凛と生きた6,005日。
あなた以上に大切なものなど何もなかった。
黒くて、小さくて、いつも一緒だったリン。
楽しかった日々を、何でもないあの日々を、悲しかったあの日も。
リンちゃんが小さな身をもって教えてくれた命の尊さを、心だけじゃなく、記録にも残したいと思って書きました。
心から愛することを教えてくれた大好きなリンちゃんへ。
ここにあるすべての愛と想いを込めて。
1.はじまった小さないのち
2004年9月22日
その日まで、毎日19時には寝てたのに、
初めて夜更かしが許された。
こんな時間まで起きていることと、これから始まる未知のこと、
その両方にドキドキしてた。
真夜中、ボブとララの間に4つの小さな命が生まれた。
本当に小さくて、ふにゃふにゃしてた。ふにゃふにゃとも鳴いてた。
手も足も目も何も機能してなくて、コロコロと転がって、これが犬の赤ちゃんなんだって思った。
小さくて、うっすら赤くて、ツルツルで、実はちょっと怖かった。
3匹出てきて、最後の子。
この子は時間がかかってた。
なかなか出てこなくて、力がなさそうだった。
やっと生まれたと思ったら、みんなみたいにふにゃふにゃと鳴かなかった。
仮死状態だった。
その日の、そこから先のことは覚えてない。
でも、みんなと同じように毎日が過ぎて、小さいながらに成長していった。
あの日、みんなが生まれる時間と色と、絵まで描いてメモ帳に記録しておいたのに、どこかに行っちゃった。
みんなが生まれてからは毎日が運動会だった。
目が見えるようになって、ご飯の時間になると赤ちゃんたちのゲージの扉が開かれる。
扉が開いた瞬間、小さな丸っこい4匹の赤ちゃんが一斉に猛ダッシュ。
各々、思いのままに走り回る。
絨毯で転がる子。ひたすら走り回る子。ごはんを見つけて、ごはんの中で泳いで遊ぶ子。お母さんのララに怒られている子。
小学生だった私は、この時間が大好きだった。小さくて、走り回る姿がおもちゃみたいで、みんな可愛かった。
もう少し育ったら、ちゃんと育ててくれる人に譲ろうとなっていたから、名前は付けなかった。
生まれた順に1号ちゃん、2号ちゃん、3号ちゃん、4号ちゃんと呼んでいた。
仮死状態で生まれた4号ちゃんだけ、いつも元気がなかった。
みんながごはんをもらっていても、食べようとしなかった。
そのうち1号ちゃん、2号ちゃん、3号ちゃんは無事にそれぞれ、優しい家族のもとに巣立っていった。
そんな時、事件が起きた。
先住犬が誤って、4号ちゃんを噛んでしまった。
4号ちゃんはお腹が内出血した。母が急いで動物病院に連れていった。
その時には小さすぎて検査が出来ないから、1㎏になるまで待って検査をしようということになった。
その時のお腹は大事には至らなかったらしい。
1㎏になって検査をした。
そこで分かったのは、生まれつき心臓と脳に異常があるということ。
だから、もって一年くらいの命だということ。
はじまったばかりの命は突然、危機に面した。
そこで、4号ちゃんだけは身体も弱いから、巣立っていっても、ちゃんと面倒を見てもらえないかもしれないということで、うちの家族に加わることになった。
ここで、やっと名前が付けられた。
彼女の名前は「リン」
身体は弱いけど「“凛”として生きていけますように」という思いを込めて母が付けた。
こうして、リンの一生がはじまった。
2.リンちゃんのこと
リンだけいつも「リンちゃん」とちゃん付けで呼ばれた。
褒められるときも、怒られるときもなぜか呼び捨てが似合わなかった。
いつでも、家族の誰にでも、私はリンちゃんよ。って態度だった。
リンちゃんはすぐ威張る。
だけど、家から一歩外に出ると、ワンワン鳴きまくる。フルフル震えながら。
掃除機、雷が大嫌い。
掃除機が始まると、だれにぶつかろうが関係なしに我を忘れて逃げ回る。
ぶつかったことが怖くて、喧嘩を売る。
どんな声をかけても聞いていない。
私の部屋に避難しても、小さな耳をピンと立てて、震えてる。
リンちゃんは臆病。
お散歩中、ボブやララが先に行こうとすると怒る。
時間通りにみんなが行動しないと催促して回る。
誰かが規律を乱したり、悪さをしようとすると注意する。
曲がったことが嫌いな頑固ちゃん。
リンちゃんは我が家の警察。
朝、起きると短いしっぽを振って、身体全体でおはようと言ってくる。
「かわいいね」と言うと、耳を下げて身体をくねくねさせて喜ぶ。
歩くとき、なぜが少し飛びはねて、チョンチョンチョンと小さなおしりをフリフリしながら歩く。
おやつが欲しい時は、じっとまんまるな目で見つめてくる。
リンちゃんは自分が可愛いことを知っている。
リンちゃんはあざとい。
大好きな馬のアキレスを食べるとき、この時も我を失う。
見たことない恐ろしい表情で、奥歯で思いっきり、これでもかというくらいアキレスをガジガジする。
他の子が食べてるアキレスも、少し目を離した隙に奪う。
そして自分のだと言い張って怒って、返さない。
その子が貰った新しいアキレスまでも奪う。そしてもちろん返さない。
リンちゃんはチンピラ。
私が起きないと、フンフンと鳴きながら顔を踏みつけてくる。
「眠いから…」というとさらに大きな声で騒ぐ。
そのくせ、私が話がしたくて「リンちゃんまだ寝ないで」と
言っても、お構いなしに小さな手で顔まで隠して寝る。
出かける前に「おしっこしといたほうがいいよ」とトイレに連れていってもしない。
少し車で走ると、おしっこしたいから下して!と鳴く。
そのあとは喉が渇いた!お水のむ!おやつ入りで!と鳴く。
お水の器を片付けてると、早く行こうよ!と鳴く。
リンちゃんは自分勝手で、よくしゃべる。
だけど、そんな自分勝手で、チンピラであざといところ、全部含めて
リンちゃんはかわいい。
3.幼い頃の私たち
私たちがまだ幼い頃、休みの度によく、人間4人と犬たちみんな乗って、家族全員、超満員で父の運転で遠くまで泊りでも、日帰りでも、どこまででも遊びに行った。
そのころから私は犬たちと過ごすことが当たり前だった。
朝、起きたらすぐに犬たちの散歩から始まった。
学校から帰ってくるとまず、犬たちをゲージから出してあげる。
大きなマリアは一軒家で大きなゲージに入ってて、小さなボブ、ララ、リンは中くらいのゲージを二階建てにして、ワンワンマンションと化したゲージにひとりずつ入っていた。
(あとから仲間に入るサヤも新しくワンワンマンションに入居して二階建てが2つになった)
そのあと、それぞれを連れて夕方の散歩に行く。
そのあとは夜ごはんになる。
夜は、犬たちは母とリビングで寝るから、おやすみを言って、私たちは各自、二階の自分の部屋に帰っていく。
そんな毎日が当たり前だった。
でも、長い休みの時は違う。
旅行に出かける日は、朝早く、自分の準備を終わらせて、犬たちに順番に服を着せて、おしっこをさせる。
いつもリンちゃんは、私が着替えたタイミングで「あ!お出かけだね!?」と勝手に準備を始める。
「リンちゃんも着替えるよ!」と呼んでも興奮して、寄ってこない。寄ってきたかと思うと、一歩下がって、また寄ってきて、おしりをフリフリしてる。
その繰り返し…
道中は車の中でずっと外の動くものに向かって鳴いてる。
料金所のおじさんには、一番厳しい。窓が開いた瞬間、窓が開く前から、もうなんなら料金所が見えた時から
鬼の形相でおじさんに吠える。
窓から飛び出ちゃわないかと心配で、一生懸命捕まえる。
おじさんには申し訳ないけど、道中の風物詩みたいなところがあった。
旅行に行かない時には、夏は動物も入れるプールのある施設を貸し切って、一日中そこで遊んだ。
そういえば、何度か、琵琶湖に泳ぎに行ったこともあった。
ライフジャケットを着せて、ずぶ濡れになってもいいように学校の体操服を着て、一緒になって泳いで、夕方になったらドッグランでかけっこした。
とにかくたくさんの場所に一緒に連れて行ってもらった。
そんな楽しい夏休みのある日のこと、「もって1年」と言われたあの日から3年が経っていた時のことだった。
いつも通りプールで泳いでいた。
スイスイ泳いでいたリンちゃんが突然動かなくなった。
中学生の私はどうしたんだろうと何が起こったのか分かっていなくてとりあえず抱き上げた。
抱き上げると、ぐったりしていた。心停止していた。
普段と違うリンちゃんの様子に戸惑いながらも、急いで母を呼び、心肺蘇生をし、そのまま病院へ連れて行った。
生まれつき疾患がある心臓が発作を起こしたんだろうということだった。
ここでもあと3年くらいの命かなと言われた。
その日から、心臓の薬が常備薬になった。
また発作が起きるんじゃないかと毎日ひやひやしていた。
でも、そんなみんなの心配はよそに、リンちゃんは毎日元気に暮らしてた。
元気に暮らすどころか、いたずらし放題のわがままお嬢になっていった。
ララと共謀して、ゲージから脱出して、カウンターに登り、そこからキッチンに侵入して母が準備していた夜ごはんの具材を平らげてしまったり、勝手に大好物のアキレスの袋を破いて食べていたり…。
毎日が運動会なのは変わらず、母の「コラ~!!!!!」という声と犬たちの鳴き声、ドタバタとした足音が家中に響き渡る毎日だった。
楽しかった。
4.思春期の私たち
私は、高校生になった。
家から近く歩いて行ける高校に通った。
高校生になっても生活は変わらず、休みの日はリンちゃんと過ごした。
夏休みになると、普通みんなアルバイトを頑張るのに、リンちゃんといたいからと週に二回しかシフトを入れなかった。まったく行かない日もあった。
朝、散歩に行って、お昼になるとリビングで犬たちの布団で一緒に昼寝をした。
夕方になって涼しくなると、田んぼ道まで散歩に行った。
毎日とにかくダラダラとただ犬たちと過ごした。
そんな私も、高校三年生になると、受験勉強を始めた。
ただ英語が好きということしかなく、特にやりたいことも行きたい大学もなかった私は、担任の先生に勧められた英語科がある短期大学を目標にした。
でも、いくら好きなものでも、自分に甘く、勉強はなかなか進まなかった。
そこで、毎晩勉強するときはリンちゃんに監視していてもらおう!と思いついた。
19:00になると、リンちゃんは私の部屋に収容された。
私のベッドの上で、小さなおめめを光らせていた。任務があると頑張れるタイプなんだと思った。
しばらくじっと、勉強している姿を見届けると、よしよしという感じでそのまま寝始める。
たまに、構ってほしいと、私が何をしていても鼻を鳴らして「ふぅ~ん」ってしゃべる。
「ちょっと待って」と声をかけるともっと大きな声で、よくしゃべる。
21:00過ぎになると、リンちゃんの寝床のリビングに帰すことになっていた。
気持ちよさそうに寝ているリンちゃんに「リンちゃん、もう時間だから起きて」と声をかけると、
重そうに、小さな瞼を開ける。そして、伸びても変わらないくらいの小さな身体を伸ばす。
「抱っこ」と声をかけると嬉しそうに耳を下げて口角をあげて、さっきまで重そうにしてた瞼の奥から、瞳を輝かせて「ふぅ~ん」と鳴きながら、ひょろっとした前脚を伸ばして、小さな身体を預けてくる。
リンちゃんが一番初めに覚えたのはこの「抱っこ」だった。
まるで、小さな子どもが抱っこをせがむように、小さく長い前脚を伸ばしてぴょんぴょんと跳ぶ。
散歩中は私がしゃがんで「抱っこは?」と聞くと膝にひょいと登ってくる。そして得意げな顔をする。
その得意げな顔が可愛くて、散歩中何度も「リンちゃん、抱っこは?」と声をかけた。
初めのほうは付き合ってくれるけど、あまりしつこいと、しゃべりながらどんどん歩いて行っちゃう。
そうやって毎日仲良く、楽しい日々が過ぎていった。
5.おとなになった私たち
私は成人した。
リンちゃんはあっという間におとなになって、おばあさんになりかかっていた。
それでも見た目は赤ちゃんのままだった。
私は、短大を卒業し、大学へ編入することにした。
少し大人になった。
車にも乗れるようになった。
昔、リンちゃんに約束した通り、私の運転でドライブに連れて行った。
助手席にカゴをのせて、その中に入ってもらった。
でも、慣れてくると抱っこがいい!と騒ぐようになった。
仕方ないから、スリング(抱っこ紐が袋状になったような物)の中に入ってもらって、カンガルーの親子
スタイルで出かけた。
近所にある犬も入れるカフェで、ふたりでお茶した。
みんなには内緒で、ホットケーキの欠片と、メロンソーダのソフトクリームをちょこっとあげた。
いつも、ふたりだけの秘密だった。
カフェに行って、リンちゃんと楽しむために、夏休みもちゃんとバイトのシフトに入った。
バイトが休みの日は、春はお昼に桜を見に、抱っこでよく散歩に出かけた。
夏は、暑いからふたりで部屋に引きこもった。
秋は、お出かけにちょうど良いから、カフェに出かけた。
冬はモコモコ厚着をして、抱っこで少しお散歩に出かけた。
この頃、リンちゃんは痙攣を起こすようになっていた。
病院に行くと、生まれつき疾患があった脳の、何かしらの発作だろうということだった。
でも、しっかり検査をするにはMRIで検査をしないといけなかった。
この時すでにリンちゃんは、おばあちゃんだったから、検査をして結果が分かったところで、麻酔をかけて、命をかけて、手術をするつもりはみんな無かった。
薬で様子を見ようということになった。
一日二回、10:00と22:00に薬を飲む習慣が始まった。
だけど、また同じような発作があれば、命を落とすこともあるかもしれないと言われた。
見た目は全然元気だった。何も変わらず、いたずらもする。至って普通だった。
でも、それを聞いた私は、またいつ発作が起きるかわからない不安と、リンちゃんが突然いなくなってしまうかもしれないという恐怖で毎晩泣いてしまった。
ある時母に言われた。「リンちゃんまだこんな元気にしてるよ!あんたが泣いてると心配するって!」という言葉で、私はひとつ、リンちゃんと約束をした。
「今は元気だけど、リンちゃんがいつかおめめを閉じるその時まで、私は側にいて、その時が来たら抱っこで旅立つんだよ!」と。約束だからね!と。
自分にもリンちゃんにもそう言い聞かせた。
リンちゃんはいつものように「なんか言ってるわ」という表情で聞いていないようだった。
この日から、私は、部屋でリンちゃんと寝ることにした。
万が一落ちたら危ないからと、ベッドはやめて、マットレスで寝ることにした。
20:00にふたりで部屋に行き、それぞれ自由に過ごした。
リンちゃんは昔の癖なのか、私の布団のど真ん中で我が物顔で寝る。
私が寝る時間になって布団に入ってもどいてくれない。
「人の陣地に入ってるってば!」と押しても、小さな身体でグイグイと押し返して、私がそこから先に行けないように小さな手を伸ばしてバリケードをはってくる。
仕方ないから、半分以上譲ってあげる。
でも、リンちゃんが寝入った頃、グイグイ押して陣地を広げる。
でも、気が付くとまた奪われている。
そんなくだらない攻防戦を繰り広げながら眠りにつくこの時間が愛おしかった。
ある時、彼氏ができた。
リンちゃんも彼が好きだったと思う。
誰にでも吠えるリンちゃんが、初めて、彼には吠えなかった。
私の運転で牧場に3人で遊びに行った。
初めてリンちゃんと車で遠くへ行った。
リンちゃんは牛を不思議そうに見ていた。
馬も見た。馬は少し怖かったのかワンワンと吠えた。
菜の花畑でお花いっぱいの中リンちゃんとふたりで写真を撮った。
ソフトクリームもいつもより少し多めにあげた。
ふたりだけの秘密は、さんにんの秘密になった。
牧場がよほど楽しかったのか、その日から着替えるたびに、今日も一緒に出かけれる!?と後ろをついて歩くようになった。
リンちゃんとの遠出は牧場が最初で最後だった。
6.頑張り屋さん
おばあさんになりかけていたリンちゃんは、いつの間にかおばあちゃんになった。
13歳。
夏の夕方の散歩は抱っこで少しまわるだけになった。
冬も心臓に負担をかけないように、近所を10分歩いて回るだけになった。
私も社会人になった。
毎日慣れないことばかりで、忙しかった。
夜も遅かった。
毎晩、部屋でリンちゃんに「今日はこんなことがあってね…」「どう思う!?」と話を聞いてもらっていた。
聞いてくれているかは分からないけど、話すことで楽になった。
土日も家にいられないことが増えた。
出先で、母から電話があった。
「リンちゃんが倒れた!意識ない!部屋で夜変なもの食べてない!?」という緊急の電話だった。
思い当たることは何もなかった。
リンちゃんと部屋で過ごすようになってから、ごみ箱は蓋付きで、部屋では飲食しないようにしていた。
何かまた病気かも…と思った。
こういう時嫌な予感は当たる。
救急で病院に行くと、貧血を起こしているらしかった。
赤血球を作る細胞そのものが少なくなっているらしい。
造血剤を注射してもらって、数週間後に血液検査をすることになった。
この時はすぐに立て直してくれた。
頑張り屋さんだった。
15歳になった時、再びひどい貧血を起こした。
この時も造血剤を投与してもらったけれど、あの時よりも数値が悪く、血液を作る細胞自体を自分で壊してしまっているんじゃないかということだった。
酸素を運ぶ赤血球が少ないから、体にうまく酸素が回らなくて、苦しそうだった。
獣医の先生は3日持つかなということだった…。
そこで私は決意した。
昔、約束した通り、側にいようと思った。
仕事を辞めた。仕事はこの先いつでもできる。
これが最期になってほしくないけど、もしそうなら後悔したくなかった。
小型のペット用酸素テントと酸素を出す機械を部屋に持っていき、テントの中でリンちゃんを寝かせ、24時間酸素を送り続けて見守った。
見た目は人間のICUそのものだった。
シュポッ、シュポッという酸素の機械の音が大きくて夜はなかなか寝付けなかった。
とりあえずは、先生に言われた3日間、一生懸命面倒を見た。
お散歩にも出られず、つまらさなそうだった。
何度か病院にも通って、造血剤を投与してもらった。
3週間ほど経った頃、奇跡の復活を果たした!
造血剤のおかげで、血を作る細胞が増えていて、もう大丈夫そうだねということだった。
心から安心した。
死んじゃわなくて良かったと思った。
その日、久しぶりに夕方の散歩に出た。
病み上がりだから、カートに乗せて、少し肌寒いから、帽子を。と思ったけど、気の利くものがなくて、ダイソーで買ったヒヨコの被り物を被せた。
リンちゃんは、久しぶりの散歩なのに歩かせてもらえないのが気に食わないのか、カートの上に立ち上がって、ずっとワンワンと吠えていた。
いつもなら、うるさいよ!!と注意するけど、吠えれるほど元気になった事が嬉しくて、その鳴き声は、喜びの声に聞こえたから、注意しなかった。
やっぱりリンちゃんは頑張り屋さんだった。
こうして何度も何度も奇跡を起こした。
だから、あの日も、あの時も、もしかしたらまた奇跡が起きるんじゃないかと思っていた。
7.たびだった小さないのち
2021年 2月
リンちゃんの様子がおかしかった。
何もないのにキョロキョロ上を向いて歩いたり、いつも仲良くない子の布団に入っていたり、変に興奮していたり、光にやたら反応して、ビク!っとしたり。
どこかいつもと違う様子が続いた。
なんとなく、おかしいねとみんな言っていた。
2月19日
この日はあまりにも様子が変だった。
ヨロヨロと歩いて、フラフラしていた。
物があるのに構わず進んでいった。
かと思えば、何もないところで障害物を避けるみたいにピョンっと跳んでいた。
落ち着きがなく、歩いていても手足はバラバラに動いて上手く歩けない様子だった。
これは、あまりにもおかしい。ということで、今まで撮り溜めた動画も持って、いつもの獣医さんのところへ行った。
先生から出た言葉は「これは、頭だね。動き方的に、脳腫瘍かもしれない」と。
脳圧が上がっていて、異常な行動をしているのだろうということだった。
脳腫瘍……。
脳腫瘍か特定するためには麻酔をかけてMRIで検査して、そのあと放射線治療をするというやり方らしい。
でも、それをしたからといって、必ずしも良くなるわけではなくて可能性は半分だということだった。
しかも放射線治療は、隣の県の大学病院まで行って、1日かけて治療するというのを1日おきにしなければならなかった。
もちろんその間、私たちは立ち入ることができず、リンちゃんを預けらければならない。
リンちゃんは一度も家族と離れたことがない。ひとりにしたことがなかった。
必ず助かるのなら、どんなに遠くにでも連れて行って治してあげたかった。どこまででも運転するし、何時間でも待つことができると思った。
でも、こんな状態でひとりにさせて、怖い思いをさせて、その先に明るい未来が待っているとは思えなかった。
というより、今もうすでに、自分がおかしくて怖い思いをしているのに、さらに怖い思いをさせたくなかった。
そうなると選択はひとつだった。
「最期までリンちゃんの側にいること」
ただそれだけだった。
選択肢があるようで無い
急に心が押しつぶされて、診察室で泣いてしまった。リンちゃんは心配そうに見つめていた。
先生は、やれることをやろうと言ってくれた。
これから3日間、脳圧下降剤を点滴で入れることになった。
本当は入院してやるらしいけど、それがストレスになってしまうといけないからと、
私が抱っこでついているなら通院でいいよと言ってくれた。
抱っこしながら、点滴を受けた。
点滴をしている間も、脳圧が変動するのか、ハァハァ息を荒くして、何もない壁に向かって吠えて暴れていた。
いつもと違うリンちゃんの様子が怖かった。
でも私がしっかりしなきゃ、リンちゃんが不安に思うと思って「大丈夫だよ」と何度も口に出して自分にも言い聞かせた。
その日の夜も、なにもない暗闇に向かって、牙を剥いて怒っていた。
その日から、文字通り24時間付きっきりの生活になった。薬のせいでフラフラしてごはんもトイレもままならないから、身体を持って助けてあげた。
いつまでもあかちゃんだったリンちゃんが、急におばあちゃんに見えた。
2月20日
脳圧下降剤2日目だった。
昨日より落ち着いて点滴ができた。
もしかして薬が効いてるのかなと思った。
でも、その日の夕方、ふたりで部屋にいたときのことだった。
大きな痙攣が起きた。
手足を突っ張って、頭が大きく震え、次第に身体全体が硬直しながら震えだした。
それが収まると、ふぅ、ふぅと大きく肩で息をして目はうつろだった。
先生に電話をすると、今日は薬を使ってやることをやってしまったから、あとは酸素をいれて様子を見るしかないということだった。
酸素を入れて、抱っこで過ごした。夜ごはんも部屋で食べた。ふたり暮らしだった。
夜中になると、クンクンと鳴きだし、歩きたがる。
でも薬のせいで支えていないと歩けない。眠れない。
どうしてあげればいいのか、何がしてほしいのか分からず、うまくお世話できない自分が悔しくて、わんわんと泣いてしまった。
その日から、夜はリビングで母と交代で見ようとなって、ふたり暮らしは終わった。
脳圧下降剤を3日間投与しても、変わることはなかった。
何も変わらず、自力では歩けず、フラフラとしていた。
私がお手洗いに行くだけで、「どこに行ったの?」と自由が利かない身体を一生懸命動かして探そうとする。
お風呂とトイレ以外は抱っこで過ごした。
ごはんも食べられなくなった。
やきいもをペーストにしたものを口に運ぶと、小さな舌でペロペロと一生懸命舐めた。
リンちゃんはやっぱり頑張り屋さんだった。
生きようと、大丈夫だよと、みんな元気出してと小さい身体で必死に頑張っていた。
どうにかして、頑張れば、また奇跡が起きるんじゃないかと思っていた。
温かくて、少し重たくて、私は、命を抱いていた。
3月になった。
桜が咲き始めた。
少し暖かくて、暖かい春の匂いがしていた。
昔みんなでお花見に行ったからと、母が近所のおじさんから桜の枝をもらってきた。
家の中でみんなでその枝でお花見をした。
リンちゃんはお薬のせいで、いつもぼーっとしていた。
でも抱っこしてほしい時はくっついてきていた。
寝れるときは昔みたいにくっついて手をつないで寝た。
私が寝入っちゃったときでも、一生懸命私にくっつこうとしていたらしい。
力がなくなっていた。
3月5日
明け方、鳴いてハウスから出てきたと思ったら、急に脱力して、呼吸をしてなかった。
呼びかけると戻ってきてくれた。
だんだんと弱ってきていた。
できる限り、一緒にいたかった。
奇跡が起こってほしいと願う心と、一方で、約束を果たさなければいけない時が来るかもしれないと心のどこかで思っていた。
朝も昼も夜も、関係なくリンちゃんが起きていれば、起きていた。
それまで私は、眠れないことが人生で一番嫌だった。
でも、その時は、リンちゃんの苦しそうな姿を見るのが一番嫌だった。
自分が眠れなくても、何とかして楽にさせてあげたかった。リンちゃんは臆病だから、安心させてあげたかった。
ずっと側にいたかった。
3月7日
この日は姉ちゃんが東京からリンちゃんのお見舞いに帰ってくる予定をしてた。
朝から、電話で話して「リンちゃん~姉ちゃん夜に帰るからね~」って話をしてた。
その日まで、まともに食べられなかったけど、「食べる?」と聞くと、珍しくヨーグルトを少し食べた。
嬉しかった。ゆっくり、ちょびっとだけど、リンちゃんがヨーグルトを食べた。
昔みたいに食べかけをふたりで分け合った。美味しかった。
もしかしたら食べれるようになるかもね!とよりよい環境にするために、酸素テントを使うことにした。
私は押し入れにしまってあった酸素テントを組み立てた。
また酸素テントを使ったら前みたいに少しは良くなるかもしれないと思った。
組み立てた酸素テントをリンちゃんに元に持って行った。
酸素テントに移動させようとした時だった。
リンちゃんが嘔吐した。それも、これまで見たことがない、驚くほどの量だった。
姉ちゃんと電話してから30分後の出来事だった。
私は一瞬固まってしまった。
母の「抱き上げて!」という声で我に返った。
抱き上げるとリンちゃんはお人形みたいにぐったりしていた。
「あぁ…もうだめだ…」母の小さく呟く声が頭の中に響いた。
「リンちゃん!逝かないで」と泣き叫んだ。
ただ、逝ってほしくなかった。
ひとりにしないでほしかった。
まだお別れしたくなかった。
離れたくなかった。
一緒にいたかった。
「もう逝かせてあげよう。」母の声で、もうどうすることもできないんだと諦めた。
約束した通り、しっかり両腕で抱きしめてあげた。
名前の通り最後まで「凛」として生きた。
「リンちゃん…リンちゃん…」と名前を呼ぶことしかできなかった。
リンちゃんはもう、何も反応してくれなかった。
黒く小さい愛おしい身体は、軽く、ぬるくなっていった。
8.蝶
旅立ってから、きれいに体を拭いてあげて、一番よく似合っていたイチゴ柄のオーバーオールを着せてあげた。
夜になって姉ちゃんも帰ってきて、お別れの挨拶をしていた。
数日後、ちゃんとみんなで火葬をして、リンちゃんはひとり、お空へ旅立って行った。
ひとりが嫌いなリンちゃんだから心配だった。
リンちゃんの火葬が終わった日の帰り、家に着くと玄関に白い蝶が舞っていた。
ひらひらと、自由に花から花へ舞って、私が近付くと私のまわりをいつまでもひらひらと飛んでいた。
「リンちゃん、また会いに来てね」と白い蝶に別れを告げた。
凛と生きた6,005日。
まずは、無事に一周忌を迎えることができてよかったです。
また、この日に公開しようと決めたこのエッセイが無事に公開ができたことも、よかったと安心しています。
この作品ができたきっかけは本当に些細なことでした。
昨年の10月末、リンちゃんが旅立って半年過ぎた頃、急に「リンちゃんとのことをエッセイにしてみよう」と思い立ったことがきっかけでした。
自分の想いと、思い出を書くことで、気持ちも整理できるかなと思いました。
当時、再び大学に通い始め、新しいことを勉強し、今まで当たり前だった関係を断ち切り、新しい出逢いを求めていた私は、何かさらに新しいことがしたかったんだと、ただそれだけだったのではないかなと今は思います。
書き始めてからは、リンちゃんと過ごした16年はあっという間に思えて、とても長かったんだなと実感するばかりでした。
リンちゃんが小さい時のことは、私も小さかったから覚えてないことが多くて、書けないこともあったけど、大きくなってからのことは、ここには書ききれないほどの思い出ばかりで、思い出すと同時に想いも、涙も溢れてしまってなかなか進められませんでした。
私はずっと、リンちゃんに必要とされていると思って共に生きてきました。
小学生の頃の朝の散歩も、大きくなって、夕方にお薬をあげるのも、ご飯の時間までに帰宅するのも、病気になってから夜一緒に寝るのも、リンちゃんは私がいないとダメだなぁと思っていました。
でも、それは、私のほうがそうだったのだと、リンちゃんが側にいなくなって気が付きました。
私が、リンちゃんを必要として生きてきたのだと思いました。
リンちゃんがいないとダメなのは私でした。
言葉通り、リンちゃんは私のすべてでした。
私の大事な大事な、一番の宝物でした。
リンちゃんがいれば、ほかには何も要りませんでした。
何を犠牲にしても、絶対に守りたい、大切にしたい、そんな存在でした。
リンちゃんが寂しがるから、お薬の時間だから、時間に家にいないと私を探して混乱するから
と、友達との夜の約束も、飲み会のお誘いも、旅行も断って、私がそうしたかったから、何よりも大切にしてきました。
私は結婚もしたことがないし、子どもを産んだこともありません。
でも、自分の娘のように想い、大切にしてきました。
これが、愛することなんだと学びました。
だから、私は愛すること、私のすべてとはどういうことなのか知っています。
リンちゃんが亡くなったあの日、24年(当時)生きてきた中で一番辛かったです。
心のどこかでいつかこんな日が来ると分かってはいたけど、現実を受け入れがたかったです。
小さくて可愛い亡骸に、目が覚めるってことはないかなと本気で思っていました。
亡骸になっても愛おしくて、側にいたかった。
火葬をしてからは、もういないことは分かっているし、時間が巻き戻るなんて思っていなかったけど、目が覚めたら全部夢でした、
なんてことにならないかなと思って、朝も昼も夜も眠り続けました。
朝起きると、短いしっぽと身体全体で「おはよう♡」と踊りながら駆け寄ってくる姿がない、ただそれだけなのに、ただそれだけが、どうしようもなく悲しくて、ずっと眠っていたかった。
でも、もちろん夢なわけがなくて、目が覚めてもリンちゃんはいなくて、毎朝起きるたびに、「あぁ、今日もリンちゃんがいない1日が始まるのか」と思うと憂鬱で仕方なくて、毎日あんなに楽しかったのに、一日一日が長く、モノクロになったように感じました。
ただ、約束を守れたこと、これだけは後悔していません。
リンちゃんがいない日々を生きていくのが辛かった。
いつか私がおばあちゃんになって、天寿を全うした時、その時までもう2度と会えないのかと思うと、この先の人生長いなと、生きていく意味を失った気持ちでいました。
リンちゃんはいないのに、それでも毎日は変わらず、時間は過ぎて、生きていくしかなかった。
それほど大きな存在でした。
本当に私のすべてだったと痛感しました。
何を見ても、何をしても、私の人生にはリンちゃんがいました。
傍から見れば、ただの犬。
だけど、私にとっては姿かたちが犬なだけで、家族であり、親友であり、時には恋人でもありました。
10代後半から20代前半の一番自由な時期に縛られてかわいそうだと、もったいないと言う人もいるかもしれない。
でも、縛られていたわけではなく、私がそうしたくてそう過ごしてきました。
だって、リンちゃんのいないそんな人生は、私の人生ではなかったから。
その、自由な時期にリンちゃんと過ごせて心からよかったと思っています。
遊ぶのはこの先やりたければいつでもできると、リンちゃんとの時間は今しかないといつも思っていました。
そんな私のことも理解してくれ、当時も今も仲良くしてくれている友人には感謝しています。
同じ悲しみを味わった彼女だからこそ理解してくれたのかなと思います。
リンちゃんが病気になってから、看病がしたくて仕事を辞め、亡くなってからも仕事復帰ができなかった私を静かに見守ってくれた家族にも感謝しています。
それから、新しい出逢いもありました。
隠れ熱くて、優しくて、人の苦しみや、悲しみにそっと寄り添える、そんな人です。
リンちゃんが彼に会ったら、どんな反応をするのかなとたまに考えてしまいます。
ペットの救急隊員、ペットセイバーの資格も取りました。少しずつ前に進んでいます。
リンちゃんなしでは私のこれまでの人生は語れません。
本当にたくさんのことを小さな体で教えてくれました。
私がリンちゃんを深く愛したように、リンちゃんも私のことを愛してくれていました。
小さいけれど、同じ命。
命を育てる責任、最期まで責任を持つことの大切さ。
愛すること。愛されること。
悲しみと向き合う方法までも教えてくれました。
こんなに大切なことを教えてくれたリンちゃんには、心から感謝してもしきれません。
ここまで書く途中にも、何度も涙が溢れてしまったし、暖かい春の香りがするだけで、リンちゃんと過ごした温かな日々を想い、泣いてしまうからまだ悲しみは乗り越えられないけれど、今はそれで良いのだと思います。
楽しい想い出も、悲しかったあの日も、リンちゃんとの16年と6ヶ月、全て携えて、いつかまた会えるその日まで頑張って生きていこうと思います。
ここまで読んでくださった貴方へ。
拙い文章を読んで頂きありがとうございました。
この作品は自己満足でしかないけれど、同じような悲しい思いをした誰かに、貴方だけじゃないよとそっと寄り添えたら、なお良いなと欲張りながら、そう思います。
命を育てることの責任と、暖かさと、楽しさと、喜びと、悲しさと、
何か少しでも伝われば嬉しいです。
大好きなリンちゃんへ、
いつまでも変わらぬ愛と、感謝を込めて。
2022.3.7