表情をかみ殺した。
「父は姉のエレオノーラを望むあまり、妹のレッジーナと取引したのか…?」
 アレックスは自分が生まれ出る前のこととはいえ、欲しいものを手に入れるために取引をした両親とレッジーナを思って、グッと握る手に力を込めた。
“ああ、そうだろう。自分ももしアスカを手に入れるために、何かの取引をしなければならないとしたら…迷わずそうしたかもしれない…。”
「エレオノーラ様はお父上と結婚式を挙げられ…そして、やがてあなた様がお生まれになると…すべてが一転したのです。あなたが2歳になるまでは、エレオノーラ様は自分の手でお育てになりました。私は乳母としてお側に上がりましたが、実際にお乳を与えお世話なさったのはエレオノーラ様です。ですが、それから先、公爵夫人として表舞台に立たれたのはレッジーナ様でした。」
 それですべての説明がつく。もともと派手好きで目立ちたがり屋のレッジーナは公爵夫人としての実を取ったのだ。それから先の彼女の行動については改めて聞くまでもない。
「だから、父は田舎の屋敷に引き籠ってロンドンには行こうとしなかったんだな。だが、それから母は…オレを生んでくれた人はどこへいったんだ。領地のどこにも彼女の痕跡はなかった。」
今の今までアレックスは、自分を生んだのはレッジーナで、破廉恥で権力欲の深い母親を嫌悪して、そんな妻の勝手気ままなふるまいを長い間許していた父親さえも軽蔑していた。
 何も知らないで、自分は父を誤解したまま…永遠に失ってしまったのだ。鋭い痛みが胸を貫く。
「あなた様は何も知らなかったのです。クレファード家も、ウィンスレット家もこのことは一切口外しないようにすべての使用人に緘口令が敷かれたのです。あなたの2歳のお祝いを済ませたあと、エレオノーラ様は自分から身を引かれました。英国を離れてひっそりとあなたの成長を見守るつもりでいらっしゃったのだと思います。」
「父は…父はそれを許したのか…?」
「どうしようもなかったのです。エレオノーラ様の決意は固く、もはや誰にも止められませんでした。」
 イレインの口から語られる母といわれるその人の想いをアレックスは考えてみた。父を愛しながらも、レッジーナの立場も守ろうとした。自分だけが身を引くことで、すべてを守ろうとしたのだろうか?
「イレイン、教えて欲しい。その人は生きているのか?」
  不意に沸き起こった恐怖にも似た感情で胃の辺りがギュッと引き締まる。イレインは困ったように目を閉じて天井を見上げた。
「私にもわからないのです。内々の噂で、エレオノーラ様はフランスにある修道院にいらっしゃるのではないかといわれていたのです。それが5年前…旦那様がお亡くなりになられる少し前に、その修道院が火事で焼けてしまって…多くの方が亡くなったと聞いたのです。それ以降、噂も完全に途切れてしまって…。それから後は…もうエレオノーラ様の名前を口にすることもはばかられる様になってしまいました。」
 イレインの言葉を聞いて、アレックスはがっくりと肩を落とした。その人が生きていて、自分の口から母だと名乗ってくれれば、自分とアスカに血の繋がりはないと証明できるのに…。不意に沸いた希望が、沸いたのと同時に急にしぼんでしまった気がした。

「イレイン、最初にお前はレッジーナに気をつけろと言った…その理由は?」
「レッジーナ様は、この事実が表に出ることを望んでいらっしゃいませんでした。旦那様が亡くなって、さらにウィンスレット卿もすでにいらっしゃらない今ではこの事実を知っているのは、ごくわずかです。おそらく…あなた様に知れることを一番恐れていらっしゃるのかもしれません。」
「オレが知れば、きっと自分は今の地位を追われると思っているんだな。確かにオレはレッジーナが大嫌いだった。優しさの欠片もないあの女が母親だなんて思ったことなど一度もなかった」
「もともと自由で奔放なところもあったレッジーナ様ですが、最初からああだったわけではないんです。少しずつ溜まっていったエレオノーラ様への嫉妬があの方を狂わされたのではと思うのです。ですが…ここから先申し上げることは恐ろしくて…」
 そこで言葉を詰まらせたイレインは、大きく息を継いだ。
「旦那様がお亡くなりになられる少し前に、私は旦那様に呼ばれてお屋敷に伺ったとき、聞いてしまったのです。旦那様とレッジーナ様が激しく口論されているのを…。ああ…なんて恐ろしいことを…。」
「レッジーナは何て言ったんだ?」 アレックスの声にも自然と力が入る。
「レッジーナ様は…レッジーナ様は、エレオノーラ様のいらっしゃる修道院に火をつけさせたのは自分だとおっしゃったのです。自分が姉を殺したのだと…。旦那様に、いずれあなたも遠からずあの世に行かれるのだから…そこでお会いになれるのだと…。」
「何てことだ…。レッジーナは実の姉を手にかけたのか? 」
「真実はわかりません。言葉上のことだったのか、それとも…。その頃には旦那様の病状もかなり進んでおいででしたから…。言い争いの上での言葉だったのかもしれませんし、今となっては確かめようもありませんから…。でも…亡くなられたあと、レッジーナ様から手紙が届いたのです。エレオノーラ様のことは決してあなた様に伝えてはならないと…。もしこの秘密が守れないときにはそれなりの報いを受けると…。」
 そこまで言ってイレインは苦しそうに両手を握り合わせて、固くまぶたを閉じた。アレックスはふつふつと怒りが込み上げてきた。母親になる道を閉ざされたことへの哀れみは感じても、それから先レッジーナが行った数々の不貞や行いは人として許されることではない。怒りで握り締めた拳がぶるぶる震えるのを感じると、その手をイレインがそっと包んだ。
「あなた様が何を考えておられるのか、私にはわかります。でも決して復讐など考えてはなりません。エレオノーラ様はそんなことは望んでいらっしゃらないはずです。」
「だが、彼女が行った行為は許されない。イレイン、おまえに対して行ったこともだ。オレは哀れにも何も知らず、父親との関係も修復させることもなくもう永遠に取り戻すことさえ出来ない…。このまま、レッジーナを何もなかったように扱うことは、オレの中では有り得ない。だが心配するな、イレイン。復讐といっても何も目に見える形ばかりではない。とりあえずは、オレに真実を話したことでお前の身が危うくなるのだけは避けたい。3日以内にお前たちが安心して暮らせる場所を用意する。なにも心配しなくていい…。すべてが解決したら、また帰って来られる。」
 アレックスは一気に喋って立ち上がると、涙を浮かべているイレインの身体を抱きしめた。
「よく話してくれた、イレイン。お前に感謝するよ。ロバート・ウィンスレット卿の子供のことを聞いたことがあるだろう? 日本で見つけて…、彼女は今ロンドンにいる。いつか、お前にも紹介するよ。」
「ええ、ええ…あの異国の方もおっしゃっていました。ロバート様と同じ瞳をお持ちだとか…。」
「ああ、そうだ。そしてオレはロバートの意志を引き継ぐものとしてこの地に起こっていることを、正さなければならない…。すべてはオレにに任せて欲しい。」
忙しくなるな。オレを生んでくれた人は必ず生きている。そうでなければ、イレインに脅しをかけるほどレッジーナは焦ってはいないだろう…。これはホークとしての勘だ。エレオノーラ…。必ず見つけてみせる。そうすることが今の自分と、アスカを救うことになるのだ。

英国女王 ヴィクトリア

予定の3日が過ぎてもアレックスはロンドンのタウンハウスに戻ってこなかった。ジャマールがまさかと思い始めていた時、アレックスから手紙が届く。
タウンハウスの1階にあるホールで、アスカに剣の手ほどきをしていたジャマールは、ホッとしてアスカにアレックスの手紙を見せた。
「単独では動かないと言っていたのに、まったく心配する方の身にもなってほしいものだな。」
 まるで保護者のようなもの言いにアスカは噴き出した。
「あなたはいつだってアレックスのことが心配でしょうがないのね? この英国ではそれほど危険はないと言っていなかったかしら?」
「それはアレックスが大人しくしていることを前提にした場合のことだ。こんな風に独断で動くことは想定していなかったのだが。まあ、私が何を言ったところで、アレックスは自分の思い通りに動く。一度ホークが動き出したら止められる人間なんていやしないのさ。君以外はね。」
思わせぶりにジャマールはアスカを振り返って笑った。今日のアスカはドレスではなく、男性用の乗馬ズボンにシャツを着て、髪はうなじでひとつにまとめた姿は、10代前半の少年のようだった。
「おまけに君のこんな姿をアレックスが見たら、肝を冷やすだろうな?」
「そう? わたしにだって武器は必要なの。でもアレックスは、今何と闘っているの?」
「自分が生まれる前から、巧妙に張り巡らされた謀略の糸かな…? それを解き放つことが自分を救う道だと信じている。自分のというよりは、君たちのだ。」
 意味深なジャマールの言葉にアスカはどう答えていいのかわからなかった。ただアレックスが何か大切なことをやろうとしているのだけはわかる。
「私に出来ることはないの?」
 アスカは自分だけじっとして、何もしないのは歯がゆかった。ここは英国で、アレックスの
生まれた国だけれど、アスカの父親の国でもある。
「今はまだ。だが、まず君がすることは、3日後の女王との面会を無事に済ませることだ。今ではロンドン中、いや英国中の貴族たちが君に注目している。あの退廃しきった連中に誇り高き日本の魂を見せてやればいい…。」
 励ますようなジャマールの言葉にアスカは、大きくうなずいた。そこへリリアが、恐る恐る部屋をのぞく。
「アスカ様、注文したドレスが届いております。試着をお願いしたいとマダム・トーリが…!!」
 ドアの隙間からのぞいたリリアの視界に、短い短剣を振りかざしたアスカの姿が見えると、リリアは小さな叫び声をあげてその場に座り込んでしまう。
「リリア、ごめんなさい。びっくりさせてしまって…。ジャマールに剣の使い方を教えてもらっていたの。」
「ですが、アスカ様、その格好は…?」
 白いシャツに乗馬ズボンという男性の格好をしているアスカを見て、さらにリリアは目を丸くする。いちいち説明するのが面倒で困ったように肩をすくめるアスカに、もう行ったほうがいいというようにジャマールが笑いながら首を振った。
「さて、私も主人の命令を果たしに行くとしよう。首尾よく行けば明日中には、アレックスも一緒に戻って来られる。それまで君は十分に準備をしておくことだ。」
 そう言い残してジャマールはホールを後にした。
アレックスの手紙には至急ロンドンの埠頭に停泊している小型船を動かして、ドーヴァーに停泊しているマレー号をプリマス沖まで移動させて欲しいと書かれていた。多くは語っていないが、こういう場合は緊急避難的に誰かを移動させることが多い。こういう呼び出しにコンウェイは慣れているとはいえ、またぶつぶつと騒ぐことだろう。ジャマールは数分後には埠頭に向けて馬を走らせていた。

 アレックスは困り果てたデヴォン州判事の執務室の応接室で、ホークらしく最大限その威厳を発揮しながら、ことの重大性を説いていた。初老に差し掛かった州判事のチャールズ・マートは落ち着きなく目の前に置かれた分厚いファイルのページをめくっていた。
「さて、どう報告すればいいか、教えていただきたいものだ。ここの名簿に書かれている名前は、およそこの数年にその炭鉱の採掘業者に雇われた人夫達だが、特に最初のページに書かれている名前は、およそ10代未満の子供達だ。子供の労働は数年前に議会で禁止されていたはずだが、あなたはそれを知っていたのだろうか?」
「恐れ入ります、閣下…。年に数回立ち入り検査を行っておりましたが、それはまったく…。」
 マートはしどろもどろになりながら、アレックスと目を合わすこともなく答えた。
「それでは答えになっていないな…。それにボクのところに上がっている報告書ではこの名簿以上の人間が働きに来ているはずなのに、実際には毎月1割ほどの人間が鉱山から消えている。噂ではかなりの死亡事故も起きているというが、それもあなたは知らないと…?」
 アレックスはわざと声のトーンを落として少しずつマートを追い込んでいく。
「ボクはこの領地の管財人のひとりであり、相続人の後見人でもある。以前この件に対して調査を依頼した時のあなたの回答には正直がっかりした。だから直接こうして出向いて来たのですが…」
「閣下…それは…」
 マートは言葉を失い、勝負はすでについていたが、この男を追い詰めたところで、何も解決しない。だがこういう人間は権威に弱い。イレインの元を飛び出して、真っ直ぐ自分の領地に向かうと、領主らしい身なりに着替えてこの州の判事の公務館に足を運んだのだ。
 数年ぶりに突然戻ってきた主の登場に、ロレンスの代わりにマナーハウスを守ってきた家令のロイスはかなり慌てたに違いない。もちろん、ロレンスのおかげでタウンハウスはもとより、マナーハウスも領主が長い間留守にしていたにも関わらず、きちんと運営されていた。報告書の中の数字の不可解な部分は別として、実質面では文句のつけようがなかった。
領主らしい上質な仕立てのスーツに着替えて、馬車に乗り換えて単身この領事館に乗り込んで来たのだが、アレックスはこの目の前の男をただ脅しただけでは何の効果もないことを知っている。
「ロンドンの意向は一刻も早くこの状態を是正すべきという意見で一致している。まずはあなたが動いて現実を確かめるとともに、法律違反となっている幼い子供の炭鉱での労働は一刻も早くやめさせるべきだ。中には強引に連れられて来たものもいるとの噂もある。今の地位を失いたくなければ、誠意を見せるべきですね。今週の女王との謁見後に新しい領主がこの地にやってくる。その時にまたこのデスクに座っていたければ、謙虚になるべきだ。」
 アレックスは極めて事務的に言い放った。 


 判事のチャールズ・マートに脅しを掛けたその晩には、南西部の港町プリマスに移動していた。もちろん、乳母のイレインの家族をを伴って…。
 埠頭に止めた馬車の中で半時待った後、沖からちらちらとランタンの明かりが見える。大きく左右に揺らす合図はマレー号のサインだ。程なく埠頭に1隻の小船が現れた。
 ジャマールをはじめマレー号のクルーはこうした隠密行動には慣れている。男達は無言で黙々と作業をすると、不安そうなイレインの家族を素早く小船に移動させていく。
 埠頭に止めていた馬車もあっという間に姿を消して、乗客を積んだマレー号は、すぐさまプリマス沖を離れた。

「3日で戻ると言った割には時間がかかったじゃないか?」
マレー号に乗り込むなり、ジャマールはからかう様に笑いかけてきた。
「事態は思ったよりも深刻だった。早く動かないとまた誰かの命が失われかねない。」
「それが、急遽判事に面会しに行った理由か?」
「まあな、ロバートの領地が汚されるのを放っておけなかった。来週にはアスカを連れて訪れる予定だったが、鉱山の運営のためにとんでもない連中が入り込んでいる気がする。治安を任せているチャールズ・マートは何も分かっちゃいない。やつを脅したところで、なにも解決しないさ…。」
「君の敵はレッジーナだけじゃないってことだな。君を後ろ盾にして、アスカが領地に入って来ることを嫌がる連中がいるということだ。鉱山に出資している連中の正体を調べるか…? 場合によってはアスカの身にも危険が及ぶ可能性がある」
「う…ん。あらゆる方向から調べて、手を打つ必要があるな。すまないが頼む」
「もちろん、抜かりなく進めよう…」
 いつもと変らぬ指揮官と副官の会話だが、ジャマールはロンドンに戻った当初のアレックスとはまったく違う感覚を感じていた。八方塞がりだったアスカとの関係がもしかしたら大きく動くかもしれないのだ。自然と士気も上がるというものだ。
 

船を、ドーバー海峡から北上させて…再びテムズ川の河口まで来たところで、アレックスとジャマールはマレー号を降りてロンドンに向かう。イレインたちは安全が確保されるまで、スコットランドにあるイレインの知り合いのところまで送り届ける手はずになっていた。別れ際にイレインは泣いて喜んで、“神の御加護があって旦那様がいつか必ずエレオノーラ様に会えるようにお祈りしています”そう言ってアレックスを抱きしめた。
「乳母殿は貴重な生き証人だからな。レッジーナに知れる前に安全なところに逃がせてよかったじゃないか。」
「ああ…しかし、エレオノーラ…。なんとも不思議な響きだ。その人がオレを生んでくれた母親なら、なぜロバートは何も言わなかったのだろうか?」
 ロンドンに向かう船の中でアレックスはつぶやいた。
「言わなかったんじゃなくて、言えなかったんじゃないかな?君の出生にまつわるその事実は、ウィンスレット家にとっても極秘事項だったはずだ。いくら君を愛していても、母親の許しがなければ告白は出来ないはずだ。」
そうだろう。ジャマールの言うとおりだ。イレインの言葉を借りるなら、エレオノーラというその女性はウィンスレット、クレファード両方のことを思って身を引いたのだ。だが、死の間際になってもロバートはアレックスに何も言わなかった。ということは、エレオノーラは生きているかもしれない…。そのわずかの望みをアレックスは信じたかった。



王宮に上がる日、正午を回ってもアレックスは戻ってこなかった。朝からそわそわと落ち着かないアスカだが、ひとりで気を揉んでも仕方ない。小間使いの少女とリリアの手を借りて、今夜の謁見の準備に取り掛かる。
「もう旦那様は何をしていらっしゃるんでしょう? 殿方はレディほど準備に時間は掛からないかもしれませんけど…だいたい旦那様、いえクレファード卿は忙しすぎるんです。」
 さっきから慌しく手を動かしながらリリアはぶつぶつ文句を言っている。アスカはそれを笑って聞きながら、目の前にある大きな楕円形の鏡に映る自分の姿に見入った。
 ロンドンでも人気のあるデザイナー、マダム・トーリの豪華な夜会用ドレスは素晴らしい仕上がりだった。襟元は個性的なデザインで、大きく開いたスクウェアー風の胸元は着物の合わせを思わせるような2色の布を重ねて出来ていて、背中も大きく開いている。
カラーは淡いパールグレーで生地には細やかな織り模様が入っている。この生地は宝龍島(ホウロントウ)を離れる前に貴蝶がアスカに持たせてくれたもののひとつだった。貴蝶はそれで花嫁衣裳を作って欲しいと願いを込めてくれたのだろう。
 マダムトーリはその生地を見るなり、感嘆の声をあげた。なんて素晴らしい生地でしょう…? これほど素晴らしいものを見たことがありません。きっとこれまで私が手がけたものの中で最高のものが出来るでしょう…。彼女が言うとおり、鏡に映ったドレスは、アスカの真珠のような肌をさらに輝かせるのには十分だった。ボディス(コルセット)が無くてもドレスの細くくびれたウエストから豊かな胸元はしっかりと強調されていて、それでいて上品さを失わないデザインになっていた。
「まあ、とても素晴らしいドレスですね? 婚礼の衣装でさえこれほど素晴らしいものを見たことがありません。きっとクレファード卿は驚かれるでしょうね…。」
 アスカは鏡の中の自分の姿に満足しながら、フッと小さく息を吐いた。これがアレックスとの婚礼の支度ならどれほど胸弾むことだろう…。でも実際には想いとは裏腹に現実は程遠く、二人の距離は永遠に遠く感じられる。
「さあ、いつ呼ばれてもいいように準備しなければ、髪型も素晴らしく整えましょうね」
 そう言ってリリアはまたアスカの髪に櫛を入れ始めた。





アレックスが屋敷に戻ってきたのは午後3時過ぎ、時間的にはぎりぎりというところだった。ロンドン埠頭から早馬を仕掛けてジャマールと一緒に戻ってきたのだが、自室に入るなりブレンに手伝わせて入浴と髭剃りを済ませると、入念に準備されていた夜会服に袖を通した。
「タイムリミットは後30分だな。どうやら間に合いそうかな? 女王の謁見に遅刻は厳禁なんだろう?」
 入り口に立ってジャマールが意味深な笑みを浮かべて立っている。
「もちろんだ。15分遅れが慣例と雖も、女王は別だな。」
 凝ったホワイトタイをブレンに結ばせて、自身でダイヤモンドのカフスを留めながらアレックスはつぶやく。
 今夜は特別なのだ。女王とアスカが対面する日だ。アスカは決して女王を恐れていない。英国貴族の中には、混血ということに嫌悪感を抱くものもいるが、今のアスカを見ればその生き生きとした生命力溢れる魅力で、きっと人々を魅了することだろう。たぶん、明日にはロンドン中の噂になり、求婚者達が列を成してその前に並ぶことになるのだ…。
 くそ…! オレはそんなことを見るためにアスカをロンドンに連れて来たんじゃない…!
 一部の隙も無い完璧な装いの中で、その表情だけが鋭く険しい。
「君のその顔を見たら、アスカに近づく求婚者はみな射殺されかねないな…? 」
洋装に着替えたジャマールが入り口のドアにもたれかかりながらからかうと、アレックスはすぐ表情を変えて振り返る。
「そんな骨のある奴がこのロンドンにいると思うか?。生半可な気持ちで近づけば、すぐに撃沈されるさ…。」
「だろうな、ホークでさえ、散々な目にあっている。」
「アスカは野生の山猫だ。温室育ちの柔な精神ではとても飼い慣らすことは出来ないのさ…」
 アレックスは笑いながら、ポケットから時計を出して時間を確認する。
「さて、時間だ。わが帝国の女王を迎えに行くとしよう…。」
 ブレンが差し出した白い手袋を受け取って、アレックスは自室を出た。
 

 長い廊下を抜けたその先にあるアスカの寝室に行くまでの間、アレックスは自分の呼吸を整える。一歩先を歩くジャマールが、寝室のドアをノックして開けるまでアレックスは、王宮で必ず避けて通れないレッジーナとの対面について思い巡らせていた。
 そして開いたドアの向こう側に見えた光景に、アレックスは思わず息を止める。
寝室の続き間の壁に掛けられた大きな鏡の前で、アスカは立っていた。豪華なドレスを纏った後ろ姿はさながら女神のようだ。美しい月光のような輝きを放つドレスが床まで届き、高く結い上げた髪の毛先は緩やかにカールされて、大きく開いた背中からは滑らかな白い肌がのぞいている。アレックスの目は鏡の中のアスカに釘付けになったが、アスカもまた鏡越しにアレックスを見ていた。
 アレックスは完璧だった。白と黒の夜会服は彼の淡い色のブロンドの髪を最大限引き立たせる。それにあの瞳…。堕天使ルシファー、アスカを捕らえて離さないその圧倒的なオーラに息苦しささえ感じて大きく息を継ぐ。すると、コルセットで持ち上げられた豊かな胸がさらに胸元から零れ落ちそうになる。それを見てアレックスの視線は陶磁器のようなアスカの肌に吸い付くように注がれたまま離れない。
「素晴らしい…。マダムトーリは最高の仕事をしたようだ。それにこのドレスは…」
「このドレスの生地は貴蝶姉さんが持たせてくれたものなの…」
「そうか、貴蝶が…。」
貴蝶はアスカの幸せを心から願っていた。だが今は、アレックス自身の手でそれを叶えることは出来ない。今は…。

アスカは貴蝶の名前を出した時、一瞬揺らいだアレックスの眼差しの中にある光を鏡越しに見つめていた。確かに彼は何かを自分の中に押さえ込んでいる。
ここはアレックスの生きてきた世界なのだ。アレックスの生母の公爵未亡人が言うようにそこでもアスカは混血でしかない。それでも何も恥じることは無いとアスカは自分に言い聞かせた。
「これから行く世界はくだらない世界だが、避けて通れない世界でもある。君の勇気を…誇り高き日本の魂を連中に見せてやるといい…。そしてこれはボクからのプレゼントだ」
そう言って上着のポケットから黒いビロードの箱を取り出して、中から血のように赤いルビーとダイヤモンドにきらめくネックレスを取り出した。アスカの後ろに回って両手で留め金を留める。
「綺麗…。」
 肌に触れる冷たい感触にアスカは震えた。それはアレックスがシェフィールド公爵家の祖母から受け継いだものだった。父は何故か、その家宝とも言うべき宝石をレッジーナには渡さなかった。ずっとそれを疑問に思っていたが、今なら分かる。父が愛していたのは別の女性だったのだ。
「これはボクが祖母から受け継いだものだ。」
「そんな大切なものを私に…?」
「君の門出に…そして僕の決意のために…」
 まるで謎賭けのような言葉に、アスカはアレックスの中の複雑さを見た。最初からアレックスはいくつもの顔を持ち、垣間見せる表情はとても複雑で謎めいている。退廃的な美しさを持ちながら、内面は高潔そのもの…。アスカはその相反する二つのアレックスに惹かれ、反発しながらもここまでついて来たのだ。
「アレックス、そろそろ時間だ。」
 ドアの前で待機していたジャマールが声を掛ける。
「旦那さま、これを…」
 リリアが差し出す黒テンの毛皮のケープを受け取って、アレックスはアスカの肩に掛けてサテンのリボンを結んだ。
「さあ、いざ闘いの場へ赴くか…。」
 アレックスが差し出す左手に、アスカは右手を添える。互いの手が触れた瞬間、馴染みの感覚がまた身体を突き抜けていった。
そう、どんなに互いを取り巻く環境が変っても、わたしとアレックスを繋いでいるものに変りは無いと思いたい…。アスカの想いが分かるのか、一瞬見つめあったアレックスの碧い瞳がキラリと光った。

屋敷の前にはクレファード家の紋章を付けた豪華な4輪馬車が止まっていた。アスカを先に乗せ、アレックスは後からその隣に乗り込む。二人が乗り込むのを見届けてから、ジャマールは御者台へと移動する。ジャマールの合図で、馬車はすべるように走り出した。
「震えているね? 大丈夫か?」
 二人きりの馬車の中で最初にアレックスが口を開いた。
「ええ…平気よ。ここまで来たんだもの。逃げたりしないわ…。」
 アスカはほんの少し戸惑っていた。最後にこんな風に二人で移動したのはいつだっただろう…? 二人きりになるとどうしても意識してしまう。今のアレックスは完璧に情熱を押さえ込んでいるけれど、時々見せる謎めいた表情をどう理解すればいいのだろう…。

「その調子だ。君に弱気は似合わないよ。最初にボクを突っぱねたように、擦り寄ってくる不実な連中をみな蹴散らしてやればいい。」
「もちろん、そうするつもりよ。私は、わたしの生まれも…生きてきた生い立ちも恥じてはいないもの…」
正直不安な気持ちはあっても、不思議と怖さは感じなかった。肌も触れ合うほどに近く隣に座る男性の存在がアスカを強くしている。アスカが欲しいのは、裕福な生活でも名誉でもなく、素のままのアレックスだけだ。そのために闘わなければならないのなら、彼とだって闘う準備は出来ている。
「それでこそアスカだ。今夜の君は誰よりも美しい…。君はそこに居るすべての男達の欲望と羨望を集めることだろうね?」
「その中にあなたも入っているのかしら?」
「もちろん…」
 そう言いながら、アレックスはあすかの手をとって手袋越しに唇を付けた。
「あなたは英国に戻ってきてから、ずっと何かのために走り回っているのね?今度は何と闘っているの? ジャマールはあなた自身の…一族の問題だと言っていたけれど…。」
「気になるかい?」
「ええ、もちろんだわ。これから一緒に闘うパートナーのことなら何でも知っておきたいと思うのは当然でしょう?」
アスカはわざとツン…とあごを上げてアレックスを振り返った。アレックスとの闘いはもう始まっているのだ。もう弱い自分は見せないと決めていた。
「もちろん、そうだ。それにボクはもう君に隠し事はしないと約束をした。君が知りたいと望むことにはなんでも答える義務があるな…」
 まるで自分に言い聞かせるようにつぶやいてから、アレックスはアスカの瞳を見つめながら片手で、彼女の長い手袋で覆われている肘から上…わずかに覗いている素肌の部分をゆっくりと撫でた。
「ボクも少しは学んで…自分の欲望をコントロール出来る様になった。だから君の側に居ても熱病にかかった少年のような振る舞いは、少しは慎むことが出来るだろう…。」
 アレックスの言葉を心の奥深くで聞きながら、アスカは目を閉じて今感じている感覚だけに浸っていた。アレックスはアスカを自分の肩先に抱き寄せて、その耳元でささやく。

「いつか、乳母のイレインの話をしたことがあっただろう…? そのイレインに先日18年ぶりに会いに行った時、驚くべき告白をしてくれた。29年前、ボクを生んだのは…公爵未亡人のレッジーナではなく、彼女のひとつ違いの姉のエレオノーラだとね…。ウィンスレット家と我がクレファード家には秘密があって、父と結婚したのは姉のエレオノーラだった。」
「え…!? 」
アスカは思わず、アレックスを振り返った。、目の前にアレックスの謎めいた瞳が真っ直ぐアスカを見つめている。
「アレックス、それじゃあ、あの人は…?」
 アスカはアレックスの心を計りかねて、思わずじっと見つめ返すと、アレックスは謎めいた眼差しのままで、微笑んだ。
「レッジーナはボクの母親じゃなかった。今さら聞かされても不思議な感じがするが、納得できる部分もある。それほど、彼女とボクの間には不協和音しかなかったから…。可笑しいだろう?」
「それは、あなたにとっては良かったことなのね?」
「もちろん、ものごころ付いてからは、あの女から生まれたというだけで、自己嫌悪に陥ったものだ。母親でなかったと知っただけで、ボクの魂は救われた気になる。そしてもうひとつ大切なことが…」
 そこでアレックスは、生母のエレオノーラがロバートとは血のつながりが無いということをアスカに告げるべきか、一瞬迷った。二人にとってその事実はとても大切なことだが、それを証明することは今となっては難しい。エレオノーラが生きていれば可能かもしれないが…。
「あなたの本当のお母様はどこにいらっしゃるの?」
「分からない…。数年前に修道院の火事で亡くなったとイレインは言っていた。」
「まあ、なんてこと…!」
 アスカは思わず、慰めるようにアレックスの頬を両手で引き寄せるとこれ以上は無いというほど優しくその唇にキスをした。
 慰めのキスだと分かっていても、瞬時にアレックスの奥深くに押さえ込まれた情熱に火が点く。無意識に彼女の腰を引き寄せて、キスを深めると…そこで一瞬ためらった後で、唇を離した。
 心地よいアレックスのコロンの香りに包まれて夢心地だったアスカは、不意に現実に戻されて不満げにアレックスを見上げた。
「だめだよ、アスカ。頼むからボクの自制心を試さないでくれ…。君を欲しい気持ちに変りはないが、何度も言っているとおり今はその立場にない。」
「約束は出来ないわ…。でも教えて…。その立場が永遠に変ることはないの?」
「それは…。(今こそ、真実を語るべきだ…。)心の中の声がささやく。
「エレオノーラが生きていればすべてが変わる。本当の母…エレオノーラは先々代のリンフォード伯爵の娘ではないんだ。つまり彼女はロバートとの血の繋がりはない。」
「じゃあ…」
 アスカは期待を込めてアレックスを見るが、彼は小さく首を振った。
「エレオノーラが生きているという確証はどこにもないんだ。彼女を見つけ出してすべての真実を明らかに出来ればボク達の未来も変るかもしれないが、まずは今夜秘密を知っているレッジーナにわなを仕掛ける。レッジーナは真実がボクに知れることを恐れていた。イレインに脅しを掛けて真実を封印しようとしたんだ。それも許せない…」
「わかったわ。あなたが闘うのなら、私も一緒に闘う。でも…私は自分の欲しいものは自分で闘って手に入れるわ。もう待つだけの女でいるのは嫌なの。そのためなら、相手があなたでも闘うわよ。」
「ハ、ハ、ハ…! さすが誇り高きアスカだ。だが、君を相手にする前に、目の前の敵に一緒に立ち向かわなければならない。準備はいいかい?」
「もちろんよ…。」
 馬車は車輪の音を響かせて、宮殿の大きな門を走り抜けていった。

宮殿前の広い車止めスペースには、次々と豪華な馬車が到着して、中からは華やかに着飾った紳士、貴婦人達が降りてくる。そして人々は列を作って衛兵の立つ大きな扉を抜けて次々と階段の奥のホールへと進んでいった。
「さて、私はここで失礼しよう」
 一緒に進んできたジャマールがそう言って一歩下がると、アスカは彼を振り返る。
「あなたは一緒に行かないの?」
「ジャマールは我々英国貴族のくだらない習慣には付き合いきれないのさ」
 アレックスは笑いながら、アスカのケープを取ってジャマールに渡した。
「そのとおり、今日の役は君達の従者で十分だ。ではアスカ、君が今日のデビューを楽しめることを祈っているよ」
 ジャマールはそう言っていつもの謎めいた笑みを残してサッと人ごみの中に消えていった。
「ジャマールが嫌がるのも分かる気がするわ。あまり空気も良くなさそう…」
 さっきからずっと見られている感覚があって、覚悟はしていたけれど、この視線に最後まで耐えるのにはかなりエネルギーが要ることだろう。
 それにこの豪華さ…。回廊もかねた広いホールの高い天井には、美しい絵画とともに金色の装飾が施され、大きなシャンデリアが輝いていた。両脇に立つ円柱状の柱は磨き上げられた大理石だろうか? すべてが圧倒されるような豪華さと華やかさに、アスカはひざが震えるような感覚を覚えた。
すると、アレックスが重ねた手の上から、励ますように反対側の手を乗せてつぶやいた。
「大丈夫だ。ボクがついている。君はこの中の誰よりも輝いている。自信を持つんだ…。」
 アレックスに励まされて、アスカは小さく微笑むと、頭を上げてじっと前に視線を向けた。するとそこで前方から侍従の声が響いた。

「シェフィールド公爵閣下、並びにリンフォード伯爵令嬢…!」
 それを聞いてアレックスは飛鳥の耳元でささやいた。
「さあ、女王陛下のお呼びだ。覚悟は良いね…?」
「ええ…」
 音もなく開いた扉を後にしてアスカは、アレックスにエスコートされて女王の待つ謁見室へ続く廊下を進んでいく。途中先に女王への挨拶を済ませた何組かの貴族院の見覚えのある顔にも出くわしたが、彼らは驚いたように同様にアスカとアレックスの姿を振り返った。
 やがて再び呼称があり、最後の扉が開くと…広い豪華なホールの奥に数段高くなった玉座があって、ふくよかな一人の初老の女性がゆったりと座っていた。髪は豊かな銀髪で、柔和な表情の中にもその眼差しは威厳に溢れていた。頭にはダイヤモンドといくつもの宝石に彩られたティアラが煌いていた。このティアラのためにいかに多くの命が失われたか…。
(この方がビクトリア女王なんだわ…。)アスカは内心どきどきしながら、練習どおりに優雅に片足を引いてドレスのスカート部分を両手で持ち上げながら軽く頭を下げる。
「女王陛下…」
「今宵はお招きありがとうございます。お約束どおり、我が従妹のアスカ・フローレンス・メルビル・ウィンスレットを紹介させて下さい…。」
 アレックスも片膝を曲げて女王に謁見の挨拶をすると、女王は片手を挙げてまるで示し合わせてあったようにランスロット卿以外の側近達を下がらせた。
「さあ、これで余計な人間はいなくなったわ、もっと近くに寄って顔を見せていただけるかしら…? 年を取ったおかげでいろいろなことが困難になってきて困っているのよ」
 レースのハンカチをひらひらと胸の前で振りながら微笑む女王を見て、アスカは困ったようにアレックスを見る。アレックスは小さくうなずいて、彼女の手を取ったまま女王のすぐ近くまで進み出ると、自分は一歩下がって控えの姿勢を取った。
 アスカはその場に片膝をつく姿勢で女王を見上げた。
「アスカという名前なのね? 本当に…ロバートと同じ瞳を持っていらっしゃるのね? それになんて魅力的な女性だこと…。お母様は日本の方だったわね? そのせいかしら? 西洋の女性にはない非凡な美しさがあるわ。そう思わないこと、ランスロット?」
「いかにも、恐らくは今夜のうちにも山のような求婚者が現れそうですな? どうする?アレックス、後見人とはいえ気が揉める事だろう?」
 からかうようなランスロット卿の表情には、何かを試すようなニュアンスがある。アレックスはそれをわざと無視した。こういう時のランスロット卿は意地が悪い。10年付き合ってよく分かっている。いったい、ジャマールはアスカのことをどう伝えたのか、疑いたくなってくる。
「何をどうジャマールが報告したのかは知りませんが、僕は叔父であるウィンスレット卿の遺言で動いているだけです。そのためならどんな面倒にも立ち向かう覚悟ですが、逆にお願いなのですが…この問題が解決するまで、これ以上の面倒事からは開放していただきたいですね」
 アレックスは意趣返しで、ランスロット卿にこれからしばらくは、ホークとしての仕事からは解放して欲しいと訴えたが、果たしてどこまで響いているのかわからない。
「まあ、それではアレックス、あなたも噂どおりそろそろやっと、自分の義務に向き合う覚悟が出来たということかしら? それなら、しばらくホークの仕事は免除するとしましょう。」
 そこで女王は高らかに笑った。明らかに面白がっている様子に、ランスロット卿も含み笑いを隠せないでいる。前からこの二人はアレックスに関してはいつも何か企んでいるようなところがあるが、今はアスカだ。
「ボクのことはさておいて、今夜彼女はこの英国でリンフォード伯爵令嬢としてデビューします。女王の庇護と今後の地位の安定をお願いしたい。」
「もちろんです。今回わが国を巻き込んで極東で起きた事件の解決には、アスカ…あなたの存在が大きかったと聞いています。そうですね? アレックス?」
「はい、メルビルの養女として育った彼女でなければ解決の糸口は得られなかったでしょうね? きわめてプライベートな部分もありますので、それ以上詳しくは語れませんが、女王のおっしゃるとおりです。」
「アスカ…あなたの父上、ロバート・ウィンスレットは実に稀有な人物でした。こうして英国でまた彼の娘であるあなたに会えたことは、私にとっても得がたいことでししょう…。」
「ありがとうございます。女王陛下。陛下の寛大な御配慮に依ってメルビルの名誉も回復できたのです。亡き義父に代わって…心より感謝いたします」
 アスカは女王を前にしても怯むことなく凛とした声で応対している。頼もしく感じながら、感心もしていた。驚くべきことだが、この英国に来てからも、アスカはずっと進化している…。
「さあ、今日はとても気分が良いこと。ランスロット、残りの謁見はキャンセルして、私もホールへ向かいます。よろしいかしら…?」
 そう言って女王はランスロット卿を見る。
「もちろん、構いませんが陛下…?。」
齢60を過ぎた女王が舞踏会の会場へ足を運ぶことは、その頃には滅多にないことで、さすがのランスロット卿も驚いたに違いない。
「アレックス、私も一緒にエスコートしていただけるかしら…?」
 ビクトリア女王は悪戯っぽい笑みを浮かべてゆっくりと玉座から立ち上がる。
「もちろんです。女王陛下…」
 アレックスも立ち上がって女王を迎えに行くと、右手を女王に差し出して彼女が階段を下りるのを手伝った。どういう気まぐれでそういうことを思いついたのか分からないが、アスカが女王と一緒に現れたとなれば、これは一大センセーションになる。レッジーナに対してもそうだが、女性が爵位を継ぐという慣例に反したことに批判的な貴族達もこの様子を見れば、口を噤むに違いない。
 一瞬不安げにアレックスを見上げるアスカに、大丈夫という想いを込めて微笑むと、左腕をアスカに差し出して、二人の女性をエスコートして歩き出した。
「いや、いや、女王の気まぐれにも困ったものだ。しかし、こうしてみると、アレックスとロバートの娘…美しい一対の芸術品を見るようだ。彼女もただの娘ではあるまい。まあ、そのうちわかるか…。」
 ドアの向こう側に消えて行く3人の後ろ姿を見つめながら、ランスロット卿は独り言をつぶやいた。

新たな陰謀…アスカの決意 

女王の登場を告げる案内役のコールがあって、舞踏会の会場になっている宮殿の大ホールに集まっている人々から、いっせいにどよめきが起こる。ざわざわとした人の波がやがてドアの入り口付近から左右に分かれて…間に出来た通り道を3人はゆっくりと進んで行った。広いホールの上座の数段高い位置に簡易的な玉座が用意されていた。誰かが女王の登場を知って慌てて用意したのだろう。
 アレックスは玉座の手前で待つようにアスカに伝えて、女王を玉座までエスコートしてから片手を胸の前に置くと、ゆっくり女王に頭を下げてから、またアスカの元へと戻っていく。
 少しの間があって、女王の第一王子が母である女王に挨拶をした後で、妃を伴ってホールの中央に現れると、それを合図にオーケストラの演奏が始まった。いよいよ舞踏会の始まりである。アレックスもアスカを伴ってダンスの輪の中に入っていく。
 最初の曲はカドリールと決まっていて、4組の男女が途中それぞれのペアを入れ替えて踊る。どこかの令嬢の相手をしながら、ちらりと見ればアスカも初老の男爵と苦もなく踊っていた。案外すべてはアレックスの取り越し苦労かもしれないと思い始めたとき、ちょうど音楽は終わり、直後にアスカが、彼女にわれ先に挨拶しようとやってきた多くの人々に囲まれているのを見る。女王を伴っての入場は思った以上の効果をもたらしたらしい。ひとりほくそ笑んでいると、いつの間にか側に来ていたレッジーナの姿にまったく気が付かなかった。
「巧くやったものね? アレックス…。女王をだしに使うなんてあなたらしいやり方ね」
レッジーナは相変わらず、例の年若い愛人を引き連れている。
「ボクは何もしていない、あれは女王自身の意志だ。まあ、おかげで何の苦もなくアスカを社交界の面々に紹介することが出来た。ごらんのとおり予想以上の効果だ」
「ふん、しばらくの間だけよ、目新しいことに興味を引かれているだけ、時期に飽きるわ」
レッジーナはアスカの周りに出来ている人だかりを見て、鼻を鳴らすと嫌味を込めて言った。
「嫉妬ですか? あなただっていつまでも若さは保てない。この辺で身を引いたらどうです?」
「何ですって?」
 レッジーナは自分がそれほど若くないことを最も気にしていて、アレックスは痛いところを付いたのだが、これで終わらせるつもりはなかった。
「それと、乳母のイレインをあなたは覚えているだろうか?」
 イレインの名前を出したとたん、レッジーナの表情が変ったのが分かった。
「イレインがどうしたのです? 今はリンフォードの片田舎に住んでいると聞いているけれど…」
 それがどうしたのだと言いたげなレッジーナにアレックスは声を潜めて言った。
「イレインはボク宛の手紙を残して居なくなった。その手紙にはリンフォードとクレファード両方につながる秘密が綴られていた。あなたもその秘密を担う中のひとりだ。今となっては唯一の…というべきかもしれない」
「何が言いたいの…?」
 明らかにレッジーナは動揺していた。必死に隠そうとしているが、ホークであるアレックスにはすべてが手に取るように解る。
「ボクはすべてを知っていると言っているんです。あなたはボクの母親じゃない…。」
 それを聞いてレッジーナは高らかに笑い始めた。
「ばかなことを…。たかが使用人の言うことを誰が信じると言うの?それにそれはわがクレファード家にとっても大スキャンダルよ。あなたにとってもあまり好ましいことではないのではなくて?」
「好ましいかどうかはボク自身が判断する。僕を生んだのがあなたじゃないと知って、これほど嬉しいことはない。出来ればあなたの口から真実を語ってもらいたいところだが、それを聞いたところで、今さら過去に戻って間違いを正すことも出来ない。」
「そうよ、今さらあなたがどう騒ごうと、リチャードもエレオノーラも生きてはいないのだから…」
「ふ…やっとあなたの口からその名前が聞けましたね。エレオノーラ…その人がボクの本当の母親なんだ」
「知らないわ…二度と言うものですか…。私は認めない、こんな話今さらしたところで誰も信じないでしょう…」
「かも知れない…。では取引しましょう。あなたがいつも連れているその不埒な若い愛人が作った“ホワイツ”での1万ポンドの借金はボクが払ってもいい。その代わりあなたはこの英国を出て、フランスでもスペインでも好きなところへ行って暮らせばいい。そのために年金として毎年1万ポンド払いましょう…」
「わたしを体良く厄介払いするつもり? そうはいかなくてよ、わたしはどこにも行くつもりはないわ…」
「そうですか…。では支払い不履行で訴えられて、投獄されてもボクは知ったことではない…」
「母親が訴えられても、あなたは知らん顔が出来るかしら…? 」
「別に…ボクとあなたとの不仲は周知の事実だし、あなたの振る舞いやボク自身の世の中の評判を考えてみても、今さら誰も気にしたりしませんよ。あなた以外はね…。しばらく猶予をあげましょう…。このシーズンが終わる頃に答えを待っていますよ。逆にあなたがそれまで待ちきれないかも知れないが…。よく考えてみることですね」
それだけ言ってアレックスは憮然としているレッジーナの側を離れた。これ以上話をすれば言わなくてもいいことまで言ってしまいそうだった。ある意味レッジーナはアレックスの最悪な部分を引き出す。
「アレックス…」
 そこにアスカがやってきた。レッジーナと一緒に居るところを見ていたのか…。自分だってたくさんの野次馬に囲まれて大変だっただろうに…。
「見ていたのかい…? まあ、彼女と対面するときはいつも最悪になる。だが今回ばかりはボクも黙ってばかりは居られない。ボクが真実を知っていることを告げたとき、かなり動揺していた。結果が楽しみだな。」
「大丈夫なのね…?」
「もちろん、君も予定通り大人気じゃないか? ほら、すでに君の崇拝者達が列を成して待っている。僕はしばらく姿を消すよ。このまま居続ければ、面倒なことになる。」
そう言いながら、ホールのあちこちからこちらに向かってくる婦人達の姿を目に留めた。この頃めったに捕まらないアレックスを追いかけて、かつての愛人達が集まってくることはわかっていたのだが…。
「すまない、アスカ…。最後のワルツだけは残しておいてくれるかな?」
「ええ…もちろん」
 アスカがそう言い終わらないうちに、アレックスは姿を消していた。すると目の前をいつか船の中で会ったことのある見覚えのある貴婦人がこちらに歩いてくるのが見えた。
あれは確か…フィオ-ナ…?。
「ごきげんよう。いつかお会いしましたわね。また私のサロンにも是非おいでいただきたいわ」
フィオーナは取ってつけた様な笑顔を貼り付けて、アスカに微笑んでみせる。そのあとも同じような女性が何人も現れて、アスカはすっかり疲れてしまった。
「アレックスも罪なやつですね、自分の後始末を従妹のあなたに押し付けるなんて…」
その声に顔を上げると、軍服姿の背の高い紳士が、日焼けした顔に清清しい笑みを浮かべて立っていた。
「これは失礼、挨拶が遅れました。海軍の将校でピーター・ヘンドリックといいます。アレックスとはイートン校で同期だったんですよ。その後軍への入隊も一緒でした。彼がこの舞踏会に現れると聞いてきたんだが、相変わらず変幻自在なやつだ。」
「誰が、変幻自在だと…?」
 そこへひょっこりまたアレックスが現れる。
「ピーター、久しぶりだな。5年、いや6年ぶりか。」
「ああ、君がランスロット卿の下で働き始めてから、めったに会えなくなったが、最後に会ったのはあのスペインの海戦の後じゃなかったかな? 」
 二人はしっかりと握手を交わして、互いの手を握り合った。背丈はアレックスとそれほど変らないが、肩の厚みと全体の体躯がかなりマッチョな印象を与えている。髪も短い赤毛で、日焼けした顔の中で印象的な緑色の瞳が知性的だった。笑うと口元から真っ白い歯がこぼれ落ちる。
「君にこんな美しい従妹がいたなんて知らなかったよ。紹介してくれないか?」
ピーターは輝くような笑みでアスカを振り返り、思わずアスカは赤くなった。
「もちろんだ。」
アレックスも彼には心を許しているのだろう。ずいぶんリラックスしている様子だ。
「アスカ、彼はボクの学生時代からの友人でピーターだ。男爵家の3男で意志の強い、見ての通り鋼の肉体と同じくらい強情なやつだ。軍隊時代に理不尽な命令を下す上官を殴って、船のマストに3日間括り付けられた時も文句ひとつ言わなかった。」
「あれは結局その晩、嵐が来て真夜中に君が助けてくれたじゃないか?」
「当たり前だ。もともとあの上官はピーター、君が殴らなければオレが殴っていた…」
 そう言って笑う二人の様子をアスカは、微笑みながら見つめていた。英国に来てからこんな風に笑うアレックスをはじめて見た気がする。もともと謎めいた雰囲気を持つアレックスだが、知れば知るほど、表面の華やかさからは微塵も感じられない…内面からくる彼の、繊細さや優しさに強く惹かれていく…。
「彼女はボクの従妹のロード・アスカ・フローレンス・メルビル・ウィンスレット…だ。日本で生まれたが、育ったのはアメリカだ。ボクたちも最近出会ったんだ。」
 アレックスはさらりと答える。
「それで、納得したよ。前に君から、従妹がいるなんて話は聞いたことがなかったからね。こんな魅力的な従妹がいるなんてうらやましい。たとえ従妹でも目の保養になる。ボクなんて実家に帰れば、母を除いて親戚は厳つい男連中ばかりだ。」
 それから3人は隣のフロアーに移動して休憩用の空いているテーブルを見つけて腰を下ろした。
シャンパンで軽く喉を潤しながら、アスカは二人の男性の会話にじっと聞き耳を立てていた。昔なじみという二人の男性は、見かけにおいても対照的だった。アレックスはいかにも洗練された青年貴族らしく、見かけも仕草も完璧だった。周りの人々は、彼が移動するたびその動きを目で追いながら…注目しているのが分かる。そしてもうひとりは、軍人らしく威厳溢れるオーラを纏っている。時々会話に加わりながら、辺りを見回すと、再びアレックスと言葉を交わしたい女性達が集まってきているのが分かる。
「残念だがピーター、タイムアウトだ。身から出た錆だが、またしてもいったん身を隠さなければならないようだ。しばらくアスカを頼めるかな? 君なら安心して任せられる。」
「もちろん、こちらこそ望むところだ」
「じゃあ、アスカ。またあとで。」
 アレックスはアスカの耳元で、小さく囁いたあと、現れた時同様、サッと姿を消した。

「相変わらず、落ち着きのない奴だな。学生時代からダンスパーティではどこへ行っても女の子達から追い掛け回されていた。裕福な独身貴族となった今では、娘を嫁がせたい母親から逃げなければならないのだから、世襲貴族は大変だな。」
ピーターの言葉には何か皮肉めいたものがある。
「あら、あなたも貴族の生まれではないの?」
「ボクの場合は3番目だからね。上に二人も兄がいれば、先祖から受け継がなきゃならないものなんて何も無い。それどころか、裕福な暮らしがしたければ、結婚相手に金持ちの令嬢か、裕福な未亡人でも見つける以外ないんだ。たとえば君のような…ね」
 一瞬意味深な笑みを浮かべてピーターは、またたあいのない会話に徹してアスカを楽しませた。ピーターが側にいる間は他の紳士達も遠巻きに見つめるだけで会話の中に入って来ようとするものはいないから、それなりにアスカはリラックスすることが出来た。
「君はどれくらいアレックスの事を知っているんだい? 最近までお互いのことを知らなかったというのは本当なのかな?」
「ええ…。彼が父の遺言で、日本までわたしのことを探しに来るまでは…。」
 アスカはさりげなく答えた。嘘を言うつもりもないが、真実を告げるつもりもない。今では従兄妹同士だが、そうと知れるまでは恋人同士だったなんて言えるはずもないし…。
 少し困ったように微笑む。

「彼が男性として魅力的なのはよくわかるけれど、こうまで崇拝者が多いとは知らなかったわ。世界中に名の知れた英国貴族で、海賊ホークの異名があるのも知っていたけれど…」
「ああ…入隊した頃から女癖の悪さでは有名だったよ、港に立ち寄る度に娼館の女達が列を成して待っていたなんて言っても誰も信じないが、本当なんだ。まあ時には一緒に楽しんで羽目を外したが、アレックスの愉しみはケタ外れで、誰も付いていけない。おっと、初めて会った君にそんなことを言ったと知れたら、どやされかねないな。」
今のは聞かなかった事にして欲しいというピーターに、もちろん…という風に肩を竦めて笑ったが、内心ではそんなこと今さら言われなくても知っていると言いたかった。
香港でもその筋の女性達が部屋に押しかけてきたこともあったし、何よりも一緒に過ごした夜に彼はとても献身的な恋人だった。卓越した情熱でアスカを何度も高みに押し上げたのだ。その記憶は今でも時々アスカを戸惑わせる。すると、不意にまたその記憶が蘇ってきて思わず赤面する。
「まったく、12月だというのにこの人の込みようははなんとも言えないな…。もしまだダンスの空きがあれば一曲お願いしたいのだが…」
「ごめんなさい、今日のところはもう予定がいっぱいなの…」
「そうか、残念だな。」
 手持ちのダンスの予約カードを見ながらアスカが答えると本当に名残惜しそうに、アスカの手を取って手袋の上からキスをした。
「こんな素敵なレディと知り合えるチャンスはめったにないからね。アレックスと知り合いだったことに感謝しなければならないな。来週まではロンドンにいる予定なんだが、その間に訪ねて行っても構わないかな? 」
「もちろんだわ…」
 そう言ったところで、次の曲が始まると、予約カードに名前を書かれていた紳士があらわれて、アスカはその紳士にエスコートされてまたダンスフロアーへと出ていく。すると、しばらくアスカの様子を眺めていたピーターはいつの間にか姿を消していた。

その頃宮殿の中の目立たない別室で、アレックスはジャマールとともに宮殿内の人の流れと結びつきを探っていた。宮殿の中には一部の人間しか知らない小さな小部屋があって、そこからはホールや、長い回廊を行き来する人を高位から観察することが出来るのだ。
ホークとして、ランスロット卿の下で働くアレックスの持つ女王の免罪符はこんな所にも生かされている。
「何か気になる動きはあったか? 」
 アレックスは時間を気にしながらジャマールを振り返る。
「いくつかは気になる動きは見られるが、まだ確証はない。ただ、この場に招かれている客の中には、貴族社会とはおよそ縁遠い、金融を裏で牛耳っている連中がいる。」。
「マキシム・ラスキンだろう? 最近ヨーク公に近づいて、新手の投資を持ちかけているとランスロット卿が言っていた。」
「間違っても奴は君のところへは来ないだろうな? 3年前にニューヨークの市場で、買収を仕掛けた海運会社で痛い目にあっているからな」
「だろうな…。」
 アレックスの主な事業のほとんどは英国ではなく、世界中に散らばっている。心臓部にあたる戦略企画室はニューヨークにおいているが、そこでは優秀なスタッフが常に新たなビジネスを生み出している。買収もそのうちのひとつだが、3年前にラスキンはアレックスの持つ小さな海運会社に買収を仕掛け失敗したのだ。そのときのことを奴は忘れていないだろう。
「おっと、時間だ。戻らなければ、最後のワルツをアスカと踊る約束をしている。誰かに取って代わられるわけにはいかない。」
アレックスは急いでその場を離れ、ホールのアスカの元に戻る。途中かつての何人かの愛人に捕まったが、巧くすり抜けて、オーケストラが最初の数フレーズを奏でる頃にはアスカの手を取ってフロアーの人の流れに紛れ込んだ。
「あなたはほんとに侵出奇勃な人ね? もう間に合わないかと思ったわ」
「約束は守る性質でね。それに最後のワルツは誰にも譲る気はなかった。」
アレックスはそう言ってアスカをグッと自分の近くに引き寄せて耳元で囁く。
 アスカはいつか日本の鹿鳴館で、最初にアレックスと踊ったことを思い出した。あの時もかなり強引に引き寄せられ、戸惑いながら反発もしたけれど、今は逆にそれが懐かしい。もっと強く抱きしめて欲しいと思っても、今はそれが叶わないとわかっているから、せめて彼の腕に抱かれて踊るこの時間だけは、二人だけの世界に浸っていたかった。

最後のワルツはいつもよりは長めに演奏されるがそれでも永遠ではない。曲が終わると、人々は舞踏会の終わりを告げる宮殿の侍従の言葉を聞いてから、今夜の主催である王室の最高位のヴィクトリア女王に代わって立つエドワード王子と妃に次々と挨拶をして、そろそろとまた出口へと向かっていく。

人の波に乗りながら、アスカとアレックスも挨拶を済ませてゆったりと歩いていく。
「エドワード王子はよほど君のことが気に入ったんだな。2回もダンスを申し込むなど、異例なことだよ」
「まさか、もの珍しいだけよ。日本の文化に興味があったみたい。日本の民族衣装を見て見たいとおっしゃっていたわ」
「それで、君は承知したのかい?」
「従兄の承諾があればとお答えしたわ。もっともな答えでしょ?ここでの決定権はあなたにあるわけだし…」
 アレックスは思わず、小さな唸り声を漏らした。アスカのアレックスに対する言葉が少しずつ微妙に変化していることを感じてはいるものの、それにどう向き合っていけばいいのか自分の中でも決めかねていた。アスカは普通の、英国の淑女のように、か弱くただ護られるだけの女性ではない。
「君の勇気には前から感心しているし、敬意を払うよ。ただ僕の立場からいえば、しばらくは目立たず大人しくしていることがいいとは思うけどね?」
「それは、さっきあなたのお母様からも言われたわ…。公爵未亡人の言葉をそのまま言うならば、身内といってもわたしがあなたの味方になるとは思わないでね、利口ならしばらくは大人しくしていることね。そうおっしゃったわ」
そう言うアスカの銀色の瞳がきらりと光った。
アレックスは小さく悪態を吐く。
「レッジーナはボクに報復する代わりに、さっそく君に爆弾を投げつけたわけだ。彼女は君が可愛い子猫だと思っているが、実際は野生の山猫だということをボクは知っている。今はこうして鋭い爪は隠しているけれどね」
 その言葉の意味にアスカは思わず息を呑む。アレックスは忘れていないのだ。いつか過ごした熱く激しい時間を…。歓びの高みに達したアスカは無意識にアレックスの二の腕に噛み付いたのだ。その時彼は山猫のようだと笑った…。諦めるのはまだ早いのかもしれない…。アスカは胸の奥にまた熱い炎が燃え上がるのを感じた。

外につながる回廊を抜けた先で、二人のコートを手にしたジャマールが待っていた。
「どうだい? アスカ、初めての王室主催の舞踏会は楽しめたかい?」
「ええ、まあ、まあね。嫌味な誰かにさえ会わなければ結構楽しめたかも…」
 アレックスに黒テンのケープを掛けてもらいながらアスカは答える。
たぶん、アレックスは問題が解決するまで、アスカのお供をリリアに任せて自分はジャマールと動き回るつもりなのだろうが、アスカは黙ってそれに従うつもりはなかった。
 それに、この頃リリアには想いを交わす相手がいるのだ。リリアは上手に隠しているつもりでも、アスカはずいぶん前からわかっている。その相手があのマレー号の厳つい大男の船長だとアレックスたちは知っているのだろうか?
「ハハ、君は女王ばかりか、エドワード王子のハートまで射止めたんだ。上出来だよ。さぞかしレッジーナからすれば歯がゆいことだろう。」
「近いうちにまた何か仕掛けてくるかもしれない…」
 馬車を待つ間に辺りを気にしながらジャマールがポツリと言った。
「たぶんな。レッジーナは狡猾だ。イレインをどこかに隠したとわかったら、怒り狂うだろう。もうすでに事実をオレが知っていると分かったからには、絶対に何か仕掛けてくる。十分に注意が必要になる。」
 目の前にクレファード家の紋章入りの馬車が止まると、アレックスは再びアスカを先に乗せて自分も隣に乗り込み、やがて馬車が静かに動き始めると軽く目を閉じた。夕べからほとんど睡眠をとることなくこの時間まで緊張の連続だったのだ。その緊張が一気に解けて安心したのかもしれない。
 アレックスの長いまつげが時々小さく震える。目を閉じたアレックスの…まるで幼い子供のように傷つきやすい表情が垣間見えて…。抱きしめたい衝動にアスカは、片手を彼の手に添える。もっと近づきたくて、彼の肩に頭を摺り寄せた。懐かしいコロンの香りと男性的なアレックスの香りを胸いっぱいに吸い込むと…またあの胸を締め付けるような切ない想いが込み上げてくる。
 アスカはアレックスが欲しかった。こんなに近くにいて、手が届きそうなのに…。求めることが出来ないもどかしさに唇を噛む。

 するとちょうどある街角の一角を通り過ぎようとした時、短い銃声がして驚いた馬が急に立ち止まる。衝撃で大きく馬車が揺れた。
「アレックス、伏せろ!」
 同時にジャマールの鋭い声が響き、アレックスはとっさにアスカの身体を抱えて座席の上に転がる。瞬時にジャマールは馬車から飛び降りて辺りを警戒するが、2発目の銃声は鳴らなかった。二人の御者は、興奮した馬をなだめるのに必死になっている。
「どうした? ジャマール」
 わざと抑えた声で問いかけると、同じく窓の外から小声でジャマールが答える。
「襲撃かと思ったが、どうやら違ったようだ。ただ確かに銃口はこちらに向けられていた。当たらなかっただけで、もしかしたらこれは何かの警告かもしれない…」
「わかった。それなら馬が落ち着いたらすぐ出発させろ」
 緊迫した空気が流れる中で、アレックスは自分の身体の下で小さく震えるアスカをしばらく優しく抱きしめていた。
「すまない、アスカ。驚かせてしまったね、とりあえず何事もなかったようだ」
 馬車が動き出すと、ゆっくり身体を起こして、アスカの顔を覗き込む。
「こんなことがあなたの周りではしょっちゅう起こるの?」
「ノーと言いたいところだが、ホークと呼ばれるようになってからは確かに増えているかも知れない。だが心配は要らない。クレファード家の馬車は銃弾を通さない特別仕様だし、ボクには素晴らしい守護天使がついている。」
 アレックスは苦笑しながらも、半分警戒しながら外をうかがっている。
「ジャマールのことね? でも前のようなことが起こらないとは限らないわ」
 アスカは今でも時々銃弾に倒れたアレックスの身体の下から流れ出した血だまりの夢を見る。恐怖に目が覚めて眠れないこともあった。
「お願い、もうあんなことは起こらないと約束して…!」
 不意に思い出されてアスカは恐怖に息が出来ないほどの不安を覚えた。
「大丈夫だ。もう二度とあんなことは起きない。」
 アレックスはアスカを安心させるためにしっかりとその腕に抱きとめると、ずっと優しく背中をゆっくりとさすり続けた。
 前よりはコントロール出来る様になったとはいえ、アスカは瞬時にアレックスの導火線に火をつけることが出来る。無表情を装ってはいるが、今夜鏡に映ったアスカの姿を目にしたときから、アレックスの全身を流れる情熱はある一点を目指して荒れ狂っている。
 それから無事に屋敷にたどり着いたものの、微妙な緊張感が漂う中、アレックスはアスカを部屋のドアの前まで送り届けて、穏やかなお休みのキスをするとそのまま背を向けて去っていった。
ドアに背を向けたまま、しばらく呆然とアレックスが去っていったほうを見つめていたアスカは、不意に涙が込み上げてきて…声を上げずに唇を振るわせた。

「アレックスは強情だな。君が欲しくてたまらないくせに、今は必死に抑えている。わたしから言わせれば、無駄な努力にすぎないと思うが…」
 その声に振り向けばジャマールが困ったような表情をして立っていた。
「君達を一番良く知る者として、今のままの状態は良くない。今日の帰りの一件は明らかに警告だと思う。」
「どういうこと?」
 アスカは、涙を抑えて顔を上げる。
「アレックスは、ビジネスでも、政治の世界でも敵は多い。その上今回は母親のレッジーナと真っ向から対立している。レッジーナはああ見えて結構社交界では顔が利く。この世界の誰を巻き込むとも限らないから油断がならない…」
「母親が息子を傷つけるなんてことあるかしら…?」
「脅しくらいなら平気でやってのけるさ。彼女なら…。それにアレックスの抱えている問題はそれだけじゃない。君の父上の領地に関してよからぬ連中が入り込んでいることもわかって、そっちの対策にも追われている。本当なら君たちには一枚岩でいてほしいところだが…。中途半端な関係ではいて欲しくないね」
「どうすればいい…? 前にアレックスが言うようにわたし達の関係は変わってしまったとあなたも思う…?」
「いや、何も変わっていないと思うね。違う風に見せようとしているだけで…。アレックスはそれが正しいと思っているが、わたしはそうは思わない。アスカ、君もアレックスを愛しているならば、君が彼の目を覚ましてやるべきだ。アレックスの…実の母親の話は聞いたかな?」
「ええ…その方が見つかれば、わたし達の関係はまたもとに戻れるとアレックスは言っていたけれど…。」
「そのとおりだ…。今その人を探している。だが彼女は自分から姿を隠しているんだ。生きていたとしてもそう簡単に姿を現すとは思えない。だが見つけなければならない。レッジーナより先に…。」
「まさか、あの人が実の姉を手にかけることなんて…」
 アスカは息を呑んだ。いくら自分の今の立場を守るためとはいえ、公爵未亡人はそこまでするだろうか…?
「レッジーナを甘く見てはいけない。あの女は欲望を満たすためなら自分の身内でさえ差し出す、そういう人間だ。だからこそ君たちはひとつでいなければならない…。わたしが言えるのはここまでだ。柄にもなく君たちの事に深入りしすぎているから、この辺りまでにしておくよ」
 ジャマールは苦笑しながら、それだけ言って去っていった。普段無口な彼がここまで語るのは本当に稀なことだった。アスカは自室に戻って、リリアに手伝ってもらいながらドレスを脱ぐと…一気に身体から力が抜ける気がした。

「緊張の連続で大変だったことでしょう? 今夜はゆっくり休んで下さいね…」
 時間はすでに12時をとっくに回っている。こんな時間までリリアは待っていてくれたのだ。本当ならリリアはもう小間使いではない。きっとアスカを気遣ってのことだろう。
「アスカさま…わたしは旦那さまとお嬢様のことが気がかりでなりません。あんなにお似合いのお二人がこんな風によそよそしく過ごされているのはとても…。」
 そう言ってリリアは涙ぐんだ。
「ありがとう、リリア、大丈夫。わたし達は今とても難しい問題を抱えているの。でも希望がないわけじゃない。諦めているわけじゃないのよ」
 アスカの言葉に安心したのか、リリアもまもなく自分の部屋へと戻って行った。
ひとりになると、アスカはまた今日の出来事をひとつひとつ思い出す。その度に感じたアレックスの反応と…自分の気持ちと…。そうするとまたむくむくとアレックスに対する想いが湧き上がってきて、抑えがたい欲望と愛しさに自分で自分の身体を抱きしめる。
 ジャマールはアレックスもアスカと同じで必死に自分の気持ちを抑えているだけだといっていたけれど、本当だろうか? 今は同じ屋敷の中にいるのだから…会いたいと思えば会えるのだ。アスカは何か決意したように思い切ってベッドから起き上がった。 


アレックスはアスカを送ってから、自室に戻って来ると、すべてのエネルギーが抜けたようにベッドに突っ伏した。
29年生きてきて、これほど消耗する事態に陥ったのは初めてだった。数晩寝ずに愉しんだとしてもこれほど疲れを感じたことはなかったはずなのに…。数ヶ月前、あの黒柳との消耗戦でさえまだ愉しむ余裕があったはずだ。あの時には常にアスカがそばにいた。だが今はどうだ…。
ちらりと見ればブレンが、脱ぎ散らかしたアレックスの服を集めてちょうど部屋を出るところだった。それと入れ替えにジャマールが入ってくる。
「まったくおまえはこんな時にさえ一人にしてはくれないんだな。」
 苦笑しながらアレックスは起き上がって傍らに置かれたデキャンターからブランデーをグラスに移して一気に喉に流し込む。
「ああ、今夜みたいなことがこれからも起こらなければな…」
 いつものアラブ風衣装に着替えたジャマールは、近くのソファーの肘掛に腰を下ろしながら、意味深な笑みを浮かべている。
「何だ…? 何事も無かったじゃないか? 」
半ば投げやりにアレックスは答える。ジャマールが言いたいことはわかる。今までとは違って今度は身内が敵になるのだ。どんな些細な油断も命取りになる。アレックスが領地を留守にしていた数年間、領地の運営を任せてきた使用人や管理人達、その中で信用に足る人間は誰なのか見極めなければならないが…。 

「今日のところは何も無かったが、あれは脅しだ。これ以上深入りをすればただでは済まないという無言の警告かな?」
「こんなことは今まで何度もあったじゃないか? これしきのことでオレがうろたえるとでも…?」
 おどけたようにアレックスは笑って見せるが、ジャマールがこういう言い方をするのは必ず何かあるときだ。
「君同様アスカも狙われている。まあ、一緒にといったほうがいいかな? 君達二人の存在が相手にとっては恐怖であり、目障りなのだろう…。」
「そうだろう? レッジーナをはじめ、アスカが現れるまでの法定相続人だったジョン・モルウェル、闇の金融王、マキシム・ラスキン…。誰をとっても疑わしい奴ばかりだ。」
「ならば余計、君とアスカの間にこだわりがあってはならない。言いたいことは解るだろう…?」
 
ジャマールの言うとおりなのだろう。二人が別々の行動を取ればそれだけ相手につけ込む隙を与えるのだ。ただアスカとの関係をどこまで戻すのか…? 日本で過ごしたような関係をまた繰り返すことで、アレックスはまた自分の弱い部分と向き合うことになるのが怖かった。

「念のために言っておくが、今のアスカは日本にいた頃とは比べ物にならないほど強いぞ。君達がどれだけ強く互いを必要としているか、よくわかっているし、これからもずっとそうあって欲しいとわたしは思っている。」
「それは…おまえは、やっとここまで落ち着いたオレの心をまた元に戻せと言いたいのか?」
「そうじゃない、今のように自分を抑えた状態でどうやって闘うんだ? 立派な自制心には感心するが、今の君には役に立たない。自分の気持ちを抑えるな…。」

 ジャマールはそう…言いたいだけ言って去って行った。
“くそっ! あれほど過ちを繰り返さないと自分を戒めて来たんだ。アスカはオレを強くもするが、弱くもする…。”

 アレックスは眠れずに何度も寝返りを打った。目をつぶれば宮殿での眩いばかりのアスカの姿が浮かんできて、瞬時に彼の中の欲望が反応する。大きくため息を吐いて、眠るのを諦めて起き上がろうとした時、真っ暗な寝室の中で暖炉の赤い炎だけがあたりをゆらゆらと照らす中で、何かが動いた。

 アスカはあらかじめリリアから聞いていたこの屋敷の主の寝室に繋がる隠し扉を手探りで探した。アレックスは用心のために自室の鍵は常に掛けさせていた。そのため彼の最も身近な使用人たちは廊下から繋がっている通路を使って別の扉から部屋に入るのだという。
 明かりの落ちた暗い廊下を足音を忍ばせて、ジャマールに教えてもらったアレックスの寝室を目指した。
 時間は夜中の午前1時をとっくに回っているだろう。使用人たちも寝静まっている屋敷の2階の真っ暗な廊下を手元の小さな蜀台を頼りに進んでいく。
 本当ならこんな形でアレックスの元に行くのは間違っている。でもこうすることしか、今のアレックスの考えを変えることは出来ない気がしていた。心のどこかで、本気ではないにしろ、彼に刃を向けることに抵抗はあった。その迷いを大きく深呼吸して振り払うと、アスカは勇気をふりしぼって一歩を踏み出した。

 暗い廊下の突き当たりにその扉はあった。扉は音も無く開くと、アスカはするりと中に滑り込んでその先を目指す。数メートル進んでそこにある扉にまた手を掛けた。そこでアスカは片手で薄いナイトガウンの上に羽織った濃い色のフード付きマントのポケットを探る。ポケットの中には練習用の刃をつぶした短刀が入っている。ジャマールが練習用に用意してくれたものだった。それを右手にしっかり握ると、覚悟を決めて最後の扉を開けた。

 アレックスは、暗がりの中で侵入者の姿を確かめようと、カーテンの陰に身を隠して待つ。明らかに相手は使用人が利用する内側の扉を使って入ってきた。この通路は一部の使用人しか知らないはずだ。まさか使用人の中に密通者がいるということか。
 それにしても…侵入者はかなり小柄らしい…。壁に映るシルエットはアレックスよりは20センチ近く低い。暖炉を背にしてこちらに向かって近づいてくる相手の顔は見えないが、気迫だけは十分に伝わってくる。

 ベッドはあたかもそこにアレックスが眠っているように細工をしておいた。侵入者はそれを確かめるように、ゆっくりとベッドの足元から近づいてくる。
 それを枕もとのカーテンの陰でじっと待っていたアレックスは、相手が枕元に屈み込んだ瞬間、後ろから回した手で羽交い絞めにする。すると相手は無言で瞬時に繰り出した肘でアレックスのわき腹を突いた。
 アレックスが怯んだ隙に相手は持っていたナイフを振り上げる。それを身をよじって交わすと、右手で短刀を持つ腕を掴んだまま、相手の手首をベッドの支柱に2度、3度と叩き付けると、ナイフは音を立てて、床に転がったが、そこで身に着けていたフードが外れて、相手の長い髪がアレックスの鼻先に触れる。
「まさか…!?」
 そこでアレックスは相手の腕を掴んだまま、暖炉の側まで引きずって行って、その炎の前で、侵入者の顔を覗き込んだ。
「アスカ…!? やっぱり君か…!? どういうことなんだ…?」
 そこでやっとアレックスは掴んでいた手を離す。
「やっと気づいてくれたのね?」
 アスカはホッとしたように右手をさすりながら答えた。こうなることは解っていたけれど…。
「あなたがいつ気づいてくれるのか、気を揉んでいたわ…」
「ばかな、あのまま続けていたら君を傷つけてたかもしれないんだぞ、現に見ろ…」
 アレックスはアスカの右手を取って手首の内側に出来た赤い痣を目の前にかざした。さっき暗がりの中でベッドの支柱に叩きつけた痕だ。
「いったい、誰がこんなばかげたことを思いついたんだ…?」
 明らかにアレックスは混乱していた。まさかこんな形でアスカが目の前に現れるなんて想像も出来なかったし、まして刃を向けてくるなんて…。
 オイルランプを点けて、ベッドの足元に転がっているナイフを拾い上げる。
「これは…」
 明らかに切れないように細工してあるナイフを見てアレックスは呆れたようにアスカを振り返った。
「まったく誰がこんなくだらない茶番劇を企んだのか? まさか、またジャマールか…?」
「彼は関係ないわ、あくまでもわたしが考えたことだから、わたしは…あなたに解って欲しかっただけ…。もうあなたに護られるだけの存在でいたくないの。ここはわたしが生まれた日本でも、育ったアメリカでもない。あなたの生まれ育った英国だけれど、わたしは裸馬にだって乗れるし、ナイフ投げだって得意よ、ある程度の体術だって心得はあるわ」
「そうだな。さっきの肘は確かに効いたよ。前に君に迫った時には、大事なところを蹴られそうになったこともあったな…」
 さっき感じていた緊張感も忘れてアレックスは声を出して笑った。本当にアスカは捕らえどころの無い女性だ。知れば知るほど奥深く、さらに深く知りたくなる。

「アスカ…君が並みの女性でないことはよくわかったよ。だが約束してくれないか? もうこんな風に訪問するのは止めて欲しい。今日はこの程度で済んだが、もしかしたら君の手首は折れていたかもしれないんだぞ…」
「ええ…わかっているわ。でもどうしても来なければならなかったの…。あなたの本心が知りたかったから…。その上であなたと取引きしたかったの」
 アスカはゆらゆらときらめくオイルランプの光の中で、羽織っていたマントを脱いだ。マントは布切れとなって足元に広がると、薄いノースリーブのナイトガウンが現れる。ナイトガウンは透けるほど薄く、その柔らかな布地を押し上げるようにツンと上を向いた二つの蕾が覗いていた。それを見た瞬間にアレックスの中にくすぶる欲望の炎に火が点いた。

「まずは傷を何とかしないと…」
 アレックスはわざとアスカを見ないようにして近くのチェストの引き出しからシルクのハンカチを取り出して、少し血の滲んでいる右手の手首に巻いた。
「これでよし…。さあ、ボクの山猫がなにを取引したいのかゆっくり話を聞こうじゃないか…?」

 アレックスは冷静を装いながら、アスカを暖炉の側のソファーに座らせて、自分もすぐ側に腰を下ろす。内心ではさっき暗闇でアスカの芳しい髪の匂いを感じた時からすでに身体の一部は痛いほど反応している。
“くそっ! こんな時に冷静でいられるか…! 正直この数日の寝不足と、ストレス続きでまともな判断が出来るかどうか…。”

「わたしを見て、アレックス…」
 暖炉の炎を受けてアスカの銀色の瞳はゆらゆらと燃えていた。真っ直ぐ射るような眼差しでアレックスを捕らえて離さない。アスカはゆっくりとアレックスに近づくと、両手で彼の顔を自分の方に引き寄せて、ゆっくりと唇を重ねる。
「わたしが欲しいのはあなただけ…。あなたのお母様を見つけるまで、わたしもあなたと一緒に闘うわ。だけど、今のまま何も無かったように暮らすのは嫌…。あなたはわたしに、愛し合う喜びを教えてくれた。今さらもう何も知らなかった頃には戻れない…。お願いアレックス…わたしの求めるものを与えて…」
「アスカ…君はそれが言いたくて…こんなことまでして、ボクのところに来たのか…?何ということだ。そうさせたのはボク自身か…。すまない…」
 愛しさにアレックスは力いっぱいアスカを抱きしめた。たとえそれがどんなに間違っている方法だったとしても怒る気にはなれなかった。

「あなたが…わたしが妊娠することを恐れているなら、わたしにだってそれを避けるための知識はあるわ。忘れた…? 5歳から12歳までわたしは日本の娼館で育ったのよ。姐さんたちがそのためになにをするか、嫌というほど聞かされたわ。」
「アスカ、君という女性には本当に驚かされる。だがここ英国では、淑女はベッドでどういう行いをすべきか、いちから教えなければならないのかな…? 」
 アレックスはアスカの言葉が可笑しくて、それまで二人の間に漂っていた微妙な緊張感が一気に消えていくような気がした。

「ボクも君が欲しい…。実際には今すぐにでもこの場で奪いたいところだが、ボクもいろいろ学んで少しは自制が出来るようになったんだ。」
 そこでアスカが不満そうに口を開きかけたところをアレックスは人差し指で抑える。
「勘違いしないで…。君をもう一度この腕に抱く前に言っておかなければならないことがある。今回のように身内に敵がいる場合には、いろいろと慎重にならなければいけない。屋敷内の使用人すべてが、リリアのように主人に忠実とは限らない。ボク達の関係は、あくまでも極秘だ。いいね…?」
 アスカは無言でうなずいた。今は先のことなど考えられなかった。ついにアレックスが受け入れてくれたことが嬉しくて、知らないうちに涙がこぼれて来た。

「さあ、おいで。ベッドに行こう。夜明けまでそんなに時間はない。今夜からまた二人の関係をやり直そう…」
 そう言ってアレックスはアスカを抱き上げて自分のベッドへと運んでいく。シルクのシーツの上にゆっくり横たえると、アスカの瞳を見つめたまま…傷ついた右手を取って、その指一本一本に口づける。

「初めて結ばれた晩、ボクはずいぶん傲慢だったな…。君は初めてだったのに…優しさのかけらもなかった。大きく傷つけなかったのが不思議なくらいだ。」
「あの時あなたは怒っていたのでしょう? わたしは黙ってあなたの側を離れたんだもの…」
「怒りというよりも…君の魅力に負けて、自分を制御出来なかったんだ…」
 耳元で囁きながら右手の指先をアスカの耳たぶからうなじへと滑らせていく。アレックスの指が敏感な部分をかすめる度にアスカの唇からため息が漏れた。焦らすように丸い胸のラインをたどって、同時に唇でナイトガウンの肩紐を片方ずつ引き下げていく。
 早く触れて欲しくてアスカは背中を反らせてアレックスの唇を迎えに行くが、わざとゆっくりと両手で豊かな乳房を包み込んだ。

「美しい…。本当に君は綺麗だ…。」
 あっという間に薄いシルクのナイトドレスは取り払われ…代わりにアレックスのしなやかな指先と唇が体中を撫でる様に触れていく。敏感なピンク色のつぼみを強く吸い上げられると、思わずすすり泣く様な声がアスカの唇から上がった。
 “そうよ…! わたしはこの時をどれほど待っていたか…!”
 アレックスはゆっくり進めるつもりだったが、アスカがすっかり準備が出来ているのがわかると、どうにも我慢が出来なくなってきた。

「アレックス、お願い…もう…」
「まだだ…」
 素早く服を脱いで、アスカの両足の間ににひざまずくと、黒い艶やかな巻き毛の中に指先を滑り込ませた。アスカは熱く溢れるように潤いながら、きつく締め付けてくる。しばらくその感覚を愉しんだ後で、アレックスは指を抜いて代わりに今にも爆発しそうな自分自身をあてがうと、アスカの目を見つめながらゆっくりと押し入った。
「きつい…」
  思わず声が出るほど、アスカの中は燃えるように熱く、まるでアレックスを離すまいとするようにきつく締め付けてくる。
「ああ…アレックス…」
信じられないほど逞しいものがアスカの中をいっぱいに満たすと、アスカは声にならない叫び声を上げながら…頭をのけぞらせた。
「気に入った?」
アレックスの問いに答える代わりに、アスカの両手がアレックスの固く引き締まった肩から腕の筋肉を確かめるように彷徨う。
「これからはもっと君を満たすことに執心しよう…」
そう言ったものの、きつい締め付けを愉しんでいるうちに、もう我慢しきれなくなったアレックスは激しく動き出した。急激に膨らんだ欲望は一気に沸点に達して、もう爆発寸前になる。

「アスカ、ボクを見るんだ…!」
見下ろすアレックスの碧い瞳がさらに碧く、その中に見えるのは切羽詰った渇望と興奮だけだ。慣れない禁欲生活のせいで、自分で思っているよりもはるかに欲望の沸点は低い。荒い呼吸で激しく胸が上下すると、さらに動きは早くなる。
 熱い…。アスカの中で彼が燃えている。まるで炎の柱が弾けて砕け散るように、意識の中で何かが飛んだ…。

隠された真実…父の愛

早朝のメイフェアー通りを、馬を並べてアレックスとジャマールは移動していた。
「こんなに朝早くから主人をたたき起こしに来るのはおまえくらいなものだ。」
 あくびをかみ殺しながらアレックスが言うと、ジャマールは悪びれもせず、いつもの面白がるような笑みを浮かべている。
「君を訪ねて行った時、君は部屋に居なかったじゃないか? どうせ、寝ていなかったんだから問題ないだろう?」
 夕べは明け方までアスカと過ごし、眠りについたアスカを部屋まで運んで自室に戻ってきたところにジャマールと出くわしたのだ。
「どこへ行っていたのか、聞かないのか?」
「聞くまでも無いさ、君とアスカが賢明な選択をしたことを喜んでいるんだ。」
 相変わらず、何でも知っていると言いたげだ。
「賢明な選択か…。そのとおり、だが夕べ、アスカは侵入者を装って入って来たんだ。それについてのお前の見解を聞きたいんだが…」
 アスカひとりの知恵とは思えないアレックスは、わざとジャマールの反応を見たのだが、当然ジャマールは知っていても認めるわけが無い。
「ほう…。ついにアスカも君の自制心を崩すために強硬手段に出たというわけだ。」
「ああ…大いに効果があったね。だがそれよりもこんなに早くにここまで引っ張り出してきたからには何かあるんだろう…?」
「もちろん、メイフェアーにあるウィンスレット卿のタウンハウスに居座っていたモルウエルが、やっと出て行ったと今朝早く見張りから報告があったんでね。出来るだけ早く君に報告するべきだと思ったんだが…」
「もちろんだ。あの盗人は1ヶ月以上も粘った挙句、目に付く金目のものをかなり盗んでいったと、家令のマックスから報告があったばかりだった。すぐさま調べさせて即刻ロンドン塔にぶち込んでやるさ」

 アレックスが極東に出かけている隙にモルウエルは、裁判所の判事に賄賂を贈り、まんまと自分がロバートの遺産相続人だという承諾書を取り付けると、その日のうちに屋敷に押しかけ半ば強引に居座ってしまったのである。
 おおよそ知性の欠片もないこの男は、長い間主人の居ない屋敷を厳格に護ってきた使用人達を大いに悩ませたに違いない。たまたま長年ウィンスレット家の顧問弁護士を務めていたミスター・フォーサイスが病気療養中だったことも災いしたこともあるだろうが…。
 ともかく…出来るだけ元の状態に戻してアスカに父親の…ロバートの存在を感じさせてやりたかった。
  

 
1年ぶりにロバートのタウンハウスを訪れたアレックスは、家令のマックスに案内されて1階の客間から広い大接室(ホール)を見て回ったあと、あまりの酷さに思わずうなり声を上げた。玄関ホールから続く、床に敷き詰められていた見事なペルシャ絨毯は、軒並み剥がされて床はむき出しになっていたばかりか、壁にしつらえられていた装飾用のキャビネットの、銀細工はほとんど持ち去られていた。
「マックス、何がなくなっているのか、正確にわかるか?」
「はい、調度品に関してはリストがございますので、それに照らし合わせれば解るとおもいますが…」
「解った。済まないが、みなを集めて屋敷内をくまなく調べてくれないか?地下の貯蔵庫から3階の屋根裏まですべてだ。」
 即刻指令を出した後、アレックスはジャマールと2階の書斎と主寝室を見に行った。
「どうやらここは荒らされてないみたいだな?」
 部屋に入るなり、ジャマールが言った。幸いなことに家令のマックスの機転で、主寝室と書斎だけはモルウェルの自由にさせなかったらしい。
 モルウェルが出て行くまでの最後の3日間、使用人のほとんどは休みを取らされていたが、マックスだけは屋敷に残り、頑として部屋の鍵を守り通したのだという。
「今時、珍しいほどの忠義者だな。」
 書斎の中をあちこち見て回っていたジャマールは、デスクの引き出しの奥にもうひとつ隠し扉があるのを見つけた。その扉には鍵が掛かっておらず、まるで誰かに見つかることを想定されているようだった。中には古ぼけた手紙の束と真新しい封筒があった。

「驚いたな? なぜロバートはこれを隠さなければならなかったのか…」
「表立って君にさえ言えないことがあったということだ。」
「これは…?」
 その中のひとつを手に取ったアレックスは思わず絶句した。





だいぶ陽が高くなってから目覚めたアスカは、寝返りを打ってそのまぶしさに目を開けた。
「……?」
 夕べアレックスのところへ行って…一緒に過ごしたのではなかった? いつの間に自分のベッドに戻ってきたのだろう…? それともあれは夢だったのだろうか…?
 いぶかしみながら自分の右手をみると、確かに包帯代わりのシルクのハンカチが巻かれている。
 夢じゃなかった。昨日確かにアスカはアレックスと夢のような時間を過ごしたのだ。ホッとするのと同時にまた馴染みの胸を焦がすような熱い想いが沸いてくる。
 まだまだ二人の間には複雑な問題がたくさんあるけれど、今は確かに繋がっているという想いがあった。

「アスカさま、お目覚めになったんですね?」
 リリアが小間使いのマリーを伴って入ってくると嬉しそうに微笑んで枕もとのカーテンを開いた。
「旦那様が、お嬢様はお疲れだからお目覚めになるまでは起こさないようにとおっしゃっていたんです。午後にお話があるとおっしゃっていました」
 マリーもきびきびと動きながら、アスカがベッドから起き上がるのを手伝う。
「アレックスはどこに?」
「ジャマール様と朝早く馬でお出かけになりました。メイフェアーにあるウィンスレット卿のお屋敷に行かれたようです」
「そうなの…?」
「詳しくはよくわからないんです。今朝早く、ウインスレット家の家令から連絡があって、何でも長いこと居座っていた人物が居なくなったということでした」
 アスカの準備を手伝いながら、リリアは今朝自分が見聞きしたことを告げた。
 こういう部分ではアレックスに事態を委ねるしかないのだろうが、立場的に何も出来ない自分が歯がゆかった。





「やっと私の希望に応えていただいて、光栄の極みですな…。公爵未亡人…」
「あら、別に避けていた訳ではなくてよ。そちらの意向を図りかねていただけですわ」
  午後一番に訪ねてきたマキシム・ラスキンを迎えて、レッジーナはいつになく緊張していた。ラスキンはこの数年ヨーロッパやニューヨークの市場での投資で急激に頭角を現してきた成金の一人で、有力貴族を次々と投資に巻き込んでこの英国でも発言力を強めていると噂の人物だった。そのラスキンがこの数ヶ月、事あるごとにレッジーナに個人的な面会を求めてきていることに多少警戒していた。前公爵が亡くなって、未亡人になってからあらゆる紳士達にちやほやされることに慣れてはいるが、生まれも生い立ちもはっきりしないこの人物との関わりは、生まれつき高貴な血筋を引くレッジーナからすれば、最も避けなければならないことのひとつだった。
 この卑しい成金が求めているのは、高貴な血筋、もしくはその筋の人間への足掛かりか…。どちらにしても、何か意図があるのは明白だろう…。

「この英国でのビジネスが目的なら、相手に私を選ぶのは筋違いというものだわ。それとも他に目的がおありになって…?」
 あくまでも冷静を装ってレッジーナは、目の前にいる男の様子を観察した。。年は50半ばくらいか。体格も良く、恰幅の良い体型を上質な衣装でつくろっているが、白いものが混じったブルネットの頭頂部が少し薄くなっていて、眼光鋭い目元がどこか狡猾さを伺わせる。

「なかなか鋭いことをおっしゃいますな。もちろん、わたしはあなたの高貴な美しさの崇拝者でもありますが、今わたしはこの英国である事業での問題を抱えておりまして…是非ともあなたの協力が必要なのです。その事業の障壁となっているのが、他でもないあなたの息子さんなのでね…」
 そう言ってラスキンはニヤリと笑う。
「わたしに息子を裏切れとおっしゃっているの?」
「実の親子とはいえ、あなたと現シェフィールド公爵の間には他人以上の軋轢があるのは周知のこと。おまけに今のあなたは1万ポンドの負債があり、その支払いを公爵は拒んでいる。わたしなら、何の躊躇いもなくあなたを助けることが出来る。いい取引だと思いませんか?」
「それで…? 代償にあなたは何をお望み?」
「公爵の…ホークと呼ばれる男の弱点が知りたい…。めったに弱みを見せないあの男にも必ず弱みがあるはず…。身内のあなたなら御存知でしょう…?」
「わかりました。そういうことなら、詳しくお話をうかがいましょう…」
 レッジーナは素早く頭の中であれこれ考えながら、小さくうなずいた。アレックスはすでに真実を知っている。今のところ、姉のエレオノーラの行方はわからないが、ホークと呼ばれるアレックスならそのうち探し当てるだろう。そうなったら、今まで守ってきた秘密はすべては明らかにされ、自分の今の地位も危うくなる。何とかこの男の力を利用して何としても守らなければ…。
「もうひとつ条件があります。あなたの欲しい情報を渡すのと引き換えに探して欲しい人物がいるのです。おそらくアレックスも今頃はその人物の行方を探しているはず…。もしあなたがアレックスよりも先に見つけることが出来たなら…それだけであなたは彼に対して優位に立てるでしょう」
「その人物が彼にとっての最大の弱点だととってもよろしいのかな…?」
「ええ…間違いなく…」
「ハハ…不思議な人だ。あなたは…公爵未亡人。金のために実の息子を裏切ることになるとわかっていて、我々側に付くとそうおっしゃっていると理解してよいのかな…?」
 目の前の狡猾な男の顔がにやりと笑う。
「もちろんですわ。血の繋がった身内同士でも争うことは昔から多々あったこと。珍しくもない…」
「なるほど…。あなたの言うとおりだ。」
 男は再び声高に笑った。



午後の遅い時間になって、やっとアレックスはジャマールと一緒に戻ってきた。戻るなり書斎に籠って二人はあれこれと何やら話し合っている様子だった。
 アスカはリリアからアレックスが戻ってきた聞くと、居ても立っても居られなくなって自室を出てアレックスの書斎に向かった。
 書斎のデスクのイスに深く身体を沈めてアレックスは大きくため息をつく。
「ウィンスレット卿の書斎で何を見つけたんだ?」
 ロバートのタウンハウスを出てから明らかに様子の違うアレックスに、ジャマールは何かを感じて声を掛けた。
「ある意味…この問題の中核の全てだ…」
「どういうことだ? まるで謎賭けのようだが…?」
 アレックスは答える代わりに、手にしていた自分宛のロバートの手紙をジャマールに差し出した。ジャマールは素早く中身に目を通すと、再び丁寧に手紙を元に戻してアレックスのデスクに置いた。
「君の叔父上は全てを見通してこの手紙を書いたんだな? 君に娘を託すために…障害となる君の出生の秘密についても書かれている。君の本当の両親の結婚証明書まで揃っているとは驚きだ。」
「ロバートは直接真実を話そうと思えば出来たはずだ。それをしなかったのは姉であるエレオノーラへの配慮だったのか…? それとも…? ロバートの真意は解らないが…まるで最初からこうなることを何もかも解っていたようだ。その上で、もしレッジーナと敵対することがあるなら、レッジーナより先にエレオノーラを見つけて欲しいと書かれていた。そして本当の母親から全ての真実を聞けと書かれていたんだ。俺は長い間、誤解したまま、父親を遠ざけ…永遠に失った。今さら何を聞いても失った時間は戻らない…」
「珍しく後悔しているのか?」
「いや、後悔しているんじゃない、自分が今まで確信してきたものが、信じられなくなっただけだ」
「解らないでもないが…今は目の前にあるものだけ信じていけばいいんじゃないか? 君の叔父上は君を信頼して、最愛のものを君に託した。その真実だけで十分だとわたしは思うが…?」
「ハハ…お前の言うとおりだ。反論の余地もない。今さら何を聞いても変わるものは何も無い…」
「だが、その手紙はアスカにも見せるんだろう?」
「もちろんだ。もう隠し事はしないと約束している。それに直接アスカに残した手紙もあるんだ。ロバートの想いを伝えるのにこれほど確かなものはない。」
「そうだな…」
 そこで部屋のドアがノックされ、アスカがひとりで入ってきた。
「ごめんなさい、ミスターロレンスを呼んで、案内してもらうべきなんだろうけど、あなたが戻ってきたとリリアに聞いて、じっとしていられなかったの…」
 アスカはアレックスをじっと見つめながら、真っ直ぐ二人に向けて近づいてきた。
「もちろん、君ならいつでも遠慮は要らないよ。ボクはもう君に何も隠さないと約束している。それに…」
 アレックスはそう言いながらアスカの右手を取った。
「傷の具合はどうだ? ちゃんと手当ては出来ているね?」
 包帯の巻かれた右手を取って自分の手のひらで包むと、包帯の上からそっと指先で撫でる。
「夕べのようなむちゃは二度と止めて欲しいね。どんな形であれ、君を傷つけたくはなかった」
「ごめんなさい…驚かすつもりはなかったのよ。だってあなたが…」
 アレックスの頑なさがそうさせたのだと言おうとして、アスカは口を噤んだ。今さらそんなことを言って駄々をこねても仕方がない…。夕べのことがあって自分達はもう新たな関係を始めたばかりだ。

「さて、文句の言い合いはそれくらいにして、せっかく役者は揃ったんだ。これからの作戦を練っておきたいんだが…。」
 ジャマールはわざと呆れたようなそぶりをして二人の会話に割って入る。アスカはそこに居るジャマールの存在に気が付いて思わず赤くなった。
「いちゃつくのは結構だが、するべきことをしてからにしてもらいたいんだが…?」
 そう言いながらジャマールはアスカに片目を瞑ってみせる。普段は強面の異国の青年がふと見せる優しい表情にアスカは心が和んだ。
「馬鹿を言え、お前の前では間違ってもそれはない。」
 アレックスも愉快そうに笑っている。こんな風にこうして3人で会うのも久しぶりなら冗談が言えるほど和やかな雰囲気で居られるのは、案外初めてなのかもしれない。思わずアスカも笑みが漏れる。だがすぐさまその場を引き締めたのはジャマールだった。
 
「さて、冗談はこのくらいにして、どうするアレックス…?。女王との謁見が終わって、ロンドンに居る貴族連中は皆君達に注目している。毎日山のような招待状が届いているんだろう?」
「ああ、うんざりするほど。毎日それなりの理由をつけて断りの手紙をロレンスに出させているが、いい加減さばききれなくて、今頃はロレンスの頭を悩ませていることだろう」
「どうするの? いつまでも断り続けていてはまずいのではなくて?」
 「まあな…女王と約束した以上は何らかのモーションを見せておかないといけないだろうが、今さら変わり者の放蕩貴族がすんなり言うことを聞くなんて誰も思っちゃいないさ。みんな面白がっているだけだ」
 アレックスはそう言って笑うが、アスカはあの日アレックスから聞かされた衝撃的な事実を思い出して、胸に苦い思いが過ぎる。アスカは半年以内に結婚相手を選ばなければならないのだ。

「必ず、半年以内にエレオノーラを見つける。もう捜索の手はヨーロッパ各国に回してあるんだろう?」
 アレックスも真顔に戻ってジャマールを振り返る。
「ああ、今頃はそれぞれの方面に手配した連中が向かっていることだろう。数週間のうちにそれなりの答えを持って帰ってくる。何があってもレッジーナよりも先に見つけるんだろう?」
「もちろん…」
 ジャマールの問いかけにアレックスの表情が強ばるのを見て、アスカは不安になる。

「待って、アレックス。エレオノーラというあなたの本当のお母さんは公爵未亡人の実のお姉さんなのでしょう? いくら問題があるとはいえ、何か危害が加えられるなんていうことがあるの?」
「レッジーナは自分の立場を守るためなら何でもする。今頃は良からぬ連中と組んであれこれとんでもない計画をたてているに違いない。現に夕べ君にだって平気で脅し文句を吐いて来ただろう。そういう女だ」
 吐き捨てるように言ったあとで、アレックスはひとつ息を吐いて表情を緩めると、アスカを振り返って言った。

「本当ならすぐ君を父上のタウンハウスに案内したいところだが、今は整備のために閉めている。その代わりに疲れていなければ、今日の午後にも直接地所のある領地に赴いて…ウィンスレット家の屋敷を訊ねたいと思う…。鉄道を利用すれば、夕方には隣の州の・・・・・辺りまでは行けるだろう。一晩宿を取って、次の日に馬車で屋敷に向かう…」
「ええ、大丈夫よ。是非行ってみたいわ…」
  アスカもすぐ即答した。今はもう直接会うことは叶わないが、領地のカントリーハウスならきっと代々の領主の肖像画があるはずで、そこへ行けば本当の父に会えるはずだった。

「今朝、ロンドンのタウンハウスで、我々はロバートの手紙を発見したんだ…。それはロバートの書斎のデスクの奥に…隠されていた。幸いモルウェルに荒らされることもなく、それはまるでボクや君に見つけてくれと言わんばかりだった…」
アレックスはそう言いながら…自分の上着の内ポケットから1通の封筒を取り出して、アスカに差し出した。

「……?」
 アスカは不思議に思いながらも黙って受け取ると、もう一度ソファーに座りなおして…手紙を恐る恐る封筒から取り出して読み始める。初めは戸惑っていたアスカの表情が、徐々に驚きに…。そしてやがて肩を震わせながら小さな嗚咽を漏らし始めた。
「アレックス…父は…」
「ああ…。不思議な人だ…。総てを見越してこんなことが出来るなんて…。」
 アレックスもそう言って頷いた。ロバートの手紙にはこう書かれていた…。

 遠い地に暮らすまだ見ぬ娘よ…。まずは君に詫びなければならない…。
私は21年前、初めて日本の地を踏んで…そこでお母さんと出会い、恋をした。君のお母さんは、生まれて初めて誰かのために生きたいと感じさせてくれる人だった。同じ未来を夢見て、誓いを立てたのに…私は君のお母さんも…生まれてきた君も守ることが出来なかった。
 すべてを投げ出して、どれほど君たちのもとへ行こうと思ったことか…。今となってはすべて後悔でしかないが…。
私も年を取り…やがては天に召されて…そこでまたお母さんには会えるだろう…。ナツコは私を許してくれるだろうか? 
 心残りは、せめて生きているうちに君に会いたかったが…病を得た今ではそれも叶わない…。おそらく私の命はもってあと数ヶ月…。すべては姉エレオノーラの息子であるアレックスに託すことにする。父親の誠実さと母親の勇気と高潔な魂を受け継いだ、愛すべき若者だ。きっと君の力になり、君を幸せにしてくれることだろう…。

 愛すべき娘よ…。私は心から君のお母さんと…君を愛している。いつか君が私のことを尋ねてきて…この手紙が君の手に渡ることを心から願っている。

                            ロバート・ウィンスレット 


                   
 手紙を読み終えたアスカは、無言で…声を押し殺して泣いていた。閉じたまぶたからはあとからあとから涙が溢れて…頬を濡らした。アレックスはその隣で優しくアスカを自分の胸に抱き寄せると彼女の感情が落ち着くのをじっと待った。

「ロバートは、ボク宛にも手紙を残している。ボクの手で君を探し出して…ボクの庇護の下で幸せにしてやって欲しいと書かれていた。もちろん、ロバートの頼みならたとえ君に恋愛感情を持っていなかったとしても、ボクは迷わずそうしただろう。でも運命とは面白い…。ボクたちはお互いの出自をそうとは知らず、出会ってしまった。奇しくも…だ。そして…それまで誰かに心奪われることなど一度もなかったボクの…心の最奥を君はがっちりと捕まえて離さない。ロバートはさすがにここまでは予想していなかったと思うが…。」
「アレックス…でも私とあなたは…」
「結婚できないと言いたいんだろう…? 英国貴族の決まりごとの中ではそうだ。だがロバート…君の父上は、ボクの母親がレッジーナではなく、エレオノーラであることを、残した手紙の中で告白したんだ。それも証拠まで付けて…。驚くべき策士だと思わないか…?」
「アレックス…じゃあ…?」
 泣いていたアスカの目が輝く。
「喜ぶのはまだ早い。レッジーナより先にエレオノーラを見つけなければ…。せっかくの証拠も弱くなる…。今持てる最大限のネットワークを利用して探しているところだ。そうだな? ジャマール…。」
「ああ…早ければ来週には報告が来る。でもそれまでは、まず今我々に出来ることはその件に関しては何もない…。」
「そうなの…? ではまず、出来ることをやりましょう…」
そっと涙を拭うとアスカは、顔を上げて微笑んだ。





   


それから数時間後、アレックスとアスカはロンドン市内の一角にある南部への鉄道の発着点となっているターミナルのホームに立っていた。

「本当に君の発想には驚かされるばかりだな。どこからそんな考えが出てきたんだい?」
世話役として同行しているブレンを後ろに従えて…アレックスは呆れたような表情をして、傍らに立つアスカを見下ろした。
「あら…? 気に入らない…? この方が目立たないし…あなたと私が一緒に動くとなると目ざとい人たちに見つかれば、また面倒なことになるでしょう? それに私もこの方が楽でいいわ…」
 そう言ってアスカは悪戯っぽく笑ってアレックスを振り返る。今日のアスカはドレスを脱ぎ捨てて、若者に流行のブレザースタイルだ。帽子を深めに被って黒髪はひとつに束ねてジャケットの中に押し込んでいる。一見10代半ばの少年にしか見えない風貌だが、もしこれが変装だとばれた時には、社交界での評判は大変なことになる。アレックスは半ば呆れながら、数時間前タウンハウスを出るときの一騒ぎを思い出していた。

「アスカさま、本当にこんなことで大丈夫なのでしょうか…?」
そう言って不安そうに言うのは、アスカの身代わりに、華やかな旅行用のドレスに身を包んだリリアだった。列車で移動するアスカのカムフラージュのために、リリアがジャマールと一緒にクレファード家の馬車で移動することになっていた。
おそらく敵はアレックスたちの一挙手一頭足を見張っているに違いないのだ。相手の目を逸らすのも必要だというのはジャマールの意見だ。
「なるほど、それはわかったが、何でここにコンウェイ、おまえがいるんだ?」
 マレー号の強面の船長が狭い御者台にいるのを見て、アレックスは笑う。ちょっと前から、このマッチョで恐ろしげな人相の大男がリリアに気が有ることは気が付いていたが…。この組み合わせには少し笑える…。

「いやあ、ボス。ちょうど暇だったんで、ボディーガードとして名乗りをあげたんですよ。ちょうど今、マレー号もブリストルにいるんで、そこまでお供しようと思いまして…」
 コンウェイは柄にもなく照れながら罰悪そうにしている。

「まあ、別にあなたに守ってもらわなくても、立派に代役は務められますから御心配なく、いつでも降りていただいても結構よ…!」
その態度が気に障ったのか、リリアはぷりぷりしてひとりでさっさと馬車に乗り込んでしまう。案外彼女もまんざらではないのかも知れない…。

 

先に馬車の一行を送り出してから、アスカと目立たない馬車に乗り込んで、アレックスはロンドンの市街地の南側に位置するこのターミナルまでやってきたのだった。
 背の高いアレックスからすると、アスカは小柄の従者か舎弟風に見えることだろう。一部の隙もないアレックスのいでたちは貴族然としていて、どこにいても目立つ。こうして同じような男装をすれば、圧倒的なオーラを放つアレックスの陰でアスカのことを気に留める人はいないとアスカは思っていた。

「あなたは気に入ってくれると思ったのに…。残念だわ…」
「ばかな…。気に入るも何も少し戸惑っているだけだ。君が常識にとらわれないレディーだということは前から知っているが、僕の想像を遥かに超えているよ…」

 一等客車の、仕切られた一両丸々個室になっている豪華な室内のソファーに落ち着くと、アレックスはあらためて、アスカの全身を見回して言った。
「そう…? アリゾナの牧場では、いつもカウボーイスタイルだったわ。」
 アスカは楽しそうに笑いながら、初めて乗る英国の豪華な客車の内装を一つ一つ手で触りながら愉しんでいた。
「アメリカの片田舎ならそれも通じるが、ここは伝統や格式を重んじる世界だ。二人だけのこの空間ならまだいいが、外では出来るだけ大人しくしていた方がいい…。特に君のその瞳は目立ちすぎる…。」 
 アレックスはアスカの被っている帽子を取ってこぼれ落ちた前髪を撫でるふりをして、片手をその頬に添えると…そのまま軽く唇をつけた。アスカも二人きりで居られることが嬉しくて、無意識に両手をアレックスのジャケットの内側に入れて身体をぴったりと寄せると…徐々にそのキスを深めていく。

 すると…控えめなノックがあって、大きなトランクを抱えた従者のブレンが入ってきた。
慌てて二人は離れたが、主人の事情を良くわかっているブレンは気にもせずに荷物を所定の位置に置くと、何もなかったように出て行く…。
「やれ、やれ、ボクも気をつけよう…。今の君も十分魅力的だが、うっかりうかつな行動に出て…誰かに見られたら、あとあと面倒になるな…。」
 わざとからかうような眼差しでアスカを見下ろして、窓に掛かっているカーテンを開けた。 

エレオノーラの真実…蘇る悪夢

 アイルランド島の南の小さな港町の古びた教会…。
教会の裏手にある小さなレンガ造りの建物の前で、置かれた古いベンチに腰掛けて…古びた法衣に身を包んだひとりの女性が、10歳前後の少女が読む何かにじっと耳を傾けていた。  少女は読み終わるとそれを彼女の手に渡して、女性は微笑みながら大切そうに1冊のスクラップブックの中に綴じた。

「ありがとう…アニー。」
そう言って嬉しそうに微笑む女性は、顔を上げて目の前の少女を見つめた。だがその視線は少女を捉えておらず、美しい碧い瞳には虚ろな光が浮かんでいる。
「いいえ、シスター…。でも、どうしてもここを離れてまた別の場所に移らなければならないのですか? せっかく村の人たちとも仲良くなれたというのに残念です」
「そうね…。ごめんなさいね。アニー、ここに来て3年、やっとあなたも村の学校に通えるようになったというのに…」 
「いえ、いいんです。シスターと一緒に居られるのなら…私はどこに行っても幸せですから…」
少女はそう言って笑いながら、婦人の細い手を取って彼女が立ち上がるのを手伝った。シスターと呼ばれた女性の目は光を捉えておらず、視力に問題があるのは明らかだった。

やがて二人の前に一台の馬車が止まり、御者が下りてきて二人の荷物を積み込むと、最後に女性と少女が乗り込むのを手伝った。ドアを閉めようとした時、急に一陣のつむじ風がどこからともなく吹いてきて…女性の頭部を覆っていた法衣のフード部分がめくりあがって、法衣の下に隠されていた美しい淡い色のブロンドが現れた。

「シスター・エレン、お送りするのは本当にコークの港までで良いんですか?」
男はドアを閉めると、美しいシスターに向けて問い掛けた。
「ええ…。船に乗ってイングランドに渡ったら、あとは鉄道に乗りますから…」
「そうですか…? 5年前に教会の牧師様が亡くなって、やっとあなたがおいでになったことで…みんなの心の拠り所が出来たと喜んでいたのに残念ですよ。こんなに早く引っ越して行かれるのは、先月町にやってきたおかしな連中のせいではないですか?」
 男はさらに問いかけたが、彼女は微笑むだけでそれ以上は答えなかった。
男が言っているのは、つい1週間前にこの平和な港町には不釣合いな連中が町に現れて、3年前から古びた教会に住んでいるこの婦人のことをいろいろ聞きまわっていたと言うのだ。
 やがて男はふたたび御者台に乗り込むと、2頭立ての質素な馬車を走らせて…教会のある小高い丘から、町のある方角へと少し雨でぬかるんだ道を進んでいった。

動く馬車の窓から、見えない目で移り行く景色を眺めながら、シスター・エレンと呼ばれた女性は傍らにぴったりと寄り添うアニーーを片手で抱き寄せた。

 いつからこういう生活を続けてきたのだろう…。愛する者たちから身を引くことが自分にとって一番正しいことだと信じて…これまで生きてきたけれど、今ではそれも危うくなって来ている…。
 心から愛した人も…心の拠り所となっていた信頼していた身内も今は無く…唯一残されているのは、自分の命よりも大切な愛する息子…。でもそれも自ら身を引いたことで27年前に別れたきり…2度と会うことは叶わなくなってしまった。遠くから見守るだけで良いと自分に言い聞かせてきたけれど…。
 彼女は両手に大事そうに抱えているスクラップブックを持つ手にそっと力を込めた。



 ロンドンを経っておおよそ5時間以上をかけて、アレックスたちを乗せた列車は西部の主要な交流の拠点になっているブリストルの旅客ターミナルに到着する。おおむね快適な行程だったが、途中食事のために移動した食堂車で遭遇した昔なじみの顧客たちは、普段あまり列車を利用しない彼が、珍しく同行している少年姿のアスカに興味津々で、好奇の眼差しで見つめてくる。その彼らに、もっともらしい説明をするのにアレックスはひどく苦労した。
 アスカも遠慮がちに丁寧に挨拶したが、アレックスが遠縁の少年で長年の寄宿舎生活で、こんな遠出には慣れていないのだと説明すると…アスカは、わざと伏し目がちに言葉少なく、はにかみ屋の少年を演じることに徹していた。

 ジャマールとの待ち合わせ場所になっているブリストルでも1・2といわれる高級ホテルのスウィートに落ち着く頃には、二人ともすっかり疲れ果てていた。建前上、同行者のアスカには別の部屋が用意してあるが、実際には馬車で到着するリリアがその部屋を利用することになっていた。
「ジャマールたちはいつ到着するの?」
「ン…途中、馬を休めさせなければならないから、あと数時間は掛かる。おそらく到着は夜になるだろう…。」
 部屋に着くなり、アレックスは窮屈な襟元のタイを外して近くのソファーに放り投げると、ジャケットも脱いでその上に掛ける。アスカも帽子を取って、窮屈なジャケットの襟元から長い黒髪を解放すると、ホッとしたように自分の脱いだジャケットをアレックスの隣に畳んでおいた。

「おいで…。」
 その様子を横目で見ながらアレックスは、スィートルームの中央にあるキングサイズのベッドに腰掛けてアスカを手招きする。
「アレックス…」
 自分を熱っぽく見つめる碧い瞳に…アスカは自然と身体の中心が熱くなってくる…。昨日の夜まで、あれほど求めてやまなかったアレックスの情熱が今はすぐ手の届くところにあるのだ。
“信じられないわ…。”
 アスカはアレックスの目をまっすぐ見つめ、微笑みながらゆっくり近づいた。そして…彼の両肩に手を置くと、アレックスはアスカを自分の膝の上に抱き上げる。
 人差し指でアスカの唇を軽く撫でたあと、首に結ばれた細いリボンタイを引き抜いて…床に落とす。そして片手で彼女のウエストを支えながら…もう一方の手でシャツのボタンをひとつ、ひとつ外していく。

 開いたシャツの首の付け根辺りにアレックスの唇が押し当てられると…アスカの唇から声にならないため息が漏れる。
「こんな姿の君にも…最高にそそられるが…まるで何かいけないことをしている気分になるな…」
 そう言うアレックスの声も、低くかすれていた…。

けっきょく、ジャマールたち馬車の一行がホテルに到着したのは、午後8時を大きく回った頃だった。リリアはくたびれ果てた様子で、部屋で待っていたアスカの顔を見るなり、もうあの大男と旅をするのは2度と御免です…! そう言ってベッドに座り込んだ。
かといってすっかり参っているのかと思えば、少し上気して興奮した様子で…同行したコンウェイがやれガサツだの気が利かないと愚痴っている。ようするにリリアは、コンウェイがブリストルに到着するなり、自分に何の挨拶もなく消えてしまったことが気に入らないのだ。
アスカはそれが可笑しくて…笑いを堪えながら、しばらくリリアの愚痴をたっぷり聞いたあと自分の部屋に戻ると、ジャマールとアレックスが何やら真剣な表情で話していた。

「リリアはずいぶんご機嫌斜めだったようだが、、大丈夫かい…?」
アスカの姿を見た瞬間、アレックスはすぐさま表情を変えた。
「大丈夫よ、それより何かあったの…?」
二人の側に腰を下ろしてアスカは、厳しい表情を崩さないジャマールを見つめる。

「さっき港である噂を耳にしたんだ。国内の港にはたいてい我々の配下を忍ばせている。その仲間からあんまり嬉しくない話が届いたんでね…。」
「嬉しくない話…?」
少し勿体つけた言い回しにアスカはアレックスに説明を求めた。
「日本で…黒柳と対峙していた時、奴の配下にウェイ・リーという香港から来た殺し屋がいたんだが…」
 アスカはその名前を聞いた途端に背筋に冷たいものが走るのを感じた。その男はアレックスを狙撃して、一度は死の淵まで追い詰めた相手だ。おまけに黒柳の館で、まだアスカが意識を保っていた頃、黒柳の後ろで…不気味な笑みを浮かべていた蒼白い頬の男の…片方の頬に大きな刀傷があったのをなんとなく覚えている。

「その男がまさか…」
 心なしか声が震えるのを自分でも感じた。
「ああ…よく似た男が数週間前に港に現れたそうだ。英国にも東洋人は何人もいるが、あれほど危険なオーラをまとった男は二人といないだろう…。」
「死んだのではなかったの…?」
「屋敷の暗い迷路の中でやりあった後、岸壁まで追いつめて…海に落ちたまでは確認したが、そのあとは見ていないからな…。奴が生きていたなら、ここに現れたということは…その目的ははっきりしている。」
 表情ひとつ変えないで、ジャマールは淡々と答える。アスカは無意識に自分がアレックスの腕をしっかりと掴んでいることに気が付いた。アレックスはそっとその手に自分の手を重ねる。
「心配しないで…。そう何回も同じ相手にやられたりはしない。おそらく奴は殺し屋としてのプライドのためにここまで追って来たに違いない。多少面倒なことになるには違いないが、今の奴が誰と組んでいるかが気になる、それについて何かわかっていることは無いか?」
「ロンドンのイースト・エンドの安酒場で、モルウェルらしき人物と会っていることが確認されている。その先はわからないが…。我々のわからないところで何かが動いていることは確かだ。どうする? アレックス…? 戦いは陸に移っている。海に配備している連中の中から猛者たちを呼び集めるか…?」
「そうだな…。だがあくまでも極秘裏に行わなければならない。レッジーナたちに気づかれない様にやらなければ…」
「わかった。そういうことならば、さっそく動こう。さて、アスカ、その格好での旅は快適だったのかな? 」
 そこでやっとジャマールは表情を崩してアスカを振り返った。ホテルに入ってもアスカはドレスではなく、スラックスにブーツ姿だが、髪だけは緩やかに垂らしていた。
「さっき、下のレストランで知り合いの男爵一家と一緒になった時、連れていた10代の娘達がみなアスカを見ていたな…?」
 アスカの代わりにアレックスが答えた。
「あら、あれはあなたの方を見ていたのよ?」
  アスカはそう言って悪戯っぽく笑って見せるが、心の中ではウェイという殺し屋のことが気になって仕方なかった。
“またあの時と同じことが起こったら…?”

 不安な想いが顔に表れているのだろう…。アレックスはわざと明るい声を出して笑う。
「起こりもしていないことを心配しても仕方ない。今は目の前のことに集中しよう。明日どうする? とりあえずはクレファードの屋敷に落ち着いて、それから向かうとして…。移動手段をどうするかだな…?」
「今回の訪問はあくまでも極秘なのだから、目立たないほうがいい…。それにウェイが来ているのならなおさらだ。予定を変更して、誰かに馬車は運ばせて、我々はマレー号で向かうのが一番だと思うが…?」
「そうだな…。それが一番安全だろう…」



 
ホテルで一晩過ごしたあとで、一行は港に停泊しているマレー号に移動して、アレックスの故郷に向かうことになった。
見慣れたマレー号の船内もクルーの顔ぶれもアスカには妙に懐かしく安心できた。最初、少し不機嫌そうだったリリアも、船内に移動してそれぞれの居室に落ち着く頃にはすっかりいつもの明るいおしゃべりなリリアに戻っていた。
 もちろん、アレックスとの関係も元に戻ったアスカは、広いメインキャビンに荷物を運び込んだ。

「良かったです。アスカさま。また旦那さまとご一緒で…。」
 リリアは嬉しそうに弾んだ声でアスカの着替えのドレスをキャビンに設えられたクローゼットの中に次々と入れていく。仕切られた片側には紳士用の高価なスーツ類がずらりと並んでいる。
「ありがとう…リリア、いろいろと心配してくれて…。私たちはもう大丈夫よ。それよりあなた達はどうなの?」
「はい…? 」
 リリアは不思議そうな顔をして振り返ったが、すぐに何か思い当たったのか…真っ赤になって恥ずかしそうにうつむく。
「まあ、御存知だったんですね?」
「ええ、たぶん…アレックスも気が付いているわ。最初はびっくりしていたけど…」
「まあ、まあ、どうしましょう…?」
 リリアは青くなったり、赤くなったりして、動揺を隠し切れない様子だったが、アスカに慰められて落ち着くと、嬉しそうに帰っていった。

 そしてまたひとりになると、アスカは不意に不安がまた首をもちあげてくる。
あの時はアスカ自身がアレックスを危険にさらしてしまったことを思うと…今でも心は痛んでくる。でも今回はあの時とは違う…。今度は一緒に闘うのだ。
そう言い聞かせて自分の心を奮い立たせた。

 
 

「アスカの状態はどうだ…? ウェイのことをずいぶん気にしていたが…」
マレー号の操舵室でジャマールが側で地図にじっと見入っているアレックスに問いかけた。
「ああ…。あの時はアスカの目の前で撃たれたからな…。衝撃は大きかっただろう。だが、同じ失敗はしないさ、それに今は同じ方向を向いて一緒に闘っている…。」
「そうだな、だが油断はするな。あの男の殺し屋としての腕は一流だ。最後に闘った時、奴の片腕の神経を絶ったから、たぶん片腕は使えないはずだが…それでも奴なら変わらず挑んでくるはずだ。」
「ああ…前以上に警戒しなければならないな…」
二人は顔を見合わせながら、互いの中にある決意を感じていた。

絡みつく陰謀の罠

 その日の内に船はデヴォン沖に到着し、そこから近くの港に小船でつけると、馬車を手配して馬車と馬を連ねてクレファード家のカントリーハウスに向かった。
ハディントン・コートは、広い農耕地帯の真ん中を流れる川を挟んで右側…(左側はアスカの父親であるリンフォード伯爵家の領地である) 広い麦畑が連なる耕作地を抜けて少し小高い丘陵地を望む林や森を抜けた位置に建っていた。周りには小さな町がいくつか立ち並んでいて、すでに収穫期は終わっていて…季節はすでに冬を迎えようとしていた。人影も少なくひっそりとして…とても活気があるとは思えなかったが、時々街角で足を止めた人々がクレファード家のマナーハウスに向かう馬車の一行を驚いたように眺めていた。


林の中の一本道を馬車は静かに進んで行く…。右手に森を見ながら大きく回ったところで、明るいグレーの外壁と濃い色の屋根、大きく両翼に張り出した3階建ての立派な建物が見えてきた。
「あそこがハディントン・コート…ボクが生まれた家だ…」
馬車の窓から外を見上げながら、アレックスがぽつりと言った。その表情には何の抑揚も感じられなかったが、29年間ずっと信じてきた自分の世界が、この数週間ですべてひっくり返ったのだ。言葉には出さなくても、彼の混乱は理解できる。アスカは黙ってアレックスの腕に置いた手の指先にそっと力を込めた…。
やがて馬車は建物の前に広がる庭園の回廊のような通路を進んでいく。建物の正面玄関にある屋根付きの車寄せに馬車が到着すると、待ち構えていた屋敷の使用人たちが一列に並んで主人が下りて来るのを待っていた。最初に若いフットマンが二人、駆け寄ってきて馬車のドアを開けると、ゆっくりとまずアレックスが降りて、次にアスカがポーチに降り立つのを手伝った。

「お帰りなさいませ、旦那さま…」
 第一家令の…ロレンスがロンドンのタウンハウスにいる間、留守を守るロイスが進み出て挨拶すると、残る使用人達も次々と挨拶する。
「お客様だ、ロイス。リンフォード伯爵令嬢のアスカだ。アスカ・フローレンス・メルビル・ウィンスレット嬢だ。」
「ようこそ…伯爵令嬢、家令のロイスです。何なりと御用をお申し付けください。」
「ありがとう…。ロイス」
 英国貴族の屋敷で働く人々の多様さとその人数の多さは、アレックスのタウンハウスで経験済みだが、ここではさらに規模の大きさを感じる。家令と執事を兼ねるロイスは、ロレンス同様品格のある50絡みの紳士で、きっちりとしたお仕着せに身を包んで、丁寧にお辞儀をすると、すぐさま後ろに控えている女性客のための2人のレディーズメイド(女性の個人付きメイド)を紹介した。リリアは日本ではアスカのレディーズメイドだったが、今ではシャペロン(付き添いのレディ)に昇格している。リリアにもメイドがひとり付く事に最初は少し戸惑っていたが、今では当たり前に受け入れられるようになっていた。

アレックスの生家である“ハディントン・コート”は広いばかりではなく、一部の無駄も無く管理されているように感じた。使用人はみなきびきびと動いて、タウンハウス同様無駄なおしゃべりをしているものは誰もいなかった。アレックスは7年近くこの屋敷には戻っていないと聞いていたのに…アスカは少し驚いた。

その日の晩餐の席で、不思議に思ったアスカはアレックスに聞いてみた。
「本当にあなたはここに何年も帰ってなかったの?」
「ああ…5歳から12歳までの9年間はほとんどロバートの屋敷で過ごしたし、ロンドンのイートン校(貴族の子弟が学ぶ全寮制の学校)に入る前の数ヶ月間戻ったくらいで、大した思い出はないかな…。7年前に父親が亡くなって、相続のために数ヶ月戻ってきて以来だ。正直言ってあまりここにはいい思い出は無い…。」
 何の表情も浮かべずにアレックスはさらりと答える。そうだろう。
アスカの生まれた日本や、育ったアメリカにはない伝統や格式が重んじられる英国では、家族の関係よりは家柄や、相続が圧倒的にものをいう世界なのだ。

「どうした…? 何か気になることでも…?」
「いいえ、それだけ長い間、領主であるあなたが不在でも、このお屋敷はとても規律正しくく保たれている気がしたから…」

「ああ…。今はロンドンにいるロレンスでもこのロイスにしても、代々このクレファード家に勤める家令の家柄なんだ。彼らはいちいち主人が指示しなくても、このただっ広い屋敷をどう運営すればいいかを心得ている。放蕩な主がどこで何をしようが、彼らには全く関係が無いのさ…」
アレックスはそう言って笑った。皮肉で言ったのには違いないけれど…何か寂しさも感じる。アレックスが実の母親であるエレオノーラというその人と、当たり前の関係で育ったのなら、今と違う人生を歩んでいたのだろうか…?
アスカはアレックスの複雑な生い立ちを思って、思わず心が熱くなった。

「どうした…? 英国貴族の生活があまりにばかばかしくて嫌になったのかい…?」
しばらく黙り込むアスカを見て、アレックスは言った。
「いいえ、有り得ないと思うことは多いけれど…少なくともあなたの周りの方々はまともそうだから、安心しているわ…」
「それは良かった…」
 それを聞いてアレックスはまた機嫌よく笑った。

そこでアスカは、この場にジャマールもリリアも居ないことに気が付いた。
「ジャマールたちは一緒じゃないの?」
「ジャマールはもともと、英国のこういうスタイルのディナーは嫌いなんだ。誰かに給仕されての食事では食べた気がしないってね…。」
「まあ、そうなの…。でもジャマールらしいわね」
「ああ…。それにリリアは少し前に昔の知り合いを尋ねたいからといって出かけて行った。護衛にはコンウェイを付けている。」
そう言ってアレックスは片目をつぶる。
「まあ…?」
それを聞いてアスカも笑った。つまりはそういうことだ。アレックスはリリアとコンウェイが二人きりになれるよう配慮をしたのだ。緊張した時間の中でもこういう話は嬉しかった。今まで苦労してきたリリアにも、アスカは幸せになって欲しかった。

アスカにはジャマールが居ないわけを単なる習慣の違いだと説明したが、実際にはジャマールはひとり先行してロバートの領地にある炭鉱を探りに行っていた。その鉱山からブリストル港は近い。そこには石炭を運ぶための専用の線路も敷かれていて、経済的な活動も活発だった。
アレックスもジャマールもモルウエルの後ろにはラスキンがいると思っている。ウィンスレット家の財産を狙ったことも、元は小悪党のモルウェル一人で出来ることではない。ウェイ・リーがモルウェルと一緒にいたということは、ラスキンとも繋がっているということだ。
おまけにロンドンを発つ前にある筋から連絡があって、レッジーナの1万ポンドの借金が支払われたという知らせが届いた。この英国の中でそれだけの金額を短時間で動かせる者は限られている。もちろんアレックスと…闇の金融王ラスキンだ。ということはレッジーナもラスキン側にいるということになる。

「アレックス…?」
 しばらく考え込んでいたらしい。アスカがこちらをじっと見つめている。
「ああ…すまない。寝不足からかな…。ついボーっとしてしまった。」
「そう…? 何か心配事があるのではないの…?」
  もう隠し事はしないとアスカには約束している。一緒に過ごすようになった今では些細な表情の変化でも、アスカには敏感にわかってしまうらしい。

「わかった。今わかっていることをあとで話そう…。ただし、みなが寝静まったあとで…」
 そうアレックスが耳元でささやけば、アスカの頬が赤く染まった。





ハディントン・コートのゲストルームは2階の西翼の一番奥にあって、浴室と更衣室が続き部屋として作られている。中央は吹き抜けになっていて、回り階段で1階のポーチとつながっている。主人の寝室はその回廊を挟んで反対側にあって、さらにその続き部屋として更衣室・浴室があり、内扉を使って女主人の寝室ともつながっている。

 今回アレックスは、ゲストルームにリリアを入れて、アスカには空いている女主人の寝室を割り当てていた。もちろん他の部屋が空いていなかったわけじゃない。ロンドンのタウンハウスでは、たとえ自分の使用人でさえ、古参以外は信用しないようにしていた。悪意があるわけではないが、彼らの噂話は時に主人の評判を地に落とすこともある。
 ホークの評判はとっくに地に落ちているが、アスカの評判まで落とすわけにはいかない。だがここはロンドンからは遠く離れた田舎で、ある意味自分のホームだ。表向きアスカとアレックスは身内同士で、たとえ続き部屋を使ったとしてもそれほど影響は無いと思っている。

ハディントン・コートのメイドの手を借りてドレスからナイトガウンに着替えて、若いメイドにもう下がっていいと伝えると…少女は丁寧にお辞儀をして下がっていった。
リリアはせっかくの時間を楽しく過ごしているだろうか…? アスカはソワソワしながらアレックスがやってくるのを待った。  


ベッドに入る準備を済ませたあとで、アレックスは唯一この屋敷の中で改装していない書斎を訪ねた。この部屋の壁のカーテンに仕切られた奥に、亡くなった父親の肖像画があったのを思い出したからだ。
記憶を辿ってこれと思うカーテンの引き綱を引くと…そこには見たことも無い風景画が掛けられていた。
「……!?」
あてが外れてアレックスは思わず低く唸った。10年前、父親が亡くなって相続のためひさしぶりに戻ってきた時、屋敷のギャラリーに飾られていた歴代の公爵家の先祖達の肖像画をすべて他の名画に変えさせたのはアレックス自身だった。せめてこの場所くらいはと思って残しておいたと思っていたが、記憶違いだったのだろうか…?

 そこでアレックスは就寝前の屋敷内をチェックして回っていたロイスを呼び出した。
「御呼びでしょうか? 旦那さま…」
 ロイスは明かりの消えた廊下をオイルランプ片手にやってきた。
「すまない、ロイス。こんな夜中に呼び出すつもりはなかったんだが…。確か10年前の記憶だとここに父の肖像画があったはずなんだが…?」
「はい、実は公爵未亡人の指示で数年前に掛け替えました。前公爵の肖像画は先代の方々のものと同様に、3階の屋根裏の倉庫に保管してあります。」
「なら、明日すぐに元通りにしてくれ、ギャラリーのものもだ。」
「わかりました。明日になりましたら、早々に手配します」
「ああ…頼む」
 ロイスは、軽く頭を下げてそのまま出て行った。

 アレックスはひとりになると、綺麗に片付けられている書斎のデスクに腰を下ろした。記憶の中の父親はいつも遠くを見るような目をしていて…高貴な身分でありながら、社交の付き合いよりもひっそりと自分ひとりきりの時間を好んだ…。
 レッジーナがどれほど派手に遊んで浮名を流そうが、あちこちから高額の請求書が届こうが、まったく意に介さない様子で、趣味の絵画に没頭していた。
 アレックス自身、父親と一緒に過ごした記憶はまったくない。彼がロバートの屋敷で過ごしていた頃、父はウェールズの西にある片田舎の小さな別荘で終世…絵を描いて過ごしていた。アスカに実の父親であるロバートの生涯を辿るための旅だったが…思わず自身のことにも向き合うことになって、アレックスはひどく困惑していた。

アレックスはとりあえず、クレファード家のホームの屋敷が何の支障も無く維持されているのに満足していた。第一家令のロレンスは今ロンドンのタウンハウスに居るが、留守を守るロイスもロレンス同様、古くからの古参の使用人だった。彼らに聞けば、父親に関しては一定の情報は得られるかも知れないが…今さらそんなことは出来ない…。エレオノーラが見つかれば、自然と答えは出るだろうが…。
大きくため息をついて、アレックスは立ち上がった。

今はアスカが待っている…。自分のことより、アスカのことを優先しなければならない。彼女の問題を解決することが、すべての問題を解決する糸口に見えた。





2日間、ハディントン・コートで過ごした後、アレックスはアスカを伴っていよいよロバートの領地である、リンフォード地方にあるマナーハウス…“アシュトン・コート”に向かった。
二つの領地の間を流れる河に掛かる橋を馬車で渡ると…田園風景の広がる景色の真ん中を突っ切って走る道を真っ直ぐ進んでいく…。
豪華なクレファード家の紋章の入った馬車の中で、アスカは緊張に息が詰まりそうだった。
“いよいよ、父の屋敷に行くのね…。子どもの頃からずっと思い描いていた所…でも…? ”

「大丈夫かい…?」
 少し青ざめたアスカの頬をそっと指先で撫でて、アレックスはその顔を覗き込む。
「ええ…いざとなったら、少し臆病になってしまって…。」
「そうだろう…。それはしごく当たり前のことだ…。だが安心して…。アシュトンの家令をはじめロバートを知る者たちはみな、君のことを歓迎している。彼らはロバートの直系以外の相続人を望んではいないんだ。アシュトン・コートの人々はみな君の味方だ…。」
「ありがとう、アレックス…。」

 アスカは何よりも隣に寄り添ってくれている男性の存在がうれしかった。アレックスが居てくれるなら、きっと何もかも上手くいくだろう…。あのロンドンに向かう船の中で、ロニー・ウォルターの言葉を信じて、アレックスを信じられずに激しい言葉で詰め寄ったことを思い出して思わず苦笑いした。
 “父のことを自分の目で確かめたら…今度は私がアレックスのために何かをする番だ…。”


 ふと馬車の窓から見上げると、目の前に広がるブナ林の木立の間から…オレンジ色の屋根の一部が見えてきた…。





ロンドンの5番街にある高級ホテルのある1室で、マキシム・ラスキンはある男の訪問を受けていた。頬に大きな傷のあるその男の放つ危険なオーラを感じながら、ラスキンは流暢な英語を話す東洋人の言葉に聞き入った。

「私が欲しいのは、ある男の命…。数ヶ月前に仕損じた仕事を完結したいだけだ。私の中で失敗はない…。そして、ホークに影のように付きまとうあの異国人にも借りを返したいんでね…。」
「あんたの言いたいことは大体わかった。ホーク…クレファードの命を狙っているというんだな? あの異国人も一緒に…。」
「そうだ。あんたもそれを願っているんだろう…?」
男は顔を歪めてニヤリと笑う。

「それなら我々の目的は同じということになる。協力できないことはない…。」
 そう言ってラスキンは男に片手を差し出した。



アレックスの一行と別れて一度、ブリストルの港に戻ったジャマールは、配下の部下からもう一度詳しい説明を聞いた後、港に現れた東洋人が、数ヶ月前に日本で…黒柳のもとにいた“殺し屋のウェイ・リー”である事を確証した。

“ウェイが英国に現れたということは、奴の目的は明確だ。アレックスの暗殺と私への報復か…。ラスキンとレッジーナが絡んでいるとなると、さらに話はややこしくなるな…。”

「引き続き、調査を継続してほしい。毎月ブリストルに定期的に入ってくるアフリカからの輸送船の動向に気をつけろ! 私はこれから一度、ロンドンに戻る。何かあればすぐ知らせてほしい…。」
「イエス、サー!」
 アレックスの持つ私設海軍とも言うべき組織は、若手を中心とした少数精鋭のエリート達で、元軍人だったり…コンウェイのように海賊上がりだったりと異色の経歴を持つメンバー達が集まっている。もちろん、ジャマールもその筆頭だが…。
 彼らは金で雇われている訳ではない。もちろん、アレックスはもともとが裕福な貴族で、優秀な実業家でもある。それなりの報酬は支払われているが…最も大切なことは主従関係が何で結ばれているかだ。彼らは金のために動いているのではなく、アレックスのために働いているのだ。

 ロンドンに戻ると、また驚きの報告が待っていた。ジャマールは、クレファード家の屋敷内にも自分の居室を持っているが、ロンドン市内の目立たない一角にも連絡用に自分のオフィスを持っている。表向き小さな会社を装っているが…ひとりで行動する時は主にこのオフィスを利用することが多かった。
 ジャマールがこの場所に戻ると、待っていた部下からすぐさま新しい情報がもたらされる。

ウエストエンドの外れ…テムズ川で“ある男の溺死体”が見つかった。

「間違いなく、モルウェルなんだな…? 」
「はい、モルウェルを良く知る酒場の店主が証言しています。」
 目立たない港の人夫を装った若い青年の深めに被った帽子のつばの影に隠れた鋭い目がきらりと光る。

「モルウェルが消されたということは、もう用済みになったということだな? 代わりの何かコネでも見つけたか?」
「たぶん…おそらくモルウェルを殺ったのは、ウェイでしょう。」
「そうだな…ウェイはラスキンとつながっている。ラスキンにとってもモルウェルはすでに要らない駒だということだ。ラスキンは最近、レッジーナに近づいている。レッジーナの動向は調べられるか?」
「はい、2、3日中に新しいフットマンとして潜入する予定です。」
「そうか、アンドルー、おまえのその容姿ならきっとレッジーナも油断するだろう…」
 ジャマールはそう言って、まだ若い部下を振り返った。アンドルーは8年前、アレックスと一緒に出かけたカリブ海の海戦で、助けた捕虜のうちのひとりだった。相手は近海の海賊だったが、彼のような10代前半の少年も船乗りとして多く乗船している。
 アンドルーは初めて体験した英国船との海戦で出会った、アレックスやジャマールの洗練されたスマートな戦い方や、捕虜の扱い方にひどく驚いた。海賊達の間では、捕虜は奴隷として使う以外は皆殺しと決まっていたからだ。
 アレックスは故郷のない者、身寄りがなく生きる拠り所のない者にはすべて自由を与えた上で、必要なら手厚い保護も与えた。故郷もなく身よりもないアンドルーは、1も2もなくアレックスの海軍に入隊することを決めたのだ。

「ボスと、メルビル嬢は今頃はリンフォードですか? 」
「ああ…今は亡き伯爵の遺言に元づいて相続の手続きを急いでいる。それが無事終わるまではアレックスも動けない。ウェイの動向が気になる。わたしもこれから急いでまたアレックスと合流するが、何かわかったらまたすぐ知らせてくれないか?」
「わかりました。あなたも気をつけて…」
「ああ…。アンドルー…?」
「はい…?」
 そこでアンドルーは顔を上げてジャマールを見る。明るい栗色の髪と、ラテン系の堀の深い面立ち…魅惑的な鳶色の瞳を持ったアンドルーは実際の年齢よりは遥かに若く見える。前にアレックスがアスカとともに香港から英国に渡る時に使用した豪華客船“クィーン・ビクトリア号”の中で、ジャマールが居ない間、アレックスの側で副官の役割をしていたのも彼だった。

「ウェイに会ったら気をつけろ…。奴は人の隠れた気を読むのが得意だ」
「わかりました…。」
 アンドルーは小さく笑って頷くと、音もなく去って行った。
(さて、とりあえずは今起こっていることをアレックスに報告しなければならない。急いでまたリンフォードに向かうか…。)
 部下からの報告の中にはアレックスの生母、エレオノーラについての事柄も含まれていた。その内容を一刻も早く彼が知りたがっていることもジャマールは知っている。
 アンドルーを送り出したその直後には、ジャマールはまた馬を走らせて…アレックスのいるリンフォードへと向かった。
 

アシュリー・コート  二人の誓い

アスカはロンドンの南西部にある父の故郷…サマセットとデヴォンの境界近くにあるリンフォード地方のサマリン…アシュリー・コートのポーチに降り立った時…それまで自分が感じていた不安や恐れが、すべて取り越し苦労だったことを知る。
 
実の父である“リンフォード伯爵”ロバート・ウィンスレットの居城、アシュリー・コートは白いレンガ造りの壁に陽の光が反射して、輝く淡いオレンジ色の張り出し屋根がある…それは美しい建物だった。
 
アレックスにエスコートされて馬車から降りると、待ち構えたように家令や多くの使用人たちが集まってきた。

「アレックス様…いえ、失礼いたしました。シェフィールド公爵閣下…そして、レディ・アスカ、アシュリー・コートへようこそ…。」」
 アシュリー・コートの古くからの家令のクリートが前に出て、涙を浮かべながら…二人に頭を下げる。

「久しぶりだな、クリート。元気だったかい? 紹介しよう、アスカ・フローレンス・メルビル・ウィンスレット。君たちの新しい主人、ロード・リンフォードだ。さあ、アスカ、彼らはこれから君のホーム…ある意味家族になる。」
 アレックスに促されてアスカが、ゆっくりと彼らの前に立つと、誰からともなく、ワッと歓声をあげて…それぞれ手を叩いて歓ぶ者、涙を流すもの様々だった。最初は戸惑いの表情でアレックスを見上げたアスカだったが、微笑みながら頷く彼に励まされて、大きくひとつ息を吐いて呼吸を整える。

「こんにちは、みなさん…。こんな風にここに来て、皆さんに会えて…わたしもとてもうれしく感じます。わたしは…父のことは何も知りません。でもこれから…父のことも、長い間父を支えてくださった皆さんのことも、少しずつ理解していきたいと思っています…」
 アスカの言葉にその場に居たクリートはじめ、集まっていた十数人の使用人たちはみな、目頭を押さえている。その様子に満足して、アレックスが頷くと、クリートの合図で数人の若いメイドと達とフットマンが進み出てきた。
「御案内します。」
 彼らの言葉に促されて、アレックスはアスカの右手を自分の腕に掛けると、目の前の緩やかなカーブを描くエントランスへと続く階段を上がっていった。

 

 外観も見事だったが、アシュリー・コートの内装も、それは美しいひとつの芸術品ともいえるものだった。アレックスの話だとウィンスレット一族がこの地に居城を構えてから数世紀、時々は手入れも必要だっただろうが、この居城はほとんどその姿を変えることなく営まれてきたのだという。
 ハウスキーパーのパーカー夫人は家令のクリートの夫人でもあり、メイド頭も兼ねている。小柄な体格の優しげな雰囲気を持った品のいい女性だった。アスカを2階の女主人の寝室に案内すると、そこに控えていた二人の若いレディス付きメイドを紹介する。

「失礼します。お嬢様、カレンとメイです。何なりと御用を申しつけ下さい。」
 まだ若い10代半ばと思われる少女二人はアスカの前に進み出ると、恥ずかしげに頭を下げる。
ロンドンに来た最初の頃は、こんな英国貴族の屋敷内で働く多くの使用人たちへの対応に戸惑いを感じたアスカだったけれど、それにも徐々に慣れて今では普通に会話できるようになった。
「ありがとう、こちらこそよろしくね。荷物が片付いたら着替えをして下に下りたいわ。アレックスはどこかしら?」
「公爵は、亡くなった旦那様の書斎でお待ちですよ。お嬢様に見せたいものがあるとおっしゃっていました。」
 パーカー婦人はそう言って微笑むと後は二人のメイドに任せて部屋を出て行く。

(それにしても…なんて上品で綺麗な部屋かしら…。アレックスの居城も豪華で美しかったけれど、ここはとても落ち着いた雰囲気があるわ…。)
この部屋は控えめながら上品で気品のある設えがあちこちに施されていた。柔らかな色調の壁紙はもちろん、ゴブラン織りの穏やかな色調のカーテンが大きな南向きの窓辺に揺れて、居る者を優しく包み込むような雰囲気がある。

「このお部屋はちょうど旦那さまがお亡くなりになる1年前に模様替えをされたんです。屋敷内の噂ではいつかお迎えするお嬢様のために模様替えされたのだといわれていました。」
 その言葉を聞いて思わずアスカはジンと…熱いものが胸に込み上げてきた。父は…自分の命がそれほど長くないとわかっている中で、まだ見ぬ娘がいつかここを尋ねてくる日が必ず来ると信じて…この部屋を整えたのだ。生きて会えないとわかっていながら…。

 その想いに行き当たった時、アスカの目からは自然と…熱い涙が溢れてきた。今さらながら父のアスカへの尽きることの無い愛に触れた瞬間だった。
 父への熱い思いに心震わせながら、アスカは二人のメイドに手伝ってもらって着替えを済ませると、待っていたクリートに案内されて2階の一角にあった父親の書斎へと向かった。
「閣下、レディを御案内しました。」
クリートはそう言って重装な書斎のドアを開けてアスカを中に招き入れる。アスカが中に入るとゆっくりとドアは閉じられ、アスカはそこで広い書斎の中を見回した。書斎は続き部屋で、アスカの立つ手前の部屋は図書室になっていて、広い部屋の高い天井近くまで多くの書籍が並んでいた。そしてその先の開いたドアの先に見える応接室と広いデスクの側にアレックスが立っていた。

「アレックス?」
 アスカは明るいその部屋の窓際から漏れる光に誘われるようにそちら側に進んでいくと、ある一方の壁側を向いてじっと見上げるように見つめるアレックスを見つけた。アレックスはアスカの姿を認めると、優しく微笑みながら手招きする。

「アスカ…。これがロバート、君の父上だ…」
 アレックスの隣に立って、彼が指し示す方向を見上げると…穏やかに微笑む40代半ば位の紳士の、理知的な銀色の瞳が真っ直ぐこちらを見つめていた。思わずアスカは言葉を忘れて、じっとその紳士の肖像画に見入る。
(この人が…あれほど会いたかった…お父さんなのね…?)
「この肖像画は、ロバートがちょうど亡くなる1年前に描かれたものだ。この絵がここに掛けられた時、たまたまボクは英国に戻って来ていて、ロバートとここに立って一緒にこの肖像画を眺めたんだ。その時、ロバートはこう言った。
“いつかわたしの希望が叶えられて、娘がここに尋ねて来たとき…おそらくは、わたしはもう生きてはいないだろう…。だが私は伝えたいんだよ、いかに私がナツコとその娘を愛していたか…。その想いが最大限伝わるように想いを込めて、この肖像画を残そうと思う…”

 アレックスはそう語った後で、感極まったように言葉を詰まらせた…。きっとそのときのことを思い出しているのだろう。アスカのウエストに回された手のひらから微かな震えが伝わってくる。そしてアスカも…。
 目の前の…父であるその人の肖像画から瞬きをするのさえはばかられるほど、片時も視線を外すことが出来なかった。自分と同じ淡い銀色の光を放つ瞳が、柔らかな温かい波動を放ちながら…まるで目の前に立つアスカに“いつまでも愛している…。”そう語りかけているようだった。いつしか温かな涙が幾筋も頬を伝って流れる…。
(今なら解かるわ…。お父さん…。どんなにあなたが私達を愛してくれていたか…。私は…あなたが残してくれたもの…。今隣に立って同じものを感じているこの男性と一緒に、守り生きていきます。ありがとう、お父さん…。私は今とても幸せよ…。)

 そう心の中で語りかけながら、アスカはそっと両手をアレックスの胸において寄り添うように身体を預けた。
「ありがとうアレックス…。あなたの言うとおりだった。父は私達を深く愛してくれていたのね…。生きて会えなかったのはとても残念だけれど…父の想いはあなたの中に生きている。あなたと一緒に生きていけることを私は誇りに思うとともに、そうなるように配慮してくれた父に感謝するわ。」
 アスカは自然に…心の底から湧き上がってくる想いを素直に口にすることで、会うことが叶わなかった今は亡き父親に、どこかで守られているような気がしていた。

「そうだよ、アスカ。ロバートの想いはボクの中に生きている。ボクは何があっても君を守る。ボクたちは生涯離れることなく一緒に生きていくんだ。そのために今は闘わなければなければならない。一緒にね」
「ええ…。」

 互いの瞳の中に強い意志を感じて…二人はしっかりと抱き合うと、静かに唇を重ねた。

「仲が良いのは結構なことだ。だがそろそろ作戦会議へといきたいんだが…」
しばらくの間があって…書斎のドアの陰から聞こえる聞き覚えのある声に、二人はパッと顔を上げた。
「ジャマール…! いつ戻ったんだ?」
 いまさら照れる仲でもないが、アスカを片手で抱いたまま…アレックスは書斎の傍らにあるソファーに移動すると、ジャマールもいつもの謎めいた笑みを浮かべながら二人の向かいに腰を下ろした。

   
 二人が落ち着いたのを確認してから、ジャマールはすぐいつもの冷静な表情に戻って、先日ロンドンに戻って自分自身で見聞きしてきたことを副官らしく、ひとつひとつ丁寧に二人に語って聞かせた。
「いよいよ、ウェイが動き出したか…。ウェイにしてもラスキンにしてもモルウェルは小心者過ぎて使い物にはならなかったということだな? 」
 モルウェルの死を聞かされてもアレックスは表情ひとつ変えなかったが、少なからずアスカはショックを受けていた。誰であれ人の命を簡単に考えることは出来なかった。
その様子を感じてアレックスは、アスカの膝の上で固く重ねられたその拳に自分の手を重ねる。
「大丈夫かい…?」
「ええ…。たとえ誰であっても、人が亡くなるのを聞くのはあまり気分がいいものではないわ…」
「もちろんだ。君は我々の世界とは程遠いところで生きてきたんだ。当然だろう」
「でも大丈夫。あなたと一緒に闘うということは、そういうことにも対応しなければならないということだわ。」
アスカはそう言って大きく息をついで頷いた。
「それでこそ、アスカだ。頼もしいね。では次に英国内で独自のネットワークで動いていた連中からの報告なんだが…」
ジャマールはそう前置きした上で、ある方面からもたらされたアレックスの実母、エレオノーラについての情報を語り始めた。自然とそれを聞くアレックスの表情にも熱がこもる。
「ではその人は数週間前までアイルランドの港町“コーク”から北に数マイル離れた田舎町の教会に住んでいたんだな?」
「ああ、だが我々がたどり着く直前に慌しく引っ越していったと、彼女をコークの港まで送っていった町の運送屋の亭主が証言した。だが気になるのは、彼女が急に引っ越す前の週に不穏な見慣れない男たちが、その古い教会に住む女性のことを根掘り葉掘り聞いて回っていたそうだ。それを知って慌てて彼女は町を離れたのではないかと、その亭主は言っていた。長い間、町には専従の教会牧師が不在で、3年前にやってきた…いつも質素な法衣に身を包んだ小柄で優しげなシスターは、困っている人には誰隔てなくとても親身になって相談に乗るなど、町には欠かせない存在になっていただけにとても残念だったと…。」
「う…ん。それがエレオノーラだという確証は…?」
「普段彼女は素顔を滅多に見られないように気遣っていたそうなんだが、たまたま最後の日に見てしまったそうだ。法衣の中に隠された彼女の髪は美しいプラチナブロンドで、瞳は…それは美しい澄んだ夏空のような碧い色だったと…。」
 そこまで食い入るように聞き入っていたアレックスは、ふいに立ち上がると…落ち着かない様子で明るい窓際まで移動して大きく息を吐いた。 それを追う様にアスカも彼の隣に立って彼の腕にそっと手を添える。
 
「なるほど…それほど近くに居ながら…エレオノーラは決して我々の前には、姿を現さないつもりなんだな…。今にしてみれば、ロバートが亡くなった時もそれらしき女性の影すら感じられなかった。」
「それは…その時は、君はその事実を知らなかったわけだし、彼女は君同様頑固で意志の強い女性に思える。一度決めたことをよほどのことがない限り途中で変えるような人間には思えないね…」
ソファーで腕組みしながら…ジャマールはいつもの頭に巻いたターバン越しに、アレックスを見上げる。その口元には少しユーモアを交えたような笑みを浮かんでいた。それをちらりと見て笑ったアレックスは、大丈夫というようにアスカの手を握り返すと、その手を引いてまたソファーに座りなおした。

「なるほど。おれの頑固さは母親譲りだとおまえは言いたいんだな?」
「ああ…その高潔な魂もな…」
「はは…それでは喜んでいいのか、嘆いていいのかわからないな…」
 アレックスがまた屈託のない笑顔を浮かべると、ジャマールはアスカに向かって小さく片目をつぶって見せる。アスカは、アレックスの側でジャマールとも長く触れ合っていることで、普段は背が高く恐ろしげに見える異国人の彼が、以外にもちゃめっ気のある青年であることも気づいていた。

「だが気になるのは、我々よりも先に彼女の居場所を突き止めた連中のことだ。向こうにはレッジーナが付いている。彼女は我々よりもずっとエレオノーラについて多くの情報を知っているに違いない。そこでアンドルーをレッジーナのところに送り込んだ。今頃は新顔のフットマンとして屋敷に潜入していることだろう。」
「アンドルー…?」
 アスカはその名前を聞いて、いつか英国に向かう豪華客船”ビクトリア号“の中でジャマールの代わりにアレックスの副官として乗船していた若くハンサムな青年を思い出した。
「そんな危険なところへ潜入するなんて、大丈夫なの?」
「ああ…アンドルーはああ見えて人の心を読むのが上手い。それに見た目もレッジーナ好みだ。きっと上手くやるさ。だが問題があるとすれば、ウェイだけだ。あの男は人の気を読む。奴と遭遇したときだけが要注意だな。」
 ジャマールに代わってアレックスが答える。

「奴らの動きを探りながら、こちらはまず君の相続に関する手続きを優先しよう。今日の午後にロンドンからウィンスレット家の顧問弁護士のMr, フォーサイスが到着する。彼はこの数年体調を崩して暖かいオーストリアで静養していたんだが、先月ロンドンに戻ってきた。覚えていないかい? ビクトリア号の中で一度紹介しているんだが…?」
 そこでアスカは、先月同じビクトリア号の中でアレックスから紹介された白髪と白い髭をたくわえた上品な紳士を思い出した。
「ええ、覚えているわ…」
「彼は初代のリンフォード伯爵家がこの地を統治していた時代から代々顧問弁護士を務めてきた家柄だ。もっとも体調を崩していたこの数年は甥のドリスに任せていたが、やっと戻ってきてくれた。彼が居ればややこしいこの数年の動きをすべて解明してくれるだろう」
 
アレックスの言葉通り、午後の3時を過ぎた頃にひとりの助手を伴って、顧問弁護士のフォーサイスはやってきた。
 幾分やせ気味の60歳を少し過ぎたあたりの品のいい老紳士は、アレックスやアスカに丁寧に挨拶をした後で、いろいろ調べものをしていたせいで訪問が予定より遅れたことを申し訳なさそうに詫びていた。

「いや、Mr、フォーサイス。面倒な件を依頼したのはこちらのほうなのだから、あなたが恐縮する必要はまったくない。それより例の物は手に入りましたか?」
「ええ、間違いなく…」
 そう言って彼は助手が持っていた重そうな鍵の掛かる書類ケースから大切そうにある書面を取り出した。それは英国の最高機関である法務院が作成したリンフォード伯爵家に関する相続の許可証であり、女王の署名の入った正式文書である。

 数ページにわたる長々とした文書の最後に爵位の継承者であるアスカの署名が必要であり、アスカのサインが入った時点で効力が発効されるようになっていた。
応接室の長テーブルを挟んで向かい合いながら、アスカはフォーサイスから文書の内容について細々とした説明を受けたが、正直言ってその半分も良く理解できなかった。だがその条文の中で、女伯爵として…この効力が発効した日から180日以内に英国大法院の決まりに従ってその伴侶を決めなければならない…と記されているということだけは理解できた。

その瞬間に背筋を冷たいものが走る。顔から徐々に血の気が引いていくのを感じていると、アレックスがそっと右手を差し出してその震える指先を包み込んだ。
「大丈夫だ。アスカ、何があっても我々にはロバートが付いている。決して恐れる必要はない。それに未来への道は常に開かれている。それを信じよう…」

 アレックスの言葉に励まされて、アスカは大きく深呼吸したあとで力強く自分の名前をそこに記した。
     
          LOAD アスカ・フローレンス・メルビル=ウィンスレット

暴かれる真実 1

 ロンドンー…。メイフェアーにあるシェフィールド公爵家所有のタウンハウス、今では前公爵未亡人、レッジーナの住まいとなっている赤レンガ造りの豪奢な屋敷の応接室で、ロニー・ウォルターは主であるレッジーナ本人を待っていた。

 数週間前、英国の豪華客船“クイーン・ビクトリア号”でシェフィールド公爵であるルシアン・アレクサンダー・クレファードと対面してからロンドンに戻ったロニーは早速知り合いの新聞社を通じて、クレファードが同行ししていた女性についての記事を書いた。
彼女はアスカ・フローレンス・メルビル。アメリカの海運王、ジェームズ・メルビルの養女でその実は1年近く前に亡くなったリンフォード伯爵の遺児でクレファードの従妹だったという暴露的な記事は、1夜のうちに英国中の貴族達の間で一大センセーションを巻き起こした。 
そしてさらにその後招かれた王宮での舞踏会で、半分東洋の血を引く彼女はエキゾチックな魅力で、女王をはじめその場に居たすべての人々を魅了してしまったのだ…。確かにアスカは西洋人にはない非凡な美しさがあり、ロニー自身も思わず魅了されたほどだった。

最初は不遇な生涯を終えた妹の復讐と、行方不明になったままのその娘、小さなアニーを探すために何年も前からクレファードの動向を追っていたのだが、実際に調べれば調べるほど、ホークことルシアン・アレクサンダー・クレファードは謎の部分が多いことが解る。ヨーロッパ近辺ではホークの非情さや厳しさばかりが取り上げられるが、アフリカやアジア、南アメリカ…カリブ辺りではまったく逆の顔を持っている。
 ロンドンに戻ってきて、たまたま古い知り合いの伝手を頼って探し当てた古参のクレファード家の使用人から、10年前の前シェフィールド公爵の様子を聞かされたロニーは、ビクトリア号で聞かされた現公爵の言葉が正しかったことを知らされた。前公爵、リチャード・ジョシュア・クレファードは、ロニーの妹が働き始めた頃にはすでにハディントン・コートには居なかった。そのはるか前に健康を害していた彼は、ロンドンからも自身の地所からも遠く離れた小さな別荘地で過ごし、最後もそこで迎えたという。ではいったい純粋な妹を騙し、弄んだ相手は誰だというのか…? その答えを求めて、唯一その事実を知っている公爵未亡人に面会を求めたのだが…。もともと不実な彼女からまともな答えが返ってくるはずがないと思っていたが、それでも何回も申し込んでやっと今日面会の了承を得たのだった。

それにしても…約束の時間はすでに1時間以上過ぎている…。諦めてもう退散しようと思い始めた頃、やっとその女主人は現れた。気だるげに登場すると、胸元の大きく開いた明るい色のアフタヌーンドレス身を包み、年の割にはまだまだ豊かなプラチナブロンドを緩やかに結い上げていた。愛人なのか、使用人なのか…常に若いハンサムな男たちを従えて、まるで女王然としている。
「新聞記者のあなたが私にいったい何を聞きたいというのかしら…? 記事になることなら息子のところへ行った方がいいのではなくて…?」
気だるげに現れた公爵未亡人、レッジーナ・マリア・クレファードは息子の現公爵同様稀有な美貌の持ち主だったが、人間的には息子のほうがまだはるかに信頼できる。

「10年前の使用人のことなどいちいち覚えてなんていないわ。ましてそんな娘がいたなんてわかるものですか。」
 10年前にシェフィールド公爵領のカントリーハウス“アシュトン・コートでのロニーの妹の動向を訊ねると、予想通りの答えが返ってくる。

「妹は確かにシェフィールド公爵家で働くことになったと言っていたんだ。毎晩公爵の寝室に呼ばれたと…」
「その娘が本当のことを言っているとは限らないでしょ? 使用人同士でそういう関係になることはよくあることだわ。」
 彼女はそう言って笑うと、高慢な貴族そのままの態度で…嘘をついているのは妹の方だとまったく取り合わなかった。公爵の子どもを身籠ったと言っていたことも、財産を狙うために言ったことだと、まったく取り付くしまもない。内面怒りを覚えながら、ロニーはこの不遜な公爵未亡人が高慢な英国貴族の代表のように思えて仕方がなかった。どのみち誰に聞いたところで、実際妹の身に起こった不幸など、彼等からすれば虫けら程度のことなのだ。
 けっきょくこのあと別の約束があるという夫人の一方的な言葉でこの面談は打ち切られてロニーは屋敷を後にすることになったが、その際玄関まで送ってきた若い男の使用人の顔に見覚えがあって思わずロニーは振り返った。

「君はどこかで会った気がするんだが…?」
「申し訳ありません、人違いかと…」
 20代前半の整った顔立ちの若いフットマンは、ロニーの目を見ることなく無表情でそう答えた。それでも何かが引っかかって表通りを歩きながらもう一度振り返った時、一台の馬車が夫人の屋敷前に止まるのが見える。夫人の言っていた次の訪問者なのだろう。だがその馬車から降りてきた人物の顔を見て、ロニーは思わず顔をしかめた。
“あれは闇の金融王、ラスキンじゃないか…? なんでこんなところに…?”

 ラスキンは西側諸国をはじめ、あちこちの闇の金融界を牛耳る男で、表向き裕福な投資家を気取っているが、裏では国家間の戦争を吹っかけて武器商人として荒稼ぎをしているという噂の人物だった。国籍も出自もまったく謎の人物で、確かクレファードとは犬猿の仲だったはず…。それが実の母親に近づいて何をする気だろう…? これには絶対何かある…。思わずロニーの新聞記者としての血が騒ぐ。にやりと笑ってまた通りを早足で歩き始めた。



2時間後、公爵未亡人の屋敷を後にしたラスキンは馬車を走らせて、とあるナイトクラブの中へと姿を消した。ロンドンでも華やかなこの一角の中には、名のある貴族から成金たちまでがこぞって利用する多くのナイトクラブがひしめき合っている。そしてその裏通りには大小幾つもの娼館が立ち並び、一般に高級娼婦と言われる女性達がナイトクラブには多く侍り、常に客となる金持ち達を待っている。
若い貴族の舎弟たちがその経験のなさから多くの借金を負って身を持ち崩すことも多かったが、その反面このラスキンや、多くの産業革命によって誕生した時の成金達が、多くの世襲貴族たちの富を凌ぐほどの力を持ち始めていた。多くの貴族の中には、表向きその対面を保つために、身売りのごとくその領地の一部を成金達に売り渡すものもいて、中には進んで自分の娘を嫁がせて姻戚関係を結ぶ者もいた。
そのナイトクラブの中でも“ホワイツ“は比較的伝統を重んじた一流どころのクラブだったが、立ち並ぶ店の中にはそんな品行方正なクラブばかりではない。今回ラスキンが入った”スコーピオン“は怪しげな人物も多く入店し、薬物の取引も行われていると噂のクラブだった。

ラスキンは数人の部下を引き連れて店の最奥、黒いカーテンの奥に隠された隠し扉の向こう側へと入っていった。部屋の照明は薄暗く抑えられていて、広いサロンのあちこちは小さなコーナーに仕切られていて、それぞれにカードゲームやルーレットなど、多額の掛け金が取引される賭博が行われている。ゲームに参加しない者たちは中央にあるゆったりとしたソファー席で、華やかな娼婦達とブランデーやワイン…中には禁断の阿片を愉しむものも多くいた。
そんな連中たちの間を通って、ラスキンはさらに奥のガラス扉を抜けた向こう側へと入っていく。そこにはもうひとつ小部屋があって、そこには外の騒がしさとは無縁の豪華なオフィイス風の応接室あった。そこに待っていたのは、右頬に刀傷のある東洋人風の男…”ウェイ・リー“だ。

「ところで、いったいいつになったら奴を殺るチャンスは来るんだ?」
 ラスキンが部屋の中央近くにある大きなマホガニー製のデスクに落ち着くと、不気味なオーラを漂わせているウェイが口を開いた。

「まあ、待て。国外で奴の命を狙うのとはわけが違う。ここ英国で、名のある貴族の命を奪うのは大罪だ。ましてクレファードは、ビクトリア女王の外戚にあたる家柄だ。慎重にやらねばあとあと面倒なことになる。それに…あの女、クレファードの母親は、いざとなったら尻ごみしかねない。いくら仲たがいしているとはいえ母親だからな。彼女が探しているそのシスターを早く見つけて、クレファードを誘き出せばいい…。クレファードも何故かその女を捜している…」
 ラスキンは他の側近たちを下がらせると、入れ替わりに現れた華やかな娼婦達をまわりに侍らせて、高価なブランデーと葉巻を愉しみ始めた。この店と娼館は一体となっていて、すべてラスキンの持ち物なのだ。

「まどろっこしい。クレファードが片時も離れず連れ歩いている女…それこそが奴のアキレス腱だ。私は女には興味がないが、以前の雇い主が妄執するほどの女だ…。表向きクレファードはその女の後見人ということになっているが、その女こそ奴の情婦だ。間違いない…」
 それを聞いてラスキンの眉が上がる。先日王宮で催された王室主催の舞踏会に現れたクレファードとその従妹の伯爵令嬢の姿を思い出した。もともとシェフィールド公爵であるクレファードは、世界中に名の知れた美貌の持ち主だが、一緒に現れたその女性は、クレファードに負けず劣らず魅力的な輝きを放っていたのだ。彼女は明らかにラスキンが見慣れている華やかな娼婦達や高慢な貴婦人達とも全く違う魅力をかもし出していたのである。

「確かに…今まで名のある娼婦以外に回りに女のけはいが全くなかったクレファードが、ほぼ1年ぶりに戻ってきた時には、まるで人が変ったような聖人ぶりを見せている。以前の無軌道なホークさながらの姿を見慣れていた連中は、クレファードはどこか具合が悪いか、はたまたいよいよ女王の忠告を受け入れて、跡継ぎ問題に真剣に取り組むつもりなのかと噂していたが、そのどちらも違うと言うのだな…?」
「英国のしがない連中は騙せても、極東での出来事を知っている私の目は誤魔化せない。現在クレファードの従妹でリンフォード伯爵の跡継ぎといわれている娘は、間違いなくクレファードとは深い関係にある。でなければ奴があれほど側におくわけがない…」
「クレファードは遺言で彼女の後見人に指名されているぞ…」
「ふ…見せ掛けだけだ。あれほど隙を見せないクレファードが、あの女の前では本心を現す。日本ではもう少しで目的を達することが出来たのに…。何とかあの女を利用して奴を誘き出せれば、チャンスはある。」
「あの異国人はどうする…?」
「あの女に関しては、クレファードは側近である、あの異国人の忠告も耳に入らないくらい執心している…」
「なら話は簡単だ。いい考えがある。さっそく手配しよう…」
 二人はそう言って顔を見合わせると、ニヤリと笑う。

そこへ部下の一人が入ってきて、ラスキンの耳元で何かをささやいた。それを聞いてラスキンの瞳が輝く。
「フ…思ったよりもチャンスは先に来たようだ。

 


 アスカの相続手続きを無事に終えた弁護士のフォーサイスは、ホッとした表情で大切な書類の束を助手の手によってまた鍵付きのかばんの中に戻すと、自分の抱えてきた別のかばんの中から大きな手帳を取り出してめくり始めた。

「閣下から御依頼の件で調べてみたのですが、前伯爵のロバート・ウィンスレット卿が5年前に共同経営者となられた鉱山の登記状況を5年前までさかのぼってみるといろいろわかったことがありました」
 そう前置きしてフォーサイスは、10年前に領地の西北部にある山脈の一角にたまたま水脈の調査に訪れたオランダの測量技師が、石炭の鉱脈を発見してからすべてのことは始まった。
 当時馬車に代わって鉄道輸送が主流になりつつあり、それに伴って産業もめまぐるしく発展していく。ロバートの大学時代の友人の一人に採掘関連の事業を行っている人物がいて、その友人から投資の誘いがあり…ロバートはすぐさま承諾した。最初の5年は問題なく過ぎていったが、彼が病を得た後の5年間はまったくタッチせず、その間にパートナーの名前が変わったことにも気づかなかった。意図的に変えられたのかは定かではないが、4年前に大きな株価変動による一時的な金融恐慌に落ちいった際に、ロバートの友人の名前が…採掘会社の役員の名簿から何らかの理由で消えたのだろうということだったが…。

「問題はここからです。そこから数人の名前が上がって来るのですが、2年前…現在3人の役員の名前が更新されて今に至っています。ただそのうちのひとり、オースティンというオーストリア人の男がいますが、この人物の経歴がもうひとつはっきりしないばかりか…数年前海外でマキシム・ラスキンと繋がりがあったことが判明したのです。」
 
その言葉にアレックスの表情が引き締まる。
「これでこの炭鉱の黒幕が誰か判明したも同然だな…。それならラスキンがこちらの思っている以上に危機感を持ってレッジーナに接近している理由が良くわかるというものだ。どうする? アレックス。そうならある意味アスカの存在はさらに連中の危機感を煽っているはずだ。」
 側で黙って聞いていたジャマールが重たい口を開く。
ロバートが亡くなったことで連中はこれですべての重石が取れて自由になったと錯覚したに違いない。身内であるホークは相続問題には無関心、ましてロバートに遠い異国の地に娘がいることなど連中は知る由もない。モルウェルを利用して傀儡するつもりが、アスカの登場で連中の計画は大きく変更しなければならなくなったわけだ」。

「それって危険なこと…? 」
 アレックスの渋い表情を見てアスカは訊ねた。
「もちろんね…。だがそんなことは最初から予想できたことだ。君とボクを両方消せれば奴らにとっては一石二鳥だと考えているかもな…。まあ、そんなことはさせるつもりもないが…。用心に越したことはないさ。そうだろう? ジャマール…?」
「もちろんだ。ウェイは日本での君とアスカの関係を知っている。前回君が銃弾に倒れた時のいきさつもわかっているなら、また近いうちに何か仕掛けてきかねないだろうな?」
 ジャマールも厳しい表情を崩さないまま答えたが、飛鳥だけは平然としていた。

「でもそのウェイとか言う殺し屋は、前のわたししか知らないのよね? 今度また目の前に現れたら、今度こそ同じ痛みを味あわせてあげたいわ!」
 その言葉に思わずアレックスとジャマールは顔を見合わせた。
「素晴らしいね! さすがアスカだ。」
 高らかに笑いながら、アレックスはアスカを抱きしめてその頬に音を立ててキスをした。

「頼もしい限りですな。そちらの事業自体の相続も同時に行っていますので、この数日中にはすべて完了する予定ですよ。」
 そう言ってフォーサイスもにこやかに笑う。アスカは恥ずかしくなって思わず赤くなった。

「すべての手続きが完了したらその採掘会社に踏み込もうと思う。実際に所有しているその土地はすべてウィンスレット家のものだ。報告書に上がっている数値や内容が総て事実かどうか確かめる権利がこちらにはある。」
「おっしゃるとおりです。ロード・リンフォードとしてレディ・アスカにはその権利があります。」
「ありがとうございます。Mr,フォーサイス…。」
「こちらこそ…ふたたび先代の伯爵に続いてお役に立てることを、私も嬉しく思いますよ」
フォーサイスが差し出す手をアスカはしっかりと握った。

それからしばらくしてから、フォーサイスはまた二人の助手を伴って恭しく挨拶したあと、アシュトン・コートを後にした。

「フォーサイスは誠実な人物だ。最近の5年間、病を得るまでは本当に真摯にロバートに尽くしてくれていた。その後あとを引き続いた甥のロビン・フォーサイスは叔父のジョン・フォーサイスほど賢くも義理堅くもなかったということだ。おそらくラスキンの圧力に負けて、ロバートの承認なしに役員の首を勝手にすげ替える事にロンドンから加担してしまったのだろう。」
「それで、その裏切り者をロンドン塔には送らなかったわけだな?」
「ああ…1ポンドの誤魔化しもなく、報告書にロビンの不正を暴いてきたジョンに敬意を表しただけだ。ただし、そのままというわけにはいかないから向こう10年、オーストラリアにでも行ってもらうことにした。」
「体の良い島流しだな?」
「そうともいえる。これでいいんだろう? アスカ…」
 そこでアレックスは傍らにいたアスカを振り返る。今回フォーサイスの甥の起こした不祥事に、最初ジョン・フォーサイスはすべての業務から引退したいと言って来たのを引き止めた上に、刑を減免して欲しいといったのはアスカだった。
「ええ…誰かを罰するのは簡単だけれど、許すことの方がずっと難しいと思うの」
 アスカは何かをかみ締めるようにつぶやいた。この…初めて訪れる父の国で、アスカはアスカなりに順応しようとしているのだろう。
「そうだな…ただし、人の命が掛かっている場合は別だ。ラスキンだけは許さない。永遠にロンドン塔から出られない様にしてやるさ…。ジャマール、ロンドンから何か報告はとどいているか?」
「いや、ドルーからはまだ何も言って来ないが…別のルートからひとつ面白い話がある。」
 そう言ってジャマールは少し声を落して言った。こういうときのジャマールはアレックスに対して何か特別な意見がある時だ。

「アスカ、言い忘れていた。さっきリリアが戻ってきた。今ごろ君に報告したくてうずうずしていることだろう。」
「リリアが…?!」
 途端にアスカの顔が輝く。リリアとは数週間前にブリストルのホテルで別れて以来だ。コンウェイをお供に遠縁の親戚を尋ねて行ったのだが、リリアはコンウェイと上手くいったのだろうか…?
夕食までまだ少し時間がある。アスカはアレックスに“またあとで…”そういう想いを込めて軽いキスをするとその場を後にした。

「さて…これでアスカに聞かれる心配はなくなった。おまえがおれに言いたい面白いこととは何だ?」
 アスカがいなくなるとアレックスは苦笑しながらジャマールを振り返る。

「君が数年前、ロンドンで派手に連れ歩いていた歌姫がいただろう…? 覚えているか?」
からかう様な笑みと少し皮肉めいた口調でジャマールは話し始める。
「いや、よくは覚えていないが…確かロレイン…違うな。マリアンか…?」
「そう、マリアンだ。」
「そのマリアンがどうした? またつまらない噂話でおれの反応を試そうという魂胆か?」
「それも悪くないが、ことはそう単純ではない…」
 そう前置きした上でジャマールは、1ヶ月前から部下を潜入させていたラスキンのおそらくはホームとも言うべきナイトクラブを兼ねたホテルに、元愛人のマリアンが数ヶ月前から頻繁に若い将校を伴って現れていることを告げた。

「別にマリアンが誰と付き合おうと知ったことではない。たとえそこがラスキンのホテルでも、おれと何の関係があるというんだ…?」
「もちろん、関係ないといえば関係ないが…。そのマリアンに入れあげている若い将校が君の知り合いなら話は別だ…。」
「……?」
 それを聞いてアレックスの表情が一気に厳しさを増した。



「リリア…!」
「アスカさま…!」
部屋に入るなり、アスカはそこにいたリリアと抱き合って歓んだ。
「あなたがとても幸せそうで良かったわ。総ては上手く言ってると考えていいのかしら?」
 アスカがそう言うとリリアの頬がポッと赤くなる。

「ありがとうございます。実は旦那さま、いえクレファード卿からお許しをいただいて、
ジム…コンウェイと、スコットランドにいる叔母に会いに行ってきたんです。たった一人の叔母に結婚の証人になってもらいたくて…」
 恥ずかしそうにそれだけ言うと、リリアははにかんで微笑んだ。つまりはこうだ。
アレックスは二人の想いを汲んで、今の状況の中で結ばれるように手配したのだ。それが解ってアスカもうれしかった。
「リリア、あなたはもうミセス・コンウェイなのね? だんな様の側にいなくてもいいのかしら?」
「大丈夫です。コンウェイはだんな様のために働いているんです。わたしもアスカ様のお役に立ちたくて…。」
「ありがとう…。わたしもあなたに会えて良かったと思っているわ。この英国で、あなたが側にいてくれたからわたしは強くなれた気がするの。アレックスのことも、今なら何があっても信じられる。あなたのおかげよ…!」
「まあ、もったいない…」
 リリアはまたそう言ってうれし涙を流した。
宝龍島(ホウロントウ)で貴蝶とは別れたが、それでもリリアがいたから何があっても堪えられたのだ。これから先もきっと多くの出会いがアスカを待っていることだろう。自分自身も父のように…人から感謝される人間でありたいと…今では心からそう思っていた。

「さあ、じゃあ、新しくあなたのだんな様になった男性について、もっと教えてくれる?」
 アスカがそう言って悪戯っぽく笑うと、リリアはまた少女のように真っ赤になった。









 

暴かれる真実 2

 ロンドンから南西部に100マイルほどの小さな田舎町にある宿屋の一室で、いつものようにアニーは、窓際にイスを並べて座りながら、目の不自由なシスターのためにさっき街角で買ってきた新聞を広げて読み始めた。 
 少女の読む堅苦しい社会欄の文章にも聞き耳を立てて熱心に頷いている女性は、時折明るい太陽の光の方向を確かめるように顔を向けると、一瞬眩しそうに顔を背けた。

「シスター、最近はこの記事ばかりですね? 若くてハンサムなシェフィールド公爵さまと、最近一緒に英国に来られたという美しい伯爵令嬢が今度はいつどなたの御招待を受けられるのか…? 」
「そうね…」
 優しげな面差しのシスターの顔に、一瞬…哀しみの混じった慈しむような複雑な表情が浮かんだが、それは現れたのと同時にまたすぐ消えた。
「シスターはこの方々とお知り合いなのですか?」
「遠い昔に…ほんのすこしだけ…ね。」
 そう言ってまた何事も無かったように、彼女はアニーの差し出す切り抜かれた新聞の記事を大切に抱えているスクラップブックの間に挟んだ。

 アニーがこのシスターと一緒に暮らすようになったのはちょうど、5年前のロンドンの大火で多くの人が亡くなったそのあとだった。
アニーは母親が亡くなったあと、4歳までロンドンの…下町の娼館の娼婦達に育てられていたところを母の兄という人物が迎えに来て、仕立て屋を営む子どものいない知人に預けられた。その1年後に火事で養父母の家も焼け、アニーだけが生き残ったのだ。
 5歳だったアニーは小さな教会にあった孤児院で引き取られ、そこでシスターと出会ったのだ。シスターは自身も目が不自由だったが、孤児院の子供達に文字や計算を教えながら、彼らが大人になってから困らないように、一生懸命道徳や人として正しい生き方を教えてくれた。物静かで優しいシスターが仲間内からはエレンと呼ばれ、噂では元は高貴な貴族の生まれだと言われていたのもアニーは知っていた。

「シスター、ここに来てからもうすぐ10日になりますが、いつまでここにいるのでしょうか?」
「そうね、ある方と会う約束をしていて、それを済ませたら北のほうに行こうと思っているの…。そこは静かで落ち着いた場所だから、今度こそアニー、そこであなたにも学校へ通わせてあげられるわ」
「本当ですか…?」
 思わずアニーの瞳が輝く。

 そして、その人物は思っていたよりも早く…その日の午後に二人のもとへ現れた。

「お久しぶりです。奥様…。お元気そうで何よりです…」
 少し白髪の混じった恰幅のいい紳士は、きちんとした身なりをして…シスターの前に立つと懐かしげに目を潤ませた。
「あなたもお元気だったかしら、Mr・ダートン。こんな風に再び会うつもりはなかったのだけれど…。」
 シスターはイスに腰掛けたまま…穏やかな声で話しかける。

「これが御希望された現金と小切手です。どちらからでも換金できるように手配しておきました。ですが、奥様…本当にこれでよろしかったのでしょうか? 失礼ながら、本来なら閣下に申し上げて…」
「それは出来ません、Mr・ダートン。このことはもうずいぶん前に決めたことなのです。リチャードが生きていた頃から、あなたには本当にお世話になりました。結果的にあなたの立場上、今の主人を裏切る行為をさせてしまったことを私はとても申し訳なく思っているのです。ですがそれももうこれで終わり。わたくしの残りの人生は、この子と一緒にどこかで穏やかに暮らそうと思います。そこで、最後にひとつだけあなたにお願いがあります。この手紙を妹に届けて欲しいのです。私から連絡を取ることはこれが最後です。二度と探さないで欲しいと…。そう伝えてください」
「わかりました。奥様…」
 その紳士は涙を堪えながら、そう言うとシスターの手を取って小さく頭を下げると…帰っていった。

「さっきの人、泣いていましたね。シスターの古くからのお知り合いですか?」
「ええ、そうなのよ…」
 不思議そうに訊ねる少女に、小さく頷いて答えるシスターの頬にも涙が伝っているのをアニーはじっと見つめた。



 それからアレックスは一度ロンドンに戻ることを決めて、安全のため帰りは最初からマレー号を使うことを選択した。もちろんリリアはとても喜んだが、極秘で結婚したことがあとで仲間内に知れて、いつもは海賊然として威厳のあるコンウェイも今回ばかりは照れるばかりだった。

「おまえもこれで人並みだな。どうする? 身を固めたことだし、陸に上がるか?」
 アレックスがそう言ってからかえば、コンウェイは真っ赤になって抗議する。
「勘弁してくださいよ。ボス…! おれから海を取ったら何も残らない…。リリアはお嬢さんにゾッコンなんで、今までと何も変わらないですよ!」
「ハハ…! 好きにしろ…。」
 アレックスが声を上げて笑うと、その場に居た猛者たちがみな笑い出し、ブリッジは笑いの渦に包まれる。ひとしきり笑って他の連中がそれぞれ自分の持ち場に戻っていくと、サッと表情を引き締めたジャマールが口を開いた。

「で、まずはどうする? 昨夜届いたドルーからの知らせによると、このところ頻繁にラスキンから連絡が来ているそうだ。案外向こうのほうが早く、エレオノーラ、君の母上の情報を掴んでいるのかもしれない…」
「それはあり得る…。だが何としても奴よりも先にエレオノーラを見つけなければならないが…。そこで、ひとつ気が付いたことがある。前にわがシェフィールド領の報告書について不審な点があると話していたのを覚えているか?」
「ああ…毎年送られてくる報告書の数字がおかしいと言っていたが…?」
「そのとおり…。報告書を作成しているのはロンドンにある事務所の顧問弁護士であるダリル・ダートンだ。最初はレッジーナも絡んだ不正も疑っていたんだが、実際に銀行口座の金の動きも合わせてみると面白いことが解ってきた。3ヶ月ごとに決まった金額が必ずどこかに送金されていた。それが実際に深く調べてみると、すでに20年近く前からずっと行われていたんだ。」
「というと…?」
 そこで少し間をおいて、アレックスは慎重に話し始めた。

「父が生きていた頃からそれは続いていて、おそらくは…エレオノーラのためにそれは行われていたのではないかとおれは思っている…。」
「それなら、ダートンは何か知っていると…?」
「ああ…間違いなく…。」
「それなら急がなければならない。レッジーナの手が及ばないうちに…」
 ジャマールの言葉にアレックスは黙って頷いた。
 馬車なら3日かかるところをマレー号なら1日半もあれば移動できる。
それでも誰の目も気にせずにアスカと一緒に過ごせるマレー号での時間は貴重だ。アレックスは、昼間はクルー達と過ごし、夜はアスカと濃厚な時間を持った。

「リリアは楽しい時間を過ごしているかしら…? 」
 夕食を部屋で、二人っきりで摂った後、アスカは気になってアレックスに訊ねる。
「気になるかい? 今までこのマレー号のクルーの中で、夫婦で乗船したものはいないからな。ただコンウェイはもともとこの船の船長だ。それなりのキャビンは持っている。ただその趣味にリリアが付いていければの話だが…」
 そう言ってアレックスは笑う。彼の言う意味が解ってアスカも思わずおかしくなった。確かに…それほど二人の生きてきた生い立ちは違うのだ。でもリリアの明るさがあれば、きっと大丈夫だろう…。
 だけど…今は自分とアレックスだ。ひとつひとつ…まるでもつれた糸を解くように少しずつ何かが変わろうとしている。今目の前にある問題を、一緒に乗り越えた時…きっと何かが起きるような気がしていた。

「アレックス、ロンドンに戻れば前よりも危険なことが待っているのではないの…?」
 ドレスからナイトドレスに着替えようとしてドレッサーの前に立ったアスカは、目の前にある鏡に映ったアレックスに問いかける。
「もちろん、ゼロではないさ…。」
 そう言いながら、アレックスはアスカの後ろに立ってドレスの背中にある小さなボタンをひとつひとつ外していく。アレックスの息がアスカの首筋に掛かるほど近く感じられると…いつもの馴染みのあるジン…とするような熱い慄きが全身に拡がっていった。
 気が付くとひんやりとむき出しになった肩にアレックスの温かな唇が置かれている。

「アレックス…」
 アスカの唇からまた小さなため息が漏れる。
「今夜からはボクがリリアの代わりをしよう…」
 アレックスは、ゆっくりとアスカの身体から…ドレスを引き抜いて床に落す…。そして後ろから抱きしめながら薄いキャミソールの上からそっとまるい胸のふくらみを撫でた。薄い布地を押し上げるように手のひらに感じる固いつぼみの感触をしばらく楽しんでから、アスカの身体を抱き上げて、広いベッドの上に運んだ。

「アスカ、よく聞いて欲しい。たぶん、ロンドンに戻ればいろんな罠がぼくたちを待ち構えている。今のところの情報だとラスキンは明らかにボクと君の関係を疑っていて、おそらく今後最も効果的な何か仕掛けをしてくるかも知れない。」
「アレックス…それは…。」
「ボク達の関係が崩れれば、連中はまたその隙を付いて命を狙いに来るはずだ。だが今回はそうはならない。何故ならあの頃よりははるかに、ボクと君の関係は強固だ。違うかい…?」
 アスカの身体をその下に組み敷きながら、真っ直ぐその目を見つめるアレックスの碧い瞳からは、燃えるような情熱が感じられる。そして同時にアスカの膝を割って進入してきた指先は、迷わず真っ直ぐ身体の中心にある泉に滑り込んで、アスカの中に潜んでいる炎を最大限に掻き立てた。
「あれから…何度君を抱いても飽きることはない…。永遠に覚めない魔法に掛かってしまったようだ。」
 アレックスはうわごとのようにつぶやきながら…アスカの中心に自らを深く…深く沈めていった。 







 

試される二人の絆

その数日後、さっそく最初の試練はやってきた・・・。

 二人が再びロンドンに戻ってきていると知った多くの有力な貴族達から再び山のような招待状が届く。二人の仲がどんな恋人同士よりも親密であっても、表向き二人は従兄妹同士であり、アレックスはあくまでもアスカの後見人なのだ。女王の前で、アスカに半年以内に結婚相手を決めさせると宣言した以上、一応それに従わなければならない。
 その時代の貴族が結婚相手を決めるのに、一番有効とされてきたのが毎晩のように催される舞踏会だ。中でも名のある有力な貴族からの招待を、理由もなく断るのは最も非礼なこととされていた。
 シェフィールド公爵であるアレックスが、舞踏会嫌いなことは世間に多く知られていたが、飛鳥は別だ。彼女の評判まで落すことは本意ではないし…まして今回招待状を送ってよこしたのは、エジンバラ公…アレックス同様ビクトリア女王の外戚にあたる有力貴族だ。

 自身の書斎のデスクに座りながら、アレックスは招待状の返事をしたためると大きなため息を漏らした。
「どうしたの…? 何かあなたらしくないわね…?」
 いつ入ってきたのか、入り口のドアにもたれて悪戯っぽく微笑むアスカがいた。

「最近君は、だんだんジャマールに似てきたな。ボクに気配を悟られずに近づいて来られるのは、君を除けばジャマールだけだ。」
「それは喜んでいいことなのね?」
「もちろん…。」
 アスカは広い部屋のソファーとデスクを回って、アレックスの側にやってくると、その肩に手を置いて身を屈めて唇を重ねた。瞬時に情熱の炎は駆け巡り、アレックスはアスカをそのまま膝の上に抱き上げる。

「案外、一番難しいのはボク自身かもしれないな…。困ったことに君に対する免疫はまったく機能しないのだから。」
 アレックスはもう一度キスをして、アスカを膝の上から下ろすと、2週間後、エジンバラ公の主催する夜会に参加することをアスカに告げた。

「それは大切な舞踏会なの?」
「まあね。エジンバラ公は女王の外戚にあたる。ボクは女王に、“半年以内に、君の結婚相手を見つける”と宣言している。今まではいろいろな理由をつけて断ってきたが、今回はそれも難しい…。そろそろ本気を見せないと疑われかねない。」
「それで、どうするつもり…?」

 アスカは真っ直ぐアレックスを見つめている。案外アスカのほうがこんなときは覚悟が出来ているのかも知れない…。

「アスカ、ピーター・ヘンドリックを覚えているかい?」
 突然の言葉にアスカは一瞬戸惑うが…すぐ、先月アレックスと出かけた王宮の晩餐会で出会った赤毛の背の高い軍人だという青年の顔を思い出した。
“確か、アレックスの学生時代の友人だと言ってなかった…?“

「あなたの古い友達だといっていた方かしら?」
「そうだ…。そのヘンドリックスなのだが…。」
「その方がどうかしたの…?」
 不思議そうに問い返すアスカに、アレックスは先日ジャマールから聞いた、ヘンドリックスに関する不名誉な報告の内容を解りやすく説明した。

「それは本当なの?」
「ああ…ジャマールが直接指導して動かしている連中の仕事は確かだ。間違いないだろう。ボクも彼とは海軍に所属していた後は一度も会っていない。その間、彼に何があったかはまったく知らなかった。」
 アレックスの表情が厳しくなり、彼の心の苦悩が浮かぶ。ましてかつての愛人が絡んでいるとなるとなおさらかもしれない…。

「それで…その彼がわざと私に近づいて、私とあなたの間を引き裂こうという計画なのね? でもその彼もラスキンに利用されているのでしょう? その女性のためにしていることなのではないの?」
「君は本当に優しい人だな。疑うことを知らない…。残念だがボクは、彼が今夢中になっている彼女がどんな女性かよく知っている。金のためなら平気で裏切ることが出来る女だ。おそらく…ヘンドリックスと付き合う前から、ラスキンの愛人だったに違いない…」
 そう言いながらアレックスは、立ち上がると…アスカの手をとって近くのソファーに移動して一緒に腰を下ろした。

「まあ、では彼も騙されているというのね?」
「そのとおり…。今回問題になっているナイトクラブは、有力な貴族の舎弟たちを女や金で縛りながら借金まみれにしていることで有名だ。裏でラスキンが関わっていることは、早くから判っていて、ランスロット卿も危惧していたのだが…長い間上手く尻尾を隠して我々も手が出せなかった。早く情報を得たことで、逆に上手くラスキンの尻尾を掴んで巣穴から引っ張り出せるかもしれない…。」
「わかったわ…。それで私に出来ることは…?」
そう言うアスカの瞳はキラキラ輝いている。アスカは単純に自分がアレックスの役に立てることがうれしかった。
「でも…彼はあなたの学生時代の親友なのでしょう? 私はどういう風に演じればいいのかしら…?」
アレックスが説明するまでもなく、アスカは自分の役割を理解している。思わず苦笑しながら、アレックスは、表面上はピーターに好意を持っているように振舞って欲しいと告げた。そうしながら自分はピーターに関わっている女性、マリアン(ロンドンにある劇場の歌姫で、かつては一時アレックスとも関係があった)に接近して逆にトラップ(罠)をかける計画を話した。

「あなたに危険はないの? あのときの殺し屋がまたあなたを狙っているのでしょう? その女性がラスキンの愛人なら、近くには必ずその殺し屋がいるはずで…。」
“アスカはこんな時でさえ、オレの命を心配している…。おれはアスカに他の男が近づくと考えただけで嫉妬に狂いそうだというのに…!”

「ボクのことなら大丈夫だ。ジャマールからも言われているが、人が大勢いる所以外では彼女と会わない。まして、君以外の女性と二人っきりになることはないよ。」
「アレックス…。」
 アレックスはアスカの目を見つめながら、もう一度しっかりと抱きしめた。エジンバラ公の舞踏会では多くの貴族の娘や母親達がいる。今度だけは表面上だけとはいえ、アレックスが最も苦手としている連中を相手にしなければならないのだ。当然その中にはあのレッジーナもいる。

「どう…? 出来そうかい?」
 アレックスがそう問いかけると、アスカは燃えるような銀色の瞳で真っ直ぐ彼の目を見つめ返した。
「ええ…。今回は”私たちの闘い“なのよね?私たちが一緒に闘っていると実感できているなら、何があっても大丈夫だわ。あなたを信じているから…」

“ああ、そうだろう…。おれ達は常に一緒に闘っている。それを忘れてはならない…。”
アレックスは心の中でそうつぶやきながら、今腕の中で安心しきって自分に身を預けている女性をもう一度愛しさを込めて抱きしめた。





その翌日にはさっそく動きがあって、ピーターからアレックス宛に、今夜劇場で開かれる歌劇にアスカを一緒に誘いたいとの申し込みがあった。もちろん、その歌劇“椿姫”のメインキャストを務めるのはあの”マリアン”だ。そのことをアスカに告げた上で、ジャマールと打ち合わせをしたあと、承諾の返事を出した。

 実はアレックスとジャマールはその歌劇が開かれると知ってから、密かに計画を立てていて、マリアンの恋人であるピーターやラスキンにも知られずに密かにマリアン自身に手紙を送り、今夜の公演を見に行くことを思わせぶりな文面で伝えてある。果たしてマリアンからは、“愉しみにしている”という返事がすぐ返ってきた。
 危険を避けるため、ピーターには馬車はクレファード家のものを使うように申し入れているのと、付き添いとしてリリアを同行させることを承諾の条件にしていた。もちろん、クレファード家の馬車を使うということは、御者に化けた護衛も二人付くことになっている。すると午後4時を少し回った頃、ピーターは颯爽と馬に乗って現れた。

「やあ、アレックス、今夜は君の大切な従妹をお借りするがかまわないかな?」
ピーターは何事もなかったようににこやかに笑って挨拶する。アレックスも笑顔で応じながら差し出された手を握った。

「もちろんだ。アスカもこのところ相続問題もやっと終わったばかりで、気分転換も必要だろう。君になら安心して任せられる。」
二人がブランデーを飲みながら昔話に興じていると、“御婦人方の御用意が出来ました”というロレンスの声があって、外出着に着替えたアスカとリリアが入ってきた。
 今日のアスカは鮮やかなワインカラーのドレスに身を包んで、白いミンクの毛で覆われた温かい
マントコートを羽織っている。頭には同じ白い毛をあしらった帽子を被っていた。
 二人が入ってくると、ピーターはハッとしたように一瞬言葉を失っていたが、すぐに笑みを浮かべて、アスカに微笑みかける。

「ああ…アレックス、本当に君の従妹は素晴らしいよ。今日はボクの誘いを受けてくれてありがとう。今夜は素晴らしい夜になりそうだ。」
「こちらこそ、ロンドンに来てまだ一度も本格的な舞台は見たことがなかったの、楽しみだわ」
 アスカもそう言って微笑むと、アレックスに近づいて、軽い挨拶のキスをした。
「ああ…楽しんでおいで…」
 アレックスもアスカの目を見てそういうと、二人にしか解からないニュアンスでそっと手袋をした手を握った。


 
 ピーターとアスカの乗る馬車がタウンハウスを離れると、もう一度ジャマールと細かい打ち合わせををして、自らも外出のために用意された馬車に乗込んだ。もちろん、マリアンとの約束のためだが、正直言ってあまり乗り気がしない。
 以前だったら遊びのひとつとして、駆け引きを楽しむことが出来たのだが…。馬車が劇場の裏口に着くと、馬丁を除く数人の側近達に囲まれながら、アレックスは人ごみに紛れて劇場の中に入っていく。目立たない側近の一人に身をやつしたジャマールがすぐ後ろに控えているが…。ウェイが現れてから、常に狙撃の危険がある。

「いいか、アレックス、十分気をつけろ! 奴はどこにでも現れる。前のようなラッキーが再び起こるとは思えない…。」
 劇場の警備員の一人に金貨を数枚にぎらせて、劇場の裏の…通路のさらに奥にある出演者の楽屋へと案内させる道すがら、後ろからジャマールが小声でささやいた。

「わかっているさ。それよりアスカの様子はどうだ?」
「15分前にボックス席に落ち着いたところだ」
「なら予定通りだな。こちらも予定通りショーの開幕といくか…」 
 “ショーだと思えばまだ楽しめる。演じているのだから、どんな人間にでもなれるだろう…。”

 先行していた警備員が“madonna(マドンナ)”と書かれたドアをノックすると、すぐ中から反応があって、ドアは内側から勢いよく開いた…と同時に華やかな化粧と衣装に身を包んだ女性が飛び出してきた。
「アレックス…!? 驚いたわ! あなたが来てくれるなんて…!」
「マリアン…」
 マリアン・クレールはヨーロッパでも名の売れた歌姫で、明るいブルネットとブルーとグリーンの入り混じった不思議な色の瞳を持つ美女だった。時の王宮に呼ばれるほどの実力と美声を持っているが、プライドと権力欲が強く、常に相手をするのは一流の貴族であり、大富豪といわれる類の人間ばかりだ。
 マリアンはとびっきりの笑顔を浮かべてアレックスの肩に手を回すと、その唇に情熱的なキスをした。アレックスもそれに応えるようにマリアンのウエストを抱きながら、くるりとドア側を振り返って、入り口に控えているジャマールをちらりと見て目配せする。ジャマールも小さく口元に笑みを浮かべて、ドアを閉じた。

「3年ぶりか、元気だったかい…?」
「ええ、あなたこそ、帰ってきてもまったく音沙汰なしで…つれないこと…!」
 マリアンは美しい口元をわざと尖がらせながら、誘惑するように大きく開いた胸元から覗いている豊かなふくらみをアレックスの胸に押し付ける。アレックスはわざとそれを見ないふりをして、主役のために用意された広い個室の中を見回した。
 所狭しと置かれた花々の中でひと際目立つ大輪の赤いバラが数百本中央の場所を占めていた。「綺麗なバラをありがとう…。こんなことが出来るのはあなただけね?」
「まさか、君の一言があれば、アラブのシーク(王様)だってグラス一杯の宝石を差し出すさ…」
「相変わらず、口の上手いこと…」
 そう言いながら、マリアンはアレックスの手を引いて…控え室の中央にある大きなソファーに座る。
「そう言うあなたはいま、社交界の噂の的になっている身内の美しい伯爵令嬢のことで頭がいっぱいなのかしら…? それとも噂どおり、そろそろ身を固めるつもり…?」
 マリアンはそばに置かれていたブランデーのデキャンターからグラスに琥珀色の液体を注いでアレックスに差し出す。マリアンはステージ前にアルコールは一切口にしない。ここにあるブランデーが誰のためかなど、聞くまでもないが…ジャマールの言いつけどおりアレックスは、口をつけて飲むふりだけをしてグラスを置いた。

「さあね、だとしても今さらボクの生き方は変わらない。従妹の結婚相手を見つけて義務を果たしたら、ボクも世襲貴族として、形だけの結婚をして…あとは好きに生きるさ。つまらない処女の相手をするより、百戦錬磨の男を喜ばせる術を知っている美女の方が何倍も好みなんでね…。」
 そう臆面もなく言葉に出している自分に呆れながら…アレックスは、今この劇場のどこかにいるアスカのことを想った。

「じゃあ、まだ私にもチャンスはあるかしら…? あなたがこうして訪ねてきてくれるということは、あなたが私にまだ魅力を感じている証拠でしょう?」
 マリアンは甘えるようにアレックスの胸に擦り寄って、両手でその頬に 手を添えて彼の視線を自分の方に向ける。
「もちろんだ。だが君も知っているとおり、ボクはわがままで…君の多くの崇拝者の誰かと君をを分かち合うつもりはないよ。君の素晴らしい声とその美しい身体はとても魅力的だが…」
 アレックスは最大限自分の魅力を意識した声で、マリアンの耳元でささやいた。するとマリアンの頬がポッとばら色に染まる。
「よく考えて…いい返事を待っているよ。 ボクは忙しい…1週間ほど時間をあげよう…」
 そう言ったときに開演15分前のブザーが鳴り響く…。

「じゃあ、ボクは席に行くよ。マリアン…素晴らしいステージを期待している。そして1週間後に良い返事を待っている…。」
 片手でマリアンを抱き寄せて…わざと情熱的なキスをすると、サッと立ち上がって部屋を後にした。わざと、マリアンの表情は見なかった。前にはこんな歯の浮くような台詞も平気で吐いていたことが自分でも信じられない…。

 廊下に出ると、待っていた側近がすぐ回りに寄ってくる。彼らに守られて、劇場の二階にあるボックス席へと向かった。こんな人目の多い場所でウェイが襲ってくるとは思わないが、用心に越したことはない。劇場の舞台を正面にして右側の最前列がアレックスの席だが、その二つ向こう側にヘンドリックスとアスカがいる。
 照明を少し落した通路を進んでいると、どこからともなくまたジャマールが現れた。
「気をつけろ、アレックス。首筋に口紅がついている」
 そう言ってジャマールが差し出すハンカチを受け取って、苦笑しながら口紅の跡を拭き取った。言うまでもなくさっきのマリアンとの密会の跡だ。こんなものをアスカに見せる訳にはいかない。

「アスカはどうしている?」
 ハンカチをジャマールに返して、アレックスは訪ねる。
「君以上に上手くやっている…。なかなかの女優だ。」
 そう言うジャマールの口の端が笑っている。いつの頃からか、ジャマールはアレックスとアスカの駆け引きを見るのを妙に楽しんでいる節がある。これもジャマールがアレックスに示す新たな一面だが、アスカが現れてから、アレックスも変わったが、ジャマールも変わった。それにジャマール自身も気が付いているのだろうか…?


アスカは不思議な感覚を覚えていた。
アレックスの古くからの友人というピーター・ヘンドリックスは、初めて会った舞踏会の時の印象そのままに…とても誠実で思いやりのある青年に見えた。
 このロンドンで、アレックス以外の男性とこんなに長く過ごすのは初めてだったが、彼は始終アスカを退屈させることなく、話題も豊富で…付き添いのリリアにも細かい気配りを見せた。二人の女性をエスコートしながらのすこぶる紳士的な振る舞いに、普段は辛口のリリアでさえすっかり感心していた。
「アスカさま、Mr・ヘンドリックスはとても紳士な方ですね? いろんな経緯を知っていなければ、本当に誤解してしまいそうです」
「そうね…あなたの言うとおりだわ」
 ピーターが近くの席にいる知り合いに気づいて、挨拶のため席を立っている間に、4人掛けのボックス席の中でアスカのすぐ後ろに座っているリリアが小声でささやいた。
 こんなことがなければ、おそらくアレックスの共通の友人として、仲良く出来たかも知れないのだ。実際にはアレックスの情報では、ヘンドリックスは何年も前からこの劇場のマドンナ、“マリアン・クレール”に執心でかなり熱心に入れあげているのだという…。
 
「アレックスはどこにいるのかしら…?」
 アスカは同じ劇場に来ているはずのアレックスの姿が気になった。すでに開演15分前のブザーは鳴っている。この劇場内にいるはずなのだが…。
 するとアスカたちが座っているボックス席の後方がざわざわと騒がしくなったと思ったら、3人の護衛たちに囲まれて、一部の隙もないほどゴージャスに装っているアレックスが現れた。彼を取り囲む護衛たちも、みな容姿の整った美形ぞろいで…彼らが側を通るたびに近くのボックス席からは、若い女性ばかりか…年配の婦人たちからもため息がもれる。
 アレックスは自分の席に着く前にアスカとヘンドリックスのいるボックス席に寄って、軽い挨拶を済ませると、平然と用意されていた席に収まった。

「相変わらず、派手に登場する奴だな。唯一違うといえば連れているのが女性ではなく、男たちだということか…? もしかしたら本当にアレックスは身を固めるつもりなのかい?」
「ええ…そうかもしれないわよ。私も前の彼がどういう生活をしていたのかはよく知らないけれど、側にいた人たちは口を揃えて、“彼はロンドンに戻ってきて変わった”と言うわね…。」
 アスカはクスッと笑いながら…目線はアレックスに置いたまま答えた。
「そうなのか…!? それは驚きだ…。」
 同時に開演を告げるベルが再び鳴って…ステージを覆っていた幕が上がると、さっきまで陽気に語っていたピーターの視線が目の前の…ステージの中央に立つ歌姫に釘づけになっているのをアスカは微笑みながら見ていた。

ほぼ同じ時…ちょうどステージを挟んで反対側のボックス席…暗いカーテンの影でじっと向かいを見つめる冷たい爬虫類を思わせる鋭い視線があった。
「こんなに近く、最高なチャンスがあるのに…指をくわえて見ているなんて、どういう了見だ…?」
「まったく、せっかちな奴だな…」
どっしりと座ってじっと前方を見つめるラスキンの後ろで危険なオーラを漂わせている男がひとり…。東洋人の殺し屋、ウェイ・リーである。

「まあ、そう焦るな。近いうちにおまえの喜ぶようなチャンスをつくってやる。そのときに思う存分やればいいさ」
「ふ…」
 ウェイは嘲るような短い笑いを残してサッと姿を消した。
「どうもあの男の薄気味悪さだけは我慢なりません。」
 ウェイが居なくなると、側に控えていた別の側近がつぶやいた。
「まあ、仕方がない。今クレファードとその側近の異国人を倒せるのは奴だけだ。クレファードが居なくなったら、奴を始末すればいい…。」

 







 幕間の喜劇も含めて、2時間近くのステージが終わると、人々は次々と劇場を後にする。
気が付くと、数メートル離れたボックス席に居たはずのアレックスの姿はすでになかった。気になりつつも、アスカもピーターにエスコートされて、劇場の玄関へと向かう。劇場の正面玄関のポーチでは迎えの馬車を待つ人々でごった返していた。
 幸い護衛が早めに馬車の手配をしていてくれたおかげで、クレファード家の馬車はすぐにやってきた。
「さすがシェフィールド家の馬車は違うな。どこにあってもすぐ判る。」
 そう言って笑いながら、ピーターはアスカを先に乗せ、次にリリアを乗せてから自分も乗込むと、すぐ馬車はその場を離れた。

「楽しかったかい? 」
「ええ、素晴らしい公演だったわ。歌劇を見るのは久しぶり…リリアはどう?」
「私もです。10代の頃、一度香港で見たことがあります。でもあれは歌劇といえるかどうか、遠い異国でのことですから…」
 不意に聞かれてリリアは真っ赤になって答えた。
「リリア、君は英国よりも海外が長いんだよね?」
「はい、生まれは英国ですが、居たのは12歳までで、後はインドと香港…日本で暮らしていました。」
「すごいな、君達はほぼ地球を半周以上も回ってここに来たわけだ。」
「そうね、そうなるかしらね…」
 馬車の中では楽しい会話が弾み、アスカはピーターが目的を持って自分達に近づいて来ていることなどすっかり忘れていた。


 やがて馬車がクレファード家のタウンハウスに到着すると、待ち構えていた馬丁たちやフットマンたちに助けられてアスカとリリアが降りると、先に降りていたピーターは、誰かが持ってきた彼の馬の手綱を握りながら…アスカに近づいてその手をとって口づける。
「今夜はとても楽しかった。また時々誘ってもかまわないかな?」
「ええ、もちろんよ。それに来週のエジンバラ公の舞踏会にあなたはいらっしゃるのかしら?」
 アスカがそう言った時、ピーターの瞳がきらりと光る。
「ああ…君が望むなら、参加することにしよう」
「ええ…ではまたその時に…楽しみにしているわ。」
 アスカの言葉を聞くと、ピーターは満足げに微笑んで馬に飛び乗り、軽く手を振って去っていく。
その姿を見送って部屋に戻ると、さっそくリリアが困ったような顔をして話しかけてきた。

「本当にMr.ヘンドリックスは危険な方なのでしょうか? 」

 待っていたメイドに手伝われて、外出着からナイトドレスに着替えた後も、リリアは不安げにつぶやいた。
「どうやらだんな様はまだお帰りではないようですね? まさかとは思いますが、あのクレールという歌姫と過ごされているのではないですよね?」
「さあ…今回は何とも言えないわ。私たちはお互いに別行動をとると決めているんですもの。何があってもお互いを信じると決めているの」
「ですが、アスカさま…」
リリアはアスカを心配しているのだろう。いつものようにいろいろと主人であるアレックスに対する不満を並べていたが、アスカの何も動じない様子に安心して自室に戻って行った。

アスカだって本心では不安もある。今夜見た歌姫は、同性のアスカから見てもとても魅力的な女性だった。3年前にアレックスと愛人関係にあったと聞けば内心穏やかではないが、今さら疑ってみたところで何が変わるだろう。
 メイドたちが仕事を終えて下がった後、鏡に向かって髪を梳かしながら…アスカは鏡の中の自分に語りかける。
“大丈夫よ。あなたはもう昔のあなたではないし…。恐れるものは何もないわ…。”







 紋章の入らない、目立たない馬車の中で、アレックスはジャマールとともに自身の屋敷に向かいながら、これからの行動について策を練っていた。
 今回はマリアンとの接触をわざと控えめに抑えたのは、マリアンに考える余裕を与えたのと、ラスキンの出方を見るためだったが…忍ばせている部下からある情報がもたらされたことで、急きょランスロット卿の意見を求めることにして、アレックスは公演の終わりを待たずに劇場を後にすることになった。
 ランスロット卿は、女王の宰相であるが、ランバーン伯爵の呼称を持ち、貴族院でも最高位の役職も持っている。貴族内の揉め事や問題が起きた時には、法務院にかける前にまずは彼に相談するのが慣例になっていた。
「それで、ランスロット卿はなんて言ったんだ?」
 ジャマールは窓の外に意識を向けながら、アレックスに問いかける。
「ン…今までもラスキンの巧妙な投資の罠に引っかかって、一財産失う貴族達はいたが、わざと何も手は打たなかった。だが…今回ターゲットになっているのは、エジンバラ公だ。さすがに今回ばかりは見過ごせない…。」
「それで…?」
「ランスロット卿自ら、公に忠告することにしたらしい。」
「それはますますラスキンを怒らせることになるな…?」
「たぶん…。だが面白くなる…。奴はどう出てくるか…」
  アレックスも口の端に笑みを浮かべて窓の外を見た。追い詰められたラスキンが攻勢に出てくるのは容易に想像出来る。マリアンのことも含めて、ラスキンからすれば最も許しがたいことだろう。だが同時に不安材料もある。あれからエレオノーラの所在がまったく掴めないのだ…。
“ラスキンはレッジーナを味方に付けている。エレオノーラとアレックスの関係が知れれば、彼女の身にも危険が及ぶのは必至だ…。こちらも出方を間違えれば、取り返しのつかない事態にもなりかねない…。”

「あれから、アンドルーからは何か情報は来てないのか?」
「ああ…何故かあれからレッジーナは沈黙している。それをどう読み解くかだな…?」
 ジャマールは表情を変えずに答えた。
確実にエレオノーラとの距離は近づいている気がしているのに、その実態はまったくつかめないのだ。総てが解決して…実際に対面が叶ったとして…その時自分がどんな態度をとるべきなのか…。それもアレックスはまったくわからなかった…。

「アレックス…?」
 しばらく考え事をしていたアレックスはジャマールの問いかけに気が付かなかった。
「おそらくこの1,2週間のうちに何か大きな動きがあるだろう。今のうちにアスカのもとで息抜きをしておくことだな。今の君は半分魂が抜けたような顔をしている。」
「ふ…馬鹿を言うな…。今の状況をいろいろ分析していただけだ。」
「ほう…? そうかい…。」
 ジャマールはいつもの含み笑いを浮かべている。ジャマールにはそう強がって見せたが、確かに…この頃のめまぐるしい展開にアレックス自身、疲れ果てていた。今のアレックスを癒せるのは、ジャマールの言うとおり、アスカだけだ。アスカの柔らかなぬくもりの中に身を沈めることを想像するだけで、身体の中心は熱を帯びてくる。もうそれは切望に近い…。












 公演は成功に終わり、大きな喝采を浴びながらステージを下りて、再び控え室に戻ったマリアンは、自分が戻ってくるのをアレックスが待っているとすっかり思い込んでいたため、そこに待っていたラスキンに驚きの声を上げた。
「ラスキン! あなたなのね…?」
「マリアン…オレでなければいったい誰を待っていたというんだ? それともクレファードか…?」
 そう言うラスキンはひどく機嫌が悪い。こんな時の彼はひどく危険なこともマリアンは経験で知っていた。
「ラ、ラスキン…まさか。お祝いの花をもらっただけよ。それだけだわ、…」
「そうかな…? あの色男がおまえに何を言ったか、俺が知らないとでも…?」
 ラスキンは険しい表情を崩さないまま、口元にゆがんだ笑みを浮かべながら…怯えた表情のマリアンに近づくと、手の甲で彼女の左の頬を叩く。鋭い音がしてマリアンは床に倒れた。
「や…やめて…。」
 ラスキンはさらに乱暴にマリアンの髪を掴んで自分の方を向かせる。
「誰のおかげでここまで有名になれたと思っているんだ…! 3年前にクレファードに捨てられたおまえを拾ってやった恩を忘れたとは言わせないぞ…!」
 なおもギラつく目を向けて激しくマリアンの身体を揺さぶるラスキンに近くにいた側近の一人が何かを耳打ちすると、ラスキンは小さく舌打ちして…マリアンの身体を離した。するとマリアンは力なくその場に崩れ落ちた。
「今度馬鹿な真似をしてみろ、2度とステージに立てないようにしてやるからな!」
 そう言い残してラスキンは笑いながら部屋を出て行った。






 暗い寝室の中で、枕元に置いた小さなオイルランプと…暖炉に燃えている明かりの炎がチラチラと揺れている中で、アスカは心地よい感覚に目覚めた。いつの間にか身に着けていたナイトドレスは脱がされていて、素肌の上を撫でるように触れていく柔らかな唇の感覚に思わず切ないため息が漏れる。
「アレックス…あなたなのね…?」
「ああ…ボクだよ…。今夜は君のぬくもりなしで眠ることは難しい…。」
 薄暗い明かりの中で聞こえてくるアレックスの声もどこか切羽詰った響きがある。アスカが手を伸ばしてアレックスの頬に触れると、その髪がまだ濡れているのがわかる。きっと戻ってきてからそれほど時間が経っていないのだろう。

「アレックス…私も…あなたが来てくれるのを待っていたわ…」
「アスカ…君はまるで禁断の果実だな…。一度その味の虜になったら…二度と離れられない…」
「おかしなことを言うのね…。わたしにそれを教えたのはあなたよ。アレックス…あなた以外の誰かを求めることなど考えられないわ…」
 もうそれ以上の言葉は必要なかった。互いの情熱をぶつけ合い、ひとつの炎となって砕け散るまで求め合う。
互いの関係を公表出来ない今は、前のように朝まで一緒に過ごすことは出来ない。朝になって目が覚めたその隣に彼は居ないのだ。その想いが何時になくアスカを熱くさせた。

  一時の熱情が去って、アレックスは、ぐったりとアスカの胸に顔を埋める…。今の状況の複雑さが彼を疲れさせ、戸惑わせている。それをアスカは心配していた。
「大丈夫…? アレックス…。あなたはとても疲れているみたい。お母様はまだ見つからないのね?」
「ああ…エレオノーラは相変わらず強固に隠れたままだ。その姿の片鱗さえ掴めない。今までの中で最も手ごわい相手かもしれない…。」
 少し自嘲気味にアレックスはつぶやいたが、本当の問題は他にあることに彼も気が付いている。
「アレックス…」
 アスカは幼い子どもをあやすように、両手で優しくアレックスの髪をかきあげた。
「君とこうしているとつい本音を語りたくなる…。正直言うと…もしエレオノーラに運よく出会えたところで…ボクは何と言っていいのか分からないんだ…。長い間、母親だと信じていたレッジーナとは言葉では言えないほどの深い溝があった。そのレッジーナが実は叔母で、本当の母親は別の女性だと聞かされて、ホッとする反面…その人にどう接するべきなのか、正直混乱している。」
「アレックス…」
「アスカ…君の父親がロバートだと聞かされたときの君の気持ちが、今ならよく解るよ。君はボクよりずっと勇敢な女性だな…」
 アレックスの言葉には自身に対する哀れみが込められていた。ホークと呼ばれた彼の…その傷つきやすい少年のような心のうちを知って、アスカは堪らない気持ちになった。

「アレックス…きっとお母さまだってあなたのことをいつだって忘れたことはないと思うの。けれど自身の目のこともあって、あなたの将来を思って身を引かれたんだわ。私があなたの母親なら、きっと同じ道を選んだかもしれない。けれど、どんなに離れていてもあなたを生んでくれたお母様でしょう…? その方がいなければあなたは生まれて来なかった。わたしからすれば、感謝しかないわ。あなたとこうして出会えたのですもの…。」
 アスカはそう言って両手でアレックスを抱きしめて、頭のてっぺんに優しくキスをした。

「君ほど慈悲深く、優しい女性はいないな…。ありがとう…君のおかげで少し心の迷いが晴れた気がする。本当に君は素晴らしいよ、アスカ。君と出会えたことに心から感謝する。」
 
そこから先はもう言葉は必要なかった。
二人は心から優しい仕草でお互いをいたわる様に求め合う…。そしてやがて静かに眠りに着いた。

それからしばらくは平穏な日が続いていたが、クレファード家の、アレックスの書斎の中ではいつになく緊迫した空気が流れていた。
「いよいよラスキンが動き出したか、でもそのやり方はまるで本性丸出しだな。ランスロット卿の根回しで、まとまり掛けていたエジンバラ公とのビジネスが先送りになったことでかなり焦っているに違いない。近いうちに必ず何か仕掛けてくることだろう…」
 ジャマールも独自のネットワークから判断して、かなり状況は流動的になっていると思っている。例の殺し屋、ウエイ・リーの存在も不気味だ。自然とその声にも厳しさがあった。

 ジャマールの報告を聞きながら、アレックスは先ほど届けられたマリアンからの手紙を見ていた。先週わざとマリアンに近づいて、関係の復縁を匂わせたのは、マリアンのバックにいるラスキンを揺さぶるためだったのだが、さっそくその効果は現れていた。
 マリアンの手紙にはかなり切羽詰った文面で、今の状況から自分を助け出して欲しいと書かれている。ラスキンはお世辞にも紳士的とは言えない男だ。アレックスがちょっかいを出してきたと知って、嫉妬に駆られたラスキンがどんな行動に出たかは容易に想像できる。

「アスカはどうした?」
 今日はアスカの姿が見えないことにジャマールが気づく。
「ピーターと出かけている。博物館見学の予定だが…?」
 何事もないような口調でアレックスは答える。
「大丈夫か? ウエイは君とアスカの関係を知っている。君を誘き出すために彼女を利用しかねない…。」
「ああ…分かっている。だがピーターは優秀な軍人だ。十分守れる力はある。それにリリアも一緒に付いている。当然護衛としてコンウエイも同行していることだし、心配はしていないさ。」
「なるほど、そういうことか…」
 そこで初めてジャマールは表情を崩した。海の男を自称しているコンウェイがこんなに長く陸にいることも珍しい。すべては新妻になったリリアの所為か…。

 そこで、二人が顔を見合わせて笑っていると、ドアをノックする音がして、家令のロレンスがトレイの上に今朝発刊されたばかりの新聞を載せて入ってきた。
「旦那さま、今朝の朝刊に気になる記事が載っております」
「ん…?」
 アレックスはトレイの新聞を受け取ると、一面の社会欄に載っている記事の見出しに目を留めた。
“闇の金融王 マキシム・ラスキンと 公爵未亡人の不可解な関係 “
記事はここ数ヶ月のラスキンとレッジーナのやり取りを独自の目線で捉えたものだった。その記事を書いたのはあのロニー・ウォルターだ。一時アレックスに執着していたあの男が今度はレッジーナを標的にしたとしても大して驚かない。
 ウォルターは、亡くなった妹が産んだという娘の父親を探していた。そのことでアレックスに近づいてきたのだろうが、妹がクレファード家の使用人として働き始めた時期には、当主であったアレックスの父親はすでに車椅子の生活でとても情事が出来る様な身体ではなかったし、その頃にはもうマナーハウスではなく、別の領地で静かな余生を送っていたはずだ。そう思うと、当時マナーハウスに暮らしていたのはレッジーナであり、おそらくウォルターの妹に手を出したのはその愛人の一人ではないかとアレックスは思っている。
 同じことを感じたウォルターがレッジーナに近づいていったとしても不思議じゃない。

「スキャンダルの多いレッジーナも、さすがにラスキンとの関係が表に出たのはあまり好ましいことじゃないだろう。」
「だろうな…。別にレッジーナが誰と関わろうが、今さら気にもならないが…相手がラスキンなら話は別だ。たぶん、レッジーナはラスキンの恐ろしさの半分も分かってはいない。そういう意味ではとても危険な存在になった」
「そうだな…。」
 アレックスの言葉にジャマールは難しい顔をして頷いた。

「これをきっかけにして何かが動く予感がする。良い方向に転べばいいが…もしかすると状況は、我々の思いもよらない方向へと流れていくことも考えられる…」
「その覚悟は出来ているか? アレックス…。」
 ジャマールに促されるまでもなく、アレックスにはわかっていた。レッジーナがラスキンとつながっていると知った時から、自分とアスカ、エレオノーラに至るまでもう引き返せない危険なところまで来ているのだ。
 アレックスは黙って頷いた。
“そう…もうすべては動き出したのだ…。それがどこへ向かっていくのか…?誰にもわからない…”




 
朝からひっきりなしにもたらされる情報にレッジーナは、落ち着かず、いらいらしていた。
いつからこんな状況になったしまったのか…? 最初は自分をまったく尊重しようとしないアレックスに対して、嫌がらせも込めて少し思い知らせてやろうと思ったことがきっかけだったが、組んだ相手が悪かった。 
 最初はそれなりに紳士的に接していたラスキンが、ある時を境に態度が豹変するようになったのだ。そして、今朝のロンドンタイムスにこの記事が載ると、レッジーナ側に問題があると、烈火のごとく非難を並べた手紙を送ってきた。挙句の果てに、今すぐアレックスをある場所に連れてこないと、どんな手段を使ってでもレッジーナを破滅させると脅してきたのだ。
 こんな時側に抱えている多くの愛人達は、誰も当てにならない。こんなことなら、少しくらい意に沿わなくても、アレックスの言うとおりにしておけばよかったと後悔しても遅かった…。

「誰か居ないの…!?」
「はい、公爵未亡人…何か?」
 苛立たしげなレッジーナの声に反応してきたのは、フットマンに扮したアンドルーだった。
「アンドルー、ロベールはどこ?」
「午前中に馬でお出かけになりました。行き先は存じません…」
「なんてこと…! 肝心な時に役に立たないのね…。いいわ、アンドルー。あなたに頼むわ。今から出かけます。わたしと同行してちょうだい」
「はい、わかりました。どちらへお出かけですか?」
「ラスキンのところよ、30分後に馬車を回してちょうだい…」
「わかりました…」
 アンドルーは軽く頭を下げて夫人の元を辞してから、無表情を装いながら頭の中でめまぐるしく状況を正しく判断すべく、考えをめぐらせていた。



 アスカは朝食後約束の時間きっかりに迎えに来たピーターと供に、ロンドンの北東部       にある大英博物館を訪れていた。もちろん、付き添いとしてリリアも同行していたし、護衛として数人の屈強な男たちも離れず付き添っていた。
「相変わらず、アレックスは君をまるで宝石のように大切に扱っているんだな…?」
 博物館の中、数ブロックをゆっくり見て廻りながら…ピーターは自分達に着かず離れずで距離を保っている護衛たちをちらりと見て微笑んだ。
「そう…? わたしのお守りをあなたに任せて、案外どこかで今頃は羽目を外しているかもしれないわよ。昨日もほら、先週あなたと観に行った劇場の歌姫から手紙が届いていたもの…」
 わざとアスカはすねたような口ぶりでそう言うと、傍らに立つピーターの様子を見守った。前に聞いた話では、彼はその歌姫にゾッコンでその彼女のためにわざとアスカに近づいて来たのだということだったけれど…?。

「へえ…? まあ、彼はどこへ行っても女性が放っておかないからね。それに彼女は3年前にアレックスの愛人だった…」
「そうなの? だから前回の公演会に来てたのね?」
「君は彼のそんな行動は気にならないのかい?」
「どうして…? 彼はわたしよりずっと年上なんだし…彼には彼の生きてきた世界があるもの」
 そう言ってアスカは笑ってみせる。数ヶ月前ならきっと不安から取り乱してしまったかもしれないが、今のアスカはアレックスの本心もわかっている。

「それより…あなたのことが心配だわ。ごめんなさい、一緒に過ごしていて、ピーター…あなたはとてもすてきな紳士だけれど…本当はあなた…好きな人が他にいらっしゃるのではなくて…?」
 アスカはそこで思い切ってピーターにその言葉を投げかけてみた。彼はアスカに好意があるように装っているが、どことなく哀しげで…実際にはピーターがアレックスの元愛人だというその歌姫に心酔していることは、ジャマールから聞かされて知っていたけれど、アスカは彼と接しているうちに彼が本当は見かけに反して純粋な青年であることを感じていたのだ。

「君は…」
 一瞬驚いたようにピーターはアスカの顔をじっと見つめた。そして大きくひとつ息を吐いて諦めたような表情をして語り始めた。
「君は本当に稀有な女性だね、アスカ…。男の気持ちが解るのかい? そう、ボクはちょうど一年前からあの劇場のマドンナ、“マリアン・クレール”の崇拝者だった。友人に誘われて行ったオペラで初めて彼女を見てから、その魅力の虜になったんだが、彼女の方でもまんざらでもなくて…数ヵ月後には深い関係になっていた。マリアンは男の気持ちを操るのが巧い。半年を過ぎる頃には、彼女には他に多くのパトロンがいることや3年前にはアレックスの愛人だったこともわかったが、その頃にはマリアンに誘われて出入りしていたクラブでつくった多額の借金まで抱え込むことになって、自分でもどうしようもないところまできてしまったんだ…。参ったな…。つい、君の優しさにほだされて…こんなことまで語ってしまうなんてどうかしているよ…。このことはアレックスには内緒にしてくれるかな?」
「もちろんだわ、でも彼ならあなたの窮地を救ってくれるはずよ」
「いや、それは男のプライドに掛けて出来ない…。自分で何とかするよ。ありがとう。不思議だな、君がこんな風に話してくれて、何かすっきりしたよ。迷っていたんだ。もうこんな関係は終わらせるべきだと思っていたけれど、なかなか踏み切れなくて…。君とはもっと早く出会いたかったよ、そうしたら、もっと素晴らしい恋が出来ただろうに…。」
「そう…? アレックスにはいつもわたしは山猫のようだと言われているの。あなたが思っているほど、わたしは淑女ではないかもしれないわよ」
 アスカがそう言うと、ピーターはさらに愉快そうに声を上げて笑った。それからのピーターは本来の快活さもあいまって本当に楽しそうにアスカとの会話を楽しんでいた。アスカはそんなピーターの姿に安心しながら、彼を、アレックスを追い込むための駒として利用している連中のことを思った。

“もし、ピーターが彼の言うようにマリアンのことを諦めることで、もう役に立たないと解ったら…何か危害を加えられることはないかしら…?”
 そんな不安が表情に表れたのか、ピーターの方が不思議そうな表情でアスカを見る。

「どうしたんだい? 急にまじめな顔をして…?」
「いえ、あなたが新しい人生を歩むことになったら、もうこんな風に誘ってはもらえないのかと思って…」
「まさか、出来れば友人のひとりとして、アレックス同様付き合ってもらえば嬉しいけれどね…」
「もちろんよ…!」
 アスカは明るくそう言って笑ったが、この先どういう流れが待っているのか、アスカにもわからなかった。


 ふたりは和やかに語り合いながら、広い展示ホールの中を楽しげに進んでいく。それを少し離れた柱の陰からじっと見つめる男がひとり…。目立たないように装っているが、明らかに他の来館者とは違うオーラをまとっていた。
「外にはクレファードの付けたボディガードと思われる大男が一人、館内にも数人…それらしき連中が着かず離れず付いている。ここであの女を捕まえるのは無理では…?」
 不穏な雰囲気を持つその東洋人に、同じような雰囲気を持つ英国人の男が二人、柱の影で小声で囁いた。
「チっ…! あの男をおびき出すのに、こんな面倒なことをしなければならないとはな…。あんた達の助けは要らない…。何をするにしてもわたしの邪魔はするな…。」
 その東洋人はそれだけ言ってさっと姿を消した。

動き出した黒い影

 その頃アレックスは、自室の書斎でマリアンへの手紙をしたためていた。昨日送られてきた彼女からの手紙にはかなり切羽詰った内容の助けを求める文章がつづられていた。もちろん、アレックスがマリアンに近づいた時からこうなることは織り込み済みだったが…。

「どうするんだ? このまま放置するのか? それとも慈悲深く保護するのか? どっちだ?」
 近くのイスに腰掛けて様子を見守っているジャマールが問いかける。
「とりあえず、ランスロット卿に連絡して、どこか安全な場所に避難させる。マリアンはラスキンの情婦だった。おそらく一番間近で、奴の悪事を見て来たに違いない。裁判では証人も必要になるだろうから…」
「なるほど…もうかつての愛人には情けは感じないか…。」
「当たり前だ。人並みに同情はするが、それ以上はない…」
 アレックスは、マリアンとランスロット卿にそれぞれ手紙を書いて、家令のロレンスを呼んで託した。直接アレックスが動いてマリアンを保護することも出来るが、又別の誤解を生む可能性があって、今のアレックスはアスカの手前、それだけは避けたかった。

 するとしばらくして別の急ぎの知らせとして、レッジーナの元に潜入していたアンドルーから短い手紙が届く。

「アンドルーからだ。レッジーナが動き出した。これから同行してラスキンのところへ行くと書かれている。」
 かなり急いでいたのだろう。走り書きに近い文字で書かれたそれは、レッジーナがかなり慌てている様子が手短に記されていた。
 無言で素早く目を通してから、アレックスはジャマールに手渡す。
「ラスキンの方でも何か問題があったに違いない。ということは例の殺し屋、ウエイの動向が気になる。アスカはいつ帰ってくるんだ?」
「そろそろだと思うが…なんなら誰かを迎えに行かせよう」
「ああ…それがいいだろう。すぐ手配する…」
 そう言ってジャマールはその場を後にした。アレックスは書斎の窓際に移動して、アスカがいるあたりを見つめる。
“アスカは勇敢だが、今は出来るだけ動かないほうがいいかもしれない…。あれからあの殺し屋の動向がわからないのが不気味だ。もしアスカに何かがあったら…?”

 そう思っただけで、アレックスはじっとしていられなくなった。どうせアレックス自身でアスカを迎えに行くと言っても、ジャマールに止められるに決まっている。胸ポケットから時計を取り出して時刻を確認すると、午後1時少しを廻ったところだ。もともと2時までには戻るといっていたのだから、そう心配することもないのだろうが…。



ロンドンの外れの目立たない小さなホテルの一室で…アニーはどうしてよいのか解らず、泣きながらそこで待っているはずのシスターの姿を探した。
「シスター!…どこです!? 」
 テーブルの上には飲みかけの紅茶があり、いつも大切に抱えていたスクラップブックもイスの足元に落ちていた。
 目の悪いシスターが、アニーの同行なしにどこかへ出かけるなんて有り得ない。今朝早く、朝食を終えた後に、いつものように街角まで新聞を買いに行って戻ってみると、そこにシスターの姿はなかったのだ。部屋はそれほど荒らされた感じはなかったが、きっと何か予想外のことが起こったに違いない。
 今日の午後、シスター・エレンはロンドンを離れる予定で、辻馬車も予約してあったはずで…でもシスターはこの1週間何かに怯えていた。もしシスターの身に何かあったら…?

 そう思ったらアニーはじっとしていられなくて、シスターが大切にしていたスクラップブックを両手に抱えると、そのまま外に飛び出した。



  

 レッジーナはラスキンの住まいとなっているロンドン北西部のホテルに到着するまで、酷く怒っていた。ラスキンに協力することを同意したのは確かだが、それはあくまでアレックスを困らせようと思っただけで、その身を危うくしたいわけではなかった。
 それがラスキンを深く知るにあたって、彼が本当はアレックス自身の命を狙っていると知って驚いた。途中抗議してこれ以上の協力は出来ないと言うと、今度は逆にレッジーナ自身を脅してきたのだ。協力しないと、レッジーナばかりか…かかわりのあるものすべてに危害が及ぶと言って来た。知れば知るほどラスキンは危険な男だ。
エレオノーラの命さえ危険に晒す事になるなんて…。どうしてもそれだけは避けなければならない…。
  何人かの使用人の中から骨のありそうな者を選んで連れてきたものの…ラスキンの住まいに到着すや否や怯えたように後ずさりを始めた。ただひとり最近フットマンとして雇ったアンドルーだけは眉ひとつ動かさず、じっと様子を伺っていた。

「これはこれは公爵未亡人、あなた自らおいでになるとは…わざわざ迎えに行く手間が省けたというものだ。」
 ラスキンはレッジーナの姿を見ると、下卑た笑みを浮かべながら勝ち誇ったように言い放った。
「何ですって…? どういう意味かしら…?」
「前にも言いましたが、我々が望むのはクレファードが消えてなくなること。そのためにあなたを利用したまでだ。クレファードをおびき出して始末する。そのために彼が一番大切にしているものを我々は探していたが…。やっとそれが見つかったんでね…」
「まさか…。本当にエレオノーラを見つけたの…?」
「そのとおり…。奴より先に見つけて欲しいといったのはあなたの方だったことを忘れてもらっては困るな…」
 応接室のどっしりとした肘掛け椅子に腰掛けながら、ラスキンは勝ち誇ったように笑う。
「何ていうこと…。それはあくまで、アレックスを困らせるためにしたことよ。高貴な貴族を監禁するなんて、許されることではないわ! 今すぐわたしを含めて解放しなさい…!」
「バカな…苦労してやっと手に入れたものを易々と手ばなすと思っているなら、あなたはとんだ世間知らずのお人よしだな、公爵未亡人。あんたとクレファードは実の親子といえども、世間的には犬猿の仲だ。骨肉の争いの末に相打ちで命を落としたとしても不思議に思わないだろうよ…!」
「そんな…! 」
 レッジーナは悔しさに唇を噛む。そんなレッジーナの様子を見てさらにラスキンは言い募る。

「のこのこと、わたしの口車に乗ったあんたが悪いのさ。その点、あんたの息子のクレファードはホークと呼ばれるほどの切れ者だが、奴にもアキレス腱はある。それをだしにじっくり料理してやるさ。奴の息の根を止めた後にあんたにもそのもうひとりの奥方にも一緒にあの世に行ってもらうことにしよう…」
 ラスキンはそう言ってまた高らかに笑うと、どこからかいかにもギャングのような様相をした男たちが現れて、レッジーナの腕を掴んでどこかに連れて行こうとすると、思わずレッジーナは大声を上げた。
「その手を離しなさい…! 汚らわしい…! 私を誰だと思っているのですか…!」
「おやおや、これは失礼、公爵未亡人…おまえ達…高貴なお方だ、御丁寧にお部屋にお連れしろ…」
 ラスキンがわざとからかうような口調でそういうと、男たちは一度手を離したが、わざと下卑た笑い声を上げながら追い立てるようにしてレッジーナを別の部屋へ連れて行った。残された従者達も
1箇所に集められ、他の連中が怯えた表情で顔を見合わせている中、ラスキンが不意にランドルーに目を止める。

「おい、おまえ…。英国人じゃないな?」
「はい、生まれはカリブです。1ヶ月前に英国に働きに来たばかりで、2週間前からフットマンとして働いていました。」
 アンドルーは怪しまれないように少し小声で怯えたように応える。
「そうか、じゃあおまえに頼もう。この手紙をクレファードに届けろ…。いくら新参者でもシェフィールド家の当主の顔くらい知っているだろう?」
「は…はい。シェフィールド…閣下…ですね?」
「そうだ。変な気は起こすな? さもないと…ここにいる仲間の命はないからな…」
「わ…わかりました…」
 ドルーがわざと怯えたようにうなずくと、身体を寄せ合っている仲間の使用人たちが悲痛な表情をして彼を見つめた。彼のボスであるアレックスに事態を報告するまたとない機会だが、仲間の彼らをそのまま放っておくことも出来ない。必ず助けることを心に誓って、アンドルーは怯えた若いフットマンを演じつつ…目隠しをされてロンドンの、シェフィールド家のタウンハウスの近くで馬車から下ろされるまでじっと大人しくしていた。








  帰りの馬車の中で、アスカは再びピーターの快活なおしゃべりを聞きながら…ピーターの話の中に出てくる10代前半の、寄宿学校時代のアレックスの姿に思いを馳せた。傍らにはリリアが居て、アスカと一緒に微笑みながら聞いていた。御者台にはコンウェイが座り、数人の護衛は馬で後方から付いている。
「君達にこんな話までしたら、あとでアレックスにこっ酷くしかられそうだな…」
「あら、そんな小さな昔話にまでアレックスはいちいち目くじらは立てないわ。そうでしょ? リリア…?」
「はい、その程度のお話なら全然驚きません…」
「ハハ…シェフィールド家の女性はみんな豪傑なんだな…」
 ピーターが大声で笑い出した時、急に馬車が減速してアスカとリリアは壁に押し付けられる。

「すみません、お嬢さん、急に誰か飛び出したようで…」
  御者台から、コンウェイがすまなそうに言うと、アスカは停車した馬車のドアを開けて、外の様子を眺めた。
「誰か飛び出したと言っていたけれど、大丈夫かしら…? 」
「ボクが見て来よう…」
 そう言うが早いか、ピーターが馬車を下りて様子を確かめる。すると馬車の近くには10歳くらいの女の子が泣きじゃくりながら、大声で何かを訴えていた。酷く混乱している様子で、女の子は早口で何かを伝えようとしているのが解るが、コンウェイや周りの男たちは理解できずに困っている様子だった。その様子を見たアスカはリリアを伴って馬車を下りると、女の子に近づいて声を掛ける。
「こんにちは…。どうしたの? 何かあったのね? まずあなたの名前を聞かせてくれる?」
 優しいアスカの声を聞いて、女の子は激しくしゃくりあげながら、小さな声で自分の名前はアニーと告げる。
「じゃあ、アニー、何があったの? 怖がることはないのよ。ゆっくりでいいから話してくれる?」
 アニーと名乗った女の子は小さな声で、途切れ途切れの言葉ながら、自分は孤児で、孤児院で自分の面倒を見てくれた年配のシスターと一緒にずっと旅をしていたこと…。そのシスターに頼まれていつものように新聞を買いに街に出ている間に、そのシスターがホテルの部屋から居なくなってしまったことなどを話した。そして、そのシスターがとても大切にしていたスクラップブックに大切に保管されている新聞記事にこの馬車の紋章が載っていて、通りで見かけて、もう夢中で追いかけてしまったことなどを泣きながら話した。
 アスカはそれを聞いて、ハッとしたように少女が大切に抱えていたスクラップブックを広げて見る。
「こ…これは…!?」
 一番新しいスクラップブックのページには先日の、ロンドンタイムスの見出しの記事で…“シェフィールド公爵、リンフォード伯爵令嬢を伴って、王室主催の舞踏会に颯爽と現れる!“があった。
 パッと飛び込んでくるその文字を見て、アスカはすべてを理解した。この少女が探しているシスターこそが、アレックスの実母、エレオノーラなのだ…。なんという偶然だろう…?
 ならば、エレオノーラを連れ去った人物はラスキンに違いない…。今すぐアレックスに知らせなければ…!

「アニー、大丈夫よ。あなたはわたし達と一緒にいらっしゃい。」
「でも…」
 不安そうに見上げるアニーを安心させるためにアスカは彼女の小さな身体を優しく抱きしめた。
「わたし達は、あなたの探しているシスターの知り合いなの。この記事に載っている公爵様があなたの大切に想っているシスターをきっと探してくれるわ」
「そうなんです…! シスターはその方の記事が載っているととても嬉しそうにしていらっしゃいました。きっとシスターにとって大切な方なのだろうと思っていたんです」
 アニーは涙を拭くと大きく頷いてやっと笑顔を見せた。

 それからアスカは短く事情を、ピーターはじめリリアたちに説明して、アニーを自分達の馬車に乗せようとしたちょうどその時だった。通りの向かい側から暴走してきた一台の馬車が、右折しようとして曲がりきれずに横転してクレファード家の馬車に突っ込んできたのだ。激しい衝撃にその場に居たアスカたちは地面に倒れたが幸い、人も馬もケガはなかった。

「大丈夫かい!? アスカ…? 」
 ピーターが慌ててアスカを抱き起こす。アスカはアニーを庇うように彼女の身体を抱きしめていたが、どうやら彼女もケガは無さそうだった。
「参ったな…。車輪がいかれている。これじゃあ、どうしようもないな…。代わりの馬車を持って来ないと…。旦那、おれは屋敷に帰って代わりの馬車を連れてきます。それまでお嬢さん方を頼みます」
「わかった。任せたまえ…」
ピーターがそう応えると、コンウェイは護衛の馬に飛び乗ってまっすぐクレファード家のタウンハウスを目指した。
コンウェイが居なくなると、申し訳無さそうにぶつかってきたもう一台の馬車の御者が頭を下げてきた。カーブに差し掛かったとき、なぜか馬を止めていた武具の一部が切れて外れてしまったために、興奮した馬を制御出来なかったのだという。相手は辻馬車だったが、幸い客は乗っていなかった。

「どちらも怪我がなくてよかったわ、じきにコンウェイが代わりの馬車を持ってきてくれるでしょう…」
 そう言いながらアスカは一緒に居たリリアの姿を探した。さっきまですぐ側にいたリリアの姿がないことに気付いたアスカが、振り返るのと同時に甲高いリリアの悲鳴が聞こえた。
「リリア…!」
 アスカが声のする方を振り返ると、少し離れた路地の入口で、首元にナイフを突きつけられたリリアの姿があった。
「騒ぐな…この娘の命が惜しかったら静かにしてもらおう…。」
 リリアの後ろに真っ黒なマントに身を包んだ男が、まっすぐこちらを見つめていた。

“この声に聞き覚えがあるわ…。この声は黒柳のところにいた殺し屋…。アスカの目の前でアレックスを撃った男だ…”

「おまえは誰だ…!?」
 ピーターがアスカたちを庇うようにその前に立ちはだかると、近くに居た護衛たちもその周りを取り囲む。
「誰でもいい…。あんたには関係のないことだ。用があるのは…そっちの女だ。」
 そう言って男は、リリアの喉元にナイフを突きつけたまま…アスカの方を顎で示した。

「わかったわ。だったらリリアを放して…。最初からわたしが目的だったのでしょう…? 」
 アスカは毅然とした態度で、小声でアニーに小さく大丈夫と囁くと、その身体をピーターに託して
目の前のウェイに向き合った。
「大した女だ。黒柳のところに居た時にもあんたの勇気はは大したものだったが、黒柳と違っておれの目的はあんたじゃない…あんたを餌にホークとその後ろにいる異国人を釣り出す。あの時の借りを返したいんでね…」
「残念ね…。彼らは反応しないかもしれないわよ」
「そんなはずはない、あんたはあのホークが自分の命を引き換えにしても守りたいと思っている女だ。ほかの奴らは騙せてもおれは騙されない…。この女の命を助けたかったら、今からおれと一緒に来てもらおう…」
 ウェイは勝ち誇ったようにニヤリと笑う。右頬の傷跡が不気味に動いて、さらにその凄みが増して見える。

「アスカ…だめだ…」
 ピーターが片手でアスカの腕を掴むのをアスカは、黙って頷いてその手を解いた。
「大丈夫…わたしは自分の成すべきことはわかっているわ。アニーをアレックスのところへ連れて行って、ありのままを話してちょうだい。それで…わたしがあなたに従えば、リリアを解放してくれるのね…?」
 アスカの言葉にウェイは頷いた。それを見てアスカは一歩、一歩ウェイの方に歩みを進める。

「アスカさま…」
 リリアは恐怖と涙でくしゃくしゃになった顔を上げてアスカを見る。

「さあ、あなたの言うとおり来たわ。リリアを放して…!」
 ほぼウェイの1メートル手前まで来た時、どこからか目立たない黒塗りの馬車が現れて止まると、中から現れた男たちにアスカは馬車の中に押し込まれる。アスカが馬車に乗ったのを確認して、ウェイは掴んでいたリリアの身体を離すと、自分も軽い身のこなしでサッと馬車の荷台に飛び乗った。馬車はそのまま何事もなかったように走り去っていく…。
 解放されたリリアは力が抜けてその場に力なく、くず折れる…。



 その頃アレックスは、ジャマールと一緒に書斎の執務室で、アンドルーから今朝からの経緯の報告を聞いていた。アンドルーがいつもより深刻な面持ちで現れた時から、何かが起こっていると直感したアレックスは、レッジーナだけではなく、すでにエレオノーラまでもがラスキンの手に堕ちたことを知ってその表情が曇る。
「ラスキンはいったいどうやってエレオノーラの居所を突き止めたんだ…?」
「恐らく…公爵未亡人からの情報だと思われます。定期的にエレオノーラ様はさる筋から金銭的な援助を受けていらっしゃったので、その流れを追っていたのではと思われます」
「しまった…その件なら前にダートンから聞かされていたのに…ほかの事に目を奪われてすっかり見落としてしまったな…」
 “今さら後悔しても遅いが…今はどうしたら無事にエレオノーラを助け出すことを考えなければ…”
 これからの行動は慎重にならなければならない…。自然とアレックスの表情は引き締まっていく。

「それでアンドルー、彼女の居場所は何か掴めたか…?」
 そう言うジャマールの表情もかなり厳しい。副官として、今の状況がどれほど厳しいか十分すぎるほどわかっているのである。
「いえ、公爵未亡人はサウス・ブロンクスにあるラスキンのホテルに監禁されていますが、エレオノーラ様もご一緒なのかはわかりませんでした。」
 アンドルーの声もいつになく沈んでいる。普段は感情を滅多に表に出さない彼だが、今回だけはこのボスの心情を痛いほど理解していた。

「今すぐにでも乗り込んで、ラスキンの顔面に思いっきり拳をねじ込んでやりたいところだが、エレオノーラの所在がわからない限り、どうすることも出来ない…」
 固く拳を握り締めて、アレックスは天を睨んだ。
「今回は相手も君の反応を確かめたに過ぎない。今に何かきっと要求してくるだろう。ウェイの動向もよくわからない今、闇雲に動くことも避けなければならない。もっともアンドルーが怪しまれずこうして戻ってこられたのは幸いだった。ラスキンのところでウェイに会わなかったか?」
「はい、ラスキンの側にはいませんでした。ただひとつ気になることが…」
 そう言ってアンドルーは、ラスキンのところで拘束を受けた間に聞いた、ラスキンの部下たちの会話について語り始めた。

「じゃあ、ラスキンとウェイはあまり上手くいっていないということか…?」
「はい、ラスキンはウェイが仕事を済ませたあとに、ウェイも始末するように密かに部下に命じていたようです。」
「バカな…ウェイはラスキンごときに始末できるような輩ではない。ということはエレオノーラを連れ去ったのはラスキンだとしても…その時ウェイは何をしていたんだ…?」
「わかりません、ただウェイは別の人質を考えていると連中は言っていました…」
 そこでハッとしたようにアレックスとジャマールは顔を見合わせる。
 “ウェイが人質に狙うならアスカ以外には考えられない…!”
「アスカはどうした…!? 」
 
 アレックスがそう叫ぶのと同時に急に階下が騒がしくなって、誰かがどやどやと階段をを駆け上がってくるのが聞こえた。その足音の主はドアの外まで来ると、勢い良くドアを開けて飛びこんで来る。
「アレックス…! 」
 ピーターは息を切らしながらアレックスの側まで来ると、苦しげな表情で先ほど起こった事件の一部始終を早口で語った。そのうちに泣きじゃくるリリアとコンウェイまで現れて、その場は騒然とした雰囲気に包まれる。
「何ということだ…!!」
驚きと怒りと絶望にも似た感情が入り混じって、アレックスは自分がもはや何を言っているのかわからないほどに混乱していた。ただ辛うじて正気を保てたのは、リリアの…“アスカさまはわたしの命を助けるためにあの殺し屋に身を委ねられたのです…”
“泣きながら必死で訴えるリリアの言葉に嘘はない…そのとおりアスカとはそんな女だ。だからこそこの世で唯一惹かれたのだ…。またしても神はオレとアスカに試練を与えたということか…”

「アレックス…大丈夫か?」
 滅多に心配の言葉を口にしないジャマールが本気でアレックスを気遣っている。アレックスは大きく息をひとつ吐いて、ジャマールを振り返る。
「アスカは強い女だ。おれが動揺していてはあとで示しがつかないだろう。とりあえず、コンウェイ…事実のみを話せ…」
 コンウェイとピーターが交互にその日の様子を語るのをじっと目をつぶって聞いていたアレックスは、停車していた馬車に別の馬車がぶつかってきた時の話を聞いて思わず叫ぶ。
「そこだ! ウェイが細工してわざと油断させるために起こした事故に違いない。…そのアニーという少女に会って話を聞いてみたい。その子をここへ…」
 それからしばらく間があって、小間使いの少女に連れられて、7歳くらいの栗色の髪を小さく編んだお下げ髪の、薄いそばかすが両頬に散っている素朴な少女が部屋に入って来た。
 最初アニーはそこにいる厳つい雰囲気の男たちに怯えた表情をしていたが、正面のイスに腰掛けたアレックスの顔を見て…まるで吸い寄せられるように歩みを進めると…じっとその目を見つめた。
「あなたが…シェフィールド公爵様…?」
「そうだ。アニ-、ボクがルシアン・アレクサンダー・クレファード。シェフィールド公爵だ。」
 アレックスがそう言うと、アニーの目から大粒の涙がこぼれた。
「シスターは…シスター・エレンは…いつもあなたの載っている記事を切り抜いて、とても大切にしていました。そのことを聞くと…シスターは決まって寂しそうに笑いながら、“昔無くしてしまった自分の命よりも大切なものよ…” そう言っていたんです。あなたのことだったのですね…?」
 アニーはそう言いながら、胸に大切に抱えていたエレオノーラのスクラップブックをアレックスに差し出した。

「これは…」
 パラパラとめくって…そこに並んだ記事の切り抜きを見た瞬間、アレックスは言葉を失って絶句した。どのページにも溢れるようなエレオノーラの愛情が感じられて…もうそれ以上の言葉は何も必要なかった…。思わず天井を見上げて、アレックスはまぶたの内側に滲んでくる涙を押しとどめる。心の中で祈らずにはいられない…。
“ああ…神よ、今ほどあなたに救いを求めたことはない…! どうかふたりに神のご加護を…!”

「アスカも…エレオノーラも必ず無事に助け出す。ジャマールどんな些細な情報も漏らすな。エレオノーラの居たホテル周辺に誰かを向かわせろ! きっと何か痕跡を残しているはずだ!」
「ああ…すでに向かわせている。じきに何かがわかるだろう。今は冷静に状況を分析しなければならない…。ラスキンにしても、ウェイにしても本当の狙いは君なんだから、奴らは必ず何らかの形で連絡してくる…」
 執務室の中の緊張感が一気に高まった中で、アレックスはもう一度目の前にいるアニーの近くに膝まづくと、その手を取って優しく囁いた。
「大丈夫だ。君のシスターは必ず我々が見つけ出す。それまで君はこの屋敷で待っているんだ。いいね?」
アニーは小さくうなずく。
「あの…不思議な色の瞳をした女の人は大丈夫? あの人も助けてくれる?」
「もちろんだよ、心配しないで。アスカも必ず助ける。リリア…君も何も心配せず、アスカの代わりにこの子を頼む…」
 アレックスの言葉にさっきまで涙に暮れていたリリアは、小さく頷いて…涙を拭くと、笑顔を浮かべながらアニーの手を取って執務室を出て行った。アニーが居なくなると…部屋の中はアレックスとジャマールを中心に一気にまた緊張感が高まる。

「ボス、おれにも何かさせてください」
そう言ってアンドルーが前に進み出ると、アレックスはその肩を軽く叩く。
「おまえの顔は敵に知れている。表に出ないほうがいい。だがお前の持っている彼らの情報はあとで必ず役に立つはずだ。今は休んで後方支援に廻れ、いいな…?」
「はい…」
 ボスであるアレックスのの言葉は絶対だ。アンドルーは黙ってその言葉に従った。

囚われて…。

アスカが連れて行かれたのはどこかの古い別荘のようなところだった。両腕を拘束されて、半日近く馬車で揺られたせいで、両肩から背中にかけてひどく痛んでいる。
 馬車がやっと停車して、目隠しが外されると…すでに陽は大きく傾いていて…この場所が案外ロンドンから遠く離れていることに気が付いた。
 馬車から下りる時に、両腕の戒めも外されて…アスカはホッと溜息をついた。実際に馬車の中でアスカに付き添っていたのはひとりだけで、殺し屋のウェイは御者台に居て、ほとんど口を開かなかった。馬車を下りた時にもウェイの姿はなく、背の高い無口な男がひとり建物から出てきて、馬車に居た男と二人で、アスカを建物の中に連れて行く。

 赤レンガで出来た二階建てのその建物は、それほど大きくはなく門の一部はすでに崩れかけていて、今はもう使われていないのは一目見てわかった。二人の男に挟まれてアスカは黙ってその古ぼけた建物の中に入っていく。少し軋む階段を上がると、そこにはひとりの腰の曲がった老婆が居て、アスカの姿をちらりと見ると黙って先に立って歩き始めた。

「先に連れてきた女はどうしている?」
「2階の奥の部屋にいるよ。あの人は目が不自由だからどこにも逃げやしないよ…」
 その言葉を聞いて、アスカはハッとして顔を上げる。
“もしかしてエレオノーラ…アレックスのお母さんはここにいる…?”

 二人の男はアスカをその老婆が言う廊下の突き当たり…最も奥の部屋の前に連れていって、扉の鍵を開けた。古い扉は軋むような音を立ててゆっくり開く。男たちは後ろからアスカの肩を押して中に入れると、又黙って扉を閉めた。すぐガチャガチャと鍵をかける音が聞こえて、男たちが老婆に何か指示を与える声が聞こえたが、何を言っているのかはわからなかった。

 ドアの内側にポツン…と残されたアスカは、自分が今おかれた状況を考えるよりも、この部屋に居るはずのもうひとりの囚われ人…その人の姿を探した。
“こんな偶然があるだろうか…?” 
 アスカは信じられないような気持ちで…その場に立ち尽くしていた。自分がアレックスをおびき寄せるための囮として敵に捕らわれていることなどすっかり忘れるほどに、アスカは、今はその人のことしか考えられなかった。
 
 アスカがいるこの部屋はどうやら続き部屋になっていて、その先にもうひとつ部屋があるらしい…。恐る恐るそちらに進んでいくと…南に向いた小さな出窓の前に置かれた小さなベンチにその人は座っていた。
 ほっそりとした小柄な人で、古ぼけた質素な淡い灰色の僧衣を身に着けていた。その人は窓の外に向かってじっと祈りを捧げているように、両手を組んで何かをつぶやいていた。アスカの気配を感じたのか、彼女はハッとしたように顔を上げてゆっくりとこちらを振り返ったけれど、その視線がアスカを捕らえることはなかった。彼女は眼が見えないのだ…。
そのことはアレックスから聞かされて知っていたけれど…。アスカは不意に胸が締め付けられるような悲しみを感じた。もし無事にここから逃れられて、アレックスに再会できたとしても…彼女には今のアレックスの姿は見えない…。
“ああ…わたしは…”
 その時、優しげな声が聞こえてくる。

「どなたか…他にこの部屋にいらっしゃるの…?」
「ああ…ごめんなさい、シスター。驚かせてしまったのですね…?」
 アスカはとっさにそう言って、彼女の側に駆け寄った。そして彼女の眼を間近で見て、衝撃を受ける。
「アレックス…」
 思わず、声に出してしまうほど、彼女の碧い瞳はアレックスにそっくりだったのだ。もう彼女がアレックスの実母、エレオノーラであることは間違いない…。そう確信した時、エレオノーラの方から語りかけてきた。

「あなた…その名前の…彼を知っているの?」
 訝しげな声の中に何かを期待するような切望を感じて、アスカは彼女の手を取って語りかける。
「はい、わたしは…わたしの名前はアスカ・フローレンス・メルビル・ウィンスレット…。父はロバート・ウィンスレット…その名前は御存知ですね?」
「まあ…? 忘れるものですか! たった一人の弟ですもの…ということは、あなたはロバートの娘なの? 本当に? 遠い異国の地に娘がいるとロバートはいつも言っていたけれど…。」
「ええ…ではあなたがなくなった父のお姉さまの…エレオノーラ様で間違いないですね?」
 アスカの言葉にエレオノーラは小さく頷いた。その美しい碧い瞳からは、あとからあとから止め処もなく涙がこぼれて落ちた。いつしかアスカの頬も涙で濡れていた。

「アレックスは…あなたの息子さんはすべてを知っています。すべてをわかってあなたを探していたんです。」
「まあ、何ていうこと…。でも、わたしは…あの子のために表に出てはいけないのよ…。」
「いいえ、そうではないんです。何があったにせよ、あなたはアレックスのお母さまなんです。そして…それが今のアレックスを救うことにもなるんです。」
 アスカはそう言いながら心の中で “アレックスを…そしてわたしも…” そうつぶやいていた。
 
 その中で、苦しげにエレオノーラは首を振る。
「でもレッジーナが…あの子はわたしがアレックスと会うことを望まないでしょう…。」
「いいえ、わたしはそうは思いません…あの方も誰かに利用されているんです。今回あなたをこうしてここに連れてきた人物は、アレックスと敵対している人物です。レッジーナ様からあなたのことを知って、彼をおびき寄せるためにあなたを拉致させた。そしてわたしもそのためにここに連れて来られたんです。」
「何ていうこと…! それでアニーはどうしたのかしら? きっとあの子は困っていることでしょう…」
「大丈夫です。あの子は賢い子ですね? あなたの大切にされていたスクラップブックの中にあったクレファード家の紋章を覚えていて…偶然その馬車を見つけて、助けを求めてきたんです。今頃はアレックスの屋敷に保護されているはずです」
「ああ…神様、感謝します…」
 そう言ってまたエレオノーラはハラハラと涙を流した。彼女の手を握り締めながら、アスカは何としてもこの状況を乗り越えて、アレックスとエレオノーラが無事に対面を果たす日が来て欲しいと願わずにはいられなかった。

「アスカとおっしゃったわね…? あなたの顔が見られないのはとても残念だわ…。でも声を聞いただけで、あなたがとても聡明で美しいお嬢さんだということが判るわ。ロバートは、亡くなる前によく言っていたの。いつか娘が必ず訪ねて来てくれると…。その娘のことをアレックスに託そうと思っている。もしふたりが一緒に訪ねて来たら、その時にはすべてを明らかにして…間違った時間をすべて戻して欲しいと言っていたのよ…。それが今なのね…」」
 エレオノーラはどこか遠くを見つめるように、視線を彷徨わせてつぶやいた。

「教えてちょうだい? アスカ、あなたから見てアレックスはどんな男性なのかしら…?」
 そう問われて…アスカは少し考えて口を開く…。

「それは…彼は世間的にはホークという名前で恐れられていますが、内面は正反対…公正で、世の中で虐げられている人たちにも自由や生きる希望を与えているんです。極東の…香港の沖にアレックスは個人的な孤島の基地を持っていて、そこでわたしは見たんです。あらゆる人種の人々がとてものびのびと暮らしていて…そこにいるみんなが彼を神のように崇めていました。」
 アスカの語る言葉ひとつひとつに頷きながら、エレオノーラは涙を零しながら聞いていた。

「あなたは…アレックスのことを愛しているのね…?」
 エレオノーラがそうつぶやくと…アスカは真っ赤になって言葉を詰まらせる。
“ この方には何も隠せないのね…。アレックス、わたしは今、あなたのお母さんと一緒に居るのよ…”
 心の中でアレックスに語りかけながら…“あなたの知っているアレックスのことを教えて…!”
そういうエレオノーラの言葉を受けて、アスカは彼との出会いから、恋に堕ちて…日本で様々な困難に打ち勝って今があること…。そして今、次の困難がふたりを覆いつくそうとしていることなどを話した。そして、懇願した…。今こそあなたの証言が必要なのだと…。
 






ロンドンの一角、いくつか持っている自分の隠れ家的屋敷の一室で、両側に高級娼婦を侍らせながら、ラスキンは部下からの報告を聞いていた。
「フム…。ウェイは例の女を捕まえたんだな? それでその女はどこにいる?」
「はい、西部の…例の廃坑の近くにある別荘跡に閉じ込めています。それと、あの目の不自由なシスターも一緒です。」
「そうか、やっと駒が揃ったというわけだな? ウェイはどうした?」
「わたしならここにいる…」
 そう言って背後のカーテンの陰からウェイが不意に現れると、周りにいた側近達は驚いて一歩後ろに下がる。ウェイには西洋人にはない独特な凄みと変幻自在な不気味さがあった。

「こんなまどろっこしいやり方をしなくても…わたしならどこでも奴の息の根を止めることが出来るものを…」
 不満げにウェイが口を開く。
「バカな…この英国ではそんな野蛮なやり方は出来ない。確かにクレファードは邪魔だが、綿密な計画の上に始末しないと、あとあと面倒なことになる…。女達を閉じ込めている屋敷跡の近くに古い炭鉱跡がある。もう半世紀近く前に廃坑になった場所だが、あそこに誘い出して始末すれば…事故に装うことが出来る。そのために女達をあそこに連れて行ったのだ。奴とあの異教徒があの迷路のような坑道に入ったところで、入口をダイナマイトで塞いでしまえばことは簡単だ」
「チッ…! ではその前におれはおれのやり方で奴らを始末させてもらう…」
「好きなようにすればいいさ…」
ラスキンはニヤリと笑って、女が差し出す火の付いた葉巻に手を伸ばした。

 その後、ウェイは現れた時と同様にスッと気配を消して居なくなった。ウェイが消えて間もなくして、離れていた手下達が寄ってくる。
「本当に気持ち悪い奴で…あいつはどうします? 」
「クレファードと一緒に閉じ込めてしまえば、あとはどうなろうが知ったことはないさ。一石二鳥というやつだ」
「なるほど…。ではホテルに閉じ込めているクレファードの母親は?」
「あの女も連れて行って一緒に始末してしまえ。何なら愛人と一緒に心中ということにしてしまえばいい…。」
「なるほど…。名案ですね…」
 傍らに居る男たちも笑いながら、みな勝ち誇ったような表情をしていた。


アスカがウェイに連れ去られてから数時間が過ぎ、ラスキン側から何の反応もないことにアレックスは焦れていた。
「何故やつは何も言って来ない…!? もうあれから5時間は経っているんだぞ…!」
「落ち着け、アレックス…。君が冷静でなければ、かえってアスカを危険にすることだって有得る…」
「分かっている…」
そう言いながら、さっきからアレックスは書斎のデスク周りを落ち着きなく歩き回る。
“冷静で居なければならないのは、誰よりも分かっている。分かっているが、アスカとエレオノーラ…両方を押さえられている今は、ホークの両翼をもがれているに等しい。クソッ…! どうすればいい…? ”

 落ち着きなく動き回るアレックスに対して、ジャマールは黙ってソファーの一画に陣取りながら、じっと何かを考え込んでいた。
「さっき、エレオノーラが消えたホテルを調べに行った連中が、その時間…いつもは居るはずのない郵便馬車が裏口に留まっていたという証言があった。彼女はそれに乗せられていたのではないかと思う。それとついでにその後の足取りもわかっていて…街道を西に向けて走って行ったそうだ」
「西には何がある? 」
「方向的にはブリストルだが…その前に少し気になる場所がある…」
そこでジャマールは少し考え込む。
「ん…? 何が言いたい…?」
 アレックスは足を止めてじっと傍らの友の顔を覗き込んだ。
アスカがその古い別荘に連れて来られてから丸一日が過ぎた。あの老婆は1日に数回食事を運んでくる以外はまったく喋らない。黙々と自分の作業をするだけで、用事が済むとそそくさと帰って行く。
きっとアレックスは心配しているに違いない。エレオノーラと一緒に居ることで不安はそれほど感じずに済んでいるものの…こうしている間にもきっとアレックスの身にはじわじわと危険が迫ってていることには変わりがなかった。
そしてその日の午後、アスカはついにアレックスの直接の敵と相対することになった。 

「なるほど…あんたがクレファードの女か、なかなかのいい女だな…。さすが世界に名の知れた道楽者が選んだ女だけのことはある。」
 午後の早い時間に一台の馬車が別荘にやって来て、階下の一室に連れて行かれたアスカは、正面のソファーにどっかりと座っている年齢は40歳くらいの、体格がよく目つきの鋭い男が、ラスキンであることを知った。
「あなたがラスキン?」
「そうだ。そしてあんたは前リンフォード伯爵の娘で、現リンフォード伯爵だな? 殺すには惜しいほどの上玉だが、あんたに生きていてもらってはある事業が上手くいかなくなるんでね…」
 そう言ってラスキンは下卑た笑いを浮かべた。
「父を騙して上手く鉱山を自分のものにしたつもりでしょうが、そうはいかないわ。」
「その綺麗な顔には似合わないほどの気迫だが、それもここまでだ。今日の午後にはこちらの要求を記した手紙がクレファードのところに届くはずだ。そうすれば奴は真っ直ぐここに飛んでくる…。我々には殺し屋のウェイもいる。どういうわけかあの男はクレファードとその側近の異教徒に固執しているが、そんなことはどうでもいい…。邪魔者さえ始末してくれればそれでいいのだ…」
 それを聞いて思わずアスカは唇を噛む。

「お願い、わたしはどうなってもいいわ。あのシスターだけは助けてあげて…。あの方には何の罪もないのよ」
「そうはいかない…。彼女がクレファードの身内であることも分かっているんだ。人質は一人でも多いほうがいいんでね…。心配するな。どのみち、彼女もあんたやクレファードをあの世に送ってから、あとを追うことになるんだから…じきに会える…」
「なんていうことを…!!」




 その頃アレックスは、ジャマールと供に目立たない辻馬車で、南西部アングリア地方       にある、ある廃坑を目指していた。そしてアレックスたちとは別に、アレックスに扮したアンドルーがクレファード家の馬車で別の街道を向かうことになっている。ある意味目くらましのためだが、ウェイには何の効果もないことはわかっていた。
「唯一おれ達に利があるとすれば…連中が利用しようとしているその坑道が、かつて15年近く前におれの遊び場だったことだろう。その炭鉱はウィンスレットの祖父の持ち物だったが、50年前には廃坑になっていた。乗馬を覚えてからよく近くまでロバートと遠出したものだが、10代の前半にひとりで出かけられるようになると、そこへ行って冒険がてらに迷路のような坑道を探索したものだ。」
「君のそんな個人的なエピソードまで連中は知らないということだな?」
「ああ…。ロバートには見つかるたびにこっ酷く叱られたが、あの時にはそんな些細な冒険が今になって役に立つとは思わなかった…。連中はそこに誘いこんで、迷路のような坑道でウェイに始末させようという魂胆なのだろうが…そう簡単にはいかない。」
「そうだな…だが、アスカたちを人質に取られている以上最初からこちらには不利な部分もある…」
 ジャマールの言葉に思わずアレックスは唸る。ラスキンは黒柳ほど悪党ではないが…それもアスカを見ておかしな気を起こしたら…? そう思うと冷静ではいられなくなってくる。

「油断するなよ…。やつらの目的は最初から我々を坑道の中におびき寄せて…閉じ込めた上で始末することだ。何らかの形で入口を塞いでしまえば、あとは事故ということで処理できるからな…?」
「そのとおり…。おまけにラスキンは目の不自由なエレオノーラまで押さえている…」
 どう考えてもこちらが不利なのは誰の眼からしても明らかだった。それでも…何としてもアスカを助け出し、エレオノーラもこちらに奪取しなければならない…。 
 アレックスもジャマールも実戦向きに武器も最小限のものを選んだ。ともかく身軽に動けることが第一なのだ、質素なシャツに乗馬用のブーツ、銃身も短めのものを選んでウエストのホルダーに入れる。ジャマールはいつも腰に下げている三日月刀を手入れしながら、外の景色を気にしていた。この時間から向かうとなれば、おそらく到着すのはもう日暮れ近くになる。そうなればアレックスたちは、暗闇とも闘わなければならなくなる。

「もう間もなく日が暮れる。我々は幾分夜間の行動にも慣れているとはいえ、それでも暗い坑道を明かりなしで進むのは危険だ…」
「ああ…最低限の明かりは必要になるが、条件は相手も同じだ。今頃奴等は準備を整えて我々を待ち構えているはずだ。アスカは…」
“きっと暗い坑道で不安な気持ちでいるに違いない…。”
 アレックスはグッと気持ちを引き締めて、遠く離れているアスカを想った。

 その日の午後…時間は分からないが、アスカはまた目隠しされて建物の外に出ると、馬車に乗せられてどこかに移動した。馬車には数人の男たちが付き添っていたが、アスカにはその中にウェイがいるのかどうかは分からなかった。
 馬車が停車すると、男の一人が目隠しを外して、アスカに馬車を下りるように言った。アスカが黙って馬車を下りると、目の前には開けた場所があって…その真ん中には今は使われていないレールと…壊れたトロッコが、その先ポッカリと岩山の側面に開いた大きな坑道の入口へと続いている。

「さっさと歩くんだ…」
 男たちに促されてアスカは押されるようにして、その坑道の中に入っていく…。最初はその坑道の暗さに戸惑ったアスカだが、眼が慣れてくると…以外にその坑道は天井が高く広いことが分かる。どうやら奥はかなり広いらしい。途中分かれ道に差し掛かったところで、男の一人がオイルランプに火を点けると…坑道の壁にアスカたちの影がゆらゆらと浮かび上がる。
「どこまで行くの…?」
「この先は迷路のように入り組んでいる。その先まであんたを連れて行くように言われているんでね…。そこで待っているウェイにあんたを引き渡すまでがおれ達の仕事だ。」
 アスカの後ろを歩いている男が応える。
「逃げようなんておかしな気は起こすなよ。その時にはあんたを殺す。いいな…?」
 その言葉を聞いてアスカは黙ってうなずいた。
 あの不気味なウェイとふたりきりになることを想うと、思わず寒気がしてくるが…きっとアレックスはすぐ近くに来ているに違いない…。どうか無事でいて欲しいと願わずにいられなかった。







 アスカが坑道に入ってからおよそ1時間後…アレックスは同じ坑道の入口に立っていた。
「おそらく…ラスキンの手下が見張っているんだろうな。おれ達が中に入ったところで、頃合を見て入口を塞ぐつもりなんだろう…。」
「たぶん、彼らは味方であるはずのウェイも一緒に始末したいはずだ。ラスキンにとってはアレックス、君同様あの東洋人も気に入らないはずだから…」
「そうだな…」
 今日のジャマールは黒いターバンと同じく黒の短い胴着を身に着けている。目立たないようにいつもよりはかなり地味な飾り帯を締めていて、その細い腰にはジャマールの守り刀というべき三日月刀があった。
 アレックスも黒いシャツに防弾も兼ねたベストを身につけ、黒いピッタリとしたスラックスに乗馬ブーツと隙なく固めている。二人とも厚手だが思ったよりも軽い素材の濃い灰色のマントを羽織っていた。
 二人以外にも数人の部下を連れて、アレックスは素早く暗闇に紛れて坑道の中にすべり込んだ。暗闇の中でどこからウェイが襲ってくるか分からない…。坑道の両側をアレックスとジャマールは別れて進んだ。途中一言も言葉を交わすことなく、二人だけに分かる合図でサインを交わしながら進んでいく…。
 おそらく数百メートル進んだところで、前を行くジャマールが何か異変に気付いて立ち止まる。

「どうした? ジャマール?」
「誰かが倒れている…明かりを持って来い」
 ジャマールの声で後ろにいた部下の一人が携帯用のオイルランプに火を点けると、小さな明かりの先に数人の男が折り重なるように倒れていた。
「まさか!アスカに何か…!?」
 警戒しながら近づいてみると、倒れている男たちは皆鋭い刃物で、急所を一撃されていた。こんなことが出来るのはウェイだけだ。

「おそらく、殺られたのはラスキンの手下だろう…。やったのはウェイだ。」
「何のために…?」
「こいつらはアスカを坑道の奥まで連れてくる役目だったに違いない。ウェイに引き渡したら、自分達は戻って坑道の入口をダイナマイトで破壊するつもりだったんだろう。さっき入口でわずかな火薬の臭いがした。きっとどこかに隠していたに違いない…」
「それをウェイは分かっていて、先回りしてそうさせないために、彼らを始末したんだな…?」
「そういうことだ。相変わらず油断のならないやつだ。」
 ジャマールは低く抑えた声でつぶやいた。半年近く前、日本で死闘を演じた時の事を思い出しているに違いない。
“早く、アスカを見つけないと…。”
 それからまたアレックスは慎重にさらに奥を目指して進んでいく。坑道の中は15年前とそう変わった感じは受けなかったが、当時とてつもなく広く感じた坑道の中が今はそれほど広く感じないのは、アレックス自身が成長したせいだろうか…? 
 坑道の配置図はあらかじめ記憶を元に再現して、ジャマールをはじめ部下達もしっかり頭に叩き込んでいるはずだった。さらに奥に入っていくと、少し広い場所に出くわして…そこから2箇所に行き先が分かれていた。

「どうするアレックス…? 」
「分かれて進もう…。おれは右側を行く…。ジャマールおまえは左を行け…」
「だが、分かれて進むのは危険ではないか…! もし君が先にウェイに遭ったら…」
「心配するな…以前は油断したが今回はそう易々とやられはしない…。それに向こうにはアスカがいる。人質をとってまでおれをここに呼び寄せることを考えると、仮におれのほうが先にウェイと遭遇した場合、奴の心情としてはまずおれの自由を封じてから、おまえを先にターゲットとして動くはずだ。おまえは奴と以前やり合っている。その借りを返してから、じっくりとおれを料理したいと考えるのが筋ではないか…?」
「見事な推理だが、危険が多すぎる。もしその目論見が外れたら…?」
 ジャマールは渋い顔をしてアレックスを見る。
「奴はああ見えて、狩人だ。簡単に殺れるようなやり方は好まない…そうじゃなければこんな英国までおれ達を追いかけてくるわけがない…」
「それもそうだが…わかった。君のその推理が正しいことを祈ろう…」
 そう言うなり…ジャマールは左の坑道へと入っていく。残ったアレックスは右の坑道へと歩みを進めたが…少し行った所でさらに右に行く道と二股になっていた。そこでアレックスは後方にいる部下を二人呼び寄せる。
「おまえ達は右を行け、この道は外への出口に繋がっている。いったん外へ出て、そこに馬車を移動しておけ。あくまでも相手に気付かせないように行うんだ。街道の“子馬亭”という宿屋にいるアンドルーと連絡を取れ、いいな…?」
「しかし…ボスをひとりにしては…」
「大丈夫だ。おれはおまえ達以上にこの坑道を熟知している。かえってひとりの方が動きやすいこともある。」
 さらに言いよどむ部下を説得して、アレックスはひとり別の道を進んだ。この道を選んだのは、まさしく感だった。
“この先に必ずアスカがいる…!”
 アレックスとアスカだけに通じる何かが彼にそう伝えていたのだ。それにアレックスとジャマールが同時に現れると、かえってアスカを危険さらすことになる。そう思ったアレックスはあえて、ひとりで向かうことにした。

 暗い坑道をわざとゆっくり進んでいたアレックスは、その先に少し広い行き止まりがあることも
知っていた。もしアスカがいるならそこしかないと思っていたのだが…。



アスカは薄暗い坑道の中で、息も吐けないような緊張感の中にいた。坑道に入ってすぐに殺し屋のウェイは現れた。アスカを連れてきた多くの男たちはそこで命を落とし、アスカはひとり残された男に手を後ろ手に縛られてこの場所に連れられてきた。
ウェイはすぐ近くにいたがまったく口を開かず、それが余計に不気味さを感じさせる。ひとり残された男も恐怖に震えながら、いつ自分も他の仲間達のように命を奪われるのか、怯えているのが手に取るように分かった。

「教えて…!もう黒柳は居ないわ! ここまでわたしたちを追いかけてきたわけは何…!?」
 アスカは恐怖心を抑えながら、ウェイに問いかけた。
「黒柳など最初から関係ない…。おれはいつでも最高の獲物を求めている。おれの中で失敗はない…。クレファードも…あの異教徒も…必ず倒さなければならない獲物…それだけだ…」
表情一つ変えずに…ウェイはそう応えると、何かを感じたのか…ニヤリと笑って立ち上がった。

それを見てアスカは心の中で祈る。
“ああ…神さま…どうかアレックスをお守りください…”



 
 薄暗い通路の先にゆらゆら揺れる小さな明かりを見つけたとき、アレックスは確信した。
“アスカはここにいる…!”
 だがその瞬間、わき腹に鋭い刃が当たるのを感じて立ち止まった。一瞬戸惑ったものの、すぐさま動いてその刃を避けて身体をよじると右足で相手のナイフを持っている手を蹴り上げ、ナイフはカラカラと音を立てて足元に転がった。同時に相手の背後から羽交い絞めにして首を片肘で絞めに掛かる。そしてもう少しで相手を気絶させるというところで、前方から凄みのあるウェイだと思われる声が響いた。

「大人しくしてもらおう…この娘の命が惜しかったらな…」
「アレックス…!」
 アスカだった。背後にはウェイがいて、鋭い刃を彼女の喉元に当てている。それを見たアレックスが捕まえていた男の身体を離すと、男はウェイが放ったロープを拾ってアレックスの手をうしろで括る。男はアレックスの身体を探って、身につけていた武器を奪うと、、アスカのいる側に連れて行った。
「本当なら今ここで命を奪ってやってもいいが、もうひとりのあの異教徒を先に始末してから、じっくりあんたを料理してやる。その…男にしておくのがもったいないほど綺麗な顔を切り刻んでやるから楽しみに待ってるんだな…!」
 ウェイはそう言って高らかに笑うと、もうひとりの男に見張っておくように命じてその場を離れた。

「アスカ…! けがはないか…!?」
 ウェイが居なくなるとアレックスはアスカに声をかける。
「わたしは大丈夫…! でもあなたまでこんなことになるなんて…!」
 両腕を縛られたまま、二人は身体を寄せ合うと…アスカはアレックスの肩に頭を乗せて泣きじゃくる。
「大丈夫、こんなことは想定済みだ。こういう時のためにいつでも自分で関節を外してロープを抜ける訓練をしている…」
 そう小声で囁きながら…アレックスは男に見えないように後ろ手に括られた手を引き抜こうとあれこれやってみるが上手くいかない。しばらく動いてから一度休んで大きく息を吐いた。あんがい思ったよりもきつく縛られているのかもしれない。もう一度挑戦しようとしたアレックスをアスカが止めた。

「アレックス、左足のガーターの内側にナイフを忍ばせてるの…。もしそれが取れるなら…」
「わかった、やってみよう…」
 小さくうなずいて、近くに居る男の動きに気を遣いながら…アレックスは上体を屈めて、唇でアスカのスカートの裾を掴んで、少しずつ捲りあげていく。ひんやりとした感覚を膝に感じて、アスカは思わず小さく震えた。
「こんな時でなかったら、とても官能的な瞬間なんだが…足を開いて…」
 小さな声でささやくアレックスの息が内腿にかかると、アスカは目を閉じて彼が触れやすいように、両膝を開く。彼が目指しているのはナイフだと分かっていても、その唇が敏感な肌に触れると、小さな溜息が漏れた。

「この続きは今夜ベッドで…まずはこの危機を何とかしよう。アスカ、少し下を向いて…」
 アレックスはアスカのガーターから引き抜いた細身のナイフを器用に口にくわえてアスカの腕のロープを切る。そしてアスカを覆い隠すように彼女の前に来ると、今度は自由になったアスカがアレックスのロープを素早く切ると同時に、わざと甲高い悲鳴を上げる。
 驚いた男が近寄ってくるのを待って、アレックスは素早く立ち上がると男の持っている銃を片足で蹴り飛ばして、怯んだ相手の顔面を思いっきり殴りつけた。男はそのまま気を失って倒れると動かなくなった。
「まさか、死んだの?」
「いいや、気を失っただけだ。こいつは単なる下っ端だな、ただうろうろされては困るからしばらくここに居てもらおう。」
 さっき二人を縛っていたロープで、気を失っている男の手足を縛ると、やっとアレックスは笑顔を見せてアスカを抱き寄せ、激しくキスをする。
「何とか、無事に君を取り戻せてよかった。さて急いでウェイを探さないと…今頃はジャマールが応戦していることだろうが、奴は危険だ。一刻も早く加勢しなければ…」
 そう言ってアスカの手を引いて早足で歩き始める。そして、さっき部下達と別れたところまで来ると立ち止まってアスカを振り返った。

「こっちの道を行くと、出口に繋がっている。外には仲間が待っているはずだ。君は先に外に出て待っていて欲しい」
「でも…」
「いいからボクの言うことを聞くんだ…!」
 アレックスのいつにない強い言葉にただアスカは頷くしかなかった。もう一度アスカを抱きしめて、素早くキスを交わすと、アレックスはまた暗い坑道の奥に消えていく。その後ろ姿をアスカはじっと見つめていた。







クレファードが坑道に入っていったと報告を受けてから、急いで廃坑の入口までやって来たラスキンは、最初に娘を連れて中に入った連中が戻ってこないという見張りの言葉を聞いて、小さく唸った。もしかしたらウェイに気付かれたのかもしれない。それなら最初の計画を急がなければならない…。
「最初の計画通りに急いで隠しておいた爆薬を仕掛けろ! 急げ! やつらに感付かれる前に仕事を終わらせろ!」
 ラスキンの号令で一緒に来ていた多くの部下達がいっせいに廃坑に入る。廃坑の奥の暗闇をじっと見つめていたラスキンは、耳元でささやく側近の言葉を聞いてさらにニヤリと笑った。
「フッ…! 公爵未亡人も到着したか…。ではわたしも戻るとしよう。30分以内に爆破しろ!いいな…?」
 そう言い放つなり、ラスキンを乗せた馬車はその場を走り去った。



 薄暗い坑道の中で、ゴツゴツした岩肌に何度も互いの身体をぶつけながら…ウェイとジャマールはいつ終わるとも知れない戦いを繰り広げていた。
 アレックスと分かれてから、坑道を進み行き止まりを確認してから引き返してきたところで、ウェイと出くわした。一緒にいた部下達は一瞬で倒され、ジャマールの緊張が一気に高まる。幸い鍛え抜かれた部下達は致命傷ではないにしろ、もうそれ以上の戦闘は出来ない様子だった。
 
「待っていたぞ…! まずはおまえから始末する。心配するな…クレファードはあの女と一緒に捕らえてある。おまえを片付けてから、ゆっくり楽しんで料理させてもらう…。」
 不気味なウェイの言葉が薄暗い坑道に響いた…。
「何を…!?」
 ジャマールは、磨き上げた体術と手のひらに馴染んだ三日月刀を駆使して必死に戦う…前の対戦で利き手の腱を断ったはずだったが、今のウェイはそれをものともせず、反対の手でそれ以上の攻撃を仕掛けてくるのだ。
 相手の剣の攻撃を、火花を散らして受けながら、ジャマールは素早く頭の中でどうやってこの強敵を倒して、アレックスとアスカを救出するか、その方法を考えていた。
まずは何としても倒すしかないと決めると、、剣を握る手に力を込めて一撃、一撃に魂を込めて打ち込んだ。
鋭く放った三日月刀の切っ先がウェイの左肩を捉えて、一瞬動きが鈍くなり…その瞬間を逃すまいと、再び三日月刀を振り上げた次の瞬間に、凄まじい轟音とともに辺りがぐらぐらと激しく揺れた。ラスキンの部下が仕掛けた爆薬が破裂したに違いない。バラバラと天井から小石が落ちてくるのを避けながら、ジャマールはウェイの居る位置を確認してさらに攻撃を仕掛ける。
「ラスキンは、おまえを仲間とは思っていないようだ」
「ふん、はなからこっちもあの男など信用してはいない。おまえ達を始末したら、あの男の命もいただく…」
「そう上手くいくといいがな…」
 また暗い坑道に激しく遣り合う剣の音が響き始めた。


 早足で駆けながら、暗闇の中、アレックスは音がする方向を確かめながら進んでいく。手の中にはさっき男から取り返した小銃があったが、たとえ側まで近づいたとしても、この暗闇の中では使えない。それにさっきの爆破で入口は塞がれたのはもちろんのこと、あっちこっち地盤の弱いところはもしかしたら崩落しているかもしれない…。
“アスカはちゃんと無事に出口にたどり着いただろうか…?”

 いろいろな想いが浮かんでは消えるが、今はジャマールだ。アレックスは手にしていたオイルランプをわざと前方の壁に向かって投げつけると、マッチに火をつけて同じ方向に投げた。すると飛び散った油に火が付いて辺りは明るい炎に照らされた。

「アレックス…!!」
 その灯りの中にアレックスの姿を見たジャマールはホッとしたように頷いてまた目の前のウェイに向き直った。
「チッ…! 逃したか…!」
 ウェイも小さく舌打ちして、今度は二人の相手をするべく素早く身構えると、アレックスも銃は使えないと悟って、わき腹のホルダーから狩猟用のナイフを取り出して応戦する。だが二人を相手にしても、ウェイの勢いはまったく衰える気配はない。
 “こいつは化け物か…? ”

 アレックスがそう思い始めたとき、再び足元が揺れて…片側の壁が崩れてきた。それを避けようとしてバランスを崩したアレックスは、ウェイの攻撃を受けきれず、ナイフは弾かれてウェイの後方へと飛んでいく…。それを見てジャマールがアレックスを庇うように前に飛び出すと、ウェイは懐から銃をを取り出して、真っ直ぐジャマールに向けた。
「フン…! 本当ならこんなものは使いたくはないが…これ以上長引かせたくないんでね…。まずはおまえからだ…!」
そう言ってウェイの指が引き金に掛かったその時、どこからか飛んで来たナイフが銃を握るウェイの手の甲を貫いた。その衝撃で発射された銃の弾丸はわずかにジャマールの肩を掠めて後方の壁にめり込んだ。
それと同時にジャマールは素早く動いて手にした三日月刀でウェイの左胸を刺した。ウェイはその場に声もなく倒れる。ジャマールの一撃はまさしく一刀必殺で…正確にウェイの心臓を貫いていた。

「危なかったな…? あのナイフの一撃がなかったら、わたしも君も今頃はこの足元に転がっていたかもしれない…」
「ああ…。いったい誰が…?」
 そう言って二人が振り返ると、暗がりの中からひょっこりアスカが現れる。

「アスカ…! 君か…!?」
 二人同時に叫んで顔を見合わせる。
「良かった! 間に合って…!」
 アスカは涙を浮かべながらアレックスの腕の中に飛び込むと、そのシャツにに顔を埋めた。
「ごめんなさい! あなたの言いつけを守らなくて…! どうしても不安で…離れられなかったの…それに、銃を突きつけているウェイの姿を見たら、わたし…もう夢中で…」
 アスカは声を震わせて、必死でアレックスに訴えている。その姿を見たら、アレックスは怒る気になどなれるはずがない…。それにアスカの機転によって、アレックスとジャマールは命拾いをしたのだ。

「ボクの言いつけを守らなかった罰はまた今晩考えるとして…今は礼を言うよ、アスカ…。君は本当に素晴らしい女性だ。」
「ああ…まさしくホークのパートナーとしては最高だと思うね…」
 アレックスが思いっきりアスカを抱きしめると、側にいたジャマールもやっと笑顔を見せて、落ちているナイフを拾ってアレックスに手渡した。

「さあ、今度は急いでエレオノーラを救出に向かわなければならない。ラスキンはきっと計画が上手くいって、我々みんなが死んだと思っている。今頃は祝杯を挙げているにちがいない…。その目論見がまったく間違いであったことを一刻も早く教えてやらなければならないな…」 
「ああ…急ごう」
 
 アレックス、ジャマール、アスカの3人はすぐさまその場を離れると、途中動けない部下を手伝って、出口へとつながっているあの坑道へと向かった。途中まで、部下が迎えに来ていたこともあって、思ったよりも早く、外へと出ることが出来た。
 出口は以外にもなだらかな丘の中腹にポッカリ開いた洞穴のような場所に続いていた。アレックスの記憶では、以前はただ荒れた林の中だったはずだが、どうやら今では開拓されて…廻りには洞窟を覆い隠す木は一本もなかった。
 その丘を下ったところに部下の用意した馬車が待っていた。その側に立っているアンドルーの顔を見てアスカは懐かしさに思わず声を上げる。
「あなたは…確か、ビクトリア号で…」
「はい、アンドルーです。お久しぶりです。メルビル嬢…。いえ、今ではレディー・ウィンスレットでしたね。御無事で何よりです。」
 普段無表情な青年だが、最近は感情を隠さず表に出すことも多い。無事に戻ってきた3人に対して心から安堵した笑顔を見せていた。
ジャマールはすぐさまケガをした部下達を見て廻ったが、やはり致命傷といえるものはなく、重傷には違いないが危険を要するものは何もない。すぐさま地元の治療院へと運ばれて行った。
そして…あの暗い坑道の中でひとり残されたラスキンの部下も、一緒に運び出されていた。怯えた様子で大人しく縮こまっていた男は、ジャマールからラスキンの居場所を詰問されると、あっさりと白状した。

「アレックス、エレオノーラ様を助けに行くのなら、わたしも一緒に行くわ。昨日…わたし達一緒に一晩過ごしたのよ。あの方の目をひと目見た瞬間…あなたのお母さまだとすぐ分かったわ。だって…あなたの目にそっくりだったんだもの…」
 アスカはそう言って、アレックスの目をじっと見つめた。一瞬の沈黙があって、アレックスはアスカの両肩に手を置くと…複雑な表情をしてアスカの瞳を見返した。

「アスカ…エレオノーラは…ボクの母は…何と言っていた?」
「お母さまは…わたしから見て、あなたはどんな男性かと聞かれたわ…。わたしは…ありのまま、感じたままを答えたの。とても慈悲深く…公平な方だと…。そして、お母さまにさらに聞かれたの、アレックスを愛しているのかと…」
「アスカ…」
「もちろん、イエスと答えたわ。そして、わたし達のために力を貸して欲しいとお願いしたのよ…」
「アスカ…君という女性は知れば知るほど驚かされる…。そして君はロバートの娘なんだな…」
 アレックスはあらためて、自分を取り巻くこの運命の複雑さと深く絡み合った人間関係を想った。アスカと出会わなければ、エレオノーラとの真実を知る機会も得られなかっただろう…。
“人生とは本当に面白い…。”

 父親との時間は永遠に失ったが、実の母親は生きていて…今アレックスの救いを待っている…。
「わかった。我々の将来をかけて…この闘いの最後の仕上げをしよう…。アンドルー…? さっき言っていたランスロット卿の部隊がこの近くに待機しているのは本当か?」
「はい、3時間ほど前に州の境界で待機しているのを見ました。ボスが出発してすぐランスロット卿から知らせがありました。敵のアジトが判ったら知らせて欲しいと…。直属の部隊で包囲して、誰も逃さないと…。そうおっしゃっていました。」
「なるほど…今回ばかりは宰相直々に動かれたわけだ。ではアンドルー、おまえが行って相手の動向を伝えてくれ…」
「わかりました」
  アンドルーは嬉しそうにうなずいて、ひとり馬に飛び乗るとそのまま駆けて行った。
 その後ろ姿を見送ってから、側にいたジャマールに目配せして…アレックスは待たせていた馬車に乗り込んだ。そこには先に乗っていたアスカが待っていて、アレックスが隣に乗り込むと、待ちきれない様子でギュッと両手で彼のウエストを抱きしめる。
「アスカ…?」
「もう…本当に恐ろしかったわ…。またあなたを失うんじゃないかって、本気で想ったから…」
 さっきまであれほど強気だったアスカが二人っきりになった途端に泣き崩れる姿に、アレックスは堪らなく愛しくなる。

「いいかい…? よく聞くんだ、アスカ…。ここまでの君は本当によくやった。見事だったよ。きっとこの先何十年…いや死ぬまでかな…ボクは今回のことで、きみには頭が上がらないかも知れないな…?」
「まあ、そんなこと…」
 アレックスの言葉にアスカは思わず顔を上げてアレックスの顔を見る。そしてそこに浮かんだ半分からかうような表情に、彼の本来持っているユーモアと優しさを見た。
「ええ…これからもわたしは、ずっとあなたの後ろにいて、あなたがこれ以上無軌道な行動をしないようにしっかりと見張っているわ。」
「うーん…。何とも頼もしいことだが、まずは今だ。ランスロット卿の軍隊も動いている。ボクはこれからその部隊にに合流する。君は離れた場所で待っているコンウェイと一緒に、ボクがエレオノーラを連れて戻ってくるのを待つんだ。」
「でも…」
「今回は、でもは無しだ…。いいね…?」
「わかったわ…」
 アレックスの言葉はいつになく強く響く…。今のアレックスはホークの顔だ。状況を的確に判断しながら、きっと頭の中では素早くいろんな事態を想定して、ひとつひとつその対処法を考えているに違いない…。それなら今のアスカに出来ることはない…。

 馬車はしばらく走って、ある丘のふもとにある小さな森の中に停車した。そこにはすでに軍馬に乗った20~30人の部隊が駐留していた。
 アレックスは一度馬車を下りて、ジャマールを交えてその部隊の指揮官らしき人物としばらく言葉を交わしたあと、またアスカの元に戻って来る。
「アスカ、じゃあ行ってくる。後でまた会おう…」
 馬車の外からアスカのうなじに手を回して激しいキスを交わしたあとで、アレックスは誰かが持ってきた軍馬に跨ると、ジャマールを伴って勢いよく駆け出した。ジャマールもアスカに軽く頭をさげて、その後を追う。
“どうか、御無事で…”
今のアスカは黙って見守るしかない…。さっきの…アスカを見つめるアレックスの瞳の中には、強い決意の想いが現れていた。きっとエレオノーラに向かう決心が着いたのだろう…。
“神さま…すべてが上手くいきますように…。”

「お嬢さん…」
 しばらくアスカがアレックスの去ったほうを見つめて、感慨にひたっていると、後ろから聞き覚えのある声がして、振り返ると…あの大男の船長、コンウェイの姿があった。
「まあ、コンウェイ…! あなたなのね?」
「はい、お嬢さんも御無事で何よりでした。もうリリアが心配して、自分のせいでお嬢様がさらわれたと言うんで大変だったんですが、今はお嬢さんの御無事を祈ってお屋敷で、シスターと一緒に居たあのアニーという女の子のお世話をしていますよ。」
「まあ、アニーの?」
「はい、ボスがシスターを無事に助け出して戻ってくるまで、おれ達がお守りしますんで安心していてください」
「ええ…ありがとう。コンウェイ…」
 アスカの乗っている馬車を取り囲むように、アレックスの精鋭部隊の男たちが、コンウェイを中心にして守っている。もし不足の事態が起こってもアスカをしっかり守ろうというアレックスの配慮だった。

エレオノーラとレッジーナの真実

 自分の屋敷を出て、ラスキンの下へ行ったまではいいが、そこで連れてきた護衛たちも拘束された上に、窮屈な馬車に押し込まれてどこか分からない遠くの場所まで連れて来られたことに、レッジーナはひどく憤慨していた。憤慨しながらも、結果的にエレオノーラまで危険に巻き込んでしまったことへの後悔と懺悔に苛まれていた。

“わたしは…どうしてこんな生き方しか出来なかったのだろう…?”
 エレオノーラに請われて偽りの人生を歩んできたが、始まりはどうであれ、それを受け入れ…進んでその道に入ったのはレッジーナ自身だ。
華やかな世界で…どんなに誉めそやされても、決して救われることはなく…どんなに浮名を流しても心が満たされることはなかった。
弟のロバートからは、母親にはなれずとも幸せな生涯を得ることは出来ると何度も説得されたこともあったのに…。そのロバートも今はなく…頑なな自らの心のせいで、唯一の身内であるアレックスとも、もはや修復が不可能なほど拗れてしまっている。古ぼけた応接室の窓際にたたずんで、レッジーナは大きなため息をついた。
 季節はもう冬を迎え…暖房のないこの部屋では着込んできた厚手のコートがあるとはいえ、手袋をした指先が徐々にかじかんで来る。
 こんな場所に本当にエレオノーラは居るのだろうか…? そう思った時、部屋の入口が開いて、二人の男たちに両腕をとられた僧衣姿の女性が入って来た。その姿を見た瞬間、レッジーナにはそれが27年前に別れた姉のレオノーラだとすぐわかった。
 男たちは彼女を部屋の中央まで連れて来ると、そのまま黙って出て行った。

「エレオノーラ…! エレン…!?」
「その声は…レジーなの…!?」
 レッジーナはすぐさま駆け寄ると、小さなエレオノーラの手を取った。

「エレン、何て冷たい手をして…」
 レッジーナは両手でエレンの手を包み込むようにして自分の胸元に引き寄せる。

「レジー、会いたかったわ…。あなたからは何回か会いたいという手紙はもらっていたけれど…もう一生誰とも会わないと決めていたんだもの…」
「それは…リチャードが亡くなったからでしょう? そのうち…ロバートも逝ってしまって…もう真実を知る者がいなくなってしまって…いつしかわたしは…傲慢にもこのまますべてが変わらなければいい…そう思っていたのよ。愚かにもね…これではいけないと、ロバートには何度も言われていたのに、わたしは…最後まで素直に聞くことが出来なかった…」
「それはわたしも同じ…。あなただけが悪いのではないわ。ある意味…わたしがあなたの幸せを奪ってしまったのかもしれない…」
「エレオノーラ…。」
 二人は互いの手を握り締めて向き合うと、ハラハラと涙を流した。

「わたしは…愚かにも自分のプライドを満たすために、とんでもない悪党に加担してしまった…。そのせいでエレオノーラあなたまでこんな危険な目にあわせてしまって…。取り返しのつかないことをしてしまったわ…」
「レジー…あなた、ロバートの娘に会ったのでしょう? 彼女はアスカというのね…?」
「ええ…極東の日本という国から…アレックスが連れてきた娘でしょう?」
「あの子がきっとわたしたちを救ってくれるはずよ…」
「いいえ、わたしはもう何も希望は抱いていないわ…わたしは自分のしてきたこともよく判っているつもりよ。今さら好かれようなんて思ってないわ」
「レジー、わたしは知っているのよ。わたしがあの子の2歳の誕生日を祝った後に姿を消した後…あなたはあの子の母親になろうと一生懸命努力してくれていたことを…。でもあの子は…アレックスはとても感が強くて…イレイン以外誰も受け入れなかったのでしょう…?」
 それを聞いてレッジーナは小さく笑った。
「忘れたわ…。もう過ぎたことよ…」
「いいえ、大事なことよ…あなたは…」
 その先を言おうとしたとき、急にドアが開いて…数人の部下を連れたラスキンが勝ち誇ったように笑いながら入って来た。

「ほう? 公爵未亡人あなたにそっくりな姉妹がいたとは驚きですな…」
「そんなこと、あなたには関係ないでしょう? それに誰がこんなことを頼んだかしら? この人には何も関係ないことよ。すぐ解放してちょうだい。」
「それがそうはいかないんですよ。すでにあなたは我々の手の中にある。そしてクレファードも、今頃は古い廃坑跡で一足先にあっちの世界に行って、あなた方を待っていることだろう…」
さらにそう言って高らかに笑うラスキンの言葉を聞いて、エレオノーラはその場に座り込んだ。

「何ていうことを…。アレックスを殺したというの?」
「クレファードだけではない。あのリンフォードの跡継ぎの小娘も一緒に葬ってやったということだ。我々の事業にもあの小娘は邪魔だったんでね」
レッジーナはがたがたと震えながらエレオノーラの身体を抱きしめた。
“ ああ…こんなことになるなんて…! どうしたらいいの…!?”

 すると…また別の男たちが数人、何やら抱えて入ってくると、レッジーナの足元に転がした。
「…!?」
 そこには血まみれの愛人、ロベールの姿があった。思わずレッジーナは息を飲む。
「夫人、あなたの愛人だったこの男は、数年前からあなたを裏切って、多くの借金を我々のクラブに残していたばかりか、多くの娼館にも足を運んでいた。我々があなたの代わりに成敗してやったまでのこと…。何ならあなたと心中ということにしてもいいがね…それともそちらのシスター姿の夫人が先か…?」
 「何ていうことを…!」
 歪んだ笑みを浮かべるラスキンは、そして真っ直ぐ銃口をエレオノーラに向ける。
「やめて…!」
 レッジーナがそう叫んだ瞬間、発砲音が鳴り響き、レッジーナはその場にくず折れた。



  アレックスは、ジャマールと数人の部下を連れて、ゆっくりとその古い別荘の敷地内に忍び込んだ。ランスロット卿の部隊は、建物の周りを少し距離を置くようにぐるりと取り囲んで様子をうかがっている。
 相手に気付かれないように音を立てずに裏口から忍び寄っていく。先に行くジャマールが、途中見張りの男たちを素早く倒して、その後をアレックスが続いていった。
 アスカが囚われていたのは2階の奥の部屋だったが、夕方レッジーナを乗せた馬車が到着すると、2階に居たエレオノーラと思われる夫人は1階の応接室に移されたと見張りをしていた部下が報せてきた。そして、その1時間後、ラスキンもこの別荘にやってきたということだった。

 裏門を通り抜けて…建物の裏手に着いた時、アレックスはジャマールと二手に分かれて灯りの点いている応接室へと向かった。この時間は外の気温もかなり下がって、吐く息も白い。ジャマールはテラス側、アレックスは建物の中から忍び込んでいく。
 どうやら1階の部屋は玄関に近い応接室と、リビング…あとは台所に続く厨房だけのようだ。台所側の勝手口に見張りが一人立っていたが、部下の一人が難なく倒して、アレックスを手招きする。小さく頷いて、アレックスが中に入ると、ちょうど厨房に入って来た老婆と鉢合わせするが、声を上げかけた老婆の口を塞ぐと、小声でささやいた。
“大声さえ出さなければ、危害は加えない”
 老婆は黙って頷いたが、腰が抜けたようにその場にうずくまってしまった。それに構わず、一行は奥に進み…もう少しで灯りの漏れる応接室にたどり着くというところで、突然中から聞こえた発砲音に、驚いたアレックスは駆け出す。
“まさか、エレオノーラに何か…!?”
 アレックスが強引にドアを蹴破って部屋に侵入するのと、外からジャマールが入ってくるのはほぼ同時だった。ジャマールは窓越しにラスキンを狙撃した後、相手が怯んだ瞬間に中に押し入ると、見事な身のこなしで銃ごとラスキンを蹴り飛ばした。
アレックスは身を低くして部屋に転がり込んで、近くにいた男を下から撃って素早く身をかわすと…最短で倒れているレッジーナの側に行く。そのうちに側で控えていた部下やランスロット卿の部隊がバタバタと飛び込んで来て、辺りは騒然となった。

「バ、バカな…! クレファード! おまえは死んだはず…!?」
 撃たれた肩を押さえたラスキンが、突然目の前に現れたアレックスを見てパニックになって叫ぶ。
「残念だったな、ラスキン…自分の策に溺れて状況を見誤った結果だ。それにランスロット卿を怒らせたのもそのひとつ…そしておれの身内にまで手を掛けた。覚悟するんだな…。連れて行け…!」
ラスキンの一味はあっという間に制圧され、事態は収束する。ラスキンの部下達のほとんどは投降してランスロット卿の部隊に引き渡された。

「ああ…! レジー、しっかりして…!」
 部屋の中央では、倒れたレッジーナを抱きしめながら必死でエレオノーラが語りかけていた。
「エレン…もっと早くにあなたに会う…べきだった…。わたしは…」
「お願い、しゃべらないで…! 」
「いいえ…これでいいの…。これでやっと楽になれる…。」
「レジー、ダメよ…!」
「エレン…聞いて…。わたしが死んだら…あなたは本来あるべき姿に…戻って…。約束よ…。エレン…愛してる…わ…」
 レッジーナの声は徐々に小さくなって、やがてそのまぶたから一筋の涙がこぼれると…。エレオノーラの手からレッジーナの手がするりと力なく落ちた…。その瞬間に哀しげなエレオノーラの叫び声にも近い悲痛な声が部屋中に響いた。

 その様子をじっと傍らに立って見つめていたアレックスは、声をかけることも出来ずにただずっと見守ることしか出来なかった。
“レッジーナが死んだ…。”
 その事実はアレックスを打ちのめした…。確かに、アレックスとレッジーナとの間には不協和音しかなく、決して相容れる関係ではなかったが、こんな風に突然関係を断たれるべきではないのだ。それに…最後のレッジーナの言葉は、エレオノーラへの愛に満ちていた。真実はいったいどこにあるのだろう…?
  “もっと早く事実を知って、アレックスがエレオノーラを探し出していたら、レッジーナは死なずに済んだのではないか…? ”
 そんな想いも浮かんでくるが、今となってはもうそれも叶わない…。この事実をアスカが知ったら何というだろうか…?

「アレックス…」
 じっと立ち尽くしたままのアレックスの肩をいつ側に来たのか、ジャマールがそっと叩いた。
その目は、“行けよ…” そう言っていた。

 アレックスは、大きく息をひとつ吐いて…気持ちを整えると、自分のマントを脱いで膝まずくと、泣いているエレオノーラの肩にそっと掛けた。
 今はずっと声を殺して泣いていたエレオノーラは、その瞬間涙で濡れた顔を上げる。涙でキラキラ光るその瞳を見た瞬間、アレックスは声にならないほどの大きな衝撃を受けた。
“ああ…アスカ、間違いない…。この人はボクの母だ…” 

「ボクも…こんな終わり方を望んでいたわけじゃない…。レッジーナは決していい母親じゃなかったが、こんな終わり方は間違っている。」
ひとりでに唇が動いて…言葉が溢れてきた。
「ええ…レジーは本当はとても優しい子だった。決して素直ではなかったけれど、あんな風にしてしまったのは、わたしのせいなの…。お願い、あの子を責めないで…」
「わかっています。シスター・エレン…。いや、エレオノーラ…。あなたこそがボクを生んでくれた母上ですね…?」
 アレックスがそう言った時、エレオノーラの瞳からまた涙が次から次へと溢れてきた。

「アレックス…あなたはアレックスなのね…?」
 視線は空を彷徨っているが、その瞳には何かきらりと光るものがあった。
「はい、アスカからあなたの話を聞いて…彼女は、ボクの瞳はあなたにそっくりだと言っていた…」
「ああ…彼女は…アスカは無事なの?」
「はい、このすぐ近くで、あなたが来るのを待っています。さあ、行きましょう…。あとの事はボクの部下達に任せて…」
「でも、レッジーナが…」
「大丈夫です。彼女の威厳が最大限保たれるように…手配します」
「お願い…」
 エレオノーラは弱々しく小さな声でそう言ってうつむいた。傍らにいたジャマールが自分のマントでレッジーナの身体を包んで運んでいく。それを見てアレックスは、無言で小柄なエレオノーラの身体を抱き上げると、表に止まっている馬車まで運ぶ。その間ジャマールは部下に命じてレッジーナとその愛人の遺体を別の馬車に載せる手配をしていた。廊下ですれ違う時、ジャマールはアレックスだけに通じる表情で想いを伝えてきた。
“あとの事は任せておけ”と…。
 その眼差しはそう言っていた。アレックスは黙ってうなずいて、部下の用意したクレファード家の馬車に乗り込むと、シートに深くうずくまる様に座っているエレオノーラの隣に座って、その手を取って語りかけると…馬車は静かに動き出した。

「ボクはこの数ヶ月前まで、自分の生まれに何の疑問も抱かなかった。傲慢にも、ホークとして女王の威厳を傘に、英国政府のもとで働くことに快感さえ覚えていました。そんなボクが日本でアスカと出会い…ボクの生き方そのものがひっくり返るほど…彼女との出会いはボクにとって衝撃的だった。そして…彼女がロバートの娘だと分かった時…ボクはすべての運命を呪いたくなった…」
 独り言のようにつぶやくアレックスの言葉を、エレオノーラは目を閉じてじっと聞いていた。

「その時のボクは…アスカと結ばれることよりも彼女をリンフォード伯爵家の跡継ぎにすることを選んだんです。あなたも知ってのとおり、わがクレファード家には従兄妹同士の結婚は認められていない…。だが…アスカの方が諦めなかった…。そんな時です。イレインからあなたの話を聞いたのは…」
「イレイン…? レッジーナが去った後に…イレインがいたからあなたはこんなに立派に育ったのね…? 今のあなたの顔が見られないなんて…わかっていても…」
 言葉に詰まったエレオノーラは肩を震わせてまた泣き始める。アレックスは優しくその肩抱いて引き寄せると…彼女の細い身体をしっかりと抱きしめた。

 時を措かずに、ランスロット卿は英国に於けるラスキンの痕跡をすべて払拭すると、年明けには裁判が開かれ…ラスキンは第一級の殺人および犯罪者として裁かれ、終身刑を言い渡されてロンドン塔送りとなった。あそこに送り込まれたら、まずは生きていけないだろうと言われている。
そして…エレオノーラと再会したアレックスとアスカは、一度ウィンスレット家の領地のあるリンフォードに戻って、レッジーナの埋葬を身内だけでひっそりと済ませた。敷地の南側にある墓地の…ロバートの側にレッジーナは眠っている。
この時期英国の天候は、ほとんど日照のない日が続く…。だが今年は例年のような寒波は少なく、レッジーナを送った日も気温は低いが比較的穏やかな日だった。

ショックと過労が重なり、しばらくエレオノーラはアシュリー・コートで静養することになったが、優しく見守るアスカと…ロンドンからやって来たアニーの手助けで少しずつ元気を取り戻していった。
エレオノーラの様子が落ち着いたのを確かめてから、アレックスはロンドンに戻って、やらなければならないこと…。“シェフィールド公爵家と、リンフォード伯爵家にまつわる大スキャンダルを暴露して、エレオノーラを正式に公爵未亡人の地位に戻すこと” に取り掛かった。

幸せのために…。そして別れ…。

「だいたいに、昔からあなた方はいつもボクに関して、何か企んでいるようなところがあると思っていましたが、まさか…ロバートの件にも絡んでいるとは思いませんでした。まったく人が悪い…」
人払いをした女王の謁見室で、アレックスは目の前のランスロット卿とビクトリア女王に対して、穏やかだが、はっきりとした口調で悪態をついていた。

「それはロバートのあなたに対する思いやりというものよ。ねえ、ランスロット…? 」
 穏やかな笑みの中に悪戯っぽい表情を交えて、女王は答える。
「その通り…。我々だってヤキモキしながら見ていたのだ。君の母上の意向もあって、我々でも手出しできない分野なのでね…」
 ランスロット卿は女王の言葉を引き継ぎながら、いかにもその通りというようにうなずいてみせる。アレックスは小さく首を振りながら、諦めにも似た表情で笑った。
「つまりは…ボクはいつでもあなた方の手の上で踊らされていたわけだ…。」
「そう、怒るな、アレックス、君はそこで最高の人生のパートナーを見つけたんだ。上出来だろう?」
「それは…」
 そう言われると、さすがにアレックスも言葉に詰まる。
「で、いつ結婚式を挙げるんだ? 世紀の独身貴族だったシェフィールド公爵がついに結婚するんだ。世界中の女性達が悲しむだろうな?」
「バカを言わないで下さい。こちらはまだ喪に服している最中です。それに世間的にはまだ片付けなければならないことがたくさんあるんです。自分のことは、それがすべて終わってからです…」
 アレックスが少しムッとして答えると、女王は上機嫌で笑いながら答える。

「そうね。あなたの御両親にまつわるスキャンダルについては、一時この英国中の…心無い連中は騒ぎ立てるでしょうけれど、それもほんの一時でしょう。あなたがその事実を発表した後に、英国王室として私の名前で、あなたのお母さまの地位の復権に関して…“承認する” 旨の何らかの発表を致しましょう…」
「ありがとうございます…陛下。その温かいお心遣いに感謝いたします…」
アレックスがそう言って深々と頭を下げると、女王はまた意味深な言葉を投げかけてくる。

「これで…あなたには別の責任も生まれてくるわね。その覚悟もあるのかしら…?」
「何のことです…?」
 アレックスが問いかけると、女王はランスロット卿に目配せして笑いながら答える。
「跡継ぎのことですよ。あなた方には、シェフィールド公爵家、リンフォード伯爵家、両方の家名が掛かっているのよ。すぐにでも取り掛かっていただきたいわ…」
 そう言って高らかに笑う女王を見て、アレックスは呆れたように首を振った。


「それで女王は君達に、母上の復権を認める代わりにすぐにでも跡継ぎ作りに励めというんだな? 何ともおせっかいな話だ…」
 ロンドンのタウンハウスで、女王との謁見の話をすると、ジャマールが声を上げて笑った。
「だいたいにあの二人は昔から意地が悪い。それにロバートまで加担していたなんて…このショックをどう表現していいかわからなかったくらいだ」
「はは…。さすがのホークもお手上げというわけだ。ところで、問題の重大発表をどう表現する?」
「ああ…それも考えている」
 そう言ったところで、執務室のドアをノックする音がして、家令のロレンスが客人の来訪を告げる。
「どうやら、その件に関しての客人が到着したようだ。」
 二人がドアを振り返ると、少し緊張した様子のロニー・ウォルターが立っていた。

「あなたに再びここに呼んで貰えるとは思っていませんでした。クレファード卿…」
「ボク個人にに関して言うならば、君に対しては何の感情のこだわりも抱いていない。確かにアスカに関しては困ったこともあったが、もうそれも終わったことだ。今回は君に頼みたいことがあってここに来てもらったんだが…」
 アレックスはウォルターに、目の前の豪華なゴブラン織りのソファーに座るように勧めて、自分はデスクの机からきちんと封をされた2通の書類を取り出して…その前に座った。ジャマールはその様子を見守るように少し離れた場所に立って見つめている。
「まずはひとつ目…」
  そう言ってアレックスは、クレファード家の顧問弁護士の、封印のある封筒をペーパーナイフで封を切って、中身を取り出すとウォルターの前に並べた。
「これは…?」
「君が以前話していた、君の妹の調査書だ。もともと極秘に調査させていたこともあるが、この度あることから君の妹の娘…アンナ・フローネ…。アニーの居所がわかった。彼女は7年前に孤児となってある孤児院に預けられていたが、ある時期からひとりのシスターの元で一緒に暮らしていたんだ。」
「ああ…神よ、そんなことが…」
 ウォルターは信じられないというように天を仰いで十字を切ると、涙を浮かべてアレックスに感謝の言葉を述べる。
「いや、感謝を言うのはこの話を聞いてからにして欲しい…。これから話す事は、もうひとつの案件にもつながってくるんだ。果たして君がそれを受け入れてくれるかどうかに掛かっているんだが…」
 アレックスはそう前置きをした上で、アニーが一緒に暮らしていたシスターこそが本当の公爵未亡人、エレオノーラ ・ アリステア・クレファードであり、その彼女がアニーを養女として引き取りたいと言っていることを伝えた。
 初めはショックを受けたように硬直して聞いていたロニーは、最後には驚いた表情をしてアレックスを見る。
「アニーが公爵家の養女に…ということですか?」
「そうだ…。現実にはボクが後見人になることになるだろうが…そのための書類も出来ている。もちろん、君とアニーの関係も今までどおりでいい…。どうだろう? 母の願いを聞き届けてもらえないだろうか…?」
 アレックスの言葉を受けて、ウォルターは答えに窮している様子だった。本当はアニーの御許が判明した2週間前には対面も済ませている。その時に一緒にいた夫人の温かく優しげな表情をウォルターは思い出した。

「アニーが夫人のことを心から慕っているのはよくわかっています。仮にこれからボクがアニーを手元に引き取ったとしても、これからまた知らない土地で暮らすことを思えば、彼女にとっては今の生活を続けられて…おまけにあなたの庇護が受けられるなら…これ以上の幸せはないでしょう…」
「ありがとう…ウォルター。アニーが自分の望んだ人生が送れるように、出来る限りのことをすると約束しよう…」
「ありがとうございます。それにこれからは、あなたの側にはあの素晴らしい女性がいる。彼女がいる限り、ボクは何も心配はしませんよ…」
 ロニー・ウォルターは、暗にアスカのことをほのめかして…アレックスの反応を待った。

「もちろん、アスカはいずれ近いうちにレディ・シェフィールドになる…。そのためにはもうひとつの案件に…是非君の力を借りたいんだ。頼む。もちろんこれはビジネスでもある。それに見合った報酬も用意している。頼めるかな…?」
「もちろんですよ。ここに呼ばれた時から、これはボクにしか出来ない仕事だと思っていたんです。喜んでやらせていただきます。」
 ウォルターは立ち上がって、アレックスに握手を求めた。アレックスもその手をしっかりと握り返した。




 それから半月と経たずに、シェフィールド公爵家にまつわるスキャンダル記事が、ロンドンタイムスの一面を飾った。
“華麗なる一族の光と影…”
 そう銘打った記事は、スキャンダルを報じた内容とは裏腹に概ね、好意的な言葉で事実のみを伝えていた。もちろん、執筆者はあのロニー・ウォルターで、そうなるようにアレックスは目論んで、彼に原稿を依頼したのだが、結果は思った以上に効果はあったようだ。その記事が出たすぐ後に、英国王室からも肯定的な内容の発表があったこともひとつだが、同時に公表されたレッジーナの死亡記事にも予想に反して同情が集まったのには驚きだった。

その記事をハディントンパーク(クレファード家のカントリーハウス)で読んだアレックスは、満足げにその記事の載った新聞をロレンスが持ってきたトレイに戻す。
「すべては君の計画通りになったじゃないか…。これで君とアスカを取り巻くすべての障害は取り払われたわけか…?」
 側にいたジャマールがチラリと見て言った。

「さあな、クレファード家としての喪は来月明けるが、ロバートの事業の建て直しにはまだもう少しかかる。それにアスカ自身が関わっているいるうちは…。」
 少し苦笑気味にアレックスが答えるとジャマールも小さく頷いた。
「今回の一番の被害者は、リンフォード伯爵領の領民達だ。例の鉱山もそうだが、乱れた領内の秩序を取り戻すためには、ある一定の時間は必要だろうな…? 」
「それはそうだが、君はそれまで待つつもりなのか?」
「さあ…女王から託されていることもあるから、そのうちボクも関わることになる。この件が収束したら、出来るだけ早く…」
「そうか…じつは気になることがあるんだが…」
 そこでジャマールは、医者の本分からエレオノーラの目について、驚くべきことを言い始めた。

「先日、君の母上の様子が気になって…少し簡単な診察をさせてもらったんだが、もしかしたら君の母上の眼は手術である程度回復するかもしれない…」
 驚くべき告白だが、ジャマールの言うには、エレオノーラの眼は今ではわずかだが光を感じることが出来るという。一定ではないものの、その中にうっすらと影を感じる程度の感覚を、時々は感じるらしく…。彼女が視力を失った経緯を考えると、もしかしたら事故で切断されていた視神経が
長い時間をかけて少しずつつながりかけているのではないかということだった。もし本当にそれが事実なら、これは奇跡に近い…。

「わたしの亡くなった養父母の知り合いのオランダ人に、優れた外科医がいる。彼がまだ健在ならチャンスはあると思うが…」
「わかった。その可能性があるなら…是非試して欲しい…。母上はおれが説得しよう…」
「ああ…ではわたしもすぐあたってみる…」
 ジャマールはそう言うなり部屋を出て行った。この英国に戻って…自分のルーツとも言うべき生まれ故郷に足を向けた時から…運命は大きく動き始めた。アレックスはその昔…嫌な思い出しかなかったこの屋敷が急に何か懐かしいものに思えてくる。
“人の記憶なんて…いい加減なものかもしれないな…”


 その日の午後…リンフォード伯爵家の領地にあるアシュリー・コートから、静養していたエレオノーラが、アスカを伴って戻ってきた。
 玄関に続く広い階段の下にある車止めにはロレンスをはじめ、多くの使用人達がずらりと並んで出迎えていた。アレックスが先にアスカを下ろして…アニー、エレオノーラの順で馬車から降ろすと…涙を浮かべたロレンスたちがいっせいにエレオノーラのまわりに集まって来る。
 アレックスに再会してからのエレオノーラは、僧衣を脱いで貴婦人らしい装いをしていた。後ろで小さくまとめられたアレックスと同じプラチナブロンドは艶やかで、年齢よりははるかに若く美しく見える。

「お帰りなさいませ、奥様…!」
 懐かしい声を聞いていて、思わずエレオノーラも涙があふれてくる。
「ロレンス…! またあなたに会えるなんて…!」
「さあ、母上…中に入りましょう。ここであなたがどう過ごしたか、話していただけませんか?」
「ええ…」
 エレオノーラは、傍らにいるアニーを伴って中に入っていく。その後ろ姿を見つめながら、アレックスはアスカの手を取る。

「どうやら母上はすっかり元気になられたようだ。」
「ええ…。最初はレッジーナ様を失われたことにひどく気落ちされていたけれど、アニーもいるし、何よりもあなたの存在がお母さまを元気にしているのだと思うわ。アシュトン・コートで、イレインにも会って、いろいろあなたのことを聞いていらっしゃったから…。イレインはあなたに感謝していると伝えて欲しいと言っていたわ。」
「そうか、イレインの生活ももとに戻るといいんだが…」
「ええ…リンフォードに暮らす人々がすべて父が生きていた頃と同じように暮らせるように、顧問弁護士のミスター・フォーサイスと相談して借地料もすべて前と同じに戻したの。あの鉱山もあなたが紹介してくれた税理士さんのおかげで、来月には何とか正常に戻るでしょう…」
「そうかい? 君は優秀な実業家にもなれそうだな…。」
「あなたのように…?」
「ボクは単に人の使い方が上手いだけさ…さあ、行こう。君に見せたいものがある…」


その1ヶ月後…エレオノーラはジャマールの勧めに従って、目の手術を受けるべく…アニーを連れてオランダへと旅立っていった。
「お母さまの手術が成功するといいわね…。ほんの4ヶ月前…初めてこのロンドンに降立った時はこんな日が来るなんて思えなかったわ。あの時のわたしは、ただあなたの側にいたくて…それだけだった…」
「君は強かったな。その気持ちが何かを動かしたんだろう…。逆にあの時のボクは君に事実を告げる勇気もなくて…ジャマールからは責められっぱなしだったが…」
「あなたも苦しんでいたんですもの…必要だったのよ、その時間が…。わたし達にとっては…」

1階にある舞踏会にも使われる広いホールの一角に設けられたギャラリーで、二人は寄り添いながら…一枚の大きな絵を眺めていた。それは美しい女性の肖像画で、若いプラチナブロンドの女性が穏やかに微笑みながら、こぼれるような笑顔を見せていた。

「父は…画家だったんだ。終生ひとりの女性を描き続けた。」
「それがお母さまなのね…?」
「ああ…。ボクは父のそんな姿まで哀れに見えて、決してその内情まで問いかけることはしなかった。今ならそれが…心から愛していたエレオノーラだとわかるが、その頃は不実なレッジーナを思い続けていた哀れな男の姿にしか見えなかったんだ…。」
「お父さまはそれで幸せだったのではなくて…? 心の中にずっと愛する人の姿があったんですもの…」
「そうだな、君を知った今なら理解できるよ…。ああ、それと君に手紙が来ていた。貴蝶からだ。一緒に届いたアンソニーの手紙には、あれから日本に渡って、岩倉卿に挨拶して、簡単な式を挙げた後にアメリカに行くと書かれていた。きっと今頃はもうアメリカに着いているかも知れないが…。」
 アレックスは胸の内ポケットから手紙を一通取り出してアスカに手渡した。貴蝶はアスカにとっては姉のような存在だ。誰よりもアスカの幸せを願っていた。その貴蝶も今ではアンソニーと新たな人生を歩むためにアメリカへと向かっている。
「もうこれですべては解決したのかしら…? あのあなたの元愛人だったあの人は?」
「マリアンのことを言っているのなら、彼女は今パリにいる。パリのオペラ座で一から出直すんだそうだ。」
「そうなの…ではあのあなたの友達だったあの彼は?」
「ピーターのことを言っているのかい? 彼なら今頃はスペイン沖だ。軍に戻ったよ、マリアンのことで懲りたんだろう…。ラスキンが捕まったことで、彼の借金も帳消しになった。その航海が終わったら…許婚の幼馴染と結婚するそうだ。」
「まあ? 彼にはそんな人がいたの? それなのにマリアンと? よくわからないわ…」
アスカは呆れたように首を振る。
「男とは…決められた道を歩むのを嫌がる生き物だ…」
 そう言ってアレックスはぐっとアスカを抱きしめてその唇を奪う。レッジーナの喪が明けた先週、新聞の紙面の告知欄にアレックスとアスカの婚約の記事が大きく報じられた。それ以来アレックスはどこへ行ってもアスカとの関係を隠すことはなくなった。

「3ヵ月後…ウエストミンスター寺院でボク達は結婚式を挙げる…その覚悟は出来ているかい?」
「ええ…もう逃げたりしないわ。混血であることも…今ではわたしの個性だから…」
「頼もしいね、それでこそボクのアスカだ…。まずは来月の王室の晩餐会をクリアーしなければならない…」
 アスカは去年、初めてアレックスと参加した王室主催の舞踏会で…緊張の中で行った女王との謁見を思い出した。その時にも隣にいるアレックスの存在にどれだけ助けられたか…でも今度はアスカがアレックスを助ける番だ。

「今度の晩餐会には和服で参加するわ。以前に皇太子殿下から日本の文化を見てみたいといわれているの」
「もちろん、構わないが…。ロンドン社交界の貴族連中は度肝を抜すだろうな。かつてそんな異文化を披露した女性は、この貴族社会にはいなかった。いい意味で君はこの世界を変えるかもしれない…」
 そう言ってアレックスは愉快そうに笑った。






1ヵ月後、アスカはリリアに手伝ってもらって、貴蝶がアスカのために用意してくれた美しい錦の振袖に袖を通した。(宝龍島(ホウロントウ)を離れる時に貴蝶から手渡されたもの)
帯はわざと結わずにだらりと後ろに垂らす。髪は島田には結えないので、何人かのメイドたちに手伝ってもらって明るい色の早咲きのバラを髪に結いこんだ最新の髪型が出来上がった。そしてべっ甲の櫛と銀のかんざしをさすと、アスカは鏡の中の…自分の姿に満足してにっこり微笑んだ。

 そしてその晩、アスカは華やかな晩餐会の席でひと際輝いていた。女王や皇太子達に声を掛けられても少しも臆せず明るく受け答えする様子にアレックスも満足していた。やっと二人が解放された帰りの馬車の中で、アレックスはそっとアスカの耳元でささやきながら、開いた襟足に唇をつける。すると…アスカの体の中を…またあの馴染みのあるジン…とするような甘い疼きが駆け抜けていく…。
「着物というドレスは…鉄壁な淑女の要塞のようだな…? すべて脱がすにはこの固い帯を解かなければならないのか…? 残念だが、屋敷に戻るまではお手上げだな…」
「そうよ…それまで大人しくして…」
 そんなたあいの無いじゃれ合いを楽しめるほど、今の二人には親密な空気が溢れている。そして…これからもそれは永遠に続くのだ。そう思うと…アスカは堪らなく幸せな気分になった。
そしていよいよ1週間後がアスカとアレックスの結婚式という日…オランダに行っていたエレオノーラが帰ってきた。ブリストル港に着いたマレー号を出迎えるために、アスカはリリアを伴って埠頭までやって来た。忙しそうに荷物の上げ下ろしをしている人夫たちを横目に、エレオノーラと付き添いのアニーが下りて来るのを待つ。
 今回の航海にはジャマールも同行していて、先に荷物が下ろされて馬車の荷台に移される間、アスカはワクワクしながら、エレオノーラの姿が桟橋の上に現れるのを待っていた。手紙で手術が成功したことは知っていたけれど…。
 “今日は公用で、この場に来ることが出来ないアレックスの代わりにアスカはここに来ている。エレオノーラの目に、アスカはどんな風に映るのだろうか? そしてアレックスは…”

 しばらくボーっと物思いに耽っていたアスカは、ジャマールの手を借りてエレオノーラが桟橋から埠頭に降立ったのにも気付かなかった。
「アスカさま…!」
 隣にいたリリアに呼ばれて初めて、ひとりで真っ直ぐアスカを目指して歩いてくるエレオノーラの姿に気が付く。彼女はアニーに手を引かれるわけでもなく、微笑みながらこちらに歩いてくる。もともと高貴な雰囲気と類稀な美しさを持つエレオノーラだが、視力を回復したことで自信を取り戻した彼女は本当に光り輝いて見えた。

「あなたがアスカね…? なんて…ロバートによく似ているんでしょう…。ありがとう…わたしはどう感謝してよいか、わからないくらいよ…」
 エレオノーラはそう言ってアスカを抱きしめた。言いようの無い感情が込み上げてきて、アスカも彼女の身体を優しく抱きしめる。
「きっと今ごろ…アレックスは、お屋敷でお母さまをお待ちしています。ここに来られないのをとても残念がっていました。」
「ええ…あの子の顔を見るのをどれだけ楽しみにしていたか…。でも楽しみは最後まで取っておくことにするわ。さあ、参りましょう」
 エレオノーラは、嬉しそうに誰の手も借りずに馬車に乗り込んだ。それを見てアスカはジャマールと目を見合わせて笑う。目が見えるようになったことで、すべてに自身が持てるようになったエレオノーラは光り輝いていた。それは彼女を取り巻くすべての世界が変わったことを現していた…。

先にアニーを乗せ、最後にリリアとアスカが乗り込んで、クレファード家の4輪馬車は音もなく走り出した。


タウンハウスの玄関ホールに立ちながら、アレックスはソワソワしながらアスカが戻ってくるのを待っていた。ブリストル港にマレー号がエレオノーラを乗せて到着すると連絡があったのは3日前だ。午前中、大法院に結婚許可証の申請に行く予定のあったアレックスは、迎えに同行することは出来なかった。代わりにアスカが行くことになったが…。ブリストル港までは馬車で半日…。
 “もし予定通りに着いたなら、午後には合流してこちらに向かっているはずだが…。”
時計の針はもうすでに午後5時を大きく回っている。季節は春からもう初夏に向かっていて、この時期の太陽はまだ高い位置にあった。

来週にはいよいよアスカが永遠にアレックスのものになる…。その瞬間をどれほど待っていたか…。彼女がレディ・シェフィールドになって初めての夜を想い浮かべる時、甘美な陶酔が体中を駆け抜ける…。あの、日本での黒柳との闘いの最中…暗闇の中で、明るいステージの中に浮かび上がったアスカの姿を、アレックスは忘れられなかった。生まれたままの姿に…煌びやかなティアラだけをまとった姿は、まさに月の女神アテナそのものだった…。黒柳でなくともその優美な姿は、すべての男たちの憧れでもある。
“ その女神がやがてアレックスだけのものになる…永遠に…。” 

そして同時にアレックスは、数ヶ月前…ジャマールから聞かされた衝撃的な告白を思い出していた。ジャマールはアレックスがアスカの元に向かう、その直前にやって来た。

「おまえの現れるタイミングはいつも絶妙だな…?」
「そうかな…? 別に今夜に限ったことでは無いと思うが…。だが、君にこのことを告げるにはこのタイミングしかない気がしたんでね…」
 そう前置きしてジャマールは語り始めた。
ジャマールの生まれ故郷はカスピ海を挟んだ向こうにある砂漠の国 『ドゥメイラ』 小さな部族単位の首長国がいくつも連なり、その中でも中央に位置するオアシスの王国ドゥーラスがすべての首長を束ねる国王制をしいていたこと。そしてかつてジャマールはその国の第一王子で、17歳の時、政変が起きて、父親である王の腹違いの弟に王位を奪われ、父親は命を奪われて…後には生まれつき目に障害を持った弟と母親が残された。
王の後継者だったジャマールも命を狙われ、隣国の首長だったアランドに守られて、辛うじて故郷を脱出したあと、昔から親交のあったオランダ人医師の夫婦の下に身を寄せて、そこで医術を学んだことを語った。3年間は何事も無く過ぎたが、いつかは故郷に帰って父の敵を討つことを誓っていたジャマールは、同時にあらゆる武術を身につけた。
オランダ人の養父母は敬謙なクリスチャンで、憎しみはジャマールのためにならない、これからは新しい生き方を見つけて生きて欲しいと常に言っていたが、その両親もある時ギリシャのクレタ島沖の海上で、トルコの海賊に襲われて呆気なく命を落とした。
その時にジャマールも捕えられて、奴隷としてガレー船送りになり…1年後アレックスと出会うまでジャマールはまったく違う生き方をしてきたのである。

「やはりな、おまえにはどこか他の連中とは違う何かを感じていたんだが…王族だったとはな…。驚きだ。」
「それはもう過去のことだ。今のわたしは君の副官としての自分に満足している。」
「そうなのか…。おれはてっきり…、でおれに告げたいこととは…?」
 ジャマールがこんな風に自分から過去について話すのは初めてだ。きっと大切な何か決意があってのことだろう。

「わたしは…前に、君たちの関係がどこに向かっていくのかその行き先を見届けたいと言っていたのを覚えているか?」
「ああ…英国に戻る船の中で、オレが自分の心に向き合えずに悩んでいた頃だな?」
「わたしは…正直言うと、君以上に恋愛には何一つ希望も夢も持ってはいなかったが…君とアスカを見ているうちに、もう一度自分の運命と向き合う勇気が出来たような気がする…。」
ジャマールはそこで、今まで一度も語ったことのない自分の運命…『ドゥメイラでは世継ぎの王子が生まれると、その周辺の国で10年以内に神が定めた伴侶となる女の子が生まれるといわれている。』 を語った。

「ではおまえの故郷にはその運命の女性がいるというんだな…?もし、彼女が独り身で…まだ自分の運命を信じていたら…? おまえはどうするつもりなんだ?」
「わからない…。ドゥメイラの王位に今もアリメドがいるなら、おそらくは戻ればまた命の危険があるだろう。だが、弟と母のその後も気になる。わがドゥーラスの王家は数百年続いた歴史があり、古の神々との契約に従って守られてきた一族だった…」
「それを父上の腹違いの弟は神をも裏切ったんだな? それで…おまえの言いたいことはだいたいわかった。おまえの自由にすればいい…。しばらくはおれもここを離れるつもりもないし、正直もう世界中の海を渡り歩いて冒険することに、前ほど悦びを感じなくなっている…。おまえが育てた精鋭部隊を使ってもいいし…。なんならマレー号を動かせばいい…。だが約束してくれないか、何があっても一度は戻ってくると…」
「ああ…約束しよう…」
 二人は固く互いの手を握り合った。10年近くずっと一緒にいて、片時も離れず…影のようにアレックスを守ってきたジャマールが居なくなることに、アレックスは言葉ではいえないほどの寂しさを感じていた。まるで…心の半分をどこかに置き忘れてきたような…そんな錯覚さえ覚えていた。

「旦那さま、アスカさまがお戻りになりました。」
 物思いに耽っていたアレックスは、ロレンスの言葉にハッとしてわれにかえると、そのまま玄関の外へと向かった。
馬車は西陽の光る通りの街路樹を抜けて…最奥にあるクレファード家のタウンハウスの広い車止めにゆっくりと止まった。待ち構えた若いフットマンが二人駆け寄ってくると、一人が荷物を下ろしに掛かるのと同時に、もうひとりが馬車のドアを開けて、アスカが下りてくるのを手伝った。
 アレックスがそのタイミングで階段を下りてくると、アスカはその姿を見てすぐ駆け寄って、その胸に飛び込んだ。
「アレックス、早くお母さまに…」
 アスカの言葉に誘われるようにアレックスは馬車の方に向き直ると、エレオノーラがちょうどタラップを降りてきたところだった。エレオノーラの眼は真っ直ぐ正面にいるアレックスに注がれている。

「アレックス…」
 見つめるエレオノーラの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。その表情からアレックスはエレオノーラの瞳が光を取り戻したことを知る。
「母上…ボクが見えるんですね?」
「ええ…わかるわ…あなたが…。なんて立派になって…。あなたのその眉と口元は…お父様にそっくりだわ…」
エレオノーラはアレックスの頬に手を添えてじっとその顔を見上げると、また大粒の涙を流した。その肩を抱きしめながら…アレックスはその少し後ろに立ってその様子をじっと見守っていたジャマールに小さく頷いてみせる。感謝の意志を込めてその目を見つめるアレックスにジャマールも黙ってうなずいた。

永遠の愛を誓って…。


そして結婚式の朝…早起きをしたアスカは、多くのメイド達が心を込めてこの日のために整えた衣装に袖を通した。もちろんその生地は以前貴蝶がアスカのために持たせてくれたものだ。光沢のある白地に美しい織模様が入っている。ビスチェ型の身頃の胸元からは豊かな谷間が覗いているが、その両肩を覆う薄いヴェールのようなレース生地が上品さを醸し出していた。
 スカート部分は、細いウエスト部分から裾にかけては緩やかなドレープを掛けたたっぷりとした生地で出来ていて、長く裾を引くデザインになっている。胸元には以前アレックスから送られたクレファード家のルビーとダイヤモンドの首飾りがある。
 今は美しく整えられたリンフォード家の女主人の主寝室で…アスカは高揚する気持ちを抑えられなかった。
“ いよいよ今日、わたしはアレックスと結婚するんだわ…”
 3日前にアメリカから、メルビルの母と一緒にアンソニーと貴蝶がこのロンドンにやってきた。そして昨日になって、宝龍島(ホウロントウ)からイェンとメイファンも到着して、周りはとても賑やかになった。

「アスカ、準備は出来たかしら?」
 ひとり感慨に耽っていると、そこへ様子を見に貴蝶がやってくる。
「貴蝶姐さん…」
 貴蝶の顔を見ると急に涙が溢れてくる。
「まあ、アスカ、泣いてはダメよ。せっかくの綺麗なお化粧が台無しになるわ。」
 貴蝶はハンカチを出して、アスカの涙を拭いた。
「おめでとう…アスカ。わたしも嬉しいわ。この日をどれだけ待ちわびていたか…。さあ、馬車が待っているわ、行きましょう…旦那さまのもとへ…」
 貴蝶に手を取られて、アスカは小さくうなずいてゆっくりと立ち上がった。




  



 

英国で最も裕福なシェフィールド公爵の結婚式ということで、ウエストミンスター寺院の礼拝堂には1000人を超える人々が集まっていた。当代一の美しい花嫁、花婿をひと目見ようと多くの人々がひしめき合っていた。
  祭壇の前には、きっちりとした上質の燕尾服に身を包んだアレックスがいた。その彼に向かって、アンソニーにエスコートされたアスカが一歩また一歩と進んでいく…。彼女が通り過ぎるたびに周りにいる人々から賞賛の溜息が漏れる。
そしてついにアレックスの前まで来て、アンソニーはアスカの手を取ってアレックスの手に重ねた。アレックスも緊張しているのか、ほんの少し指先が震えている。

「デユーク・シェフィールド… ルシアン・アレクサンダー・クレファード…あなたは病める時も健やかなる時も…彼女を愛し、慈しむことを誓いますか…?」
「誓います…」
 教会の静寂の中で力強い男性的な声が響く…。

「レディ・リンフォード… アスカ・フローレンス・メルビル・ウィンスレット…あなたは病める時も健やかなる時も…彼を愛し、慈しむことを誓いますか…?」
「誓います…」
「では、指輪を交換して…神の御前で誓いのキスを…」
 もう目の前にいる司祭の言葉など、半分も耳に入らなかった。震える指でアスカの指に紋章入りの指輪をはめて…司祭の遠慮がちな咳払いにも構わず、二人は抱き合ったまま…かなり長い間キスを交わした。

 無事に結婚式を終えた後、教会の別室で、アレックスとアスカは最後の仕事に掛かる。この結婚証明書に二人でサインをして初めて結婚が成立するのだ。
 アレックス、アスカの順で広げられた書類にサインをする。その後、教会司書によって間違いが無いか確認される。
「おめでとうございます。これでお二人の結婚は成立いたしました。」
「ありがとう…」
 二人が揃ってまた寺院の外に出てくると、外で待っていた人々が歓声をあげながら二人の結婚を祝って拍手で迎える。見上げる空はどこまでも青く…二人を祝う歓喜の声が空高く響いていた…。



その夜…二人がすべての行事から解放されて、やっと自分の寝室に戻ってきたのは、夜もかなり更けた頃だった。クレファード家のタウンハウスの…主寝室のベッドの上で、アスカはこの日のために用意した羽ねのように薄いナイトガウンに身を包んでアレックスを待つ。

 今まで何度も一緒に夜を過ごしてはいるけれど、今夜は特別だった。レディ・シェフィールドとして迎える初めての夜だ。誓いの言葉を述べるアレックスの声を思い出すだけで、体の内側が熱くなってくる。アスカは鏡の前に座って、何度も落ち着き無く髪の毛を梳かした。
 なかなか来ないアレックスにやがて切ない溜息が漏れる頃…鏡の向こうに見える隣の続き部屋を隔てるドアがサッと開いて…アレックスが素肌にガウンを羽織っただけの姿で入ってくる。髪が濡れているのは、急いで入浴してきたのだろう。

「遅くなった…。こういうときに限ってなかなか解放してくれないんだから…みんな意地が悪い…」
「みんな久しぶりに会ったんだもの…話したいことが山ほどあったのではないの?」
「君は優しいな…。おいで…初めての時の様にボクに見せてくれないか…?」
 そう言ってソファーに座って…アスカを手招きする。その碧い瞳は欲望にキラキラ輝いていた。
アレックスは初めて二人が結ばれた晩のように、彼の前ですべてを見せて欲しいといっているのだ。あの時は欲望を感じながらも…屈辱で体中が震えていたけれど…今感じているのは、こころからの愛と献身だけだ…。

アスカはベッドを降りてゆっくりとアレックスのもとへ近づいていく…。そして…アレックスの前で、サイドテーブルの灯りを受けながら…身に着けているナイトガウンを床に落とした。そして一歩、アレックスの方に踏み出した…。
 目の前に立つアスカの優美な曲線にアレックスの眼は釘付けになる。

「綺麗だ…。何度君を抱いても…その想いは変わることはない…。その証拠として、これを…君に送りたい…」
 アレックスはそう言って一度立ち上がってサイドテーブルの引き出しを開けると、黒いビロードの箱を取り出した。中を開けると…眩いばかりのダイヤモンドに彩られたルビーをあしらったティアラが現れる。
「これは…?」
 驚くアスカの手を引いて壁に掛けられた大きな鏡の前に立つと、後ろに回ってアスカの頭にそっとティアラを乗せた。
「見てごらん…」
 アレックスの言葉に誘われるように目を開けると…アスカは鏡の中に映る自分の姿に目を奪われる。一糸まとわぬ生まれたままの姿で…頭上に煌くティアラを戴いて…それが自分の姿だとは思えなかった。
「あの首飾りと一緒に…このティアラもクレファード家の家宝にしよう…。今の君は…天上の女神だ…。あの日…輝く女王のティアラを戴いた君の姿を…ボクは忘れられなかった…。だから…今夜から君はボクだけの女神になる…」
 アレックスは耳元でささやきながら…後ろからアスカを抱きしめた。前に回した手で豊かな胸の膨らみを包み込む。もう一方の手をその曲線に沿って下に下ろしていくと…スレンダーなウエストからは不釣合いなほど、少し膨らんで見える下腹部に手を添えて、優しく撫でた。
 つい先日懐妊が判明したばかりだった。自然とアスカの唇から切ないため息がもれる。

「アレックス…愛しているわ、もっと…愛して…」
「欲張りな女神だな…もちろんだ。君にはいろいろ教えたが…君は本当に優秀な生徒だよ…さあ、一緒にベッドに行こう…」
アレックスは優しく抱き上げると、アスカをベッドへ運んでいった…。

エピローグ 


1890年    9月  ロンドンからアメリカに向かう大西洋上の船の上で…。

甲板の上で船乗り達が、マストの上を見上げて、何か大声で叫んでいる。最新鋭の蒸気船の一番高いマストの上には、英国籍を表すユニオンジャックと…クレファード家の紋章である3本の剣を象った旗がひらめいていた。
しばらくしてそこへ船員の一人と一緒に、腕を捲ったシャツとスラックスという軽装の…ひとりの紳士が現れた。明るいプラチナブロンドが太陽に透けてキラキラ輝いている。船員の説明を聞きながら、彼は鋭い眼差しで頭上の…メインマスト辺りを見上げている。その側ではひとりの使用人らしき婦人がハラハラしながら、同じように頭上を見て何やら叫んでいる。

「ああ、坊ちゃま…! お嬢様! 何ていう所に…申し訳ありません、旦那さま…わたしが付いていながら…」
「大丈夫だ、マギー。君のせいではない。どうせあの我が家のギャング達は、君の目を盗んで逃げ出してきたんだろう…。後は大丈夫だ。ボクに任せなさい…」
 そういうと彼はメインマストの真下に立つと、上に向かって大声で叫んだ。

「シェリル・アレクサンドラ! レイフ・ウィリアム! すぐ降りて来なさい!」
「お父さま…!! 今レイフと、どっちが早くマストのてっぺんまで登れるか競争していたのよ! わたしの勝ちよ!」
「違う…!! シェリルはずるいよ! リボンの分だけ高くなっているから、本当ならボクの勝ちだ…!」
 メインマストの上では、二人の子供が大声で何か言い争いをしている。彼らはこの船のオーナーである、英国のシェフィールド公爵…ルシアン・アレクサンダー・クレファードの双子の子供達だった。
 姉の名前はシェリル・アレクサンドラ…父親譲りのプラチナブロンドと、母親から受け継いだ水晶色の瞳を持つ美少女で、弟の名前はレイフ・ウィリアム…母親の黒髪と…父親の碧い瞳を持つ姉同様稀有な美貌を持っている。

「どちらでもいい!! 早く降りて来なさい! これ以上皆を煩わせるなら、明日から毎日、朝から晩まで船室でラテン語の勉強をさせるからな…!」
 アレックスが強い声で言うと、頭上からシェリルの不満そうな声が響く。

「嫌だ!そんなの~!! 下りるからそれだけはやめて…! レイフ、下りるのも競争よ!」
 シェリルはそう言うが早いか、マストから伸びている長いロープを伝って下り始める。
「あ…! ずるいぞ!シェリル!!」
 慌ててレイフも後を追う。
「コラ…!! おまえたち…!」
 アレックスも大きな声を上げるが、二人は歓声を上げながらそれぞれマストの両端のロープを勢いよく滑り降りる。周りのクルー達はハラハラして見ているが、子供達はまったく気にしていない様子で楽しんでいる。

「お父さま…! 受け止めて…!」
 シェリルはアレックスの真上まで来ると、ロープを放して、彼目がけてジャンプする。それをアレックスが両手で受け止めると、シェリルは歓声を上げて“パパ、大好き…!!” ギュっと首に回した手に力を込めてハグすると、そう耳もとでささやく。
 この4歳の小さな小悪魔は、アレックスが自分のことを溺愛しているのをわかっていて、甘える時だけ、“お父さまではなく、パパ”と呼ぶのだ。そのうちもうひとりの小さなギャングも側にやって来た。
「ずるいよ、シェリル! 」
 そういう息子のレイフも反対側の腕に抱き上げると、両手に双子を抱きながら…少し強面の表情を作って二人の顔を覗き込む。

「おまえたち、これ以上お母さまに心配を掛けて…、サンフランシスコにいるおばあさまたちに会う前に、おなかの赤ん坊が出てきたら…その時は、港に着いたらすぐお前たちだけ英国へ送り返すからな…」
「ごめんなさい! お父さま…もう二度としないから、それだけは勘弁して…!」
 そう言うレイフの陰で、シェリルは少し不満そうに口を尖らせている。どうせそそのかしたのはシェリルの方だろう…。困ったものだと思いながら、アレックスは二人を足元に下ろした。
 すると後ろに控えていたマギーが前に出る。

「さあ、さあお二人とも、下に下りて、また歴史のお勉強の続きをしますよ」
「は~い! じゃあ、またお部屋まで競争よ…!」
 マギーが声を掛けると、二人は大きな声で返事をして、また甲板を駆け出した。アレックスに小さくお辞儀をすると、慌ててマギーはその後を追いかけた。

「まったく…毎日何かと騒ぎを起こす、いったい誰に似たんだか…?」
 アレックスがポツリとつぶやくと、後ろからクスクス笑う声がする。振り返ってみると、妻のアスカが付き添いのリリアに支えられながら、側にやってくる。
「気分はどうだい?」
「ええ…大丈夫よ。ちょっと外の空気が吸いたくなって…」
 アレックスは片手で妻の腰を支えるようにして、近くのベンチにエスコートして一緒に腰を下ろした。
5年前…アスカと結婚して、やがて二人の間に双子が生まれると…アレックスも今までのように海外へ頻繁に出かけることはしなくなった。ランスロット卿の下での活動も、国内か西ヨーロッパに限られていて、それは事実上の引退に近い。マレー号をはじめ、多くの軍船はそのまま維持され、優秀な部下達がその任に当たっている。アレックスはそのオーナーとして中心にいて、指示は出すが、もう前のように自身で出かけて行って、問題を解決することは無かった。

9月の涼しい海風を受けながら、アスカは気持ちよさそうに目を閉じて、頭をアレックスの肩に乗せる。
「あの子たちは、わたし達にそっくりよ…。わたしも相当なおてんばだったけれど、あなたも悪戯ではずいぶんウィンスレット家のおばあさまを悩ませたとイレインから聞いたわ…」
「なるほど。あの子悪魔達は僕達にそっくりだといいたいんだな…? だがシェリルは女の子だ、あのままだと嫁の貰い手が無くなるぞ…」
「大丈夫…。わたしがそうだったように、年頃になったら…ちゃんとあの子をセーブしてくれる相手を自分で見つけるわ。」
「そうか…? だが、もうすぐまたひとり小悪魔が生まれるぞ…?」
 アレックスはアスカの、今にも破裂しそうな大きなおなかをそっと撫でた。
「あら? この子が女の子なら、女王との約束どおり、男の子が生まれるまでこれは続くのよ…」
「もちろんだ…。君と励むその行為は…無限の悦びだ。望むところだね…」
 アレックスはアスカをさらに抱き寄せて…そっと口づける。

「アレックス…ジャマールは今ごろどこにいるのかしら…?」
「さあ…3年前に、故郷に戻って王位を復権したと報告が来たが…その後はどうしたものか…。たぶんあいつのことだ、なんの前触れも無く現れるに違いない…。マレー号に乗っているコンウェイも寂しがっているが…。」
「そうね…」
  かつて一緒にアレックスを支えたコンウェイは、今でもマレー号で船長をしている。リリアと結婚した今でも、陸に上がる生活は性に合わないと船での生活を続けているが、リリアもアスカの側にいるほうが良いと、何とも奇妙な夫婦生活を送っていた。
 視力を回復したエレオノーラも、しばらくは英国で暮らしていたが、アレックスたちの結婚式に立ち会うためにアメリカからやって来たアスカの養母のジェイ二―と気が合ったことで、数年前からアニーを伴って…アメリカでジェイニーと一緒に暮らしている。

 アスカとアレックスが結婚して数ヵ月後…二人の新生活を見届けた後、ジャマールは自らの運命と向き合うべく…故郷のドゥメイラへと旅立っていった。行きはマレー号でコンウェイがトルコの先、アフリカ大陸の北限シリアの近くまで送って行き、そこで分かれた。ジャマールは優れた精鋭部隊の中から数人の若者を連れて行ったが、その中にあのアンドルーの姿もあった。
 1年後、アンドルーが帰ってきて…自分が見聞きした遠い砂漠での経験を…目を輝かせて話すのをアレックスは頼もしく聞いていた。

ジャマールの人生の中で、何か大きな変化はあったのだろうか…?
 気にはなるが、その答えもいつかわかるだろう…?
「何を見ているの…?」
 遠くを見つめるアレックスの視線を追ってアスカが訪ねる。
「いや、君の瞳の…その銀色の炎をはじめて見た日のことを思い出していたのさ…。その炎に囚われた時から…ボク達の旅は始まった…。そしてこれから先もそれは永遠に続く…。どちらかがこの世界を去っても…だ。」
「ええ…」
 アスカも小さくうなずく…。
「そして、その果てには何が待っているんだろうな…? そこまで行ってみたいと思わないか…?」
「ええ…」
 アスカはアレックスの瞳を見つめながら…満面の笑みを浮かべてうなずいた。


      『 炎の果てに… 』  終わり

炎の果てに…。ロンドン編

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。ここで二人の物語は完結になりますが、これから先は謎の異国人の戦士、ジャマールの物語へとつながっていきます。
 興味のある方はぜひ引き続き愛読くださいますようお願い申し上げます。

炎の果てに…。ロンドン編

世界で唯一の愛は、決してこの世では手に入れられないもの…。 たとえそうだとしても…わたしはあなたから目を離すことは出来ない…。たとえそのためにあなたと闘うことになったとしても、わたしは決して後悔はしないから…。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • アクション
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2021-10-31

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND
  1. プロローグ 1  英国領 香港 8月
  2. プロローグ 2 宝龍島(ホウロントウ)~記憶のかけら
  3. プロローグ 3 宝龍島(ホウロントウ)~ 暴かれた真実
  4.  新たなる旅立ち 1
  5. 新たな旅立ち 2
  6. 新たな旅立ち 3
  7. ロンドンへ…。 レディー・ウィンスレット
  8. アレックスの決断  もうひとつの真実 1
  9. もうひとつの真実 2
  10. 英国女王 ヴィクトリア
  11. 新たな陰謀…アスカの決意 
  12. 隠された真実…父の愛
  13. エレオノーラの真実…蘇る悪夢
  14. 絡みつく陰謀の罠
  15. アシュリー・コート  二人の誓い
  16. 暴かれる真実 1
  17. 暴かれる真実 2
  18. 試される二人の絆
  19. 動き出した黒い影
  20. 囚われて…。
  21. エレオノーラとレッジーナの真実
  22. 幸せのために…。そして別れ…。
  23. 永遠の愛を誓って…。
  24. エピローグ