コロナの空の下

Asa

FASE-1 悪い夢の始まり

世界からマスクが消えた。
新型コロナ・ウィルスが中国で確認されたのは去年の暮。未知のウィルスは、春が来る前、あっという間に世界に広がった。今や、人々はマスクを買うためだけに、整理券片手に長蛇の列を作るようになった。
 西城隆盛(さいじょう たかもり)は、そんな人々を横目に、マスクで顔を隠し、今朝も駅へと急いでいた。この異常事態にあっても、隆盛がマスクに困ることはない。なぜなら、常に大量のマスクをストックしているからだ。
「隆盛ってマスクしてるとイケメンだよね」
それは高校時代、風邪をひいてマスクをしている隆盛に友人が放った言葉である。
隆盛の顔は、バランスが悪い。しっとりした黒目と、幅広の二重瞼は、言うなればジャニーズ風。それに比べ、小鼻は極端に丸く、右鼻の脇には、オセロの黒側のようなホクロが、ぺっとりと張り付いている。加えて、タラコ唇ときているから、美しい目元など、台無しもよいところだ。マスクがあればイケメン。確かに友人の言う通りだった。
いつの頃からか、隆盛はマスクをつけてしか外に出られなくなった。マスクは、自信の無さを隠し、別人になるための大切な小道具になっていた。
午前五時半。ホームに通勤客はまばらだ。電車の扉が開き右足を前に出す。空いているが、座席には座らない。隆盛にはルールが多い。時間には余裕を持ち、三本前の電車に乗る。というのも、隆盛は腹が弱く、いつ便意を催すかもしれないからだ。右足から電車に乗るのもルールだ。いつか左足から乗った時に腹痛に襲われたからだ。座席に座らないのは、シートで鼻糞を拭っている人を見たのがきっかけだ。
我ながら冴えない男だと思う。小さな身体のまま、小さな心を大事にして生きてきて、気が付いたら今年二十五歳になった。彼女もいない天蓋孤独の身だ。母の浮気が原因で離婚した父は、男手一人で隆盛を育ててくれたが、去年、心臓発作で呆気なくこの世を去った。隆盛に残されたものは、少しばかりの保険金と、2LDKのファミリー向けマンションの一室だった。
 と、電車が急に揺れた。隆盛は思わず目の前の手摺に手を触れてしまった。慌ててすぐさま指をウェットティッシュで拭った。豪傑であれと、息子に薩摩藩士の名を冠した父の願いとは裏腹に、隆盛はマスクなしでは外も歩けない、細かなことにばかり拘る小さな男だった。
 隆盛は、西武新宿駅で降りると十分程歩き、オフィス街から外れた路地に入ると、いかがわしい店の並ぶ一角に建った雑居ビルの自動扉をくぐった。今日も気持ちは暗い。
 四流私大を出て唯一、内定をもらえた会社は、この事務機器販会社の営業職のみだった。しかし、人見知りを地で行く隆盛に、営業など向いているはずなどなかった。入社三年目になっても未だ大きな業績は上げられず、上司の叱責と同僚の嘲笑に俯く毎日だった。
 受付を横切り、エレベーターを待っていると、受付嬢の友田光莉(ともだ ひかり)の声が聞こえた。隆盛はエレベーターの階数表示を見る振りをしながら、こっそりと彼女の顔を盗み見た。ストレスだらけの毎日が吹っ飛んでしまうくらい、可愛い笑顔だ。
 ところが、その彼女が、同僚の受付嬢に、心底困ったように言っている。隆盛は耳を澄ました。
「マスクが手に入らなくて」
同僚が彼女の言葉に頷いた。
「私もこれが最後のマスク」
 隆盛には珍しく、瞬時に決心していた。もどかしい気持ちで到着したエレベーターに乗り、三階にある営業フロアに急いだ。部屋に入るや否や、挨拶もそこそこに、自分の机の引出しを開け、再び一階の受付へと駆け戻った。光莉を助けたい。
 隆盛は、震える手で光莉にマスクを渡した。困惑した彼女の目が隆盛を見つめる。
 気味が悪いと思われただろうか。隆盛は、勢い余った自分の行動を恥じた。受付台の上へ個包装になったマスクを数枚乱暴に置くと、逃げるように背を向けたその時だった。
「あの、ありがとうございます」
振り向くと、光莉の笑顔が輝いていた。
 
 翌日から、隆盛は毎朝、光莉にマスクを届けるようになった。自然に言葉を交わすようにもなり、彼女の好きな音楽や映画も知った。
「西城さんて優しい人ですね」
ある日、彼女は心底、尊敬するような眼差しを隆盛に向け、そう言ってくれた。隆盛はあまりに嬉しくて、彼女を食事に誘ってみようかと思ったが、情けないことに勇気がなかった。食事に行ってマスクを外し、がっかりされるのが怖かったのだ。
 しかし、光莉との交流は隆盛に少しばかり自信をもたらした。そのせいなのか、仕事でも初めて良い結果が出せた。
 隆盛の勤める会社は、地元の中小企業相手に、コピー機の代行販売やネットワークシステムの提案をしている。とはいえ、それは求人広告に謳っている業務内容である。実際は、大手企業の代理店であることを盾に、その営業手法はかなり強引だった。型落ちしたコピー機を最新の機械として売りつけるのは当たり前、ネットワークシステムの管理といっても、実際はインターネットプロバイダーの契約をするだけで、ITに疎い年配の経営者に恩を着せ、口八丁手八丁で自社の親会社が開発した様々な新しいソフトを導入させるのが目的だ。まずは気難しい中小企業の経営者と長く関係を築き、安定した依頼を受注するのが何より大切なことである。しかし、ちょっと冷たくされると、いちいち落ち込んでしまう隆盛にとって、それは最も難しいことに思えた。特に前任の先輩から引き継いだある客先は苦手だった。従業員数百人規模の中小企業で、そこそこ大口の顧客である。しかし、そこの社長は、かなり気難しい頑固親父だった。月に数回の営業伺いに行くのが、隆盛はいつも憂鬱で仕方なかった。
 しかしある時、隆盛は思いついた。マスクを運んでは喜んでくれる光莉の顔を見ていたら、ふと、あの会社へマスクを手土産に持っていったらどうだろうかと思ったのだ。 
 隆盛は、さっそく頑固社長の会社へ、大量のマスクを持って顔を出してみた。人を見れば威嚇の態勢に入る社長だが、その時ばかりは鳩が豆鉄砲をくらったように、紙袋いっぱいに入ったマスクの箱を、意外そうな、神妙な顔で受け取った。
 数日後、隆盛のもとへ、百台分のパソコン入替の受注が来た。頑固社長曰く、どうせ入れ替えるなら、人情ある西城君に、というのだ。
良い事は続くものだ。新規契約がとれなくて、毎日、けちょんけちょんに言われてきた隆盛だが、初めて課長に飲みに連れて行ってもらった。どの企業もコロナの影響で財布の紐が固くなっていた折、頑固社長から受けた大口の受注の功績を認めてくれたのだ。さらにその酒席で、課長の娘が喘息だと聞き、その翌日、大量のマスクを持っていった。すると課長は、涙を滲ませて喜んでくれた。それ以来、何かにつけて隆盛を可愛がってくれるようになった。その事が、今まで隆盛に冷たかった先輩や同僚の態度をも変えることになった。
 隆盛は、いつしか会社の人気者になっていた。社員のみならず、清掃のおじさん、出入りの配達員、タクシー運転手、さらには先輩に連れられて訪れたキャバクラ嬢・・・。みんなにマスクを配った。そうすれば、たちまち話題の中心になり、英雄になれた。
 しかし、しばらくすると、クローゼットを埋めていたマスクの箱が底をつき始めた。
 隆盛の背中に冷汗が落ちた。慌ててネットで検索すると、マスクは信じられない高値で売られていた。1枚1万円のものまである。
しかし迷ってはいられないと思った。マスクはもはや隆盛そのものなのだ。ネットショッピングを見ては、片っ端から“カートに入れる”をクリックした。
 
 ある朝、目が覚めると身体中に鈍い痛みがあった。熱を計ると37度5分。ネットで調べ、保健所に連絡した。
検査の結果は、まさかのコロナ・ウィルス陽性だ。
 二週間の隔離措置入院となった隆盛は、病室のベッドで皆の事を思った。光莉や会社の人、近所の人・・・。皆、どうしているだろうか。自分がいなくて、マスクがなくて、困っているだろうか。そう思うと、隆盛は居ても立っても居られなかった。皆が自分を待っている。そう強く思った。生まれて初めて感じる使命感だ。
 早く戻らなければ。
 激しい咳に苛立ちながら、気持ちだけが焦る。
 小さな二人部屋の病室では、カーテンの向こうから、ひそめても隠し切れない楽しげな声が聞こえてくる。隆盛と同じくコロナにかかったその男は、同世代のようだが、会いたくて仕方のない恋人がいるらしい。あまり症状が無い彼のベッドからは、しょっちゅう恋人と思われる相手とスマホで話している声が聞こえてくる。
 隆盛は思わず身悶えた。
 ああ!光莉の声が聞きたい。
 と、ベッドの中で、スマホが震えた。強い願いは通じるものなのか。まさかと画面を見たが、やっぱりそれは隆盛の思い込みに過ぎなかった。スマホがバイブレーションで知らせたものは、新着のネットニュースだった。
 一気に怠さが増したが、惰性で最新の記事のいくつかを読んだ。そして、その記事の中の一つが、隆盛の心臓を凍らせた。なんということだ。ある大手通信会社の社長が、マスクを百万枚市場に寄付するというではないか。
 隆盛は、その男に憎しみを覚えた。自分以外がマスクで英雄になるなんて許せない。
 慌ててショッピングサイトにアクセスし、値段も見ずに高額のマスクを買い漁った。クレジットカードの支払いは、既に50万円を超えていた。
 しかし、またも嫌な記事が目に入ってきた。遠くない将来、コロナ・ウィルスは終息に向かい、季節性の風邪として扱われる日が来るだろうという専門家の意見を引用した記事だ。
 隆盛は、思わず布団を蹴り上げ病室を飛び出した。
 廊下を外の光に向って走る。
 隆盛は、実に十数年ぶりに人前でマスクを外した。町中を駆けずり回り、高らかに咳込みながら、全力で人混みを走った。息苦しさに涙を浮かべ、隆盛は胸の内で叫んだ。
 許さない。終息なんて絶対に許さない!

FASE-2 煽る夫

「とんでもないヤツだ!」
夫の小石原吉文(こいしはら よしふみ)は、突き出た腹の上で短い腕を組み、さっきからテレビ画面に向かって怒鳴っている。
「この男、コロナをばら撒いて走ったんだぞ。しかも、うちの近くじゃないか」
連日、マスコミは入院病棟を抜け出したマスク男なる人物の話題で持ちきりだ。しかし、道代にとっては奇妙な男が近所に出現したことよりも、夫のヒステリックな声の方が遥かに迷惑度が高い。
「ああ、もう!駄目だ。どいつもこいつも駄目だ!こんなヤツを野放しにして。やっぱり伊部には総理の器なんてないんだよ!」
どうやらテレビの話題と共に夫の怒りは簡単に移ろうらしい。マスク男に怒っていたと思ったら、今度は、新型コロナ・ウィルスへの政府の施策に文句を言っている。
じゃあ自分には、どんなアイディアがあって、どのくらい大きな器があるというのだ。総理大臣に向って通り一遍に毒づく夫の小ささにうんざりしながら、道代は耳障りな声を掻き消そうと、食器を洗う水の勢いを強くした。しかし、こんな時の夫の声は決まって甲高いので、効果は薄い。
 昨日の夜、伊部総理から緊急事態宣言なるものが発令された。平和の国・日本に生まれて五十二年。両親や祖母が苦労の時代に生きてきたことを知りながらも、やはり他人事だった。まさか自分の生きている間に、こんな言葉を聞くことになろうとは。昭和も平成も、そして令和も、何だかんだ、ずっと同じような日々が続いていくと思っていた。根拠なく。
 年末頃、中国で初めて感染が確認された新型コロナ・ウィルスは、中国から日本、他のアジア諸国へ、そして欧米諸国へと飛び火し、桜の咲く頃には世界中で流行していた。感染しても、ほとんどの人が軽症か無症状で終わるというが、運が悪いと、ひどい肺炎の後、命を落としてしまうこともあるという。特に欧米諸国の惨状は世界を恐怖へ陥れた。お洒落の国イタリアも、愛を囁くフランスも、そして夢を叶えるアメリカも、みんな全滅だった。爆発的な感染者の増加によって医療機関はパンク状態になり、テレビ画面に映る現場は正に阿鼻叫喚。一日に何十人もの死者が続出しているという。それらの国々は、これ以上の感染拡大を抑えるために都市封鎖作戦に入った。全ての商業施設、企業、交通機関をストップし、市民は自宅から出ないよう義務付けられているというのだ。テレビで見る外国の憧れの街並みは、どこも死んだように静まり返り、悪い映画を見ているようだった。
 とはいえ道代の日常は、まだまだ欧米のような惨状になる気配はない。何とも物騒な響きではあるが、緊急事態宣言といっても夜の飲食店の営業自粛要請や企業への在宅勤務の要請が中心で、人々は自由に外へ出かけられるし、誰もがマスクで顔の半分を覆っていること以外は、電車も配達も、スーパーも平常運転だ。
 しかし、テレビでは連日のように感染者や死亡者のニュースが報告されていて、人々の持ち寄る空気は確実に変わってもいた。専門家やら知識人と呼ばれる人が、日本もこのままいくと数週間後には欧米と同じような惨状になるという。何もしなければ数十万人の死者が出るかもしれないという人までいる。まさかとは思うのだが、頭の良い人がそう言うと、そういうものなのかもしれないと怖くなる。確かに特効薬もワクチンもないのだから用心するに越したことはない。あまり大袈裟に騒ぐべきではないとか、色々な意見があるみたいだが、小市民の代表たる道代が出来ることと言えば、手洗いとうがい、そして世界中で希少品と化したマスクと消毒液を求め、毎日ドラッグストアを巡ることぐらいだ。大学が休校になった息子の文弥も、毎日インターネットで品物を探し回ってくれている。居酒屋のアルバイトもなくなり、友達との飲み会も、最近付き合い始めた彼女とのデートもままならず、若い男の子にしたら退屈な日々だろう。それでも文弥は「宝探しみたいだよね」と明るく言ってくれる。わざとそうしているのか、はたまた本当に面白がっているのかは分からないが、ともかく文弥は毛羽だった道代の気持ちを軽くしてくれる存在だ。
 それに比べ、困ったのは夫の吉文である。ただただ、いつも誰かに怒り、気分が落ち込むようなことばかり言うのだ。
「遅いんだよ、何もかも遅い!政府は何やってるんだ」
まだテレビに向かって文句を言っている。この人は駄目と遅いしか言えないのだろうか。道代の口から思わず深い溜息が漏れた。
 吉文の会社は、製麺機や野菜のカット機械などを製造する工作機器の製作会社だ。創業五十年、従業員数三百人という中小の中では、そこそこの規模の老舗企業である。工学部を出た吉文は、機器の開発と営業の両方を担当している。飲食業界の厳しさを鑑みるに、てんで経済のことなど分からない道代でも、夫の会社の今後の見通しが悪いことくらいは分かる。今年、五十八歳にしてやっと部長になったというのに、なんとも間が悪い男だ。そう、吉文は昔から間が悪いのだ。大きな商談が決まりそうな時に、大切な客先の資料の入った鞄を置き引きされたり、酒席で上司にモツ鍋をぶちまけたり、結婚前の両家の顔合わせの時に盛大なオナラをしたり・・・。
「よし、始めるか」
そう言って吉文は、やっとのことテレビの電源を切った。会社の所轄である東京都からの要請を受け、吉文の会社も先週からテレワークなる在宅勤務になった。今から夕方まで、リビングは吉文のオフィスになる。なんとも息苦しい。
 吉文はリビングで寝間着を脱ぎ、ワイシャツに着替えるとネクタイを締めた。しかし、下半身は毛玉だらけのスエットのままだ。パソコンで行われる会議や打ち合わせでは、上半身さえちゃんとしていれば問題ないのは分かるが、やはり間抜けな姿だ。若い時から特別格好いいというわけではないが、とりあえずスーツを着ればパリッとして見えたのに。
「ああ、先日来、わが社もテレワークが始まっているわけだが、みんな不便はないか」
吉文がノートパソコンに向かって話している。オンライン会議が始まったのだ。腕を組み、部長として威厳ある態度を示そうとしているようだが、音声が入っていなかったようで、部下から携帯に電話が入り、ミュート解除の方法を教えてもらっている。人差し指一つでキーボードをいじる姿は、まるで猿のアイアイのようだ。
 今日の昼飯は何を用意しようか。普通に出社していた時のように昼は外で食べてくれれば楽なのだが、自粛ムードの中、ご近所の旦那さんは皆、家で昼食をとっているので仕方がない。こんな大変な最中、働いてもらっていて申し訳ないことだが、毎日、昼と晩のメニューを考えて用意するのは正直、苦痛だった。こんなことで苛々してしまう自分は、心が狭いのだろうか。
 あれこれ考えながら、ノートパソコンに鼻をつけんばかりに前のめりになった夫の禿げた後頭部を見ていたら、なんだか胃がムカムカしてきた。ここ数年、ちょっとしたことで身体のあちこちに不調を感じるようになった。生理周期も不安定になった。いよいよ自分も、更年期というやつに突入したのだろう。女性はみんな経験するものなのかもしれないが、やっぱり嫌なものだ。見えないイエローカードを突き付けられているような気分だ。
 道代は音を立てぬようカレーを作り終えると、そっとリビングを出た。
 道代は扉に手をかけながら、ふと、陽当たりは良いが、決して広くはないこの家に越してきた時のことを思い出した。都内は無理でも、ベランダから、デスティニーランドのシンデレラ城が望めることで決めた新築マンション。一階は泥棒に狙われそうだが、五階建てとはいえ最上階は予算オーバー。悩みに悩んだ挙句、三階の角部屋を三十五年ローンで購入した。夫婦二人で余裕のあった2LDKは息子が産まれ、その成長と共に古び、なんだかとても小さくなったような気がする。それでも、昼間の家事を終えた十畳のささやかなリビングは、かつて道代の城だった。夫と喧嘩しても、息子を叱っても、ここは道代が好き勝手に寝転がり、好きな物を食べ、居眠りをして、時に全てを投げ出してしまいたくなる気持ちをリセットする大切な空間だった。今やその場所は、夫に占拠されてしまった。最近何より楽しみにしていた韓国ドラマの再放送も見られない。
でも仕方ない、と道代は思った。そう、夫は働いてくれているのだから。
 さあ、夕飯は何にしよう。夕飯もカレーを食べてくれると助かるが、吉文はきっと文句を言うだろう。

 買い物袋を下げて、スーパーの自動扉を出ようとした時だった。ばったり麻里ちゃんと出くわした。文弥が幼稚園だった頃以来の、いわゆるママ友だ。嫌味なところがなく、同じ年齢ということもあって細く長く付き合っている。お互いにマスクをして立ち話をしていると、話したいことが溢れそうになっている自分に気付いた。コロナ・ウィルスは、あれよあれよという間に国民のトレンドワードになり、その生活を侵食するようになった。得体のしれない脅威と圧力に誰も心のどこかが疲れていた。だから、麻里ちゃんの、いつも通りの「ケーキ食べに行かない?」の合言葉に、道代の気持ちは花が咲いたように明るくなった。
自粛要請の中、飲食店に行くのさえ、どこか後ろめたくなってしまったが、今でも頑張って営業している駅前のスパゲティー屋に二人で入った。
「もう駄目だよ。うちの旦那、失業」
いっぱい愚痴ろうと思っていたのに、泡の立ったカフェラテのカップを両手で包み込み、麻里ちゃんはそう言った。目を見ると薄っすら涙が滲んでいる。彼女の夫は、夢の国と言われる国内最大規模の遊園地デスティニーランドの近隣に建つ一流ホテルに勤めている。去年、支配人になったと聞いている。永遠不滅のデスティニーランドが、無期限の休園に入ったことは、その観光客で生きてきたホテルにとって死活問題だ。
「連休が明けたら再会するんでしょう?テレビで見たよ。旦那さんの会社は、ちょっとやそっとのことじゃ揺るがないし、保障も手厚いんでしょ?」
「それもどうなるのか分からない。緊急事態宣言があけても、これだけみんなが怖がってるんだから、簡単にお客さんだって戻ってこないだろうし。いくら保障が手厚いっていっても、こんな状況が続いたら解雇も覚悟しなきゃなんない」
 道代は俯く麻里ちゃんを見ていたら胸の奥が痛んだ。お互いの子供が幼稚園児だった頃から、色々なことがあった。何かあれば励ましあったり笑い飛ばしたりしてきながら、手探りで子育てし、なんとか今年、成人式までこぎつけた。しかし、今回だけは、何をどうやって励まし笑えば良いのか、皆目見当もつかなかった。道代は掛ける言葉も見つからずケーキを口に運んだ。大好きな苺ケーキは今日、ぜんぜん美味しくない。


「おい、見てみろ。もう駄目だ」
夕食が終わり、洗濯物をたたんでいると、吉文がスマートフォンの画面を道代の顔の前に突き出した。
 道代は思わず顔をしかめた。一日中家にいて、ちょっとは家のことを手伝おうという気はないのだろうか。しかし言ってみたところで返ってくる言葉は分かっている。「俺は遊んでるわけじゃない」。道代だって遊んでいるわけではないが、文弥を産み、仕事というものから離れて久しくなって二十年。専業主婦としてやってこられたのは夫のおかげに違いないが、常にどこか肩身の狭さを強いられているのも事実である。道代はたたんでいたタオルを膝に置くと、吉文のスマホに手を伸ばした。と、吉文はさっと電話を横に避けた。
「アルコール消毒したか」
「洗濯物をたたんでたんだから、手は汚れてないわよ」
「いや、さっき靴下の上から足を掻いているのを見た」
 道代は気付かれないよう小さな溜息を吐くとキッチンに戻り、手の平にアルコールスプレーを吹きかけた。夫は日に日にうるさくなっている。特に五十代の男性がコロナに感染し、亡くなったというニュースを聞いてからは、より一層、警戒心を強めている。
「お前は昔からずぼらなところがあるからな。もっと危機意識を持たないと」
道代は、またも、ぐっと言葉を飲み込む。この騒ぎがある前はトイレに行って手も洗わなかったくせに。いつの頃からか、夫の言うことは真に受けず本心は心の内に止めるようになった。別に夫のことを恐れているわけではない。ただただ面倒くさいのだ。
 道代は夫のスマートフォンを受け取ると画面に映った棒グラフを見た。ここ三か月の国内感染者数の経緯を示したグラフだ。テレビでも毎日のように見ているものだが、なんだというのだろう。
「俺は死を覚悟している」
「は?」
道代は思わず間抜けな声を出した。
「俺の見立てでは、今後、感染者数は増加の一途を辿るだろう」
それは夫の見立てではなく一般的な見解だと思うのだが、もちろんそれは言わない。
「だからって、どうして、あなたが死ぬってことになるの」
「馬鹿!だから、お前は危機意識が薄いって言ってるんだ」
道代はいい加減腹が立ってきた。こっちは極力おだやかに言っているというのに、それでも吉文はお構いなしに続ける。
「いいか。どの世界にもリスクヘッジという考え方がある。起こりうるリスクを予測して、それに備えるということだ。忘れたか?俺たちは二度の大震災を経験しているんだ。常に最悪の事態を予想しておくことが大事だということが分かっただろう。今回だって同じだ。常に死を覚悟しておくこと。これこそが最大限のリスクヘッジだ」
吉文の言うことは、もっともらしいようだが、何かが違うような気がする。しかし、道代は上手く反論する術を持たない。そんな自分がもどかしい。
「とにかく、お前も仕事を見つけることだ」
一体何の話なのだ。道代は、ぽかんと口を開け吉文の顔を見た。
「言っただろう。リスクヘッジだ。俺が死んだら今みたいにお気楽な主婦じゃいられないんだぞ」
あまりの暴論に道代は閉口するしかない。どうして吉文は、いつもこうなのだろう。事あるごとに何でも騒ぎ立て、大袈裟なことばかり言う。しかし、道代はその理由を本当は知っていた。なぜなら彼は極度の臆病者なのだ。どうしようもない自分の恐怖心を人にも強要し、巻き込むことで安心感を得たいのだ。
 八年前の東北沖の震災の時もそうだった。あの日、東京とはいえ、八階にある我が家も、びっくりするくらい揺れた。道代も確かに怖かった。まだ小学生だった文弥の肩を抱き、必死に揺れが収まるのを待った。しかし、吉文の姿を見て道代は愕然とした。その姿を探すと、妻子を守ろうとするどころか、キッチンの隅にしゃがみこんで両手で頭を覆い「ああ、死ぬぞ。これは死ぬぞ。ああ、もう死んだ。俺たちは死んだ!」と叫んでいる。夫が叫ぶほどに道代は冷静になった。うるさい、死ぬなら勝手に死ね。私は絶対、死なない。文弥を守るんだと。

 ベッドに入りスマホを開いた。普段なら吉文に気を遣うところだが、先週から彼はリビングに布団をしいて寝るようになった。感染防止のため、家族の中でも濃厚接触を避け、ソーシャルディスタンスとやらを守るためらしい。どうでもよいが、出来ることなら、ずっとそうして欲しい。一人で寝るベッドは広々としていて、そして自由だ。
 麻里ちゃんにラインをしてみた。昼間の彼女の落ち込んだ表情がずっと引っかかっていた。安易な言葉はかけられない。代わりに可愛い子猫の動画を送った。彼女は大の猫好きだ。ちょっとでも笑ってくれたら嬉しい。それに道代自身、誰かとコミュニケーションをとりたかったのもある。
 すぐに返信が帰ってきた。

可愛い!久々に笑ったよ。
ありがとうね。
昼間は愚痴っちゃって、ごめん。
夜、旦那と色々話し合ったよ。
何をやっても家族を食わせるから安心しろ、だって。
恰好つけの人だから、どこまで信じていいのやら。
でも、私も落ち着いて、明日から頑張るよ!
またケーキ食べ行こうね。

いつもの麻里ちゃんが戻っていた。道代は安心すると同時に、心底羨ましいと思った。彼女の旦那さんは、吉文と比べて、なんと頼りがいがあるのだろう。
 吉文と結婚したのは二十五歳の時。短大を出て事務職員として就職したのが吉文の勤める会社だった。道代にとって、工学部を出て企画開発と営業の両方を担う当時の若い吉文は、まぶしい存在だった。それに、今よりもずっとスリムで、少しは恰好良かった。 しかも、ちょうどその頃、道代には、短大時代から四年近く付き合った彼がいたが、なかなか彼の口から結婚の二文字が聞けず、気持ちが折れかけていた。だから、結婚を前提に、という古臭い吉文の告白に、道代は二つ返事で交際を決めてしまったのだ。自分は人生の選択を間違えたのだろうか。いや、でも吉文と出会わなかったら、息子の文弥とも出会わなかったということだ。それは絶対に嫌だ。
道代の中に、ふと二つの言葉が浮かんだ。守る夫と煽る夫。残念ながら、うちの夫は後者の方だ。


「おい!出かけるぞ!」
寝入りばなに吉文の甲高い声が響いて目を開けた。昨晩、麻里ちゃんにラインをしたついでに、ついスマホでネットサーフィンをしていたら遅くなってしまい、眠りについたのは夜が明けかけた頃だった。
重い意識を振り払い、サイドテーブルの上の眼鏡をかけると、かろうじてベッドから起き上がった。ぼんやりとしたまま部屋のドアを開けると吉文が立っていた。なにがあったのか、鬼の形相である。昨晩に引き続き、一体なんだというのだろう。
「お早う。どうしたの?」
道代は、朝から面倒は御免だと思い、極力穏やかに聞いた。本当は、昨晩の続きもあり、しかも寝入りばなを起こされているのだから、怒りを抑えるのに必死だ。
 しかし、相変わらず吉文は、そんな妻の気持ちを忖度する気配もない。
「どうしたのじゃないよ。まったく、これだから、お気楽な主婦っていうのは・・・」
吉文は吐き捨てるように言うと、寝巻姿に分厚い眼鏡をかけた道代を忌々し気に見た。眠りから覚めたばかりの五十も過ぎた眼鏡おばさんの姿に目を背けたくなる夫の気持ちも分かるが、朝から薄い頭の毛を振り乱す姿を見せられているこちらの身にもなってほしい。道代は思う。目覚めた朝、吉文の顔が目の前にあるのを史上最高の幸福だと思っていたあの頃の自分は何だったのだろうと。きっと自分は、かなり高度な催眠にでもかかっていたに違いない。
「今から出かけるぞ!」
次第に目が覚めてきた道代は吉文に聞いた。聞き間違いでなければ、どうでもいい話だ。
「出かけるって、どこに?」
「仕事に決まってるだろう!」
何故か激昂している吉文は唾を飛ばさんばかりに声を荒げる。しかし、道代は夫のことを良く分かっていた。彼はパニックを起こしているのだ。自らのキャパシティーを超えた事態に、ただ八つ当たりをしているのだ。   
 道代は苛立ちを抑え、吉文に事情を尋ねた。話を聞くと案の定だった。
 今朝、取引先の工場で吉文の会社が納入した工作機にトラブルがあり、客先から連絡を受けたという。本来は保守の人員が現地に赴くのだが、この状況で人員の確保が出来ず、営業部長兼、技術者でもある彼が、やむなく現場へ出向くことを命ぜられたのだ。
「・・・大変ね。気を付けて」
道代は、それ以上言い様がなく、せめて朝ご飯でも食べさせようと台所に向かう。
「おい、分かってるのか!客先はコロナが感染爆発している都内なんだぞ!ここ千葉県から移動することの危険をお前は分かってるのか」
吉文のコロナ・ウィルス対策は、諸外国の惨状を報道するテレビ番組に呼応して、日に日に強固になっていた。テレワークになってからは一歩たりとも外へ出ないし、家族で食卓を囲むと感染リスクが上がるからと、それぞれ時間差で食事をとるようになった。そんな吉文だから、今朝の外出命令には完全に泡を食っているのだ。彼にとったら、感染者の多い東京都に赴くことは、テロリストがマシンガンを放つ戦地に赴くに等しいらしい。しかし仕事だ。行ってもらうしかない。
 吉文は、散々文句を言ったわりには、茶碗二杯の朝ご飯を食べ、会社のために出向く自分の使命感の尊さを強調し、やっとのこと家を出て行った。しかし、自家用車で出掛けた彼にとって、その感染リスクはゼロに等しい。それでも吉文は、貴重なマスクをなんと二重に装着し、目には水泳用のゴーグル、頭には道代の使っているビニール製のシャンプーハットを被っていくという有様だ。 
 道代は、またも麻里ちゃんの旦那さんの男気と、吉文の怯え振りを比べ、暗澹たる気持ちになった。
もはや夫に男としての何をも期待してはいないが、ともかく、近所と客先では、ゴーグルとシャンプーハットを外して欲しい。せめてもの願いだ。

「このプリン、マジでうまいなあ」
吉文が大騒ぎして出掛けて数時間後の昼過ぎ、やっとのこと起きてきた文弥は、寝起きにも関わらず牛丼を平らげると、まるで飲むように、お取り寄せしたデザートの高級プリンを食べ終えてしまった。一個五百円もする有名店のプリンなのだから、もっと味わって食べて欲しいものだ。しかし若い息子にそんな繊細な舌などあるはずもなく、文弥はカスタード味を平らげると、早くも二つ目の抹茶味に手を伸ばしていた。
 来る日も来る日もテレビから聞こえてくる声は自粛、ステイ・ホーム。ストレスのせいか、スイーツのお取り寄せが増えた。
「ああ、美味かった」
 文弥は、抹茶プリンの瓶も瞬時に空にしたと思うと、今度は戸棚からポテトチップスを持ってきて袋に手を突っ込んでいる。どうやら文弥にとっては、スーパーのプリンも、お取り寄せしたプリンも変わりはないらしい。     
 それにしても、と道代は思う。若い男の子というのは、よく食べる。道代は半分しか減っていない自分のプリンをスプーンですくいながら、すっかりゴツゴツと大人の男らしくなった文弥の顎の輪郭を見た。こんなに大きな身体の男の子が自分の身体から出て来たことを、道代は時折不思議に思うことがある。
しかし、こうして居間のテーブルに向い合せに座り、息子がよく食べる姿というのは、ひどく懐かしい光景でもある。中学高校と頑張ってきた野球部の忙しかったあの頃を思い出すのだ。良く食べる息子が家にいるようになり、食費は確実に増えた。何かというと小腹を減らし、多めに買い置きしているつもりのカップラーメンも、冷蔵庫の中の物も、あっという間になくなってしまった。それでも、こうして向かい合って美味しそうに食べ物を平らげる息子を見ていると、大学やバイト、彼女と、すっかり母親の知らない場所へと離れていってしまった息子が、ふいに自分の許へ戻ってきてくれたようで、嬉しい気持ちになる。吉文が四六時中家にいて、しかも御飯をおかわりすると殺意さえ感じるのとは大違いだ。
「そういや、来週、ばあちゃんの誕生日じゃね?」
 文弥は、右手は高速でポテトチップスを口に運びながら、左手の親指は器用にスマホの画面を上下左右しながら思い出したように言った。ぶっきらぼうなのは照れ隠しだろう。しかし、毎年の事とはいえ、道代の母親である祖母の誕生日を覚えていてくれるのは、やはり嬉しいものだ。
 今から十八年も前のことだが、道代は結構大きな子宮筋腫を患い、一か月以上の入院を余儀なくされた。まだ文弥が二歳の頃だ。吉文も仕事が忙しく、代わりに埼玉に住む道代の実母である峰子が泊まり込みで幼い文弥の面倒を見てくれることになった。以来、文弥はすっかり峰子を慕うようになり、大人になった今でも、文弥は何かにつけて祖母のことを気にかけてくれる。その頃の祖母への恩義が文弥の心の底には残っているのだろうか。だとしたら嬉しいと道代は思う。
「そうねえ。遊びに行きたいところだけど、コロナの影響でホームは立ち入り禁止だしね。なんかプレゼントだけでも送ってあげようかと考えてるんだけど」
スマホをいじっている割に文弥の反応は早い。
「ノートパソコンとか、どうかな?」
文弥の意外な提案に道代は首を傾げた。
「おばあちゃんにパソコン?」
「うん。会いに行けないけど、オンラインで顔見て話したり出来るじゃん。スマホも考えたけど、ばあちゃん、目が悪いじゃん。画面ちっちゃいし、月額使用料も高いっしょ。だったらパソコンの方がいいかなって。それに、あそこの建物、ワイ・ファイ無料だし」
道代は感心した。大学やバイト、人付き合いが忙しく、祖母のもとを訪れるのは年に数回というのに、そんなところまで見ていたとは。気が利かないと言われる若者たちは、気付いていないようで気付いていて、見ていないようで見ている。
「そうね、いい考えだと思うんだけど、パソコンて、高いんじゃない?」
「大丈夫。友達にマニアがいてさ、中古だけど一万でいいって。ていうか、もう手配済みなんだけどね」
何事もウジウジと決断力のない父親と違い、なんと仕事の早い息子か。密かに感動しながらも道代は思う。そもそも母はパソコンなど使えるのか。なんせ終戦と同時に生まれた人間だ。息子の優しさは嬉しいが、やはり難しいのではないか。
「でも、パソコンなんて、やっぱり、おばあちゃんには無理じゃない?」
道代は息子の親切に水を差さぬよう気を使いながら言った。しかし、文弥は、つとスマホから視線を上げると、道代の顔を真っ直ぐに見た。
「あのさ、年寄りは自分から年寄りになるんじゃなくて、周りから年寄りにされるんだよ」
「ふうん・・・なんか、いいこと言うじゃん」
道代は、格言めいたことを言う二十歳の息子を多少からかいながら、しかし半ば感心しながら言った。
「とにかく、ばあちゃんのこと馬鹿にしすぎ。あの人、けっこう頭いいからね。それに、ちゃんとクリック一つで繋がるように設定しておくし」
 ―あの人けっこう頭いいから。道代は、その言葉に妙に感動してしまった。我が息子は、遥かに歳の離れた祖母のことを、そんな風に見ていたのか。道代は禿げ頭にシャンプーハットを被って出掛けた吉文の姿を思い浮かべながら、やっぱり自分は、この子と出会うために夫と結婚したのだと、自分に言い聞かせた。

 ノートパソコンの画面いっぱいに、道代の母である峰子の顔が映し出されたのは、それから数日後である。
 文弥の言った通りだった。パソコンを郵送し、ちょっとばかり施設の若い職員に使い方を教えてもらう手間はあったものの、峰子は電源の入れ方と切り方はもちろん、デスクトップのアイコンをクリックすれば繋がるテレビ電話の繋ぎ方も難なく覚えてしまった。
「あら!見えるわよ。文弥も道代も久しぶりねえ」
 峰子は画面に向かって嬉しそうに手を振ってみせる。すっかりシルバーヘアーになったものの、肩のあたりで切りそろえた髪にはちゃんと櫛が通っているし、アイシャドウと口紅の色味も合っている。メイクとトーンの合った春らしいラベンダー色のブラウスの胸元にはパールのネックレスも添えられていた。来月で八十歳になる母は、お洒落を忘れていない。同じ女性として頭が下がる。道代は毎日、何も考えずにパーカーとジーンズを身に着けている自分を少しばかり反省した。
 峰子は三年前、夫―つまり道代の父親―を肺癌で亡くした。道代と、三つ上の兄は、小さな一軒家に一人残された母親の行く末を話し会わなければならないと思いつつも、つい先延ばしにしてきた。しかし、兄弟の心配をよそに、峰子は、さっさと父の建てたマイホームを売却し、都内の介護付き老人ホームへの入居を決めてしまった。老人ホームといっても、ベッドに寝た切りで介護を受けるやつではなく、まだ身体が元気なうちに入居するマンション型の施設だ。露天風呂、高級料理店のシェフが監修する食堂、ピアノやギターのレッスンが受けられる防音室まで完備しているという。峰子は土地を売ったお金と、教師であった夫の残した退職金と保険金を見事に使い果たしてみせた。
「足りなくなったら、よろしく」と、子供たちにも事後承諾だ。道代も兄も頷きざるを得なかった。自由で我儘で、愛嬌だけは人一倍の、母らしいやり方すぎたのだ。
「ばあちゃん、すげえ。もう使いこなしてるじゃん」
ダイニングテーブルで道代の隣に座り、文弥はノートパソコンに映る祖母に向かって親指を立てた。
「インターネットでニュースも見られるようになったわよ」
峰子は文弥の真似をして親指を立ててみせる。
「マジで?すげえな」
これには道代も驚いた。文弥の言うように、母は娘が思う以上に賢い女性なのかもしれない。
「お父さんは変わりない?」
「ああ、親父?相変わらず。いつも、わけ分かんないけど、今のとこ元気だよ」
文弥が笑いながら答える。冗談抜きで夫は訳のわからないことを言う毎日だが、息子の口ぶりは明るい。本当のところはどう思っているのだろうか。
「元気が一番よ。元気がなきゃあ、何にもできないもんね」
「うん。ばあちゃんも元気そうで良かったよ。変わりない?」
「変わんないわよ。あ、この前、お餅を喉に詰まらせて死にそうになったけど」
「え?何それ、ヤバいじゃん」
「そうなのよ。これが私の最後かと思ったけど、なんとか職員さんが掃除機で吸い出してくれたの」
峰子はバナナの皮を剥きながら呑気に言う。これには思わず道代が口を挟んだ。
「どういうこと?わたし聞いてないけど」
「うん。言ってないから」
あっけらかんとした峰子の物言いに、心の奥が苛立った。そうだ、この人は昔からこうだ。自分の物差しと物語が全て。悪気の無さと彼女の自由さが、周囲の人を混乱させているのに、そのことを知ろうともしない。今の施設に入る時だってそうだ。道代や兄に迷惑をかけずに自分の人生を終える準備をしたかったのは分かる。しかし、家族が生まれ育った土地を売ることに、一言、相談くらいしてくれても良かったのではないか。子供には子供なりの、親を看取ることについて、少しは考えがあったのだから。
「あはは。ばあちゃんは餅が好きだもんなあ。でも、気を付けないとね・・・あ、ごめん友達から連絡入ったから、またね」
笑いながら、文弥はスマホを手に、さっさと自分の部屋に消えてしまった。祖母の誕生日祝いのテレビ電話ではなかったのか。祖母も祖母なら孫も孫だ。
「とにかく、お母さん、本当に気をつけてよね」
文弥がいなくなってしまうと、道代は半ば怒ったように、パソコンの画面に映った母親に言った。
「はあい」
バナナを食べ終えた峰子の気の抜けた返事が道代の気持ちを逆撫でする。
「笑いごとじゃないんだからね」
「はい、はい、すみません。道代さんの言う通りです」
道代は思わずカチンときた。
「お母さんさ、昔から思ってたけど、そういう人を小馬鹿にした感じ、良くないよ」
年をとった母親の誕生日だ。直接会うことも、ままならない時勢に、わざわざインターネットを介し、わざわざ喧嘩をするために顔を合わせたわけではない。しかし、分ってはいても道代は尖った声を隠せない。姑なら我慢して笑顔を取り繕い、時間薬に頼ろうと思うのだが、実の親子というのは遠慮がない分タチが悪い。言い出したら互いに止まることを知らない。
「あら、じゃあ言わせてもらうけど、あんたの、その何でも詰問するような言い方も嫌だわ。あんたはね、我慢を知らないの」
「は?お母さんに言われたくないわね。安定した旦那のもとで不自由なく生きて来て、老後は子供に相談もせずに、お金を使い果たして自由の身。気楽なもんよね。悪いけど、私がしてきた我慢なんて、お母さんには分からないよ」
道代は、年老いた母親に対して大人気ないと思いながらも、言えば言うほど腹立ちが収まらない。自分はずっと我慢してきたのだ。結婚して、文弥を産んでからずっと。滅茶苦茶なことばかり言う夫に言いたいことの半分も言えず、ただ、この決して贅沢ではない家庭を守るためだけに我慢してきたのだ。
「我慢、我慢て、うるさいわね。何でも人のせいにするもんじゃないわ。とにかく気を付けなさい。あんたは強情すぎるのよ。昭和の男みたいなんだから」
「何よ、それ!お母さんの言ってること全然わかんない!とにかく今日は切るから。身体に気を付けて」
 強引に通話を打ち切った。せっかく文弥がセッティングしてくれた誕生日なのに後味が悪いが、カッカとして興奮が収まらない。母は一体、何を言っているのだろう。私の我慢が足りない?人のせいにしている?揚句には私が昭和の男?それは全部、そっくりそのまま夫のことだ。母は何も分かってないのだ。
 それでも道代は、ずいぶん長い間、峰子の顔が消えたモニターを見つめたままでいた。自分は峰子の言葉の何を気にしているのだろう。
 夕飯の支度をしなければならない時間だと思いながらも、椅子から立ち上がることができない。背中に迫る西日が強くなっていた。
 ステイ・ホーム、自粛、テレワーク、命を守る・・・?毎日、毎日、どことも言えない何かが疲れていた。道代は、なんだか急速に、何もかもが面倒だという気分になっていた。
 

 とうとうマスクが底をつきそうだ。あと十枚。除菌スプレーをして三回使ったとしても、家族三人だと一週間程しかもたない。薬屋でたまたま幸運に巡り合う機会もめっきり減った。ネットは粗悪品が届いたり、中にはマスクと全く違うものが届いたりする詐欺が横行しているというから怖い。それに道代は昔から肌が弱く、皮膚に触れるものには慎重だ。どこで作ったかも分からないマスクなんて、つけない方がましだ。とはいえ、ここ最近はマスクをつけないのは非国民だといわれている気がして、つけないわけにもいかない。国が一世帯二枚の布マスクを配布してくれるというが、不良品が相次いでいるとかいう話で、いつ届くかも分からない。しかも届いたところで、文弥は、あんなものダサいので使わないと言う。いざとなったらバンダナでも巻いて歩くとまで言うのだ。というのも、配布予定のマスクは、若者に人気の大きめサイズではなく、いつか教科書で見たナイチンゲールがつけていたような小ぶりのマスクだからだ。恰好をつけたい年頃なので気持ちは分かるが、バンダナで顔半分を覆うというのは外国のギャングみたいだ。出来たらやめてほしい。
 吉文はといえば、既に布マスクへの移行を考えているようで、マスクの洗い方を調べ上げ、洗剤の濃度までメモっている。自分でやるのなら良いが、どうせ道代に全てまかせ、その割には自分の言ったやり方がきちんと実践されているか、いちいち聞いてくるに違いない。考えるだけで鬱陶しい。
 吉文は今日もソファに座ってテレビ画面に向き合い、政府に対して、ああでもない、こうでもないと言っている。リビングは、すっかり吉文に占拠されてしまった。平日はテレワーク、今日のように休日となると一日中テレビに張り付いている。
 道代は、当てつけのようにフルパワーにして掃除機をかけてやる。テレビの音が聞こえなくなったのだろう。吉文が、しかめっ面でこちらを見たが構わずに続ける。部屋の隅から隅までしつこく掃除機をかけまくってやった。道代は掃除機を床に擦りつけながら、胸の内で夫の横顔に毒づいた。どうだ、満足か。徹底的に清潔にしろと言ったのは、そっちだからね。
 掃除機のスイッチを切ると、額から妙に冷たい汗が滑り落ちてきた。あ、来るなと思ったと同時に、心臓の奥がバクッと大きく波打った。続いて小さな波打ちが次々と胸に押し寄せる。道代はパニックにならないよう必死に深呼吸を繰り返した。一体、自分の身体はどうしてしまったのだろう。五十を過ぎると女の身体は、こんな風に悲鳴を上げ始めるのか。言いようのない不安が襲ってきた。
「おい、テレビの後ろから埃が見えてるぞ」
道代の混乱など知るはずもない吉文は、ソファから立ち上り、咎めるように道代を見た。道代から掃除機を奪い、埃を吸い取ると、これ見よがしに鼻から息を吐き出し、再びテレビに向き直った。
 夫の狸のような後ろ姿を見ていたら、道代は思わず叫び出したくなった。恐い。嫌だ。強烈に、そう思った。自分は、このまま不満と不安だけを胸に詰め込み、ときめきとも、セックスからも離れ、生理不順に怯えながら、女としての終着点を一人歩んでいくのか。
 と、インターホンの音。すっと冷静な自分が戻ってくる。良かった、と道代は思った。殺意といえば、もちろん大袈裟なのだが、溜まりに溜まった苛立ちは、どんな形をとって暴発するか、最近、自信を失いつつある。
 吉文は珍しく機敏に立ち上がると、道代を押しのけ、カウンターキッチンの横にある玄関モニターのボタンを押した。慣れない手つきでエントランス扉の開錠ボタンを押すと、すぐさま小走りに玄関へと向かった。いつもなら、家の電話がなろうが、インターホンの音がしようが、誰かが対応してくれるものと石像のように動かない吉文の動きを  
 不審に思い、道代は、後ろをついていった。
 吉文は、玄関先で配達員からダンボール箱を受け取ると、満足そうに道代の方を振り向いた。さっきまで不機嫌な顔をして道代の掃除にケチをつけていたというのに、一体なんだというのだろう。道代は嫌な予感がした。
案の定、吉文がカッターで開けたダンボールの中身に、道代は愕然とした。
「どうだ。マスクだけだと心配だろう。それに、これは簡単に洗って何度だって使えるからな」
「なに、それ・・・」
「フェイスシールドだ」
顔の全面を透明プラスチックのカバーで覆い、唾液などの飛散を防ぐという代物だ。一体、一歩たりとも外へ出ない夫は、こんなものをつける必要性をなぜ感じたのだろう。
「ただいまあ」
ランニングから帰ってきた文弥がリビングの扉を開け、こちらへ入ってきた。すぐに文弥の視線が止まった。もちろん、父親の顔についた見慣れない代物に、だ。
「親父・・・何つけてんの」
「お前も知ってるだろう。フェィスシールドだ。マスクの入手も困難、巷では出所もわからない高額だったり粗悪なマスクが出回っているだろう。それなら、こっちのほうがいい。洗って何度だって使えるからな。コロナの重要感染経路の一つが飛沫感染だ。お母さんも文弥も外出するときは、これをつけて歩け」
吉文はダンボールからフェイスシールドなるものを更に二つ取り出した。三人分買ったのか・・・。道代はテレワークの功罪を思った。夫はパソコンに疎い典型的な昭和のオジさんだ。ネットの買い物イコール詐欺くらいの偏見を抱いていた男だ。しかし、いよいよネットの力なしでは仕事が立ち行かなくなった今、息子の助けもあって、元来、生真面目な吉文は、急速にネットアレルギーを克服しつつあった。それはそれで悪くないことだが、まさかネットに馴染んだ最初の功績がこの買い物とは。
「は?なんだよ、それ。ダサすぎ、ていうか機動隊かよ。嫌だからな、絶対、嫌だからな!そんなもんつけて歩けるかよ」
 文弥は父親の手渡そうとするフェィスシールドをひたすら拒否する。それはそうだろうと道代は思う。伊部さんの配る布マスクも恥ずかしいという若い男の子が、こんなものをつけて歩けるはずがない。
「恰好つけている場合じゃない。命が懸かっているんだぞ!」
吉文の語気が荒くなる。それでも文弥は従わない。
「嫌なもんは嫌だ!」
「ねえ、お父さん、警戒するのは分かるけど・・・」
道代が間に立って仲裁しようとするも、吉文は、おもむろにダンボール箱の中へ手を突っ込んだ。道代と文弥は思わず目を見合わせた。まだ何かあるのか。
吉文は半透明のビニールで出来た雨合羽のような物を広げて見せた。
「これならどうだ。洋服へのウィルスの付着を避けられる。防護服とまではいかないがな」
「これも三人分・・・?」
恐る恐る尋ねる息子に父親は自信満々に答える。
「当たり前だろう」
もはや返す言葉を持たない文弥は、諦めたように項垂れた。しかし、道代は拳を握りしめていた。脳の奥で何かが弾ける音がした。
「ふざけないでよ」
思わず声が出ていた。その声は、自分でもそうと分かるほどの怒気が漲っていた。
「黙って付き合ってれば言い気になって」
「な、なんだよ」
道代の思わぬ剣幕に吉文が警戒心を露わに後退る。咄嗟に我が身を守ろうとするその態度が、さらに道代の怒りに火を付けた。
「家に居ればテレビに向かって悪口ばっかり。あのさ、言っとくけど、誰もあなたの意見なんか聞いてないし、聞こえてないから!おまけに外に出ればシャンプーハットにゴーグルとフェイスシールド、それに雨合羽?どんだけ怯えてんのよ!どんだけ助かりたいのよ!麻里ちゃんとこの旦那さんはね、何があっても家族を食べさせるって言ってるの。絶対、どうにかするって。家族守ろうって必死なんだよ!あなたはさ、一回だって、そういう気持ちになったことある?」
吉文は、正に鳩に豆鉄砲、口を開けたまま尋常ではない妻の怒りに為す術もないといった様子だ。文弥も意外な展開に完全に固まっている。それでも道代の怒りは止まらない。
「もう、たくさん!」
言えば言うほど興奮し、爆発した感情の出口はなくなる。道代はリビングの扉を乱暴に開け、寝室に入ると、ドレッサーの鏡扉を開け、生涯出すことはないだろうと半ば諦めていたそれを掴みだし、吉文の前に叩きつけた。
「なんだよ・・・」
吉文は身体をのけぞらせ、テーブルの上に置かれたそれを見た。
「見れば分かるでしょう」
そう、見れば分かる。一番上に、大きな字で書いてある。離婚届けと。
この三十年間、悩んでは持ち直し、決断しては考え直して、これを夫の前に突きつけることだけは避けてきた。それでも、サインを書き、実印を押した離婚届の眺めは、家庭に埋もれていく自分の最後の砦のようで、ドレッサーの中に、お守り代わりのようにしまっていた。でも、もう、どうでもいい。熟年離婚も、貧乏も、孤独も、全部、受け入れてやろうじゃないか。
「あ、あのさ、とにかく母ちゃん、落ち着きなよ」
声すら発しない吉文の代りに文弥が恐る恐る道代に言った。
「あのね、文弥、あんたも二十歳。もう大人よ。自分の人生なんだから好きなように生きたらいいと思ってる。だから、お母さんもね、好きなように生きる。もう我慢したくない」
「そんな・・・俺、まだ二年間、大学に通わなきゃなんないし」
「心配しなさんな。あんたの学費は最後まで面倒見るわよ。その代わり、自分の住み家は自分で探しなさい」
「あ、そういうこと。じゃあ、まあ・・・仕方ないか」
かなり、あっさりと引き下がる息子を吉文は絶望の面持ちで見ている。
言い終えると、ふいに道代は涙ぐんでいる自分に気づいた。こんな風にしてしか自分の気持ちを表明できない自分が、卑怯で、情けなく思えてきた。三十年、自分は一体何をして、何を我慢してきたのだろう。
「・・・本気か」
三人分のフェイスシールドと防護服の入ったダンボール箱の前に立ちつくし、吉文は消え入りそうな声で言った。
「ごめんなさい」
なぜ謝ったのだろう。自分でも分からないが、道代は吉文の顔を真っ直ぐに見て言った。
 吉文は、しばらく黙って道代の顔を見たままでいたが、諦めたように小さく頷いた。


 麻里ちゃんから電話があった。普段ならラインなのに電話だ。すぐに重要な話だろうと思った。彼女は、今から駅前で会えないかと言った。ちょうど昼ごはんの支度を終えたところで都合は良い。
 例によって吉文はリビングで在宅勤務中である。離婚届けを突き付けてから吉文とは一度も口をきいていない。リビングは息苦しいほど気詰まりで、麻里ちゃんの誘いは願ってもないことだった。彼女の透き通るような少女っぽい声が、どこか静けさをもっていることに、不安を覚えてはいたが。
 三十分後、道代は彼女と駅前で落ち合い、いつもの店へ行った。しかし、木扉の飾り窓に明かりはなく、代わりに張り紙が貼られていた。

「この度、閉店の運びとなりました。
長い間のご愛顧を誠に有難うございました。
新型コロナの感染拡大の折、皆様の健康を切にお祈りしております。」
 
 別に毎日通っていた店でも、特別店主と親しいわけでもない。でも、胸の奥が哀しかった。この店がオープンしたのは文弥が生まれてすぐだったから、もう二十年前のことだ。時には麻里ちゃんと、時には家族で、いつだったか遊びに来ていた母の峰子と訪れたこともあった。たくさんの時間が、ふいに奪われてしまったような寂しさを感じた。
コンビニでアイスコーヒーを買って、駅前広場のベンチに二人で腰かけた。公園にでも行こうと思ったが、感染拡大を防ぐという理由で、遊具には立ち入り禁止のテープが貼られていて、のんびりベンチで話せるような雰囲気ではない。
「旦那の田舎に帰ることになったよ」
麻里ちゃんは水滴の湧き出たアイスコーヒーのカップをハンカチで拭いながら言った。
四月中旬にしては初夏を思わせる空の高さと暖かさだ。彼女のカップの中の氷は、次々と角を無くしながら黒い液体の底へと崩れ落ちていく。
「どうしたの?」
道代は、どこか空々しい平静を装いながら訊いた。麻里ちゃんの言葉の意味を分かってはいても、分かりたくない気持ちの方が勝っていた。
「旦那の会社、駄目だった。もともと赤字が続いていたらしいんだけど、コロナの影響で、とどめを刺された感じみたい。老舗ホテルとはいえ、どっか殿様商売のとこもあったのかな。新しいことをしてこなかったせいだって旦那は言ってた」
「そうなんだ」
道代は、そう言うしかできない。こんな時に、気の利いたことを言う経験も、そして無神経も、自分は持ち合わせていない。
「でも、まだラッキーだったよ。旦那の地元の友達が有名な運送屋を経営していてね。有難いことに手伝わないかって言ってくれてるの。こんな世の中でも物流は大忙しだからね。五十過ぎた元ホテルマンが力仕事なんて、ちょっと不安だけど、とにかくやってみるしかないもんね」
麻里ちゃんは自分に言い聞かせるように話しながら、ふいに沈黙したかと思うと「でも、正直、まいったなあ」
と笑った。そして眩しそうに空を見上げながら続けた。
「本当は、腐っても一部上場だって、どこかで高を括ってた。旦那は、ちゃんと定年まで勤め上げて、退職金もらって、息子が孫でも連れてきて、それなりのことはしてやれるくらいの老後を勝手に想像してた。本当に人生って、どうなるか分かんないんだね」
道代は返す言葉もない代わりに、自分でも意外なことを口走っていた。
「私ね、離婚するかも」
「え?」
今度は麻里ちゃんが驚き顔で道代の顔を見る番だ。
「一体どうしたのよ」
「うーん、自分でも、どうしたのか分からない。よくある長年の積み重ねってやつ?」
「考え直せないの?」
「多分」
「そうなんだ」
麻里ちゃんも、返す言葉が思い浮かばないようだ。
しばらく、二人とも言葉も交わさず陽光にきらめく噴水の飛沫をただ眺めていた。
と、麻里ちゃんが呟くように言った。
「なんか、すっかり変わったね」
道代は麻里ちゃんの言わんとしていることが不思議と分かって頷いた。彼女が変わったと言っているものは、きっと、この世界の眺めだ。いつの間にか、町から子供が消え、学生服が消え、賑やかな声が消えた。その代わりに、デリバリー専門のフレバー・イーツのロゴが入った大きなリュックを背負う男性が増えた。次の配達依頼を待っているのだろう、路上に自転車を止め、ひたすらスマートフォンを見ている。そんな人が何人もいる。中には後ろにチャイルドシートをつけたままの自転車もある。
 道代は思った。幸い、自分の近くにコロナに感染したという人はいない。しかし、明日を失ってしまった人は、隣にいる。


 小石原家は奇妙な静寂に包まれていた。家族は黙って食事を取るのが当たり前になった。いつの間にか吉文はテレビに向かって文句を言わなくなり、仕事以外は黙って本を読んで過ごすようになった。  
 友弥は自室でゲームをしているか、夜な夜な彼女とオンラインアプリを使い、ヒソヒソと話しているようだ。
道代は寝室でひたすら求人広告を見るのが習慣になった。もっとも、専業主婦歴二十年、しかもこのご時世の中で、ありつけそうな仕事といったら肉体労働しかない。
今日も道代は溜息を吐いていた。やっぱり年金が出るまでは我慢して、今の状態で居るべきだろうか。我慢なんて、ずっとしてきたではないか。年金がもらえるまであと八年。長いが、今までのことを思えば、ほんの一時だ。いや、そんなことをして自分は幸せなのか。ちょっとずつガタが来はじめてはいるとはいえ、まだまだ元気に動き回れるし、少し痩せて、お洒落をすれば、見た目だって何とかなる。今、動かなかったら一生、後悔するのではないか。いや、逆に今動いたら一生、後悔する可能性だってあるか・・・。道代の思考は毎日、堂々巡りだ。
 長い間見ていたら、広告の細かい字が二重になって見えてきた。老眼だろうか。これでは事務仕事は無理だ。いや、そもそもパソコンもろくに使えないのだから老眼以前の問題か。
 道代はベッドの上に、どさりと仰向けになった。いったい人は何歳から未来への希望を失くすのだろう。
昨日、麻里ちゃんは旦那さんと新潟へと旅立った。ラインに「行ってきます!美味しいお米を送るね」と、まるで、ちょっと旅行に行ってくるかのような、何とも彼女らしい簡素なメッセージが入っていた。彼女が「ただいま」と戻って来られる日があるのなら、それは自分たちが何歳になったときだろう。それは誰にも分からないことだが、道代は、何歳になってもいいから、また一緒に苺ケーキを食べたいと切に思った。
「母ちゃん!金ちょうだい!」
感慨にふけっていると、突然、文弥が部屋に飛び込んできた。
「なによ、いきなり」
「マスク売ってるって。中国製だけど、ちゃんとしたやつ」
「え?」
道代は思わず身体を起こした。とうとう我が家のマスクは底をついた。伊部総理の経済政策であるイベノミクスにちなみ、イベノマスクと揶揄される政府からのマスクは未だ届かない。マスクは喉から手が出るほど欲しい。もちろん安全な物が。
「福次郎薬局?ウメキヨ?」
聞きながら道代は身支度を始めた。どうせ一人一個しか買えないのだから一緒に行かなければ。
「あ、母ちゃんはいいよ。俺だけバイクで行ってくる」
「だって一人一個でしょう」
「それが何個買ってもいいんだって」
「なにそれ、一体どこに行くの?」
「新大久保」
新大久保といえば新宿に程近い歓楽街だ。確か、たくさんの韓国人が商売をしている街だ。どうして、そんなところにマスクがあるのだろう。
「ばあちゃんの話によると、最近、中国の工場が動き始めたんだって。こっちで商売やってる韓国の人って中国の商社と太いパイプがあるから、優先してどんどん流してくれるらしいよ」
「ちょっと、あんた今、ばあちゃんて言った?」
「そうそう。ばあちゃんからの情報。さっきテレビ電話で教えてくれた」
「なんで、おばあちゃんがそんなこと知ってるの」
「ホームの職員に韓国出身の女の子がいて、時々、お菓子をあげてたら仲良くなって、こっそり教えてくれたんだって」
この間、きつい言い方をして電話を切ったから、母も気にしているのではないかと思っていたが、どうやら彼女は、そんなにヤワではないらしい。
「一箱五十枚入りで二千円だって。まあ、安くはないけど、このご時世ならね。とりあえず五箱でいいかな?ばあちゃんの分も五箱、頼まれてるから建て替えてくれって」
話は理解したが、道代は腑に落ちない。
「おばあちゃんも五箱?二百五十枚も必要なの?」
「同じ施設の人も困ってるからって」
道代は、ぎょっとした。
「転売するんじゃないでしょうね?」
「まさか。ただであげるんだって」
「どうして、そんなこと・・・」
「みんなが困っている物を分け与えてこそ意味があるんだとか言ってたよ」
「ふうん。ずいぶん立派な考えだこと」
この間の恨みもあり、道代は鼻白んで言った。
「いや、ばあちゃんがそんなマザーテレサみたいなことするわけないじゃん。言ってたよ。今の世の中、マスクは実弾なんだって。打てる時に実弾を打っておけば、いずれ自分の利益になって帰ってくるんだってさ」
なるほど、と道代はようやく合点がいった。魂胆のあるのが峰子という人間だ。
「ま、なんだかんだ言ってるけど、要は、ばあちゃんは活躍したいだけだと思うけどね。好きなんだよ、人を喜ばせるのが」
文弥は自分なんかより、よほど峰子のことを分かっているらしい。道代は、老人ホームに入ろうと大いに人生を楽しんでいる峰子の姿を思い、求人広告を見て、うじうじと思い悩んでいた自分が急に馬鹿らしく思えた。
「とにかく行ってくるから」
道代から受け取った金を財布に捻じ込むと、文弥は慌ただしく玄関に向かった。
「ちょっと待て」
文弥が玄関の扉に手をかけた時だった。吉文が文弥を呼び止めた。また面倒くさいことでも言ってくるのかと、道代と文弥は思わず目を見合わせた。
「何?フェイスシールドなら、いらないよ」
文弥は、恐る恐る吉文の顔を見上げた
「これ、つけていけ」
吉文は文弥の手に、ふわりと何か白い物を置いた。見ると、布製のマスクだった。
「まさか、親父が作ったの?」
「無駄になりそうだけどな。まあ、今日だけでも使え」
吉文は道代にも同じものを手渡すと、再び自分の城であるリビングに戻っていった。
「すげえ完成度」
文弥はマスクをしげしげと広げて見た。確かに、表面には丁寧にアイロンがけされたプリーツが重なり、裏も真っ直ぐで均一な縫い目が並んでいる。マスクと耳ひもを繋ぐ部分は、しっかりとステッチ縫いが施されている。売り物と見紛うほどの完成度だ。それなのに、吉文は、やはりタイミングが悪い・・・。
 道代の胸に、ふと遠い記憶が蘇った。そう、吉文は手先が器用だ。道代はといえば、料理も裁縫も掃除も、細かな気遣いも、本当は、何もかも苦手だ。ただ女に生まれ、昭和の男の妻になり、母親となって、仕方なしにやってきた。おおよそ女らしいと言われることの、ほとんどが苦手なのだ。

 あれは、吉文との三回目のデートの時。道代の誕生日だった。新調したブルーの小花柄のスカートをはいて、数時間かけてメイクも頑張った。しかし、あまりに綺麗な色のそのスカートは、ちょっとウエストが細いのに見栄を張って買ったものだ。その無理が不幸を招いた。予約したレストランに行くために、タクシーに乗り込んだ時だった。嫌な音がした。明らかに布が裂ける音。ファスナーの縫い目が道代の隠していた贅肉の勢いを受け止めきれず、お尻の上あたりまで破れてしまったのだ。吉文も、それどころか運転手さえも道代の異変に気が付いている。もう、お終いだ。二度とこの人とは会うまい。泣き出しそうになっていたら、吉文は、突然タクシーを止め、目の前にある小さなスーパーに入っていった。訳の分からないまま後ろをついていく道代に構わず、吉文は店員にソーイングセットの在りかを訪ね、道代を、おばちゃんぽい服が並ぶ婦人服売り場の更衣室に押し込むと、スカートを脱げと言った。恥も外聞も捨て、カーテンの隙間から敗れたスカートを出すと、十分ほどして、そっとカーテンの端が開き、スカートを持った吉文の手が差し込まれてきた。応急処置とはいえ、スカートは元通りになっていた。ウエストのホックの位置も変わっていて、はいてみると、お腹に食い込まなくなっている。これなら、ちょっと食べすぎても大丈夫そうだ。吉文の縫ってくれた鏡に映る自分の姿を見ていたら、タクシーの中とは違う涙が出そうになっている自分に戸惑った。
 
 しかし、と道代は思う。昔は昔。感慨は感慨。夫とは離婚すると決めたのだ。ふうっと息を吐き、気持ちを入れ替えた。と、下駄箱の上に置かれた文弥の財布に目が止まった。あの子・・・。あんなに張り切ってマスクを買いに出かけたというのに財布を忘れるとは。道代は財布をつかみとり、サンダルを履くと外に飛び出した。
「文弥!」
けたたましいエンジン音と共にヘルメットのベルトを締める息子を大声で呼び止めた。
「相変わらずね。あんた、肝心なところが抜けてるのよ」
道代は文弥に財布を渡した。
「やべえ。やっぱ親父と似てるのかな」
そう言って笑うと、文弥は颯爽とバイクに跨り、あっと言う間に逞しいその後ろ姿は小さくなっていた。
 道代は二十歳になる息子の後ろ姿を見送りながら、またもあの日のことを思い出した。
 年若い道代と吉文はタクシーに乗って、道代のスカートが破れて、吉文がソーイングセットで繕ってくれて、無事に憧れのレストランで食事を済ませた。しかし、なんと吉文は会計の段になって、財布を持っていなかったのだ。スーパーでソーイングセットを買ったのだから、確かに、その時まで彼は財布を持っていたのに。
 高級レストランのレジの前で、吉文は文字通り慌てふためいた。落としたのか、盗まれたのか。今でも真相は分からない。ともかく道代がクレジットカードで支払った。近くの交番で遺失物届けを出し、びっくりするくらい落ち込む吉文の横顔を見ていたら、ふいに道代の胸に笑いが込み上げてきた。よく分からないが、とにかく、おかしくて仕方がなくて、笑えば笑うほど、おかしかった。傷ついた吉文は、そんな道代を不思議そうに見ながら、それでも一緒に笑うでもなく、大真面目な顔で俯くばかりだった。
 道代は、遠い記憶を思い描きながら、なぜか峰子のことを思った。独自のルートでマスクを仕入れ、得意げに隣近所へマスクを配り歩く逞しく明るい峰子。そして、彼女がこの間、道代に言い放った言葉。

あんたは男みたいだから。

 心のどこかが納得していた。そうか、私は男なのか。夫は、細かくて、女々しくて、臆病で、麻里ちゃんの旦那さんとは比べ物にもならない。でも、それは、そういうことなのだ。ただ、そういうことなのだと。
 文弥の後ろ姿を見届け、家に戻ったら、プリンが食べたくなった。冷蔵庫を開け、白い箱を取り出した。京都の老舗から取り寄せたものだ。大切に蓋を開けると、なんとも高級そうな瓶に入ったプリンが並んでいる。
 道代は、ふと真っ暗なテレビの前で頑なに本を読んでいる吉文の後ろ姿を見た。相変わらずの禿げ頭だ。やっぱり許す気にはならない。そう思いながらも声をかけていた。
「プリン食べる?」
 吉文は、読んでいた本から視線を上げると、道代の顔を見た。幼い日、悪戯をして怒られ、やっと許してもらった時に文弥が見せた表情と良く似ているのが可笑しかった。もっとも、そんなに可愛いものではないが。
 普段、甘い物なんか食べない吉文は、本を閉じて立ち上がると、食卓についた。









 

FASE-3 箱入れ娘

 警察官が家に来た。ニュースで持ちきりのマスク男についての捜査であるらしい。竹下真由子は驚愕した。新型コロナ・ウィルスに罹患し、隔離措置下にいたものの、病院を抜け出し、街中を駆け回ったというマスク男が、なんと自分と同じマンションの住人だというのだ。
 信じられない行動をしたマスク男だが、彼を取り締まる法律はなく、もちろん犯罪者でもない。真由子の家を訪れた警察官は、そんな微妙な案件での聞き込みだからなのか、極力彼の個人情報を明かさないように話をしていたが、マスク男がこのマンションに暮らしている男であることは、瞬く間に近所に知れ渡った。
 竹下真由子は、マスク男と呼ばれる、ちょうど二階隔てた真上に住む彼の顔を懸命に思い出そうとした。まだ年若く、そして背丈の小さな男という記憶はあるが、その顔の輪郭は曖昧だ。というのも、このコロナ騒ぎがある前から、彼はいつもマスクで顔の半分を覆っていたからだ。六十五歳になる真由子からみても、生命力が弱い、男性的な魅力に乏しい男に見えた。
そんなマスク男のことについて、詳しい事情など知る由もない真由子に、警察官は根掘り葉掘り尋ねた。そのしつこさにやっと解放され、一息ついた時だ。
「ただいま」
 玄関から声が聞こえた。娘の真宙(まひろ)が、孫娘を連れて戻ってきた。数日前に電話をもらってはいたが、やはり真由子の気持ちは重くなった。
 ベランダから見下ろす桜並木が、可憐な花びらを落とし始めている。そんな美しい季節に、真宙は、結婚三年目にして離婚してしまった。真宙は先月、三十五歳になった。
昨日、日本では緊急事態宣言なるものが発令された。今年の暮れから中国で流行り出した新型コロナ・ウィルスのせいだ。ひどい肺炎を引き起こし、時には死んでしまうこともあるというそのウィルスは、あっという間に世界に広がってしまった。コロナの感染を抑えるべく、どの国の人も不要不急の外出を避け、家に居ることを求められるようになった。特に被害の大きい欧米諸国は都市封鎖を行いテレビ画面に映し出される町は、まさにゴーストタウンだ。オイルショック、バブル、リーマンショック、大震災と、今年で六十五歳になる真由子は、数々の時代の荒波を目の当たりにしてきたが、緊急事態宣言などという物騒な言葉を聞くのは生まれて初めてだった。
 ともかく娘の真宙は、そんな大変な時に出戻り娘になってしまった。しかも半年前に真由子の夫が癌で亡くなったところだ。今年は真由子にとって、まさに不運の当たり年だった。
 
 十二畳のリビングダイニング、四畳半と六畳の二部屋。この家を買ったあの頃は、娘の真宙も、年子の兄である優(ゆう)大(だい)もまだ小学生だった。いずれ二人が大きくなれば手狭になることは分かっていたが、まだ四十歳になったばかりの夫婦にとっては、ぎりぎりの買い物だった。千葉県とはいえ都心へのアクセスはすこぶる良いし、五階建て、どの部屋も陽当たり良好、しかも憧れのウォークインクローゼットがついていた。なんといっても、十分もバスに乗れば夢の国デスティニーランドだ。子供たちは大喜びだった。近くに学校や大きな公園もあり、スーパーや飲食店もほどほどに多く、大人も子供も暮らしやすそうな町だった。真由子たち夫婦は、そのマンションの二階の一室に、家を持つ決心をした。最上階は無理だったが、同じ階でも少し値の張る角部屋だ。小さいながら玄関には専用のポーチがついていて、遠い将来、つまり自分たち夫婦がこの世を去った時、子供たちへ少しでも資産価値を残してやれるかもしれない。その日を信じ、せっせとローンを払い続けた。
 そうして実際に時が経ち、子供たちは無事に独立した。長男の優大は三流私大とはいえ四大を出て、しばらくはフラフラとしたものの、無事に小さな商事会社に就職すると、その大らかな性格故か、顔の割には美人の嫁をもらい、今では三児の父親となった。妹の真宙は、兄と違って成績優秀で、名の知れた国立大を出ると地方銀行に入行した。控えめすぎる性格を心配していたが、三十二歳の時、無事に結婚し、長女をもうけた。
 いよいよ夫婦二人の老後が訪れるのだと思っていた矢先、定年退職を間近に控えた夫の身体に胃癌が見つかった。医者が初期だと言った癌は、胃の三分の二を切り取る摘出術の後、びっくりするくらいのスピードで夫の身体のあちこちを食いつくした。かつてアメフトで鍛えた夫の身体は、棺の中に敷き詰められた花の中で、なんとも小さくなって横たわっていた。今年の暮れのことである。  
 夫と同い年の真由子は、思っていたより早く未亡人になった。さほど長生きではない夫の家系を思うと、いつかのことは覚悟していたが、さすがに六十代でこんな日が来るとは思わなかった。喪失感はさることながら、これから一人で生きていく時間を思うと怖かった。しかも、ついこの間、市から高齢者ガイドブックなるものがポストに届いた。他人事と思っていた言葉が自分自身を表すそれであるのかと思うと、何か強烈に叫び出したかった。私は高齢者なんかじゃない。年寄りなんかじゃないと。しかし、夫がこの世を去り、一人残された自分自身は確かにもう若いとは言えない。99.9%新しいパートナーと出会うこともないだろう。夫が亡くなることによって、突如残された時間の少なさを突き付けられた真由子は、言い様のない焦燥感を覚えた。自分に残された時間はあとどのくらいだろう。二十年?いや、ひょっとすると十年?それより身体が自由でいられる時間は一体どのくらいだろう。不自由な身体になり、子供たちに迷惑をかけるくらいなら、夫のようにさっさと死んでしまいたい。残された時間は短ければ怖く、長くてもやっぱり怖い。
 近頃は、夫との二十代の頃の思い出を振り返ることが多い。いつの間にか自分は、未来を思い描く代りに、過ぎた過去を盆栽のように眺めては、ああでもない、こうでもないと、いじくる歳になってしまった。これから静かに時間は流れ、自分は老人になっていく・・・。そんな風に少しばかり感傷的になっていた折である。まさか娘の真宙が離婚し、孫娘を連れてこの家に戻ってくるとは。しかも、出来の悪い優大ではなく、真宙が。
 真宙は幼い頃から問題を起こさず、誰からも優等生の判子をもらえる娘だった。しかし、一つ気になることがあるといえば、親の贔屓目に見ても地味な子だということだ。要は人目を引く容姿でなく、目鼻立ちのはっきりした真由子や夫の顔を見ると、訝しささえ抱くほど、どちらにも似ていないのだ。ところが遺伝とは不思議なもので、夫の側の親戚に真宙と瓜二つの人がいた。舅の妹である。結核を患い、若くしてこの世を去ってしまったという彼女と、真由子は会ったことはないが、写真を見せられた時は驚いたものだ。一筆書きで描いたようなさっぱりした顔は、真宙そのもので、真由子はそのモノクロ写真を不思議な思いで何度も見返した。しかも、親戚の中では飛びぬけて頭が良く、当時には珍しく女子師範学校で学んでいたというから、頭脳明晰なのも真宙に似ているらしい。
 優秀なのは大いに結構なのだが、真由子は娘の行く末が少し心配だった。母親から見ても、真宙には今一つ女の子としての可愛らしさのようなものが足りないのだ。同世代の子と比べ、お洒落に疎く、性格は引っ込み事案、無口で無表情だった。地味な顔立ちに優秀な頭と愛嬌のなさ。とてもじゃないが男性受けが良いとは思えなかった。学生時代から特別親しい友達もいないようだったし、ましてや彼氏を家に連れて来たこともない。夕方の決まった時間になると帰宅し、テレビにも音楽にも、読書にも没頭することなく、これまた決まった時間になると布団に入って寝てしまった。朝になれば、目覚ましなどなくとも時間通りに起きて朝食をとり、学校へ出掛けて行った。就職しても真宙のスタイルは変わらなかった。不真面目よりは良いが、二十歳を過ぎたあたりから、真由子は本気で娘の将来を案じるようになった。
 ところが、である。三十二歳のある日、なんと真宙は家に男性を連れてきたのだ。しかも、とても素敵な男性を。松坂東二。快活で人当りが良く、なかなかの男前だ。おまけに、真宙と同期入社だという彼は、彼女と同じ国立大学を出たエリートで、銀行員としての将来も期待されていた。真由子は自分の心配が杞憂に過ぎなかったことに安堵した。そして、もう一つ嬉しい知らせがあった。真宙のお腹には、すでに赤ちゃんがいたのだ。夫は順番が違うと怒ったが、真由子にとったら、さしたる問題ではなかった。それよりも、真宙が若い娘らしく、ちゃんと恋愛をし、素敵な男性を捕まえてきたことが、嬉しくてならなかった。
 それなのに真宙は結婚三年目にして離婚してしまった。親からみたら問題ない夫婦に見えたが、我が子とはいえ人様だ。本当のところは、どういう夫婦生活だったのかは分からない。

 ジジっと短い音がした。
「よし。これで大丈夫」
真宙はピストル型のネジ回しを持ち、リビングと廊下をしきる扉を何度か開け閉めすると頷いた。ここ最近、中途半端に閉まったり閉まらなかったりするのが気になっていた扉だが、わざわざ業者を呼ぶほどの不便はなく、なんとなく放っておいた。しかし、この家に戻った真宙が最初に気が付いたのは、この扉の不具合だった。扉と木枠をつなぐ蝶つがいのネジ部分が劣化していることが不具合の原因と気付いた彼女は、ホームセンターに出向き、必要な材料を買ってくると、あっという間に修理してしまった。おまけに剥げかけた金色の取っ手も、何をしたのか新品と見紛うほど美しくしてくれた。
 真宙の手先が器用なのは亡くなった夫譲りだ。夫は、家の中の不具合のほとんどを真宙のように自分で修理してしまったし、まとまった休みがあればマンションの共用庭に出て、趣味で集めていたワインを置くための棚や、大好きな小説を所蔵するための本棚まで手作りしてしまう人だった。下手クソな日曜大工ならば、家を預かり自分の色に飾りたい女にとっては迷惑だが、彼の作る物のクオリティーは素人離れしていて、真由子は一度も嫌だと思ったことはなかった。むしろサラリーマンよりも、家具職人が夫の天職だったのではないかと思えるくらいだった。舅の妹との不思議な酷似といい、手先の器用さといい、ともかく真宙は夫の家系の血を濃く引き継いでいるらしい。
「バアバ、バイキンマンあげる」
孫の優が広告の裏に描いた絵を真由子に手渡した。このところ優は、幼児の登竜門であるアンパンマンに夢中である。
「あら上手。ありがとう」
洗濯物をたたむ手を止め、一応は反応して見せる。孫、特に娘の産んだ子は可愛いというのは本当だと、真由子は優を得てから実感した。ただ、それは別々に暮らしていればこそだ。これから何年この家に真宙と優が住むのか見当もつかない今、真由子の中では情よりも不安の方が勝っていた。
 終わりのない優のお絵かきのプレゼント攻撃に付き合っている真由子の気持ちを知ってか知らずか、真宙は大工道具を片付けると台所に立った。
「今日はラッキーだったのよ。天然物の鯛の御刺身が半額になってたの。だから今日は鯛のカルパッチョと大豆ハンバーグの煮込み。それにブロッコリーとトマトたっぷりのサラダよ。昨日、美味しいアンチョビドレッシングの作り方をネットで見たの」
出戻りとなって以来、真宙は朝昼晩と食事を作り、掃除、洗濯と、率先してやってくれた。
 真宙の離婚は、真由子にとったら青天の霹靂で、何の相談もなく離婚を決めてこの家に戻ってきたことに不満も心配もあったが、詳しいことを話したがらない真宙の口を無理に開かせるわけにもいかず、時期が来たら話し合おうと思いながら一月近くが経っていた。
 キッチンに立った真宙は、野菜や魚のパックに一つ一つアルコールスプレーを吹きかけ,キッチンペーパーで丁寧に拭っている。そこまでやるかと思いながらも、仕方ない部分もあるのかもしれないと真由子は思った。世界には正体の知れないコロナ・ウイルスが蔓延しているというのだから。平静でいろという方が無理というものなのかもしれない。つい数日前には、日本を代表するお笑い芸人がこのウィルスに感染し、七十歳にして亡くなった。真由子もショックだった。どこか他人事と思っていたことが、一気に身近なことに思えた。
 しかし、気が重いのはウィルスの怖さだけではない。緊急事態宣言のせいで日本中が休眠状態である。難しいことはよく分からないが、こんなことが続けば大不況がやってくることくらいは真由子にも分かる。実際、数日前に真宙は就職の決まっていた企業から内定取り消しの知らせを受けた。旅行会社の経理事務の仕事だった。
 真由子はカウンターキッチン越しに、娘の横顔を、そっと盗み見た。顎が細くなり、すっかり痩せてしまったようだ。その横顔は、地味を通り越して不運ですらある。真由子の胸の奥が傷んだ。真宙は精一杯頑張っている。しばらくは貯金と別れた夫からの養育費で何とかするらしいが、今後のことは分からない。真由子とて、夫が残してくれた保険金や退職金を大切に残してはいるものの、この二人を不自由なく一生面倒を見る余裕も体力もない。真宙が話したがらなかったとしても、やはりもう少し落ち着いたら、ちゃんと今後のことを話し合わなければならないと思った。
「ねえ、真宙、そんなに手のかかるものばかり作らなくていいわよ。せっかくの御刺身なら、お醤油とわさびだけでいいし」
真由子は、もちろん娘を気遣う気持ちもあったが、正直、真宙が帰ってきて家事を担当してくれてからというもの、頑張りすぎのメニューに辟易している部分もあった。たまには卵かけ御飯と漬物だけでいいという真由子に、真宙は「それじゃあ身体に良くないから」と、腹ばかり膨れる野菜やら肉料理を並べてくれる。正直、有難迷惑な日もあった。
「気にしないで。今は優の成長にとって大切な時だから、ちゃんとしたものを食べさせたいの。それに、お母さんにだって健康的な食事をしてほしいし。コロナの感染対策の一番は健康な身体。食事を作るくらい、なんてことないわよ」
真宙はエプロンの紐を後ろ手で結びながら笑った。
 真由子の口から出所のわからない溜息が漏れる。一体、娘の生真面目は誰に似たのだろう。ひょっとして、これも舅の妹ゆずりだろうか。真由子は、いつの間にかソファで寝入ってしまった優の小さな身体に毛布をかけてやりながら、テレビ画面いっぱいに映ったアンパンマンの顔を見た。夫と絨毯の上に寝ころび、借りてきたDVDを見ていたのは、つい数年前のことだ。夫は昔の男のわりに食事にうるさいことを言わない人だった。子供たちが独立してからは、週末になると夫婦でコンビニにビールとおでんを買いに出かけ、帰りにレンタルビデオ屋に寄って韓国の宮廷物ドラマを借りてくるのが楽しみだった。娘も孫も傍にいるというのに、真由子は、なぜだか最近、とても夫に会いたいと思う。


「ほんと最低!」
おからの生地で作ったというトマトピザの昼食を食べながら、テレビ画面に向かい、真宙が眉をひそめた。パチンコ屋に並ぶ客に、インタビュアーがマイクを向けているのだ。
 緊急事態宣言に伴い、飲食店を始めとして、客の集まるほとんどの企業は休業することを求められていた。とはいえ、日本の法律では他国の都市封鎖のように、国が求めることに逆らったからといって罰則規定はないらしい。あくまで要請なのだそうだ。そんな中、パチンコ屋だけは営業を続ける店がいくつかあった。しかも、開店している数が限られているものだから、客はそこへ集中し、もはや権利を求めるデモ集会のごとく、世界中が恐れる行列が連なっていた。
 しかし、真由子は思う。夫が生きていたら、こんな時でもパチンコに行っていなかったと言えるだろうかと。近所の野良猫とは仲良くなるが、人間との関わりには何処か一線を引いていた夫にとって、どこまでも個人プレーのパチンコは性に合っていたのだろう。限られた小遣いで特別羽目を外すこともなかったし、何より真由子の父が競馬や麻雀と、わりかし賭け事が好きだったこともあって、そういうことにあまり抵抗はなかった。だからテレビを見ていても、どこか浮世離れしたパチンコ客とインタビュアーの押し問答が可笑しくも思えるのだ。
「不要不急の外出自粛が求められていますが、パチンコに来ることは、どうお考えですか」
「はあ・・・すみません」
真宙が睨みつけるテレビ画面の中の男性は、詰問調のインタビュアーの勢いに気圧されるように俯いた。顔にはモザイクがかかっているが、よく見ると横に六十歳男性というテロップが出ている。テレビの伝えたい内容より、真由子は、そっちの方が気になった。顔には白くぼかしが入っているが、薄汚れたジャンパーとボサボサの白髪頭のこの男性が、自分よりも年下?自分も人からは、こんな年寄りに見られているのだろうか。いや、この人よりは・・・。
「この人、私より年下だけど、すごく老けてない?」
「ああ、腹が立つ!この人、自分が世の中にコロナをばら撒いているかもしれないってことが分からないのかしら!」
案の定ではあるが、真由子の問いかけは見事にスルーされた。
 インタビュアーは、絶対に真由子よりも老けて見えるその男性へ、さらにマイクを向ける。
「こんなに人が集まる所にいて、リスクは感じないんですか?」
「はあ・・・そうですね・・・負けるリスクは・・・感じます」
そうきたか。男性の、なんとも的外れな答えがおかしくて、真由子は思わず笑いそうになってしまった。しかし、真宙の殺意さえ感じる鬼気迫った横顔に気づき、思わず口を引き結んだ。真宙はこの男性に、そして世の中のそういう人間に対し、本気で怒っているのだ。
「何言ってるの、この人!今はみんなが我慢しているっていうのに!お母さんもそう思うでしょう?」
真由子は曖昧に頷きながら、隣に座る優の口元を拭ってやった。
「バアバ、昨日のおにぎり食べたい」
しまったと思った時は遅かった。真宙は優の言葉に敏感に反応した。
「おにぎり食べさせたの?」
「海苔と塩だけのシンプルなやつよ」
「そういう問題じゃないのよ。白米だよね?あれはやめてって言ったでしょう。あのね、何度も言うようだけど、白米とか食パンとかお砂糖、白いものは身体に良くないの。みんな当たり前のようになってしまって、その怖さを知らないけど、発癌性だってあるんだから。私はね、そういう見えない危険から子供たちや自分を守りたいの。ちょっとした意識の変化で世界は変わるんだよ。コロナ・ウィルスの問題だって同じ。命を守るためには、一人一人の意識の変化から。ナナミさんだって同じことを言ってるわよ」
ナナミ・・・。実家に帰ってからというもの、真宙の口から、何度その名前を聞いただろう。聞くところによると、そのナナミなる女性は、元モデルで栄養士の資格を持ち、現在は二児の子供を育てるシングルマザーだという。真宙は、その女性と自分を重ね合せているのか、彼女の生活スタイルに共感し、真似ようとしているように見えた。とはいえ、ナナミは真宙の近所の友達というわけではない。遠いインターネットでブログとやらをやっている女性だ。ナナミは、四十歳を超えても衰えない美貌を維持し、仕事を持ちながらも女手一つで子育てに奮闘しながら、社会問題に対しても積極的に意見を述べているという。とにかく最近の真宙は彼女の影響を強く受けているようだ。
「こんな時にギャンブルなんて。世の中に不必要だよ!」
真宙は次々と野菜ばかりを口に放り込みながら、テレビの向こうの人たちへ怒りをぶちまけた。真宙の言うことは間違っていないのかもしれないが、なぜか胃もたれがする。この、やたらとインゲンが多いサラダのように。しかしながら、反論を阻む何かとてつもない面倒臭さもあって、真由子は黙ってパサパサとしたピザを飲み下した。

 食糧の買い出しは、真宙と一日交代だ。最近ではこの時間が真由子にとって息抜きの時間になっていた。それは、幼稚園も休みになってしまった優にとっても同じだろう。
「美味しい?」
駅前広場の噴水の縁に腰かけ、シュークリームを頬張る優に、真由子は目を細めた。青空の下、子供がこぼれるように笑う顔は、やはり良いものだ。真宙に見つかれば、真っ先に袋の裏の成分表示を確かめて怒られるだろう。しかし、これは孫とバアバだけの秘密だ。スーパーで真宙に頼まれた食材を買った後、こうして広場に行って優が普段母親に食べさせてもらえないものをこっそり与えてやるのが、真由子にとっては何より楽しみなのだ。
「あらあ、優ちゃん美味しそうねえ」
明るい声が頭上から聞こえてきて真由子は顔を上げた。301号室、つまり真上の部屋に住む小石原道代だ。歳は真由子より一回りほど下だが、理事会で一緒に役員をやったことがきっかけで言葉を交わすようになった。大らかで暖かみがある人柄の彼女に、真由子は好感を抱いていた。ただ、旦那さんはコロナへの警戒心が強いのか、最近ゴミ出しに行くにもシャンプーハットと雨合羽を着ていて、ちょっと変わった人のようだ。
「私も女の子が欲しかったなあ」
道代は、カスタードクリームを口の周りにつけた優を、まるで親戚の子でも見るかのように暖かい目で見ながら、真由子の隣に腰かけた。彼女には、今や大学生になる一人息子がいる。彼女のお腹が大きかった時から見ていたものだから、その子がバイクに乗って出かけていく後ろ姿を見かけたりなんかすると、時の流れを感じつつ、やはり、こちらも親戚の子の成長を見守り続けてきたように感じてしまう。近所づきあい以上の関係はないものの、気心の知れた道代に、真由子は思い切って真宙のことを話してみた。
「孫は可愛くても、たまに帰ってくるに限るわよ。まさか、世の中がこんなに大変な時に、出戻りになるなんてね」
ここ数か月、真宙が家に戻ってきていることを近所の人たちは知っているだろう。しかし、気を使われているのか、理由を訊ねてくる人はいない。真由子は、そっと道代の表情を盗み見た。余計なことを言ってしまっただろうか。
 しかし、道代は驚くでも、他人の事情に好奇心を示す素振りを見せるでもなく、絶妙にカラリとした口調で言った。
「よくあることですよ。真宙ちゃんは素敵な女の子だもの、これからいくらだって幸せになれますよ。それより、なんか元気ないですよ」
やっぱり、この子は話がしやすい。なんだか話をするだけで気持ちが軽くなる。人を追いつめることのない心地よい距離の取り方。娘の真宙には一生かかっても習得できないと思われる高度なコミュニケーション能力である。真由子は、一回り以上歳の離れた彼女の包容力に甘え、真宙が家に戻ってきてからの様子について愚痴をこぼした。
「なるほどねえ。お母さんのことも子供のことも、精一杯、守ろうとしているんでしょうね。真宙ちゃんは優しいから」
「どうなんだか。優しいのも度を過ぎれば押し付けがましいものよ。こっちは生活ペースを乱されて迷惑千万よ」
午後の日差しがきつくなっていた。背後に吹き上がる噴水の光が乱反射し、ゆらゆらと足元に揺れている。そのきらめきを楽しむように目で追っていたら「そういえば」と道代が呟いた。
「真宙ちゃんが小学校高学年くらいの時かな。夕飯の買い物を終えて帰る時だったんですが、お友達と公園で遊んでいる真宙ちゃんを見かけたんです。鬼ごっこなのか、みんなで散り散りに遊具や草叢に隠れて、キャッキャと楽しそうに遊んでいました。でも、なぜか真宙ちゃんだけが突然、一人公園の真ん中を突っ切って走ってきたんです。クルクルと一人で走り回るものだから、隠れていた子供たちも何事かと出てきて、真宙ちゃんの後をついて、あっちへ、こっちへと走り回っているんです。なんとなく子供たちの騒々しい様子が気になって、私、しばらく様子を見ていたんです。そうしたら、どうやら真宙ちゃんがハムスターを見つけたみたいで」
「ハムスター?」
「そう。多分どこかの家から脱走してきたんでしょうね。真宙ちゃんは、ハムスターが家に帰れなくなったんじゃないかって、すごく心配そうに探していました。時折、姿を見せては逃げ惑うハムスターを必死で追いかけて。この辺は猫も多いですからね。友達もしばらくは一緒に探していたんですけど、子供って飽きっぽいでしょう。そのうち、みんな、ぱらぱらと解散してしまって。その翌日、また買い物帰りに公園にいる真宙ちゃんと会ったんです。ランドセルを背負った真宙ちゃんが、今度は一人だけで公園のあちこちにしゃがみ込んで、草叢を覗いているんです。『ハムスターを探してるの?』って聞いたら『うん』て。私も一緒に探してみたんですけど見つからなくて。その後も、ちょくちょくハムスターを探している真宙ちゃんの姿を見ましたよ。すごく優しい子だなあって思ったのを覚えています」
 真由子は、道代と別れ、優の手を引いて日の暮れかけた家路を辿りながら、ランドセルを背負った小さな真宙の後ろ姿を思った。何日もその行方を捜したというハムスターのことは、幼い彼女にとっては大きな事件だったはずだ。しかし、真宙は、そのことを一言も母親である自分に話さなかった。その事実が、なんだか、とても悲しかった。自分は、母親として何か足りない部分があったのだろうか。
 と、腿のあたりにブブっと振動を感じた。真由子はポケットに手をつっこみ、携帯電話を取り出した。最初は電話に出るのもままならなかったスマートフォンであるが、今ではすっかり操作に慣れた。画面の表示を確かめる余裕もできた。見ると、長男の優大からだ。画面を上側にスクロールして耳に当てると、張りのある優大の声と、背後からは、なんとも想像しい小さな孫たちの声が聞こえてくる。
「お母さん、生きてる?」
真宙みたいに勉強はできないが、明るく率直な優大らしい第一声だ。
「生きてるから喋ってるのよ」
「そりゃ、そうだな」
優大は笑うと「実はね」と嬉しそうに続けた。なんと、知り合いからマスクを仕入れたので送ってくれるというのだ。今や世界中でマスクは品薄の高額商品である。真宙も困っているから有難いが、優大は家族が多いというのに大丈夫だろうか。
「ふふ。金もマスクも天下の周り物だよ。弱小とはいえ、商社を舐めたらいけないよ」
真宙と違って大学を出た後もフリーター生活が長く、心配をかける息子だったが、ちゃんと親や妹のことも心配してくれる頼もしい男になってくれたようだ。真由子は、そんな優大に、なんとなく話を聞いてもらいたくなって、真宙のことを話して聞かせた。今日の自分は、どこか甘えているのだろうか。
「なるほどねえ。真宙が苛められていた原因って、そういうところなのかもな」
優大は、真宙が離婚して家に戻ってきてからの様子を聞き終えると、妙に納得した風に言った。真由子はびっくりした。真宙が苛められていた?ハムスターの件も去ることながら、これまた真由子の知らない娘の姿である。一体、一生懸命に子供たちを育ててきたと自負してきた自分は、彼らの何を見てきたのだろうか。
「真宙、苛められていたの?」
「いや、世に言う死ねとか消えろとかの類じゃないよ。ほら、年子で同じ中学に通ってたもんだから、学年が違っても、色々と情報が入ってくるじゃん。あいつメチャクチャ勉強が出来ただろう。派手なとこもないし、かといって陰気ってわけでもないから、同級生受けも先生受けも悪くなかったわけ。なんだったら、兄貴の俺が頭悪いもんだから、からかわれていたくらいで。それなのに、何がきっかけだったんだろうな。気が付いたら真宙、いつも一人で帰るようになってたんだよなあ。『おはよう』とか『バイバイ』とかくらいの挨拶をしてる姿は見るんだけど、明らかに一人で。なんていったらいいのかな。まあ、要は浮いてたんだよ。あいつは、あいつで真面目に正しくやってるんだけど」
「そんな・・・。あんた、妹を庇ってやらなかったの?」
血を分けた妹というのに、まるで他人事のように話す優大に、真由子は半ば腹立ちを覚えながら言った。
「そんなの誰かが口出しして、どうなる話じゃないだろ」
「なによ、他人事みたいに」
「みんな自分で答えを見つけるものなんだよ。実際、あいつ高校に入ってからは全く新しいキャラでやっていこうって決めたって言ってたし」
「何よ新しいキャラって」
「目立たず、騒がず、馴染むこと、とか言ってたかな」
 電話を切ると、真由子は妙な無力感に襲われた。ハムスターを探すランドセルを背負った心優しい真宙、真面目で優秀な故に学校に居場所のなくなった中学生の真宙、自らの気配を消すことで高校生活を乗り切ろうと考えた真宙・・・。その全てを自分は知らなかった。どうして何も話してくれなかったのだろう。真宙も、そして優大も。自分には母親として足りないところがあったのだろうか。真由子は家族で過ごした記憶を必死に辿った。そうだ、あの頃は夫の勤める大手自動車メーカーで粉飾決算が明るみになり、盤石と思われた会社の株価は一気に下がり、とうとう外国メーカーに吸収されてしまったのだ。大勢の社員がリストラされた。ずっと設計技術者として働いてきた夫はクビをまぬがれはしたものの、系列の事務請負会社に出向を命じられた。事実上の肩たたきだった。収入にも陰りが出始めていたが、どうにかなると自分に言い聞かせ、真由子は妻として母として、どうにか明るく振る舞ってきたつもりだった。それなのに今日、道代や優大から聞かされた娘の話は、どれも自分が知らない話ばかりだ。自分では良い母親を気取っていたつもりで、実のところ子供たちも、そして夫も何かを我慢してきたのだろうか。そして余裕の無かったあの頃、ひょっとしたら自分は、いつも怖い顔をしていたのかもしれない。
「バアバ、シュークリーム美味しかったね」
真由子に手を繋がれ、境川の堤防の上を面白そうに歩く優が真由子の顔を見て笑った。どちらかというと別れてしまった婿に似ている優は、黒目がちで大きな目が何とも愛らしく、どこに連れていっても可愛らしい子だと褒めてもらえるのが自慢だ。どこまでもさっぱりとした真宙の顔立ちとは、あまり似ているところがないように思えるのだが、表情のどこかに幼かった頃の真宙に通ずる何かがあるのは不思議である。
 夕刻の鈍いオレンジ色の空の下、かつて家族四人で暮らした五階建てのマンションが前方に見えた。かつて、あそこには若い自分と夫と、馬鹿みたいに元気な優大と、ハムスターを思う優しい真宙が暮らしていたことが、まるでお伽話のように思えた。そうしたら、ふと何もかもが、どうでもいいような、もの悲しいことのように思えてきた。そしてまた、半年前に死んだ夫の顔が、どうしても見たくなった。
 
「このトマトソース美味しいわね」
真由子の言葉に、真宙の目が嬉しそうに見開いた。
「やっぱり?ナナミさんお勧めのレシピで作ったのよ」
「身体にいいんでしょう?」
「そう。ベースのトマトはもちろん、ニンニクまでオーガニックだから。ちょっと値は張るけどね」
「ふうん。玄米っていうのも、こうしてリゾットにすると食べやすいわね。でも、これって、どんな風に身体にいいの?」
 今晩の夕食はラタトゥイユとかいうズッキーニやらパプリカなどの野菜をトマトソースで煮たものと、お決まりの玄米で作ったリゾットだ。決して不味いわけではないのだが、すごく美味しいといえば、そうとも言えない。普段ならいい加減、自分が作ると文句を言っているところだが、今日の真由子は少し違った。道代や優大から聞かされた母親の知らなかった真宙の姿を知るに至り、もう少し自分は娘に歩み寄るべきところがあるのではないかと反省したのだ。
「お母さんもやっと分かってくれた?要は身体に良いものってのは美味しく感じるものなのよね。現代人は味の濃いものや人工的な甘みに慣れ過ぎて、美味しい物が何なのか分からなくなってしまってるけど、良いものを食べていれば自然に味覚が蘇ってくるのよ」
真由子は、相変わらずの消化不良な真宙の言葉を今日ばかりは飲み込みながら笑顔で頷いた。
「ナナミさんも言ってたよ。コロナは私たちに教えてくれることも、たくさんあるって」
機嫌よく饒舌な娘の気を削がぬよう、真由子は慎重に相槌を打つ。しかし、頬の筋肉の奥が引き攣れを起こしている。それでも真由子は自分に言い聞かせた。タイミングを逃してはならない。もっと真宙の本音が聞きたかった。隣に座るこの大切な孫娘のためにも。
「ねえ、東二さんとは、今後の事、ちゃんと話し合ってるの?」
真宙の目の色が瞬時に曇った。それでも真由子は、この機会を逃してはならないと、言葉を続けた。
「何があったか知らないけど、私だってもう若くはないのよ。いつまでも、あんたと優と三人で、この家にいることはできないのよ」
「私たちが負担ってこと?」
スプーンを置き、真宙が哀しそうな目で真由子を見た。優も幼いながらに何かを察したのか表情が曇った。それが痛々しくて、真由子は極力、明るい調子で言った。
「馬鹿言わないで。娘や孫に対して、負担なんて思うわけないでしょう。ただ、心配なの。私は、あんたたちより先に死ぬんだから、ずっとは傍にいられない。だけど、東二さんは永遠に優の父親でしょう?この子のことを思うなら、最後に支えてくれるのは、あんた以外、東二さんしかいないのよ」
真宙は深い溜息をつくと、初めて元夫である東二のことについて話した。
「あんなに横暴な人だとは思わなかった。何を言っても自分は正しい、お前は思い込みが激しい、間違っているって聞く耳を持ってくれないの。来る日も来る日も罵倒されて。もう疲れちゃったんだよね」
「どうして言ってくれなかったの?」
昼間、道代や優大から聞いたことで、真宙のことがより一層、不憫になった。
「言ったら心配かけるもの。それに、お父さんが亡くなった今だから言えるけど、彼は、大学教授だったお義父さんをすごく尊敬していたみたい。お母さんにこんなこと言うのは心苦しいけど、結局、うちの家のことを下に見ていたのよね」
真由子は初めて聞く娘の告白に胸を痛めた。そうか、好青年と思っていた婿の東二は、人当りだけは良いがプライドの肥大した強圧的な男だったのか。確か最近は、そういう男を現す言葉がある。モラなんとか・・・。思考を巡らせていたら、真宙がポツリと言った。
「モラハラ・・・。彼を表現する言葉があるなら、きっとそう言うんだろうね」
真由子は、それ以上娘に言葉を継がせるのが辛くなって、野菜や玄米の話題に戻そうと、あれこれ話しをした。それでも真宙の表情は浮かない。離婚し、この家に戻ってきてから、まだ一か月も経たない。しかも、世はコロナ渦と言われる特殊な状況だ。もう少し見守っても良かったのではないか。真由子が心の内で後悔し始めていた時である。虚ろだった真宙の目が何かを強く捉えた。何事かとその視線を辿ると、それは対面型キッチンのカウンターの脇に置かれたデジタル時計だった。PM8時。真宙は立ち上がると、急いでベランダの窓を開けた。サンダルを履き、ベランダの柵へ乗り出さんばかりに、真宙は右手を高く掲げた。何事かと思って見ていると、真宙は、夜空に向かって上げたその手を左右に大きく降り始めた。すると、真宙の動きに呼応して青い光が弧を描き、闇に浮かび上がる。真由子は、真宙の手に握られているものがペンライトだということに気づいた。コンサートやなんかで観客が振るやつだ。
「何してるの」
さっきまで別れた旦那のことを話していた真宙の唐突すぎる行動についていけない真由子は、彼女の後ろ姿に、危機感さえ覚えながら、声をかけた。
「ナナミさんのブログのフォロワー同士で、今日の夜八時、コロナ対策で戦ってくれている医療従事者に感謝を込めて、みんなで夜空に向ってペンライトを振ろうって決めたの。青は医療従事者を表す色なんだって。ナナミさんのフォロワーってね、全国で一万人近くいるんだよ。その人たちが心を合わせてメッセージを送るの。すごいことでしょう?」
真宙の言うことも、ナナミさんとやらの言うことも間違っていない。きっと良いことだ。しかし、真由子の心のどこかが警笛を上げていた。上手く言葉に出来ない自分がもどかしい。ただ、夫の顔が浮かんだ。不況の憂き目にも、どこか飄々として冗談ばかり言っていた夫、休日、たまにいくパチンコで儲かった日、家族でちょっと高級なファミレスで食事を奢ってくれた夫。褒められたところはないが、決して不真面目ではなかった夫。彼が生きていたら、真宙に何と言うだろう。そんな風に思っていたら、真宙がこちらを振り向いた。
「ほら、優もいらっしゃい」
母親に呼ばれた優は嬉しそうにベランダに出て、言われるまま一生懸命にペンライトを左右に振った。
「あ!」
真宙が声を上げ前方に見える同じような造りのマンションの方を指さした。
「今、光が走った。ねえ、お母さんも見えたよね」
「そう?分からなかったけど・・・」
こちらを振り返り、嬉々として言う真宙に、真由子は動揺しながらも、曖昧に笑うしかなかった。
「優、ほら、一生懸命ふって。お空の下で、みんな繋がっているんだよ」
真由子は、しんとした夜空で、小さな優が振る孤独な光を、茫然と眺めるしかできなかった。


 真宙は以前にもまして一生懸命になった。二人で一日おきの交代で行っていた買い物も、コロナ感染時のリスクの高い高齢者は、なるべく外出しない方が良いという理由から、真宙一人が担当することになり、真由子が家の外に出ることに眉をしかめるようになった。ちゃんとマスクをつけていくし、混雑している時間帯を避けるからと言っても、真宙は聞く耳を持たない。どのテレビを見ても家に居ることが大切なのだというのだから、真宙の言っていることはもちろん間違ってはいなくて、それ故に真由子も明確な反論の術を持たない。しかし、外へ出ることに娘の顔色を見なければならない事態が日常化しつつあることは、やはり、どこか異常である気がする。
何はともあれ、優を守らなければ、と真由子は思っていた。自分はどうあれ、食べたいおやつの一つも食べさせてもらえず、ひたすらに真宙が身体に良いと決めたものしか食べることを許されず、何かにつけて徹底的な手洗いを強いられている優の表情は、日に日に暗くなっていた。際限のない消毒も、玄米信仰も、家族から笑顔を奪えば、もはや何のためなのか分からない。そう諭してみるのだが「お母さんは昔の人だから」と真宙は取り合わない。
真由子の中で、不器用で不憫な娘に対する同情心が、いつしか峠を越え、かつては家庭を預かっていた主婦の自負に変わりつつあった。真由子にもプライドがある。この偏狭な出戻り娘の好きにはさせない。何より、孫の優には自由と幸福の権利があるのだ。
 そんなある日、買物以外は、ほとんど家から出ることのない真宙が、めずらしく夜に出掛けた。真宙は、心なしか濃いめのアイメイクの下にマスクをし、いそいそとした感じで出掛けて行った。なんでもナナミさんのブログで知り合った仲間たちからボランティア活動に誘われ、参加するのだという。お母さんに言っても分からないから、と詳しい内容を教えようとしないのは馬鹿にされているようで腹立たしいが、優に好きなことをさせてやれる時間が取れることは嬉しい。一緒にコンビニまで行こうと言うと、優は目を輝かせて真由子の手を握った。お母さんには内緒だからね、と言って買ってやったチョコレートのアイスバーを嬉しそうに頬張る孫に、真由子の胸は痛んだ。一体どうして、いつから、こんなことになってしまったのだろう。
 マンションのエントランス扉を開け、郵便受けを確かめた。ふと真由子は、長方形の小さなステンレス扉が秩序正しく並ぶ見慣れた光景に、なにか違和感を覚えた。その違和感が、一つのポストに張られた赤い紙のせいであることに気がつくまで少しばかりの時間を要した。それは、セロハンテープで貼られた、まがまがしい赤い紙のせいだった。赤い紙には、力のこもった黒く固い太字が躍っていた。

 自粛しろ!コロナをばら撒くな

赤紙が貼られているポストの住人の名を見て、真由子は暗澹たる気持ちになった。家族で飲食店を経営する人の家だ。夜分に酒を提供する類の飲食店が、国の要請を受けて営業を自粛せざるを得ないこと、それでも生活のためにギリギリまで店を開けている店があること、そのことによって様々な嫌がらせを受けていることを、真由子はニュースを通じて知ってはいたが、こうして隣近所の人がターゲットになり、しかも、そういうことを実行する誰かが近くにいることを目の当たりにすると、やっぱりショックだった。
 風呂に入れた優は、真宙の帰りを待つと頑張っていたが、夜の九時を過ぎ、大そう眠そうなので、部屋に布団を敷いてやると、すぐさま寝息を立てだした。かつては真宙の子供部屋だった場所に、孫が安らかな寝息を立てていることに流れた時間の長さを感じる。
 明かりを消し、そっと部屋を出ると、真由子はキッチンでほうじ茶を入れ、リビングのソファに腰かけた。久々に心が休まるのを感じた。やはり実の娘といえど、自分とは別個の人格を持った人間と同居するのはストレスのかかるものだ。じんわりと鼻腔に広がる芳ばしい香りを楽しみながら、何気なしにテレビ画面に目を向けた時だった。どこかで見たことがある景色だと思ったら、駅前の商店街だ。見慣れた光景に心躍ったのも一瞬、真由子は目を見開いた。数人のマスクをした男女がプラカードを持ち、ただ黙って商店街を練り歩いている。プラカードには「感染拡大阻止」「家に帰ろう」などと書かれている。街頭に立ったリポーターの女性が伝えるところによれば、夜間営業をしている飲食店に対し、抗議活動を行っている人達だという。とはいえ、数か月前に比べれば、活気のあった商店街は軒並み明かりが消え、全体としては閑散としている。どちらかというと、ぽつぽつと明かりの灯った数件の店よりは、無言の抗議活動を行う彼らの方が風景から浮き立って見えた。そして、無言の一団の中に、見覚えのある何かが目に止まったのだ。「何か」と思ったのは、自分でも画面の中の何に目が止まったのか、瞬時には分からなかったからだ。しかし、息を吐き、無意識に起こる否定を押しのけ、覚悟を決めた。しっかりと画面に視線を見定めると、その何かは、真宙の横顔だった。マスクをしていたって分かる。生真面目で、まっすぐな眼差し、小さな目尻についた黒子。それは娘の真宙に他ならなかった。
 真由子はチャンネルを変えるのも忘れ、プラカードを持って一団の中程を歩く真宙の姿を茫然と見ていた。
 真宙が家に戻ったのは、夜の十一時過ぎだった。優は目を覚まさない。真宙は、洗面所で入念に手を洗い、うがいをすると、優の眠る部屋を覗き、穏やかな寝息を立てているのを見て、ほっとしたようにソファへ腰かけた。
「お母さんがいてくれると、やっぱり安心ね」
真由子の心のどこかが、焦燥していた。この善良な娘に、自分は母として何か言わなければならないことがある。しかし、それが何なのか、そして何から言えば良いのか見当がつかない。
 ふと、真宙の足元に置かれたトートバッグに目が止まった。正確に言えば、そのバッグからはみ出ている赤い紙に目が止まったのだ。真由子は勇気が無かった。その紙が、さっきポストに貼られていた赤い紙であることを確かめる勇気が。
 ほとんど家に居たというのに、今日の真由子は何だかとても疲れていた。いつもより早めに寝室に入ろうと廊下を歩いていると、真宙と優が眠る部屋から明かりか漏れていた。何やら話し声が聞こえる。優はもうとっくに寝ているはずだ。真宙は誰と話しているのだろう。そっと扉を開けてみると、暗がりの中、机の上に開いたノートパソコンに向かう真宙の後ろ姿があった。集中しているのか、真宙がこちらに気づく様子はない。
 パソコンの画面を見ると四分割になり、それぞれに人の顔が映し出されている。真宙が言っていたオンラインミーティングというやつだ。真宙は最近、ナナミさんのブログを介して知り合った「仲間たち」と、こうやってミーティングなるものを行っているそうだ。
「それでは皆さん、本日はお疲れ様でした」
画面右上の女性が言うと残りの三人と真宙も「お疲れ様でした」と返す。どうやらミーティングは、ちょうど終わるところらしい。真由子の胸の奥が再び波打った。お疲れ様でしたということは、さっき真宙と一緒にテレビに映っていた人たちだろうか。画面に映っている人たちに目を凝らすと、年齢も性別も様々のようだ。よく見ると左上の小太りで眼鏡をかけた女性は真由子と変わらない年齢に見える。
「じゃあ最後にいつものを」
小太りの女性が言うと、皆が頷いた。
「せーの」
その言葉を合言葉に、ミーティングに参加している全員の声が揃った。むろん真宙の声も。
「命を守ろう!」
みんなの声と共に画面から人の顔が次々と消えていった。
 真由子は眩暈を覚えながらも、何とか娘のやっていることを理解しようとした。真宙は悪いことをしているわけではない。そう、良いことをしているのだから。必死で自分にそう言い聞かせた。

 真宙の前の夫、つまり真由子にとっては、元婿である松坂東二から連絡を受けたのは、それから数日後のことだった。
「ご無沙汰しております」
真由子はスマホを持つ手に思わず力を込めた。感じの良かった東二というこの男は、強圧的な態度で日々、真宙を支配しようとしてきたというではないか。ひょっとするとストーカーか。真由子は、娘と孫を守らなければと、言葉こそ丁寧にしたが、身構えた。
けれど東二は何も話そうとしない。どちらかというと、こちらの言葉を待っているといった感じだ。
「何か用かしら?」
真由子は不快感を隠さずに言った。
「え・・・いや、あの、お義母さんの方が僕に用があったのかと・・・」
自分から電話を寄こしておいて、この男は何を言っているのだろう。
「どういう意味?」
「電話を頂いたものですから」
「電話?私が?していないわよ」
「え?おかしいな・・・。確かに、お義母さんの携帯番号の着信履歴が残っていたんですが・・・」
東二の携帯電話の番号はアドレス帳に残したままだが、もちろんかけた覚えはない。ポケットの中でスマホが誤動作したのだろうか。
と、真由子は、塗り絵をしながら、ちらちらと、こちらを伺うように見ている優の視線に気が付いた。まさか。優は三歳だ。スマホのアドレス帳から父親の名前を見つけだして電話まで出来るはずない。しかしと、真由子は思い直した。優はスマホを置きっぱなしにしておくと、いつも、どうやってか自分の好みの動画を見ていたりする。今の子は、それくらい平気で出来るのかもしれない。
真由子は受話口を手で押さえ、優に聞いた。
「パパに電話した?」
色鉛筆を握った優の手が止まった。答えずに、じっとこちらを見ている。真由子は優しく言った。
「怒らないから」
優がこくりと頷いたのを見ると、真由子は溜息をついた。
事実を知った東二は、しばし沈黙した後、優の声を聞かせてくれないかと言った。真由子は迷った。母親である真宙が危険視している東二と勝手に話をさせて良いものだろうか。しかし優の幼い瞳は、ひたすらに電話の向こうの父親へ向けられている。
 真由子は自身のせめぎ合いと優の視線に根負けして、彼女へスマホを手渡してやった。優は目を輝かせ、小さな手いっぱいに持ったスマホから聞こえてくる父親の声に懸命に耳を傾けた。そして、何を話したかは分からないが、しばらくして真由子にスマホを返し、再びやりかけの塗絵に戻った。その顔には、照れ臭そうな、嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
「ありがとうございます。元気そうで良かったです」
東二の口調から、さっきまでの固い緊張が消えていた。それでも真由子は警戒心を解かなかった。優が東二を慕い、電話までしていたことに心は痛むが、優はまだ幼いし、そのことによって東二が良い人間だったということにはならない。この、いかにも誠実そうな口ぶりに騙されてはいけない。外面と内面が違う人間など、いくらだっているのだから。なんせ東二は、真宙の言うモラなんとか男なのだから。
半ば逃げるように真由子が電話を切りかけた時だった。東二は焦りを隠さずに真由子に呼びかけた。
「あの、お義母さん・・そこに真宙さんは、いないんですね」
真由子は東二の物言いに思わず眉をひそめた。真宙がいたら一体なんだというのだろう。
「いないけど、それが何か?」
「その・・・言い訳をするつもりはありませんし、僕が真宙さんの期待に応えられなかったのは事実です。だけど、何かあったら、もし何かあったら、連絡をもらえませんか」
「・・・何かって、何?」
「その、お義母さんや優が困ったことがあったら」
「それは、あなたに相談すべきことかしら」
真由子は冷たく言い放った。しかし、同時に自身の本能的な部分が発する声に戸惑ってもいた。彼は危険な男ではないー。しかし、世の中には恐ろしいニュースがたくさんあるのだ。万が一にでも、真宙と優に危険が及ぶことになったら後悔してもしきれない。
「月一回は優と会わせてもらう約束になっているんですが、ここのところ真宙さんに何度連絡しても電話にも出てもらえなくて」
真由子は身構えた。いかにも可哀そうな声を出しているが、真宙が父親に優を会わせないのは、強圧的な態度をとる彼の裏の顔が怖いからなのかもしれない。
「とにかく、あなたたち夫婦に何があったかは分からないけど、真宙と優を混乱させるようなことはしないでほしいの」
そこまで言うと真由子は一方的に電話を切ろうとした。しかし、追いすがるように大きくなった東二の声に、通話ボタンを切る真由子の指が止まる。
「いつでも出られるようにしていますから、なんでもいいです。連絡して下さい」
尚もしつこく言い募る東二の物言いに白けながら、真由子は電話を切った。
自分は娘と孫を守ったのだ。そう思いながらも、後味の悪さが残った。
優と視線があった。塗り絵に戻っていたはずが、彼女は、ただ黙って、こちらを見ている。真由子は彼女の眼差しに出会いながら思った。この子はいつから、こんな風に大人の表情の奥を見るようになったのだろうかと。それが、彼女の周囲を取り囲む大人たちによって身についたものであるとするなら、哀しいことだ。
「夕飯にしようか」
真由子は努めて明るい声で言うと、ソファから立ち上がり、キッチンに向った。流しの上には、真宙が作っていってくれた食事が並んでいる。今夜も真宙はボランティア活動だ。
 最近、真宙は、高齢者の外出は危険だと、買い物は全て自分が行くようになり、真由子の出番は、すっかり無くなった。そんなに気にすることはない、大丈夫だと言うのも面倒になり、真由子は軽い散歩に出る以外は、一日の大半を家で過ごすようになった。優も同じである。いつからか公園の遊具には使用禁止のビニールテープが貼られ、外で子供たちが遊んでいるのを見かけると、役所へ通報する人間まで現れるようになった。
 真由子は、真宙の用意していったメニューをテーブルに並べた。野菜のオムレツ、ササミとトマトの和え物、春野菜の味噌汁、玄米ご飯・・・。野菜も卵も生産者に拘っているそうで、身体に悪いと思われるものは何一つない。ただ、心躍るものも何一つない。
「食べたくない」
食卓についた優は、零れるように言った。
「そんなこと言わないの。ママがせっかく作ってくれたんだから。ほら、優、卵好きでしょう」
しかし、どんなに宥めすかしても優は首を横に振るばかりだ。
真由子は困り果てながら、優が父親のもとへ電話を掛けようと試みたことを思った。一体、優は何を思って離れた父親の電話番号の上に指を置いたのだろう。自分は東二という男の本当の姿を知らない。しかし、優には優なりの父親の姿があり、幼くとも強い意志を持って彼に連絡を試みようとしたのだ。そのことを思うと、堪らない気持ちになった。
真由子は優の顔を覗きこんだ。
「何なら食べたいの?」
頑なに俯いていた優の視線が動いた。そして、伺うように真由子の顔を見た。
「ポテト」
真由子の口元から、ふっと笑いが漏れた。そうだ、優はフライドポテトが大好物だ。それもマクドナルドの。
「行こうか。マック」
優の視線は今度こそ真由子の目をしっかり捉え、次の瞬間、その顔には満面の笑みが浮かんでいた。真由子は、テーブルに広げた皿を見て一瞬、迷ったが、ラップをかけ、冷蔵庫にしまった。明日の朝食にすれば文句はないだろう。
 真由子は優の手を引き、駅前のマクドナルドへと向かった。

 優は恐ろしいスピードで買ってきたハンバーガーやポテトを食べ終えた。健康に拘りすぎる故に、子供らしい好きな物も食べさせてもらえず、最近では外で遊ばせてももらえなくなった孫が、真由子は不憫でならなかった。
「美味しかった?」
優は大きく頷いたが、次の瞬間、不安そうな顔を浮かべて真由子を見上げた。どうしたのかと目顔で促すと、優は小さな声で言った。
「ママに内緒?」
真由子は、いたたまれない気持ちになり、思わず首を横に振った。
「内緒じゃないわよ。バアバがママにちゃんと話すから」
風呂に入り、いかにも満足気な顔で優が眠りについた頃、真宙が帰ってきた。入念に手を洗い、うがいを済ませた真宙が、冷蔵庫を開けてお茶を飲もうとした時、覚悟していた顔が真由子を捉えた。
「夕飯、食べなかったの?」
「優がポテトを食べたいって言ったから、マックで済ませたわ。それは明日食べるから」
真由子は、何食わぬ顔をしながら、しかし、今日ばかりは言い争いも覚悟して言った。
「そんなもので夕飯を済ませたの?」
真宙は蒼ざめんばかりに声を震わせたが、真由子は怯まなかった。
「たまにはいいんじゃない?」
「どうしてお母さんは私の努力を無駄にするの?今まで黙っていたけど、私、知ってるんだからね」
「知ってるって何を?」
「買い物帰りに優に変なものを食べさせてたこと!ちゃんと報告を受けてるんだからね!」
「報告?」
「そうよ。この町にはね、世の中のために動いている仲間がたくさんいるんだから。不要不急の外出を避けなきゃならない時に、外で孫に変なものを食べさせるなんて信じられない!」
真っ直ぐゆえに歪んだ真宙の思考に、もはや彼女の内面へ分け入るための入口など見つからないのではないかと真由子は思ったが、自分を奮い立たせた。自分は真宙の中へ立ち入らなければならない。なぜなら真宙は自分の生んだ娘だからだ。そして優は、その娘が産んだ子だ。
 真由子は一つ息を吸うと、椅子の上に置かれた真宙のバッグをつかんだ。
「何するの!」
真由子は構わずバッグの中に手を入れた。覚悟はしていたが、やっぱりショックだった。そこには束になった赤い紙が入っていた。先日、マンションの郵便受けに貼られていた、あの紙だ。
「どうして、こんなことをするの」
「どうして?こっちが聞きたいわよ。コロナを広げないために、世の中みんなで頑張っているのに、お母さんは、どうして分かってくれないの?ステイ・ホームだよ!どうして、そんな簡単なことが分からないの?それは、お母さんや優だけじゃなく、世の中を守ることなんだよ!」
激高する娘に真由子は軽い眩暈を覚えた。しかし自分に言い聞かせた。落ち着け。真宙は私のお腹から出てきて、私が育ててきた子だ。人見知りだけど、母親の前でだけはよく笑う可愛い子だった。同じお隣の道代ちゃんだって言っていたではないか。真宙は、みんなが忘れてしまったハムスターをいつまでも探す心根の優しい子だったのだ。
「真宙、私はね、あなたの言っていることが間違っているとは思わない。でも、もう少し柔軟に考えられないかしら。病気にならないことも大切かもしれないけど、人は楽しむことも同じくらい大切だと思うの。優だって同じ。好きな事をして、好きな物を食べる権利があるの。優は真宙の持ち物じゃないのよ。少なくとも私は、お兄ちゃんや、真宙の事を、そう思って育ててきたつもりよ」
「でも・・・」
なおも言い募ろうとする真宙に、真由子は思い切って優が東二に連絡をとろうとしていたことを明かした。
 真宙は絶句したかと思うと、目の前の椅子に腰を下ろした。そして、先ほどまでとは打って変わったように力ない声で呟いた。
「私、間違ってるのかな」
真由子は、項垂れる真宙を正面に見据えた。
「間違っているとか、正しいとかの問題じゃないの。優や私の身体のこと、それから世の中のことを真宙が考えてくれているのは分かる。でも、もう少し力を抜かないと」
真宙は、ぼんやりとした表情で、麦茶の入ったコップを弄び、何やら考え込んでいるようだ。
しばらくして真宙は、ゆっくりと視線を上げ、真由子を見た。そして、しっかりとした声で言った。
「分かった。私、もう少し、ちゃんと考えてみる。みんなが、それから私が幸せになる方法を」
真由子は、今夜、こうして真宙とぶつかることを厭わなくて良かったと思った。我が娘は聡明だ。きっと、思い悩みながらも、自分なりの納得いく答えを見つけるだろう。そう思えた。

 あくる日は、とても良い天気だった。カーテンを開けると、力強い陽光が真由子の目を射た。ベランダの窓を開け、深呼吸をした。蒼く高い空の向こうには、まるで連なる山々のように濁りのない大きな雲が聳えている。コロナ一色の世の中をよそに、こうして夏は近づき、広い空を鳥たちが悠々と泳いでいる。
 ふと、こんな空の下、夫と見たチューリップ畑の景色を思い出した。バスで十分ほどの場所にある大きな公園の一角にある花畑だ。愛嬌のある色とりどりのチューリップたちが身を寄せ合っている姿を眺めていると、真由子は、とても幸福な気持ちになった。そのなんとも可愛らしいチューリップたちを見たのは、去年の春。夫が亡くなる一か月前のことだ。二人で出かけた最後の日になった。
 夫は、一回目の手術を終えて二年程は、だいぶん痩せたとはいえ、普通の暮らしを送っていた。なんせ夫は初期の癌だったのだ。きっと病気を克服したのだと真由子は思っていた。いや、思いたかった。しかし、夫と老後を一緒に迎えることは出来なかった。夫の具合は、みるみる悪くなり、いつの間にというくらい全身のあちこちに癌が散らばっていた。夫は再び入院した。思っていた通り、片道切符の入院だった。夫は六十五歳だったから、まだまだ老人とよべる年齢ではなかったが、人というのは死を目前に、ちゃんと老人になるものなのかもしれないと真由子は思った。彼の身体は痩せ衰え、皮膚は乾いて土気色を帯び、頬がそげ、目は落ち窪んだ。夫は、気が付いたら老人になっていた。それはもちろん、病気のせいなのだが、夫は、ちゃんと老人になった姿を真由子に見せ、あの世に旅立っていったような気がした。
 ふいに胸が詰まり、頬に涙が伝った。こんな年になって恥ずかしくて人には言えないことだが、真由子は夫のことが好きだった。自分でも不思議に思うくらい、とても好きだった。そして真由子は願った。真宙も、そういう人に再び巡り合える日が来ることを。
 
 今朝の真宙の顔は穏やかだった。昨晩はぶつかりあったものの、お互いの隠さざる気持ちを吐露できたのは、やはり良いことだったのかもしれない。
陽当たりの良い食卓には、昨日食べなかった夕食の野菜オムレツと、野菜の味噌汁が湯気を立てている。野菜も玄米も、いつもなら、げんなりしているところだが、今日ばかりは食欲をそそるのは、天気のせいなだろうか。それとも、どこか吹っ切れたような、晴れやかな真宙の表情のせいなのだろうか。
「今日は公園に行ってこようと思うの」
真由子の言葉に、茶碗を下げようとしていた真宙の顔が雲った。しかし、夫と最後に見に行ったチューリップ畑の話をすると、困惑するような表情を見せた。
「大丈夫よ。本当ならバスを使うところだけど、歩いても三十分もかからないから、散歩がてら徒歩で行くつもり。人混みもないし、それなら、いいでしょう?」
「優も、お花見たい」
目を輝かせる娘を見て、真宙は諦めたように溜息を吐いた。そして、小さく笑みを浮かべると「いい天気だもんね」と、優の着替えを用意し出した。
 優と一緒に玄関で靴を履いていると、真宙が言った。
「お母さん、色々ごめんね」
真由子はスニーカーの靴ひもを結ぶ手を止めて後ろを振り返った。
「お父さんが亡くなったばかりで、お母さんも大変な時に、迷惑かけて、本当にごめんなさい」
幸せになって家を出て行ったはずの娘が、様々な事を考えざるを得ず、結果として親に頭を下げているのが痛ましかった。
「何言ってるの。迷惑なんて思うわけないじゃない」
真宙は首を横に振った。
「心配と迷惑をかけたのは事実だもん。私ね、昨日の夜、お母さんと話してから眠れなくて。一晩中考えたの。それで、私なりに、ちゃんと考えた。優と私、それから、お母さんと、みんなで幸せになれる最善の方法が何なのか」
真由子は思いつめたように話す真宙の肩を叩いた。
「そんなに生真面目に考えないで。目の前のことを一生懸命やっていれば、案外なんでも乗り越えられるものよ」
真宙は小さく頷くと、今日は暑いからと、冷たい麦茶の入った魔法瓶を持たせてくれた。
 笑顔で真由子と優を見送る真宙を見ながら真由子は思った。色々あったが、きっと良い方向に行く。真由子の胸に、頭上に降り注ぐ陽光のように、暖かな希望が宿った。
 きらきらと光る川沿いを横眼に、真由子は優の手を引いて、ひたすらに歩いた。バスには乗らないと宣言したものの、久々に歩く数十分の道のりは、六十五歳の真由子には思いのほか、きつかった。
 ようやく目的の公園に辿り着いた。優に魔法瓶の麦茶を飲ませ、真由子も喉を潤した。広大な芝生の間を縫うように舗装された緩やかな坂道をしばらく伝うと、目指すチューリップ畑だ。
「この辺のはずなんだけど・・・」
真由子は妙な感覚を覚えた。最初は場所を間違えたのかと思ったが、その違和感が、かつて見た風景との誤差から生まれていることに思い至った。あるべきはずのチューリップ畑は、なかった。正確に言うなら、その天に向かって伸びる美しく可愛らしい頭たちは、一様に刈り取られていたのだ。
「残念だねえ」
左から誰かの声が聞こえた。その方を見ると、いつの間にか腰を曲げた老女が立っていた。
「綺麗な花が咲いていると、人が集まってしまうからって、今年は全部、花を刈り取ったんだって」
真由子は老女の言葉に絶句し、目の前に広がる広大な花壇に横たわる土の絨毯を茫然と見つめた。そして、もしかすると自分は間違っていたのかもしれないと思った。世の中は、自分が思っている以上に変化している。昨晩は真宙に知ったようなことを言ったが、ひょっとすると自分の感覚がずれているだけなのかもしれない。
真由子は、優の横顔を見下ろした。何も言わず、真っ直ぐにその場所を見ている。優は一体、何を思っているのだろう。成長した彼女は、この虚しい光景と祖母の顔を覚えているだろうか。もう何が正解で何が間違っているか分からなかった。しかし、はっきりと思うことがあった。真由子は後悔していた。この痛ましい場所に優を連れて来たことを、心から後悔していた。
「なんだかねえ」
老女はそう呟きながら背中を向けて去っていった。
 五月にしては真夏のような暑さだった。家に辿り着くと、全身にへばりつくような疲労を感じた。見ることの出来なかったチューリップ畑のことを話すのも煩わしく、真宙の用意してくれた昼食を断ると、少し休むからと自室のベッドに横になった。
 目を開けた頃には、空に桃色の霞が掛かっていた。綺麗な色だ。きっと明日も晴れる。真由子はベッドに横たわったまま、夜に移ろう窓外の空を飽くことなく見上げていた。
 お腹が鳴った。考えたら朝ご飯を食べたきりだ。少しは休んで身体も気持ちも落着いた。お茶漬けなら食べられそうだ。真由子は身体を起こし、ドアノブに手をかけた。しかし、どうしたことだろう。左に回そうとするノブは何かが引っかかったように回ろうとしない。押しても引いても駄目だ。
「ねえ、真宙」
真由子はドアをノックし、真宙を呼んだ。返事はないが、こちらに近寄ってくる足音が聞こえ、ドアの向こうでピタリと止まった。
「ドアが開かないのよ」
ドアの向こうにいるはずの真宙に呼びかけた。
「真宙、そっちからも開けてみて」
いつまでたっても返事のない真宙に少しばかり苛立ちながら真由子は、なおもドアノブを回す。
「お母さん、私、考えたの。みんなが幸せになる方法」
「何を言ってるの」
「ステイ・ホーム。これは、みんなの命を守ることなの。お母さんには、どうしても、それが分からないみたいだから」
真由子の背中を冷たい汗が伝った。まさか。娘が、真宙が、そんなことを。
「心配しないで。食事は、ここから渡すからね。感染防止にもなるし」
足元からカチャリと音がしたと思うと、ドアの下方に設けられた扉が前へ開き、そこから真宙の顔が覗いた。いつの間にこんなものを作ったのか。蝶つがいで繋がったその独房の差し入れ口のような扉は、あまりに上手く造られていて、真由子は気づきさえしなかった。
「夕飯は午後六時。お風呂は七時。私が付き添うね。トイレのことは安心して。クローゼットにたくさん用意したから」
真由子は慌ててクローゼットを開けると、愕然とした。そこには、介護用オムツがぎっしりと並べられている。
「ママ!開けて!」
優の声が聞こえた。向かい側、つまりかつて優大の使っていた部屋からだ。
「優に何をしたの!」
真由子は叫びながら必死にドアノブを前へ後ろへと動かしたが、どこにどう外鍵をつけたのか、ドアはびくともしない。
「何もしてない。お母さんと同じように、娘の命を守るためよ」
「とにかく開けなさい!」
真由子は叫ぶように言い、真宙が覗き込む差し入れ口に這いつくばり、彼女の手を掴もうと腕を伸ばしかけたが、虚しくその小さな扉は閉められた。
 
 真由子は閉ざされた扉の前に力なく座り込みながら、必死に考えた。自分はともかく、優にこんなことをするなんて許さない。
ふと、脳裏に東二の言葉が浮かんだ。
 ―何かあったら連絡をください。とにかく連絡を下さい。
 真由子はベッドサイドのテーブルに置いた携帯電話をとろうと立ち上がった。しかし、ない。寝る前に必ず置いたはずの携帯電話がない。部屋中を必死に探し回ったが、どこにもない。今度は、もう疑わなかった。間違いない。真宙の仕業だ。
 真由子は再びその場に崩れ落ちた。そして、茫然としながら、ドアの下から、こちらを見上げていた真宙の目を思った。彼女のあの目を、自分はどこかで見たことがある。そんなことを考えている場合ではないと思いながらも、思考は、あれこれと過去を巡る。そうして真由子は、ある記憶に思い至った。あれは真宙が一歳になるかならないかの時。ベランダで洗濯物を干していると、背後でカチャっと音がした。振り返ると、伝い立ちの真宙が笑っていた。しまったと思った時は遅かった。ドアを横に引くと、ビクともしない。いじっているうちに真宙が鍵をかけてしまったのだ。真由子は、外から鍵を指差し、開けてくれと必死にジェスチャーするが、赤ん坊の真宙は、いかにも面白そうに真由子を見上げ、可愛らしい笑顔を見せるばかりだ。運悪く右隣は空き家、左隣の道代達夫婦はまだ子供がおらず夫婦で共働きだったから帰りは夜遅い。結局、夫が帰る夕方まで、真由子はベランダの外へ締め出されることになった。
 あれも、こんな風に暖かすぎる春の日だった。しかし、もう夫は帰ってこない。真っ直ぐで無邪気な真宙を抱き上げ、この扉を開けてくれる夫は、もういない。

FASE-4 クローゼットの涙

 やることがない。こんなことはいつ以来だろうか。二年先まで埋まっていたドラマや映画の仕事は白紙になった。全ては年末から中国で流行り始めたコロナ・ウィルスのせいだ。そのうち収まるだろうと軽く考えていたら、騒ぎはどんどん大きくなり、世界中に感染者が広まった。日本でも、とうとう緊急事態宣言なるものが発令され、ステイ・ホームだのソーシャルディスタンスだの、新語がこの国の生活を一変させてしまった。
 政府は収入が減って困っている人には助成金を給付し、全国民に一律十万円を支給するという。今や押しも押されぬ売れっ子俳優と言われるようになったナカタ・イッシンこと田中心一(たなか しんいち)は、助成金に頼らなくても生活には困らない身分だが、同じ業界で困っている人はたくさんいる。しかし、自分たちのような世界に生きる人間が国に頼るというのは難しいところがある。ついこの前、いわゆる一発屋のお笑い芸人がSNSで給付金申請をしたことを書くと、芸能界を選んだのは自己責任だとか、今までさんざん儲けてきたくせに、などと袋叩きにあい、しまいには不正受給という言われなき疑いまで掛けられ、精神を病んでしまった。
 近頃の芸能人というのは、一挙手一投足が顔の見えないネット市民によって常に監視されている。ちょっと羽目を外せば思い上がっていると言われ、容姿が優れていれば整形だからと揶揄され、揚句の果てには出自や宗教のことまで、あらぬ噂が事実のように拡散される。
 かつて人々を魅了した芸能人は、テレビ画面や銀幕の中でさえ輝いていれば、その私生活が多少滅茶苦茶でも世間は気にも留めなかった。キャラクターによっては、むしろ箔になったくらいだ。しかし今は違う。誰もが横並びであることしか許されない。豪遊や女遊びが勲章だった時代は遥か昔だ。今の自分たちに求められていることは、慎ましく、正しくあること。不倫などしようものなら一巻の終わりである。
 そんな窮屈な芸能界の事情は、売れっ子俳優と呼ばれるようになった心一にとっても決して他人事ではない。心一は、実力派若手俳優の中でも、クリーンさを売りにしている。新規のドラマや映画の撮影が全て中止になった今こそ、コロナの感染拡大防止に努めていることをアピールし、世間の評判を集めておくべき時だ。
 しかしながら、心一はコロナの話題一色のテレビに辟易していた。電源を入れる気にもなれず、ソファでぼんやりと座っている時間が増えた。
やることがないと人間は眠くなるものらしい。忙しかった時間を取り戻すように眠りを貪る毎日なのに、またも睡魔が襲ってきた。と、尻の下で何かが震えた。鈍く動く手で、ソファと尻の間に挟まっていたスマホを掴み、人差し指で画面を上にスライドさせた。実家の母からだった。
「ねえ、ちょっと、びっくりよ」
受話口からは、こちらの都合もお構いなしの、相変わらず無遠慮な声が聞こえてくる。
「あんた、今テレビ見てる?」
「見てないよ、何」
「捕まったんだって、マスク男」
 ―マスク男。心一は記憶を辿った。ここのところ世間を賑わせていた男だ。確か新型コロナ・ウィルスに感染したというその男は、突如入院病棟を飛び出し、咳をしながら商店街を走り回り、行方不明になっていた。
 心一はリモコンの電源ボタンを押し、母の言うチャンネルに合わせた。マイクを持ったリポーターの後ろに、ピースサインをしておどける少年たちと、五階建ての茶色い建物が映し出されている。どこにでもあるファミリー向けマンション。心一の生まれ育った場所だ。
「ほら、二十五歳の男って書いてあるでしょう?なんと、うちのマンションの住民だったのよ!ほら、西郷さんとこの息子。覚えてない?小さい頃、餅つき大会で同じグループになって、あんた、優しくしてあげてたじゃない」
母によると、今日の午後、彼は都内のビジネスホテルで防護服を着た警察官数名に身柄を確保されたらしい。とはいえ、法律的には犯罪者ではない。名前は報道されていなかったため、まさか同じマンションに住む住人だとは想像もしなかったと、母は興奮してまくしたてた。
 餅つき大会のことは覚えていないが、心一は、彼の姿を覚えていた。まだ少年だった頃のマスク男は、背の低い大人しそうな子だった。たまにエレベーターで出くわすことはあったが、なぜか年がら年中マスクをしていて声も小さいので、根暗な印象だった。ただ、ある時、目の前で転んだ住民の小さな女児をすばやく助け起こし、ウェットティッシュで膝小僧を拭ってやっている姿が印象的だった。心根の優しい少年なのだな、と思った。
 チャンネルのボタンを次々と押してみたが、どの番組もマスク男のことばかりだ。総合するに、マスク男は世界中で不足していたマスクを皆に配り歩いていたらしい。なるほど優しい彼らしいと心一は思った。しかし、それがなぜ、ウィルスを撒き散らすような行為に及んでしまったのだろうか。

「マスクを配れば英雄になれた。だから、もっと感染が広がればいいと思った」

彼はそう証言しているらしい。
 心一は、思わず溜息を吐いた。コロナは、善良な人までを、いよいよ狂わせ始めたのか。
 ワイドショーの司会者は怒りを込めて言う。
「両親を病気で亡くした後、ファミリー向けマンションの一室でそのまま一人暮らし続けていたそうですが、何か心の闇を抱えていたのでしょうか。とても許されることではないですがね」
司会者は憤懣やるかたないといった風に鼻から息を吐くと、隣の心理学者の男性に、なぜ男が凶行に至ったのか意見を求めた。
「不足しているマスクを皆に与えることによって、自己肯定感を満たしたかったんでしょう。これに幼児性と演技性パーソナリティが合わさり、このような許されることのない行為に至ったのでしょう」
難しい顔をした心理学者の分析が当たっているのか、外れているのか、心一には分からない。しかし、マスクで顔を隠し、俯く内気そうな少年の哀れな末路が悲しかった。
 心一は、母の声を聞いて、電話中であったことに、はっと気が付いた。
「なんか変な人が増えたわよねえ。301の小石原さんなんか、ゴミ出し行くのに雨合羽着て、シャンプーハットとゴーグルよ。びっくりしちゃう。あ、そうそう、201の竹下さんなんて気味悪いわよ。最近、旦那さんに先立たれて奥さんだけになってた家に出戻り娘が孫を連れて帰ってきてさ。なんか陰気な雰囲気になっててさあ。挨拶もろくにしないの。その割にマンションの感染対策がなっていないとかって、連日、管理人さんや理事長に電話攻撃らしいのよ。なんか気持ち悪くて。その娘が帰ってきてから、竹下さんの姿をめっきり見かけないのよねえ。まさか年寄りは外に出たらダメとか言って、お母さんを家に閉じ込めてたりして」
心一は、矢継ぎ早に飛んでくる母のお喋り攻撃を半分以上受け流しながらも、なんだかんだ状況を楽しんでいる彼女の元気さに安心してもいた。冠婚葬祭とトラブルには誰よりも張り切る母の逞しさは健在らしい。
 母は言いたいことだけいうと満足したのか、大変な状況にある芸能人の息子の近況も尋ねずに電話をきってしまった。
 心一は苦笑いしながら、再び孤独になった部屋で、ワインの入ったグラスに、ほとんど惰性のように口をつけた。
 ふと壁掛けのカレンダーに目をやると、父の月命日だった。酔いのせいもあって、若い日の父の姿が胸に浮かんできた。
 心一の実家は千葉県浦安市で三代続く煎餅屋である。囲炉裏の前で、来る日も来る日も法被に胡坐姿で煎餅を焼く父は、口数が少なく、どちらかといういうと無愛想なタイプだった。しかし、まだ幼かった心一が学校から帰ると、必ず紙袋いっぱいに入れた煎餅を用意しておいてくれた。自転車の荷台にその袋を乗せ、川沿いの公園で友達と落ちあうのが心一の日課だった。まだ熱の残る香ばしい煎餅を頬張る皆の顔が綻ぶのを見ると、少しばかり自分の家のことが誇らしくなった。
 そんな父は三年前、胃癌を患い六十五歳でこの世を去った。その頃、すでに心一は俳優として名が知れるようになっていて、都内のこのマンションに居を移していた。店は七つ下の弟である慎二が継ぐことになった。彼は兄が俳優として芽を出すや否や、あっさりサラリーマンを辞め、兄を責めることもなく、家のことを引き受けてくれた。しかし、その時、慎二に言われた言葉だけは、今でも心一の胸の奥に残っている。
「塗り三年、焼き十年。いつも親父が言ってただろう?いずれにしろ、兄ちゃんには無理だよ」
慎二はそう言った。弟が、自分の何をもって、自分にそれを無理だと言ったのかが、心一には分かる気がした。自分という人間は、ただ小器用なだけなのだ。努力家で、地にしっかりと足の生えた父や慎二とは根本的に違う人間なのだと。どんなに人気俳優になってチヤホヤされても、そういう人間としての負い目というか、卑屈さのようなものが心一の胸の奥には燻りつづけていた。それは恐らく、少年時代の記憶に起因していて、情けないことに、いまだその記憶に心一は痛みを伴わずに向かい合うことが出来ないでいた。

 心一は、クラスの人気者だった。小学校の卒業アルバムでは、モテる人ランキングでも、友達が多い人ランキングでも一位だった。間違ったことが大嫌いで、ちょっとしたリーダー的存在でもあった。確かにそれは、容姿と無関係でなかった。というのも心一は、生粋の日本人夫婦のもとに生まれたのに、なぜだかハーフに見間違われるほどくっきりはっきりした顔立ちをしていて、おまけに、ずばぬけた長身だった。物心ついた時には、どこに行っても男前だとかイケ面と言われ、スカウトの声もしょっちゅうだった。
 周囲の反応にその気になってしまったのは母の方だった。母は心一を児童劇団に入れた。当の心一は、言われるままに芝居やダンスのレッスンを受けるだけだったが、劇団の先生曰く、心一は非常に勘が良い子供だったらしい。言われたことはすぐに出来た。小学校に上がる頃には、ミュージカルや舞台で役をもらえるようになり、心一自身、いつの間にか演じるということが、楽しくて仕方なくなっていた。
 それでも心一は、学校の友達に自分のやっていることを知られるのは気恥ずかしかった。そのことで、みんなから浮いた存在になるのが何より嫌だったのだ。優れた外見や目立つ行動が阻害と紙一重であることを心一は本能的に感じ取っていたのだ。
 中学に入ると、大手芸能プロダクションから声がかかった。数々の人気タレントが所属する事務所だ。いつかは俳優として食べていきたいと思うようになっていた心一は、自分の生活が変わることを恐れながらも、思い切って事務所への所属を決心した。
 それから半年ほどして、フジサンテレビのドラマに出演が決まった。しかも誰もが憧れるイケ面俳優の弟役だ。本当に自分が、あの人気俳優と共演し、その姿が全国へ届けられるのか。心一は生まれて初めて胸が震えるという経験をした。もう恥ずかしいことなんかない。みんなに自慢できる。そんな風に思えるようになっていた。
 しかし、心一の目論見は誤算だった。クラスで呼び名が変わった。本名の心一はもちろん、シンちゃんとか、シンとか、色んな呼び名を持っていた心一は、そのドラマへ出演してから、イッシン、つまり芸名でしか呼んでもらえないようになった。
 事務所の社長は、心一の芸名をナカタ・イッシンにしようと言った。なんのことはない。田中心一という本名は、ぱっとしないから、苗字と名前をそれぞれひっくり返してみようというのだ。さらに実力派っぽくしたいという理由で、よく分からないが、カタカナ表記になった。お前は絶対に日本を代表する本格派俳優になると言ってくれた社長の案に嫌とは言えなかった。
シンイチならぬイッシン。最初の内は、本当にみんな面白がって言っていたのだと思う。しかし、そこに何となく意地悪なニュアンスを感じるようになってきて、それでも芸能人になって格好つけているとか、寒い奴と思われたくなくて、心一は突如変わった自分の名を受け入れた。教科書や鞄にマジックでイッシンと書かれても笑っていた。しかし、心一の小さな我慢と友人達の悪ふざけは、ゆっくりとその関係に小さな歪をもたらしていった。対等にふざけ合っているように振る舞いながら、心一は無意識に下手にでるようになっていたし、みんなもそれが当たり前になり、いつしか気持ちよくさえなっていったのだと思う。
 そしてある日、心一の存在は、みんなの前から無くなった。中学二年の二学期が始まった日だった。心一は、クラスの中心的グループから無視されるようになった。今まで一番仲良くしていた、毎日一緒に煎餅を食べていた五人だ。
 理由も分からぬまま、心一は嵐が過ぎ去るのを待った。しかし、嵐は止まなかった。
 毎日、自転車の車輪がパンクしていた。修理するのも嫌になり、徒歩で登下校するようになったら、下駄箱の靴の中に牛乳を入れられるようになった。母親に知られて心配されるのも嫌だし、何より惨めだった。面倒くさいからと理由をつけて体育館履きで通うになったら、その靴も牛乳に浸され、女子トイレの便器に捨てられていた。
 ある日、いきなり何人かに廊下で殴られた。そのまま女子更衣室のロッカーに閉じ込められた。異変に気が付いた女子に見つかった心一は、もう充分にみっともないのに、それでも残りカスのような自尊心を保ちたくて、気が付いたらヘラヘラと笑っていた。
 次の日から、誰も口をきいてくれなくなった。
 そうやって心一の存在は、学校から消えた。しかし、父は変わらず煎餅を用意してくれていた。真実を言えるはずもなく、心一は、父から煎餅の入った袋を笑顔で受け取ると、自転車の荷台に乗せ、当てもなく走った。帰るまでに、分厚い煎餅を一人で腹がはちきれそうになりながら口に押し込むのが何より大変だった。

 心一は胸の詰まる記憶から逃れるように、壁掛けの時計に目をやると、怠くて力の入らない身体をソファから無理やりに起こし、玄関に向かった。
 今夜もマネージャーがマンションのドアノブに掛けておいてくれたスーパーの袋を手に取る。缶ビールとレタス、トマト、ピザ生地などが入っている。どうやら今晩のインスタグラムにのせるべき写真は手作りピザのようである。ステイ・ホームが叫ばれている中、いかに家で充実した生活を送っているかをアピールするのは、今や仕事のなくなった売れっ子芸能人の重要な仕事だ。ビニールに入ったベーコンややシーフードを生地の上に並べ、トースターで焼くと、リビングに置かれたダイニングテーブルの上に置いた。一人暮らしには大きすぎるサイズだが、料理が映えるという理由で、先週、マネージャーが勝手に注文して家に届いた。デビュー当時から世話になっているマネージャーの香織さんは、母と同じくらいの世代だが、お洒落に敏感でセンスが良い。
 ビニール袋に入ったレタスを皿の上に広げ、生ハムをのせてオリーブオイルをかけ、キャンドルに火を灯す。天井についた大きなシーリングライトは消し、四方の壁際に置かれた間接照明のスイッチを入れた。これも香織さんが選んだものだ。白いテーブルと、その上の、なんてことのない料理たちが、いかにもステイ・ホームを満喫する芸能人の食卓になる。色々と口うるさいおばさんマネージャーだが、数々の売れっ子タレントの面倒を見てきただけのことはある。言う通りにしていれば間違いない。
スマホで撮影し、写真をインスタにあげる。

『最近ハマッてるピザ。家って楽しい』

本当は料理なんて面倒くさくて大嫌いだし、近頃は、酒ばかり飲んで腹が膨れ、こんなものを作っても半分以上はゴミ箱に捨ててしまう。
 
『お洒落すぎ』

『もはや神』

 大袈裟な反応を、何杯目になるか分からないワインをグラスに注ぎながら、ぼんやりと眺める。コメントは数分のうちに一千件を超えた。しかし、どの言葉も心一の気持ちの奥へは入ってこない。無意味な言葉の洪水。いつものことだ。
 言葉が欲しい。心一は、唐突に、強烈に思った。生きた、胸の中心をどろりと流れる暖かい言葉が欲しいと。
 夢遊病のようにスマホを操作する手が動く。そうだ、自分は彼女と話しがしたいのだと思った。たとえ声が聞けなくても、そのメールの文面から湧き上がる彼女を感じたい。酔いが回り始めたのも手伝って、心一は、もう絶対に連絡をとらないと決めていたにも関わらず、ラインのアドレスの中から彼女の姿を探した。今夜だけだから。最後だから。そう自分に言い聞かせながら、彼女にメッセージを送ろうとした時だった。
 薄暗がりの中、点けっぱなしになったテレビ画面に、世にも美しい笑顔が映った。今まさに、しないと決めていた連絡をしようとしていた彼女だ。
半年前、その笑顔は、確かに心一の腕の中にあった。本や映画のこと、死ぬこと、生きること、世の中のこと・・・。自分たちが話し合ったところで僅かも変わらない何かを、いつも飽きることなく話した。
 河合遥(かわい はるか)。今や名前を知らない人の方が多いであろうその女優は、人生の中で今、最も美しい時を生きているということが、心一には、よく分かった。事務所の社長がよく言ったものだ。名を成す女優には、誰をも圧倒する短く美しい瞬間があるのだと。、まさに今、彼女はその短い瞬間を生きているのだと思った。
 心一は昂ぶっていた気持ちを静め、スマホの画面を閉じるとベッドに横たわった。
 出会った頃の彼女は、心一と同じく、台詞もない、女優とも言えない頼りなげな存在だった。しかし、舞台の片隅で、ひたすら出番のない台本を読み込む彼女の存在は、心一の気持ちを捉えずにはおかなかった。いつしか自分の一番近くにいる人になった彼女に対して、心一の中に、生まれて初めて、そして自然に「結婚」という言葉が芽生えた。しかし、当時の彼女は女優としての成功を何よりも優先していた。もちろん心一には、結婚によって彼女の夢を邪魔する気持ちなど毛頭なかったが、彼女のイメージする  
結婚と、女優としての大成は、相容れないものであったらしい。
 結局、男女としては別れることになった彼女と、ある映画での共演によって再会したのは、昨年の暮れのことだった。日本アカデミー主演女優賞を獲得した彼女は、新進気鋭の映画監督と結婚し、すでに三歳の男の子を持つ母親になっていた。お互い三十五歳になっていた。全ては十年以上も前のことだ。心一は、久々の再会に少しばかり高揚しながらも、昔のことと笑顔で受け流し、仕事仲間として徹するつもりだったし、その自信もあった。しかし、人の心とは、不思議で、いつでも危ういものだ。失うものの方が多いと分かっていながら、飲み過ぎた夜を言い訳に、二人の関係は、いとも簡単に戻った。互いにリスクの方が大きいことは充分わかっていた。しかし同時に、いつの間にか重くなってしまった互いの立場を笑い、癒しあえる時間は、二人にとって何にも代えがたかった。背中に羽が生えたように軽やかで無責任だった無名の時。今では胸が詰まるほどに懐かしいあの時に、戻れた気がした。
 無論、それが長く続くとも、続けられるとも思っていなかった。そして、やめようと言ったのは、昔と同じで、やっぱり彼女の方だった。あの時とは違って、当然分かっていたことであるのに、その再びの別れは、思った以上に、心一に深い痛みをもたらした。

 心一はテレビ画面を見た。
 いつの間にか映画は終わっていた。エンドロールの最後に、戦中を生きた女性を演じる彼女のモノクロ写真が画面いっぱいに映し出された。まるでその時代、本当に存在していたかのような彼女の笑顔を、心一は不思議な気持ちで見つめていた。そして、ふと思った。これから自分は人を好きになることがあるかと。
 心一は、ひどく子供じみた思いを笑い飛ばすように一人鼻で笑うと、再び酒を口にした。それでも、胸の中の空洞を吹き抜ける風の冷たさは、どうにもならない。部屋の明かりを消し、明日になれば何かが変わると自分に言い聞かせた。良い風にか、悪い風にかは分からない。それでも何かが変わるはずだと。
 心一は、今夜も酔いが回ったわりに眠くない目を、固く閉じた。

 けたたましい電子音に眉をしかめ、目を開けた。胸のあたりをまさぐり、スマホのサイドボタンを押すも、その音は、いっこう止まない。心一は、スマホを毛布の中に隠してみたり、あげくには床に投げつけたりしてみて、それが自宅の固定電話の呼び出し音であることに、ようやく気が付いた。
 年に一度鳴るか鳴らないかの固定電話だ。訝しく思いながら身体を起こすと、受話器を取った。酒臭いゲップが出た。鏡を見なくても顎周りがむくんでいるのが分かる。怠さに耐えながら、デジタル式の置時計に目をやると、午前七時。ベッドに入ってから三時間と経っていない。なんだか腹が立ってきた。こんな時間に一体誰だ。
「はい」
不機嫌を隠さずに言うと、こちらのぶっきらぼうに負けない尖った声が返ってきた。
「どうすんのよ」
マネージャーの香織さんだ。十四歳で事務所に入ってからずっと心一を担当しているベテランだ。右も左も分からぬ子供だった自分に芸能界のルールを一から叩き込み、今への道筋をつけてくれた。母親と同い年の彼女は、数々の若手俳優を育て上げてきた業界では有名な敏腕マネージャーだそうだ。心一と彼女の関係性は、タレントとマネージャーというよりは、むしろ師弟関係と言った方がしっくりくる。彼女曰く、イメージという特殊な責任を負った芸能人たる者は、不祥事を起こせば、所属事務所や共演者のみならずスポンサー、関係企業、親類縁者、果てはファンという不特定多数の人にまで迷惑をかけ、傷つけることになる。故に車の運転はしないこと、酒を飲んでも終電までに帰ること、後ろ暗い交友関係を持たないこと・・・。あまりに口うるさい彼女に反抗したくなった若い時もあったが、眩暈がするくらいの名声と金を得るようになっても、調子にも乗らず、ここまで道を踏み外さずにいられたのは、彼女という防波堤があったからこそだ。今では母親以上に頭が上がらない存在だ。
「なんの話ですか」
心一は、恐い先生に射すくめられた子供のように受話器を持ったまま背を伸ばして聞いた。すっかり眠気は飛んでいた。
「ブンブンから問い合わせがあったわ」
「ブンブン?」
心一は一体何のことか分からずに聞き返した。ブンブンとは週刊蜜蜂という週刊誌の記者のことだ。ゴシップの匂いがすれば、追い払っても追い払っても、しつこくつきまとってくる記者を皮肉り、いつのころからか業界では彼らをブンブンと呼ぶようになった。
しかし、そのブンブンが、自分に何の用だというのだろう。厳しい自粛を求められている今、スーパーに行くのにも気を使い、飲み歩いたりなんかした覚えもない。
「どうしてブンブンが?」
「自分の胸に手を当ててみるといいわ」
「一体、朝っぱらから何の話ですか。俺、なんにも疾しいことなんかしてないですよ」
心一は、いい加減腹が立ってきて声を荒げた。
「河野遥と付き合ってるの?」
心一の心臓が浮き上がるように波打った。なぜ彼女の名が?ブンブンは何を嗅ぎつけたというのだ。
「終わったことです」
「いつ」
「・・・一年以上前に」
受話器の向こうから香織さんの大きな溜息が漏れた。そして、ぴしゃりと厳しい声が聞こえた。
「彼女が結婚したのは三年前よ」
心一は返す言葉がなかった。お互いにまだ名の知れて居なかった時代、香織さんは若い二人の関係に見て見ぬ振りをしてくれていた。彼女と別れることになった時も、何も聞かなかったし、どこか暖かい目で見待っていてくれているのを感じてもいた。だからこそ心一は、去年彼女と再会し、もはや世間では許されなくなった二人のことについて、必死で香織さんの目を欺いてきた。
 心一は思った。自分たちは間違ったことをしたかもしれない。しかし、事実、彼女との再びの関係は終わった。ほんの一時の間、残り火の暖かさに手を合わせ、ひどく忙しない日常に帰るために、必要だった少しの力を得ただけのことだ。
「写真を撮られてる。あなたが夜中に六本木のブリリアント・ホテルにチェック・イン。その翌朝、時間差で出て行くあなたと河野遥。一度なら言い訳もできるけど、数回となると、偶然っていう言い訳もできないわよ。しかも、二人をよく知る知人とやらの証言もあるらしいし」
心一は絶句した。ブリリアントは、彼女と落ち合っていた一流のシティホテルだ。懇意にしていた支配人は、チェックアウトの時は従業員出口の外に車を手配して人目につかぬよう彼女を送り出してくれていた。一体、誰が情報をリークしたのだろう。まさか支配人が?いや、彼はそんな卑劣な人間じゃないはずだ。そういえば、一度だけ彼女と食事している店で鉢合わせになった女優がいた。最近勢いに乗っていて、実力のある子だ。いや、まさか。裏表のない心根の優しい子だ。それに、あの時、なんら疑う様子など見せず、一緒に同じ席で食事を楽しんだではないか。
 誰が・・・。
 次々と親しい顔が浮かぶ。その度に自分のことが嫌になる。自分はこの世界で人を見る目が腐ってしまったのか。
 人は突然変わる。心一の胸に、ふとその言葉が浮かんだ。それは、ずっと自分の根底を巣食っていた黴のような思いだ。
 十四歳。あの時、自分も、周りも、あまりに子供だった。今になれば笑ってしまえばいいことなのかもしれない。それでも、ある日突然、世界がひっくり返ったあの時の絶望は、情けないことに、心一の中で未だ生傷のままなのだ。
 半年間の自粛。香織さんは、なんとかその線で行こうと思っている、そして二度のチャンスはないと心一に釘を刺して電話を切った。
 心一は香織さんの声が聞こえなくなった受話器を握ったまま、すぐに社長に電話を入れた。怒鳴り声が飛んでくるかと思った。しかし社長は「河野遥か。イイ女だもんなあ」と呑気なことを言うばかりだ。心一は、なんだか気が抜けてしまった。冷たいようで、人を追いつめない社長らしい反応だった。しかし、だからこそ申し訳ない気持ちにもなった。
「ただでさえコロナで厳しい時に、本当にすみません」
ひたすらに謝る心一に、社長は相変わらず飄々とした口調で言った。
「鬼の香織バアさんにも隠し通してきたくらいだ。惚れてたんだろうよ。まあ、それは仕方ないこととしてよ、今回のこと、姉ちゃんの方が分が悪いな」
「どういう意味ですか」
「長年の勘だよ。世間ってのはさ、叩きたいものを叩くんだよ。そして叩く理由をいつも探してる。その意味で、あの姉ちゃんは格好の餌食になるだろうな。彼女には気の毒だけどな」
社長は乾いた声で言うと、一方的に電話を切ってしまった。
 心一は、社長の不吉な言葉が気になった。そのまま思い切って彼女に電話をしてみた。しかし、何度コールしても出なかった。彼女のもとにもブンブンから連絡が行っているはずである。一年以上前のこととはいえ、家庭のある彼女だ。そのスキャンダルは、彼女のキャリアをどう左右するだろうか。
とはいえ、と心一は思った。これは自分たちの蒔いた種だ。責任は引き受けなければならない。大人になり、捨てられない立場を持つようになったそれぞれの責任なのだ。しかし、それでも心一は、願わずにはいられなかった。彼女が守られますように。十四歳の自分に訪れたような絶望が彼女に降りかかりませんように。

 何時間待っても彼女から連絡はなく、大丈夫かというラインさえ既読にならない。記事が出るのは明日の朝だ。一体、自分たちの世界は明日からどう変わるのだろう。ひょっとすると何も変わらないかもしれない。なんせ彼女の所属する事務所は芸能界一の大手だ。上手い事、このスキャンダルを抑え込むことができるのではないか。
いや、今は昔と違う。不倫は徹底的に叩かれ、そして永遠に葬り去られるかもしれない。堂々巡りする思いはしかし、自分ではなく彼女の心配に終始していた。心一は、そんな自分がふと滑稽に思えてきて一人唇の端を歪めるようにして笑った。そして、考えても何も変わらないし、なるようにしかならない。そう思ったら、ふとある人の顔が浮かんだ。なぜか何かあると会いたくなる人の顔。
 心一は眼鏡をかけ、ニット帽を目深に被るとマスクをつけた。こんな恰好をしても、どうせブンブンが付け回してくることは分かっている。でも、ついてきたければきたらいい。自分が会いに行く人の正体も、そしてその意味も、あいつらになんか絶対、分かるわけなどないのだから。いや、わかってたまるか。
 二駅先だが、夜空を楽しみながら歩いた。後ろから気配を隠しているが故の煩わしい気配を感じる。心一は、横断歩道が青になったところで、ぴたりと足取りを止め、後を振り向いてやった。ジーパンとスエットという、いかにも地元民を装った女と、もろに目が合った。
何食わぬ顔で歩道を渡れば良いものを、女は動揺も露わに固まってしまい、その場から動かない。まだ若く経験のない記者なのだろう。腹立たしいが、なんだか面白いような気分にもなって、心一は女に言った。
「何にも出てこないよ。明日の朝、あんた達が出す記事の通りだ。今から飯を食いにいくんだ。ナポリタンだよ。それも絶品の。一緒に行く?」
ふいの逆襲に返す言葉が見つからないのか、心一の後をつけてきた彼女は、口を開けたまま、その場から動こうとしない。その顔が妙に幼い。ひどく若い女だった。
 信号機が点滅し出した。心一は横断歩道を渡り、後ろを振り返った。
まだ彼女は動かない。
「遅くまでお疲れ様」
心一が微笑むと、彼女は、何だか潮らしく頭を下げた。心一は、彼女のその生真面目と機転の利かなさに、心根の誠実さのようなものを感じた。そして、こんな仕事には向いていないから、早く止めれば良いのに、とも思った。
 追ってのいない道のりを、ゆったり三十分ほど歩くと、プレハブ小屋に毛が生えたような建物が見えた。入り口には「下町食堂」と書かれた染みだらけの幟が立っている。心一は、その横の、いかにも安普請な磨りガラスの引き戸を右に開いた。学校の理科室で使うような木製の長テーブルと、ドーナツ型座面のパイプ椅子が六脚。正面には小さな厨房の見えるカウンターテーブルがあるが、テーブルと椅子は物置となり、唯一空いている左端の椅子には「いらっしゃい」も言わぬ白髪の店主が陣取り、背中を向けたまま雑誌を開き、クロスワードに熱中している。
 緊急事態宣言が出てからというもの、店内は客もまばらだ。銭湯帰りの風呂桶を持ったジャージ姿の中年と、夜中というのに、その息子であろう小学生の男の子がナボリタンを黙々と箸で啜っている。その横では、パイプ椅子を二つ繋げ、器用に身体を横たえ、鼾をかいている初老の男。向かいには、スーツを着たホスト風の男と、髪を緑色に染め、口にピアスをいっぱいつけた若い女。雑多な人間たちは、誰も心一の存在を気にしない。
 心一は、ピアス女と一つ席を開けて座った。女は、ちらりと心一の横顔を見て少しだけ意外そうな顔をしたが、何も言わずに持っていた漫画に視線を戻した。
 緊急事態宣言下、芸能人が外食をしようものなら袋叩きに合う世の中だが、不思議と此処を訪れていることがマスコミに報道されたことはない。心一は思う。要は地味であれば良いのだ。叩かれるのは、高級店で女性たちを引き連れて飲んでいるから。皆、贅沢でなく、華美でなく、特別であってはならない。誰もが横並びであること、そうである限りは攻撃の対象にはならない。いつしかそれが世間の常識であり、掟になった。
 クロスワードに熱中していた主人が、ちらりと心一を振り返ったので、会釈した。主人は難儀そうに腰を上げ、厨房に入っていった。
テーブルに置かれた水差しで氷水を入れて待った。不思議と、ここでは酒を飲みたい気分にならない。
 しばらくして運ばれてきた湯気の立ったナポリタンを、心一は一心不乱に食べた。細かく均等に刻まれた野菜、ベーコン、ソーセージ、酸味が少なく、それでいて甘ったるくもない地味深いトマトソース。その旨味を中太のパスタが見事に絡め取る。
 他の料理といえば、いかにもスーパーで買ってきた風の冷奴やキムチ、はたまた丸ごと胡瓜の横にマヨネーズが添えられていたり、とてもじゃないが人様から金をとれるようなメニューはないが、なぜかナポリタンだけは老舗ホテルを思わせる絶品ぶりなのだ。
 心一は、皿を空にすると熱い溜息を吐いた。
 いつか客は心一と、腹を出し、口を開けて眠る男だけになっていた。心一は、店主の背中と一緒にぼんやりとテレビを眺めた。家に帰るのが怖かった。一人で明日を迎えるのが不安だった。社長の言葉が心一の胸をよぎる。

―今回は、彼女の分が悪い。人は叩きたいものを叩く。
 
 一体、どういう意味だろう。不倫は結婚している側に責任があると世間は捉えるのだろうか。それとも、彼女の作り上げてきた清純なイメージを害する行為だからなのか。しかし、責任というなら、それは二人に平等にあるはずだ。そして、出来ることならば彼女の負担が軽いことを、心一は心から望んでいた。
 夜のニュース番組は、相も変わらず緊急事態宣言下で飲み会をしていた後輩の今までの所業を伝え、マスクを着けずに人と話した場合の口から出てくる飛沫の拡散距離などについて飽きもせずに話し合っている。
 心一は、妙な胸のつかえを感じた。食べたものが食道の途中で詰まっているような感じだ。口を開け、無理矢理にゲップを出そうとするが上手くいかない。胸のつかえは次第に息苦しさに変わった。大きく息を吸い込み、水を飲む。最近、テレビを見ていると、こんな風になる時がある。
心一は、店主の横顔を盗み見た。彼のことを知っている人は、ここに来る客のどのくらいいるだろう。
 都会の谷間に佇む、うらぶれたこの大衆食堂へ最初に心一を連れてきてくれたのは事務所の社長である。
「小汚い店だけど、とにかく日本一のナボリタンが食える」
社長のその言葉は確かに本当だった。しかし、数々の高級店を渡り歩いてきたであろう社長が、なぜこんな店を知っているのだろうと心一は不思議に思ったものだ。
その理由を知ったのは、店を訪れて三回目の時だった。
 珍しく酒を飲んだ社長は、帰り道、楊枝を前歯に挟み、腹を撫でながら話してくれた。もう何十年も前のことであるが、ナポリタンの店の主は、かつて少しばかり名の知れた俳優だったそうだ。
「ミッキー田中ってんだ。若いヤツは知らんだろうなあ」
社長は酔いの回った口調で言った。
 アマチュア劇団出身のミッキー田中は、当時、力のあるプロデューサーに目をつけられ、デビューするや否や、時の人気女優の相手役を勤めた。甘いマスクと知的な清潔感から、テレビコマーシャルでも引っ張りだこになった。しかし、彼は、ある日突然、その輝かしい世界から姿を消した。
 それは、彼の乗るバイク事故が原因だった。ある日、バイクに乗っていた彼は坂道で転倒してガードレールに激突。数日間ICUに入るほどの大事故だった。彼が集中治療で眠りについている間、世間はある噂で持ちきりだった。警察関係者なる人物が週刊誌のインタビューに応じ、彼のバイク事故は、突然ブレーキがきかなくなったことが原因で、しかもそれは、何者かによって、故意にしくまれたものだというのだ。週刊誌が発売されると、ミッキー田中の体調など置いてけぼりになり、マスコミは、その犯人捜しを煽る記事をこぞって書きたてた。曰く、身の回りの世話をしていた家政婦、曰く、彼の母の再婚相手・・・。マスコミは様々な憶測を報じた。中でも、そのセンセーショナルな話題性から世間の興味を引いたのが、彼の親友であり、ライバルでもあった俳優・鈴木孝三犯人説だった。彼らはライバル同士とはいえ、無二の親友であることも世間に広く知られていた。映画での共演がきっかけでプライベートでも親しく付き合うようになり、度々、テレビのトーク番組や、雑誌での対談に応じてきた。それだけに鈴木孝三犯人説は、人々の興味をそそった。仲良く振舞っていたスター同士の二人が、本当は憎み合い、果ては相手に手をかけるまでになった・・・。これほど世間が目を輝かせる話題はなかった。こぞってマスコミが報じると、世間の反応を恐れたスポンサーは、犯人と囁かれる鈴木孝三をコマーシャルや映画から降板させた。マスコミと世間の作り上げた言説は、いつしか真実となり、鈴木孝三は真犯人のごとく追い回され、一歩たりとも家から出られぬ状況にまでなっていた。
 ミッキー田中が自死を計ったのは、そんな最中だった。一命をとりとめた彼はしかし、一切その理由を語らぬまま、芸能界から姿を消した。そして、親友であった佐々木幸三もまた、表舞台から退いた。結局、二人は何も語らぬまま事件の真相は迷宮入り。時と共に、事件も、そして二人の存在さえ世間から忘れ去られ、こうして令和の芸能界を生きる心一でさえ、おぼろげに名前を知るしかない存在になった。
 心一は、かつてミッキー田中と呼ばれた店主の横顔を、そっと盗み見た。いつも黒いジャージばかり着ているが、白い前髪から覗く顔立ちは驚くほど端正だ。眉間の狭い二重瞼と、がっしりとした鼻梁が日本人離れしている。芸名からするとハーフなのかと思ったが、社長に聞くと生粋の日本人だという。驚く心一に「お前も同じようなものじゃないか」と社長は笑った。
心一は窓ガラスに映った自分の顔を見た。一体、自分は誰に似たのだろう。昔から、自分の顔が知らない他人のもののように見えることがある。
 と、静かな店内に唐突な電子音が響いた。テレビが知らせるニュース速報の音だ。
 心一はテレビ画面に目を向けた。
「速報です。俳優の三谷健介さんが死亡。昨夜から連絡が取れなくなったため、マネージャーが自宅を訪れたところ、クローゼット内で首を吊り、亡くなっている三谷さんを発見したということです。警察の発表によりますと、事件性はなく、自殺と断定。関係者によりますと、前日まで特に変わった様子はなかったとのことです。ただ、親しい知人によりますと、最近、SNSでの誹謗中傷に悩んでいたという情報もあり・・・」
 心一は唖然とした。三谷健介といえば、共演こそしたことこそないが、最近、引っ張りだこだった新人俳優だ。いくつか彼の出演する作品を見たが、今後が楽しみであり、脅威でもある男だった。確かまだ二十歳そこそこのはずだ。SNSでも積極的に発信していて若者のオピニオンリーダー的存在でもあったようだ。そんな彼にとって、誹謗中傷など予測の範囲内だったろう。一体、なぜ。しかし、すぐに心一は思い直した。いいや、自分が一番知っているではないか。誰の心にも魔物が潜んでいることを。魔物は、いつだって闇底にその人を連れて行こうと微笑んでいる。目の前にいる、かつて死を選ぼうとした目の前のミッキー田中というこの老いた男にだって。
 心一は急に心細くなった。自分もいつかは死を選んでしまう時が来るのではないか。そう思うと身震いした。縋るように店主の背中を見た。彼と何かを話したい。本当のことを話したい。ほとんど切羽詰まるようにそう思った時だった。人気俳優の自死を伝えるニュース番組に目を向けたまま、店主が独り言のように言った。
「この男も見たかな」
心一は顔を上げた。
「何をですか」
テレビ画面を見る彼は、心一に背を向けたまま答えた。
「知らないか?死ぬ前に見るんだ。悩み多き世界に疲れたスターだけが見るもの」
心一は、胸の奥がドキリとしたが、なんと答えて良いのか分からない。そして、こちらの動揺など全く頓着しない彼は、唐突に言った。
「人々は残酷だが人は優しい」
心一は彼の言わんとしていることが分からず、返す言葉を知らない。
「インドの詩人の言葉だ。ナカタ・イッシンといったな。俳優は本もたくさん読まねばな」
彼は銀幕のスターらしい気障な微笑みを口元に浮かべた。
 

 覚悟をしながら、どこかに甘い気持ちもあった。人気俳優同士の不倫スキャンダル。しかし、それはもう一年も前に終わったことだ。彼女の所属する事務所の力を借り、自筆の謝罪文と一定期間の自粛期間を終えれば、いつしかコロナ・ウィルス騒動に埋もれ、二人とも元通りに復帰できる。そんな風に高を括っていた。
 しかし、ミッキー田中が言ったように、人々は残酷で、優しくはなかった。
 昨晩 ブンブンの第二報の記事には、従業員通用口の前につけたタクシーに乗り込む河野遥の姿が捉えられていただけでなく、ひっそり夜道で二人並んで歩く姿や、完全個室だった信頼のおける飲食店で食事を楽しむ光景までスクープされていた。極め付けは“二人を良く知る知人”の証言である。
 
『まあ、僕にとったら意外ではないですよ。お二人は、まだ名の知れていない時代、恋人関係にあったんですから。やけぼっくいに火が付いたなんて、男女にはよくあることでしょう?ただ、不倫は許せないですよね。特に河井さんには、お子さんがいらっしゃる。それはもう、言い訳のしようがないというか・・・』

 心一は記事の内容を読み、眩暈を感じた。“二人を良く知る知人”とは一体誰なのか。情けないことに心当たりさえない。自分の本心を話す相手には気を付けてきたつもりだ。ひょっとすると自分は、気付かぬうちに、ひどく人に嫌われ、疎まれていたのだろうか。
 ネットニュースのコメント欄、自身のインスタやブログのコメント欄は、河野遥との記事のことで、瞬く間に数万件を超えた。もはや人々の声の全体像を把握することは不可能だった。しかし、目だって飛び交う言葉に心一は愕然とするしかなかった。

「魔性の女」
「男をたぶらかす女」
「子持ちのくせに」
「清純な顔をした悪女」
「この手の女優はシモがゆるいW」
「この際、脱げ」

コメント欄には、その数が増えるほど、過激で下品な、そして、何故なのか彼女を責める言葉が並ぶようになった。
 社長の言葉が絶望と共に心一の胸に蘇る。
人は叩きたい者を叩く・・・。
誰の目にも光り輝く一瞬を見せていた河野遥を、人々は、こぞって傷つけたがっている。それは、心一にとって最も辛いことだった。人々の持つ刃物は、どうして自分に向かってくれないのか。
 顔も知らない誰かの吐きだす言葉が溢れ零れ落ちるスマホを、心一は、茫然と眺めていた。すると、ラインの通知音が鳴った。昨日からどんなに連絡しても既読さえつかなかった河野遥からだ。
心一はすぐさまメッセージを開いた。

「ごめんね」

彼女の言葉は、たったその一言だけだった。
 心一は、はっきりと思った。自分は彼女が好きだ。いい年をして、お互いの立場もあって、あまりに子供じみて馬鹿げている。それでも彼女のことが好きだと思った。そして、彼女が世間に追いつめられていくことだけが、ただ辛かった。

 その夜、弟の慎二から電話があった。かなり酔っている様子だった。心一と比べて慎二は酒が弱く、外では豪放磊落ぶって大酒を飲むが、翌日はひどい二日酔いで潰れるのが落ちで、普段は家で晩酌どころか甘い物に目が無い男だ。そんな弟が、呂律も怪しいほど飲んで電話をかけてきた。心一は弟の気持ちを思った。この緊急事態宣言下、商いを営む身とあれば、ストレスも溜まっているに違いない。それに、世間を騒がせている兄の気持ちを慮って電話を寄こしてくれたのかもしれない。慎二は子供の頃から心根の優しい子だったから。ともかく心一は、久々に聞く血を分けた弟の声を暖かく感じていた。
「珍しいな。お前が電話なんて」
心一が言うと、慎二は受話口で声をひそめるように答えた。奥さんも娘も寝入っているのだろう。
「最近さ、飲みにもいけなくて、ストレスたまりまくりだよ。嫁さんも子供も機嫌悪いし」
「で、仕方なく酒の相手に俺か」
「はは。まあ、そんなとこ」
乾いた笑い声が自分に似ていた。昔から声がそっくりだとは言われてきたが自分ではよく分からなかった。しかし、こういう、ふとした瞬間に、それを感じることがある。
「ユキは元気?」
心一は、一年以上前に会ったきりの姪の可愛らしい笑顔を思い浮かべながら聞いた。
「元気、元気。まるで嫁さんの生き写しみたいだよ。小学生でも、なんか女の貫禄が出て来てさ。あれじゃ男にモテないぞ」
そう言って慎二は笑った。
心一は、久々に心の芯がほぐれるのを感じた。そうしたら、ふと慎二に今まで言えなかった事を言ってみたくなった。それは「ありがとう」という言葉だった。
「何それ」
唐突な兄の言葉に、呂律も怪しかった慎二の酔いが、すっと引いたのが、受話越しにも分かった。
「お前が店や母さんのことを見てくれてること、本当に感謝してるんだ」
心一は本心からそう言った。しかし何故なのか、それは慎二の大切な何かに触れたらしい。慎二の声音が変わった。
「兄貴さ、ちょっと違うんじゃない?いや、違うっていうか、なんていうか・・・」
心一は弟の心の変化についていけず動揺した。
「あのさ、俺、別に兄貴のために店を継いだとか、あと、やりたいことを諦めたとか、マジでそういうのはなくて、だから、感謝されるとか、なんかそういうの、違うんだよね」
「・・・ごめん」
思わぬ展開に訳も分からぬまま謝るが、弟の怒りは、とうとう爆発した。
「いや、だからさ。ごめんとかじゃなくて。俺、必死でやってんだよ。親父の残した店、なんとか潰さないようにって。正直、最近、きついよ。店閉めろとか、コロナのくっついた煎餅売るなとか変な張り紙までされるし、それに・・・」
「それに、なんだ」
心一は、ふいに言葉を飲み込んだ慎二を促す。慎二は大きな溜息を吐き、覚悟を決めたように言った。
「今日、ユキが泣いて帰ってきた。不倫って何ってさ」
心一の胸を冷たい絶望が吹き抜けた。
「しがない一般人の俺にはよく分かんないけどさ、兄貴がその世界入ってやりたかったことってそれ?今の世の中、みんな生きるのに必死なんだよ。とにかく、ありがとうとか言われても、マジで意味分かんねえし!」
慎二はそこまで言うと、自分を落ち着かせるように息を吐き、震える声で「こんなこと言うつもりなかった。ごめん」と言って電話を切った。
 心一は、恐ろしいほどの徒労感を感じていた。
自分は一体、何をやってきたのだろう。役者として少しばかり名が知られるようになるまでに、がむしゃらにやってきた。しかし、十四歳のあの日、学校から、仲の良かった少年たちの世界から田中心一が消えたのと同じように、ナカタ・イッシンが消えたところで、変わることなど、何もない。全ては変わらない。
 スマホのランプが点滅し続けている。
SNSのコメント欄は、きっとパンク寸前だろう。赤の他人の言葉で溢れ返っている。


 ナカタ・イッシンと河野遥は、ファンや関係者に向けて直筆の謝罪文を発表したきり、沈黙を貫いた。社長や香織さん、そして恐らくは遥の事務所サイドも、ネットの普及した世の中では、一時のバッシングは強烈でも、その分、人々の移り気の早さを知っていて、ブンブンが数か月もしない内に再び衆目を引く話題を提供し、人気俳優同士とはいえ、一年以上前の不倫騒ぎなど、すぐに人々の記憶から消えると高を括っていた。
 恐らくそれは事実だろう。このまま黙ってやり過ごせば、コロナと共に自分たちの間にあったことなど忘れ去られ、ちょっと話題の映画にでも出て評価されれば、全てはなかったことになるだろう。だから、心一は思っていた。今しばらく眠ったように過ごそう。いつか、嵐は吹き止むのだから。毎日自転車を壊され、牛乳でザブザブになった体育館履きで家まで帰ったあの頃のように。
 しかし、その覚悟というか、居直りとは裏腹に、心一の心は砂を崩すように壊れていった。
 コロナによる自粛生活に加え、今回の騒動で事務所からSNSへの投稿も禁じられている。唯一楽しみにしていたミッキー田中のナポリタンさえ、食べにいけない日々が続いた。決まった仕事といえば、起床・夕方・就寝前の一日三回、香織さんに安否確認の電話を入れることだけだ。
 今日も最後の電話を入れる。当初、怒っていた香織さんは、日に日に口数の少なくなる心一を心配してか、今回のスキャンダルが風化され、そしてコロナ騒ぎが収まれば、また再び元の生活に戻れるからと励ましてくれるようになった。ナカタ・イッシンを使いたいと言っている人間はたくさんいると励ましてくれた。あの演出家も、あの監督も、あのスポンサーも・・・。しかし、張りのある香織さんの声は、心一の知らない、どこか遠くで木霊している言葉のような気がしていた。
 最近、いつも頭の奥が痺れている。昼過ぎに目を覚ましては、食事をするのも億劫で、とりあえずビールを飲むと少し気が楽になった。ブンブンに捕まるのも煩わしく、外に出ることもないので、そのまま惰性のようにワインや焼酎を飲み続けると、夕方にはフラフラになっていた。香織さんとの電話では何とか取り繕っているつもりだが、実の母親以上に自分のことを知っている人だ。きっと心一の異変に気が付いているだろう。 
美味しい物を見つけたので、明日は家に行くから。今日、香織さんは何故か念押しするように言って電話を切った。
 心一は受話器を置くと、香織さんの言う元通りとは何だろうと思った。次々と舞い込んでくる様々な役。その人物の生きる背景を勉強し、己の魂を注ぎ込み、作品中で燃焼すること。その毎日に没頭することが、元に戻るということなのだろうか。それは確かに、役者身寄りに尽きる苦労であり、幸せでもある。しかし、心一はふと思うのだ。それに何の意味があるのだろうかと。誰かを演じ続けて自分の人生の何が変わるのだろう。作品の中で格好良くしていても、自分は好きな女一人守ることも出来ないのだ。十四歳のままの卑屈な自分を消し去ることも、そして父や弟のように、大切な家族を守ることも出来ずにいる。
 何杯目になるか分からない焼酎を、生(き)のままグラスに注いだ。氷を入れようと思ったが、やめた。良く考えたら酔うために飲んでいるのだから、味なんてどうでもいいし、こっちの方が手っ取り早い。
 酩酊を通り越し、泥のような睡魔が襲ってきた。それでも飲むことを止められなかった。いつからこんな風になってしまったのだろう。一度飲み始めると、素面になるのが死ぬほど怖かった。
 視線も定まらないのに、ついスマホを手にとってしまう。見たくもないのに、またもSNSのコメント欄を開いてしまう。反吐が出そうな言葉ばかりなのに、それらを見ていると、世界で自分という人間が存在している実感のようなものを感じることができる。もはや自分自身、大嫌いなネット住民のように、その魔力に魅入られているのだろうか。
 だらしなくソファに背を預け、部屋の奥にあるクローゼットを見た。都内で一人暮らしをすることになり、香織さんが見つけてくれた部屋だ。やっと役者として希望が見え始めてきた二十歳の頃、東京都下とはいえ、独り身には広すぎる十五畳のリビングが一人前の男になったようで嬉しかった。小さいが、ウォークイン・クローゼットがあるのには、実家の古いマンションしか知らなかった心一の心を躍らせた。そして、役者として仕事が増えるたび、そのクローゼットには、ブランド物の服や靴が並ぶようになった。体型を維持するために、大きな姿見を置くようにもなった。
 心一は、ふらりと立ち上がり、クローゼットの扉を開いた。
 鏡に全身を映した。ぼさぼさの頭と、よれよれのトレーナー、そして、誰に似たのか分からない彫の深い顔は、連日の飲みすぎで浮腫みきっている。
 心一はふと、先日、一人クローゼットの中で最後を遂げた若い俳優のことを思った。
 俺も、いいかな。
 唐突に、そう思った。変な言い方だが、今なら絶望せずに、この世を去れるような気がした。
心一は、ハンガーからネクタイを一本引き抜くと、鉄パイプにかかった洋服を左右にずらした。手に持ったネクタイを、パイプにぎゅっとくくりつけ、頭が通る程の輪っかをつくった。
 何度もやってきたことだ。世界が変わった中二の秋以来、何度も試みて、思いとどまったこと。あの頃、自分は確かに怖かった。自身の存在の消滅に対する純粋な怖れはもちろん、大切な人の胸に永遠に打ち込まれるだろう悲しみを思った。しかし何故だろう。今、心一には、その気持ちさえ湧いてこない。正確にえば、気力がないのだ。あの時と、今の違いは何だろう、と心一は考えた。そうしたら、きっと、その理由は、未来だろうと思った。少年だったあの頃、最も近しく大切な世界から自分の存在を消されても、心一は、どこかに未来を感じていた。しかし、今の自分に未来はない。自分は既に、あの時描いた未来を手にしている。そして、あろうことか、自分は、今それに絶望しているのだ。

あいつも見たかな。

あの日、ミッキー田中は、そうつぶやいた。彼は自ら死を選んだその間際、一体何を見たのだろう。
 心一は、高い所のものを取るために置いていた椅子を運んでくると、そこに足をかけ、座面の上に立った。そして、ふうっと息を吐くと、ネクタイで結んだ輪っかの中へ、そっと頭を入れた。何度か試みて来たことだ。胸の高鳴りはない。とても静かな気持ちだった。なんと自分は勝手な人間だろうと思った。母の顔、慎二の顔、世話になった社長や香織さんの顔、そして誰より傷つくであろう彼女の顔を思い浮かべても、その輪郭は、今日ばかりは、ただぼんやりと、何の感情さえ湧いてこない。
 ふと、誰かの笑い声が聞こえてきた。足元の方からだ。死に際の幻聴か。
 心一は首にネクタイをかけたまま、下を見た。そして、思わずその目を見開いた。
 足元の周りで、無数の小さな子供たちの笑顔が、心一を見上げていた。いや、子供というには、あまりに小さい。こういうのを小人というのだろうか。とにかく何十人もの小さな小さな子供たちが、目を輝かせて、心一が椅子を蹴り、ネクタイで首を吊るのを今か今かと待っているようだった。
 心一は思う。自分は頭がおかしくなったのか。それとも、もう、あちらの世界へ足を踏み入れているのか。

キャッ、キャッ

子供ならぬ大勢の小人たちは、互いに目を見合わせ、花畑のように心一の足元に群がり、無邪気な笑い声を上げている。
ふいに心が軽くなった。
なんと無垢な笑顔だろう。
心一は祈った。
お前たち、俺を何処かへ連れて行ってくれ。
ここではない幸福な何処かへ。
ぐっと歯を食いしばり、ネクタイと首の間に挟んでいた指を抜いた。そして、立っていた椅子を、力いっぱい蹴った。
経験したことのない力が首を絞めつけた。


 ぼんやりとしているが、自分は目を開けている。それだけは分かって、そして、誰かと目が合った。
「目、覚めた?」
ぶっきらぼうな声に、すっかり現実へ引き戻された。
「気が付いたみたい」
母の声が聞こえたと同時に、仰向けになった自分の顔を誰かの顔が覆うように見つめた。同時に、冷たいものが頬に落ちてきた。香織さんの涙だ。
「ご迷惑をおかけして」
母の声が聞こえる。こんな時、泣くのが母でなく、マネージャーである香織さんであることに、心一は、ますますこの世にいる実感が湧いてきた。でも、身体を動かすことも、声を発することもできない。
「よかった、よかった・・・」
しきりに、そう言う香織さんの声が聞こえて、再び辺りは静かになった。それから数分なのか、数時間なのかは分からないが、心一は眠り続け、そして、次に目を覚ました時は、しっかりと意識を取り戻した。
 目玉を動かすと、白い布と、白い壁が見えた。身体が動くたび、いかにも清潔で心地よい布がサラサラと皮膚を撫でる。
心一は、ようやく気付く。
どうやら自分は、死にぞこなったらしい。
「ごめん」
意識がはっきりとしてきて、そこにいるのが母だと分かったら、口をついて出て来たのは、その言葉だった。
「あんた、煎餅焼かない?」
母は、息子の傷つきも、絶望も意に介さぬように、読んでいた雑誌から目を上げると、そう言った。
「慎二がいるだろ」
心一は、ベッドに横たわったまま、母に視線を向けた。
「それがね、慎二、いなくなったのよ」
「は?」
思わず心一の身体が起きあがった。
「なんだ、元気そうじゃない。それだったら店も任せられそうね」
「いや、そういう問題じゃなくて。慎二がいなくなったって、どういうこと?」
「あんたがここに運ばれるちょうど前日。置き手紙があったの。自分探しの旅に出るって。まったく兄弟で人騒がせだわ」
心一は言葉が出てこない。この間、酔いが回って電話を掛けてきた慎二は、兄の所業に怒っていた。それ故に、彼が今の状況を一生懸命に生きていることが伝わってきて、だからこそ、自分は何も言えなかったのだ。それが、“自分探し”とは、一体どういうことか。
「とにかく、頼んだわよ。あんた、美人女優と、なんかやらかしたんでしょう?どうせ、ほとぼりが冷めるまで仕事なんてないんだから」
訳が分からない。絶望の果てに死を選んだというのに、こうして目を覚まし、なぜか情緒の欠片もない母親に、煎餅屋を手伝えと言われている。心一は、分からないまま、ひとまずこの状況に抵抗すべきだと思った。
「煎餅、無理・・・」
「何で」
「いや・・・親父が言ってたじゃん。塗り三年、焼き三年って。すぐに店継ぐとか無理だし」
母は、香織さんが持ってきた見舞いのカステラを頬張りながら、事もなげに言った。
「そんなにかかかるわけないじゃない。塗ったり焼くのに、なんで三年もかかるのよ。せいぜい三日。慎二はお父さんとそっくり。大袈裟なのよ。あの人が姿を消したのも、ちょうど慎二と同じ年頃の時だったわね」
「・・・親父もいなくなったの?」
「そう。自分探しとかでね」
心一は溜息を吐いた。一体、誰が真面目で、誰が本気なのか分からなくなった。自分が死のうと思った理由さえ。
そっとベッドの下に視線を向けた。
あの時見た小人達は、もういない。
 母が病室から出て一人になると、心一の胸に、ネクタイで造った輪の中に首を入れ、椅子を蹴った瞬間の苦しさが、急に生々しく蘇ってきた。
自分はあの時、確かに死のうとしていたのだ。少しも怖くなかったはずなのに、毛布の中で身体が震えた。


 母が言うように、煎餅の塗りと焼きは、さすがに三日で習得するのは難しかったが、三週間もすると、父が焼いていたのと同じ味になった。
慎二はまだ帰らないが、奥さんも姪っ子も深刻になる様子もなく、突如帰ってきて煎餅を焼くようになった義兄によって繁盛するようになった店に大喜びの様子だ。
慎二は、父がそうであったように、半年もすれば何やかんやと言い訳をしながら戻ってくるだろう、と母は言った。そうしたら、心一は改めて自分の職を探そうと思った。よく分からないが、それが弟への礼儀だと思った。
 父の着ていた紺の法被をきて、焼き台に胡坐をかき、肉厚の煎餅に、刷毛で祖父秘伝のタレを塗っていると、ガラス戸の向こうに女子高生二人の姿が見えた。長年染みついた癖で、つい気障な笑顔を浮かべてしまう。そうしたら、女子高生たちは手を取り合ってはしゃぎ、紙袋に入れてあげた五枚入りの煎餅を受け取り、逃げるように去って行った。
 心一は思った。彼女たちにとって、あの煎餅が、ずっと幸せな味でありますように。隠れて一人、口に押し込む哀しい煎餅になりませんように、と。
窓の向こうで、飛び跳ねるように走っていく女子高生の背中が遠くなっていく。
 と、店の端っこに置いたテレビが緊急速報を伝えていた。
 瞬間、膝から崩れ落ちた。
 心一の頬に生ぬるいものが伝う。法被の袖で拭ったが、視界が曇った。

 アナウンサーは伝えていた。

「女優の河野遥さんが、自宅で死亡しているのが見つかりました。映画監督のご主人が、クローゼットで倒れている河井さんを発見しましたが、蘇生処置は間に合わず、帰らぬ人となりました」

沈痛な面持ちでコメンテーターが言った。

「また芸能人の痛ましい死ですね。小さなお子さんもいらっしゃるのに、なんとか思いとどまれなかったのですかね」

 焼ける醤油の匂いが苦しい。
 あの頃、心一は一度も泣かなかった。みんなに無視されても、牛乳で足がグチャグチャでも、そして、一人で煎餅を食べても、決して、泣きはしなかった。
 しかし今、心一は、どうしようもなく慟哭していた。









 

FASE-5 コロナの空の下

 一回、二回、三回・・・。これ以上やるとエンドレスになる。
鈴木望未(すずき のぞみ)は、ふうっと息を吐くと水道の蛇口を閉め、タオルで手を拭った。少し胸がドキドキするが、大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせる。
洗面所のドアを開けると、洗濯籠を持った母が、心配げな顔で立っていた。
「行ってきます」
望未が笑顔で言うと、母は安心したように頷いた。
「じいちゃん、行ってくるね!」
トイレから出てきた祖父にも元気に言った。祖母が亡くなり、一緒に暮らすようになった母方の祖父だ。
「おお、羽ばたいてこい!」
「何それ」
望未は笑った。
 御年80歳を迎えたじいちゃんは、おかしなことばかり言うが、望未の自慢の祖父だ。というのも、じいちゃんは、元俳優なのだそうだ。そうだ、というのは、それは遥か昔のことで、望未は実際に俳優であった時のじいちゃんに会ったことはない。五十年前、ふいに芸能界をやめてしまってからは、地元浦安で小さな電気屋を開店し、去年まで頑張ってきた。俳優時代のじいちゃんは、映画で主演を務めたこともあるそうだ。確かに、じいちゃんは今でもロマンスグレーが似合うイケ面だ。近所のおばあさん達は、普段は大声で笑っていても、じいちゃんを見るや上品に口に手をあて、オホホと微笑しながら、一回り身体を小さくして通り過ぎていく。
 ローファーを履き、家を出ようとすると、下駄箱の写真立てに入った父と目が合った。その笑顔に胸の奥が締め付けられた。
二年前に癌で亡くなった父に、もう一度会えるなら、望未は伝えたかった。もう大丈夫だからね、と。
 望未が強迫性障害と診断されたのは、小学校六年生の時だったので、もう四年前になる。症状は、極度の清潔恐怖。病院の先生によると、色々なことに異常なこだわりをみせる脅迫性障害の中でも、清潔恐怖はスタンダードなものらしい。
きっかけは自分でも分かっていた。小学校の時、同じクラスの女の子が、臭いと苛められていたことだ。確かにその子は、長い髪の毛が脂ぎっていて、そばによるとモワッと変な匂いがした。勉強もスポーツも駄目で、おまけに陰気な雰囲気だった。こういうことを言ってはいけないのかもしれないが、どう考えても苛められっ子の要素が満載だった。
 後で知ったことだが、彼女は両親を早くに亡くし、祖母と二人暮らしだったそうだ。生活保護を受けており、風呂もないアパートに暮らしていたという。母にそのことを話したら、昔の人は毎日お風呂に入る習慣のない人が多かったから、その子のお祖母ちゃんは、身体の匂いに気が付いてあげられないのかもね、と言っていた。
 その話を聞いて気の毒になった望未は、なるべく友達同士の悪口には加わらないようにした。しかし、だからといって彼女を助けたわけではない。むしろ苛められている彼女の身の上よりも、人は身体を洗わないと臭くなるという事実の方が望未にとっては重要だった。自分も変な匂いがしたらどうしよう。そんな不安に憑りつかれるようになった。そして、いつの頃からか、自分の身体の匂いを確かめるのが癖になった。自分が、臭くて可哀そうなあの子になることが、怖くて仕方なかった。望未は、それまで自分のことを正義感の強い人間だと思っていたが、その時、自分はひどく冷たい人間だったことを知った。
 自然、お風呂の時間は長くなった。洗っても洗っても匂いが残っているような気がして、とうとう三時間以上もお風呂から出られなくなった。トイレに入ろうものなら、洋服は全て洗い、風呂に入らなければならないので、尿意や便意を催さないよう、なるべく水分や食事を取らないようになった。手洗いも歯磨きも一緒だ。何度やっても不安で仕方ない。このまま学校に行ったら臭いと思われてしまう。そう思ったら学校に行けない日が増えていった。
 小学校低学年から続けていたチアダンスのクラブも辞めた。演技中に仲間から臭いと思われることが怖かったのだ。
そんな風にして、いつしか望未は学校どころか、外へ出るのさえ難しくなっていた。心配した母は、望未を心療内科に連れて行ったが、なかなか良くならず、中学はほとんど学校に行けないまま終わった。
 カウンセリングやら認知療法に通い、薬も飲んだ。それでも不潔と匂いへの恐怖は大きくなるばかりで、家族には随分と心配をかけた。母に頬をぶたれて手洗いを無理やりに辞めさせられたこともある。先生にはそういうことは絶対止められていたそうだが、娘の症状が深刻になっていく最中、父の病気まで発覚し、母も限界だったのだろう。それでも望未は洗面所に駆け込み、鍵を閉め、泣きながら手を洗った。母も、ドアの向こうで泣いていた。
 もう絶望しか待ち受けていないと思っていた自分の未来が、少しずつ開けてきたような手ごたえが出てきたのは、高校受験に受かってからだ。難関に加え、学区外受験だったので中学までの知り合いはほとんどいない。それがかなり望未の気を軽くした。まだ心療内科の先生にはお世話になっているが、なんとか毎日学校に通うことができるようになった。積み重なっていく普通の毎日が自信に繋がり、最近ではお風呂や手洗いの回数を決め、やめられるようにもなった。今度の春で無事に高校一年を終えることができそうだ。
 ―お父さん、行ってきます。
心の中で言うと、玄関のドアを開けた。
と、望未は思わず足を止めた。こんな晴れた日に雨合羽を着たおじさんと鉢合わせになった。望未の部屋は一階の角部屋なので、真横にエレベーターがあり、こんなことがよくある。ごみ袋を持って、ちょうどエレベーターから降りてきたその人は、このお天気というのにスーツの上に雨合羽を羽織り、マスクと水泳用ゴーグルをつけている。301号室の小石原さんだ。世の中がコロナ渦と言われるようになってから一年半、小石原さんはずっとこの恰好だ。慣れたとはいえ、心の準備が出来ていないと、やはりぎょっとする。
「おはようございます」
望未が挨拶すると、小石原さんは小さく会釈を返し、エントランスを出ると、なぜかビニール傘をさし、青い空の下、駅の方に向かって歩いて行った。新しい感染対策だろうか。望未は、小石原さんの後ろ姿を見送りながら、家族は大変だなと思った。奥さんや、そして大学生の息子さんもいるはずだ。ともかくあの人が自分の父親でなくて良かったと思った。
 ぼんやりしていると、またエレベーターのドアが開いた。しかし、今度は挨拶をする間もなく、その人は俯いたまま足早に望未の前を通り過ぎて行ってしまった。マスク男―。401号室の彼を、みんなはそう呼ぶ。貴重なマスクを周囲の人に配っていた親切な人。それなのに、コロナに感染した彼は、咳をしながら街中を走り回ったそうだ。どうしてそんなことをしたのだろう。それ以来、彼に挨拶をする住民はいなくなった。母も近づかない方がいいという。しかし、望未は彼が悪い人だとは、どうしても思えなかった。もうずいぶん昔の話だが、小さな頃、マンションの前で転んで泣いていた望未を助け起こし、傷の手当をしてくれたのはマスク男だ。あの時も彼はマスクをしていたけれど、その目の奥にはとても優しいものが住んでいるように見えた。
 マスク男の背中は、とても小さく、何年経ってもスーツが中学生になりたての少年のようで悲しい。
 望未はエントランス扉に手をかけながら、管理人室の小窓にちらりと目をやった。やはり今日もやっているようだ。管理人のおじいさんが、受話器片手に、しきりに頭を下げている。電話の相手は201の竹下さんだろう。一人暮らしだった竹下のおばさんのもとへ孫娘を連れて帰ってきたという娘さんは、毎日のように管理人室に電話をし、コロナの感染対策が甘いとクレームをつけているそうだ。理事長の家にも、しょっちゅう電話や投書をしているらしい。今期の理事の一人を務めている母は、管理人さんや理事長がノイローゼにならないかと心配していた。そういえば、竹下のおばさんも、それから小さな孫娘の姿も、最近めっきり見かけなくなった。どうしているのだろう。あんな人が同じ家に居たら大変だろうなと思った。
 望未は溜息を吐いた。コロナは、産まれた時から一緒に暮らしてきた住人たちを確実に、少しずつおかしくしている。
 外に出ると、二月中旬とは思えない陽光が頭上に降り注いだ。今、この国が二回目の緊急事態宣言中だというのが不思議になってくるくらい穏やかな陽気だ。
 ふと、望未の目の端で、何かが閃いた。まただ。望未は視線を上にあげた。古びたマンションの壁に、小さな硝子窓がいくつも並んでいる。やっぱりそうだ。今日もその光は、ちょうど望未の部屋の真上にあたる201号室、つまり今、管理人さんにクレームの電話を寄こしている竹下さんの家から発せられている。チカ、チカ、チカ。今日も同じだ。部屋の明かりがついたり消えたりする。何度かすると、ぱったり消える。そしてまた、チカチカ。何度か塾の帰りにも見たことがある。あれは何なのだろうか。
 それに、竹下さんの家からは、時折夜中に物音がして起こされることもあった。コツ、コツ、コツ、と同じ間隔で何かを叩くような物音がしていたと思ったら、しばらく止んでは、また同じ音が聞こえてくる。毎日ではないが、けっこうストレスが溜まる。文句の一つでも言ってやりたいが、あの陰気な娘さんの顔を思い出すと、関わらないのが一番だと思いなおす。
 それにしても、と望未は思う。毎朝色んな住人と顔を合わせるというのに、肝心の会いたい人には会えないものだな、と。
 会いたい人とは、501号室のあの人。そう、あのナカタ・イッシンだ。このマンションは知る人ぞ知る俳優ナカタ・イッシンの生まれ育った場所だ。去年、彼は突然芸能界を引退してしまった。人気女優との不倫や、その女優の自殺など色々な報道があった頃だから、ストレスとかが原因なのだろうか。詳しい事情は分からないが、嬉しいことに、なんとその彼が実家であるこのマンションに帰ってきているらしいのだ。しかも、隣町にある家業の煎餅屋を手伝うという。あんな超絶イケ面の有名人が再び同じマンションの住人になると思ったら、毎日身だしなみに気合が入るというものだ。ボサボサ頭にスエット姿で行っていたゴミ出しも、前髪にコテを入れ、ちゃんとした洋服を着ていくようになった。それなのに、まだ一度も会えた試しがないのだ。悲しいことに、なぜか一番高確率で会うのは雨合羽の小石原さんである。
 望未は腕時計を見た。ぼんやりしていたら、けっこうな時間になっていた。慌てて駅まで走った。
「おはよ!」
改札の前で、いつものように理沙が待っていた。幼稚園以来の近所の幼馴染じみであり、望未の親友だ。
「あっついねえ。真冬とは思えない」
理沙は、マスクをちょっと指でつまんで顔から浮かした。苦しそうに息を吐いたが、もちろん外さない。いつの間にかマスクは自分たちの必需品になった。コロナ・ウィルスとやらが流行り始めた時は、マスク不足で苦労したものだが、近頃は道に落ちているくらいになった。今やマスクは下着のごとく。もはや顔を晒して歩くのが恥ずかしくさえなってしまった。
「ところで、会えた?ナカタ・イッシン」
電車が来るのを待ちながら、理沙が聞いてきた。望未は首を横に振った。
「なあんだ。つまんないの。じゃあ、煎餅屋に行ってみようよ。あそこで働いてるんでしょう?」
望未も理沙と同じ提案をしようと思っていたところだったので、一気にテンションが上がった。さっそくいつにするか相談した。何を着ていくだの、どっちが先に話しかけるだの、キャッキャッと思い切り笑い声を上げた。一度学校に入ると、こんな風に騒ぐことは出来ないのだから。
 望未と理沙のクラス担任である広田というオヤジ―通称オデコ広田―は異常なまでにコロナ対策に敏感だ。無駄な話をしていると、どこからともなく現れ、すぐに「離れて」と怒鳴るのだ。お昼はクラス全員前を向いて黙って食べるのは当たり前、最近では生徒が食事中に話をしないようオデコ広田も教壇で弁当を食べるようになった。もちろん黒板の方を向いて・・・。こんな息苦しいお昼休みなら、ないほうがマシだ、と望未は思う。
 しかし、と望未は思い直した。こうして制服を着て、希望した高校へ(しかも理沙と同じ学校へ!)登校するために晴れ渡った空の下、理沙と笑い合っていること。それが出来ているだけで幸せではないかと。病気に苦しんだ暗黒の中学時代、母と壮絶な喧嘩をしたり、父が死んだりと、色々あった。しかし、何とか自分を現実に繋ぎ止めてくれたのは、いつだって変わらなかった理沙の笑顔だ。一歩も外に出られなかった時も、理沙は必ずラインをくれた。既読をつけなくても、毎日、自分を忘れずにいてくれた。
 と、感慨にふけっていた望未の肩に、何かがぶつかった。望未は、ぶつかったものの正体を確かめるべく、咄嗟に後ろを振り返った。だらしなくジーパンを腰まで下げた長髪の、なんだか不潔っぽい男が通り過ぎていった。ぞわっと背中に鳥肌が立った。あの人の服は、ちゃんと洗っているだろうか。トイレに行った後、手を洗ってから触れた服だろうか。色んな想像が胸に渦巻く。望未はふいに、来ているコートを脱ぎ、丸洗いしたい衝動に駆られた。いや、むしろ捨ててしまいたい。今朝の手洗いの時と同じように、鼓動が早くなる。やっぱり自分はまだ病気のようだ。
「肩、拭いたげようか?」
すぐにも望未の心の動きを察知した理沙は、いかにも何気ない口調でそう言ってくれた。
望未は、ゆっくりと深呼吸をし「大丈夫」と答えた。そして、右手首につけたヘアゴムを、もう片方の手で思い切り引っ張り、指を離した。パチンと手首に痛みが走った。それは望未のスイッチだ。長年この病気で苦しんだ望未は、自分の中にあるスイッチを切る方法を身に着けた。望未の手首には、いつもヘアゴムがつけてある。それをひっぱり、パチンと弾きながら「大丈夫。はい、終わり」、心の中でそう唱えると、再現の無い脅迫観念を心から占めだすことが出来るようになった。他の人にとったら、何とも馬鹿らしく意味不明な行為なのだろうが、それは望未が苦労の末に見出した大切な儀式だ。
「ごめん、行こう」
望未が言うと、理沙は笑顔で頷いた。何事もなかったように学校の友達や先生の話題を始めてくれることが有難かった。自分は幸せ者だ。望未は小春日和の今日、心からそう思った。
  
 大変な事が起きた。
その日の朝、理沙は、いつものように駅で望未を待っていてくれた。しかし様子がおかしい。いつもなら望未の姿を見るや手を振り、明るい笑顔を見せてくれるはずが、コートのポケットに手を突込こんだまま俯いている。
「理沙?」
望未は理沙の顔を覗き込んだ。それでも理沙は頑なに下を向いたままだ。一瞬、彼女のサラサラボブヘアの隙間から赤黒い何かが見えた。望未はドキリとして彼女の髪を指でそっとよけた。と、冷たいもので望未の指が濡れた。理沙が、泣いている。
ようやく目を合わせてくれた彼女の顔を見て、望未は絶句した。彼女の右目は大きく腫れ上がり、切れたのか目尻は血の塊のようなものがついている。マスクの上からでも頬が大きく腫れているのが分かる。理沙の瞳から、とめどない涙が溢れ、苦しいのか、口元でマスクの布がくっついたり離れたりしている。
「どうしたの!」
思わず理沙の肩を掴んだ。しかし彼女はハンカチで必死に目を押さえながら、なんとか話そうとするが、出てくるのは、ひっくり返ったような声だけだ。
「ごめん、無理しなくていい。落ち着くまで待つから」
望未は理沙の手を握った。震えていた。理沙の手は小さい。優しい性格も小さい身体も、高い声も、理沙はザ・女の子だ。望未はといえば、チアダンスに熱中していたせいで手足は逞しく、ショートカットしか似合わない。今まで理沙にはたくさん守ってきてもらったが、考えたら理沙こそ守られるに相応しい存在だ。
「殴られた」
なんとか涙を止めた理沙は深呼吸し、そう言った。
「殴られた?」
今度は望未の声がひっくり返る番だった。
 理沙は小さく頷くと昨晩あったことを話し出した。
 理沙は合唱部に所属している。しかし、コロナのせいで、今や強豪の合唱部も虫の息だ。みんなで歌うと飛沫が飛ぶ、クラスターが起こるとかで、コンクールどころか、合唱の練習さえ許されなくなっていた。そこで、苦肉の策ではあるが、それぞれが動画で担当のパートを歌い、後日先生が編集して合唱にするという試みがなされることになった。こんなの意味あるのかな、と言っていた理沙だったが、誰よりも歌うことを愛する彼女は、それでも一人パート練習に励んでいた。そして昨晩は、動画に自分のパートをアップし、先生に送信する期日であった。録画とはいえ、一人で歌うというのは緊張するものらしく、理沙は最後の一人リハーサルと気分転換を兼ねて散歩に出かけたのだそうだ。イヤホンを耳に差し、人気のない夜道をマスクをはずし、課題曲を口ずさんで歩いた。それが不幸のきっかけだった。イヤホンのせいで理沙は人の気配に全く気が付かなかった。サビの部分に入ろうと目いっぱい息を吸い込んだ時だった。突如、理沙の頬にもの凄い衝撃が走った。
「飛沫とばしてんじゃねえ!」
それが男の声だということと、もちろんそんなことは人生で初めての経験だったが、自分が誰かの大きな握りこぶしで殴られたことだけは分かった。震える足で家に帰り、母親と一緒に夜間救急に駆け込んで治療を受けた後、警察に被害届を出しにいったそうだ。しかし、理沙はショックと痛みで相手の姿を全く覚えていないという。
 話し終えた理沙の瞳から、再び涙が溢れだした。
「何それ!」
望未は叫んだ。怒りで全身が震えるとはこのことか。しかし、理沙が口にした言葉は、あまりに意外なものだった。
「でも、やっぱマスクしてなかった私が悪いのかもしれない・・・」
「何言ってるの?どんな理由があったって人のことをいきなり殴るなんて許されるはずないじゃん!」
「でも、今は常識でしょう?電車でも、お店でも、学校でも、あんなに気を付けてるのに、私、どうしてマスクをしてなかったのかな。馬鹿だよね。やっぱり飛沫、とばしてたんだよ・・・」
理沙は赤黒い肌を痛々しく歪めながら、自分が悪いと繰り返すばかりだ。
 望未は混乱していた。飛沫って何だ?そんなもの、今までお母さんからだって、お父さんからだって、それからじいちゃんからだって、散々浴びてきたはずだ。それがそんなに危険だとしたら、人類はどうやって生き延びてきた?見えないものに怯え暮らし、孤独になり、揚句には誰かを傷つけることまで許されるのか?
 人々の姿は、かつての自分の姿だと望未は思った。来る日も来る日も不潔という見えない怪物の影に怯え、再現のない入浴や手洗いで苦しみ、そして家族や周りの人を傷つけてきた自分自身だと。
 望未は、今度は自分が理沙を救う番だと思った。しかし同時に、それがひどく難しいことであることも、望未はよく知っていた。


 それからというもの、理沙の顔からは笑顔が消えた。話すことといえばコロナに関する心配事ばかりだ。理沙を殴った男は、いまだ捕まらないが、望未にとって不思議でならないのは、理沙がその事件については一切触れず、とにもかくにもコロナの感染対策ばかり気にしていることだ。どうして彼女は自分を殴った見も知らぬ男に怒らないのか。それが不思議でならなかった。
 理沙は変なことばかり言うようになった。自分の親は望未の親より年齢が上だから、もしコロナにかかったら、きっと死んでしまうに違いないとか、無症状であっても自分はコロナに感染していて、たった今も家族にうつし、翌日には死なせてしまっているかもしれないとか、とにかくそんな心配ばかりしている。挙句には自分は飛沫の量が人より多い気がするとまで言い出した。そんなことはないと否定しても、絶対そうだと聞き入れようとしない。
 そしてある日、理沙は、飛沫はマスクをしていても完全には防げないから、これからは別々に登下校しようと言い出した。近くにいても会話はラインだけ。そして、いつしかその返信さえ来なくなった。もちろんナカタ・イッシンの煎餅屋に出かけようという話は立ち消えになったままだ。
 そして、とうとう理沙は学校に来なくなった。二回目となる首都圏の緊急事態宣言やらは、思っていた通り延長になった。部活動も軒並み休止状態だ。下校時の空の下には、理沙の大好きな合唱の声も、なんという楽器が分からないが、吹奏楽部が出すボワーっという響きも、そして汗臭い野球部やサッカー部の逞しい掛け声も、何も聞こえない。
学校は、ただただ静かに仕事をこなし、帰るだけの場所となった。時の止まった学校は、理沙がいなくなった今、何のために存在しているのかさえ、望未には分からない。

 大きな天上窓の外で、小さな蕾を開きかけた桜の枝が楽しげに揺れている。入り組んだ枝の隙間からこぼれる青空と陽光は、室内をゆらゆらと漂う細かな塵の姿までを映し出している。
 望未は不思議に思う。いつも見えない汚れに怯えているというのに、この部屋で、はっきりと見える塵たちの姿は、なぜか望未の恐怖を呼び起こさない。ただ、そこにあるものとして、それらを受け入れ、時々、穏やかな眠気に誘われることさえある。
 一軒家を改築したこの診療内科クリニックは、注意しなければ素通りしてしまうくらい辺りの住宅街の風景に溶け込んでいる。一階の受付の横の階段を登り、廊下の奥の扉を開けると、そこが診察室兼カウンセリングルームだ。十畳ほどの部屋にはふかふかの絨毯が敷き詰められていて、家具といえば、壁際の本棚と、部屋の中央に向かい合わせに並んだ二台の椅子、そして先生の右横に置かれた小さな机だけだ。それでもこの部屋が温かみに満ちているのは、この大きな天井窓のおかげだろう。少しだけ開かれたその窓から吹き込んでくる風は、今日も望未の髪を心地よく撫でる。
「なにかあった?」
正部先生は、天窓ばかり見上げている望未の顔を見つめた。
 望未は何から話して良いのか分からず、先生の言葉に答えず、ぼんやりと頭上に広がる世界を眺めていた。
先生は、それ以上何も言わず、縁なし眼鏡を外すと、白衣の裾でレンズを拭いた。母と同じくらいか、少し若いようにも見える正部先生は、化粧気のない顔に、ひっつめ髪がトレードマークだが、眼鏡のない顔を盗み見るに、けっこう美人だ。
 母にここへ初めて連れて来られた時は、絶対に口なんかきいてやるものかと思っていた。寄ってたかって手洗いや入浴をやめさせ、自分をばい菌だらけにしようとしているのだと思っていた。さぞかし怖い目をした子供だったろう。しかし望未は、いつしかこの場所が好きになった。正直、先生と話しをすることに、どんな効果があったのかは分からない。楽しいわけでも、心躍るわけでもない。しかしともかく望未は、最近、自分の心がいくらか強くなったと感じている。
今なら自分は理沙の役に立てるだろうか。望未はそう考えながら、正部先生に理沙のことを話してみることにした。
「いきなり殴るなんて、ひどいわね」
話を聞き終えた先生は顔を歪めた。
「うん。ひどい。本当にひどいよね。許せない。でも、理沙は怒らないの。自分が悪いってそればっかり。なんでなんだろう」
「そうね。私なら何が何でも犯人を探し出して十回はブン殴ってやるけどね」
望未は、その答えがあまりに先生らしくて思わず笑ってしまった。先生は時々、先生らしからぬことを言う。そして、こう続けた。
「その理沙ちゃんって子は、まだ準備が出来てないのかもね」
「準備?」
「本当のことに向き合う準備。怒りとか恐怖とか、本当のことに向き合うって、けっこう勇気がいることでしょう?自分を責めておけば、本当のことと向き合わずに済むし、安全圏にいられる。分かるでしょう?望未ちゃんなら」
先生はそう言って微笑むと、そろそろカウンセリングの回数を減らしていこうと提案した。

 
 理沙は、どんどん深みにはまっていくようだった。一日数回のラインは欠かさないようにしていたが、最近では、たまにしか返事をくれない。その返事さえ、コロナ・ウィルスの恐怖を強調した記事のURLばかりだった。もう、開くのもうんざりだ。こんなものばかり探して読んでいては、理沙は本当に頭がおかしくなってしまうと望未は思った。学校に行きたくないなら、せめて外で会って話をしないかと誘っても、「飛沫が飛ぶ」の一点張りだ。
 ベッドの上にスマホを放り投げ、身体を伸ばした。息苦しいだけの学校、話し相手のいない休日。自分たちの青春は、このまま終わってしまうのだろうか。望未は暗澹たる思いで深い溜息を吐いた。
「夕飯できたよ」
母に呼ばれ、ベッドから重い身体を起こした。あんまりお腹は減っていない。
 ジイちゃんのコップにビールを注いであげた。じいちゃんは、なんとも美味しそうに喉を鳴らし、あっという間に飲み干してしまった。その幸せそうな顔を見ていたら、望未は不思議な気持ちになった。
「じいちゃんは、私たちと一緒に御飯を食べるのが怖くないの?」
「何の話だ」
「だからさ、一緒にご飯を食べると飛沫が飛んで、コロナに感染するかもって」
「はは。そうらしいな」
じいちゃんは興味なさそうに言うと箸で唐揚げをつまみ、これまた幸せそうに頬張り、望未の顔を見て聞いた。
「そんなに怖いのか。コロナってのは」
「よく分かんないけど。学校でも一人で食べるようにって言われてるし。しかも、じいちゃんは、その・・・高齢者だし」
「いいか、望未」
じいちゃんは、唐突にその顔をぐっと望未に近づけた。さすがは元俳優。目力がすごい。
「みんなが同じことを言う時は気をつけろ」
「どういう意味」
「どうもこうもない。右を見ても左を見ても、みんなが同じことを言う時は信じるな」
じいちゃんは相変わらず意味不明だ。でも、なんだか話していたことがどうでも良くなり、望未は空になったじいちゃんのグラスに再びビールを注いでやった。じいちゃんは、あっという間に二杯目も飲み干してしまった。毎度のことだが、じいちゃんの飲むビールは本当に美味しそうだ。今も現役の俳優だったならCMの依頼が来たに違いない。
「そんなに美味しいの?」
望未が聞くと、じいちゃんは、おもむろに立ち上がり、食器棚からグラスを持ってくると、望未の前に置いた。
「うまいぞ」
じいちゃんはそう言って、グラスにビールを注ぐと、にんまり笑った。
 望未は、じいちゃんの顔をじっと見上げる。じいちゃんが頷く。台所の母を振り返った。味噌汁を暖めていて、こちらの様子に気付く様子はない。
望未は、ぐいとコップを掴んだ。そのまま一気に喉に流し込んだ。
「いいぞ、望未」
「うま!」
思わず叫んだ。コーラとは違う喉の痺れと、胃の中を巡る幸福な熱さ。
「ちょっと、何やってんのよ」
母が慌てて火を止めると、こちらにやってきて望未のグラスを取り上げた。しかし、既にグラスは空っぽだ。
「もう、お父さん、やめてよね。望未、大丈夫?」
望未は母に向ってピースサインを作ってみせた。自然と笑顔がこぼれた。なんだかいい気分だ。考えたら、こんな風に笑ったのはどのくらいぶりだろうか。
「見てみろ。ケロッとしてるぞ。お前に似たんだな」
じいちゃんは母の顔を見て笑った。母は呆れたように娘と祖父の顔を交互に見ると溜息を吐き、じいちゃんの前に置かれた瓶ビールを掴みとった。そして、望未から取り上げたグラスにビールをなみなみと注ぐと、じいちゃんと同じように喉を鳴らした。
 望未は、楽しいなと思った。そして、早く自分もお酒を飲めるようになりたいと思った。大学生になって、素敵な先輩たちに誘われ、お洒落をしてお酒を飲みにいくのだ。そこには、もちろん理沙もいる。しかし、いつしか自分たちは、そんなささやかな未来さえ信じることができなくなっていた。
 またも沈みそうになる気持ちを奮い立たせるように、望未は茶碗を持ちあげた。ほかほかの白米の上に唐揚げを乗せる。立ち上がるニンニクの匂いで久々に食欲が刺激された。口いっぱいにご飯を頬張り、なんとなしにテレビ画面へ目をやった時だ。
「あ」
望未は声を上げた。
向かい側に座るじいちゃんも、背後のテレビを振り返った。
「お、イイ男だな」
「自分で言うかな」
母は笑った。
 南の島(らしきところで)ボロボロの服を着た男の人が走り回っている。傷だらけの白黒フィルムだ。俳優時代のジイちゃんである。しかし、それは懐かしの名画を紹介する番組の、ほんの一コマだったらしく、すぐに若かりし日のじいちゃんは画面から消えてしまった。
「なあんだ。終わっちゃったじゃん。もっとよく見たかったなあ。ねえ、映画のDVDとかないの?」
望未の問いに母は首を横に振った。
「VHS版が一本あったんだけど、おじいちゃんたら、昔のものは写真から何まで全部捨てちゃって」
「昔の物を残しておくなんて年寄りのすることだ」
じいちゃんは笑うと、さっきの映画が、どんな物語だったかを教えてくれた。
「俺は無人島に漂着した船乗りの役だ。時折、遠くに見える船に向かって、懐中電灯をつけるんだ。1、2、3、4、5、6回。休んではまた1、2、3、4、5、6ってな。軍隊で学んだモールス信号だ。自分は生きているんだって叫びながら。だが、無常にも電池はなくなり、いつしか十年。最後に助けに来てくれたのが、生きてると信じていてくれた弟だ。この弟役がな、すごい役者だったんだぞ。ミッキー田中。知ってるか?じいちゃんの友達だ」
焼酎のお湯割りを舐めながら、じいちゃんは上機嫌に話した。望未としては、見てもいない映画の話をされても正直ピンとこないが、じいちゃんが楽しそうなのが嬉しかった。
「そのミッキー田中っていう人、今はどうしてるの?」
望未が聞くと、じいちゃんは珍しく言葉を迷うと「どっかで生きてるさ」とだけ答えたきり、何も話さなくなった。
 と、台所とリビングを隔てるカウンターテーブルの上で、電話が鳴った。
「誰かしら」
母が立ち上がる。家族それぞれが電話を持っているから、家電が鳴ることは珍しい。壁掛けの時計を見ると午後八時。たまにかかってくる畳屋やリサイクルショップの営業電話にしては時間が遅い。
 受話器を取った母は、いつもよりワントーン高い声で応対すると、すぐさま望未を振り返った。
「今日、理沙ちゃん、学校に来てた?」
箸を持っていた望未の右手がピタリと止まった。
「来てないよ。ていうかずっと」
母は眉間に皺を寄せると、受話口に当てていた手を離し、再び電話の向こうの誰かと話した。時々、警察、捜索願いなどという物騒な言葉が聞こえてくる。望未の胸が不安に締め付けられた。
「理沙がどうしたの!」
受話器を置いた母は困惑したように言った。
「あんたもなんで言わないのよ。理沙ちゃんが学校に来てなかったこと。本人は、毎日、制服を着て家を出ていたらしいわよ。でも、今日は、夜になっても帰って来ないって」
望未は乱暴に箸を置いて立ち上がり、自分の部屋へ入るとスマホを掴んだ。震える手でラインの無料通話ボタンを押した。しかし、聞こえてくるのは、呑気な呼び出し音ばかり。
『お願い、電話に出て』
メッセージを送り、既読の文字が現れないか目を凝らすが、自分のメッセージだけが虚しく浮かんでいる。
「望未、何があったの」
開いたままのドアの前に立っている母が心配そうに尋ねたが、望未は説明するのももどかしく、何度も通話ボタンを押し続けた。
何十回目だろう。理沙の声が聞こえた。なんだか死ぬほど懐かしい。思ったよりも落ち着いた彼女の声を聞いて望未は少し安心した。
「どこにいるの」
理沙は黙ったままだ。
「お願い。どこにいるか教えて」
望未は必死に言ったが、やっぱり理沙は答えてくれない。と、受話器の向こうから何やら小さな高い声が聞こえてきた。意識を集中し、耳を澄ます。次は、はっきりと分かった。
「理沙、お願いだから、そこにいて」
望未は言うなり玄関に走り、スニーカーを履いた。
「ちょっと、どこ行くのよ。ていうか理沙ちゃんは?」
慌てて後ろを追ってきた母が聞く。
「事情は後で」
望未が玄関扉に手をかけた時だった。
「羽ばたいてこい」
じいちゃんの声だ。見ると、母の後ろに立っている。
「意味わかんないし」
望未が笑うと、じいちゃんも笑った。
 外へ飛び出し、駆け出した。夜道を全力疾走した。駅前の飲食店は軒並み明かりを消していて、人影は少ない。寂しくて不安になるが、走るのにはちょうど良い。駅前を通り過ぎ、まっすぐに坂を登ると、夜の明かりが揺れる境川が見えてきた。望未は立ち止まると、息を整えた。手の平の中で、両膝が笑っている。チアダンスで鍛えた足には自信があったのに情けない。望未は自分を奮い立たせるように前を挑み、マスクをはずすと、再び走り出した。川沿いをひたすらに走り、隣町へとつづく鉄橋の袂まで来ると、堤防の上へと続く小さな石段を登った。その瞬間、望未は安堵の息を吐いた。
 黒い川面と、その向こうにまたたく工場街の明かりを背負った理沙は、コンクリート塀の上に、ぽつんと座っていた。隣には、堂々と太った三毛猫が眠っている。
望未は後ろ手で、ひょいとコンクリート塀の上に飛び上がると三毛猫の隣へ座った。
「ぶっちゃん久しぶり」
三毛猫のぶっちゃんは高い声を上げた。さっき理沙の電話の向こうで聞こえた声だ。
 望未が初めてぶっちゃんと会ったのは、理沙との学校の帰り道で、小学校一年生の時だったから、ぶっちゃんは少なくとも十歳にはなるはずだ。右耳には、避妊手術済の印である桜カットが施されている。いわゆる地域猫というやつだ。器量良し、愛想良しで、近所の人から色んな名前で呼ばれ、幸せなことに腹を空かせているのを見たことがない。そのぶっちゃんは、望未にとっては、もう一人のカウンセラーとも言える存在だった。というのも、不潔恐怖が酷かった時代、望未は不思議とぶっちゃんだけは汚いとは思わなかったのだ。外に出られそうな時は近所を散歩し、ぶっちゃんに会いに行くと、少し心が落ち着いたものだ。理沙もきっと、毎朝、何食わぬ顔をして家を出て、毎日ここへ来ては、ぶっちゃんと過ごしていたのだろう。そして、今日、とうとう限界が来たのだ。
「ごめんね」
理沙は、疲れた顔で望未を見た。
「何が」
「心配かけて」
望未は大きく首を横に振った。
「なんかもう分かんなくなっちゃった」
理沙は、ぽつりと呟いた。
「何が?」
「私、どうしたらいいのかな。どこに行くのも怖い。コロナになったらどうしよう、誰かにうつしたらどうしよう。すごく怖いの」
理沙は今、確かに病んでいる。でも、望未にはよく分かる。行き止まりに突き当たり、うろたえることしかできない人の気持ちが。
 望未は塀の上から飛び降りると、息を一つ吐いた。そして、思い切り地面に寝転んだ。自分でも、なぜそんなことをしているのか分からないまま、望未はそのまま腕を伸ばし、空き缶のようにその場から転がった。
「ちょっと望未、何やってるの?」
驚いた理沙が飛び降り、望未に駆け寄ってきた。望未は、自分でも何をやっているのか分からない。それでも、望未は転がることを止めなかった。
「望未、汚れるから、やめなよ」
そうだ。理沙の言う通りだ。自分は何て事をしているのだろう。地面は自分が最も恐れる場所だ。どこの誰が、どんな靴で歩いたか分からない最も穢れた場所。しかし、今、自分は自らそこへゴロゴロと転がっている。少し前だったら気を失っていたかもしれない。でも、今は違う。望未は思った。死んでも転がってやる。この汚れた場所へ意地でも身体を擦りつけてやる、と。
「理沙、すごいでしょう!私、こんなことまで出来るようになったんだよ!汚れても怖くないの!だから、理沙も大丈夫だから!怖くないから!」
もはや自分でも何をいっているのか分からない。望未はそれでも叫びながら、転がり続けた。転がりながら、理沙は腹の底から猛然と怒りが湧きあがってくるのを感じていた。理沙を殴ったやつ、怒鳴ってばかりいるオデコ広田、文句ばかり言って、気の優しい管理人さんを困らせているあの陰気な女・・・。何かがおかしい。狂っている。自分たちは騒ぎたいのでも、遊びたいのでもない。
ただ、生きたいのだ。
「分かったから。もういいから。やめて」
理沙は望未の肩を掴んだ。理沙は、泣きながらポケットに手を入れ、ようやく動きを止めた望未の顔をハンカチで懸命に拭いた。 
 こんな騒ぎの中でも、ぶっちゃんは塀の上で熟睡していた。
 
 久しぶりに理沙と並んで歩いた。お互い何も話さず歩いていたら、いつの間にか家の前へ着いていた。
「帰れる?」
望未が聞くと、理沙は頷いた。理沙の住む一件家は、ちょうどこのマンションの真裏だ。
「ありがとうね」
理沙は小さな声で言った。望未は思った。明日から理沙は学校に来るだろうかと。いや、そんなに簡単には行かない。これから理沙は、長い時間かけ、自らの作りあげた恐怖にもがき苦しむのだ。そして、それは、誰も変わってあげられないことなのだ。
「またね」
そう言って別れようとした時だった。前方で何かが光った。
いつもの竹下さんの家の窓からだ。
「どうしたの?」
立ち止まったまま上を見上げている望未に理沙が尋ねた。望未は、相変わらずチカチカと明滅を繰り返す窓を指差し、事情を説明した。
「ふうん。なんだろうね。蛍光灯が切れかけてるとか」
「にしても、何か月も前からだよ。さすがに変えるでしょ」
その時、望未の脳裏に、じいちゃんの言葉が浮かんだ。確か、なんて言ったっけ・・・。そうだ。モールス信号。
 まさかと思いながらも望未は、もう一度窓を見上げた。1、2、3、4、5、6。暗転。そしてまた1、2、3、4、5、6。それからまた・・・。その繰り返しは、確実に一定間隔に、そして誰かの意思をもって行われているように見えた。どくんと胸が波打ち、胃の奥の方が冷たくなる感じがした。
 理沙に話すと、彼女は大きく目を見開いた。
「やばくない?」
「いや、でも単なる偶然かもしれないし」
自分から言っておきながら望未は怖気づいていた。
「でも、ほら、やっぱり見て。確かに六回づつチカチカしてる」
「だけど、証拠も何もないし。しかも情報源はじいちゃんの出てた大昔の映画だよ」
「そうだけど・・・」
二人で立ち尽くしていると、背後に人の気配を感じた。二人で振り返った。大きな人影がある。思わず悲鳴を上げ、身を寄せ合った。
「やっぱり変だよね」
その人は、静かにそう言った。その視線の先を見ると、望未たちの見ていたのと同じ窓を見ている。しかし、そんなことよりだ。自分たちより、はるか上にあるその人の顔を見た望未と理沙は、もう悲鳴どころか声を出すことも出来ずにいた。二人の目の前に立っているのは、確かにナカタ・イッシンだった。望未は、慌てて握っていたハンカチで頬を拭た。不思議なくらい会うことのなかった彼と、よりによって今夜、会うなんて。神様も意地が悪い。
「SOSかな・・・」
女子高生二人の動揺など意に介す様子もなく、ナカタ・イッシンは心配げな顔を窓に向けたままだ。びっくりするくらい背が高くて、そしてその横顔は、吸い込まれそうな美しさだ。
「君、身長いくつ」
唐突にこちらに顔を向けた彼は、そう聞いた。どうやら望未に聞いているらしい。
「170㎝ですけど・・・」
望未は、わけも分からぬまま答えたが、声が裏返ってしまった。ああ、恥ずかしい。
「届くかな」
彼は再び窓を見ると、独り言のように言った。
「何がですか」
「俺が190㎝だから、君を肩車したら窓の中を見られるかなと思ってさ。あそこ、多分3mちょっとだよね」
「いや、無理だと思いますよ。いくら、その、そちらの背が高くて、私もそうだとしても、いくらなんでも二階の窓ってのは・・・」
望未は、とんでもないと思った。こんな汚い身体で彼の肩に乗るなんて。
「望未、肩の上に立ったら?ほら、昔、チアダンスでよくやってたじゃん」
突然、大きな声を上げたのは理沙だった。望未は眩暈がする思いだった。ショルダーライド。それはチアダンスの基本技だ。相手の肩の上に立ち上がる技。
「いや、そんな、いきなり出来ることじゃないし・・・」
望未は半笑いで後ずさる。きっかけを作ったのは自分だが、もういい加減帰りたい。しかし、どうやらそうは行かないらしい。
「なるほど、ショルダー・ライドか。それならいけるかも」
「あの、今、ショルダーライドって言いましたよね。御存知なんですか?」
望未が恐る恐る尋ねると、彼は大きく頷いた。なんでもチアリダンス部の顧問を担当する教師の役をやったことがあるらしい。それで今やろうというのか?無茶苦茶だ。しかし、拒否する間もなく、すでに彼は右足を後ろに引いた状態で身体を屈め、両の腕を背中側に伸ばし、その手の平を上に向けていた。ショルダーライドを支える側の姿勢である。本当にやる気か・・・。助けを求めるように理沙を見ると、さっきまで泣きそうだった理沙が力強く頷いている。今日は何て日だろうと望未は思った。地面を転がったと思ったら、今度はナカタ・イッシンの肩に乗ることになるとは。
 望未は、ふうっと息を吐き、彼の両の手をしっかり握った。分厚い手がしっかりと自分のそれを包む。胸の鼓動を必死に抑え、その場にスニーカーを脱ぐと、彼の腰に自分の片足をかけた。それから一気に大きな背中を駆け上がった。肩に両足を置いた瞬間、流れるように彼の手は望未の脹脛へ移動し、しっかりと体重を支えてくれた。望未は、ナカタ・イッシンの肩の上に、真っ直ぐ立ち、腕を真横に伸ばした。もはや気分はタイタニックだ!
「望未すごい!」
下で理沙が手を叩いている。なんだか夢を見ているみたいだ。しかし、と望未は我に返った。こんなことをしている場合ではない。望未は、頭のすぐ上にある手摺をぐっと掴んだ。そして腕を伸ばし、その窓硝子を拳で小さく叩いた。
チカチカしていた明かりが点灯したままになった。しばらくするとカーテンの奥に人影が映り、こちらへ近づいて来る。望未は、ごくりと唾を飲んだ。あの恐ろしい顔をした女だったらどうしよう。
 静かにカーテンが開いた。しかし、望未の目を捉えたのは、いかにも怯えきった女性の顔だった。間違いない。小さな頃から見ていたあの穏やかな顔。竹下のおばさんだ。
 望未は、両の手を使い、ジェスチャーで窓を開けてくれるように頼んだ。しかし、竹下さんは首を横に振るばかりだ。もしかして、窓が開かないのか。警察に連絡しますか?そう聞きたいが、窓ガラス越しで上手く伝わらない。思い余って、望未は右手の指を真っ直ぐ揃え、おでこにつけた。敬礼の姿勢だ。警察を示す動作が、それしか思い浮かばなかったのだ。そして、今度は受話器を握る動作をして耳に近づけた。
『警察に電話しますか』
心の中で必死に言った。無理かと思ったが、強い思いというのは伝わるものらしい。竹下さんは涙を浮かべながら、望未に向かって、はっきりと頷いた。


 望未は、駐輪場の軒先に何とか逃げ込むと、ほっと息を吐いた。間一髪。先ほど降り始めた雨が、白いしぶきを上げながら地面を叩きつけている。家はもう目の前だが、これでは傘があっても数秒でずぶ濡れになるだろう。こういう雨は大抵、少しすれば治まるものだ。 
 望未は誰かの自転車の荷台を拝借し、重い通学鞄を置くと、数メートル前方に見える五階建ての茶色い建物を見上げた。平和と中流家庭の象徴のような、ここらではよく見かけるファミリー向けマンション。ここで一週間前、あんな事件があったことを、望未は不思議な気持ちで思い出していた。
 かのモンスター・クレーマー竹下真宙という女は、自分の母親だけでなく、娘も軟禁状態に置いていたそうだ。家中のドアと窓には内鍵が取り付けられ、鍵を差し込まないと開けられない仕組みになっていた。なんと二人は紙おむつの着用を強要され、部屋から出られるのは入浴時だけだったという。その時でさえ、女は風呂の外に立ち、ずっと見張っていたというから恐ろしい。取り調べでは「母と娘を守るためだった」と繰り返しているそうだ。
 今年で築二十年になるこのマンションには、最近、空室が目立ち始めた。今回のことといい、マスク男のことといい、もはや恐怖の館のように噂されているようで、しばらくは買い手がつかないだろう。
 望未は考える。この四角い建物の中で共に暮らす住人たちの、そして理沙を殴った男の心は、コロナによって歪んでしまったのだろうか。それとも彼らの正体が明るみになっただけなのだろうか、と。
 理沙は、まだ学校に来ることが出来ないでいる。しかし、毎日するラインには必ず返事をくれるようになったし、コロナのこともほとんど話さなくなった。望未は信じている。そう遠くはない日に、彼女は自分を殴った犯人に怒り、立ち上がることを。
 雨脚が弱くなってきた。次第にそれは優しい霧となり、いつしか頭上を覆っていた黒い雲の間から青い空が覗き始めた。
 望未は鞄を肩にかけ、少しばかり挑むように前を見た。そして強く思った。失ったたくさんのものは絶対に取り返してやる。絶対に理沙は戻ってくる。その日まで、ちょっとつまらないが、一人で頑張ろう、と。
 嘘のように明るくなった空を見あげると、見事な虹がかかっていた。真っ白な雲を透かした虹は、鮮やか弧を描き、川の方へと向かって落ちていた。理沙とぶっちゃんにも見えているだろうか。
 望未は鞄からスマホを取り出すと、滅多にないその景色をカメラに収め、ツイッターにアップした。さっそく『窓を開けてみたよ!感動!』というリツイートがあった。
 もう一度、上を見上げた。マンションの窓が一つ、二つと開き始め、その窓から住人が顔を覗かせている。よく見ると、近所のあちらこちらの窓が開いている。望未は人々の顔を飽くことなく眺めた。
 目と鼻と、そして口のついた人々の顔が、世にも美しい空を見上げていた。

コロナの空の下

コロナの空の下

世界を騒動に巻き込んだコロナ。大変なこともたくさんあったけど、きっと後になれば笑えることもたくさんあると思います。特殊な時間の覚書として、コロナ渦を生きる人々を描いてみました。気楽に読んで少し元気になってもらえたら嬉しいです。FASE1~FASE5までコロナに翻弄される人物の物語をそれぞれ書いていますが、オムニバスっぽくなっているので、興味があるものから読んでいただけます。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-10-24

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  1. FASE-1 悪い夢の始まり
  2. FASE-2 煽る夫
  3. FASE-3 箱入れ娘
  4. FASE-4 クローゼットの涙
  5. FASE-5 コロナの空の下