オフィスの女
一、オフィスの女
薄く夕陽が差してきた。雲の隙間から鈍く差し込んだ夕焼けが、騒がしいオフィスに広がっていく。昨夜から空を覆っていた薄暗い雲は風に流されたようだ。パソコンにも光が差込み、ディスプレイは薄暗くなっていく。
「ふう。休憩」
ため息をついて一口、コーヒーを飲む。昼過ぎに注いだ珈琲は、香りを失い、ただの苦い液体になっていた。
十三階の窓から外を見下ろすと、小さな光がビルに遮られ、日陰になった品川通りに薄く灯っている。赤信号に止められた鮮やかなヘッドライトが、後続の車をゆっくりと止め、赤と黄色のライトが一直線に数珠繋ぎに伸びていく。その周りを無数の小さな黒い人が、それぞれの足取りで歩いている。そんな繋がれた光をあざ笑うかのように、カラスの群れが纏まりなく悠々と飛んでいく。
夕闇が都会に訪れる前の慌ただしさ。この短い昼と夜の境目が小さいころから嫌いだった。私たちを照らしつける赤い光は、無言で私に燥焦と自責を連れてくる。「今日が終わる」それだけのことなのに、丸一日、何もせず損をした気になってくる。
「氷川ちゃん、五時なんで、そろそろ上がります。次お得意先様とお食事があるんで…例の仕事、大丈夫かなぁ」
肘沢の湿っぽい声が私の意識をオフィスにもどらせた。
茶色いコートを手に抱えた肘沢が、怯えたようにくぼんだ目で私の顔色を窺っている。肘沢は三年前、営業部に中途採用された男だった。取り立ててパソコンが使えるわけでも、営業成績が良いわけでもない。猫背で冴えないこの男は、上司への媚とお世辞で世間を渡り歩いてきた。三十代の半ばを過ぎ、底意地の悪い濁った眼球と、頬に残る深いえくぼの筋が、彼の営業としての人生を物語っていた。
「わかりました。では、残った仕事は片づけておきます」
ふっと私は彼の視線を外した。
顔を窺うことで生き延びてきたこの冴えない男は、今ではたかだか事務員に過ぎない私にまでお伺いを立ててくる。
「ごめんね、ありがとう」
肘沢は心のこもらないお礼を言い両手を合わせながら、小走りで駆けて行った。視線の先には帰社してきた課長の姿がある。
「先輩はいいですよねぇ。仕事ができて。あたしなんか、仕事ないから昼からネットばっかですよ」
隣の席に座る七瀬の呂律が回らない甲高い声が聞こえてきた。マスカラでひときわ大きく見える瞳を上目遣いにクルリと丸め、私を見ている。
七瀬愛海は、今年入った二十歳の事務員だった。丸みのある童顔に瞳をひときわ目立たせる派手な化粧をいつもしてくる。少し長い髪は薄く茶色で染められ、持ち物にはBurberryやChanelなどブランド物のロゴが目立つ。少し陰気で地味な印象をもたれる私とは対照的な、女らしい華やかさを彼女は持っていた。
「何いってるの。仕事は自分で見つけるものよ」
「はぁい。じゃあもう仕事なくなったんで帰りまぁす。今日合コンあるんで…」
彼女はパソコンの画面を落とし、早々に帰る準備をした。終業の合図が短くオフィスに響くと、柄の短いChanelのバッグを肩にかけ、首を少し右に傾けながら小さく頭を下げてきた。
―厳しく接しすぎているのかもしれない。
一瞬、彼女への後悔が私をさいなんだ。何も私に迎合しているわけじゃない。冗談を言っただけだ。
ただ、どこかで自分の無能を棚に上げながら、仕事しかできない私に嫌味を言っている気がして、無性に腹が立った。
―真面目すぎなのかな、わたし。
入社して三年。仕事にも慣れ、最近では、課長や肘沢など多くの案件をまとめるようになっている。
自分を誇らしく思う一方で、女性として何か大切なことを忘れている気がする。
二十台半ばの女の盛りを仕事だけで終らせていいのだろうか、フッと心の隅が小さく疼く。
―職場で仕事が出来ても、それが私にとってなんになるんだろ。
評価されることが嬉しい一方で、どこかでむなしさを感じる。
都内の短期大学を卒業し、この会社に入社して五年。恋愛や友達付き合いとは全く無縁の生活を送ってきた。
「仕事をすれば、男もついてくる」そう自分に言い聞かせながら、今日まで頑張ってきた。
でも、仕事をすればするだけ「氷川あやか」は名前の通り「氷の女」になっていく。
このまま三十を過ぎても、単調な毎日が続いてくのだろうか、と考えると焦りが出てくる。
自問自答しているうちに、時間はどんどん過ぎて行った。
時計を見ると、すでに六時が過ぎていた。
残業は七時まで、これがこのオフィスの鉄則だった。
机に貼り付けたメモを見ると、肘沢の提案規格書の作成が終っていなかった。
さて、肘沢の仕事をどう処理しようか、ペンを回しながらぼうっと彼女の机を眺めた。
電話の横には人気アイドルグループの卓上カレンダーが飾られており、机の両サイドには、未処理の仕事やファイルが置かれていた。
私では考えられないことの連続だった。
勤務中に携帯をさわり、お菓子を食べている彼女の姿が浮かんだ。悪びれず「仕事をしてるんだから当然」と開き直る彼女に、嫉妬と憧れがあった。
まじめな私は、優等生であるためにずっとどこかで我慢してきた。
仕事の机は綺麗にする。書類は箱に分けて収め入れ、お得意先別のファイルを机にきちんと並べている。もちろん、アイドルのカレンダーやお菓子などは置いていない。
彼女とはおそらく全く別の人種なんだろう。きっと七瀬も「お堅い先輩」としか見ていないだろう。
妙な苛立ちを覚えながら私は七瀬の机の端に乱雑におかれた書類が目に付いた。乱雑におかれたファイルの中からひょっこりと「桂木 春馬」の文字がみえた。
周りの事務員に気取られないように、そっと書類を自分のもとに手繰り寄せた。
「新規お得意先登録票」とかかれた書類には、起案者の桂木の名前と印鑑だけが押されており、クリップには名刺と付箋が挟んであった。
付箋には「提出期限内にお願い」と丸みのある文字で書かれていた。
提出期限は、明日の日付が印刷されていた。
―桂木君、七瀬さんに仕事頼んだんでたんだ
私は、さっと書類に目を通した。久しぶりに見た書類だった。既存の取引先が多いこの会社では、新規の取引先など年に一件か二件しかない。
―あの桂木君がね。やるじゃん
桂木春馬は新卒で入った二十二歳の営業だった。短い短髪をワックスで固め、整った鼻梁と細い眉。すっきりとした顔立ちにどこか少年のようなあどけなさが残っている。彼の頼りなさはおそらく整いすぎた顔と、肉付きの薄い細みの体にあるのだろう。仕事の成績は、決して良くはないが、肘沢ほど悪くはない。
しかし、肘沢のような中年サラリーマンが多いオフィスの中で、若い彼だけがぽつんといつも浮いていた。社会の中では、実績よりも上司への媚がものをいう。こんな小さなオフィスでも同じことだった。
気の弱い彼の性格は、色々な人に利用されていた。肘沢はもとより、そのほかの営業の雑用にされていた。そんな彼が、自分自身で久々にとった仕事だろう。名刺には小さな文字で、 「ミスなしで、よろしくお願いします!」と書かれていた。
―若いなぁ
私はクスリと笑い、肘沢の仕事を早々に済ませ、桂木君の仕事にとりかかった。
予想以上に記入するところは多く、様々な資料を開いた。一時間、二時間と時間は経ち他の社員たちは一人、また一人と帰っていく。
丁寧に書類を記入し終わった頃には、八時を回っていた。出来上がった書類に不備がないかもう一度確認する。自慢ではないが、私はこれまで書類のミスは一度もなかった。
書類をそっと七瀬の机のもとの位置に戻し、荷物をまとめて事務所を後にした。
2、オフィスの女
翌朝、七瀬は出社してくると、桂木君の書類をバタバタと手に取り、怪訝な顔で周りを見渡した。
「七瀬さん。昨日私がやっておきましたよ」
七瀬が何度も頭をさげてきた。「本当にすいません、ありがとうございます!」とお礼を言ってくる彼女の姿に、昨日感じた苛立ちは収まっていった。
彼女の話によると、桂木君の仕事を合コンの途中で思い出したらしい。
「なんで帰ってこなかったのよ」と言いかけた口をぐっとこらえ「これからは気をつけようね」とだけ伝えた。
彼女が出来上がった書類を朝一番に出社していた彼に手渡した。
瞳を細め、頭を書きながら受け取る彼の姿は、草食男子の典型だった。ふてぶてしい肘沢に比べると、はるかにかわいらしく思え、ふっと笑みがこぼれた。
朝礼後、オフィスの奥の方で課長に褒められている桂木君の姿があった。目を細め、全身で喜びを表現している。
そんな彼が肩をすぼめながら私の席にやってきたのは、就業のチャイムが鳴り終わった頃だった。
「七瀬さんから聞きました。僕の仕事やってくれたんですね。ありがとうございます」
彼は髪の毛を掻きながら照れくさそうにお辞儀をした。彼の頭から、柑橘系のさっぱりとした匂いが香ってくる。肘沢にはない匂いだった。
「いいの。気にしないで」
いつもの調子で私は彼に答えた。
入社してから半年以上たつのに、この初々しさはどこから来るんだろう。
彼の若者独特の香りが思わず、女性としての本能を目覚めさせた。桂木君に今までにない興味を覚え、全てを知りたいと思った。
興味というより、全身に血の気がまわり、心の奥がざわざわと動き出すと言った方がいいかもしれない。もっと話したいという衝動とそっと抱きしめたいという欲望。叶わなかった初恋に似たもどかしさが私の体を包みこんだ。そっと隣の席に七瀬がいないことを確認し、私は彼に唐突に切り出した。
「ちなみに、今晩って空いてる?」
一瞬お互いの間に、気まずい緊張が生まれた。
ただ誘うだけなのにこんなにも不安な気持ちになるのは久しぶりだった。これが肘沢だったら、こんな気持ち起こらないだろう。
「えぇ、空いています」
「じゃあさ、この後飲みに行かない。おごるからさ」
彼は間をおき「いいんですか?じゃあお願いします」と笑顔で頷いた。
ほっと不思議な安堵感が全身を疲れさせた。
「そう。じゃあ仕事が終わったら連絡をくれる?」
手早く自分の携帯番号を桂木君に渡した。
3、オフィスの女
恋をしたのは初めてではなかった。二十五年も生きていれば、つまらない恋などいくつでもする。ずっと引きずった男もいれば、もう、顔さえ思い出せない男もいる。
桂木春馬は恋人でも何でもなかった。
ただの職場の後輩―ただ、それだけなのになぜか心がときめいている。
ふっと目の前のガラスのショーウィンドウに映る私の姿がみえた。
紺色のトレンチコートに身を包んだ細い釣り眼の女がぼぅとたっている。冷たい顔だった。七瀬のようにかわいい童顔でも、美しい顔立ちでもない。ただ、肩まで伸びた黒髪が、なんとか私を女にしてくれていた。
「お待たせしました」
桂木君が澄ました顔で歩いてきた。
どうやらトイレで髪の毛を整えたらしい。少しワックスで固めた髪が、微妙な大人の男としての魅力を醸し出していた。
―彼も、男なんだね
ほんの少し見直した私は、口紅を塗りなおさなかったことを小さく後悔した。
「さぁ、行きましょうか」
どちらが先に歩くわけでもなく、肩を並べて適当に目黒通りを歩いていく。
飲みに誘ってみたものの、何を話していいかわからなかった。桂木君の話に「うんうん」とうなづくだけしか出来なかった。
ふっと見上げた頭の上には、桜の小さな蕾が付いている。
東急ストアの前を通り抜け、目黒川にかかる橋を通り過ぎた所でふっと桂木君がつぶやいた。
「ここでいいですか?今日は辛い物が食べたくて…」
小洒落たボードにエスニック料理と書かれた看板があった。
「えぇ。どこでも」
彼に誘われるままついていく。二十五にもなってまだ、上手く男の人と話せない自分がみじめだった。
狭い階段を下り、重い木の扉をあけると、香辛料の匂いがツンと漂ってきた。桂木君が「どうぞ」と私をエスコートする。着ていたトレンチコートを脱ぐと桂木君の細い腕が伸びてきた。
「おかけします」
彼はパッとコートを受け取り、丁寧にハンガーに掛けた。その姿は精錬されており、一瞬の動作にも無駄がなかった。
小さなテーブルに向かい合って座って、お絞りで手を拭いた瞬間、初めてほっと一息がつけた。
「ごめんね。忙しいのに誘っちゃって」
会話のリードを握ろうと躍起になった。どこかで上からモノを見ている自分の姿が私を倖薄にしているのかもしれない。
「いいえ。とんでもないですよ。僕の方こそ、今日はお礼を言わなくちゃいけないのに」
彼は左手を上げ、ボーイを呼んだ。
「氷川さん。何飲みます?」
メニューにはビールから聞いたことのないカクテルまで百種類近くあった。
「そうね。じゃあジンジャ・エールをお願いしようかしら」
彼は小さくうなずきメニューを指差した。
「わかりました。すいません、ジンジャ・エールと生を一つ…。食べれないものありますか?」
「大丈夫。お任せします」
彼は、メニューを手早くめくりながら、サラダやタイ風南蛮揚げなど手なれた様子で頼んだ。
「慣れてるのね」
私はつぶやいた。彼は首を振りながら「いや、あれですよ。昔居酒屋でバイトしてたんで」と爽やかに笑った。
ドリンクが運ばれが「乾杯」とグラスを鳴らしても、話は一向に盛り上がらなかった。
勢いで誘ってみたけど、彼の何を知っているわけでもない。自然と、話は仕事の話になっていった。
「氷川さん、すごいテキパキ仕事されますよね。すごいですよねぇ。いいなぁ」
彼は白い顔を赤く染まらせながら鷹揚に話した。その姿は普段の彼とは違い、場馴れした遊び人の風格が漂っていた。
「そんなことないわよ。私だって入社したころは、全然仕事なんてできなかったもの」
「そうなんですか?しんじられないですよ」
彼は三杯目のビールを頼んだ。
「ふふ、でもさ、桂木君にも夢くらいはあるでしょ?」
若い男の子の夢を聞くのは久しぶりだった。
肘沢や、学生時代の仲間には聴いたことがあった。
ただ、それはお互いのことを知った上での話だった。全く知らない人に夢を聞くなんてどうかしてる。
苦笑しながら、女に初心なのか、玄人なのかわからない―ミステリアスな彼の性格が、サドっ気のある私を誘惑していった。
「夢ですか…そうですね…」
運ばれてきたビールをグイッと飲む。若々しい飲み方に食指が動いた。
「僕、本当はもっと大きな仕事をしたいんです。雑用じゃなくて」
「大きな仕事?具体的には何?」
手に持ったお酒を一口含む。甘い水が乾いた口に優しく響く。
「今、課長が手掛けているプロジェクトです。国内の中小企業と連携して大企業に対抗しようっていう…」
私たちの会社はビジネスエンジニア、いわゆる経営コンサルト業だった。
クライアント企業の財務状況、経営方針の改定などのアドバイスを行い、そこからコンサルト料をいただく。信頼と実績がものをいう業界だった。
当然、若手の彼には経験が足りず、使い走りや先輩との同行が主な仕事となっていた。
そんな日々の雑用の中で学びとった出来事や、これからの世界の行く末。彼の頭の中に広がるビジョンは新鮮だった。彼の目の前には、無謀なんてなかった。時々、甘いことや戯言もいうけど、それこそが若さの証だった。
小さな自分の姿を隠すわけでもなく、ただ、夢を追いかける。その姿は、在りし日の私とどこか似ていた。
それは、会社に入ってから忘れていた熱い思いでもあり、仕事への情熱と誇りでもあった。早く実績を重ね、社内で活躍できる人材になる。誰かを支えながら、キャリアウーマンとして、自立した一人のビジネスウーマンになっていく。
―彼ならば、一緒にやっていけるかもしれない。
不意に私の中で何かが変わった。直観が確信へと変化した瞬間だった。
「桂木君」
「はい」
熱く語っていた彼はふっと声を静め、私の目を細い切れ長の瞳で見つめてきた。
整った眉が、彼の眼力に男特有の色気を演出していた。
「これからね。その、あなたの夢をかなえるお手伝いをさせてくれないかな?私でよければ…」
自分でも恥ずかしくなるような、月並みな言葉が出てくる。酒のせいか分からないけど、桂木君と話していると素直になれた。
彼は頭をかきながら笑ってる。しばらくして目を細めながら「ありがとうございます!」と優しく笑いながら何度も頭を下げた。
その姿が、私の知の性感を刺激した。全身に熱い高揚感が漂ってくる。
深い理由はなかった。女心をくすぐられた私に理由なんて必要なかった。誠心と大望を抱いたこの男を育て上げてやろう。私は小さく決意をした。
―肘沢にはこの若さがない。
一息でグラスに残った酒を飲み干す。高ぶる心と酒が、私をどんどん酩酊状態へ連れて行く。
高々と手を挙げボーイを呼ぶ。
カードを荒々しく投げ、二人分の会計を済ませた。
意識がだんだん遠くなっていくのが分かった。まだ、酔ってはいない。かすれゆく理性の中で、春馬が「親分」と私のことを呼んでいる声がこだました。
4、オフィスの女
私たち二人だけの飲み会は季節が冬から春に変わってからも続いた。
あれから三ヶ月、目黒川の桜の花はとっくに散り、濁った川には青々と新緑が生い茂っている。
私たちが付き合うようになったのは、そんな初夏のある日のことだった。
「ねぇ。私、春馬くんが好きになっちゃった」
思いがけない一言が私の口から飛び出した。彼はうつむきながら微笑んだ。
「僕も、先輩のことちょっと気になっていたんです。僕でよければ」
その瞬間、どちらともなく、成り行きで交際がスタートした。
軽く唇を重ね、短いキスをした。
うっすらと甘く、整った薄い唇が私を優しく包み込んだ。
ただ、その後何度二人で並んで座っても、キスだけで終わった。
それが孤独な私にとって、唯一、女性になれる瞬間だった。
私と付き合いようになってから、春馬の営業成績はうなぎ登りに増えていった。肘沢や他の営業の売上を抜き、支店では常に上位をとることができた。
そこには、私の補佐の力があった。彼では手の回らないことを、こっそりと手伝っていた。
通常の仕事をこなしながら、春馬の書類を作り、データーをまとめ、客にメールをする。彼の些細な失敗は全部かぶった。とはいえ、上司にわからないようにするので、私の評価が変わることはなかった。
ただ、私を信頼してくれている課長に嘘をつくときだけ、私の心は罪悪感に包まれた。そんなとき、私は自分で自分に言い訳ををする。
「春馬のため」
それだけが、このオフィスで働く私の支えてだった。
「氷川さん、ありがとう。おかげで助かったよ」
彼はにこりとしながら、私にいつもお礼を言いにくる。この一言が、肘沢と違い、桂木君のために何かしようとする原動力だった。
「いいの気にしないで。好きでやってるだけだから…」
彼が成功してくれればいい。それだけで、幸せになれる気がした。
ただ、たまに少しだけ見返りが欲しいと思う日もあった。
私たちは付き合っているのに、まだ軽いキスしかしたことがなかった。
「氷川さんとは、きれいな関係でいたい。だって、一番大切なビジネスパートナーだから…」
清廉潔白な付き合い。純愛。といえば聞こえがいい。お互いが汚れることはない。
だけど、本当は私は春馬の愛がほしかった。
たった一度でいい。たった一度、春馬の細い体に抱かれたかった。
それとなく誘ってみるけど、なぜか彼はいつも巧くすり抜けていく。
初心なのか、じらしているか分からない。
そのもどかしさは半年以上、桜の花が目黒川の水面に垂れ下がるほど生い茂るまで続いた。
5、オフィスの女
銀座で桂木君と七瀬の姿をみたのは、決算書を作る前の日だった。
都心で一人で歩くのに、銀座は最適だった。渋谷や新宿は若い男女や、友達同士で遊んでいる人が多く、一人でいると、少しみじめな気持になる。
行きつけの雑貨屋で何を買うわけでもなくブラブラと店内を見渡す。
ショーウィンドウに飾られた熊の置物を見ていると、窓の外を歩く二人の姿を見つけた。
―二人で遊んでるのかな。ちょっと脅かしてやろう。
いたずら心がうずいた。
脅かしてからコーヒーでもおごってあげよう。
そっと気付かれないように、後ろから付いていく。
「あのおばさん、しつこいんだ。絶対俺の体狙ってる」
桂木君が黒のジャケットを羽織ながら、悪戯っぽく八重歯を見せて笑っていた。
私は不意に聞いてはいけないことを聞いた気がして、そっと人ごみに隠れた。
「えぇ。氷川さんがぁ。あっはは。見かけによらないんだね。事務所では、あんなに澄ましてるのにねぇ」
七瀬が桂木君にもたれかかりながら、甘く甲高い声を上げた。
「あぁ。初め誘われた時はびっくりしたぜ。ま、キスはしたよ。…でもそうじゃなかったら、俺は出世しなかっただろうけどな。あっはは」
桂木君はジーパンの膝をさすりながら皮肉な笑いをしている。
「仕事だけ氷川さんに任せとけばいでしょ。純情だか、なんだか知らないけど、最近は春ピーの仕事ばっかりやってるよ」
言葉こそ優しいが、彼女の声は桂木君への不審でどこかとげがあった。
急に背中に悪寒が走った。
―まさか、私の存在に気付いている…?
ふっと恐怖感を覚えた私は、さっと人であふれる食料品店へ隠れた。
一瞬遅れて、二人も同じ食料品店に入ってくる。
パスタコーナーで手をつなぐ二人を、そっとその向かいの棚から見た。
七瀬の猫なでが聞こえる。
「パスタ作ってよ。でもそれより…ねぇ。なんだかイチャイチャしたい」
七瀬が春馬の腕に体をくるませた。彼女のあどけない顔が憎らしかった。
「ばか。まだ昼だろ…しゃあねぇな。部屋行くか」
二人はレジを済ませ、銀座の人波に消えていった。
脅かしてやろうとした、自分が恥ずかしくなってくる。
そして、私は初めて春馬のことを理解した。希望が絶望へと変わっていく。
―そうか、やっぱり何かがおかしいと思っていた
桂木君の屈託のない笑顔が脳裏に浮かぶ。それも彼一流の処世術だったのかもしれない。
年下の男にだまされながら、有頂天になっていた自分が恥ずかしかった。桂木君にとってはただの駒という存在に過ぎなかったことを知り、悲しくなってきた。
それと同時にこれまでの情熱が怒りにかわっていった。
―だまされてたんだ。あいつらに。それも、仕事も出来ないあの女に。
握りしめたこぶしの中で、つめが柔らかい皮膚に当たる。
今日まで、彼の夢をかなえることが私の全てだった。その為には、どんな難しい仕事も時間をかけこなしてきた。時にはミスだってひっかぶってきた。それなのに…
七瀬と桂木のけたたましい笑い声が何度も耳の中に響いてきた。
6、オフィスの女
数日後、狭いオフィスに課長の大きなどなり声が響いた。
普段温厚な課長を激怒させたヤツは誰だ、と普段活気のあるオフィスは呼吸音さえはばかられるような静けさに包まれた。
怒りの原因は桂木君だった。
自分の提案した企画書において、客へ出した見積もり内容と、課長へ提出した請求内容が全く違っていたことが発覚したのだ。それも、よくあるゼロをつけ間違えるような、人為的なミスではなかった。
ぱっと見た瞬間は、間違いに気付かないような実に巧妙なミスだった。
得意先への提示価格は低く、会社への試算表は不当に高い。その金額は百数十万を超え、彼はその全責任を取らされようとしていた。
「僕じゃないんです!書類は一度、氷川さんに確認してもらってました!僕にも分からないんです!」
彼は悲痛な声で弁明を繰り返した。弁明を繰り返せば、繰り返す度、彼はみじめで卑屈になっていった。髪を振りながら、錯乱状態におちいた彼は、課長に腕をつかまれながら、別室へと連れて行かれた。そんな惨めな姿の桂木を私は悲しく見送った。
私も課長と常務から呼び出された。「この書類を君が確認したのは間違いなんだね」と同じ質問を何度もしつこく聞かれた。
確かにその通りだった。ゼロをつけ間違えるような間違いならともかく、こんなでたらめな金額、間違う訳がなかった。
「私は金額の確認をしました。ただ、そのときは間違っていなかったんです!」
私にも疑いの目を向ける課長に必死に説明する。
肘沢も傍に来て私のことを釈明してくれた。
「彼女の仕事に誤りはないじゃないですか。これまで。…ねぇ課長。それに、この件で彼女に何のメリットがあるというんです?」
彼の弁護と、これまでのミスの少ない仕事ぶりが功を奏したのか、私は軽い叱責だけですんだ。でも、桂木君はそういうわけにはいかなかった。
結局、私が確認した後、彼が虚偽記載をし、横領をはかったということになった。
それから三日後、私が出社すると、桂木君の机は綺麗に整理されていた。
彼は昨日付けで懲戒解雇され、このオフィスからの退去を余儀なくされていた。
昨日の彼は見るに耐えられなかった。泣きながら、机をかたずけ、後ろを人が通る度、びくん、と体が動いていた。それを他の社員は「ざまぁみろ」とばかりに無言でちらちら見ていた。
あれほど輝いてい彼が小さくなっていった。端正な眉も切れ長な目にも、疲労と人間不信の色が見えた。
私は、彼から隠れるように黙々と仕事をした。
―夢を一緒にかなえたかったよ
そうつぶやくしかなかった。事態は私の手を遥かに超え、もう庇うこともできなくなっていた。
唯一つの救いは、彼からのメールだった。
「今日まで、ありがとうございました。
理由は分からないので、納得はしていません。
ただ、こうなった以上、今日まで支えてくれた氷川さんには本当に感謝しています。
僕のこと、忘れないで下さい」
私はこのメールを保護した。
昼過ぎ、彼は黙って一礼し、蒼白な顔でオフィスから出て行った。
7、オフィスの女
ケータイがなった。外回り中の肘沢からのメールだ。
「今夜、八時Bar Betrayerで待ってる」
たった一行のメールだった。
肘沢の指定してきたBar Betrayerはあいつの行きつけだった。
仕事を早々に済ませ、京浜東北線に飛び乗る。
蒲田駅東口の暗い路地裏をゆっくりとした足取りで歩く。
薄暗い店内では静かにジャズが流れており、古臭い裸電球がぽつぽつと灯っている。
ゆっくりと店内を見渡すとカウンターで、肘沢が一人酒を飲んでいた。
「どうしたの。よびだして」
「いや、うまくやったな、と思ってな」
肘沢は少し汚れた分厚い唇を上げながら声を立てず笑った。
「それが言いたかったわけ。相変わらずつまんない男」
ボーイを呼びマティーニを頼んだ。新顔のボーイだった。
「どうだい?一度でも惚れた男に裏切られた気分は?」
「…」
肘沢はビールを一息で飲み干しふぅ、と臭い息を吐いた。
「二年前、お前は俺を振ったんだぜ。その気持ち、ちったあわかったか」
「全然。あたし振られてないもん」
運ばれてきたマティーニを一口含む。甘酸っぱい酸味が口の中に広がった。
「でもよ、もう少し、心大きくしてくれよ。一瞬ひやっとしたぜ。お前の弁護なんてきいてないからよ」
肘沢が恩着せがましく言った。
「あたしは自分でけじめをつけます。どんな手を使ってもね」
テーブルの上に一万円を置いた
「手切れ金かい?」
「…酒代よ」
金をつかんだその手で、肘沢は荒々しく私の腕をつかんだ。汚く生えた無精ひげを触りながら、にたっと笑った。
「今日は離さねぇぜ。約束だからな」
肘沢がホテルのキーをポケットから取り出す。私は肘沢の太い腕を振り払わず、フンと鼻で笑った。
「あなたとの関係はあくまでビジネス。ただそれだけの関係だから誤解しないで」
荒々しくホテルのカギを受け取る。その姿を見て、肘沢は卑屈な笑い声を上げた。
そう。桂木君の不正は私が仕組んだことだった。桂木君の社員番号とパスワードを使ってほんの少し、数字とデーターを改ざんしたのだった。
私が彼をあきらめた翌日、私は形の残らない残業をした。
誰もいない事務室で桂木君のパソコンを開き、予算請求書のフォルダをあけゼロを一つ付けくわえた。
ここまでは計画通りだった。ただ、二つの誤算と一つの不可解な出来事を除いて。
一つ目の誤算は、シャットダウンする時、普段は直帰する肘沢がオフィスに帰ってきたことだった。
オフィスで営業部のパソコンを事務職は触ってはならない。
事務職の鉄則を破った私を、肘沢は険しい顔で問い詰めてきた。「探し物をしてたんです」と答えるが、パソコンの画面にはデーター保存中の文字が浮かんでいる。
肘沢はくぼんだ目を卑屈に光らせ、執拗に迫ってくる。
仕方なく、洗いざらい話すと、彼は私にビジネスを持ちかけてきた。「体をくれれば、黙っといてやる」と。
私は黙って提案を受け入れた。涙が自然とあふれてくる。
その時初めて桂木君のことを愛していたことがわかった。
愛情が愛憎に変わることは何度もあった。ただ嫌いな男を使ってまで、復讐をしたい、という感覚は初めてだった。
私の肩を抱きながら、肘沢がエレベーターのボタンを押した。
二台あるエレベーターが時間をあけ、昇ってくる。
私たちは早く開いたほうにのり、ゆっくりと扉を閉めた。
もう一つの誤算と、不可解な出来事は、訂正作業から一週間後、事件が発覚した時だった。
計画では、ゼロを一つ付け忘れたという些細なミスで私と彼が怒られて、二人で慰めあうつもりだった。今度こそ彼に振り向いてもらい、一緒に夢を見て行こうと考えていた。
ただ、現実は違った。
不正した金額はゼロの付け忘れを遥かに上回る狡猾な金額だった。桂木君がいくら「僕じゃない」と叫んでも、私には彼が自作自演したとしか考えられなかった。
しかし、慎重な彼の性格からしてそれはありえなかった。
不正金額のことはずっと気になり、それとなく肘沢に聞いてみたけど、覚えはないという。
営業にはタイムカードがなく、その日何時まで会社に残っていたかわかるものは誰もいなかった。
そして、桂木君のファイルも誰が訂正したかわからなかった。それがわかっていれば、とっくに犯人が分かっていた。おそらく、社内であの後犯人探しが終わったことから、社内のシステムエンジニアにもわからなかったんだろう。
ただひとつ、気になることがあった。
私と肘沢が契約をかわし、オフィスを出た後、エレベーターが二台上がってきた。
後で考えれえばおかしなことだった。
普通、エレベーターのボタンを押すと一台しか上がってこない。
でも、あの時、時間を空けてもう一台エレベーターが上がってきた。
―もし、あの中に人が乗っていたら…
私自身、狡猾な罠にかかっている気がして気味が悪かった。
桂木君の泣き顔は一生忘れないだろう。女としての苦い思い出と、サドヒストとして最高の快感を運んでくれた男だったから。ただ、今でも金額の件だけは気になっていた。
私は肘沢の腕の中で桂木の匂いを思い出す。まだほんの少し、私の胸に残っていた罪悪感が残っている。
―そういえば、本当の桂木の匂いって知らない
肘沢と桂木君が同じ匂いがしたら、きっと私は二度と人を愛せないだろう。
過去を振り払うように、私は肘沢の腕の中に飛び込んでいった。
8、エピローグ
桂木君が会社を辞めてから、私はまた「氷の女」に戻った。
私と彼の関係は自然消滅していた。
彼が今どうしているか私にはわからない。
そもそも桂木が再就職できたか、今どこで何をしているかなんて興味はなかった。
肘沢が相変わらず私にまとわりついてくる。姑息な人間はやっぱり、同じような相手にひかれるんだろうか。
「先輩。桂木さん、まだ仕事決まってないんですよ」
七瀬が大きな瞳を曇らせながら私にそっと近況を伝えてきた。
「そう。大丈夫よ。彼は人柄がいいから、どこかで必ず採用されるわ」
心にもないお世辞が出てくる。七瀬は猫のように丸まりながら、パソコンを叩いている。
「ですよねぇ。ただ、気になっちゃいます。桂木さんは、ゼロをつけ間違えるような単純なミスをする人なんで、不安なんですよね。あっ、ごめんなさい。先輩も気づかなかったんですよね」
私も、少しづつ社内で浮きつつあった。
無理もない。
証拠がないとはいえ、私と仲がいい同僚が不正を行ったんだ。日々、オフィスにいるのが辛くなってきた。
人が一人減ろうが、品川のオフィスはいつも通り忙しく慌ただしい。
眼下に広がる東京の街を、今日も真っ赤な夕日が照らしている。
夕焼けは相変わらず嫌いだった。それは、人の心のボーダーラインとどこか似ているからだろうか。
オフィスの女