戸次の鬼姫~立花誾千代異譚~

第1話 弥十郎

 戸次(べっき)道雪の肺腑から深い吐息が漏れた。それというのも主家である大友家に九州探題であった(かつ)ての面影はなく、落衰がいちじるしいからだが、目の前の男は別のことを考えていた。
(御年七十に手がとどく、息女のこともある。……ご苦労が絶えぬのだ)
 道雪の顔貌に刻まれた(しわ)のひとつひとつが大友氏、とりわけ先代大友義鎮の栄枯に関わるものと言えよう。その黄昏を決定的にした戦がある。

 天正六年日向国、耳川における大会戦。

 道雪自身はこの戦いには参加していない。そもそもこの戦いに反対していたということもあったが、自身の受け持ちとなっている筑前・筑後・肥前の情勢がそれを許さなかった。
 主君の大友義鎮はこの合戦に乗り気で、道雪ら重臣の反対を押しきり、作戦を立案、大軍を日向に差し向けた。しかし、これを待っていた島津氏は得意の「釣り野伏せ」によって大友軍を撃破し、日向の支配権を確たるものとした。
 道雪とともに大友全盛の立役者となった吉岡長増、臼杵鑑速(あきはや)、吉弘鑑理(あきまさ)といった賢臣らはすでに亡く、この戦で蒲池鑑盛、吉弘鎮信、角隈(つのくま)石宗、佐伯惟教、斎藤鎮実、田北鎮周(しげかね)などの功臣も討死し、耳川以降、北九州の戦況は厳しくなる一方で、周辺の国人層や地侍層の大友家からの造反も活発となっている。なかには肥前の大勢力龍造寺氏や筑前南部の秋月氏に内応の密約を交わすものまで出はじめていた。
「主だった者は鎮定したが、こうも後から後から続くとな……」
「辟易……されておられる」
「合戦には銭がいるのだ。当然だろう」
「博多の商人たちに捻出させるというのは?」
「……大友家そのものを担保にすれば……。あるいは……」
「しかし……。それは気が進まない?」
「まぁな……。頭痛の種だよ」
 弥十郎は道雪の立場を察した。大友氏の最後の、そして最大の藩屏(はんぺい)、筑前の守護代、毛利家との取次、その顔はいろいろある。その上、戸次家の行く末までとなれば、その苦労は並大抵ではない。それは、すでに老翁の域を迎えている道雪の容貌が物語っていた。
「たとえば、焼物や織物……。そういった工芸品の増産に、これまで以上に力を入れるというのは?」
「それも一案だな……。しかし、それには年月がいる」
「……たしかに、熟練の塗物師や染め師を育てるには時がかかります」
「急がば……。というやつか」
「そう思います。それに、博多の商人たちに大きな利益をちらつかせて、ルソン(フィリピン)やアンナン(ベトナム)での明の海商との交易を奨励なさるのも……。明国の皇帝は嫌がるでしょうが、背に腹は代えられません。まさかこれが理由で元寇とはならないでしょう」
「そうだな、彼らを焚き付けるというのは……ふふ……なかなか面白い」
 道雪は弥十郎の反応に満足したようだった。とはいえ、戸次道雪の拠る立花山城が財政難に陥っているわけではない。むしろ資金は潤沢だった。
 が、九州北部および南部は、関東や東海、北陸などに比べると膏腴(こうゆ)の地であるとはいえない。それらの諸州には、地力でおとる。今以上の稼穡(かしょく)を農民から徴収するわけにはいかない。領民の大半は決して裕福とはいえない状況で命をつないでいるのだ。ではどうするか、商利である。

 ――博多――。

 この交易都市がもたらす恩恵は計り知れないものがある。時節に敏感な素封家(そほうか)が日本の各地から集まり、日夜富を築くことに狂奔しているからだ。城の土蔵(どぞう)丁銀(ちょうぎん)であふれ、平時であれば今のままでも十分心やすい。だが、戦ほど金を喰らうものはない。鉄砲や刀剣類などの武器弾薬の購入・補充に糧秣の備蓄、馬の飼葉だとて馬鹿にはならない。
 また、師を興すこと自体金がかかる。だれも只では働いてくれない。戦ばかりしていては、農民は田を耕すことすらできなくなる。そうなれば税に苦しむ者たちは逃散し国が成り立たなくなる。勝ちに乗っている順境ならばまだいい。それならば「食於敵」こともできる。しかし、逆境のなかそれをすれば国家は崩壊する。
 「兵者国之大事」といわれる所以である。道雪はそれを嘆くのだ。しかしいま、若き年寄の献言でおおよその目途はたった。が、次なる問題がこの歴戦の老翁を悩ます。それは、大友家と周辺諸侯との関わり方だった。大名たちはみな生き残りをかけて戦っている。そこには一片の情もない。乱世なのである。
「毛利が変節すると思うか?」
 毛利と島津。ともに織田信長を敵とする両者には、信長派となった大友を潰すという密約の存在が考えられる。講和が成立していても、油断はできない。
「織田信長……。羽柴筑前が播磨あたりに居座っている今、それはないでしょう」
「……将来の展望ほどたてるのが難しいものはない」
「それは……。しかし、いますぐそれを疑う必要はないのではないかと……」
「つまり、羽柴筑前の働き次第……か」
「あの才能は信頼できる……。そう感じます」
「……たしかに、あの男は面白い……。が、その人柄はどうかな」
「人の下にいつまでも甘んじている男ではない……ですか?」
微賤(びせん)の身から叩き上げてきた男だ。そう疑われても仕方なかろう」
 弥十郎は、つねづね羽柴秀吉という男の動向を注視していた。木下籐吉郎と名乗っていたときから、それは続いている。
(……危険な男に見える……。かもしれんな)
 道雪には、流石に秀吉の本質が見えているようだった。
「さしあたって、肥前の龍造寺あたり……。それに筑前・筑後の反乱分子の動静を逐一、蝶者に報告するよう命じてあります」
「龍造寺……。あのときの記憶は」
「ええ……。いつの世でも負け戦とは、(にが)いものですから」
 十年ほど前、肥前で勢力を拡大する龍造寺氏を討伐するため、築紫山脈を越えて、はるばる築紫平野に進軍したことがあった。大将の大友義鎮(宗麟)は高良山(たからやま)に布陣した。道雪と弥十郎も大友本軍のかたわらに駐留していた。宗麟は先陣三千を一族の大友親貞に任せ、龍造寺勢の籠る佐嘉城への攻撃を命じたのである。
 だが、親貞は一向に城から出てこない敵をあなどり、夜半に酒宴をもよおし酒を(あお)る、という失態をおかした。はたして敵の知るところとなり、夜襲を受けた親貞隊三千は潰走した。道雪は踏みとどまって手輿(てごし)のうえから兵を叱咤した。しかし、敗残兵の弱気が伝播し、まわりの兵卒も戦意を失っていた。いかな道雪でも負けが確定した戦を挽回できるものではなかった。敗戦のさなか、弥十郎は槍を振るって敵勢と渡り合ったため、悲惨な戦いが胸に刻まれたのだった。
「そちの言うとおり、謀叛人どもの鎮圧が最優先だろう。ただ……」
「龍造寺への警戒は」
「怠らないにこしたことはない……。しかし……どうも彼奴(あやつ)らの狙いは別のところにあるような気がしてならない」
「南下する……と?」
「そう思える……。ただ、警戒は怠らないようにしてくれ」
「わかりました」
 弥十郎は、道雪の直感を疑ったわけではないが、龍造寺がそれほど早く南下を始めるとは思えなかった。南に行けば、勢いに乗る島津氏とぶつかることになる。が、弥十郎の理性はこのとき鈍っていたのかもしれない。昨夜の情人との房事が影響していたのかどうかは定かでないが。
 これよりしばらくのち、龍造寺隆信は南へその鉾先をむけることになる。その意味では、道雪の直感には驚嘆に値するものがあった。
 そして、この老将は、もう一つ問題を抱えていた。それは私的なもので、大友氏の社稷の存続に関わるというような大きなものではない。しかし、戸次氏の浮沈に関わるものであるとは言えた。道雪には男子がおらず、一粒種である誾千代が現在、戸次氏の当主に据えられているのである。この時代においては稀有な例だといえよう。
「誾千代のことだがな……。そちはどう思う?」
「……大殿。誾千代さまの伉儷(こうれい)として、わたしは相応しくありません」
 弥十郎は、高貴という性質を女に求める趣味はない。
(高貴という属性ほど、女を(おご)らせるものはない……)
 そう彼の本能が感じているからである。高慢な女は彼の好みではないからだ。だかといって、ふしだらで淫蕩な女も敬遠している。
(慎み深い清らかさがあればいい)
 しかし、それを口には出せないため、拝辞(はいじ)の理由を別につくることにした。
「わたくしが戸次家の当主となっては、他の年寄(おとな)が黙ってはおりますまい。お家騒動がおこっては、本家(大友家)が迷惑なさるでしょう」
「そう……なるかな?」
「おそらくは」
 戸次道雪は、顔をかたむけて目をほそくし天井をみつめた。この老雄が思慮するときの仕草だ。
 家督をゆずった誾千代は、目の覚めるような美貌の持ち主だった。
 大友家中の若侍の間でも、
「あの姫御寮(ごりょう)の婿になるのは、いずれの果報者か」
 と、ささやかれるほどの。家中きっての切れ者と(めあわ)せたいと思っていたが、道理のある進言だ。
「娘とは、やっかいなものだ」
「そう……おしゃいますか」
 皮肉ったわけではない。が、
(……もう少し……だな)
 弥十郎は、ひそかに思う。
 道雪は、後ろに控えている小姓に目配せした。近侍が、持っていた杖を主人に渡す。この老翁は、三十半ばで片足が不自由になったため、杖を使わなければ歩行も難しい。荒木村重に岩牢に押し込められて片足が不自由になった黒田如水のように。弥十郎も立ちあがって道雪に続く。
「そういえば……。今日は誾千代さまをお見かけしませんが?」
「言ってなかったか。馬を走らせる、とか申してな、狩装束で出ていった」
「なるほど……。ご活発なことはなによりです」
 そう言う弥十郎の脳裏には、誾千代のたおやかな狩装束姿があざやかに浮かんだ。趣味ではないとはいえ、あの気高い美しさにはやはり惹かれるのだ。
(……度し難いな……わたしは)
 城の庭にでた弥十郎をあたたかい陽射しがつつんだ。

第2話 花霞

 ふっと息を吐いた。
「やぁ!」
 誾千代の品のある低い声が、あたりに響いた。
 (あぶみ)をきゅっと踏みしめて、馬を走らさせた。つややかな黒髪が、ゆるやかにひるがえる。狩装束(かりしょうぞく)をとおる風の感覚は何にもまして心地よい。
(……こうでなくてはな。城から出たのは正解だった)
 足をくれ、黒鹿毛(くろかげ)の速力を一気に上げた。それを追尾するように、十数騎があとにつづく。
 風にのった髪は絹糸のようになめらかに流れ、ときおり姿をあらわす耳は小ぶりで、可憐な横顔は大人になりきれてないが、白雪のような肌によって輝いている。
 切れ上がった(まなじり)と軽くむすんだ唇に(ちりば)めた微笑は、この乱世にどこか期待をかけているようにもみえる。ほっそりとした腰をしゃんと立て、驪馬(れいば)をあやつる。
 風を斬り裂いて突き進むことに高揚した気分。自然、詩を口ずさむ。
胡馬(こばだい)大宛(えんのな)(あり)
 鋒稜(ほうりょう)痩骨(そうこつ)(なる)
 竹批(たけそぎて)双耳(そうじそば)(だち)
 風入(かぜいりて)四蹄(していか)(ろし)
 所向(むこうとこ)()空濶(くうかつなく)
 真堪(しんにしせ)(いをたく)死生(するにたう)
 驍騰(ぎょうとう)(なること)如此(かくのごときあれば)
 万里(ばんりも)可横行(おうこうすべし)
 天生の麗質は隠し難い。華やかに装ったいにしえの美姫、みな動揺し、恥ずかしさのあまり、花の(かんばせ)を袖で覆い隠す。李武后もかくや、と思わせる美貌であった。
 少女は、手綱(たづな)の手触りの楽しんでいる。昨日(さくじつ)、新調したものだ。
「今日は、どこまで行くおつもりです?」
 少年の声が、うしろから追いかけてきた。
「愚問だな……忠三郎(ちゅうざぶろう)。そういうありふれた質問は愚か者のすることだ」
 前方をするどく瞻視(せんし)したままの誾千代は、そう言った。
(思うようにするさ)
 心のなかでそう語る誾千代の眼前に、筑前のパノラマが広がる。緑が、新鮮な香りを醸しだしている。昨夜降った雨が影響しているのだ。
 この筑前の国は、現代でこそ政令指定都市の福岡市を中心に人口が密集し、大都市圏を形成している。
 しかしいまは、太宰府や博多など一部の例外はあるものの、そのほとんどは、(ごう)と呼ばれる律令制度下の末端行政単位のもとに構成されていた小集落群から発展した郷村(ごうそん)(畿内周辺では惣村)であるが、それも現代の市町村とは比べものにならないほど家屋の密集度は低い。
 現代の総人口は1億3000万人弱で、この桃山時代の総人口が1500万人、しかもその十分の一ほどの人口のほとんどが大都市。つまり京都、堺や博多、あるいは大名の城下町や寺内町、門前町や湊町に集まっているのである。それ以外の鄙びた土地の人影の寂しさは容易に想像できる。
 そのため、人馬の往来も少なく人家もまばらであった。もちろん、道路は舗装されていない。だから、雨が降れば、泥濘(ぬかるみ)が生じて人々の交通は不便となる。それは、一般の通行人にかぎらず、馬借(ばしゃく)車借(しゃしゃく)といわれる運送業者にも影響を及ぼした。
 雨は、恩恵ばかりをもたらすものではない。
 誾千代は、器用に馬をあやつって泥濘(ぬかるみ)を跳躍させる。
「……おおっ……」
 あとにつづく忠三郎たちは、感嘆の声をもらした。
 が、その称賛を気にも留めずに誾千代は走りつづける。
(……狩りの前に……。……嫌なことはかたづけておくか)
 ちらりとある人物を思い出した。
 その人物は、誾千代の幼年期における学問の師で、太宰府の北方二里ほどのところにある寺の住持(じゅうじ)をしていた。徒然草を記した吉田兼好のようなやさしい面差しの老僧である。
 真紅の(すね)当てと頬貫(つらぬき)が黒い腹を打つ。少女の青驪(せいり)が疾駆し、速力がさらにあがる。
「……太宰府にゆく。遅れるなよ、忠三郎」
 その一言で少年には、あの寺だな、と察しがついた。
 歴史的に言えば、大宰府である。が、 誾千代は地名としての太宰府を言っている。
 大宰府とは、かつて(から)との外交を担っていた朝廷の出先機関である。また、九州全土と周辺三島を統括する行政長官の御座所でもあった。が、今では往時(おうじ)の面影は、なくなっている。
 有名なのは、菅公(菅原道真)が流罪に処された場所であるということだ。そのとき残した和歌は、世に広く知られている。花山院が撰進させた拾遺和歌集に、悲哀とともに(つづ)られた。
 それから、およそ四百年後の南北朝時代には、足利氏と敵対した南朝方の拠点となった。しかし、それも長くは続かなかった。北朝方司令長官の今川了俊(いまがわりょうしゅん)に敗北し、南朝方は衰退の一途をたどったからだ。
 太宰府に行く誾千代の胸は、少しざわついていた。
「前髪が、少し……うるさいな」
 誾千代はひとりごちた。
「なにか、おっしゃいましたか?」
 忠三郎だ。
「……気にする必要はないよ。……放っておけばいい」
「そうですか……」
 忠三郎の瞳は、前方を駆ける誾千代の姿を終始とらえていた。
(……いい香りだな。……あぁ……。誾千代さまのものか……)
 それは、誾千代の香りであった。
 香炉で沈香(じんこう)(くゆ)らせてそれを愉しむような、特に、青公家(あおくげ)女房(にょうぼう)どものするようなことは嫌いであった。しかし、父には逆らえないため、着用している純白の直垂(ひたたれ)小袴(こばかま)などからも、馥郁(ふくいく)たる香りが溢れるようにただよう。
「城督としての覚悟と女のたしなみは別物だ」
 と、つねづね(さと)されてきた。
 目的地につくと、誾千代は軽妙に馬をとめた。
 そして、まだ若い少女のしなやかな身体が地上に降りたった。
 供の若党(わかとう)に落ちついた感じのする紅色の射籠手(いごて)をはずさせ、手にしていた重籐(しげどう)(のゆみ)もあづける。
 誾千代と十数人の供侍たちは、石段を(さっ)と上がると、まっすぐに本堂に向かって歩いて行った。この時間、師の禅僧栄海は弟子たちと座禅をしていると知っているからだ。
 誾千代の小気味の好い足音が本堂の廊下に響く。
「誾千代どのか?」
「……ああ、そうだ。……久しいな。和尚(わじょう)
 その声は、老僧をいたわるようにやわらかだった。
「お待ちしておりましたぞ。御身(おんみ)を待てども、なしの礫……。拙僧は、光源氏を想う六条の御息所(みやすんどころ)のような心持ちでおりましたぞ」
「ふ……。御坊(ごぼう)の冗談も、堂に入ってきましたな」
「いやいや。決して(たわむ)れなどでございませんぞ」
 栄海は、ゆったりと話した。
「ふふ……だが……。戯言(ざれごと)はその辺りにしてもらおう!」
 誾千代の残忍そうな瞳が、ぎらりと光った。
「この寺は、島津方の密偵を匿ったと聞く。返答やいかに!」
(なにっ!)
 忠三郎ら近習が太刀に手を付けて身構える。
「……そういう記憶はないが。お疑いとあらば家捜しなさるがよい」
 栄海は、落ち着き払って首をまわしている。
 が、弟子たちは違った。
「誾千代さま! これは如何なるっ!」
「騒ぐなっ! これ以上喚けば騒乱罪とうけとる。あるいは自白とみなすが、それでもよいのか?」
 誾千代の細い腕が、舞うように空を切った。
 それを見た忠三郎ら近侍たちがその場から散って、一斉に捜索を始める。
「寺のすみずみまでさがせ! しらみつぶしにするのだ! 老師……。覚悟はできておられましょうな?」
「無論のこと……。が、証拠がでねばどうなさる?」
「……そのときは、この戸次(べっき)誾千代の首級をさしだそう……」
 遠くでうぐいすの鳴く声がきこえた。
「山々の桜も、早晩散り始める。あなたの玉の緒のように……」
 誾千代と栄海の視線がちりちりとぶつかっている。脳裏には、栄海から教えをうけた幼き日々の記憶が走馬灯のように浮ぶ。
「これまでのご薫陶には感謝する。……しかし、裏切りを見逃すわけにはいかない」
「ふふ……。よくここまで御成長召された」
「誾千代さま! このようなものが……」
 その書面に目を通した誾千代は、かすかに眉根(まゆね)をよせた。
 そして、若党がもってきた少し(きい)みがかった奉書紙(ほうしょかみ)を、眼前の禅僧たちに見えるように大きくひるがえした。
 彼らの顔は恐怖にふるえている。
「裏切りの証拠だ! 和尚、散り際は美しく……。そう教えてくれたのは、あなたであったはずだ」
 遙か遠くにみえる山桜が、この世の生を愛おしむように煙っていた。

第3話 三州の総大将

 東の空が明るみはじめた。
 はるか彼方に桜島の山容が望まれる。
 その裾野が紺碧の海原にゆるやかに広がり、山の頂きには千切れ雲が棚引(たなび)いて、あたかも純白の噴煙が遠慮がちにあがっているようだった。

 天正九年春、薩摩国内城(さつまこくうちじょう)

 取次役が、評定の間の手前で片膝(かたひざ)をついた。
兵庫頭(ひょうごのかみ)さまから、国境付近に出没する大友勢を排除したい、とのお言伝(ことづて)がありました」
「馬鹿な。又四郎には、決して動くなと伝えよ」
 島津義久は、にべもなくはねつけた。
「……それでよろしいので?」
 弟の歳久だ。
「当然だ……。大友の挑発にのって動くなど……もってのほかだ。いま奴と事を構えるわけにはいかんからな」
 義久は、天下取りをめざす織田右府(信長)の差し出口にうんざりしていた。
「…………」
「……又六郎。そのほう……、わかっていてそれを聞くか……」
 歳久は、兄のほうへ視線をわずかに流している。彼は、くっくっ、と笑ったあと迅速な筆運びでなにかを書き記した。この弟は、気付いたことを束ねられた小さめの紙に(つづ)る習慣がついていた。
 義久は、それ自体を(とが)めるつもりはない。が、
(……美濃紙(みのし)もただではないのだがな)
 と、思うことがある。
 義久がこう思うのも無理はない。
 今でこそ、紙は消耗品のように扱われているが、産業革命以前のこの時代、機械などはなく大量生産などできない。もちろん原始的な機械はあったかもしれないが、動力を用いた本格的なものはない。そのため、紙は手作りで、現代よりもはるかに高価なものだった。少なくとも、庶民が気軽に手にできるものではない。
「しかし……。吉岡長増、吉弘親子、臼杵鑑速、斎藤鎮実、角隈(つのくま)石宗、佐伯惟教、蒲池鑑盛……大友を支えてきた重臣は、もう志賀、朽網(くたみ)ぐらいか……。そうなると……戸次(べっき)道雪も憐れだな」
「……フン」
 歳久は、鼻を鳴らした。
「なんだ?」
「兄者は、たしか、戸次の老いぼれに御執心であったはずでは?」
「いつの話をしている? ……そんなことは忘れたな」
「忘れるものですか?」
「しつこいぞ。……又六郎」
「これは、失敬……」
 歳久は、板敷の間から感慨深そうに桜島を見遣った。この部屋は、桜島の全景が真向いに見える造りになっている。
「若い頃の兄者は……。透きとおるような白い肌をもつ美男子でしたな。日新斎(じっしんさい)の爺様が、ご自分の母上の容姿に兄者のお顔がそっくりだと、よく(もら)されていたことが、近ごろは、つい先日のように思い出されるのですよ」
「男が容姿を褒められたところでなんになる。俺にとって、あれは迷惑でしかなかった……。お爺様も人であったということか」
 『あれ』とは、日新斎が、義久の容貌を見て曾祖母(そうそぼ)常磐(ときわ)に、
「よく似ている」
 と、漏らしていたことだ。義久は、そういうとき、心のなかで苦笑(にがわら)いを浮かべていたのだった。
 が、今の義久からはその面影が薄れていた。この巨大な島津家を運営するという重圧がこの男の肩に重くのしかかっているからだ。父と祖父の遺志を実現させる、という使命感だけがこの男を突き動かしていた。
「あの頃は辛かった」
「ああ。たしかにな。しかし、よくもここまでこれた。……だが、今の我らがあるのは、お爺様と父上おかげだ」
「……ですが。兄者の美事なお働き、御両所(ごりょうしょ)が存命であれば、きっとお褒めくださったでしょう」
「だとしてもそれは、そなたや又四郎、それに、又七郎の助けがあればこそできたことだ。……感謝している」
 又四郎とは島津義弘のこと。そして又七郎とは島津家久のことである。この男たちの父親は、かつて英明と謳われた伊作日新斎の嫡男である島津貴久であった。
 『伊作』とは、この男たちの本当の名字であった。つまり彼らはもともと島津家の嫡流(ちゃくりゅう)ではない。
 島津家の庶流(しょりゅう)の出なのだ。この薩摩でも下剋上があった。
 島津本家の家督を継いでいた軟弱な男は、すでに彼らの手によって薩摩から放逐(ほうちく)されている。その生来虚弱な男は、心のなかで恨みを(くすぶ)らせながら大友氏の治める豊後にすごすごと亡命した。
 名を、島津勝久という。
 しかし、実力がものをいう今の世においては、この男たちが島津本家を継承したのは自然のなりゆきだった。
「勝久殿を殺さなかったのは正解だったな。御陰で大友攻めのいい口実ができた」
「くっくくっ……。兄者も、お人が悪い」
(この笑い方が気になるのは俺だけか?)
 義久は、この弟の奇妙な笑い方が昔から好きではない。

 義久には人望があり、義弘は武勇に優れ、歳久は知謀に長け、家久は生来豪胆であった。

「それにしても、筑前の草が殺されたのは計算外でしたな」
「まぁな、しかし……あの小娘……。なかなかやるではないか」
「たしか……。……戸次……誾千代、とか」
「老いぼれは、ついているらしい」
「老いぼれ? だれのことです?」
「宗麟坊主のことに決まっているだろう」
「そういうことですか」
 歳久は、納得した。
 兄の義久が、実は、戸次道雪に畏敬の念を抱くと同時に畏怖の念を覚えていることを知っているからだ。
「今は大友とは和睦していますしね」
「……信長も、余計なことをしてくれる」
「ですが、いま奴に逆らうのは得策ではないでしょう」
「それは承知しているが、あの男……なんとかしたいな……」
 彼らは耳川の戦いで大友氏を日向から追い、九州全土の制覇という島津一門の悲願を叶える目前までその歩をすすめていた。しかし、中原(ちゅうげん)を支配する信長の横槍にあい、泣く泣く大友家と和議を結ぶ羽目になったのだ。だから信長を憎むのも致し方ない。

 近江の安土城は、すでに落成している。

 あの美麗な天主閣は、諸国の大名や国人領主の心胆を寒からしめるかのように琵琶湖のほとりにある安土山に君臨していた。九州の雄島津義久が肝を冷やすのも無理からぬことだった。
「まぁ、奴との約束はあくまでも大友の領地を侵さない、ということです。あの起請文(きしょうもん)には肥後のことまでは言及されていない」
「そうだな……肥後を窺うか? それもいい……だが……」
「再びの難癖をご案じか? こればかりは手を出してみなければわかりませんが、おそらくその心配はいらぬでしょう」
「……なぜそう言い切れる?」
「あの人物がいますな……。奴の近くには」
「なるほど……。お前という奴は……あっはっはっはっ!」

 義久は、我が意を得たり、とばかりに哄笑した。

「……あの御仁に、お出まし願うか?」
「ご名答」
「悪知恵が働くようだな、お前は。……又四郎や又七郎では、こうはいくまい。楽しくなりそうだっ!」
 義久はふたたび哄笑した。
 義久は弟たちや有能な家臣の使い方、彼らを適材適所に配置するという戦国大名としてもっとも重要な資質にめぐまれていた。

「義久には、三州(薩摩・大隅・日向)の総大将たる器が自然にそなわっている」

 とは、彼らの祖父である伊作日新斎の有名な言葉である。
 日新斎(じっしんさい)は、偉大な戦略家であり、卓抜した戦術家であり、古今無双の謀略家だった。
 彼は、その生母である常磐(ときわ)によって養育された。
 この常磐こそ、彼ら『伊作家』の人々の原点であると言えよう。
 常磐はその妖艶な容姿によってつぎつぎに男たちを(たらし)し込んだ。ときには庭師を、またときには、別の島津分家の当主を誘惑するといったように。
 彼女は稀代の『妖婦』なのだ。
 いまでも、薩摩では常磐の妖しいほどの美貌が語り継がれている。もちろんその真の素顔は隠されていた。しかし、語り継がれた噂からそれを知る者もいた。ただ伊作家の人々を(はばか)って誰もが口を閉ざすのだ。とはいえ、噂とは為政者に対する民衆のささやかな抵抗である。だから支配者の目の届かぬところでは、やはり人々はそれをして溜飲(りゅういん)を下げる。
 ときには、敵方の勢力が種を蒔き人心を惑わせるということもあった。しかし、歳久の情報収集能力は彼ら兄弟のなかでもやはり異彩を放っていた。飼っている間諜(かんちょう)がそれを拾ってきたのだ。
「兄者。曽婆(ひいばあ)様のことだが……。世間では噂に尾鰭(おひれ)がついて妖婦だなどという悪言が流布しているぞ」
「どういうことだ?」
「おそらく。……人心攪乱のために戸次の老いぼれあたりが流しているんだろう」
「だったら、領内でそんな不届きな噂をする()れ者がいれば密かに始末しておけ」
「了解した」
 歳久は立ちあがって踵を返すと、評定の間から退座した。

 ひとり残った義久は怒りに震えていた。
(我らが敬愛する御方を()(ざま)に言うとは……許せん!)
 桜島の美しい情景は義久の目には映っていなかった。

第4話 異国の駿馬

 空は晴れ、浜には白泡を含んだ波がうち寄せている。
 弥十郎は異国情緒漂う街を歩いていた。
 彼は誾千代の相手として相応しい者をさがすよう道雪に命じられていた。今日もある国衆(くにしゅう)の子弟を実見(じっけん)しに行ったのだが、二三質問をし、見込み無しとしてその城を辞去してきたのである。
 もちろんそこに至るまでの簡単な調査は部下にやらせている。その帰りに馬市を見に行くため、北西へ進路をとって博多によったのだ。
 潮の香りが鼻梁をくすぐる。
(やはり、この雰囲気はいい。……胸を弾ませてくれる)
 立花山城近郊の浜辺とはまた違った趣がある。弥十郎は久々に立ち寄った博多という町にあらためて好感を抱いた。
 桜の花びらが舞う道を、弥十郎は東へ向かっている。進むうちに前方に人垣が見えてきた。すでに競りが始まっているようだ。三十貫、五十貫、七十貫、という商人の声が聞こえてきた。そして、どんどん値段が上がっていく。
 ついに、
「百貫、百貫でお買い求めになる方はいらっしゃいませんか?」
「よし。その値で買おう」
 落札した人物に衆目が集まる。その瞬間、周囲はしんと静まり返った。その男が尋常の者ではないと見えたからである。
 編笠(あみがさ)からのぞいている引き締まった口元は、その男の意志の強さを示していた。着ている服装はすべて黒で統一されている。小袖(こそで)伊賀袴(いがばかま)は言うおよばず、羽織や足袋(たび)にいたるまで。
 それは弥十郎の好む色だった。編笠を目深(まぶか)にかぶった顔は半分隠れている。
「おぉぉ~、あんた、豪儀(ごうぎ)だねぇ」
「銭は後日支払う。戸次道雪様を知っているか?」
「べっき……? どこの人だい」
「……知らんのか?」
「あたしら、明から来ているからねぇ。べっきと言われましてもね」
「明の者か……。ならば、あの山が見えるだろ」
 弥十郎は東の空を指さした。この異国の男にも立花山城の全景が目に入るはずだ。
「あの城に行けばいいのかい?」
「……ああ、麓まで来れば代金を払うように言っておこう」
「いいですよ。伺いましょう、そうそう払いは銀でお願いしますね」
 男が流暢な和語で応じる。とても異国の人間とは思えない。
「そうだったな。だが、生憎(あいにく)銀はない、銅銭で決済するしかないな」
 実際は豊富にある。とはいえ、足元を見られるわけにはいかない。
 立花山の土蔵には、博多の豪商、酒屋や土倉といった有徳層(ゆうとくそう)に税を課すことで(おびただ)しい量の御公用(ごくよう)丁銀や譲葉(ゆずりは)丁銀が蓄積されていた。
 彼らは年行司と呼ばれている。十二人からなる合議制の自治組織を構成する人々だ。つまり、交易都市博多の市政に参加できる有力者である。代表的で知名度が高い者としては、明や朝鮮と交易をして巨富をなした島井宗室、交易で巨万の富を築き諸大名垂涎の的となっている大名物『博多文琳(はかたぶんりん)』を所持している神屋宗湛があげられる。
 博多という港町は中世の初期の頃から海外貿易の拠点となっていた。平氏による日宋貿易、あるいは室町幕府や西国守護大名による日明貿易、または対馬を介した日朝貿易、あるいは琉球の主宰する中継貿易の恩寵をこうむり富を築いた豪商をその時代ごとに輩出した。
 平忠盛・清盛父子、足利義満、大内義興、大友義鎮といった時の権力者たちと良好な関係を築き時流に乗ったのだ。今の世で彼らが重ずべき権力者とは戸次道雪ということになるだろう。
 なぜなら、博多に奉行を派遣してこの地を実効支配しており、博多近郊の巨城に拠って大友氏から周辺の一円支配をゆだねられている。また、博多の侵略を目論(もくろ)んだ中国の奸雄毛利元就を北九州から遁走せしめ、その後善政を布いて博多に住まう民人の心とらえているからだ。博多沿岸に流れ込む河川の水運も握っており、物流の統制もできるため、無視することなどできない。
 また、博多近郊の関所の廃止、楽市ノ令の施行なども同時に行っており、この先さらに領内の経済的発展が期待された。それは博多に店を展開する商人だけでなく行商人や馬借・車借といった運送業者たちも望んでいることだ。彼らは数多くの関所で徴収される関銭(通行税)に辟易している。関銭の徴収は室町幕府の政策の一環であり、寺社や貴族といった荘園領主あるいは国人領主といった地方豪族の主要な収入源だった。
 これらを排除することは、旧来の既得権益にしがみつく人々の反発を招くことになるが、応仁の乱以降室町幕府の権威は失墜し、すでに遠く九州にまで代官を遣わす力すらない。また権門勢家(高位の貴族)も同様にすでに没落している。寺社にしても畿内から遠く離れている九州では、比叡山延暦寺や南都興福寺といった大寺院に遠慮する必要もない。唯一衝突があるとすれば筑前の国人領主層であろう。そのあたりの匙加減は難しいが、道雪は彼らの惣領以外の庶子を自身の馬廻衆に取り立てて生活の保証もしてやり、実力次第では戸次家の年寄(おとな)に昇進させるという制度も構築しているため、いまのところ国衆からも大きな不満はでていない。
 弥十郎も、そうして鄙賤(ひせん)の身から取り立てられた賢能の士であった。
「嫌ならこの話はこれまでとしよう、わたしは他にも数頭の良馬を所有している。無理に買う必要はないのでな」
「左様でございますか……仕方ありません、それで手を打ちましょう」
 この男には銅銭と銀を交換する当てがあるらしい。が、弥十郎がそこまで心配してやる謂れはない。
「代わりにこの馬を引き取ってもらいたいのだが」
 弥十郎は持っている馬の手綱をその唐人(からびと)に手渡した。
「なるほど。これは良い馬ですが、少々」
「十年ほど使っているからな。言い値でいい」
「話の分かる御仁だ。それでは……十貫ほどで如何です」
「それで構わんよ」
「毎度ありがとうございます。この馬は絹の道からもたらされたイスラムの産なんですよ」
「ほう……。アラブ馬か」
「正確には、アナトリア産ですがね」
「オスマン……。それほど遠くから……」
 弥十郎は以前博多に来ていた南蛮の宣教師が、
「イスパニアの遥か東にイスラムという宗教をもち、キリスト教圏の国々とかつて宗教上の争いをした国々がある」
 と言っていたのを思い出した。
 そして今現在その辺りの地域にそういう名の大国があるらしい。当時非常に驚いたことを覚えている。なにしろこの世界が球体であることすら知らなかったし、まして唐・天竺の遥か西にそのような聞いたこともない宗教をもつ人々がいることも信じられなかったほどだ。
 だが、何事も合理的に考える癖のついている弥十郎は、宣教師たちのいう西への航海の話やそれを実行したポルトガルの船頭の話を聞き、その事実をおぼろげながら信じるようになっていた。
(絹の道ということは、この馬はあの船頭とは逆の『地の道』をここまで来たということになるのか……)
 異境の国々を経巡り、多くの人々と苦楽をともにしながらようやくこの国まで来たのだろう。その様子がいま、絵巻物のようにあざやかに弥十郎の脳裏をかけめぐった。
「なんと壮大な……」
 感動をおぼえずにはいられない。誾千代の愛馬もイスラム圏のものだ。もしかしたらこの二頭はどこかで会っているかもしれないのだ。
(……たまにはこういう新奇な想像をはたらかせるのもいい)
 その商人が新たな駿馬(しゅんめ)の手綱を渡してきた。
 その馬はすらりと脚が長く筋肉質で、見た目にも活力に富み性格も荒々しく見える。であれば戦場でもよく働いてくれるに違ない。そしてなにより()げ茶色の毛並みが美しかった。
 なにもかもが彼好みなのだ。
(思わぬ拾い物をした……やはり博多は違うものだ。……この紫騮(しりゅう)とともに乱世を歩むのも悪くないかもしれん)
 このとき弥十郎は、言い知れぬ高揚感につつまれた。
 戦場という場所で生き甲斐すら感じる。
(……わたしは、生まれてくる世を拾ったようだ……)
 弥十郎は、満足していた。

第5話 博多の才女

 落札した馬の手綱を引きながら、弥十郎はまた歩きはじめた。
 異国との交易に手を出す大商人の邸宅がいく棟もある商業都市。多く商家が軒をつらねていた。豪商と呼ばれる店もあれば、規模の小さな店もある。
 ときおり編笠から射し込む光が(まばゆ)く、彼の切れ長の目が一瞬まばたいた。左手には遠く海が見える。砂浜で漁師たちが地引(じび)き網を引いていた。すると、突然風が巻き起こり砂煙が立った。弥十郎は左手を口にあてたが、(ほこり)が少し入り咳き込んだ。
 歩き方も様になっている。
 背筋を伸ばして歩く姿は、まるで帝国海軍士官のように凛々しい。その歩みは比較的ゆっくりしたものだった。またしばらく行くと、分厚い看板を飾っている大店(おおたな)の店先から女の声が聞こえてきた。荷車から積荷を下ろしている人足たち。それを指図している若い女の姿が目にとまったのだ。
「……娘のようだが、女中には見えんな」
 その娘は荷物の積み上げが終わると、さっさと店のなかに入っていった。ふと見ると菊乃屋という看板が店頭に掲げられている。
「早世した親のあとを継いで、富を築いたという娘だな。あれは」
 その噂を聞いていた弥十郎はその店に立ち寄ることにした。
 店は客で賑わっていた。
 藤色の暖簾(のれん)を手で分けて店に入った。すると、机の前に座り帳簿を確認している女が店の者にてきぱきと指示を出している。その働きぶりに弥十郎は好感をもった。紐をといて編笠を片手に持つと、
「主はいるか?」
 総髪(そうはつ)の弥十郎は板敷となっている店の床に座り、編笠を傍らに置いた。
「わたくしが菊乃屋の主、千鶴でございます」
 三つ指を床につけて丁寧にお辞儀をしてきた女は、見れば二十歳そこそこという若さであった。
「私は、戸次家家中の者で、倉田弥十郎と申す。所用があって博多に立ち寄ったのだが、貴方の熱心な仕事ぶりに感心してな。つい」
「ふふっ」
「……なにか?」
「倉田様でございますね。存じております。戸次の大殿様の御信任が厚い方だとか」
(……油断のならない女だ)
 弥十郎は、本能的にそう感じた。
「さあ。それはわからんが、知っていてくれたのは嬉しい」
 弥十郎は、素直にそう言った。
「こんなところではなんでございますから、奧でお茶でも」
「それは有り難い」
 千鶴が両手を差しだしたため、弥十郎は、差料(さしりょう)を腰から抜いて遠慮なく彼女に渡した。そして、埃を手で軽く払ってから草鞋(ぞうり)を脱いだ。羨望を隠せない番頭や手代たち傭人(ようにん)らを尻目に、弥十郎は彼女に続いて歩いていく。
 千鶴の部屋は豪華だった。
 異国のものと思われる調度品が飾られており、なにか別天地に来たように感じた。おそらくこの娘は平戸に来訪するカラッチ船とも取引をしているのだろう。千鶴は弥十郎の太刀と脇差を刀架(とうか)に立てると、しなやかな腕で座布団がしいてある上座を示した。
 弥十郎が、どかりと座る。千鶴も向かい合う位置にたおやかに腰をおろした。彼女が手に持った鈴を鳴らすと、女中が茶を持って現われた。まるで弥十郎の来訪を初めから知っていたような手際であった。
(やはり、()り手らしい……)
 喉が渇いていたため、弥十郎は彼女がだしてくれた茶を少し急いで飲んだ。そして、つい音をたてた。
(我ながら……)
 ちらと女主人に目が行く。が、特に気にしてない様子であった。
 弥十郎は喉の渇きを癒やすと、
(事の(つい)でだ)
 と思い、話を切り出した。
「ぶしつけで悪いのだが、唐物(からもの)の絹に限らず、明やルソンなどからより珍しい品をとりよせて(あきな)ってもらいたい。一定以上の儲けを挙げれば、租税は軽減しよう」
「戸次様のお台所も潤うというわけですね。利口ですこと」
「さあ。……それは」
 弥十郎は、言葉を濁した。
「しかし、この店だけが例外なのではないということは、承知してもらはねばならん」
「もちろんですわ」
「良い返事だ。ならば、大殿に相談申し上げたのち、近日中にも布告をだすとしよう」
「ご用件はそれだけでございますか?」
「と言うと?」
「戸次様の姫様が、婿捜しをなされているとか。まことでございましょうか?」
「なぜそれを?」
 弥十郎は少し驚いた。だが千鶴はそれには答えなかった。
「でしたら、ご推薦いて頂きたい御方がいらっしゃるのです」
「ほう。聞かせてもらおう」
 千鶴は、にこりと笑って続けた。
「岩屋の城督であられます高橋鎮種(たかはししげたね)様の若様で、弥七郎統虎(やしちろうむねとら)という御方でございます」
「なるほど、その名は聞いたことはある。しかし、あの御方は惣領(そうりょう)だ。高橋様が手放すかな?」
 弥十郎も高橋弥七郎の名は聞いたことがある。しかし、将来有望な嫡男を父親が手放すとは思えなかったため調査対象から外していたのである。
「わたくしどもに任せて頂ければ」
 そう言う千鶴の顔は、自信に満ちていた。
「これは、あの方の御意思なのだ。そのつもりで励んでほしい」
「わたくしの器量を疑うのですか?」
「……信じればこその発破だよ、これは。……それが不満なら激励と受けとってくれればいい」
 天正九年の春は、まだ終わらない。

第6話 胡蝶の舞

 今宵(こよい)、立花山城の中庭には舞台がしつらえてあった。その舞台でいま、猿楽(さるがく)師が平家物語の一幕を演じている。その両隅には、舞台を赤く照らす松明(たいまつ)が掲げられていた。
 舞台の向かいにある板敷の間の奧には大きな松の木が描かれている。その枝の蒼は、右から左へと力強く伸びていた。
「例の話は、どうなっている?」
「……ある人物に一任してございます」
 道雪の斜め後ろに座っている弥十郎が答えた。
「信頼できる者なのか?」
「ええ……。そう、思っています」
 猿楽師の足運びは遅々として遅い。
 道雪の背後には、弥十郎ら年寄(おとな)たちが控えている。
「誾千代は戻ったか?」
 道雪が近習に聞いた。
「はっ。先ほど遠駆(とおが)けからお戻りになりました」
(はよ)う、ここに参るように申せ」
「はっ」
 その近習は下がっていった。
 誾千代とともに城に戻っていた忠三郎(ちゅうざぶろう)が、客席の最後列に座った。
「弥十郎、秋月らの動きは……?」
「順調です」
「結構だ。……ふっふっふっ……だが。ちっ」
 道雪は舌を打った。猿楽師の緩慢(かんまん)な動作がなぜか気に障ったのである。
「誾千代はまだか?」
湯浴(ゆあ)みの(のち)いらっしゃるそうです」
「わかった……。下がれ」
「はっ」
 近習は再び下がって行った。
 道雪は、それでもやはり、龍造寺の動向に対する懸念を捨てきれずにいた。
「あの肥満の化け物(龍造寺隆信)め……。奴の心が量りがたい……。杞憂(きゆう)であればよいが……」
「……ご自分の予測に誤りがある……と?」
 弥十郎は、蝶者の報告から確かに龍造寺方の動きが妙だ、との情報を得ていた。だが、この老将の直感を信用していたため少し楽観していた。
「わしは、甘かったかな?」
「いえ……。恥じるべきは、わたくしでございます」
 戦になるかもしれない。
 しばらくして、誾千代があらわれた。
 刈安で染められた淡黄蘖(うすきはだ)の小袖。そのうえに薄紫の薄絹(うすぎぬ)()まれた打掛(うちかけ)を羽織っている。その立ち姿は楚々として美しい。家臣らの目を引くものだった。
「遅かったではないか」
「申し訳ございません。お父様(とうさま)
 誾千代は、彼女のために(しつら)えられた席に着座した。それは道雪の隣りにあった。脇息(きょうそく)には手をおかず、打掛けの(おくみ)を軽くつかんでいる。鳶色の虹彩は、まっすぐに舞台に向けられていた。
「そなたの婿となる男が決まりそうだぞ」
「……左様、でございますか……」
「相手の名を聞かんのか?」
「……聞いて、どうなるのです?」
 誾千代は少し声を張った。(おくみ)をつかむ両手に自然と力が入る。
「ふむ。……理屈じゃな」
 誾千代の瞳は父との会話の間中もずっと、足をすりながら動く猿楽師の姿を見続けていた。
 そして、猿楽の演目が終わった。
 その役者たちは客席の道雪たち戸次家主従に深く一礼し、脇へと下がって行く。
 道雪は娘の横顔を見た。薄雲に隠れている月明かりに照らされて、ほのかに白い。
一差(ひとさし)し舞わぬか?」
「もし……。本当にお望みなのでしたら……」
 誾千代は座を離れ静かに舞台に(のぼ)って行った。
 舞台の両端にある松明が一時消される。
 ―――― しばらくして ――――
 再び火が(とも)された。
 そこには扇子をもって片膝をつき、背筋を伸ばして年寄(おとな)たちを真っ直ぐ見つめる少女の姿があった。
 細いしなやかな腕を前方に上げながら、ゆっくりと扇子を広げる。
 先ほどの猿楽とは打って変わって物静かな曲調となった。笛の音は穏やかに、(つづみ)(おと)も抑えられる。
 誾千代の舞は世に広まっているような平凡な曲舞(くせまい)ではなく、娘の男子化を怖れた道雪が、猿楽師に命じて徹底的に女らしさを追求させて(つく)らせたものである。
 強いて言えば、唐の国の美姫(びき)のするそれに、すこし似ていた。
 それでも、誾千代本来の凛々しさが残っている。それが彼女の舞姿をよりいっそう引き立てた。
(……あぁ……)
 忠三郎は少女の舞いに酔いしれた。心の中に彼女の夫となる男に対する敵愾心(てきがいしん)が生まれていた。
 家臣たちの前でこの舞を披露するのは初めてだった。
 舞台の上で繰り広げられる舞はたおやかであった。ゆったりとした笛の音色にあわせて少女の舞はつづく。
 誾千代は男たちに舞を披露しながら、母のことを想っていた。母の仁志は、前夫との間に子までなしながら、何の疑問ももたずに父道雪の継室となった。誾千代は、幼いときからそんな母の生き方に強い疑問をもっていた。無論、父や男たちの身侭(みまま)な欲求は論外であるが、母のもつ女の従順さに対する憎悪と、女を物としてあつかう男たちへの反発が、誾千代の人格に影を落としていた。
和尚(わじょう)……。わたしは、(あおい)の上となるのか? それとも、運命(さだめ)(あらが)えるのか?)
 少女の細い身体が優雅にまわる。打掛が、風を()びたようにはらりと(なび)いた。
 左手に持っている扇子をゆっくりと返して首を左へ傾けながら、扇子を持つ細い左腕をゆっくりと前方に送る。そして、春の名残を惜しむかのように傾けていた顔を月に向けた。
 顎を少し上げ、月を見つめる姿はどこか哀しげだった。
 ふたたびたおやかに旋転する。
 月が淡雲(たんうん)からその姿をあらわした。
 煌煌と照らす月明かりのもと、純白の足袋(たび)を起点としたゆるやかな旋転はつづいている。彼女の想いを一人残して。
 客席へ流した瞳が弥十郎の視線と一瞬重なった。
(ほう……)
 弥十郎は、感心した。この舞を見るのは初めてだったのである。
 散る桜と()りなす舞はどこか(はかな)げで、そのまま淡雪のように消えてしまいそうだった。
(……老師……。わたしは……)
 知らぬまに、誾千代の舞に熱がこもっていた。白居易の詩が心に浮かび、口ずさみながら、激情が少女を突き動かし、舞にも自然と激しさがくわわる。
綠衣(りょくい)監使(のかんし)(きゅうもん)宮門(をまもる)
 (ひとたび)閉上(じょうように)陽多(とざされてより)少春(いくばくのはるぞ)
 玄宗(げんそうの)末歳(まっさい)(はじめて)選入(えらばれている)
 入時(いりしときは)十六(じゅうろく)今六十(いまはろくじゅう) 
 同時(どうじに)采擇(さいたくす)百餘人(ひゃくよにん)
 零落(れいらくして)年深(としふかし)殘此身(このみをざんす)
 (おもう)(むかし)吞悲(かなしみをのみて)別親族(しんぞくにわかれ)
 (ふされて)入車中(しゃちゅうにいれども)不敎哭(こくせしめず)
 皆云(みないう)入内(うちにいれば)便(すなわち)承恩(おんをうくと)
 (かおは)芙蓉(ふようににて)(むねは)似玉(ぎょくににたり)
 (いまだ)(くんのう)君王(のめんをみる)(をうる)見面(をいれざるに)
 (すでに)(ようひ)楊妃(にはるかに)遥側目(そくもくせらる)
 (ねたみて)(ひそかに)潛配(じょうよう)上陽宮(きゅうにはいせしめ)
 一生(いっしょう)(ついに)向空房(くうぼうに)宿(やどる)
 (あきの)(よるは)(ながし)
 夜長(よるながくして)無寐(いぬるなく)(てん)不明(めいならず)
 耿耿(こうこうたる)殘燈(ざんとう)背壁影(かべにそむくかげ)
 蕭蕭(しょうしょうたる)暗雨(あんう)打窻聲(まどをうつこえ)
 春日遲(はるのひはおそし)
 日遲(ひおそくして)獨坐(ひとりざし)天難暮(てんくれがたし)
 宮鶯(きゅうおうは)百囀(ひゃくたびさえずるも)愁厭聞(うれえてきくをいとい)
 梁燕(りょうえんは)雙棲(ならびすむも)老休妒(おいてねたむをやむ)
 鶯歸(うぐいすはかえり)燕去(つばめはさりて)(とこしえに)悄然(しょうぜん)
 春往(はるゆき)秋來(あききたりて)不記年(としをしるさず)
 (ただ)向深宮(しんきゅうに)望明月(めいげつをのぞむ)
 東西(とうざい)四五百(しごひゃっかい)迴圓(まどかなり)
 今日(こんにち)宮中(きゅうちゅう)年最老(としもっともおゆ)
 大家(たいかは)(はるかに)尚書(たまわる)(しょうしょのごう)
 小頭(しょうとうの)鞋履(あいり)(せまき)衣裳(いしょう)
 靑黛(せいたい)點眉(まゆにてんず)眉細長(まゆはほそくながし)
 外人(がいじん)不見(はみず)(みれば)應笑(まさにわらうべし)――天寶(てんぽうの)末年(まつねんの)時世(じせいの)(よそおい)――」
 唐の玄宗の頃、中国全土から美女を集めるための専門の吏がいた。花鳥使という。この詞は、そうして宮殿に囚われ、一生を終わらせた、宮女の悲しみをうたったものである。
 嫋やかな舞を続けながら、時を超えて、彼女の魂魄がのり移ったかのように、切れ長の瞳に輝きと鋭さが宿る。
 誾千代の胸に宮女の悲しみがかさなる。月影に映える姿は、花のまわりで舞っている蝶さながらに可憐であった。
 居並ぶ男たちは彼女の舞に陶酔している。
 舞ながら誾千代は、自身がしょせん籠の鳥であることを思い知らされていた。男たちに対する憎悪が湧きあがり、そのような男たちのなすがままになった母への怒りが全身の血を奔流させた。しかし、その想いが舞に表れることはなかった。乱世を城督として生き、培われた精神力によって、感情が外界へ表出するのをおさえていた。
 そして、舞は終焉を迎えた。
 誾千代は閉じた扇子を手前において片膝をつき、群臣(ぐんしん)を真っ直ぐ見つめている。
 黒曜石のような瞳が凛然(りんぜん)と輝いていた。
 きゃしゃな両腕で打掛の(たもと)を大きく(ひるがえ)した誾千代の瞳は、眼前の男たちに対して挑戦的な色を()びていた。
「これにて終幕とさせてもらう!」
 誾千代は声を強く張った。
(わたしは、母のようにはならない。……男の脇を飾るだけの人形になど……なるものかっ!)
 夜は、深々と更けていく。

第7話 薩摩潜入

 弥十郎は弁才船(べんざいせん)に乗っている。
 菊乃屋の所有するものであった。
(彼女には、借りができたようだ)
 千鶴が金に物を言わせたのかは分からないが、高橋鎮種(たかはししげたね)は誾千代と統虎(むねとら)の婚約を意外とあっさり承諾したのである。
「しかし……」
 左手には天草の山々がそびえている。
 この舟は天草灘を南に向かっていた。
「良い風景だ。心が洗われる」
 弥十郎は、気分がよかった。
 船縁(ふなべり)に置いた手にかすかに波飛沫(なみしぶき)がかかって、さわやかだった。
 彼は舟の反対側に行ってみた。広がる大海原が目に入る。
「……これは……。素晴らしい」
 弥十郎は、感動した。
 空は晴れ渡っている。白い帆が風をはらんで大きく揺れるようにはためく。鳥たちが大空を自由に飛びまわっていた。
 陸地から大海を見たことはあったが、それとはまた違う印象だった。海の上に浮かんでいるという感覚が彼の琴線を共鳴させたのだ。
「これほどとはな。よい土産話ができそうだ」
 弥十郎は微笑した。
 彼は道雪が右筆(ゆうひつ)に書かせた書状をたずさえている。それは(ふところ)にあった。
 弥十郎は、背中に巻いていた弁当包みの結び目をといた。
 この大きな海を見ながら食べる中食(ちゅうじき)は、この上なく美味い。
 そのとき海面がキラキラ輝いた。小魚の群れが泳いでいる。
(この底には、一体なにがあるのか……。……そうだ、たしか……珊瑚、とかいうものがあると聞く。一度見てみたいものだ。……頼めるかな。彼女に)
 海面を見つめている弥十郎は、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「お侍様」
 突然背後から声をかけられ弥十郎は少し()せた。男たちが三人こちらに近づいてくる。職人のようにみえた。
「……ああ。……何だ?」
「どこまで行きなさる?」
「特には、決まっていないがね。そう言うお主らは、どこに行く?」
「うちらは鹿児島ですよ。聞いていませんか、島津様のこと」
「島津っ」
 弥十郎の鋭い視線が、その男を刺す。
「へ、へえ……、うちらは番匠やら職人でして。し、島津様の内城(うちじょう)改修普請(かいしゅうぶしん)に、よ、呼ばれたんですよ」
 男は怯えを隠せない。だが、ひとりだけ弥十郎を真っ向から睨みつけている者がいた。まるで敵意をかかえたような目だ。その番匠の仲間のようだったが。
「そうなのか」
 弥十郎は視線をそのままに、顔だけを大海の方に移した。そして、一度瞬きをしたあと、視線を海に戻した。
(島津は潤っているらしい。……厄介な)
 そのとき船体が揺れた。舟の進行方向が少し東南よりとなったようだった。弁才衆(べんざいしゅう)が舵をきったのである。
 弁才衆とは、この弁才船の船乗りの呼び名だった。
「で、では、うちらはこれで」
「ああ。よい旅を」
 感謝の気持ちを込めてあの男たちに軽く手を振った。あの親切な番匠はそれに応えてくれた。
(面白い情報を得ることができた)
 だが、体格のしっかりした男だけはまだ睨みつけてくる。弥十郎はその敵意剥き出しの男に対しても変わらぬやわらかな微笑をなげかけ、軽く手を振ることをやめない。毒気を抜かれた男は困ったような硬い笑顔で応じるしかなかった。
 この日は船室で休むことになった。もちろん個室などない。あの番匠たちも同室である。他に水夫(かこ)が数人いる。番匠と職人らは水夫たちをまじえて、博打に興じていた。
 騒がしい声が響くなか、弥十郎はごろりと寝転がった。両の手のひらを枕がわりに船室の天井板をながめる。長い足を組み、くつろぎながら眺める天井板には(きさ)が流れるように浮かんでいた。いま航海している天草灘の波に似ている、と思う。
(いろんな人間がいる……。愛想のよい奴、悪い奴……これだから世の中、面白い。……そういえば、孫右衛門は府内だったな……帰りに寄ってみるか)
 と、つい笑みがこぼれた。朴訥な人柄が懐かしく思い出されたのだ。友と呼べる廉節の士。練達した武技だけでなく温かみのある人柄もてつだって、下の者からの声望が厚い。あの知己にもうすぐ会えると思えばそれだけでも嬉しくなる。そんなことを考えながら、弥十郎は深い眠りについた。

 舟が市来に着いた翌日、弥十郎はさらに東南に向かった。徒歩である。これから起こることを愉しみにしているような顔つきで弥十郎は歩いている。
 街道はけっこうな人で賑わっていた。あの職人の言っていた内城の普請が原因となっているのだろうと思われた。
 弥十郎はこの日一日で目的地まで行こうとしたが、日が暮れてしまい、それはできそうになかった。
(さすがに木銭宿(きぜにやど)に泊まるか……)
 さらに一里ほど歩き、その近くにあった木銭宿に入った。
「ようこそ、おいでくださいました」
 店の主人が()()をしながら彼を迎えた。どこか胡散(うさん)臭い親父だった。
「一夜の宿を借りたい。相部屋でかまわんのだが……」
「ええ、ええ、()いておりますとも」
「……そうか。では頼む」
「はい、有り難うございます。おい! 早く(すす)ぎをお持ちしないか。早くしなさい、早く!」
 すると、額や頬に茶色い土を付けた童女が小さめの(たらい)を抱きかかえながら現われた。
 その幼女は健気(けなげ)にも弥十郎の足を洗っている。
「この子は……。なぜここで働いている?」
 弥十郎は憐れに思い、その亭主に問いただした。
「親の借金のカタとして売られてきた者です」
「きちんと食事は与えているのか?」
 少女はかなり痩せていた。
 弥十郎は、亭主の返事を待つことをしなかった。
「わかった。ならば、わたしが買い戻す。いくら必要だ……こんながんぜない子を……。また立ち寄ることにする、次に同様の悪事を為せば……その首はないと思うのだな」
 言いざま太刀を一閃させた。宿の亭主は後ずさり、おのれの首がまだついているかどうか確認している。が、すでに太刀は鞘におさまっている。親父はその一瞬の早業におののいて尻から倒れこんでしまった。目の先の空間を切り裂いた刃を見ることすらできない。雷光のような刃影(じんえい)によって、脳中に生死の錯覚が生じたらしい。
(我ながら大人げのないことを……)
 弥十郎は童女とともにその店を出た。そして女の子を右肩にかるがるとかつぎあげた。
「高いね~楽しいな~」
「そうか、楽しいか」
「うん。……でもどこいくの?」
「……そうだな……どこかか」
 弥十郎はこの子の家を知らない。
「家族はどこにいる?」
「家族ってなあに?」
「……すまない。お父ちゃんはどこにいる? お母ちゃんでもいいが。わかるかな?」
 童女は、あっち、と言って弥十郎の肩のうえで飛び跳ねんばかりだ。結局その日は宿には泊まらず親元に送った。童女の親は嬉しそうにしていたが、これよりのちのあの童女の生活を保証できるわけではない。
 それを思うと、弥十郎は自己の無力さを感じずにはいられなかった。
(……自己満足……。だということはわかってはいるのだが……)
 弥十郎はその村をでて細い道を歩きはじめた。左右に竹林のある道だ。しばらく行くと、向こうに廃寺が見えてきた。今日はその寺に旅寓することにした。
 うらびれて幽寂とした廃寺、茅屋が人影もなくひっそりとたたずむ。かつて、弥十郎には知るよしもない悲運に見舞われたかのように朽ちている。雑木で編まれた牆墉(しょうよう)、かこまれた簡素な佇まいの金堂と庵。
閼伽棚(あかだな)か……)
 金堂の脇にある閼伽棚もどこか寂しげだった。
 弥十郎は、子柴垣のそばで香しく咲きほこる梔子(くちなし)を一輪おり、閼伽棚に供えた。少女の人生に幸多かれと……。

 翌払暁、目覚めた弥十郎は庵から出でてさらに辰巳(たつみ)を目指した。伊集院に差し掛かる頃、前方に関所が現われた。
「上手く……。誤魔化せればいいが」
 その歩みが緩くなる。
 関所の前では人々が並んでいた。弥十郎はその最後尾に並んだ。
 そこでは、島津家の役人たちによる厳しい詮議(せんぎ)が行われていた。どうやら、昨日このあたりで野盗による強盗殺人があったらしい。もちろん関銭も払わねばならない。
 弥十郎は編笠を深めにかぶり、うつむき加減にしている。顔を見られたくはない。後ろで束ねた髪が風に揺れている。
 木箱を持ち、こちらに歩いてきた役人に関銭を払う。銅銭が互いにあたりはじかれる、鈍い金属音が響いた。
「次! そこの男、前に出ろ!」
 弥十郎は、その声に素直に従う。
「姓名、それに、この地に赴いた目的を答えよ」
 その役人は顔全体に痘痕(あばた)があった。なにより、弥十郎を不快にしたのはその横柄(おうへい)な対応だった。
 官憲にありがちな権力を傘に着た物言い。
 溢れでる驕慢な気質。
 役人たちは、この場にいるすべての人々を見下していた。旅人たちも、自分たちを賤しめるような気分を敏感に感じとっていた。みな一様に眉を顰めている。
「相馬三郎利忠。廻国修行のため、この地に立ち寄った」
「相馬とは、東国の相馬か?」
「そうだ」
 役人の顔が一瞬たじろぐ。わざわざ遠国の変名を選んだのは、遠く薩摩からではすぎには確認のしようがないからだ。
「ならば、その証拠は?」
 検問所の板敷に座っている役人が、疑いの目を向けてきた。
(証拠ときたか……。……ふ……まあいい)
 弥十郎は、(ふところ)に手を入れながら言った。
「そんなものは必要ない。わたしは武芸者だからな。……だが……。それほど見たければ……」
 書状を取りだして、両手でその両端をつかみ、大きく示した。
 役人たちの目は書状に釘付けとなっている。
「我が主君の花押(かおう)が記してある。()()役人風情(やくにんふぜい)が拝めるものではない。控えろっ! 島津義久公への親書であるっ! 見らば首が飛ぶぞっ!」
 その役人は検問所から転がり落ちそうなほど動揺していた。
「さあ、答えてもらおうか。通行の可否を」
 弥十郎の鷹揚(おうよう)な態度に、役人たちはすでに及び腰となっている。
「性根を据えて返答してもらおう!」
 弥十郎は畳み掛けるように言う。
 肝を(つぶ)した役人たちはみな平伏してしまった。
 弥十郎の口元には冷酷そうな微笑が浮かんでいた。
「どうした。返答がないのは黙認したものと受け取るが、それでよいのだな」
 役人達は言葉も出ない。ただひたすら地面に頭を(こす)り付けているしかなかった。
「……ならば、許可がおりたと理解するぞ」
 そう言い残してその場を立ち去った。

第8話 梨花宗茂に見ゆ

 白と赤の装束を纏い、黒鞘の業物(わざもの)を腰に差した美少女が、アラブの青驪(せいり)を躍動させる。騎従するのは二十騎。そのなかには忠三郎の姿もあった。
 誾千代は老齢の年寄(おとな)に勧められた狩場に向かっているのだ。
 そこはいつも行く狩場とは別の場所にある。あと二里ほど南へ行けば狩場に到着する予定だった。(むじな)や狐ばかりでなく山犬も出没する森林を馳ける。
 矢束(やづか)をおさめた矢籠(しこ)が、腰の後ろにある。皮革製のそれは濃い紅の地で、牡丹唐草の銀蒔絵が文様うつくしくあしらわれていた。留め具で腰帯のうしろに固定している。二十本ほどの矢が背中にあった。矢柄(やがら)は漆黒、羽根は鷹の黒羽根。吹き抜ける風によって、白が混濁する羽根が風を斬り裂くような音をたてている。
 少女は微笑していた。
 愛用の重藤弓(しげどうのゆみ)を片手に驪馬(れいば)を躍動させる。
 まわりでは木々の若葉が芽吹きはじめていた。空気の澄んだ晩春の山は、翠嵐(すいらん)に満ち、馬を走らせるのが、とても清々しい。
「山の新緑が歓迎してくれているようだな。忠三郎」
「たまには場所を替えてみるのもいいですね」
 (けやき)(たぶ)にかこまれた狩場に到着すると、誾千代主従を待っていたのは見慣れぬ一団だった。どうやら侍のようだ。なかでも身分の高そうな若者が馬上弓を手にしている。その家臣であろう、周りに二十人前後の男たちがいた。
「先客がいるようですね」
「……の、ようだな」
 誾千代は、本能的な不快感を持った。
 すると、その集団から一騎の騎馬侍が馬に鞭を入れながらこちらに近づいてきた。家臣たちが主人を守るための態勢をとろうと馬をゆっくりと前進させる。
 が、誾千代は手で制した。
 近づいてくる武者には害意はないと判断したからだ。
「襲うつもりなら、一人では来ないさ」
 もしその気で近づいたなら、とっくに黒重藤(くろしげどう)によって射貫かれている。

 誾千代の放つ弓は流星の速度をもつ。

 万物を創造せし造化が、この美しい少女を()で、降し賜うた霊験であったろうか、違うであろう。世俗の人々には真似のできない、日々くり返されてきた、体力を消耗し尽くし、精神をすり減らすほどの飽くことなき練磨により、霊妙なる力が少女の華奢ともいえる腕に宿るにいたったのだ。その意味で、少女は人とは違う、天から授かったかと思えるほどの隔絶の異能を身につけた存在になったといえる。
 誾千代の構えを認識した相手は漆黒の光束によって射貫かれる。恐るべきは、それに気づくことすらできずに絶命しているということだ。
 以前、山中で二頭の獰猛な巨熊(きょゆう)に襲われていた旅の親子連れがいたときのこと。誾千代は親子をみとめ、引く手も見せず弓を射た。その閃光が、二頭の熊を二つながら一瞬で貫き、一町先にあった赤樫の太い幹をも貫通してしまった。熊は上半身が黒焦げとなり、太い幹に穿たれた空洞からは火焔がちろちろがあがっていた。空気との摩擦による高熱で、鋼鉄の(やじり)もろとも矢柄は消滅。

 ――すべてを貫く漆黒の雷火――。

 その親子は礼を言うのも忘れ、恐れをなして逃げ出してしまった。勿論、弓矢の師匠はいるが、誾千代は今、師とは会えない。

 近づいて来た男は、手前で馬をとめて下馬し、片膝をつけた。
「戸次誾千代様でいらせられますか?」
「そうだが」
身供(みども)は、高橋弥七郎(たかはしやひちろう)様の家人を務めおります太田久作と申す者でございまする。若殿がお待ちでございます。いざ、ご同道を」
高橋某(たかはしなにがし)とは、何者であるか?」
 誾千代は、その名をすでに道雪から聞かされていた。が、敢えて知らぬふりを決め込んだ。
(……老人め……(はか)ったな)
御父君(ごふくん)にお聞き及びではございませんか?」
「ああ。そうなる」
 その男は、少し困惑していた。
「弥七郎様は、貴方様の夫君(ふくん)となられる予定となっている御方でございます」
「あぁ……思い出した。そう言えば、そんなことを言っていたな……。オヤジ殿は」
 誾千代は、慇懃(いんぎん)な応対をするこの男を気の毒に思い、からかうのを止めた。
「ご理解頂けたのならば、いざ」
「承知した……。案内(あない)大儀(たいぎ)である」
 その男は馬に(またが)って誾千代たちを先導し、統虎のもとへと導いた。
 高橋弥七郎の第一印象は、丸顔の童顔が特徴的な男というものだった。
 誾千代は、その青年に愛馬アナトリアを寄せた。
「貴公が……高橋弥七郎か、父から話は聞いている。なかなか見所のある男だそうだな……。戸次誾千代だ、以後よしなに頼む。……ま、せいぜい励むといい」
 誾千代はそう言うと、青年を一顧(いっこ)だにすることもなく、その場を立ち去った。
「なっ……」
(なんという奴だっ! あの女はっ!)
 統虎は、いまだかつてこのような無礼な対応をされたことがなかった。
 その少女は馬に足をくれて遠ざかっていく。
 燃えるような緑が、彼女をつつんだ。
「見過ごせん!」
 統虎は馬腹を蹴って少女を追いかけた。
 純白の直垂と小袴に紅色の射籠手(いごて)、そして真紅の(すね)当てに頬貫(つらぬき)という姿は、白と赤のコントラストが美しく目立つものだった。
 茅や(すげ)が茂る草原に、アナトリアの黒影(こくえい)が映える。統虎の芦毛が、その姿を必死に追う。しかし、アラブ馬は、日本の木曽馬より遥かに速かった。体型が、スマートな細馬(さいば)であった、さながら乗り手のように。
 当時、日本の武士が使用しているのは純日本産の木曽馬である。統虎がいかに武勇を誇っても、その不利を覆すことはできない。
 ドラマやアニメ、漫画や映画では、あたかも日本では古来からサラブレッドが使用されていた、ような描かれ方をしているが、大嘘である。サラブレッドはこの当時、まだ地上に誕生《《すら》》していない。
 だから誾千代の青驪にくらべ、統虎の葦毛はあまりにも鈍重であった。
「ピっ」
 少女の唾が草むらに飛ぶ。
「あの女っ!」
 統虎の頭には完全に血が上ってしまっていた。

第9話 誾千代婿と競う

 統虎の前方を駈ける馬上、少女が弓をかまえた。
 矢を(つが)え、しなやかな細い腰を捻ってこちらを向いている。
「おれを殺す気か? あの女」
 統虎は馬首を曲げて()けようとしたが、少女の放った矢のほうが速かった。
 矢が鋭利な音をたてて統虎の首筋を掠めた。
「くそっ! あの女っ!」
 少女の口の(はし)は、少し上がっていた。
 その嘲笑に耐えられない統虎はさらに馬を加速させた。そして、馬上で矢籠(しこ)から矢を抜き弓をかまえた。
 しかし、それを予想していた少女は手綱を引いて黒駒の走る方向をにわかにかえた。
「上手い……。くそっ!」
 統虎はさらに少女を追った。彼女が、ふたたび弓をかまえたため、統虎は今度こそそうはさせまいとして馬の方向をすばやくかえた。
 が、少女の目はそれを逃さなかった。
 二の矢が統虎の顔の辺りを通過する。
「くっ、やる」
 家臣たちが見ている。一方的にやられるわけにはいかない。しかし、すでに旋回運動を終えた驪馬(れいば)が、向かってくる。
「……まさか……。こんなところで見合いをする羽目になるとはな……。……それにしてもあの年寄(おとな)め……ふざけた真似をする!」
 誾千代は今朝この狩り場に行くようにその老臣に勧められた。そこにいたのが、婚約相手になりつつあった高橋統虎だったのである。
 普通の見合いでは誾千代がスッポカスおそれがあったため、年寄たちが苦肉の策としてこの状況を作り出したのだ。
「容赦などするものかっ! ゆけっ!」
 言葉に反し、手心は加えている。全力を注げば、統虎は命を落とすことになる。誾千代の弓は流星の速度をもつ。

 ――音速の150倍――。

 人の能力では捉えきれない。
 が、いまは並の武者が(いしゆみ)を引き絞ったほどの威力しか込めていない。前方を向きながら弓の(つる)を引き絞った少女が、三度目の矢を放った。それが風を切り裂いて飛んでいく。その攻撃を避けきれなかった統虎は、不覚にも芦毛(あしげ)から落下した。
 黒駒が、駆けよる。
「ふふ……。無様だな」
 誾千代は黒鹿毛の上から統虎を見下ろしていた。
 しかし、雲の切れ間から(のぞ)く太陽によって逆光となっており、統虎には彼女の姿がみえなかった。
「早く立て。それとも……。尻尾(しっぽ)を巻くか?」
 しなやかな黒い影が言った。
「誰がっ!」
 誾千代は統虎が馬に(またが)ったのを確認してから、黒駒を走らせた。
「やぁ!」
 青年がそれを追う。
(あの女……鬼神か…………おれで遊んでいやがる)
 統虎は舌を打った。
 しばらくして、二人は併走し始めた。
 つよく輝く瞳からは明らかに敵意が読み取れる。
「高橋の惣領(そうりょう)息子とは、こんなものか? 大友の血脈が泣くぞ」
「黙れっ! 組打(くみう)ちでの戦いなら、貴様ごときに負けるはずがない!」
「匹夫は、遠吠(とおぼ)えが得意だな」
 このとき、統虎の怒りが爆発した。馬の(くら)に足を乗せ、目を怒らせて飛びついた。二人は折り重なって草原に転がり落ちた。
 統虎が、誾千代の胸ぐらを(つか)みながら馬乗りになっている。
「手出しは無用っ! これは、わたしとこの男の問題だっ!」
 誾千代の声は助けに駆け付けようとしていた郎党たちを静止させた。
「フン。余裕じゃないか。だが、この体勢から勝てると思うのか?」
「さぁな……。やってみるさ」
 誾千代の笑みは統虎を苛立たせた。
「このっ!」
 青年の拳が少女の頬を強打した。
(あいつ!)
 忠三郎の全身を憎しみの炎が包む。
「ピっ」
 誾千代の血の混じった唾が、統虎の顔に付いた。
「貴っ様!」
 このとき統虎の腰が一瞬浮いた。
 誾千代は下半身を素早く引きよせた。屈んだような体勢となり蓄えられた身体のばねが驚くべき俊敏さで復元される。酸漿(ほうずき)の形をした鋼が青年の顎を鋭利に捉えた。長躯が頭から吹っ飛ぶ。反動を利用し片手をついた誾千代は後方へと宙を舞い、全身を旋転(せんてん)させながら着地し、土を蹴って素早く取り付いた。
 一瞬で形勢が逆転した。
 腰刀(こしがたな)刃文(はもん)が間髪入れずに青年の面貌を這う。春竜胆(はるりんどう)に鮮血が無残に飛び散った。誾千代のの(すね)当てと頬貫(つらぬき)は鋼鉄を用いて制作されている。普通の人間なら顎の骨が砕けているだろう。
 立ちあがった少女は、血に染まった刀身を鞘におさめ、統虎を無視して黒鹿毛に飛び乗った。
内侍(おぼろづき)が欲しければ他をあたることだ」
「おぼろ月、だと?」
 少女の表情が、美しい微笑みに変わった。
「この戸次誾千代、逃げも隠れもしない……。不服があるのなら後日、拝聴しよう」
 ()め付けてくる統虎を問題にもせず、郎党たちのいる方角に馬首を返した。
「帰城する!」
 袖笠雨が、ぽつぽつと落ち始めている。

第10話 鹿児島の老者

「これが、敵の本拠か……」
 ほんのり薄紅がさした桜島のシルエットの背後には、紫がかった茜雲が空中を切れ切れに漂っている。錦江湾(きんこうわん)に浮かぶそれは、弥十郎にとって見た目よりも瀟洒(しょうしゃ)に映った。
 その感覚は、初めて見る光景に対する感慨が引き起こしたものか。だとしても、この国独自の魅惑的な情景であることには違いはない。
 伊集院から鹿児島を目指してきた弥十郎は、鹿児島城下の西側にある山地からその一帯を見渡している。
 ここに来ることは、通常業務に穴が開くことを意味するが、この潜入は人任せにはできないことだった。日常の仕事は、他の信頼のおける年寄(としより)に任せている。その初老の家老は、情報収集能力とその中から見落としなく(ぎょく)を取捨選択する力は、弥十郎にはおよばないものの、謹厳実直さでそれをカバーしてくれるはずであった。
 初夏の鹿児島は暑く、小袖の生地(きじ)がうっすらと汗を吸い込んでいる。
 弥十郎から見て左の方角には島津義久が普段生活している内城(うちじょう)が見えた。おそらく、彼もそろそろ起き出している頃だろうと思った。
 そもそも内城は現在(いま)からおよそ三十年前に島津氏の居城となった。それまで島津氏は別の城を拠点にしていた。義久の父貴久がこの城に(きょ)を構えたのである。
 城郭様式としては平城(ひらじろ)であった。文字通り平地の上に築いた城をこう呼ぶ。ちなみに、誾千代の立花山城は平山城(ひらやまじろ)、信長の安土城は山城(やまじろ)と言われている。
 平山城は丘陵の上、山城は険阻な山を利用して築かれるものである。山城としてもっともイメージしやすいのは、近江浅井氏の小谷城だと思われる。
 一般的には、平山城、山城、共に防御的側面が強い。
 平山城や山城の場合は、城主やその家族は普段は麓にある屋形に住むことが多い。外敵が侵攻してきたときだけ城を要塞として活用する。
 だが平城は違う。
 もちろん、城であるかぎり防御を目的の一つとしているの確かだが、それ以上にそこに住む人々の生活の場という意味合いの方が強い。
 島津(しまづ)修理大夫(しゅりだいぶ)義久は、拠点を内城においたまま動かさない。
 中央を制圧した織田信長のように、攻略目標に応じて頻繁に居城を変更するというようなことはしていなかった。
修理大夫(しゅりだいぶ)の目標は、九州制圧らしい……。さしあたってはな)
 弥十郎はそう見ている。
 そういう意味では信長は割拠する諸侯の中でもやはり格別の存在であった。
 弥十郎は坂をくだり始めた。
 城下に着く頃には太陽はすでに桜島の御岳(おんたけ)から顔を出していた。
 弥十郎は通りに面した質屋の軒柱(のきばしら)に寄りかかっている。腕組みをしながら立っていた。そして、通りを歩く人々を眺めている。何かを物色しているようにも見える。
 しばらくすると、人品骨柄(じんぴんこつがら)(いや)しからぬ侍が現われた。
(あの壮者(そうじゃ)にしよう)
 弥十郎はその男に近づいていった。
「失礼。わたしは、武者修行のため諸国を行脚(あんぎゃ)してる羇旅(きりょ)の者です。ご当家の腕自慢の猛者(もさ)一手(ひとて)手合わせ願いたく、声をかけさせて頂きました」
 その武士は弥十郎の身なりを上から下まで眺めた。
「当家においては、身分の(さだ)かならざる者との太刀合いを禁じておる。諦めなさい」
「でしたら、これをご覧ください」
 弥十郎は自身が相馬家の一族であるという(あかし)を差しだした。
「なるほど。確かに」
「それでは?」
「よかろう。が、本日すぐに、というわけには参らん。十日はかかるが、それでも異存は無いか?」
「結構です。では、十日の後どちらに伺えば?」
拙宅(せったく)に参るがよい。場所はそれ、その通りを右に曲がれば、門が見えてくる」
 その老体は顎をくいっと曲げて、自身の屋敷のある区画を示した。
「承知しました」
「相馬……三郎、とか申したな」
「はい」
「わしは、伊集院(いじゅういん)忠棟(ただむね)だ。微力ながら、(とう)島津家の家老を務めておる」
「感謝致します、大夫(たいふ)。では後日」
「ふむ」
 その男は、去り際に弥十郎を一瞥(いちべつ)してから歩いていった。
「十日……。さて、どうするか。まあ、大人しくしておいた方がよさそうだ。あくまでここにきた目的は、……なのだからな」
 弥十郎は、ポツリと(つぶや)いた。

第11話 示現流

 鹿児島に逗留してより、すでに十日が経つ。
 弥十郎は伊集院忠棟をおとなった。
 忠棟は従者を伴って登城するところであった。弥十郎は忠棟の後ろについて歩いている。
 城門を(くぐ)ると、(かんな)で材木を削る音や木槌(きづち)で改修中の建造物を打つ音が(かまびす)しくなる。
 この城は現在普請中なのだ。
 伊集院忠棟が庭先に控えるよう指示してきたため、弥十郎はそれに従った。
(こうもうまくゆくとはな……)
 敵の真っ直中に身を置くという緊張感が、いま、彼の闘争本能をくすぐっていた。
 そして、しばらくすると、島津義久が廊下をつたって歩いてきた。侍臣(じしん)を二人従えている。一人は義久の太刀を持っていた。
 庭自体は簡素で、土が()かれていた。弥十郎の背後には松や躑躅(つつじ)などが植えられている。また、庭の一角には庭石が()えられ、庭に趣を添えていた。
 質素だが味わいのある庭だった。
 弥十郎の前方にある部屋には、紅葉色の直垂(ひたたれ)を着用した男が座ってこちらを眺めている。(とら)(どころ)のない男のように見えた。
 その少し下座には、紹介の労をとってくれた伊集院忠棟が、生真面目そうな面長(おもなが)の顔をほころばせて笑っていた。
(……気になるな。あの壮者(そうじゃ)の笑みは……)
 弥十郎は片膝をついて顔をさげている。さすがに義久の顔を許しもなく直に見るわけにはいかなかった。
「そのほうが相馬の一族だな。……廻国修行をしていると聞いたが」
「はっ。相馬三郎にございます」
「ん……。顔をあげよ、(つら)が見たい」
「有り難きお言葉。ご拝顔の栄によくし、恐悦にございます」
 弥十郎は、顎をあげて義久を見た。
(これが島津修理大夫(しまづしゅりだいぶ)か……)
 義久は、ニヤリと笑った。
「戸次の老人は、達者にしているか?」
「と、申されますと?」
 弥十郎は、意表をつかれた。
「その方の主の心配をしてやっているのではないか。……倉田弥十郎」
「その倉田某(くらたなにがし)という者とわたしに何の」
 義久は、億劫(おっくう)そうに腕を一閃させて弥十郎の言葉を()った。
「猿芝居はいらん。底が割れているということだ。……島津の諜報網を甘く見るなよ」
「……左様でございますか。……まさか、ご存じであられたとは」
「そういうことだ」
「では、……殺しますか。わたしを」
「さて……。どうしようか、のう。伊集院」
 義久は、あの家老を見やった。
「……そうですな。望み通りあの者と太刀合わせてみては如何かと」
「そうよな……。それは(きょう)が乗る。……籐兵衛(とうべえ)、参れ!」
 体をかがめて長押をくぐってきた巨漢が義久の傍らに座った。最初からいた二人とは別の男である。
「この男は、剣術に秀でていてな……。そのほうの廻国修行に、せいぜい役立ててやってくれ」
 義久の近習が廊下の前にある石段に草鞋(わらじ)を用意した。その巨漢は草鞋を履いて庭に下りた。
「されば、いざ」
 男が剣をかまえる。
 弥十郎もそれに応じた。
 両者は(やいば)を介して一間(いっけん)半ほどの距離を保ちながら、対峙している。
(……新陰流のようだが)
 しかし、敵は特異な上段に構え直し、『キェー』と聞こえる奇声をあげた。するとその相手は、足を踏み込んで上段から豪快に切り下げてきた。疾い――降り降ろされた剣によって突風が巻き起こりそうなほどに。その風圧によって地表に刃跡(じんせき)が刻まれ、砂塵が斬り分けられた。なまかな腕ではない。弥十郎は爪先を使って後ろに飛び、その一撃をかろうじて避けた。
 男は容赦なく逆袈裟袈(ぎゃくけさ)を連上した。
「ちっ」
 弥十郎はふたたび後ろに飛んだ。間髪入れずに太刀で薙ぎ払う。
 が、両者の剣が交差し火花が飛んだ。
 男は柄を逆さにし、弥十郎の空を裂くような電光石火の一撃を受けとめていた。
「なかなかやるなあ、お主……」
(……勝ちを確信している?)
 弥十郎は、片手で脇差を素早く抜き、相手の腹部を斬り裂いた。が、男も脇差をぬいて弥十郎の刃を、かるがると受け止めていた。
「……おれがその程度の反撃を予測していないと思ったか?」
「舐めてもらっては困る……これは、ほんの挨拶がわりだ」
 巨漢は、腕一本で交差した二つの刃を引き起こした。その間にも、二人は片方の腕で、目にも止まらぬ太刀さばきで応酬をくりかえしている。
 刃を介して両者の視線がぶつかる。
 二人とも力を競い合うようにして交差した太刀を押し合った。もう一方の刃紋は、さらに戦いをつづける。弥十郎が攻撃したかとおもえば、巨漢が反撃する。金属音が、瞬時に空間を移転する――常人には真似のできない神速の業――。
「そろそろ飽きた」
 巨漢が言った。
「それは、悪いことをした」
 弥十郎は新当流である。
 この太刀は、戦場(いくさば)で百人以上の凄腕を血祭りにあげてきた。だが、海内無双かと問われれば……。いま弥十郎はそれを痛感している。天下は広い、この鎮西にもこれほどの使い手がいたのだ。
(……強いな……この若者……)
 密かな戦慄を覚えた。しばらく味わっていない感覚だ。
「その命もらったっ!」
「させんよ!」
 弥十郎は身をかわし、その一太刀(ひとたち)を紙一重で避けた《《はず》》だった。が、左目に強力な陣風が叩き込まれた。
「うっ」
「覚悟っ!」
 巨漢が丸太のような腕で、とどめを刺そうと刃をあやつる。弥十郎の引き締まった腕がそれに応じる。双方とも脇差はすでに放棄し、相手の刃の存在しない間隙に鋭く太刀を滑り込ませた。刀紋が幾度となく交差する。お互いの重みのある剣風(けんぷう)によって、薄い銀鼠(ぎんそ)の結界が、ふたりの周りに生じていた。大気がびりびりと震える。激しい応酬のさなか、弥十郎は覚った、この男の狙いを。そして、男の最後の斬鉄を受けきれないことも――無念――が、そのとき、重々しい声が巨漢の動作を止めた。
「止めよ! すでに鎮西の大勢は決している! 片眼を失ったような男を生かしておいたとて何の不都合があろうか! ……倉田よ、戸次老(べっきろう)近近(ちかぢか)見参仕る、と。俺が言っていたと伝えるがいい」
「兄者、その男殺しておいたほうがよいでしょう」
 あの直垂の男が唐突に声を発した。
「なぜか?」
「危険な目は摘み取っておくに如くはない。我らの本拠まで侵入する胆力は侮りがたい」
「……面白いではないか……。俺はこいつを生かしてみたい」
「また、悪い癖がでましたな。知りませんぞ……後で悔やんでも」
「……悔やむかよ」
 島津義久はそう言い残して屋形の中に消えていった。
 弥十郎は左眼を斬られた激痛に耐えながら、
「わたしの片眼を奪った男の名を、聞いておきたい」
東郷(とうごう)籐兵衛(とうべえ)重位(しげかた)……」
「わたしは、倉田弥十郎景定だ。……東郷の名、覚えておこう」
 弥十郎は屈辱に(まみ)れていた。しかし、それに反してその頭脳は怜悧にここで起きたことを状況判断していた。
(生かして帰すとは……(ふところ)の広い男だ、修理大夫(しゅりだいぶ)。だが……)
 弥十郎は、奥歯を噛みしめながら島津義久への警戒心をさらに強めていた。
 九州の暑い夏が、始まろうとしていた。

第12話 冷徹な侍女頭

「あのように不意をつくなんて……。年寄(おとな)たちは、この婚儀(こんぎ)に執着しているよう」
「無理もございません。姫様もそろそろ縁組みなさるお年頃。おなごの幸せは、良き殿方に嫁ぎ、丈夫な和子(わこ)をなすことでございます」
「そうかしら?」
 勝ち気そうな目が、芳野(よしの)を見る。
 その瞳には、どこか冷たい印象がある、と芳野は思う。
(この利かん気の強さには、困ったものね……)
「世の中には、」
「女と男しかいない。それは聞き飽きました」
 芳野はいつもそう(たしな)めるのだが、誾千代は聞く耳を持たない。
「おわかりなのでしたら……。ですが、この縁談は大殿様の御意思に叶うもの。お逃げになることは許されません」
「……わかています。そんなことは」
 最終的にはいつも父を出してくるこの才媛(さいえん)には結局口ではかなわない。そうなるともう反論できなくなってしまうのだ。
 この教育係は、いつもそうやって正論を振りかざしてくる。
 そう思うと誾千代の胸に悔しさが込みあげてきた。かすかに唇が震える。が、彼女はそれを必死に隠そうとした。それを(おもて)に出したら負けだと思った。
 一方、芳野は、誾千代の反発もよく分かるつもりであった。
 好きでもない男と(ちぎ)りを交わすというのは、十三才の多感な少女には精神的にやりきれないものがあるに違いない。
 が、道雪の意思には例え娘といえども逆らえないのだ。それは芳野も同じであった。
 そう思うと、芳野は誾千代の沈んだ姿が(あわ)れでならなかった。
「どうしたの? 芳野」
「いえ、どうかお気になさいませんよう……」
 誾千代は、つねづね芳野から女としての所作言動について教育を受けているため、屋形内(やかたうち)では男のようなな服装はしないし、言葉づかいも自然と(しと)やかなものとなる。
 そんな日常のなかで、芳野を相手にして詩歌を詠んだり、貝合わせをしてうつうつとした気分をなぐさめたり、筝琴(そうごん)を学んだり、あるいは立花(りっか)組香(くみこう)を楽しんだり、囲碁で気を紛らわせたりしていた。
「もう日も暮れましたから、本日はこれまでと致しましょう」
 芳野は白くしなやかな手で伊勢物語の写本を閉じた。
 夕闇が立花山城を浸し、漆黒が時を繋ぐ。
 誾千代は、薄手の打掛の(おくみ)をつかんでしずしずと湯殿に向かった。その後、侍女の手で髪を()かれた誾千代は眠りについた。
 この時代の人々は夕食は取らない。朝食と昼食だけであった。
 手燭(てしょく)を持った侍女が誾千代の寝所のある書院を濡れ縁にそって見回っている。濡れ縁の左端には庭と居館をへだてるようにして欄干(らんかん)が続いていた。
 その侍女は誾千代の書院の見回りを終えると道雪の書院へ向かった。
 道雪が普段生活する書院と誾千代のそれは、渡殿(わたどの)に似た回廊でつながっており互いに行き来できるようになっていた。屋形の南側には家人の詰め所もある。
 この屋形は書院造りが基本となっていた。
 初夏の夜風が一陣の涼を屋形内(やかたうち)の人々にとどけている。
 城番の足軽が檜皮葺(ひわだぶき)門の物見(ものみ)台に立っていた。彼らは松明(たいまつ)をかざし、屋形へ侵入しようとする者を警戒している。
 屋形の庭にも十間(じっけん)に一つぐらいの間隔でところどころ篝火(かがりび)が灯され、辺りを照らしていた。
 門の前にも両脇に篝火があった。それは流れる微風に揺らめきながら前方に広がる暗黒を赤く染めている。
 静けさのほうが、松の梢をそよぐ風の音にまさっていた。
 その静寂を利用して、土塀(どべい)を飛び越える幾つかの影があった。門番たちはそれを見逃してしまった。しかし、月明かりはそれを見逃さなかった。
 影たちはなにかを探しているようだった。それはおそらく、彼らの目指す価値ある標的なのだろう。その影は並々ならぬ跳躍力で梢をかすめるが、物音ひとつたてない。
 刺客の一人が井戸の影に身を(ひそ)めた。

第13話 急襲、戸次屋形(前篇)

 寝所にはいった誾千代は、今日身に起きた不快なことを忘れるために眠りについた。それから半時ほどして、宿直の侍の声が屋形内に轟いた。
曲者(くせもの)だっ!」
「そっちに行ったぞっ!」 
「逃がすなっ! 斬り捨てよっ!」
 と、みな口々に叫ぶ。
 誾千代は、その声によって眠りから呼び起こされた。
 明障子を開けた誾千代は、そこにいた侍女頭(じじょがしら)に言った。
「女たちに火縄銃を持たせろ。芳野」
 騒ぎを聞きつけた芳野は自身の曹司(ぞうし)から出て、誾千代の寝間(ねま)の前で待機していたのである。
 芳野は、ふっと吐息をついた。
(仕方ないわね……。こうなってしまったら、もう誰にも引き止めることはできない……。ときには諦めも肝要ということね)
 誾千代は、日頃から侍女たちに火縄銃の操作を学ばせていた。城督である以上、いつ何時(なんどき)、戦に巻き込まれないとも限らない。そんなとき彼女たちが火縄銃の扱いに慣れていれば、女でも戦力になり得る。
 特に、籠城戦においては重宝するはずであった。
 それに弓矢や刀は習得するのに長い歳月を要する。その点、銃は比較的短期間で習得でき、上達にもそれほど時がかからない。
 時には刀や槍を持った男とも対等以上に戦える。
 が、弓矢の家に生まれた者として、誾千代自身は弓箭術(きゅうせんのじゅつ)を最も好んだ。
 誾千代は廊下を進んだ。
 白い寝間着(ねまき)姿の彼女には、匂い立つような気品があった。
「弓っ!」
「はっ」
 小袖に裁着袴(たっつけばかま)の侍女たちが即応する。
 誾千代につづく侍女は十六名おり、それぞれが火縄銃を(たずさ)えている。
 欄干のある濡れ縁に出ると、道雪の近侍たちが複数の侵入者と戦っている様子が目に映った。
「各自、射撃準備を始めよ!」
 誾千代の命令を聞いた侍女たちが欄干(らんかん)の手前で横一線に片膝を立てて座り、火縄銃に弾丸の装填(そうてん)を始める。
 彼女たちの肩には火薬と弾丸の入った細い竹筒が紐で多数結びつけられ、帯状になっている早込め(早合)が(たすき)のごとく掛けられている。早込めは誾千代の父戸次道雪が考案したものだ。これがあれば、火縄銃に要する弾込めの時間を通常の三分の一にまで縮めることができる。
 弾帯に近い。
 日頃から鍛え抜かれた鉄砲隊は、銃口から火薬と弾丸を流し込み、サク(じょう)で突き固めた。
 現代のライフルは普通元込式である。だが、この当時の火縄銃は先込式(さきごめしき)の鉄砲だった。
 道雪の宿直をしていた忠三郎が誾千代の白い装束に気付いて駆けよってきた。
「忠三郎。オヤジは無事か」
「はい、誾千代様。ただ……」
「何だ?」
一太刀(ひとたち)、浅手を(こうむ)っておられます。ですが、医師の手配は済ましてあります」
「わかった、あとで見舞う。今は奴らを片付けるのが先だ」
「はっ」
 そう言い残した忠三郎は、敵味方が入り乱れる戦闘のなかに戻っていった。
 口薬を火皿に盛って火蓋を閉めた侍女たちが火縄を火ばさみに挟んだ。種子島(火縄銃)を敵に向けて狙いをつける。
「発砲準備、完了しました」
 芳野が報告する。
「上等だ……言っておく。味方への被弾が危ぶまれる場合には、銃口を上げて弾を外しても構わん。その心配が無いときにだけ敵を狙うのだ」
 鉄砲隊はその指示に従って火蓋を切る。
「各自、射撃を始めよ!」
 誾千代は左手を腰におき、右手で合図を出した。
 耳を(つんざ)く爆音とともに硝煙があたり一面に漂う。
 その瞬間、刺客のなかにふらりと膝をつく者、背中からばたりと斃れる者、前のめりにどっと斃れ込む者がでた。
 まだ無事でいる侵入者たちもその大音が轟いた方向をちらちらと気にし、気も漫ろといった様子であった。
 逆に、太刀を手にして戦っている味方は鉄砲による援護があると勢いづいた。
「普通の人間は、自分に銃口が向けられていると思うだけでも、恐怖を抱く。……そうなれば思わぬ過ちを誘発させることもできるものだ……」
 硝煙のつんとする焦げたような匂いはまだ周囲に漂っていた。
「種子島の準備を始めよ。この第二射撃でケリをつける!」
 誾千代は自ら鍛えあげた鉄砲隊にふたたび弾の装填を命じた。
(この者たちを差しむけたのは誰だ……。……島津か……いや、これが発覚すれば信長が黙ってはいない、あの男がそんな愚かな真似(まね)をするはずがない。……だとしたら……秋月か。あり得るが……黒帽子(くろぼうし)は、島津と密かに誼を通じていると聞く。……とすれば、そうか……あの男だな、糸を引いているのは……。姑息なことをする)
 黒帽子とは、秋月家の当主筑前守種実の幼名である。誾千代がこのように彼を(さげす)むのには相応の理由があってのことだ。つまり、無念さがそうさせるのである。
 秋月種実は戸次一族の仇敵だった。
 今から十四年前の北九州で、中国地方の覇者、毛利元就によって画策された大乱があった。大友一門の宝満山城督、高橋鑑種が反旗を翻し、それに筑前国衆、宗像氏貞・原田了栄・筑紫惟門、肥前の龍造寺隆信らが呼応。元就の調略によって、最終的には当時の立花山城督、立花鑑載もが毛利方に走った。そこに吉川元春、小早川隆景も大軍を率いて博多付近に上陸、北九州は反大友に染まった。その大乱のきっかけとなったのが、元就の援助を受けて失地回復を図った秋月種実だった。後の世に『休松(さがりまつ)の戦い』と呼ばれることになる合戦が、この大きな内乱の契機となったのである。
 秋月勢との緒戦に勝利した戸次道雪、臼杵鑑速、吉弘鑑理らの大友勢は種実の夜襲により不意を突かれ、道雪の叔父や弟たちなどの多くの人々が秋月勢によって討ち取られた。
 誾千代が未だにこれを憎むのは、重臣たちからそのときのことを何度も聞いているからだ。
 この乱で、最終的に道雪は、中国地方を手中におさめた毛利元就と干戈(かんか)を交えて叩きのめし、大友家執政、吉岡宗歓の知略とともに元就の博多支配という目論見を打ち砕いたという恐るべき経歴をもつ。中国地方で暴れまわった元就も九州ではとうとう戸次道雪に歯が立たず、泣く泣く安芸に逃げ帰るしかなかった。そのとき『毛利の両川』として有名な吉川元春と小早川隆景も赤子のように道雪に(ひね)られた。

 誾千代の父は、あの毛利元就をも凌ぐ戦国屈指の用兵家であった。

 その証左として、甲斐の武田信玄に『一度会ってみたい。戦して勝負してみたいものだ』と言わせ、天下人豊臣秀吉には『宗麟など捨てて、わしに仕えよ』とまで言わせている。それほどの男が秋月種実の能力を認める発言をしているのだ。

 『名将言行録』によると、

 あるとき種実は歌舞伎見物をするため博多に行った。そのとき、道雪の家臣が『いまなら種実を殺せます』と進言した。道雪は、『種実は、戦場で討ち取ることにしている。暗殺などという卑劣な手段で死なすべき男ではない』と言い、その家臣の進言を採用しなかった。それだけでなく、種実に『敵地であるため身辺には十分気を配ったほうがよい』という忠告までしたとも伝わっている。 

 秋月種実は、決して凡庸な男ではない。

 彼は、豊臣秀吉の九州征伐で島津方につき、衆寡敵せず、敗れて小大名に転落した。
 だが、そもそも種実は生涯にわたって戸次道雪、高橋紹運や立花宗茂といった人々と戦い続け、そのうえで秋月氏の最大版図を築いている。
 彼の父秋月文種は、道雪ら大友氏の武将によって自刃に追い込まれた。秋月氏はそのときに本城である古処山(こしょさん)城を失い、一度、九州の地から消えている。そのとき十歳だった種実は家臣によって毛利氏の中国へに亡命した。二年後、深江美濃守という家臣の協力をえて十二歳で大友氏から古処山城を奪い返した。それから種実は道雪ら大友氏の武将と戦いながら、弟たちを豊前の国衆の養子に出して支配領域を拡大した。

 が、誾千代の心に頓着せずに時は刻まれる。足下では鉄砲隊の発砲準備が着々と進んでいた。

「断わっておくが、味方と白兵戦をしている敵は無視していい。さすがに味方を撃つわけにはいかないからな。味方と離れている敵に(たま)を集中させよ!」
「第二撃、準備完了しました」
 と、芳野が伝えた。
「了解した。狙いを定めたのなら、各自、発砲せよ!」
 敵に向けられた鉄砲の大音がふたたび轟く。
 侍女たちの弾が、さらにいくつかの敵影を斃した。
 半数近い味方を斃された刺客たちは、さらに浮足立った。
 誾千代は、それを見逃さない。
「敵は崩れたっ! 押し包めっ、殲滅せよっ!」
 掃討戦の下知が、家臣らに飛んだ。品のある低い声は、少女の残忍さを引き立てる働きをした。敵に対しては一片の慈悲も感じさせない性格を物語るものだ。

 ここで情をかけるわけにはいかない。襲撃者を逃がせば、また同じことを仕掛けてくるからだ。暗殺など、無駄だということを敵に思い知らせる必要がある。そのため誾千代は、あえてこの命を降したのである。兵法の基本といえる。

 残りの敵を、近侍らが追い詰めていく。そして、剣戟(けんげき)の音は屋形の庭から消し去られた。侍女たちは、静けさを取り戻した屋形内の光景に安堵していた。
 つややかな長い髪を掻き上げながら少女がいう。
「いつもより暑いな、今日は……。こんなことになると分かっていれば、もっとゆっくり湯浴(ゆあ)みをしていただろうに……が、他愛のない」
「すぐに湯殿を用意させますが」
「そうだな。……そうしてもらうか」
 芳野とそんな会話をしていたとき、一つの黒い影が不意に誾千代たちの前に躍り出た。
 ふっと気を抜いていた侍女たちが急いで弾丸の装填を始める。
 それでは間に合わないと思った誾千代が黒重籐(くろしげどう)を構えた。
「龍造寺の手の者か!」
 暗殺者の正体を(ただ)す。
「言う義理はない……」
 その首領とおぼしき男は拒絶した。
「そうか。ならば……」
 女城督が矢を(つが)える。
 弓摺羽(ゆずりば)が頬をくすぐる感触が、今日はなぜか不愉快だった。
「これで終わらせる」
 漆黒の光束が唸りを発し、黒い光の筋となり天空にむかって直進する。が、
「外れるな……」
 流星の嚆矢が――外れた――刺客の動きは、すでに人間でなない。
 その影は機敏な動きで誾千代の目を惑わす。鍛錬しぬいた動きを持つ怪物的な敵が、空中を自在に移動しながら苦無(くない)を立て続けに少女に投げつけてくる。六、八、十本と高速で飛んでくる苦無が次々に女城督を襲う。《《鉄針》》が篝火を反映した赤橙(せきとう)色の光糸(こうし)となり誾千代に向かって乱れ飛んだ。
「……じゃれ合おう」
 跳躍する誾千代。重藤の弓を手にしながら宙を舞い身体にひねりをくわえて、次々と飛来する鉄針を紙一重のところで(かわ)す。
 宙で身を翻す唇から詩が流れる。
摽有梅(ゆうばいをなげうち)
 其實七兮(そのみななつ)
 求我庶士(われをもとむるしょし)
 迨其吉兮(そのよきにおよべ)
 躍動感みなぎるしなやかな肢体。忍びの放つ鋭利な凶器は少女をとらえきれないでいた。切れのある身のこなしで敵の攻撃を避けながらも、空中で黒重藤(くろしげどう)を弄び、身に迫る苦無を(はた)き落としていった。
 まさしく妖魔の業。はた目から、優雅に舞っているように見えるだろうか。その動きは、優雅とはほど遠い――(はや)い――侍女や庭で見守る近習の目では捉えきれないほど。
摽有梅(ゆうばいをなげうち)
 其實三兮(そのみみっつ)
 求我庶士(われをもとむるしょし)
 迨其今兮(そのいまにおよべ)
 敵の首領が放つ『苦無の()れ』は、時速300キロをゆうに超えるスピードで誾千代に襲いかかってくる、その凶器の鋼刃の一つ一つを瞬時に躱し、(はた)き落としさえする、しかも――宙を舞うという動作を伴いながら――人力では不可能な動きだ。
 が、この二人は違った。
 女城督は、着地した片足ですぐさま床を蹴って素早く宙返りし、身を屈め、もどったかと思うと、左に(めぐ)り右に転じて苦無を躱す。(あられ)のような無数の鋼刃をさけるため、しなやかな肢体が右へ左へ十数回、旋風のように旋転し続ける。

(――――っ)

 敵も凄腕、脇腹に激痛が走る。
 乱波(らっぱ)の苦無が少女の血肉を裂いたのである。後ろにいた侍女たちも無関係ではいられない。流れ弾によって巻き添えを食らい、苦無による洗礼を浴びた。悲鳴をあげて崩れ落ちる者が出た。
「その程度の腕でいい気になるなよ!」
「……ふふ、無粋だな。摽有梅(ゆうばいをなげうち)
 頃筐墍之(けいきょうこれをおくる)
 詩を詠ずるのをやめない誾千代は、宙を逆さに舞いつつ、捧げる侍女から矢をとり、二本目を空中で巧みに(つが)えた。
求我庶士(われをもとむるしょし)――」
 舞ながら異能の者の敏速な動きを目の端でとらえて逃さない少女は、着地と同時に欄干の横材を荒々しく踏みしめた。

迨其謂之(そのこれをいうにおよべ)っ!」

 第二の漆黒の光束が、咆哮をあげながら天へと走る。稲妻のような凄まじい黒い光。魔物ような暗殺者の首が吹っ飛んだ。おびただしい量の血飛沫(ちしぶき)がまき散らされる。賊と邸内で格闘していた近侍たちに血の雨が降りそそぐ。黒い光に巻き込まれた首領の(からだ)は原型をとどめず、手足と首以外は、ぐにゃりと不自然にひしゃげたかと思ったら、高熱が流れ込んで急激に膨張、粉微塵に弾け飛んだ。焼け焦げた微小な肉片が無数、赤黒い靄のなか、重力に逆らうかのように空中を浮遊、他の肉塊は火焔に包まれながら音をたてて庭に落下した。

「……忌々しい奴……。……もう………口は利けない」

 誾千代は負傷した侍女たちの介抱を芳野に指示すると、濡れ縁から庭へ、素足のまま飛び降りた。医学の知識ももっている博学の侍女頭は、手傷を負っていない者に指示をし、手当てのための包帯や、漢方の典籍をあたって本草(ほんぞう)を蒐集し自ら調合した痛みを鎮める妙薬を持ってこさせ、呻き声を漏らしている侍女たちに適切な処置を施した。しかし介抱の甲斐もなく、息をひきとる者が後日でた。

 ――侍女二人、近侍三人――。

 邸内にはところどころに血溜まりができ、切り刻まれた亡骸が十八体横たわる。首のない胴は内臓が(えぐ)られ、手足は千切れ飛び、怒りの(まなこ)で虚空を睨みつける首が、まるで息をするかのように赤黒い血泡(ちあわ)を吹いている。

「……怨念なら……肥前の男に向けろ」

 誾千代は、右の脇腹を触った。はたして血で染まっている。それは射籠手(いごて)のような紅色で、そのことに奇妙な安堵感を覚えていた。
 道雪は片足が不自由なため不意の急襲を受けると格好の的になってしまう。その父の代理をしているのは、桜の紅玉のような美しさを秘めた少女であった。

第15話 国都府内

 船が(みなと)の船着場に横付けされた。船と埠頭(ふとう)が不安定な厚板でつながれる。弥十郎はその上をバランスよく(つた)った。久々に陸地を踏む感覚を確かめる。
 そこは沖の浜と呼ばれる湊。南蛮(スペイン、ポルトガル)、ルソンとの貿易が盛んな国際貿易港である平戸、あるいは博多といった大都市とも取引している商人が居住しているため、幾つもの船が埠頭(ふとう)に係留されていた。みな縄で岸に繋がれている。
 弥十郎は、渡し場の土を(かかと)で踏んで身体を少し回転させた。すると、前方に町並みが広がった。
 実に壮観だった。
 近くでは、銀や俵物(たわらもの)、刀剣や陶磁器といった貿易品を、水夫(かこ)たちが(にぎ)やかな掛け声をかけながら積卸(つみおろ)ししている。
それらは、船着場に野積(のづ)みされていた。
 昨夜の驟雨(しゅうう)で土は湿(しめ)っている。木の葉に()りた(つゆ)が、光りを含んで輝いていた。
 弥十郎は編笠(あみがさ)をかぶり、そのまま南へ歩きはじめた。通りすぎていく景色は国際都市のそれに酷似している。
 多様な国籍の人々が目に入ってくる。聞きなれない音調が入り混じった会話に耳を傾けた。南蛮の貿易商、明の船乗り、日本の侍、少し先にある(つじ)には露店を営むルソンの夫婦もいる。おそらく彼らは平戸や博多から足をのばしたのだろう。この町の人々の格好や言葉は、見たり聞いたりしていて飽きがこない。まるで見知らぬ異郷(いきょう)にいるのか、と錯覚するほどだ。
 ここ府内は、中世を通して大友氏の都邑(とゆう)として発展してきた。
 東西七百メートル、南北二千二百メートルの大都市。
 北は海に面し、他の三方が山で囲まれたこの都市は、源頼朝が首府(しゅふ)とした鎌倉に似ていた。
 ただし、南北は逆転し、南に奥深く街がつづく。
 五千以上の家屋が軒を連ね、人口は数万に達している。泉州堺(せんしゅうさかい)と比べても見劣りしないはずである。
 市街の中央に大友氏の居館(きょかん)がある。それは大友館と呼ばれてる屋敷で、白亜(はくあ)の壁で囲まれた二百メートル四方の宏壮(こうそう)なもだった。その館を中心にして東西に五本、南北に四本の大路が走っている。
 歩いていると、天に向かって高々とそびえる高楼(こうろう)が姿をあらわした。万寿寺(まんじゅじ)の五重塔である、その寺は大友家の菩提寺(ぼだいじ)だった。唐様(からよう)伽藍(がらん)が特徴の、臨済宗の大寺院である。
 南西の台地には上原(うえのはる)館が優雅に建っているのが見えた。
 それは大友氏の別邸。南に伸びる丘陵の北端にひっそりと(たたず)んでいる。敷地は本館(大友館)よりは小さい。
 あの台地から北を望めば、大海に面した府内の町が一望できる。どれほど爽快なことだろうか、と弥十郎はいつも思う。
 大友館の白い壁を右手に見ながら、彼はさらに歩いた。
 大路には、雨上がりの清潔な匂いが(あふ)れていた。
 次の辻を右に曲がれば、扇子や(おうぎ)(べに)(くし)見世棚(みせだな)に飾る小売商がある。
 弥十郎が贔屓(ひいき)にしている(みせ)だ。
 丁稚(でっち)が店の前に落ちている落葉(らくよう)や塵を竹箒(たけぼうき)で掃いていた。
「元気にしていたか? 圭助(けいすけ)
「倉田様!」
 弥十郎は、この年若い奉公人に(なつ)かれていた。ここに来るときにはいつも甘い饅頭(まんじゅう)草餅(くさもち)などを土産に持ってくるのだ。だが、圭介はそんな土産よりもこの侍に会えることの方が嬉しかった。いつかは自分も、と思うところがあった。憧れているのだ。この強くも優しい侍に。
「旦那様! 倉田様ですよ! 倉田様がいらっしゃいましたよ!」
 弥十郎は笑顔で暖簾を分ける。圭助は、弥十郎の顔の変化に気付く間もなく(みせ)に駆け込んでいった。
「よくおいでくださいました」
「ああ、内儀(ないぎ)。久しぶりだな」
「⁉」
 この店の妻女は、弥十郎の左眼を覆っている黒い帯を見て息を呑んだ。
「見ての通り片眼を失ったが、それほど不気味かな」
「……いえ、その……。かえって、男振(おとこぶ)りが上がられたような……」
「世辞を言う必要はないよ」
「いえ……。お世辞ではございませんが、前より少し……恐ろしくなられたような……」
「それは困ったな」
 弥十郎は苦笑した。
「倉田様。⁉」
 座布団をもって現われた亭主も妻女と同じく絶句して茫然と立ち尽くした。
(会う人、会う人がこれでは……。この先が思い()られる)
 と弥十郎は思った。
「……孝兵衛(こうべえ)。突っ立ってないで……。持って来てくれたのだろう、座布団」
「あ、ああ。はい。……ですが、どうして」
「いろいろあってな」
 弥十郎は孝兵衛がくれた座布団に座り、編笠の紐をといた。
「内儀。圭助(けいすけ)と共にこれを(しょく)してくれ」
 そう言って弥十郎は、妻女に(ふところ)にあった(はぎ)の餅を渡した。薄茶色をした竹葉(ちくよう)に包まれている。
「これは……。なんと御礼を申し上げればいいのやら」
「よいのだ。遠慮せずに食ってくれれば……それが一番嬉しい」
 妻女は、その竹葉を両手で(かか)げるようにして下がっていった。
 弥十郎は、編笠を店の板敷に置いた。
「ですが、そのお怪我は大丈夫なのでございますか?」
「そうだな……。まだ痛むが、慣れているからな。なんとかなるだろう」
「そんな、他人事のように……」
 孝兵衛は、心配そうに弥十郎の左眼を覆う黒い帯を見ている。
 傷口は直りきってはいなかった。黒色の帯の下にある刀傷(かたなきず)の痛みは、いまだ激しい。だが、弥十郎はこれまでも戦場で幾度も創傷(そうしょう)を受けてきた。だから、痛みには慣れている。
「孝兵衛、あの扇子を見せてくれないか」
 弥十郎は、見世棚の(かど)に飾られている扇子を指した。
「あれですね、少々お待ちを」
 孝兵衛は、立ちあがって扇子を取りに行き、弥十郎に渡した。
「なかなか良い品だな……」
 弥十郎は扇子を開き、そこに描かれた大和絵(やまとえ)を見た。
「それはもう、今を(とき)めくの狩野(かのう)派の絵師が描いたものですから。その代わり値は張りますよ」
「……そうだろうな」
「これをどうなさるおつもりで」
「……ある人に贈ろうと思っている」
 弥十郎は描かれている花鳥画(かちょうが)に目を奪われた。
「またですか……。おなごの恨みほど恐ろしいものはないと申しますよ」
後腐(あとぐさ)れのない別れ方を心掛けているから、問題はないよ」
「それならいいんですけどねえ……」
 孝兵衛は、冷ややかな視線を弥十郎に送った。
「どうした?」
「いいえ、なんでもございません」
 孝兵衛は、弥十郎の女遍歴(おんなへんれき)を快く思っていなかった。
近近(きんきん)手形を送るから、近くの問屋(といや)で換金してほしい」
 (ふところ)に持ち合わせが無いため、その珍貴(ちんき)な扇子の代金を為替(かわせ)で決済することにした。
(うけたまわ)りました。誠にありがとうございます。……この帛紗(ふくさ)は本来高価な茶道具をつつむためのものなのですが、この扇子は特に貴重なものでございます。どうかお使いくださいませ」
「……これは……。有り難い」
 その帛紗の滑らかな手触りに、孝兵衛の篤実な真心を見る思いがした。弥十郎は扇子を閉じ、孝兵衛から渡された帛紗につつんで袖口から入れて(たもと)に落とした。女中が運んでくれた茶をひとくち(きっ)し心地よい渋みを味わうと、
「話は変わるが、この頃この地で特に変わった噂などはなかったか?」
 言った弥十郎の顔から穏やかさが消えた。
「……」
「あるのか」
 孝兵衛は、一瞬首をすくめた。
「……ええ。まあ」
「聞かせてくれ」
「お館様のご行状が……」
「以前より悪くなったのか……」
「はい……」
 大友宗麟は、五年前の天正四年に家督を嫡男の左兵衛督(さひょうえのかみ)義統(よしむね)にゆずっていた。そして、自身は府内から臼杵(うすき)にある丹生島(にうじま)城に移ったのである。天正五年の耳川の戦いの後は、義統(よしむね)が大友館の(あるじ)となっていた。
 その当主の行いが、はなはだ宜しくない、というのである。
「なんとかしてくださいませ」
「そうしてやりたいが、わたしは陪臣(ばいしん)だからな……。諫言はおろか、御館に会うことすら叶わんのさ……。とはいえ、割を食うのはお前たち領民だ……」
 弥十郎とて歯痒(はがゆ)くてならない。自分と同年代の義統の乱行(らんぎょう)は、つとに知られている。家臣のなかにはそれによって義統を軽んじる者も出はじめていた。
(しかし、民人(たみびと)までが愛想尽(あいそづ)かしをしているとはな……)
 そう思うと、大友家の行く末が危ぶまれた。
「わかった。道雪様に相談してみよう。今日のところはこれで失礼する」
「よしなに願いあげます」
 弥十郎は暖簾を分けると、府内にある戸次屋敷に向かった。

第16話 紅顔の少年

 (ぞく)に、大友三宿老と言われる元老には特別に府内に屋敷を置くことが許されていた。
 吉弘鑑理(よしひろあきまさ)の吉弘家
 臼杵鑑速(うすきあきすみ)の臼杵家
 戸次鑑連(べっきあきつら)(道雪)の戸次家
 の三家であった。
 言うまでもなく弥十郎は戸次家に属している。
 突き当たりのデウス堂(カトリック教会)を左に折れると、戸次家の屋敷が右手に見えてくる。質素な門構えをくぐると玄関があらわれる。
「誰ぞ、居ないかっ! 倉田景定(くらたかげさだ)唯今帰参したっ!」
 弥十郎は、その玄関に座って草履のほそい縄紐(なわひも)をほどいた。
「ご無事のお着き、なによりでございます」
 温良(おんりょう)そうな若者が、玄関の床に膝をつく。
「忠三郎。ここに居たのか」
大夫(たいふ)、その左眼は、一体どうされたのですか?」
 忠三郎が、物柔(ものやわ)らかに問うてきた。
「これか」
 弥十郎は、思わず苦笑した。
(今日で何度目だ。この質問は)
 弥十郎は、指折り数えてみた。
(……九度目だな)
 府内までの船旅でも、水夫(かこ)や同乗者に聞かれたのを思い出していた。
「それについては、おいおい説明しよう」
 弥十郎は佩刀を腰から外した。が、(ちい)(がたな)はそのまま腰に差している。式台にあがり廊下を渡った。忠三郎も立ちあがってそれに続く。
「それより、なぜここに居る?」
「誾千代様のお供で」
 後ろにいる忠三郎が、答えた。
「……誾千代様がいるのか? この屋敷に」
「はい、あ、いえ。ここにはおられません」
「……ではどこに?」
「御本家のお屋敷に」
「ほう……。本家の」
 弥十郎は、屋敷のなかのひと間に入った。忠三郎も続いている。
「末の姫様に会うと仰って」
「孝子様も府内にいらっしゃるのか?」
 上座に座った弥十郎は、左手に持っていた太刀を傍らに置いた。忠三郎は廊下に近い場所に陣取った。
「そのようです」
 大友宗麟の末娘は普段、父のいる臼杵で暮らしていると聞いていたため、弥十郎には意外だった。
「他になにか変わったことは?」
「はい、ございました」
「なんだ」
「大夫の留守を狙ったように、賊が立花山の屋形に押し入ったのです」
 弥十郎の眼光が、鋭さを増す。
「大殿は?」
「ご無事でございますが、手傷を負われました」
「で、ご容態は?」
「お命に別状はございませんが、静養の必要があると、医師が申しておりました」
「そうか……。いずれの手の者か……。目星は付いているのか?」
「仕留めた曲者(くせもの)の持ち物から察するに、龍造寺ではないかと」
 忠三郎の()んだ瞳が、きらりと光った。
「肥前の熊か……」
「おそらく」
 弥十郎は、庭先に植えてある沙羅樹(しゃらのき)を吐息まじりに見た。白い花弁が美しく芳しい香りが鼻をくすぐった。
 府内の暑い夏は、もうそこまで来ている。

第17話 南郡衆の御曹司

 誾千代は、戸次屋敷の武者溜(むしゃだま)りに控えていた十時(ととき)連貞(つらさだ)に視線を投げかけた。連貞は、現在、この屋敷の諸事一切を取り仕切っている男だ。
孫右衛門(まごえもん)上原(うえのはる)館へ行くぞ」
 連貞は、行き先が当主義統のいる大友館ではないことに疑問を持った。
「御館様に会われるのではなく?」
「あのような愚か者、主とは思っていない」
「……されど」
「オヤジ殿はいざ知らず。わたしの忠誠の対象は、孝子様ただお一人だ」
 大友宗麟の末娘孝子は、いま上原館に滞在していた。誾千代はそれを知っている。供は忠三郎でもいいが、普段から府内にいて他家と親睦のある連貞(つれさだ)のほうが顔が利くため、無用の摩擦を回避できると考えたのだ。
 馬屋に留めていた黒鹿毛に乗ると、誾千代は(むち)を入れた。勢いよく門をくぐる。連貞の騎馬がそれを追う。
 立花山屋形への襲撃の日に、天魔のような乱波(らっぱ)から受けた創痍(そうい)は、針で縫って傷口を塞いでいたが、この短期間で完治するはずもない。少女は、焼き(ごて)の後に残った激痛に、強靭な精神力で耐えている。普通なら馬に乗ることすら叶わない重症だった。手術を受け持った医者からも、当面激しい動きは控えるよう釘を刺されているほどだ。
 道すがら、両脇に建ち並ぶ板葺(いたぶ)きの家屋が目に映った。屋根の上には掌ほどの重しの石がある。ほぼ等間隔に複数置かれていた。暴風から屋根を守る役割を果たしている。
 それは大友氏の土台を支えてきた人々の生活の(もとい)
 彼らの生業も多種多様だ。鍛冶屋、傘張り師、桶屋、筆師(ふでし)などの職人もいれば、酒屋土倉といった金融業者に務めている者、品物を店先に飾る小売商の奉公人も数多くいた。
 誾千代は馬の速度を下げ、趣味で乗馬をするような速さにまでおとした。そして、道行く老若男女の姿を眺めた。
「博多とどちらがお好きか?」
 これまで扈従し、寡黙であった荒武者が口をひらいた。
「ん……どちらかな……。幼いころはここで過ごしたこともある、愛着はあるよ。どちらも」
「この賑わいは、大友家中の誇りといえましょうな」
「……歴代の館の苦労は察する。だが、それは支配する側の見方だろ……。彼ら民人にしてみれば笑止だろう。視点を変えれば、これらの人々に支えられて大友家はあるということだ。そのことを忘れれば、身に災いを招くことになる……。
 采詩聽歌導人言(しをとりうたをききてひとのげんをみちびく)
 言者無罪聽者誡(いうものはつみなくきくものはいましむ)
 下流上通上下泰(したよりながれうえにつうじてじょうげやすし)
 周滅秦興至隋氏(しゅうほろびしんおこりてずいしにいたる)
 十代采詩官不置(じゅうだいさいしかんおかず)
 郊廟登歌讃君美(こうびょうのとうかはきみのびをたたえ)
 樂府豔詞悦君意(がふのえんしはきみのいをよろこばしむ)
 若求興諭規刺言(もしきょうゆきしのげんをもとめば)
 萬句千章無一字(ばんくせんしょうにいちじもなし)
 不是章句無規刺(これしょうくにきしなきにあらざるも)
 漸及朝廷絶諷議(ようやくちょうていふうぎをたつにおよぶ)
 諍臣杜口爲冗員(そうしんくちをふさぎてじょういんとなり)
 諫鼓高懸作虚器(かんこたかくかけてきょきとなる)
 一人負扆常端默(いちにんいをおいてつねにたんもくし)
 百辟入門兩自媚(ひゃくへきもんにいりてふたつながらみずからこぶ)
 夕郎所賀皆徳音(せきろうがするところみなとくいん)
 春官每奏唯祥瑞(しゅんかんつねにそうするはただしょうずい)
 君之堂兮千里遠(きみのどうはせんりとおく)
 君之門兮九重閟(きみのもんはきゅうちょうとず)
 君耳唯聞堂上言(きみのみみはただどうじょうのげんをきき)
 君眼不見門前事(きみのめはもんぜんのことをみず)
 貪吏害民無所忌(どんりたみをがいしていむところなく)
 奸臣蔽君無所畏(かんしんきみをおおいておそるるところなし)
 君不見厲王胡亥之末年(きみみずやれいおうこがいのまつねんを)
 群臣有利君無利(ぐんしんにりありきみにりなし)
 君兮君兮願聽此(きみよきみよねがわくばこれをきけ)
 欲開壅蔽逹人情(ようへいをひらきてにんじょうにたっせんとほっすれば)
 先向歌詩求諷刺(まずかしにふうしをもとめよ)
 誾千代は白居易を口ずさみながら、そうあれかし、と痛切に願う。
(この方が、男児に生まれていてくれれば……)
 連貞は、馬上の後姿をじっと見つめていた。
 主従は、ふたたび馬に鞭を入れた。日本建築、特に仏教寺院とカトリック施設が同居している計画的な優れた町並みを抜けると、丘陵の裾が現われる。二人はそれを北上した。
 (むく)の木やクヌギが繁る森林を駆ける。倒木(とうぼく)が道をふさぐ。が、それを難無(なんな)く避けていく。まるで野鹿が俊敏に躍動しているかのように。
 葉末(はずえ)の玉が、風にさらわれる、雨上がりの森林の爽やかな空気は、誾千代の焦燥を和らげてくれた。
 坂道を駆けあがると、上原(うえのはる)館の茅葺門が、景色のなかに大きく浮かび始めた。見張り台があり、門衛が二人いた。
 門の前で止まった黒鹿毛の前に、連貞が馬をすすめた。
「御館の方々に申し上げる。これは戸次誾千代様でござる。わしは戸次家家中、十時(ととき)孫右衛門(まごえもん)連貞(つらさだ)。いざ、開門されたし!」
 連貞の声におうじて、物見台に登ったのは、身分ありげな若武者だ。
 こちらを見た。
「誠に、十時殿かっ!」
 訪問者二人の面貌を確認している。正体不確かな輩に、この門扉をひらくわけにはいかない。
「おう。この濁声(だみごえ)に聞き覚えがござろう!」
 連貞が声を張り上げた。戦場で、敵を萎縮させるほどの蛮声である。
「確かに! 今開門致す。しばし待たれよ!」
 若者は、()(がね)のような大声に聞き覚えがあるようで、さわやかに微笑んだ。
「あれは?」
「志賀家の御曹司でござる」
「あぁ……。右近の」
「左様」
 誾千代は、あの若者に好感をもった。所作挙動落ち着いており、対応も物柔らか、が反面、瞳炯々と輝き、配下の武士たちも自然と心服しているのが伝わってきた。誾千代の炯眼、この若者の資質を鋭く看破した。
 五年後、薩南の雄、島津の侵略に対してレジスタンスを組織してゲリラ戦を展開、崩壊した豊後で島津の大軍をさんざんに悩ませることになる。戦後、鎮西の驍将、島津義弘に『天正の楠木』と絶賛された。唐入りでの不名誉な撤退進言など、彼の才能に嫉妬した者の讒言にすぎない。ただし、誰の讒言であったのか。
「……そんな男がなぜここにいる?」
「御館様に近習として仕えていらしたのですが」
「いらした?」
「はっ……。いらした、のではございますが」
 馬上、少女は苦笑する。
「言わずとも察しはつく。おおかた諫言でもしてあの愚か者の勘気(かんき)に障わり、ここに流されたのであろう」
「……そんなところでございます」
 門が開き、あの若武者が迎えに出てきた。誾千代は馬からおりた。
「……出迎えご苦労です。わたしは戸次誾千代と申す者。本日は孝子様に拝謁を願うため当館(とうやかた)に参りました」
 誾千代の低い声に、親次が応じる。
「仔細は、姫様より承っております。騎馬はわたくしどもにお任せあって、広間へ」
 軽く目礼し、
「左様か。ではそうさせて頂く。孫右衛門、志賀殿の話し相手をして差し上げろ」
 と言い残して、館の広間へ急いだ。
 切れ長の目で一瞥しながら、
(役に立つ男のようだが……)
 自分と姻戚関係をもつ男だが、二人は初対面である。誾千代は豊後の本貫地に帰ったことはないし、そこには、父道雪の猶子となり、豊後戸次氏を継いだ義兄がいる。が、その義兄とさえ幼い頃、一度府内で対面したことがあるだけなのだ。この若者は、義兄、伯耆守(ほうきのかみ)鎮連(しげつら)夫人の弟なのである。そして誾千代の言う「右近」とは、二人にとって共通の甥にあたる右近太夫統連(むねつら)であった。
 その若者、志賀親次の涼やかな笑みが、とおりすぎる誾千代の背中を追う。
 玄関脇に、秋楡(あきにれ)が一本植わっており、露を含んだ鮮やかな青葉と斑模様の幹を横目に式台にあがった。あまり日の差し込まない薄暗い廊下を渡る。広間に着いたとき、孝子の姿がないことは、誾千代を安心させた。

第18話 毛利マセンシア

 しばらくして、十字架を象ったペンダントをした少女が上段の間に現われた。
 下段で正座していた誾千代が少女に対して腰をかがめる。
 侍女二人が、うつむき加減で少女の左右に控えていた。
 明障子(あかりしょうじ)をとおして淡い陽光が、部屋に射し込んでいる。この部屋には、畳が敷きつめられている。この時代の地方豪族の館にしてはめずらしい。普通は板敷であった。少なくとも立花屋形には全面畳敷きという部屋はない。
 格調高い調度品が、違い棚や床の間に並ぶ。南蛮渡りのオルゴールも飾られていた。庭は広く泉水もある、小さいながら築山(つきやま)も隆起していた。まるで都にある公卿(くぎょう)の邸宅のように。
 ただ、普段使われていないためか、部屋自体は少し(さび)れており、畳も新品というわけではない。柱の上塗りのつやだけが昔と変わらないのが場違いに感じられた。
 上段の間に三尺(さんじゃく)四方の絨毯(じゅうたん)が敷かれている。少女はそのうえに座っている。
「雨が降りましたね。梅雨はまだ明けぬよう」
「……それも、いずれは止むものでしょう」
「そうね……」
 花を手にしている孝子は、薄桜(うすざくら)の小袖に淡黄(たんこう)の打掛姿。ほっそりとした可憐な指で茎を(つか)んでくるくる回している。
 手に持った花を一途に見つめる孝子の姿に、誾千代は、かすかな不安を感じた。
「何か、お心を悩ますことでもおありか?」
「わかりますか?」
「幼い頃から、お目をかけてくださいました」
 彼女は、数日前、誾千代に手翰(しゅかん)を送ってきた。しばらく顔を見ていないため、懐かしく会いたい、府内まで来てほしい、自分も臼杵から出て行くから、と。
「……この家は、どうなってしまうのでしょう?」
「それは……」
「あの兄ではね」
「……」
 誾千代は心持ち驚いた。
「わたくしの前で本音を隠す必要はないわ」
「……と仰いますと?」
「あなたもそう思っているのでしょ」
「……わたしがここで愚痴を言っても。……それとも、そうした方がよろしいか」
 孝子は、いわゆる幼友達だった。行事事(ぎょうじごと)のあるときは、この上原館か大友館に出向き、よく一緒に遊んだ。だから、お互いにその人となりはよく知っている。
「高橋の嫡男を毛嫌いする訳は、なに?」
 誾千代はそのことを孝子への返事に書き添えた。すこし思慮の足りないことをしたと悔いている。幼友達にちょっとした秘密を打ち明けた少女のような心境だろうか。
「……」
 が、なぜかは誾千代にもよく分からない。生理的なものなのか、あるいは何か他に原因があるのか、答えようがなかった。
「それでは逐電(ちくでん)でもしてみたらどう」
「……」
 誾千代はそれも考えた。どこか、そう例えば京などへ逃避行するのも面白い、などと。だがそれは、ゆるされない遊戯であった。孝子は、やさしい笑みを送った。
「もう少し女らしくなさい。そんな男のような恰好」
 背筋を伸ばして正座をしている誾千代の装束は、純白の狩衣に深紫(こきむらさき)指貫袴(さしぬきばかま)という古風な装いだった。が、烏帽子はかぶっていないため、鏡のように輝く髪が肩や背中に流れている。
「道雪はなにも言わないの?」
「最近は不満のようですが、これまでは容認してくれていました」
 誾千代は、父の意思や周りの取り巻きの思惑の変化が気に入らない。
「他に好きな人でもいるの?」
「わたしにそのような者はがあると、思われますか」
 孝子は、畳の編み目をそっと指でなぞった。
「意に添わぬ縁談。わたくしの行く末のよう」
「……」
 誾千代は、この心優しい姫も同じ悩みを抱えているのか、と気が付いた。
「あの嫡男と仲睦(なかむつ)まじく……ね」
「……温かいお心遣い、感謝に堪えません」
 森閑とした屋敷内に鹿の鳴く声が響いた。館近くの森から聞こえる。
 孝子は、瞼をとじた。
呦呦鹿鳴(ゆうゆうとしてしかなき)
 食野之苹(ののへいをはむ)
 我有嘉賓(われにかひんあり)
 鼓瑟吹笙(しつをこししょうをふく)
 吹笙鼓簧(しょうをふきこうをこす)
 承筐是將(きょうをささげてこれすすむ)
 人之好我(ひとのわれをよみさば)
 示我周行(われにしゅうこうをしめせ)
 鈴音のように玲瓏な美声が室内を満たす。
呦呦鹿鳴(ゆうゆうとしてしかなき)
 食野之蒿(ののこうをはむ)
 我有嘉賓(われにかひんあり)
 徳音孔昭(とくいんはなはだあきらかなり)
 視民不恌(たみをみることうすからず)
 君子是則是傚(くんしこれのっとりこれならう)
 我有旨酒(われにししゅあり)
 嘉賓式燕以敖(かひんもってえんしもってあそぶ)
 安息をもたらす響き。ふたりの侍女も、うっとりと聞き入る。
呦呦鹿鳴(ゆうゆうとしてしかなき)
 食野之芩(ののきんをはむ)
 我有嘉賓(われにかひんあり)
 鼓瑟鼓琴(しつをこしきんをこす)
 鼓瑟鼓琴(しつをこしきんをこし)
 和樂且湛(わらくしてかつたのしむ)
 我有旨酒(われにししゅあり)
 以燕樂嘉賓之心(もってかひんのこころをえんらくす)
 調べを終えた孝子が、莞爾として微笑んだ。
(身に余る仰せ……)
 誾千代は、恐懼した。
「貴方は、まだ幸せだと思う」
 はっとした。
(この方は、さらに過酷な政争の具にされるかもしれんのだ……)
 つい感情が昂ぶり、誾千代は膝を前にすすめた。
「孝子様」
「なに……」
「我が屋形にお移りに」
 誾千代はそこで言葉を切った。
「そうね。それができたらどんなにいいか」
「たわいも無いことを……。恥じ入りるばかりです。お許しください」
 誾千代は、不可能なことを感情の赴くまま口走った自分の未熟さを嫌悪した。
「ときにはそれが胸に心地よく響くときもあります」
 孝子は立ちあがり、誾千代の正座している下段の間に降り、障子へと歩いていった。彼女が障子を開けると、梅雨の合間の明るい陽射しが、人気の寂しい部屋に流れ込んできた。

 この上原館からは、別府湾が一望できる。

 瞳を凝らしてその風雅な光景を見る孝子に、誾千代は顔を向けた。そして、身体も庭に向けて正座しなおした。
「幼少の頃は、この海景色を見ることができなかったわね。あの白壁に阻まれて」
「築山に登って宗麟様によく叱られました」
「ええ」
 蒼い海原に白い波濤(はとう)が、ちらほら立っていた。
「誾千代……。貴方だけでなく、わたくしもいづれ選択に迫られることになる。そして人は変わらねばならない。良くも悪くも」
 悲壮な声音。胸元にあるクルスが光りをたたえている。
「であるとするのなら、より良い選択を心掛けたいものです」
 そのとき誾千代の瞳が何を見つけたのか、つよく輝いた。緑の脱けた畳は幼い頃の記憶を呼びおこす。だが、やはりこの方に会ってよかったと思う。
「そうなるように祈っているわ」
「はっ。お礼申し上げます……。孝子様も」
「わたくしは、この不安定な大友という束縛から逃れることはできない。でもあなたは」
「為すべきことを為そうと思います」
「この部屋に入ってきたときより良い顔になったわね」
「姫様のお蔭でございます」
 梅雨明けは、誾千代の鬱屈していた心が晴れる兆しなのか……。

第19話 立花山へ

 夕刻になって十時(ととき)連貞(つらさだ)が、戸次屋敷の門をくぐった。
 連貞とは親しかった。歳が近いというのもあるが、弥十郎の物事にこだわらない性格がそれを可能にしていた。
「誾千代様は?」
「あとから戻る、との仰せだ」
 湯につかり旅の疲れを幾らかとった弥十郎は、旅装もあらためた。九州一円を経廻り、いささか襤褸(らんる)となっていたためだが、黒で統一されているところは変わらない。
 自室として使っている部屋に連貞を招くと、二人は、その部屋で向かい合って座った。中の間と庭をへだてて斜向(はすむ)かいとなっている。 
「その怪我は……。大丈夫か?」
 弥十郎の左眼の刀傷は、肝の据わった連貞でも思わず驚愕してしまうほど深刻なものに映った。
「問題はない。……と言いたいが、やはり、片眼を失ったのはこたえる」
 口では何事もなかったかのように明るく振る舞ってはいるが、左眼を失った影響は計り知れない。左側の視界がほぼ無くなるため、そちらからの攻撃への対処がどうしても遅れるのだ。それに、平衡感覚もつかみにくかった。それを気にしすぎれば思考も鈍る。
 戦場で、それどころか、そもそも武士としてやっていけるのか、という不安に襲われるときがある。
「とは言え、状況に対応するしかない。生きるとはそういうことだと思っている」
「……わしに出来ることがあれば、遠慮無く言ってくれ」
 連貞は、この同僚の傷心を思いやった。
「恩に着る。いずれ(たの)むこともあると思う。しかし……この借りはいずれ、そう思うのはわたしの女々しさかな」
「気持ちは分かるが、復讐めいたことを抱き続けるのは、お主には似合わん」
「……かもしれんが、それも含めてわたしなのさ……。なにか立花山にお知らせしておくことはあるか?」
「ここにいると、あそこに居たときより島津の圧力とでも言うべきか、それを感じる。奴ら、放っておけば日向どころか肥後まで一気に侵攻するのではないか」
 弥十郎は、島津義久の言葉を思い出していた。
(肥後まで……。まさかな)
 湯につかった身体は軽快で、新しい小袖や肌着の着心地はよかった。
(信長に北上を阻まれた無念さが口を衝いて出たのだろう、あれは……。心意気を言ったにすぎん)
 そう思うようにした。が、連貞の意見はそれとして立花山に伝える必要があると思った。
「……了解した。わたしはすぐに発つ」
 弥十郎は、刀架にかけていた太刀と、小さ刀をとって立ちあがった。
「これから行くのか?」
 連貞が見上げる。
 弥十郎は、(ちい)(がたな)を腰に差し、太刀を佩き始めた。
「よいのだ、これで。わたしがここに居たとしても何ができるというわけでもない」
「本家について何か申しおくことは?」
 それを見た連貞も立ちあがった。
「そこまでの責任は持てんよ。それは、加判衆(かはんしゅう)を務めているお偉方にやってもらうしかない。我らは、本家の政治向きには口出しできないからな。与えられた任地を守りきる……それが不満だと言うのなら、わたしを加判衆に任じてもらうしかないが」
「言っていることはわかるが、頭の堅い連中だぞ」
「期待はしていないさ。……だが、そうであればと、この頃つよく感じる」
 耳川の合戦では多くの有力武将が戦死した。そのことは、単に軍事的な損失を意味するだけではない。彼らは領国経営の中枢を占めていたため、それらの国家機能が麻痺してしまったのだ。
 現在(いま)の若返った大友家首脳(加判衆)の混迷ぶりは目に余るものがあった。彼らは動揺し、狼狽え、何ら有効な方策を立てることもできないまま信長という庇護者にすがるしかなかった。
「こっちのことは、任せろ」
 言いつつも連貞は、弥十郎の左眼が気になっていた。
「長い付き合いだ。信頼しているよ」
 弥十郎は、連貞の社交的で面倒見のいい柔軟な精神を好ましく感じている。また、そういう男だからこそ友として不足がない。
「悪いが使いを出して、これを鈴茄(すずな)屋に届けておいてくれないか」
 弥十郎はかがんで、文机(ふづくえ)に置かれた文箱(ふばこ)から、筋目正しく折られた白い紙を取りだし、連貞に渡した。
「この書状は?」
「私的なものだ。人が見て楽しめるようなものではない」
「お主がなにを書いて送るのか、少しばかり興味がある」
「……そうかな」
 弥十郎は、首を少しかたむけてみせた。
「どこを行くつもりだ?」
 夕日が、府内の西にある高崎山にかかりはじめている。
「まずは、府内を出て田原(たわら)様の宇佐(うさ)郡を抜けるとしよう」
 田原様とは、加判衆筆頭の田原(たわら)紹忍(しょうにん)のことである。紹忍は豊前国宇佐郡を支配領域とし、豊前の統括を命じられていた。
「だが、上毛(こうげ)からは秋月筑前の与党の支配地だぞ」
 秋月筑前とは、筑前南部にある堅城、古処山(こしょざん)城を本拠としている秋月種実のことである。種実は、筑前南東部、筑後北部、豊前中南部にまたがる広大な領域を領している、 それだけではない、豊前の最北部にある企救郡(きくぐん)には、大友宗麟に謀反して小倉へ流された高橋鑑種がいた。鑑種自身はこの時期すでに病死しているが、その養子として、種実の次男元種が小倉高橋家に入っている。
 今や大友氏にとって侮りがたい勢力へと変貌していた。
 ちなみに連貞の言う上毛とは、大友氏の豊後と境を接する豊前国の南端にある上毛郡のことである。
「わたしの性分なのかもしれん……。死ぬまで直らんらしい」
 弥十郎は、自嘲気味に言った。
 もともと豊前は鎌倉時代、宇都宮(うつのみや)城井(きい)氏が守護だった。しかし、鎌倉期の守護は名のみで実質的な権限はほどんど無い。
 そのため、守護として豊前の支配権を初めて確立したのは、周防・長門を治める大内氏だった。大内氏は南北朝末期に九州探題の今川了俊が失脚したあと、豊前の守護となり、初めて豊前を守護大名として実効支配した。
 その大内氏と争ったのが、筑前、肥後の守護であった小弐(しょうに)氏と豊後、筑後の大友氏である。豊前の国人領主たちは、両者の間でたえず浮沈(ふちん)した。次第に小弐氏は()されて肥前へ(はし)り、豊前の争奪戦は大友と大内の間でなされるようになった。のち、小弐は龍造寺によって滅ぼされている。
 大内氏が毛利元就によって滅ぼされると、今度は毛利氏と大友氏が豊前を争うようになった。そのなかで豊前の国衆はときに毛利に、大友が優勢となれば簡単に寝返った。
 豊前は中小の国人領主が乱立してる。
 そのことは、豊前のこのような歴史をみれば自然の成り行きだった。
 もともと大友家の家臣ではない人々である。その力が弱まれば自立の道を模索するのは至極当然のことといえた。
 こうした理由から、筑前同様、豊前も耳川の合戦以後は離反者が続出していた。城井、長野など一旦は毛利から大友に鞍替えした者や豊前北部の秋月一族である高橋元種らである。
 つまり、戸次氏や高橋氏が治める筑前北部と大友氏の本貫である豊後とは飛び地となっていた。
「宇佐までの起伏を抜ければ、あとは平地だ。馬を走らせるにはうってつけだからな」
「だが、敵領だ。捕捉される危険があるぞ」
「行きがけの駄賃(だちん)に、敵領によるのも悪くない。秋月らがさわがしいと聞いている」
「慎重かと思えば、向こう見ずなこともする。わからん男だ」
 しかし、そこを通り過ぎれば高橋紹運の治める領域に入るため、そこからは安全が確保され、気を張らずに一息つけるのだ。
 このなかで戸次家ともっとも激しく対立しているのは、秋月種実だった。長野と城井といった豊前の国人は、田原(たはら)紹忍(じょうにん)の管轄だからだ。
「それにしても、また動くのか? 秋月が」
「まだ確証はない」
「ふたたびの潜入になるな」
「この耳で確認しておきたいことがあって仕方なく、と言いたいが……。好んでやっていると思ってもらっても……なぁに、構わんさ。やはり性分なのだろう。じゃあ、馬を借りるぞ。孫右衛門(まごえもん)
「承知だ。くれぐれも気を付けるのだぞ」
「ああ、心に留めておく」
 弥十郎は、連貞に白い歯をみせ、部屋から出た。
 廊下を歩いている弥十郎に気づいた忠三郎が、近づいてきた。
「忠三郎、ともに行くか?」
「あ……。はっ……いえ。ですが、もうお()ちとは、幾らなんでも」
 忠三郎は驚きを隠せない。
「わたしは、苦労性なのかもな……」
 弥十郎は、呟くかのように自嘲した。が、すぐに気を取り直し、
「誾千代様は、海をきたのだろう?」
「はい、博多から。戻りもそうするつもりです。大夫は?」
「陸をゆく」
「ここから! 危険では?」
「かもしれんな……。その言葉、忠告として受けとっておこう」
 弥十郎は、ふたたび白い歯を見せた。
 府内を出て、夕刻から日が沈んでしばらく馬を飛ばし、宇佐に近づきつつある。弥十郎は御許山にある峠にさしかかっていた。
「広いな」
 見晴らしはいい。星々がきらめく夜空、月が辺り一帯を照らしている。
 眼下に聚落(しゅうらく)があった。ちらほらとあがる人煙。そこで一夜の宿を借りることにした。
「もう少し辛抱してくれよ」
 弥十郎は、ここまで連れて来てくれた相棒の首を二度軽く叩いた。

第20話 高橋の子

 年のわりには小柄な少年が、河原沿いの土手で寝転んでいた。
「太郎。ここにいたの」
「なんだ。美和か」
「御挨拶ね」
「何か用?」
「お父様が言ってたわ。(わか)には、覇気がないって」
 美和は、最後の言葉にわざと力を込めた。
「そうかい。……申し訳ありませんね、弱虫で」
 太郎は、ムスッとして手に持っていた(うり)をかじった。カリッと良い音がした。美和に、殺されてしまうかもしれないんだ、首を討たれるかもしれないんだ、と言いたかった。
「それでも高橋紹運の息子!」
「父上は、そう言ってますけどね」
 この少年は、豊後の戦国大名大友宗麟の重臣、吉弘(よしひろ)鑑理(あきまさ)の孫である。父は、鑑理(あきまさ)の次男、吉弘(よしひろ)鎮理(しげまさ)であった。鑑理の嫡男、鎮信(しげのぶ)は、宗麟の加判衆をつとめた勇将だったが、耳川の合戦で惜しくも戦死している。次男である父、鎮理(しげまさ)も軍兵のなかで生きてきたような男なのだ。
 が、この少年には、その勇ましさが、かえって(うと)ましかった。
(兄とは違う、ということなんだ)
 太郎は、足を跳ね上げて、その反動で半身を起こした。
「ぺっ……ぺっ……ぺっ……ぺっ、ぺっ」
「やめなさいよ。品性に欠けるわ」
 瓜の種を川に向かって飛ばした。届くかと思ったが、思ったほど飛ばないな、と思い、面白く無くなってやめた。美和の抗議を聞いたのではない。
 水生植物が川床で揺らぐ、その水面を舟が流れていく。切りそろえられた木材が並ぶ川舟、流れは穏やかのようだった。
「今度の戦に行くんでしょ?」
「よく知ってるね」
「聞いたの……」
「無理遣り連れて行かれるんだ。初陣しろってさ」
「恐いの?」
「どうだかね」
 太郎は意地を張った。
(そう思わない方がどうかしてるよ)
 まだ、数えで十一才なのだ。
「強がっちゃって」
「強がってなどない。ただ、血を見るのが嫌なんだ」
 戦場への恐れを認めるのは、父の体面を汚す恥辱であった。そういう自尊心を捨てきれないでいる太郎であった。
「どうして戦なんてするんだろ」
 太郎は、もう一つあった瓜を美和に差しだした。美和は、いらない、と首を振った。
「……美味いのに」
「あたし女よ」
 美和は言った。瓜にかじりつくなんてはしたない、と思ったのだ。
 太郎は、食べかけの瓜を食べ終えると、もう一つを懐に仕舞(しま)い込んだ。
「ちかく人が来ることになっててね」
 太郎は、膝を抱えた。瓜が落ちそうになるのがわかる。
「人?」
「兄者の……許嫁さ」
「弥七郎様の……」
 美和の顔が一瞬曇った。
「気になるかい」
 太郎は、美和が兄の弥七郎に思いを寄せていることに前々から気付いていた。だからといって、嫉妬するとかやっかむということはない。恋慕の対象として美和はまだ幼すぎた。
「なんだか変わった人なんだとさ」
「どんな風に?」
「知らないよ。自分の許嫁じゃないんだから」
 太郎は、膝を抱えていた手を後ろに回して上半身を支えた。顔をうえに向けると懐に抱えていた瓜が土手を転がっていった。
「ああ!」
 美和が袖を引いた。が、太郎は、変わった形の雲だな、と思っていた。と、
「太郎!」
 遠くから呼ぶ声がした。
「兄者……か」
「おれだ! 聞こえないのか!」
(……ああ……兄者らしい……)
 ぼんやりとそう思った。
 兄弥七郎統虎は、家中の者すべてが認める丈夫だった。自分とはかけ離れた存在である。父の期待もきわめて大きい。だけでなく、大友家中きっての名将、他国では軍神とも称される戸次道雪のほうから養子に迎えたいと言わせるほどの有望な若者なのだ。
 美和がとなりで手を振っているのがわかった。
「美和! その小僧を連れてきてくれ!」
「……こぞう……か……もっともだ……」
 だが、その小僧を戦場に出そうとする大人たちはどうなのか、と問いたい。
「お呼びとあれば、行きますか」
 不承不承立ち、坂をおりて転がり落ちた瓜を拾った。手でペシペシと瓜をたたく。
「どうですかね、あの威張りようは」
 美和にわざと聞こえるように太郎はした。兄に聞こえてもかまわない。むしろ聞かせてやろう、とさえ思っている。
 統虎ほうから馬上畦道を来た。
「食いますか? 兄者」
「威張り散らして悪かったな」
「あ、いけね、聞こえてました。あははは」
 太郎は、わざとらしく頭をかいた。憎らしいほどけろっとしている弟の太々しさは悪くない、と思う。
(のど)が乾いていたところだ」
 統虎が、その瓜にかぶりついた。
「盗んだのか?」
「いやだな。買ったんですよ、銭を払って」
 太郎は、鐚銭(びたせん)を一枚ちらつかせて兄の疑いを解いた。
 美和は統虎の眉間のキズが痛ましかった。
「弥七郎様、ご婚約おめでとうございます」
 その刹那、美和の胸の奥に暗い炎がともった。が、健気にも祝辞を述べた。
「父と年寄(おとな)どもが決めたことだ」
「噂は聞いています。お綺麗な方なのでしょう?」
 美和が、恐る恐る尋ねた。
「フン、そんな奴ではない。男勝りで、身勝手で、気位の塊のような女だ」
 美和の頬に明るさが戻った。
(人を従わせようとするような、あの気の強さが気に入らん)
 容姿に文句はない。
 しなやかな身体から長い手足が伸び、小さな顔の目鼻立も鮮やかだ。透きとおるような白い肌と滑らかな黒髪も魅力的だった。だが、あの性格だけは許容できない。
 それに、統虎にとっては父と母こそ理想の夫婦像であった。父同様、おなごは見た目ではないと思っている。心映えの美しさこそ肝要なのだ。
「で、その眉間の怪我は、その人にやられたんですか?」
 太郎がとぼけたように聞いた。
(……こいつ、妙なところで勘がいいんだよな……)
「いいや、落馬したとき地べたから覗いていた岩で打った」
「へぇ、兄者でも落馬なんてするんですね」
「皮肉かよ」
「まぁまぁ、そう怒らずに。へへっへっへ~」
 太郎は手をまぁまぁと抑えながら笑っていた。美和はそんな太郎を、やめなさいよ、というように肘で突いている。
 統虎は、弟のペースになっていることに舌を打った。
「そんなことより、母上がお呼びだぞ。城に戻れ」
「兄者は?」
「領内視察だ、天満宮に行く。父上に命じられてな……」

戸次の鬼姫~立花誾千代異譚~

戸次の鬼姫~立花誾千代異譚~

中原では織田信長が長年の宿敵であった武田氏を長篠の戦いで破り、本願寺の最終要塞石山を開城させ、畿内を中心に急速に版図を広げる。信長が天下人へと上り詰めようとしていたとき、九州では大友・島津・龍造寺を中心とした争いが激しさを増していた。だが、大友氏は天正6年に勃発した耳川の戦いで島津氏に大敗。もはや劣勢を隠し切れない。大友の沈淪をみた龍造寺も盟約を破棄、大友領へと勢力の拡大を図る。 斜陽の大友氏の苗裔にあたる『戸次』の姓を持つ少女。 名は誾千代、鬼道雪の異名をもつ戸次鑑連の一人娘。 立花山城督の地位を継ぎ、十三となった誾千代は思う、 「彼丈夫也、我丈夫也、吾何畏彼哉」と。 後の世の人々に『西国一の女丈夫』と畏怖されることとなる少女は、城督として自分の運命に立ち向かうと誓った。

  • 小説
  • 中編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-10-23

Copyrighted
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  1. 第1話 弥十郎
  2. 第2話 花霞
  3. 第3話 三州の総大将
  4. 第4話 異国の駿馬
  5. 第5話 博多の才女
  6. 第6話 胡蝶の舞
  7. 第7話 薩摩潜入
  8. 第8話 梨花宗茂に見ゆ
  9. 第9話 誾千代婿と競う
  10. 第10話 鹿児島の老者
  11. 第11話 示現流
  12. 第12話 冷徹な侍女頭
  13. 第13話 急襲、戸次屋形(前篇)
  14. 14
  15. 第15話 国都府内
  16. 第16話 紅顔の少年
  17. 第17話 南郡衆の御曹司
  18. 第18話 毛利マセンシア
  19. 第19話 立花山へ
  20. 第20話 高橋の子