JAZZとヨットとそして…

(1)


 まるで夕立を浴びたような爽やかさを感じながら健太郎は部屋に戻ってきた。寮の風呂場のシャワーを使ったのは今日が初めてだ。そばで洗濯機を回していた木本がニヤニヤ笑いながら「先輩、デートですか?」と言いやがった。
何しろ今日は大事な日だ。健太郎にとって断頭台に上るような、そんな日なのだ。だから、まずはすべてを洗い清めいつ切り落とされてもいいように小奇麗にしておかなければならないのだ。
 資生堂・MG5のヘアトニックをビートルズのような頭にふんだんにかけまくり指先で髪の毛をマッサージする。鏡の向こうに蘭(らん)のつりあがった瞳が浮かんでは消える。「誤解だ」思わず健太郎の呟きが漏れる。
 そもそも蘭の友達というのが芹(せり)でこいつがちょっとかっこいいのでつい蘭に「彼女の横顔っていかすな」って冗談ぽく言ったのが間違いのもとだった。
「そんなら芹と付き合ったら?」
 蘭は完全にふくれていた。
 今日はその決着をつけるというのでこれからその場所へ出陣せねばならない。
 健太郎二十歳。この春、横浜の大学に入学したばかり。大学の寮に入って一月が過ぎていた。

 そもそも木本から先輩なんていわれる筋合いはない。同じ新入生なのに何故自分が先輩になるのか。でも二浪したことを考えれば年上になることは確かだ。ドライヤーで頭を乾かしながら納得した。
 さて、健太郎は本日の作戦をもう一度練りなおさねばならなかった。第一に蘭にどう言って謝るかだ。
「やっぱり君と付き合いたい」と言ってはっきりとさせるか、それとも芹とのことはあくまでも内緒にしておくかということである。
 それにしても芹がつぶやいた台詞にはドキリとさせられた。三渓園でデートした帰り京急のなかでつり革を握るぼくの体を触りながら「蘭に悪いわ」と言ったのだ。
 でもって、やはりこの際、恐らくは蘭はこのことを知っているに違いないとシャワーを浴びながら気付くに至った。なぜなら蘭と芹は友達同士であり、何かと通じ合っている。でないと今日急に「話があるから」と呼び出しを食うはずはない。いよいよ彼女の堪忍袋の緒が切れたのでは。
 階下の食堂で数人がざわついているのが耳に入ったが健太郎はそ知らぬ顔をして下駄箱へ進みスリッパを中に入れて靴に履き替えた。
「おい、大門どこへ行く」
 三年生の角原さんから声をかけられた。
「ちょっと」
「デートか」
「いや、まあ」
「帰ったら俺の部屋へ来い」
「はい」
 急いで玄関を出ると健太郎ただ一目散に駅へと向かった。角原さんの用事はだいたい想像できた。「原潜帰れ!安保破棄!」のデモ要員の話だろう、と思った。

 黄金町の喫茶店「ルーチェ」に入ると、薄暗い店内の片隅に待っていたのは蘭だけではないことに気付いて健太郎は仰天した。
「やあ」
 声をややぎこちなく発しながら二人の前へと歩み寄った。芹の眼も魅惑的に輝いている。動揺を見破ったか蘭は唇の端を微妙に和ませながら「どお?びっくりした?」と開口一番強烈なジャブを繰り出してきた。
「まいったなあ。何?」
「はっきりさせておきたいの」
「うん」
 やはりこれは断頭台だ。もはや観念するしかない。心のなかで健太郎は叫ばずにはいられなかった。
「いったいあなたはどっちと付き合うつもり?」
 蘭が厳しい目つきを寄せてきた。
「うん」
 煮え切らない決断が渦巻いた。完全に男として失格だ。こうなった以上、自分の信用は丸つぶれであることは明白である。だから今日は首をきれいに洗ってきたつもりではないか。
「何とか返事しなさいよ」
「うん」
 健太郎はどう説明したらいいのか迷った。
 みるみるうちにハイライトの吸殻が溜まっていく。
「やめるよ。どちらも付き合わないことにする」
 健太郎は潔く頭を下げた。
「申し訳ない」
このひと言によりしばらくして健太郎に対する風向きが一変した。彼女たちの間で押し問答が始まったのである。
「私はいいから蘭、あなた付き合いなさいよ」
「私は遠慮するわ。気にしないであなた付き合ったら?」
 もはやこの言葉だけが二人の間を往復し、健太郎は蚊帳の外である。気まずい空気が流れ始めた。
「私、帰る」
 終いに蘭は声を荒げて席を立ってしまった。

(2)


 シュピレヒコール!
「安保、はんたーい!原潜、帰れ!」
 じぐざくデモは続く。横須賀・臨海公園に集合した色とりどりのヘルメット。みんな口をタオルで隠し、長い角材を持っぞろぞろと前進した。
「整然と行進しなさい」
しきりにマイクががなっている。
左右を見ると機動隊の群れが挟み撃ちしながら押し寄せてくる。
「お前ら、絶対に手を出すな」
「手を出したら公務執行妨害で持っていかれるからな」
角原さんの声が頭を巡る。
しかしそれに混じって蘭のつりあがった瞳が浮かんでいた。
「ルーチェ」に取り残された健太郎と芹はあれから黙ったまま向かい合っていた。
恐ろしいほどの女同士のエゴを感じた。
「まあ、ぼくとしては信用を失ったようだし…」
「…」
「同じことを言うようだけどこの際、どちらとも付き合わないということで…」
「…」
芹は依然と何も答えないので、健太郎としては何度もハイライトに火をつけ、結局その場でひと箱を空にしてしまった。
(よし、けじめをつける意味でこの際、坊主頭になろう)
健太郎は秘かに決断した。このビートルズのような頭をさっぱり切り落として二人と決別するのだ。
そんなことを考えていると芹は何を思ったのかフフッと微笑んだ。まさか坊主頭を想像したわけじゃあるまい。
彼女はそれからおもむろに、「出ましょ」と言って立ち上がった。

デモの四日前。
 決断したとおり健太郎は頭を刈った。さすがにスキンヘッドにするには極端すぎるので、いわゆるスポーツ刈りにした。
 すれ違う寮のみんながえっ?と言うようにして振り返った。ポカンと口を開けて健太郎を見つめた。
「心機一転でして」
 と、あえて尋ねる者には答えた。
 蘭は相変わらず連絡してこなかった。

「横須賀にアメリカの原子力空母がくる。これは絶対に阻止せねばならぬ」
「我々はこのベーテェ-に対し断固立ち向かわなければならないのであって…」
「しかるに現体制下にあってその元凶はアンポであるがゆえ我々はこれを破棄すべく闘うのであって…」
 健太郎は四〇一号室の角原さんの部屋に缶詰になって彼の演説を聞いた。彼はしきりにベーテェ-とかアンポとかの用語を口にした。角原さんは三派系全学連の闘士だ。口に泡を飛ばしながら延々と 健太郎の理解の出来ないアジテーションを続けていた。
 蘭のことが少し気になりなりながらも、分かったようにうなずかざるをざるを得ない。
 それにしてもアンポは分かってもベーテェ-とはいった何だろう。
「ベーテェ-って何ですか?」
 健太郎は尋ねた。それまで勢いづいてしゃべり続ける角原さんのトーンが急停車した。
「うん?」
 角原さんは健太郎の顔をまじまじと眺めてよだれをこぼさんばかりの呆け面を見せた。
「米国帝国主義だよ」
 顔を近づけてきて低い声で唸った。それからしばらく現実に戻ったような目つきになり、健太郎のすっかり変わった頭のかたちに初めて気付いたようだった。
「何だい?その頭は」 
「はい、心機一転で」
 健太郎は角原さんに対しても答えなければならなかった。
 
 臨海公園からスタートしたデモはやがて米軍基地のゲート前でやってきて立ち往生してしまった。
 前のほうで激しく小競り合いが展開されている。突入を図る学生とそれを制止しようとする機動隊の乱闘が始まった。
「逃げろ。ぱくられるぞ」
 周囲で叫び声があがった。健太郎は一目散に駆け出した。

 そんなことがあって一週間が過ぎた。
 あれから蘭は何も言ってこない。洗濯をしたあと寮でひとりでベッドに寝転んで窓から入ってくる初夏の風に触れながらぼんやりとしていた。授業は休講だ。
 しばらくすると木本が入ってきた。
「先輩、彼女とデートしないんですか?」
 ニヤニヤして尋ねた。
「別れたよ」
「どうしてですか?」
「ふられたんだよ」
「へえー。そうなんですか」
 木本は少し驚いて見せながらまだ笑っている。
(こいつには借りがある。やばいことに一度、キャンパスで蘭と一緒にいるところを見られているのだ)
「そういえば電話もないですね」
「そうだよ」
 電話があれば放送され寮生全部に聞こえることになっている。
 蘭のやつ本当に怒ったのだ…
 健太郎は重い気持ちを拭えないまま、起き上がってポットのスイッチを入れた。
「お前、授業は?」
「私も休講ですよ」
「そうか…」
 それから二人は黙ってインスタントコーヒーを飲みながら窓の外を眺めた。
「分かるだろ」
「何が?」
「この頭を見ろよ」
 言われて木本は健太郎の頭を眺めた。
「なるほど」
 木本は低く唸ったかと思うと次にクックッと笑いをこらえた。

 七号館の前の芝生で同じクラスの仁村と話をしていた。
 喫茶店「ルーチェ」にて二人に呼び出され、決別宣言をしてから「原潜寄港反対デモ」に加わったり木本にだけ真相を打ち明けてからおよそ二週間は過ぎていた。
 仁村は言った。
「このあいだよぉ、蘭さん居たぜ」
「どこで」
 健太郎は心をときめかせた。いや待て、決別だ。心に決めたはずだ。半分は動揺している自分に気付きながら話をつなぐ。
「この前だよ。ここで寝転んでいたとき見たよ」
「付き合ってんだろ?」
 彼はまだあの決別宣言を知らない。ま、いいや。これは黙っておこう…
 初夏の陽射しがいっぱい芝生のうえで輝いていた。
 健太郎の耳に「私は遠慮するわ。気にしないであなた付き合ったら?」と芹に言った蘭の声が蘇る。
「どうしたんだよ」
 しばらくして仁村が黙っている健太郎を覗き込んだ。
蘭はあれからどうしているんだろう。
むしょうに蘭に会いたいと思った。

 寮に戻ると角原さんが「あとで俺の部屋に来い」と言って忙しそうに出かけていった。あのデモの日、角原さんはぱくられたと聞いた。もう出てこれたのかと健太郎は不思議に思いながら玄関でしばらく呆然と突っ立ったままでいた。
 公務執行妨害で留置場で三日間か、とぼんやりしているといつの間にか木本が目の前に現れた。
「先輩、蘭さんから電話がありましたよ」
 木本は目を輝かせて言った。

 蘭に急に会いたくなって近くの電話BOXから電話した。蘭のお母さんが出てきて「蘭は出かけています」と言い、「どなた?」と問われたので 健太郎は自分の名前を言うのに少しうわずってしまった。
 蘭のお母さんは謡曲の先生をやっていて、一度蘭の家へ行ったときチラッと見たことがあるが上品でいてどことなく厳しい眼光のあるお方である。我々を制圧した機動隊員の殺気立った獣のそれではなく何というか「あなたが考えていらっしゃることは視えますのよ」といったような優雅な透視力を秘めておられる方なのだ。
 まさか「あなた、うちの娘と芹ちゃんとどちらと付き合うつもりなの?」とは聞かれなかったが正直、健太郎としてはどぎまぎした。
 ホイホイの態で電話を切ったあと、やっぱり決別宣言はまだ完全に履行されていないのだ、なんちゅうかこの喉にさんまの小骨が引っかかってしまっているようなすっきりしない心地が付きまとっている。仁村の話が気になったり、そいでもって今日、蘭のお母さんと電話で話したり…

 その日の夜、果たして蘭から電話がかかってきた。ちょうど角原さんの部屋へ行って「ベーテェー」の講義を受けているときだった。
「二〇五号室の大門さん、二〇五号室の大門さんお電話です」
 と館内放送が流れた。健太郎はその時、熱心に角原さんのトロッキズムが云々の説明を聞いている最中で、マグロのトロと…トロッキー…の関係を分析しようとしていたわけで頭のなかが混乱していた。
「おえ、お前や。呼んでるぜょ」
なぜかこのとき角原さんは高知弁で健太郎の肩をつついた。
「電話?」
 我に返った健太郎は急いで四階の角原さんの部屋を飛び出し「はあーい!」と叫びながら階段を三段跳びで駆け下りていった。
「わたし、蘭。今日、うちに電話くれたんだって?」
「ああ」
「なあに」
「うん。いや別に。どうしているかな…って思って」
「えっ、なに…わたしたちに決別したんじゃなかったの」
「うん」
「で、なんでかけてくるわけ?」
きっつー、と思いながらも健太郎はしぶとく食い下がった。
「ちょっと話をしてみたい…と思って」
沈黙。
が、流れる。
「あのさあ、ヨット部、どうしたの?」
「ああ」
「入ったの?」
「ああ」
「まだなの?」
「ああ」
 沈黙。
が、また続く。
「どっちなの?」
「入ったさ」
「気のない返事ね。で活動してるの?」
「来月初め、合宿だよ」
「どこで?」
「森戸だよ」
「森戸ってどこ?」
「葉山の近くだよ」
「あっそう。まあ、頑張ってね」
「…うむ。まあ」
 沈黙。
 が、三秒間あって、
「じゃあね」
 と蘭は電話を切った。

(3)


ヨット部。
…だ。
そう、ヨット部。
こうしちゃあ居られない。自分はヨット部の入部手続きをやってしまっていたのだ。 
にもかかわらず、黄金町の喫茶店・「ルーチェ」で蘭と芹に対して決別宣言をし、尚且つ角原さんの「ベーテェー」の講義を無理やり聞かされて臨海公園へデモに駆り出され、このところ本命の課題に取り組んでいない。
 で、こころを統一しぼちぼち来月の森戸海岸での合宿に備えその準備に勤しむことにした。
「先輩、どこかに行かはるんでっか?」
五月も終わりに近づいたある昼下がり、部屋に入ってきた木本は荷物を整理していた健太郎に向かって怪訝な顔をした。
「そうとも合宿だよ、合宿」
健太郎の声は弾んでいた。
「へえー。何の合宿ですか?」
「知らんのかえ。俺はヨット部に入ったんや」
関西弁になっている…やんけ。
そう言えば木本も出身は関西だった。
「なんや、蘭さんと旅行とかではおまへんのでっかいな」
「あほぬかせ」
頑張らねば!わが校は今年は一部校昇格の絶好のチャンス、次のインカレ戦で上位に食い込めば当確可能の位置にある…と、先輩たちはしきりに言っていたことがよみがえる…
頑張らねば!
新入部員とし、これほど誇りに思える部はない…
「そりゃそうとして…先輩はフェリスの学園祭へは行かはりませんの?」
突然、木本が気の抜けたような声で恐ろしいことを言った。
「なにい?」
それは健太郎にとって忘れていたことをいきなり穿り出すような衝撃なり。さんまの小骨が突き刺さったのとは少しく趣きを異とするちと気になる情報だったのである。
フェリスと言えば芹の学校。フェリス女学院。
で、その学園祭ってか…
あじゃーっ。
して、いつかいな、その学園祭って。
と、聞くのも憚れて「うむ…」と一瞬漏らすと、
「ずっと前、先輩言ってはりましたやんか、フェリスにいい子がおるって…学園祭が三十日から六月三日までやって」
そやった。芹と三渓園へ行ったとき確かそんなことを聞いた覚えがあった。
こりゃいかん!健太郎は慌てた。
しかし、冷静に呼吸を整えた。
待て!待て!
落ち着くのだ…落ち着くのだ…
「行かはらへんのですか?」
木本がしばらくたってからもう一度尋ねた。
「合宿や。行けるかえ」
健太郎はさらっと答えた。
その通りだ。芹とは決別したんだ…
そのためにも頭を刈った。
しかし、喉にさんまの小骨ではないがなんとのう鰯の今度は鱗のような気色いものがこびり付いたような…
いや、いかん!
迷いを振り切るように、
「それでお前は行くの?」
と、木本に聞くと、
「ダンパの券、買わされましてん」
と、あっさりぬかしやがったので、
「あっそう。ま、楽しんで行ってきたらええやん。ほら、そこどけや、こっちは忙しいんや」
健太郎は木本を荒々しく追い出した。
そして、今度は自分が慌ただしく部屋を出て一気に風呂場へと直行した。
思いっ切り、シャワーを浴びた。

(4)

逗子海岸を通り過ぎ、静かな山間を一つ越えると今度はヨットマンのメッカ・葉山ヨットハーバーが姿を現わし、その南西に位置する素朴な練習場、森戸海岸が雄大に広がりを見せた。入部早々、横浜港の合宿のときとは全然ちがうものが燦々と降り注いでいた。
朝五時起床。
我々新入生はまず食事当番に当たる者は釜で飯炊き。沢庵と味噌汁の準備に取り掛かる。当番でない者は先輩たちの艇を岸から浪間まで運び出す作業だ。七艇ほどあって、新入り四名がひと組になって次々と手っ取り早くやらなければならない。
 部員は全部で二十七名。そのうち新入りの一年生は十名だった。横浜では飯炊きも練習船の整備、運搬、保管等の一通りをやった。
森戸海岸の初日。
 早朝、健太郎は練習船の運搬に従事した。艇出しである。次から次へと肩に担いで波打ち際まで運び、それを更に波に乗せながら胸の深さぐらいまで前進していくのだ。四人での作業だがもたもたしておれない。
練習艇が程よく波に浮かんだら肩から放し、回れ右してまた次の艇を運ぶため岸へ戻っていく。約一時間ほどはこの作業の繰り返しが続く。
ところがこの日、夕方になってからとんでもない惨事が発生したのである。
 確認点呼をやってみて初めてみんなはそのことに気づいたのだった。新入りの同僚が一名いない。
「朝は見かけたよ」
「確かに運んでたよなあ」
「途中で抜けたってことは考えられないよなあ」
合宿に参加した全員の顔色が次第に青くなり始めた。
 翌朝。
 彼の溺死体が練習場所の海底から発見され、当部始まって以来の痛ましい事故が起きたのである。   
 死因、心臓麻痺。
健太郎は一気に気力をなくしてしまった。
市の文化会館で全校を上げての葬儀が行なわれ、北海道から駆けつけた彼の両親の姿は哀れだった。
森戸海岸での合宿は途中で中止になり、インカレ戦への闘志は次第に窄んでいくかに見えた。

夢がまた一つ消えていくのか。

寮に戻ってきても、精悍さ、求心力、飛躍、躍動、超越感を抜き取られた魂のようになって転がり、漫画を読んで過ごす日がしばらくつづいた。
 そんなある日の午後。
木本が現れて、
「先輩、何してんすか、大騒ぎでっせ」
「なんや?」
「火事でんがな。かんらん寮が燃えてまっせ」
かんらん寮といえばもうひとつの学生寮。我々が入っているのがいわばスマートなエリート寮であるならばかんらん寮は百姓の入るバンカラ寮と一般的な評がなされ貴族対野武士のイメージが流布していた。わが寮から北東約一キロの場所にそれは位置しキャンパスに向かうときなど互いにメンチを切りあう場面もあった。
「なんじゃえ、ボロ屋敷の住人が」
「なにい!ぼんぼん育ちのなよなよが」
 とかなんとか、言っているような感じで…
「火事?」
 すわっと起き上った健太郎は屋上へすっ飛んで行った。
「よお燃えとるなあ」
 北東の位置にあるかんらん寮を眺め、その屋敷から上る黒煙とちらちらと閃光する赤い炎が目に映った。
「えらいこっちゃなあ」
 傍らの木本が悲嘆にくれ同情している。屋上に集まったその他の寮生も口々に「こりゃあ全焼だな」「見ている場合とちゃうなあ、何か手伝いに行こうよ」「無理だよ」…
 健太郎は風に吹かれながら、漫画の続きも、ヨット事件も、芹のことも、蘭のことも、蘭のお母さんのことも、そしてマグロのトロ?ロッキズムも、ベーテエーのこともみんな忘れて、ただ風に吹かれて空を見上げていた。
「しかし、よお燃えとるなあ」
 と、つぶやきながら。…
 かんらん寮は半分が焼けた。火災の原因は寮生のタバコの火の不始末と判明。この火災を契機に当寮自治会は学校当局へ設備改善等の要求を提出、その後当局のぬらりくらりの不誠実対応に業を煮やした寮自治会は本格的な「要求貫徹闘争委員会」を設立、ときにはヘルメットに角材を手にし、武装した「革命戦士」に変貌していくことになった。

(5)


健太郎はその日も漫画を読んでいた。なかなか面白い。と、コツコツと二〇五室のドアをノックする音がする。誰やねん、うるさいガキやなとぶつぶつ言いながらドアを開けた。
ハッ!
立っていたのは寮の役員が三名。いかにも規律正しいお役人風情で眼を部屋のなかに投じると健太郎をじろりと見た。
「抜き打ち検査をやる。部屋でタバコは吸っていないだろうな」
真ん中に立った一人が聞いた。一人が回覧板のような下敷きにクリップで留めた一覧表を眺めている。さらに一人がもう一度部屋のなかを舐めるような仕草できつい眼光を走らせた。
「あ、はい」
健太郎は喉から絞り出すような返事をした。自分ながら、やばいなあと思った。灰皿を見つけられたらお終いや…どこに置いたかなあ…机の上やったかいなあ…ベッドの枕元やったかいなあ…漫画の横に置いてたんと違うかなあ…あー、やばいなあ…
「よし」
真ん中の一人が納得したように回覧板を下敷きにしている一人に合図した。部屋のなかを見渡していた一人も獲物が無かったかのような表情をし、真ん中に合図した。
「部屋での喫煙は禁止しています。寮生活を規律あるものにするため今後も守ってください」
真ん中の人はそう締めくって軽く会釈したあと、あとの二人を促して部屋を立ち去った。
冷汗がどっと出た。
なんやねん、いきなり。安堵の気持ちと、やっぱ厳しいなあという気持ちが入り乱れていた。このときばかりは寮の役員たちが融通の利かないコチコチの人間のように思えたが、普段はいつも気軽に会話する先輩たちばかりなのだ。
 不思議やなあ…
 真ん中の一人は寮長の経済・四年の倉石さん。回覧板の下敷きは風紀委員の建築・三年の大竹さん。獲物探しは防災委員の電気・三年の青柳さん。と、彼らが去ってから判明した。
それにしても。なんで、そんな調査すんのやろ?再び、ベッドに寝転んで健太郎は漫画を手にした。そして、灰皿はいったいどこに置いていたのだろうと、ふと思った。灰皿は机の引き出しのなかに仕舞ってあったのだ。
虫の知らせか…健太郎はニヤリと微笑んだ。何となく自分の直観力が愛おしく思えた。一緒に置かれていたハイライトを手元に寄せるとそれをおもむろに口にくわえた。
 かんらん寮の「闘争委員会」はますます気勢をあげ、やがてキャンパス内の平穏な学舎をもそれは少しずつ揺るがし始めようとしていた。

(6)


今日もまた蒸し暑い。いつものように七号館前の芝生に寝転んで仁村と雑談だ。
「佳世子が言ってたけど、なんかお前、蘭さんをふったんだって?」
「何の話だ」
「だから、蘭さんとは別れて芹さんと付き合っているっていう話だよ」
な、あほな。よくよく聞いてみると、蘭と同じクラスの佳世子に蘭が話したということらしい。
「芹に健太郎を取られた」といって泣いたらしいのだ。このはなし、授業中のことでほかのものもみんな知っているとのこと。
なんやて!
健太郎は眩暈がしてきた。

そもそも蘭と芹は中学校時代からの仲良し。高校も同じ。そして卒業すると蘭は健太郎と同じキャンパス内にある短大へ、芹はフェリス女学院大へと進学したのだ。健太郎が蘭と知り合ったのは、たまたま入学後のオリエンテーリングのとき、横にいた仁村が「一度彼女を紹介するから」といって彼女である佳世子さんの家へ遊びに行ったのがきっかけになり、「大門さん、彼女がいないのなら紹介しましょうか?」ということになり、佳世子さんの紹介で会ったのが、蘭との出会いの始まりだったのだ。
佳世子さんと蘭とは同じ英文科でクラスも一緒とあらば、蘭の近況は仁村の耳にも入る。
 しても、授業中に泣くかあ?彼氏を取りよったあ…って?     
 それにしても。ややこしいなあ…
「どうなんだい?」
「どうや言われても…」
「付き合っているのか?芹さんと」
「付き合ってないよ」
 七号館前にいつの間にか例のかんらん寮の「闘争委員会」と称する輩が集結し始めた。なぜかヘルメットをかぶり武装している。行き交う学生たちが怪訝そうに見守るなか、ハンドマイクを持った野武士が演説を開始した。
「我々は当局の欺瞞的な六・一一の回答を断固拒否し、最後の最後まで要求貫徹を目指して闘うことを宣言するぞお!」
一団は角材こそ持参していなかったが、もしこれにタオルで口を隠し石やゲバ棒を手にしてジグザグ行進を開始していたら、まるで臨海公園のときのような政治闘争とちっとも変りなく、なぜこんな行動がのどかなキャンパス内に横行しだしたのか…
「蘭さんは取られたと言っていたらしいよ」
「付き合ってないよ」
 …
我々は、
我々は、

健太郎の耳にうるさく交錯する「闘争委員会」のアジテーションが、蘭と芹が叫んで要求している声に聞こえた。
「いったいどっちと付き合うのよ!」 

ややこしいなあ。
まだ、決別宣言は終わってへんのかいな。
と、思った。

(7)


それで、決別宣言に決着をつけるため二人に電話をしようという結論にたどり着いた。まず、芹からかけることにするか。と、思いつつ「嘆願書」?の文案を頭のなかで整理した。
…あのう、蘭から聞いたのだけど、なんかぼくがあなたと付き合っているって…私の彼氏を取られたって…ひどい!って…クラスメイトに話し、泣いたって言っているのだけど…あのう、…ぼくとしては確か、君らとは決別宣言をしたはずで…
 あほか。まとめているうちに自分で自分を叱咤した。幼児か。
で、もう一度文案を推敲した。今度は「嘆願書」ではなく「決議文」でいこう。
 …あのさ、もう一度確認しておきたいのだけど、我々って一切付き合ってないよね、断固付き合うことを拒否しているよな!今後も一切付き合わないよな!
いかん。「闘争委員会」の口調になっている。
と、また推敲し直した。
 …あのう、三渓園へは一度だけ一緒に行ったけどそのあと「ルーチェ」できっぱり言ったよね、もう付き合わないって…おふたかたに申し上げましたよね…で、…あるから、…よってですねえ…
ますます何を言っているのかわからなくなった。そして、何回も繰り返していると、馬鹿に見えてきたので芹に電話をするのはやめようと思った。それよりも仁村の手前、佳世子さんのほうへかけたほうがいいのではないかと思いついた。蘭との始まりは元をただせば佳世子さんが取り持ってくれた縁なのだ。
よし、誤解を解かなければ、と健太郎は起き上がり、急いで部屋を出た。
 寮の電話を使用するのは何かと煩わしい。いつもの近くの公衆電話のほうが気楽に話せる。電話BOXに着くまで今度は何ら文案を用意することなくテラテラと鼻歌を歌うような気分だった。
 
佳世子さんがでた。
「まあ、どうしたの。しばらくねえ」
「はあ。実は仁村から聞いたんだけど、蘭のことだけど」
「あなたひどいわねぇー。蘭ちゃん泣いてたわよ」
「そのことなんですが…ぼくは芹とは付き合っていませんよ…っていうか二人に対して決別宣言をしたはずでして…」
「なあに?けつべつって?」
「つまり、付き合いをやめるっていうか…」
「はあ?」
佳世子さんは素っ頓狂な声をあげた。
「待ちなさいよ、大門君。蘭はあなたを芹に取られたって泣いてるのよ。びっくりしたわよ、それも授業中によ」
「ええ、仁村から聞きました」
「みんな何事かと笑ってたわ。いったい何があったのか、聞いても蘭は何も言わないのよ」
「だからぼくもそのへんのことが…」
「嫌いなの蘭のこと?」
「えっ」
「だから、あなたたち少なくとも付き合っていたんでしょう?」
「ええ、まあ」
「なら、どうして蘭を泣かせるようなことをするの?」

なんだか蟻地獄に引き込まれていくかのような展開になってきた。あかんがな…あかんがな…健太郎の決別宣言が何の意味もなさないではないか。
「いいわ。芹とは付き合ってないのね」
佳世子さんは納得したように言って、
「蘭に言っておくわ。それでいいでしょ?」
と勝手に結論を出し、「じゃあ」と電話を切った。何か一方的に押し切られたようで、何を押し切られたのか実は分からないような、それでいてそれでよかったような、空中分解したものが残っているような、そんな気持ちを引っ提げて健太郎は電話BOXから出ると今度はデロデロと道端の石ころを眺めながらうつむき加減で寮まで戻ってきた。

(8)

「おい、集会があるのにどこへ行っているんだ?」
戻ってみると寮生全員が食堂に集まっている。風紀委員の大竹さんが玄関で待ち受けていた。今夜は臨時寮生集会であることをすっかり忘れていた。急いで食堂に入り、隅のパイプ椅子に腰を掛けた。
「で、あるからして我々としてもこのベトナム戦争の反対を表明し、少しでもベトナム難民を救うべき…」
正面で演説しているのは角原さんだった。いつもの目つきで口から唾を飛ばしながらお決まりの檄を奮っている。健太郎と同じく角原さんの生徒として養成されつつある新入生も時折、彼の文言に賛同し、「その通り!」と掛け声をかけている。同じ正面に座っている寮長の倉石さんの表情が意に反してか、若干暗い。当惑しきっている感じだ。
やがて万雷の拍手が起こり、角原さんの演説は終わった。つづいて倉石さんが立ち上がった。
「ベトナムでは多くの人が戦争の犠牲となり、今や世界的に注目されているのは承知の事実ですが、米国のこうした帝国主義的な侵略に対して我々学生がどのように対処するかという問題は次元が少し違うのではないかと思われます。今、急にベトナム難民に対して救いの手を差し伸べよといっても具体的に何をどのように支援できるのか、もう少し身近にできることはないのかを探すことから始めるべきで…」
「そうだ」
「そんなきれいごとを言っている間にもベトナム難民は次から次と焼け出されたり死んだりしているんだよ」
「行動だよ、行動」
「ベトナム戦争反対!」
 寮生三十八名の熱気がむんむんと食堂内に立ち込めていた。倉石寮長の声がかき消され、全体に異様な空気が流れ始めたので、
「静かに、静かにしてください」
 と、書記である土木三年の桐越さんが大声を張り上げ、これを制圧した。
「今回はこれにて閉会っ!」
 と叫び、さっさと食堂をあとにした。
 健太郎は角原さんを見た。仁王立ちの鬼のような顔をして腕を組んだままだった。
 部屋に戻って健太郎は混乱した脳を少し冷やすため、まずポットでお湯を沸かしインスタントコーヒーでも飲もうとポットをもって廊下に出た。ちょうどそのとき、木本と出会った。
「なんや」
「いや、先輩何しとるかなと思て」
「お茶でも飲むか?」
「よばれまっさ」
 それから木本と一緒にインスタントコーヒーを飲みながら今夜の集会について話した。木本は神学部の学生であることから世界の平和について得々と語り、よって、革命戦士ごとき闘争はやるべきでなく、あくまでも人類愛をいかに述べ伝えるかという問題を考えるべきだと説いた。
「なるほどな。そういうもんかなあ」
 と、健太郎は感心した。
「ところでお前、フェリスの学園祭どやった?」
 ちょっと気を抜いたせいで健太郎は聞かなくてもいいことを聞いてしまった。
 芹とはもう関係ないのとちやうのかえ。
 と、思ったが遅かった。
「ああ、よかったですよ」
「なにがどのようによかったんや」
「ええ、みんなきれいなこぉばっかりやし、上品で、賢そうなこぉばっかりやし」
「ほんまかえ」
「先輩が言っていたこはどのひとやろかと探しましてんけど」
「見つかったか?」
「見つかるわけありませんやん。聞いてないもん」
「そりゃそうやな」
「今度教えてくださいよ」
「うむ。まあな」
 と言いかけて健太郎はしまったと思った。なんや、なんや。芹とはもう関係ないのとちやうのかえ。と、また慌てふためいたのだった。

(9)

ベトナム戦争のことも考えなければならないし、佳世子さんのこのあいだの電話の件も熟考しなければならないし、ヨット事件のことも再考というか何か夢が破れたというか、健太郎にとって今の時期は憂鬱に思える。
金もそろそろなくなってきたことだし、バイトでもしようかなあと思いあぐねながら午後の授業に出た。
第一外国語・英語の授業だ。講師は柳田光太郎文学部教授。シェークスピア研究では第一人者でもある。
講義にはびっしり受講生が詰めかけ講義中は水を打ったように静かである。もっともこの科目は一般教養科目の必須科目だから単位は落とせないのでみんな受講は欠かさない。
スマートな老紳士だがクセのある教授で、まず口が悪い。「…じゃねえか」とか「…なこたあしらねえよ」とぶっきらぼうな言葉がポンポンと出る。蘭も短大のほうでこの教授の講義を受けているらしく、「あの先生ね、とても変わってるの、出席を取るとき全部下の名を呼び捨てにしてとるのよ。あけみ、れな、けいこ、さよえ、…っていうふうにね」と言っていた。
しばし、回想に浸る。ひと月ほど前は蘭と黄金町で待ち合わせ、伊勢佐木町から山下公園までのコースをよく散策したものだった。そのとき二人とも新入生で、春うらら、佳世子さんの紹介で知り合ってまもなく、気分も上々、未来もバラ色って感じで付き合っていた。
それが…
何かのきっかけで蘭の家に集まることになり、そのときお互いに連れのない独身ものを二、三繕ってくるという約束でこのややこしい事態は始まったのである。
つまりそのとき来たのが芹であった。

芹とは確かに一回だけデートをした。蘭に内緒で二人で三渓園へ行ったのは事実である。

まだこんなことで燻っているのか。っていうか柳田教授の講義のたびに蘭が言っていたことを思い出し、その出席の取り方の奇抜、非常識、無礼、ユーモア、破格…をそこに描き、関連して蘭とのこれまでのことを思い出すのである。
 講義は続いていた。流暢な彼のイングリッシュが響き、そしてこだまし、教室全体を威圧していた。一冊の教材を片手に持ち、口元に「てめえらにはこのニュアンスのさびってものが分からねえだろう」とでも言うような嘲笑を浮かべながら、コツコツと足音を響かせながら受講生の席のあいだを何回も往復しつづけた。
と、三十分も読み続けたため疲れが出たのか、気分を一新したいのか、彼は急に読むのをパタッと止め、「タバコを吸いたくなった」とポロリとのたまった。
「おい、誰かタバコ、持ってねえか?」
静まり返った教室に奇抜、非常識、無礼、ユーモア、破格…の溜息が音も立てずに立ち込めていた。
コツコツコツ。その足音は健太郎の席の前で止まる。気づくと健太郎はポケットからおもむろにハイライトを取り出し、彼に差し出していた。
ボッ!
つづいて、ジッポーのオイルライターを点火し彼に近づけた。
「うむ」
柳田教授は無表情でこれに応じると、やがてタバコをふかしながら再びコツコツコツと歩き始めた。
みんなはこの瞬時のやり取りをあっけにとられるように見送った。
 

(10)

仁村がよく行くという本牧の「赤い靴」というジャズ喫茶を一度見てみたかった。
とても例の決着は着けそうもなく、ヨット事件もベトナム支援もベーテェー問題も解決が見つからない状態がつづいたので、アルバイトもしなければならなかったのだがとにかく健太郎にとっては一時的な逃避がこの際必要ではないのかと勝手に決め込んだ。で、「赤い靴」というところへ行けばきっと何かがあるだろうと思ったのだ。
 そこは暗闇のなかで爆発音の鳴り響く知的のかけらもない空間であった。真ん中にあるミラーボールが妖しく廻り…サーチライトか線香花火か…足踏み体操をしているのか、サル踊りか、阿波踊りか…大音響のなかで外国人がたくさん身体をクニャクニャさせて賑わっていた…
「R&B」っていうんだよ。
ふと気づくと、チューインガムを噛みつつ健太郎の傍を離れず、しきりに腰をふっているあんちゃんが居た。
「へえーなるほどね」
健太郎は感心した。そして仁村がこのなかにいるのかなと思いつつ、そして佳世子さんも一緒かなと目を凝らしてみた。
しかし、わいわい騒ぐオカルト集団のような踊りの輪のなかに彼らの姿は見つけるとができなかった。あまりにも暗過ぎたし、点滅するサーチライトのおかげで焦点が合わない。
「兄さん、どこのひと?」
「だれ探してんの?」
まとわりつくあんちゃんがしつこく尋ねる。
なにさらしてんねん!このぼけが。
「ひとり?」
あげくには「ふられたの?」ってぬかしやがったんで、そのあんちゃんを睨みつけ、「じやかあしいんじゃ!」と一喝して(っていうか心で叫んで)店を出た。
 夜の港町に深い霧がかかり、健太郎の目に異様に映った。やっぱり…雨か。梅雨に入ったな…孤独だった。やっぱり孤独はいかん。決着はいかん。蘭を泣かせてはいかん…となぜか思った。
 巷に雨が降るごとく…
わが心にも涙雨降る…
酔ったせいか、生意気にも寂しくなってヴェルレーヌの詩が口を衝いて出た。
彼女を泣かせてはいけない…
これを仏訳して蘭に手紙を書こうと思った。
それにしても仁村も佳世子さんも果たしてあんな場所でいつも遊んでいるのであろうかとふと思いつつ帰った。

(11)


寮に帰ってから便箋を取り出し、和仏辞典を手元に置いて早速、ヴェルレーヌ の詩を少しくもじりつつ仏語の作文に取り掛かった。
巷に雨が降るごとく…ってどう表現をすればいいか、いきなりつまずいた。
雨が降る。巷に。
Il pleut en public。
いい感じ。
はて、雨が降るごとく私の心のなかにも…とはどんなニュアンスかなあ。
 悪戦苦闘したが日本語のニュアンスがもうひとつ伝わらない感じがした。何が足らないのだろうか。言いたいことはなんやねん。
 疲れ果ててくじけそうになるも、とりあえず仏語で書きたいため最後まで書きとおした。直訳すると、街には雨が降るようにわたしのこころのなかに雨が降る…
 なんのこっちゃ。
 これでは泣いてしまった蘭に対しての正直な反省にはならないのではないか「闘争委員会」の言うところの当局の欺瞞的態度そのものではないか。もっと誠意をみせなければならない。わたしはいま、とても寂しいのです。非常に孤独なのです。やはり、わたしはあなたを愛しています。って、直接言わんかえ!どあほ。
 ずぶ濡れになって帰ってきた自分の今の正直な感想はたったひとこと。仏語でいうと。
 Je.Taime。
「愛してるよ」
 …やんけ。
 さあ、たった一言書いてこましたろ。
 そう、ハイライトをさりげなく取り出し、Zippoのライターで火を点けてやったようにさらりと、キザに、「おっ、やるじゃねえか」とあの柳田教授もほくそ笑むように。
 酔った。とにかく書き終えると封筒に入れ、作業は完了した。孤独から解放され一気に眠くなってきた。そして頭のなかであのリズムがやがてよみがえってくるのだった。
「R&Bっていうのさ」
 腰をクニャクニャさせたあんちゃんがいた。ふうーっと深呼吸をしてから、それにしても、仁村と佳世子さんはあんなところで遊んでいるのだと思いつつ、やがて眠りについた。

(12)


本格的に梅雨に入った。健太郎は梅雨が嫌いだ。陰気な雨だからだ。巷に降る雨とは断然違う。雨の質が違う。…哀愁と陰湿は絶対違うと思っている。
 相変わらず金がない。ヨット部はインカレ戦で惜敗。森戸海岸の事故が尾を引いた。陰鬱さが倍増しそうだ。夏は東京湾横断合宿が控えているがあまり乗り気がしない。
「佳世子が夏休み佐世保にきて、ひと月ほど俺んちに泊まるばい」
 仁村は「経済原論」の授業のとき健太郎に言った。健太郎は「赤い靴」の破廉恥加減を思わずにはいられなかった。
「泊まるって?」
「佐世保を起点に九州をツーリングするっていう話ばい」
「へえー。大丈夫か。佳世子さんの親は承諾しているのか?」
「平気、平気」
 佐世保出身の仁村は真っ白な歯をむき出してウインクした。彼は佳世子さんの家へはすっかり顔馴染みで彼女のお母さんの信頼もがっちり勝ち取っている。             
 「赤い靴」のあのクニャクニャしたあんちゃんとは質的に格段の違いがあるのだ。しかし、健太郎には納得がいかなかった。それにしても、佳世子さんって実に根性たくましいなあ。頭のなかで「赤い靴」で踊りまくる佳世子さんがいた。考えられへんわ。ふつう、いきなりひと月も異性の実家へ行って泊まる?
 ところで、佳世子さんはこのあいだの電話の件、蘭にちゃんと話してくれたのだろうか。仁村が何も言わないところを見ると、そんな話は出なかったのかもしれない。あえて聞く必要はないか。どうせ手紙も書いたことだし…健太郎は自分の夏休みはどうなるのだろうと比較検討しながら仁村のこの話を聞いていたのだった。
 燦々と降り注ぐ太陽がみたかった。
「太陽がいっぱい」のアランドロンは格好よかった。
「わたしは、太陽がいっぱいを観てヨット部に入ろうと決意しました」
 横浜港での合宿のとき、自己紹介で健太郎は大勢の海の男たちの前で動機を語った。それが今は暗い気持ちに覆われて連日憂鬱になりつつある。夏の合宿費の調達も憂鬱だし、決別宣言の決着もややこしいことになっているし、「赤い靴」という店は純粋にモダンジャズの店ではなかったし、仁村と佳世子さんが大人の恋愛をしているし、…まだある。かんらん寮の「闘争委員会」に対抗してわが寮では「ベトナム支援闘争」を展開しようとしているし、…いったいこの暗雲はいつ晴れのるか。
 外は雨。
 まさしく健太郎にとっては陰湿な時期が訪れているのだ。

(13)


数日後。
蘭から手紙が届いた。倶楽部の合宿で裏磐梯へ行くという。…健太郎が孤独に襲われ、涙雨が降っている…という点については何も触れていなかった。
おかしいなあ、情緒のない女やなあ…と思いつつ当日のことをたどって考察するにそや、「LE Flancais」や、酔っていたあの夜は仏語でたった一言「Je Taime」とだけ書いたことを思い出した。
ふざけているのかしらと蘭は嘲笑したかもしれない。にしても蘭の機嫌は直っている。それが証拠に書かれている文面を疑似法的に表現すると、紙面全般にニコニコマークのペタがべたべた貼ってあり、また封書の裏面にはランラン気分の満ち溢れるような♡で封印がしてある…ように思え、たちまち健太郎の涙雨は引いていくようかのような気がした。
今月末から裏磐梯で合宿です。インカレ戦は残念でしたね。夏休みはいつ帰られるのですか?etc …か。
 さあ、やるぞっ!
健太郎は両手を上げ気合を入れると、まず風呂場でシャワーを浴びたいと思った。夏の合宿に向けとりあえずは資金稼ぎをしなければならない。なんぞ、いいバイトはないものだろうか。テラテラ気分で部屋を出て階下へと降りて行った。
解決したぞという晴れ間が一つ覗いた。芹との疑いが解消して、というより蘭の機嫌が戻ったことに安心した。シャワーを浴びながら健太郎はこの頭の毛が元通りビートルズのように伸びるまでにあと何日かかるのだろうかとふと思った。あれからちょうど二月近くになろうとしている。
「先輩~」「先輩~」
 木本の声がどこからか聞こえている。
「どこですかー?」
 うるさいやっちゃのう…
 わいは今、すべてを洗い直してんのや、残った首を始めから新たに出直そうとしてきれいに洗ってんのじゃ…ぼけ。
 シャアー、シャアー、シャアー。
 心地よい水の音が頭に跳ねる…
 して、蘭が入っている倶楽部って何の倶楽部やったかいなあ?
 健太郎はふと度忘れした自分に気づき思わず苦笑した。
 シャアー、シャアー、シャアー。
 勢いよく水の音が頭に跳ねる。
「なんじゃ?」
 健太郎はシャワーを浴びたあと、戸を開けて答えた。
「バイトがありましてん」
「何のバイトや」
「エキストラでんねん」
「なんやエキストラって」
「映画でんがな」
「映画?」
 着替えてから詳しい話を部屋へ戻って聞いてみると、何やら一晩で二千円は  呉れるということらしい。近くに住んでいるおっさんがこのあいだ寮にやってきて、行く人がいないかと話していたらしい。大船にある撮影所へ連れて行ってくれるらしいというので木本のほか寮生の四、五名がその準備をしているとのことだった。なるべく多いほどいい。せめて十名ほど要る、とおっさんは言ったらしい。で、今夕おっさんがみんなを連れて行くとのこと。
「一晩でとはどういう意味や?」
「撮影がもしかすると徹夜になるかもしれないのでとか何とか言ってたけど」
「二千円とはええ仕事やなあ」
「そやろ。行きませんか?」
 健太郎は唸った。今、金がない。一日土方しても二千五百円であることを思うと、これはぼろい話だ。
「よし、行こか」
 健太郎は木本の話に乗ることにした。
 かくして、寮生六名は夕方迎えに来た、サングラスをかけ、粋な絹100%の白いジャケットを羽織った正体不明なおっさんに連れられ、マイクロバスに乗って大船にある松竹撮影所へと向かったのである。
 撮影所に着くと早速、衣裳部屋へと向かわされ、それぞれは着てきたものを吟味、観察、審査され、結果適切と下された衣裳を受け取りこれを羽織ることになった。
 なぜか健太郎は何も講評なしの、「きみはそのまんままでよろしい」の一言だけで衣裳はもらえなかった。木本はこのくそ暑いのに学ランを着ていたし、窪川などはネクタイなど締めて気取っていた…ので即、撮影所側で用意された衣裳に着替えされていた。健太郎はヨットパーカーにジーパンという普段の格好だった。
 作品は山田洋次監督の正月映画「九ちゃんのでっかい夢」というコメディ。坂本九は今、人気絶頂の男性歌手であった。舞台は九ちゃんががふと訪れる田舎の小劇場。そこで突然起こった奇妙な出来事。そのワンシーンを撮るというのが本日の仕事であるらしかった。したがってその田舎の小劇場の観客としてエキストラが集められたのである。
 健太郎らのほか、そこには様々な人がかき集められていた。  

JAZZとヨットとそして…

JAZZとヨットとそして…

ケイタイもなかった頃、激動する学園紛争のさなかでヨットとJAZZとバイトに明け暮れるハタチの青春像。トッポジージョと星の王子さまを結ぶ劇画的昭和時代のアナクロをコミカルに描き出す。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-10-20

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