画狂北斎の黙示録

その一.お蝶の幻想と朋友馬琴のこと

 


 生首を描かんと思いたり。
 今朝厠(かわや)で突然蟋蟀(こおろぎ)が戸板の節目に止まりしがそのままその眼光がいきなり宙を撥(は)ねたかに見えたり。その瞬間なり。それは息を殺した間がしばらくあり、やがて鮮やかに躍動して来たる怪しき魂に襲われたり。此れ無意識のうちに背負い込んだる重荷にて前々から懸念ありしの画題なり。即ち、遂にその答え得たりと閃きたり。           
蟋蟀(こおろぎ)、しばらく動かずその音色を隠す。止まったままを依然眺むると、その銀色の羽(はね)の奥からあたかも嘲笑の響きたる。中橋広小路町の版元、和泉屋半蔵の其れなり。曰く。師匠が画風、鳥獣略画や職人略画は如何にも其の粋高けれどここはひとつ物怪(もののけ)の流行にて、あっと驚くような妖魔の如き刺激画を。 
摺り物の世界にこのところ怪しき画材蔓延(はびこ)る兆し。世の不安を表わしたる様か。怪しきとは悪戯に幽幻の描画が其の一点なり。人々皆自らの怪なる魂を覗き見んとて世にも有るまじき恐怖の画に集まるなり。しかし、余の思いつく刺激画とは単なる嗜好を漁るが如き上っ面の怪奇に非らず。
摺り物の世界、今や豊国の天下にて其の美人画を幽霊に化したるは蓋し凄味を帯びて絶品なり。日本橋界隈の書問屋、皆先を争いて豊国に描かしめんとす。和泉屋半蔵も其のひとりなり。己が画法の真髄、花草木、鳥獣、の略画此れ傾注するは皆、魂の形象を探る故ありて真の画道なり。人々怪奇なる画の興味に特に尋常非ざるは、以って畏るべき神秘の世界に遭遇せんがためなり。
 今、閃きたる画題は其の人々の心霊に届かん画材にて精通を極めたり。畏れたる根源皆、心に持ちしが果して其の表情如何に描きたるものか。                
足元の蟋蟀(こおろぎ)に注ぐ己の息遣い俄かに昂揚し、その描く情熱に魔性の輪の繋りたり。

小伝馬町・待合茶屋のお蝶の部屋に転がり込まん。秋の夜長、開けた二階の障子戸から入りし闇の風、虫の音混じって漂いたる。耳にするも果たして美人画の幽霊を如何に打ち崩さんかと思い巡らすことしきり。画題は歌舞伎の演(だ)し物と相場が決まっている以上、絞り込む場面は限られたり。肝心は描きし画材なり。生首が物怪(もののけ)になりしや。姿化す幽霊の恐怖其の心届きしが残忍な生首の亡霊いかにして其の真なるを届けんや。
「豊国の物怪(もののけ)ねぇ。そりゃあぞっとしやんすよ。深川の待合に来る旦那衆にもたいそうな評判だって聞きにしに。あたしも一度猫の子一匹通らぬ丑三ツ時にこの隅田川の先にある宵町茶屋の柳の下で吾妻下駄の着流しでもって手招きしながらたたずんでみようかしらねぇ」
「馬鹿言っちゃいけねえ、何故に下駄の履きぬるか。物怪(もののけ)にあらんや。足のある幽霊なんて見たこと非ず」
 笑うと膝枕するお蝶の柔肌小刻みに揺れ、妖しき熟女の馨り襦袢の裾から仄かに匂いたり。
 稀有な刺激画或いは真髄に届く残酷画なるもの如何に表現したるものかあらん。得体の知れぬ妖怪描くは其の体験非ずして難解なり。而して描きたるは眼をして視たるを描かず興ぜし絵心が其の為せる技なり。手練(しゅれん)手管(てくだ)の画技(えわざ)で生業(なりわい)を立てん絵師の宿命ならん。
「生首は如何に、お蝶。しだれ柳の陰に立つ幽霊と互角の勝負あらんや」
 色香に混じりし膝枕のうえで覚醒したるが如きつぶやきたり。其の画材の苦心に惑わされ画業(えわざ)の腐心がまどろみのなかにてちぎれたり。即ち、描き下さんとす画の素性、仄かに灯りたり。姿図の幽霊に足らざるもの補って此れに対抗すべし。物言わぬ生首に語りせしめん工夫こそ其の妙意なりと。
「やだよわたしゃ。生首とも幽霊とも。だいたいが以って物怪(もののけ)のいかがわしさ軽薄なりき。どちらがどうとも言うに及ばず。巷の評せしが興味本位、その流行に踊らされて画材に血眼になるとや情けなや。人々皆、心怪しきに飢えた気晴らしを物怪(もののけ)にて紛らわさんとす。望みたるは癒さんがための摺り物、それを師匠は幽霊をば負かさんと生首の画を構想せしや」
 まともなお蝶の返事や轟き、其の語り更につづけり。
「わたしゃ、師匠のそういう勝ち負けにこだわる姿好かず。他人(ひと)は他人(ひと)。描きたるものを競うに非ず。豊国は豊国にしか描けない画を描きたりしが何を負かそうとしてありんすか?わたしゃ、思うに師匠の往年の浮世絵は何処にお往きであらしゃんすか。巷に踊らされ版元に煽られて画材の迷いたるは、らしからぬ様。昔初めて会いしときの師匠は画材ひとつにしろ其のような疑心暗鬼の態、非ざるに」
神妙にこぼれたる話の筋、膝枕の心地よく流れるなり。お蝶と出会いしは嘗ての勝川門下に居し頃、浮世絵が栄華を極めし時期なり。余が昇り龍の如きして界隈を役者の似画請け絵師として闊歩したる日々のありしとき。但し浮世絵の繁栄も当時の衆人好みも多様にて時にはいかがわしい卑俗なる絵も描きしことあり。
「やいお蝶、浮世絵と高尚なるを言いしがお前も聞いたことのあろうこととて、あんな猥褻画のどこを称えんや」
「おやおやなんて言ういいぐさ。師匠自身が描きし絵。もはや、勝川春朗の名をお忘れあるかいな。わたしゃ、何も猥褻画の類を言いしに非ず。卑しくも一世を風靡した役者絵師としての力量、元はと言えば春水の流れを汲まん誉れある役者絵じゃないか。其のことを告げたるに何という逆らい。好かん、好かん」
「……」               
「其れを何だい。今の師匠は物怪(もののけ)の衆人目当ての版元の手篭めにされるが如きの態。まさに其の姿、嘗ての師匠にあらぬ譬えとして忠告したまでのことにてあるわいな。げに如何にせしや往年の誇りたるや」
 花の盛りは過ぐといえ色香残りたる姐御肌。絵師なりたての頃以来、贔屓(ひいき)にしたる甲斐ありし。兄弟子との些細な喧嘩が因にて勝川一門追放の憂き目、唐辛子売りを為すなどの極貧を舐めし日々のありき。されど絵心の断つこと知らず。即ち破門後も狩野派の画法や俵屋宗理の画風に惹かれ、己の筆を磨きたるは其の陰にお蝶の存在も捨て難し。今日今夜よもや告げられし、浮世絵師で馳せし春朗の名、此の誉れをば呼び覚まさせ叱咤激励せし者はお蝶をおいて他にない。
然れども今や己が画号は北斎。狩野派、宗理、光琳を真似たりとも工夫更に良くして磨きたり。模倣に非ず、北斎が画風を築きたり。
嘗ての世界に競いしが歌川派豊国とあらば今や画号北斎とあれども勝川派一門の名において其の試さん意気、異常に奮うなり。美人画幽霊より凄まじき心霊図を描かん。
心地よき漂うは膝枕に浸るせいにてやがて其の襦袢の裾の奥に幽かにて奇しき音の響くが如し。あの蟋蟀(こおろぎ)の鳴き声の如しか。
「お蝶頼みがある。さっきから述べたること真にて人の生首をば描かん。ついてはおぬし、其の伝手(つて)が何処かになきや」 
「……」
「其の怨念の沁みつきし斬られたる生首。性別は後回し。この世を儚(はかな)み惨(むご)たらしきが滲み出ん転がった生首なり」
「自分で探しあれ」
 再び沈黙覆い、ひとつ間に灯る行燈(あんどん)に静けさ張り詰めたり。  

 神田明神に居を構えたる戯作者馬琴の処、派手になりにけり。玄関先に生垣があり。敷き詰めた石の渡りを踏み入ると庇の陰にて紅葉の枝、出でたるはこれ見よがしにという風情なり。其れ、否が応でも眼に入る勘定なり。葉の色づきこれから先のことなれど其の多くがまるで金子の如く輝きけり。前の「水滸伝」では版元、角丸屋に於いても多大な儲け手に入れん。其の証拠に今回の気遣い並々ならず調整の段取りをば図りたる。
 読本・「南柯夢」の六丁裏、挿絵の件に関する打ち合わせなり。「南柯夢」は三分冊の構想にて三つの挿話にて構成されるなり。六丁裏は其の第一挿話の完結部分なり。余が既に描き上げし下絵、過日角丸屋に渡したれば其れを馬琴に相談せし経緯のありき。馬琴の心難しく今ひとつ長次郎の収むるところに能わずは恐らく本日の招きを講じたものと思われん。     
馬琴とは初対面に非ず。数年来の付き合いにて組みし作品の数、多くを出板す。而して本人の性格は知り尽くしたり。
 「水滸伝」のときにも余の挿絵のことで諍いあり。即ち、馬琴の性癖、謹厳にて其の絵を評して慿空(ひょうくう)結構(けっこう)の戯墨(げぼく)と言いけり。そもそも未だ嘗て見ざりし支那の風物、何を以って其の真偽を問うや。然るに甚だ気に留むる様子にて難りけり。
 通されし八畳敷の居間にてやがて三者の会談始まりぬ。先ず角丸屋長次郎が包みを取り出し、「南柯夢」六丁裏下絵の版下を眼の前に置く。既に馬琴の意向を聴聞せしが如き気配其の所作に現われん。即ち黙してただ後ろに下がるなり。
久方の交合、馬琴の表情変わりなく二言三言、時候の挨拶交わすなり。
「其の後、如何が居わさん。本所荒井町は住み易きかな?」
 余の転居癖を指したるものか、其の含み微妙に聞こえたり。
「住む居、何処も同じ。気、変ずれば又、何処へか移らん」
 余、性癖の質感をば生粋快活に述べれば、馬琴の苦笑此れに応ず。
「さても、今は忙しきかな」
「さもありなん」
 生首の画の構想なるが、形煮詰まらぬ故にて秘して此処にては語らず。主たるは今回の運び、本題の用件探りしに曰く。
「して、此の六丁裏の下絵にて何か趣きの異なる所存の旨、ありきや」
 問うと、馬琴の表情強張り繊細にて黙すれば暫く其の切り出すべき言葉を選びたり。あたかも今をときめく読本界の寵児が見せる苦渋の一端を覗かせるなり。
 六丁裏の場面とは主人公半七が情死に趣く場面にて此の作品の完結部分なり。余が描きし其の場面は男女の痴狂の荒みたる背徳を寒夜の風景にて描き表わさん。馬琴の物語の諭旨は、常に外れたること行わば遂には懲らしめ受けんが如き工夫を為すなり。其の画、寒夜の単なる風景画にて、詳細を語らば荒れ果てたすすき野に食漁る野狐を加うるなり。此の野狐の影が要なり。
果たして、馬琴の口の開きたる、
「風景の画、いかにも殺伐として物語の意に添うものなれど、余所に野狐の姿ありしは、此れ如何なるものかと」
後ろにて下がりたる角丸屋の俯くも先に相談ありきこと斯くなる事由に因りてやなんと思いたり。更に馬琴の野狐の絵にこだわるは、其の食を漁る様、如何にも気に入らぬと見えたり。
「つまびらかに成らずが男女の情け、野狐の虚しき幻にて其の趣き記するが容(かたち)。異存のありや」
「否。此処の男女の様、不祥に非ず。敢えて情死に赴くは世を儚(はかな)むが態、決して抓まれたるが類に非ず」
議論伯仲し、角丸屋後ろにてただ苦心の色浮かべたり。
「難しけるはこの野狐の食を漁る態にて如何にも男女を誑(たぶら)かせたる趣きの影なり」
馬琴、それ以上言わず口を閉ざすなり。
「そもそも男女の痴狂たる様は異常なりき。而して其の心謎にて不祥なり。されどこの物語の裏、世の倫外すは懲らしむるかな。以ってその謎をげに奇しくも化身に譬えるなり」           
 依然と馬琴の表情固く、議論の収拾立たずは後ろで待ちし角丸屋の困憊計り知れぬものありき。
余の意汲まぬは其の下絵の姿結論出でずと見定めしが即ち強気にて席を立ち居を後にす。

 本所荒井町から佐久間町に居を移し三日と持たず浅草馬道に転居す。
馬琴との違(たが)いが影を潜め室内の有様いずれも荒れ果てて食い物と半紙の取り乱したるなかに暮らしたり。其の毎日の描きたるは獅子の図なり。その半紙を丸めては放り投げるの態なり。汚く乱雑に積み上げたる家具の柱のうえに蜜柑箱を少し高く釘付けにしてなかに日蓮の像を安置せり。かの信仰せし妙見の御身なり。
妙見信仰に至れり経緯は若き頃、自然の威力を眼の当たりに見しが為なり。天地に耳をつんざく雷鳴の轟きて降り落ちたる稲妻の光裂く大震動に驚愕し其の情景忘れずして信じたり。即ち人の知恵をして及ばぬ力自然に宿り其を畏れる心、真なりと悟りし所以なり。妙見の教えは其の原点を常に宙広がりたる星に求め、其の象徴を北斗七星に定めたり。      
不乱に魔除けの図を求めるもひとつに戯作者、馬琴との融合を願ってか。否、独り暮らしの画稼業にも心痛める息子の居ざりしが今は行方知らずの放浪者。悪しき噂を聞くにつれ倅に取り憑いた悪魔を払わんがために始めたることなり。
其の日、突如角丸屋が訪れしとき、いつもの獅子の図を描き終えて丸めた半紙を外に向いて放り投げたときなり。馬琴の居にて集まりし以来奔走に明け暮れしたらしくその驚きようは尋常にて非ず。居に入ってくるなりしばし呆然と佇み、手に握ったその半紙をゆるりと開いて見つめ直すの態なり。
「よくもここの分かりしが」
「師匠も人の悪き。居変わりしものなればその旨知らせ給うや。おかげで麻布から七軒通、日本橋までの版元を書問屋も含めて全部尋ね廻る始末でさ」
是非もない。角丸屋を座敷に上がらせ先ずは茶の一杯も馳走しようと思いしも隣も分からぬ付き合いなれば小奴の居るやなしやも分からず、うろたえるばかり。
「前は小奴の居りし処の隣、呼べば土瓶に茶を入れしが」
「気遣うこと勿れ。ところでこの半紙に描きたる画、さきほど居の外に投げ出したるを見つけたるが偶然にして幸い。まさに思いが通じたり」
としばらくは安堵の様子を浮かべたり。やがて顔をあげてかしこまりぬ。其の後再度、馬琴の居にて所見を仰いだ気配にて其の報を語り始めぬ。
「戯作者先生の意を汲むのも版元の仕事なれど挿絵師匠の趣きも知らずして版下を彫師へ発注すること相成らぬのも版元の仕事。愈々完結部分の完成なれば、其の手筈、万端にて進めていく所存にありや」    
角丸屋の出板の準備、早急に取りまとめたい旨伝わりしが、  
「して馬琴の意向は。寒夜の景色画承知せしや」
尋ねると角丸屋言いにくそうに黙り込む。
「何と言い給いしや」
加えて強く聞き質すと渋々角丸屋の答えしに、景色画の趣き善かれども添えて描きたる食漁るが如き野狐の態、如何にも蛇足にて削除するよう伝うるが旨申し受けしことを白状しせり。呆れて居住いをただし憤り俄かに湧いて、
「伝えよ、余が表わしたる寒夜の野狐は馬琴の著述汲みしがうえに補えし絵。強いて野狐の削去せんと欲せば前回よりの挿絵を全部返還せよ。余は自ら馬琴が著述の絵に今後筆を下さず」
角丸屋大いに困惑す。握り締めたる獅子の画、何度か見開いて眺むるも言葉なし。やがて思案に暮れすごすごと退散しせり。
再び机に向かい獅子の画のつづきを描かんとす。されど、集中何処か欠け描くこと乗らず。ただ角丸屋が、余の放りたる獅子の画、得たりとは奇なりと胸を打つ。
課題とした魔除けの画、今日は其の一枚にて終いぬ。                      

どしゃぶりの雨のなかを画工材の不足なるを買い求め浅草の道具問屋を覗きてまわる。        
市村座の前を通りかかりしときふと見上げると雨に煙る演(だ)し物の看板絵にいとも怪しき景色が覆いまるで亡霊が立ち回るが如きなり。何事にぞとしばしわが眼を疑い眺むるとひとの往来怪訝に立ち止まりたり。
尾上梅幸演じる化け物の看板絵。まわりを取り巻く物怪(もののけ)の拙筆はいったいいずれの門手の作品か。ただ悪戯に見せびらかしたるが如き稚拙にて淡白。まさに衆人の目を眩ましたる態のありや。嘗ての春朗時代の己が屈辱の出来事が思い出され、巡る因縁の流れの幻を読み取るが如き。
市村座出入りの看板屋といえば鳥居派が一門、仕切るは清信にてあらん。清信の画風卑しくも役者絵の新派、これほどの手抜かりの思慮浅き怨霊を描くとは。益々憤懣やるかたなきを再び濡れつつ歩を進め路傍の溜まりのなかを音を立て踏み行く。
勝川派破門の屈辱が今日の北斎ありというも、そもそもの始まりは絵草紙問屋の招牌を描きしに兄弟子春好から受けた嘲笑にあり。大いにその画の拙さを笑われこれを掲ぐるは即ち師の恥を掲ぐるなりと眼の前にてその画を引き裂かれ打ち捨てられたときの屈辱は今も忘れじ。
確か茅場町の橋の袂に看板屋問屋があったはずと覚えけり。市村座も驚く怨念の姿図を今の北斎に描かせれば有無を言わせねえ。忽ち例によって躍動して来たる怪しき魂の沸き起こりたり。
雨は煙りいずれが茅場の方向か草鞋(わらじ)の脚に泥がつきまとう。

 「水滸伝」といえば馬琴。馬琴といえば北斎が巷に流れる合わせ絵師。其れをお蝶が知らぬわけがない。
「それじゃ気心知れた相手じゃないか。其の版下の絵、野狐を消せの消さぬなど筋書きと何の関係ありやして。とばちり受けるは版元角丸屋、困惑至極してまとめられないものを」
「馬琴は分かっちゃいねえ。完結場面にこそ物語が生きようって言う要の締めっくりに難癖の愚かさ。食を漁る野狐の姿の暗示こそ、削除したるは何の響きの届かんや」
「おやまあ、其れが朋友同士の有様こととて、互いにいがみ合っては先の進まぬ噺。ところで生首の噺は如何になりてありんすか?豊国と勝負じゃなかったのかえ?」
「勝負はするわさ」
 思い起こすはお蝶の問いに、さては怪しい空言かと今一度市村座の看板絵、思い浮かべつ例の魂の居処を探り出す。
落ち着き払うはお蝶の肌、叱咤かけたる意見噺も色気に漂い、酒もないのに夢心地。今宵も待合茶屋に月は出ず、見上げる障子戸にまたもや秋の風情なし。
「ところでお蝶、生首の伝手はないか。前に話せし決意の程は未だ消えず、愈々着手にあらん」
 其は摺り物に非ず。摺り物とは別物の構想よぎるなり。即ち雨に煙りし市村座が看板絵、其の拙画の超えたるものをば描かん。げに画題の生首の妖魔変わらずして、世に妖怪劇の看板絵を轟かさん。
「物怪(もののけ)繁盛の浮かれ芝居にあやかって今、構想するは看板絵なり」
「何を言っておわしゃんすか。看板絵?冗談にもほどがありんすよ。此のあいだまでは摺り物の豊国負かすは生首の怨念こもった絵じゃなかったのかえ?其れが今度は鳥居派一門に殴り込みかい?」
然し、いったん棲みついた魂は納まりきらねえ。土砂降りのなかの梅幸が泣いてらあ。と、お蝶の襦袢からはみ出ている膝をまさぐりながら暫く其の手奥へと擦りいく。
「芝居の看板絵は鳥居派一門が占める世界。何処に師匠の受け手のありんすか」    
お蝶は嘲笑洩らしつつ答えるもやがて其の吐息は喘ぎ始めぬ。
「斬られた首に限らねえ。怨念がさ迷っている生首なり。何処かに死人の霊を呼び戻す霊媒師の居らんや」
「いい加減にし給うれ。そんなもの如何で知りてやありなん。げに描きたくば五反田の処刑場へ行かしゃんせ。盗人、罪人の拷問に打ち首、晒し首。惨たらしい懲らしめの数々を拝せんや。飽かずに生首描かんと宣わしが其のような下拙なもの描いて何の戒めにてあらんや。嘗ての其の勝川派の花形の腕が泣くわいな」
「……」
「そんなにこだわるつもりなら、昔描いたという医術図のありて給うや」
「医術図?」
「阿蘭陀甲(か)比丹(ぴたん)依頼の医術人体図のこととて、ほら、百五十金だの七十五金だのと画料でひと悶着のあったという噺。人体の臓物なんぞ描きたる苦心お言いでなかったかいな。其は参考にてならざらんと」        
嫌なことを思いださせやがる。あの図に連なる取引は今考えても煮え繰り返るは四谷の医師のありき。日夜丹精凝らし描きたる図、阿蘭陀甲(か)比丹(ぴたん)は百五十金にて買取しが其の医師の言いけるは、薄給なればと半減の違約を申し立て、やむを得ずして苦汁を呑まされし経緯なり。
「何を言やがる。勘違いをしてやしねえかお蝶。いいか、描かんとするは臓物にて非ず。何度も説く如く、恨み辛みの生首なり」
「……」               
 擦る手の膝から股座へと忍び寄るに柔らかなお蝶の肌脈づき、やがては息荒く短き叫びに変わりたる。
「なら想像してお描きあらしゃんせ。馬鹿をお言いでないよ。もおあたしゃ、身も心もよだち気が変になりそうだわいな。冷たくなってきそうなこの身体、其んな野暮な噺はやめにして早くあたしをよがらせておくれな」
行燈(あんどん)の灯りは今宵も怪しく揺れ、絹擦れの音を静かに包む。
「見てろ。今に描き上げん。其は生半可な幽霊が腰を抜かして仰天せし生首の妖怪にてありなん……」
 
 馬琴の言わんとする寂寥たる風景画に野狐の蛇足とは何を見しや。痴狂の情死こそ不可思議な霊に誑かされん男女の謎の戒め。余が以って補足し得ん魔性の醍醐味を描きて演出したるに狭き短絡。自ら会得しが宗理の画風、寒夜の野狐こそが象徴。この世の類皆虚しからずが自然の理表わし、互いの尊厳を悪戯に貪らんとするは又一方にて厳罰の報いあらんと知らしめるなり。                 
あれから退散したる角丸屋はしばらく姿を見せず浅草馬道の埃風にも閑寂の態、吹き荒ぶなり。
 再び朝の日課は魔除けの獅子の画、米びつを下敷きに半紙を広げる。これがしと気に入る獅子画が完成するまで筆を持つ。昼を過ぎても食せず渇いても茶を入れず踏み場のない散在ありしも無頓着。鳥獣略画や職人略画にも相も変わらず執着し夜更けの闇にぞ眼を凝らしたる。
 さても画料の底をつきしが略画の売り先未だ決まらず。此れは何れ版元の見つかりし日までと煩わず貯め置きしなり。而して構想抱きたる看板絵の着手に思い当たり、策略俄かに沸き起きて先ず看板絵の売り込みを決意す。相変わらずも役者絵の絵師多しといえど稼ぐ流派は人気を集め、歌舞伎役者の意向もあらば看板絵は大方鳥居派が占めるなり。ましてや今をときめく市村座が看板、音羽屋梅幸が演(だ)し物は全て鳥居派が占めるなり。そんななか、談持ち込むは無謀ともいうべき魂胆なり。然れども、この前の看板絵眼に映りしは覇者の奢り、瞬時の手抜きは合点ならず敢えて余の構想したるを問わんとするなり。市村座が怪談劇、音羽屋梅幸の妖怪、益々引き立たせんとするはこの腕を持ってするより他なしと狂じたり。
其はまさに過去の鬱憤を晴らす機会訪れたり。鳥居派一門の拙筆が破門受けし勝川派に非ずしていわお門違いとはいえ巡ってきた屈辱晴らし。嘗ての春朗目醒しのいい腕試しに相違なきや。
兄弟子春好から眼の前で破り捨てられた己が招牌絵。その出来事以来必ずや他日世界一の画工となりてこの日の恥辱を漱(すす)がんものと勉強忍耐の真意、今日の姿にて在れり。即ち画道を極めんと努めたり。
遡れば狩野派を学び、俵屋宗達が一門宗理の画法を真似、或いは光琳のわざを会得せん為に費やしたる精力や返す返すも一途なり。其の成果轟きたるは屏風絵、黄表紙、錦絵、摺り物等に現われたり。弟子の数、入れ替わりの絶えずして其の門下至る処に散在す。画料尽きたるときは其の都度の自らの画号を門下に売り、其の報酬にて急場を凌ぎし時代もありき。ときには其の行為、卑賤なりと陰口されるも平然なり。

 日本橋は鶴屋。過日茅場町の看板問屋を歩き市村座の請け絵の伝手を聞きたたるやその詳細は鶴屋にて乞うよう案内のありせばなり。主人の九佐衛門出でて言いけるは「絵師の得意とせざる絵を持参して賜わば一考して返事せん」の旨。帰りて愈々筆をとり数日来のこだわりしが生首の精霊、正気に取り込まんと思いしにその真相たるや果たして怪奇なる素画なりや。なかなか問題の其の描画完成せず。
二、三日考えても埒あかず再び魔除けの画と鳥獣略画、職人略画に没頭す。室内益々とり乱れて塵の散乱なりしが整頓の意志なくむやみに画材散らばりたる。眼疲れて柱を見上げるや蜜柑箱の御身俄かに輝きて促されるまま又筆をとる。
描きたるは切り撥ねられたる武者の首、見開いた眼に嘗て学びし宗理の画風、幽玄にて容(かたち)の現われ出でたれば当初の性根達成しせりと企む。                   
宗理の画風魅せられたる由は、隠されたる奇の精深々たるを与え又一方にて尊厳なる魂の漲(みなぎ)りたるを見事に表わしたる画筆にあるなり。更に其の魂、恐れ多くも天地の霊験密かに諭し、其の暗示したる声に響かんとするところなり。豊国の美人画の幽霊にこの声聞こえしや。物怪(もののけ)の画多しといえどこの天地の霊験怪しく語る趣きの類ありしや。              
昔、馬喰町に風変わりな女祈祷師の居りしが即ち光明射し見得たりと悟り苦慮算段仕上がりし生首の画を持ち、居を出でんとす。さてもこの祈祷師が是の画似たるひとの死霊を呼び起しこの世の怨念の語りしや。
女祈祷師のこと或る人の曰く、蝋燭を頭にかざし髪振り乱したる祈祷師の難語流暢に流れ、時折疼く伸吟が女体の神秘怪しく揺するなりと。風変わりとはこの声をいうなり。誰しもこの声堪え難たく病の悪霊これにより出ずると信じたり。
 
 馬喰町に着き祈祷師の居探したれど噂の地所見当たらず暮れいく路地を迷いたる。心許なく進みゆきしが朽ちたる屋敷に影ありてなかにうごめく気配のありき。招牌の標示もなかりせばただなる住居と思いしに不思議に惹かれる形あり。あたりに往来の無かりせば問いて確かむ伝手もなくただ惹かれて表口の前に立つ。
黙って耳をたてかりしがなかから呪術の如き奇声響きて穏やかならず、まことやここがその在所と直感す。急ぎてなかに入れり。
なかは薄暗く先に客の侍りしが皆黙って頭(こうべ)を垂れひたすら無気味な仕業の後ろにて座せり。噂違わず師の叫び時折女の声あらず震えて怪しく張り裂けたるは淫乱の伸吟と聞こえしに。両手振りかざしたるは狂わんばかりの演技にて蝋燭の灯りその都度線を描くが如し。
「阿檀地(あたんだい)、阿檀地(あたんだい)」
 絶叫は続く。
「阿檀地(あたんだい)、阿檀地(あたんだい)」          
 狂おしい女体の伸吟は続く。
白装束に身を包みて発したる唱文、阿檀地(あたんだい)の謎は奇妙なり。
やがて息荒らしたる声色も萎えて師の肩小刻みに震え、響き静かになりゆくなり。了待ってしばしの間、部屋の黙するところにありて安息の色現れ緊張解きほぐしたる客人の影が揺れたり。一様に紅顔し悪霊払われたる面持ちにて皆立ち上がりぬ。
余の身なりの甚奇なるに眼を配らせしがさしたる表情も浮べる風能わず帰宅せり。祈祷師余を次なる客と思いしにしばらく置いて眼を見開き余の様子を観察す。
「いずれの紹介にてありきか」
 冷やかなるも口元麗しく老けたるも艶女の気配して祈祷の魔性この景色にあらず。さしたる縁故もなかりせば正直なる経緯をば答えんとす。
「で、その画をお持ちなるや?」
 祈祷師の声色無様に緩み、余の画読みたるを示す。画の由来や一切を語らず、以ってこの生首の武者の表情をば人の魂、天地に何をか語らんとありしのみ。ただ祈祷師が霊感豊かなれば描きたるこの形象の願う真偽、如何に伝わらんものかと心託して願い出ずるなり。
 受け取りしが画を見て師の眼しばし動かずを何をもって言葉つなぎしかと固唾をのみ見守るに、やがていかばかりか心中奮い立ち、「何をか語るべきや」と問い質す。再び師の眼動かずがただ画に見入って硬直す。
「その霊、何をか語らん。否、語らずとも戒めあるや」
 はやる心を静めんとただ師の動きを見つめしとき、げに願う確信得たりと俄かに襲う気配あり。突如、響きたる慄きにその証しを固く受け入れたり。
「阿檀地(あたんだい)、阿檀地(あたんだい)」
 画を持つ師の手小刻みに震え眼は凍りついたまま離れずなり。

 鶴屋の主人九佐衛門の驚きたるやこのうえなし。持ち込みたる画をば眼を通し、暫くの後稀有な幽霊画と絶賛しせり。即ち急遽(きゅうきょ)表情一変し出板の意向へと腹積もりを変えたり。余が市村座の看板絵請け乞いしが先ず以って演(だ)し物の語り絵巻の錦絵に関心を移すなり。
浅草馬道の居、俄かに忙しく三日に一度鶴屋下請けの板下工、摺り工等の出入り甚だしきに近所の噂忽ち広まり茅場町の看板問屋にまで広がる。ひと皆この生首の画見しが一見凄然、心魂を揺るがす。
ほどなく錦絵の出板されしが望みたる市村座看板絵の執着断ち切りがたく嘗ての屈辱これにて晴らさんと宿す心は変わらじ。然らば怪談劇の看板絵の受注、今や遅しと待ちにけり。
折りしも日浅くして鶴屋の九佐衛門来たりて果たして吉報の届けたり。
「顔見世狂言の興行あり。師匠の力筆賜りたく候なり」
 と金五両を置いて帰るなり。忽ち奮高まりて茅場町に馳せ看板問屋と詳細を打ち合わすなり。演(だ)し物に怪談劇のなかりしも願ったりかな歌舞伎の絵看板なり。鳥居派一門の風靡(ふうび)絶大なるを廻って来たる御鉢、げに望みしところと引き受けて是に対抗せん心積もりは盛大なり。
 さても大御所菊五郎が三世尾上梅幸の技芸世に名高し。最も幽霊に扮するに巧みにして、殊に賞せらる。市村座出入りの看板問屋の噂、やがて梅幸の耳に入りその絵師誰かと尋ねられしに問屋の衆人、余の名を告げたり。
 市村座の顔見世狂言の看板絵描き終えし頃早速にして梅幸の使者浅草馬道の居訪れん。
「大御所三世の言いけるは、過日師匠の絵を拝見せしがいたく気に入り稀に見る形象画、次なる扮装の見定めにしたい旨、ついては一枚これと同じく幽霊画の描き賜われば有難き幸せに存じ候と申されん。而して何れの日か段取り仕ればその意伝うるべし」
 大御所の直伝とあらばその招き厭わず承諾したき心なれど扮すべき見定めとは如何なりや。高圧なりき使者の言動少しく癪に覚え、暫しの猶予を願い出る。
「して期日の目途は?」
「いずれそのうち」
 使者は怪しく表情を曇らせたが懐から紙に包んだ金子を取り出し上眼遣いに膝の前に置くと、                
「しからば早急に返事賜わらん」
と、言い捨て居を後にす。
相変わらず鳥獣略画、職人略画に没頭しながら寝食を忘れること多し。画工材を買いに出ることもしばしば。鶴屋の錦絵、市村座の看板絵に酬したる画料少なからずに貯え常になし。衣服破れたりといえども厭わず常に柿色の袖なし半天を着用す。室内変わらず乱雑にて塵の散らかり眼を覆うばかりなり。佐倉炭の俵、土産物の桜餅の籠、鮨の竹の皮など物置と掃溜とが一様なるが如し。その心、唯一に絵画に専なるを以ってなり。
 日課に励みしとき常に大御所の直伝、頭にあれど己が画道に工夫懲らしたる次なる画法の心中を占め不惑不乱の形相なり。執着したる略画の種類、その数計り知れず。
一画一点にて其の命宿るべしとす。森羅万象に生命の存在ありせば先ず以って鳥獣や人の略画の其れを疎かにせんや。
 其の日俄かに往来騒がしく奇妙ならん様子のありなば少しく耳に障れど外のこととて一向に気にも留めず。
「ご免」
 入り口で誰か訪れたる声のするも耳に入らずひたすら画法の探求に没頭す。やがてなかの様子を伺った客人の驚きわたる溜め息が室内に伝わりたり。客人、再び戸外へと走り出したる気配にて戸外に侍る籠屋に何をか大声にて指示する有様漂い、周りに人の集まりしがいっそ険しからん。
 再び入り口に立つ音のして籠屋の者、室内の下に敷物の敷きたる様子。其の者に何事にてあらんと問いたれば、客人は梅幸が御大にてお成りがかくも室内不潔では心苦しく、以って敷くよう仰せつけのありなんと答えたり。
 暫くし御大、敷かれた毛氈のうえを歩き散らかしたる座敷に上がるなり。客の来訪ありしも、元より茶、煙草の設けなく訪れし客人概して其の粗末なるに呆れ果てたるが習いなり。此の日も御大に背を向けたまま米びつの机に向かいて描きつづけるに、是を察した梅幸、言葉発せず。暫く沈黙した後(のち)、
「先だっての儀、如何にまとまりしや。段取りの様子をば伺いたき候」
 穏やかなりしがうわべ、真意はさに非ず。表情、憤然たる影のありき。返答無きは再び黙して次を語らず。ただ散在したる辺りの奇妙なるに息を呑む。
 依然と画法に執着しつづけ、机に拠りて客人を顧り見ざれば即ち梅幸の性根尽きて黙したまま毛氈のうえに立ち上がり、汚いところを後にするかの如く立ち去りたり。                
不敬に亘る挙動、始めに起しときより眼につきて無礼千万たるや。室内に居座りしあいだ己が腹の虫最後まで治まらず、遂には御大の帰させたり。しかる性分、癇癪の一旦触れなば誰ぞあろうと世に媚びることなきがかくの如き。無礼たるは最も己が癇癪の虫に触れるところなり。
同じに類せしこと過去にありき。 
 本郷に屏風絵の書き問屋の集まりし処あり。各地の藩士、己が城主より授かりし絵の注文を其の処にて用を果すため訪れたり。
 あるとき津軽藩の使者訪れて狩野派の流れを汲まん屏風絵の注文をしたり。書き問屋大いに困りて周囲に相談を求むるなり。狩野派の絵師知らざれば誰かその伝のあるかを尋ねんがためなり。なかに覚え置きしがひとり浅草聖天町の余の居を教えたり。
「某(それがし)は奥州は津軽の城主、津軽越中守の使者なり。屏風絵の件にて御願い奉れば参上するなり。千鳥が淵にて聞きたれば狩野派の画法究するは貴殿なりやと受け賜わればなり」
 思わぬ珍客なれば取り組み中の略画の手を休め其の津軽藩の使者の姿を顧りみるなり。
「お上の好みしに狩野探幽の画風、屏風に描き給うべし絵師の探し候が、貴殿が昔狩野派の画法学びしと聞きたれば真意のほどをお聞かせ願いたく候。以って是非お上の願いにて御地へ参上仕れば有り難き幸せにて候」
果たして過去の門下生が告げたるものか。さりとて隠すべく理由も見当たらず、此処は奇しき成り行きにならん。早急なこととて見当もつかず、先ず答えて言うなり。
「いかにも狩野派の画法学びたるがあまりに唐突な噺。今は手空かずして暫し検討の暇頂戴致したくにて申し候」
 是非にと言われても直ぐには津軽への旅支度為す術能わず、其の日は即ち引き取り願うなり。
 狩野派の画法継ぐ絵師とて誰か余の名を告げたるか。其は何を以って余を案内したるかを思い巡らす。
 勝川派破門されし経緯、一説に己が狩野派の画法に学びしが如く噂されたことあり。画工たる道、果たして究する態度他派に学ぶことの多ければ、以って模倣したる工夫を本流の外道と解すべきや。其の噺、門下の者に告げたることのありなん。然し、是とて狩野派を継ぎたる意図の為すわざに非ずして常に己が画工の道を貫く心得を説いたまでの噺なり。
 実際、次に狩野派を破門させられし運命にて是、皮肉なり。然らずば画工の道、流派の秩序をば重んずるが如きを証しするものなり。即ち兄弟子狩野融川の拙画を軽笑した為の経緯然りといえども己が見た絵心に偽善なし。其の画、一童の竿を持ちて柿を落とす図なりしが、その竿の端、既に遥か柿のところを過ぎいく。然るに童子猶足つま立つ姿描かれたるは何の意あらんやと述べたものなり。この発言、師に触れて個別の趣旨謗(そし)る類のものなれば遂に其れがもとにて排斥を受くるなり。思ったままの理、師の激怒に触れたるは即ち師弟の秩序壊したるものと為し、流派に属するを能わずと処せられるなり。是れ、世の流派の規律なり。然し、破門は己が画道に障りなし。蓋し己が究した狩野派の画法は充分に勉学に足りたり。是のこと、門下の誰か聞きて覚えしにあらん。
 その後津軽藩の使者再び訪れしが室内相変わらず取り散らかし人物略画、鳥獣戯画の執筆精魂熱中の傍ら顧みず励む故、色よき返事を与えられず再度帰させるなり。
愈々十日余りしてひとりの家臣、居に現われ出でたり。
「余は津軽の臣なり。城主、貴候を招くに貴候の来ざれば蓋し何故をもってのことあらんや」
 家臣、鼻息荒く高飛車な態度著しく表われたり。当方の身なりと室内を訝しく眺めた後懐から金五両を取り出し更につづけて言うなり。
「此の物軽微なれど引き取られたい。再三のお願いにて今回は先ずもって藩邸へ来らるべし」
 尚もて己が姿勢、画法に執着したる様見届けて、
「若し貴候が描くところ、城主が意に適わば更に必ず若干の報酬あるべし」
 家臣、更に急ぎて迫りたる。其の怪しき経緯、心乗らずただ画業に熱中なるが故、黙しつづけるなり。よって再び家臣の帰りける。
 数日過ぎて果たしてかの家臣又来たりて同行するを促す。何をもってか其の面構え苦悩に満ち、付き人の緊張したるなり。
「本日ぞ同行願いたい。さもなくば某(それがし)の面目立たず城主に対して忠背くなり。如何なる理由にて其れを拒みしや。黙したるは不届き千万、若し先般同様拒否たる返事の繰り返しあらば重大な決意に及ばん」
 家臣、先般の貨財に威を借りたる期待の形相あり。然れども反面、半ば悲壮な気色なり。然し余の即座に同行し兼ねたれば即ち拒否するなり。忽ち家臣大いに怒り、     
「ならば愈々貴候を斬りて自殺すべし」  
と言いけり。傍らの付き人、俄かに慌て家臣をなだめ、しきりに余に同行を促す。
 仕方なく、同行し難き理解の賜わらずは先に受け取りし金五両の返却せば可なりと思われ、
「明日人をして該金を藩邸へ贈るべし」
 と返答したれば忽ち家臣、付き人呆れ果てて暫し動かず。やがて憤然として帰りぬ。  
斯くなる早急なる仰せ如何に赤貧たる生活に潤いの救いとはいえ描きたる準備の定まらずして同行せしは如何にも無謀なり。以って慎重に図るが報酬の値打ちに添うものなれば軽んじて請合うは性に会わぬなり。
 数ヵ月後、屏風の構図出来上がりたれば招きに預からずして突然其の藩邸へ赴き屏風一双を描きたり。其の家臣、驚きて余を「奇人なりや」と拝したり。

 読本「南珂記」の六丁裏挿絵の件、その後沙汰のなきなり。角丸屋、果たして馬琴と調整ありや。麹町五ノ蔵へ出かけて探りなんと思いしも腰なかなか上がらず散らばりたる作画と画工材のなかに居座る。
年新たまりて居を浅草は聖天町に移せり。時候、初春の迫り来たれば角丸屋の先に訪れしときから凡そ半年は過ぎたり。
戯作者と挿絵師とが意見合わずは出板の主、大いに迷惑し百方をば奔走したるに思われん。巷の書問屋の意、集めて参考にせしや。誰にてこれを治めん。一度馬琴の処を訪ね、確かむるが知恵と決意す。
紅梅咲き匂いし浅草誓教寺境内を抜け八丁堀から神田へ向かう。馬琴の居へ着きしが表の景色、先に見た紅葉の葉は盛りの色既に越したり。
「既に第一の挿話完結したり。第二、第三の物語も其の稿、角丸屋の手元に渡らんや。ついては各々の挿絵まだ出来上がらぬものかと却って某(それがし)の方こそ心に留めぬるを。如何でか過しやらん」
 馬琴は先般の苦渋顔色に無く余の来訪に驚きし。増して親しく招き入れるなり。例の件果たして解決したりと悟らしむ。尚以って突然の第二、第三の物語をば報されば逆に角丸屋の意向、別にありしなんかと怪しむ。
「角丸屋とは一向に渉せざるは其の如き進展の有りしこと知り得べきも非ずや。してその稿の挿絵の依頼、誰にてぞ考えぬる算段か」
馬琴はこれを聞きて呆れて笑い飛ばし、
「何を述べ給うや。角丸屋の今日在りしは先の水滸伝しかり、挿絵をば北斎師匠があっての生業、よもや今回の作品途中にて戯作者の意向も聞き入れず絵師変えるなど不敬な魂胆思いもよらぬ」
 と言いける。
「又、居を移り変えぬるにあらんや。角丸屋が師匠の尋ね処の迷いたる故、未だ届けられんと」 
真(まこと)、年の初め転居したればその道理頷(うなず)きに値す。馬琴、薄々余の転居癖を知りたれば其れを指すなり。
「年明けて変わるなり。然らばさもありなん。早速、角丸屋へ出向き其の稿、拝見奉らん」
 失笑しながら呆けたる有様。其れを観察して馬琴の笑い声つづきたり。而して健やかな馬琴の笑い声を聞くに六丁裏挿絵の悶着をば解決なりぬらんと覚えかし。角丸屋、如何に調整したるや其の大いなる妙意を感ず。
 久しぶりの歓談にて馬琴大いに喜び、食を用意して遅くまで語りぬ。
 帰途に着く。夜もすがら静けさを破る犬の遠吠を聞く。その響き夜空に渡り、何度もこだませんとするうち其はまるで六丁裏、野狐削去あらぬべくを説得したりし誰をか思わせん。其は夜空の星に広がり彼方目指して黙して秘するなり。是、余のあまねく畏れたる北斗星の信仰、妙見の為せる技なりと信じたり。
 
ほどなく「南珂夢」出板されたり。巷、大いに話題にしせり。
市村座へも通うことしきり。暮れに梅幸再び訪れしに前回の不敬を謝し、改めて幽霊画の作画を乞うなり。其の意、快く引き受けたれば願い出の其の内容をば菊五郎が三世、梅幸の演じる怪談劇独道中五十三駅にて扮する妖怪変化の画なり。           
公演夏に迫れば各々の幽霊画ひとつひとつを吟味する時間少なし。
「よくもまあ呑気で居らしゃんすのこと。御大の催促のなきや」
 お蝶の部屋にも薫風の忍びたる季節到来し暦すでに八十八夜を過ぎたり。
「妖怪の芝居を観れば観るほど其の役者の衣装に気がまわり肝心な魔物がよく見えねえ。追っかけるほどそいつは逃げにけり」
「何を言うて給うや。今更のこと、気は確かでありんすか?御大に気に入られておあしゃんすが何を悩まんことのありてや。思ったままの画を描けば済むものに」
 膝枕のうえにてお蝶の声の響きたり。開けたるはいつもの障子戸に闇の静けさ漂いて、行燈(あんどん)の影の怪しく映りたり。
 生首画の残酷味は馬喰町の女祈祷師の霊眼をば震わし茅場町の版元鶴屋九佐衛門の食指を動かせ強いては歌舞伎役者尾上菊五郎が三世、梅幸の胸を打ったとあらば、そもそも己が描きし絵心のなかに棲む魂とは如何なるもの宿したるかを推挙したらん。複雑怪奇な己の魂。まさに其は様々な妖怪変化にてあらん。其の画を追うに其の影掴むこと定まらずは何に拠りて狂いしか。今にして厠(かわや)で見た蟋蟀(こおろぎ)の羽(はね)の形象思い出せず。
「何を迷って居やさんす。生首を描かんと言いしときの意気込みはどこにお忘れでかいな。吉原あたりに通ってくる旦那衆の噺では中村座で公演中の怪談劇がえらく人気だという噂、一度観に行かしゃんせ。確か、番町皿屋敷とか言ったかねえ」
「どんな化け物をやらん」
「屋敷伝説の怪談劇をや。腰元お菊の幽霊が評判にてあらんかし。怨念つきまとう芝居にて恐ろし怖しの聞き伝え。ああもう厭々。あたしゃ、お化けの噺なんぞいと避けにしに師匠の来たれば直ぐ是の噺、心安まる気のせぬわいな。数えれば豊国の幽霊画を負かす、負かさぬから始まりしが……」
「……」
「あっ」
 短いお蝶の声が洩れ、其れは次第に深い吐息と変わりゆく。
 己の魂に棲む妖怪は依然映らず。其は皿屋敷の如き怨念に非ず、姿隠したる霊の奇なり。画に描きて顕わさんが其は逃げ往く。揺らめくが其は掴めず。益々追う眼、烈火の如く熱きを注ぎても其の影霧中に隠れるが如く先見えず。
妖しい魔性はいつものよがり声となって重なり、眼の前のお蝶の声は絶叫へと変貌していくなり。お蝶を引き寄せ耳元にて呟きたり。
「馬喰町の女祈祷師に生首の画を見せしが蒼白となりて阿檀地(あたんだい)、阿檀地(あたんだい)と叫びし。阿檀地(あたんだい)とは如何なる呪(まじな)いにてあらんや。更に女の魔性眼と言いしは特別に他に棲みたるものを見しや」
「何を独り言を言い給いし……女は皆、魔性さ…あっ、…」
 お蝶の途切れ途切れの声に妖しき艶更に揺れて重なる幻影やがてお蝶の眉に顕れたる。其は息荒く喘ぐ表情、突如祈祷師の面なり。

中村座公演の怪談劇に足を運ぶ。皿屋敷怪談、既に演(だ)し物替わり四谷奇談を演じたり。昔から芝居の興じる虚構に魅せられ飯を喰らうより熱入り画料は殆んど其れに費やしたる。特に人形浄瑠璃の好みなれば摺り物などに狂歌を添え其の情景を織り込むことのあらんや。
 妖怪変化の景色ほぼ出来上がり梅幸に届けたり。後日、御大の使者現われ、いたく感激の様子伝えなば又金子を包みて帰り行く。夏の公演間近に控え多忙極めればじかに会うことの不敬謝りて遣すなり。
 段落の着きたりしが再び毎日の日課に戻るなり。人物略画と鳥獣戯画の類に精を出す。魔除けの獅子の画は朝一枚と決めたり。室内相変わらず掃除する者なし。塵屑の山、不潔この上なく散らばりたり。出入りする米商、薪商らが売り掛金の催促すれば版元鶴屋等から送り来たる画料の包みそのままに投げ出だして与えける。なかに何程あるやを顧みずして行いける。其の不精たるや画に執り憑かれたる情熱が専なるを以ってしたるわざなり。商人等は後から包みを開き少なければ催促し多ければ密かにこれを納めたり。
 人物略画の動き意ならず特に身体の写実、歪に映りなばひと晩考え翌朝五ツ木町の接骨医を尋ねたり。即ち骨格のつなぎの理を究し動きある時々の形状の輪郭を掴まんが為なり。而して三日ほど通いつめ人の肩、裏側から屈折したる筋肉の動き把握せり。以って版元鶴屋へ怪談絵巻の請け画の見本として携帯す。鶴屋大いに喜びて彫師へ発注し絵巻の更なる出板準備へと運びたり。
 「南珂夢」大いに語られ角丸屋、其の続編を希望したり。馬琴其れを頼まれし後、度々浅草聖天町を訪れ続編の困惑を述べたり。帰りたる都度室内の乱雑さを嘆き飯を馳走する用意を約して居を後にするなり。無精好きの生活態度なれば願うところなり。           
梅雨のつづきたるに、着る物の替えはなく柿色の半天、更に色褪せて湿りける。夜更けて蚊多ければ蚊帳のなかに入りて、即ち夏の公演近づきしに御大の扮装観たさに思案に暮れる。今は門下に画号を継ぎて報酬金を得るすべなし。然し、其の祝儀の金の工面大いに急を要す事態なり。思案つづけるに蚊帳の外静かに星の煌きて夜空の果て無限に語るを見ん。此のとき、忽ち思いつきしが是の用いたる蚊帳の売り捌き、以って祝儀の替わりと為さんと決めたり。是れ、妙見の響きなりと。
公演初日の訪れたれば即ち蚊帳を売り、其の金弐朱を得てこれを懐にし、市村座に赴くなり。観劇もそこそこ楽屋裏に馳せ、梅幸に面会しせり。梅幸喜びて招き入れしが出幕の時間迫りて余裕の無き。其の金弐朱紙に包みて渡したれば初日の祝儀大いに果たしたりと帰途に着くなり。梅幸の恐縮しきり。使者をして後刻、居を訪れるなり。蚊帳の売却して其れなきは夜な夜な蚊に刺されども安然として筆を執り業をこなすこと平常の如し。其のこと梅幸の知る由もなかりけり。

 「南珂夢」の評判に気を好くして角丸屋、愈々続編を望むなり。
 元より馬琴の戯作、勧善懲悪の物語多くして流行たる怪奇談の色は淡白なり。即ち、人の稗史に纏(まつ)わる立身の戦渦華々しき語るを得意とす。其の噺、唐よりの史伝に根幹を為すこと多し。自らの生活も絢爛にして最近では楼を築して篭りたる。家人寄せ付けず著作に専念す。訪問客のあるも即ち楼を降りて下にて用を済ます。
 続編の打ち合わせにてあらば馬琴の居を訪れしに家人の取り次ぎたるは楼を上りて後、其の案内受くるなり。是れ特別の計らいにて普段の知己には与えぬ作法なり。
 楼上がりて室内見渡せば「三国志」、「水滸伝」のとき用いしと思われる稗史、唐の史伝の類の資料多く陳列のこと、真に其の戯作に賭ける熱意の様のありき。続編の打ち合わせもままならず世間話にぞうち興じたる。お互いの性癖通じたれば暮らしの趣き、虚飾なく述べ合いたり。其の後、角丸屋依頼の「何柯夢・後記」の噺に入りて、再び続編の要如何なるかと馬琴の思慮困惑の色呈したる。即ち前編にて其の局結びたるに続編のネタ如何にあるべきかを問うなり。
「此処に積み上げたる多大な稗史のありせば、何をか煩わん。ネタは幾らにも見出せようぞ」
 と言えば、馬琴の答えたるや、
「稗史は別物なり。前編は其れにて完結を見たり」
 と受け入れず。            
新しき稗史進めて戯作する処に読本の妙味あり。其の裏側深々にて享楽の悦誘うるに足れればなり。嘗て余も戯作の経験あればその極意の使い技覚えたり。然るに馬琴、物事の対処厳格にて非有らざるを常に立てんとす。
即ち、                
「既に全く結びたるを継ぎたる物語、難儀にてあらん。前編の補えしを言うが如きにて聞こえん。敢えて進めたるは全く別物の噺とならんや」
 に終始す。
日は暮れ議論終らず。継ぎたる意の有りしも馬琴のこだわる難癖、面にぞ現れたる。
 やがて食の振舞い受けしに帰途に着く。

 市村座の看板絵の評判宜しからず。皆、異口同音に奇なりと噂したり。鶴屋九佐衛門の曰く、未だ嘗て鳥居派以外の絵、見慣れざればなりと。即ち余の描きたる人物、概して細くいわば痩身なるに比べ鳥居派の其れは手足太くするが特徴なり。観客の多くは鳥居派の看板絵に慣れ親しんできた経緯あり。忽ち看板絵の生業、疎遠になりし。
 再び己が画道に精を出す毎日あるも貧窮なれば画工材の調達で財、底を尽き夜明け近くまで食を摂らずことあり。常に己が志す処を学ぶため朝まだきより小夜更けて人の寝静まる頃まで筆を握るなり。
 多くは人物略画、鳥獣戯画の類なれど其の礎とならん基本画法に精魂を注ぐなり。幅広く試みて表わしたる手段紙の上のみにあらず。極小の技量何処まで可能なるかを試さんとて例えば米粒のひとつに其の筆を下すなり。然して机の上に散らばりたる米粒は皆、作品なり。 
 寒入りし頃、突然朝早く馬琴の訪れし。母の年回忌忘れずしてついでに様子を伺いに来たるものなり。早速、机の上の米粒を眺めていうなり。
「何たる粗末にしてありなん。ひとりで居るとこうも堕落して浸りぬるか。本日こそは師匠の御母上の法事とて参りしが果たして思いの通りの有様。少しは片付けたら如何なものか」
 馬琴、紙包みを取り出し幾許かの香典を差し出して机の上に置くなり。
「続編の書きぬるか?」
 角丸屋から頼まれし「南珂夢・後記」の噺、覚え置きしが馬琴に問いて尋ねる。馬琴思わず其の件の用事真っ先に言うべしと気づきたり。懐から再び袋に納めし其の稿を取り出し膝の前に広げておもむろに説明に入りたり。続編の内容すこぶる順調にて馬琴の力量節々に発揮せられたりと見ゆ。やがて要所の挿絵の段階に入りしが折りしも室内寒気著しく時々体に震えがくるなり。鼻水の止まらずは無造作に散らばりたる半紙の紙を引き寄せて鼻をかむなり。
 続編七丁裏にて如何にも例によって己が理に尽くし難き場面に遭遇するなり。何度も鼻をすすりて情景を検証するも腑に落ちず。  
記されたる場面とは主人公全介が祖父の仇敵討たんと阿通に挑む情景の詳細に触れたる記述なり。全介が桐の下駄にて阿通の放ちたる手裏剣を受け止むるの条文なり。其の前を見れば即ち全介が下駄脱ぎ捨てて松陰より出でんとすとあり。即ち咄嗟に気づいた阿通が投げたる簪(かんざし)をば手裏剣の、丁と受けたる下駄とあらば既に脱ぎ捨てたる下駄をば手に持ち居たと想定すべし。敵を討たんとするときに臨み、脱ぎ捨てたる下駄を再び手にとるの理あるべからず。             
馬琴にこの項指摘して論じたるが馬琴、戯作者の流儀たるを察し得ぬかと終いには心不機嫌にてなりぬ。
 暫し頭を休めたりとおもむろに散らかりたる室内掻き分けて馬琴に見せんものありき様子の態を示しながらようやく拡大鏡を見つけたり。机の上に散らばりたる米粒のひとつひとつを寄せ集め、手にとりて拡大鏡をば覗き込む。
「描かれているものをば当ててみよ」
 やがて拡大鏡を馬琴に手渡し指に乗った米粒を差し出す。 
「?……」
 馬琴、怪訝な様子浮かべつ、拡大鏡にて受け取りし米粒を覗き込む。
「見事なり」
 米粒に描かれし略画の鮮明なるに馬琴絶句して言葉つづかず。朝見し机の上に散らばりたる米粒のひとつひとつは作品なりしか。呆れて再び返答も出来ず挿絵の論議も中途にて即ち昼過ぎ帰りぬ。
 馬琴の置いて帰りし続編の稿、再び読み耽るに其の条文、確かに新しき趣向溢れたるが如し。全介と阿通の関係を仇敵討ちの因縁としながらも其れを譬えて手裏剣の簪(かんざし)を受け止めるは桐の下駄とし、更に下駄は今宵の島台云々とするはあたかも契り交わす妹背の如きを思わせる。趣向新規なれど下駄を今宵の島台とするはあまりにも奇に失するが如し。
 画工材の買う都合もあり、ついでに再度馬琴に会うべき決断をす。尚、鼻水の止まらずして背筋寒気の襲うも其の場面の挿絵描くに納得出来ぬは生来の性分から収まり切れず、机の上の香典包みをば袂に入れてようやく座を立つ。
 朝会いしが夕べの来たりしに馬琴少々驚くも心開いて楼へ上がるを案内す。
「朝にお見受けしたところ少々身体の病みたる風に見えにしが其の具合如何ばかりか。無理をして来ぬとも又別の機会も居わさんに」
 相変わらず馬琴の部屋、書物の類雑多を極め其の量多けれど整然として四方の棚に納まれり。又室内の掃除の行き届きたるはこの上なく清潔なり。
「何のことあらぬ。ここ数日、夜明け近くの時間まで描きたる仕事のつづきたるが少し顕われたるに過ぎず。今は其処まで所用のありせばついでに寄り来たればなり」
 暫し談笑するが自然と朝方の論争のつづきとなりお互いに舌禍熱して変じたる。
 馬琴の言いけるは、独自の演出にての情景は理を超えるものなりやと。其の表現の趣向においてこそ興なれり。而して妙たる面白さを加うるなりと。
 淡色浮き出でて其の水に交わらずが如し。謹厳にて巌窟。幻なる不可解は想いを持って描けもするが以って理の通らぬ情景をば描かんとするは画工としての呵責に堪えぬ。
「表現にこそ拠りて理の通るを失わば即ち読者を失うべし」
 埒あかず思い切って憤怒した後、鼻のむず痒く袂から紙を取り出して鼻をかむ。其の紙を放り投げたるを暫し馬琴の眺めたるが忽ち顔色の変わりて、
「これはこれ今朝与えし香典の包みし紙にあらずや」
 と、その声怒りに満ちたり。
「このなかにありし金は必ず仏事に供せずして、他に消費せしならん」
 其の紙、確かに今朝持ち来たる香典を包みし紙なり。金は既に画工材を購入した際に費いしなり。相手の厚情を複雑に吟味し、黙すること暫し。
 やがて、投げ捨てたる空の紙包みを眺めて笑いつつ馬琴に答える。
「君の言のごとく、賜うところの金は我これを他に費いしなり。然し、かの精進物を仏前に供し、僧侶を雇い、読経せしむるが如きは、これ世俗の虚礼なり。供養とは父母の遺体、即ち我が一身をば長寿を保つことこそ真に父母に孝なるにあらずや」
 謹厳なる馬琴呆れて更に黙然とす。挿絵の論争、結局断ち切れたり。

 略画を描きたる器物、益々増えたり。室内に其の物至る処に散在したり。あるとき鶴屋九佐衛門訪れしに眼を見張らんばかりに驚きたる。
 米一粒に描かれたる雀二羽は特に逸品なり。肉眼にてこれを見るに苦しかりけり。更に徳利、猪口、切組灯篭等に描き込まれたる画、すべからく同じ形象ひとつだになし。あるいは画法の逆に描き、横に描き、又鶏卵、升等に描かれし曲画の妙技他に類なきなり。 
 鶴屋、この妙技書問屋の仲間に報せ其の噂忽ちときの将軍家斉公の耳に届きしなり。
 
「よくもまあ、気をお抜きなしゃんすが。こんな処で油を売るなぞして」
 相変わらずお蝶の膝枕に怠惰と耽る。開け放ついつもの二階の障子戸に入る夜風が緊張に怯えたり。              
描く絵の構図をば見んと眼を据えしが忍び寄る膜、未曾有の闇に包まれたるが如く有らんや。将軍の前に出づるは無上の栄誉なれど未だ嘗てない作法なればまさに其の闇、妖怪の気配にて有らん。
「まだ決まりしものに非ず。近々内命のある旨、報せにてあらん」
「よって、其んな大事なときこそ遊び居やしゃんしていいのかえ。音羽屋三世が梅幸御大のときだってそうじゃありんすか。大概が呑気におあしゃんすよ」
「あと暫くの後、忽ち籠の鳥になりにけり。内命受くれば其れから七日、八日は身の預かり。外出も儘ならぬ。してみりゃ今夜ぐらいが納めにならん」
「さりとて返し返しも至上の誉れ、ときのお上からの直々のお召しの声の預かりしとは。この上は立派にお描きあらしゃんせ」              
「……」                
「でもさ、師匠は勝川派一門の出、破門のこと無きにしあらば勝川派にとっては名誉なこととて誇りにもしように」                  
「……」                
「師匠の名、勝川春朗ありきとて今もて胸に刻むは華々しき役者絵の頃……わたしゃ、其れしか覚えになきは、最近の物怪(もののけ)、妖怪変化にこだわる師匠の姿、奇しく思いであったわいな」
「……」
 お蝶の語り、流れるなか依然と眼を凝らし描きたる構図の浮かびたるを待つに其の闇、未知の畏れにて新たなる威光の揺らめきたり。考えたる構図様々にて結局其の姿見えず。其は嘗て見たことも無き轟きを添えたり。   
やがて黙したる闇は静かに彼方へ消え去りし。再び通常の待合茶屋の二階に吹く夜風の障子戸に戻りたる。見上げながら覚えたる課題の思い起こしたる。
「お蝶。馬琴の、下駄は今宵の島台って言う条文のありしが……如何に其の意を汲まんや」                  
「何もていきなり、妙なこと言いしゃんすか」
この場においても気に懸かりしが馬琴との論争なりき。其の内容の一部始終をを聞かせるとお蝶の心次第に変わり、手の熱き伝わりて、
「邪魔するは理の為せるわざ、野暮なことなど言わずして夢見させるのが描き手の妙味というものなりや。お忘れあらしゃんすかえ」 
と、忽ち溶けいくしなり声。
外の闇更けて犬の遠吠え響き、やがてお蝶の伸吟其れに重なり洩れ響くなり。
暫くして果たして将軍家より誉れの内命あり。考え抜いた画工材急いで調達しおもむろに家人の沙汰を待つ。
師走の風冷たく一気に巻き上げては落ちて舞う枯葉の音を浅草聖天町の居にて静かに聞く。

谷文兆といえば南画の達人とや噂さる。其の山水図、右に出る者なし。眼の前に現われたるは紛れもなく本人そのものなり。空青く晴れ渡り当日の浅草伝法院の中庭は息詰まる緊張漂えり。家斉公、正面に座し先ずは文晁の描きたるわざを覧するなり。
難なく文晁の描き終えたり。大家の筆、流暢に流れ、幽玄な景色図仕上がりて周りの観衆静かにどよめきたり。次に余の従容として畏れる色なく前に進み、愈々筆握りて描き出さん。
先ず花鳥山水を描きたり。左右の観衆感嘆せざるものなし。次に長く継ぎたる唐紙を横にし、刷毛を持ちて藍色の絵の具を長く引くなり。さて、おもむろに携えたる鶏を籠中より出し、更に捕えて其の足に朱肉をつけ、これを紙上に放ちたり。鶏、思う儘に其の足跡、紙上に印残しけり。
描き終えて、是はこれ立田川の風景なりとて排一排して退きたり。         
立田川は秋晩楓樹を賞するの名所にてあらん。此の図は、楓葉立田川に点ずるの景にして故に鶏を放ち、楓葉を印せしむ。凡そ有情の人、無情の物を描くは極めて難し。今無心の鶏をかりて無情の楓葉を描く。真に妙なり、真に奇なり。観衆皆、其の奇巧に驚く。このとき傍らにありて谷文晁、手に汗握りし。
浅草伝法院でのこと忽ち大いに伝わり、其の名四方にて喧しく噂となる。連日、画を謂う者聖天町の居に踵を接して至れり。又在る者は門下に就かんと笈を背負いて戸口に押し寄せたり。
 然し平常たること変わりなし。日常の課題に先ず勤しむことを第一とす。即ち、人物略画、鳥獣戯画の類なり。客人の話聞けども机に向かいて返事無きときもあり。学ばん画法違いて諦める者あり。其の去らんとす後より顔を上げて言葉を贈るなり。
「書は心をもて形をなし、画は容(かたち)を図して心を含む。故に形不良なれば、意通ぜず。いみじく筆の限りを尽くして描けるは自ずから神に入りて眼の当り視るが如く、人の情(こころ)を動かさん」
 其の極意傍らで聴く者、胸に仕舞って持ち帰り再び広く伝えたり。
 年明ければ、更に室内騒がしくなり、注文の多ければ訪れる書問屋の数増えたり。一枚絵の画料上げ、入る報奨金豊かなれど費やす配慮無頓着にて貯まらず。相変わらず赤貧洗うが如し。即ち近所の米商、薪商ら次々訪れ、其の付けの代金を請求す。例の如く投げ置きし紙包みのまま持ち帰り其の金の多くは謂わず少なきときは催促すればなり。
 
請けし仕事中にも、常に「南珂記・後記」のこと頭に宿す。遂に論争物別れになりし七丁裏場面の挿絵、馬琴の意を汲み、刻すなり。喧嘩為すとも其の情、常に動かぬ型あり。即ち報さずとも其の版下の作業、着々と取り掛かりたり。
 春近き夜更け、暫し室内の窓開け放ち寒空の彼方を眺望す。闇の彼方に北斗七星の如き星のひとつ輝きて一層その光強めたり。  
七丁裏画風、幾度も重ね漸く最後の一刻にて其の版下を仕上げぬ。馬琴の満悦の様映りたり。果たして、打ち込みし簪(かんざし)、今宵の島台…を認めんや。
 寝静まる闇に犬の遠吠え響き、微風が密かに迎春を伝う。このとき怪しき転居癖の芽が再び葺き始めたり。
 

その二・富嶽の象徴と彫師正こと

 


さても晩年。
今や飢饉は終末の徴、これぞ以って将に自然の法則の畏れ多くも驚異の威厳を表わすなり。未だもって行方知らずの息子のことも気がかりなりしも当世の飢饉たるや尋常でなし。
念仏唱え潮風窓から忍び寄るに浦賀の里今日でふた月を経過するなり。
諸国の飢饉、村にも及び食容易く確保し難く江戸に居る常と変らず。絵筆の修練絶えずとも老身に忍びくるこの自然の恐怖はますゝ心を揺らすなり。以って息子の難儀、追手の近づかんことをも切に願いを込めて唱えるなり。
午を回り漸く江戸馬喰町の永寿堂から書簡の届きたるに期待即わず大いに落胆す。
西村屋与八の曰く、「今回の件、誠に有難く拝聴すれど愚舗、近況甚だしく不振にて趣旨足りる方策及ばず謹んで断念の意申し上げ候」とあり。
与八書肆にして立つるは大方過去北斎の富嶽風景画のみでここ数年振るわずして前途に難題と灯り始めん時期なり。齢五十四にして北斎とはまさに親子が商談交わす如き歳の差なり。
夕、海に出る。
北斎が積み上げたる画道の切磋琢磨したる異質の執念年老いてもなお衰えず。齢七十を越すも光り輝いてここ浦賀の沖の波の彼方に雄大に広がり漂うなり。眼前の景色、北斎の毎日の日課にて潮風の馨りと混じる風の音は真に爽快なり。其の響き北斎の耳一時も洩らさず常に捉えた主題の形容、水平の彼方に描きけり。何物にも勝る象徴としての威厳、この荒波を透かして如何に彫り表わさんや。
西村屋与八の返事返すゝも残念なり。膨大に連なる白浜の裾寂しく延びて人影一人だになし。見渡す限り己と波の音のみ対話しにけり。冨獄の姿脳裏を掠め修練重ねん構図の彩りますゝ冴えて出るは溜息ばかり。完成間近の版、返事は其の方策よろずに当たって其の成果無しとは如何にも口惜しい。

隣組の冶兵衛の娘の前以ての頼み不意に思い出し、宅を訪問す。娘言うには冶兵衛、還暦を過ぎたばかりの頃から片方の手が震え物を掴むに不自由したりと途方に暮れるなりと。概略察するに中風を患いしものと見ゆ。早速得たる経験の処方箋をしたため訪れるなり。
「これは細やかな説明図、恐れ入って候」
 冶兵衛、北斎の持参したる処方箋の図見て先ずは感嘆することしきり。半紙に描きたるは煎じ薬の材料と其の作り方の順序を示したものなり。
「柚子一個細かく刻み酒一合にて煎じるなり。土鍋を用い時間は一昼夜にて煮詰めるが要、水飴くらいになればよし。更に白湯にて用ゆべし。酒は極上なるが効き目あり。柚子を刻むに包丁の類用ゆベからず。へらにて刻み候」
「かたじけない、かたじけない」
 何とも巧妙な順序絵に傍らの娘も眼を見張り感服す。
「さすがお江戸の浮世絵師、見事な筆致だこと」
 冶兵衛の娘おりんの声、透きとおり冶兵衛もまた唸るなり。
「これが至極驚くべき効き目あり。余が試したるは三年前、凡そ七日間も飲みつづければ和らぐ兆しを見む」
「かたじけなや、早速試してみることに致し候」
 冶兵衛の家業、網元の継承にて代々がそれを受け継ぎこの浦賀・三浦村においては有名なり。北斎の先祖も元はといえば三浦村の出にありて古きを辿れば縁ありし同郷人なり。しかして北斎、村人にこれを語らず彼らもまた江戸の浮世絵師が訳ありて浦賀に来たりなんと思うなり。北斎が住みたる所、己が本籍地にあらず同じ三浦村とはいえ二里ばかり離れた浜の近くなり。即ち冶兵衛の近隣に潜居したるものなり。
「翁も患いしにありゃしたか。しっかりと物を掴めないことは情けない限りでござる」
 冶兵衛しきりに其の右手を摩り苦渋の溜息を洩らしつつ喜び何度も礼を述べるなり。
「これ、おりん翁に茶など持ちやらんか」
 震える右腕を上げた冶兵衛に言いつけられて傍を離れたおりんの後ろ姿を見送りながら北斎思うにふた月前の印象を改めて思い起こすなり。即ち我が娘、阿栄をこのおりんの後ろ姿に映し出すなり。何度眺めてもやはり阿栄のことも気懸かりなり。
 阿栄は前妻の三女なり。江戸・橋本町の油問屋に嫁ぎしが亭主と仲睦まじからずして遂には離別したり。息子の極道もさることながら阿栄は特に自分と性分近きこと尚更不憫さ強く思うなり。嘗ては一度達摩横町にて一緒に暮らしたことあるも時折姿晦ます奇行三昧。気性激しい反面、絵心闊達な娘にしてこの娘もやはり老躯に突き刺さるものあり。
「しかし翁は医術にも詳しくはいったい何処で以ってそれを学び取られんや」
 冶兵衛の問いに北斎輝ける眼開きて静かに答ふ。
「健康には至って気を注ぐ余り研究の癖年老いてますゝ衰えず昔より其の筋の書物貪らん所以なり。自らも試し得たる実例確かなり」
 冶兵衛震える右手を押さえながら止めど無く処方図眺め入りたり。
諸国凶作にて艱難徐々に伝わりしとき浦賀にては脳血管の病に冒される老人ありなば愈々眼前にて心恐ろしき末の世を思うなり。息子の方々で重ねたる難儀、其の債務に居所隠さんとて老いたる身をこの浦賀にて潜居すは我が余命幾ばくぞあらんや。
而して独りで住みたるは二度目の妻とも離別以来かれこれ二十年を経たり。

馬喰町の永寿堂ばかりが書肆では非ず。他に図る手立て数多あれどほぼ完成を間近に控えたる折、直近の野望今回だけは彫師の手腕にかかるなり。浅草馬道の江川正吉こそ眼の狂いなきにしてこれを成就能ふべき彫師たらん。北斎の日夜思い巡らすことこの一点、波静かな浜に出ては繰り返し寄せる白砂の照り映える影眺めては悶着す。直近の野望とは富嶽をこの波の彼方に描く絵図なり。
時多少の間開けども既に諸国の富嶽を描きたり。すべて西村屋与八にて出板せしもの、何故に今回の方策難ありとしたもうや。返すゝも納得いかぬ文面、怪しくも心微妙に乱れ日課とせん念仏に邪心の空言塵の舞う如く周囲に浮かばん。
唱える己の声に混じって息子を追う博徒の輩や阿栄の描く花鳥図の幽玄に奇声を発する門人の響き、はたまた西村屋与八の問いかけに寡黙の拒否を投げかけんとす正吉の表情が連ならん。
「先生、先生」
 俄かに其の声澄み渡りやがて耳に届きしが背後からひとの入り来たる気配の我に返って念仏を解くなり。
「ご熱心なこと。あまりのご精励、差し障ってお許しを」
見ると隣組のおりんが立っているなり。手に笹で包んだ魚を持ち来たりなん。表情可憐で少なく恐縮しか細い笑顔にて戸惑う。
「父の病状おかげで少し良くなり、これを先生にとぞ持ち来たらん」
 我に返った北斎居ずまいを正し周囲の散らかしものにも眼をくれず忽ちおりんの姿を確かめるなり。
「其れは良きこと」
 北斎土間に下りて甕(かめ)から水を汲み茶を沸かす段取りにて早速動き始めるなり。
開けられたままの戸の表に麗らかな陽光射し込み潮の馨り室内に侍り、おりんの届けし新鮮な鯖の色艶上がり框の隅にて輝きぬ。
「先生はずっと独りでお暮らしにてあらんや」
 おりんは周囲に散らかしたる絵具の類を凝視して問う。
「もうかれこれ二十年にもならん。ずっと独りじゃ」
 北斎座敷に戻り足元に散在したる半紙や筆を大雑把に掴んで隅に押しやり、
「永年江戸に住みにしがわけあってこちらへ参りぬ。いずれはまた江戸に戻らん」
 阿栄とは歳相離れたるも面影おりんのなかに見るを感ず。阿栄の幼きを見るが如くして北斎の脳裏怪しく乱れ親近感を常に抱くなり。
「今も浮世絵をお描きにてありしや」
「左様。描きにしあらん」
 漸くおりんを眺め注いだ湯を口に運び散らかりたる周囲に目をやり更に呟くようにして語りぬ。
「生涯絵心なり」
 散らかりたる半紙におりん感嘆す。描かれたる筆絵皆同じなり。波の形状の様々、皆等しく眼に写らん。其の数まさに塵が点在するが如し。
「江戸にては東海道の風景画の流行(はやり)、先生はそのような絵はお描きにならにしや」
「流行っている?」
「広重の五十三次画こそは得難しもの、との噂です」
実は其の真意、おりんの許婚が語ったものなり。其の人物江戸に詳しく今は何故か行方晦ましたる事情なり。おりんの心塞ぎて既に数年を経るなり。
「江戸じゅう飢饉の折、其が評判良きこととは信じ難し」
 湯気柔らかに立ち昇り、室内の光りのなかを縦横に漂うなり。おりん茶を啜りながら奥の壁高く祠られた妙見の御身のこと奇妙に思慮つづけたり。
「子供さんのありしや」
「六人侍りしがひとりは幼きとき亡し、前妻に四人、後妻に二人、今は皆それぞれ達者に暮らしおる」
「ここで暮らしおることの詳細、皆知りてあるや」
「知らせるべくもなし。生来居座ることのできぬ性分にてあるが故なり」
「其れは難儀なこと。しかし門人方の便りありしは不思議なこと」
「門人方とは密にせねば金の用足し能わざるべし」
 北斎の門人数十に及ぶ。其の類末端まで数えると数知れず。潜居したるあと不況なりしが江戸の商い、門人画風求めて師匠への伺い少なからず。
茶を啜り終えると北斎暫く押し黙り一面に散らばりたる半紙に眼を馳せん。
「今何を描いておわするや」
「これ波の図なり。幾通りにもあらん」
「浦賀の波をや」
「然り。久里浜寄りに見ゆる景色なり」
「これが浮世絵にてあらんや」
 手に持ちておりん其の波の様々を眺めたり。
昔、浦賀三浦村に届き伝えられたる絵本の数々あり。なかに錦絵の豪奢極めり絵画の流行すべて総じて浮世の画、小さきときより彼女の記憶に残れり。其は区別の博識にあらず江戸から来た絵師すべからく浮世絵師と心得るなり。
 北斎浦賀に潜居したる由、息子の追手憚る故なり。蓋しひとつ別の旨ありて当地にいで来たらん。まさにこの波描き下さん故にて棲みつくなり。
返すゝも北斎の心に残りしは富嶽を宙の象徴としての則描きたく数年かけて完成迫るも未だ満足を得ず、遂に浦賀の波の彼方に富嶽を得んと構図したためるに至らん。而して二ヶ月余りを要し三浦村を起点に浜の数々を巡らん。北斎の狙い波の風景にあらず波の形状を深く表わしたる効を野望す。形状は以って彫師の技なり。しかして西村屋与八、不況を言い訳に指名したる江川正吉の件避けたるは無念の極み。其れを彫れるのは正吉をおいて他になし。
 おりん何枚も同じ波の形状を見て戸惑いぬ。
「何故このように同じ形のものをお描きにてあるや」
「凝り性の為せるわざ。画道を求める者の性分なり」
おりんにとり凡そ波の大小強弱乱舞の様、並べて景色には能わずと概念す。其は心象写す影の一部と思いたらんや。ただ一点景色と思しきは霞んだ墨にて描かれし遠くに映ゆる富嶽の其れなり。
「出来は彫らずしては成らざるなり」
「彫る?」
「形、彫り方によりて変貌す。要の神経一本失えば巨体倒るるが如く刀法一点一刻にて形の趣旨を握らん」
 即ち北斎において賭けたるはこの言葉にて尽くさん。
富嶽四十余景諸国の景色描きしは富嶽の存立を世の様に映さんがためなり。故にこのたびは世の兆し不穏な末路心騒がせし飢餓の世と富嶽を組み合わすなり。由って其の構図の迫力は従来の刀法を用いること能わず、特定の彫工を以って用いるが重大なり。即ちこれ趣旨を深淵に描かんためなり。
「彫師は別に在り」
「左様のこと、今まで存じるに憚らずはただゝ浅はかなこと。出来上がりし絵すべて絵師の所為だと」
 おりん感嘆し半紙を眺む。

 風強く埃渦を巻いて軒々の格子戸揺るがせ春近き訪れの兆し巷の路地に照り映えぬ。日本橋は書肆の商い軒を連ね一町ばかりつづくなり。其の大方、軒の戸を閉め陽光麗らかなる時刻迎えども静まり返るなり。飢饉による不況大江戸要所に及び町人の懐次第に冷えたれば売買の影ますゝ減りいくなり。
 其のなかに一見頗る好調にて諸国の飢饉の煽りをものともせず商い繁盛にて活気潤いたる店あり。其の名を保永堂の金次といえり。安藤広重の画、俄かに売れ思いもよらぬ人気の高揚に次から次へと予約の山積、金次喜びを隠せず連日の版摺り請負人廻り重ねたり。画は「東海道五十三次」なる風景画にして当地の景色を描きたる連作なり。見知らぬ風景、真に迫る趣きにて情緒深き彩り豊か、以って旅する心地の魅了を博して出板以来徐々に評判広がりぬ。
 馬喰町の書肆、西村屋与八の耳にこの評判更に心痛く再三にわたる北斎からの催促に苦慮したる日々ますゝ重き拍車をかけ遂に抱えたる方策の糸口探らんものと其の画見んとて日本橋に赴く。北斎の寄せたる書簡、今回の作画彫り方一点に其の完成度を図らん、単なる風景画にて非らざるなりとする怪奇なる要請が常に心に残ればなり。景色これまで同じ手法にて描く魂胆変らぬ北斎が何故今回だけ彫り方に拘るのか、与八に明白な解答得られずして例の如き彫師の指名、其の意述べたる書簡懐に忍ばせ来たるなり。
其の彫師には会ったこともなし。与八の心積もりに保永堂の金次から浅草馬道の江川正吉なる彫師のことも探らん理由のありき。これまで富嶽四十数点の出板において彫師の指名特に言わざるに今回に限り何故の変化ありや。指名された正吉なる情報果たして金次の知り足るところにあらんや。
保永堂の番頭、与八の不意の来訪に戸惑った様子隠し切れず暫し勘ぐり入れる風顕わに見せんとてするもやがて与八の趣旨察すると少しく警戒緩めて述べうるなり。
「旦那は今、麹町の版摺り屋廻りでさ、何せここでの刷り上がり量では到底間に合わないので。お蔭様で今時の不況にこの有様、有難い悲鳴をあげているわけで」
「結構なことでまったく羨ましい限り。ところで其の広重の画とやらは其れにておわするか」
 与八、眼の前の棚に陳列の画を指して問う。
「左様で。これ既に予約入りたるもの故連日の客の応対に苦慮しきり。描きたるは大磯宿」
 番頭の説明の語尾詳しく耳に聞こえず与八食い入るように其の画を眺め暫し無言。北斎の富嶽の世界と何れが相違する彫り方であらんと細部の刷り加減のみ眼を凝らさんとす。別にこの画の彫師、正吉に非ず。而して与八の疑念、北斎の執拗に惑わされたり。画を追う眼に分らぬ謎の思惑蔓延り今目前の風景画の特に彫師の技を区別せん。北斎のこれまで富嶽四十二作品の彫師特に異論なきに至りしがここにきての難題、世に飢饉の殺伐不安の危機迫るを画風を刷新せんと図るものなり。大方察しはつくものの素人目にはたかが風景画、名を馳せた浮世絵師の大家にあれば刀法の理屈など拘らずとも其の旨筆法にて表わすが順当、増してやこの不況広重の画が売れて己が書肆の品売れずは生活の算段に追われたる昨今苦悩は続くばかりなりと与八の思いたり。
 番頭如何にも富嶽出したる永寿堂与八を見放さんばかりの口調にてまさに当世の風景画かくあるべしとの講釈の如く流暢に説明加え始めぬ。其の弁舌暗に北斎の描く富嶽、宗教味帯びるたる類なればもともと自然画の純粋な趣向害したるを匂わせ写実第一を為す広重の風景画こそ今は問われんと語っているなり。このとき広重三十七歳にして浮世絵師としての北斎の凡そ四十年の後輩、いかにも古きに頼る永寿堂を指し比して自らの保永堂の新しき逸材の先見の誉れを誇るが如き口調にて聞こえん。
「降り注ぐ雨が風情をいと醸し出している逸品なり」
「大磯宿、化粧坂であるや」
「左様。敢えて申すればこの画には虎ヶ雨という副題が附してあり、大磯化粧坂に伝わる悲しい伝説がこの降りしきる雨のなかに語られん」
 番頭の語り尚も画を誉め広重を讃美するばかり。与八の画に対する関心ごと始めから筆法にあらず刀法にあり。北斎のいう彫師正吉の消息をば早急に切り出さん契機を思い巡らす。しかして番頭の饒舌とどまるところ知らず。
「諸国の伝説や自然の様が宿場毎の風景のなかに描かれ其れが大層受けている様子にてありなん」
 もはや番頭の講釈、閉口するに価し与八相槌打つも心苦しく、訪れたる目的に焦りを覚えるなり。画を評したるを聞く目的にあらずして増して売れ行きの筋を探らんとす魂胆も毛頭なし。
 折しもとき計らうが如き客の到来、番頭の応対俄かに与八を離れ声高な響き暫し其の場から移動しせり。与八再び虎ヶ雨の画を眺め金次の帰りを今や遅しと待つなり。
浅草馬道の江川正吉の刀法、果たして如何なる評判にて伝わりしか。書肆ひしめきあう日本橋なら金次の耳にも恐らくは伝わっていようこととてここは粘って待つ以外になし。懐に収めたる北斎の書簡番頭に見せることなく時は過ぎ往くなり。

 保永堂の主、金次が店に戻ってきたのは酉の刻をとっくに過ぎ日本橋の各書肆の格子から明かりが洩れ始めようとす夕刻になるなり。大方二辰刻近くも保永堂の客間に居座った勘定にならん。
「馬喰町からわざわざのお越し、長らくお待たせにしてありなん」
 番頭から短く経過伝えられ金次漸く円満な表情を作りながら客間に現れるなり。
「何しろ予期せぬ五十三次の錦絵の売れ行き、愚舗抱えたる摺り職人の手数では間に合わず人形町から浅草橋まで其の手の応援頼み込む始末で。いやいや、半日費やす按配にて大層失礼をば」
 与八其の物腰に恐縮しさすが十年の歳の功、帰宅したばかりとはいえ迷惑顔に表わさず応対したるを感服す。愈々己の企て其の甘えにのるべきを決心す。
「誠に不躾ながら同業者のよしみとしてひとつお聞かせ願いたい」
 眼の前に取り出したる北斎からの書簡、金次何用かと少し訝るのを尻目に与八一気にこれまでの経緯語り丁重に書簡に書かれたる彫師江川正吉の件尋ねん。
「存じてありや。江川正吉は彫工江川八左衛門の系を引く名手、嘗ては絵草子の挿絵で其の名を馳せたつわもの、しかし今はこのようなご時世、余り黄表紙等絵本は売れずしてさてどうしたものか。確か書いてのとおり住居は浅草馬道聖蔵院にておはせしものと‥今はどうだか」
「しかし大家北斎翁も何故、正吉を指名したるものかが解せぬ」
 金次も同調し暫く声を濁して唸りに至らん。何度も其の書簡と与八の顔を伺う。彼にこれまでの富嶽の画、数十景の刀法に関心があろうはずなし。版元は須らく画を描く絵師にこそ商いの勝算を賭けたればなり。
「挿絵の彫工‥」
 与八にとってこれは初耳。ますゝ北斎の拘る理由縺れるが如き形見えず。与八聞かされるままにて寡黙になるなり。
「北斎翁も其の昔、黄表紙の挿絵を手がけんことのありきに案外其のあたりの狙いがあらん」
 と、金次昔を思い浮かべながら呟けり。
還暦過ぎたるは齢六十四の当世売れ高一を誇る書肆の店主、過去の経緯詳しく、増してその貫録怪しければ忽ち与八の浅い読みをば崩し始めぬ。而して合点いかぬは今回の俄かなる指名の意。
「仰せの画はこれにて書かれたる内容であるや」
 浦賀から寄せられし書簡の文言に幾箇所も記されたる波から覗く富嶽云々の語り、其の執拗なまでに波は刀法にて表現の限りをというくだり、金次にとりても無視できぬ暗示に写るなり。
「しかし、富嶽を描くに波の形状何を懸念するに価せんや。描くは波間に立つ富嶽。これまでにても北斎翁が四十何景か描き侍りし富嶽風景画の連作にてあらん。今回に限って波の刀法に拘りしが全体の連作に何の意味があらんや」
 金次には北斎翁の悲運に満ちた晩年の暮らし知る由もなしと与八は気付いていたり。
与八は其の画の趣旨の一部を既に感じ取るなり。増して諸国飢饉の有様、物心滅びいく兆候まさに身をもって予言したるを表現するにかの人物を必要とするにあらん。北斎翁の異常なまでの執念こそまさに其の極掴み取らん企てにてあらんや。彼の脳裏に愈々其の趣旨巡りまさに指名の彫師、正吉の居所を着き止めん決意固まりいくなり。
「描かれたるもの即ち其れにて全てを表現するにあらんや。また写実の忠実なるを以って風景の叙情あり、刀法に左右されるとす了見は甚だ理解し難し。喩えるに広重の画こそ申し分のない逸品、つまりは景色画は筆法其のものにこそ本髄ありなん」
 番頭曰くと同じ、保永堂に於ける広重は福の神なり。祠り神の如き輝きをば呈しもはや絶賛の限りにては与八探りださん本意の隙間与えられず愈々潮時を意識し書簡の束を仕舞いにかかりぬ。
「早速、会って話だけでも試みん。北斎翁の趣旨如何でか伝わらん」
与八丁重に礼を述べ保永堂の座敷を立ち上がるなり。金次怪訝に眼を細め、声を和らげれば、各々絵師には心積もりのあることとてと愛想し、更に微笑を溜めて其の背につづくなり。番頭も座敷の蔭から一部始終を覗き、やがて出できて金次のあとに着くなり。同じく怪訝な眼光と愛想を混ぜ与八を見送るなり。
「浅草は馬道聖蔵院にて居わします。かなり昔の話故、今は何をしておいでか。駄言を呈せばちと変わり者の由、ご留意されたし」
 帰り際、金次の言葉を背に受けん。
昼間の埃忽ちに消えてその暗闇に犬の遠吠え怪しく響き渡りぬ。往来に僅かに燭光の影あり。
風景画書肆界の雄、保英堂をして変わり者と評されし正吉の影怪しく与八の眼前に灯りたり。


 飢饉の煽り次第に江戸全土に及びやがて街中にて倒れる人の相次ぐ。連鎖更に相州、三浦村・久里浜にまで押し寄せ北斎の潜居す浦賀においてさえ不吉な有様の日常を繰返すに至れり。
 網元冶兵衛の家食糧の餓え危きにあらずとも繋がりの漁夫のなかに餓えて死すもの生じるたること少なからず。北斎ますゝもって日々の精進怠らず隅に祠った妙見神の御身に手を合わせたり。
閉じたる眼に幾ばくも捉えた波の形あり。波間の奥に富嶽の崇高なる景色を浮べたり。今は天地極悪の災い、怪しきはこの孤立した不憫なる己が運命、大小の波に揺れては浮き沈み終末の小舟の如き渦を巻く。
息子や阿栄の姿忽ち現われ大波の影に隠れんとす。尚以って貫かんかな、この波の形にこそ今描きたらんとす己が求道の図の結集なり。
更に瞑想するは六歳のときより刻みし画の世界。風景成るとも意は成就せずはこのとき植えつけられし刀法の妙が起こせし業なるかな。而して六歳の眼が覚えし彫工の習い未だ北斎の賭けたる意匠を保ちここ三月近く少しも去らずして黴の熟したるが如く蔓延りつづけるなり。即ち愈々決意したるは富嶽波裏の図、脳裏に浮かぶは特定の刀法を以って他になし。其の担い手更に渇望果てしなく、寄せる波の形に重なって念仏に熔けいくなり。
唱える念仏何れの宗派かを知る人の居らず。詳しくは法華経典にて記したる一節あるも誰も気付くものなし。北斎、信仰厚くして時に往来にても唱えることあり。浦賀の人々これを見て遂に天災の煽り老人の思いをも狂わしたるものと信じたり。冶兵衛の娘おりんはこの噂耳にする度、部屋の隅高く祠られた御身と数十枚にわたる波の絵、更には拘りし画の世界を黙々と語ろうとする北斎の姿浮かべたり。念仏怪しく聞きたるも一途に励む姿に打たれ、また別の人間の道を悟らしむ翁を見て決して気が違ったとは思われぬ。
更に気懸かりは父冶兵衛の卒中の薬の切れたることなり。北斎から教わりし柚子の買い置き底をついたれば飢饉険しく蔓延る江戸市井を煩うもそろそろ買出しに向かわねばならぬ。

其の朝与八は浅草馬道聖蔵院の彫工江川の門前に立ちぬ。否、暫し呆然と立ち尽くしたり。
いでたる門弟顔曇らせ弱々しき口調にて告げたる言葉に唖然とするなり。門弟語るに師匠正吉は去年暮れ思いもかけぬ病にて急逝せん旨を伝えたり。暗転たるや、このとき北斎の熱望一瞬にして消えたりと思えり。北斎のこの事実を知りてやあらん。衝撃与八の胸に走り無念の文字にて短く声のありき。其は北斎の表情にてありしや。交錯したる幻の刀法忽ち消えいくこと脳裏を駆け巡る。
暫し置いて与八意を決して尋ね来たる経緯の由語り告げぬ。遅かりし準備の手立てを自責するも去年の暮れとは北斎からの最初の書簡より以前の出来事なり。北斎これを知らずして願望を書きたるなり。思うにこの五ヶ月のあいだ北斎門人が送る便りの儀いかで其の報せに疎きなりたることあらんや。余りに予期せぬ事態にあって与八力落としつつ兼ねがね受け取りし北斎の書簡ならびに描きたるその画を示しつつ溜息肩を衝いて方策の行方を案じたり。
「今は江川代々の系譜、子息の留吉が某にて刀法引き継ぎたれば其の旨の儀、北斎翁にご了承賜れば有り難きに存じ申し上げる所存にて」
 門弟の言葉微妙に響きけり。初めて聞かされし留吉の名、其は怒涛に射す淡い幻想となりて照り映えてくるが如きなり。
「ご子息?」
「左様、江川八左衛門の系譜いうに及ばず先代の師匠正吉の刀法は現子息留吉にて引き継がれて侍るなり。留吉の名は北斎翁も恐らくはご存知じのことと思われん」
 昔北斎が挿絵の全てを彫師正吉に指名したるを解しつつ正吉直系の彫工という言葉に与八の心僅かに落ち着きを取り戻したり。しかし留吉が引き受けど果して北斎の納得あらんや。あくまで正吉が目当ての構想、一門の系譜と正吉のわざのあいだに拡がる壁の見えん不安あり。其のわざの隔たりいかばかりか計り知れぬ。
先ず以って第一は江川正吉なる彫師既にこの世に居ずこと北斎翁に知らすが先決、与八次の手はやる気持ちを押さえつつ佇みつづけぬ。
「現親方留吉にて承知受け賜わば早速この件取次がん」
 と門弟の問うも、
「いやゝ、よもやこのような事態になりにしとは北斎翁も知らぬはず、取り急ぎて其の旨報告したうえにて改めてお伺いということに」
 与八複雑な思いを心に仕舞い漸く門を出でたり。
保永堂金次の言葉頭をよぎり正吉の急逝とが因果のように怪しく重複するを感じたり。金次はあのとき何を以って正吉の奇人たるを嘲笑わん。
浅草馬道をあとにし、与八の次に向かいしは日本橋。俄かに意図することありて都合よく閃きたるが知己なる書肆の嵩山房が其れなり。昔の記憶にて確か北斎が描きたる絵草子の大方は嵩山房より発刊したるを思い出すなり。版元嵩山房から北斎の挿絵専属彫師なる江川正吉のことを聞き出さん。以って、江川彫工の系譜及び其の刀法の話を得れば参考なるや。
期待の予感の厚くして与八の足軽快に満ちて進むなり。

一方其の日、おりんは新橋の裏手通りを親戚の居に赴くため静かに歩を進めたり。冶兵衛の許しを得て親戚への顔出しついでに芝居でも見るつもりの計画にてありきが最たるは冶兵衛の卒中の薬柚子の買出しが其の勤めなり。
まさに其の日与八もおりんも世にも恐ろしき江戸の夜空を焦がす大火が轟かんとはよもや知る由もなし。
予期せぬ出来事の前兆は新橋から油問屋の筋向いに人だかりの光景から始まらん。
おりん足を止め周りに群れた町人衆の微かな喚声に耳を傾けり。芝居絵かと思しきが飛ぶように売れいく様子からいささか勝手の違いたる趣き、云わんや買い求めたる客の呟きが奇妙なる驚嘆を呈す。それに売り手の声を聞くと次第に心疼き暫く其処に足を留む。何度も其の声聞き流すうち其は聞き覚えのある主の声に近づきますゝ心乱れて動悸激しく波打つなり。驚愕の直感、陽炎のように立ち昇れり。其は一瞬の偶然により果された由縁というべきなり。
画を売りしひとりの若者の声次のように弾むなり。
「はいゝ、摺りぼかしの魔除けの画、其処ら其処じょにはないよ。今世不気味な大凶作、惹いてはこのすりぼかし魔除けの画、釜戸の上に大黒の柱、寝床、何処に貼っても無病息災の効き目、お守り、間違いなし。買った買った」
しかしておりんこの売り言葉についてはうわの空、気に留めたるはこの聞き覚えある声なりき。
 画を売る男こそ数年前行方暗ました許婚の弥平太なり。三浦の郷から姿を消すこと二年、連絡の沙汰無きを思いもよらぬ場所にて存してあるは其は譬え難き偶然。おりんは逸る気持ちを押さえて進み行き取り囲む輪の隙間から暫く眼を凝らして確かめん。
「買った、買った。世にも珍しき魔除けの透かし摺りにてありなん」
「こりゃあてえしたもの。なんとなーく獅子が睨みをきかしてあらん」
 飛び交う喚声渦を巻き、ますゝおりんの懐かしき想い込み上げて紛れもなく眼の前の男こそ忽ちにして弥平太その人と確証を得たり。
「一枚頂戴な」
 感極まっておりんの進み出るに矢庭に周囲の音耳に入らず売る男の表情をば唯見届けん。同時に男の振り返り、おりんを捉えて暫し呆然とす。即ち気付いて衝撃仄かに見え其の所作忽ち滞りぬ。
「おりん」
 男の眼に咄嗟に張り詰めていく短い叫びの声のありき。二年ぶりに見る弥平太の姿なり。

 暮れ行く江戸の町を見渡すと照り映える淡い夕日の影が未曾有に満ちたこの世の展開を隠すように轟いているかに見えん。
食事処の二階から見下ろす町中の屋根瓦に銀色の光怪しく跳ねおりんの心を惑わしたり。眼の前の連なりがこの世の偶然の不思議を照らすが如く輝けり。
「不景気ゆえにて半端ものは売れず。摺工すら大手の下請けのみにては糧を得ず。先の摺物もいわば偽物なり。正真は長けた絵師の発案にてあらん。そもそもの正規の手続き踏まんとせば今の店舗に能わず。因って垂れ流しにてありなん。即ち摺工同志の廻し合いにて摺るなり。元より不具合版木の承知、当然摺り上がりはぼけにけり。以って透かし摺りと言いけり」
 語りたる弥平太の声投げやりにて流れん。世の誤魔化し、からくりの手筈自慢して明かし続けたり。而しておりんの興するは不思議なる再会に酔い痴れ、弥平太の不具合版木に繋がる正真の絵師のこと気に触れるはずもあらんや。
おりん依然と眺めやる夕日の彼方に突如思い浮かべたるは翁北斎の唱える念仏響き部屋にて祈る其の姿重ならん。
「浦賀に独り住む老人の在りしが、その方訳あって昔は江戸に住んでいた浮世絵師なり。部屋の隅に御身を祠りてひたすら念仏を唱え、毎日画を描くなり。幾枚もの同じ波の画にて、其の波の彼方に富嶽のそびえ立つを描きたり」
 翁のこと弥平太に語り更に其の老人が卒中に病む自分の父を治療し教えし柚子の煎じ薬の調達の由在りて江戸に出で来たらん旨を伝えたり。
「今日は特別な日、諸国飢饉で江戸にても其の煽り愈々深刻なりしとき、思いいもよらぬ念願叶いし日であらん」
 おりん曇りなき清澄な声で呟けば、弥平太も奇蹟とも思われん再会に微笑するのみ。
「摺工で一人前に身を立てるまではと思いしがこの邂逅は何かのお導きにてやあらん」
 過ぎ去りし二年余りの空白を二人の無言の寛容、其の辛苦悉く解けいくが如し。予期せぬは天地の為せるわざ、おりんの心なおもて信仰通じたる翁の姿を象らん。
 新橋裏手の路地狭き、少し坂を登りきった所の食事処、高台は眺望良くしかも階上の西に面した部屋ゆえに江戸の西方、上から須らく見渡せるなり。
弥平太が売りたる獅子の魔除け画をおりん眺めて尋ねたり。
「よくもまあこのような騙し売り、名の知れた絵師の画なるや」
版木はもとはと言えば版元・書肆問屋の払い下げ、もともと損傷激しいうえに摺り仲間の廻し摺り、原型がぼやけるのも至極当然の理にてあるなり。
「それにてもこの獅子の画の見事な出来ばえ。僅か霞むも威厳の放たんや」
「何と言いにしにあらんや正確には覚え預からずが、著名な絵師にて秀でて絵本界にては知らぬものなし。否、役者絵を描きし頃もありなんと聞くべし。相当古き大家との噂ありき」
弥平太其の絵師の身辺思い出しつつ語りつづけん。
「更にては其の大家の息子、放蕩者にて手を焼きにけり。因って其の獅子の画は倅の厄払いのゆえの策であらん噂もありけり」
「厄払いにて描かれん」
 おりん感慨深く再び其の画見つめたり。
「如何にも厄払いにてありなん。災い蔓延るこの時世、ひとはこの画を求むるに相違なし。暫くはこの商売で喰っていく所存なり」
 摺工といえど未だ独り立ち叶わぬ徒弟制度、天災俄かに襲う時世と相まって版元からの受注も不景気の兆し。今は密かに黒幕にてこの版木を摺り、街の裏角にて商うしか途はなし。
而して弥平太もしみじみ画を眺めるなり。
「如何にも見えん、崇高なる大家の筆致。木は摺り朽ちても画に篭る彫りが生きん。暈す彩り、まさしく神秘なり」
 外の景色夕闇迫り連なる江戸市井の屋根々、次第に暗い海原の如きに覆われん。
おりん眺めるに所々に突き出した火の見櫓の影、妙に焼きつかん。暫くたって其れが虫の報せにてありなんと気付けり。即ち戌の刻を回った頃、階下で火事だと叫ぶ声を聞くなり。
外を見た弥平太つづいて大声を発するなり。
「おーっ、あれは何処にてあるや、火の手いと大なりし」
「まことにて火事にあらんや」
「是まさに大火にてあらん。距離遠ければ此処にては心配なきに、あの勢いは稀に見る模様にてならん。直ぐには収まりつくこと能わざず」
方角は遥か彼方の向島辺りなり。夜空を焦がし忽ち周辺へ移り行く。
おりん窓辺で弥平太に寄り添い予感した霊の不思議に胸を震わしたり。火の拡がり眼の前に不気味に立ち振舞って写らん。
「恐ろしいこと。先ほどまでの美しい姿の空がまるで地獄絵にてありなん」
「江戸じゃ火事は日常茶飯事なり。火事と喧嘩は江戸の華って言うなり」
暗闇のなかに漣の如く焔の波拡がりて揺れるを二人は遠望し沈黙するなり。階下のざわめき次第に音の増し路地に人の群れ固まりぬ。
「ついでに今思い出したりき。其の大家、医学も詳しく様々な煎じ薬も考案したりと聞くなり。柚子の煎じ薬で思い出したり。況や(いわん)多方面にて長け、信仰熱心にてもあらんかし。しかし家族にありては不運の様子、放蕩息子然り奥方とは死別、娘は嫁ぐが離縁。今は江戸を離れたる話のありしが何処にて暮らし居るか。しかし、あの獅子の画は逸品なり。あの広重すら感服すという噂のありけり。何と言ったか其の絵師の名、どうしても思い出すこと能わず」
 弥平太の独白、鳴り響く半鐘の音と伴におりんの推量の予感を激しく揺さぶるなり。
暗闇の西方、屋根ゝのすべてに焔の波更に拡がりて輝くなり。
而して翁の念仏再び耳に届かん。

其の日寅の刻を過ぎた頃、与八は日本橋の嵩山房を訪れ店主小林新兵衛の話から江川正吉の確かなる彫工の所以たるを知り、とりわけ其の昔北斎翁が其の手腕を高く買って常に指名した経緯聞くなり。如何にも納得出来る報を得るに至るなり。
 新兵衛の曰く、「彫りに裏技を有したる名人。其の刀法繊細にして遠近、深浅、濃淡すべて痛快にて表現し軽薄な技巧を隠して常に幽玄に描を再生す。北斎翁が贔屓する所以なり」と。
歳殆ど北斎翁と変らずして馬琴の全盛期の読本の挿絵から黄表紙等に見られる草双紙一般多岐にわたり北斎翁の描きたる下地の彫りは大方彼が手がけるなり。其はなかんずく北斎が新兵衛に指名したるものなり。
 正吉の突然の死について新兵衛も知るところなり。而して北斎は其のこと知らずして今春以来の経緯を語れば新兵衛、日浅ければ門人も其れを伝うるを憚ったと思われん。更に師匠と故彫工の繋がり歴史に古く以って細かく気を払わずにてあらんや、と言えり。
又曰く。「江川八左衛門の伝統、息子の留吉が引き継ぎ今や其の腕親父正吉に相似たり。訳話せば北斎翁も認むること確かなり。留吉の作品群のあらまし北斎も識るべしこと疑いなし」
保永堂金次の評、変わり者正吉の容は新兵衛の解説に露ほどにも語られず。因って直に関わった書肆新兵衛の評こそ此れ真なりと信ず。而して保永堂金次の指したる変人の由縁惑わしきになりなんとするも次の新兵衛の一言にて明白になるなり。
新兵衛の曰く「北斎翁の今回の図、特別な肝いりにて波の構図よく其の意を彫られたるか否かに懸かるを推察せん。而して其の意合うは言葉少なく通じ富嶽の存在をよく表わしたる裏技持つは江川刀法をおいて他なし。この図風景画なりしが景色の他に表現せし隠れたる構図の魔術あり。北斎翁これを期待するなり」
 恐らく金次、この裏技刀法を変人と置き換えにしにあらん。金次にとりて風景画は純粋写実こそが第一、抽象を強調するは景色画に非ずと疎外せんばかりなり。今や広重こそが其の第一人者、北斎翁が富嶽の景色画に波の裏技構図するはまさに抽象の作意のみありて評価に価せずとしたり。因って金次、抽ん(ぬき)でた刀法の達人を論外に喩えたり。
 与八、最早迷いなし。興すは再度の申し入れ、浅草馬道聖蔵院へと足を運ぶなり。
陽既に落ち遠くに霞む愛宕山に帳の影が降り始めぬ。
予期もしない正吉の死。翁北斎の驚嘆無念の表情浮かびきて肩に力の抜けたれど正吉死すとも留吉が其の意を継がん、と嵩山房の勧奨ありせば翁の意も同じにてあらん。急逝報らすが先なれど早速代替の手筈を整えん。新たな脈次第に浮かびて翁北斎の景色画、富嶽と波裏の構図ますゝ完成させんことの祈り高まらん。
朝訪れた江川の門に再び立つ頃、時はすっかり部屋に明かりの洩れるは戌の刻を過ぎていたり。
「生憎親方は白金の工房にて篭っておわせしなり」
 門弟の返事難儀に聞こえ、「白金?」と場所を尋ねると、「工房が離れにありて此処から少し時間の要する処にて白金は高台の三町上った処にて在りなん」と答えたり。
 与八は今日中に纏めたい一心、躊躇する間は無く門弟に其の場所詳しく図に認めるを貰いて即ち聖蔵院を後にす。
 夜道の暗く坂上目指すことのしきり、一刻の急ぎし与八の息乱す先に江戸の夜景次第に現われ来て不思議と与八の眼を止めるなり。このとき将に西の彼方から火の手の上がる半時(はんとき)前の出来事なり。

 歳の頃五十に近き留吉、独り工房に居座りたり。酒を喰らい無言にて空間を睨みつづけるなり。暇持て余したる居ずまい与八の思惑外れ暫し言葉を失うなり。
而して嵩山房の経緯から話し始めぬ。つづいて北斎翁のこと願望含め詳細に述べたれば知らぬ筈のなき留吉の果して反応有るやと見守らん。まるで陰りたる工房の隅にて蹲るかの如く転び何の返答もなし。正吉の死後の打撃甚だしくときに書肆問屋の不景気蔓延るが由留吉の其の影に写らん。与八居たたまらず暫し沈黙す。間を計りてのち、北斎翁よりの書簡と波の図の数枚を傍らに置くなり。
工房の西の窓にやがて半鐘の音僅かに聞こえ更に騒ぐ人々の声の混じるなり。留吉心騒がず無言にて天空を見やり与八居場所のない心怪しきに包まれん。而して西の窓覗くに異様な有様にて眼を見張る。
「これは、西の彼方に火の手の上がる。思いのほか拡がらん。恐ろしや、果してこの有様、三年前の巳丑の大火と同じなり」
与八、ますゝ眼を見張るなり。
暗闇に波立つ如きの焔の連なりの浮かび上がらん。高台から見下ろさん光景、手前の地獄絵眺めるが如し。
「何という有様にてあらんや」
騒げども動かぬは留吉の姿、酒に精気を奪われしか或いは夢遊の廃人が如きの居座り。其の態、尚も合点がいかず与八愈々迷いて更に意を問う術もなくただ火事を眺めたり。
奇々怪々の一日其の焔に映え予期せぬ正吉の死と嵩山房との出会いが怪しく燃えいくなり。北斎翁の鬼火其の裾野を駆け此処にて請わんに闇俄かに覆い立つなり。
「凄まじきかな、怖るやゝ」
与八声を潜め呟きつつ帰り支度の潮時認めいざ背を向けんとす。
「波の向きを訪ねん」
工房に留吉の声響き渡らん。波の向き?与八胸躍らせてこの声を受け取らん。
発せられた只一言の返事、与八にとりてまさに待ち受けし回答なり。
坂を下りながら与八の眼にますゝ遠くの焔怖ろしく映えるなり。北斎翁の構想したる景色画重なりて、波の形まるで其の焔に写らん。地獄絵は今まさに眼の前、而して火の波間に与八の静かにそびえんは富嶽を仰ぎ見る心なり。
波の向きとは何を指したる問いにてあらんやと。
おりんと与八が遭遇した江戸の大火はいずれも三年前の巳丑の大火に匹敵す。其の有様、世の終末の如きの地獄絵巻なり。以って飢饉の災いのとき皆自然の驚異に畏れをなすなり。

其の日北斎はいつもの様に浦賀浜に出て波の彼方を見つめたり。握り締めたるは午に届いたばかりの本所石原片町の門人が寄せた書簡なりき。其の終いの走り書きにて浅草聖蔵院の彫工江川正吉の突然の死を告げたる記述のありき。
北斎の眼厳しく、しきりに波の砕くを眺めん。海鳥空に舞い白波の背丈ほどに岩に砕けて散るしぶきの更に強ければ書簡読みし北斎の胸中甚だしく複雑にて漂うなり。
与八の裏にて動き回りしこと其のとき知る由もなき。

江戸の大火から七日たった風の強い日。
冶兵衛の屋敷から少し東に入った露地の角で二、三人の村人小声で話し合っていたり。
「息子は極道にて娘は何度も離婚を繰返してありなん」
「息子ゆえに借金をば追いたてられ江戸を離れて潜みたりという噂ありき」
「奥方とは死別に至り、増してや今災いのこの時世、独り身在りて難しからん。更に齢老いては惨めなり」
「訳の分らぬ念仏も愈々其の兆しきたるものなりや」
 と北斎翁のこと話題にしたり。
留吉は其の様子伺えり。浦賀に着きて其処を通り掛った由縁の出来事なり。適宜の出くわし即ち彼らに道を尋ねるを決す。留吉を見し村人は一目で他所の人間と認め興半ばつつ応じん。
「お教え願いたい。浦賀は浜の近く中島某に仮住まいしたる江戸本所石原片町から来たる絵師葛飾北斎の居何れなるや」
留吉の問いに忽ち村人の顔色変わり暫し口を塞ぐ。而して丁重に在り処指し示したれば其のあと留吉の姿遠くに去るまで怪しく密かに互いの顔見合わせるなり。
「へえーっ、お江戸の絵師とは聞きしにあれどわざわざ尋ね来る人のあらんむきはかなりの腕前にてあらん」
「葛飾北斎と言いいしは、何処かで聞いた名にあらん」
 村人の先ほどまでの悪口霧散し北斎翁の正体に初めて触れるなり。
実は北斎のもとにこの日の二日前、馬喰町の永寿堂与八からの書簡をも届いていたり。波裏の図江川留吉にて発注の旨記したる書簡なり。留吉がこの日尋ねん向きのあること一切触れておらずただ与八が預かりし波の向きの質問のみが申し添えられていたなり。
波の形を問う彫師はこの世にひとりしか居ない。其れを敢えて問うは正吉の刀法、間違いなく生きている証拠。北斎翁が書簡を診て確信に至りしこと言うに及ばずなり。更に北斎、正吉生前の折、既に留吉の腕知りたればなり。
留吉、中島某の家屋の前に着きぬ。暫し佇みて「唐詩撰」の挿絵を思い浮かべたり。
筆者北斎、彫刻正吉の作なり。恐らく北斎の描く波頭の向きこれに出てくる竜の渦巻くうねりの如くを要求せんと睨むなり。白金の工房で見た下書きの図では其の模様方向定まらずと見えたり。ゆえに其のとき与八に問いただしたるは荒れ狂う昇り竜の如き波頭の向き彼方に霞む富嶽に対して左手前が眼前か若しくは右手前が眼前か、迫る異様さ描かん筆者の趣きは何れなりしかの意味ありて尋ねん。与八はこのとき波の向きを構図に係る波の向きと捉えたり。其は単に構図上の位置のことなり。位置は明らかに下図には左に位置したり。留吉の思慮、波の向きとは波頭の模様を意味するなり。話は既に下書きを踏まえた上での論議にもかかわらず与八即座に早合点したるものなり。北斎に宛てた書簡にも単なる波の向きと記したるは如何に筆法と刀法の奥義を知らざるを表わすなり。
「留吉でございます」
北斎の背を拝したとき突如留吉の裡に正吉の魂浮かぶを見ん。
北斎一心にて意味の分からぬ念仏唱えて座するなり。念仏、部屋に響き、留吉の感極まりて自分の父親を其の背中に二重に写さんとす。
「唐詩撰」の描と彫りにも更に其の輪郭を蔽うなり。ひたむきに隅に祠った妙見神の御身に向かって祈る姿焼き付き鏡の如く己が心照らし出されるを識り、忽ちにして根性顧みるを促さる。
不況をせいにして連日の酒浸り、工房独り篭って腕動かさずは浪費したる姿恥ずかしくも映りここに親父の幻、北斎翁の背に現われんとす。
入口にていきなり声も憚る精霊熱きに圧せられた儘(まま)、留吉立ちつづけん。
 部屋じゅうの簡素にて貧しく、北斎の着けたる木綿の半纏ますゝ貧哀れにして更に孤独の風采侘しければ留吉の胸熱くなるなり。
而して意味不明な念仏にひたすら傾注せん姿、一向に鳴り止まずなり。留吉の来訪を気付いてか否か、謎の念仏尚も怪しく響くなり。
 留吉の眼小さき蜜柑箱の上に積みたる半紙の束を捉えたり。其のひとつに古き作とみられたる獅子の画の数枚ありしが思わず留吉の記憶蘇りて北斎が息子の思いやる情胸を打つなり。其の獅子の画、まさしく弥平太が売りし例の原画なりき。悪霊払いたる護り画として筆者は北斎、彫りたるは留吉の父正吉なり。昔、江戸巳丑の大火の頃、嵩山房小林新兵衛の出板にて大いに売れるなり。 
 ますゝ感極まりて留吉其処にて膝間付きぬ。
 やがて正吉の教えし言葉留吉の耳に響かん。世の先誰も予知計ること能わず、しかして其の有様彫るは唐草の茎の蔓の如きを彫るなり。世の恐ろしきを彫るは燃え盛る焔のあがるを彫るなり。
心留めたる波頭の模様はしきりにこの言葉と交錯せん。果して与八が工房を訪れた夜、江戸の西の手に吹き上げた火の波は今回告げし形を暗に示唆したるものなりや。火の波は昇り竜のように牙を剥き屋根ゝの海原蔽い尽くし其の拡がりまさに唐草の模様なりや。
留吉開いた眼に解答を得たり。

念仏は静かにつづくなり。
畏れよ、自然の災いを。其はいつ訪れるかを。富嶽は威厳にて黙して語らん。其は波間の彼方に揺るぎなくそびえん。
北斎の描かん波の間の富嶽の意図はかく語りけり。
 

画狂北斎の黙示録

画狂北斎の黙示録

  • 小説
  • 中編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-10-14

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  1. その一.お蝶の幻想と朋友馬琴のこと
  2. その二・富嶽の象徴と彫師正こと